少林寺が弱いと言われるのは仕方ない第21章

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4(^○^) ◆KYAHA/emlo
「海行かば」について

 「海行かば」の出典のひとつは、続日本紀(*)である。
 天平勝宝元年(西暦749年)の春、聖武天皇が奈良・東大寺に行幸あそばされた際に、
中務(なかつかさ)省の長官であつた石上朝臣乙麻呂(いそのかみ・あそん・おとまろ)が儀式の席上で、
天皇への忠誠の厚い大伴宿禰(すくね)・佐伯宿禰の両名を天皇がおほめあそばされてゐるといふ趣旨で、
両名の先祖を賞賛、両名を激励するときに伝へたことばとされる。
 もうひとつの出典は万葉集である。
 万葉集4094番には、上の様子が長歌のかたちで収められてゐる。
 ただし最後の句は、続日本紀では、
 長閑には 死なじ (のどには死なじ)
 となってをり、
 万葉集では、
 かへりみはせじ
となつてゐる。
 大東亜戦争中によく歌はれ、戦後は神風特別攻撃隊のフィルムなどで背景に流れる曲は、
信時潔作曲のものであり、歌詞は万葉集の方を採用してゐる。