『唐手に先手なし』
武は字義の上から見ても、二人が干戈を交へたるを中に入って止めると云ふ意義であるから
「唐手」も武の一部たる以上は能く其の意味を了解して、徒(いたづら)に手を出すことがあってはならぬ。
青年の生命は元気である、元気は武に依って鼓吹される、元気溢れて善となり、又時には悪ともなる
「唐手」も善用すれば身を護り、弱者を保護するが、悪用すれば風紀を乱し人道にも逆ふ。
武は仁義の及ばざる所に余儀なくさせらるるもので、みだりに手を出す時は人にも欺かれ、蛮勇とも誹らる、
兎角血気盛りは手が先になり過ぎるから慎まねばならぬ。
威あって猛からず、武もこゝまで進まなくてはならぬ、みだりに猛々しく人を驚かして喜ぶやうでは駄目だ、
聖人は大愚の如く、虚勢を張るまでは学者も武士も自分の未熟を証す。
進まざるは退くなり、少しく型を覚え僅に意味を解し、滞りなく手足が使えれば、
最早天狗になり済まし、自分免許の口看板を提げて、天下に敵なしと慢心すると退歩だ。
一寸の虫にも五分の魂のある世の中、進めば進む程口を慎まないと四方に敵を控へる、
昔から高き樹に風はあたる、けれども柳は能く風を受け流す、
謹慎と謙譲は「唐手」修行者の最大美徳。
富名腰義珍「琉球拳法 唐手」
『唐手に先手なし』
「唐手に先手なし」という言葉が有る、人によっては、其のまゝ文字通り解釈して、
能く「先手してはいけない」と教える方々があるようだが、余程考え違いをしていると思う。
なるほど、武道精神というものは、決してみだりに人をなぐる為めに稽古するものではない。
心身の鍛錬が、第一の目的でなければならないことは、既に承知している事と思う。
そこで、此の言葉は、やたらに危害を加えてはいけないという意味であって、余儀ない場合
即ちさけてもさけられぬ場合、敵が真に危害を加えんとする場合には、猛然と立って戦わねばならぬ。
いやしくも戦いに臨みては、敵を制することが肝要で、敵を制するには、最初の一手で制して置かねばならぬ。
だから戦いに臨みては、先手でなければならぬ。大いに心すべきことである。
本部朝基「私の唐手術」