「武産合気」探求マジスレ!

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武術は、そのような考え方から、様々なアプローチがある。目的があって武術が生まれる。
人殺しあるいは、人守りの為という目的があって、武術が生まれる。もし人を殺す必要もなく、
守る必要もない世の中では武術は生まれようがない。今の世の中で、何故、武術が残っているのか
といえば、武術という真剣な戦いの場で通用するであろう身体操作の技術体系は、現代にとっても、
有効であるということに尽きる。

真剣な戦いの場というのは、まさに我々の人生の事で、生死に密着しているし、今という瞬間にも
生かせる。つまり、即実践可能な汎用性のある人間修業・学問と言える。極限状態で戦う方法は、
極限状態以下の状態でも使える。制限された場所で通用する方法は、制限を越えた環境では、通用する
かどうかは解らない。このようなシンプルな筋道で理解できるだろう。

そして、真剣な戦いの場を、修羅場というならば、現代は平和である。即、命と引き替えに選択を
迫られる状況は、無いとは言えないが、頻繁にあるとも言い難い。そんな中で、武術鍛錬が
軟弱になるのは、致し方ない。軟弱はすなわち時代の象徴だろう。しかし、今は軟弱から、
真剣な戦いの場の想定まで、幅広く様々な場を探す事ができる豊かな社会がある。

続く

同時に、我々自身自分も我々自身の修羅場の想定にふさわしい場所を選択して、そこで稽古している。
今の道場、体系に不満があるなら、別の環境も用意されている。合氣道が仮に不満なら、
別の武道に行けば良い。合氣道こそ素晴らしいのならそこにとどまればよい。
さらに、合氣道の中にも様々なスタイルがある。そして、個人の修羅場の想定の選択により
スタイルも選択される。

極論を申し上げるならば、合氣道を修業するもので、合氣道に不満をもつのはおかしい。
自分の選択を信じられないということは、すなわち自分が信じられないということであり、
自信が無いという事になる。これを勝敗に当てはめるならば、敵に注文を付けるということで
あるし、環境により自分が左右されるという宣言をすることになる。

真実は、調和であり、環境と自分の選択はイコールだろう。自分にとって、正しく選択し、
正しく鍛錬するならば、その選択はいかなるものであっても、自分にとって間違いはありえない。
そういう意味で、段階として各自の選択に応じた武道を行う事がベストであり、現在稽古している
武道に不満が存在するならば、まだその武道と調和していないか、すでにその武道体系の目指す
境地を越えているか、あるいは、その武道に触れる前段階であるという自覚が必要なのかもしれない。

では失敬。
518【鍛錬と感動そして愉快-1-】:03/11/24 23:15 ID:llva7vPJ

このところ、発言者の諸君がいらっしゃるので、私のエッセイを書くのが
少々心苦しいのですが、まあ、一日おいてのエッセイなので、お許し下さい。

私は極から今を語ってしまうので、少々世間ずれがひどい事は自覚しております。
そういう意味で、反面教師として頂けると幸いだと思います。同時に、私が
ここで、エッセイする事は、私自身を知る事でもありますし、私の観察する
世界を表す事にもなります。つまり、私は著者であり、読者です。

人は、私をオナニストだとか引きこもりだとか言いますが、
その通りです。どよのうにも見えます。

さて、今日は、態度、自覚に関する事を、私自身を戒めると同時に、
私の考える愉快という所まで、帰結させたいと考えて、エッセイします。

続く
519【鍛錬と感動そして愉快-2-】:03/11/24 23:17 ID:llva7vPJ

武産合気とは、自己探求の結果の到達点(無限の)であり、芸術と同様、
限りがないものだと私は考えます。この考えは広くとらえれば、全ての
人間活動に言える事でありましょう。

人間活動の本質は、自己超越であり、生命活動の原則と不一致するべくもなく、
自己超越を我々は「感動」と呼び、感情から「感動」を解釈できます。
感覚からは、「感動」を身震いとか、胸が熱くとか、腹の底から…とか感じます。
思考からは、「感動」を気づきとか、なるほど!とか悟ったとか解釈します。
やってる事は、自己超越の快楽です。美しい生命共通の言葉でいえば、
生命の息吹とでもいいますか。

自己超越の快楽は、生きている者、すなわち様々な形態の生命が、様々な形で、
感じている、証みたいなもので、生きる事の脈動、鼓動は常に、我々の今に
宿っている訳で、生きる事に敏感であれば、そのように感じるのは理にかなってます。

大人になると、頭が良くなってというか、思考を必要以上に使って、シュミレーションを
します。予測できるはずもない世界にまで、そのシュミレーションを行います。
そのシュミレーションは、過去と未来そして今という場所以外の場所に向けて行われます。

続く
520【鍛錬と感動そして愉快-3-】:03/11/24 23:18 ID:llva7vPJ

問題は、シュミレーションの精度と使用用途に問題があると言えると考えます。
私がナイフをもった相手と対等したとき、シュミレーションできるのは、
その対等した瞬間の後、生き残った場合に限り、過去をシュミレーションして
思い出す事ができます。

しかし、ナイフを持った相手にシュミレーションして未来の勝ちを予測は出来ません。
出来ることをするだけです。もし頼るという表現が当たっているとするならば、
頼るものは、思考ではなく、直観ということになりましょう。そして意識のレベルの
話をするならば、無意識ということになりましょう。但し、無意識を意識できるように
なることが武道の目指す意識ではありますが。便宜上無意識を用いたということです。

ここで、問題となるのは、明らかに私に有利で、勝ちが間違い無いという場合も、
シュミレーションは不要であると言うことです。何故ならば、先のナイフの例は、
全力を尽くす、必要な事をする。という一点で事を行うと言うところに確信があり、

某ショップのマニュアル対応のごとく、殺意のある相手をシュミレーション
すなわち自分のマニュアルで処理してよいのか?という問題です。
これは微妙なニュアンスで、思考を介入することが悪いというのではなく、
自らこしらえた制限(思考)に縛られた対応では全力を出しきっていないという
事を示唆したい訳です。

続く
521【鍛錬と感動そして愉快-4-】:03/11/24 23:18 ID:llva7vPJ

別の例として、目の前に居る、気に入った女性と、近づきたい時、シュミレーションは
不要でしょう。声をかければよいです。もっと言うなら、つき合っている女性が
たまらなく、愛おしい瞬間に出会ったなら、「愛している」とささやけばよいでしょう。
心身統一、知行合一、言行一致、無念無想というのは、遠くにあるのではなく、
今、ここにある意識の持ち方で、訓練せずとも、本来はすれば良いだけでしょう。

武術、武道は、殺人技、この言葉に神経質であれば、心的、肉体的ダメージを敵に
与え、敵を制するという一面的とらえ方で、少々筋道を立てて考えてみます。

これは、敵に適応するという考え方で、鍛錬するものは、身につけてゆく能力ですが、
これを自分に向けるならば、自分の内面にある心的、肉体的な敵を制する事もできると
いうことになります。自分の心に入り身できるならば、人の心にも入り身できる。
人の力を転換できるならば、自分の力も転換できる。つまり、心に置き換えるならば、
自分のマイナスの情熱を転換によってプラスに転じる事もできるということは、
実践家であれば、明らかな事でしょう。

続く
522【鍛錬と感動そして愉快-5-】:03/11/24 23:20 ID:llva7vPJ

最高の憎しみ持ちは、最高の愛情深さを持つ者だし、最高の怒りんぼは、
最高の悲しみがりやだし、叱りんぼは、優しい者だし、落ち込み屋が転じれば、
探求屋になる。いばりんぼさんは、寂しがりやだし、一面的とらえ方でのみ、
つまり二元論でとらえるかぎり、どのようにも観えるが、人の性質の特性であり、
情熱の質の違いに過ぎない。

情熱というのも、もっとも原初に「愛」という情熱があるならば、その波及の形態だろう。
感動というものは、「愛」の一つの原初の感情の感じ方だと考える。だから、自己超越と
愛と、感動等はまったく同じものだというのが私の考えだ。

入り身と転換は、心身鍛練であるならば、様々に応用が利くのは、当然の帰結でしょう。
但し、魂主体で鍛錬するならばという前提(実践)なくして不可能だろう。
魂主体というのは、身体と心を観察できる状態の事で、観察意識とでもいうのが適当
ですし、一般の人が無意識として扱う深い意識で、鍛錬するという事になりましょう。

合氣道でいう、あるいは武道で言う馴れ合いでなく、真剣というのは、このような
意識の持ち方で練習、稽古を行うということで、嫌だとか、恥ずかしいとか、
怒れるとか、感情と同化するのではなく、感情すら観察する意識で鍛錬がなりたつ。
別に武道でなくとも、禅でもヨガでも祈りでも、日常生活ですら同じだろう。
できるか、できないかは、我々個々の問題となる。

続く
523【鍛錬と感動そして愉快-完-】:03/11/24 23:21 ID:llva7vPJ

つまり、2chでやっているような、「何ちゃら(笑)」とか、部分に反応するような
対応を道場に持ち込み、鍛錬は成り立たないということです。また、それが許される
道場は主流であるとは思えません。まあ、2chでは、許されても、道場では許されない
でしょう。私は、個人のお好きなように…。という立場で自由は尊重します。

しかし、武道というものは、一瞬で、無我、無念無想、言行一致になれる事であり、
本来は、常にそこに居る必要があるという建前があります。
建前と表現したのは、今の社会の思考習慣に対する配慮です。前提あるいは、
そうである。としたいところです。

そのように、我々は鍛錬してゆくのだと考えます。同時に自己超越がセットで
起こるでしょう。そしてそれは同時に感動であり、開祖の言う、愉快にというのは、
そういう愉快であると私はとらえます。「ガハハハッ!」ってやつで、
当たり障り無い、「ウフフフッ!」という愉快とは違うと考えます。
では失敬。
524【合氣道は減算主義-1-】幼児:03/11/26 23:49 ID:CjlnOU4P

今日は、合氣道に関して、思う事ままに書こうと思う。
常に気づきはあるのだが、あえて言葉に出さない事も沢山あるので、
ちょっと、そんな事を書こうと思う。思うままに書くと何処かに
飛んでいくだろうが、まあ、許してください。

まず、一教から四教までの、解釈の一つとして、私の考えは、自分を
中心とした世界の特性を感じる事ができるということです。
一教は、前進感覚。二教は、下降感覚。三教は、上昇感覚。四教は、中心感覚。
これで、球体ができる。それに転換という渦が加わる。五教は、後退感覚でしょうか。

これで、前後、左右、上下そして転換をすることにより立体的な球体の力学の
感覚が学べる。四教は、その中心に自分が入る。心では、押す。突き上げる。
突き下げる。入る。開く。こんな動作の基本が一教〜五教まで繰り返し鍛錬できる。
個人的には三教が好きです。

続く
525【合氣道は減算主義-2-】幼児:03/11/26 23:50 ID:CjlnOU4P

体の転換も好きですが、これは、丹田と丹田がぶつかるような相性というか、
鍛錬のポイントを絞った稽古相手であると、おなかが気持ちよいです。
諸手取り呼吸上げも、同様です。やはり体の転換と諸手取り呼吸上げは、
誤魔化しが自覚しやすいので、鍛錬の計りになってます。

話は転換しますが、最近思う事と言えば、世間は加点主義・前進主義・進歩主義が
盛んなようです。つまり、稽古すれば、どんどん上手くなるという考え方が支配的です。
人間は様々な積み重ねで、成長できるのだという考え方が根底にあるからこそ、
人は頑張って成長し、幸せになるのだという考え方ですね。

このようなアプローチもあります。禊ぎ(みそぎ…清め、汚れを洗い流す)的な
アプローチです。つまり成長という言葉の意味が、純粋という言葉に
転換され、結果的に純粋の彼方には、本性という地点にたどり着くと言うことに
なり、自己発見の地点を目指す事となります。これは何も足しません。むしろ
加点主義から言えば減算主義となります。

自己発見と自己創造は同じ事で、自分の可能性の発見。自分の素晴らしさの実感と
言えましょう。本当の自分に出会う。あるいは、目覚めるという地点を指します。

続く
526【合氣道は減算主義-3-】幼児:03/11/26 23:51 ID:CjlnOU4P

禊ぎという概念を実践してゆくことは、自分は汚れているという前提があります。
これを合氣道に置き換えると。合氣道の究極は、宇宙と同化。自然との同化。
神との合一。調和。和合。全て同じ事を言うのですが、それを合氣道の極点に
置くならば、合氣道の心身操作は既に、我々自身が知っており、邪魔しているのは、
自分の持っている汚れである。と言うことができます。

すると、合氣道は稽古して到達するものではなく。汚れを手放すと同時に、
稽古、鍛錬することにより、自らを禊いで、邪魔なものをとっぱらえば、
最終的に、武産合気の境地をかいま見る事となるという事になります。

これは、修練者の心の持ち方の問題で、稽古・成長・鍛錬のとらえ方の問題となります。
同時に、合氣道のアプローチの前提の問題になってきます。開祖の言う禊ぎという言葉
を我々自身の内で合氣道に結びつけて消化するには、前進主義では不可能です。
前進主義で行ったとしても先に、転換場所は必ず在ると言うことです。

続く
527【合氣道は減算主義-4-】幼児:03/11/26 23:52 ID:CjlnOU4P

世間の思考習慣とはまったく違った次元のアプローチが、合氣道に関わる実践内容に
関係しているように思います。このアプローチは最初から知り、合氣道の素晴らしさに
出会う人もいれば、稽古を通じて発見してゆく人もおり。だいたい初段で、どのアプローチ
で合氣道に触れた人でも、同じような地点に立つようです。(私の観てきた範囲)

つまり、初段で去る人、初段から始まる人という、まさに初段が壁となっている
ようです。

基本的に、このアプローチは、不思議というものを実技で表現してゆくスタイルで、
不思議を不思議のまま実技に還元するという事実主義です。
気とは、こうだ。と現時点の偽り無き実技できる地点を求めるアプローチであり、
抽象的を実技とし、抽象的を無理に具体的にするものでもなく、実技という
この世の、共通する現象として表す事を良しとします。つまりオカルトと言われる
ものの消滅を指すということに尽きます。

続く
528【合氣道は減算主義-5-】幼児:03/11/26 23:52 ID:CjlnOU4P

この世にオカルト、神秘主義なるものは、本来なく。全て事実というアプローチです。
合氣道が真実を告げるもので、その答が、人即宇宙であるならば、人が創ったもの全て
真実であるという事になります。否定のしようがないということにならざるをえない。

もし、それを否定するならば、開祖の言う、我即宇宙を否定しなくてはならない。
否定せずとも、開祖は例外であるという考えを持ち込まなくてはならない。
(例外というのも宇宙であるから…。などと言わないで欲しい)
そうなってくると、全ては「在る」のであって、在ると思えないのは、誰だという事に
なり、それは、我々自身の汚れを指すという所に帰着する。

このように、様々に考えを巡らせると、結局、世間の思考習慣とは別のアプローチが
真実であると言わざるを得なく、そして、その秩序を見つける。すなわち会得、体得、
自覚するのは、合氣道は、比較的、発見しやすい体系であると実感は得ている。
もちろん合氣道のみが、「在る」という一点を理解する道であるとは思えないが、
実践無くしてできないものは、少ないし、魔境(思いこみ等)の介入する余地も多い。

実践して、真実を掴みながら、振り返って真実を自覚するという流れが、体系的に
出来上がっている修業形態も少ない。型が全てを語る。通常このような修業は、
マスターのような人が、判断して今いる場所を確認したり、問答したりで、
試行錯誤するが、実技は自分の心身から感じるものを受け取れば良い。シンプルだ。

続く
529【合氣道は減算主義-完-】幼児:03/11/26 23:53 ID:CjlnOU4P

思考や、感情の中をぐるぐる回る事もなく、ただ心身を動かせばよい。
ただ合氣道をすれば良い。ただ、座禅をくめば良いと同じだが、合氣道は動くから
私のような気が散りやすい者にも退屈はしない。実にシンプルな修業形態であるが、
その可能性は素晴らしいと私は絶賛する以外に、私の取るべき態度はない。
開祖は、万人の道と言ったが、確かにそうなのだろう。

人は心身を動かして、真実に至るのなら。人生で言えば、真実は死という事に
帰着する。志を立てる。志をつらぬく。立志と様々に志がつくが、同時に
その志を「死」に置き換える事も同様の意味をもつように思う。

宇宙との一体が合気の究極ならば、死との一体も同様だ。すると、
一体化した時点で、死は消滅する。つまり死自身になったなら、あるいは、
宇宙自身になったなら、宇宙および、死そのものが消滅する。死んだ者は
死ぬ事ができない。宇宙自身がどうやって宇宙を観るのか。

いったい開祖は何処にいるのだろう?宇宙ならば、ここに居る。
ふと、目の前の開祖の写真を眺めた。なにか微笑み返したような気がした。

では失敬。
530もくじ-7:03/11/27 00:18 ID:FaTMChm5
───────────────────────────────────────────────────
006:【はじめに】/014:【合気道感のバックボーン】/022:【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】
030:【強さとは】/041:【強さ=称え合う】/051:【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】
057:【合気道は論理術(思考術)?】/071:【生死は論理ではない】/082:【宗教的】/091:【一に還元=合気】
098:【人間理解】/106:【壁・自分の幻想を知る手段としての「気」】/120:【奇想天外】
129:【記憶は過去・今は無意識直視】/141:【合氣道の日本語文字技】/151:【武産合気は観察意識】
164:【観察意識を掘り下げる】/176:【幻想の世界に住む私】/184:【自信とは幻想である】
192:【合氣道…秩序・自信・意識】/205:【パンドラの箱を空けてみよう】/214:【コラム…天真爛漫】
224:【コラム・その2…無意味な話】/235:【人間の力の無限性を証明?】/253:【運動神経と心身統一の関係】
261:【真善美】/265:【体は大切だね】/278:【心の話】/288:【死と生と神と弟子】
303:【私が不在であって事実が観える】/311:【我々の本性は魂である必要がある理由】
325:【想念の根元は愛、呼吸力の根元も愛】/334:【意識の視点】/341:【ちゃんと合氣道の話を少し】
350:【原則に善悪は存在しえない】/363:【人生と死生観】/372:【人格は服、本音は裸、魂は私】
380:【ことばと、鍛錬についての話を少々】/388:【コラム・切ない気持ち】/393:【原因・結果・選択・創造】
400:【合氣道は使えるか?】/406:【男らしさは優しさである】/413:【修業・スポーツ・趣味・金】
419:【合氣道に関する形式主義】/428 :【合氣道においての個人と公】/436 :【弟子道という考え方】
443 :【心の開国とファミリー】/447 :【こんにちは、絶望】/453 :【組織と鍛錬の間】
457 :【生きる目的は死を知る事という考え】/463 :【ただ合気道をするということ】
471 :【勇気と覚悟と自己超越】/489 :【合氣道の一つの世界観】/514 :【実戦・勝つ・実践・武術・修羅場】
518 :【鍛錬と感動そして愉快】/524 :【合氣道は減算主義】
───────────────────────────────────────────────────
531【心と体の関係-1-】幼児:03/11/28 23:26 ID:xG6AdnT5

合氣道を実践するという事について少しエッセイしようと思う。
入り身と転換というのがあるが、これを我々の日常に置き換えて、
事実観察してみる。

まず、合氣道は心身操作を通じて魂を清める。魂を清めるという表現に
不快を感ずるならば、心身を鍛える。心身を強くする。このように表現
しても、意味は同様だろう。最終的という言葉もおかしいが、本当の自分
に出会う。あるいは、自分に目覚める等、そんな表現となろう。

心の悪い癖は身体の乱れとなる。身体の乱れは心の乱れとなる。
心を正すならば、心自体で心を正す事はできない。体を正して、心に
働きかける。体が悪いなら、心の乱れであり、心を正して体を正す。

心と体の両方を直接的に直すなら、魂という、心と体の両方を観ている
自分の本体にしなくてはならない。心と体の両方をしっかりと見据える
意識の中心を創る、戻る、とどまる事に集中しなくてはならない。
その意識の視点なくして心身同時の直接鍛錬はなりたたない。

続く
532【心と体の関係-2-】幼児:03/11/28 23:26 ID:xG6AdnT5

心と体、心身、は一つの言葉で表すならば、肉体だろう。
肉体の中に五感があり、五感を総合する心があり、そして感情があり、
思考することができる。肉体と魂との行き来の邪魔をする信念や
イデオロギー、条件付け、経験なども存在する。それらを解りやすく
体系的に表現することは、骨の折れる事だが、知りたい人はその手の
書籍にわんさと載っている。実践家が知るべき事は、それらの関係性だろう。
つまり自分自身への知覚・認識の問題だ。

活用主義的にこれまでのまとめとして、話を脱線させるならば、
自分の悪い癖というものがあるならば、体に現れている。その体を正せばよい。
傲慢であるならば、事実と自分の意識の位置がずれているということで、
本当の自分よりも、自覚している自分の方が高いという問題で、心の癖だ。
傲慢は、自分は凄いと思いこんでいる信念だ。事実に負けている。

自信が無いと言う心の癖は、自分の中心点が定まっていないということで、
体の中心ができていない。心の中心ができれば、すなわち魂という言葉の
概念を実践的に把握できるなら心の中心は自覚できるだろう。同時に体の
中心を把握できれば、心の中心も把握できる。

続く
533【心と体の関係-3-】幼児:03/11/28 23:27 ID:xG6AdnT5

心の中心、体の中心と話は進んでいるが、これは、「魂」に拒否反応がでる
方を対象に語る内容であり、魂の自覚に到達している方にしてみれば、
中心という言葉は、段階的な言葉であるという点では事実認識に至っているだろう。

これは、仏を知るまでは、仏像が必要な場合もある。神を知るには、
十字架が必要であると同様の意味でとらえていただくのが、適当だと
考える。人生が夢であると解るまでは、夢をでっち上げた方が良い。
つまり全体性への到達までには、段階として小目標を置くことは健全だろうと
いうことだ。

さて、話は魂から、日常にひとっ飛びとなる。
逆説というのは、面白い。逆説というのは、視点の転換の表現で、
入り身とは、体験的言葉というか実感以外は表現しないという視点だ。
論理から逆説を作り出すのは時間が掛かるが、しっかり逆の位置に
意識を据える事ができれば、その意識から話す言葉は逆説となる。

続く
534【心と体の関係-4-】幼児:03/11/28 23:28 ID:xG6AdnT5

視点の転換の例を上げるならば、「出産」という例で言うと、
子供はつくる。出産という言葉が表す通り、生み出すというような意味合いが
感じ取れる。我々が出産と言うとき、子孫を残す。子供が出来たと言う。

転換して語るならば、出産は、提供であり、手伝いであり、授かるだろう。
子供に選ばれたのであり、その子供に手を貸したのであり、その子供の
先祖の一人に選択された。ということになる。

どちらも、現象としては、同じ事をしているのだが、中身が違う。
合氣道の技とはそんなものだろう。パラダイムシフトも同じ。
主観的には世界は別世界に変わるが、現象としては同じ事をしているように観える。

続く
535【心と体の関係-5-】幼児:03/11/28 23:29 ID:xG6AdnT5

蚊に刺された。という現象は、腕が蚊を呼んで刺してもらった。となりえるし、
そして感じる感じ方も、刺されて痒いと選択することもできるし、痒さを
BGM的に感じ夏の風流と選択することもできるし、集中の鍛錬を自然が私に…。と
とらえる事ができる。全て一瞬で選択している。しかも無意識に。

我々の人生では様々な事が起こる。起こった現象を条件反射で機械的動作のごとく
習慣的反応を繰り返すのは、まったくマシンだ。
我々は選択できる。反応を選択できるということで、選択は制圧ではない。
コントロールでもない。転換だろう。まったく別の事柄というような風に
変容するということだろう。新たな選択は次の原因をつくる。自己超越(感動)は
このようにいつでも選択と同時に起こっている。

出来るだけしっかり掴んでもらっての鍛錬である転換は、自分に降りかかる
強い、あるいは激しい、事象であっても転換する心の鍛錬、訓練、矯正である。
心の鍛錬であるからこそ、体はどんなに強い掴みでも動けなくてはならない。
そこから始まるのが、合氣道の技であり、合氣道の心の技でもあるのだろう。

続く
536【心と体の関係-6-】幼児:03/11/28 23:29 ID:xG6AdnT5

入り身も同じ事で、体験的、実践的な意識に常に自分の意識を保つならば、
いつでも実感的表現となる。これも、論理で考えるならば、時間が掛かるが、
その意識にとどまるならば、出てくる言葉は、そのようになる。ごく当然の
結果であろう。

しっかり入り身と考えて走る車を観察すると、乗っている人は、
車で走っているのではなく、車のアクセルを踏んでいるのであって、
走っているのは、車であって、人ではない。現象として走っているが、
車を走らせているのは車であって、人はアクセルを踏んでいるだけだ。

速い車に乗って、スピードを出している人は、アクセルを沢山踏んでいるだけで、
その人が速いわけではない。当の本人のほとんどは速い気分と同化しているだろう。
スポーツ観戦も、あらゆる観戦も同化して興奮している。入り身という考え方は、
実践であり、入る事で、観戦して楽しむ心境になるのは俗の楽しみと化する。

続く
537【心と体の関係-7-】幼児:03/11/28 23:30 ID:xG6AdnT5

実践に入れば入る程、事実と同化する以外に道はないであろうことを
実践家であれば理解していることだろう。もちろん、観戦も、実践的に観る事は
できる。問題は同化してしまっている状態と、同化することは天地の開きがある
ということだろう。

稽古での受け、事象の観察も同様で、事象を逆説でとらえる事もできるし、
実践でとらえる事もできる。コミュニケーションは、意識の共有であり、
分かり合いを繰り返す事だから、本来の共有は、愛で結ばれた状態であれば、
言葉はいらない。

言葉は常に二元論で語るしかない。言葉は、右と左の差で、その左右の位置関係を表現して
相手に伝える。双方はその位置を確認して観念空間の位置をとらえる。そして意識の
共有を行って、その観念空間を楽しむ。気心が知れた相手の場合は、より絞られた
観念空間を深く、高く登ってゆくので、エキサイティングで楽しい関係となる。

心の最高の入り身は、相手との同化であるが、肉体をもっている以上、
相手と自分との同化は不可能だから、どこまでも分かり合う事が愛の表現の一つと
なるだろうし、肉体を通じて学ぶ事があるとすれば、苦労して一つになることを
して、愛というものを知る、丁寧な足取りが人生と言えるかもしれない。

続く
538【心と体の関係-8-】幼児:03/11/28 23:31 ID:xG6AdnT5

心の世界、観念世界には感覚はない。心は完全に自由な世界にあるのだが、
完全な自由な世界に我々は住みたいと思うが、深く考えてゆくとそうではない。
我々は、直接的な感覚を望む、そして同時に不自由な感覚を望む。

完全な自由な世界では、セックスによる快楽は存在しえない。完全な自由では
快楽をむさぼれると思うかもしれないが、そうではない。相手に拒否されたり、
相手の予想外の反応がなくては楽しめない。全て心に描いた事が思い通りに
なったなら、なにもする必要がなくなる。いい加減あきあきする。

合氣道でも、心に描いた通りに相手が動いてしまったら、こんな面白くない
鍛錬はない。これは鍛錬とは言わない。また、自分の体が完全に心に描いた通り
自由に動いたならば、肉体を通じて学ぶ必要がない。

そこで、それならば、その不自由を含めたものが自由だろう?という問いが出てくる。
その通りであり、だから我々は、制限された肉体をもった世界を創造した。
肉体の制限は、その観点から非常に喜ばしい。

続く
539【心と体の関係-9-】幼児:03/11/28 23:31 ID:xG6AdnT5

男性諸君がこれを読んでいると想定して、話を展開するが、女性は異性であり、
異性以外なにものでもない。男性の視点から完全に転換された視点をもっている。
男性の視点から下記をごらんあれ。
www.nu-artistique.net/hegre/Luba_flying/c_102104/
(人間の美しい女性の空中写真)

女性なら、おそらく全体が観えるだろう。おそらく美しいと思うに違いない。
男性は局部に視点が執着される。最終的に美しいと思うかもしれない。
我々男性は、気が散る。そしてその気が散った視点が、条件付けであり、
執着であり、それに縛られてにっちもさっちもいかない事がある。居着いた状態だ。

別の例であるが、強面顔、優しい微笑み、恐喝言葉、バカにした態度、
様々な魔法によって、我々は真実を見失う。つまり心が持って行かれる。
自らの中心ができれば、世界(ここでは他人)の中心と対面することができる。
顕れにとらわれると、観念操作の餌食になる。餌食になった先でも転換することが
できるが、技がない内は、まず、中心にとどまる事が直接的だろう。

続く
540【心と体の関係-完-】幼児:03/11/28 23:32 ID:xG6AdnT5

つまりしっかり掴まれて、動ける鍛錬というのは、心の鍛錬であり、
まさに、実際的には、上記の例を指すのであって、それらの観念操作、一種の
魔法に負けない術であると言える。同時に強い中心をこしらえる鍛錬となる。

観念操作と身体操作の悪用が、競争社会のテクニックとして存在する。
悪用と善用はどちらが勝つか?という問いだが、善用が勝つ。
何故ならば、悪用しているものにも良心は存在し、良心に反する行為をしているという
罪の意識は必ずある。善用は何の迷いもない。迷いのないものが勝つ。

では、悪用でも迷いの無い者が勝つではないか?という問いが同時に芽生えるが、
悪用はエゴに立脚している。善用は全体に立脚している。視野が広い方が勝つ。
エゴという思いこみ、つまり強い信念による強さは、真実の前に無力であるということだ。
自然と人間が対立した場合、勝つのは自然である。

つまり「俗世間の通念でいう人間」として死んでいる者が勝者である。
開祖が凄かったとしたら、死んでいたから。つまり宇宙自身、自然自身で在れたから
だろう。勝つと単純に考えると、善の為に死すという点も見逃してはならない。
善を成すというのは、死がないという地点をクリアする場所が存在するのだろう。

では失敬。
541名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/02 18:54 ID:bF39UFWs
一対一の場合ならば、確かに心の負い目の無い善が勝つと思う。
が、心の負い目は、集団になる事で消すことができる。
人間は善行は一人で行うが、悪事は複数で行いたがる。
結果、集団が生まれるところに、必ず悪は生じ、中枢を腐らせることとなる。
「権力は腐敗する、絶対権力は絶対的に腐敗する」
1の善は、往々にして、10の悪に握りつぶされることとなる。

勢い、善が、善として栄え、生き延びるためには、きちんと汚れと共存せねばならない。
善の目的達成のための手段としてならば、悪の手段も選ばないことが、悪との戦いの中では、求められて行くと考えるが、どうであろうか?
542胎児:03/12/03 21:29 ID:N6nAwXB+
事の問題は、各々の私自身はどう在るか?だと思う。
あなた自身はどう在ろうとする?私自身はどう在ろうとする?
それ以外の現象を客観的に考える事に、私は興味を覚えない。

善と悪という現象も我々自身の中に存在する。そして生きている。
つまり共存している。その結果どの選択をするかは自分以外コントロール不能。
すべきことをする以外なにも無い。善悪の判断は誰がするのかという問いが
この問題の根底にある。
543名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/03 21:41 ID:wPx3UM+A
そう、つまりこういうことかな。

小悪は確かに、小善によって押さえることができる。
が、巨悪を小善にて押さえることは不可能である。
では、巨悪を巨善で抑えれば良いのか?

それは否である。
巨善も巨悪も、表裏一体の関係にあり、紙一重で危うさを持つがゆえに、専制政治というものは否定されるべきものなのである。

であるがゆえに、善と悪そのものが入り混じった、あるがままの世界が理想であり、それをことさらにどちらの側に傾けようとする試みそのものが過ちなのである。
544胎児:03/12/07 19:43 ID:SCOlXq5d
その通りであると、文字に誠実を尽くすと言えない。誤解を避ける
為に、誤解されそうな部分だけを書く。

あながの意図するところは、「あるがまま」という点だとするならば、
そして、そこにとどまる事が是であるならば、私は完全に共感する。

>それをことさらにどちらの側に傾けようとする試みそのものが過ちなのである。
と、言う点では、私はなにも言えない。つまり右か左か?に分けるのが
過ちの行為だとも思わない。現実は、その時々の全てを含んでいる。分ける事も、
つなぐこともできず、現実はそこにある。最終的には我々自身の此処の創造一つ一つに
善悪の根底がある。

非常に変な発言だと思われるかもしれないが、今、この瞬間瞬間、我々は
現実を創っている。リアリティーといってもいいかな。

ということで、現実について少しエッセイすることをひらめいた。
一端失礼する。
545【現実とは触れる?】-幼児-:03/12/07 21:35 ID:SCOlXq5d

現実については、我々は実に簡単にあつかっているように思える。
私も普段の日常生活とされるものを現実として扱うし、その現実に
基づき、できるだけ目立たぬように活動している。

我々の多くが、良しとする現実をぶち壊そうなどとは思っていない。
極道の道だって、現実をぶち壊そうとはしない。社会秩序の世界から
観ると裏社会と言われる世界も現実を壊せない

つまり秩序肯定派も、否定派も、それぞれの世界を現実と言うし、そうなる事を願う。
むしろ裏社会の人のほうが現実を受け入れている。現実(一般概念)とは一つでは
ないということを。現実は究極の現実への経過に過ぎない。つまり現実は創造の
産物である。

さらに、精神を病んでいると言われる人達の現実は、それぞれかなり違う。
また感覚に障害のある人の現実もそれぞれ違う。ここで、はっきりさせて
おかなくてはならないことは、真実の現実とは我々の創造を越えて存在する。

続く
546【現実とは触れる?-2-】幼:03/12/07 21:36 ID:SCOlXq5d

それに、現実を受け入れられず、さまよう物まで出る始末だ。そのようなものは、
現実に顕れることはできない。その現実に意識の焦点を合わすならば、顕れるだろうが、
好きこのんで、その現実にいく必要もない。偶然観たなら受け入れるしかない。

真実の現実から言うならば、行為+直観すると言った方がいい。時間はそこには
存在しない。時間も我々個々で創造し、我々集団の此処の現実を創造している。
無意識と意識があるように、意識の時間は大抵、みんなで共有している。
通常我々の言う意識の上でのとらえられる時間は、無意識ではなく、意識(といわれるもの)で、
創造した現実に意識の焦点をあつめている。

意識の焦点からはずれて生き場をなくして、無意識を我々自身でこしらえた。多くの諸君は、
無意識をもっている。なかには、極端な先には、無意識をもっていない者もいる。
さらに、無意識を意識化できる者は、その無意識部分で戦いを繰り広げている。
言ってみれば、想念界では、戦いが存在している。つまり意識の善の場を設定する
戦いだ。そして戦わない者が創造の先端に居る。

続く
547【現実とは触れる?-3-】幼:03/12/07 21:37 ID:SCOlXq5d

想念界の戦いを肌身をもって感じられないからリアリティーがないよ。という諸君には、
このように言うことができる。会社の雰囲気、家庭の雰囲気。この雰囲気といわれる物の
正体を考えれば解る事だろう。行為と直観が敏感なら、それはコントロール可能である
と理解するだろう。合氣道は気の武道なら、それを実践できるはずだ。
但し、雰囲気を観ることができるようになったならという事だろう。

ただ、その雰囲気をとらえる事は、怖さもあるという事だろう。
もちろん怖さもある。目がよく見えるようになると、見たいものも良く観えるが、
観たくないものもよく見えるということだ。感覚は全て同時に開放されるように感じられるので、
個人の肉体の特質が顕れるが、リアリティーを感じるには、各々は全て感じているだけで、
意識で否定するだけの話だ。何故ならば、意識の焦点が共有時間に設定されるからね。

我々は、つまるところ、この世をでっちあげるために、協力して、時間意識に焦点を
当てている。その当てている張本人が我々自身の意識であろう。共同で現実と称する
夢をこしらえている。真実には劣るだろうが、真実に近い夢の中に生きている。

続く
548【現実とは触れる?-4-】幼:03/12/07 21:37 ID:SCOlXq5d

今は時間のスピードが速すぎる。つまり創造の時間が早すぎる。創造が混乱している。
混乱しているから、創造はしやすい。つまり新しい現実を創りやすい。
開祖流に言うなら、魂の世界を魄にもってきやすい環境ということになるだろう。

そう、トリッピーな事をいうならば、私がスプーンを曲げても、びっくりしないでしょ?
ということだ。つまり日常的に起こっても、不思議じゃなく、現実に近い状態で、
リアリティーをもって観てもらえる現実になってきたということだ。

多くの人が本当の現実を受け入れれば、現実はゆったりした時間の中で、
悠々自適に存在するだろう。これだけ病んでいる人、つまり時間のスピードを
早め続ける社会の脱落者が出ている中では、みんなが、スローモーションで
生きるべきだろう。それでなければ、そういう人達を救えない。膨れあがった
無意識を適度な位置に調整する必要があるのだろう。これを癒しと世間では言っている。

本当の現実は、我々自身が今、創っている。問題はそれに意識的か?、
無意識で感じるか?あるいは、でっち上げられた現実を本当の現実と
小さくまとまるか?はたまたトリッピーに現実を創造する人か?だろう。
開祖は現実の創造の仕方を教えている。

続く
549【現実とは触れる?-完-】幼:03/12/07 21:40 ID:SCOlXq5d

まあ、少なくとも、今の社会から見ると、ゴキブリと仲良くできるならばリアリティーの世界は、
そこにあるでしょう。それと宗教的、民族的の象徴物、つまりゴキブリを普通に思える心境で
世界を観るとどうなるか?というのが真のリアリティーに近いと考える。

但し、それも真であり、そうでないものも真であるということを忘れてはならないだろう。
合氣道を歩く者であるならば、下記の絵に象徴される感覚を克服(受け入れる)せねばならないだろう。
http://dmt.fc2web.com/gallery/cg/index.html
私が怖いのは、青い色のやつだね。受け入れるしかないとあきらめている。
金色のやつも怖いがあまり自分に影響はない。
合氣道的には下記かな?
http://dmt.fc2web.com/images/gallery/sh.gif

では失敬。
550【無意味な話-1-】幼児:03/12/11 23:30 ID:hlwmapwD

無意味・ゼロ・一・今・無力・無意識・死・神・仏・芸術。このようなものを
考えたり、行ったりすることは、無意味である。つまり、意味の無い事である。
死が無意味なら、生も無意味である。しかし、人生に関する死と生を語る時、
人生は無意味であると語ると、世間からの風当たりは強い。

上に上げた「無意味〜芸術」までをなんとするか?という所から、今日の探求は
始まる。私は「無意味〜芸術」までの概念をとらえる事を、まずでっち上げた。
そして今、どうするか?と問う。今問うことは、全ての今に通ずる。

つまり、合気の鍛錬の今、その瞬間にも実践できる事であり、当然、日常生活にも
実践出来ることであり、まさに、今、これを書いている私自身が実践できることでもある。

続く
551【無意味な話-2-】幼児:03/12/11 23:30 ID:hlwmapwD

さて、まず私の探求を始める前に、常識は、「無意味〜芸術」までをどのように考える
だろうか。あまり考えないだろう。常識は無意味な事を考えても無駄であると考えるだろう。
つまり、無駄であるという結論が、最初から解っているということだ。

しかし、求められた結論に我々自身の持論・体験・行動を展開して無意味であると証明できるの
だろうか?
さらに、無意味を体験させること、あるいは体験する事ができるだろうか?
体験できない、伝授出来ないことは、実践とは言えない。知っているという知識だろう。

無意味を体験できるということは、「無意味・ゼロ・一・今・無力・無意識・死・神・仏・芸術」
等を理解できるということになる。これは歴然とした人間の壁として存在している。
この壁は、合氣道でも言えるし、合氣道の身体操作の技術の壁としても存在するし、心の壁として
も同時に存在する。答を出さない状態だ。

つまり、「無意味〜芸術」までを理解することは、我々自身にとっての、オカルトの消滅だろう。
奇蹟の消滅といってもよいし、ありえない事が在るという事が無いということの気づきでもある。
同時に、自分(我々自身)のいる今まさに、ここが理解できるということになる。

続く
552【無意味な話-3-】幼児:03/12/11 23:31 ID:hlwmapwD

そして理解できることが良くて、理解しないことが悪いのでもなく、そういう世界が在るという
証明を試みている。証明できることは、そういう考え方もあると解釈しても、近いし、
可能性が在るという解釈でも構わない。しかし、そういう世界を現実として生きる者もいることを
差別してはならないだろう。

仮に、その人間を、狂人とか変人とかそういう者の話は、聞いても無意味だよ。と差別するならば、
精神病院で、発狂じみた奇声上げる人を差別するし、その内面などまったく理解不能だろう。
さらに、盲目の人。耳の聞こえない人。動物。このような存在とは意思を通じ合えないという
のだろうか。世間で言う引きこもりや、鬱の人達、この人達は甘えだろうか?
私は完璧に正常であると断言できる。社会から見ると社会の共有している意識からは外れている
ということだろう。それ以上の意味は無い。それ以上の意味をでっち上げるのが社会だ。

「無意味〜芸術」の中には時間も含まれる。結論から言うと時間は存在しない。
時間は存在しえないと言ってもよい。もちろん、我々が共有している意識では時間は
存在する。しかし、主体の意識に入ってみれば、あるいは、そのように想像してみれば、
はたまた、イメージしてみれば、理解が進むだろう。

続く
553【無意味な話-4-】幼児:03/12/11 23:32 ID:hlwmapwD

ハエは速い。速いということは、我々の時間感覚よりも、ゆっくりした時間の中で生きている。
人はスローモーションで動く邪魔者だろう。しかし人間から観るとハエは速く観える。
ナマモノという動物はゆっくり動くが、彼らの時間感覚は、人間より速い。ナマケモノから観れば、
人間のスピードはハエのように速いだろう。だから人間にはゆっくり観える。もしナマケモノが
一瞬意識がとぎれた時、人は突然現れる、あるいは、消える。まさに幽霊かもしれない。

人間は常識がはねのける存在が存在している可能性は、否定できない。

人間も同じで、運動神経だかなんのスピードかは私には解らないが、なにかの感応のスピードの
高低が存在すると考える。これを意識のスピード。あるいは、身体を移動する気の流れが
スムースに行える心身とも言える。単純に感応力とも言えるし、客観的表現で言えば、
洞察力とも言える。直観とも言えるだろう。

続く
554【無意味な話-5-】幼児:03/12/11 23:33 ID:hlwmapwD

そして、その考え方を限りない次元まで展開するならば、感応力の限界の存在の偏見を無くした
としたら、瞬間をとらえる意識は可能性として存在する。ここで重要なのは、可能性だ。
その可能性が存在するならば、次の問は、可能性は存在するか?という問いになる。

可能性は何時も存在している。今も存在している。我々は可能性を選択によって現実にしている。
可能性と時間はセットで存在し、そして今の現実を我々自身の意識で、創造し、物質化している
という考え方の可能性は否定できない。

つまり、思った事が実現する。あるいは、感じた事が起こってしまう。来るという瞬間
来ているとか、痛いと感じて、その後、痛い所に何かが当たって来たとか…。つまり、
その次元では、原因と結果が逆転したりするという可能性の現実も存在する。

この考え方を、一つの考え方として現実的に体験している、つまりその現実に生きている
人がいるという可能性は否定できない。否定できるだろうか?

続く
555【無意味な話-6-】幼児:03/12/11 23:33 ID:hlwmapwD

否定できる事を証明しようとした時点で、過去になっているし、過ぎ去った過去は、
可能性も否定する事になる。そしてその元をたどって、無意味な事は考えようとしない
という時点にくる。そして常識的思考習慣に逆戻りというのが、常識的見地から観た現実感だろう。

しかし、可能性を信ずる所ではなく、現実として体験している人が居た場合、我々は理解
しようとしない。そして思考停止は、その瞬間意識が飛んでいるという現実も理解しない。
自分が意識が飛んだという実感は、今でも簡単に起こる。知らない事に出会った瞬間、
人は意識がなくなる。放心状態になるということだ。

合気の技は心身操作によってそれを行う事により、自分も同時に、意識を飛ばさない術を
身につける。そしてそれは、エゴを持って活用することはできない。
つまり目的をもってそれを行う事はできないし、コントロールは不能であるという事になる。
無心でなければ、原因と結果が逆転するまでの時間に入れない。

続く
556【無意味な話-7-】幼児:03/12/11 23:35 ID:hlwmapwD

これを理解して読んでくれる人は実体験による理解に触れている人でしかあり得ないが、
もともと、ここでは一部の人に向けてエッセイしているので、実体験にもかすらない方は、
ここまでは、読まないだろうから、先に進ませてもらう。

そういう現実もあり、また、そういう現実に苦しむ人も居るという事を、我々は理解する
努力をし、それらの偏見を除去し、様々な現実を体験することが、様々な存在と分かり合える
事だと考える。

そして、様々な存在と楽しく、愉快に此処を生きる術であり、愛する心の一つだと考える。
極論を言うならば、様々な現実をもって道場に集まる人達。様々な事を様々な形で、
合氣道から得ている。これは無限であり、個々の創造を超えている。

合氣道が絶対的な善であるという信仰をもったなら、合氣道によって自分の特質が理解できる。
何故ならば、正しいのは合氣道であり、間違いが自分だからだ。正しい事をすれば、
正しい結果になる。また逆の思考で、正しいなら合氣道と出会うという可能性も否定できない。
これが合氣道原理主義という事になるのかもしれないが、合氣道の信仰は、自然である。
自然の原理主義は誰にもおとがめはないので、胸を張ってもよいという可能性は否定できない。

続く
557【無意味な話-完-】幼児 :03/12/11 23:35 ID:hlwmapwD

そして最後に、人間は可能性を信じている。可能性を知っている。
何故、可能性を知っているのか?可能性が在る事を知っているからではないか。
では可能性を行えばよいのではないか。すると可能性は物質化するということを
完全に知る事に繋がる。

これが理解できたなら、我々は開祖の言う魂から魄の世界という流れの断片の知的理解には
到達できるだろう。知的理解が先か後か?という問題ではなく、知的理解に到達した時点で、
自覚できるということになる。自覚というのは認識であり、知覚できるということで、
行動できる。あるいは、使えるといってもよい。つまり行為・実技の問題となる。

私の尊敬する先生は、武産合気は実技の問題だと言われたが、その考えの深さには、
畏敬の感情を抱かずにはいられない。

では失敬。
558【忘れる事を覚える-1-】幼児:03/12/13 12:21 ID:a1Vedrkk

我々は恐れている。我々は現実を恐れている。
我々は恐れるに足らない事を恐れている。
我々は恐れが在る事を認めて居るし、恐れが無い事を認めない。

我々は人の身体的ダメージを受ける事を恐れず、身体的ダメージを
与えられるまさにその瞬間の兆しを恐れている。現実の痛みよりも
前に、あたかも現実の痛みが芽生えるだろうという自分の想像に
恐れている。

だから、我々は兆しを恐れる。現実の痛みを受ける前に、自分の
こしらえた空想・妄想・想像に怯える。そしてそれにうち勝とうと
適当に敵をこしらえて、それに対する防御をする事、あるいは、
その敵に勝とうとすることを熱望する。

続く
559【忘れる事を覚える-2-】幼児:03/12/13 12:21 ID:a1Vedrkk

そして、勝つ方法ばかりを追う。そして負け続ける方法を同時に追わない。
それらを追う者は誰か?それは、選択なのだが、その当の本人は、その選択に
同一化して、勝ちが正しいと信じている。これはその世界にはまっている人には
そこが何処か理解できない。勝つ事を追う者は、負け続ける方法を追う事を理解できない。
同時に、双方は同時にその相反するものを恐怖している現実がある。

痛みを知らず、心が痛まず、今いるその現実、すなわち物質界の
事を正確に知るのはなんだという問いがあるが、これは、世間で
言われる客観的視点ではない。

客観的視点は空想に過ぎない。そうではなく、身体は今、現実の中にいる。
物質界の中に居る。まさにここに居る。まれに腹が痛いのを我慢してこれを
読んでいる人もいるかもしれない。しかし、人は意識を二つ同時にもてない
以上、これを読んでいる時は、腹は痛んでいない。

もし、前の瞬間「腹は痛んでいない」と私の文面を読んだ時、まさに
その瞬間、「本当にそうか?」とか解釈して読んだとしたら、その者は
その瞬間これを読んでいるのではなく、あなた自身の解釈を読んでいるということだ。
つまり現実を観ていないということになる。この現象はいつでも起こっているし、
これを推奨するというか、これを現実とするのが今の先進国(地球規模かな)の共有意識であり、
幻想の世界となっている。つまりバーチャルと言う名の伝染病だ。

続く
560【忘れる事を覚える-3-】幼児:03/12/13 12:22 ID:a1Vedrkk

幻想の世界には恐怖がある。幻想は現実ではない。痛む時痛むのが現実だが、
幻想は痛む前に痛むのではなく、恐怖する。そして次の反応はその恐怖に勝つ為、
あるいは逃げる為に、何かをする。つまり戦いを挑む。そして社会は競争している。
あるいは奪い合う。何を奪い合ったり、競争したりするのか?

恐怖という持ち物(あたかも持ち物のように扱う人にとっては)だから、
あるいは、自分の物、自分の所有物なんてないのに、自分の物は自分と同一化して
それを奪われまいとする。そういう者は、幸せも、愛も自分の持ち物であり、
引き裂かれる物であると信じている。

つまり、思想すら持ち物だと考える訳だ。例えば、あなたの考えは間違っていると
言われるとしよう。多くの物質主義、精神主義の人は、あたかも、自分を否定されたように
感じ、怒る。自分と思想を同一視している客観的視点というものが自分であると
いう幻想に立脚した反応だ。思想は触れることはできない。それはあなたではないのに、
私が傷ついたと思う訳だ。何が傷ついたのか自覚しているとしても、漠然と「心」と
いうのがせいぜいだろう。

続く
561【忘れる事を覚える-4-】幼児:03/12/13 12:24 ID:a1Vedrkk

心はとらえどころがないと考えるのも常識的発想で、世間一般と共有できる世界観だが、
心は、今自分がどのような状態か知らせてくれるアンテナのようなもので、心で感受した
実体のない感覚を、魂は受け取る。別に魂といわずとも、トラウマといってもよい。
深い心の趣向に触れる。つまり基準に触れる。チカーっていうようなイメージかもしれないし、
そうでないかもしれない。個々様々な感覚だろう。

その触れた感受が、快と感ずれば、受け入れ、不快と感ずればはね除ける心を生む。
はね除けるとどうなるか?否定したり、違うといったり、蹴ったり、そんな自分を
憎んだり、やってる事は一つでも、反応は様々に出す事ができる。
この工夫をこんどは心地よい方法にしようという選択を、そのような心はでっち上げる
事をする。

不快と感ずる事を退けるには、強く成ればよいという安易な発想。あるいは、
不快を退けるには、弱者を気取ればよい。あるいは、派閥をこしらえる。
あるいは、知識を武器に使う。簡単に言えば、スッ裸を避ける方向に向かう。
本音、本性から目をそらす方向を模索する。そしてそれをあたかも自分とするように
自己洗脳してゆく。これが現実社会の人々の実体だろう。つまり開祖の言う、魄の世界の
実体だ。道具・技術・イデオロギーに走るということだ。

続く
562【忘れる事を覚える-5-】幼児:03/12/13 12:24 ID:a1Vedrkk

ここまで語ると、実は、社会に適応しようとやっきになる中心存在は思考であると
ということが見えてくる。その証拠に、感情と感覚より思考による選択を我々は
選択する。感情と感覚を置き去りにし…。そして、思考すなわち、論理、合理性、科学的
等というものを信仰対象として思考者たらんとして頑張ってる。

学校では遊べと言わず、宿題を出す。何故か?ルールが在る。何故か?
正しい事を正しいと教える。何故か?これらを観れば、システムが人に何を
即しているのか理解できるだろう。感覚と感情は、既に自然(善)を知っている。
思考はプログラムしなくては、自然(善)を知らない。

問題はこれが事実であり、マトリックスであり、そういう現実があるということで、
まったく意味はない。つまりそういう現実感をもって生きている人が今は沢山居るという
事実を語っているに過ぎないということだ。

続く
563【忘れる事を覚える-6-】幼児:03/12/13 12:25 ID:a1Vedrkk

テレビ、本、あらゆるメディア(人も含む)が現実を「思考という現実」にすり替えを
即している。私も此処で、あまり得意ではない思考を使って、諸君らと共通の現実と
接点をもって書いている。思考は理解の筋道が必要だからだ。テレパシーが通じないなら、
別の手段しかない。それが論理という考え方もあるということだ。(※拡大解釈なきよう)

結論は思考(幻想)の世界に住んでいるという現実を僕らは理解しているかい?
という事だし、様々な現実があることを理解しているかい?という事だし、
人間が到達できる現実は、創造である点であり、なんの意味も無くなる。
私が精神病的、あるいは狂人的に映るならば、そう思っているのは思考である。

だから今、幸せであれば良いのだが、思考と現実感はセットで存在するので、
思考は「本当に幸せか?」とか、「幸せの核心がもてない」とか、実感できないという。
当たり前である。思考が実感するはずがない。実感は感覚しなくてはならないし、
知覚しなくてはならない。認識しなくてはならない。やらなければ解らない。

そしてやった所で意味もなく。思考は、ただ幸せであったと気付くだけだ。
武道をする人は、強さに敏感だという前提があるとするならば、「幸せ」を
「強さ」に置き換えて理解しても同様だ。理解に分離はあり得ない。

続く
564【忘れる事を覚える-7-】幼児:03/12/13 12:26 ID:a1Vedrkk

思考は理解の助けになるが、思考自身は行動の邪魔をする。行動には意味がないからだ。
目的主義とは相反している。生きる事には意味がない。生きる事そのものが愉快なので
あって、愉快には意味はないということだ。ただ愉快になっていることが生きる事だ。

開祖は思考の事を、「覚えて忘れる」と称した。覚えるのだ!とは言っていない。
むしろ、思考中心の現実感をもっている者は、忘れる事を覚えるのだ!というほうが
正しいような気がする。合気は変わる。合気は変わらないが、時代が変われば、
合気が変わったように観える。変わらないのだが、変わるように観えるというのが
幻想の世界に住んでいる者が感じる現実だ。本当の現実は変わりようがない。

宇宙の秩序が突然変わると言えるだろうか?もし変わるという思考が介入するならば、
視点が逆になっている。宇宙が在る。そして自分がある。自分の考えが在って宇宙が
あるのではない。だから答は単純だ。人は知る以上の事は知っていない。

しかし思考の欲求は欲張りで、知らない事も知っているというようになんとか
でっち上げるように、論理的構築を施す。知らない事が在る事を知る事に無知と
言えよう。これが思考の特性だ。

続く
565【忘れる事を覚える-完-】幼児

最後に実験しよう。あなたは誰だ?と感じてみよ。そして感じ続けてみよ。
答を出すな。解釈を加えるな。ただ、あなたは誰だ?と問うて欲しい。

その状態に、思考は介入しえない。そしてそこで得られる直観は、バイパスがないと
思考にもってくることはできない。つまりその瞬間自分が何を考えていたのは理解できない。
だから、思考が介入した時点で、その状態の事はすっかり忘れる。

これが思考の特性の全てだろう。

では失敬。