骨法とは書道などでも使用されるように、物事の本質/法則性を
表現する一般名詞であり、「料理のコツ」とか言う場合の「コツ」は
漢字で書けば「骨」ですから、過去の書物などに頻出するのは当然。
ただ、骨法と言う流派は確かに存在する。有名な所では、初見氏の
虎倒流骨法術など。この場合は、骨法を「体術」に近い意味で使用
している。他にも玉虎流骨指術など「骨法」または「骨指術」を名
乗る流派は複数存在する。ただし、流派の発祥を文献的にさかのぼ
れるのは江戸時代が限度であり、奈良時代に発祥を持つ武術である
とするのは、確認できない。ちなみに、日本では打撃系の武術があ
まり発達しなかったのは事実であるが、柳生心眼流や諸賞流和術な
ど、打撃主体の武術がないわけではない。
堀辺師範自体は、江戸時代に書かれたと称する「骨法由来記」なる、
江戸時代に書かれたと言う書物を公開しているが、元々古流武術や
中国武術を修行する人間には、知識オタク・歴史オタク的な側面が
多々あり、この書物自体も堀部師範の捏造、偽書とする意見もある。
素人にそんな偽書、作れるのか?という意見もあるだろうが、和田
喜八郎氏による「東日流外三郡誌」のように、ある程度の知識と情
熱があれば、大学の教授も騙せるような偽書の制作は可能であり、
「骨法由来記」は現在まで専門家の検証は受けていない。もっとも
後に自著で、骨法の由来は幕末の尊王攘夷運動の総本山であった水
戸学派の人間が、創作したのではないかとの説を述べている。
次に堀辺師範について。
本人は東条英機のボディガードを勤めた(特別高等警察の人間だっ
た?)父親より、一子相伝の骨法を伝授されたと著書で語っているが、
実際に堀辺家にそのような家伝の武術が存在したかどうかは、水戸の
堀辺家周辺からの情報が不足しているため、断定はできない(水戸在
住の方の協力をお願いします)。
ただ「喧嘩芸骨法」などで公開されている堀辺師範の幼少時代の写
真を見ると、拳ダコができるぐらい何らかの武術を修行していたのは
事実である。叔父に古流武術を修めた人物がいるらしく、この叔父か
ら何らかの骨法・骨指術の流派を修行した可能性は否定できない(こ
の叔父の存在の正否も、詳しい方の情報希望)。
堀辺師範自体は、著書で剣道七段と自称されている以外は、大東流
合気柔術の佐川師範の元で短気講習を受けたとの話がある程度。だが、
堀辺師範はかつて武田流合気道の中村派に在籍していたとの証言や、
浅山一伝流を学んだと自称していたとの証言もある。また、肩書きに
「中華民国国術会顧問」とあり、台湾で中国武術を修行した(期間は不
明)のは確からしい。
骨法に至るまでの変遷
台湾での修行のせいか、初期は「少林鷹爪拳」または「鷹爪の術」
と称する武術を伝授していたようである。それがある時期から、
「換骨拳」という、新羅三郎(源頼光。八幡太郎・源義家の弟。大東
流合気柔術も始祖を新羅三郎とする)に始まる日本古来からの武術の
継承者であると言い出す。ちなみにこの時は「換骨拳第四十代宗家・
堀辺一夢」と名乗っている。正史が字、一夢が諱である。
なお、後に骨法司家の継承者であり、家伝の骨法を実戦に合わせて
改変し「喧嘩芸 骨法」の創始師範であると言い出した時は、司家骨
法宗家代五十二代と自称している。骨法の始祖を平安時代の大伴古麻
呂に置いた関係上、増えたのだろうか?
換骨拳を始めた折、堀辺師範は佐川師範の大東流合気柔術の道場で
知り合った吉丸貞雄氏の協力を得ているようである。堀辺師範が道場
主、吉丸貞雄氏が実際の教授と言った形だったようである。換骨拳に
関しては、吉丸貞雄氏が執筆したとされる著作(非売品)があり、こ
こでは換骨拳が大東流の源流であるとの説が書かれている。ここらへ
んは、八光流の奥山師範が「大武田(武田惣角)に勝った」とホラを
吹いたのと同様、自分が剽窃した元ネタより、自分を上位に置こうと
いう意図が見えて、苦笑する。
ちなみに吉丸貞雄氏は大東流の教程十元の内八元まで、堀辺師範は
三元までを修得した時点で佐川師範の元を去ったようであり、この前
後の事情は「透明な力」の中に、サラリと触れられている。
吉丸貞雄氏と堀辺師範の両者が、どのような理由で袂を分かったか
は詳らかではないが、両者が自分の著書(吉丸貞雄氏は吉丸慶雪の名
前で合気の解説書などを執筆)で相手の事を他人事のように語ってい
るのが可笑しい。
徹(とおし)について
骨法の奥義と言われる徹は、中国武術の発勁と同じ技と思われる。
骨法の喧嘩芸時代の主要な技術であった「掌握」は、ブルース・リー
の創始したジークンドーの「チーサオ」と呼ばれる、相手の腕に自分
の腕を粘りつくように絡めて相手の打撃をそらして無力化する技術に
酷似している。ブルース・リーはよく「ワンインチ・パンチ」と言う
極至近距離からのパンチをデモンストレートしていたが、これが発勁
のなかの寸勁と呼ばれる技であるのは疑いない。堀辺師範の初期の弟
子に、ジークンドーを修めた人間がおり、この人間経由の技術移植で
あるとも言われるが、詳細は不明。
堀辺師範の徹の連続分解写真を見ると、徹を放った直後の縦券が、
小指側に大きく屈曲しているのが、わかる。ジークンド−のワンイン
チ・パンチの打ち方は、相手の身体に対して垂直に打ち込むのではな
く、いったん地面側へ弧を描くように打ち込み、打ち込んだ直後に今
度は上方に跳ね上げる動きを加える。横から見た場合、ちょうど波形
(蛇の蛇行でも可)の軌道を描く。この時の打ち込む手首の動きが、
大東流合気柔術の「合気下げ」「合気揚げ」を連続したときの動きに
酷似している。
発勁自体は、決して特殊な技術ではなく、下半身の捻りを縦拳に乗
せて打ち込む技術をきちんと修練すれば、修得可能な技であり、通常
の打撃より格段に威力が大きい訳ではない(力積と持続時間が長く、
振動の波長が縦揺れのため、液体でも振動が伝わりやすく、固体の防
具による減圧効果が薄いと言う利点はある)。
堀辺師範自体は、骨法の歴史に関しては、奈良時代から歴史云々に
関しては否定しているが、徹の存在に関しては、明確に肯定も否定も
していない。ただ、個人的な感想としては、ワンインチ・パンチに似
た技を堀辺師範は使えるだろうし、それが大伴古麻呂の幻の技ではな
いにしても、それを堀辺師範が「徹」と命名しても、一概にインチキ
とは言えないだろう。ただ、それが一撃必殺の超絶技であるとするの
は、誇大宣伝だろう。ジャブでもKOできるときはできるし、渾身の
一撃でも、当たり所が良ければ効かない、それだけである。同じく発
勁を使える蘇東成師範も、それ自体が絶対的な極め技になるとは言っ
てないし、発勁の本場の中国、台湾でも散打の試合で発勁が決まって
相手が吹っ飛ばされて悶死したという話は、寡聞にして聞かない。