自我と精神について

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1名無しさん@一本勝ち
他スレから独立しました。
真剣に語りましょう。
2コピペ:2005/09/07(水) 20:15:27 ID:I5E2T1yt0
私が常に思っているのは、そもそも精神力というものは鍛えることが出来るのかという疑問です。
よく空手をやれば精神鍛錬になるといいますが、それは空手という武力があるから
強気になれるのであって、別に精神力そのものが強くなったわけではないと思うのです。
私が今の時点で出した結論は、精神そのものを鍛えることは不可能。
精神力に強いも弱いも無い。
精神的に強い人もいないし、弱い人もいない。ただ精神的に強そうな人、弱そうな人と他人が判断するだけ。
あるのは精神力の強弱じゃなくて、自我が安定しているか安定していないかの違いだけ。
自我というのは精神分析の用語でわかりにくいかもしれませんが、
簡単に言えば自分はこういう人間だと自分が思っているイメージだと思ってください。
俺は空手やってて強いと思うのも自我の一部です。
ここで重要なのはその自我を支えているのは他人、世間、神、健康、金、武道などであって
精神力そのものじゃないということです。
例えば自分が強いと思っていられるのも、実際に空手をやってて現実的な強さがあり、
さらに世間の基準からして自分はそれなりのレベルに達しており、他人が自分のことを
強いと思ってくれてるから自分が強いという自我が維持できる。
もしその自我の支えが無かったら一瞬のうちに、自分は強いという自我は崩壊します。
武道家がひたすら強くなろうとするのも、強くなればなるほどこの自我の支えが強くなって
安定すると思っているからです。
だけどこの自我そのものは鍛えることが出来ず、自我には必ず支えが必要ですので常に不安定です。
だから結局人間というのはいくら強くなっても精神的に安定するということはなく、
常に不安や恐怖を抱えて生きていくしかないのです。
精神的に強そうに見える人はいますが、そう見えるだけです。
長くなったので一度切ります。
3コピペ:2005/09/07(水) 20:16:06 ID:I5E2T1yt0
続きです。
自分で自分のことを精神的に強いとかいってる人がいますが、そんな人は
本当の地獄を知らないだけです。
病気になって寝たきりになると、本来なら病気になったことを受け入れた自我を築かなくてはならないのですが、
こういう人は病気になったことを受け入れずに
健康だった時の自我を維持しようとするので、いずれ自我と現実とのギャップが
大きくなってそのうち自我が崩壊します。
人間は自我がないと生きていけませんので、こういう人もいずれ病気になった自分というものを
受け入れざるを得ません。
それでも昔の自分にこだわれば欝病になるか自殺するしかありません。
ちなみに人間が自殺するのは自我があるからです。動物には自我がありませんので自殺しません。
人間は自我を守るためなら平気で自殺します。上のほうで柔道の木村の切腹の話が
出てますが、それも自分の自我を守るためです。猛練習するのも切腹するのも
すべて自我の安定のためです。
別に精神的に強いからではありません。
こんなこというと反論されるのは分かっていますが、あえてレスしてます。
なんらかの参考になれば幸いです。
4コピペ:2005/09/07(水) 20:16:58 ID:I5E2T1yt0
60 :45 :2005/09/05(月) 23:33:30 ID:Qnu509IR0
>>54
つまり悟りの境地のことですね。
私はそんな絶対的な精神の安定が得られる境地なんて無いと思っています。
昔の武道家や宗教家がよくそんなこといってますが、
たしかに人生のある期間において、非常に自我が安定して精神的に落ち着いていられる
期間があると思います。
だけど上で言ったように自我は常に何らかの支えを必要としてますので常に不安定です。
その悟りを開いたという武道家や宗教家だって、武道や神といった支えによって
自我の安定を図っています。この武道や神の支えが無くなったら一瞬のうちに
その自我は崩壊します。
絶対的な精神の安定の境地というのは、要するにこの自我がなんの支えもなく
維持できるという状態だと思うのですが、そんなことは不可能です。
よく悟りを開いたといってる武道家や宗教家はまだ人生の途中なのに人生の全てが
分かったような言い方をしてますが、死ぬ直前まで同じ精神状態を維持出来るのか
私はかなり疑問に思っています。
続きます。
5コピペ:2005/09/07(水) 20:17:50 ID:I5E2T1yt0
61 :45 :2005/09/05(月) 23:37:46 ID:Qnu509IR0
続きです。
「死にいくプロセス」(キューブラ・ロス)
  1. 否認 (死を否定しようとする)
↓ 2. 怒り (怒りを覚える)
↓ 3. 取引 (周囲に良いことをし、自分の死を引き伸ばそうとする)
↓ 4. うつ (孤独を感じ、憂うつな気持ちになる)
↓ 5. 受容 (死を受け入れることで、精神的に落ち着きを取り戻す)

上は人が死を受け入れるまでの5段階の精神状態の変遷です。
すべての人がこのプロセスをこの順番でたどることはありませんが、
だいたい死を直前にした末期癌患者はこういった精神状態に陥るといわれています。
これを自我の観点から説明すると、

  1. 否認 (死を否定することで自我を安定させようとする)
↓ 2. 怒り (死がさけられないと分かり、自我が不安定になる)
↓ 3. 取引 (自我を再び安定させようとする努力)
↓ 4. うつ (病気が治らないと分かり、健康だった時の自我を捨てて、死を受け入れた自我を受け入れようと格闘中)
↓ 5. 受容 (死を受け入れた自我を受け入れることに成功)

もし悟りの境地というのが5段階目の受容の段階だとしても、まだ精神状態は不安定です。
というのは人間の生への意欲は非常に強く、いくら死を受け入れた自我を築いても
この自我は常に健康だった昔の安定していた自我に脅かされます。
また元気になって昔のように生きたいという願いです。
それにこの受容の段階はほとんど感覚がなくもう人間としての生気は失われています。
この段階が悟りの境地だとはとても思えません。
よくいう悟りを開いたという武道家はどういったプロセスで死を受け入れているのでしょうか?
私は悟りを開いたといってる武道家や宗教家も上のような5段階のプロセスをたどってると思います。
そうなると第五段階の受容までかなりの自我が脅かされ、精神的に不安定になりますので、
よくいう絶対的な精神の安定の境地なんて嘘ということになります。
続きます。
6コピペ:2005/09/07(水) 20:19:45 ID:I5E2T1yt0
62 :45 :2005/09/05(月) 23:40:52 ID:Qnu509IR0
続きです。
そもそも私は精神を鍛えるというのがどういったことを意味してるのかよく分かりません。
精神的に辛いことがあればあるほど精神が鍛えられるというなら、
どんなに厳しい武道の修行より末期がん患者の方が精神的に辛いと思います。
だいたい武道の修行などどんなに辛くても、その辛さは強さという見返りがありますし、
強くなれるという希望もあります。
こんな恵まれている精神状態のどこが精神的に辛いのでしょうか?
もうなんの希望もなく日々を過ごしている末期がん患者の方がよっぽど辛いと思います。
念のためにもう一度言いますが、>>45-46でいったようにこれは私の意見です。
精神鍛錬のために武道の修行をすることを否定するものではありません。
一生懸命練習してる方がこのレスをよんでやる気が失われてしまっても困りますので、
この意見が気に入らなければすぐに忘れてください。

7コピペ:2005/09/07(水) 20:20:39 ID:I5E2T1yt0
80 :名無しさん@一本勝ち :2005/09/07(水) 01:09:05 ID:yk08a4Vp0
>>45
色々とツッコミたいことはあるが
>自分で自分のことを精神的に強いとかいってる人がいますが、そんな人は本当の地獄を知らないだけです。
そりゃおまいの勝手な憶測だ。ましてそのうち自我の崩壊?妄想もいいところ。

それと自我を崩壊させるのが随分と好きなようだが、
実際に宗教家が信仰を捨てたり、武道家が武道を捨てることがどんだけあるよ。
ヤンキーにしてもステレオタイプなイメージに頼りすぎだし、喧嘩に負けて自我崩壊?
アフォか、ヤンキーなら喧嘩に負けたって翌日には顔を腫らして笑っとるわ。

人格攻撃になっちまうが、他者に対する勝手な思い込みは自我と他我の境界線の曖昧さの表出だろ。
自我、自我、自我崩壊!とほざいてるお前の自我の安定がどの程度のもんだっつの。
8コピペ:2005/09/07(水) 20:21:30 ID:I5E2T1yt0
83 :名無しさん@一本勝ち :2005/09/07(水) 01:57:46 ID:I5E2T1yt0
>>80
いいですね。
その調子でどんどん叩いてください。
>実際に宗教家が信仰を捨てたり、武道家が武道を捨てることがどんだけあるよ。
捨てるんじゃないんですよ。 神や武道だけでは自我を維持できなくなるんです。
健康だった時は神や武道といったものが自我の支えとなってそうとう精神的に
安定するのですが、死を直前にして死の恐怖や病気の苦しみに会うと、
そういった神や武道では自我が維持できずに不安定になるんです。
もちろんそうとう信仰心が強い人なら自我の崩壊を免れますが、それでも
最後の死の受容までの段階までそうとう自我が不安定になるはずです。
なぜ死の直前になって自我が不安定になるのかというと、健康な時の自我は
死を受け入れていないからです。
自分で自分のことを精神的に強いとか言ってる人は死を受け入れていないでしょ。
死を受け入れていない自我の段階で俺は精神的に強いとかいっても何の説得力も無いですよ。
本当にその精神状態が死の直前まで維持できるのですか?
私は出来ないと思います。 理由は死を受け入れた自我を築いていないからです。
>そりゃおまいの勝手な憶測だ。
勝手な憶測だとおっしゃるなら、精神的に強いという人は死の直前まで
自我が不安定にならずに精神的に強く生きれるという理論を提示してください。
私は説明しました。 次は貴方の番です。
それとヤンキーの話は自我を説明するために例として上げただけで、
そんなことで感情的になられても困ります。
私の自我の安定度?安定してませんよ。自我は常に不安定ですから。よくレスを読んでください。
私は反論は大歓迎ですよ。
ぜひとも私の理論を粉々に打ち砕いて欲しいと思っています。
私も本心では空手の修行で精神が鍛えられると思いたいですから。
でもあなたレベルのレスでは私の理論は残念ながら揺らがないです。
もっと説得力のある理論で私の理論を打ち砕いてください。
まあ理論というもののほどではありませんが。
9コピペ:2005/09/07(水) 20:23:57 ID:I5E2T1yt0
84 :名無しさん@一本勝ち :2005/09/07(水) 02:47:48 ID:yk08a4Vp0
>>83

いまいち焦点がどこに合ってるのか分からんなぁ。
まず自我とその精神状態は区別するべきだろ。
「自分は何があっても決して喜ばない人間」とか、んなアイデンティティを持ってるなら話は別だが。

それと「精神的に強い」というのは必ずしも「精神状態の揺らぎが無い」というこっちゃあるまい。
難問を突きつけられて平然としてる人間も勿論精神的に強いだろうが、
悩んでもがいて苦しんで、その末に乗り越えた人間も精神力が強いと思うぞ。


>勝手な憶測だとおっしゃるなら、精神的に強いという人は死の直前まで
>自我が不安定にならずに精神的に強く生きれるという理論を提示してください。

オッケー、漏れ様が涙が止まらなくなるほど素晴らしい理論を提示してやろう。
・精神的に強い→ストレスへの耐性が強い→目前に迫った死からくる恐怖その他のストレスも克服(゚Д゚)ウマー

あとおまいさんの言う自我崩壊って具体的にどういう状態を指すのさ?
そして自我崩壊すると人間はどうなるの?
10名無しさん@一本勝ち:2005/09/07(水) 20:33:29 ID:05kntWDV0
コピペはまだ続くのか?

宗教者や武術家の「真の悟りの境地」は、「自我を自在に崩壊させられるようになる」ことだよ。
自我が、自分が無いんだからこれ以上壊れようも無い。
そもそも、自分で書いているだろ?
>人間が自殺するのは自我があるからです。動物には自我がありませんので自殺しません。
普段は自我があるが、必要に応じて自我を無くし太極からものを考える、見ることができる。

それにだな、動物は環境を激変させるなどのストレスを与えると、拒食や脳の萎縮などを起こし自殺するぞ。
爬虫類などのエキゾチックアニマルでは顕著だ。
11名無しさん@一本勝ち:2005/09/07(水) 20:58:03 ID:I5E2T1yt0
>>9へのレスを書いてたんだけど、興味深いレスしてくれたからちょっと辞める。

>>10
レスどうもです。

>普段は自我があるが、必要に応じて自我を無くし太極からものを考える、見ることができる。

こんなこと可能なのですか?
自我が無いのにその考えたり見たりしたものをどうやって自分で認識するのですか?

12名無しさん@一本勝ち:2005/09/07(水) 21:07:35 ID:05kntWDV0
>>11
自分の中の本能が直感で判断しているんじゃないですか?
無意識、とは確実に違うものです。
13名無しさん@一本勝ち:2005/09/07(水) 21:23:52 ID:I5E2T1yt0
>>12
その自我を無くしていられる期間はどれくらい可能ですか?
ほんの一瞬ですか?
あんまり長くその状態が続けば現実に対応できずに生きていけないと思うのですが。

14名無しさん@一本勝ち:2005/09/07(水) 21:29:05 ID:05kntWDV0
>>13
無くすと書いたけど、性格には自我が占める割合が無いに等しいぐらいに小さくなる、が近いかな。
そもそも、悟りとかそういうものは、自我の破壊と再構築から成り立っているわけで、その繰り返しで自我のコントロールを覚えると。
自我の無い状態のままを保てば、飲まず喰わずでも苦しまずに餓死もできるでしょうし、そういった昔話は世界中にあります。
15名無しさん@一本勝ち:2005/09/07(水) 21:50:13 ID:I5E2T1yt0
>>14

>悟りとかそういうものは、自我の破壊と再構築から成り立っているわけ

ちょっと理解できないのがこの部分なんですが、自我というのは常に他に支えられて
なんとか安定を維持していると思うのです。
自我は自我自身で維持できないというのが私の考えです。
つまり自律的自我など存在しないわけです。
そうやって他に支えられて維持している自我をどうやって破壊するのですか?
いくら自分で自分の自我を否定しても、その自我は他に支えられているのですから、
その自我を破壊するためにはその自我の支え自体を破壊するしかないと思うのです。
それともその自我をその支えをはるかに超えた妄想レベルまで引き上げて、
その現在の自我を維持してる支えなんかでは維持できない妄想レベルの自我を意識的に作って、
そして破壊するのでしょうか?
16名無しさん@一本勝ち:2005/09/07(水) 23:13:25 ID:05kntWDV0
>>15
まずね、貴方の
>自我というのは常に他に支えられてなんとか安定を維持していると思うのです
ここが違う。自我っていうのは、脳が自分自身に見せている幻覚に過ぎないんだよ。
実際に考えたり、体を動かしたり、呼吸をしたり、心臓を動かしたり…全て脳がやっている仕事であって
それを私達が感じたりできる形に変えたのが「自我」。
自我はあたかも自分で自分の体をコントロールし、考えているような錯覚を覚えるが
実際には、脳の仕事が印刷された報告書を逐一読んでいるだけ。
しかも、脳が勝手に判断して都合の悪い部分や必要の無い部分を改ざんした報告書をだ。

例えば、集中して計算問題をやっているとする。そのときに、周りの雑音も机の柄も
後ろを何人通ったかも、自我は感知しないだろう。
しかし、そのときに耳が塞がったわけでも視野が狭くなったわけでもない。
脳はそれらの情報は必要ないと判断し、自我に伝える報告書に記載しなかったから感知できなかったわけだ。

悟りとは、自我を脳の領域にめり込ませる、という考え方もできると思う。
17名無しさん@一本勝ち:2005/09/08(木) 01:55:15 ID:zwwqKCdJ0
>>16
自我が幻覚、幻想だというのは分かります。
だけど自我が無いと人は生きていけない。
なぜかというと人間の本能では社会に適応できないからです。
動物は本能レベルで環境に適応できるようになっているから、自我が無くても生きていけます。

>脳が勝手に判断して都合の悪い部分や必要の無い部分を改ざんした報告書をだ

この脳が勝手に判断というのは本能レベルの判断だと思うのです。
だけど社会に適応するためには色々な行動規範が必要です。
社会に適応するためにはとてもじゃないけど本能レベルでは適応できません。
その社会に適応するために自分はどう考えてどう行動するかの行動規範が
自我だと思うのです。
だけどいくら自我が幻想だといってもまったく根拠の無い幻想ではすぐに崩れてしまいます。
だから自我には支えが必要なんです。
周りの雑音レベルの判断なら本能が勝手に判断できますが、人間社会に適応するための
判断は本能レベルでは無理です。
18名無しさん@一本勝ち:2005/09/08(木) 13:46:08 ID:jTA0oiUD0
  _  ∩
( ゚∀゚)彡 自我崩壊!自我崩壊!
 ⊂彡
19名無しさん@一本勝ち:2005/09/08(木) 14:12:12 ID:SH0SysWl0
こういう議論をするときには、キーワードたる「自我」と「精神力」を共通言語としてしっかり定義付けすることから始めないと。
まず、共通認識を得られる言葉の定義付けから始めろよ。そのうえで持論を展開しないと賛同も反駁もしにくい。
ついでに言えば、今の内容と展開だと板違いになるからなw
20蝦@携帯:2005/09/08(木) 19:48:24 ID:PCKUCvWMO
自我を殺す事が「悟り」なら漏れは悟れそうもないな。

漏れは絶対不動の自我を持つ事が武道的な「悟り」だと思ってまつ。
不動の自分自身を軸に世界を見る事で太極を感じ取る事だと。


まぁ、正解は一つではないんだと思いますが。
21名無しさん@一本勝ち:2005/09/08(木) 22:39:43 ID:YjteaacS0
>>17
>本能レベルの判断だと思うのです

そりゃ脳をなめすぎ。脳は自我が認知できなかった情報さえも全て把握し
自我が思い出せない情報も全て覚えているんだから、自我以上の働きをして、物事を行うなんてこともできる。
むしろ、たいした能力が無い自我があれこれ指図しなければ脳の力をフルに発揮することができる。
確かに、この状態が垂れ流しのように続くようでは病気と大差が無い。
しかし、この脳フル稼働の状態を「自分の意思で自在に操る」ことができたらどうだろう?
自我と脳とが協調しあい「自分はどう考えてどう行動するか」を瞬時に判断できるようになったらどうだろうか?

22名無しさん@一本勝ち:2005/09/08(木) 23:56:25 ID:Pv+T+2gy0
脳がフル稼働したら一体どうなるんだ?
23名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 01:04:50 ID:XTyNhHvV0
女性の服が透けて見えるようになります。
24名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 01:12:35 ID:b1rAurWP0
>>21
その自我に認知されずに、無意識に追いやられた感情がエスと呼ばれる部分ですよね。
「脳の力をフルに発揮する」とはエスの解放、つまり無意識に押し込められている
衝動的な心的エネルギーを解放することだと思うのですが、おっしゃる通り、
常にエスを解放してたのでは社会に適応できません。
そして「それを自分の意思で自在に操る」というのは、ある場面において、このエスを
意識的に解放することだと思うのですが、そういう意味なら私にも理解できます。
例えば空手の修行者がいたとします。
その人は普段は自我によって自分をコントロールし、社会に適応して生きています。
もしこの人がヤンキーに絡まれて、そのヤンキーを殺さないと自分が生き残れないと
判断した場合、普段は無意識に追いやっている自分の中にある血と殺戮と好む感情を解放し、
このヤンキーを殺す。
そして殺した後、再びもとの自我にコントロールされた自分に戻る。
もしこの状態を自我の破壊と再構築のことだとすれば、これと悟りにどんな関係があるのでしょうか?
たしかにエスを解放している間は自我は一時的に破壊されています。
でも自我の支えは破壊されずにそのまま残っているからすぐに自我を再構築できるのです。
私が言ってる自我の崩壊はこの自我の支えが崩壊することによってもたらされる自我の崩壊ですので、
一度自我の支えが崩壊してしまうと、新たな自我の支えが見つかるまで自我を再構築できません。
この辺に認識の違いがあったと思います。
ですがなぜこれが悟りにつながるのかが分かりません。
25蝦@携帯:2005/09/09(金) 01:45:21 ID:SBlY7RfbO
強固な自我を作成する事により、
恐れず惑わずに自分の今成すべき事を瞬時に選択、実行できる事が
武道としての至高の精神だと自分は思う。

自我崩壊したら避けられる衝突も避けられないんJamaica?
26名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 03:01:59 ID:z6iKtIRj0
>>25
まぁ実用レベルではそれでいいんじゃまいか。
それって単なる「物凄くしっかりした人」だけど、漏れもそこから先に行くのは如何なもんかと思うし、
輪廻転生は信じないからその必要も無い。やっぱ武道は実用第一やね。

でも本当に一部の隙も無くあっちの世界に逝っちゃってる人なら、この現世での衝突なんて些細なこったろう。
その衝突で他人が死のうが自分が死のうがお構いなし。
成すべきことを成しても成さなくても、成すべきことを何ひとつ持たなくても揺るがない自我。
ま、そんなものを自我と呼べるかどうかは別にして……。

ところでさ、往々にして悟りとか言われる言葉には「世界と調和☆でハッピールンルン♪」みたいなところ無い?
漏れはそれがどうにも信用ならないんだよなぁ。
やっぱり悟りってのは「このワールド苦しみ10000%wwwwwwうはwwwwテラウツスwwww」っていう考えと対じゃないかと思う。


ところで議論してる人、捨てハンでもいいからなんか付けれ。
誰か別な人間が横レスしても分かんない、っていうか今何人で話してんだ?
27名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 21:28:58 ID:K757mXiw0
29 :幼児 :03/06/29 20:52 ID:wLq1Au9C
勇気、度胸の鍛え方について私の考えを述べる。

格闘技でも武術でもスポーツでもなんでもそうだが、
個人競技になればなるほど、精神面の重要性に気づく、
それは競技レベルの下のクラスではあまり感じないだろう。
何故ならば、上に行く事、上達する事に専念できやすいから、
精神面に目を向ける暇がない、それだけでなくむしろ、
精神面に目をつぶっても向上することで満足できるからだ。

しかし、中堅クラスになってくると、そうは行かなくなってくる。
さらに高いクラスになるとさらに、精神面と技術とのギャップを
感じる者も沢山でてくる。これは、相手に勝とうとする技術を
いくら積んでも、いかなる状況下でも精神の安定(平常心)を
保てるものではないということだ。
技術が精神面のコントロールまで入っている体系の武術なら別だが、
武道は本来、精神面、肉体面、すべてを鍛錬し、いかなる状況下でも、
自分の才能を効果的に発揮できる技術体系だ。だから、日常生活でも
そのまま活用できる技術だ。安全な戦いの場で役に立つだけのスポーツ的
技術ではなく、すべての場で活用できる技術と言える。


28名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 21:29:29 ID:K757mXiw0
突き詰めて考えれば、精神面では自分に勝つ術でもあるし、
肉体面では、相手に勝つ技術と言える。(本当はどちらも一緒)
肉体面の技術だけの鍛錬では、
自分に負けた時、本来の肉体的技術を発揮できないのは当然だ。

だから、多くは、あらゆる精神的武力、つまり、金、権力、暴言、あらゆる主義、
他人の常識、観念に同調し、同化し、それに負ける。
世間ではそれをプレッシャーとか、期待とか、理想とか色々言葉を並べる。
つまるところ、自分を見失う。平常心を保てないという事だ。
自分を見失った者は、相手の自由になる。たとえ肉体的に勝っていても、
技術的に勝っていてもそうなる。精神的技術とはそれらを暴力だと認識する
事から始まる。最近のいじめは、その辺の暴力が主なようだね。

これらを得体の知れないなにかだと思っているうちは、
なにを克服するのかすら解らないだろう。これは心法(心の操作技術)を
学ぶと同時に、世のからくり、を学ぶ必要がある。
肉体的技術を肉体的鍛錬とするなら、精神的鍛錬は、心の操作方法を学ぶ鍛錬と、
世の中(相手と自分との関係)を知る必要があるのは当然だ。
これを文武両道と言う。在る程度社会経験も必要だし、世界を感じて、
自分の感受性の中に取り込まなくては、理解できないものもある。


29名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 21:30:18 ID:K757mXiw0
気合いでごまかしても、それは無理だし、強がってごまかしても、無理だ。
力でごまかしてもこれまた無理だ。
それは、それらでごまかしている本人が一番よく知っているからだ。
だだ、人生経験に関係なく、心の操作技術によって自分から離れず、平常心を保てる
技術がある以上、それは有効だ。世の中を知る事はそれと平行して行えば良い。
臍下丹田に氣持ちを鎮めとか、様々ある。これらは非常に重要だが、
大抵は直ぐに頭に氣がのぼる。カァーとなる。落ち込む時も頭がもんもんとする。
これはどの世界でも観られる事だ。すべて自分を見失った状態だ。

心が一つの原点(自分)にあれば、常に、そこから世が見える。
だからそれが、本来の知であり、英知だ。これは、借り物の知識ではない。
自分自身で知った理解だ。その積み重ねが、自分の揺るぎない柱を築き、
それに乗っ取って行動できるから、結果的に勇気と度胸があると
人が勝手に評価するに過ぎない。

勇気と度胸は、直接求めるものではなく、人が評価する時に使う言葉で、
勇気と度胸を持っているとするならば、そのような言葉は自分を語る時には
存在しない。あるのは、平常心だけだ。

勇気も度胸も必要ではない。鍛錬そのものに目を向け、精神的にも肉体的にも
自分の中に太い柱をこしらえる。その太さが結果的に外に現れ、
外部のプレッシャーより太ければ、平常心を保て、その結果人は、
勇気と度胸が在るといい。

プレッシャーより自分の柱が細ければ、プレッシャーに負ける。
つまり、自分に負ける。それだけの事だ。


30百目:2005/09/09(金) 22:01:15 ID:Xm2tmow00
捨て反つける。
>>22
受即攻ができるようになる。
>>24
>その自我に認知されずに、無意識に追いやられた感情がエスと呼ばれる部分ですよね
なんだか何にも伝わっていない模様。重要なのは感情ではなく記憶。
そうだな、あなたの説に沿ってわかりやすく説明すると、悟りとは
貴方の言う「自我の支え」が無くなったにもかかわらず自我が保たれ
常に再構築されている状態、に近いと思う。
>>26
>「世界と調和☆でハッピールンルン♪」みたいなところ無い?
世界の逸話とかで出てくる「悟った人」て、喜怒哀楽が無くなったり即身成仏しちゃったり
本人は不安も何も無く幸せなんだろうけど傍から見るとただの病人が多い。
俺は昔、薬でのトリップが永遠に続くみたいな感じなんじゃなかろうか?と思っていたが
いろいろと話を聞くと、トリップの先がまだまだあるらしい。
311:2005/09/09(金) 22:07:30 ID:Y5nhN/KE0
>>30
>「自我の支え」が無くなったにもかかわらず自我が保たれ
>常に再構築されている状態、に近いと思う。

自我の支えが無いのに、自我を維持することは無理です。
理由は説明しました。
自我の支えが無いのにどうやって自我を維持するのですか?
質問しますが、自律的自我を築くことは可能と思っていますか?
32百目:2005/09/09(金) 22:22:01 ID:Xm2tmow00
>>31
その無理を無理やり行うのが悟り。だから普通は一瞬の閃きにしか過ぎない。
俺が上で書いた「自我を脳にめり込ませる」という表現は我ながら的を得ていると思う。
>自律的自我を築くことは可能と思っていますか?
できるんじゃないですか?立派な病気ですけど。
331:2005/09/09(金) 22:27:36 ID:Y5nhN/KE0
>>32
はっきりいいますが、それじゃあ精神分裂病ですよ。
341:2005/09/09(金) 22:32:34 ID:Y5nhN/KE0
>>32
あなたのおっしゃってる悟りとは武道の動きの中でのほんの一瞬の現象なのですか?
もしそうなら、私の言ってる悟りとはまったく別のものです。
35百目:2005/09/09(金) 22:33:44 ID:Xm2tmow00
>>33
総合失調症http://human.kdn.ne.jp/
わかって書いてる?
36百目:2005/09/09(金) 22:35:32 ID:Xm2tmow00
>>34
貴方のは悟るときは一発で悟るんですか?
私の知っているのは、最初は閃き(私はここ)が続き、徐々に悟っていくものです。
まあ、武術だから「悟る」とは言わないですが。
371:2005/09/09(金) 22:35:49 ID:Y5nhN/KE0
>>35
分かってて書いてますよ。
381:2005/09/09(金) 22:37:17 ID:Y5nhN/KE0
>>36

>最初は閃き(私はここ)が続き、徐々に悟っていくものです。

徐々に悟っていったらどういった精神状態になるのですか?
39百目:2005/09/09(金) 22:41:15 ID:Xm2tmow00
>>38
何もかもがどうでもよくなるんですよ。
401:2005/09/09(金) 22:45:46 ID:Y5nhN/KE0
>>39
その状態はよくいう絶対的な精神の安定の状態ですか?
411:2005/09/09(金) 22:51:55 ID:Y5nhN/KE0
>徐々に悟っていくものです。

この徐々に悟っていくというのは悟っていられる時間が長くなっていくということですか?
質問ばかりですみませんが、非常に興味がありますので。
42名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 22:52:42 ID:WSkqNEki0
元龍貴を思わせる文体だが、元龍貴に自問自答できる
レベルの話題ではない罠www

覚せい剤トリップしたときの感想でもかけば、
面白いんだがなwww
43名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 23:01:44 ID:00nFJUVa0
おれの考えでは禅の修行などで自我を捨てる修行をする必要が
あると思う。完全な無心にはなれないと思うから囚われない
精神があれば良いと思う。でも、その中に闘争心が無いと
身体は動かないね
441:2005/09/09(金) 23:25:03 ID:Y5nhN/KE0
百目さん、起きてますか?
もし寝られたのならまた明日レスして下さいね。
45百目:2005/09/09(金) 23:26:49 ID:Xm2tmow00
>>40
安定っていうか、戦うには絶対必要な感覚ですね。恐怖を感じればそれだけで見えるものは見えなくなるし
逆に相手の隙を見つけて喜んでいたら、それもまた隙を生む要因になってしまう。
ただ、有るがままを見たり聞いたりするには喜怒哀楽があってはいけないんで、それを封じ込めるための
練習として禅を取り入れたんだと思います。
>>41
そこまでに到っていないのでわかりません。

今日は落ちます。あと、>>27から29までのレスは非常に素晴らしいと思います。
46名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 23:34:52 ID:00nFJUVa0
怒りで我を忘れるって言うのも1つの自我を捨てる方法
だと思うけど、どう思う??
でも、やっぱり精妙な身体動作は出来なくなるのかなぁ?
47名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 23:46:22 ID:5OMFqL6RO
自我崩壊と字を見ると自我崩壊=廃人のイメージが沸いていましたが違う様に思えてきました。
48名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 23:50:20 ID:5OMFqL6RO
私は自我は日々、細胞の様に崩壊→再構築を繰り返して行くものと考えています。
49名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 23:55:53 ID:5OMFqL6RO
例えば会社で『自分は優秀だ』という自我をもっている人がいるとします。でも上司から仕事のミスを叱責されヘコみます。自我崩壊です。『でも次は頑張ろう』とその人は奮起しました。再構築です。
50名無しさん@一本勝ち:2005/09/09(金) 23:56:50 ID:GPrhkW/U0
>>43=46
暇なようだから、もっと暇な漏れが話に付き合ってやろう。

>でも、その中に闘争心が無いと身体は動かないね

別に人間は闘争心なんか無くても動けるだろ。
ちょっと歩く度にアドレナリンをガンガン出してブチ切れてんのか?


>怒りで我を忘れるって言うのも1つの自我を捨てる方法だと思うけど

どのレベルで言葉遊びをするかによるだろうな。
たとえば「怒りで我を忘れる」という事態を成立させるには、まず「怒る自我」が必要となるわけだ。
つまりその時点でもう自我が存在してなくてはならないわけで、これじゃあ自我を捨てるなんて永遠に出来ない。
51名無しさん@一本勝ち:2005/09/10(土) 00:01:18 ID:DcbxK8EZO
崩壊→再構築をスムーズに移行させるものが精神力と思います。この力を強くさせるには習慣つけ、積み重ねが必要です。
52名無しさん@一本勝ち:2005/09/10(土) 00:04:32 ID:DcbxK8EZO
私は武道で精神力は鍛えられると思います。武道修行の中で自我崩壊→再構築の機会は山ほど有るのですから。
53名無しさん@一本勝ち:2005/09/10(土) 00:06:47 ID:WSkqNEki0
まぁ宗教板でも釣りスレでよく立てられるが、
2chプロ固定のレベルで自作自演できる話題ではない。

赤ちゃんに大学生の講義を聞かせるようなもんだなwww
54名無しさん@一本勝ち:2005/09/10(土) 00:09:50 ID:pnSYp60I0
>>50
なんか勘違いしてるけど戦ってる時の事を言ってますから
5550:2005/09/10(土) 00:28:48 ID:U32+SxZU0
>>54
?……当たり前じゃないか。
そうだよ。戦ってる時のことを言ってる。それ以外の何だって言うんだい?

武道にせよ競技にせよ、大抵の場合は熟練すればするほどに「平常心で戦う」ことを重視するもんじゃないか。
興奮してテンパったりしないように。いつもの稽古通りの動きが出来るように。

それとも達人や名選手が、初めて本気で喧嘩した中学生みたいな精神状態で戦うのかよw
56名無しさん@一本勝ち:2005/09/10(土) 00:54:55 ID:pnSYp60I0
>>55
平常心で戦うって事は当たり前の事だろ。
しかし平常心のままでは技は出ないって言ってんの
俺が言ってる闘争心は我を忘れる様な闘争心の事を
言ってるわけじゃねーよ
57名無しさん@一本勝ち:2005/09/10(土) 01:05:47 ID:U32+SxZU0
>>56
じゃあどんな闘争心?
58名無しさん@一本勝ち:2005/09/10(土) 01:50:11 ID:XNuNj/kz0
>>57
気持ちと身体が戦おうって状態になりつつ冷静でいられるからこそ無心で
技が出るんだよ。ただ単に冷静でいるだけなら技は出ないよ
59百目:2005/09/12(月) 22:02:15 ID:TfqGyEXc0
隔離スレとしては盛り上がったほうか?
601:2005/09/13(火) 01:53:33 ID:H/BkpHiX0
このままレスが無かったら落とすつもりでしたよ。
百目さんのいってる悟りは私は自然体と呼んでるもので、悟りとは区別してました。
私の言ってる悟りは絶対的な精神の安定が死ぬまで永続的に続くというもので、
そんなものは無いという証明を上のほうでしました。
私が言ってる自然体のことを悟りとするなら悟りはありますよ。
というかそれを悟りとするならすべての人間が悟ってることになりますが。
自然体とは普通の人間が日常行っている行為であり、別に武道に限らないですから。

61百目:2005/09/13(火) 22:07:03 ID:UsdFdyo00
>>60
>絶対的な精神の安定が死ぬまで永続的に続くというもの
ああ、そりゃ確かに普通は無いと思うよ。
自然体がなんだかはわからんが、日常的に行っている行為かは疑問。
あと>>22
昨日、良い例を見つけた。ガンダム知っている人にしか伝わらないだろうけど。
映画「逆襲のシャア」で、チェーンがサイコフレームの力でレズンの駆るギラ・ドーガを落とすシーンがある。
あんな感じのことができるようになる。
621:2005/09/13(火) 22:20:53 ID:H/BkpHiX0
ガンダムは見たことありますが、そんなマイナーなことまで分かりませんよ。
逆襲のシャアは見たこと無いので、出来ればファーストかZでお願いします。
63百目:2005/09/13(火) 22:29:32 ID:UsdFdyo00
Z、ZZは全く見たこと無いんです。実はファーストも飛び飛びでしか見てません。
64:2005/09/13(火) 22:39:15 ID:H/BkpHiX0
そうですか。残念です。
なんで逆襲のシャアだけそんなに詳しく知ってるんですか?
65百目:2005/09/13(火) 22:48:27 ID:UsdFdyo00
>>64
たまたま、昨日見たから。ちゃんとレス読んで下さい。
661:2005/09/14(水) 00:06:57 ID:LM0PuY3h0
所詮人間のやることですからね。
柳川先生もおっしゃってますが、人間って普段の生活でも無意識で結構すごいこと
やってるんですよ。
自転車乗るにしても、バランスとりながら人や車にぶつからずに移動する。
わずかな間合いの失敗で事故に遭う。
組み手だってこれと同じ事なんですよ。
ただ自転車は皆乗れますからすごいことにならないですが、武道の中で
同じ事をすればすごいことになってしまう。みんな出来ませんから。
柳川先生の言葉を借りると、自然体とは理性から感性、そして理性へと
必要に応じてスイッチを切り替える技術のことです。
このスイッチの切り替えも意図的にするんじゃなくて、自然と必要に応じて
切り替わるんです。この理性が自我のことですね。
つまり自我が一時的に消える。そして感性、無意識に体を預ける。
>>12で無意識とは確実に違うとおっしゃってますけど、たぶん無意識ですね。
>>45のレスを読んで確信しました。
ちなみにこの状態でも自我の支えは崩壊してませんよ。
だからすぐに自我を再構築できるんです。
671:2005/09/14(水) 00:44:20 ID:LM0PuY3h0
つまり悟りなんてものはもともと普通の人間にある能力なんですよね。
それを特別な能力だと思い違いすると、くだらん新興宗教なんかに引っかかる。
最近柳川先生の本を他スレで引用するために久しぶりに読んだんですが、
私が日ごろ思ってることと同じ事をおっしゃってましたね。
以前読んだ時はまったく心に残らなかったのですが。
例えば私は常に精神力は鍛えることが出来ないといってますが、
柳川先生も同じ事いってますし。
ただ柳川先生は自我という言葉を使ってませんので、何で精神力を鍛えることが
出来ないのかは説明してないのでちょっと分かりにくいですね。
自我という言葉を使えば一発で説明出来るのですが。
私のレスより柳川先生の言葉の方が参考になると思いますので、その部分を
引用します。


組手においてもっとも大事な瞬間に「見の目でみようとすること、頭でなにかを
考えること、それに伴い特に手足やかた、膝に不要な力が加えられることが
なんといっても禁物なのです。技の始動にとって欠かせぬ間合いとタイミングを
それらの居付きによって失うためです。観の目で相手の意識や動きや
技の気配をすばやく正確に読むこと、そして自らの心身や呼吸が居付くことが
なければその場に応じた技術が本能的、反射的に出るものです。
自然体とはこのような心身の状態です。自然体は人の天性として誰にも
備わっている無意識の本質です。

681:2005/09/14(水) 00:47:11 ID:LM0PuY3h0
もし自然体に対する目的意識を欠くと遠からずスピードやパワーやファイティング
スピリッツだけでは通用しない強者の存在を痛感することになります。
そしてそんな相手との落差を「自らの心の弱さにあると認識する」ことになるでしょう。
 そこで自らの心の弱さを解消すべくどんな努力を続けたとしても永遠に
心の強さを得ることは出来ません。なぜなら心の強弱に見えるものは単に相対的現象で
あり、絶対的な状態ではないからです。要するに、人にははじめから心の面で
強者も敗者も存在しないのです。
そのようにみえる強者も弱者もともに弱者なのです。
臆病な精神状態をなんとか改善しようとどんなに努力を続けたとしても
根本的に改善されることは皆無といっても過言ではありません。
精神を徐々に強化するなどといった事実も、またその方法も決してありません。
たとえ他人より精神的に強そうに見えるとしても実のところそれは錯覚に
すぎません。人間は感性にすべてを託した無心(自然体)の状態と理性が
先行する状態との二通りしかありません。100点と0点しかないのです。
ですから半分できると考えるのは自他ともに錯覚してるにすぎません。
691:2005/09/14(水) 00:59:56 ID:LM0PuY3h0
>人間は感性にすべてを託した無心(自然体)の状態と理性が
>先行する状態との二通りしかありません。

この部分がちょっと分かりにくいですね。
普段の生活では理性が先行、つまり自我によるコントロールを受けているわけですが、
この自我にも安定してる状態と安定していない状態があり、
この自我を安定させるために人は四苦八苦してるんですよね。
だけどこの自我が絶対的に安定することは決してない。
だから人間は不安や恐怖を抱えて生きていくしかない。
こんなとこですね。
701:2005/09/14(水) 02:18:29 ID:LM0PuY3h0
せっかくだから>>9にレスしますが、

>オッケー、漏れ様が涙が止まらなくなるほど素晴らしい理論を提示してやろう。
>・精神的に強い→ストレスへの耐性が強い→目前に迫った死からくる恐怖その他のストレ
スも克服(゚Д゚)ウマー

これは多くの日本人が思い込んでる精神的に強いという人の状態ですね。
だけどこんなことやってたら強いストレスや精神的に強いショックを受けた場合、
自我が崩壊してしまいます。
ストレスへの耐性が強いというのが、例えば辛いことや悲しいことがあった場合、
それを表に出さずにじっと自分の中にしまっておくという状態だとします。
つまり自分はストレスに強い、精神的に強いという自我を築いているわけですね。
この辛いとか悲しいという感情はどこに行ったのでしょうか?
この感情は無意識に抑圧しています。
精神分析の用語を使えばエスに抑圧するといってますが、こうやって抑圧した
感情は決して消えることはありません。必ず意識上に出てきて自我を脅かします。
昔嫌なことがあって、ずいぶん長いこと忘れてたのにいきなりふと思い出して
嫌な気分になることは誰にもあるでしょう。あれと同じです。
こうやって抑圧された感情は決して消えることはなくただ溜まるだけです。
そして抑圧できるレベルの感情ならいいのですが、もし抑圧できないくらいの
ショックな出来事があったらどうなるのでしょうか?
ダムが決壊するように一気にこの抑圧してた感情が意識上に流れ込んできます。
こうなると自我を安定させることはもう無理です。精神的にはもうズタズタに
なります。つまり自我が崩壊した状態です。
自我が崩壊したらどうなるか?
その自我の崩壊度合いにもよりますが、多くは神経症になるでしょうね。
人によっては欝病や神経症、自殺するかもしれません。
欝病は脳の病気ですのでなる人はなるし、ならない人はならないでしょうね。
遺伝とかありますし。
別に精神的に弱いからこんな状態になるのではありません。
自我のコントロールの仕方を知らなかっただけです。
711:2005/09/14(水) 02:20:14 ID:LM0PuY3h0
じゃあどうすればいいのかといえば、辛いことが悲しいことがあってもこの感情を
抑圧せずに自我に取り入れて、それを受け入れた自我をその都度築いていくのです。
あるがままに受け入れることは相当辛いですが、こうやって新たな自我を築いていけば
そのうち時間が解決してくれて自我が安定してきます。
つまり悲しいことがあったら悲しんだらいいんです。
悲しいことがあっても悲しむことは弱い人間だとかいって、その悲しいという感情を
抑圧するからよけいに苦しむことになるんです。

72名無しさん@一本勝ち:2005/09/14(水) 02:33:36 ID:Ep/LJl/l0
>>71
そろそろ止揚に行きますか?
ひょっとしてクリシュナムルティお読みになった?
73名無しさん@一本勝ち:2005/09/14(水) 14:25:25 ID:Pvh+5a2g0
>>1
気持ちはわかるけど、議論の在り方において君は根本的な部分で間違っている。
誰かが前に書いていたが、自我や精神力の定義を共通認識できなきゃ、
「それは、自分の考える自我とは違います」という不毛な反駁になって双方の見解が進展しない。
精神状態の説明にしても、ある時は半端な医学的視点になったりある時は自分の推測だったりバラバラ杉。
そんで、今度は自然体だろ? その論法を続けたいなら、「自然体の定義を〜〜〜とするならば」を前段につけろ。
これは俺の持論じゃなくて、異流派同士が話し合うときに使われてきた武道板の伝統的手法。
こうしてると「それは私が言う〜〜〜と同じですね」となって無限ループがなくなる。
741:2005/09/14(水) 20:32:35 ID:LM0PuY3h0
>>72
読んでないです。
そう思われたのはたぶん

>あるがままに受け入れること

この部分だと思うのですが、同じ事を言ってる人は他に結構いますので
私はその人の言葉を使っています。
751:2005/09/14(水) 20:50:56 ID:LM0PuY3h0
>>73
自我の定義をこのスレでしろということですか?
はっきりいってそれは無理です。
自我の問題は数行で語れるような問題じゃないので。
簡単な自我の説明は>>2でしましたが、これ以上説明しようとしたら社会についても
説明しないといけないし、かなりの長文になってしまいます。
たぶんそんな長文書いても理解できない部分が出てきますので、さらにその部分を
説明することになって自我の定義について延々を書きつづけないといけなくなります。
761:2005/09/14(水) 21:05:43 ID:LM0PuY3h0
もうだいたい語ったと思うのでそろそろ落とします。
将来精神的にかなりやられた時、自我の安定について思い出していただければ
結構楽になるかもしれませんよ。
精神的に強くならなければならないという誤った認識を改めたら再び道が開けるかも
しれません。
77百目:2005/09/14(水) 23:37:24 ID:ZuZDbI8f0
ぶっちゃけ無駄な時間をすごしたなあと。
大体、最初に書いていた文と>>71は矛盾しまくりだろ。
>>75にしても、要するに自分の中ですら「自我の定義」を曖昧模糊とした抽象的なものでしか
理解できていないから説明できないだけでしょ?
これじゃあ、エヴァンゲリオンの「逃げちゃダメだ」「僕はここにいてもいいんだ」と何一つ変わらないですよ。
781:2005/09/14(水) 23:51:24 ID:LM0PuY3h0
>>77
いったいどこが矛盾してるのか指摘してくれませんか?
それに自我の定義なんていいだしたら一冊の本が書けてしまうほどなのが
何で分からないんですか?
まあ説明しろというなら説明しますよ。

791:2005/09/14(水) 23:53:05 ID:LM0PuY3h0
>>77
あなたは説明できるんですか?
自我の定義を。
それも数行で。
ぜひ説明してくださいよ。
私はどうしてもかなりの長文でしか説明できないですがね。
80百目:2005/09/14(水) 23:53:42 ID:ZuZDbI8f0
>>78
まだいたの?もういいよ。落ちてください。
811:2005/09/14(水) 23:56:05 ID:LM0PuY3h0
自我の説明するなら共同幻想やエスとの関係も説明しなくてはならないでしょ。
私が上の方で色々書いて反論できなくなったら怒ってるんですか?
821:2005/09/14(水) 23:56:57 ID:LM0PuY3h0
>>80
あなたこそもう来ないで下さい。
もう落とします。
もうレスしないでね。
83百目:2005/09/15(木) 00:05:26 ID:ZuZDbI8f0
自我の安定か…
841:2005/09/15(木) 00:10:55 ID:vc/3xAx30
>>83
あなたもしつこいですね。
アニメでもみてたらどうですか?
85百目:2005/09/15(木) 00:23:29 ID:+CpqlX1Y0
>>77に対し10分の間に3つも即レス入れている奴が
精神の安定とか書いても説得力無いよね。
落とすんならさっさと落とすでまずスレ主である自分が消えるべきで
何か書かれてもスルーすればいいじゃない。
スルーも満足にできない上、売り言葉に買い言葉で挑発までしちゃったし>>84

と、寂しがり屋さんに付き合う俺って暇人。
861:2005/09/15(木) 00:37:58 ID:vc/3xAx30
せっかくだから自我の説明をしてから落とします。
まず自我とは自分が自分であることの根拠、つまり自分はこういった
人間だというイメージです。この根拠はどこにあるのか?
それは自分が所属してる集団の共同幻想によって支えられています。
人間は集団を維持するためにはこの共同幻想が必要です。
幻想レベルでしか集団を維持できないのです。
なぜかというと本能レベルで集団をつくる能力がないからです。
動物は本能レベルで集団を作れるのでこんな幻想は必要ありません。
集団を支えている幻想、それは常識であり、文化であり、民族であり、
国家などです。こんなものみんな幻想です。
例えばお金。お金が力をもってるのも皆がお金は力をもっていると
認めているから価値があるのです。だから俺は金持ちだという
自我が築けるのです。もしお金はただの紙切れだとみんなが気付いたら
俺は金持ちだという自我など一瞬で崩壊します。
こういった幻想社会で生きていくためには、自分も自我という幻想の
仮面をつけてこの幻想社会で生活していくしかありません。
例えばこの社会を演劇会場だと思ってください。
そして一人一人の人間が自我という仮面をかぶってこの演劇に参加してます。
ただしこの仮面は自分勝手な仮面をかぶることは出来ず、集団から
認められた仮面しかかぶれません。俺は金持ちだという仮面をかぶるなら
みんなからそう認められて初めてその仮面をかぶることが出来るのです。
そしてそれぞれの人間がその仮面をかぶってそれぞれの仮面に合ったキャラを演じて
いるのです。だからもし自我の支えを失った時、例えば金持ちの人間が
貧乏になった場合、この金持ちだった人間は俺は金持ちだという仮面を
つけることはもうできません。なぜかというとまわりの人間はすでに
この人は金持ちではないとおもっているし、現実に貧乏になってしまって
いるからです。この場合、この金持ちだった人間は俺は金持ちだという
仮面から俺は貧乏だという仮面に付け替える必要があるのです。
そうしないとこの演劇に参加できません。この演劇会場が社会であり、この仮面が自我です。
とりあえずこれが自我と社会との関係です。

871:2005/09/15(木) 00:47:53 ID:vc/3xAx30
これ以上自我について分かりやすく説明するのは無理です。
これでも自我の説明のほんの一部です。
このほかにエスについての説明もしなくてはならないし。
人間の人格って自我とエスから成り立っているのです。
簡単に説明しますが、自我に取り込まれなかった部分がエスです。
こんなものどうやって数行で説明するんでしょうかねぇ。
しかも誰にでもわかりやすい言葉で。
自我の説明してくれといってもしないで下らんこと行って逃げてるし。
百目さん、あなたはもうレスしなくていいですよ。
貴方には大変失望しました。
881:2005/09/15(木) 01:05:37 ID:vc/3xAx30
ああ、なるほどね。
なんでそんなに怒ってるのか疑問だったのですがやっと理解しました。
つまり貴方は悟りとかいってる能力を特別な能力だと思いたいわけね。
だからごく普通の人間にもある能力だとして俺が指摘し、柳川先生の言葉を引用して
それを説明したから、反論できなくなって怒ってるわけね。
89:2005/09/15(木) 01:16:13 ID:vc/3xAx30
荒れてきたのでもしレスされるなら冷静なレスをお願いします。
私も人間ですので、挑発的なレスには挑発的なレスになってしまいがちです。
>>1でも書きましたが真剣に話したいので。
90名無しさん@一本勝ち:2005/09/15(木) 03:31:16 ID:4601HshG0
こちらでも覚りについて話し合われてますよ。
よければお越しください。

道と心と武の地平
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/budou/1123569282/l50
91名無しさん@一本勝ち:2005/09/15(木) 04:39:10 ID:Iz3//ZAR0
自我を支えてるものが幻想なら自我そのものも幻想じゃあないかな。
そうしたら、在るとはって話になっちゃうだろうけど、
92名無しさん@一本勝ち:2005/09/15(木) 05:02:20 ID:pDiT4CHS0
普通の会話の流れでガンダムとかエヴァンゲリオンってw
ただのアニオタじゃん。
どうせただの知識オタだろ。
9373:2005/09/15(木) 05:27:55 ID:6Ewz5KIT0
ありゃりゃ。
「これ以上簡単に説明できない」というのであれば、「それ以上のことを相手に求めるべきでない」と俺は思うよ。
君がやってる空手を、まったく武道や格闘技の文化がない国(あります!)で説明するときどうする?
型を見せて正しく通じるか? 組み手をやって正しく通じるか? 
ある程度のイメージは伝わっても、すべてを正しくは伝えられないだろ?
自我の定義だって同じ。完璧には伝えられない。しかし、議論に必要な「ある程度のイメージ」は伝えられる。
その程度加減をわかってなさそうだから俺はレスを入れた。もし議論に必要な定義付けができないのなら、もうやめればいい。
今のところこのスレで明らかになったのは、自我や精神力をテーマに不特定多数の人と議論する能力が君にはないってことだ。
94名無しさん@一本勝ち:2005/09/15(木) 06:05:58 ID:77PCzcL50
理性と自我は別物だけどな。
欲望に身を任せるのを良しとする人間にも自我はある。

自我は他から与えられるものではなく、他の存在と自己を区別するため
また世界の中で自分の存在位置を確立するために自らが創り出したものだよ。
つまり社会から与えられるものではなく、社会を鏡として自ら創り出すもの。
周りの評価によって自我を崩壊させることもあればさせないこともある。
周りの認識=自我ではない。

また動物には本能で集団を作れ人間に作れないなら狼に育てられた狼少女はどうなる?
鰯の群れと哺乳類の集団でも違いはあるし一括りにしても無理ありすぎ。

というかさ、こんなところで管巻かなくても哲学書と心理学の本をまともに読めよ。
少しだけ囓って得意になってる厨房みたいだぞ。
9572:2005/09/15(木) 11:00:29 ID:zZAznyW80
>自我は他から与えられるものではなく、他の存在と自己を区別するため
>また世界の中で自分の存在位置を確立するために自らが創り出したものだよ。

いやいや、それも片側からみた真実ではあるけれどね。
自我とはめっさ平たく言うと「他の目」が作った反射的イメージだよ。
つまり「他」が存在しないと自我も存在し得ないんだ。
「他」が存在しないと自分が誰だかわからない、その「自分は誰だか」
の部分が自我なんだよ。

つまり「他の目」から作りあげられた当体が自我なんだ。
自意識というものと似ているね。
自意識とは私が考えるに、他の目から作られた自我を自我自身が判断する意識のことだ。
9672:2005/09/15(木) 11:13:24 ID:zZAznyW80
自我の安定というものも1さんが言うように<対立>からは生まれにくいんだよ。
生まれたとしてもそれは<条件>が崩れたときに崩壊する危機をいつも持っている。
これを「苟安」という。一時的安定感だね。

自我の不安定とは内在する異なった自我とのぶつかり合いなんだ。
そのぶつかり合いをやっている限り、優位に立った自我が君臨しとりあえず安定すると
雖も、その<安定した自我>が「他の目」が新たに作り上げた<受け入れにくい自我>に
対峙したときに途端に慌てだすわけだ。

努力あるところ、葛藤は避けられない。

このようなパラダイムを自我が気づき、受容する術を覚えること、これが
1さんの言う「あるがままに受け入れること」であると思うよ。

つまりめっさ簡単に武道板の言葉で言えば、
人はどんなに弱くても、経験に基づく強さを身につけることができると言うが、
しかし、そこには欠かせないルールというものがある。
それは、自分が弱い人間であるということを素直に認めることだ。
弱さを受け入れる強さを持つことだ。
この第一公式を抜きにして、人は絶対に強くはなれない。

というパラドクスがあるわけだと思う。
「あるがままに受け入れること」とは同時に「あるがままからの自由」さえ
発生する。
これについてはコメントしない。長くなりそうだからね。
97名無しさん@一本勝ち:2005/09/15(木) 12:38:45 ID:1LCWnMgS0
>>95
>社会を鏡として自ら創り出すもの。
ちゃんと書いてあるだろ。
それに一人の人間に対し観測者の数だけ自我があるような説明は良くないな。
君が言ってるのは自我ではなく自己認識だよ。認識しようがしまいが自我は存在する。

それから何をもって対立としているのか知らないが、自己と他者の区別が認識出来ない
者に自我は存在しない。自己以外の何者も存在できないことになるからな。
9872:2005/09/15(木) 13:06:24 ID:zZAznyW80
>>97
>君が言ってるのは自我ではなく自己認識だよ。
意味が解らない。どこが自己認識なのか、もう少し説明してくれないか?

>認識しようがしまいが自我は存在する。
言うに及ばす。
99名無しさん@一本勝ち:2005/09/15(木) 18:12:43 ID:drsSF+Va0
この数年武道板に出入りしてるけど、
いきなりアニメのセリフや動きをマジで言い出す奴
はじめて見たよ。
お前本当に武道やってんの?
100百目:2005/09/15(木) 23:52:39 ID:+CpqlX1Y0
100げっと。
どうやら私は怒っているようですね。ぜんぜん知りませんでした。
>>92
アニメは好きですよ。最近のはついていけないですけど。
>>99
マジで書いたのは逆シャアの例えだけ。先読みしながら当てるというわかりやすい例だと思ったんで。
>>86(いないだろうけど)
>まず自我とは自分が自分であることの根拠、つまり自分はこういった人間だというイメージです
それは自己認識と呼ぶのではないですか?
そしてその後の話、人間に自我ができたのは文明ができてからなの?

で、(私の考える)自我とは何か?答えは喜怒哀楽、あるいは善悪。
嬉しければ喜び、むかついたら怒り、悲しくなると哀しみ。楽しいときは楽しい。
自分の都合の良い、自分にプラスになるものは善いもので
自分に都合が悪く、マイナスに作用するものは悪い。
これらは、本能のようだがこれこそが自我の正体であり、人間の理智的な行動の全てを決定している。

そして、これと外部との接触で作られた自己認識、本当の自分である内面の行動の食い違いが
武術を学び、あるいは戦う上で非常にマイナスに作用するのである。
101(・∀・) ◆rSzYpKcjr2 :2005/09/16(金) 03:53:10 ID:FizegRI30
「逃げちゃダメだ」(・∀・)ニヤニヤ
「僕はここにいてもいいんだ」(・∀・)ニヤニヤ
102名無しさん@一本勝ち:2005/09/16(金) 05:55:29 ID:+rRAT/bG0
アニメばっかりみてるからアニメ板と武道板の区別がつかないのだろう。
精神世界にのめり込んだのもアニメがきっかけなんでしょうな。
脳内武道家かっこいい。
103名無しさん@一本勝ち:2005/09/16(金) 10:08:37 ID:lmcMVx/M0
ボクはカンフー映画の見過ぎで精神崩壊状態だょぅ。
104名無しさん@一本勝ち:2005/09/16(金) 12:37:58 ID:PKooc0Js0
俺の友達は漫画拳児を読んで中拳にのめりこみ人生が崩壊したよ。
105名無しさん@一本勝ち:2005/09/16(金) 16:00:45 ID:Nolcq1aD0
10年前のアニメがこの板で通用すると思ってるところが痛いな。

106名無しさん@一本勝ち:2005/09/16(金) 16:51:26 ID:fHJD/ynB0
上の方のレスにあるけど感性に任せるって、どういう意味??
107名無しさん@一本勝ち:2005/09/16(金) 17:35:18 ID:zBI3Dom+0
記念カキコ。

偉大なるエヴァ厨、百目様。








僕はここにいていいですか?









( ´_ゝ`)プッ
108ますくど空手 ◆0lZMhD3OMY :2005/09/16(金) 17:57:13 ID:0a7SuduQ0
1さん。
その柳川さんの本のタイトル教えて。
読みたいです。
109お内裏 ◆0srR6bU0ws :2005/09/16(金) 21:29:13 ID:xIuNjeEX0

       ,,,
      mm
   ,;mmml
   ;mmmmm;
  mmmmmm
  m        m
  m ー 一 m
  |'':    !!   :~|     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
  U',  ー   ,'U    <   覚りとは苦しみの終わりである。  |
    iヽ._ _ . 'i         \_______ _______/
110百目:2005/09/16(金) 22:59:53 ID:KxgRbuGO0
>>102
俺なんかじゃ口が裂けても「のめりこんでいる」なんて言えない。
基本的に不真面目だしどちらかといえば、体を思い切り動かすほうが好きだ。
内功みたいなものは、寝る前に姿勢とか感覚を調整するのと、朝起きてやるタントウぐらいだから全部で1時間ぐらい。
とても、のめりこんでいるとは言えない。
>>107
スレ立てた人が、落とすとか来ていいかどうかを判断するらしいので1に聞いてください。
>>109
武術、格闘技に生かすならそこまでの境地の必要は無いと思う。。
悟りといっても段階があるし、悟って終わりというわけじゃない(一発で悟る、というところもあるらしいが…)。
さらに言えば、悟りは武術の役に立つけど、じゃあ、完全に悟った人がキックや空手の選手の攻撃を見切ったり
できるかというと100%無理だろう。悟りとはそういうものではないからだ。
111名無しさん@一本勝ち:2005/09/16(金) 23:47:44 ID:be+qbq240
>>110
大東流の佐川幸義も悟るだけじゃ意味が無いって言ってんね。
実際に戦いをしないと意味がないと
112百目:2005/09/17(土) 00:03:37 ID:xeb3LhLA0
>>111
佐川先生は悟りとか、座禅とかそういうもの全てを否定してたと思う。
「武術は武術の練習のみで大成できるものであり、禅や瞑想に頼るのはその流派に欠陥があるからだ」
というような文を読んだ記憶がある。
俺は、利用できるものはなんでも取り込めばいい、という考えだし
そういう考えの流派で習っているのでここまで否定するのはどうかと思う。
113名無しさん@一本勝ち:2005/09/17(土) 00:13:05 ID:TfurA4CF0
>>112
確かに。
どうしてそこまで否定するんだろうなぁ?
まぁ禅の修行をしなくても同じような境地にはなれるとは思うが
禅を取り入れたほうが早く成長すると思うし完全に否定するのは
どうかと思うな。
114名無しさん@一本勝ち:2005/09/17(土) 00:23:18 ID:TfurA4CF0
でも考えてみると合気系の流派は禅を修行してる人は少ない気が
するけど逆に剣道は禅を修行する人が多いい気がするなぁ。

山岡鉄舟も誰に言ったか忘れたけど剣だけで、そこまでの境地に
なれるなら禅は必要ないって言ってはいたけど。
115名無しさん@一本勝ち:2005/09/17(土) 02:15:47 ID:Y3spPW5a0
悟りとは自我が自我を見破っていて自我が齎す苦痛をあぼんできている状態である、
と言ってみる昇段テスト。
116名無しさん@一本勝ち:2005/09/17(土) 16:08:03 ID:nsWp0y6/0
1が消えてまともなスレになってきました!
117名無しさん@一本勝ち:2005/09/18(日) 03:02:02 ID:qo1x65Ct0
折角の試金石だったのになぁ…1さんの存在は。
118名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 08:36:16 ID:4gjZv8x70
>>110
>悟りといっても段階があるし、悟って終わりというわけじゃない

「悟り」には段階があるようですが
「覚り」には段階はないようです。

覚りとは
成すべきことを全て成した
心残りの一切消えた境地であり
終わりである
と釈迦は説きました。

>>110
>完全に悟った人がキックや空手の選手の攻撃を見切ったりできるかというと100%無理だろう。

慧能然り
高橋信次師然り
「覚り」を得た諸佛は
一切の攻撃が通じなくなってしまわれてたそうです。
対者が無意識に避けてしまうのかも知れません。
119名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 08:45:40 ID:4gjZv8x70
>>111
>大東流の佐川幸義も悟るだけじゃ意味が無いって言ってんね。

佐川幸義宗範は
「覚り」の実相
およびその素晴らしさを
ご存知なかった
だけでしょう。

佐川幸義宗範を批判するわけではなく
かの「釈迦」が
命を賭され追求された物ですから
おいそれと理解できるものでないのはあたりまえ
と考えます。
120名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 22:06:10 ID:GnLVPcmn0
121名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 22:24:07 ID:M/fZObBa0
>>118
>一切の攻撃が通じなくなってしまわれたそうです

それじゃあ空海だとか歴史で習うような仏教しか修行してない有名な禅僧も
達人並みに強いって事?
122名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 22:32:07 ID:qWI5uLiM0
>>118
お坊さん最強?
123名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 23:03:19 ID:OgD//nN00
>>121
>仏教しか修行してない有名な禅僧も達人並みに強いって事?

武術の達人を以ってしても
害しようとしたら金縛りにかけられてしまい
身動きがとれなくさせられてしまう人
それこそが「覚り」を得た覚者の姿
と知るべきだそうです。

一日に数百kmを走り
数百kgを持ち上げる達人・慧明が
禅の六祖である覚者・慧能を害しようとした時
一切身動きがとれなくなってしまった
と伝わります。
124名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 23:11:52 ID:OgD//nN00
>>121
>空海だとか

>>118
>お坊さん最強?

弘法師も
いわゆる「お坊さん」も
「覚り」までは達されてなかった
と考えてます。

日々を正しい心がけを以って送り
身を清め覚りまで至るのは本当に難しいことと思われ
覚りまでは至らなくても目指して正しく心がけ生きる行為は
武にも大いに資するところがありと考えてます。
125名無しさん@一本勝ち:2005/09/20(火) 23:18:01 ID:M/fZObBa0
>>123
柳生宗矩が沢庵と戦った時も攻撃出来ないで負けを認めたって
言われてるけど、それと一緒って事かな?

でも武道の達人も禅を、ある程度極めてるし倒してやろうて気持ちは
無いと思うし、こういう場合はどうなるんですか?言わゆる「相抜け」
って事になるんですかね??
126名無しさん@一本勝ち:2005/09/25(日) 18:39:52 ID:GKCbZF1h0
age
127名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 00:12:29 ID:lOZBC/9O0
>>125
>柳生宗矩が沢庵と戦った時も攻撃出来ないで負けを認めたって
>言われてるけど、それと一緒って事かな?

ほぼ一緒のこと
と考えてよいのではないでしょうか。
敢えて厳密な分別を書かせて頂けるなら
「覚り」の持つ力は害心持って襲い来る者を相手とした時
身動き一つできなくさせるレベルと言われてはおり
事実「慧能」も「高橋信次」も追手や刺客の腕前や人数にかかわらず
瞬時に金縛りにかけてしまい
かけられた方は前にも後にも一歩も動けなくなってしまったそうではあります。
128名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 00:18:42 ID:lOZBC/9O0
>>126
>でも武道の達人も禅を、ある程度極めてるし倒してやろうて気持ちは
>無いと思うし、こういう場合はどうなるんですか?言わゆる「相抜け」
>って事になるんですかね??

「ある程度」では
相抜けが起こるに至らないのではと想像してます。
倒してやろうという気持ちや争いを求める気持ちが完全に滅却された時
それが「覚りの境地」でありそしてそこへ至って始めて相抜けが起きることになるのではないでしょうか。
129名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 01:30:18 ID:c6KRdmNC0
柳生宗矩が沢庵と戦った事なんてないよ。
二人は親交があっただけ。
130名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 01:40:16 ID:MNdBg/GE0
>>128
よく達人と言われる人の話で禅で無心の心を得ても、その中に、内に
ひめる闘争心が無いと技にならないって話があるけど。これは厳密に
見ると、まだ境地には達してないって事?

剣豪で例を挙げれば塚原卜伝ですかね?一つの太刀は闘争心はありま
すよね
131名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 01:46:53 ID:MNdBg/GE0
>>129
沢庵が将軍家指南役の道場の前で「将軍家指南役と言っても
まだまだ未熟だな」って挑発して宗矩が戦いを挑んだんだよ。
それで負けて手が出せないで禅の重要性を確認して禅の修行を
始めたんだよ。
でも宗矩じゃなくて石舟斉だったかもしれない
132名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 02:16:28 ID:c6KRdmNC0
>>131
小説の読みすぎ。
133名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 08:01:13 ID:lKJOxeo60
>>130
>よく達人と言われる人の話で禅で無心の心を得ても、その中に、内に
>ひめる闘争心が無いと技にならないって話があるけど。これは厳密に
>見ると、まだ境地には達してないって事?

「達人」ひいては「達人中の達人」と呼ばれる域が体現されるには
争いを求めないことによって心が平静になっていながら
同時に消えることなき闘争心が僅かにくすぶる最高度のバランスが要求されるものと想像しております。
塚原卜伝はそのような域を現実に体現された最高の見本(武術家にとって)となる方だったのではないかと思われます。

しかしその更に上が存在し
それが他ならぬ「覚りの境地」なのではないでしょうか。
禅宗の六祖・慧能がそうであったように
24歳で覚られたその瞬間から如何なる武術家を以っても害心ある限り金縛りにかけられてしまう人だったそうです。
134名無しさん@一本勝ち:2005/09/30(金) 21:36:06 ID:mr3G/dIe0
>>132
ひろさちや署の「仏教早わかり百科」に書いてある
135名無しさん@一本勝ち:2005/10/05(水) 00:16:04 ID:0KNhXmqM0
age
136名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 07:45:23 ID:I4pmy/Xm0
他のスレッドでご紹介頂いたHPです。
http://ime.st/www.geocities.jp/srkw_buddha/

HPの題名『覚りの境地』と起草者のHN「SRKWブッダ」にある通り
起草者の「SRKWブッダ様」は苦しみを終わらせ真の覚りを開かれ「ブッダ」となられた人のようです。

どうぞご一読ください。
皆様と一緒に勉強してまいりましょう。
137名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 07:51:12 ID:I4pmy/Xm0
SRKWブッダ様が覚りの境地を簡潔にお述べになった言葉を引用してみます。



覚りの境地は、
いかなる哲学的見解の帰結でも無く、
また人類が作為したいかなる宗教的教義に基づく規範行動でもありません。
勿論、覚りの境地は、本人の単なる思い込みやいろいろな精神障害の結果でもありません。
正法の正しい理解によって自らに顕現する覚りの境地は、如実に体験される虚妄ならざるものであるからです。

覚りの境地とは、
一瞬たりともとぎれることなく体現される常なる安穏であり、
それは一切の継続的努力(いわゆる修行)無しに持続する境地です。
そしてまた、覚りの境地は、本人だけが安穏であるという独りよがりの境地では無く、
未だ覚りの境地に至っていない人々(衆生)を畏れ無き境地にいざない安んじるものでもあるのです。
138名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:05:49 ID:I4pmy/Xm0
昨夜心に残った言葉は
SRKWブッダ様の言葉にありました。
SRKWブッダ様が禅宗の六祖・慧能の著作から引用した言葉です。
転載してみます。(覚者で著作を残されてるのは慧能唯お一人かも知れませんね



【六祖慧能】

中国の禅の六祖・慧能ブッダは、自ら著作した六祖壇教において次のように述べています。

*** 引用(六祖壇教の和訳から)

善知識よ、
われわれの法門は、
昔からずっと無念をおしたてて宗旨とし、無相を主体と為し、無住を根本としている。
無相とはどういうことかというと、無相とは相の中にいて相を離れるのである。
無念とは念じつつしかも念じないのであり、
無住とは人間の本性のありようである。
一瞬一瞬のこころが如何なるものにも依拠しないのであれば、
過去より現在そして未来へと、念は絶えず正しく働いて途切れることはない。
もし一瞬でも正しい念が途切れたら、法身はすぐさま肉身を離れてしまうであろう。
正しいこころの働きは、どんな時もどんな存在に対しても依拠しないことによって成り立っている。
もし一瞬でも何かに依拠して念じるならば、
こころの働きも何かに依拠した物となり、こころは何ものかに束縛された物となってしまう。
どんな存在に対しても依拠しないでいられるのであれば、それこそが束縛のないこころに他ならない。
それゆえ、無住を以て根本と為すのである。
139名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:10:13 ID:I4pmy/Xm0

善知識よ、
外に対して一切の相を離れることを無相というのである。
無相になることさえできれば、われわれの本性は本質的に清浄でいられるのである。
それで、無相が主体だと分かるのである。
また、どんな境界にもこころが汚されぬ様子を無念とよぶ。
それは、自分のこころのうちですべての境界を脱け出ているだけでなく、
あらゆるものに対してそもそも念の起きることがないことをいうのである。
しかし、無念はこころに何も思いうかべないということではない。
つまり、こころのうちから念がすべて締め出されてしまうというのではいけないのである。
もし、こころをそのように閉ざしてしまうならば、
うつせみの別世界に心を追いやってしまうことになるからである。
このことは、道を学ぶものはとくに注意すべきことである。
法{ダルマ}を求めるこころを停止させてはならないのだ。
自分だけ誤っているならまだしもだが、
そのうえ他の人にその過ちをおしつけることがあってはならないからである。
そのような人は、自分を見失って真理を見ないばかりか、さらに経文を非難する愚を犯してしまう。
そのようなことがないように、無念をおしたてて宗旨とするのである。
つまり、自分を見失ったものがさまざまな境界において念を起こし、念ゆえに邪見を起こすに至るから、
あらゆる煩悩と妄念がそこへ現れ出てしまうのである。
しかし、わが法門は無念をおしたてて宗旨とする。
われわれはあらかじめ分別を脱けでていて、念を起こしはしない。
もし念が最初からなければ、無念すらおしたてる必要はないのである。
ところで、無とは何かが無いのであり、念とは何かを念ずることである。
これらは何かと言えば、無とは{名称と形態〔nama-rupa〕にもとづく}二つの相が無いのであり、
念とはありのままの本性{真如}を念ずることをいうのである。
真如なるものが念の主体であり、念は真如の作用に他ならない。
真如なる本性が念を起こすのだから、
見聞覚知の心が働きながら如何なる境界にも汚されず、いつも思いのままでいられるのである。
その様子について、「維摩経」は言っている。
「外にあらゆるものの相を区別しつつ、内には第一義{絶対的な立場}に於いて動じることがない」と。
140名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:14:57 ID:I4pmy/Xm0

善知識よ、
わが法門の坐禅は、
はじめから心を見つめもしなければ、
こころの清浄なことを見守りもせず、また動かぬことをいうのでもない。
もし心を見つめよというのなら、心ははじめから虚妄なるものである。
虚妄なるものは幻のごときものであるから、見つめようがあるまい。
そうかといって、もしこころの清浄なことを見守れというのなら、
われわれの本性はそのようなことをせずともはじめから清浄である。
{こころが汚れて見えるのは}妄念ゆえに真如が覆い隠されているためである。
それゆえ、妄念を離れることさえできれば、本性は清浄であると直ちに分かるのである。
本性がはじめから清浄であることを知らないで、心を起こして清浄なものを見守ろうとするならば、
かえって清浄という妄念を生みだすことになってしまうであろう。
しかして、真実には妄念には{自性としての}根底がないのだから、見守ることの方が妄念であると{わかる人には}わかるのである。
そうとは知らない人は、
清浄には元々形がないのにかえって清浄という形をおしたてて、いろいろと工夫することが手柄であると考えてしまうのだ。
このような考え方をするものは、自分の本性を自らさまたげて、自分の方から清浄に縛られているのである。
本当に動かぬ境地に至った人は、どんな人の過失も目に入ることは無いし、そのようにしていられることが即ち本性の動かぬことの証である。
一方、自分を見失ったものは、自分の身を投じて善き行いを為すことが無いのに、口を開けばすぐに他人の善し悪しを問うて、
まさにそのことによって仏道に自ら背を向けてしまう結果となる。
それゆえ、心を見つめ、こころの清浄を見守るのは、かえって道をさまたげる原因であると言わなければならないのである。
141名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:18:41 ID:I4pmy/Xm0

今、私は君たちに断言しておく。
およそわが法門で、坐禅とは何かと言うなら、この法門では何のさまたげもなく善く行為することを言うのである。
すなわち、外にはあらゆる存在に対して妄念の起こらぬのが坐であり、本性に目覚めて乱れぬのを禅と為すのである。
禅定とは何を言うのかと言えば、
外には{人にけとられるような}如何なる相も出さないのが禅であり、
内にはこころの乱れぬのが定である。
それゆえ、外見にもし何かの相が見えたとしても、
内面に本性の乱れがなければ、こころはもとよりそれ自から清浄であり安定していると考えてよい。
つまり、縁によってさまざまな境界と接触するゆえに心に乱れを生じるのが世の実相であるからだ。
したがって、相を出ることができれば、こころが乱れることなどそもそも無くなるのである。
外に対してあらゆる相を離れている状態がすなわち禅であり、内に心の乱れぬ状態がすなわち定である。
{覚りの境地においては}外は禅、内は定であるから、これを禅定と名づけるのである。
{その境地について}維摩経は言っている。
「{覚れる人はそのとき}即時にカラリと本来のこころに立ち戻ったのだ」と。
また、菩薩戒経(梵網経)に言っている。
「もともと本性清浄でなくてはならぬ」と。
142名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 08:19:46 ID:I4pmy/Xm0

善知識よ、
{覚りの境地を目指す人は}自らの本性それ自体が清浄であることを見るべきである。
自ら修め、自ら完成するのが、本性たる法身そのものであることに気づくべきである。
自ら行ずるのが仏行であり、自ら成り切って、自ら完成するのが仏道に他ならないのである。

*** 引用おわり

注記) { }内は、当サイトの起草者が付与。
143名無しさん@一本勝ち:2005/10/07(金) 10:09:56 ID:fv7gkCYf0
ボクサーや格闘家なんかが言う試合の事を覚えてないけど
戦ってたって言うのは精神面に関しては「覚り」の一歩手前の状態
じゃないんですか?
ただ常日頃から、その様な精神状態って訳では無いですけどね
144名無しさん@一本勝ち:2005/10/11(火) 22:10:28 ID:e4ldLetS0
age
145名無しさん@一本勝ち:2005/10/12(水) 07:53:00 ID:dNMiZz/50
>>143
>精神面に関しては「覚り」の一歩手前の状態じゃないんですか?

同意させて頂きます。
聡明でいらっしゃるのですね。

>常日頃から、その様な精神状態って訳では無いですけど

恒常的にそれが体現し得てる状態
それをこそ(本当の)「覚り」と呼ぶのでしょうね。
146名無しさん@一本勝ち:2005/10/12(水) 23:38:17 ID:cvfzqzuF0
>>145
いつも、いつも的確な意見感謝です。
自分的に精神段階を考えてみたんですが

1、攻撃しようと思った時には勝手に動いている(自我がある中で無意識に
なる一歩手前の段階、いちよう自我がある事は自覚している)

2、無意識で攻防できる精神状態(無意識の中でも闘争本能が
微かにある状態)

3、相抜けと言われる「覚り」の状態

こんな感じですかね??
147名無しさん@一本勝ち:2005/10/17(月) 00:21:47 ID:pGL43KfP0
age
148名無しさん@一本勝ち:2005/10/19(水) 07:41:06 ID:qS7G6S0O0
>>146
同意させて頂きます。
一部のボクサーには2のような体験がしばしば聞かれますね。

最終的には争わない境地が3をつくるものと考えております。
争わない境地こそ無敵というのは矛盾してるかも知れませんがおそらく正しいのではと想像してます。
149名無しさん@一本勝ち:2005/10/22(土) 12:03:58 ID:BRWDVsRK0
前の方にあったけど怒りで我を忘れるって言うのも、ある意味
無心だと思うよ。怒りって時点で意識はあるって考えられるかも
しれないけど何も考えないで攻撃してるわけだから例えば「覚り」の
一歩手前にいる塚原卜伝なんかは、こういう我を忘れた人の攻撃は
対処出来ないと思う
150名無しさん@一本勝ち:2005/10/22(土) 22:27:09 ID:vS2GA2bQ0
>>149
素人が本気でわれを忘れて襲ってきたら名人が負けるって
言ってるわけか?

そんなんなら武術に何の価値があるんだか
151名無しさん@一本勝ち:2005/10/23(日) 13:24:45 ID:fktPJNKH0
>>150
素人じゃなくても格闘家にだって言える事じゃん。
でも理屈で言えばそうなるなぁ
152名無しさん@一本勝ち:2005/10/28(金) 08:14:39 ID:0wNRvwA50

  ∧_∧ クワッ!
 ∩`iWi´∩
 ヽ |m| .ノ
  |. ̄|
  U⌒U
153名無しさん@一本勝ち:2005/10/28(金) 09:36:16 ID:hG4xCsfA0
>>119
なにいってんだかw
そもそも武術と仏教は求めるものが正反対だろ
154名無しさん@一本勝ち:2005/10/30(日) 19:47:30 ID:KYNEzu3+0
>>148
敵がいないから無敵・・・なるほど。
155名無しさん@一本勝ち:2005/10/31(月) 21:14:36 ID:/kcr5Fu30
>>154
その様な境地に達したのは柳生の無刀取り、上泉信綱、伊東一刀斎
針谷夕雲、晩年の武蔵、白井亨くらいか?
156ハンゾー:2005/11/01(火) 01:01:06 ID:kUmR5ZgkO
知りたい事は、やはり自我と精神の明確な定義付けです。議論の根本をしっかりさせましょう。
 そして武板的にこのテーマを語ると、武道の持つ東洋思想が絡んでくると思います。
 1の出したテーマは別に武道に限った事ではありませんし、ならば哲学板にでも行ったほうが良いのではないかと思います。
なぜこのようなテーマについてわざわざ武板で語ろうと思ったのかをまず知りたいですね。
157名無しさん@一本勝ち:2005/11/02(水) 20:34:56 ID:bRK52XbB0
>>156
「自我」を国語辞典で調べますと
「宇宙に存在する他の全てと対立する存在として認めた自分」と書かれてます。

自我を持つことは大事ですが
一切の対立を消す(無くす)ことが「覚り」であると言われます。

よく「宇宙と一体になる」と言われるのを耳にします。
その本質は「宇宙に存在する他の全て(森羅万象)と対立しないこと」と定義できるのでしょうね。

肉体的にも対立が減れば他者の体に対立が生まれてくれて
たとえば攻撃してくる相手の体が泳いでしまったりはよく経験します。(どこまでも高度な体現はまだですが
158名無しさん@一本勝ち:2005/11/02(水) 20:39:59 ID:H7VSnpwU0
般  羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観  摩
若  諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自  訶
心  羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在  般
経  諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩  若
      呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩  波
   波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行  羅
   羅   真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深  蜜
   羯   実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般  多
   提   不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若  心
        虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波  経
   波   故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
   羅   説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
   僧   般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
   羯   若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
   諦   波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
        羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
   菩   蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
   提
   薩
   婆
   訶
159名無しさん@一本勝ち:2005/11/06(日) 23:52:18 ID:xMOa9acz0
>>157
面白いです!
もっと何か書いてください。
160名無しさん@一本勝ち:2005/11/07(月) 11:40:18 ID:QIRHwg5N0
>>157 よく「宇宙と一体になる」と言われるのを耳にします。

屁理屈の言葉つなぎをダジャレのように弄んでるだけ。
紙切れを眺めていても妄想が膨らむのみ。

広く世界に知識を求めた後に
万機公論に決すベキ。
161名無しさん@一本勝ち:2005/11/07(月) 11:43:28 ID:PuwxTqwB0
つべこべ言わずに、座禅でも 立禅でも ヨガでも 呼吸法でも 
やってみたらいいんですよ!
162名無しさん@一本勝ち:2005/11/08(火) 22:15:39 ID:J9NdTJCn0
>>158
経のコレクターになること
経のコレクターであることにも意味はありますが
覚りを求めることに於いて経の持つ意義は
「その中(経の中)に存在する正法に気がつけること」に他ならないそうです。

たとえば
金剛経の正法は以下の箇所(漢字にして僅か8文字)になるそうです。

応無処住而生其心(まさに住するところ無くしてしかもその心を生ず)

また
法華経の正法は以下の箇所(漢字にして僅か16文字)になるそうです。

諸佛世尊唯以一大事因縁故出現於世(諸仏世尊はただ一大事因縁のみによって世に出現したまう)

経は「転じるべき物」であってそれ(経)に転じられるべきではなく
何某かの気づきを求めることなくコレクターになることは転じられる姿に陥ることですから気をつけたほうがよいでしょう。
163名無しさん@一本勝ち:2005/11/08(火) 22:25:32 ID:J9NdTJCn0
>>161
他のスレッドで
呼吸法や坐法を熱心に奨めていた方を見ましたが
著しく呼吸器が悪かったり或いは脚が悪かったりする方のことを酌まなければならないと思います。
誰にでもできることはただひとつ
「心がけること」に他ならないと思うのです。(他のスレッドの方の陰口ではありません
164名無しさん@一本勝ち:2005/11/08(火) 23:15:56 ID:Z7u3gPYv0
「心がけること」だけでは効果が無いから色々な修行法が生まれた。
心を心がけるという事はその時点で矛盾となる。
165名無しさん@一本勝ち:2005/11/10(木) 01:04:07 ID:QfBy9p7X0
166名無しさん@一本勝ち:2005/11/12(土) 04:41:20 ID:ECcky60J0
167名無しさん@一本勝ち:2005/11/15(火) 20:41:59 ID:l/JFDVNy0
>>164
様々な修行法を否定する立場ではありませんが
心の「コリ」を取り除かないと体のコリもとれませんで
結果(武術修行を含め)何を参究するにも究境へは行けないものと考えております。
言葉で洒落てみますと「心のコリ」は「心残り」となりそしてそれはいわゆる再生の因を生むこととなるのかも知れません。
168名無しさん@一本勝ち:2005/11/16(水) 06:30:49 ID:LvhgNwij0
296 :名無しさん@一本勝ち :2005/10/16(日) 23:26:36 ID:uV4VlTXT0
いきがってる奴は本当は気が弱い


297 :名無しさん@一本勝ち :2005/10/16(日) 23:28:29 ID:h2f3oJ+K0
>>295
正解
>>296
正解


298 :名無しさん@一本勝ち :2005/10/22(土) 06:36:21 ID:2606LZon0
そうだね。幼稚園児相手にいきがるやつはいないよね。
本当は相手が怖いからいきがるんだね。

169名無しさん@一本勝ち
301 :名無しさん@一本勝ち :2005/11/01(火) 09:27:03 ID:b1eJ9fQF0
>>299
気が強い、弱いと実戦(ケンカではない)は無関係。
冷静な判断を持たずに突っ込むと命取り。罠があるかもしれないし、複数が
待ってるかも知れない。
>>300
「しっかり自分の中に意識があり 常に自分を見ている状態にあり......」
これは当然のようで実は難しいかも。一つの極意ですね。
自分の意識が怒りや恐怖でふっとんでしまえば相手のペースに巻き込まれるだけで
不利になります。冷静に自分の状況を把握していればいくらでも逃げられる機会が
あるということが多いです。だから、気が強い、弱いどちらも過不足。
気が弱ければ行動できず、気が強すぎれば判断を誤る。
丁度いい状態でベストの選択をする事。
また、常に自分を見ている状態が作れれば技術の上達も早いものです。