自我と精神について

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120名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 22:06:10 ID:GnLVPcmn0
121名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 22:24:07 ID:M/fZObBa0
>>118
>一切の攻撃が通じなくなってしまわれたそうです

それじゃあ空海だとか歴史で習うような仏教しか修行してない有名な禅僧も
達人並みに強いって事?
122名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 22:32:07 ID:qWI5uLiM0
>>118
お坊さん最強?
123名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 23:03:19 ID:OgD//nN00
>>121
>仏教しか修行してない有名な禅僧も達人並みに強いって事?

武術の達人を以ってしても
害しようとしたら金縛りにかけられてしまい
身動きがとれなくさせられてしまう人
それこそが「覚り」を得た覚者の姿
と知るべきだそうです。

一日に数百kmを走り
数百kgを持ち上げる達人・慧明が
禅の六祖である覚者・慧能を害しようとした時
一切身動きがとれなくなってしまった
と伝わります。
124名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 23:11:52 ID:OgD//nN00
>>121
>空海だとか

>>118
>お坊さん最強?

弘法師も
いわゆる「お坊さん」も
「覚り」までは達されてなかった
と考えてます。

日々を正しい心がけを以って送り
身を清め覚りまで至るのは本当に難しいことと思われ
覚りまでは至らなくても目指して正しく心がけ生きる行為は
武にも大いに資するところがありと考えてます。
125名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 23:18:01 ID:M/fZObBa0
>>123
柳生宗矩が沢庵と戦った時も攻撃出来ないで負けを認めたって
言われてるけど、それと一緒って事かな?

でも武道の達人も禅を、ある程度極めてるし倒してやろうて気持ちは
無いと思うし、こういう場合はどうなるんですか?言わゆる「相抜け」
って事になるんですかね??
126名無しさん@一本勝ち:2005/09/25(日) 18:39:52 ID:GKCbZF1h0
age
127名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 00:12:29 ID:lOZBC/9O0
>>125
>柳生宗矩が沢庵と戦った時も攻撃出来ないで負けを認めたって
>言われてるけど、それと一緒って事かな?

ほぼ一緒のこと
と考えてよいのではないでしょうか。
敢えて厳密な分別を書かせて頂けるなら
「覚り」の持つ力は害心持って襲い来る者を相手とした時
身動き一つできなくさせるレベルと言われてはおり
事実「慧能」も「高橋信次」も追手や刺客の腕前や人数にかかわらず
瞬時に金縛りにかけてしまい
かけられた方は前にも後にも一歩も動けなくなってしまったそうではあります。
128名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 00:18:42 ID:lOZBC/9O0
>>126
>でも武道の達人も禅を、ある程度極めてるし倒してやろうて気持ちは
>無いと思うし、こういう場合はどうなるんですか?言わゆる「相抜け」
>って事になるんですかね??

「ある程度」では
相抜けが起こるに至らないのではと想像してます。
倒してやろうという気持ちや争いを求める気持ちが完全に滅却された時
それが「覚りの境地」でありそしてそこへ至って始めて相抜けが起きることになるのではないでしょうか。
129名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 01:30:18 ID:c6KRdmNC0
柳生宗矩が沢庵と戦った事なんてないよ。
二人は親交があっただけ。
130名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 01:40:16 ID:MNdBg/GE0
>>128
よく達人と言われる人の話で禅で無心の心を得ても、その中に、内に
ひめる闘争心が無いと技にならないって話があるけど。これは厳密に
見ると、まだ境地には達してないって事?

剣豪で例を挙げれば塚原卜伝ですかね?一つの太刀は闘争心はありま
すよね
131名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 01:46:53 ID:MNdBg/GE0
>>129
沢庵が将軍家指南役の道場の前で「将軍家指南役と言っても
まだまだ未熟だな」って挑発して宗矩が戦いを挑んだんだよ。
それで負けて手が出せないで禅の重要性を確認して禅の修行を
始めたんだよ。
でも宗矩じゃなくて石舟斉だったかもしれない
132名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 02:16:28 ID:c6KRdmNC0
>>131
小説の読みすぎ。
133名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 08:01:13 ID:lKJOxeo60
>>130
>よく達人と言われる人の話で禅で無心の心を得ても、その中に、内に
>ひめる闘争心が無いと技にならないって話があるけど。これは厳密に
>見ると、まだ境地には達してないって事?

「達人」ひいては「達人中の達人」と呼ばれる域が体現されるには
争いを求めないことによって心が平静になっていながら
同時に消えることなき闘争心が僅かにくすぶる最高度のバランスが要求されるものと想像しております。
塚原卜伝はそのような域を現実に体現された最高の見本(武術家にとって)となる方だったのではないかと思われます。

しかしその更に上が存在し
それが他ならぬ「覚りの境地」なのではないでしょうか。
禅宗の六祖・慧能がそうであったように
24歳で覚られたその瞬間から如何なる武術家を以っても害心ある限り金縛りにかけられてしまう人だったそうです。
134名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 21:36:06 ID:mr3G/dIe0
>>132
ひろさちや署の「仏教早わかり百科」に書いてある
135名無しさん@一本勝ち:2005/10/05(水) 00:16:04 ID:0KNhXmqM0
age
136名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 07:45:23 ID:I4pmy/Xm0
他のスレッドでご紹介頂いたHPです。
http://ime.st/www.geocities.jp/srkw_buddha/

HPの題名『覚りの境地』と起草者のHN「SRKWブッダ」にある通り
起草者の「SRKWブッダ様」は苦しみを終わらせ真の覚りを開かれ「ブッダ」となられた人のようです。

どうぞご一読ください。
皆様と一緒に勉強してまいりましょう。
137名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 07:51:12 ID:I4pmy/Xm0
SRKWブッダ様が覚りの境地を簡潔にお述べになった言葉を引用してみます。



覚りの境地は、
いかなる哲学的見解の帰結でも無く、
また人類が作為したいかなる宗教的教義に基づく規範行動でもありません。
勿論、覚りの境地は、本人の単なる思い込みやいろいろな精神障害の結果でもありません。
正法の正しい理解によって自らに顕現する覚りの境地は、如実に体験される虚妄ならざるものであるからです。

覚りの境地とは、
一瞬たりともとぎれることなく体現される常なる安穏であり、
それは一切の継続的努力(いわゆる修行)無しに持続する境地です。
そしてまた、覚りの境地は、本人だけが安穏であるという独りよがりの境地では無く、
未だ覚りの境地に至っていない人々(衆生)を畏れ無き境地にいざない安んじるものでもあるのです。
138名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:05:49 ID:I4pmy/Xm0
昨夜心に残った言葉は
SRKWブッダ様の言葉にありました。
SRKWブッダ様が禅宗の六祖・慧能の著作から引用した言葉です。
転載してみます。(覚者で著作を残されてるのは慧能唯お一人かも知れませんね



【六祖慧能】

中国の禅の六祖・慧能ブッダは、自ら著作した六祖壇教において次のように述べています。

*** 引用(六祖壇教の和訳から)

善知識よ、
われわれの法門は、
昔からずっと無念をおしたてて宗旨とし、無相を主体と為し、無住を根本としている。
無相とはどういうことかというと、無相とは相の中にいて相を離れるのである。
無念とは念じつつしかも念じないのであり、
無住とは人間の本性のありようである。
一瞬一瞬のこころが如何なるものにも依拠しないのであれば、
過去より現在そして未来へと、念は絶えず正しく働いて途切れることはない。
もし一瞬でも正しい念が途切れたら、法身はすぐさま肉身を離れてしまうであろう。
正しいこころの働きは、どんな時もどんな存在に対しても依拠しないことによって成り立っている。
もし一瞬でも何かに依拠して念じるならば、
こころの働きも何かに依拠した物となり、こころは何ものかに束縛された物となってしまう。
どんな存在に対しても依拠しないでいられるのであれば、それこそが束縛のないこころに他ならない。
それゆえ、無住を以て根本と為すのである。
139名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:10:13 ID:I4pmy/Xm0

善知識よ、
外に対して一切の相を離れることを無相というのである。
無相になることさえできれば、われわれの本性は本質的に清浄でいられるのである。
それで、無相が主体だと分かるのである。
また、どんな境界にもこころが汚されぬ様子を無念とよぶ。
それは、自分のこころのうちですべての境界を脱け出ているだけでなく、
あらゆるものに対してそもそも念の起きることがないことをいうのである。
しかし、無念はこころに何も思いうかべないということではない。
つまり、こころのうちから念がすべて締め出されてしまうというのではいけないのである。
もし、こころをそのように閉ざしてしまうならば、
うつせみの別世界に心を追いやってしまうことになるからである。
このことは、道を学ぶものはとくに注意すべきことである。
法{ダルマ}を求めるこころを停止させてはならないのだ。
自分だけ誤っているならまだしもだが、
そのうえ他の人にその過ちをおしつけることがあってはならないからである。
そのような人は、自分を見失って真理を見ないばかりか、さらに経文を非難する愚を犯してしまう。
そのようなことがないように、無念をおしたてて宗旨とするのである。
つまり、自分を見失ったものがさまざまな境界において念を起こし、念ゆえに邪見を起こすに至るから、
あらゆる煩悩と妄念がそこへ現れ出てしまうのである。
しかし、わが法門は無念をおしたてて宗旨とする。
われわれはあらかじめ分別を脱けでていて、念を起こしはしない。
もし念が最初からなければ、無念すらおしたてる必要はないのである。
ところで、無とは何かが無いのであり、念とは何かを念ずることである。
これらは何かと言えば、無とは{名称と形態〔nama-rupa〕にもとづく}二つの相が無いのであり、
念とはありのままの本性{真如}を念ずることをいうのである。
真如なるものが念の主体であり、念は真如の作用に他ならない。
真如なる本性が念を起こすのだから、
見聞覚知の心が働きながら如何なる境界にも汚されず、いつも思いのままでいられるのである。
その様子について、「維摩経」は言っている。
「外にあらゆるものの相を区別しつつ、内には第一義{絶対的な立場}に於いて動じることがない」と。
140名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:14:57 ID:I4pmy/Xm0

善知識よ、
わが法門の坐禅は、
はじめから心を見つめもしなければ、
こころの清浄なことを見守りもせず、また動かぬことをいうのでもない。
もし心を見つめよというのなら、心ははじめから虚妄なるものである。
虚妄なるものは幻のごときものであるから、見つめようがあるまい。
そうかといって、もしこころの清浄なことを見守れというのなら、
われわれの本性はそのようなことをせずともはじめから清浄である。
{こころが汚れて見えるのは}妄念ゆえに真如が覆い隠されているためである。
それゆえ、妄念を離れることさえできれば、本性は清浄であると直ちに分かるのである。
本性がはじめから清浄であることを知らないで、心を起こして清浄なものを見守ろうとするならば、
かえって清浄という妄念を生みだすことになってしまうであろう。
しかして、真実には妄念には{自性としての}根底がないのだから、見守ることの方が妄念であると{わかる人には}わかるのである。
そうとは知らない人は、
清浄には元々形がないのにかえって清浄という形をおしたてて、いろいろと工夫することが手柄であると考えてしまうのだ。
このような考え方をするものは、自分の本性を自らさまたげて、自分の方から清浄に縛られているのである。
本当に動かぬ境地に至った人は、どんな人の過失も目に入ることは無いし、そのようにしていられることが即ち本性の動かぬことの証である。
一方、自分を見失ったものは、自分の身を投じて善き行いを為すことが無いのに、口を開けばすぐに他人の善し悪しを問うて、
まさにそのことによって仏道に自ら背を向けてしまう結果となる。
それゆえ、心を見つめ、こころの清浄を見守るのは、かえって道をさまたげる原因であると言わなければならないのである。
141名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:18:41 ID:I4pmy/Xm0

今、私は君たちに断言しておく。
およそわが法門で、坐禅とは何かと言うなら、この法門では何のさまたげもなく善く行為することを言うのである。
すなわち、外にはあらゆる存在に対して妄念の起こらぬのが坐であり、本性に目覚めて乱れぬのを禅と為すのである。
禅定とは何を言うのかと言えば、
外には{人にけとられるような}如何なる相も出さないのが禅であり、
内にはこころの乱れぬのが定である。
それゆえ、外見にもし何かの相が見えたとしても、
内面に本性の乱れがなければ、こころはもとよりそれ自から清浄であり安定していると考えてよい。
つまり、縁によってさまざまな境界と接触するゆえに心に乱れを生じるのが世の実相であるからだ。
したがって、相を出ることができれば、こころが乱れることなどそもそも無くなるのである。
外に対してあらゆる相を離れている状態がすなわち禅であり、内に心の乱れぬ状態がすなわち定である。
{覚りの境地においては}外は禅、内は定であるから、これを禅定と名づけるのである。
{その境地について}維摩経は言っている。
「{覚れる人はそのとき}即時にカラリと本来のこころに立ち戻ったのだ」と。
また、菩薩戒経(梵網経)に言っている。
「もともと本性清浄でなくてはならぬ」と。
142名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:19:46 ID:I4pmy/Xm0

善知識よ、
{覚りの境地を目指す人は}自らの本性それ自体が清浄であることを見るべきである。
自ら修め、自ら完成するのが、本性たる法身そのものであることに気づくべきである。
自ら行ずるのが仏行であり、自ら成り切って、自ら完成するのが仏道に他ならないのである。

*** 引用おわり

注記) { }内は、当サイトの起草者が付与。
143名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 10:09:56 ID:fv7gkCYf0
ボクサーや格闘家なんかが言う試合の事を覚えてないけど
戦ってたって言うのは精神面に関しては「覚り」の一歩手前の状態
じゃないんですか?
ただ常日頃から、その様な精神状態って訳では無いですけどね
144名無しさん@一本勝ち:2005/10/11(火) 22:10:28 ID:e4ldLetS0
age
145名無しさん@一本勝ち:2005/10/12(水) 07:53:00 ID:dNMiZz/50
>>143
>精神面に関しては「覚り」の一歩手前の状態じゃないんですか?

同意させて頂きます。
聡明でいらっしゃるのですね。

>常日頃から、その様な精神状態って訳では無いですけど

恒常的にそれが体現し得てる状態
それをこそ(本当の)「覚り」と呼ぶのでしょうね。
146名無しさん@一本勝ち:2005/10/12(水) 23:38:17 ID:cvfzqzuF0
>>145
いつも、いつも的確な意見感謝です。
自分的に精神段階を考えてみたんですが

1、攻撃しようと思った時には勝手に動いている(自我がある中で無意識に
なる一歩手前の段階、いちよう自我がある事は自覚している)

2、無意識で攻防できる精神状態(無意識の中でも闘争本能が
微かにある状態)

3、相抜けと言われる「覚り」の状態

こんな感じですかね??
147名無しさん@一本勝ち:2005/10/17(月) 00:21:47 ID:pGL43KfP0
age
148名無しさん@一本勝ち:2005/10/19(水) 07:41:06 ID:qS7G6S0O0
>>146
同意させて頂きます。
一部のボクサーには2のような体験がしばしば聞かれますね。

最終的には争わない境地が3をつくるものと考えております。
争わない境地こそ無敵というのは矛盾してるかも知れませんがおそらく正しいのではと想像してます。
149名無しさん@一本勝ち:2005/10/22(土) 12:03:58 ID:BRWDVsRK0
前の方にあったけど怒りで我を忘れるって言うのも、ある意味
無心だと思うよ。怒りって時点で意識はあるって考えられるかも
しれないけど何も考えないで攻撃してるわけだから例えば「覚り」の
一歩手前にいる塚原卜伝なんかは、こういう我を忘れた人の攻撃は
対処出来ないと思う
150名無しさん@一本勝ち:2005/10/22(土) 22:27:09 ID:vS2GA2bQ0
>>149
素人が本気でわれを忘れて襲ってきたら名人が負けるって
言ってるわけか?

そんなんなら武術に何の価値があるんだか
151名無しさん@一本勝ち:2005/10/23(日) 13:24:45 ID:fktPJNKH0
>>150
素人じゃなくても格闘家にだって言える事じゃん。
でも理屈で言えばそうなるなぁ
152名無しさん@一本勝ち:2005/10/28(金) 08:14:39 ID:0wNRvwA50

  ∧_∧ クワッ!
 ∩`iWi´∩
 ヽ |m| .ノ
  |. ̄|
  U⌒U
153名無しさん@一本勝ち:2005/10/28(金) 09:36:16 ID:hG4xCsfA0
>>119
なにいってんだかw
そもそも武術と仏教は求めるものが正反対だろ
154名無しさん@一本勝ち:2005/10/30(日) 19:47:30 ID:KYNEzu3+0
>>148
敵がいないから無敵・・・なるほど。
155名無しさん@一本勝ち:2005/10/31(月) 21:14:36 ID:/kcr5Fu30
>>154
その様な境地に達したのは柳生の無刀取り、上泉信綱、伊東一刀斎
針谷夕雲、晩年の武蔵、白井亨くらいか?
156ハンゾー:2005/11/01(火) 01:01:06 ID:kUmR5ZgkO
知りたい事は、やはり自我と精神の明確な定義付けです。議論の根本をしっかりさせましょう。
 そして武板的にこのテーマを語ると、武道の持つ東洋思想が絡んでくると思います。
 1の出したテーマは別に武道に限った事ではありませんし、ならば哲学板にでも行ったほうが良いのではないかと思います。
なぜこのようなテーマについてわざわざ武板で語ろうと思ったのかをまず知りたいですね。
157名無しさん@一本勝ち:2005/11/02(水) 20:34:56 ID:bRK52XbB0
>>156
「自我」を国語辞典で調べますと
「宇宙に存在する他の全てと対立する存在として認めた自分」と書かれてます。

自我を持つことは大事ですが
一切の対立を消す(無くす)ことが「覚り」であると言われます。

よく「宇宙と一体になる」と言われるのを耳にします。
その本質は「宇宙に存在する他の全て(森羅万象)と対立しないこと」と定義できるのでしょうね。

肉体的にも対立が減れば他者の体に対立が生まれてくれて
たとえば攻撃してくる相手の体が泳いでしまったりはよく経験します。(どこまでも高度な体現はまだですが
158名無しさん@一本勝ち:2005/11/02(水) 20:39:59 ID:H7VSnpwU0
般  羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観  摩
若  諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自  訶
心  羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在  般
経  諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩  若
      呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩  波
   波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行  羅
   羅   真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深  蜜
   羯   実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般  多
   提   不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若  心
        虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波  経
   波   故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
   羅   説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
   僧   般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
   羯   若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
   諦   波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
        羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
   菩   蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
   提
   薩
   婆
   訶
159名無しさん@一本勝ち:2005/11/06(日) 23:52:18 ID:xMOa9acz0
>>157
面白いです!
もっと何か書いてください。
160名無しさん@一本勝ち:2005/11/07(月) 11:40:18 ID:QIRHwg5N0
>>157 よく「宇宙と一体になる」と言われるのを耳にします。

屁理屈の言葉つなぎをダジャレのように弄んでるだけ。
紙切れを眺めていても妄想が膨らむのみ。

広く世界に知識を求めた後に
万機公論に決すベキ。
161名無しさん@一本勝ち:2005/11/07(月) 11:43:28 ID:PuwxTqwB0
つべこべ言わずに、座禅でも 立禅でも ヨガでも 呼吸法でも 
やってみたらいいんですよ!
162名無しさん@一本勝ち:2005/11/08(火) 22:15:39 ID:J9NdTJCn0
>>158
経のコレクターになること
経のコレクターであることにも意味はありますが
覚りを求めることに於いて経の持つ意義は
「その中(経の中)に存在する正法に気がつけること」に他ならないそうです。

たとえば
金剛経の正法は以下の箇所(漢字にして僅か8文字)になるそうです。

応無処住而生其心(まさに住するところ無くしてしかもその心を生ず)

また
法華経の正法は以下の箇所(漢字にして僅か16文字)になるそうです。

諸佛世尊唯以一大事因縁故出現於世(諸仏世尊はただ一大事因縁のみによって世に出現したまう)

経は「転じるべき物」であってそれ(経)に転じられるべきではなく
何某かの気づきを求めることなくコレクターになることは転じられる姿に陥ることですから気をつけたほうがよいでしょう。
163名無しさん@一本勝ち:2005/11/08(火) 22:25:32 ID:J9NdTJCn0
>>161
他のスレッドで
呼吸法や坐法を熱心に奨めていた方を見ましたが
著しく呼吸器が悪かったり或いは脚が悪かったりする方のことを酌まなければならないと思います。
誰にでもできることはただひとつ
「心がけること」に他ならないと思うのです。(他のスレッドの方の陰口ではありません
164名無しさん@一本勝ち:2005/11/08(火) 23:15:56 ID:Z7u3gPYv0
「心がけること」だけでは効果が無いから色々な修行法が生まれた。
心を心がけるという事はその時点で矛盾となる。
165名無しさん@一本勝ち:2005/11/10(木) 01:04:07 ID:QfBy9p7X0
166名無しさん@一本勝ち:2005/11/12(土) 04:41:20 ID:ECcky60J0
167名無しさん@一本勝ち:2005/11/15(火) 20:41:59 ID:l/JFDVNy0
>>164
様々な修行法を否定する立場ではありませんが
心の「コリ」を取り除かないと体のコリもとれませんで
結果(武術修行を含め)何を参究するにも究境へは行けないものと考えております。
言葉で洒落てみますと「心のコリ」は「心残り」となりそしてそれはいわゆる再生の因を生むこととなるのかも知れません。
168名無しさん@一本勝ち:2005/11/16(水) 06:30:49 ID:LvhgNwij0
296 :名無しさん@一本勝ち :2005/10/16(日) 23:26:36 ID:uV4VlTXT0
いきがってる奴は本当は気が弱い


297 :名無しさん@一本勝ち :2005/10/16(日) 23:28:29 ID:h2f3oJ+K0
>>295
正解
>>296
正解


298 :名無しさん@一本勝ち :2005/10/22(土) 06:36:21 ID:2606LZon0
そうだね。幼稚園児相手にいきがるやつはいないよね。
本当は相手が怖いからいきがるんだね。

169名無しさん@一本勝ち
301 :名無しさん@一本勝ち :2005/11/01(火) 09:27:03 ID:b1eJ9fQF0
>>299
気が強い、弱いと実戦(ケンカではない)は無関係。
冷静な判断を持たずに突っ込むと命取り。罠があるかもしれないし、複数が
待ってるかも知れない。
>>300
「しっかり自分の中に意識があり 常に自分を見ている状態にあり......」
これは当然のようで実は難しいかも。一つの極意ですね。
自分の意識が怒りや恐怖でふっとんでしまえば相手のペースに巻き込まれるだけで
不利になります。冷静に自分の状況を把握していればいくらでも逃げられる機会が
あるということが多いです。だから、気が強い、弱いどちらも過不足。
気が弱ければ行動できず、気が強すぎれば判断を誤る。
丁度いい状態でベストの選択をする事。
また、常に自分を見ている状態が作れれば技術の上達も早いものです。