もちろん推手から脱線して、お互いに技を見せ合ったり
関係の無い話に花を咲かせたりすることもしばしばであることは否定しません。
しかしそれは間が持たないからやっている、のではありません。
結局推手を推手だけのものとしてやっていたら、
「これが一体打撃や自由攻防と何の関係があるんだ?」
という疑問を残してしまいます。
そうすると推手の目的が「一歩でも動いたら負け」とか
単なる力比べにしかならなくなり、それはそれで追求する価値が無くは無いのですが、
推手のごく一部の面しか舐めずに終わってしまうことになります。
推手は流派によってやり方も段階練習の仕方もその時々の目的にも差が見られます。
お互いにそれを学び会うことによって、理解を深め、あるいは
自派の特徴や成り立ちや長所を再認識、あるいは自分の未熟を悟ることができます。
出来た出来ないという結果や示威行為だけではそんなに楽しめるとは思いません。
346 :
断 ◆kQaEe3ePcc :04/11/12 07:18:33 ID:4vbeFcz4
>猫ださん
むろん愛機アゲOFF参加者も個々がOFFを楽しくしよう
より多く持って帰ろうと言う姿勢がありましたよ
だからこそ、その思いに十分に答えられるように準備ができたか
疑問符がついてしまう自分自身の幹事のやり方に反省点が有るのです
特に今回の場合、経験者が非常に少なく、愛機アゲについて丁寧に教えるゆとりがありませんでした
このあたりは完全に私の能力不足と、愛機経験者と初心者の比率が大きかったからせいです
最初からやる気のない人が飽きたとかつまらないと言うのはどうでも良いのですが
やる気の有る人にはよりやる気が出せるように、仮にこちらの体制(経験者人数他)が不十分であったとしても
参加者に合い気アゲを楽しんでもらえるようにしたいので
OFFの司会進行・幹事という考え方がでてくるのです
もうちょっと経験者人数が多いか、私に能力があればよかったのですがね
346断さん
よくわかりました。是非今回の反省を次回に生かしてくださいね。
やはりネットでの発言・反省あってこそのオフだと思います。
でなきゃ最初からオフ専用板でそれこそ誰かが「主催」すればいいのですから(笑
もう少し推手について書きますと…
推手以外の対練や用法など技を見せ合うことで、推手の意義を理解し、
もう一度推手に取り組んでみようという気持ちも起きるというものです。
推手は歴史上、自由散打や約束組手などよりさらに後に登場した鍛錬方法です。
つまり基礎・基本の練習に所属します。
さらに片手で行う「単推手」はその成分を取り出したものであります。
例えば「書」の世界に於いては、現代では通常
楷書→行書→草書
の順番に習うけれども、実際の歴史上の事実としては
草書→行書→楷書
という順番でこの世に誕生したのです。
「永」字八法「はね・はらい・とめ…」という基本技法を練習することが
やがて達筆な草書にいたる道とされています。
しかし、楷書から練習すると良いという段階練習方法は初心者が生み出したのではなく、
草書・行書に精通した達人、「先生」が生み出したのです。
これに習うことが「習字」であります。そして先人の書を味わい、自分もたしなむことが「書道の稽古」です。
単推手は「はらい」技法ひとつに相当するものでしかなく、
たまには「永」という一つの意味を成し、あらゆる要素を含む完成形を見ることも勉強です。
そしてもういちど「はらい」に専念して鍛錬してみる。
私の場合は推手そのものの技術解説よりも、こうした認識への理解を前面に押し出しています。
348 :
猫だニャン ◆lKnekodaJo :04/11/12 07:42:58 ID:twv44ZXJ
私は門外漢なのでまだ解りませんが、
「合氣上げ」やそれに類するものは、
大東流や合気道における「はね・はらい…」とは違うのでしょうか?
いや、
「筆を正しく持ち、墨をたっぷりと含ませ、半紙に向かう」
というような「字が書ける大前提」の部分を体得するものでしょうか?
いずれにせよ、
これをつまらなくなく、飽きることなくオフの題材にすることは
工夫次第で充分実現できるのではないかと、
門外漢ではありますが、想像しています。
これは
先日、武田先生に大東流を数年習いながら、
砂泊先生の所に2週間お邪魔して、毎日3回の稽古に出席して習ったという人に
実際に技をかけてもらった上での感想です。
なお、オフの楽しみにとっておくために、
習うというほどのところまでやりませんでしたが(笑
では失礼します。