「武産合気」探求マジスレ!

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1武産合気
(続)武産合気追求マジスレ!の流れを汲むものであるが、支流である。
「追究」ではなく、「探求」となっている。前置きは、ごちゃごちゃ書かない。
合気道・自分・気・意識・魂・呼吸・神・宇宙・宗教・精神・心等
こういう一元ものを探求してゆくスレッドだ。
つまり、諸君の気づきがこのスレッドをこしらえるわけだ。

余談だが、相変わらず、私、幼児はココでエッセイを続けるが、エッセイ中はsageる。
レスは上げる。消滅、存続は神のみぞ知る。
2名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/17 22:43 ID:buNAngGK
第一部終了おめっとさん。
終わっちゃうのかと思ってたら続き読めるんだね。
10スレぐらい使って壮大な縦読みやってください。
3幼児:03/08/17 22:45 ID:N4uuRJND
尚、合気関係は現在以下のようなスレッドがならんでいる。
http://www.domo2.net/search/search.cgi?word=%8D%87%8BC
4幼児:03/08/17 22:54 ID:N4uuRJND
さて、>>1のような内容がこの2chで、あるいは、世間の主流とは
思っていない。だから、興味ない諸君はどうかほっといて欲しい。
ここは、面白くもなく、わかりにくく、抽象的で、狂信的かもしれない。
5幼児:03/08/17 23:00 ID:N4uuRJND
さて、>>1のような内容がこの2chで、あるいは、世間の主流とは
思っていない。だから、興味ない諸君はどうかほっといて欲しい。
ここは、面白くもなく、わかりにくく、抽象的で、狂信的かもしれない。

私に向けてのレッテルに、オナニストというのがあるが光栄である。
オナニストは何処を目指すのか?といえば、
神と昔から相場は決まっている。諸君も武産合気を目指すなら、
開祖の言う神との同化を目指すわけだ。私がオナニストであろうが
なかろうが、目指す場所は同じだ。つまり我々は神(一つ)である。
6【はじめに-1-】幼児:03/08/17 23:36 ID:N4uuRJND
まず、私の発言(エッセイ)に関しては、合気道・武産合気・神・魂などの概念を
我々が馴染んでいる思考習慣にできるだけのっとった形で表現してゆこうと思う。
基本的には、前スレッド「(続)武産合気追求マジスレ! 」
http://sports.2ch.net/test/read.cgi/budou/1008882519/l50
でさんざん色々な表現を用い語って来た事だが、スレッド名が変わったので、
一応、新たに端的に表現してゆこうと考えている。

重要な点は、我々は上に上げた抽象概念をどのように、考えたらよりベターか?
という事を示唆する。概念を決定付ける事はできないからだ。
決定づけたら教義になる。教義から自由は生まれない。あるのは制限だ。

合気道の概念を決定付ける事はできない。しかしどのように合気道をとらえると
我々の成長・進化・幸せ(悟り)に役立つか?は考えてゆくことはできる。
また合気道は「それ」を教えてくれる修業体系でもある。

続く
7【はじめに-完-】幼児:03/08/17 23:36 ID:N4uuRJND
探求とは、我々の気づきを経て、始めて得られるからだ。
問題は、だからそのために「稽古せよ!」というのは正論なんだが、
稽古するための目的や自覚が分からなくては、得るものがない。

目的や、自覚に応じて、得るものが始めて生まれてくる。
文武両道というのは、自覚と行動がセットで行われて始めて真価を発揮する。
だからこそ、自覚に相当する、合気道における中心的概念の把握(とらえ方)
は重要さを帯びてくるわけだ。

それから、合気道で袴を履き、合気道における抽象概念を語る事もできないのは、
恥ずかしい事ではないか?私のエッセイは諸君の概念の形成の反面教師として
お役立て頂ければ幸いである。間違っても、真実は私の文面にはない。
諸君の心に形成されるものだ。如何に高貴な概念をお持ちの方でも、
概念形成がなされていない方でも、興味のおもむくままにこのバカ者の
戯言に触れる事により、ご自身の心に何らかの反応があるはずだ。
それがこの探求における私の目的とする所だ。

では本日はこれにて失敬
8幼児:03/08/17 23:47 ID:N4uuRJND
一応寝る前に、合気会の標準書であるテキストを載せておく。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00224/mokuji.htm
では失敬
9お知らせ:03/08/18 08:31 ID:ncWB5do2
(続)武産合気追求マジスレ!を永きにわたりご愛顧いただき、誠にありがとうございました。
追求版のスレ立てた者ですが、また整理がつき次第、パート2を立てようと思います。

前回、当初参加していたのですが、次第に荒れたりして見ていて楽しいものでしたが、次回は
今までに培った自論を展開しようと思います。

予定として月末を予定しています。
10幼児:03/08/18 19:16 ID:tAOg3lQd
お知らせさん、パート2は、占拠した形になって申し訳ないと思ってます。
色々な個々の生の気づきというものは、修行者にとって大変参考になります。
楽しみにしてます。では失敬します。
11幼児:03/08/18 20:04 ID:tAOg3lQd
訂正
パート2は、占拠した形になって申し訳ないと思ってます。→×
(続)は、占拠した形になって申し訳ないと思ってます。→○
失敬。
12お知らせ ◆Nxzu3j1irY :03/08/18 21:13 ID:zQGTFDp5
>幼児

いえいえ、貴方のような人がいて良かったです。
ただ2ちゃんねるでは、表面的なやりとりしかできません。本来は自分のホムペでも作り
そこでやりたいのですがね。
観てる人間が多いから、あえて2ちゃんねるに乗じているだけです。

今後ともよろしく。次回からハンドルは変えますが、トリップはこれでいく予定です。
13幼児:03/08/18 22:08 ID:tAOg3lQd
そうですか。2CHは、生ものですからね。期がリアルタイムなんだ。
まさに、町の中で一人芝居をしているようなもので、心に染みて楽しい。
私は、もともと負け戦というものが好きで、そういう世界に通じるものが
あるからココが好きです。色々な考え方があって面白いんだ。

色々、愉快な話を聞かせてください。では失敬。
合気道を始めるにあたっての動機は、様々な私の出会いの中から
色々なケースを見てきた。まずはそういうものを語ってみたい。

私個人の身体運動履歴は、個人競技ばかりだった。もともと、
自分の体をつかって、奇想天外な動作をすることが好きだったわけで、
そのルーツは、忍者であり、仮面ライダーであり、ウルトラマンだ。

彼らは、道具を自由自在に操るし、身が軽く、どんな地形でも
超人的な動作で、自由自在に動く。憧れたね。
子供当時の遊びは、大抵仮面ライダーごっこだ。私は、仮面ライダーには
ならず、悪者を演じるのが好きだった。今でも、合気道でも受けが好きだ。

職人の父を持った事もあり、体の使い方と、手先の使い方は、つまり理合い
重視の教育を受けたと思う。だから男の理想は、神からもらった身体の使い方
がうまい者にならないとダメであるという考えをもっていた。私と同世代の
人達は少なからず、こういう理想はあったと思う。

続く
そして、目指す所は、仙人的であり、インディアンの長老的な理想像があった。
今でもあまり変わらない。まさに開祖ははまり役だった。ピッタンコの存在
に出会ってしまったという、正にその状態だ。ばかばかしい話だが、
職場にも開祖の写真はかかげてある。笑ってやってくれ。

合気道を初めてて見たのは小学校3年の時で、漠然と習いたいとは思った。
その代わり、剣道をやっていた。私はあまり人に勝つ事に興味がなく、
両親は、そこを嫌って、剣道等をやらせたのだと思う。剣道は、子供心に
疑問が多かった。打たれても死なない。避けて当たってもOKってのが
なんか変だった。チャンバラ遊びは痛かったのに、剣道は違う。小手は痛かったけどね。
しかも、色々なルールがあって辛かった。

合気道は、社会人になって始めた。しかし直ぐ止めた。
誤魔化しだと思ったから何となく続かなかった。そして一時、仕事に専念した。
そして、またむらむらと鍛錬の虫がうずき、合気道を始めた。
今度は、今までの合気道と違った。合気道は一つだと思っていたが、
内部には色々な門下や、スタイルが在ることを知った。少々びっくりだった。
そして、今はずっとお気に入りのスタイルの所で稽古している。
2chではこのくらいしか語れないね。

続く
柔道は今で学校の授業でやってるのかな?。私の頃は剣道と柔道は、体育の時間で
少しやった。剣道は面白くなかったが、柔道は面白かった。当時プロレスブーム
だったし、ミルマスカラスの跳び技に憧れた。気分はレスラーだね。

空手はご多分に漏れず、「空手バカ一代」でムラムラっと来たね。
それから極めつけはブルースリーだね。ジャッキーは誤魔化しだと思った。
ブルースリーは完璧だと思った。美しかった。少林寺という映画があったが、
アレも誤魔化しだと思った。格好良かったけどね。

そうタイガーマスクもよかったね。未だに佐山は好きだ。
プライド、K1は、レイセフォー、吉田、がいいね。吉田道場のTシャツ欲しいもんね。
ミルコもいいけど、ミルコは、軍人だからね。
ボクシングは、やはり、渡辺次郎だね。日拳出身で、高校時代、日拳出身先生の
影響でかなり次郎氏に入れ込んだ。

続く
空手は、格好いいと思ったが手が出なかったね。それは、テレビやビデオで
試合や、試し割などみても、やりたいとは思わなかったという事だ。
私が強いという強さが、私には感じられなく、自分と違う世界のように思えた。
空手バカ一代と違う世界に思えたという事かな。

そんな意識の遍歴を経て、私は、理合い追究に楽しさを感じるタイプだと後に分かった。
振り返って見ると、個人競技などをやってみても、技術や何故そうなるのかを
追究し、出来た喜びはひとしおだったが、試合は嫌いだった。自分の実力は、
分かっていた。ドングリの背比べで順位決めに興味がなかったわけだ。

しかし、時々、ダントツのヤツが居る。そうなるとムラムラっと来るわけで、
火がつくね。何かあるぞ!とね。ヤツに勝つ事には興味がない。ヤツの
技術(理合い)に非常な関心があった。それが、今でいうと開祖ってわけだ。
人間ってのは、あんまし変わらないね。

続く
話を最初の合気道を始める色々な人々のケースに戻そう。
合気道の世界に入ってみるとまず思った事は、この世界も別に特別ではなく、
今まで見てきた人からまったく外れている人には出会わなかった。
当然の事だ。同じ人間だからね。合気道だから特別な人間があつまっている
訳でもないということだ。

たとえば、私が極道の世界に入ったとしても、
それは同じだろう。浮浪者の世界に入っても同じだろう。
ただ、あるのは、その世界に馴染めるかどうかって事だけだ。
馴染めない場合は、我々にとってはその世界は存在しないということだ。

人間ってのは、自分がある業界に身を置くと、結果的に、
その世界の中での自分の位置づけを確認させられるが、選択する世界が
絞られれば、絞られる程、人間界における自分の位置づけがよく分かるものだ。
つまり、自分自身がよく理解できるということだ。これは、組織に属する経験を
つむと分かる事だが、合気道でも例外ではなかった。

続く
合気道は入り口は広いと思うが、定着は狭いと思う。良いことだと思う反面、
気軽さが定着してしまうと間違った方向に行ってしまう危険もある。
そんな諸々を含めて合気道に限らず、今の武道界の問題があるとは思う。
しかし、多様性がある以上、自分に合った場所というのは必ずあると思う。
別に一つの場所が全てではないしね。また合気道だけが全てでもない。

合気道はある方面から見ると、実に抽象的だ。勝った負けたがない。
開祖の抽象的表現が出てくる。文部省の教育をそのまんま完全信仰し、
合気道を行う事は不可能だろう。共通部分は、技の端くれしかないだろう。
ところが、本質は技にはないと来ている。つまり合気道をするには、
在る程度、頭をリセットしなければならないということだ。

通知票もない。正誤もないが、正しい鍛錬方法はある。
結果もない。強くなった証拠が分からない等、しかし、なんとか、
昇級という免状はある。免状はかろうじて、他人が判断してくれる。
しかし、なんの役にも立たない。励みはなる人もいるだろう。

続く
しかし、定着する人は、他人は判断せずとも、自分自身、多大な
結果を得ている。あるいは、合気道の稽古そのものが楽しい。
間違ってもらっては困るのだが、合気道の道場の人間関係が
楽しいというのではない。鍛錬という、その無意味な作業が楽しいと
思えるものが定着する。

たとえば、体の変更、端から見れば、そのばかばかしい動作の中に、
素晴らしい世界が待っているわけで、まさにセックスに近いものがある。
別に女性と体の変更をするわけではないが、快感があるね。

快感は、色々な技の中に存在することが分かった。快感が在る所を
探す事が理合いの発見であるというのが、私の理合い追究の感覚だが、
諸君は、また諸君それぞれの感じ方があるだろう。私の場合は表現が
エロチックになってしまうが、ニヤケテしまう感覚ってあるでしょ?
やった!というより、やってしまったよ!?とかやらされてしまったよ!
という感覚ね。

続く
ついでに合気道の感覚で不適当な物を上げてみよう。
でも合気道をやる前は正しいと思っていた事なんだ。

・歯を食いしばって頑張る。
・スキを探す
・よける
・俊敏に動く
・頑張る

こんな言葉達が思い浮かぶ、受験勉強の発想ではこの考え方は是だろう。
今私が是とする言葉は、快楽どころ、極点、核、帰着点、こういう一元言葉に
変わった。動作の本質は、動く事ではなく、探す事であり、気づきであり、
入る事であるというような言葉にならない世界になってしまった。

その結果、簡潔という事から離れて、壮大な縦書きという結果になっている。
しまいにはなにも話せなくなるだろう。なにも話せなくなったとき、出てくる
言葉が、素晴らしい物ではないかと考えるんだが、私はまだまだだ。

結局今日は、私の自己紹介のような内容になってしまった。

では失敬。
自分の身心に目を向けずして武術の鍛錬はあり得ない。
合気道は武術の鍛錬による身心統一を自分の事とする事であり、
同時にその鍛錬の中での気づきが日常生活で、即生かせる物である。
つまり身心の成長なくして、今以上の気づきはうまれず、
同時に、世界がだんだん狭く感じてくる。

コップが小さいままだとそこに入ってくる世界という水が少ししか入らない。
結果的にそれを飲む意識(魂)は、世界は狭いと感じる。
これが閉塞感という現象だろう。

今日の問題は、「身心」がテーマだが、
私も実際、幼少から、思春期はでは、身心に興味があった。
つまり大人と自分との差とは、身心の成長の差と考えていた。

続く
高校の頃から、世間が気になりだした。そして、漠然と何かが違うと
思い始めた。その何かというのは、今になって分かる事だが、
身心の自然な成長のスピードの実感が減少したという実感だったのだろう。

子供から成人までの身心の成長は、努力せずとも、身体の方は、喰えば
成長する。心の方も世間がプレッシャーを掛けてくる時代環境なので、
そのプレッシャーを基準に自分の心の基準がこしらえられる。
外部からの自分の役割や、期待、そして自分の趣向、得意分野が分かってくる。
とりあえず、社会(人間関係)の見えないルールを理解するようになる。
同時に、言葉にはできないが、世の不条理や、善悪も見え始めてくる。

ここからが人間の分かれ道のような気がする。今の社会に順応してゆく事を
生きる道とするグループと、純粋に自分の情熱(夢)の実現を生きる道とする
グループだ。若いうちは、二つのグループの区別がつきにくい。もちろん大人でも
区別できない者もいるだろう。しかし言葉を変えれば、理解できるだろう。

続く
一方は、他者を中心に置き、一方は、自分を中心に置く。この二元論は、
大人でも議論の対象になる。しかし、この手の二元論で遊ぶ者は、
単なる表面的な感じ方の違いにすぎず、利他主義でもなく、利己主義でもない。
実は、順応主義(雰囲気主義)への肯定と否定の事だ。

利他主義、利己主義はどちらから入っても、筋金入れて、極に行けば行くほど、
一元論化する。そこにあるのは、全体と自分との関係という一元論になる。
一元論といっても大いなる二元論だが、最終的には、全体しかない。
筋金入れれば、どこからでも神(全体)に到達する。そこから観れば、全てに通じる
英知がるということだろう。ことわざがあったね。忘れたが。

結局、無垢の人間の根元的問いである自分と世界との関係に行き着くわけだ。
つまり自分と神との関係というのとになる。だから、まともに成長すれば、
どんな二元的な思想をもっていても、結局自分と世界との関係が全てであることに
気づくのだが、今の社会は、適当な位置で止まらせるような、想念が支配的なので、
残念な事に、諸君の多くは気づけない。理由は簡単だ。筋金入ってる者が少ない
からだ。バカが少ないということだ。「釣りバカ」日誌のような「バカ」の使い方ね。

続く
つまり次の成長段階である自然がこしらえた
洗礼を受けられない。思春期という洗礼は自覚できてもその次があることを
自覚しないまま終わるケースが多いということだ。

現在の先進国の社会では、ほとんど、心の自立時期の特徴や、思春期・更年期と言われる
中で、中間の概念が抜け落ちている。つまり、先進国では、そのような
心の次の段階の概念すらない。かろうじて宗教の中に唄われたりするが、
宗教も科学同様の扱いで人々は扱っている。だから対立している。
つまりこのような概念ですら、一元化して理解する事ができないという事だ。
一人前という言葉すら死語だからね。筋金入りは流行らないからね。

自然の洗礼を受けていない者からすれば、意識の成長というものは、無いと感じるだろう。
あったとしてもなだらかで、劇的な世界の見方の変革なぞ起こり得ないと思うだろう。
そうではない。明確に起こる。だから神の探求は、昔から人間の普遍的なもので、
それなくして、観察者にはなれない。観察者になれないということは、対立があるということで、
対立を通してしか物事を知覚することしかできないということだ。

続く
簡単にいえば、自分と反対の思想、概念などを通してしかその物事を知覚することしかできない。
ということで、事実はそうではなく、その中間でもなく、その対立物と、自分の信じるものを
統一したものだ。つまり概念、言葉により分割、分裂、分析して理解したものではなく、
直接的な理解、知覚に至るということだ。公平、フェアに物事を見るという努力目標的な
ものではなく、即理解、即知覚の事を言っている。世界の出来事と自分があれば十分ではないか?
そして、どのみち、生きている訳だから、二元のどちらかには居るのだからね。
さらに分割することは、理解を複雑にしてしまう。

そして、人は理解する対象を見えやすい方に置く。本来の現象を観ず、見えやすい物事を
観る。これが分割・分析して理解することの害である。本来あるのは、観察だ。
私の語る事は、私の観察記録だ。分析記録ではない。だから合理的ではない。
しかし、確信理解だ。仮に間違いがあったとしても、私の知覚不足のせいであり、
間違いは歓迎だ。なぜなら間違いを知覚した時点で、今以上の知覚を得たということだからだ。

続く
観察者でなければ、心の壁は突破できない。心の壁を突破できなければ、平常心を得られない。
さらに、平常心時に初めてできる技術のスタートにも踏み切れない。
武術においても、心の技に自由自在に振り回されるということで、武道を鍛錬していても、
心の壁を突破できていないと、日常生活でも一般人と変わらない心のままでいることになる。
権力に頭が上がらない者、ヤジに動揺する者、外観に惑わされる者、あとを絶たずだ。

その心で、武道を語れば、技術論流行となることはなんら不思議ではない。
2chを観れば明らかだ。武道とは、身心鍛錬で双方を同時に鍛錬できるので、
人間成長の道具として、また日本の伝統としてこれまで残ってきた。
残ってきた意味を我々は理解すべきだと考える。そして先祖が大切にのこした
無形遺産の意味の理解が今の、個人に置いての、混乱の時代を救うあるいは、
進化、深化のカギがあると考える。

まあ、昔も今も、迷った時は、「お婆ちゃんの知恵」だ。
つまりお爺ちゃん(開祖)の知恵って事だ。開祖が神を信心することが好きだったのは
どんな意味があるのか?我々自身で考える必要があるのではないか。合気道は、それを
あまり見せずいたからこそ、広まったという事実があるが、それ抜きでは私は、核心が
抜け落ちた物ではないか?という気がするが諸君はいかがだろうか?

では失敬。
28幼児:03/08/19 22:54 ID:dQwzS5OI
ちょいと一服し、次回のテーマは、「強さ」がピントきた。
これは2chにおいて、あまりにも広範囲に扱われていて、
その根底の相互誤解により、議論が底辺でぐるぐる回ってしまっている。
ということで、「強い」という想念の正体を観察してみたい。
29名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/20 12:40 ID:H4Muj1Jr
age
30【強さとは-1-】幼児:03/08/20 22:05 ID:7pcVZtPH
昨日は、心の観察者とならねば、心の壁は突破できない。
そして、心の壁を破って初めて会得できるであろう身体技法(武術)
の鍛錬に入れない。そして結びに、開祖の神への信心好きの意味を
問いかける形で閉じた。

心の観察者とは、ねらいとするのは、無意識の観察者で、意識の地図を
こしらえるとするならば、色々な意識、変性意識、無意識、
通常の意識等様々あるが、その中心であるものが「心」で、
意識の地図の中を心が行き来して、心の上位の概念である魂が感じ取る。
「心」を意識地図の乗り物としてとらえないと、言語表現で「魂」を伝え
にくい。鍛錬に使用する「魂」の概念のとらえ方を示唆した。

今日は、昨日の予告である「強さ」をテーマに考えて行きたいが、
やはり、強さを問うのは「誰が」という問題が根本にある。「誰」とは、
もちろん我々の事だが、我々自身の身体か?精神か?身心か?等という事になる。

続く
31【強さとは-2-】幼児:03/08/20 22:06 ID:7pcVZtPH
肉体なら、人体の問題であり、力学、マシンの問題であるが、生命だから
意識がからんでくる。
精神(心)なら、肉体も絡んでくる。身心なら一元で話しが進められる。
さらに、話を進めると、身心の「強さ」とは?という問題になってくる。

これも、現象を説明する、あるいは状況描写ならいくらでも言えるが
現実味がない。「強さ」に直接関連しているのは、主体あっての事で、
現象は「強さ」とはなんの関係もない。だからその「主体」の「強さ」を
問わなければならない。そして、「強さ」とは身心の強さと定義する。

つまり、我々の強さは、我々の知覚する自分という概念全体である
「身心」の「強さ」が全てで通用する強さの概念だろう。
「魂」は鍛錬が鍛錬するのは人生(この世)だから、正確に言うなら、
この世で使える「身心」ということになる。

続く
32【強さとは-3-】幼児:03/08/20 22:06 ID:7pcVZtPH
余談だが、開祖は、自分即宇宙の境地まで行かれたとするならば、開祖が
自分あるいは、私という時、主語は全て宇宙は…、となる。
だから、「合気神髄」等の開祖の語録が載っている書籍は、
宇宙が宇宙の事を語った書籍だ。
神が神の事を語った書籍であり、神の事しか書いてない。

だから、己というときも、己は神であり、敵という時も神と言うことだ。
神は全てでから、己も敵も、全部己(神)となる。開祖の本は、
そのような視点で読むと良く理解できると思う。実に単純になるほど!
と理解が進むと思う。余談終了。

繰り返すが、我々は身心の「強さ」を強さと言う。これなら、全ての
強さをひとまとめにできる「強さ」であり、一元の強さであるならば、
どこでも通用する強さであろう。だから、強さを目指した時点での
最終局面は「身心の強さ」だろう。

続く
33【強さとは-4-】幼児:03/08/20 22:06 ID:7pcVZtPH
しかし、武道というものは、おかしな物で、「心身統一」と最初から、
答を提示している。つまり身心の強さとは、「統一」である。と答を
出してしまっている。目の前に答があるのに、我々は、統一を目指さない。
むしろ分裂を目指す。まったくなんたることか?

「心身統一」が強さの極意であろう。統一するという事は、思考で言えば、
一元的思考。感情で言えば、平常心。感覚で言えば、臍下丹田。宗教的感情では、
神との同化。こんな所で、別に新しい概念ではない。ただ、統一を目指す事が
強さに近づく事であり、強さ、弱さという二元論そのものも統一できるという
事だろう。実に、理にかなっている。

しかし、今あげた部分は肉体の主に五感を使う部分だ。心、意識、精神等にの
意識の部分に焦点を当てれば、どのように?という鍛錬の方法、向かう主体の
方法を問わなければならない。

続く
34【強さとは-5-】幼児:03/08/20 22:06 ID:7pcVZtPH
「身心統一」の身心を統一するのは、先に話したとおり「魂」だ。
だから、「魂主体で、心身統一の状態」というのが「強さ」の事だろう。
そして「魂」の知覚・認識は、観察者になるということは、既に冒頭で、
明らかにしている。

「強さ」とは、私は以上のように認識している。私もその途中途中で、
二元的強さにぐらつく時がある。そんな時は、開祖の言う、「愉快」と
いう言葉を思い出すとほほえましい心持ちになる。

続く
35【強さとは-完-】幼児:03/08/20 22:07 ID:7pcVZtPH
最後に開祖の言忘録から一つ。
******************************************************
○合気道の修業に志す人々は、心の目を開いて、合気によって神の至誠をきき、
実際に行なうことである。この大なる合気のみそぎを感得し、実行して、
大宇宙にとどこうりなく動き、よろこんで魂の錬磨にかからなければならぬ。
心ある人々は、よって合気の声を聞いて頂きたい。
人をなおすことではない。自分の心を直すことである。これが合気なのである。
又合気の使命であり、又自分自身の使命であらねばならない。
******************************************************
人をなおすことではない。自分の心を直すことである。これが合気なのである。
私はややもすると、人を直すことを考えてしまう。戒めにこの言葉を載せた。

では失敬。
36幼児:03/08/20 22:20 ID:7pcVZtPH
>>29
上げてくれた人、ありがとう。
37天下無敵! ◆sBAKA1sNcE :03/08/22 04:15 ID:HGC/OKcT
我即他ならな、人を直せば自分も直るもんや。
他だけを直そうというのがいかんのや。
38和尚 ◆bhb.NJHtRg :03/08/22 07:57 ID:aDIqjYok
>37みたいに他をなおせば自分もなおる、だなーんて言っちゃってる力で他を制すような思考の香具師が
明け方までいるようではいつまで経っても、合気はもとより社会に公の精神は育たない
戻ってこないですね。

たまには、数でモノを発言するのではなく、観点を少し変えてモノを見る時間も必要ですね。
39幼児:03/08/22 22:55 ID:PoHvtV92
昨日は、お休みで、今日もお休みだが、あらかじめ、失敬。
でも戯言を少々記す。

子供の観察記録なるものの宿題の、その「観察」を「記録」するという
事を十分理解させるために、本日は、今まで、付ききりであった。
宿題というものは、出来ればいいというものではないと考える。

ちなみに私は、カンニングというものが嫌いで、白紙でテストの
解答を出したり、世間でいう恥という事をするタイプの者だが、
私としては、こういう恥をする者と競っていた。
これで、負けたくは無かった。つまり私も別の意味で、競争はしていた。
そういうことに勝つ事は、私の強さの象徴の一端を表している。

このスレッドをしばらく、「強さ」というものを根底に置き、私の
エッセーは続ける事にしようと思う。何故ならば、武産合気というのは、
武産合気なのだが、「強さ」の方が実生活で現実味がありそうだし、
その気づきも、まったく日常生活に密着しやすいと思われるからだ。

続く
40幼児:03/08/22 22:55 ID:PoHvtV92
「強さ」という言葉は、私のこだわりではないが、「強さ」は、
諸君と問題を共有しやすい概念だからね。ただ、「強さ」は、
武産合気同様、該当する想念の幅が凄く広い。それを一つ一つ区別
しながら、進めてゆこうと思う。2chでの問題の核心は、この「強さ」
に終始している。

世間では強さは、弱さと対立する二元論だが、武道では「強さ」
という一元論的にとらえる。だから武道、武術の世界では、「強さ」は、
一元論的前提に立って話しを進めた方が、よいと思われる。

ただ、武道の世界に入っていけば入ってゆくほど、「強さ」しか無い
と思える心持ちになり、「強さ」にこだわるのは、むしろおかしい事
でもあるのだが、「神」という言葉や、「武産合気」「宇宙」は、
他武道の方にとっては、精神世界、あるいは、観念論的に条件反射的に
拒否反応されやすい。だから、一元論的強さでもって、語る方が、
よいと考えるに至った。

私としても、「強さ」を一元論で語るのは新鮮ではあるしね。
では、本日は失敬。
41【強さ=称え合う-1-】幼児:03/08/23 21:29 ID:V/MLKQLX
今日は休みだ、そして暑い。私は日頃クーラーの中で仕事している弱虫だ。

ところで、我々はどんな強さを求めるのだろう?
そして強さの特徴とは一体なんなのか?こんな事を考えてみたい。

私は日頃クーラーの中で仕事している弱虫だ。と冒頭で言ったが、
弱虫をさらに弱虫にしてしまうような環境を、どんどん「快適」という言葉に
すり替えて、我々は弱虫だらけの社会になっている。
弱虫は、弱虫の社会において、強者という幻想状態でいられる。

弱虫は強者の社会では、依然弱虫なのだが、強者の社会を排除するあるシステムを
こしらえれ、それを人間社会の支配的システムとして成立させれば、
強者は弱虫社会のシステムの中で、逆に、弱者という幻想状態に落とし込まれる。
面白い現象だね。
一言で言えば、平等主義、民主主義、資本主義、功利主義、合理主義、などの
弱者保護のシステムであり、イデオロギーの正体だ。

続く
42【強さ=称え合う-2-】幼児:03/08/23 21:30 ID:V/MLKQLX
この現象の根底には(人間社会だけの)平等主義がある。
平等主義の考え方は、地球全体にまで広げれば、素晴らしい考えかもしれないが、
人間社会だけで当てはめ、かつ国家主義を解するると、平均主義に成り下がる。
2chでも平均主義が多勢であるため、もっとも強いであろう考えや、
事実は、排除される傾向があるのは諸君の目にするところだろう。

しかも、その現象は我々自信が納得している。
「それを言ってはおしまいだ!」という事をね。
我々は、実はごまかしあっこが好きなんだ。
それ自体、遊びで使うのは楽しいからね。ただ、多くは本気だ。
それが絶対だと信じているということだ。

続く
43【強さ=称え合う-3-】幼児:03/08/23 21:30 ID:V/MLKQLX
しかし、人間は、これ以上弱虫にはならないぞ!という衝動がどこからか
起こってくる。つまり、今、私はぬるま湯に浸かっているなぁ。という
実感として「命の声」を聞く。これを私は「強さ」の声、
すなわち神(命)の声とする。

強さの声は、いつも私達は聞いている。落ち込んでいる時、フッと
どうでも良いことに悩んでいるんだろうなぁ〜と命の声を聞いたり、
なんらかの強さを求める時、本当は自分は強いのではないか?という
声を聞いたり、本音をねじ曲げて、うらはらな言葉、態度をとるとき、
命の声は、「嘘っぱち!」と我々に警告する。

つまり無意識の声は、我々はいつも認識はしているが、気づかない
振りをしている。さらに、気づかない振りが当たり前になったとき、
「無意識の知覚そのものが出来ない意識である」という観念を信じ込む。
さらに、その根底が在る限り、無意識がらみ、あるいは、それから
波及するような観念そのものを否定し始める。

これが、神、あるいは、一元的強さから離れる意識の流れだと私は、
観察する。

続く
44【強さ=称え合う-4-】幼児:03/08/23 21:30 ID:V/MLKQLX
つまり今、我々が築いている社会や、共有している観念、想念は、
ごまかしがありながら、そのごまかしに気づかない者と、バレバレでも、
遊んでいる者と、元にもどそうと活動する者がいるという事実だ。

それは、人間の見てくれには関係ない、乞食の中にもその分類はあるし、
東大生の中でもその分類はある。知識人と言われる人の中の分類にも当てはまる。
人間界というものは、そういった外面的概要で支配されていない。
つまり私の言いたい事は、「強い」という概念は、普遍的でなければ、
それは誤魔化しに立脚した「強さ」であって、武道・武術の目指す強さではないと
いうことだ。

例えば、あいつより強くなれば良いという気持ちで、武道を始めたとしよう。
武道に触れて、それ以上に強いヤツを観、あらゆる自分の弱さを自覚したとしよう。
当初抱いた、あいつより強くなれば良いというのは、何処かへ行ってしまい。
自分の弱さの克服という別の目標を目指す事になるだろう。

しかし、この次元で我々は葛藤がある。あいつより強くなれば良いのだから、
それだけを考えて、強さを追究するのだが、その「あいつ」という想定が、
低かった場合、低レベルの強さを、真の強さであるがごとく考える現象が
起きる。

続く
45【強さ=称え合う-5-】幼児:03/08/23 21:30 ID:V/MLKQLX
これは、本人にとってみれば、そのように自己規定しなければ、
鍛錬に身が入らないだろうし、果てしない強さの追求は、その本人にとっては、
現実的に知覚、認識できない強さであり、さらに、そんな強さはその本人に
とっては、現実感にかすりもしない概念だろう。

弱者の発想の特徴に、自己規定というのがある。目標という概念や、
終わりという概念、そして完璧という概念等、これらは、全て、
到着地点がある。その到着地点というものを持たなければならない者が
私は弱者の発想の一端を指し示していると考える。

何故ならば、強さというものは、青天井だ。そこに目標が在ること自体、
青天井の強さから見ると、弱者の発想ではなかろうか?。つまり、
青天井の強さを求めると、自分は常に弱いのだという自覚が生まれてしまうと
思ってしまう発想が根底にあるからだと考える。

続く
46【強さ=称え合う-6-】幼児:03/08/23 21:30 ID:V/MLKQLX
強さというものは、思想的にも現れるという事だし、その存在の発する
全ての行いに影響する。「魂のひれ振り」現象はいつでも起こっている。
ちなみに「北斗のケン」のラオウが神を目指した。ケンシロウが一番強いと
我々は納得した。つまりケンシロウの魂の現れである、思想は、我々は、
マンガを通じて把握しているはずだ。その正体がなんなのか?は、
開祖の思想に通じるものがあると思う。

話は転換して、実は強さというのは、一つの美意識だと私は考えている。
強さは現象として規定できない。個人個人違う強さという様々な概念を持っている。
しかも、一般的な強さというと、どうも我々は男性的な強さのみの概念に
とらわれてしまう。

たとえば、男性は力の信仰を強さで表現し、女性は美の信仰を強さと表現すると
しよう。どちらも、ある一方の性の特徴的美意識を信仰している。
それを性という比較的大きな概念内でも括れる「強さ」の表現方法だと考える。
だから強さとは、男女両方で受け入れられやすい表現方法とするならば、
「美」と置き換えたくなる。

続く
47【強さ=称え合う-7-】幼児:03/08/23 21:31 ID:V/MLKQLX
つまり、メスは、オスの強さを美しく思う特徴があり、オスは、メスの美しさを
美しく思う特徴があり、どちらも、その性のありのままの姿であるもっとも
その異性の特徴らしさに、どちらの性も惹かれる。だから、その視点から
観るならば、人間というものは、美しく、実は美しさをたたえ合っているのが
美というものではないかと考えている。

今の社会は、美を競う社会となって、その見返りに金銭が入るという結果主義に
おちいるのは理解できる。一方、別の世界では、「競争」から、「称え合う」という
マトリックスに入れ替わってもおかしくないことに気づく。これは、強者の
社会の実態だろう。強い者つまり美意識の高い者が、より称え合う能力がある
社会ということだ。

身近な恋愛を例にとって、その根拠としよう。男女の恋愛は、最初はたたえ合う。
そしてお互いの違いを愛おしく思う。そして一つになりたいと思う。
(一つに成るという概念も、男女ではとらえ方が違うが、ここでは、追究しない。)

つまり、恋愛初期のように、情念(感情)レベルが、支配的な心の状態では、
思考の介入がすくない。簡単にいえば、本能による行動に極めて近い事をしている
状態だろう。「恋いは盲目」という格言があるが、恋いは人をありのままの状態に
するという事だ。

続く
48【強さ=称え合う-8-】幼児:03/08/23 21:31 ID:V/MLKQLX
そして客観意識というものがどっかに飛んで行ってしまって、
相手がどのような人間か?他者の視点から公平に見られなくなるということで、
その他者の視点とは、その個人がそうであろうと思っている世界の見方がすっかり
変わってしまった状態だ。

言葉を変えるならば、「かもしれない?」という視点から、
「でなければならない!」という確信的視点への変化と言える。
その状態とは、欠点とか、汚点などの概念は存在しない。それらを含めて、
全て愛しているという状態だろう。だから「たたえる」という事しかない。
結果的に、恋いとは、たたえ合う状態であり、恋愛初期は、その傾向が
強調されて現れるということだろう。

これは何を意味するのだろうか?「強さ」(美)というのは、たたえる
行為によってさらに磨きがかかるとは言えないか?その対局に位置するのが
対立であり競争だ。称え合う事には限りがなく、そしてみんなが称え合って、
まさに良いことづくめだと思う。小さなグループではそのような場もあるが、
全体では、今の先進国では、「称え合う」という行為そのものが弱者の発想
であるというとらえ方をされるだろう。

続く
49【強さ=称え合う-完-】幼児:03/08/23 21:31 ID:V/MLKQLX
強者の発想が、競争の事を「称え合う」とするならば、弱者の発想は、
称え合うの事を「競争する」というだろう。つまり、この二元論は
対局している。しかし、「強者」そのものが一元的概念であるならば、
「称え合う」という行動は一元的事であり、武道では普遍的概念となる。

いわば、弱者から観れば、「称え合う」行為が、弱者に見えるだけで、
強者から観れば、当たり前の事だという点に注目してもらいたい。
これは我々の道場では、ごく自然に行われている風景だろう。
力比べは道場ではしないし、よい技術などをもっているものからは、
学ぶだろうしね。合気道的、切磋琢磨の意味は「称え合う」事なんだろう。

さて、切磋琢磨という話が出たが、これも競争概念から観ると、弱者の発想に
映るんだ。前提が違うからそのように見える。競争概念から観ると、
切磋琢磨とは、競争的に捉えるだろう。私はこの競争的考え方は、
近年の社会動向を見ると、個人的には、旧マトリックスになるだろうと予感している。
諸君はどのように考えるかな?

では失敬。
50名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/24 07:12 ID:TfhhqdrW
朝から読めage
今日は、思わず「恥ずかしい!」と思うようなタイトルだ。
かんにん願いたい。

昨日は、強さは、称え合うことで、磨かれるという所で帰結した。
そして合気道でいう切磋琢磨は他人と競争する事ではなく、
それぞれを称え合い、良き部分をみんなで積み上げてゆくという
「美(強さ)」の称え合いにより、その「美(強さ)」を自分の一部に
してゆく鍛錬形態である。このような内容を書いた。

ここで、競うという概念と称え合いとは、対局する概念ではなく、
称え合いの行為そのものは、他者と共生する術を磨いているわけだから、
いずれにしても統一・調和に向かうと言える。これは、我々自身に置き換えれば、
自分の心の中での競争する分裂因子の破壊作業とも言える。分裂因子とは、
悩みとか、どうにもならない問題とか、繰り返してしまう悪い癖とかだ。

分裂因子の破壊作業とは、自分の中で矛盾をつくらない事であり、
分裂因子が無意識と認識できる意識(いつもの意識)とするならば、
武道鍛錬とは、無意識を露出させ、無意識の鍛錬を行う事であると言える。
つまり、日常生活では、本音と建て前のギャップがなくなって、
丸裸の我々自身であっても恥ずかしくない人間になることを目指して
いる鍛錬と言える。このような事は、
>>22
【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】で語って来た。

続く
この世の、共通の理というものを持っているということは、強い。
どこでも強い。だから、武道というものは、我が国で、今まで残ってきた素晴らしい
伝統学問だと私は思っている。

さて、我々が色々な認識・知覚を得る方法、つまり他人で言えば、その人らしさを
伝える情報は、行動に表れるのはご存じの通り。そして行動をする本体は、
無意識であると言える。つまり我々は他者の無意識を他者の識別情報として無意識に
使用しているということだ。行動即無意識ならば、「無意識は気」と言えるし、
気の鍛錬という事で、無意識の鍛錬へとつながり、この点の分裂は収まる所に納める
事ができる。結果的に気即行動、行動即気という視点が我々の内面に構築される。

合気は、気の鍛錬で、己の無意識を通常の意識とし、他者の気を知覚できる
意識となる状態をスタートとし、そして初めて、相対する肉体は、我が肉体ごとく、
反射反応として扱う事ができ、他者の意思と裏腹な身体的反応を誘発させる術だと言える。
だから、気の認識、すなわち自己の無意識の自覚なくして合気をコントロールする
事はできないと言える。

続く
しかし、合気の稽古をしていれば、型自身が、相手の無意識をコントロールする事ができる
ようこしらえてある。だから、気(無意識)の自覚なくしても、無意識の反射反応を他者に
術することはできる。しかし自覚なきあるいは知覚なき、技は、型に助けられている
状態であると言える。

応用というのは、その人が動けば合気という状態ということだが、結論は、気の知覚範囲
を越えて、出力することはできないということであり、知覚、認識なきものを、技の中に
内包して、相手に伝える事ができるはずがないということでもある。だから型を学んで、
型の創設者なり、内包されているメッセージを解読できれば、型の役目は終わるのだろう。

気は決して無意識だけではなく、便宜上ここでは、無意識としていることを
ご容赦願いたい。

この辺りは、分かりやすく正確に伝えたい所だが、私の文章能力にも限界があるので、
諸君の実体験を加えて、ご理解頂きたい。ただ、在る程度、心の認識や、無意識の認識
レベルに達した人でなければ、理解しにくいだろうが、私はその理解の幅を極力広く
持たせながら、伝えているつもりだ。

続く
さて、今度は、我々個人の心の戦いに話しを移そう。
人間の行動の多くが無意識のコントロール下にあるという事は先に語った。
まさに機械的反応だという事で、これは個人の内面にも現れている。
例えば、我々の抱く恐怖の正体のほどんどが無意識的心の反応であり、
その反応そのものを我々は恐れている。つまり実体のないものを恐れている。

目の前にある対象物を恐れているのではなく、自分が怖いという事だ。
ここをしっかり正確に我々は理解する必要がある。敵という概念も同様、
愛おしいという概念も同様、全て自分の反応を、我々の心はとらえて、
様々な反応をする。

しかし、無意識を意識に露出されるならば、その正体が分かるわけで、
その正体が分かれば、恐怖の正体も自覚でき、それを怖がる必要があるなら、
そのような選択をすればよいし、その必要がないなら別の選択をすればよい。
つまり、観察できれば、選ぶ事ができるということになる。

続く
これは何を意味するのかというと、心を道具として使う事ができるという事で、
気をコントロールして、行動として、技として使う事が可能となる。
だから、合気道では、心の技、つまり「気」が第一義でなければならないという
ことの根拠の示唆としてだらだら書いた次第だ。開祖は魂主体で鍛錬を…。と言うが、
私は現代風にアレンジしてその一部を示唆したに過ぎない。

合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物であるという認識を得て、
素晴らしい世界が広がるのではないかと私は思う。そして、その心でもって
身体運動がなされるとするならば、合気の動き、合気の呼吸、合気の身体が
当然のごとく、我々の身体として勝手に付録として付いてくる。
なんといっても共通の理の会得ほど、生きる上での最強な武器はないだろうからね。

では失敬。
56幼児:03/08/24 22:01 ID:fq0JQpl0
明日の予告は、「論理と合気道」だ。合気道は論理学でもあるという事と、
合気道の言語表現の応用事例、すなわち合気道を言語コニュニケーションに
使う為のトリガーとなれば幸いと思い、半分書いた。だから予告できる。

では失敬。
ロジックすなわち論理は合気道にどのように生かせるだろうか?
またどのような関係があるのか?これを考えてみたい。

私は論理という言葉は嫌いだが、話の筋道を立てるのに仕方なく使うというのが
正確な実感だ。しかし言語が人間界の共通スタイルなら、これはとても重要だと思う。
自分の今の状態を理解する事を思考で記録するには、言葉が必要で、
言葉は筋道がないと理解不可能だ。論理は言葉とセットになった思考術とも言える。

試しに最近の稽古の反省、検証をしてみてほしい。イメージだけで、は状況描写の
再体験はできても、自分自身に理解させる事は不可能であることに気づく。
当たり前の事で、検証の大家?である科学も言葉が無ければ無力だ。科学的というのは、
論理的ということであり、筋道の説明だ。

続く
理合いもそれが口伝であるならば、論理を用いてしか説明できない。
論理とは、自分あるいは、他人に誤解なく伝える為の思考の流れを作る思考術である。
感覚だけでは、感覚を在る程度共有できる者同士でしか通用せず、不特定多数の他者への
説明、記録、検証などには、事のいきさつの筋道を立てる事は不可欠だろう。

思考の世界でも、筋道、すなわち気の流れがうまく立てられるかどうかが生死を左右する。

論理とは、一元が全てで、前提が全てで、かつ全てが前提であるということだ。
だから論理の構築主人は、ある前提の一元論者であり、一元だからこそ、
いかようにも分裂が可能となるということだ。

同時に論理は、最初の一元が間違っていれば全てが間違いだということだ。
これを合気道に当てはめれば、体の変更が出来なければ全てがダメということになる。
また、勝負で言えば、前提を崩せば、勝ち。崩せなければ、負けということだ。

続く
あとはその繰り返しであり、開祖は神という前提があったから、その思考の筋道は
全て神に帰着する。論理的には、その繰り返し作業だということだ。
神という前提が論理的に負けるはずがないでしょ?ごく当然の理屈だね。

だから、前提が低い場合は、その低さも含むさらなる前提をこしらえれば、丸く収まる。
論理的にはそういう事だ。だから神という最高概念は重要だと論理的に私はとらえる。

日常我々が語る言葉も、前提が二元論なら、絶対普遍の理論にはならない。
相対する論理の数が、それに相対する論理の数だけ、同時にこしらえる事になる。

2chでおなじみだし、今の社会の複雑化の現象だ。どこから発生した論理か、訳が
わからなくなっているような、論理が宙ぶらりんになっているような感覚を覚える
事が多いだろう。でも、思考術である論理(前提)を観れば、別に不思議でもない。
言っている事、語られる事は、全て筋が通っている。間違いは存在しない。

続く
私自身の言葉も、繰り返しで、どなたかが私に向けて過去に言ってくれたね。
私の論理の一元は、「心>技>体」の気長な論証作業だと。私の論理の前提を合気道的に
言うなら、「気」です。別に神でも心でもなんでもいいわけで、気の種類、あるいは、
抽象概念の具体化を探求としております。探求というのは、創造でもあり、仮説でもあり、
発見でもある。応用無限ということだ。

主題は、論理という一元論の話だから、その話を進めようと思う。開祖も合気道の技も
その一元(神)から始まった。そしてレトリック(論理の技)を用いて、すなわち、言葉を
効果的に使って、分かりやすく表現することを論理の技と解釈してもらっていいだろう。

それが美しかったり、現実離れな表現だったり、宗教的な表現だったりするのが、
一つの理解してもらう為の言語表現技術であり、世間は、芸術といったり、詩と言ったり、
俳句といったり、教義的といったりする。合気道を世間で「武道」といいうようにね。
しかし、そのようなものは、ただのレッテルであり、本質は違う。
だから、我々は、論理と論理の技であるレトリックで、一元概念、すなわち、
もっともいわんとする事の確信を、言葉でとらえているという現象がわかる。

続く
レトリック(論理の技)量は、言語表現(コニュニケーション)の一つの技術である。
合気道でいえば、身体操作術(体術)に相当する。そして論理自身は、一元である
身心(自分)と言える。
その身心(自分)の核である、無意識や、魂としてもよいだろう。

私が盛んに用いる論理手段は、「帰納法(きのう法)」と言われるもので、具体事実から
普遍を導き出す方法である。普遍の発見は、合気道でいえば、合気の型から、
日常生活への応用手段の普遍性の発見と言い換える事もできる。合気道の稽古は、
この普遍性の発見だろう。だから本来、合気道をすれば、そのような思考術が得意になるはずだ。
そして普遍を体で表現できれば、応用技が出せる状態だ。

「演繹法(えんきほう)」は、上記の逆で、普遍から具体的な事例を導き出す方法で、
日常生活で普遍的な現象を、合気道の技に取り入れるということで、合気道も宇宙という
普遍事実から技への表現へとおとしこんでいる。

続く
「弁証法」は、二者選択の中で、それぞれの長所を高めあい、欠点を補う方法。
つまり統一方法で、絶対が調和にある。調和するように論理をこさえてゆけば、
弁証法になる。簡単ではあるがそのように理解している。これは、稽古では
我々は、仮説を立てて、道場で検証する作業そのものだ。

そして、上記3法の論理構築の技術、すなわち思考技術は、ほとんど意識せずとも
合気道的だし、論理の技術である「普遍の発見」と「普遍の応用」そして、
「対立なき調和」という考え方は、そのまま合気道だ。こう観ると、
合気道は論理学・思考術とも言えなくもない。私には、この点において、区別ができない。

しかし、当たり前の事だ。論理が一元論なんだから、合気道が論理と矛盾する
はずがない。そしてさらに、確信に迫ろうと思う。

余談
広大無辺な合気道に不可能はない?。言い過ぎだね。前提が神なら十分論理的だ。
しかしこの発言は、独断と、自我が入ってるので、拡大解釈です。あしからず。

続く
つまり一元思考である論理の技術する為には、自分の頭が必要だ。
そしてそのための工夫(術)は様々ある。
例えば、「有機的」という視野。これは、様々な部分から全体がなりたち調和している状態
からながめる視点。すなわち調和からながめる視点であり、神、気、宇宙という概念から
ながめる視点。神様ならどう考えるか?と問うてもいいね。

「俯瞰的(ふかん)視点」というのもある。これは、鳥のように空から、地面をまるで、
地図のごとくながめる視点。これも先の「有機的視点」と同様。神、気、宇宙という概念から
ながめる視点だね。これらは、自分を越えたより大きな存在からものを観るという概念で、
論理に自我という雑音を避ける知恵だろう。鳥になって観よう!だね。

続く
相手の身になってというのは、二元論だ。自分という視点も同様だ。
これらは論理的ではない。論理に対立があるはずがない。
あるのは筋道が飛躍していたり、自分という自我の独断・思惑が入ったりした時、
論理の切れ(伝達)が悪くなるということで、体術でいえば、技にスキがあるということだ。

ただ、この点は重要だと思うが、二元論は、レトリック(技)で、
前提を説明する段階で使う手段であるという完全なる理解が必要だ。
論理自身は、一元だからね。

前提なき説明は、論理的ではないという事が成り立つ。あるのは、感覚共有しかない。
おしゃべりには、論理は不要で、感覚を共有して仲良くすればよい。目的が違うからね。
論理は前提を説明する。おしゃべりは、感覚を共有する。

続く
感覚的な前提説明でも、もちろん暗黙の前提があるだろうが、それらは、前提の誤解による、
感覚共有が成立しにくい。つまり対立しやるい。対立が成立している状態というのは、
前提の違いに過ぎないという点を見逃してはならない。

前提が違う、あるいは、前提で、理解しあえないならば、両者あるいは、
一方が、調和を目指していない前提であるということだ。

しかし、個人の前提の不調和は、無知から来るもので、無知を既知にする事は、可能か?
という問いがあるが、どうだろう?難しい問題だ。自分自身を信じていない人に、
自分を理解せよ!というのは難しいということだ。

このように、論理という言語の伝達の当たり前の手段を、合気道では、体術を通じて、
学ぶ事ができるという点、そして、それを思考方法の一つの論理術という応用を、
意識、あるいは無意識に会得しているという事を指し示した。

続く
さて、論理術は自分の頭で考え、言語によって鍛錬するわけだが、
あくまで、自分の頭で考える鍛錬であって、誰かの言った事をオウム返しのごとく、
記憶することではない。つまり文部省的、自己洗脳力ではない。

自己洗脳にかかると、論理の飛躍が現れる。「当たり前」という概念自体
洗脳の産物だ。「当たり前」な事は、説明後において、そうなる訳で、
説明前に、「当たり前」がある場合は、自己洗脳を自己宣言している訳だ。

合気道でも、型は覚えるのではなく理解するのである。いわば、合気道的身体運動の
芯をせっせとこしらえる作業だが、思考術においても、自分の頭の使い方の
芯を自分で考えて、一元(自分の前提)をこしらえる作業と言える。
自分とは何か?を問う作業とも言える。

続く
思考術においての一元は、始めは、抽象概念として認識される。
意味が良くわからない!、不思議だ!、驚き!、神秘的という表現に表される
感覚だ。その反対は具体概念という事で、我々は、抽象概念を論理にできたとき
具体概念となる。

つまり無知→抽象→既知となる。だから抽象的なものを思考が
とらえる事ができて初めて、無知からの脱出の第一歩が始まる。いや、その前に
自分の無知を知覚しなくてはならない。

しかし、今の流行は具体概念好きが多勢を占め、抽象概念好きは極めて少ない。
これは何を意味するかというと、無知が多いということで、自分の頭で考えない
者が多数で、支配的であるということだ。だから「もっと具体的に説明せよ!」と、
自分の無知を、恥ずかしくもなく、ふてぶてしく語る者が、胸を張っている滑稽な姿が
当たり前の世の中になっている。つまり無知を知る事を喜べない。

続く
その者達に、分かるように説明しようとすると、「今度は話が長い!」と胸を張る。
つまり、知らない事は知りたくないというのが今の流行であり、洗脳外の概念は
受け付ける事すらしないという、思考サイクルが確立されているということだろう。

思考術において抽象思考ができることは、必要条件だと思う。文字を読むの
が面白くないというのは抽象思考がききない証拠であるし、同時に、思考の鍛錬の
不足が上げられる。これは自己検証と等の反省という言葉に代表される気づきの、
絶対量の不足感を誘発する。つまり、発見、創造、仮説、直感、に劣るということだ。

続く
論理術あるいは、思考術を磨く事は、あらゆる物事の修得速度を速める結果となる。
だから、我々の成長にとても大事な技の一つだと思う。我々も、自分の頭で考え、
抽象概念好きになろうではないか!
といっても、合気道を愛好する事自体、抽象概念好きなんだがね。

結果的に合気道をすれば良いということなんだ。しかし、「やれば分かる!」
と言いたい所だが、これは論理的ではない。だから、だらだら書いた次第。

つまり私は、本来、論理嫌いということだ。しかし理解はしてもらいたい。
この相反する矛盾が「面倒」という感情を私の中で生んでいる。
だから生きるということは、すなわち「面倒」であり、自分の「面」を
倒す。つまり自分を捨てなければならないという事なんだろうか?と
考えたりするわけさ。

では失敬。
70もくじ:03/08/26 01:24 ID:f33rAOAO

**************************
>>6 :【はじめに】
>>14 :【合気道感のバックボーン】
>>22 :【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】
>>30 :【強さとは】
>>41 :【強さ=称え合う】
>>51 :【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】
>>57 :【合気道は論理術(思考術)?】
**************************
71【生死は論理ではない-1-】幼児:03/08/26 23:24 ID:f33rAOAO
昨日は論理と合気道について語った。
しかし、論理は自分と他者への説明するための道具であって、
論理的生き方というのは、まったく現実的でなく、ナルシシズムになってしまう。
つまり、うぬぼれや、自己陶酔が強くなる。

つまり昨日は論理を語り、今日は人間の生死、すなわち人生から論理をとらえる
事になる。結論は、論理的生き方は成長を阻害する訳だが、順をおって、考えてみる。

私がナルシシズムが嫌いなのは、自己規定(プログラム)があるからだ。
ナルシシズムは、自己規定という前提、すなわち自己理想化があり、
優越感というものを好む特性がセットで現れる。
それが、他人に向けて現れると、け落とし、見下げ、足下を見る等という態度があり、
相手によって態度がころころ変わる。現象としては面白いが。人間としての
実際の優劣とはなんの関係もない。

続く
72【生死は論理ではない-2-】幼児:03/08/26 23:24 ID:f33rAOAO
我々は、いつも同じ視点からものを観、同じ表現・行動をパターンを繰り返す。
結果的にいつも、別のパターンや現象を見失う。これが、我々の現実の認識の仕方だ。
悔しいが真実だろう。

しかし、成長を望むなら新しいものを観るというより、同じものを違った角度
から観る思考力が要求されると私は考える。成長という今には、論理はない。
あるのは、純粋経験であり、むしろ情動だろう。

完璧というのは論理的に完璧ということで、結果説明である論理は完璧性を
追究することは限りなく可能だろう。しかしながら、人間の生死(人生)においては、
そうではない。そうではないというのは、人生は記録ではないということだ。
人生は映画ではなく、主人公になるのが人生だ。

続く
73【生死は論理ではない-3-】幼児:03/08/26 23:24 ID:f33rAOAO
何故、人は論じるのか?論じる事は筋道を立てる事で、自分の頭の中に小説をこさえて、
おこった現象を記憶しやすくするためだろう。記憶はそのように整理して理解されている。
想い出というのはまさに、頭に映るスクリーンだろう。実際とは違うだろうが、
そのように記憶されているということだ。思い出すことによってそのときの感動を
再体験する。

つまり、論理は前提が無ければ成立しない。私は、人間に前提は無いという立場だという事だ。
前提という制限がないということは、自由ということで、ロジックなどに支配されていない
ということで、プログラムではないということだ。
論理的生き方というのは、プログラム内で生きるという自己洗脳であり自分中心の生き方となる。

続く
74【生死は論理ではない-4-】幼児:03/08/26 23:25 ID:f33rAOAO
一方、同じ自己洗脳でも、プログラムを破壊するという自己洗脳もある。破壊衝動は、
ずばり命への感動。人生への期待。神への感謝。そんなものが代表的な感情だろう。
自分は、説明にすぎず、主体は全体にあるという考え方であるが、合気道的思想だろう。

一見、昨日私の論じた事と矛盾するように見えるが、そうではない。
あくまで、論理は術であり、主体は「心身」であるという事だ。論理の術は、
合気道でいう身体操作であり、両者は、心身の現れに過ぎないという事だと言うことだ。

大抵我々は、何らかの偏見をもっているが、持っているというより、
絶対的に持たされている。つまりプログラムされていて、条件反射をしてしまう。
明日も生きていると、疑う者は少ないだろうからね。次の瞬間、今座っている
イスが壊れて、尻餅付くとは考えられないからね。つまり事は突然起こるのだが、
起こらないという前提で生きているわけだ。

続く
75【生死は論理ではない-5-】幼児:03/08/26 23:25 ID:f33rAOAO
そこで、自分のプログラム解除方法のアイデアではなく、他者のプログラムの
正体の見方、とらえ方の本質を考えてみよう。
その大前提として、私たちは日本人だということで、単一民族だというものが
ある。

つまり、我々は在る程度分かり合ったもの同士の言語文化でなりたっている世界に
住んでいる。他民族国家などでは、分かり合っていない者同士の言語文化
という前提がある。つまり、今となりに座っている人、あるいは、2chで語る
者達とあまり大きな違いはないだろうという無意識の前提がある。

多少、海外生活を経験したり、ある種の身体的障害をもった人に接したり、
同性愛者だったり、つまり自分のマイノリティーさを見いだした人は、
自分の偏見を広く自覚しているだろうが、多くはそうではないのは、
我々の住む身近な風景を見れば、わかる事だろう。

続く
76【生死は論理ではない-6-】幼児:03/08/26 23:25 ID:f33rAOAO
冒頭で、我々、いつも同じ視点からものを観、同じ表現・行動をパターンを繰り返す。
結果的にいつも、別のパターンや現象を見失う。これが、我々の現実の認識の仕方だ。

これが他人の現実と考えて頂いてよいだろう。つまり現実のとらえ方は、
実は、共有は不可能に近いということで、他人を理解するというのは、
私は絶対に不可能であるという立場に立っている。理解というものを、
完全一致的に捉えるという前提があるが、そのような意味で理解を使っている。

一番身近な他人である妻の、性的快楽の感覚共有などできないし、
妻が私をみて、どのように実感しているのかは、実感できない。
実感というのが重要で、物事とは、物である現象は理解できるが、
事である実感は理解しえない。現象から創造して、
「ああ、こんな事を考えているなぁ?!」という程度だ。

続く
77【生死は論理ではない-7-】幼児:03/08/26 23:25 ID:f33rAOAO
まあ、夫婦であるなら、いつも一緒で感覚共有しているから、
在る程度わかれば、そこからほとんどわかってしまう。
しかし、その関係の一例を普遍的に拡大解釈し、他人や、子供にまで
それを当てはめるのは適切ではないと考える。

もし我々が論理力を身に付いけていない、あるいは、感覚表現のみの言葉しか
用いないのなら、馴れ合いである。他者意識の欠落・自分と他人の区別が
明確ではない世界に住んでいる事になる。群・派閥・組織というものは、
ほとんどこの馴れ合いによって、害がうまれる。良い方向にうごけば、
絆ということになる。

しかし、いずれにしても馴れ合いは、言語の筋道を明確にしないスタイルで
コニュニケーションがなされるので、論理の鍛錬の不足が生じ、他者への
説明力が養われていない。同時に、自分というものを知る力もそがれ、
流される者を沢山そだてる関係になる。すなわち自分の頭で考えない者を
増殖させる関係が、馴れ合いという事だ。

続く
78【生死は論理ではない-8-】幼児:03/08/26 23:26 ID:f33rAOAO
この現象を武術的に説明すれば、言語の武術化がなされていないと言うことで、
議論に弱いと言える。さらに、議論を知らないともいえる。馴れ合いの中での
議論のとらえられかたは、仲良し・喧嘩・村八分・とかいじめだろう。
議論はそのようなものではなく、他者との理解を進める事だ。

他者との理解を進める過程であっても、馴れ合い特有の概念は存在しえないとも
言える。だから、逆の思考で、仲良し=理解でもなく、喧嘩=理解でもない。
理解→より理解だ。左のような結果、喧嘩・仲良し・村八分となる。

武術においても、なんにおいても、特殊なものや、奇想天外な事を説明するには、
言語表現不可の地点に必ず来る。

もちろん、どの方法を用いても、言語表現で現実認識つまり経験的知覚に至ることは
ありえないが、せめて、自分の理解の臨界点の把握は言語、すなわり論理で、把握
することはできる。「できないけど、理屈は知ってるよ!」という状態には言語で
到達可能だという事だね。

続く
79【生死は論理ではない-9-】幼児:03/08/26 23:27 ID:V3fuHUZf
論理的説明ができないと、その臨界点が比較的低いということだ。
だから、達人と一般の格差が激しいということで、そこで達人のアイデアを論理を用いて、
言葉で埋めてゆくことにより、全体のレベルを上げる事になる。
但し、全体のレベルを上げる事を由とする社会に置いての話だが…。

戦争のような時は、限られた者に伝える目的があるので、限られた者に伝える伝達方式
が採用されるだろう。これは感覚共有による口伝だったり、道場内での師弟関係による
伝授の方法として今も残っている。全体に伝授するなら、セミナー的になるね。
セミナー的というのは伝授というより、紹介というほうが適切な表現だろう。

さて、現代の我々が接する社会で、他者の考えを理解するには、前提を知る事であり、
レトリック(言葉の装飾・工夫)から理解する事である。
そして前提を知る事で、結論、すわなち前提が理解できる。
結論だけ述べてもわかるが、万人にわかってもらうには、どのように
して、その結論に至ったのか理解できないと、思考の筋道を受け手が再体験できない。

続く
80【生死は論理ではない-完-】幼児:03/08/26 23:30 ID:f33rAOAO
逆に、レトリックを用いて、真実をねじ曲げるような方向へ向けようという思惑も、
同様に、レトリック(言葉の装飾)から理解する事である。論理に自我が入ると、
直ぐにわかるはずだ。前提の飛躍がでる。そして拡大解釈が出る。おかしな
タイミングで逆説が入る等。
我々は、なんとなく納得できないなぁ〜?と感じるものは、大抵、論理に
自我(思惑)が入っている。

論理は誠実を語る為にあると思う。自分の私欲を満たす為に使われるとろくな事はない。
我々は、論理を正しく使えず、しかも他者の私欲に、なんとなく納得させられてしまう
嵐の中に住んでいるといえる。論理は、武術であると私は考えているが諸君はいかが
だろうか?。

でも、「気」つまり、意図と、前提だけ見れば、大抵は他人の言いたい事は解るものでしょ。
言いたいことはなんなのか?って事は、ほとんどだれでも…。
別に言葉におどらされる事もあるまい。と私は思うんだ。ただ、言葉をあやつって、
私欲を満たす下劣な者に踊らされている善良な人が、後を絶たないと思うからちょっと
考えてみたわけです。

では失敬。
81幼児:03/08/26 23:56 ID:f33rAOAO
論理嫌いの私の論理話はコレくらいにする。
論理話は具体的過ぎる。素っ気ない気がしてしまうね。
では、次回お会いしよう。
82【宗教的-1-】幼児:03/08/28 23:01 ID:+vUvyg8F
今日は、私の今を語ってみようと思う。
私は人間の持ち物である、思考、感情、思想、等は、言葉を通じて、諸君と共有できる
部分が多いだろうから、ここでのエッセイで取り上げるが、感覚に関しては、取り上げない。
取り上げたとしても、私の感想に過ぎない事を知っている。

感覚、つまり身体運動時の我々が、みずからの身体に向ける意識の話とか、
感性の部分が多くを占める心の癖の問題の具体的例等は、共有不可能だ。

だからもし、その話題を起こすならば、力学の話となってしまうが、
合気道での身体運動は力学でとらえる事はできても、
肝心の我々の意識が置き去りになってしまう。
それでは、身体運動全体を語っていることにはならない。身体運動は部分ではない。
だから、不可能ということで、語る事を避けている。

続く
83【宗教的-2-】幼児:03/08/28 23:02 ID:+vUvyg8F
その代わり、私がエッセイで取り上げる題材は、我々の合気道鍛錬において
邪魔をする物事を明らかにし、理解が進んだなら効果が今出る。
あるいは、諸君自身の行動の行動指針の決定の一つの計りになるものを取り上げて
きたつもりだ。

事の核心は、一言で言えば、いつも言う、無意識の露出を助けるであろう、
私の気づきの提示と、私の気づきそのものが、諸君にとっての反面教師として
利用できるのではないかという期待だ。これが、何度もいう私のエッセイの動機に
なっている。同時にその無力さも知っているつもりだ。

しかし、私の発言は、しっかり焦点を絞るように心がけて来た。結果がどうであれ、
焦点を絞るほど、読者は、自分は、幼児とは違うとか、そうだ!とかが、
諸君自身で理解しやすくなる。その理解は、私が焦点を絞れば、絞る程、
諸君の意識内では、私に向けての、是非の焦点が絞られる。

言葉を変えれば、私が私の深い所を語れば、語るほど、諸君の深い所が
見えてくるということだ。同時に、私のエッセイを読んでくれている者は、
私と在る程度同じような深さで、自分自身を知っている者だ。
それでなければ、私のエッセイは成立し得ない。

続く
84【宗教的-3-】幼児:03/08/28 23:02 ID:+vUvyg8F
このエッセイ自体の私の認識を語ってみようと思う。
まず、読者数は、5、6人だと考えている。そして、読むパターンは、まとめ読み
の人も居れば、毎日読む人もいるだろうが、毎日読む人の数は、3人くらいじゃないか?
と思っている。事実はどうか分からないが、私はその5、6人に向けて書いていると
いってもいい。もちろん私自身に向けても書いている。

私が、信念を語るのは、珍しいのだが。これは信念ではないかもしれないが、
まあ、聞いていただきたい。それは、「必要」という事だ。
私の信念体系の中に、「必要」という観念がある。全てが「必要」であり、
そこから日々の生活の感じ方があるとも言える。

これは、どう生きたら良いか?、どう生きたらいつも幸福の心境で居られるか?と
問い続けてきた私自身から学んだ事だ。若い頃はだれでも野心をもっている。
そして理想をもっている。年とともに、それらは薄れる。
そして、「どう生きたら良いか?」、「どう生きたらいつも幸福の心境で居られるか?」
という問いそのものが間違っていた。その問いそのものが、理想と野心に立脚しなくては
成立しない問いであった事に気づいた。

続く
85【宗教的-4-】幼児:03/08/28 23:02 ID:+vUvyg8F
理想と野心が薄れるということは、べつに情熱が無くなったというようなとらえ方では
的を得ていない。野心・理想は、今の自分に満足していない者が、必然的にセットで持つ観念だ。
私がそれらが必要なくなったのは、今に生きるようになってからで、
今に生きるということは、「必要」な事を「必要」な時、「必要」なだけするという、
当たり前の境地だった。私は当たり前でない、ドグマにはまっていたという事だ。

この例を示そう。5年後、私は○○したい!と理想を描く者が居たとしよう。
理想主義者だね。このドグマを持つ者は、別のドグマに移らないかぎり、
5年後も、こう言うだろう。「5年後、私は○○したい!」と。ぐるぐる回る。
カルマ、業だね。

それから、車を運転する場合、常に前に進もう、進もうとする意識のドライバーが居る。
このドグマは、渋滞していても、なにをしていても、常に前へ前へという意識が働く。
自由な速度で走れない限り、常に前へ前へという、欲求不満な状態でいる心境だ。
これを幸福と取るか、不幸と取るか、道路事情へ責任転換するか、個人の意識に
委ねられる。つまり誰の責任でもなく、個人の意識の問題に帰着している。

続く
86【宗教的-5-】幼児:03/08/28 23:02 ID:+vUvyg8F
そして、理想と野心というのは、思想であり信仰であるということを、
理解する必要があるのだが、個人の意識の問題であるという認識に至らない意識の
持ち主は、感情だと思うだろう。「そう思うから仕方がないじゃないか!」と。

そこから突き抜けられない、微妙なラインがそこにある。
つまり機械的反応を感情であると勘違いしているのだが、解らない。
私が微妙なラインがあると言った、そのラインが見えないということだ。
2chでも繰り広げられる機械的反応。これの克服は、知識の量ではない。
科学の問題ではない。あらゆる学問の範囲内の問題ではない。

ラインが見えない者が考える、そのラインとらえ方は、ラインが見えない
ようにするための考え方と言える。この意味を理解して欲しい。

続く
87【宗教的-6-】幼児:03/08/28 23:02 ID:+vUvyg8F
我々は、いつも同じ視点からものを観、同じ表現・行動をパターンを繰り返す。
結果的にいつも、別のパターンや現象を見失う。これが、我々の現実の認識の仕方だ。
昨日のコピペだ。私自身もそれを繰り返している。

しかし、唯識論哲学や、禅、等の一元論的に捕らえる思想に馴染めば、その解脱の
ヒントは解りやすく伝えてくれているのだが、そのような者のグループは、
これらには見向きもしない。目の前にあるのだが、協調性という一つの流行概念に支配され、
このようなものの価値は流行しない。

協調性一つ考えても奥が深いのだが、この平均主義の世では、仲良し、雰囲気、
和の精神だとか、適当な言葉にすり替えられてしまった。どんな言葉も、同じレベルで
扱われる。簡単に茶化されてしまう。茶化して得意になるのは本人とその感覚を
共有するものだけで、茶化される方は、そちら側への介入は低調に行うはずだ。

余談だが、日本で、宗教的な生き方が流行してしまえば、国でいえば、オランダに近い
雰囲気になるのではないかな?と漠然と思うが…。余談終了。

続く
88【宗教的-完-】幼児:03/08/28 23:03 ID:+vUvyg8F
やはり、私は、宗教的生き方を捨てた、我々の流行そのものに問題があるとしか
考えられない。私が常々言う、無意識の露出は、武道でも、日常でも、どこでも
必要だと思う。そしてその教育体系や、技術は、宗教や、武道、禅、ヨガなどに
現実社会に残っている。

今、武道が宗教的な概念から離れ、格闘技的に扱われている。
武道までも、功利主義(二元論)になってしまった。
そして、我々は、先に言った、一つのライン内でぐるぐると回っているのだろう。
やれば、解る。私はこの言葉が好きだな。そして、必要ならやれ。と言うことでは
ないだろうか?。

つまり言行一致、心身統一、心神統一。結局これに尽きると思う。
まあ、私のエッセイを読む人は、理解しているだろうし、また目指している人でもある
と考える。何故ならば、そういう人しか、私のような者の文章で楽しめないだろう。
この点で、私は感覚共有を強要しているわけだ。つまり読者と私は選ばれているという
ことだ。どちらが選んでいるわけでもない。依存関係ということだ。

読まない人は、理解とかそういう問題もなく、関係ないだろうしね。
むしろ文字の無駄使いだろう。今日はひどく、落ちてみた。

では失敬。
89名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/29 10:04 ID:ln9hy8Sy
あげ
90名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/30 02:21 ID:MrddfIxB
さぼってるYO!
91【一に還元=合気-1-】幼児:03/08/30 14:09 ID:B5DNlwGm
いつものエッセイを書く前に、ちょっと私自身を見つめて見たんだ。
前書きはいつも文面の最後に入れるのだが、ちょっと書くつもりが、
長くなってしまった。

合気道に求める物事・得られる物事は、人それぞれ様々だが、
私が合気道を通じて求める物事・得られる物事は、
生きる上で支えとなる価値観(の構築)であり、自分の心身を使った
実験・模索・検証等のサイクルを回して、その価値を知り続ける、
生から死までの果ての無い道だと思っている。

続く
92【一に還元=合気-3-】幼児:03/08/30 14:09 ID:B5DNlwGm
だから、その一部である、身だけを語る事は、部分を語ることになり、
真実でいう真の部分だけを語るのは、同時に一部を語る事になると考える。
当然、私自身も、逆の立場で、部分から全体を観ることは出来ないと言う
立場をとっているということだ。

つまり、検証、根拠、事実があれば、真実である。という点には納得ができない
ということだ。目安にはなれど、どうも納得への、心のヒッカカリが残るのは
否定できない。つまり私は、三位一体でしか本当の理解に至れないというタイプの
人間であるということで、そういう理解を真実だと信ずる者でもある。

だから、私自身が私自身内で発見できる欠点も当然その考え方で認識する。
多くの人より理解が遅い、そして記憶力に優れていないとも考える。
最近特にその傾向が強く、人の名前が覚えられない。駐車場で車を止めた場所を
忘れるという現象が多々ある。しかし他で補っているという実感がある。

続く
93【一に還元=合気-4-】幼児:03/08/30 14:10 ID:B5DNlwGm
具体的には記憶に優れる者は、過去の経験を重視できる。記憶に優れないものは、
記憶に頼らない生き方を生み出すしかない。もし、一つしか記憶できないとしたら、
根本原理に目を向けるだろう。目を向けるというより、そこにしか信じられる
ものが見あたらないだろう。つまりそれしか見えなくなるだろう。
なにしろ、その一つを理解しなくては、並の人間になれないのだからね。

根本原理は、全ての原理を作り出している原理で、それを理解すれば、目の前の
根本原理の現れは、どのように根本原理から生まれているのかを理解するのは、
比較的簡単だ。理解するまでもなく、見えるものだと考える。

ところで、我々は、個々の意識を覗いて観れば、大抵なんらかのマイナス面があり、
実は、マイナス面が実は中心となり、それを補う形で、才能、能力等が、生まれるという
考え方もある。劣化補償という考え方だが、これを二元論的に解釈すると、
マイナスを補い、それで、またマイナスが見えるとそれを補う。そして、それを繰り返し
人生が終わるという考えに帰着する。

続く
94【一に還元=合気-5-】幼児:03/08/30 14:11 ID:B5DNlwGm
しかし、そうではなくて、我々の能力のマイナス面が中心とするならば、
マイナス面は、つまるところ、本質であり、我々のもっとも我々を表している部分で
あるとも考えられる。つまり、根本原理の接点であり、神と我々との接点という
視点で、我々自身のマイナス面をながめるならば、我々のマイナス面は、
つまるところ、「何も知らない」「何も知ることができない」「何もいらない」
ということであり、根本原理が「何も知らない」「何も知ることができない」
「何もいらない」ならば、そこからながめれば、あるいは、そのような意識で、
世界を観るならば、全てを知っていると言える。

これは、中心という一元論的概念は、全ての一元論で語れるものと同一で扱うという
原則を私は持っているが、それをそのまま、中心という一元論に還元させて、
発言しているということだ。この原則は私にとっては真実だ。中心・気・宇宙は
一元論で、それら一元論間での区別ななにもないという原則だ。

続く
95【一に還元=合気-完-】幼児 :03/08/30 16:13 ID:B5DNlwGm
さて、無い者からは、在る者が見える。
秩序が無い視点からは、秩序が見える。なにもない空間があるとするならば、
何かがある空間が見える。理屈上そうなるし、それに近づくように活動すれば、
そのようになることは、実感とともに、現象として我々の目前に現れる。

私、あるいは諸君自身が才能と言われるものがゼロであると仮定して、想像すれば解る。
すると、私を含め、全ての人間、あるいは、全ての存在が天才であることに気づく。
つまり、無からながめられるならば、すべての秩序、全ての存在が見えるということだ。
だから、この根本原理を、我々の日常生活に当てはめるならば、ことの根本原理に
目を向けるという方法論は、現象としては正しいのだが、むしろ、自分のもっとも
マイナス面、つまり弱さを観れば、観るほど、根本原理が理解できるということだ。

これは、この社会をみても解る。陰に真実がある。影に真実がある。
指導者に真実はなく、男性社会に真実はなく、正しい事に真実はなく。
多数派に真実はなく、強さに真実はない等、さらに、今思いついている考えに
真実はなく、自分は生きているというのは、実は真実ではない。等思いつくままに語った。

ちょっと、つぶやいた。

今晩まで失敬。


果ての無い道を、自己実現・悟り・自己発見・創造活動と様々な表現が
あるだろう。生きるという普遍的な人間活動は、上記の項目の
範ちゅう内の出来事だと考えている。こういってしまうと素っ気ないが、
言葉というものは、そんなものだろう。もっと単純なのは、生きる事は生きる事だ。
生死は生死であり、人生は人生なのだが。

2chにおいて、表現活動をするには、言葉という道具しかない。
それを用いて、表現の工夫をするのだが、やはり「この思い」を
100%伝えられたなら…、あるいは、「あの思い」を100%受け取れたならな…。
と、そんなジレンマはある。
まあ、それが根底にあって、我々は、意識の唯一のメディアである心身を使って、
意識を示唆する情報を、さらに、狭い表現ツールである言葉をつかって、表現する。

そして、その心身の、心の部分を主に語るのが、私のスタイルなのだが、
別に唯心論者ではないし、反唯物主義でもない。人間の実体は、
霊心身の三位一体(トリニティー)だと考えている。さらに、
自分の真実も、真善美と考える。そしてその三位一体をクリアして、
私は真実を実感するタイプの人間だ。

【一に還元=合気-3-】幼児に続く
97名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/30 16:47 ID:1g+JLUtO
言い訳は駄目だ。武板が崩壊しているのは、言い訳や言い逃れが多いからだよ。

もっとも、荒れないだけ良スレだな。
98【人間理解-1-】幼児:03/08/30 22:03 ID:B5DNlwGm
今日は、人間間の誤解について話してみようと思う。
我々は、いつも誤解の中で生きている。言葉の解釈の相違に基づく誤解、
建前と本音との間で生まれる誤解。異性間での感性上の誤解。まさに
誤解をすり抜けて、コミュニケーションは成り立っている。

同時に今の社会を見渡すと、在る程度、誤解は避けられない、または、誤解を承知して
表面的なコミュニケーションを当たり前のようにしている。
深いところでは、そうではないということは解るのだが、為す術もなく、
そうしている者もいる。

平和だからコミュニケーションの誤解が
死活問題にはならないからね。しかし合気道修業というものは、
死ぬ・生きる練習をしているような感覚が私にはあって、
そういう問題は見逃せない。

続く
99【人間理解-2-】幼児:03/08/30 22:04 ID:B5DNlwGm
コミュニケーションの醍醐味は表面的なコミュニケーションでは、
得られない。意思・感情・思考・感覚等を共有することは、
なんとなく分かり合ったという問題でもなく、気持ちよかったという
感覚だけの問題でもない。
意思・感情・思考・感覚等全部まとめて、理解に近づく事が醍醐味だろう。
魂の触れ合いこそコミュニケーションの醍醐味だ。

これは、健康状態も、男女の区別も、年齢も、人種も、生命形態の違いすら
関係ない、コミュニケーションの醍醐味だろう。植物と話している人は居るし、
動物はもちろん、様々な生命、また、物ですら我々はコミュニケーションしている。
私の友人は釣りが好きだが、竿を話してるし、石につまずいたら、石と話している。
つまりこの世で、人間ほど様々な物に意思を通わす生命はいないのではないか?。

ところが、人間同士だと、様相が変わる。心の壁をこしらえる。
心の壁は、意思・感情・思考・感覚等全部まとめて、個人の経験である記憶
そして、条件付けからくる、偏見等があるが、それだけではなく、
恥ずかしいとか、照れくさいとか、表現の壁がある。

続く
100【人間理解-3-】幼児 :03/08/30 22:05 ID:B5DNlwGm
つまり、その心の壁とその表現の壁が誤解の正体だと私は考える。
これは個人の問題であるが、同時に全体の問題でもある。
社会が人間関係の中に存在するならば、その出発点は一人の個人だ。
壁を突破する力があるとすれば、我々自身にある。

さて、我々が稽古する合気道は、どこまでも理解に向かう思想がある。
つまり、分裂から、融合、そしてひとつになるという思想がある。
これは、調和、和合の概念であり、同時に創造的思考の原点でもある。

言葉を変えて人と人との理解のモデルを示すなら、
理解しあおうという意思を持っているか?つまり他人を知りたいと思うか?
という意思が必要だ。人を知りたいという意思がないかぎり、理解、すなわち
融合へは向かわないのは理解できるだろう。知りたい物事しか我々は知る必要を
感じないし、同時にごく自然な事だ。

続く
101【人間理解-4-】幼児 :03/08/30 22:06 ID:B5DNlwGm
そして、その理解のレベルは浅い・深いで表されるが、
趣味や、愛好、あるいは、人間の活動体系のある部分に特化した
活動内での理解のモデルを示すなら、その対象物事の理解度の深さによって、
一つのグループの属性を形成し、ある部分での仲間意識、または、全体での
仲間意識が生まれる。趣味などで言う似たもの同士というのは、
理解深度が同じ者同士とも言える。

だからグループを観る視点は、何の深さを共有しているのか?
という視点で観ると、そのグループの求心の正体が分かる。

つまり、のめり込む物事の深さに人間は導かれてグループを
形成していると言える。一番その思想に深い者がリーダー格
となっているはずだ。つまり知っている者がリーダーとなる。

続く
102【人間理解-5-】幼児:03/08/30 22:06 ID:B5DNlwGm
趣味などでは、その趣味の理解の深さがリーダー格という点で、
帰結させたが、人間的リーダーは、そのリーダーと必ずしも
イコールではない。私が言いたいのは、特定の場での序列と、
人間全体での序列はイコールではないということで、

つまり最高(最強)の人間は誰か?という問いを立てている訳だ。
人間でいう最高位の人間は、もっとも自分を良く知っている者である
という認識に至る。つまるところ、もっとも人間という全体像の理解が
進んでいる者であると言える。

その正体といえば、意思・感情・思考・感覚の使い方が一番うまい者が
最強であるということであり、もっとも深くそれらを知る者が最強である
ということになる。そして「意思・感情・思考・感覚」は実体がないが、
そこから、体は動かされる。

続く
103【人間理解-6-】幼児 :03/08/30 22:07 ID:B5DNlwGm
言葉を変えて言うなら、「意思・感情・思考・感覚」は気であり、
気から体は動かされるということで、体系立てて、実に解りやすく
思想的、体系的にまとめたものが合気道であると私は考える。
逆にいえば、合気道に触れて、「意思・感情・思考・感覚」の
必要性を痛感したとも言える。

だから人間の本質を理解することは、私とあなたの共通点を理解することで、
共通点を理解することは、普遍的な人間の特性を把握することであり、
最終的には、人間の特性に絞ってみても、生物の本質に迫る事になる。

生命の本質では、生命の違いこそあれ、なにも誤解は生じていない。
深く探れば探るほど、誤解というものは、理解に代わり、さらに、
理解そのものもなく、元から調和しているという地点にくる。

全ては調和しているのが我々の本来の姿である。

続く
104【人間理解-7-】幼児:03/08/30 22:07 ID:B5DNlwGm
一つから分裂を起こす事と、分裂から一つの秩序を見いだす事は
同じ事だということが理解できると思う。分裂は割ればよい、
融合はくっつければよい。

しかし、あまりにもバラバラに分裂されたものを、プラモデルのような
設計図もなしに、一つにまとめる事ほど難しい事はない。あまりにも
複雑化した魄から魂に至る事は、不可能といえる。

しかし人間の心は、違いがあるとは思えない。深いところでは、
私とあなたは違いはない。だから、表面の壁を越える事をしさえすれば、
素晴らしいコミュニケーションはいつでも可能だと考える。

続く
105【人間理解-完-】幼児:03/08/30 22:08 ID:B5DNlwGm
だから私は、この人はという人とは深いコミュニケーションをするという
事が現実に即した方法だと考える。これは、今の社会では意識的に区別する
しかないからだ。

本来は誰とでも心を開いた関係でありたいのだが、そうもいかない現実がある。
だから、選んだ対象には意識的に深いコミュニケーションを取るとちょうど良いと
考える。それをしなければ、今の社会では恋愛もできないだろう。

浅く広くというのも一つの考えだが、深く深くは、人間理解の深さを得るには、
もっとも早い手段だと考える。
この深く深くという考え方は、私の考えを越えている。
つまり、浅く広くという考えすら、深く深くゆけば、同じ事といえる。

今日の問題は難しかった。つまり伝えにくい内容だった。
うまく伝えられたか自信はない。

では失敬。
我々が生きる上で、「壁」という問題がある。ラインという問題がある。
合気道でも会得できる、出来ないというラインがある。
自転車に乗れる、乗れないというラインがある。このラインの説明は非常に難しい。
出来る出来ない。解る、解らない、強い、弱いここにもラインがある。
あらゆる二元論活動にこの原理が働いている。

我々は生きてゆくと、様々な壁にぶつかる。出来る者と出来ない者との間にある壁が
時として、なんらかの普遍的な秩序があるのでは?とすら思う事がある。
つまり、なんらかの普遍的な秩序があるのでは?という問いを立てずにはいられない
現象を、観る場合も生きる上では多数、我々の前に立ちはだかる事を経験している。

ラインを把握すれば、理解でき、会得に至るという現象は、実は「創造活動」であり、
会得というのは、創造と同意語だ。
我々は合気道の体術を学ぶとき、出来る出来ないのラインを明確に知りたい地点を常に
経験すると思う。出来たとき、出来た!と思うと同時に、自分の意識では何を捕らえたのか?
という問いが次のステップに進む上で非常に需要だと考える。つまり成功事例を大切にする
という考え方だ。

続く
理解とはするものではなく、どのように理解したらその理解に到達することだろうか?という問いを
理解することだ。理解とはすなわち創造と同意語で、我々は理解<創造という関係で概念を形成すると
思うが、意識の作業としては、同じ事をしている。
意識がする作業は、意識空間内の出来事として、形あるもののように扱うと理解しやすい。

創造とは、今まで何のつながりもなかった、様々な物事が組み合わさって、
まったく別の物事が生まれる事であり、同時に、今まで、独立した物事と見えて
いたものが、全く違う物事の範ちゅうに収まっていることを発見する事だ。
この創造を別の言葉でいえば、気づきであり、発見である。

出来た!とは、何に気づいたのか?なにを創造したのか?この問いはとても重要だろう。
結果主義は、この点を見逃しやすい。負けて初めて問うのでは遅い。本来の成長の半分でしか
成長できないことになる。成功しても問う。失敗しても問う。これが成長の考え方だろう。

続く
あいつにはできて、私にはできない。その違いはなにか?と言う問いを、
才能、運命、環境、技術等に還元させて結論づける事は簡単だが、
あまりにも時期尚早な結論は、創造工夫の芽を絶ってしまうことになる。
同時に、その壁から時期尚早にトンズラすることにもなる。

結果的に、時期尚早な結論は、未来に向けて、同様な壁を残すことになる。
文化というものは、そういう誤魔化しを推薦する社会を形成しているのは、
おわかりの通りだね。

私は、壁というものは、物事を修得・会得する事には付き物のセットで
存在するものであると認めるが、もしそうなら、「壁を越える事」が会得であると言えるし、
壁を越える事の本質を語るならば、今の自分と違う自分に「変化」「変身」「自己超越」すると言うことだ。
変化する時に不要なものが、「壁」である。じゃまだね。

続く
変化する?この正体は、まったく変わってしまうという事だ。
過去の壁の存在は記憶の中にしか存在せず、「壁」というものは変化した者から観れば、
存在しない状態になっている。だから、会得した者は、会得していない者を観て、
それは壁でもなんでもない!と言える。

会得者が誠実を行うならば、壁の正体を壁があると思いこんでいるものに、
見せてやることだと考える。
つまり今の自分の位置を、さし示す事でが誠実的対応だろう。

壁(スランプなど)は、本人には、その正体が見えない、本人は、「壁」という認識しか
得られない。だから壁というのは、無意識が関係していると思って間違いない。
ちょうど、無意識と意識と喧嘩している状態で、統一されていない状態と言える。
無意識は情動(感情)等に支配されている。意識は理性に支配されている。

続く
人工物ではなく、生命として人間を観るならば、人間は情動をよりどころに
活動していることは、理解できるだろう。つまり変身は、情動に支配されている。

その情動を止めるものが、理性であり、むしろ、理性という無駄な物を殺せ!と
情動は命じている状態が壁の正体だろう。「やっちまえという叫び」だ。
そして、理性が「できない!」と叫ぶ。壁は情動には存在しない。
壁を認識するのは、理性であり、我々がこしらえた思考の産物であるということが
理解できると思う。つまり壁そのものが幻想であるという事なんだ。

同時に、大変重要な事は、「壁は幻想」という大前提を信じなければ始まらない。
大抵の思考は、色々「壁」の突破について思考する。しかし、思考は思考をこれられない。
同時に思考は自己防衛のシステムが思考自身に存在している。
超越・変身に関しては、「勇気」に代表される情動を利用しなくては不可能であると言える。

続く
そして思考は、「勇気を出せ!」という指令に到達するかもしれないが、ここで、
思考の自己防衛システムが発動する。
「俺にはできない!」、「勇気がない」「だれもやったことがない」色々な攻撃を仕掛けてくる。
突破しようとすると、なんらかの思考の自己防衛システムが発動する。
これが、ラインの正体であり、思考の自己防衛システムのメカニズムだ。

人間界の誤解もその一つで、理解と誤解のラインがある。
昨日もそのラインに触れたが、それを明確には表現しなかった。
非常に説明の難しい問題で、また、説明する必要があるのか?あるいは、説明そのものが
無意味ではないか?と考えるからだ。

つまり、この手の問題は、理解しているものは知り、理解出来ない者は、
そのラインが在ることが見えていない。ラインの見える者には説明する必要がない。
ラインが見えない者にラインの説明をしても無意味であるということだ。
だから、私の今していることは、突き詰めて考えると無意味な事かもしれない。
しかし、こうしてせっせと書いているのは、一つの訳がある。

続く
私自身が、初めて、一つのラインの存在を明確に見つけた時、何故、世の中には、
そういう一線を越える為の、手法や、その一線そのものを説明してくれる情報がないのか?
という疑問をもったからだ。しかし、ラインの存在を確認してからは、そのような情報は、
あからさまに解る形で、様々な場所に存在していた。

振り返ってみると悔しい事だが、
気づけなかったわけだ。そんな理由から、私は機会があれば、そのラインの存在を
語る事にしている。ラインとは実は「無知」なんだ。

ラインを見つける前は、結論が早かった。あきらめも同然早い。なんでも早い。
単刀直入で歯切れは良かった。今は違う。どう違うかは、中身の問題であって、
外見はあまり変わらないだろう。これは、合気道の技にも関係している。
技は一つの行動だからね。

続く
さて、先ほどは、ラインは思考の産物で、「壁は幻想」であるという点で
帰結させたが、別の表現を用いて、ライン(壁)を話してみようと思う。
壁というのは、上でも話したように実は無知の発見なのだが、それを話そうと思う。

考え方として、次元という概念が理解をするにはしっくりくる。これらのラインを我々は、
深い所では、空間的にとらえて、次元と漠然と理解している。
つまり出来る者と出来ない者との間に存在する壁(ライン)は、出来る者から
観ると、出来ない者が陥っているドグマを理解できるが、言葉にできず、
ラインを説明できない。すなわち、出来ない者自身の無知を理解していない。

また出来ない者から出来る者を観ても、理解できないラインに到達するが、
それを説明できない。双方に掛けているのは論理力なのだ。
論理力と漠然といったが、現象を説明する思考の伝達手段としての、我々の共通の
言葉といえる。自分の感覚を翻訳したものを筋道立てて説明する方法といえよう。

感覚表現は、伝える対象を絞れば、最高のコミュニケーションとなりうるが、
不特定多数の他人に伝えるには、少々そっけないが論理に頼る他ない。

ズンと構えず、構え、ドバンッともらったエネルギーを受けず大切に、
あちらに導く等と表現しても不特定多数の他人への説明としては、
不適当というものだ。

続く
理解できないラインは、果てしなく階層構造となっているということで、
次元理解・階層構造理解に馴染む事は、なにも難しい学問的な事ではなく、
意識の空間の問題で、我々の日常の意識と違う意識の存在を認める事から始まる。

これは意識の使い方の問題に目を向ける事で、会得者は、何かを通じて、意識の
使い方を修得したにも関わらず、この点を一足飛びに話してしまうと事が、
世の中には非常に多い。

つまり、言論表現者は、手抜きをしているか意識の使い方を会得した自覚の存在を
明らかに認めず成長したかのどちらかだ。

つまり、この意識の使い方ではなく、「意識の使い方」の理解の進んだ者が非常に
少ないということだ。これは知っていると言うレベルで説明できる問題でもない。
つまり思考の問題ではない。意識の問題であり、無意識の問題で、
「意思・感情・思考・感覚」を統合したものを心とするならば、
心の問題であり、心の操作技術の問題としても、大きなズレはないだろう。

続く
そして心を把握する意識の切り替えの問題が変身のカギだから、
意識操作が出来ない者が、その理合いである、思考(論理)説明をできるはずがない。
した所で混乱を招くだけだ。その結果どのような現象が起こるかというと、
「意思・感情・思考・感覚」のある特定部分の話に置き換えられてしまうということだ。

臍下丹田○○にどうこう…。目付は…。気持ちは…。というように技法としてしか
表すことはできない。これは、実技の問題だ。

つまり、実技還元主義、思考還元主義などだ。精神論と、技術論だ。
2chでの対立もその時点で対立している。
これは対局する二元論で、霊が抜け落ちている。霊とはすなわち心身+意識であり、
霊・心・身の三位一体での一元論からの論理の不足を指す。

そうではなくて、「意思・感情・思考・感覚」をまとめている「意識」が問題であり、
「意思・感情・思考・感覚」が意識ならば、意識そのものから意識は見えない。
意識というものも意識の範囲内での自己防衛が働くからだ。

それだからこそ、無意識という階層(次元)を露出させ、逆に通常意識を把握する
必要がでてくる。つまり観察可能な意識の状態を通常意識の状態にしなくては
把握できない。意識の観察はそのように行われる。
すなわち、自己の内面の次元の把握方法は、そのように理解される。

続く
魂とはすなわち無意識であり、無意識はすなわち、情動であり、
情動・情熱などは、命であり、生命エネルギーは、すなわち気だろう。
だから「魂主体で稽古を…」という開祖の言葉は非常に重要なキーワードとなっている。

合気道では、気を中心にすえて全てをそこ還元させている。
意識空間とは、科学で言われる「空間」は別次元がかさなって感じられる世界であり、
その時空間のとらえ方は、物理的な現象をだけ観察しても答はでない。つまり
我々自身の身近な問題をしっくり説明できない。

だから合気道でいう形而上学概念、すなわち「気」という生命エネルギーから還元させる
考え方は、極めて我々自身の思考方法に馴染みやすいといえる。つまり日常生活で
実践しやすいといえる。

続く
未知覚の物事をとらえるには形而上学(気・神など)を避けて通れない。
つまり想像・空想・創造の事だね。そんな風で、学問では、様々な試みがなされている。
まさに新しい統合学問を求めている風潮があるが、
合気道は、新しい認識のスタンダードな学問だと私は考えるに至った。
一般庶民の救世主じゃない?かとすら思う。

理解とはするものではなく、どのように理解したらその理解に到達することだろうか?を知る
というのが今回の焦点であるが、同時に如何にしたら、自分の無知を把握できるか?という
試みだが、私なりの統合学問の定義の模索としても今回このエッセイを利用させてもらった。

今日も私のギリギリのラインを説明した。疲れた。
うまく説明できたか解らない。表現不足は諸君で補ってほしい、
来週はちょっと気をゆるめようと思う。

では失敬。
118幼児:03/08/31 22:40 ID:j+7x7URC
まとめとして、記しておきたくなった。
魂主体で、あるいは、神との同化で稽古をする、寺院は胸に等とは、

理解とはするものではなく、どのように理解したら創造出来(武産合気)るか?
というまさに心身操作を学ぶスタートラインという極意事項だと思う。
禊ぎというのは、そこに至る為に矯正するという意味なんだろう。
つまり、武産合気は、到達点でもあり、同時にスタート点でもあるということだ。
文字通り解釈不能な概念であり、会得事項と言える。

技は方は上記を学ぶ為の方便的に扱えば扱う程、無心の技が生まれる。
これは一つの信仰だろう。緩んだらたちまち迷うだろう。
119もくじ-2:03/08/31 23:01 ID:j+7x7URC
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>>6 :【はじめに】
>>14 :【合気道感のバックボーン】
>>22 :【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】
>>30 :【強さとは】
>>41 :【強さ=称え合う】
>>51 :【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】
>>57 :【合気道は論理術(思考術)?】
>>71 :【生死は論理ではない】
>>82 :【宗教的】幼
>>91 :【一に還元=合気】
>>98 :【人間理解】
>>106 :【壁・自分の幻想を知る手段としての「気」】
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120【奇想天外-1-】幼児:03/09/02 23:34 ID:aSsQTpvw
今日は手軽な事を話そうと思う。
常識を疑うという視点で思いつくままに考えてみようと思う。

「常識を疑う」というのは、文字通りの意味なんだが、常識とはなんなのか?
を考えなければ、何を疑うのか?解らない。
「常識を疑う」事を考えるには、まず、本来は問いの立て方からスタートする
のだが、武術でもなんでもそうだが、正面に相対しなければならない。

立ちはだからなければならない。観なければならない。逃げてはならないし、
そっぽを向いてもいけない。想像してもいけない。もちろん、思い出してもいけない。
にらみつけてもいけない。ただ観なくてはいけない。
ただただ、必要な事を行うだけだ。

続く
121【奇想天外-2-】幼児:03/09/02 23:36 ID:aSsQTpvw
「常識を疑う」という視点を観察するには、「常識」という対象を
しっかり観なくては始まらない。それがすなわち、問いの立て方となる。

常識を観察物とするならば、観察物がしっかり見えなければ、なにもできない。
常識という幽霊をつかまえようといっても無理な話だ。
幽霊(常識)の正体が分かれば、「疑う」という技を使えばよいだけだ。

だから、ここで、観るものは、二つある。「常識」「疑う」だ。
敵という発想で考えれば、敵を観て、方法を当てがう。
あるいは、方法を敵に対応させてもよいだろう。可能であればね。

続く
122【奇想天外-3-】幼児:03/09/02 23:37 ID:aSsQTpvw
見えれば、技でどうにでもなる。
例えば、どうにでもならない場合を考えよう。
その場合は、観る方法が悪いか、技を知らないかのどちらかだ。

つまり、「常識」を観る方法に無知、「疑う」を行う方法に無知だ。
簡単な話「常識」が見えれば、それ自体ですでに「疑う」方法には
明るいという事で、「疑う」事ができれば、「常識」は既に見えている。
「常識を疑う」とは、実は自分の無知を知る方法ということだ。

つまり、「常識を疑う」事を問う事ができた時点で、「常識を疑う」ことは、
実は完結しているわけだ。このような例は、どこにでもある。
どこにでもある、どころではなく、こういうような法則?で、
この世は支配されているといえる。いわば、知った時点でこの世はそこにある。
知覚即現実という事になる。

続く
123【奇想天外-4-】幼児:03/09/02 23:39 ID:aSsQTpvw
余談だが、
知覚、即現実なら。全ての発見、創造は、この世を創造していると言える。
この世の物質は、あまりにも強固で、揺るぎないように見えるが、我々の知覚がそのような
ものを集団知覚して創造したと考えてもおかしくはない。

天に見える星や、太陽系ですら、我々の発見と同時に現れた。小さな粒子、
ニュートリノなども発見と同時に存在した。全部同時に起こっている。
これが事実だろう。あとの科学的論拠のある論理は論理という事実だけだ。

その証拠に、我々の発見、創造前にこの世に出来ているものなどあり得ない。
我々が知っているのは、そういう事だ。ただ、我々の想像力・偏見が、
昔から在るように、思っている。真実は解らないが、解っているのは、
そういう事だろう。ちなみに、私は、知覚したもの、意識したものの後を追って、
この世に現象として現れるという立場をとっている。

我々個人に当てはめても同様で、止まって見える時は時間を止めているし、
冴えている時は、冴えている状態を作っている。奇想天外な奇跡的技も、
それを知覚できれば、目の前にある。創造、発見と同時に事は起こるという
理屈は、私は真実だと思うが諸君は如何でしょう?奇想天外ですか?

余談終了。
124【奇想天外-5-】幼児:03/09/02 23:40 ID:aSsQTpvw
だから、無知を知る、自分自身を知ることがどれだけ重要かは、
語り尽くせない事だ。極端な言い方をするが、他人なんぞ知る必要はどこにもない。
自分を知った時点で他人は既に知っているということになる。

上の例は、目的論、功利主義、金の世、結果主義、等を信念体系に
もっている意識は、こう考える。他人を知るには、他人と向き合うのが
当たり前だろう!と。もちろんそうだ。それが常識だ。
私は常識に無知ではないが、常識が絶対という事には無知だ。

この例は、他人を知るという「知る」という術の本質を見落としている。
順序としては、他人を知るのは誰か?という問いから始めなければならない。
他人を知るには、私が石では他人は知る事ができないだろう。たぶん。
私が人間であり、人間の実体を知覚できて初めて他人という人間を知覚できる。

続く
125【奇想天外-6-】幼児:03/09/02 23:42 ID:aSsQTpvw
つまり知覚力に比例して、その他人の情報を受け取る事が出来るというわけだ。
ということは、知覚力が少なければ、他人の一部しか知ることができない。
もし、知覚力が全知であれば、他人の全てを知る事ができるというわけだ。

さらに、知るという事、つまり知覚は、在る物でなければ、知覚できない。
無い物は知覚すらできない。
だとするならば、自分が存在しないような、全無(全知の逆と言う意味で)は、
全知覚と同じく全てを知覚するという事になる。いずれも、努力の問題ではなく、
瞬間的な出来事だ。いや、そういう秩序だ。

他人を知る事は、他人を知れば良いのだが、他人を通じて自分を知っているという
現象を指す事が理解できると思う。現象説明をするか?私の行為を語るか?
つまり主人公を誰にするかによって、この知覚の事柄の説明は二元化するように
見えるが、現象説明ははたして正しいのか?。現象説明も知覚に依存している
以上、絶対的客観視野というものはあるのか?もしそのようなものがあるのなら、
現象説明は絶対的に正しいのだろう。

続く
126【奇想天外-7-】幼児:03/09/02 23:43 ID:aSsQTpvw
常識というものは、絶対的客観意識を都合よく利用する為の方便であると言える。
すなわち、これによく似た概念が正義もある。
そして、常識の最高の信仰対象である現実という概念がある。
このように使われる。

「あんたの言うことは理解できる。しかし、現実は違う。」
「あんたの言うことは理解できる。しかし、常識的ではない。」

もし私が神ならこういう。「何が違うの?」
つまり、常識には、なんの意味もなく、現実というのもなんの意味もない。
そう2chでよく使われる、電波だとか、妄想とか、なんの意味もない。

つまりこのような会話の本質は、絶対的客観視野の取り合いをしているだけだ。
正義の取り合いで、戦争にも発展する事は。世の現象を観れば、ご覧の通り。

続く
127【奇想天外-8-】幼児:03/09/02 23:44 ID:aSsQTpvw
常識というものから外れれば、どうなるんだろう?
そこに現実があるのではないか?仏教でいう。生・老・病・死。

全部、私自身の問題で、常識に委ねようとも、なんともならない体験的問題。
つまり私が全てである問題だ。他人の死と私の死は絶対的に違う。
私の死は、私だけのものであり、私個人へどんどん向かっている。

我々は我々であり、だれでもない。我々が出来ると思えば、出来るし、
我々が強いと思えば、強いし、我々が幸せだと思えば幸せだ。
何故か、常識はこのような我々の思いを、現実逃避と言う。
現実へ逃避するのが死であり、生死(人生)であると思うが如何だろう。

続く
128【奇想天外-完-】幼児:03/09/02 23:45 ID:aSsQTpvw
現実はころころ変わるが、逃避先の現実は信じるに値する。
技はころころ変わるが、伝統の修業態度は信じるに値する。
普遍事実は真実に限りなく近づくというより、時間尺度的、空間的にも、今に在る。

流行は、過去・未来・上下左右・可視・不可視忙しい。しかもそれが完全相対化し、
その幅が無限大。そこから真実の一点をどのように目指すのか?私は、無限大の
パズルを解く努力は放棄したい。

のんびりやれば良いと思うが、どうだろね。
では失敬。
昨日は、「常識を疑う」ことは、結果的に自分の無知を知ることになる。
そして、「常識を疑う」ことは、自分の通常の意識を疑うことであり、
通常の意識とは、我々が活動している、昼間の意識だ。

昼間の意識というのは、一つでもなく、夢でも意識はあるし、
様々な意識を我々は日常体験する。そして、意識は、記憶とも言える。
正確には、記憶は意識でとらえる事ができるものだ。

もし、技の習得において、自分の間違いが明確に正確に、知覚でたなら、
即座に修正が可能であり、修得の早道となる。
つまり、自分の体の操作方法の記憶を、呼び戻す事ができたなら、
修正は非常に容易であるということだ。

さらにダイナミックに活用に展開するなら問題は、今のどんな意識状態にあり、
どの意識状態であれば、記憶の全体を知覚できるか?という問いが、非常に重要となる。
まあ、答はいつもの無意識の活用だが、如何にしたらという点を考えてみたい。

そういう事で今日は、記憶を如何にしたら呼び戻せるのか?
無意識に間違った動作をしている自分の身体を、如何にしたら、
間違いを明確に自覚できるか?という問題と関連して、記憶について考えてみる。

続く
記憶は物事の学習・修得の核となる、まさに、我々を操作するプログラムだ。
我々は好ましいプログラムをすれば、好ましい動作が行えるようになる。
さらに、プログラムは、プログラム自身の自己防衛システムも兼ね備えているという
点を見逃してはならないという事は、昨日語った。

ところで、記憶が無ければ、我々は、何も解らない。つまり、自分がだれか?
どこに居るのか?まったく解らなくなる。生きているのかも解らない。
問う事もできないから、生きている事を確認することもない。

----------------------【参考】--------------------------
この表現を映像化したものに、「メメント」という映画がある。
ただ10分の記憶があるが参考。
http://www.amuse-pictures.com/otnemem/
-------------------------------------------------------

ただ、ここに、居るんだ!というような感覚を漠然ともってただ、
存在するだろう。そして、記憶がないのだから、学習もない。
時間もない。永遠の境地となるだろう。それが、我々の知覚する一秒だったと
してもね。だから、参考までに、死は、永遠の間(はざま)を体験するのは確かだろう。

続く
意識で記憶という過去の自分を観ることができるから、我々は実は今を観ることは
できない。過去しか観ることができない。すなわち記憶は事の起こりを
捕らえる事はできないが、結果を観察することはできる。

もし、その記憶の無い意識をもって、通常の時間の流れをみるならば、時間はストップ
した境地から世界を観察できるだろうが、物理的に不可能だ。体の五感をつかって
認識する以上、そのスピードに、体は耐えられないし、物質界の秩序の壁は、
今の私にはずいぶん分厚いと信ずるから、肉体の限界を越える事はできないだろう。

しかし、肉体に縛られない部分なら、時間は超えられるはずだ。
すくなくとも、みずからが蓄えている、記憶の集合を全て体験できるだろう。
つまり、我々の一生分の記憶を一気に再体験することは、記憶の無い意識で、
通常意識を観察できれば、現実的な仮説だろう。

続く
武道的に活用主義で考えるなら、無意識の露出は、得ているであろう知覚を全て
知覚でとらえるという試みにつきる。上のような例は、武術界では、よく耳にする
話で、開拓者、発言者がいるということは、そういう現象もあるのだろう。

観察記録に話題を戻すが、問題は、通常の意識では、記憶は我々の記憶の知覚と
イコール分しか、思い出せないが、我々の内部では、呼び戻せない記憶も沢山ある。
そして、その量はどれくらいか?というのが問題となるが、恐らく想像を絶する量だろう。
この点は、諸君も想像してほしい。

本能、無意識に出来ている事等を、考えても、莫大な量になる。
どこに記憶されているのか?というのは、私も色々文献で
読んだことがあるが、どうも、脳と記憶は一致していないようだ。
つまり、脳が死んでも、記憶は何処かにあるかもしれないという意味だ。
この結論は、科学では出せていないが、たぶんずっと出せないだろう。

続く
ただ、言える事は、自分の意識を意識的に観察できればできるほど、
本能、無意識にやってしまう事、あるいは、無意識に近い部分で活動していた
時代の記憶が、わぁっと蘇ってくるだろう。

これを身近な例で、説明すると、若い時に聞いた音楽を聴くと、
その時の心境、すなわち、その時の意識状態に近い状態を意識は、再体験される。
すると、当時の記憶が蘇ってくる。そして関連した記憶が次々に蘇ってくる。
少しの間は、その意識から世界を眺めていられる。現象が、意識の差を体験する
格好の例と言える。

問題は、想い出と称して、幸福な時代を思い浮かべ、今を味気ない感覚と
感じられたなら、その時、その意識は、進化ではなく、退化したと言える。
ただ、社会の集合的意識との同調度はに関しては進化しただろうが…。
つまり、別人になったということだ。

続く
過去が良かったというのは、過去の意識は、純粋であったということで、
夢も、希望も、可能性も、色々な事があふれていた。
これは、どういう事かというと、死んだ人を観るのと同じだ。
死んだ人間は全体で見ると、言葉にならない無情感というような感情を
いだくだろう。

過去を羨望のまなざしで観察する意識は、まずもって、過去に戻りたくなる。
過去が恥ずかしいのではなく、今が恥ずかしいという逆現象、すなわち
退化した者の感想はこれだろう。

無意識の自覚量を自他共に確認する方法は、沢山あるが、その一例は記憶の幅だろう。
幼児から今までの記憶の総体を、現在の意識の知覚量が、非常に貧困な状態であるならば、
つねに、社会に順応して来た結果だろう。主体は社会であり、自分は社会の
一員という考え方に立脚してい生きてきた結果の意識だ。

続く
順応性が高いというのは、良い意味ではどこにでも順応するが、
悪く言えば、どこにでも順応してしまう。すなわち環境に依存しまくる者だ。馴れ合いだね。
順応主義者は、外向的であり、同時に環境に依存するので、その意識から
みるならば、確かに自分は悪くなく、他人が悪いという考えに至るのは自然な事だ。


一方、昔の自分の感覚から今までの感覚を良く覚えている意識は、
全体像をとらえるだろう。いつでも子供になれるし、今にもなれる。
しかし、社会での順応度は悪いように見える。社会は社会を主体で動く者
が適応しやすいシステムとして成立しているからだ。馴れ合い人を求む訳だ。

この次元の話は、共産主義・民主主義だろうが関係ない。あらゆるイデオロギー
はシステムの信仰に立脚している。イデオロギーに反したら、反社会的と
いうレッテルをシステムは貼り付ける。
だからこの次元の話は、生命とイデオロギーの対立関係だ。

続く
話が拡散してしまったので、ここまでをまとめることにする。
まず、記憶の全体像は我々は知覚できない。
同時にその全体像は、想像を絶している。よって、意識のできない記憶に我々の
活動のほぼ全体が支配されているということになる。

実験として、今すぐにでもできる事がある。テレビの在る場所を記憶でたどるには、
どうするか?合理的、理性でおこなったら、どうなるか?つまりこういう事だ。
この場所から、どのように行って、どのような歩数なり、風景の場所にあるのか?
とか様々な事を意識的に筋道をたどらないとテレビの場所すら解らない。

このように、もし、思い出す作業を正確にされたなら、それは、無意識に
アクセスした事になる。重要な点は、そのときの身体状況に注目してほしい。
ボーッとして思い出しただろう。その時の目、そのときの意識の場所、
つまりそういう次元の想像力が無意識へのアクセス方法であり、
伝統的な無意識へのアクセス方法は、よりボーッとする状態をつくる手段だ。

続く
自分を忘れてしまう手段でもある。これを武道的には真剣・集中というし、
一体とも言うし、神との同化とも言うし、開祖が人間になるには、
3ヶ月とか言ったらしいが、その3ヶ月で無意識へのアクセス方法のきざしが
理解できるという期間だろう。

だから、無意識に蓄積された記憶に我々の活動のほぼ全体が支配されている
ならば、意識という実に頼りない意識(つまり自我)に委ねるよりも、
無意識(自然)に委ねた方が合理的ではないか?という提案も観察記録と兼ねて
私の意図している所だ。

最近、話が無意識絡みが多くなってしまっているが、無意識を否定するのが、
今の社会である以上、武道はある種、社会への反逆であり、人間宣言であるから、
社会観察、現象観察もいいが、実際的な、我々の体の反応から、無意識を探った
ほうが、我々自身の理解を助けると思う。

続く
そういう流れから、無意識シリーズは少し継続しようと思う。基本的に丁寧に進めて
ゆきたい。無意識は、合気道・修業・武道の本質だと思うからだ。
非常に簡単にいえば、自分の癖を自然に調和させる事につきる。

だから、そのスタートとして自分を知るという事、
すなわち、我々自身の無意識を把握することが全てであり、そのような
伝統的な行法はすべてこの目的だ。

そして、武産合気と無意識もほとんどイコールだ。
だから、武道と無意識の関係を中心にエッセイしていくのが、我々の理解を
深めると思うに至った訳だ。強さを中心に功利的、目的論的に書こうとは
努力してみたが、やはり私は、目的論、功利主義的、方法論的に書くことが
苦手なようだ。しかし、エッセイ冒頭では、少しは色気は出そうと思う。

続く
しかし、本文は、観察記録的にならざるをえない。目的論的に書こうとする努力は、
私の内部では翻訳作業を行わなければ成立しない。私は、ただ知りたいだけなので、
その知った内容を、あるいは、考えた内容をそのままつづるのがラクチンだね。

もし、幸福にも私の観察記録を反面教師あるいは、ヒントに、諸君らの武術、武道修業
に活用できるなら、私としては、嬉しいかぎりだ。やはり、活用段階では、私は
ノータッチがいいと思う。

記憶に関して知る事は、あらゆる物事の実践に、非常に多くのエッセンスがある。
今回はサラッと流したが、記憶の特定の部分は、記憶の全体像を眺めながら、
部分を語ってゆきたいと考えている。

では失敬。
140【所感】幼児:03/09/04 00:50 ID:knu+lzFi
思いつきの結論だが、
通常意識に頼る意識は、過去に生きる事であり、空想化された未来に生きる事
でもある。通常意識内での成長は、飛躍、超越、驚愕・感動等が少なく、
エネルギッシュな意識ではない。

無意識直視の意識は、今を永遠に伸ばした世界だと言える。
そこには、自分の全てがある。
141【合氣道の日本語文字技-1-】幼児:03/09/04 23:12 ID:knu+lzFi
最近無意識ばかり考えているものだから、人をみても、相手の無意識に
感心が行き、テレビを見れば、その無意識を観。無意識は、自分に向けて
こそ、自己探求として愉快なのだが、これは人に向けると、その人を
理解するのには役に立つのだが、その、プロセスを楽しむ部分で、
社会とのズレがでてくるのは、やむを得ないだろう。

そのよりどころは、芸術・伝統文化・古くならない物事が
対象となるだろう。それによってのみ癒される。まあ、合気道の稽古によって
癒されているのだから、ほとんど中毒症の化がある私だ。
なんの為に稽古するのか?という私への問いは、癒しでもあるね。

ところで、今日は、三位一体について考えてみたい。
結論は、三位一体は真実へ至る道であり、三位に真実をプラスすると四になる。
四は神を表すと同時に、次の次元の仮説、形而上、次の次元階層を提示する。
これが今日の結論だ。すなわち日本語という文字から、自己超越を計る工夫
としての一例の提示だ。

続く
142【合氣道の日本語文字技-2-】幼児:03/09/04 23:13 ID:knu+lzFi
人間の完成の概念の一つに、真善美という三要素の概念がある。
真善美の達成と同時に神がかりになる。すなわち素晴らしい人でもいいし、
人格者では表せないような仏のような人。そんな表現だろう。

別の例として、合気道の稽古でも、固体・流体・気体とあるが、
全てが優れて、合気となる。そして、武産合気は次の次元の話で、
超人の事だ。

人間も、身体・心・魂(意識)等に表され、それを超越したとき
次の次元の境地をかいま見る。

つまり、三要素の先に立ちはだかるのが神であり、
3次元は、時間が神に相当し、
固体、流体、気体でいえば、時間先の例とは、別に時間も神となりうる。
主観、客観、間主観があり、その全体が神である。

続く
143【合氣道の日本語文字技-3-】幼児:03/09/04 23:13 ID:knu+lzFi
同時に、四字熟語はすべて神を表しているといえる。
日本語は実に、おかしな秩序で出来ている。我々が見落としている大きな
秩序に支配されているとしか私には思えない。現象として色々語源発祥の
経緯があるだろうが、それだけとは思えない。これもコトダマかな?
諸君も、三要素と、四字熟語を例を上げて試して欲しい。
不思議な世界がある。

ところで、この三位一体(これも四字熟語)もそれ自身で神を表す言葉だが、
あまり「神」といっては、混乱を招くので、「神」を自己超越という意味に
置き換えて、つづってゆく。以後、自己超越、すなわち、今の自分を越える
新しい自己発見の事、あるいは、その意識状態(境地)を、「超越」とする。

三位一体の境地がすなわち、超越なのだが、この概念を武道の言葉で表せば、
心身統一であり、臍下丹田であり、武産合気等があるが、このような言葉の
意味を深く我々自身で考えるならば、文武両道の「文」を行っていると言える。

続く
144【合氣道の日本語文字技-4-】幼児:03/09/04 23:14 ID:knu+lzFi
起承転結という文章の構成や物事の順序の事を表す四字熟語があるが、
これが真実であるとするならば、四字熟語そのものの配列の秩序を言い表している
といえなくもない。つまり三位一体、自己超越、四字熟語もこの秩序に適応
されると言える。起承転結を普遍化するのは拡大解釈かもしれないが、
そうであっても、まあ示唆する事を掴んで欲しい。

起承転結を普遍化するならば、物質界の法則の順序も適応されてもよい
のでは?という仮説が成り立つ。つまり、なぜ、順序が成立するか?という
問題を考えて欲しい。

おそらく、新しい概念を文字にする時、大抵、その名付け人の無意識が作用する。
新しい概念はすなわち既存外の概念であり、未設定概念だ。
超越と既存の一線は、タブー、臨界点、ボーダーライン、危機状態などの介入が
必要で、未設定概念は、まさに、その臨界点の状態で存在する。つまり、
直覚と無意識が作用しやすい状態で、文字配列が決まっている。

続く
145【合氣道の日本語文字技-5-】幼児:03/09/04 23:15 ID:knu+lzFi
この配列がしっくりくるとか、この配列がたぶんそうだろうとかだ。
無意識は自然に直結しているから、その接点が多い臨界点では、無意識が極めて
作用しやすい。だから、真実に極めて近いというとらえ方ができると言うことだ。
あまりうまい説明ではないが、不足は諸君の判断に委ねる。

話を戻すが、固体・流体・気体など、合気道でも使われる言葉だが、
これも順序を表す。合気道そのものも、三文字だから三要素だ。これらを使って、
武産合気という四文字に到達する。面白いでしょ。

三要素をつかって、四文字である次の次元探求に役立つというわけだ。
文字を使って、自己超越の概念を探るのは、日本語ならではかもしれない。
日本国の三文字だって、そうだ。それ自体で四文字で、天照大神。すなわち神だ。

続く
146【合氣道の日本語文字技-6-】幼児:03/09/04 23:15 ID:knu+lzFi
二要素(言葉・論理)で超越を行うには、三要素にしなくてはならないから、
「自己」の先に自己超越を果たすなら、もう一つの要素をプラスせねばならない。
これは、「神」「自然」「宇宙」等にに相当する。

二元論で真実に到達するには、自己プラス神という概念が絶対に必要になる。
つまり言葉や、論理、すなわち思考を用いて真実に到達するには、形而上あるいは、
神、仮説などが絶対に必要になる。そうでなければ、二要素内でぐるぐる回るだけだ。

三要素では、それ自体で神だから、自分から三要素自身になって考えなくてはならない。
つまり、他人の身になって考えるのではなく、他人に成り代わって考えるという
ような状態であり、一体感、一元論的なとらえ方であり、あらゆる区別を無くした
考え方を指す。

つまり、次の次元認識は、自分の内部から入るような入子状態であるという事だ。
さらに上の次元も考えられない事もないが、言葉の世界では三要素で、四字熟語
で超越に到達するしかないだろう。

続く
このように、文字を思考ではなく、文字という道具として利用できると、
文字を完全な道具としてとらえる事ができる。これらを拡大解釈するならば、
この世の全てを自分の道具として使えるなら、我々は自己超越をしているし、
同時に、人間(二元論で語る人間の事)を越えていると言える。

その時、意識内では何が起こるか想像して欲しい。その想像そのものが、
起こるという事が言えなくもないということだ。
だから、先に話したように、次の次元認識は、自分の内部から入る種類のものだから、
想像、空想、仮説、妄想、それらそのものが、超越状態の意識を反映していると
言える。同時に今の自分を形成していると言える。

つまり、我々にとって有意義でない思考は、その思考そのものが、
我々の今に反映される。だから、プラス思考というのは死活問題なのだろう。
諸君、愉快な事を思考しようではないか。

社会観察に応用しても三要素の理解は社会変革の兆しを知る上でもキーポイントとなる。
社会肯定・社会否定・それ以外(狂人・天才・変人)という三要素が調和して、
よき社会となる。どれも排除しない、どれも完全であるという思考習慣が
よい方向への社会変革に繋がるといえる。

では失敬。
148名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/07 02:10 ID:0OF9+/e8
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < 続きまだ〜?
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  愛媛みかん |/
149名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/07 19:24 ID:MOzJrJIl
おいおい、幼児さんよ。
どうしたネタ切れか?

だから、やめときゃいいのに。
150名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/07 21:49 ID:fhCt79/y
あれ!結構ファンが居るのか?催促があるとは・・・
151【武産合気は観察意識-1-】幼児:03/09/07 22:19 ID:s7S8DZWk
ちょっとお休みした。私も毎日パソコンで念仏を唱えているわけでは
ないんだよ。今日はちゃんと念仏しているよ。ただ、内容は、かなり
ハードコアだと思われる。

先回は、三要素、あるいは、四要素は、自己超越あるいは、次元超越と
密接な関係があるのではないか?という直感的エッセイをつづった。
別に本当か嘘かの問題ではなく、示唆するところは、視点の転換の事を
話した訳だ。

しかし、物体と意識と未設定の三要素はがこの世の現れを創っており、
意識の反映が物質だという意識を持つ事は、仏教の唯識論・プラトンのイデアだが、
別に、唯識・イデアを持ち出さずとも、そのような意識の転換と、意識の同化を
行う事は、合氣道とイコールだ。転換は文字通り合気でも使う。
同化は、入り身の事だ。そして武産合気で三要素。

だから、私の合氣道(自然)における意識空間あるいは、観察意識の状態の決定論は、
武産合気(神)の現れが物質界であり、すなわち、意識の現れが、我々が見ている
物質界と考える事が、開祖の唱える観察意識の持ち方だといえる。

続く
152【武産合気は観察意識-2-】幼児:03/09/07 22:19 ID:s7S8DZWk
観察意識とは、自覚・境地・今の私のものの「見方の根底」等のような意識で、
観察意識は、自分の無意識、そして世界を見る意識と言える。
魂という概念は抽象的であれば、観察意識なら馴染みやすいだろう。

今の時代流行からすれば、物事の見方の手段が逆とも言えるし、
すなわち、結果と原因の反転的物事のとらえ方とも言える。

我々が馴染んでいる世界のとらえ方は、ある現象が起こると、その原因を
物質還元して探す方法を取る。
そしてその原因をできるだけ物質に還元させて原因究明に勤めることをするドグマ
にはまっている。確かに物質界内での現象に適応させるには、その物質界での秩序に
準じた法則を探る事は、現象説明には正しいやり方だ。

続く
153【武産合気は観察意識-3-】幼児 :03/09/07 22:20 ID:s7S8DZWk
一方個人に置いての、心の癖とか、悪習慣は、制圧という行為を
核とする、我慢・努力・頑張り・無理・気合いなど「制圧」から分岐する行為を
実行するという、固定されたドグマで処理しているのが多数だろう。
これが意識の固定状態で、意識の居着いた状態と言える。すなわち洗脳だ。

さて、ここで問題は、心の問題をも物質還元、現象が説明できる事に意味はあるの
だろうか?

今ここで、私は文字を打っている。キーを叩くという現象を理解してなんになるのか?
物質界に置いての、現象説明の究極は、人間は生まれて、死ぬだが、
そんな事を説明して何になるのか?
人間の問題は物質還元しても意味がないということだ。

このような物質還元主義は、物質界を全体と考える。つまり物質界の神は
国によって、個人によって様々だが、金だったり、教義だったり、
すなわちイデオロギーの信念・信仰だ。思想を信仰するということで、
システムを信仰すると言える。他人様を信仰する事だ。既成概念では、
「自信」とは対照的が概念だ。

続く
154【武産合気は観察意識-4-】幼児:03/09/07 22:20 ID:s7S8DZWk
物質還元主義の考え方は、意識も物質と考えなければならない、芸術も物質の技であり、
人との繋がり、そのような情事も物質のなせる技であるという考えである。
人間機械論だが、意識も機械で考えればよいのだが、物質還元主義は、意識は、
機械として考えられないという限界がある。せいぜい分析だろう。

つまり、物質還元主義的解釈の我々の感想は時として、我々は府に落ちた訳ではないが、
「たぶんそうんだんだろう」という、何か納得「させられた心境」でしか理解できない
ということだ。

本当の気づきは、理解という神秘的、あるいは、確信、驚愕、なるほど!
本当はそうだったのか!というある種、ドグマの先にあった本当の真実の実感を
ともなって、合理的な判断を解せず直感的に、知覚されるということだ。
知覚こそが本当の理解と言える。

物質還元理解は、我々がもっとも知りたい、何故?そうなるのか?が抜け落ちている。
我々は、純粋な熱望的、素朴な、何故?→なるほど!そういうことか!という
感動・神秘・驚愕を伴う次元観察心を失っている。すなわち、理解のレベルが
非常に低レベルで満足してしまう流行、それが、物質還元主義的解釈で、
それで良しとする流行の中で我々は生きている(きた)。

続く
155【武産合気は観察意識-5-】幼児:03/09/07 22:22 ID:s7S8DZWk
物質界の探求意識は、物理学を筆頭に置く。最先端でやってる事は、
ほとんど伝統的な意識探求の学問である宗教を筆頭にやってきた事と
あまり違いはない所まで来ている。つまり物理学は物質還元主義の臨界点に
さしかかっているというのが見て取れる。

過去我々の先祖が経験したパラダイムは、自分と世界との関係を、
意識(神秘主義的)というパラダイムで説明してきた。
最近は、物理学で説明してきた。
戻る事はできないならば、次のキーワードは統合(物質還元主義でこの
世の幕を閉じないとするならばだが…)となる。つまり全体理解であり、
全体とは何だ?自分すなわち、人間とは何だ?という点から始まる。

これは、我々個人に置き換えてもよく解る。物理学で運動をとらえる時代は、
科学トレーニングと言われるものであり、物質還元主義だ。その際、メンタル部分は、
個人あるいは、トレーナーの資質に委ねられ、学問として成立していない模索の時期だ。
仏陀の言うことを応用しないという事で、武道の言うことを信じないという事だ。

続く
156【武産合気は観察意識-6-】幼児:03/09/07 22:23 ID:s7S8DZWk
しかし、時代は代わって、今はかなりメンタル部分の重要性を認め始め、
そんな状況は、諸君の目にする所だ。これは、身体運動の世界(スポーツ)等でも、
人間の全体理解が進んで来たということで、全体というのは、既に、武道では、
当たり前の「心身統一」をスポーツでも意識の根底に起き始めたという事だ。

人間の全体像は、決して物質だけではなく、心(意識)だけでもなく。
意識と身体でワンセットであるというとらえ方だ。
別にスポーツに限らない、人間の限界付近、臨界点、危険点での行動する意識
を見れば良く解る。

今の時代を正確に言うならば、確実に転換期に来ている。これに付いては
くどくど説明しなくとも、我々は漠然と知覚している。
転換期というのは、一線・臨界点・危機・次元間・混沌・壁等、意識のレベル
表現するならこんな所だ。
157【武産合気は観察意識-7-】幼児:03/09/07 22:24 ID:s7S8DZWk
ちょっと、合氣道の話を交えようと思う。
開祖は言うなれば、予言者で、今のような状況は既に考慮されて合氣道という
ものを生み出されたと考えている。

意識のレベルが我々よりも進んでいる存在は、意識をしっかり
した形としてとらえる事ができる。つまり気を見る事ができる。まるで、
意識を空間にある物として輪郭ある存在として掴む事ができるということだ。

ボールを投げたら、どんな軌跡を描き、どこにボールが落ちるか?を
我々が直感で分かるように、意識の世界を形(空間)で認識できれば、
そのような事は当たり前の現象であり、予言者と言ったが、オカルト的
な意味合いではない。

続く
158【武産合気は観察意識-8-】幼児:03/09/07 22:25 ID:s7S8DZWk
型も型という物質次元でのみとらえるレベルでは収まりきらない物事を
型の中に内包させたのが開祖とみて間違いない。別に合氣道でなくとも
型というものはそういうものだと思う。

そのような型は、凡人は荒い身体動作の稽古でとらえる事は無理と考える。
固体→流体→気体という稽古の順序は、そのような点から非常に
重要だと考える。

固い稽古の意味は、心身の身体の部分、すなわち、物質還元思考の癖を
我々はもっている。心身統一は、心と体のスピードをも同じにしなくては
ならない、いかなる場合でも動ける(自由)事というのは、いかなる意識の
プレッシャーにも動ける(自由)意識の鍛錬と平行している。

続く
159【武産合気は観察意識-9-】幼児:03/09/07 22:26 ID:s7S8DZWk
プレッシャーというのは、正確に言うと、自分と世界との関係における、
一線・臨界点・危機・次元間・混沌・壁等だ。
自分がこしらえるプレッシャー。他者がこしらえるプレッシャーの克服を
指すと言える。固い稽古は、イメージでいえば、観察意識をしっかりした
座禅ををしている人を指す。合氣道の鍛錬が進むと、解ってくる世界観が
この統一的な身体操作の楽しさだろう。

固い稽古の意味はこんな所にあると思う。観察意識というものの把握がしやすい。
さらに、ゆっくり固い、は無意識に刻みやすい。意識のスピード、意識のプレッシャー、
意識から自由に、さらに、意識の正体を知る。
初心者が早いスピードで統一体で体を動かしてできる事ではない。
固いゆっくりというのは、そのような意味がある。

そして、気の認識には、意識が絡んでくるし、心身を通じて、
入り身・転換・気を練るなら、体と心、外的世界と内的世界の
入り身と転換を平行して練らなければならないと言える。

続く
160【武産合気は観察意識-10-】幼児:03/09/07 22:27 ID:s7S8DZWk
だから、意識の反映が物質を形成しているという考え方は、実に合氣道的
だと思うがどうだろう?私は合氣道をしてから唯識をよんでみたが、
すんなり唯識論を読めた。唯識が合氣道ではないか?とすら思った。

今科学の最先端、伝統的な宗教、合氣道などの修業体系などを
眺めてみると、あまり違いがあるとは私には思えない。
そして、この世もいよいよその距離に見分けが付かなくなってきた状況に思える。

次の次元・次のパラダイム・次のドグマ・次の境地は、この世にも反映されている
はずで、何を見つけるか?すなわち「自己発見と創造」に掛かっている。
意識は我々自身からでしか観察できないからね。現象からは無理だ。
しかし現象という反映からは、発見がある。その発見も自分の意識の反映であるという
前提でもっての発見であれば、次の次元に繋がる。

続く
161【武産合気は観察意識-11-】幼児:03/09/07 22:29 ID:s7S8DZWk
入り口は違うし、部分も違うが、到達場所はほ同じだ。
全体、すなわち、スタート地点である、自分の意識の正体と、世界の関係。
人間と世界との関係。そして超越は、その先の極点を見つける事であり、
壁や、一線を見つける作業の繰り返しとなる。

そして、今日の結論だが、どうも、物質が意識を創るのではなく、
意識がこの世を創った。そして我々の正体は、その結果を我々自身
が観ているのがこの世で、我々の正体は実は、「観察意識」と言える。

色々な次元を観察する「観察意識」。こう考えると、これまで、
私が知った物事の総合的な理解を一つにまとめる事ができるし、
また、合氣道も自分を「観察意識」というエネルギー体(気)
としてとらえると全体理解が進む。

続く
162【武産合気は観察意識-12-】幼児:03/09/07 22:30 ID:s7S8DZWk
ただ、私自身、日常の大半は観察意識には入れない、大抵、無意識で動いている。
合氣道は観察意識の延長を約束してくれる修業体系だと確信している。
観察意識をしっかり掴めば、この世の理解が進む。
観察意識は到達とは無縁な世界だが、理合いが掴めれば、ほぼ達成と観てよいだろう。

ほぼ達成というのは、あくまで、観察意識である自分に気づいたという事で、
あとは、観察意識の深さ、幅、時間などを広げてゆくと、壁があるだろうが、
観察意識の壁ほど大きな壁はないだろうと考える。

観察意識の具体的イメージを語ってみよう。たとえば、世の超能力、霊、の理解と
知覚だも一つだろうし、その他、説明不明な出来事の知覚は当然だろう。
現象という反映を観ることができるからね。
そして、その視野(知覚)は、見える世界と重なって、見えない世界を感じている状態
であり、自分の身体感覚は、自分の肉体の枠を越えるだろう。言葉でいうと、
実にそっけない。

続く
163【武産合気は観察意識-完-】幼児:03/09/07 22:31 ID:s7S8DZWk
つまり、前提条件として、意識が物質を形成するならば、
そういう次元はあるだろし、観察意識がすすめば、そうなることは理解できる。
この世の理解が進むということは、世界が一変して見えるということだ。
これは創造を絶する世界だと思う。当たり前の事ではあるが、今の私には想像しか
できないからね。

このような観察意識を内包した概念を武産合気と呼ぶなら私は、そうだ!と言える。
観察意識なき、技術論、機械論的なとらえ方は、私にとっては現実的な理解とは
ならない。本来、未設定概念は神懸かり的(オカルト)に聞こえるのだが、
私は、神懸かり、狂人でなければ、本物ではないだろうと思う。
今の多数派概念でオカルト的でないものがどうして超越概念でありえようか。

では失敬。
164【観察意識を掘り下げる-1-】幼児:03/09/09 00:03 ID:4Yr/7HJm
昨日は、超越概念をつづった。超越概念とは意識の様々な次元の話であり、
意識の空間的とらえ方の一例を示唆した。空間的なとらえ方は、我々の
馴染んでいる物質世界の次元の空間に変換して、語る、あるいは、理解する
のに、都合がよいから「空間的」にとらえると表現した。

つまり私が話しているのは「気」の話だ。正確に言うなら、気をとらえている
我々自身の意識の話だ。気という一元論を語るには、全ての概念を語る事になる。
その中で、狙いを絞って、事を語ることは、非常に集中を要する。
多少の問題の拡散は、私の集中力の限界であり、諸君の理解を付け加えて、
理解する事をお願いしたい。

続く
165【観察意識を掘り下げる-2-】幼児:03/09/09 00:04 ID:4Yr/7HJm
まず、意識(自他の気)をとらえるのに、空間というものは、必要なく、
感じるものだ。だから感覚的には、世間で言う「第六感」というような五感にプラス
された一つの感覚という表現よりも、五感をも統括している統一感というほうが、
正確だろう。第六感とか表現されるように分割された一部の新しい感覚ではないということだ。

これは、心身統一された時の意識の事で、昨日から話している、観察意識の事だ。
心身統一という状態を理解することにより、理解が進む意識空間の話だ。
気をとらえるには、自分の気を知覚しなくては、不可能だというのは理にかなっている。
自分の無意識をとらえる事でもある。
(ただし、無意識のとらえ方は記憶と関係しているが、この記憶との関係は後ほど述べる。)

これは我々自身の感覚的な味わいとしては、確信的な直感だ。
もっと正確に表現するなら、生死を分ける決定をするに委ねられると
確信できる直感的感覚をともない知覚できる状態を体験している状態と言える。

続く
166【観察意識を掘り下げる-3-】幼児:03/09/09 00:05 ID:4Yr/7HJm
しかし、本来深い心身統一に置いては、最小限の意識しかない。つまり、
「自分が存在している」あるいは、「自分がそうしている」という観察意識のみ。
何故ならば、統一されている場合、自分を自分と感じられる感覚も統一される。
つまり、この状態は、完全な無意識であり、無意識が意識に同化されている状態だ。
すなわち、観察意識の事だ。

だから、意識と身体は、行動しているかもしれないが、自分は何故そのように
行動しているのかという問いはその時にはない。後になって、その行動の記憶を
たどって、理解するしか方法はない。そして、その記憶を再体験するには、
同様に観察意識でもって再体験するしか、記憶を呼び戻せない。
この理屈はおわかり頂けると思う。

そして統一状態を後になって、思い出し記憶をたどると、統一されていたから、
あのような神業ができたとか、シンクロにシティーが起こったとか、夢で見たとか、
予言だとか、そのような過去を思い出すような感覚をともなって、
過去の記憶を元に再体験するしかないわけだ。

続く
167【観察意識を掘り下げる-4-】幼児:03/09/09 00:07 ID:4Yr/7HJm
我々が自分の意識を認識する現実は、こうだ。「今以外の意識の観察しかできない。」
今を観る事は、不可能であるという限界がある。
つまり記憶という道具を用いて、今を観ることは、不可ということだ。

純粋な体験とは、記憶は飛んでいる。だからブッ飛び体験という。
何がブッ飛ぶかというと記憶だ。今という時空の認識は、
我々の一般概念でいえば、直感しかない。しかし、直感を感じた時点で、過去だ。

だから、直感と行動の一致が、合氣道においての、気結びの稽古だし、
それを専門にやるのが、合氣道の体系となっているのは、理解できるだろう。
そこには、直感もなく、行動もない、ただ、そうしている自分が居る。

そんな感覚だろう。そのとき、統一されている。但し、残念な事に、
自分ではその事に気づけない。だから反省が必要で、つまり観察意識での記憶の
再体験。で、自分の無意識を意識に上げて、知覚する。これを文武両道の文。

続く
168【観察意識を掘り下げる-5-】幼児:03/09/09 00:08 ID:4Yr/7HJm
夢を観ている時は、ちょうどそのような状態だろう。夢というのは、
昼間の身体を動かす物質生活が、身体主体の生活なら、夢は、意識生活と言える。
昼間は無意識主体の生活で、夢は、意識主体の生活。

統一されると、昼間と同じような夢を見るだろう。観るだろうというより、
むしろ、無意識と意識の差が縮まると、夢と現実の差が縮まってくるように
感じるのは、理にかなっている。自分の夢を説明できたら、理解はかなり
進んでいると言える。

人間とは、その活動の末端を観れば、観るほど、様々な複雑に絡み合った
活動をしているように見えるが、そうではなく、五感を通じて、心で統括した
様々な意識を体験、すなわち観察している行為である。いうなれば、人生活動とは、
観察であり、目指すものは、何故観察しているのか?を知る事である。

我々の馴染んだ言葉でいうなら、「私は何でこの世に居るの?」「ここは何処なの?」
の答を知る事と言える。我々は、上の二つの問いを、自ら確信をもって知覚できたなら、
我々自身のすることは、まったく我々にとって間違いは発生しない。

続く
169【観察意識を掘り下げる-6-】幼児:03/09/09 00:08 ID:4Yr/7HJm
と、言うより、
そんな功利主義的な冷めた現象説明では不足だろう。絶対的な快楽、絶対的な感動、
絶対的な驚愕・永遠の時間をもって、その事実に直面するだろう。
これは死であり、生きている内に行う事は「悟り」の最上位に相当するものだろうし、
開祖で言えば、黄金の…。だね。

つまり、観察するものとされる物との関係と反映を観察し、その差を埋める
行為を通じて、今居る自分の場所の全体像を知る事が我々の生きる意味であり、
全ての学問の目的だ。

全体像が解れば、それが、また全体の一部を形成しているから、果てしなく
それを繰り返してゆく。完全な全体に返るまでそうなるだろう。
つまり、悟りとは、自分と、世界との差取りだろう。

続く
170【観察意識を掘り下げる-7-】幼児:03/09/09 00:09 ID:4Yr/7HJm
問題は絶対が在るか?という問いに帰着すると思うが、絶対は常に存在する。
我々二元論前のもの、つまり分裂前の一元物は、二元にとっては、絶対である。
但し、その一元物そのものも、別の反映物をこしらえ、二元の一部になっている。

その入子状態が宇宙だ。もしそれが宇宙であるならば、意識もそのような構造で
あるから、意識の分裂を無くす事、すなわち、自分の意識の中での矛盾(二元)の
本を無くす行為を成長とし、生きる意味と悟る事だと思う。話が大きく成りすぎた。

学校教育は分裂を押し進める教育をしている。ゴテゴテの物質主義者を育て、
物質至上主義のシステムの秩序にそうように完全洗脳させる。しかし、
そうでは、ない。大切なのは、観るという事で、観察することを学ぶ事だ。

続く
171【観察意識を掘り下げる-8-】幼児:03/09/09 00:11 ID:4Yr/7HJm
学校は観察する所であり、つまり学校を通じて社会そのものを観察する事であり、
そのような思考が形成された子供であれば、学校も洗脳場とはならない。
社会人であっても同様で、観察という修業というとらえ方が可能となる。

我々は、そのような目で教育を観ていないし、世の中を見ていない。
つまりトコトン物も観ていなければ、意識もトコトン観ていない。
だから宙ぶらりんで、なにが本当かさっぱり解らない状態になっている。
ただ、教えられた事、あるいは、雰囲気をよりどころに生きている。
また、観察の仕方が解らず、あきらめ、快楽主義に突っ走る。

そのドグマから外れるには、徹底した観察精神を用いる必要が在ることは、
何度でも私は述べるわけだ。原点は「私と世界との関係を知る」であり、
「私が世界をコントロールする方法を知る」ではない。

続く
172【観察意識を掘り下げる-9-】幼児:03/09/09 00:12 ID:4Yr/7HJm
話は転換して、成長について話をすすめようと思う。
形で言うならば、DNAの螺旋状は、微妙にズレながら対局し、螺旋を描いて、
垂直上昇するとしよう。その垂直上昇する直線が分裂前の一の力で、絶対的な
力だ。

その垂直上昇する直線というものは、また、螺旋状の対局物の一部を形成しており、
実は直線ではないということで、この繰り返しが宇宙だという事だ。

そして、見え方は、我々が馴染んだ、星のような宇宙だったり、色々な宇宙が
あるのだろうが、それらを考える事は愉快だが、考えたままだと、実生活への
反映ができず、我々の生きる意味を見失う。

意識の反映が物質であるというとらえ方は、非常に面白い。
例えば、スピードという概念。これは、成長という意識の反映だと思える。
もっと、別の奇想天外な話でもよい。土砂は過去の人たちの、あまり有益でない
記憶の反映。新しい病気は、不安意識の反映。海は、無意識、陸は意識。
空、星は、今・過去・未来の反映。他人は自分の反映。

続く
反映の正体が明らかになったとき、
物質と人間との関係の完全理解が明らかになる。
同時にこの世の神の正体が明らかになる。

我々は既知世界と、未知世界との中に住んでいると思っており、
多くは、、既知世界にドップリ浸かる意識と、未知世界にドップリと浸かる意識等
その二元の間をゆらゆら流れているクラゲのような存在とも言える。

さらに、既知世界は、目に見える世界であり。未知世界は意識世界と考える。
この考え方が、存在を物質的にとらえる癖をよく物語っている。
人間とは体と心でワンセットであり、それを統括するのが意識であり、
すなわち、意識が我々の正体であるということをくどくどと語っている事だ。

物質を見るように、意識をみれば、いつかイコールになる。
今は意識の不足分があるが、それはすでに先祖がやってきた事で、
我々は、やっと、統合できる時に来た。

個人に置いても、合氣道という統一学問に触れているというだけで、
最先端に居るという自覚をもって欲しいものだ。

追:次回からは、ちょっと軽い話にする。といっておきながら、どうなるかは、
わからない。

では失敬。
174もくじ-3:03/09/09 00:38 ID:4Yr/7HJm
**************************
6 :【はじめに】
14 :【合気道感のバックボーン】
22 :【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】
30 :【強さとは】
41 :【強さ=称え合う】
51 :【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】
57 :【合気道は論理術(思考術)?】
71 :【生死は論理ではない】
82 :【宗教的】幼
91 :【一に還元=合気】
98 :【人間理解】
106 :【壁・自分の幻想を知る手段としての「気」】
120 :【奇想天外】
129 :【記憶は過去・今は無意識直視】
141 :【合氣道の日本語文字技】
151 :【武産合気は観察意識】
164 :【観察意識を掘り下げる】
**************************
175パールハーバー師匠:03/09/09 13:09 ID:m9ExG/IY
で、それからそれから?
176【幻想の世界に住む私-1-】幼児:03/09/10 00:03 ID:gN27Mor+
昨日は、観察意識を掘り下げるというエッセイをつづった。
今日は、言葉について考えてみようと思う。合氣道においても
記憶へのすり込みには、論理が必要で言葉に頼るしかない。

問題は言葉は、我々にどんな影響を及ぼしているのか?
これを問題提起して考えてみる。

さて、我々は真実を熱望するが、真実とは、必ずしも、科学的ではない。
合理的でもない。

真実とは、実は言葉の問題で、言語が生まれる
以前の我々は、毎日と言う概念もなく、まさに、本能に支配されて
生きてきた。もちろん真実なんていう言葉も、絶対という言葉もない。

すなわち当たり前に行きてきた。ここに死体がある。
死ぬ前には、苦しんでいたが、死んだら眠ったようになり、
腐ってしまう。つまり死ぬと、苦しんでいた者は苦しまなくなり居なくなる。

何処へ行ったのか?は解らない。だが、苦しんだ者は、
苦しまなくなったことは確かだ。だから存在(人間)は、
死ぬと体から居なくなる事だけは確かだ。

続く
177【幻想の世界に住む私-2-】幼児:03/09/10 00:03 ID:gN27Mor+
素朴な言葉を知らない我々の疑問は、この世で消えてなくなる物は一つもない。
突然消える事はなにもないのに、存在は、居なくなった。
だから、言葉を知らない我々は、何処かに行ったのだろうと直観した。
これが、純粋な他者の死のとらえ方だろう。

そして、今でも、その答は見あたらない。
もっとも、うまくこの現象を説明しているのが宗教だ。
言葉を知らない我々はこの世を観察しているが、観察した通りに理解している。

言葉の無い時代、あるいは、言葉を解さない直観は、原初的な
本能的に現象を観察する。この結論が宗教で言われる死の真実の
可能性は非常に高いと言える。

続く
178【幻想の世界に住む私-3-】幼児:03/09/10 00:04 ID:gN27Mor+
私は死んだ事がないので、死の後を探求した事はないが、
宇宙は循環しており、我々の毎日も循環していて、
昼間と夢の世界を循環していて…。なんでも繰り返される。

そして、言葉を知らない我々の目の前にあって、突然消えるものは何もない。
消えて無くなる存在は無く、繰り返されない問題も無い。
ならば、人生は無である。すなわち人生とう言葉は存在しないし、概念もない。

すなわち、生→死は直線的ではなく。この世とあの世も無く。
そこでの一元論の原則からすれば、今が全てであり、
今以外の世界は存在しない。言葉が生まれてから生死が存在した。

続く
179【幻想の世界に住む私-4-】幼児:03/09/10 00:05 ID:gN27Mor+
すなわち、ことばによって、我々自身の手によって生と死を分割した。
我々のもっとも切実な問題の分割は、生と死であったということだ。
言葉が存在しなかったら、どのような直観をもって、命を理解するだろう?

今しか理解できないはずだ。つまり、本能は今しか認識できない。
逆に言えば、二元論の世界を本能から眺めれば、生とは、何か?
死とは何か?を知ることができる。無い視点から在る物は知覚可能の原則だ。

正確に言うならば、生と言われている言葉の正体はなにか?
死と言われている言葉の正体はなにか?
これが理解できる。これが理解できれば、人間の幻想全てを理解できるということだ。
但し、今を知覚するには、記憶をたどらなければならない。つまり、幻想は
観察意識で思い出す事によって知覚できる。

観察意識とは直観であり、本能からの視点という面から説明した。
そこには無意識は存在するはずもなく、全てが裸(心身)で、
まさに今の我々から言えば、スッ裸で、心もむき出しで生活していた。
実に解りやすい生活だ。

続く
180【幻想の世界に住む私-5-】幼児:03/09/10 00:06 ID:gN27Mor+
我々の今は、変な言い方かもしれないが、今も昔も代わらない。
言葉の発生と同時に分割が生じ、対局する相反する現象を同時こしらえ、
次のステップに進んだのだろう。

この現象そのものも、大いなる循環サイクルの中の一こまで、意識成長の
ステップと言えるだろう。

さて、日常生活に話しを戻そう、これまで話した事は、我々の原点を知る点に
ある。我々の原点と思われる意識の再体験だ。我々の宗教は、その原点を
忘れない為に存在した。言葉と同時に、絶対に忘れてはならない事を
単に記した。それだけだ。その解釈は湾曲を極めて我々に伝わっている。

我々は、案の定、すっかり忘れた。言葉によって、分割世界を創り、
さらに、入子状態の分割をつくり、世界を広げた。我々がみずから広げた
世界を、説明するために学問なるものも生まれた。

続く
181【幻想の世界に住む私-6-】幼児:03/09/10 00:07 ID:gN27Mor+
学問は、創造された世界の活用には多大な実績を残した、と同時に、
幻想の世界を完全に定着させる役割を演じた。そして、我々自身も
幻想の世界を完全に信じている。これがこの世と言われる言葉の正体だろう。

広げた力はある臨界点で、戻そうという力を生む。
そして今は、恐らく、臨界点付近に居る。
物質と意識の関係を物理学が掴みだしたからだ。

我々が共有している意識空間を観れば分かりやすい。死という言葉が、
当たり前に語られやすくなってきていることは、一つの極点の反映現象として
現れているし、若者が死を考える時代は、戦争という非常事態ならば解るのだが、
生きられるのに死を考える時代。

この現象の是非を問うても意味がない。そうではなくて、現象の反映を
探るべきだ。それから完全相対主義の世界では、是非が存在しない。
言葉の優劣や、高低も存在しない。

続く
182【幻想の世界に住む私-7-】幼児:03/09/10 00:08 ID:gN27Mor+
なにを意味するのか?と、意味する事を考えるより、
現象としては、広大な平均的一元論の世界に居ると同じ事だ。
個人においても、時代は一元論を待っていると言える。その反映にテレビドラマ、
音楽、繰り返される流行の実感、インターネット等、そして、命の代用である
ロボットペット。

一元流行はいつ来るか?という問いだが、例えば、「天皇、人間宣言」
の重要人物として、三島由紀夫氏は、小泉信三という知識人を上げている。
我々は天皇を神として全体主義(一元)で来たのだが、その小泉というキーワードが
一元をタブー化したとしたとしよう。元に戻すのも、小泉だ。こういう発想も面白い。

こういった秩序が正しいか間違いかはどうでもよく、一元で考えていって、
先に秩序を見つけ出した結果。別のアイデアが生まれて、実は、そのアイデアが
根底にあった秩序だっという気づきの連鎖を生むという一例を示唆した。

続く
183【幻想の世界に住む私-完-】幼児:03/09/10 00:09 ID:gN27Mor+
最近とても、現実離れと諸君に言われそうな具体例を書いているが、
その理解の筋道は、合氣道の意識となんら変わりない。
私は合氣道でえた法則を用いて、思考しているに過ぎない。

そして私を通して、世を観ると、そう観察されているという単純な行為だ。
一歩間違うと自動書記となる。自動書記とは、たぶんその先にある境地であり、
在る意味、何かに操られるような感覚をともなって起こるのだろう。
そんな気がする。

今日はハードコアな内容になってしまったね。でも合氣道の話だから、
お許しねがいたい。明日は気楽に行こう!
と言っても、未来は予測不可。未来が在るならばね。

では失敬。
184【自信とは幻想である-1-】幼児:03/09/10 22:31 ID:gN27Mor+
予告どおり今日は気楽にエッセイをつづる。

ここ数日語っている主旨の根底にあるのは、
我々自身の日常意識において、視点(意識)の固着が起きているという
現状を話している訳で、本来の原初の意識から、かなり人工的な
でっち上げられた意識の空間の中で我々は、その意識が唯一であるが
ごとく生きていると言うわけだ。つまりバーチャルな世界に住んでいる。

それは、我々が日常生活をする上での、社会秩序に準じた
意識を保つ為に、やむを得ず、意識の固定を行っているのだが、
固定しているという現実を、見失い、昼間の意識が全てであるが
ごとく、それを根底に社会秩序が形成されているからだ。

しかし、私自身も社会の中で生活しているが、社会で共有する
意識というのは、言葉と同じで、社会にふれ合う時に、その意識を
用いれば良いのであって、日常の意識を常に社会の推薦する意識に
止めておく必要はどこにもなく、完全な自由な時空が広がっている。
限界があるとすれば、私自身がこしらえた限界だ。

続く
185【自信とは幻想である-2-】幼児:03/09/10 22:32 ID:gN27Mor+
言葉を変えれば、固定という安住を求める者達の集合的意識が、
社会の意識秩序を形成しているということだ。これは、秩序の矛盾を
抱える者、あるいは反発する者、秩序に準じる者が依存している
世界観である。

いずれにしても、その対局している両者は、社会秩序を信仰している
ことには変わらない。つまり社会秩序を共有している。社会秩序信仰者の
発する現実とは、本来の意味での現実ではなく、社会秩序を指す。

すなわち、実体のない、システムを指す。妄想という言葉を使う事は、
すなわち、自分は妄想の世界に居ないと言いたげだが…。実に滑稽な風景だ。
妄想の世界に居ない者はこの世には居ない。つまり、社会秩序維持宣言者だ。

社会秩序は人間関係の事で、いわゆる人間主義の事だ。
多少環境環境と言われ初めてはいるが、人間主義を根底に置く、
環境音頭にすぎないのは、諸君の感想する通りだ。

何故、このように、システムに依存すのか?すなわち、私の問いは、
システムを信仰する意識はどのようなものか?だが、少し観察してみよう。

続く
186【自信とは幻想である-3-】幼児:03/09/10 22:33 ID:gN27Mor+
根底にあるのは、私自身を信じられないという信仰に立脚している。
だから、システムで私自身を補うという「自信」の代用を指す。
システムというのは、現実でないのは、諸君のおわかりの通りだ。

自信の代用がシステムであり、社会秩序でもあり、様々なイデオロギーだ。
宗教も含むが、教義化されたシステムを信仰する宗教の事に限定する。
いずれも、システムを自信の代用とする。個人と世界に立脚した宗教心を
宗教と私は呼ぶ。つまり宗教は、個人の事で、教義化された宗教は社会が言う宗教だ。

2chに置いても、流派ブランドを信仰する者も沢山いる。
流派ブランドだけではない。投げ信仰、打撃信仰様々な、システムを信仰する。
まるで、商品を選ぶように、自信の代用をあれこれ探し、諸君の目に映る風景は、
いつまでっても、自信の代用を追い求める意識を目の当たりにするところだろう。

自信の話の本質は自分以外の信仰であり、自信を得た場合は、
代用品の信仰打破が成立したという事実しかない。
信仰は、一つのドグマだから、壁がある。代用品信仰の解脱には壁が存在する。

続く
187【自信とは幻想である-4-】幼児 :03/09/10 22:34 ID:gN27Mor+
壁があるからこそ、一つの階層・意識の次元が存在している。
意識の転換でもってしか、そこから抜け出せないわけだ。

まずもって、信仰の正体を知る必要があるのだが、そこに目を向ける事は、
自分の弱さを認める事でもあり、自信を得たいと思う意識は、なかなか
その逆転の発想が持てないのは理解できるだろう。

認めるというのは、見てその物の存在を確認する。 つまり観察する事だ。
決して、認める振りをするのではない。弱さの正体を捕まえる事だ。
意識次元の克服は、常に自分の深層に入り、観察することでしか、
方法はなく、同時にそこのみが入り口であり、同時に出口だ。

自信の正体を自分自身で捕まえた瞬間、自信を得る。という訳だ。
つまり、気づきの事だ。幻想と現実の差を埋める事だ。秩序の発見と創造だ。
そして、軽い悟り(差取り)に相当する。

意識の転換なくして、同一の意識でもって、一つのドグマを超越することは、
まったく現実的ではない。つまり不可能だ。自信は方法で得られるものではなく、
意識の転換をもってした時、そこにあるものだ。

続く
188【自信とは幻想である-5-】幼児 :03/09/10 22:35 ID:gN27Mor+
方法は様々存在していて、それは意識の転換を行う為の方便であり、同一意識で、
その方法に終始している間は、ぐるぐると技術論に終始し、意識の転換は
起こらない。つまり自分の幻想に気づけない。

偶発的に自信がつくことはありえない。社会は、すべてに置いて手軽さを
信仰するから、簡易的に、チャレンジ、勇気、覇気、努力などをもって事にあたり、
自己実現(自己超越)をせよ!と推薦するのがほとんどだ。

つまり、色々経験すると自信は付くと漠然と推奨する。
意識次元の超越は、一方向に進んだ先にある到達点という意味合いでとらえる
考え方だが、これも、根底には、生→死という時空感覚をよりどころにしている
根底がある。

続く
189【自信とは幻想である-6-】幼児 :03/09/10 22:36 ID:gN27Mor+
だから色々経験するというのは、一面的には正しい。しかし、自分の殻を破るような
感覚をともなった。ドキドキ、ワクワクが無ければ、自信には繋がらない。
結果的に自分の素晴らしさに気づけば、自分を信じられるようになったということだ。

ただし、それが相対的評価(優越意識等)をよりどころにしているうちは、
自信は常に危険にさらされている。今度は、守りに回るようになる。
行動としては、強がらなければ、自信を保てない状況に置かれる。
本物でない自信は、結局ほつれるということだ。

これが、湾曲すると、力(パワー)を信仰対象とするし、とにかく忙しく
立ち回り、強さを追い求め、それに専念できるように自己洗脳してゆく。
しかし、これもつかれて、いつかは息切れするときがくる。

私はこれらの経過の是非は問わない。そのような経験から、大いなる気づきに
導かれると思うからだ。人間は様々で色々経験して行き着く。
いつも経過だからだ。

人生は主人公であり、やってみて初めて実感して、
自信を勝ち取る考え方もある。開き直っちゃうやり方もある。二通りある。
ジワジワか、一気にか、どちらかだ。これは人の生き方によるから、これも
是非は問えない。

続く
190【自信とは幻想である-完-】幼児 :03/09/10 22:37 ID:gN27Mor+
現象としての決定論を述べれば、昨日の言葉が生まれる前の世界観、
すなわち原初の意識から眺めると理解しやすい、「自信」というものは本来存在しない。
言葉がこしらえた幻想である。

幻想と知ったなら、そういう幻想を信じなければ良い。自信の幻想は、システム信仰
であるというのは、先に明らかにした。つまり自信が無いという直観を、よりどころ
にするならば、当然、その直観が語った、「自信」が無いという「自信」とは何だ?
と、問う事は極めて当たり前の事ではないか。

そして自信の答は、「自信」という言葉が生んでいる幻想である。
つまり「自信」なんか信じず、自分を信じればよいではないか?
だから、自信は存在しない。あるのは、自分と世界の関係だけだ。

このように書くと、信じる方法が解らなければ、自分を信じられないと
いう諸君もいるかもしれない。自分は生きているというのが証拠である。
これでは信じられないというなら、今、体の何処かをつねって欲しい。
痛いはずだ。夢ではない。確実に生きている。だから信じられる。

では失敬。
191【所感】:03/09/10 22:49 ID:gN27Mor+
今日は「体の転換」と、「諸手取り呼吸上げ」の話でした。
合氣道において、極意事項の一こまだね。
後から気づいたが、【体の転換・諸手取り呼吸上げ】とすれば良かった。

失敬。
昨日は、体の転換、のような基本部分を考えてみた。
内容は、自信の話で、自信は自分を信じる事であるという結論だ。
そして自信そのものも実は存在しなく、幻想であるという点で帰結した。

同時に、それを発展させ、自分を信じる場合、自分とは何か?を問わなければ、
ならないが、自分とは、「観察する意識」であることは再三述べてきた。
だからいきなり本題に入る。
今日は「合氣道の秩序」と「自信の秩序」というキーワードを同時に示唆してみたい。

だが、その前に「観察する意識」が我々自身の実在で
あるから、以下我々と言うときは、我々の「意識」という意味であり、
私という時は私の「意識」である。こういう前提をご理解いただきたい。

我々の存在理由は、この世、すなわち自然界の観察だ。
「自分と世界の観察」を通じて、自分を知る。今の人工的物事も全てここから
スタートした。そして、自己実現を繰り返してゆく。

続く
自己実現とは、我々にそなわっている能力を開花させ、
自己超越・次元上昇・一段上の人格を目指し、最善の自己になろうとする原則で、
自然界の全てはその繰り返し・仮定の中にある。だから自己実現の先に絶滅・進化の
二元論は存在しない。つまり進化か絶滅か?は結果であり、どうなるかわ誰もわからない。

大抵の動物は学習して、結果的に進化という現象を観察できる。
一方、同様に動物は、学習して結果的に絶滅という現象をも観察できる。
これは我々個人に当てはめても同様だ。

さて、今日のテーマは、秩序・自信・意識の話だ。全部合氣道の話だが、
そう見えないかもしれないが、本人はその気で語っている。まず、秩序。

すなわち、自分の中にある秩序の形成だ。人間は立つが、立つという原点が
存在している。意識も同様で、原点がぐらついては転んでしまう。
意識は、自由だから、すがる場所があれば、いつでも何処かにすがりたがる。
昨日話した、自信の代用物であるイデオロギーや、信念・知識が代表的だ。

続く
小さい子供は、直ぐに、何処かにもたれ掛かる。親に触れたとたんに、
そこにもたれ掛かる。楽だからだろう。寄り添っていれば、安心だし、
絶対的存在が子供にとっては親だから、そこに寄り添うのは自然な事だ。

原点は、「原初の意識」であり、あるいは、それ相応の意識の事で、
>>176
【幻想の世界に住む私-1-】からくどくど書いた意識の事だ。
この説明は我々の先祖が色々な哲学、思想などで、説いてきた物で、
私の説明は私の考えであり、意味する所は変わらない。

「原初の意識」はすなわち、観察意識の事で、物事をありのままに観られる
意識の事だ。我々は色々なゴミやメガネを掛けて物を観るが、クリアーな
意識であれば、事象をありのまま、感じたままに直観できるというわけだ。

続く
さて、問題は、そのような意識は、自分なりに学習して、自分なりの
生き方を見つけてゆく。くどいようで、申し訳ないが、借り物ではない。
あるいは、他者の視線に立脚した、欲求からでてくる生き方ではない。

つまり、自分の中に秩序をこしらえるということだ。
世界と自分との関係の中で秩序をこしらえるわけだ。
意識と自然界の関係を知り、その役割や、秩序を見いだすという事だ。

基本的に我々は内在秩序を用いて生きる事を選択しているが、
この時点で実は、社会の圧力に出会う。すなわち壁に出会う。
突き抜ける、あるいは、開放できるか?は、この壁の向こうに行けるかどうか?
に掛かっている。これは反逆という言葉に近い。社会から見ると反逆だろう。

続く
壁というのは、何故壁となるかと言うと、スマップの歌ではないが、
我々はオンリーワンだから、社会というむりやり普遍化された意識とは、
100%同調できない。だから自信家=反逆者となってしまう。
社会との同調度が低い素質をもっている物ほど、自分を信じれば反逆者となる。

だから、自然界の摂理からすると、「自信を持ちたいと希望する者」と、
「自信と無縁な者」、そして「自分を信じている・知っている者」の三者が共存するのが、
人間界だと思う。その三者を隔てているのは、意識の次元の壁がある。「信じる」と、「知る」
では大きな差があるが、ここではおおざっぱに3分化した。

その壁は幻想なのだが、社会という幻想内では、セットで存在してしまう。
自信を解りやすく言うなら、出世しなくてはならないということで、出世間することだ。
社会の共有意識と自分は同化しないという反逆宣言からスタートする事を
選択できるかどうか?に掛かっている。この選択が自信の「壁」だ。
時々、本能が勝ってしまって開き直る者がいるが、開き直れる者は美徳だろうと私は思う。

続く
「壁」を越えた先には何があるのか?というと、新しい意識の次元があるのだが、
まったく空白としよう。なんのよりどころもないとしよう。孤独だ。
自分の人生の主人公になるわけだから、自分で舵を取らないとならない。
つまり冒険家となる。

いまから冒険を始めるのだから、色々な発見がある。深い観察意識を得ているならば、
繰り返される毎日ではない。普通なら、疑わしいとか無関係だとして無視してしまいそうな、
かすかなイメージや予感をしつこく観察、あるいは、感受してしまう意識となっている。
感受性が豊かになった状態だ。つまり人間の拡大、意識の拡大ということだ。

そんな意識で色々な社会観察に触れる我々は、次第に、我々の内面に、
秩序が形成される。すなわち内在秩序が形成される。
世の中はこうなっているんだなぁ〜。とか、私がこう動くと、自然界はこう反応する。
とか、自分自身の洗脳状態にも目が向けられる。そんな素朴な直観を得る。

この繰り返しで、たちまち、知識や、イデオロギーなどの既存物・代用物に頼らない
骨太の内在秩序(自分の芯)をこしらえるだろう。すなわち、確信の積み重ねの結果、
不動の確信に至る経過となって、心身の行動(日常生活)に反映されるということだ。
合氣道の稽古そのものである。

続く
知識は、実はバーチャルであることに気づくだろう。知識は本を見れば
書いてある。この次元では、知識は、不要だ。不要とは言わないが、他人に説明するために
用いるだけだ。同時にこの次元で、逆説現象に遭遇する。色々信じていた物が
全部嘘だという実感をともなって感想するだろう。

我々の内在秩序は常は統一に向かう。つまり今日、これだ!という内在秩序は、
年を重ねると、ともに換わる事が頻繁だ。これは乗り替えではなく、取って換わり
全体性を保つ秩序の発見であるから、過去の秩序は基本的に内包されて存在し続ける。
これが意識の成長だ。

だから、我々の成長は、DNAの螺旋構造そのものだ。二つの螺旋に意味は、
物事の二面性、陰陽、二元論。我々はそのど真ん中に位置する垂線である。
真ん中ではなく、二つの螺旋を少し上で眺める垂線だ。これが観察意識であり、
我々の事だ。意識の位置は4つある、右か左で二つ、そして真ん中で3つ目、
そして上下のどちらかの意識視点で合計四つ。

続く
ミクロの世界で、螺旋構造は全体的に見渡せる。今という我々の目にする
普通の風景は、まさに螺旋構造の現れを反映しており、太陽と地球の関係は、
回転しながら、時間軸を加えると、垂線を形成する。すると、まったく、
DNAモデルと同一の状態になる。

なぜ、こんな事を話すかというと、一見この世は、二元論で、
事象は色々繰り返されているという理解を世間は多様する。
例えば、日本は西洋かぶれになったとしよう。そして西洋は東洋かぶれになった。
つまりこの点をみると、西方向へまわりながら、意識は成長するのか?
という考えになる。以上のような示唆する所をご理解頂きたい。

さらにこの示唆する事を発展させると、この世に直線は何一つなく全てが曲線で循環されている。
意識の側面として、「自分と世界との関係」が、この世であることをしっかり
認識しているほど、自信家だ。というより、秩序理解から自分の位置をしっかり認識している
ともいえる。いずれにしても、どのような内在秩序を用いても、「自分と世界との関係」に
立脚したものであるならば、芯と言える。(合氣道も同じ)

続く
意識空間で話すと、自分のまわりに球状の世界が広がっていると言える。
球状の世界の中に、心と身体、見える世界と見えない世界等あらゆる二元論が
存在している。見える世界で話しをしてみても、球面に直線は存在しえないだろう。
意識の拡大、器の大きさは、この球面の大きさを指す。(合氣道も同じ)

ただし、バーチャルな場所、すなわち意識の反映であるこの物質世界では、
直線というルールを用いることができる。しかしそれが極めて長い直線となると、
事は変わってくるだろう。(このあたりの説明は下手なので、諸君の理解力
・洞察力に頼る部分だ。)

だから、この球面の形成が自信の正体でもあり、まずもって、人間の前提となる。
それ以前は赤子に近い意識だといっても言い過ぎではない。球面が大きければ、
他者との接点も増大する。だから人間の直観理解も深まるし、事象の見方も
直観的に理解できる現象が理解できると思う。(合氣道も同じ)

この流れからいくと、意識と力の関係あたりに落ち着くと思う。
これで、一回りするからね。付録で霊があるね。
つまり話が根本意識を眺めながら身体方向へ向かってくるだろう。
そして、また気に来てというように、循環するだろう。

では失敬。
201【余談】:03/09/11 23:25 ID:9w8XTR5t
余談だが、気の研の藤平先生が、相手との一体化と、自然界との一体化の微妙な
ラインを区別することを強調した事は、一考に値すると思う。
では失敬。
202【戯言】:03/09/11 23:41 ID:9w8XTR5t
私たちは、二重螺旋で成長してゆく、
二元論はありがたい。
昼と夜と時間で成長する。
男女が果てると子供ができる。
女性は、行くぅ〜と言う。来るぅ〜という人も居る。何処へ行くのか?何が来るのか?
私は帰ると言う、何処に帰るのか?

クルクルパーという言葉は、
二元論を繰り返し、パーットはじけて、神への到達する近道の略だろうか?

日本語は不思議だ。日本の国旗も不思議だ。日本の神話も不思議だ。
まったく違ったルーツで文化形成されているとしか思えない。

過去に森総理の神の国発言があったが。私は、素直に「それをいっちゃおしまいだよ」
と思った。私は氏の素直さが嬉しかったが、事の確信は、誰が反発し、誰が肯定したか?だ。
そして反発する意識の正体、肯定する意識の正体は何か?を国民に考えさせるいい
事件だと思った。
203165mm:03/09/12 00:37 ID:t7lTxNsO
八百よろずの神々と言うくらいだから神の国かも。
     
204名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/12 17:22 ID:Pq9Ez4AY
幼児さんが話しているのは全て一つのことからだから一元論だろ?
日本史もどき、フリーメーソン等のオカルト的な思想史本を眺めてみると
我々自身のルーツにたどり着きやすい。もどきものが非常に有益な情報を
我々に提供する。

ユダヤの支配下によるなんちゃらとか、キリスト教自らを破滅に導くなんちゃらとか
いうトンデモ本の事で、拡大解釈されている傾向を感じるだろうが、
読む時は、本気で読まなくてはならない。つまり信じなくては意味がない。
日本人の発祥は飛騨であるというのが、現時点の私の有力な直観だ。

本気で読むことで、意識を極にもっていき、その意識で今を観察することは、
非常に有益だ。我々の認識は、差によって知覚を明確にする原則がある。

例えば、極めつけの闇の中では、通常、極小の光も、極めて鮮明に見える。
女の中の女に出会ったなら、女の本質が理解しやすい。極と相反する極を
眺めると違いが良く解るということだ。

続く
だから、滝に打たれる、断食する等してみると通常の意識と違う意識を
体験する、このような事は少々アラっぽく、死に近づけ、できるだけ最後の
トリデに近い意識、あるいは、命、魂レベルの意識しか残らないように
し向ける行為で、その意識で、この世を眺めることで、「差」を知覚する。

このような行為によって、純粋な状態と、泥まみれの自分の意識の状態を
確認し、新たな課題をもって俗世間にて、日常生活を営む事を可能とする。

一方、自ら進んで、そのような意識に入る行為を瞑想とか座禅とか
武道、ヨガ、付録にドラッグとかそういうもので、どちらも魂(意識)の
汚れ・本性を観る事で、人間がそれを求めるのは当たり前の事だ。
体も汚れたら洗う、鏡で身体を確認する。意識も同じ。心身は同じように
扱うのは当たり前の事だ。

続く
体は寝れば良い。心も在る程度寝ると良い。深い意識および魂、トラウマなどは、
寝てもダメな場合が多い。意識の奥の方の傷や、汚れは、相当の洗濯方法が
必要だ。深い意識状態で心が傷つくとトラウマになる。だから、日常いじめなどで、
意識の力、気力が低迷しているとき、追い打ちを掛けて、完璧ないじめを受けると、
トラウマになることは理解できると思う。

大抵は追い打ちの先にトドメが刺さる。これでダウンだが、これは
本当に無慈悲な行為で、許されない事だが、当事者同士はこのような
事に無知だから仕方ない。その無知さを当事者の責任にすることもできない。

まるで、合氣道の技を言っているようだが、その使い方をも学ぶものが
合氣道であり、必然的にこのようなトドメという行為には敏感にならざるを
えない。すなわち、この無慈悲なトドメが神技の一つであり、
使う事には十分な注意を要するということだ。


続く
他人の生死(心も含む)に関わるし、私の洞察では、他人の業(人が担っている運命や制約)
に関わってはならないというようなものだ。そっとしておくのが望ましいようだ。
本人の口から語られるものは良いが、好奇心から掘り出す事は、トドメになる。

そのような話は、両者が、意識の深い次元をさらけ出しあいながら、進める事で、
初めて成立する。逆に、親密な関係はされけ出す事により、魂レベルでの結びつきも
得られる。恋愛はそのように在りたいものだと私は思う。

トドメを知らず知らずに刺してしまうのは、人間は機械であるという洗脳を我々は
受けているからだ。体や思考、感情、知識、は見えやすい。しかし、意識を観ることは、
まったく、無視されているし、社会はそれを無視することで成立している。

合氣道は気を観ることを学び、同時に使い方を身体操作を通して掴んでいく行だ。
専門分野であり、人間の根本理解を深める事を目的に置いている。
目的と書いたが、人間の目的とイコールだから、開祖の言う万人の道だ。

続く
今、我々は言論統制は行われていない。言論の自由が保証されている。
怠惰な人間は、無責任になんでもかんでも悪用することもできる。
示唆を用いて善用することもできる。言論を道具として活用できるように
なっている。

しかし、腹で思ってる事より言論を重んじてしまうという風土も出来上がる。
同時に腹で思っている事を重んじ、言論を軽くみる風土も対極してこしらえる。
本来は言行一致であり、思惑と言行も一致させて、理解が深まるのだが、
我々は嘘ばかりついている。さらに、自分が嘘をついている自分に気づけない
状態でもある。

これは、致し方ない、嘘のうまさが社会適応力の善し悪しを決めているからだ。
しかし、これは表面的な事で、他人は大抵お見通しだ。人間というものは、
深いレベルでは嘘は瞬時に見抜く。人間の本性は気(意識・無意識・潜在意識)だからね。


続く
感覚としては、何か府に落ちないというような
感覚をともなって、我々の直観に現れる。合氣道をすればするほど、
社会はバレバレという面白い現象をお目にする。最初は色々社会に不快感を
催すかもしれない。

しかし、その次元を通り越すと、完全に社会を眺める境地ができあがる。
自己観察ができる状態を指す。自分が、怖がっている、好んでいる、等
の理解が進む。つまり意識の拡大が起こる。

嘘を付かなくなると、世界がよく観えるわけで、嘘を付けば付くほど、
なにがなんだか解らなくなる。正直者にとって、抽象概念はありえない。
抽象的という表現は何故あるのか?

理解できないとはっきり言えばよい。「抽象的」というは格好いい言い回しだが、
解らないという意味の詭弁だ。正直にあるのは、解るか?解らないか?のどちらかだ。
この意味がおわかりだろうか?。

続く
解らない事は、解らないのであって、まだ知る用意が無い。
解る事は、解っている事であって、知っている。
解る事は頭の問題ではなく、発見の問題で、観察の問題だ。
見方を理解すれば、解るということで、秩序を理解すれば、解るということだ。

この点は明確に区別したいが、知識では何も解らない。概念記憶の事を知識と言う。
知識それ自体では役に立たない。道具だからだ。道具だから、店で売っている。
知る、知覚、認識は、それとは違う。

受験知識とは次元が違うということを
区別していただきたい。知識は売っている。知覚は売っていない。
両方とも記憶ではあるが、違う。もっと区別するなら直観は知覚に極めて近い。
知識は、洗脳に極めて近い。知識は牢獄、直観は自由。

秩序とは、事象の大元を掴めばよい、大元から枝分かれしている部分が
事象であるから、そのつながりが理解できれば、よいわけで、理解の仕方は
無数にある。

つまり、つながりは科学的証明に左右されなくてもよい、
パソコンがフリーズした原因を科学的な秩序を発見しても良いが、
私が怒ったから、フリーズしたとしてもいい。そういう秩序の発見があったなら、
この発見は我々自身にとって正しい。これが昨日から話している内的秩序の発見だ。

続く
さて、我々は、悪い事を考えても罪にはならないし、我々の内部に住む悪魔を
我々の善で退治できずにいる。いや、退治する気もない。なぜならば、
見えないから、いいや!ってもんだ。見えなければ、なんでもオーケーな社会が、
我々の住む社会だ。

人間を知るには、その人の中心概念、すなわち芯である「神」という概念を
問えば、思想の根底がたちまち理解できる。
思想とは、信念体系ともいえるし、最大の偏見とも言えるし、全ての意識の
前提条件と言える。太陽系で言えば、太陽に相当する。合氣道で言えば、
呼吸に相当する。すなわち、神を問う時点で、あなたを問う事になる。

だから最高概念を掴む事は非常に大切な事であり、最高概念から我々の
思考の秩序は形成される。だから神とか自然界とかそのような言葉を
平均的概念と同様に扱う事は、自分を大切にしていない証拠と言える。

私は、神や仏に頼らない!とか堂々と述べる者の本質は、
私は、自分に頼らない!すなわち、自信がない!と白旗上げてる状態だ。
一体何に頼るのか?その意識が完全相対主義の正体であり、
同時に、数々の思想の暴力になんの抵抗もなく、染まってしまう魂の本質を
物語っているといえる。

続く
自分自身の成長のより所、根底に意識的あるいは無意識に神をすえているのが
人間の正体なのだが、これを感覚的に「光」でも、「ざわめき・情熱・夢など」
という言語表現もあるし、神をどのようにとらえるかは、人それぞれの感性によって
まちまちだ。

だからいつも、神の存在を意識することは、常に夢・希望等の最高肯定概念を持つことと
同じで、人間宣言をしていると言える。我々日本人は、日本に根ざした神のイメージを
しっかり掴んだ時に、大和魂の本当の真価を発揮するだろう。

大和魂は、血、先祖、意識、魂、思想、その全てが我々自身が生まれた時から
もっている素養であり、これを肯定することは、すなわち、大覚醒が起こる時であり、
我々の本当の真価を発揮できる神を得たということだ。
合気はそれをしっかり教えてくれる。というより、それを深い次元で知っていた開祖の
エッセンスがしっかり詰まっているパンドラの箱だ。

パンドラの箱は、目に見えないが、空けるとそこに開祖が居る。
本当に居るかもしれないじゃないか。
では失敬。
214【コラム…天真爛漫-1-】幼児:03/09/13 22:45 ID:JiPZKsGr
今日は、昨日からの流れとは少し違う。コラム的な扱いとなる。
感情のお話だ。

我々は怒る。どうしようもなく怒る心を抑えきれない時がある。
自分に向けて、あるいは、他人に向けて、そのどちらが悪いのか
解らないが、怒る。

怒りは、やりきれない、どうしようもない事だが、腹が立つ。
ムッとくる。何故だろう?怒りは悪い事ではない。
気に入らない者あるいは、気に入らない事象、気に入らない
自分。こういう事象に出会うと我々は怒る。

さらに、怒りのようで、怒りではなく、「叱る」というのもある。
叱りたくなる気持ちもある。これは怒りではないが、間違いであると
諭す行為だが、それが極めて危険な状態であれば、「怒鳴」るとなる。
とにかく危険だから今すぐヤメレ!という意思を表す。

怒りを広く表現するなら、うるさい!。ヤメレ!。バカヤロー。なめんな!。
はっきりいえ!じゃまだ!とか言い返す。
また、気に入らない者は必ず居る。その者の全体が嫌いではないのだが、
ある部分が嫌いになると全体が嫌いになったような印象を持ってしまう。

この正体は一体なんだろう?。私たちいつでもこの問題に向き合っている。
本当に向き合っているのだろうか?こんな事を考えてみたい。

続く
215【コラム…天真爛漫-2-】幼児:03/09/13 22:47 ID:JiPZKsGr
我々は、過去に怒っていた事象が、今は、悲しみ・哀れみを伴って、
感じられるものもある。怒りが悲しみに換わってとらえられる
というのも、我々の意識の体験にある。さらに微笑ましく思う事もある。
これが怒りの進化だと思う。

すなわち、怒りは、怒り→やりきれない→悲しみ→哀れみ→微笑みと
流れてゆくように思う。順々の個々の表現は、私独自の表現だが、
そのように流れてゆく。最終的に微笑ましく思えるようになる。
つまり「許せる」ようになる。

怒りの終着点・収束点・帰着点は、許しであるという事が理解できる。
怒り即、許せという理は真実であるが、それでは、怒りと許しの壁を
観える形で提示しているとは言えない。

寛容、すなわち心が広くなると、他人・自分をきびしく、とがめだてしないことに
なるのだろう。そういう現象は我々は承知している。しかし、怒りは起こる。
この正体は心が通じ合わないもどかしさと言えるのではないか。

相手の嫌いな部分が存在する。相手の嫌いな部分を愛せない。
相手の嫌いな部分を認められない。
同じ現象が自分の心にも当てはまる。

続く
216【コラム…天真爛漫-3-】幼児:03/09/13 22:48 ID:JiPZKsGr
この現象は、自分と一体化するのを拒む意識が我々の中に存在していると言える。
その部分を他人が演じようが、自分が演じようが、虫が好かない。つまり腹立だしい。
見るものいやだ。そんな状態だ。消えろ!と叫びたい衝動が怒りとなる。

これは、やはり幽霊であり、幻想であり、得たいの知れない、まったく
実体の無いものだ。つまり、その事象を演じている他者は悪くない。
またその事象を演じている自分も悪くない。なのに、自分だけが、否定している。

自分だけと言ったが、その怒りが人間普遍的怒りであると拡大解釈もしたくなるが、
その怒りの共感を分かち合える人が多数いるという事実にすぎない。
そのような怒りを持たない者もいる以上、やはり自分の問題にするのが賢明だろう。

ここまでの、結論は、怒りは自分の問題であり、その本質は、自己否定している
何かが自分の意識の中に存在し、そのもっとも嫌うパターンの現れ(行動・言動)
を自分あるいは、他人が演じた瞬間、わき起こる感情の習慣だ。

つまり、幽霊におびえる、あるいは、幻想に恐怖する時に反応するまったく
機械的反応に私たちは支配されてしまっているということだ。

続く
217【コラム…天真爛漫-4-】幼児:03/09/13 22:49 ID:JiPZKsGr
その時、我々は、「萎縮・恐怖等」あるいは、「怒る・頑な態度等」の二元論的
行為をもって対処する。対処するというより、我々を忘れて、そのような状態に
固定される。つまり機械的反応を許す。

我々は機械ではない。自由である。だから我々は、そういう機械的反応に
我慢がならないのだ。

そしてそのような意識状態の時、決して、転換、入り身を用いない。
用いるどころではない。合気の技は人間の技だ。機械には扱えない。
すなわち、平常心、無心な状態でなければ、真価を発揮できない。

平常心、無心な状態で居られないのは、どちらも事象から逃げている
受け入れていない。正面に立ちはだかり、事象を観察できない意識になっている。
だから我々お得意の転換、入り身も役に立たない。

ではどうするか?怒りと萎縮はイコールであり、怒りはむしろ萎縮の反射反応で、
怒りが通用しない場合は、いずれ萎縮に帰着する。だから身体的反応の表現としては、
「びびる」「足がすくむ」「ふるえる」「おびえる」
その状態で、仮に怒っても、足の震えを隠し、いきがる状態であり、事の解決には
向かわない。

続く
218【コラム…天真爛漫-5-】幼児:03/09/13 22:50 ID:JiPZKsGr
萎縮・恐怖・おびえそんな状態、「しどろもどろ」になってしまうのは何故か?
自分と自分と対立しているからだ。つまり自己矛盾が起きている。
気に入らない他者(心)の現れを観た時、一方で、殺せ!消えろ!と命じる。
しかし、自分もそういうことがしたい!
でもできない。なぜならば、やってはならない事だと信じているからだ。

心は羨ましい!、しかし、頭は、否定する。しかし、体は機械的反応をする。
完全に空中分解をした状態になる。これを方法論で防ぐのが、臍下丹田の一点に
意識をしずめるとか、祈りの心を保つとかそういう方法論が成立している。

これを生まれつきやっている人は大抵、気が強いとか言われるタイプの人間だ。
しかし、生まれつきの方法は、環境による必然による経験則の実行と、
生まれつきの身体操作の癖であり、全てで通用しない。

ある場所では通用しているが、在る場所では通用しない。
事も考えられる。ただ、方法に無知な者に比べて、応用範囲は広いだろう。

続く
219【コラム…天真爛漫-6-】幼児:03/09/13 22:51 ID:JiPZKsGr
我々が気が強いという他者を観るとき、その一部を観ているに過ぎない。
だから別の一部を観ると、気弱とも観える部分もある。理合いを熟知しない
我流は全体に到達しないし、方法論では全体には到達しないということだ。

つまり理合い抜きの、骨なし方法論は誤魔化しである。
道具ではあるが、根本解決には至っていない。

完全に自分の内部の「心と思考と身体」分離している状態のからくり(理合い)を
是非とも理解したい。

萎縮の正体の私の決定論は、「欲望の裏返し現象」であると見て取れる。
本当はそうしたい。それが自由であると解っているから。でもそれをしてはならない。
だから、仕方なく抑えている。しかし体(感情と身体)は拒む。

つまり、自分を保てなくなるのは何故か?という問いの結論は、
欲望である。ということだ。理想としても良い。

続く
220【コラム…天真爛漫-7-】幼児:03/09/13 22:52 ID:JiPZKsGr
怒ったり、臆したりしている本当の敵は、自分の欲望である。
まったくもって人工的なものであり、自尊心、優越心、虚栄心等だ。
つまり神に向かって、刃向かったバチが当たった。と解釈してもよい。
これは、天に向かって唾を吐くということだろう。

結果的に萎縮・恐怖は、制圧しても無駄であり、自分理想を消し去らなければ
不可能であることが理解できる。先に示した技術として用いる事もできるが、
我々が目指すものは、一歩一歩自分を消してゆく行為によって結果的に
いかなる事象に直面しても平常心であるという所だろう。

続く
221【コラム…天真爛漫-8-】幼児:03/09/13 22:52 ID:JiPZKsGr
さて、もう一つの問題である、叱りたい衝動に立脚した怒り(と似て非なるもの)
であるが、これは、自分の欲望に立脚していない。全体にとって必要な場合。この
確信からくる身体的反応が少し違う。無意識から来るものだろう。

これは腹の底から怒りがでる。雷親父のようだ。すなわち、感情にまかせて、
だれかれとなく叱りつけるような本能的なものだろう。
当たり前な叱り飛ばし。自分が無い叱り。

この区別を言葉で表すのは難しい。
こういうものは、怒りの質が違うように思える。純粋な感情表現だ。
私はこのような、感情表現は大いに開放されるべきだと思う。
泣き、笑い、怒り、天真爛漫な純粋な感情表現は我々の自由を約束する。

しかし、今の社会は、純粋な感情表現と、欲望に立脚した怒りを区別してとる事が
できる人間が少ない。だから雷親父が少なくなったといえるし、
感情表現を悪とする風潮があるから、無気力、無関心の顔が氾濫する。

続く
222【コラム…天真爛漫-9-】幼児:03/09/13 22:53 ID:JiPZKsGr
感情表現を抑える事は、情熱や、衝動を抑える事になる。
結果的に、生きる意味を無くす。人間の生命力である、情熱を自分で殺す行為は、
死を意味する。

最終的に根本にある、気を殺す事になり、元気(元の気)、命の気を
小さくして、生命力の低下が現れ、身体にそれが出て病気。つまり気の病気となる。
だから皮肉笑い・愛想笑い・脅し・つけ上がり、等のような歪んだものではなく、
天真爛漫な感情表現は大いにすべきだ。

その結果呼吸が深くなるだろうし、合氣道に置いても、元気を大きくする事を
やっているわけで、カラオケ等がいいのは、感情表現と呼吸の問題だ。
身体運動をすることで、同様の事ができるが、発声、呼吸が関連すれば、さらに
よいだろう。

それから、動物や、自然との触れ合いは、自分の中の精妙な情熱とふれ合う。
芸術もそうだし、美を感じる情動。こういう感情、情は、生命力に直結する。

続く
223【コラム…天真爛漫-完-】幼児:03/09/13 22:54 ID:JiPZKsGr
感情表現は、合氣道においても特に重要で、私は、気を出すイコール感情を出すと
同意語でとらえている。情動なき動作は気の抜けた動作であり、情なき会話は、
事の重要さや、言葉の背後にある気を伝える事が難しい。

マシンのこしらえた言語に何か?が欠けているのは感情表現で、情動である
気が言語表現から完全に抜け落ちている。しかし意味は伝わる。
人間が社会生活をする上で、情を抜いたビジネス言葉が氾濫すればするほど、
人間の生命力を奪うだろう。

感情表現が豊かさ、情熱が高まり、生命力の上昇、元気、呼吸の深み
これが同時に起こり、人間が膨れあがる。その気でもって身体を動かせば、
呼吸力は大きなものになるのは当然の事で、合氣道は、元気になる方法と
元気の出し方の両方を学ぶ体系だと言える。

※感情表現の豊かさとは、天真爛漫な感情表現であるが、質も様々であり、
静の極から動の極まで人それぞれ様々である。元気も同じ。ここを誤解しないで
欲しい。カメの天真爛漫と、猿の天真爛漫、ヘビの天真爛漫は違うが、
どれも天真爛漫だという事だ。

では失敬。
昨日はコラム的な扱いで、感情の問題を取り上げた。
感情は武道のみならず、人間の本能、人間の本性に直結するもので、
私という一部の観察者でもって、感情の全体像を語る事は不可能だが、
怒りに関連した、簡潔な思いをエッセイした。

ただ、決定論的に発言するならば、
感情は「開放する方向に自由はある。」、「開放する方向に可能性がある。」
「開放する方向に、超越がある。」ということで、感情の制圧方向には、
自己の破滅、あるいは、人間の機械化イコール魂(意識)の死を体験し、
自己破壊、他者破壊の方向に向かうことは自然界の理であると思える。

問題はそのような事を皆がやったら、無秩序な社会に向かうのではないか?
という懸念をする諸君もいると思う。そうはならないから安心してもよい。
何故ならば、意識の超越なくしては不可能だし、超越とは超越を自覚した時
超越している訳で、人間は元から、自由だということだ。

続く
意識の超越前に、自己防御の壁があるから、全ての人がそうなることは、
絶対にありえない。自己防御の壁は、簡単に破る事ができる反面、
非常に厚いと感じられる。つまり壁が見えにくいということだ。
ただ、引き上げられたという場合は存在する。

つまり超越という概念は、本当の自分を知ったとき、超越していた自分に
気づく事に他ならない。すなわち最初から自由であるという意味は、
自分に気づく、すなわち自分を悟れば、超越していた事に気づくだけの事だ。

あえて制限している、あるいは、制限されているという錯覚の中で我々は
生きており生活している。非常に簡単に表現すれば、我々のこの人生の中で、
過去、大きな感動を制圧した事件があったはずだ。あるいは、徐々に
感動することを制圧してきたことにより社会に適応してきた自分に気づく
はずだ。

続く
その証拠に、全身、はち切れんばかりの喜びの歓声。初めて何かを
自分の力でやれた事の感動。その魂からの叫び。このような幼児前、
あるいは幼児期にはあり、今はなくなった物。クリスマスには、サンタが
プレゼントを持ってきてくれると信じた。

希望あるいは、神に対する畏敬の念。あるいは、自然界への驚異。
そして突然コケて、つくった傷。突然何かが起こっていた。
いつでも今に生き、形而上(希望・夢)を信じていた。
いや信じていたのではない。知って居たということだ。つまり
当たり前の事だった。まさに生の冒険者であった。

そしてある時、あるいは、徐々に、大人の世界、社会に直面し始めた。
純粋な魂は、この社会を全てと考えなくてはいけないと感じ始めた。
その時、我々は泣いたり、苦しんだり、怒ったりした。つまり抵抗した。
しかし無力であった。いつか大人になって自由になろう!と
一時的な順応を決心し始める。あるいは、この時点で反乱を止める者も出現する。

そして大人になり、自由でない事を当たり前のように受け入れる物、
すなわち反逆に負ける者、反逆を続ける者が出てくるが、反逆者は、
徐々に少なくなってくる。同時に反逆者は孤独を味わうが、強い。
ただ、自分の強さに目覚めていないかもしらない。

続く
しかし、いつかは神すなわち太陽、すなわち卵子でもいいがいが、
そのような存在に一匹がたどり着く。そしてその次々に続く者が
でてくる。こうして徐々に自然は超越に向かって秩序している。

そのたどり着く場所とは、無数にある。その総体が卵子に相当すると
思ってもらってよい。一定数というのがカギだ。一定数が知れば、
そこには物質化・概念化されるといってもよい。発見・創造とはそのように起こる。

生命力とは、自由に充満している気であり、創造そのものであり、創造は、過去の
創造をも超越してゆく、それが創造の本性であり、人間の本性であり、
ゴキブリ以上の繁殖力を見せる創造の主、人間の正体でもある。

私はゴキブリは恐怖する。しかしゴキブリには負けられない。
この世でゴキブリが繁殖したとしても、そして最後はゴキブリの王国が
地球であったとしても、別次元の地球という楽園に人間は住んでいると
確信する。

続く
つまりゴキブリの生命力に人間の生命力が敗北するという
気持ちはさらさら持っていない。人間は次元が違う。何故ならば、創造が
ゴキブリを創ったならば、創造主がゴキブリに敗北するはずがない。

ゴキブリの世界と同列で人間の世界を扱うのが自然科学、経験科学だが、
そのような視点から観ると、ゴキブリは人間より生命力があるのだろう。
その通りだ。私も同感する。ただ、それは全てではない。

怒りが悲しみに換わる瞬間というものは、反逆に破れた戦士への
とむらいの感情だと思われる。悲しみから発した、力は、
開祖で言えば、大木を神懸かり的に引き上げた話が逸話として残っているが、
たぶんそういう力はあるのだろうし、反逆者すなわち、神の使者として
の生き残りの強者の神通力を見せた事件なんだと思う。

続く
これは、火事場のバカ力とは次元が違う。つまり生命力のパワーと
生命力+自然界の調和による絶対的善の前に、奇蹟と呼ばれるものは、
よく観られる。その場に立ち会う者は、その場に立ち会うべき者達が
立ち会っており。全てが調和している状態となっているはずだ。これが
自然の理というものだと思う。

開祖と接してきた人あるいは、開祖に教えを受けた人は、開祖を
どのように考えていたのだろうか?いや、そのような事を考えるのは、
あまりにも世俗的だ。

そうではなく、自然界はなぜ、開祖と接した人達を選んだのか?という
問いが正しいような気がする。深い所で、選ばれた人は、在るものに、
つまり開祖を通じて感じる何かに同調しているはずだ。

我々が合氣道を生の共とする理由も、そこにある。深い所で、
なにかと同調している。その決定論は、私は人間意識の次元上昇だと
考えている。すなわち、元に戻す大きなキーを自然界は創造した。
もちろん伝統的なやりかたは世界に無数にある。

世俗化され、教義化し、形式化した体系もあるし、自分と世界との関係を
自己と他者という関係にしてしまうものもあるし、一神教的な
ものもある。合氣道は、試合化しないかぎり、自分と世界との関係
をもっともよく理解できる体系だと私は直観している。

続く
合氣道と近いものを答よ!と言われたら、私は新体道を上げる。
開祖は神への信仰から、青木氏は、芸術すなわち創造つまり神
であり、私には違う体系だとは思えない。
両者とも非常に直接的に神(自己超越)に到達する道を追究している
ように見て取れる。つまり目的論的に考えるなら、純粋指向だ。

間接的に神を持ち出す体系は数多くあるが、かなり直接的に形而上概念を
すえる体系も少ない。俗世間からは、オカルト扱いされやすい体系だが、
あからさまで、しかも、世間的には、武道を装い、変な誤解を俗世間に与えない点に、
私は好感を持つ。これは好みの問題も関係してくるものだ。

武道を装いと書いたが、そもそも、装うというのは、世間の誤解を表しており、
合氣道は武道ではない。宗教でもない。合氣道は合氣道である。
どんな枠にもはまらない。

修業体系に優劣も、高低もない。あるのは、自分に合うか、会わないか?
だけだ。道の先にあるものは、誰がどんな呼び方をしようと、自己超越
次元上昇しかない。言葉を換えれば、自己実現、自己の発見。自分を知るとなる。

続く
世界と自分はイコールであり、意識が世界を創っている。過去の意識が
世界を創っているのだがか、我々が考える自己超越、次元上昇とは訳が違う。
世界が変わるのだ。見るもの、触るもの、感じるものが全て違う。
ならば、世界は変わっているとはいえないか?

これは詭弁でもレトリックでもない。これが世紀末概念だと思う。
これ以外の地球破滅論、あるいは、極移動だとか、物質的な現象に偏する
見解。その方が私は信じられない。

世紀末概念は、何故予測ができるかというと、人間の意識の事だからだ。
物質現象は意識から観れば、大方予測はつく。予測ではなく。直観できる。
普遍のサイクルがあるし、占いなどは、その理合いの応用だ。

そして、逆説的にも、もう一方から、つまり二元で対極するもう一つの
視点から観ると、物質的な危機は同時に起こっており、その見方そのものが
崩れ去るのが世紀末概念のもう一つの見方であり、どのみち、ある一定数の
人間の自己超越の結果。そのような世界観が構築されている。

続く
これが今の社会を物語っている。表面的に知っている者と、知らぬ者。
そして、それは、深い所で知っている者と知らぬ者も形成する。
混沌とした社会の中、この先、この世は観てくれは、あまり変化はない。

この見方は、今の自分から観た場合の見え方であり、別の意識に入れば、
まったく違って観える。不思議だが不思議ではないものの見方に真実は
ある。また、真実は見えないように隠されている。

これを感覚的に感じてもらうために、上げる例としては、
マトリックスという映画を観て、劇場から出てきた。そしたら、
それは実は、本当の事で、その映画を観ると、意識の上昇が起こり、
世の中が突然スローモーションに見えだした。まさに驚愕。とか、

昼寝をした。そして数時間後起きた。そしたら、それは夢の中で、
また寝た。それも夢で、どれが現実だか区別がつかない状態になる。とか。

他人が言葉を発する前に、すでに解ってしまっており、言葉が実は
不要であることに気づいたとか。そんな事だ。これらは世界が一変した
といえないか?。

続く
実は、真実が観えるように多くの人が気づく社会が世紀末概念であるとも
いえる。色々な自然界の破壊現象により、別の秩序がうまれはじめるという
当たり前の対極の極点に今現在立っているからこそ、中間概念が凡人の私にも
見えやすい。

結論的には、このような話は無意味で、自転車に乗る事が出来れば、
あるいは、異性を知れば、あるいは、死に近づけば、色々な事の真実が
見え始める訳で、生きている内に、生き返る体系である合氣道をすれば
良いと言うことに尽きるんだ。無意味な話をしてこそ、無意味が解ると思う。

今に生きれば、今が解るということに尽きる。
世の中が変化する、そして自分が変化するのは当たり前の事で、
大きな変化を全体が受け入れる時代があるのも当たり前の事なんだ。

では失敬。
234予告?:03/09/14 22:05 ID:IIh6O9VI
次回は、「筋力と言われるもの」について考えてみようと思う。
何故、予告するか?だって?私は予告しておかないととんでもないと所に
逝っちゃうからね。つまり、自己制限しておくわけさ。

しかし、あまり意味があるとは思えないが…。では
先回の予告どおり、筋力についての私の観察記録をエッセイしようと思う。

今回のエッセイは、結論から言うと、意思の力が増大すれば、
それに比例して力の増大が起こる。という証明じみたものだ。
私の力の信仰告白とでも言うことができる。

そしてその結論を解りやすく、あえて、拡大表現するなら、
「人間の力は無限である」という証明だ。極端な話、マトリックスのネオは
現実の話である証明でもある。

これをくそ真面目に探求する。狂信と思われても結構だが、
読まれる諸君は、理解して読んで欲しい。では始めよう。

続く
今、武道界、武術界の潮流は、脱力の流行のように見て取れるが、
脱力という考え方は、私は適切であるとは思えない。
力を抜くというのも適切だと思えない。何故ならば、これは方法だからだ。
身体の状況を説明しているに過ぎない。

正確に言うなら、力を抜いて、心の力で、体をコントロールする。というような、
心主体の表現方法を用いなくては、説明に誤解が生じると思う。
つまり、脱力だけではダメで、心をどのような状態に置くのか?
それを実証しなくては使えないのではないか?ということだ。

といっても、実証できないから、体験するしかないのだが…。

続く
だから言語による説明は難しいわけで。府に落ちない諸君達が、
合気は?とか、脱力は?とか、高岡氏のユルは?とか様々な見解の明瞭化を
多くの諸君は求めている。

かと言って、私なら説明できるとは言うこともできないが、
脱力の正体じみた考えは、私はこのように持っているよ。という提示をしたい。
そうすることによって、諸君の反面教師として頂ければ幸いと思う訳だ。

つまり、ここで、実感はできない。そして正体を知ることもできないかもしれない。
しかし、概念理解を深める事と、心と力の関係を探求することはできる。
それを指し示したいのだが、このテーマを扱うのは、非常に表現が難しいので、
諸君との共同探求という形で、諸君自身も考えて頂くと同時に、諸君自身の
体をもって、実証して頂きたいということだ。

続く
まず、筋力というのは、筋肉の力だが、筋肉の固まりが人間でもないし、
筋肉が運動をするわけでもなく、人間の意思を伝える肉体の各部分に
様々な筋肉が存在して、それらの総体でもって、我々はこの世界で
動作することができる。

筋力は我々にとっては、力を出しているという感覚をともなって、
我々の意識にフィードバックされるわけで、その調整をもってして、
出力する力の調整ができる。結果的に、石でも、風船でも、適切な力で
瞬間的に持つことができる。

我々のフィードバックとは、力という意識の反映を、物を掴む事によって、
掴んでいない時の状態と、掴んでいる状態の差を自分の感覚で感じ取り、
その差を修正して適切な力を出している。

*この差の認識のズレがありますよ。というのが脱力の正体なのだが。
*話を続けよう。

続く
筋肉の役割は我々の意思に忠実に動作してくれる。
意思というのは、何かをしようとする気持ちのようなもので、
無意識に筋肉が動くというのも一つの意思である。

自律神経、すなわち、それ自体で、活動する動く肉体の一部も存在する。
とにかく、何かの意思によって動く。すなわち人間の心臓部である心臓
自体も何かの意思によって動いている。

これは意思と言うのは、少々乱暴なような気がする。心臓の鼓動は、
「自然の法」というような言葉が適切だとは思うが、便宜上、自然の法も
意思であるとして話しを進める。

意思は心に思い浮かべる事から始まる。そしてそれを体に伝えようという
意思が働く場合に体が動く。つまり、意思があり、肉体を動かそうという
次の意思があって初めて肉体が反応する。これが、我々の体を自由に動かす
為の意思の質だ。

*この時点の仮説として、なんの制限もなければ、意思に比例して、
*力は無限大に増大するといえる。巨木を動かす程の意思をもてば、
*巨木を動かす事ができるということだ。但し、制限がなければ…。

続く
さて、話をつづけよう。
一方、心に思い浮かべ、体に伝えようとしなくても体はなんらかの反応を
する現象もある。例えば、考えるときに瞳は何処を向くか?
恐怖したとき、体はどう反応するか?などだ。これは、無意識から導きだされる
意思の質だ。

つまり自分でコントロールできる身体操作と、無意識にコントロールされてしまう
機械的反応のような身体操作がある。一般の人間の心の次元を越えている
次元への働きかけを行うのが合気の技であり、力はいらないと言われる意味だ。
これは合気をしている者ならだいたい解っている概念だろう。

つまり、本人の自覚無しに、踊らされるような高度な技を掛けられたなら、
心の深層を同時に知る者でもあるし、体の反射反応の洞察に長けた者だろう。
ある一定条件で、これを行う事ができるものは、汎用性を発揮できるよう、
理合いを追究・探求して、洞察を磨かなくては汎用・応用に到達しない。

体の反射反応を知る事は、同時に心の理合いを同時に知ることにつながる。

続く
我々は、心身を区別して生きる事はできないし、自然の法は、
心と体は一体となって調和した状態になる。すなわち、知行合一。
言行一致。等で表されている状態が人間の自然な姿だ。それが出来ないというのは、
なにかを自ら、制圧しているという事だ。開放すればよい。(心の脱力)

さて、合氣道においての呼吸力というものは、この自然な姿である、
心と体の一体になった力を指す訳であり、心身の力が呼吸力であるり、
心身不統一の逆の意味として、呼吸力ということばがあるのであって、
自然な姿は呼吸力すなわち、心身統一の力しか存在していない。

不調和な心身状態から観ると、呼吸力は心身統一された力なのだが、本来は、
これを力と言う。しかし、この力の正体を我々は知らない。
心身統一の究極の姿である、人間の最高の力は、呼吸力をもってして、
出されるものなのだが、どれだけ出るのかは、解らない。
無限かもしれないし、限界があるかもしれない。

続く
この物質界において人間の肉体も完全な物質という属性に支配されている
という前提で考えるならば、物理学の範ちゅう内で限界の解答は導きだされる。
たとえば、在る物を持つ力という実験をするならば、それを支える骨格の
物理的強度で導き出されるだろう。

筋肉の限界において、薬物などを使用し、一時的に自己防衛機能をストップさせ、
骨格強度の壁を自ら破る事が可能だろう。
つまり、ドラッグなどの力を借りて、出してはならない力を出すことは可能だ。
これは、かなり不確定で、面白い結果は、予想されるだろう。

問題は、我々の目指す力は、物質界に支配されうるであろうか?
問題の質を変えるならば、物質界の範ちゅうで我々は生きているのか?
という問いになるのだが、その答は科学的には証明できないだろう。

ところが、色々な現象がある。超能力によるスプーン曲げ、開祖の逸話。
その他、オカルト現象。遠当て、これを説明するには、「意思の力」が力の
本質であるという前提なら説明がつくし、呼吸力(オカルト的にあつかわれる)
による力も説明がつく。

続く
科学の視点から「意思の力」を観察している量子力学には私は非常に感心を
もっている。ただ、学者じゃないので、あまり詳しい事はしらないが、
量子力学の重要な性質を列記しようと思う。

●なんのつながりもなさそうな粒子が、ある条件下ではあたかもお互いに
関連性があるかのように振る舞うことが確認されている。

●電子などの素粒子のふるまいが、観測されている時とそうでない時とで
異なるという現象が確認された。

●意識をもった人間が観察することによって、物体は局所性をもって観測され、
そうでない場合は局所性が全くないような状態でいることが観測された。

等だ。最近の雑誌でも見たが、雪の結晶の現象が話題になってた。
美しい意思を送ると、結晶は美しくなり、不愉快な意思を送ると、そのような
結晶になる。問題は、人間の意思であり、人間の美意識と雪の結晶の物理現象は
平行しているということだ。

続く
244165mm:03/09/17 01:27 ID:45ByIEYL
いい思い出がいい力をうむ。
つまり、意思と物質との関係はイコールであり、意思が物質を創っているという
前提を裏付けても、もはや問題なさそうな気がする。いや、科学的に正しか
間違いかは問題ではない。そのように考えると、実に自分と世界との関係の
最大の秩序の発見に極めて近づくと言える。

つまり、オカルトが消滅するということだ。物質還元してオカルトを
退けるような分割・分析的方法ではなく、オカルトその物が消滅するような一元的、
あるいは、全体的とらえ方に至れるということだ。
唯識、陽明学、禅などと全く同じだと思う。一元論哲学だ。

ちょっと、余談だが、私の視点だから、おもしろ半分で聞いて欲しい。
これは拡大解釈、あるいは、狂信とどうとらえてもらっても結構だが、
実感報告だ。

続く
【合気の剣・杖の余談】

それは、合気における、剣・杖の稽古の意味だが、
剣・杖の稽古の利点は、自分の意思の力の及ぶ範囲の拡大が上げられる。
ブン回せば、打点の範囲は広がるね。つまりそれが力の及ぶ範囲。
そして、合気においての剣・杖は、武術ではない。

剣は自分の回りの球状を円弧を描いて、意思を広げる。
杖は、意思の範囲を突く。同時に、天のエネルギーが自分に入ってくるように
剣を天に向けて、心を開く型もある。これはまさに、意思の法則を
剣・杖で表していると言える。

つまり、武術の剣術・杖術からくるものではなく、開祖がそれらを
一つの参考に、宇宙を表している。そしてその型は、一定ではないが、
剣・杖の伝授をされた先生方により型として各、流派に使われている
スタイルではないかと私は考える。

だから、開祖の宇宙の現れを表した剣・杖の稽古から掴む事が本質であるから、
本質が表現がなされているならば、どのような型でも、自然界の理合いは、
我々の心に染みこんでくる。

続く
だから、合氣の技は剣の理合いだとか良く言われるが、
私は別の視点を持っているということだ。
つまり、宇宙の表現、自然の法を剣・杖で掴む。言っている事は
同じだが、剣の先にあるものの存在を、剣で表現しているとするわけだ。

すると、体術にもその法則を用いる事ができるし、
長い物を使うといことは、意思の拡大を疑似体験することであるから、
その動作と法則を体術にも用いる事ができる。

自然の法であるから、全てに応用できるということだ。
剣は、空間を表し、杖は時間を表している。
空間の広がりが、時間だからね。すなわち宇宙の事だ。
剣・杖は、宇宙をやることで、宇宙自身になることを疑似体験する。

二元論で、空間を行き来するのが人間であり、同時に片刃の刀を意味する。
杖は、今が杖の長さ、前後の動きが過去未来。すなわち時間。
こういう意味で説明した人は居たかどうかは知らないが、
以上が私の感じ方だ。

【余談終了】

続く
科学法則の理解は、これと大抵合致しているという印象を私は受ける。
あくまで、私の実感である事をご理解頂きたい。
私も検証は怠らないので、この直観が正しいかどうかは検証中だ。

しかし、合氣道を学ぶ上では非常に都合が良いアイデアだと
自負している。科学と矛盾がないのだからね。日常生活との矛盾もない。
私も一部で通用するだけのアイデアは、あまり使えるアイデアとは、
思わないが、自分の生活全体で生きるアイデアなら、大いに用いたいと考える。

以上の考え方は、剣・杖の生み出された前提が、武術で用いられる剣・杖とは、
違うということだ。これは、剣術、杖術が、殺人を目的として
型が成り立っているという前提で考えるのと次元が違うという事であって、
他流の剣・杖が、そのような前提から成り立っているのかどうかは
解らない。ただ、合気の剣は、殺人の目的の為という前提に立った視点で
考えてはいないという意味での示唆を受け取って頂きたい。

続く
さて、本題に戻そう。
私の考えの根底にあるのは、意識が物質を創っている。
すなわち、物質には、意思が宿っている。どんな物質にも意思は通じる。
こういう前提を持ち出せば、我々のドグマ、物理法則は越える事はできる。

我々の目指すものは、自己超越である以上、
先に話したように、既存の物理法則という範ちゅうという言葉を持つことは、
心を制限してしまう。

論理的に考える場合でも形而下、形而上を含めて考えなければ、
新たな仮説を提示できない。物理法則を我々は越える事はできるという前提で
事を考えていき。その仮説において、自らの肉体においての検証を試みる事が
開拓精神ではないだろうか。そのようにして過去の武人は武術を編み出して来た
はずだ。

つまり、私の言いたい事は、力の限界は存在しないという前提に立つ。
そして、限界という全ての観念から自由になった上での、力の出し方を
工夫してこそ、あらたな力の発見、あるいは、創造が可能となるということだ。

続く
あらゆる制限を抜きにして力を考える事はできても、言葉で語るには、
困難を極める。意思すなわち、心は自分でしか観察できないからだ。
しかし、ここまで、なんとか説明してきたつもりだが、私の言いたい事
が伝わったかどうかは、はなはだ疑問が残る。

結論は、気、すなわち意識の拡大量により、創造されるものが力であり、
この生命力全体(心身統一)をつかった力が呼吸力と言える。
問題は信じる能力に依るのだが、その限界はどの辺りなのか?は実証できない。
個人の心の到達点がその限界だろう。限界が無いと思えば、無いのだろう。

心の力が、力の限界であり、さらに、実際は、従来の力という概念すら越えるだろうと
私は思う。筋力還元主義の力のとらえ方は一面的だと思う。力は、実は、物質に働きかける
意思の量であり、信念岩をも砕く。というもので、達磨の実在が証明してると私は信ずる。

では失敬。
251あれ?…幼児:03/09/17 01:43 ID:MvSbXCD6
>>244
165mm氏、絶妙なタイミングでの発言だね。気づかなかったよ。
252パールハーバー師匠:03/09/17 13:56 ID:f6gd2THd
お、幼児頑張っておるな。よしよし。

(゚Д゚ )ウマー
昨日は、表現の難しい問題を取り上げた。
今日は気軽にエッセイしようと思う。

武道界でもスポーツ界でも、身体操作の向上を目指すのに不可欠な感性は、
身体感覚とか身体脳とかそのような、「体を感じる感性の向上が必要不可欠であると、
言われ始め、身体操作の向上の思想の中心になろうとしている。

この思想の流行は、力を筋力や、技術に還元して科学的と称する思想、
そしてそれに相反して、心の部分、すなわちガンバリズム的な猛邁進的な
精神論的な思想。対極の中で、揺れ動く身体操作に関する思想体系から、
より人間全体で理解してゆく思想に移り変わっている風潮が見て取れる。

続く
これを、我々の感覚表現で言葉にするなら、筋トレが力を生む。
そして、同時に精神を鍛える事が、強くなる秘訣だ。そして、
その極端に走らない中庸こそがバランスだ。という感覚から、

体と心の感性に目を向け、無理がなく、かつ力が出ている状態を知る
という、むしろ観察心の方向に向いているといえるし、プロセス重視の視点に
立つ事でもある。これを心でとらえるならば、心の出し方を外向から内向に向ける潮流が
この業界に限らず、全ての業界に現れ始めている。

心の持ち方も外へ向けていくのではなく、内に向けていくという方向に
変わってきている。つまり中心から、全てを見るという心身操作と言える。
すなわち、力という観点から考えるならば、人間運動量という質量×速度的とらえ方は
残しながらも、それは機械の話であって、人間は、機械を操作する主体であるという点に、
目を向け始めたということだ。

毎度の話だが、自分と世界との関係が事象の正体だという事だ。
これを私は事実と呼ぶのだが、事実に目を向けるということだ。

続く
身体運動においての主人とは何かといえば、運動神経であるとも言える。
運動神経ゼロであれば、力の問題以前の問題になり、デクノボウと言われるような、
状態であり、せっかくの力が活用できない。運動神経のレベルが高く、
かつ力が在れば、身体運動はより高いレベルで成り立つだろう。

今、話題の身体脳とか身体感覚とかいうのは、運動神経と言われる物、すなわち、
従来(現在?)の一般概念でいう才能の範ちゅうであり、宿命的なものというとらえられてきた
概念にメスを入れているということで、運動神経そのものをレベルアップできますよ!
という実証活動が盛んに行われているということだ。

つまり、運動神経そのものがレベルアップできるということは、身体操作の必要な
人間の活動全般の全てに該当する「極意」であると言える訳だ。
だから、運動神経のレベルアップは才能という壁があるから飛び越えられないのでは
なく、それは一つの心の壁であるという証明でもある。意識の転換の事だ。

続く
「運動神経そのものがレベルアップできる」という極意?を、ある技術方法に置き換え、
商売している方も多数居るが、やり方のうまさに感心する。
あるレベルまでは引き上げる事は可能だろうとは思うが、問題は、
その方法が全てであるように、巧妙な広告(洗脳)が繰り広げられている事だ。

今は、そういうものが出始める過渡期にあるので、商売する人は、きっちり商売するという
事で、成り立つのだろう。私個人としては、意識の転換には、金が掛かる程、気づきから
遠ざかると思うのだが…。小さな気づきはインスタント的に受ける事はできるとは思うが、
そのような精神は、また次の気づきに金を払うから、結局一緒だと私は考える。

続く
ここで、私の決定論を言うと、運動神経と言われるものは、心の物質に働きかける
伝達能力の話であり、心の意思が体の及ぶ、心の力の高低の事だと結論づけている。
すなわち、運動神経とは、「心の物とを調和させる能力」「一体力」「一元力」とも
言い表す事ができる。毎度の事だが、「心身統一」「言行一致」「知行合一」だ。

武道の極意が、「心身統一」。そして、身体運動の極意が、運動神経の向上という
ことであれば、「心身統一力」が運動神経の正体であると決定づけても良いのでは
ないか?と、私は考える。少々駆け足での結論ではあるとは思うけどね。

心身統一の視点から、筋トレ至上主義、経験至上主義、精神論主義等すなわち、
人間を心身(霊)であるという視点でとらえず、一面的で見る人間向上体系は、
つねに不足感を感じるだろう。極意が置き去りにされて、映るだろう。

そのような体系で、これまでやってきたからこそ、また、それが全てであるが
ごとく、我々は信じてきたからこそ、運動神経イコール才能である。という結論
に導き出されている訳だ。

仮に、極意が達成できたとしよう。それでも、限界があるというのなら、
また別の信仰が我々の向上を拒んでいるものだろう。それを今言うならば、
心身+霊という霊の部分だろう。

続く
心身統一は、身体操作すべてに有効する。
身体操作とは、物質界における我々の身体を使った活動すべてに該当する。
すなわち、感性、理性、悟性、運動性、緻密性など、考え得る限りの全ての
人間の能力を表す表現の全体レベルが向上するだろう。だから極意なのだ。

武道の体系では、単純な動作程、極意で、そこから枝分かれしていて、
単純を理解した上で、複雑になってくるほど、極意が掴みやすい。
だから、型の創始者は、コレくらいの技(型)の種類で、この体系を稽古する
者は、悟るだろう。という思惑も含まれている。

だから、型は、万人に向けて発信されるのだが、同時に創始者に選択されている。
こういう厳しさも型の中には内包されていると言うわけだ。

今日の主題は、運動神経と心身統一の関係となった。

では失敬。
259【所感】:03/09/17 22:08 ID:MvSbXCD6
素朴な観察なんだが、人間活動というものは、物理法則を越えて存在する事象で
あるのだが、それを拒んでいるのは、我々の信念であって、無信念であれば、限界は
存在し得ないだろう。何故ならば、限界という想念も信念だからだ。

心の力を認めるならば、人間に限界はなくなるのが理にかなっている。
もっとも、心は、自分で限界をつくってしまうのだが。
心の壁を破る方法があれば…?!という問いは間違っている。

心身統一の境地の維持、あるいは、深さがおそらく限界を超える唯一の方法だと思う。

人間のもっとも原初的な反応を思い出して欲しい。最高に嬉しい時は、
全身を伸ばして、喜びを表してしまう。恐怖に襲われると、身を縮める。
心身統一とは、そのどちらでもなく、そのどちらでもあるという状態だ。
260【所感-2】:03/09/17 22:12 ID:MvSbXCD6
そして、心身統一の状態より世界が大きく観えるならば、世界に飲み込まれている。
世界が小さく観えるのならば、うぬぼれている。
世界と一体感があるのなら、調和している。

では失敬
261【真善美-1-】幼児:03/09/19 21:04 ID:SINZC5zZ
今日は久々に、特にコレというテーマを持って書いていないが。
私自身「芸術」というキーワードを用いる事が多い。
すなわち、真善美の「美」が、人を高みに持ち上げる力を持っていると
感じられる事が多い。

人間が素朴に真実・事実・確信の直覚を得る時、その基準は、真善美なんだ
ろうが、その中で「美」を用いる事はとても大切ではないか?と思う。
私の好きな科学者、哲学者、武道家、神秘家、も大抵、真善美をもって
価値判断している。

人間は、真善美が高い次元で組み合わさって、反映されている事象を
観るのが好きなんだと思う。そして、美しいものは、人間が美しいと
思うから、より美しさを追求する反映物がこの世に出来上がってゆく。

続く
262【真善美-2-】幼児 :03/09/19 21:06 ID:SINZC5zZ
例えば、より綺麗な花。より美しい芸術。より美しい機械。より美しい思想。
より美しい武道。より美しい事象の全て。つまりこの世の真実として、
真善美がの全てが常に上昇を目指している。

科学においても、ニュートンの力学の発見から、物の世界では、その応用による
技術革新の結果。より美しい物が出来上がった。
一方、確信的発見自体も美しくいものにとって変わるということで、
相対論→量子論そして、物質は実は、素粒子で終わり、最終段階は、
クォークだと言われているが、その先なぞ追ってもあまり意味があるとは思えない。

人間の創造・発見の最先端は、いつも無秩序だ。だから素粒子ではその傾向がよく
現れている。つまり、科学は、神にいつも到達するのだが、神を否定し、
新しい創造・発見をこしらえる。というより、そのようにして発展してきた。

ここに来て、大は宇宙から小は、素粒子まで、全てを総括する秩序の
発見に気づき始めている風潮はある。「全てを総括する秩序」というのは、
全ての人が求める確かな真善美なのだが、科学でそれを行おうとすると難しいようだ。
所詮、我々自身の身をもって実感できる真善美ではなく、現象説明で終わりだ。

続く
263【真善美-3-】幼児:03/09/19 21:07 ID:SINZC5zZ
つまり、科学の最先端、芸術の最先端、哲学の最先端等、学問の最先端は、
くるりと回って、スタート位置に戻ってくる。これはどういう事かというと、
赤子の状態と同じで、無知の状態ということで、その時に頼りになるのは、
直観などのインスピレーションの領域に当たる。

実際の全ての最先端は、全ての人間の直観にある。そして現象は発見と同時に現れる。
だから、大抵何かの発見に、我々はあまりびっくりしなくなっている。
何故ならば、すでに、知っているからだ。知っているが、説明できないだけだ。

つまり、既に科学は宗教化されており、思想の一部に成り下がっているという事実だ。
しかし、多くのメディアでは、相変わらず、科学至上主義で、事は進んでいる。
このような私の話も、諸君にとってはあくびが出る程、退屈なものだと思う。
何故ならば、私が話すまでもなく、諸君自身が直観していることだからだ。

感じられないのなら、諸君の頭が否定しているだけだろう。
体は自然だ。体を純粋にすればするほど、直観は冴える。

続く
264【真善美-完-】幼児:03/09/19 21:09 ID:SINZC5zZ
諸君自身が直観していると解るからこそ、私もあまり筆が進まないわけだ。
真善美のうち、今までは、真、すなわち合理的・科学的というものを信仰してきた。
今は、真善美の調和で真実、正しさを追求する時代の変化の時だろう。
あくびのでるような情報の氾濫は、真実の一部しか表現しないから、あくびがでるのだ。

これを真善美の高い次元で表現するなら、震えの来るような情報のはずだ。

強さ一つとってみても、真善美の調和での強さでしか、強さを感じられない時代に
さしかかっているということだ。もう、誤魔化しは利かない世になったということで、
正常に向かう兆候しか私には見て取れない。

正常というのは、真善美の調和であり、真善美の果てが、今の価値判断で、
悪だろうが善だろうが、どうでも良いことで、真善美という調和概念を
社会の中心に据えざるを得ないように、自然界にし向けられているということが言える。

それ以外の、真善美の一部をもってして、真実だ!と叫ばれても、我々は、
もはや、確かに!と言えなくなってしまった。
自分で書いていても、あくびが出る話だ。

では失敬。
265【体は大切だね-1-】幼児:03/09/20 21:52 ID:TI8zfP5o
この世は何の世か?そして、我々は何に支配されているのか?

これについての理解は、合気でいう気の正体の一つの示唆となると思われる。
個人においても、気の正体そして、力の正体の一部をもしかしたら提示できる
かもしれない。同時に深い人間理解に繋がるだろうか?
そんな動機から、今日は、少し書いてみたいと思う。

昨日、私が退屈な話であると拒ませたものの正体は、人間界の階層と二分の存在なのだが、
これは、人間は支配階層で成り立っている。そして知る者と知らぬ者でなりたっている。
このような決定論を私は持っているからだ。

私の考えの根底にあるもので、今の社会では受け入れられるとは到底思えないと思う
考えであるので、あまり人には語らない問題だ。しかし武道をするうえで、
深さは是であるという考えから、まあ、発言することに問題はないだろうと思う訳だ。
同時に、多勢に受け入れられやすい考えほど、私にとっては退屈な話はない。

同時にこのような考え方を、根底にすえて生活していても、デメリットは感じないし、
逆に多勢が考える矛盾も私には存在していない。しかし求道心に引っ張られる現象は
出てくるだろう。問題は、それが自分かある存在か?という見極めに求道心に火がつく
わけだ。これは個人的な事であるので、聞き流して頂きたい。

続く
266【体は大切だね-2-】幼児 :03/09/20 21:53 ID:TI8zfP5o
我々の社会は、多勢が共有する思想・信念によって、権力像(成功・幸福)は明確になる。
つまり、金の社会では、金持ちが権力を持つ事は想像できる。
そして力の社会では、軍事力(力)を持つ事が権力を持つ。そのような想像で
間違いないのだが、我々は一歩もそこから出られないでいる。

この中でどうしたら幸せになれるのだろう?という素朴な疑問を持っている。
これは問いが間違っている。私は何を拒んでいるのだろう?が自由な心から観た
問いではないか?

我々の日常の権力もこの信念で左右されている。我々は、力に怖がり、金に恐怖する。
また逆に、力・金をもつと簡単に権力が手に入る。実に子供じみているとは思わないか?
そうじゃない!と言える者が反逆者であるのだが、大抵は、金と力を否定し、それに対して
反逆している。これは反逆でなく、反体制的な意味で、反権力とか色々な表現があるだろう。

続く
267【体は大切だね-3-】幼児 :03/09/20 21:54 ID:TI8zfP5o
やり場のない衝動はそのように吐き出されるが、それによって革命が実現しても、
立場が入れ替わるだけで、なにも変わらない。

そうではなくて、金も力も認めながら、それとは違う秩序がないだろうか?と
考えるのが私の言う反逆であり、革命とも違うが、探求者であり、求道者であるとも言える。
うまい言葉がないね。開拓者かな?。つまり、レッテルが無い人の事を言う。
つまり自己規定せず、ただ、誠実のまま生きている姿だろう。真心に対して素朴な生き方を
強く望む心であり、当たり前に生きる事を言う。

自然の秩序のままに生きることは、どういう事だろうか?これは、自然の秩序に
身を任せる生き方であり、自分は、自然のなすがままに生きる事であり、自分なぞ
なくなってしまう生き方でもある。

現体制を維持した心で、自然や、心のままの生き方をするというように考えると、
欲望のまま、快楽のまま、という反体制的な反動的な野生の開放のような状況を
想像される諸君もいるだろうがそうではない。まず、心を理解する必要がある。
その上で、どのようになるか?は想像して欲しい。

続く
268【体は大切だね-4-】幼児 :03/09/20 21:55 ID:TI8zfP5o
それでも俗まみれの我々は、自然の秩序であろう武産合気の境地に向かい、
合氣道を精進しているわけだが、そんな中で、普遍秩序の納得を沢山得ている
訳だ。私の場合、その一つが、「階層と二分」となっている。
直観であるが、直観ではない。そうなっていると確信してしまっているっていう所だ。

私は過去に、人間の「格」「徳」と言われるものが、功利主義や先に話した
あらゆるイデオロギーを越えて支配されている、自然の階層だと言及した。
全ての存在が目指す高みとは、「格」「徳」等だ。これを霊格・愛・慈悲・神だとか
いってもなんら問題ない。

そして、日常の社会生活においても、その階層は厳然として存在している。
表面的な人間が決めたルール内での社会的権力の階層とは別の次元で、
同時に人間本来の徳の高低(レベル)が同時進行している。

簡単に言えば、自然界では、徳の高低が支配し、人工的なルール内では、
もちろん、社会的権力階層が幅を利かす。利かすというより、そういうルールで
社会は成り立つ。

続く
269【体は大切だね-5-】幼児 :03/09/20 21:56 ID:TI8zfP5o
つまり、こういう事だ、会社の決めたリーダーは、あいつだが、俺達は、
ヤツではなく、別の者を一番信頼している。っていう現象だ。だから
リーダーなぞ、決める必要は本来は無く、そこに居る。つまり最初から、
決まっている。

いわば、本当の導師(リーダー)は、目指すものではなく、努力するものでもなく、
最初からそうであって、導師の自覚なぞないものであるというものだ。社会的役割
として導師である点で、導師と言うことはあっても、そのような者は、自分自身を
導師だとは考えないだろう。同じ求道者だ。

今までは、日常の話であるが、これを日本、あるいは、地球規模あるいは、
宇宙など全てに広げても同様だ。名前もいくらでも上げられる。
開祖、アインシュタイン、キリスト、仏陀、プラトン、フロイト…適当に上げたが、
そんなもんだ。まあ簡単に言えば、偉い人だ。

しかし、事は、そんな我々の目にするメディアからの情報に止まらない。
むしろ、目にしない、普通に暮らす人の中にも居る。むしろその数のほうが
多数だろう。

続く
270【体は大切だね-6-】幼児 :03/09/20 21:57 ID:TI8zfP5o
つまり私の話しているのは、意識次元の高い意識の存在の事を言っているので
あって、その存在もさらに高い存在が存在し、それが繰り返されているのであって、
さらに、引き寄せられていく極点があることが、私には認めれれるということだ。
これは証明できない。

ただ、合氣道修行者を例にとれば、合氣道を何故稽古するのか?
おそらく明確な回答はできないはずだ。しかし、引き寄せられている。
あるいは、引き上げられている力の存在を認めざるを得ない実感がある人も居るかもしれない。

続く
271【体は大切だね-7-】幼児 :03/09/20 21:58 ID:TI8zfP5o
さて、いったん、話を転換する。極めて我々の心自身に入っていく内容になるからだ。
したがって、心の働きの前提を理解していただかなくては、話に誤解を生じる。
だから、私の心のとらえ方、あるいは、心の働きの定義をまず、言及する。

私の考える心、つまり私にとって、体は制限であって、それ以外なにものでもない。
という決定論をもっている。つまり、脳や、五感などの感覚は、全ての事象の存在を
見えないように、あるいは、限定して心に伝えているということだ。

つまり、脳や五感があるから、心は、この世を感じられるのだ。という考えではなく、
脳や五感があるから、みずからの体が、この世の知の全てを制限して、我々の心に
つたえているという、まったく牢獄の中にすんでいるのが心だという事だ。

我々は、自分の行動の全てを記憶することができるし、心は何者にも縛られないものだから
自然界(宇宙)の全てを知覚している。しかし肉体がこの世で感じた知覚を制限して、
我々の心に伝えている。

続く
272【体は大切だね-8-】幼児 :03/09/20 21:59 ID:TI8zfP5o
しかし、これは理にかなっている。自然界の全てを今知覚したとしたら、確実に心は、
混乱する。混乱どころではない、圧倒されるだろ。いや、ショックで死ぬかもしれない。
どこかで、人が殺されようとしているその瞬間の心境を感受し、どこかで、最高の快楽を
味わっている犬の肉体感覚を感受し、草木の静寂な生命の息吹を感受する。涙でぐじゃ
ぐじゃになりながら、糞、ションベン、ヨド、垂れまくりで、死んでしまうだろう。
北斗のケンじゃないが、破裂してしまうかもしれない。

だから肉体という牢獄は、実は、大切な心の外界(この世)からの防御機能として働いている。
一方、心が息苦しさを感じるならば、肉体から飛び出したいような衝動を感じる訳で、
これも理にかなっている。嬉しい時は、飛び上がりたい。しかし、肉体は飛べないから、
とにかく飛び上がる。それでも足りなく声を出す。それでも足りない時は、涙する。
辛いときは、心を閉ざす。肉体だけでは事たらず、毛布にくるまると安心する。
誰かにいたわってもらっても安心する。

すべての誤解は、ここから始まっている。心は完全な自由な世界の属性に在る。
肉体は、制限をこしらえているが、先のような理由から肉体は、心を守ってくれている。
これは何を意味するか?というと、全てを知っている我々は、全てを知らないと思いこんで
いるという幻想を生んでしまう事になる。

続く
273【体は大切だね-9-】幼児 :03/09/20 22:00 ID:TI8zfP5o
つまり、肉体は、守ってくれるありがたいものであって、だから大切にしなくては
ならない。力を出すのではなく伝えるものだから心が通いやすいように、敏感にも
しなくてはならない。同時に心を強くして、肉体のバリアを少しづつとっていって、
本来の共感能力を開放してやらなければならない。心が強くなれば、他者からの
マイナスな共感も受け止めても、心は痛まない。

肉体という良くできたフィルターを通して、この世の事を知覚している大前提を
見失うしなってはならない。制限された中でのあらゆる学問が神(宇宙・自然)の秩序の理解
に到達できない理由はここにあり、さらに、我々個人においても、自己の矛盾を知覚できない
理由もここにある。矛盾自体はよい事だとおもうが、矛盾そのものを理解できないでいることは、
致命的だ。

なんとも解決方法がわからず、もんもんとした日々を送らざるをえない。
実に残念な話であるが、そのような心は、半ばあきらめている。
答は、オカルト、神秘と感じる中にあり、つまり、世の中で良しと言われない事象の中にある。
だから見えにくい。良い子には解らないということだ。

具体的な場所を上げるなら、精神病、極道、右翼、宗教、ドラッグ、浮浪者、犯罪、
自殺、SM、つまり俗が排除するような世界、これらを異端扱い、自分とはなんら
関係な世界とする事は、自分の中に矛盾を創っている事とイコールだ。

続く
274【体は大切だね-10-】幼児 :03/09/20 22:01 ID:TI8zfP5o
どうだろう?ような考え方はある者から言わすと狂気でありましょう。
信じるとか信じないとかいう問題は、越えており、しかし、開祖の言うことはこれです。
この考え方に立脚しています。諸君もよく考えて頂きたい。

さて、問題も戻そう。心は自由ならば、時間も、空間にもとらわれないのだが、
つまり人間の意識は、人間全体で共有しているということで、高い次元の意識は、
我々に直観を与える事もありうるというより、与えてくれているのだろう。

同時に、我々も与え合っている。心を開いていさえすれば、交流はできるわけだ。
だから、信じ合っている者で、心を開いていれさえすれば、話はあまり必要ない。
ヒントで十分だろう。ツーと言えばカーってのはそれだ。

この考え方は、全てのオカルトを排除する。つまり知覚している者と、
知覚していないものとの関係において、オカルトは成立しているに過ぎない。
悪戯や、妄想もあるだろうが、そのようなものは、全ての心が知覚できる事象だ。

だから、世の不思議は、信じる者と知るものと、心を閉ざす者との間で説明されている。
つまり議論されている。実際の議論は、信じる者と、心を閉ざす者とで議論されているのだ。
そして、知る者は、語らない。つまり語る必要が無い。個人の役割の次元になってくる。

続く
275【体は大切だね-完-】幼児 :03/09/20 22:04 ID:TI8zfP5o
しかし、私は、思う。いつまでも、神はこのような壁を創っては混乱するだけである。
神の正体をばらせ!という時点に来たと言いたくなっている。実際、強烈な
思いを自然界(神)に投げかけた事もある。存在は明確に語りかけてくるのはまれだ。
間接的に意味を伝えるようだ。印・縁・夢という術を用いてね。
だから、観察しないと見う。俗で言われるチャンスも同様だ。

そんな状況だ。それが筆を走らせる動機ともなっている。このような情熱は、
私が下っ端の証拠であるが、同時に幼児性の特権でもあるから、謙虚に
お許し願いたいと、同時に思っているんだ。

まあ、今日は、かなり深い決定論を語ったので、この前提をもちいて、
様々な現象を発言しやすくなった。ということは確かだ。
ここまでの決定論を語るのに、壮大な縦読みを演じて来たわけだ。
まだまだ、続くけどね。

では失敬。
276【ご報告】幼児:03/09/23 22:33 ID:6jWjrHpF
今日は私実は、非常に嬉しいのであります。
土曜日から原因不明のネット不通であり、困り果てていました。
一応毎日ここにエッセイしてますので、エッセイそのものが、
私の生活の一部となっておったのですが、それを強制的に出来ない
状態となった訳です。

原因は掴めたので良かったですが、パソコンというのは、原因が分からない
場合はお手上げで、偶然直ったというのは、実に困ります。
次もまた起こる可能性があるからです。まあ、やっと、すっきりと
これを書くことができて取りあえず、安心しました。

今日は、しきり直して、先回までのまとめを書こうと思う。
というのも、先回までの流れの前提を用いて、次からの話につなげた方が、
より微妙な事象を語ることができるからだ。

「心は完全に時空を越えている。肉体は、制限であって、それ以外なにものでもない。」

この前提が全てであるが、正確には、心身で私なのだが、今の時代から心を語るならば、
この表現しかない。これは、何を意味するかというと、
肉体から観た世界が我々の世界のとらえ方の思考習慣になっている。
一方対極して、心から観た世界をこれでもか!と提示する。
すると、読んでいる我々は、心身一元論で理解するようにバランスする。
こういう理屈だ。

ただ、あまりに心の世界をコアに語るのは、バランスを欠く(読者を限定しすぎる)
ので、難しい問題だ。心の世界に入りすぎず、身体操作術が如何に心が支配しているか
を提示していきたいと思う。では明日からまた会いましょう。

失敬。
277パールハーバー師匠:03/09/23 22:45 ID:XfVdabqx
こら、幼児!なんばしよっと!

書けなかった言い訳を、てめぇのパソコンのせいにしてんじゃねーの。
ネットカフェからでも書き込めよ。

自論がないからコピペでしか、このスレに書き込めないんじゃないのか?
と思われても致し方なし。一賊は笑っておるぞ(w
278【心の話-1-】幼児:03/09/24 23:16 ID:132kS754
今日は合氣道の話をしようと思う。ああだ、こうだと今まで、
合氣道を語ってきたが、今日は、過去に私の思想体系を明らかにしてきたので、
ピンポイントエッセイをしようと思う。

その前提条件すなわち、私の決定論の一つに、
「体は制限であって、それ以外なにものでもない。」があるが、
これは、心が私の本体であって、心は体に守られているという意味だ。

まず、心を見える形として表現すると理解が進みやすいだろう。

心は神経と思っていただくといい。
神経むき出しで、空間中に存在していると仮定する。
さらに、神経自体は、物質として存在していない。
得たいのしれない神経というものが、空中に実体として存在しているが、
物質としては見えないということだ。このようにイメージして欲しい。

そして、神経は、物質ではないので、大きさも存在しない。
もちろん時間も存在しない。これが私の神経だとしよう。

続く
279【心の話-2-】幼児:03/09/24 23:16 ID:132kS754
この場合、私の神経はどこにあるのか?わからないが、神経はある。
そして、私の神経がそうであるのだが、同時に他人の神経もそうである。
だから、神経は、私個人の神経であるが、同時に他人の神経でもある。
だから、神経むきだしであると、他人の痛みは、自分の痛みとイコールだし、
喜びもイコールだ。感じた刺激、全てを共有している。

これが神経がむきだしで存在したら?という場合の神経の状態だ。
肉体がなく、心しか存在しない世界が仮にあったとしたら、
このような現象が起こっている。神経は刺激の感受という比較的
単純な概念だから例としてイメージしやすいだろう。

つまり神経の世界は、刺激の世界であって、刺激だけの世界の
行き着く先は、心地よい刺激、不快な刺激という二元の世界を
いったり来たりして刺激世界は存在するだろう。一応無刺激な
状態が中心となる世界だろう。

そして、裸の神経の世界は、個があるのだが、個は、他者とも
共有している。相対社会に馴染んだ我々からみると、実に奇妙な
パラドックスなのだが、これは、裸の神経の属性であり、
そういう世界は存在する。このパラドックスは魂や心・無意識も同様だろう。

続く
280【心の話-3-】幼児:03/09/24 23:18 ID:132kS754
さて、今度は、神経を心に置き換えてみると、事はさらに複雑になる。
いや、複雑になるのではなく、神経の世界が刺激の世界だとすると。
心の世界は、まさに、現実の我々の世界となんら変わりはない。
まったく変わりはないといえる。

我々が目にする現実は、我々人間の心の世界、まさに共同でつくっている
夢の世界に居る。同時に、我々は肉体をもっている。心は肉体の中にあるという
考えが、我々の思考習慣を占拠しているが、その考え方は、根拠がない。
つまりそうかもしれないし、そうではないかもしれない。

実は、現実の世界自体、心の世界の共有風景かもしれない。
マトリックスのようだけどね。

続く
281【心の話-4-】幼児:03/09/24 23:19 ID:132kS754
ただ、心は、時間と空間に左右されないから、肉体にも納める事もできるし、
肉体外にも広がる事はできる。心次第だ。心が肉体だと信ずれば、同化は可能だし、
心は宇宙だと信ずれば、時空を越えるのだろう。信ずるというのは、
表現としては、おかしい。本来は、心(自分)の正体を把握すれば、良い。

つまり心が全てであるという信仰をもつと、心が拒んでいる状態を除去する
方向に成長が始まる。仏教でいうカルマの解脱、合氣道でいう呼吸力の鍛錬。

例えば、合氣道の稽古で、踏ん張られて技が掛からない時があるとしよう。
そして、心の鍛錬が進むと、踏ん張られてからも突き抜ける力の存在に気づく
だろう。この現象は、技が正確になったと解釈もできるが、その解釈自体は、
心身の「身」のみの話だ。

そうではなくて、心の技はこう考える。相手の信念(仮に掴み、踏ん張りで、
なんとかこらえられる!)より強い信念ならその信念は破る事ができる。
つまり、心の中では、すでに結果は出ている。

無理だ!と信念をもった瞬間、無理だろうし、力技になる。
力強いなぁ〜!と思った瞬間に、力技が介入する。
利かないと思った瞬間に、力で利かす方向で心が動く。

続く
282【心の話-完-】幼児:03/09/24 23:21 ID:132kS754
だから心主体で、稽古がなされないと、いつまでたっても、合気にならず、
柔術となってしまう。心だけでは、技にならない。体が必要だ。
合氣道でいう身体というのは、完全な心の伝達装置的に理解する必要がある。

身体は、すなわち昆虫の触覚のようなイメージが合氣道では求められる
身体イメージではないかと思う。

鍛錬として、仮に掴みなら、動かない!という信念で掴む。
それを動かそうという取りは、動く!という信念で動かす。そして、
捕り、受けともに、信念の最高峰は、自然界の秩序という事実の把握に
基づくものであり、その信念でもって最高の相対稽古が成り立つだろう。

だから、掴みがうまくなれば、技もうまくなる。しかし、技がうまい場合、
鍛錬の進んだ心で掴まれたら、技だけに頼る修練者は、限界を知るだろう。
合氣道は、技還元主義ではいけない。何故ならば、人間は道具ではなく、
本体は心だからだ。

技還元主義でも深いレベルであれば、心になるのだが、初めから方法論では、
鍛錬ではなく、技術になってしまう。これは、人間活動すべてに言える事だろうと
私は考える。

今日はいまいち盛り上がらない。何故かっていうと、ここで書くまでもない
ような気がする。目新しさ無しって所だね。
では失敬。
283パールハーバー師匠:03/09/26 00:06 ID:GvU2BL2h
おいおい、幼児。
たまに出てくると思ったら、もう終わりかよ。続きないの?
284一服中:03/09/26 00:07 ID:Z/iRsxuP
とりあえず、こっちで遊んでいたので、今日はお休み。
幼児という引きこもりも、たまには、外に出て念仏を唱える。

●人生●俺たち、なんで生きてるんだろう?●哲学●
http://sports.2ch.net/test/read.cgi/budou/1063982133/l50

このスレは、武道板では珍しいスレだ。哲学では、このようなスレは
多数存在するが、大抵、自分の心を置き去りにした知識の応酬で展開する。
武道は、心身で行うものだから、本質的な議論がなされそうだと思い、
ちょいとマークしている。

では失敬。
285【予告】-幼児:03/09/26 00:16 ID:Z/iRsxuP
上を書いていたら、パールハーバー師匠氏が、ハッパをかけるので、
一応、予告をする。
死のプロフェッショナルになることは、人間の根本に目を向ける事であり、
合氣道のプロフェッショナルであり、武道のプロフェッショナルであり、
人間のプロフェッショナルであるという証明を試みたい。

未来と過去の記憶の中で、ほとんどの日常を過ごす我々だが、
死を日常意識に持ち込んだとたんに、開ける世界がある。
これを問いてみたい。死の超越は様々なやり方がある。
武道もその一つだが、生きている間には、完全に超越できる瞬間は
あまり無いのだが、その状態の準備はできる。

それこそが、生であるとも言えるのだが…。

こんなようなエッセイを予告する。
286MkII ◆SvM8Ucf5mY :03/09/26 16:29 ID:/DBd7ubq
>>283
毎度ながら パールハーバー師匠は優しい人だなあと感服します。
287幼児:03/09/26 23:35 ID:mWYS2Xfm
>>286
私も同感。
288【死と生と神と弟子-1-】幼児:03/09/26 23:56 ID:BgwEPFBR
昨日の予告は、外さないよ。
なぜならば、死という問題は大好きであるからね。

死とは、実に不思議で、どこから考えようか迷うくらい様々なアプローチが
ある。今日は、諸君を死という世界に連れて行き、その意識から、
今を眺めるという試みをしようと思う。ゲーム的に楽しんでいただきたい。

まず、死をゆっくり観察しなくてはならない、一瞬にして死んでもいいが、
ゆっくり死んだ方が、刻々と自分に起こっている状態が把握できる。
だから、苦しまず、ゆっくり死ぬという前提で、話を進めたい。

続く
289【死と生と神と弟子-2-】幼児:03/09/27 00:01 ID:LO9pAxlM
といっても、仮に首から、胴体まで真っ直ぐ日本刀で切られた場合。
死ぬまでに時間が掛かる、しかし、意識の上では、その時間は実に長くなるだろう。
薬などで、ゆっくり死を試みても、最後の絶命の瞬間も、おなじように、
ゆっくり時が進む。そして最終的に時間感覚が無くなる。だから、現世的に
ゆっくり死ぬとか、一瞬で死ぬとかは、あまり問題になるとは思えない。

この微妙な部分を説明すると、交通事故や、致命的な打撃を受けた時、
あるいは、木からおこっちた時の時間の長さとは、なんたることか。
その瞬間は、なにも考えず、ただ、自分の身に起こる事を呆然と
観察している。まったく、偏見・解釈なく観察している。

さらに、絶命状態が確実な事が、肉体の死だが、その瞬間の意識は、
以後私が想像し、語る事となる。

さて、まだ、死の方法を言っていなかったね。そう、やはり、首から斜めに
腰まで、斜めにザックリ斬られた場合を想像しよう。では、始めよう。

続く
290【死と生と神と弟子-3-】幼児:03/09/27 00:06 ID:LO9pAxlM
私は、敵と日本刀で相対して構えている。
こうちゃく状態が少し続く。
その間、フッと昔の記憶が蘇った。懐かしさを感じた。
そして、理由もなく、本能的に、かつ無意識的に剣先を右にずらした。

そう、ずらしたつもりでいたのだが、ずらしたつもりが
かなり体をもって、横にずれた感覚がある。
相対して、ほぼ90°ちかく体をクルリと横に向けた。
というより、向けさせられるなにかが私の中にあったのだろう。

今思うと自ら、斬られる事を悟ったのかもしれない。

相手は、タイミングよく、私を斬った。まさに、これを書いている幼児が
でっち上げた、死の方法、そのままに。

続く
291【死と生と神と弟子-4-】幼児:03/09/27 00:08 ID:LO9pAxlM
私は、思った。気持ちがいい。同時に熱い。ジワリとした感覚もある。
素晴らしい感覚で、過去に味わったことのない純粋な気持ちを
呆然と観察していた。

その時はどれくらいなのか?は、まったく解らない。
その感覚が永遠なれ!と今となっては、思う。
熱く、金属的なチカっとした快楽、そして、なにもかも全身から垂れ流すような
全てが解けてゆく快楽。この素晴らしい時よ、永遠なれ。こんな感じだ。
そこに時間は存在しなかった。いつまでも、その状態でいることもできたかも
しれない。

しかし、私は、悟った、私の肉体に何かが起こったのだ。
突然何かが起こったのだ!。どうでも良いことだが、漠然と、
何かが起こったという事を感じた。この快楽は、戻る事は無いのと直観したが、
快楽に再び、戻るこに執着を抱かなかった。一度体験したことは、いつか
かならず、起こるものだから…。

続く
292【死と生と神と弟子-5-】幼児:03/09/27 00:09 ID:LO9pAxlM
事実、その快楽も、今思うと始めての快楽ではなかったように思われた。

私は、記憶をたどった。何故、何かが起こったのか?断片的な記憶が蘇ってくる。
今日、の朝ご飯の味、子供のころの想い出、妻の顔、まったく親しく無かったが、
印象にのこっていた者の声…。

?…。私は夢を見ているのだろうか?いや違う。しだいに、自分の記憶のイメージが
視界から緩やかに日常の風景に変わってきた。視覚イメージが記憶と重なる。

私を見つめる者がいる。そして空がある。太陽もある。
どうやら私は寝ているようだ。見つめる者が誰なのか?解らない。
しかし、慈悲のまなざしで、私を見つめている。

私は、その時、始めて悟った。私は死ぬのだと。
そして、私はこの慈悲のまなざしの者に、斬られたのだと。
記憶が繋がった。まったくもって繋がった。

私は、話すことは出来なかった。しかし、目はしっかり見えた。
口も動いた。体は依然として熱い。そして気持ちよい。子供のころ
おねしょをしたその瞬間がずっと続いている。そんな状態だ。

続く
293【死と生と神と弟子-6-】幼児 :03/09/27 00:15 ID:LO9pAxlM
慈悲のまなざしに向かって、こう告げた。「ありがとう」。
実に単純な言葉であるが、実に、それ以外では表せない言葉だった。
私自身に。慈悲のまなざしの相手に。私の記憶に。
そして、私のこの感覚に何故か感謝した。
私はほほえむ事ができた。それ以外何もすることが無かった。

慈悲のまなざしや、視界に入る風景は、ゆっくり流れはじめ、
ゆらゆらと揺れながら、また、かすみながら、遠くに離れるようだ。
なにもかもが、ゆっくり進む。私は死ぬのだが、それを観察している
私は、私の存在をより明確にさせた。

音も、視界も、感覚もなにもかもが、ここにあった。
静寂もあった。ゆっくりがやがて、光の中に入ったような感覚をともない
始めた。眩しくない。白い空間だ。白しかない空間といえば解りやすいかもしれないが、
それは言葉では表現できない。私しかいない空間だ。空間にはなにもないが、
私は私の存在を感じている。

私は思いだした。ここに居た事がある。

続く
294【死と生と神と弟子-7-】幼児 :03/09/27 00:18 ID:LO9pAxlM
その瞬間、私の人生を体験した。一瞬にして体験した。楽しかった事や、苦しかった事、
絶望、快楽、恐怖、全てを一瞬にして体験した。人生をやり直したのだ、それも
一瞬にして。

私は何故か知っていた。つぶやいた。「やはり、繰り返されている」
同時に、「満足だった」そして、「やはり素晴らしかった」。
ここには、何もないが、全てがあった。私の居る場所もわかった。
私だ。そして、私は存在永遠に存在していたのだ。

身近な人、懐かしい人を感じる。イメージすると、そこに居た。
面白いヤツもいた。「死んじゃったねぇ〜」とつぶやく。
私は、答えた。「ああ、そのようだねぇ〜」。
ヤツはいった。「役割を終えたか?」
私は言った。「良かったよ」
ヤツは言った。「じゃあいいな、つもる話もあるしなぁ〜」
私は言った。「何処行くのか?忘れた。案内しろ。」
ヤツはいった。「ついてこいよ。びっくり箱はこれからだ。ふふふっ」

そして、私は、ヤツとともに、旅立った。
何故か後ろを振り返った。私の肉体が横たわっていた。
慈悲のまなざしを最後に向けた彼は、私を見つめていた。
言葉はいらなかった。全て解っていた。

私はまた別の旅にでた。もうあなた方になにを言うこともできない
場所にいくことになる。

おしまい。

続く
295【死と生と神と弟子-8-】幼児 :03/09/27 00:19 ID:LO9pAxlM
これが、私の死である。この先の先…の先の後に、また今があるのだが、
今回は、ココまでとしておこう。あまりにも壮大な死の物語であり、
あまりにも、現実に近くなってしまう死のイメージになる。
それはとって置いた方がいいだろう。

さて、私の大前提に、「体は制限であって、それ以外なにものでもない。」があるが、
これは、心が私の本体であって、心は体に守られているという意味だ。ということを
話したが、つまり、純粋な観察者としての心(魂としてもよい)は、絶対普遍であり、
まあ、魂とすべきだろうが、自然界と繋がっている。という視点に立つ。

つまり、魂の属性は、個人的であって、全体的だ。だからなんの区別もない
観察者であり、観察できるという個であり、全体をも含んでいるということだ。
この前提に立脚している話が先の話となる。

魂、心、死のイメージはこれくらいにして、合氣道的な話に転換しよう。

続く
296【死と生と神と弟子-9-】幼児 :03/09/27 00:21 ID:LO9pAxlM
死を考える事は、生全体を死から逆算して考える思考となる。
つまり余生だ。人生は、足し算で時は、過去から、未来へと流れていくという
思考習慣の中で我々は、意識を共有している。

死が、スタートで生が終着点と考えても良いし、今と死の差から生を考えてもよい。
つまり、人生は、死・生・?(何か)の三点セットで考える事ができる。
また、この三点セットで全体を理解できる。我々に知らされるべき全体をだ。

死を考える時、死と比較で生を考えるしかない。生を考える時、死との比較でしか答は
見つからない。これが論理の思考だ。そうではなく、死と生を結ぶ何かを置くことにより、
循環サイクルができて、全体的な思考がなりたつ。これにより、初めて全体理解に到達する。
全体理解というのは、我々自身の知る範囲での最大知の事だ。だれも、全体を把握できない。
だから、神を置いたり、自然界を置いたり、何か、すなわち(X)を設定しなくては、
ならない。

人生は、死でもない。人生は生でもない。人生は生死である。
そして、上で話した、設定(X)が想像・空想・妄想・創造・発見・気づきであり、
自由な部分だ。いかように考えてもよいが、既に決まっているとも言える。
だから人間は、自由であるが、自由ではない。その自由を限定する者は、
インテリというレッテルは貼ってやってもやぶさかでない。

続く
297【死と生と神と弟子-10-】幼児 :03/09/27 00:22 ID:LO9pAxlM
生死とは、インテリが語る限定世界ではない。語り尽くせないものだが、
語るしかないというパラドックスとともに存在する。だからいかなる限定も
そこにはないのだが、限定した時点で苦しむのは自分であり、それが原因となって、
苦しみを味わうという事になる。同時に喜びも味わう事になる。

自由と対極の限定だが、自由が本来で、自由という前提があり、限定する
自由を認めるという視点が自由な視点だろう。だから他人の考えを理解するときは、
どのように考えたのか?に尽きる。自由からスタートしてどのように、その限定
条件に至ったのか?というのが思考の流れの本質であり、人間理解の本質だ。

いずれにしても、人間が自由と思おうが、思うまいが、大いなる秩序の一部だ。
すなわち自然界の一部だ。自然界の一部に過ぎないが、自然界という無限世界の一部だ。
だからあらゆる分離が消滅している中で、本来の我々は住んでいる。

続く
298【死と生と神と弟子-11-】幼児 :03/09/27 00:23 ID:LO9pAxlM
合氣道を修練する我々は、弟子だ。開祖も弟子だ。弟子という概念を考える事は
とても大切な事だと考える。合氣道そのものが、宇宙の教え、すなわち、自然界の
秩序の再現、あるいは、忘れてしまっている我々への再発見の機会を提供する行
であるならば、自然界の秩序の弟子というのが我々自身の正体であろう。

だから指導者なぞ、何処にもいない。この世で便宜上使う役割であり、
その言葉なしでは、学べない。しかし、全てが弟子である。

我々が守るものは、自然界であり、我々が戦うものは、反自然界であるが、
反自然界も自然界の一部であることを忘れてはならない。反と言う言葉が
生まれるならば、消す方法を考え実行に移すのが自然界の秩序であり、
自然界と一体ならそのように自然界は統一、調和に繋がってゆく。

続く
299【死と生と神と弟子-12-】幼児 :03/09/27 00:26 ID:LO9pAxlM
工夫として今回、死という問題は、生を中心とした世間一般の思考習慣の
偏りを、正す役目を我々に果たすと考える。

私は、思う。死と生と神との三点セットで人生を理解するのが、
もっとも、真実に到達しやすい方法だろう、と。それをやったのが開祖であると
私は考える。だから、私もそうしている。

これは、合氣道においての、身体操作の稽古にもイコールで、うまくいかない
時は、右か左か?ではなく、まったく違うアプローチを寄せ集める工夫がヒント
となる。事実、気づきはそのように起こる。私が言いたいのは、気づきのメカニズムが
そのような理合いで起こるならば、最初から、二元論はよせ。という立場を
貫こうという提案を含んでいる。

自分の中での対立、外で起こる対立、すべて二元に一を足して、最終的に
三にして、一に戻す。このような思考習慣が循環サイクルをこしらえる。
現社会でも、商品開発でもその発想で動き始めていることは良い兆候だと思う。
ただ、この思考方法はあくまで、思考の術の一例だ。これが全てではない。

続く
300【死と生と神と弟子-完-】幼児 :03/09/27 00:28 ID:LO9pAxlM
自然界の秩序を使う立場、秩序に従わされている立場、秩序に逆らいその結果を受ける立場は、
つねに、我々の生活の中で表現されている。誤解されては困るが、秩序は
社会秩序ではない、自然界の秩序だ。社会秩序は自然界の一部であり、
社会秩序は、国家主義などの、イデオロギー信仰の詭弁の意味で秩序の狭義の
意味で使用されている。

秩序は、使う。すなわち、合気する。これが人生の極意であり合気の極意であり、
開祖は、神との同化と言うが、これは、極意であり、すくなくとも、
神(自然界・生命エネルギー・絶対秩序)と一体化を目指してゆくことが
我々に与えられた使命であり、弟子の最低条件だろう。

最低条件を意識しようがしまいが、稽古はそのように流れている。
純粋な観察意識で、稽古をするならば、最低条件を腹にくくらないといけないだろう。

最後に、死は、我々の友である。
そして我々は死んだことがない。死んだ他人の肉体は観たことがあるが、
死んだ証明にはならない。つまり我々は人生の一部しか体験できない。
しかし、一部しか体験できないからこそ、無限の可能性が秘められている。
そこに自由な創造思考、創造行動、創造知覚の可能性を心身に見いだせるはずだ。

右か左かなんて、人間としての器として考えるとどんな器かな?

では失敬。
301もくじ-4:03/09/27 00:46 ID:LO9pAxlM
**************************
6 :【はじめに】
14 :【合気道感のバックボーン】
22 :【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】
30 :【強さとは】
41 :【強さ=称え合う】
51 :【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】
57 :【合気道は論理術(思考術)?】
71 :【生死は論理ではない】
82 :【宗教的】
91 :【一に還元=合気】
98 :【人間理解】
106 :【壁・自分の幻想を知る手段としての「気」】
120 :【奇想天外】
129 :【記憶は過去・今は無意識直視】
141 :【合氣道の日本語文字技】
151 :【武産合気は観察意識】
164 :【観察意識を掘り下げる】
176 :【幻想の世界に住む私】
184 :【自信とは幻想である】
192 :【合氣道…秩序・自信・意識】
205 :【パンドラの箱を空けてみよう】
214 :【コラム…天真爛漫】
224 :【コラム・その2…無意味な話】
235 :【人間の力の無限性を証明?】
253 :【運動神経と心身統一の関係】
261 :【真善美】
265 :【体は大切だね】
278 :【心の話】
288 :【死と生と神と弟子】
**************************
302幼児:03/09/27 01:29 ID:LO9pAxlM
次回は「友人」にちなんだ内容でエッセイしようと思う。
様々な考え、様々な感性がある。人間と人間との関わりに関する内容だ。
通り過ぎる人、そばに居る人、親しい人、眺めて面白い人、様々だ。
いずれも、鏡だろう。そんな内容となる。

いつもながら、なんで予告するかって?
進路を決めないと、どっか飛んでってしまう。
つまり、限定する自由の満喫だな。

じゃあ失敬。
我々の人間関係は、友人、親友、知人、恋人、愛人、同人、偉人、等、色々ある。
自分と他人との関係の中に色々な呼び名がある。
これは、私が居て、初めて、うまれる言葉達だ。

すなわち、私→○人←他人で成立している概念で、「○人」とは関係の事であり、
その人と同化し実体化している事実を表している概念ではない。「あいつは友人だ」と言うとき、
あいつという他人と自分との関係は、我々は一方的に「友人」等としている。
だから、友人なんていうのは、実体がないのだ。

関係上の中間的に存在する概念でしかない。これを十分理解することが
大切だと私は考える。つまり上に上げた数々例の○人っていうのは、
我々のこしらえた幽霊であり、幻想だ。これをあたかも目の前の他人と
一体化して、その他人を眺めているのが我々だ。

つまり、あいつはこういうヤツだという勝手な思いこみに立脚して
他人と我々は常に関わっている。ということは、我々は、他人と
本当に関わっているのだろうか?と問うてみる必要がでてくる。
現実を知るというのは、まさにそこではないだろうか?

続く
これは、武道で言う「敵」という概念にも相当する。
天下無敵というのは、その敵の正体が明らかになったとき、
天下無敵を知るということになる。結論を急ぐなら、
私しか居なかったというのが、その正体なのだ。

まず、関係上の中間的に存在する概念である、友人、親友、知人、…等は
合氣道的には「気」だろう、つまり実体がない。

ここでは、先に、「関係上の中間的に存在する概念でしかない」という幻想を表した。
よって、その幻想の正体は、自分のでっち上げである。だから、我々が馴染んでいる言葉、
すなわち、友人、親友、知人、…等は、「気」「幽霊」「幻想」が正しいが、
一応我々は、便宜上、私との関係を第三者に伝えるとき、友人などと言う訳だ。

だからあいつは友人だ!というとき、我々は断じて、あいつ事(存在)
そのものを語っていない。自分の幻想を語っている。
極論は自分を語っている。

続く
どのように語っているのか?というと、まさに鏡を語っている。
その友人を見ると、「私はこのように私の心を見る」と、語るわけだ。
鏡に写った自分を見ているならば、その友人の好きな部分は自分は
心地よく。嫌いな部分は自分は心地がよくない。事実は違いを感情で湾曲させ、
感情を交えて、自分や他人に伝えている。

そして、その映しているものの正体は、我々の幻想であり、
でっち上げられた自分像であり、もし何も映さないのであれば、
神であろう。つまり、そんな人は居ないということだ。
大抵なんらかの、自我をもっているから、そこに視点の中心ができる。
見方の原点から、事象を観るという事だ。二元的に観るということでもある。

自分との違いを把握する。そしてその違いが我々の感情に連鎖する。
その感情を受け入れるか?拒むか?で、好き嫌いが別れる。
なにも拒まなければ、ただ違いを認識するだけだ。違いだけが事実だ。
それ以外は感情が介入したでっち上げも入ってくる。

大抵の我々は、鏡を見ると、色々な幻想が思い浮かんでくる。
じっと鏡をみていると、自分の正体が明らかになってくる。
鏡の全体を観るように、自分を見ていると気づく。
諸君もやっみると良い。自分の顔の変化に気づくだろう。

続く
神棚の鏡はそのような意味合いがあるというのは、過去に話した事が
あると記憶するが、この世は、鏡であり、他人も自分を映す鏡だ。
これは、自分と世界との関係で、私を知るということであり、
私というものがあるならば、そのようにして知ることが
できるという現象だ。同時に、そのようにしてしか我々は世界を知ることはできない。

自分一人で無人島に産み落とされたとしたら、もっとも原初的な
地球と私との関係になるだろうね。しかしこれが基本だろう。

この基本を別の言葉で表すなら、神は私で、私は神だ。その双方で、自然は存在する。
最終的には、その区別も消滅する。存在しか残らない。
確信的な私しかいない。観察している私しか居ない。それしか確かなものはないだろう。
何故ならば、私という概念がそこにはないのだからね。

つまり神しかいないということであり、自然界しか存在しない。
我々は色々な事を想う。正確には想っているのか?
想いを感受しているのか?どうかはなにも解らない。
その両方だ。だから世界を正確に見るには、我々自身が、想いを発信しては
ならないという事になる。想いの感受と自分の創った想いの区別がつかなくなっている
状態では、正確に現在知ることができうる限界の事象を、把握することはできないだろう。

しかし、その過程を経てゆく中で、区別がついてくる。すなわち知るべき現実を把握することが
できると考えられる。これが意識の進化・進化・成長だろう。

続く
「我々自身が、想いを発信してはならない」というのは知る時、あるいは、
現実を観るとき、他人と接するときの事、その瞬間を差す。
人と接する、あるいは、事象と接する時に、真の現実を観ようとするならば、
自分の思いを発信してはならない。すなわち、「解釈」の事だ。

解釈を交えて世界・他人を観ているならば、それは全て幻想の世界であり、
夢の世界を観察していることになる。いや観察ではない。
解釈を解釈自身が解釈しているということだ。狂気の世界だ。
この視点には、批判が存在する。ただ、観る視点に批判は存在しえない。

例えば、相手が斬ってくると私は解釈した、そしてなんの罪のない者を斬ったとか、
相手が斬るはずがないと私は解釈した。そして私は斬られた。
これは一体なんたることか?相手を観ず、自分の解釈を観ている。
自然を観ず、自分の解釈を観ている。世界を観ず、自分の解釈を観ている。

解釈とは、条件付け、偏見、借り物の知識の事だ。私はこのような牢獄の中に
完全に存在している魂(心)に語りかける事は、不可能な事だと想う。
不可能ではないのだが、相手を怒らせ、そこを無理にこじ開ける事は、
自らが求めない限り、介入はしない。

何故ならば、それをすることは、その者に対して、さらに、偏見を強める機会を
与える事になり、より自分の信念体系を信ずる方向に向かうからだ。

続く
なんでも知っているような傲慢な精神に、現実を定義しても、常識を定義しても
無駄だ。傲慢な精神には、傲慢な精神の持っている現実、常識を手放す用意がない。
幻想の現実を我々に押しつける魔術師でしかない。

我々に現実という言葉は存在しない。私と世界、私とあなた、その中間に、
現実は常に様々な形で、時々刻々と変幻自在に存在する。一般で言われる、
普遍的・固定的な現実などは、あり得ない。自然界はいつも動いているからね。

社会秩序を成り立たせる為に、共有する意識、共有する思考習慣、等に過ぎないものを
彼らは現実・常識と称して、それが全てであるという狭い世界に住んでいる。そして、
その信仰を信仰とすら思えない。まさに洗脳状態の戯言と私は吐き捨てたい気持ちである。

しかし、それを知っていて限定した世界に居る人を非難する事もできないし、
無知を非難することもできない。重要な事は、それを我々に押しつけてくる者だ。
現実・常識・普通・自分勝手等の言葉を巧みにつかって、変化を否定する傲慢な主義。
これを私はもっとも嫌う。他人にも害がある。特に若者の情熱を奪う。

つまりこの主義は、人間主義の極致であり、野心家であり、その先に象徴される者が
ヒトラーであり、各種人間主義に立脚した独裁者だ。自然界を克服すべきものとし、
勝手な現実をでっち上げ、無知な大衆に劣等意識、罪の意識、被害者意識、仮想敵を
でっち上げ、大衆を制限された思考に閉じこめる能力に執着する。または、その能力
が成長であると信じている。

続く
この問題に取り組む、あるいはこの精神を嫌うのは私の役割なんだろうと認識している。
このような問題への反逆は、私は一歩も引けない所である。

しかし、その者達も、自然界の大いなる役割を演じているに過ぎないのだろう。
ついつい、イデオロギーという邪魔なものに心を奪われてしまって、話を脱線させて
しまった。話を、戻そう。

つまるところ、我々は、自分と自分以外の者(世界)との違い、および差を
認識して、自分の特徴を知るという観察を行っている。それを目的として
生きている。自分と世界との関係を知る事がこの世にいる目的とも言える。

私もお気に入りの人に囲まれ生活している。つまり、「自分と世界との関係を知る」事に
誠実な者と接する事に、愛着を感じる。彼らには情熱がある。すなわち生命力がある。
ある特定の教義・イデオロギー・知識に甘えない力強さを持つ、あるいは目指す。
それにもまして、自分に誠実な事があげられる。これは年齢に関係ない。

続く
知識を分かち合うのは無意味である。本を読めばよい。知識と知恵は違う。
イデオロギーを共有することは、心地よいが、固定される。
教義を分かち合うのはも固定だ。

一方、創造・発見・知恵を称え合う。情熱に触発され合う。勇気を称え合う。
質を感心しあう。経験・感覚・感動、すなわち体験を語り合う。
これは、生死と直結している。こういう関係が「自分と世界との関係を知る」に
直結した交流となるだろう。

死の瀬戸際に立っているものが、耳を貸すべき内容は、そういうものだろう。
つまり生きる者に必要な交流は、そういう交流ではなかろうか?
言葉を換えるならば、生き生きライフは、馴れ合い稽古ではなく、真剣な稽古、
そういう交流からしか生まれないということになるだろう。

では失敬。

今日は人間のエネルギー、すなわち生命力、情熱等について考える。
武道に限らず、修業というものは、すべて、生命エネルギーの拡大
あるいは、元から在るエネルギーへ帰路することにつきる。

これは、本来の人間、すなわち本来の自分に目覚めることであり、覚醒の事だ。
加減主義で言えば、エネルギーの拡大・不要エネルギーの除去。
一元で言えば、元に戻ると表現される。どれも言っている事は同じだ。

今日は、心という言葉を用いず、魂を用いる。心をも統括している「魂」という
概念を用いて話しを進行させる。魂を用いてこそ、心の話が可能となる。
心という地表を、ビルの屋上から眺めるという試みだ。

続く
まず、魂から観た心の定義は、
「心は完全に時空を越えている。肉体は、制限であって、それ以外なにものでもない。」
そして、「魂」の属性は、個ではなく、全体であり、個でもある。これは、先の
>>278 :【心の話-1-】で、神経という例を用いて、話してきた。

そして、私達の本体は、心であるが、心の高次の階層に「魂」がある。
これを別の言い方でいうと、私達の本体は、意識である。
意識には、顕在意識だけでも色々な意識があるり、自覚さない潜在意識にも
様々な意識もあるが、二元で語るなら、「意識」が心なら、「無意識」が魂
との接点があると言うことができる。

魂が在るとか無いとかという問題は、個人に委ねられる。無いと知覚する者に
とっては、無いもので、在ると知覚するものにとっては在る。言葉の解釈の相違は、
避けられないとしても、私の意味するところの「魂」という概念で考えて頂きたい。

心をも統括する存在が魂であり、魂が無いというなら、心を統括する
存在が無いということであり、その思考は、心を道具として使う事ができない。
すなわち、心という牢獄を破壊できず、魂(魂主体の我々)は、心の牢獄から
自由に成れないということになる。つまり気持ちがあれば、選ぶ事が可能だということだ。

続く
心の牢獄から自由になれないというのは、具体的には、感情、思考、精神、直観等
そこから生み出される創造・発見・気付き・情熱をコントロールできないということ
になり、我々が持てる本来の範囲の自由を満喫できないということだ。

合氣道でいえば、技は思考に刻むのではなく、直観に刻む事であり、無意識に刻む
事であるのだが、その刻む場所すらコントロールできないということになり、
非常に的を得た稽古が成り立ちにくくなってしまう。しかし、教授方法が適切であれば、
適切な場所に刻む事は可能ではあるのだが、自ら刻むという本領発揮ができない。
応用(自己進化)を拒む事になる。

開祖は、魂主体で稽古を…というのは、その事で、私が繰り返し発言している事で、
別に合氣道での話でもなく、全ての人間活動に言える事だと考える。

続く
所で、なぜ、魂という当たり前の概念が、これほど、オカルト的に扱われる
ようになったのか?と考えてみると、今は、全てがインスタントで、
めまぐるしく心を踊らされる、あるいは、心を持って行かれるメディアや、
深く入り込まない意識で、我々は共有意識を築いている。

テレビや雑誌、CM等、めまぐるしく、また、うるさく、暴力的に、
心を引きつけるような、テクニックを使って、我々の魂から、心を
物欲望・外向意識の方向へ引きつける。

それだけではない、深く魂に触れる映像を見て、深い沈黙の瞬間、我々自身の
魂に触れる直前、次の瞬間、ポップなCMでおじゃん!。とか深く話そうとすると、
茶化しがはいり、深い相互理解に踏み込めない。日常茶飯事で浅さが、流行だ。

「これ、良いでしょ!よっといで!」「これで、悟れるよ!」
「これ、知っとかないとまずいよ!」と外部の物、思想などで、魂は踊るよ!
と魔法をかけてくる。私に言わせれば、悪魔のささやきであり、霊感商法と
区別がつかない。これが煽りに乗じる大衆の姿であり、我々の事を差す。

しかし、はなっから、あるいは、徐々に魂は、それらの化けの皮を剥がしてくる。
つまり、心に踊らされ、肉体に踊らされる魂は、心身を拒み始める。
これが、鬱であり、開き直りであり、引きこもりであり、自閉である。

続く
私は、これらの病的表現こそ、社会脱落者というレッテルの正体であり、
そのレッテルの正体とは、魂を閉じこめておけ!であり、
魂が社会と共に進化するのではなく、社会に魂を閉じこめておけという
考えに立脚した現代流行の、多数派思想信仰の正体を物語っている。

つまりシステムを我々は信仰しているのだが、これについては
さんざん語ってきたので、割合するが、信仰者は、それが信仰であることに
気が付いていない信仰者がほとんどだ。だから物知り顔で、ポーカーフェースの
人間がうじゃうじゃいる。自分が正しいという考えが信仰の正体だ。まさにシステムだ。

システムは、感情がない。情熱もない。システムは、システム外を認識しない。
まったく、システムと同一の人間が出来上がっている事に気づくだろう。
システムには是非は存在しないが、間違いや、正誤が存在する。
システムには、決められた思考手段が唯一である。
システムは知識と方法が確立されれば、万能である。
システムは悩まない。

きりがない。ヘドが出るほどだ。システムは最初、権力を維持するために
つくられたが、一度出来き、信仰が揺るぎなくなると、システムが権力者に
なる。つまり実体のないお化けが権力となっている。現代社会の支配者は、
実は、実体のないシステムというお化けだ。

続く
人間はシステムから自由だ。自由に考え、自由に発想し、自由に感動し、
自由に進化し、自由に行動し、自由に愉快に生き、死ぬ。さらに、生死すら
システムが信じている死なんて信じない。何故ならば、人間は死んだことがない。
私は死んだことがない。諸君も死んだことがない。死体は観たことがある。
死んだ証明はいまだ確認不能だ。

このような考えは、システムには、受け入れられないだろう。
しかし人間には受け入れられる。このあたりが大いなる人間の意識の二分割の
境目であり、壁となっていると考える。自由人と不自由人との境目の意識を
端的に表した。

さて、生命力、情熱、ほとばしる激情、気合い、元気・愛情・慈悲はどこからくるのか?
決してシステム信仰からはやってこない。仮に、システム信仰している者も、
人間だ。魂をもっている。だから情熱等はあるのだが、システム信仰には
否定される。つまり頭で否定する。すなわち心に否定材料がある。魂の次元に
はいれない意識の事だ。未知の領域に入るのは誰でも怖い。しかし、そこは実は
未知の場所では無かった。ということになるのだが、システムは、未知は恐怖という
結果を出力する。つまり自己防衛機能として働く。エラーだね。

続く
人間には、意識の次元が存在する。例えば、感情に同化した意識、
本能に同化した意識、思考に同化した意識。システム信仰は、主に思考に
同化した意識となる。しかし、いずれも、密接関連していて、一個の心を
形成する。これが心の一部、および心にほぼ完全に占拠されている意識の
正体だ。自由がないね。

魂の次元に意識があると、心に占拠されていないが、部分部分で、
心の影響を受ける。感情という心の一部に魂をもっていかれたり、
思考、本能に心を動かされたりだ。思考は主にイデオロギーなどの
条件づけ、偏見だが、魂の次元に意識の中心があると、固執はしないだろう。
本能は、主に性欲だがこれはとっておくのが人間である証だ。
魂と本能は、極めて近く、今の私には明確に区別はできない。

さらに魂の個である魂の属性から個の消滅方向へ向かっていくのだが、
つまり、全体主義的な一元的意識。開祖でいう宇宙との同化、神との
同化という境地の意識。まさに武産合気の境地だが、ここにくると、
心の支配下に入ってしまう事はないだろう。選択が可能だろう。
つまり心を道具として使用可能となる。

続く
自分の本性は魂であるという自覚から人間は、世界観の変化を完全に自覚できると考える。
その壁の突破が難しいようだ。宗教や各種修業体系などは、
この突破の為に色々な技術があるのだが、この手の技術は、
システム側から、異様な視線で扱われる。

健康体操という表面的な姿、武道という仮の姿、自己啓発という仮の姿、
書籍という仮の姿、音楽・芸術という仮の姿、各種趣味体系に紛れ込んで存在する
仮の姿等で、システム内で、存在している。システム信仰者からは、表面的な部分で、
システム信仰の視線を避ける事ができる。うまく成り立っているものだ。
上位から下位は見えても、下位から上位は見えないというのは、こういうことだ。

システム内でうまく機能している修業体系、すなわち魂の開放の業は、
このように二重の装いをうまくバランスさせている。しかしこの魂の開放を
悪用し、某宗教団体のような事も可能ではある。このような事が何故発見できないか?
といえば、システム信仰をしているからであり、盲点を突かれている。
盲点などは、本来はない。魂の属性を考えれば理解できるだろう。

装いを見落としているということで、方便の真意が見えないということで、
意識というものを空間的に把握できない、あるいは、人間というものを
簡単に見過ぎている。人間を真に理解社会ならば、精神病というレッテルは
ありえないし、病気もありえない。

続く
魂の概念の重要性は、このように社会的な影響、個人の進化への影響、
幸福への影響、調和への影響が存在する。全て「心身霊(魂)」の分離からくることで、
やはり帰着するところは、心身統一という事になる。正確に言うならば、
心身統一の先に、心身霊統一がある。最後はその三つすら一に帰すだろうが、
我々がまず目指すものは、心身統一だろう。

このように意識の壁は至ることにあり、システムに疑問さえ持てば、
考えるだけでも、到達できる概念ではある。拒む心はシステム信仰そのもので、
もし、信仰を捨てられないならば、別のものを信仰すればよい。
それが「魂」であり、自然界であり、神であると思う。

つまり「一」「日の丸の日」「生命エネルギー」「気」なんでもいいから、
全体を一とし、全体の中の自分もその全体の一部を形成していて区別が無いという
思想は、正確に自分と世界との把握に繋がると、示唆したい。

大切な事は、我々は知るべき時に、知らされる事を知る事が全てであると言うことで、
それ以外欲張らないことだと考える。知らないものはあきらめることであり、
知らない事は、まだ知る時期ではないのだから、無理に知る必要はないということだろう。

今日はいつもと同じ事を言っているような焼き直しである。
つまり「壁」の話でした。

では失敬。
320【進路】幼児:03/09/29 23:43 ID:h7fBm/KR
魂の概念はさんざん定義してきたので、魂の爆発、心の爆発、情熱の爆発の
起爆は、どのようにもたらされるのか?リフレッシュとの関係は?
魂の情熱の増大としての、現象への反映はどんなか?やる気の正体は?
これらを考えてみたい。
同時にこれこそ、呼吸力の一部であると考える。その呼吸をもって、
身体に伝達する。これが呼吸力だと考えるが、その詳細を次回考えて
みる。

おやすみなさい。
321名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/30 00:07 ID:Z7VyXyrL
《人は必然的に狂気のうちにあるので、気違いでないことも、狂気の別の在り方から言って、
やはり気違いであることになるだろう》M・フーコー『パンセ』断章414
322幼児:03/09/30 00:34 ID:KEk2aQbD
>>321
面白い引用だね。インテリ向けの皮肉だね。
気違いでないことと、狂気であることに区別はない。
問題は、誰が区別をしているのか?まただれが区別する権利があるのか?
だと私は考える。

私という概念が無なくなれば、結果的に批判精神は消滅する。
みんなが愉快になるには、狂気、気違いという言葉の悪イメージを無くすと良いと
私は考える。

お休み前に。では失敬。
323モリゾー:03/09/30 01:04 ID:Z7VyXyrL
近代の価値観は、経済的に有為か無為かの一言に尽きる。
理性と狂気も経済の前に区別されるようになった。
犯罪者、精神病患者のみならず、経済的に無為な人間(怠惰な者、能力の劣る者)をも区別した。
自己の内面の理性と狂気まで分けて思考するようになった。
理性と狂気が対話してこそ道徳が内包されるのに...。
自己と他者も前序の価値観で考えるとそれこそ狂気である。
しぜんと自己と他者に対話を求めなくなる。
これは独我論への逆流に他ならない。
幼児氏の言う通り、二でなく一である。
324モリゾー:03/09/30 01:21 ID:Z7VyXyrL
>>321
スマソ。
パスカルでした。フーコーが引用してたんでした...。


毎回、「今日は…」で始まるのも習慣化していて、最後に「失敬」で終わる
のも習慣化している。入り口が一緒なら出口も一緒。そこに意味はない。

さて、今日は、情熱、活力、やる気等。まことに、素っ気ない言葉で括るなら
「生命力」と「想念」について、考えてみようと思う。

生命力いうと実に抽象的で広すぎる。肉体においての生命力、精神においての
生命力、思考において、感情においての生命力。様々に分割されるが、
今回は、精神・心に置くことにする。そして魂との関係を解いてゆく。

心にしても抽象的ではあるが、こんな心だよ、と言うところを以下に
示すので、諸君の心当たりで、感じて頂きたい。その諸君の感じた心像
をもって、ここで言う、心の具体化とする。

結論から言ってしまえば、必要なものは、「愛」であり、
活力の源といえば、愛だろう。そして愛と魂は非常に接点があり、
愛があれば魂の自覚をすることはできるだろう。根本セットだ。

続く
愛と共に我々が在るのなら、神・自然界の神秘・驚愕を味わう事もできるだろう。
胸一杯・胸キュン・ときめくハート・ハートビンビン・胸を痛める等
何か書いていて恥ずかしく、くすぐったいような言葉ばかり並べた。

さらに、樹齢数千年の大木を前に、畏敬の念を感じ、胸が熱くなったり、
失恋により、失意のどん底に落ち、絶望の淵に落ちる感じがするのも、
ハートだ。考えれれない奇蹟を体験し、天を見上げる時も、胸に手を当てる。

雷親父が叱りつける時も、貴様の胸に手を当ててよぉ〜く考えてみろ!となる。
胸は魂に通じる道だろうし、同時に、心身でいえば、心を担当している。
統括する生命力は丹田あたりだろうが、心は紛れもなく胸だろう。
背中がぞくぞくってのもあるが、今回は、胸ときめきの方で話しは展開する。

ということで、今日は、心身の心の方を取り上げるということだ。
キーワードは、肉体で言えば、「胸」。想念で言えば「愛」、
概念でいえば、「魂との接点の体験」これらに刺激され、観察している我々は、
それらへの刺激を受けて、奮い立ったり、落ち込んだり、生命力に触れる。
それを言葉で言い表すなら、感動だが、普通に言われるような感動ではない。

落ち込んだり、奮い立ったり、というその心の、あっちえふらふら、
こっちへふらふらという現象はここでは、割合する。
今日は、ポジティブ面である活力の源に、焦点を絞る訳だ。

続く
さて、私の意図する所の感動を言葉で伝えるのは、難しいので、例を上げる。
死人を前にした時の全てが終わるが、さて私は…という立ち直りの時の気持ち。
これこそ最高!という異性と幸せな一時を過ごした時味わう満たされた気持ち。
危機一髪を脱した気持ち。心が動き勇気を出して、人様の為にやった行為への、
爽快感。こんな所だ。

パソコンのフリーズで畜生!、そして原因を究明してやっと直った!という
その手の感動ではない。ただ、犬が愛おしく、ヨシヨシという感動は、また
尊い。

生命力、元気、活力は何故自然着火するのか?。情熱、情動はどのようにして
おこるのか?という問題である。私が問題にするのは、目的主義、功利主義
人間主義に立脚した合理的思考ででっち上がった、思考による現社会での成功
動力の事を言っているのではない。

純粋な生命力の事を言っている。どうか諸君の腹で明確に区別願いたい。
情熱や、活力に代表される。自然に沸いてくる感覚をともなう人間野生、
魂との接点への渇望的な、本当の自分、本当のより所、そんなものに
出会えるだろうという、何かに引っ張られる。あるいは、委ねられる
状態で、なにもしなくとも、気力充実。何もしなくても、元気という、
まさに、太陽の状態。光の状態の事を言っている。

続く
このエネルギーを持っている者を、霊格が高いとか、オーラーを発するとか、
カリスマ性があるとか、輝いている等、我々は表現する。それを持つという
状態はどのような事かというのを話してゆくわけだ。

これらの根底には共通のものがある。人間の中身が膨らんでおり、
それでも有り余り、外に漏れている生命力の状態を指す。
合氣道的に言えば、気が充満して外に漏れている。欠点といえば、
出しすぎる。ある意味、身体に戻す為に心身統一をする必要性もある。

その充満とはなにか?何が充満しているのか?そして何があふれてしまうのか?
気であるのだが、具体的にいえば、想念だ。中身がはち切れんばかりに
充満している想念。心の模様とも言える。その人の雰囲気と言われるものが、
一般人でも純粋に直観できる想念だ。

極端に感性の鈍い人以外は、たいてい、極端に独特の雰囲気を出している人を
観るときのイメージは、共有できるだろう。これの事象は、我々が気を感受している
ということの証明で、一種のテレパシーなのだが、今回は、その雰囲気である想念に
的を絞って話を続ける。

続く
心が分割している者が発する雰囲気は、統一性がない。そしてその統一性の正体は、
自分の心の中で、分割が巻き起こす喧嘩を心の中で起こしている。
心の中では、二人の自分で戦っている。当然言葉は確信的ではない。
どちらかを優先させているか、使い分けている。

その状態で、社会生活を送る事ができる環境ならば、すなわち、確信的発言、意思表示
を明確に求められない関係上において、多弁で居られる。意思表示が必要な時は、
心を閉ざすしか方法がない。今の当たらず、触らずの社会風土は、この傾向があり、
特定の場所では心を出すことができる。

心を出す事ができるといっても、彼らは、それが心を出す事だと思うかもしれないし、
振る舞っているという自覚を持ちながら、心を出さない者もいる。
心に正直な者は、この社会では逆に、引きこもりや、自閉、鬱になる。
正直者がバカをみている社会だ。

いずれにしても、中身が想念で膨らんでいる。身体に漏れすぎで、悪臭ムンムンだ。
カリカリした想念、自分を嫌う想念、嫌嫌している想念、キリ無し。
想念界の環境破壊もはなはだしい。さらに、その想念が好む音楽が音になって、
騒がしい。音の世界の環境破壊もしている。その想念が好む物が商品化される。
心が世界を創っている。すなわち我々の心の反映が物質界なのだが、結果的に
事の起こりは、我々自身の心の分割にある。

続く
何から分割するのか?一なる感情、事の始まりの想念と言える。
人間がどのように生まれてきたか?というのが答だろう。
セックスであり、エロスであり、愛する男女だ。

愛から分割した想念を持てば、持つほど、心はの想念は分割される。
神から分割すればするほど、想念は分割される。
自然界から離れれば離れるほど、想念は分割される。
実に簡単な事だが、とどまればよい。味わえばよい。
癒しとは、戻ることで、基本とは、想念でいえば、愛だ。

各種メディアが言う。方法主義、技術主義、物質代用主義では解決不能だ。
不能とは言わない。事の本質をメディアは最後にちょろちょろっと
「大切なのは、我々の愛情でしょう…。」とか、うまいことまとめて良しだ。
なぜ、愛しか必要がない、それ以外は全てごまかしだ。分裂だ!。とは
言わないのか?。金と権力、もっと言えば、その頂点に君臨するシステムが
それを言うことを許さない。システムとは、昨日言ったとおり、実体のない
バーチャルな現実だ。

マトリックスは破ることができるのだ。我々はネオにならなければならない。

続く
さて、逆に言えば、「愛」というものは、今の社会を見るまでもなく、
あらゆるものの、特に想念(人間の本性が心であれば、心の世界は想念でもあるが)
のビックバンでもあり、核のようなエネルギー体といえる。

だからこそ、あらゆる感情、あらゆる生命、あらゆる物がそこから生まれる。
では、愛という一元に身を捧げたら、どうなるか想像してほしい。
愛は、全てがそこにある。といってもよいのではないか?。

パワーも、思考も、感情も、精神も、心も、肉体も、美も、全て。
魂の属性は、愛とも言える。心の属性も愛とも言える。全ての属性は愛と
言ってもおかしいとは思えない。呼吸力の正体は、この愛を膨らます事で
エネルギーと同化できるのだろう。その膨らんだ心をもってして身体につたえるならば、
神通力がでるのは当たり前の事なんだろう。開祖の大木話の逸話は、これであると
私にとっては、疑いようがない。

愛は、語り尽くせない。語り尽くせないが、人間とセットで存在し、
人間が愛でもある。人間が愛に委ねた時、愛の属性である人間は、本領を
発揮するだろう。我々は、様々な想念活動を体験し、結果的に大切なものはなにか?
だんだん解ってくる。大いなる謎が解ってくる。それが愛というものだろう。

だから、我々は愛を目指して、生活している。誤魔化しようのない事実ではないか?
これは、意識、無意識関係ない。そのようになっているのだろう。

続く
我々が発する想念は、愛と共に。そして、愛を拒む我々自身の心を正し、正しい想念を
心身から発し、世界の気(人間が発する想念)を綺麗にし、我々の心から
反映される、様々な人工物を、分割前の誠の愛から発した物にすることが
万有愛護の顕れとなるのだろう。

開祖は魄(分割されたもの、反映物)からではダメだ。
魂からでなくては…。という意味合いをおっしゃるが、愛という一から
全てを始めなければならないのだろう。

では、失敬。

【付録】
愛という一元を、無理に二元にする概念もこの世にはある。
悪魔だ。悪魔は、愛無くしては存在しない。しかし、
悪魔側は、悪魔がないと愛が存在しないという考えがある。
まあ、セックスが、苦痛というならば、悪魔が先だろうと考えるが…。
私は気持ちがいいと思う方だから、愛を選択する。
諸君それぞれで、興味があったら、探求して欲しい。
333【予告】:03/09/30 23:43 ID:KEk2aQbD
次回は、愛の活動っていうようなテーマで考える。
どんな行動をすると、どんな結果があるか検証したい。
私の経験と、私と共に歩く人達の体験的実例を交えながらだね。
裏道の話だね。

では失敬。
334【意識の視点-1-】幼児:03/10/04 21:01 ID:iMHjrMrq
【意識の視点-1-】幼児

先回は「愛」という根本の感情を考えた。まとめると以下の通り。

●あらゆる感情は「愛」から分裂して様々な感情を我々は味わっている。
●感情の統一を図りたいならば、「愛」という基本に戻る。
●感情の分裂が起こると、雑音混じりの雰囲気をにじみ出す人間になる。
(主に感情と思考との喧嘩で、制圧という感情と開放という感情が喧嘩をする。
その結果、行動の不調和がおこり、想念ばかりが膨らんで、肉体外ににじみ出す。)

結果的に先回は、感情面を中心に「愛」というものをとらえて、考えてみた。
そして、どのようにしても、肉体外に、にじみ出てしまうものがある。
これが人それぞれの雰囲気で、色々なものを出している。それを我々が感じて、
彼の全体像を把握する。

「今日は顔色がいいねぇ〜!」と言っておきながら、我々は顔を見ているのでは、
ない。全体をみて、色々感じて、とりあえず、無難に「顔」という方便をつかって、
交流を図っている。

続く
335【意識の視点-2-】幼児:03/10/04 21:03 ID:iMHjrMrq
愛は一で、分裂前の感情であるから、魂の属性と同じであり、思考は心身(肉体)の属性、
頭と魂が喧嘩をすると、心身不調和となって顕れる。実は、魂と肉体との調和が必要で、
それが感情でいえば愛という感情で結ばれるということだ。

そして、あらゆる感情は、愛の分裂から生じているということを発言した。
そしてその感情が、肉体の外へも、その人の雰囲気としてにじみ出す。
結果的に、感情面の分裂を無くするには、「愛」という一元感情が必要である。

必要であるというのは、感情を持って生きている以上しかたないが、
そこから分裂することによって、様々な感情が体験できるのであって、
それこそ、人間活動であるのだが、「愛」を忘れると基本に戻れなくなるということの
意味で、必要不可欠であり、初期状態を忘れてはならないという事の示唆としたい。

今日は、先回の「愛」と「魂」などを意識の視点、つまり、我々がどんな意識、
あるいは、境地で生きているのか?という問題を、図をつかって考えてみたい。
あまり、詳細は追究しない。意識、境地、思考の視点の存在を明らかにするのが
今回の意図である。

続く
336【意識の視点-3-】幼児 :03/10/04 21:04 ID:iMHjrMrq
下図は、意識の位置を差す。我々は「神」「自然界」に取り囲まれている。
完全な秩序の中に居る。一番外の罫線が世界を表す。但し、世界とは、どんな
世界かは、解らない。解らないが、我々の言う、この世とあの世も含むし、
なんの分裂もない世界。私達が知るよしもない世界であり、宇宙の事だ。

 【意識の視点】
    │
┏━━━│━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┏━↓━┓   ┏━━━┓        ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┃   ┃ 「神」    ┃
┃ ┏━━━┓   ┃ 魂 ┃ 「自然界」  ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃ 「宇宙」   ┃
┃ ┗━━━┛   ┃ 愛 ┃ 「武産合気」 ┃
┃ ┏━━━┓   ┃   ┃        ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┗━━━┛        ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
科学でいう宇宙は、説に過ぎない。ホーキングの宇宙論も説で、
ビックバンも説。本当の所は解らない。これが事実だ。
だから、世界が在るのか?無いのか?も本当の所、解らないが、
全部含めて、外枠の範囲を世界とする。本来は枠はないのだが、
便宜上、枠をこしらえる。

続く
337【意識の視点-4-】幼児 :03/10/04 21:05 ID:iMHjrMrq
「私」は、我々自身の事で、肉体の属性で、個である。
私の体と、あなたの体は分裂している。心はどうかしらないが、
少なくとも体は分裂している。こう考えていだたきたい。

「魂」は、思考では一元論。感情では愛の世界。精神のレベルでは魂の次元。
一元だから、一元であるものなら全てココに該当する。だから、個人レベルでも、
感情は、全体性に近いが、思考は、分裂しているという事もありうるし、
様々に私と魂との間に、意識が行ったり来たりしている。それで、人間進化の
全体像をその人自身で表現している。

他人と心が通うレベルは、心が一つになることだから、
魂レベルとなる。愛のレベルだ。この視点では、他人と私は分裂されていない。
意識どおしがかなり共感している。目で語る部分であり、本当に分かり合った
というレベルは魂の触れ合いとなる。心と心の触れ合いも同じだ。

議論においても、一元を常に忘れず、議論するならば、分裂はない、
あるのは、創造と発見だけだ。そこに討論は存在しえない。
他人との関係も、一元を目指すしかない、一元は、「理解」である。

理解から意識を離さなければ、理解は深まるばかりだ。喧嘩は、存在しない。
どちらかが、意識を分裂方向に離したとたんに分裂方向に展開する。
議論においての、分裂方向は、正しさ・正義の主張だ。
正しさ、正義、そういうものは、人間の持ち物ではない。行動だろう。

続く。
338【意識の視点-5-】幼児 :03/10/04 21:06 ID:iMHjrMrq
では、順を追って進めよう。
まず、まったく他者と繋がりを感じない意識の視点は、下図だ。
【意識の視点】である位置から他者をみると分裂している。
私と他人はまったく接点がないと感じる。孤独な感覚を持つ。

他人を観る、あるいは、観察する視点の位置は、いつも「私」に置く。
私が正しいという前提条件で、事象をとらえる。それしか方法がない。
心を通わせれば、或いは、愛を行う時、視点は右へ移動するのだが、
引きこもっている状態。あるいは、魂や、心、愛を否定する、照れくさがる
意識であり、それらと一体になれない状態。

 【意識の視点】
    │
┏━━━│━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┏━↓━┓   ┏━━━┓        ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┃   ┃ 「神」    ┃
┃ ┏━━━┓   ┃ 魂 ┃ 「自然界」  ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃ 「宇宙」   ┃
┃ ┗━━━┛   ┃ 愛 ┃ 「武産合気」 ┃
┃ ┏━━━┓   ┃   ┃        ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┗━━━┛        ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
時々、全体に触れる。愛になる。感じるが、行動しない。
言行一致、心身統一、知行合一さえ行えば、全体性に到達できる。
私を解き放てば、魂に向かう。解き放ち方が解らない。

続く。
339【意識の視点-6-】幼児 :03/10/04 21:07 ID:iMHjrMrq
一方、下図は魂の視点で生きている。この位置は、孤独も分裂もない。
私と他人は繋がっているという認識がある。同時に神との接点も非常に近い。
他者と同様の位置に神を感じているだろう。

この視点は他者の魂、心と繋がっている。つまり、他者の行動の意図である、
心の動機、魂の渇望が観える。繋がっているのだから、解らぬはずがない。
魂、心を通じて、他人に成り代わり、他人を自身を感じる事ができる。

人の身になって考えるとは、この次元の事を差す。決して、勝手な解釈とは
違う。勝手な解釈と想像は、第三者からは区別できない場合もあるが、当事者通しは、
理解しあえるものだ。殺人者、悪人でも、この視点に立てば、その行為をせざるを得ない
状況があったことを想像できるということだ。すなわち、批判精神の消滅する次元だ。

         【意識の視点】
┏━━━━━━━━━━━│━━━━━━━━━━┓
┃ ┏━━━┓   ┏━│━┓        ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨ ↓ ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┃   ┃ 「神」    ┃
┃ ┏━━━┓   ┃ 魂 ┃ 「自然界」  ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃ 「宇宙」   ┃
┃ ┗━━━┛   ┃ 愛 ┃ 「武産合気」 ┃
┃ ┏━━━┓   ┃   ┃        ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┗━━━┛        ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
我々の多くは、この視点に行くまでに大きな壁がある。壁は越えるときは、
壁自身が見えないが、越えてしまえば、壁が存在しないことに気づく。

続く
340【意識の視点-完-】幼児 :03/10/04 21:08 ID:iMHjrMrq
この視点は、武産合気で、自然界と自分とで自分の使命、役割の認識。
行動は、この視点に近づく程、環境が調整されていく、自分がほとんど
なくなってくると、残るのは自然界だけになり、我々自身に正しい環境に
取り囲まれて自然に生きる事になる。他人には、その環境との同化が、
奇蹟に観えると言うことだ。

記憶の共時性、啓示、偶然、絶妙のタイミング、何かの助けの介入。
こういった感覚が頻繁化するだろうが、それが普通となる。
人知を越えた力の存在を、漠然と知覚し始める。

               【意識の視点】
                  │
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━│━━━━┓
┃ ┏━━━┓   ┏━━━┓   ↓    ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┃   ┃ 「神」    ┃
┃ ┏━━━┓   ┃ 魂 ┃ 「自然界」  ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃ 「宇宙」   ┃
┃ ┗━━━┛   ┃ 愛 ┃ 「武産合気」 ┃
┃ ┏━━━┓   ┃   ┃        ┃
┃ ┃ 私 ┠───┨   ┃        ┃
┃ ┗━━━┛   ┗━━━┛        ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
簡単に説明するとこんな所だ。
では、どうしたら、愛(一元)の状態で生きる事ができるか?
いや、むしろ、愛を中心に置く行動とはどんな事か?という問いに答があると思う。
この「愛を中心に置く行動とはどんな事か?」というのを次回の予告とする。

では失敬。

続く

最近合氣道から離れた内容のように思われる諸君もいると思うが、
意識の視点の話で、実際の道場においての稽古でも、意識の問題で
各々のズレが見受けられている。今回は、予告である、
「愛を中心に置く行動とはどんな事か?」すなわち、分裂のない、断片的でない、
心身生活とはどのようなものか?を考える前に、ちょっとしたコラムを書く。

例えば、体の変更を行う時、自分の意識を何処に置くか?で、説明が全く違っている。
また、説明を受ける側も、自分の意識を何処に置くか?で、まったくチンプンカンプンに
なってしまう。

相対する二人を、側面からカメラで眺めるがごとく説明する人も居れば、
自分の身体の断片的部分を中心に説明を展開する人もいる。力の流れで
説明する人もいる。まさに様々な説明があるのだが、それぞれが言っている事に、
間違いはない。だた、説明方法の統一がなされていないということだろう。

しかし、鍛錬が進んでくると、説明は一つしかない。魂であろう。
主体が魂となる。魂の視点から、つまり、他人の事も、自分の事も「魂」という
前提で説明がなされる。つまり一なるもの、中心、核、本質等で、説明がなされる
ということになる。

続く
開祖の言葉である、「魂主体」という意識の視点が、道場での共通の意識の置き方であれば、
体の転換は、自分の魂の場所を臍下丹田とし、その位置に自分が居るという前提で、
とらえなければならない。(ただ、自分が足の裏ではないか?という洞察もあるのだが…)

仮に「指先から上方向に力を出す」というのは、丹田(魂)から、指先の方向に気を出す、
であり、指先の方向に意思を伝えるということで、結果的に、相手の無意識に作用しやすい
力が出て、制する事ができる。結果的にそうなるということで、本人は、制するという事を
考えているのではない。そういう感覚が、魂主体の感覚であろう。

これをリラックスとか、力を抜くとか、平常心とか様々に表現されているが、
それらの言葉の問題で、初心者は混乱する。しかたのないことだが、これらの言葉の正体は、
意識の位置から理解するのが一番早い。身体的でいう場所の認識、それから思考の中心、
感情の中心、それらの統一、心身統一状態がリラックスであり、平常心であり、
先に挙げた様々な言葉の正体だ。

続く
呼吸という方法もあるが、これは方法で、それをすると心身統一状態を理解しやすいという
もので、呼吸によって呼吸力(力が伝わる)が出るのではない。むしろ、するならば、
気合いだと私は考える。気合いならば、丹田を意識するし、体の線も意識するし、
気合いによる雑念的想念を飛ばす効果もある。

但し、出すなら、魂からでるような気合いであり、
無音でも、実際に声を出すのでも、同じ事だ。ヒヨコの鳴き声なら出さない方がよい、
出すならば、ヴォ〜ァバァー!という時間を止めるようなのを出して意味をなす。
それを感じながら、ヒヨコでも、無音でも良いとは思うが、最初からヒヨコでは形式的だろう。

そして魂の伝達力を力とするならば、一般に馴染んでいる力の出し方、一般では、「力の入れ方」
だろうが、そうとは、違う力の入れ方(出し方なのだが)を心身に刻み込む作業だろう。
当然、今まで馴染んでいる力を出しているフィーリングとは違い、力を入れているような気に
ならないかもしれないが、受ける方は実際かなりの力(不動的な)を感じる。
だから、人間対人間でなくとも、人間対物でも同様だと思う。

呼吸投げは合氣道の技で、一番気持ちが良い技だと、私は思う。
魂を感じられるし、自分を感じられる。流れに乗るようなものだね。

続く
今まで語ってきた内容は、魂という意識の中心から力は伝達されるという理解を示唆するものだが、
これは、全てに応用できると思う。身体運動、思考習慣、感情の選択、気持ちの充実・排出等だ。
私の知人に、釣り人、自転車、サーファー、フィギアー(模型)等がいるが、その者達との対話
や、情報交換あるいは、自分がこれまで、してきた身体運動、精神活動から、統一的理解に達した。

私は、合氣道に触れて、過去の経験が、断片であることに気づいた訳で、無駄ではなかったが、
全体的な人間理解の必要性を今では、もっとも重要視している。ただ、断片的経験・部分的
経験を経てゆかないと、合氣道の極意というか、凄さを理解するのは、難しいと考える。

合氣道だけ、していては、合氣道の凄さを理解できない。在る程度のなんらかの経験、
数々の矛盾、壁、疑問がつもりつもった状態で、合氣道に触れると、合氣道の凄さが
よく理解できるだろう。かなり全体、つまり中心を鍛錬するからね。同時に、その
中心力的である男性的な部分を、美しさや、しなやかさ、思想で素晴らしいバランスで、
道として、調和させている。

続く
私の個人的感想を述べるならば、観念的な傾向のあるタイプの方は、固いスタイルの稽古で
バランスされるだろうし、肉体的な傾向のあるタイプの方は、流れ中心のスタイルの稽古で
バランスされると考えている。あくまで、心の傾向の事での話である。つまり、自分と対照的な
師範を選ぶと理解しやすいという事で、それを相性であるという示唆を示すわけだ。

自分にとって都合が良いというか、自分と同じようなタイプの師範は、解りやすいかもしれないが、
鍛錬という面から観ると、馴れ合いになりやすい。自己否定しにくくなる。
今のままでよいのだ。という引きこもり的な発想になりやすくなる。当然壁の存在が見えにくく、
気持ちよさの中で、稽古することになり、心地よい場所ではあるだろうが、道場を離れた、
実社会の中での応用への到達の壁も、同時にこしらえてしまう傾向は、理にかなっているだろう。

合氣道の事を多少話したが、誤解しないで欲しいのは、合氣道の凄さの感じ方の一例を示しているだけで、
私の発言が全てではない。私が経験してきた道のりから観ると、そのようにとらえる事が出来たわけで、
諸君とこのフィーリングを共有できるかどうか?は解らない。ただ、諸君それぞれに当てはめて、
考えられる材料として、私の観察を言語表現したということだ。

今日は、ちょっとしたコラムでした。
では失敬。
346名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/08 12:30 ID:K/9fIymP
幼児休みすぎ。まじうざい。
347名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/08 20:48 ID:TRBa0JPg
↑休みんでるのにウザイの?
348幼児:03/10/10 00:50 ID:mWFahzuy
パソコン不調にてもう少し休養。
349【戯言】幼児:03/10/10 01:11 ID:mWFahzuy
一応今日は、あれこれやって、パソコンの調子が良いので、近況を語ろうと思う。
人のサイクルってのは、繰り返されて、どちらかというと、私は、まとめて、
ドドーンとくるので、転機の時期ってのが重なるんだ。気に入らないんだがね。

良いことは、まとめて起こり、悪い事もまとめて起こる。何故だ?
合氣道での気付きもまとめて起こり、合氣道の不調というのは無いのだが、
これが不思議だ。

ところで、知というのは、ある意味恐ろしい。知ってはならないこともあるし、
知るとまずいものもある。知ると顕れる人もある。知ってしまうと過去すべてが、
恥ずかしさを味わう事もある。知ると、隠蔽する勢力から攻撃を受ける場合もある。
目立たない事が肝心だ。知も、武も、善もなんでもある意味、恐ろしいものだ。

秘教ってのはあるね、確かに。私はある部分で、おしゃべりだから、
色々ここで、話してゆこうと思う。バチは当たらんでしょう。

飛び出ながら、飛びでない。そんな事を少し考えました。

一元思考で生きるとはどのような事か?という命題を置き去りに、
数日間が過ぎている。私の親近感をもつもので、一元思想は、禅、合氣道
陽明学、唯識、スーフィ、量子論、等なのだが、文武の文では、そのような
ものしか読まない。正確に言うならば、それ以外、私は親近感を持てない。
この範囲は、人間のあらゆる創造活動の結果として顕れる物全てに言える。

本で言えば、それ以外は、読み物としては面白いが、現象説明であって、それがどうした?
という感想しか持ち得ない。私にとって、本というのは、検証の道具だ。
読書は知識を得るものというのは、学生のすることで、むしろ、読書家は、自分の事を
自分で読んでいるだろう。つまり、自分の事が書いてあるという実感をもって読むだろう。

人間の行動全般は生死に対する態度、覚悟で決まるので、あらゆる人間の行動を
普遍化して定義することはできない。私が言える事といえば、私の読書との関わり
だけだろう。そして読書家と称する者は、探求者と同意語で私は用いる。
武道も読書も、生死と離れて存在しえないというのが、文武両道に対する私の
とらえ方である。

続く
本は、文字というメディアと用い、賢者、あるいは、先祖は、今の自分を助けてくれる。
今の迷いや疑問をうまく説明してくれる。すなわち言語を使って論理化して、お前は、
この位置に居るぞ!と説明してくれる。だから本は、一つの師匠でもある。

つまり本という物体とか内容に意味は無いということで、本に内包された想念を感じ取り、
私という媒体を理解する作業であって、本は、想念を記録できる素晴らしいものだ。
合氣道では型という呼び名はないが、基本鍛錬に相当する。鍛錬は想念記録媒体だ。

合氣鍛錬で得た洞察、フィーリング、あるいは、日常生活での情動観察の言葉にならない
漠然とした疑問等、そのようなまだ、論理化できない次元で、無秩序な状態な想念を、
論理はしっかり整理して、記憶に記録させることができる。論理は記録には便利な道具だ。

みずから、論理化することができる場合もあるし、知人との対話によって、整理できる
場合もある。読書によって検証することもできる。また、合氣道において検証する事も
できる。行動とは、検証だろう。文武両道の「文」は、自分の事で、「武」は世界の
事だと私は考えている。「両」は、世界と自分との関係を表し、「道」は、一つであり、
答であり、原理であり、存在で、そうなっているということだ。

続く

ここでいう私は、進化の意図そのもので、観察者でもあり、魂と言えるかもしれない。
論理化することは、とても大切な事で、いきついた想念の道筋を自分と他者に説明するには、
論理化しかありえない。思考の道筋ができたら、どのようなものでも論理だ。
我々が生きて、行動する以上、その論理はいつでも検証できる。検証が成立すれば、
真実であり、事実として我々は認識できる。その境地を自分の境地として把握できるか?と
いう問題はまた別次元の話ではあるが、知ることはできる。

実感の伴わない論理というものは、朗読と言う。検証が置き去りにされている
論理は、普遍性に到達しない。つまり私たちの日常生活という今に、応用されず、
たんなる話で終わってしまう。これは言行一致、知行合一がされ得ないから、
自他共に、なにか府に落ちない感覚をともなって認知されるに違いない。

我々は熱望しているのだ。行動し、何故、自分はそのように行動しているのか?を
知ることを。つまり原理、原因を知りたいと熱望している。言葉を変えれば、
何故、自分は生きているのか?を知りたい。

続く

さて、前置きが長くなったが、今日は、原理の話にしたい。一元思考で生きるとは、
原理で生きるということで、原理が分かれば問題が解決できるし、原理が分かれば、
すなわち、問題そのものの消滅となる。つまり、問題・解決のセットが存在しなくなる。
結論を言ってしまえば、「ただ、ただ、当たり前に生きている」という状態だろう。

ある問題があるとしよう。原因はさかのぼれば、良いのではなくて、原因は元から在るわけで、
そこから逆にたどって、結果を見れば良い。その原因を見つける為に、原因にむけて、
消去法で、一つ一つ問題を潰してゆくのだ!という声が聞こえて来そうだが、本当に
そうだろうか?

発想の転換という言葉があるが、真意をえていない。前提の上乗せが正しい。
次元転換の事で、世界の見方が一変するということだ。発想が固定された状態の者に
発想の転換は不可能だ。ある発想をするものは、ある前提を盲目的に信じている。
信じている根拠は無い。無いのだが信じている。これが発想の固定だ。
発想の固定をすると機械的に生きる事ができるが、その弊害もある。
少なくとも、開拓者ではない。冒険家でもない。大いなる感動もない。

続く

合気鍛錬で、無理を感じる場合、その無理が固定されている自分を表している。
力がぶつかっている。自然に極まらない。そこには無理がある。その無理は
どこから来るのか?といえば、我々の前提が間違っている。様々な鍛錬を行うと
様々な無理に出会う。その都度クリアしていくのが進化なのだが、進化とは、
前提がどんどん変化していくということだ。

極意とはすなわち、我々の固定された前提という根本をいじる作業で、
極意に波長を合わす事だ。
最初から、極意の波長に近い者も居るし、離れているものもいる。近い波長が、
必ずしも、極意の波長に一致するのが早いというものではない。
波長を捕らえる事が全てだ。それ以外は極意に到達しえない。

そして極意は到達点といえば、到達点なのだが、極意は一つの目安として、
口伝、文書に記録されている。鍛錬と検証、そして口伝、文書によって
自分の波長との距離を測る事を成立させている。合氣道は幸い、開祖の
波長を感じられる記録が沢山の残されているので、我々にとってまことに
ありがたいことだと思う。

続く

我々は、大抵、盲目的にある前提をこしらえて世界を観ている。固定視点の
事で、自分という立場があるという前提で、世界を観ている。最大の色メガネだ。
だから、観るもの(我々自身)がまず、最初に観るものは、世界ではなく、
色メガネのレンズであり、すなわち、自分というものを観ている。
そして大抵、その色眼鏡自身を自分と錯覚している。

錯覚という言葉を使ったが、社会生活を送る上で、一応錯覚をしなくてはならない。
自分という幻想を我々はこしらえて社会と接しなければ、自分という存在を信じている
者達との共通視点に立てない。つまり、社会という人間関係の場では、同じメガネを
かけることにより秩序が成立している。しかしながら、事実はメガネである。

メガネは全て間違っている。間違っているというのは、我々の事で、外せないメガネ
は世界と我々の壁をこしらえている。もし、そのメガネを外す事ができたなら、
世界と我々との区別はなくなる。すなわち真実の世界・現実が観えるだろう。

続く

世間で言われる現実は、メガネをかけて観た世界観を表している。しかし、現実ではない。
我々はその幻想を、便宜上、「現実」と言っているのであって、現実では決してない。
現実と真実との違いはここにある。現実はでっち上げで、真実は、実は現実である。

真実の一定義を述べよ!と言われるならば、我々自身が死んでも手放せない事象であり、
我々自身死んでも手放す事は不可能な事実だろう。我々が理解できるのは、その範囲で
まずは考えるのが、まずは健全でああろう。

その真実から外れた事全ては、嘘という言葉でかたづける事ができる。
しかし、嘘だから悪いという訳ではなく、それも含めてコミュニケーションの道具として
我々は社会という人間関係で、使用している。

問題は、嘘が真実に化けた時から、問題が複雑化し、真実が見えなくなってくるということだ。
つまり、盲目的な信仰の事だ。これは盲目的な科学主義、盲目的な宗教家同じだ。
現に、今、我々は、真実という言葉すら、危ういし、本物という言葉すら、危うい。
人間が考え得る最高の一元すら、二元化する勢力も存在している。

人間が考え得る最高の概念を上げるならば、「神」「自然」「良心」「愛」等そんな概念だ。
合気もそうだね。調和などもそうだ。それらすら、二元化してしまう勢力も最後の抵抗を
始めているということだ。

続く

例えば、神に対して、悪魔。良心と言えば、人間に良心はないという考えが生まれ、
愛と言えば、それは思いこみだと称し、もっとも高い次元の概念すらけ落とす。
け落とす勢力は、善悪の判断からすれば、悪ではある。しかし、この戦いは、いつでも
終える事ができるし、いつでも始める事ができる。

人間がもつ最高規範に触れるものは、生死でもあり、神と悪魔、天国と地獄でもあるが、
そのどちらを選択しても良いのだが、極め切ると思われる場所がある。
つまり、突き抜けられる場所が絶対的に存在すると気づく。

例えば、生死で言うと、我々は生きている。正確には生きているか死んでいるかは
解らない。しかし、生きているという前提があって、このような話も成立する以上、
我々は絶対的に生きていると決めつけよう。だとするならば、生死の概念は選択の問題となる。

続く

生きることを選択している以上、また、生きている事を認める以上、生きる事は
善であると選択した以上、悪をも生きるという全体の中の一部に取り込む事ができる。
つまり、悪というのは、生きているから善悪が生まれる。生きている事そのものが
善であると決めつけたならば、善悪は無く、善しかないと考えねばならないし、
自ずとそのような思考になる。

善しかないにも関わらず、悪が存在するならば、それは経過だろう。
或いは、生を選択したことを忘れたという事に過ぎず、善がぐらつく事は絶対的にあり得ない。
そして、その「善」の正体は、我々が漠然と抱いている、正しい事的なものではなく、
ただ、そこにある存在的なニュアンスであり、言葉では表現できない。

しかしそれを、我々自身の体験的口調で語るならば、今まで最高な気分、
感覚を味わった瞬間を善と言うこともできるし、セックスの快楽も一つの善だ。
そしてその瞬間に善悪は存在しえないことに気づかれる事だろう。仮にその時点で、
それらを悪と言おうが、善と言おうが構わないだろう。これは善悪の消滅を意味する。

続く

合氣道においても、それ以外の身体運動においても、スポッっと入るツボがある。
ツボに入ると、夢中になって、全てが調和して動いている時がある。そこだけを
追い求めるのが合氣道であるのだが、それは全てに応用が利く。

今まで話して来たことは、合氣道が絶対的な善であるという、大いなる思いこみを
した上で日常に思考をもってくると、どのように一元化された観念が成立しえるか?
ってことを話してきた。

最後に少しだけ、私の思うままに感じた事を書こう。

続く

想念が先行して、みんなで、一瞬一瞬を創っている集団創造が我々が目にする世界の現象だと
私は考えている。一瞬の次の一瞬は、前の記憶はすっかり忘れている世界にはまってしまっている。
あたかも、連続した時間の中で生きていると感じられるが、そうではないような気がする。

我々は原理に従順でなければならない。原理に反抗することはできないし、原理に背を向ける事も
できない。原理と一体化した時に原理を知るだろう。
つまるところ原理が神である。調和、愛、統一、全体である。肉体、心、理性、思考も原理だ。

問題はいつも、それら原理を使う私たちにある。我々は自由に原理を使うし、無意識に原理を
使うと思っている。しかし、絶対的に原理の中にいる。我々がもっとも調和のとれたと感じられる
生き方を送るには、そして全体にとって進化的な生き方を送るには、自分といわれるものは必要と
していないのだろう。

続く

人間は個であり、全体であるという根本原理の理解があってこそ、その考え方が成立する。
すなわち、理解されたとき、その理想社会はそこにある。
やりたいことを、やりたいようにしながら、かつ、自由でいられる。
他人の事なんか考えない。何故ならば、他人が存在しえない。これが理想社会だと思う。
しかし、社会は今までと同じように回っている。理想社会は、全体を巻き込むが、
常に、必ずしも、全ての人を巻き込まないという原則がある。

結局、生命の本質とは願望かもしれない。
肉体に宿った願望と魂の願望とのセットで生命は成立している。
願望という志を受けつぐ器が肉体といえるかもしれない。

一つ一つの問題は、簡潔に語るには、不足であることは承知している。
まずは、大まかに語った後で、部分に入ろうと思い、今日は欲張った内容を
語った。理解しづらいとお思うが、部分は後々消化してゆくので、お許し願いたい。

では失敬。
362名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/13 21:57 ID:kIZwOj12
頭でっかちな合気道だこと(プ
363【人生と死生観-1-】幼児:03/10/13 23:49 ID:cwxRKiqY

今日は合氣道の実技に関しての話から入ろう。
まず、合氣道における実技、すなわち身体操作の鍛錬の結果、体得された
技術の活用を、どのように捕らえるかを語らなければならない。

非常に簡単に言えば、合氣道の武の技術は、混乱を元通りにする事と言える。
私とあなたの壁を取り除く、攻撃に対して、攻撃する想念を除去する。
一見、目には目をという考え方に観えるがそうではない。
相殺、調和、統一などの一元化に本質はあると私は考える。

目を攻撃されて、相手の目を潰したら、相手はゼロではなくなる。
身体的にはマイナスであり、想念には、復讐心や、恨み等の無駄なものを
与える。そしてさらなる攻撃の種をこしらえる事に荷担したことになる。

そうではなく、ゼロにすることを目指し続ける事だ。攻撃されたら、
攻撃しようとする想念を掃除する。その段階を越えて、まだもって
身体を通じて、他者の身体への主張(危害)を加えようとする肉体は、
肉体的な技術を用いて、想念へ働きかけ、ゼロに戻し、収束、掃除する。

続く
364【人生と死生観-2-】幼児 :03/10/13 23:50 ID:cwxRKiqY

では、他者からの攻撃ありきで、合気が生かされるのか?というのは、
私は違うと思う。攻撃と防御との関係、攻撃と攻撃との関係等、そういう関係と
無縁なものが合気だと思う。調和だけを行う。統一だけを行う。
これが合気だと私は考えている。

結果的に調和を実践することは、攻撃に見えたり、防御に見えたりするだけで、
していることは、収束、調和だけだ。時には、あえて火種を創らなくてはならない
場合もあるだろうが、最終の意図が調和であれば、経過は必要であり、やむを得ない。
また、致し方なく行う事になるだろう。

さて、攻撃者の想念が殺意まで発展している状態の者を、収束させる事はどうだろうか。
こちらも、死んでいなくては、対処できない。ほとんどこの次元を今語る事は、
まったくもって現実的ではない。つまり思考レベルで片づく話ではない。

つまり、いかなる攻撃も、それを単なる肉体の攻撃として捕らえるならば、
技術の問題だろう。しかし人間は、機械ではない。殺意をもった次元の攻撃は、
限りなく主観的になり、一般化、普遍化とはほど遠い次元の話だ。肉体どころの
話ではない。

続く
365【人生と死生観-3-】幼児 :03/10/13 23:51 ID:cwxRKiqY

話せる事といえば、そのような者に対処できる者の境地は、自分というものは、
捨てていなければならない。いかなる脅しも、いかなる威勢も、いかなる嘘も
どんな揺さぶりもなにも影響しない。つまり自分が無い。
そして、その時、結果もすでに分かっている。

当たって砕けろという次元では運の問題だ。制する事が確信できるなら制している。
自分の生命を自分自身で計る事は、人間は本能的に備えているものだ。
この状態というのは、まさに、その本能の状態で、自分を捨てきった場に居られるならば、
本能すら観察するだろう。そういう意味で、結果はすでに分かるものだと表現した。

その観察を、最終選択するのが、最後の直観となる。
その選択とは、死を選ぶか、生を選ぶか?だ。しかし、その選択も直観では一瞬だろう。
だから、深い所を話すならば、殺意をもった者を制するという場合、その場面は、
巡り合わせであり、縁であり、そうなるべくして、その場に双方が居合わせている。

続く
366【人生と死生観-4-】幼児:03/10/13 23:53 ID:cwxRKiqY

武の臭いをかもし出す者は、大抵そういう殺意をも、誘い出す。相手が悪いのではなく、
自分にそういう種を持っているということで、ぶつかる者は、どこにでもぶつかる。
類は共を呼ぶ。巡り合わせに偶然は存在しない。

だから本来、殺意をもった次元の攻撃者と出会うということは、運ではない。
自分の問題ということに帰着する。この辺りは、解る人には解るだろうが、
解らない人には解らないだろう。私も説明には自信がない。つまり普遍化して説明
できる代物ではないということだ。ただ、自分の問題であることは確かだ。

このような事象を、運であると思う次元は、肉体的攻撃に備えたり、護身や、
攻撃の質を高めたり、武術的要素が入ってくる。身体操作術を肉体レベルで
解釈するだろう。当然、鍛錬もその次元に熱が入る。自然な事だ。

あらゆる事象を観察するという心身統一を目指す鍛錬というのは、そういう
次元と別の次元で成立している。全ての事象が縁で、自分自身は生死を全うする
という帰着点でしか生きる事を選択しなくなる。
その上で、武術的であったり、護身であったり、肉体操作術に関するする鍛錬を選択する
場合はあるだろう。つまり、生死を委ねるものは、技術ではなないということだ。

続く
367【人生と死生観-5-】幼児:03/10/13 23:55 ID:cwxRKiqY

結局、このような事を話す事、肉体レベルの話をすることは、我々の様々な個々の
経過を語る事となり、焦点のずれた話となってしまう。それを承知で、帰結させるならば、
心身統一、言行一致、知行合一の上で、身体操作を鍛錬してゆく事でしか武道というものを、
調和的視点で全体像を感じる事はできないだろう。

全体像を感じる事はとても重要で、それが解れば、深さと広さを探求・追究する
エネルギーを得た事になる。今の全体像の印象は、経過とともに、是非の次元を
繰り返し行き来するが、最終的には統一に向かう。自分にとっての、合氣道、
自分にとっての武道が見えてくるだろう。

その時、合氣道は、武道の枠を越え、武道も、武道の枠を越えている。
結果的に死生観のシフトが起こって、調和を理解するというのが、鍛錬を通じて、
あるいは、生を通じて学ぶ生死観であり、人生というものだろう。

だから、人は、死を知るというこの一点で、生を選択して生まれてくるといっても、
私はやぶさかでないと思う。その間、色々あるだろうが、それらの全体像が「死」
であるという事実を知る。

続く
368【人生と死生観-6-】幼児:03/10/13 23:55 ID:cwxRKiqY

そういう意味で、余生という想念が我々の中に育って来たならば、喜ぶべき事の
兆候だと私は言いたい。一つの計りとなる。余生をいう感覚を持ち始めたら、
やるべきことをスーっと行うことが容易になるということだ。色々な壁が
その時点でスーっと消えてくるものだ。

それを解らせる為に、病気や、痛みや、苦しみを、生は嫌と言うほど、
我々にこれでもか!これでもか!と追い打ちをかけてくる。
これこそが、存在のささやきだろう。死を解ればいいのだからね。

死を解りかけるまでは、苦しみはどんどんやってくる。
解りかけてくると、感謝するようになる。時々、存在を感じる。

また、他人はの死は、あるいは、他の生命の死は、我々に宿題を残す。
その人の死が美しくなっていない記憶が我々にある場合。我々自身がその人の
死を消化していない事になる。愛着ある者の死というものは、自分の一部を失う
事と同等だ。宿題と称したものは、実は取り込みの事を差す。我々の一部を無くしたが、
我々はその他者の一部を自分に取り込めたとき、他人の死を消化できる。

続く
369【人生と死生観-完-】幼児:03/10/13 23:57 ID:cwxRKiqY

死は実に身近な話だ。過去の同級生の死の知らせ。ペットの死。踏んづけたアリの死。
つまんだ花の死。我々の心に留めた事象の中には全てに死は存在する。
死を沢山知ると、沢山の宿題を消化することになる。言葉を変えるならば、
成長が進んだならば、多くの死を体験するということに尽きる。
結果的に、宿題だらけの生となり、実はここが学校であることに気づくというのが
人生ではないだろうか?。

いったい宿題はどこから出されるのだろう?これこそが、万物の進化の意図だと
私は考える。死が一杯になったと感じるとき、尊いものも同時に広がる。
競争が一杯になったと感じる時き、調和の尊さも同時に広がる。
心を閉ざす者が沢山見えた時、心あるものが良く観える。

死生観の統一というものは、たぶん、分別ある世界の見方を、我々に提示するものだろう。
そして分別できたとき、初めて、人生の事を「人生」と呼べるのだと考える。
死生観が、「生観」であるとき、「死観」であるとき、これは人生ではない。
死と生とセットで、我々は初めて「人生」という言葉を使えるのではなかろうか。

では失敬。
370もくじ-5:03/10/14 00:16 ID:dj9UFLri
───────────────────────────────────────────────────
006 :【はじめに】               │ 192 :【合氣道…秩序・自信・意識】
014 :【合気道感のバックボーン】        │ 205 :【パンドラの箱を空けてみよう】
022 :【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】  │ 214 :【コラム…天真爛漫】
030 :【強さとは】               │ 224 :【コラム・その2…無意味な話】
041 :【強さ=称え合う】            │ 235 :【人間の力の無限性を証明?】
051 :【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】  │ 253 :【運動神経と心身統一の関係】
057 :【合気道は論理術(思考術)?】      │ 261 :【真善美】
071 :【生死は論理ではない】          │ 265 :【体は大切だね】
082 :【宗教的】                │ 278 :【心の話】
091 :【一に還元=合気】            │ 288 :【死と生と神と弟子】
098 :【人間理解】               │ 303 :【私が不在であって事実が観える】
106 :【壁・自分の幻想を知る手段としての「気」】│ 311 :【我々の本性は魂である必要がある理由】
120 :【奇想天外】               │ 325 :【想念の根元は愛、呼吸力の根元も愛】
129 :【記憶は過去・今は無意識直視】      │ 334 :【意識の視点】
141 :【合氣道の日本語文字技】         │ 341 :【ちゃんと合氣道の話を少し】
151 :【武産合気は観察意識】          │ 350 :【原則に善悪は存在しえない】
164 :【観察意識を掘り下げる】         │ 363 :【人生と死生観】
176 :【幻想の世界に住む私】          │
184 :【自信とは幻想である】          │
───────────────────────────────────────────────────
371所感:03/10/14 01:15 ID:dj9UFLri
とりあえず、「武産合気」探求マジスレ!を立ててから、
36コラム来たわけだ。素朴な実感として、私は何故こうしているのか解らない。
書きたいからとか、日記代わりとか、ああだこおだとかは言える。しかし、
本当の理由が、実は、当の本人が理解していない。

私は執筆者であるが、読者でもある。こうして目次をこしらえて、他者の視点で、
この目次をみても、何故、幼児がこのような事を書くのか?という本質が理解出来かねる。
日々の問題提起のより所も、明確に答えられない。ただこれだけは言える。
何かの訓練だと思う。漠然と訓練と言うが、夢での啓示がそのままここにある。こんな
不合理な事は言えるのだが、自分自身の合理的な事は何一ついえない。

書いた事が、現実に起こり、起こった事がここにある。
不思議な現象だが、そんなもんなんだろう。この世というものは。
私の想像など、創造は越えているのだろう。
ただ、これだけは言える。大いなる秩序は絶対に存在する。
我々は、原理、原則を理解する情熱を失ってはならない。

今は解らなくても、解る時は来る。我々は、インスタントな結論は聞き飽きている。
解っただの、解らないだのの競争も必要ない。我々はここに居るわけで、上下左右どこにも居ない。
我々自身が我々自身にとって、切迫した諸問題の消滅こそ真実であると信ずる。

我々には、誘惑が多い。騒音、時間、雰囲気、義務、イデオロギー、自分、こういうものが、
二人の愛を引き裂き、人と正面で向き合う時を裂き、自分と正面で向き合う時間を裂く。
こんな事を書くと、私は区別の消滅の言論活動をしているのかな?と思ったりもするが、
的を得ていない。いまだ、私は、私を占拠できていないということだ。
さらに、あまりにも天候に左右されている。理解不能となってしまった。

では失敬。

おそらく我々の大半は、こう考えているだろう。
生きていない。突っ走っていない。はち切れていない。開放されていない。
自由ではない。これらをメディアは一括りな表現で、流行させている。
「閉塞感」ってやつだ。

合氣道は、開放と集中とでえられた感覚をより所とし続ける鍛錬体系で、
合氣道がそうではなく、自然秩序がそのようになっているわけだ。
自然秩序と合氣道がイコールならば、当然そのようになる。
そして、上に上げた、「閉塞感」という最大公約数的表現は、
この境地から、離れれば離れる程、つのる一種の、得体の知れない感情だろう。

我々は、この閉塞感を本能的に嫌う。嫌うが故に、スッポリとはまってしまっている。
この感覚は、他人には誤魔化せても、自分には誤魔化せない。つまり、この閉塞感を
認めない限り、そこか抜ける事も、それ以上に絶望することもできない。

人間の変化は、超越と、絶望によって起こる。超越というのは、気づいてしまった
場合、その前の状態には戻れない。絶望してしまったが、同じ事を繰り返せない。
結果的に新たな道が、目前に広がる。

続く

超越と、絶望までいかない状況とは、今の自分を認めなということであり、
固定してしまって、そこから一歩も動けない状況になっている。
だから、我々を進化させるエネルギーを抑える行為は、自己完結、自己納得、とにかく
自己がつくものは、なんでも進化には不適当な概念となっている。

完結と、自己完結は違う。自己満足と満足も違う。自己主張と主張は違う。
自己がつくことは、大抵誤魔化しが入っていると思って間違いない。
本人も気づかない誤魔化しに目を向ける事ができない境地がそこにある。
それが、自己と、自己が無い純粋なわき出るものとの壁をつくっている。

ここは武道板で、我々は強さに敏感だ。強さとは何かというと、
そんなものは解らないのだ。他者評価に過ぎない。つまり、強さという二元論の
片方を求めることは、弱さを嫌う精神を強さと同じだけ、我々の中に植え付ける事になる。

強さを追い求めた先にあるものは、最高の強さだが、同時に最高の弱い自分に出会う。
人は二元論の片方を選んで、選択することができるのだと信じやすいが、それは違う。
丸くならないといけない。そのために自我というものがある。その強さ、弱さを
同時に体験してしまう自我。ここから逃げる事はできない。

続く

武道を志すものは、大抵、我が強い。一癖あるということだ。私も例外ではない。
諸君も間違いなくそうだろう。仮に、私のこの諸君への決めつけの発言に、反感を
覚えたなら、それは間違いなく「我」だろう。我の強さが反発を呼ぶわけだ。
反発は進化の意図であり、正しく用いれば、よい情熱になる。

我の強い素養というのは、生命力の強い素養をもっているということだ。
それが、世間でいう主張の強さに特化されれば、自信家に見られるし、どこまでも謙虚をつらぬく
我の強さにでれば、気弱とでるかもしれない。いずれにしても、気の一つ、情熱が強いわけだ。
つまり熱いということで、熱い事、それ自身は尊い。

しかし、その魂は自我の扱い、に不慣れの場合、他人や、事象との間に摩擦を生む。
なにか事をすると、邪魔が入る。また何かすると誰かに文句を言われる。とにかく回りが
うるさいという印象を持つ。自我とは社会との接点だ。

でも、ちょっと待って欲しい、何故そんなに不器用なのか?何故思い通りにしようとするのか?
何故思い通りにやって、バチがあたって、しぼんで、小さくまとまって生きなければならないのか?
そのようなものが出す結論は、大抵、制圧だ。自分を出すと、摩擦が起きる。だから我慢する。
社会とうまくやるには、我慢するしかない。と、このように不器用な結論を出す。

続く

そして、人間は、人格という、人間社会特有の人工物のような思想を創った。
社会と人格はセットで存在する。人格というのは発明だ。これ自体が幻想である。
本来は社会との接点は人格ではなく、自我だ。つまり「我」であり、簡単に言えば、本心だ。

でっち上げた、多数の人格という道具の使用に長ける者。これが多くの大人と言われる人たちの正体だ。
彼らの友は、常に制圧だ。つまり簡単に言えば、我慢だ。彼らの怒りは大抵、我慢しない者
を見ると、腹が立っている。何故だ?

魂が自我を制圧するするように反応する。そして人格を形成する。何故ならば、本来魂主体で、
魂→自我を通じて社会を体験するのだが、魂→自我→「人格」とむりに「人格」を創って無理に
社会と調和しているのだから、自分が社会か、自分が自分なのか区別できなくなっている状態にある。
魂は、単純に、観察するだけだ。ちゅうぶらりんになった自我を拒むのは「人格」であり、
人格は自我を制圧できる。人格を持ったとたんに人間性を失う。つまり自我を失う。

魂→自我→人格の順の、自我を制圧したら、
人格と魂との間に空白ができてしまう。自分の一部を自分で殺す事は、自殺に等しい。
その偏った人間が外界を見ると、偏った外界空間が広がって観える。しかし、当事者は、
その世界が当たり前の世界となる。「人格」に疑問はない。「人格」はいつも完璧、そして、
正しい事をしようとする。これが人格の宿命だ。

続く

自分が我慢しているのに、ヤツは我慢しない。そして、我慢しない者と我慢するものとで、
二元化し、宗教戦争が、常に起こっているというわけだ。これが我々の日常のごくありふれた
風景の一部だ。ここ2chでも、当然それが起こっている。

我慢するもと、我慢しないものが存在しているが、何を我慢するのか?が問題だ。
心、思い、意思、気、感情、つまり人間野生の一部である自我を制圧することを我慢という。
このようなもの以外に我慢するものがあるかな?

そして自我の活動を、単に観察しているのが魂だが、魂の属性は完全調和の状態にある。
自然と調和している状態だ。だから、我々は普遍的な是非の判断が存在しえる。
結果的に、鬱になったり病気になったりストレスを貯める。どこに貯めるのか?というと
自我にだ。自我は、この世の接点で、肉体とセットのものだ。自我は殺せても(殺しきれないが)
肉体は反応する。

続く

本来は自我そのものを、外界と調和させなければならない。つまり簡単に言えば、心や考え方が
間違っているのなら、その本体を外界と調和させなければならない。そうすることで、
自由でありながら、制圧は必要ないという地点に来ることができる。そのために生きている。
外界適応の学習だ。そしてその成果を、子孫にバトンタッチする。

決して、人格をこしらえて、外界に向けて誤魔化しを演じることは、許されない。
私が許すとか許さないとか言うのではなく、私の考えでもない。自然秩序は、そのようには
なっていない。ただそれだけの事だ。克服という言葉は外界に向けて発するものではない。
これがたまたま通用しているのは、完全な人工的環境内での話だ。しかし人工的環境に完全は
ありえない。

外界は、自分の一部だ。外界の環境も自分の一部だ。しかし、外界は、他者とも共有している。
つまり、諸君の誰か一人が、世界は○○だ!と宣言したとしよう。この発言は、
私は、○○だ。ということを宣言している。この者は、外界は自分とは別の存在であると
完全に信じているため、他人事のように外界を扱っている。しかし、我々は大抵はこれだ。

続く

外界に向けて、ある対象を批判したり、バカにしたり、笑い者にしたりしている者は、
自分の事をそのように見ている。つまりその者の魂は、自我というものを、バカにしていると観察する。
成長の意図をバカにすることは、成長という自然秩序に背を向ける事だ。
自然は、その者に、同じだけ劣等意識を植え付けるという図式となってしまう。
我々は、そのような者に、同情心を抱くが、自ら成長に向かわなければ、何一つできることは無い。

優越意識の持ち主が、劣等意識の持ち主に、同情心から救いの手をさしのべるが、
その二元論間でのバランスで、超越も、絶望も劣等意識のあるものに、印象づける事はできない。
なぜならば、同類だからだ。救おうという心が、おごりの心だ。

あるのは、理解だけだろう。双方のやりのりのなかで、双方が秩序を探求し続ける。
自我で言えば、生きる意味を探求し続ける。結論を導き出すのではなく、思い出す。振り返る。
結果的に帰着点が顕れる。それが現時点での双方の最適知であり、知らされる答だろう。

私は思う、自我、本音という主人公を、とりあえず外界に触れさせようではないか。
痛みも、苦痛も、喜びも、全部含めて感動が沢山ある。人格は道具である。道具は
絶対的に自分を占拠できない。感動は、いまからでもできる。人格をガリガリと
殺してゆけばよい。つまり、露天風呂は、裸で入ってこそ気持ちがよいということだ。

では失敬。
ちょっと追加する。

自我の強さとは、個性の強さを差し、生命力の強さを差す。ある意味人間は、種(願望)
の乗り物だ。新種は色々なタイプがあるが、今の時代で言えば、人格を飛び越える程の生命力が
あるならば、すなわち社会という壁を飛び出せるならば、どのみち生命力が強い。
そういう者で新しい社会を創ってゆくのだろう。

今のような閉塞感を多くの人間がもつと、生命存続の視点に立つならば、
新種の種をまいている事になる。仏教的に言えば、先進国全体のカルマの形成だ。
社会の影響、すなわち人格形成なぞ創らないタイプの新種が沢山生まれてくるのは理にかなっている。
人格が重宝する時代ならば、人格を持ちやすい新種が沢山生まれるだろうが、これからは違うだろう。
天真爛漫な新種像が私の目に浮かぶ。

引きこもり、鬱、ストレス、このような現象の反動が次ぎの世代の新種を生む。
つまり素直な自分を表現してゆく者、そしてそうできるような資質をもった新種が沢山生まれ
新しい社会を創ってゆくだろう。

参考までに、人格に関する映画を紹介する。「リプリー」
人格というものの表裏を良く見せてくれる映画だと思う。
http://www1m.mesh.ne.jp/cinema/roadshow/square02.html

ではお休みなさい。

今日は少し軽い話をしよう。思いつくままに言葉の話としよう。
本来武道のみならず、求道というものに、俗世間の言葉は、似合わない。
似合わないというより、世間の平均的概念でもって、説明できることは、
すでにだれでも実感できている事に基づいて言葉と概念が成立している。

その言葉をもって、進化の先の話をしても、説明ができない。
超人が話す言葉を俗世間は理解できない。理解できないが、聞く者の範囲で
理解する。それをもってして、超人を知ったと感じるのも、俗世間の思考習慣だ。
結果的に超人と俗世間は、見えないバリヤで守られている。

俗世間の思考習慣は、言葉にできるものは、なんでも解ってしまうらしい。
こんな例は山ほどある。武道といえば、格闘技だの、関節技だの、技術だの、
実に様々な解釈が存在している。しかし、我々は大抵、武道という社会通念は、
漠然と理解している。一般論は上に上げたような事だろう。少々知識を語る者
なら、武道という言葉の発祥の歴史を語るだろう。これは学者のすることだ。

続く

武道一つとっても、言語説明は不可能だ。あらゆる道、あらゆる物は、
言葉では説明不能だ。女を知るには、女に成るしかない。
武道を知るには、武道をするしかない。
宗教を知るには、宗教に触れるしかない。ながめて理解できるものはど、
何一つない。

もちろん理解そのものも、限りがない。さらに限りがあるものもなにもない。
有限と思うのは、時間とともに無に帰すという感覚を我々が持っているからだ。
時間も限りがないし、瞬間も限りがない。大きさも限りがない。

結果的に、我々がいつでも、自分の呪縛をふりほどく方法は、無限か無を
想起することに尽きる。これはあらゆる制限を無くする方法で、別に
珍しい事ではなく、平常心、心身統一、祈り、無念無想そういったものを別の概念で
説明しただけだ。我々はそのような言葉を、どのように感じ、そのような口伝を、
自分の中で統一してゆくことで、感覚的知覚に到達できる。

続く

感覚的知覚は、思い出す作業で、このような感覚だな、と色々な概念を検証してゆき、
ある意識の、中心箇所を、みずからで、感覚的に知覚する。その知覚を、自分の
意識のより所にして、また新たな中心箇所に向かう。これが意識の成長の一概念だ。
知識・知彗・英知・良知、こういったものをすべて平均化して捕らえるのも俗世間の
思考習慣だ。

別に意識の話をしているのではなく、全ての成長のメカニズムだろう。
だから気づきは、中心箇所の把握・検証ともいえる。合氣道で言えば、ある一つの
感覚知覚を得たならば、そこから枝分かれする事象を理解したことになり、鍛錬の
ツボを理解する。それが解れば、鍛錬は合理的になり無駄が一切なくなる。
無駄自身も無駄でないことを理解しているから。一切という表現になる。

その段階の一つの中心箇所を理解すれば、別に相対稽古でなくてもよい。
一人稽古でできるものもあるし、合氣道をせずとも、合氣道の鍛錬が成り立つ。
例えば、自転車に乗ることで、合氣道の鍛錬が成り立つし、また逆のケースもしかりだ。
日常生活でも同じ事だ。つまり実践と鍛錬は同時に起こっている。

続く

だから、私は文武両道はもちろんだが、鍛錬形態となる柱は、二つ以上もつことは
良いことだと感じている。もちろん柱は、持っておく必要がある。必要があるといっても、
その必要を目的主義で自分でコントロールできるとは思えないことは言うまでもない。
入り口が合氣道で、結果は今の鍛錬形態であったという事もあり得る。それ以上の
ものが自分にあったならばね。

法律というものがなければ、バンバンザイで、いろんな事をやるんだが、
こればかりは制限がある。正確に言うなら、私は法律には一応執着しているということだ。
本来は法律なぞ、どうでもよいのだが、私は守る事を選択している。邪魔だけどね。
欲が逆転しなくては、なくならないものだろう。

つまり我々自身が、自分以外を喜ばす事を欲とする欲にならないうちは、
法律で縛るしかないということだ。制限一概に悪いとは言えない。
制限される事により、超越が存在できる。あらゆる制限があるから、希望や、夢や、超越
を生むことができる。完全自由ほど楽しくないものはない。完全自由とは、
自由という言葉すらない自由であり、創造も付かない。やはりこの次元には秩序は
ある。だからその秩序の顕れが、我々の外界、内界にも同時に存在しえるのだろう。

今日は、手短に失敬。
384日本海:03/10/15 23:17 ID:QvEXbfby
いつも長文お疲れ様です。

で、率直に貴方の合気道全般に関する程度を教えてください。
385>>384 幼児:03/10/16 01:38 ID:7okD8zL+
>>384
日本海さん。

何が聞きたいのでしょうか?。
特定の範囲の段位の事でしょうか。もしそうなら白帯とでも5段とでも
なんでもお呼びくだされば結構です。なんの価値もありません。合氣道経験
年数もしかりです。知りたい事には答えますが、単なる現象の事なら、
お答へしたところで、事実と違う想像をこしらえるだけですから、ひかえたいと思います。

合氣道の程度は、これまでの私の言論からご判断下さい。もし正確にお知りに
なりたいならば、お会いするのが一番です。普通に生活して、普通に合氣道をし、
家族もおります。

特定の所属道場のスタイルならばお答へできます。合気会の固いスタイルです。
他スタイルも少し経験していますが、私の合氣道は私の経てきた合氣道から
ものを言っています。他人の合氣道は知りません。

合氣道の身体操作のレベルの事を、お知りになりたいのなら、大したことはありません。
ただ、合氣道歴だけで身体操作レベルを知る事もできないし、誠実な答えはできないでしょう。

私の言論と合氣道全般に対する程度を結びつけたいとお考えだろうとお察ししますが、
もし、ご質問がそういう意図であれば、私の言論への、具体的ご質問をお勧めします。

それ以外は、様々な理由から勘弁してください。なぜならば、誠実な答ができる自信が
ありません。同時に、私にとって、合氣道は人間成長の求道であり、同じ道を歩むような
人しかこのスレには来ないでしょう。それ以外にあまり関わりたくないというのが本音です。
関わりたくないというのは、2ch上の棲み分けの事です。

毎度の事がら、理解していただくには、文が長くなってしまいます。
ではお休みなさい。
386日本海:03/10/16 15:47 ID:OmD++NRY
うむ。
固いスタイルってどんなのですか?ギチギチに間接を締め付けたりするタイプでつか?
387>>386 幼児 :03/10/17 01:08 ID:knrsYzPN
固いというのは、鍛錬・修練形態の同業界の評判の事といってもいいでしょう。
そのように表現されているようです。様々な合氣道がありますが、
私がしているのは、世間ではそのように見られているようです。

だから、「固いスタイル」というのは、世間の言葉を、そのまま使わせていただきました。
私は、固いとか柔らかいとか、あんまり興味がないです。自分に合うか、合わないか
それだけです。道場名は、このような場所では控えさせて頂きます。

>ギチギチに間接を締め付けたりするタイプでつか?
そりゃ痛そうですね。そういうのも個人的には好きですが、
どの道場でも、無理なく行っている事でしょう。無理なくってのも
語り出すと、きりがないです。

受けが踏ん張り、かつ捕りも踏ん張りに対抗した技はどのようにしてもギチギチに
掛かるし、締め付けも、受けとの関係で成立する。
相手と自分との関係で、そのような無理は意識的に調整できうるものでしょう。
鍛錬は、両者との了解の範囲で、圧力を調整して鍛錬すると私は考えます。
このような事は、特定のスタイル、特定の武道鍛錬に限った事ではないと思います。
388【コラム・切ない気持ち-1-】幼児:03/10/19 00:52 ID:fy0GEiqq

私の友人に金魚を趣味とする者が居る。自転車を趣味とする者が居る。釣りを趣味とする者もいる。
昆虫趣味も居る。サーフィン趣味、絵の趣味、音楽趣味、仕事趣味、まあ、趣味をもっている者を
選んで交流しているわけでも無く、そうなってるんだが、結果的に趣味をもつ者と交流を計る。

趣味を持つ者は、経験談がある。それを聞くことに楽しさを覚えるしエキサイティングだ。
体験談は検証だ。経験した結果それが他人にも当てはまる現象であれば、普遍的な技術を
学ぶチャンスでもあるし、同時に、その話は非常に興味を引く。誰にでも当てはまる普遍的な
事であればあるほど、狭い枠の経験談であっても、全てに応用が利く。

今日は、感情の話を思うま書いてみたい。それと経験というものの正体、そして勉強、そして理解。
こういう事象の相関関係を探ってみたい。これは、人を理解する、物事を理解する、趣味の技術を
理解する、武術を学ぶ、そういうもの全てに当てはまる事だと考えるからだ。

単刀直入に言えば、我々は、好き嫌いがある。快、不快がある。無理、調和がある。
悲しみ、楽しみ、痛い、病気、死、老い、青春がある。沢山の概念がある。
あらゆる、概念はどこから来るのか?また、概念、事象は、どこからくるのか?
受け入れる、弾く、反発は何に反発するのか?というまさに、あらゆるものが生まれる
原因はどこか?という問いだ。

続く
389【コラム・切ない気持ち-1-】幼児 :03/10/19 00:52 ID:fy0GEiqq


楽しみとは、特定個人の人間の初期状態からの概念だ。
苦しみもそう、快、不快も、老い、死も初期状態から見ると、そういう言葉が成立している。
悲しみ、苦しみも、ある基準がある。その基準は他者と共有していない個人の物だ。

問題は、その特定個人の基準とは何か?ということだ。実に曖昧だ。
同じ現象に遭遇したとしよう。一方は不快を感じ、一方は、快楽を感じる。
だから二元論は、普遍的事実では決してありえない。
つまり正しい事、間違いというものは事実ではない。

事実は、自然界の秩序であり、自然界のシステムが事実だ。事実を観るというのは、
自然界の秩序を観るということであり、真実とは秩序の事で、秩序は普遍化できよう。

だから苦しみ、悲しみあらゆる不快を表現する言葉。これらは、我々が好むと好まざると、
自然界に存在する、死も、老いも同じ事だ。強さ、弱さも存在している。すべて、我々個人の
中に存在している。存在しているものを拒む事は、無理が生ずる。

その無理は、不快という感情をもって、我々に伝えられる。不快というのは、何かを拒んでいる。
悲しみを拒む、弱さを拒む、死を拒む、自由を拒む、そう、快楽を拒む、開放を拒む。さまざまに
我々は求めると同時に拒んでいる。拒む事はそもそも無理を生ずる。

続く
390【コラム・切ない気持ち-3-】幼児 :03/10/19 00:53 ID:fy0GEiqq

まだある。失敗を拒む。痛みを拒む。平等を拒む。戦争を拒む。我々は拒んだ瞬間に、苦しむ。
つまり拒むから苦しむ、そして、その対策として技術を用いたり、思想を構築したり、
様々な人工的防御、人工的武器をこしらえてきた。何から守る為か?
自分からだ。つまり人間の中にある自然から守る為に。
真実から自分を守る為に、そして自然の秩序から自分を守る為に、そのようにして、
二元化して、真実は隠され、自然秩序から離れ、共感を失った。

今や、共感、絆、繋がり、人情、つまり自然界の秩序である、すべての連鎖。
そして人間同士の繋がりを理解する者が少数になってしまっている。
ビジネスの場では、特にそうだが、必ずしも方向はその極へは向かっていないとは思われる。

経験は、自然秩序の体得ではなく、自己防衛法に置き換えられ、
勉強は、自然秩序の秩序だった理解ではなく、人工的防御方法の学習となり、
理解は、自然界の気づきから、人間界でのルールへの自己洗脳化の完璧度を差す。

いずれほころぶ事が解っていながら、また自覚もありながら、そのようなものを我々は
目指し、良しとしている。もっともだろう。ニンゲン界で自信がある者、あるいは成功者と見られる人間は、
個の強さという錯覚に基づき評価されるという思考習慣の中で、大多数は生きているからだ。
今や偉い人とは、そのような人を差すようだ。

続く
391【コラム・切ない気持ち-4-】幼児 :03/10/19 00:53 ID:fy0GEiqq

自然秩序を知り、その上で、個の行動が成立しているというのは、選択の問題だ。
その行動は、秩序を置き去りにしていないから、無理がない。争いは起きない。
そのときの争いは、起こしている事であり、意識して起こしているのは、
秩序を置き去りにしていないことで、必要悪ということだ。

現象としては同じでも、中身は全然違うという事もあり得る。
ここで、人間界の中で壁ができている。真実を守る壁は存在してしまう。
壁の向こうに居る人と壁が見えない人。やってる事は同じでも中身が違う。

非常に器用な人も中には居て、振る舞い方がうまい人も存在する。
一見壁の向こうに居ると感じられる人も居る。最終的に自然界は、繋がりと共感、すなわち愛の属性で
簡単に判断することができる。簡単というのは、時間の問題ということだ。

言論、行動、全てに言える事だが、そこに愛を感じることができたなら、
それは、真実だろう。愛がなかったなら真実ではない。
良い言論にも、愛なき良い言論は全体ではなく、個の存続を中心と置いている。
悪い言論にも、愛があれば、それは、全体をしっかり意識している。個はそこにない。

だから言論、行動、事象に、良い悪いはなく、愛があるか?個の利益か?で真実を
計る事はとても大切だと考える。私は、その一点で、人を理解しても差し支え無いとさえ
思う。

続く

何故ならば、愛が無いと解った時点で、我々は、その人の全てが嘘であると直観で感じる。
愛が在れば、決定的に社会的に悪いとされても、しかたなかった。と思えて同情する。
問題は、そのように思う我々に、人との繋がりを感じられるならば、という前提ではある。

損得で、あるいは、個の存続のみが目的であるという場合、人に愛は求めないということだ。
自分が得をするならつきあい、損するなら、つき合わない。こんなつきあいとなる。
そこに、人情、愛情、絆、繋がり、仁義、こういうものはあり得ない。

愛と漠然と考えて頂いて良いと思う。愛は一で、一を定義はできない。
それぞれの、愛で考えて頂いて良いと思う。何故ならば、言葉で、伝える事はできない。
愛を知るための人生というのもある。だから個の存続を主張する人を排除することは、
できえない。矛盾しているようだが、こんな話が、もののあわれ、あるいは、切ない気持ち
孤独、つらくやるせない。こんな気持ち、無力感、こんな感情に顕れる。

私は思う。芸術は、その部分への共感だと思う。そこを美しく思えてくると
人生とは味わい深いものになっていくのだ。武道は、また大和魂、武士道の境地も
そんな共感から、気高いものとして、大切に残ってきたのだろうと思う。

では失敬。

原因と結果、原因があるから結果がある。
問題は自分は何処にいるか?ってことだと考える。
原因なのか?結果なのか?原因を創りながら、結果を享受しているのか?。

原因は結果を知っている。結果は原因を知らない。だから結果は
原因が知りたい。何故自分が存在するのかが解らないからだ。
原因から生まれたのが結果であると、結果は気づいた時から、
結果は原因を求めるようになる。そして事象には原因があるという
点で、それをたどって自分自身を知る作業をする。

問題は、結果は原因の後手に回って居なければならないのか?
結果で生きるということは、いつも事は突然起こる。
しかも、自分自身を理解できない。もし結果に心があるならば、
心のより所、つまり心の中心を設定できずに、右往左往する。

しかし原因という一代発見を期に、結果は、自分は、原因に
支配されているということを知り、自分は結果であるが、
同時に結果でもあると知る。

続く

次の問題は、何故そのようになるのか?という問いだ。
原因自身になってみると解る。結果には過去という原因があり、
同時に未来の原因を創っている。原因は何処に存在するかというと
今であり、今の選択によって全てが始まっている事に気づく。

そして原因自身になること、すなわち、今の選択に生きるという視点に
立ったとき、未来はコントロール可能か?あらかじめ決まっているのか?
という問いだが、それが創造に支配されているということだ。
そして創造した以上の結果にはならない。せいぜい快、不快レベルでの
出来事が起こるに過ぎない。これが、創造の許容レベルだ。

つまり、運命という創造、未知という創造、輝かしい未来という創造、
暗い破滅的創造等、ありとあらゆる創造に支配されている領域だ。
そこに自由が存在している。あらゆる自由が存在する。
創造というあらゆる自由。だが創造の範囲は創造者自身を超えて存在しえない。

続く

だから今の想念が、未来を創っている。これは個人においても、
人間界においても、地球全体においても、宇宙においても同じだろう。
嫌なムードになっている時は嫌なムードを同時にこしらえる。

物質的にも観念的にもだ。そしてある極点に行くと、また気が晴れたように、
美しいムードになっている。同時に美しいムードを呼び寄せていく。
これも全てにおいて共通している。

すなわち、全ては願望に支配されているということで、願望というのは、
破滅方向と進化方向の両方を言う。決して進化方向のみが願望ではない。
だから我々自身の生でいえば、行動が結果を創るのではなく、思考の選択が
創るのでもない、思考前の願望、本能、直観に近いもの、つまり一般にはコントロールの
難しいレベルの意識(魂)が支配している。

これは何を意味するかというと、もし誰がという人間界に限定するならば、
意識レベルが非常に深い者の想念が人間界を支配しているということになる。

続く

科学界には科学界の意識レベルの深い者、ニュートン、アインシュタイン…。
宗教界では、ブッダ、キリスト…。芸術界でも、スポーツ界でも武道界でも…。
それらの人間は共通している。意識のレベルが限りなく源に近い。あるいは高い。

我々は、彼らに支配されている。霊界交信のを目指して創られ、結果として
電信電話、電気として利用している我々。我々はどこから来てどこに行くのか考えた
数々の先祖。結果として発展した学問、宗教。超人を目指し、神との合一を目指した
武道家、ヨギ、魔術師。

彼らは知っていた。知しり続けようとした。未来を創った主達で、我々は
彼らの未来を今生きている。彼らが絶対ではない。彼らの目指したものが
絶対とすれば、絶対ということができる。つまりこれこそ創造の事だ。

創造はコントロールではない。創造は思い通りになるものでもない。
創造は、そのレベルで語るならば、役割、巡り合わせだ。努力など
で語る所ではない。エジソンの言葉で、我々にはこのように伝えられている。

続く

「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力の賜である」
があるが、天才とは何だ?ということだ。

天才はエジソン自身の事ではない。創造の事だ。そしてこの意図する発信対象は、
大人だということだ。つまり大人に向けて、創造を語っている。
「世界は直観からくる創造により、全てが支配されている」
創造自身に目を向ける事により、始まりを理解できる。
つまり自分自身を理解することができる。同時に自然界を知る事ができる。

この言葉は、エジソンは晩年はこういった形而上的な世界を探求し、様々な実験を行っていた
時代に語られた言葉である。エジソンだけではなく、彼らは探求者であったということで、
選択の問題について。つまり私という私自身について。そしてそこからあちらと
こちらの結びを行う為に、これが一であり、源であり、自然界の全てだというものに
触れる為に、そしてそれを創造に取り込み、この世界を一にするために。

続く

さて、合氣道はそのような視点で見るならば、合氣道を通じて、創造を会得する
ということになる。原因と結果を生む選択、すなわち創造を知る、つまり自分を
知る体系である。創造を知るには現場に入らないといけない。これが生だと意味
づけてもやぶさかではない。

創造の世界に入ったら、様々な創造があることを知る事もできない。
もし創造があるならば、創造でないものから段階をおって、創造に向かわなければ、
創造を理解できない。理解したならば、新しい創造を生むことができる。
創造の視点に立てば、このようになることは理にかなう。

もちろん、我々が創造できる範囲は完全に超えているのはいうまでもないが…。

では失敬。
399【毎度の予告】幼児 :03/10/19 22:26 ID:fy0GEiqq
次回は合氣道は使えるか?また合氣道は生かせるか?生かせない理由があるならば、
それは何故か?そして、生かせないならば、合氣道は嘘か?合氣道が極意ならば、
それを生かせない我々は一体なんなのか?つまり実技と実技を拒むものの正体を
追究してみたい。

これは、様々な事象を知った、理解した、解った。そういったレベルを自分と
離れたものとして置くというものではなく、如何に今使えるか?という問題でもある。
つまり全てにおいて切実な問題だと考える。つまり実践の話だ。
400【合氣道は使えるか?-1-】幼児:03/10/20 22:32 ID:kvQ1i3AS

合氣道は使えるか?という問いは、合氣道に触れ始めの者から、初段クラスでも
何段だろうが、同じような問いは発生している。何故ならば、稽古量や、段位とは
無縁なものだからだ。使っている者は問わない事だ。

実践とは、行為であり、人間活動全体を差す。つまり我々の今に生かせているならば、
実践しているということになる。今、使えないものであれば、実践レベルではないと
いうことになる。

言論にも、会社にでも、身内との関係の中にも、金の使い方にも、思考にも、
趣味にも、すべてに合気が生かされている実感を伴いながら、生き、また
合気と共に自分が存在している状態と言えるだろう。合気バカって所だね。

また、今使えると思えるならば、あるいは、今に生かせている実感があれば在るほど、
合氣道と共に自分が存在していることに気づく。つまり心の古里、心のより所、心の
中心を占めるものであるということだ。

心が肉体を操作する。肉体を通じて、心に刻む体系が鍛錬・稽古・練習の原則だからだ。
体に刻む事を自覚すると、心に刻んでいるという表現になる。

続く
401【合氣道は使えるか?-2-】幼児:03/10/20 22:32 ID:kvQ1i3AS

この心に刻む、体で覚える、無意識に取り込む等の表現に表されるレベル、つまり
深ければ深いほど良いのだが、そこに、合氣道を取り込む、あるいは刷り込むと
いっても良いが、そのようにしないと今という瞬間の精妙な時の中で、合気が生かせない。

つまり、合気に変わって、我々の人生の歴史が築いてきた、条件付けや、偏見、条件反射が
顔をだし、とてもじゃないが、合気にならない。これは合氣道歴の問題ではない。選択の
問題で、使うか使わないか?あるいは、合氣道という道と共に人生を共にする覚悟の問題
になる。

例えば、全く無垢の心で合氣道に触れたなら、合氣道しか知らず、合氣道からモノを見る
人間に育つだろう。我々がやろうとしているのは、まさにそれで、合氣道を選んだなら、
完全にその世界に入る事にせねばならない。仮に部分だとしても、その部分を取り込む時は、
それに関連する経験をゼロにする覚悟で鍛錬しなくては、合気をものにできない事は理解できる。

別の例として、空手という経験の上乗せで、合気を理解できることはあり得ない。合気を鍛錬するときは、
合気に入らないと、本当の理解にならない。その結果、個人の中で空手と合気が全体である自分の
中で統合され、また新たな次元に展開する。逆もしかり。理解の仕方としては、空手の視点で、
というレベルを超えないと、合気の視点をモノにすることは出来ない。これも逆もしかり。

続く
402【合氣道は使えるか?-完-】幼児:03/10/20 22:34 ID:kvQ1i3AS

問題は、合氣道が生全体への汎用性があるかどうかという問題だが、これについては、
個人個人違うと思う。技術を取り込むのみという人も居れば、思想のみを取り込むという
人もいれば、生全体に取り込むという人も居る。

もちろん実践という視点で考えるならば、生全体に取り込む事が、もっとも実践的であることは
言うまでもない。また、開祖もそれを勧めている。部分的な取り込みで理解できるほどの次元に
合氣道が存在しているとは、私には思えない。生全体を取り込みうる体系であるならば、
宗教と呼んでもやぶさかではない。

これは私の考え方なのだが、私は一生かかって、一つの体系をものにするのが限界だろうと
考えている。モノにするというのは、死を終着点に置く。決してモノにするというのは、
終着点はないのだが、死の先は鍛錬不可能なので、合氣道に触れるのは完結ということだ。
それでもやり続けるならば、生き続けてやるのだろうが、たぶん死とともに、自分にとって
完全な合気を知ることだろう。これ以上の合気に関する知はないのだからね。

つまるところ、実践の問題は、合氣道が心に占める量によるのだと思う。
「好き」というもっとも大事なインスピレーションが全てを支配するということだろう。
いくら、技術を説いても、いくら有益な体系であっても「好き」という種がないところに
芽は出ない。すなわち、開祖の魂のグループが、「好き」と感じやすい体系が合氣道なのだろう。

だから合氣道好きは、すでに開祖と同じだ。そんな事は、「好き」というものを、嫌いになる努力を
したところで、「好き」にとらわれてしまう人間にとっては、十分実感してしまうことだろう。
我々は合氣道が好きなんだ。

では失敬。
403名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/21 23:11 ID:c8QqW4ZC
ところで幼児さんて東北方面の人? いや別にそんな気がしただけなんだけど…。
404>>403 幼児:03/10/22 20:56 ID:ROj2/zjw
本州だけど、東北じゃないです。しかし東北方面は好きです。
405名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/22 21:47 ID:1UkGt/ee
ふーーん。
文章力からすると、あまり教育レベルは高くないようだが、いわゆる納得型の頭の良さは兼ね備えているようだね<幼児氏
学歴はないが、地頭は悪くないといったところか。

今日は、男っていう話をしようと思う。
私は男ってのがあまり好きではない。男を主張する態度が好きになれない
のだろうと思う。もちろん私は男なんだが、男は男の中で生きているのでは
なく、自然界の中で、とりあえず、人間の男の視点で生きている。

だから、もし、男らしさというものがあるのなら、開祖のような人ということに
なるからこそ、合氣道の道に居るのだが、男らしさを、男気、義侠心という事にすると、
また別の話になる。義侠心というものは、男なら誰しももっていることだろう。

義侠心は、塵ざま、生きざま、捨て身、弱い者を自分の心に、強い者のおごりを自分の
心に、等様々な表現がある。決して格好いいものでもないし、憧れるものでもない。
ほおっておけない優しい心があるからこそ、出てくる知行合一だろう。

やなねばならず、しかたなく、そして波風を最小限に、元に戻す。自分なぞ、
どこかにほおって置く。事になったら、それどころではない。生きる事が生き恥だ。
木枯らし紋次郎だね。

続く

私は木枯らし紋次郎が大好きだ。優しい男だ。開祖にもそんな優しさを感じるし、
私の属する門弟、師範にもそれを感じる。実直で、照れ性だが、笑うと直ぐにそれと解る。
そういう心暖める世界が私は好きなんだね。共通して、私が感じるのは、生きる事が
恥ずかしそうだという感じに観える。私もそうだから、共感する。

職人さんには、そういうタイプが存在するが、なかなか接点がない。
釣りの世界にもわりとそのタイプが居るが、私が釣りは趣味ではない。
なかなか接点がないんだね。でも行の世界には、そんな人が結構いるので、
私の心のより所と、癒しになっている。

人間は、水を得た魚というように、ある環境に置かれると、そこにスッポリと
はまってしまえるような環境というものが、誰しもあると思う。それに出会うのが
難しいと言えば、難しいのだが。これも理合いがあって、準備が必要で、
準備が整って初めて、目の前に、その環境が顕れる。

準備が整わないと、そのような環境が、目の前にあった所で、気づかない。
ヒントはいつも足モトに転がっているのだけれども、それに気づけない。
準備が整っていないだけだ。準備ができれば、いつでもそこにあるものが、
場所であり、自然であり、結果的に至善となる。

続く

足下にチャンスは転がっているとよく言われるけれど、私は自分の肉体の足の事
をいうのではないと思っている。足下には何があるのか?つまり、土であり、
地球であり、自然界が無限に広がっている。全てのヒントは自然界にあるといっても、
よいと思う。人間の中にあるもっとも純粋な自然の心を探究することは、自然を
探求することにイコールだ。

また、自然界の秩序は、どこにでも通用している。通用しているというより、
そこから逃げることも、否定することも、弾くことも、対立することもできない。
あるのは、奉仕だけだ。自然界に奉仕するしか我々の道は用意されていない。

陽明学では良知というが、私は良知が大好きだ。幼少の頃から、良心というものの
存在を漠然と信じ、若い時(今も若いが…)は、野心に目がくらみ、自分が自分がと
自己主張することが競争社会を生きる術であると、吠えていた時代を今は恥ずかしい
のだが、陽明学を読んでみたら、救われた気持ちになった。参考までに、辞書です。

陽明学
http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?qt=%CD%DB%CC%C0%B3%D8&sm=1&pg=result_k.html&col=KO

続く

私には、陽明学と合氣道は同じものにしか見えないな。
どちらも、行動哲学だし、実践的だ。合氣道に触れている人なら、陽明学は、
身近に感じると思う。右翼思想だとか言う人も居るが、行動哲学としては、
素晴らしいと思う。

ただ、意識の先、死の問題については、禅や仏教、密教など宗教に、
検証先を見つけるという選択もある。今は色々な本があるから、検証として自分の位置を
確認するのには、豊かな環境だと思う。

武士道もいいと思うけど、突き進むタイプの人なら、陽明学が親和性があると思う。
深く理解すれば、するほど面白いが、触れるだけでも理解できるものだし、
合氣道に触れている人なら、良知でつまずく事はないだろう。私のお薦め学問だね。
陽明学と名のつくものなら、学問的な自分と離れた解釈を展開する人は少ないだろう
から、どのような著者の書籍でも問題ないと思う。

続く

さて、男らしさという問題に戻ると、結果的に「優しさ」だと思う。
慈悲でもいいし、仁でもいいけど、私は「優しさ」が解りやすくていい。
優しさが膨らめば、膨らむ程、強くなっているし、優しさと涙・悲しみは
セットで存在して、結果的に強さになる。強さという二元論は…。というか
全ての二元論的概念は目的論的に追うものではなく、ご褒美だ。

美しい、そして無様な男らしさを目の当たりにして、涙する我々が居る。
そんな時、打ち震える涙とともに、こうありたいものだなぁ〜と我々は、
思う。そういう男に出会うと、我々は、立ち上がらざるを得ない。

決して自分に、そういうものが無いと言うことではない。
あるからこそ、涙がでているのだ。でも行動に移せない。
我々はそんな自分が恥ずかしいのだ。突き進めないもどかしさは誤魔化せない。
そして、その場所が、まさに、我々の立つ場所であり、足下ということだろう。

では失敬。
411パールハーバー師匠:03/10/24 12:46 ID:MKUWsHW7
お、幼児君。がんばっとるかね?
うむうむ。その調子だ。がんがれよ。
412>>411:03/10/24 22:44 ID:RNluTL0o
>>パールハーバー師匠氏
そう言われると逆に辛い。同時に自分が恥ずかしい。つまり照れる。
私はかなり恥ずかしがり屋だから、赤面してしまう。
でも、このアホウに向かって、励ましは素直に嬉しい。

私の語るエッセーは、私の今と連動している。私の今と、合氣道で得たものとの
比較で、文面が成立している一面がある。だから私は日常生活と合氣道がなければ、
このエッセイは成立しえない。だから何を書いても合氣道の話になる。

全ては合氣道にあり、検証が日常生活の気軽な趣味や、社会との関わり、読書という
ような態度で、生きているのだが、最近少し気になる趣味があり、その専門ショップの
窓を叩いてみたんだ。スポーツなんだが、かなり入れ込んでやっているショップで、
私は、行としてそのスポーツは成立するのではないかとにらんでいた。

しかし、スポーツショップは、社会的には、合氣道をはじめ武道というような道が
つくようなものではないし、ましてや、チームといえども、道場ではない。
スポーツチームは、行となった時点で社会的にはスポーツではなくなってしまう。
行となった時点で、商売との接点が限りなく薄くなってゆく。
それを濃厚にするならば、競技を目的とするしかない。つまり試合でもある。

続く

自己啓発や、能力開発セミナーってのはスポーツ的で、教義になった時点で
宗教的に扱われ、商売との接点が薄くなる。本来は行しかないのだが、
この辺が修業という純粋性を保てない部分なのだろう。

そして試合をすることは、勝つ事であり、目的主義になることでもあり、
目指すものとならざるを得ない。結果的に自分との戦いという点に帰着はするのだが、
そこまでゆくのに、周りがやかましい。つまり、そのような目的主義の場所では、
とにかくやかましく、騒がしい。それが悪いというのではなく、合氣道から
見ると、そう観えるという印象だ。

器用な人間がいて、場所に応じて、人間を変えることができるようなタイプなら、
別の場所では別の場所に入れ込むだろうが、そういう人間ばかりではない。
まるっきり一本道というタイプも居るわけだ。

つまり、鍛錬の視点から武道ならば、弓道でも武道だし、居合いでも、空手でも武道で、
スポーツ的でないものならば、親和性が保てるが、強くとか、速くとか、
楽しくとか、そういう結果主義的なもと鍛錬とは相成れ無いだろう。
修業、鍛錬、行、稽古、こういうものとスポーツはやはり違う。
これは個人の取り組み態度で決まるのだが、その集団としてのカラーは、
明確に違ってきてしまうということだ。

続く

そう、例を上げるならば、鍛錬に道具の選択はあまり重要であるとは思えない。
武道で言えば、道具は心身だ。心身をうまく使う方法を稽古する。
スポーツや趣味は、道具がどうの…。デザインがどうの…。メーカーがどうのと
騒がしい。その上で、身体操作、にやっとたどり着く。つまり敷居が高い。

たどり着いて、壁にぶち当たると、道具と技術に還元して、一向に心身操作に向かわない
というケースも存在してしまうスキがある。スポーツや、趣味は基本的修業ではないわけで、
楽しむというものが社会の常識となっている。その常識にのっかって、計られるのが
スポーツや趣味だろう。先に話したスキっていう部分があればこそ、息抜きという部分が
入る余地がある。

鍛錬的に趣味を見るならば、限りなくシンプルで、限りなく、道具はシンプルな程良い。
道具はあくまで、代用であり、本質は心身操作にある。
今日、とあるスポーツのショップを見て、そんな印象を持った。
やはり、合氣道に入れ込んでいる私から、スポーツを見ると、本質に到達するまでに金が掛かる。

つまり強いチームに入るには、そのレベルの道具、そのレベルの共通した独特の思想が
大切で、鍛錬とか行だの、古くさい考えで、比較的格好の良いスポーツに触れるのは、
難しいと実感した。

続く

ゲートボールは行になる。ただ竹竿で釣る釣りも良い。
社交ダンス少しやったことがあるが合氣道みたいだ。
太極拳は、あまり興味がもてなかった、まだそういう時期じゃなかったのかと思う。
ただ、ただ、自転車に乗るのも楽しい。歩いて喜べる程、成熟はしていない。

庭掃除もよい。草刈りもよい。やはり、はやりものの行は金が掛かるということと、
同時に、心身操作の鍛錬まで、入る入り口で金が掛かるということだ。
金が掛かる鍛錬は貧乏人の私には、無理だなと悟った。

合氣道は安い。私は胴衣は、貰い物から始めた。それだけだ。あとは月謝という謝礼。
これはお金ではない、礼だ。昇級も、会費も、講習会費も礼だ。金は掛かっていない。
あるのは感謝しかない。だれも偉くなく、誰も低くもない。心身操作の自分の位置が
主体の話ネタだし、せいぜいお遊びで技術ネタだ。そういう場所が、私の棲む場所だと悟った。
ひっそりと黙々と一途にする弟子達の道に居る事が心地よい居場所だね。

ただ、ただ、する事が我々自身にとって当たり前の事ってのが、それぞれにあると思う。
そういうものを体験してゆくのが、生きる本質に向かう近道だと私は思う。
目立たず、高ぶらず、おごらず等、こういう事が心温まる事が多く。それで十分と
思える時間が永く続くようだ。次々に目標を設定して、忙しく達成感を追い求める人生の時代も
あるが、年とともに、人間は味わう時間(生死)を噛みしめながら生きるんだろうね。

最後に、私はスポーツは目立たないといけない。武道は目立ってはいけない。
こんな点で、相成れ無い部分があるなぁ〜と実感した。

では失敬。
417しっかし:03/10/25 18:49 ID:XDgDLscW
素晴らしく壮大な自慰行為だね。

少しくらいは毒を入れる余地残しとけよ。カオスを失ったら死あるのみだぜ。
418名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/25 19:45 ID:6TZGXbFW
↑よくみつけたね!

武道に限らず、どこにでも形式は存在する。
今日は、少し形式について考えてみたい。

合氣道を実技の視点、精神の視点、霊の視点、魂の視点、日常生活の視点、
人間全体の属性全てに、人それぞれの合氣道は流れている。
実技が素晴らしく、礼儀も素晴らしい、これが特定のハウスルールや、その環境内の
形式化したしきたりに準じたものから出発した形式主義だけでは実がない。

確かに無私の奉仕に徹する姿は美しい。問題は、その本質の部分だと考える。
どのような組織にも、最初は、心がある。そして、その心の顕れとして、形式が
定着する。次の世代は、形式の中身に目が向くことが少なくなり、形式化する。
最終的に形式だけ残る。しかし、見た目は美しい。こういう姿はどこにでも
見受けられている。意味がどこかにトンズラしてしまう。

続く

体育会系と言われる姿、各種宗教、各種道場・流派の伝統など、それだけではない、
いかなる形式化した行事、そう、葬式などもその一つになる。我々は、それらの形式化
した意味をほとんど知らないものから、形式という伝統を守る事により、その形式から
心を掴む事もできる。つまり形式も武道で言う型と同様の意味を持っている。

しかし、意味の希薄になった形式も在ることは、社会のシステムを見れば明らかだろう。
法律という形式、会社組織の形式、個人の信念という形式。型は変わるものもあるが、
変わらないものもある。また変えなければならない型もある。また害のある型もある。
さて、どれが正しい型なのか?という問いにチャレンジしてゆくのが開拓者だ。

開拓は、まず第一条件は、死であると考える。つまり開拓のスタートである考えは、
形式に毒されていない視点から形式を観る目のあるものが、すなわち開拓者ということが
できる。その者にとって、形式は死んでいる。しかし、その世界に居る限り形式は受け入れている。

続く

死んでいながら、受け入れている。死んでいる存在は想い出とも言える。
形式とは、結果的に想い出、ノスタルジーに浸る我々の常識をよく表している。
想念の場所の確保だ。我々の心の住まいとも言える。

その心の世界が全体性を占めるか、ある特定の場所での世界を占めるかによって、
その形式の主の社会的評価が変わってくる。そして同時に、常識的視点から観た場合のズレが
出てくる。つまり滑稽、あるいは、狂信、あるいは、時代遅れに映ったりするというわけだ。

私は、そのような形式主義に反対はしないし、肯定もしない。何故ならば、我々は
なんらかの形式に乗っかって生きているからだ。ただ、個人の占める形式された
規定概念が社会全体、あるいは、自然界全体で機能するものであれば、どのような形式であっても、
摩擦、無理、は起こらないだろうということに尽きる。
つまいりそのような形式には、形式内に寛容が内包されているということだ。

形式は形だけでは形式をもつ者達に弾かれる。心と形式が一つになった時、
その形式に準ずる集団で、奉仕の一員として機能することができる。
ここでの問題は、形式に準ずる集団は絶対ではないという事だ。特定の場所で、
その形式に準ずるというのは、どうだろう。はたして、是の姿だろうか?

続く

これは、馴れ合いの概念に非常に近くに存在する、つまり形式と馴れ合いは、
一歩間違うと同様なものになりかねないということで、試合の無い武道は、
特に、心せねばならないことだと思っている。同時に、全体性に到達しない
引きこもり的形式も同様だろう。あえてそのような形式的行動というのは、
そのあえての先にあるものが形式の本体となる。

私が非常に興味があることは、開祖は、型を形式化したのだろうか?という問題と、
伝統稽古の形式は良いとしても、その前後の弟子達がこしらえた伝統的な形式だ。
稽古の形式は、体の転換から座法でという形式はある。それ以外は、各道場、
各流派によって様々に変わっている。

型のスタイルと、稽古の形式、そしてその団体全体の形式によって、個人の心は、
その団体の一員として形成される。その形成されたもの全体が、その属する道場の
形式として個人がもつ形式となる。

続く

私は、形式はシンプルな程良く、そしてその形式はとても大切で、そこから心を学ぶ
というシンプルなスタイルほどよいと考えている。そして最小限の形式に、追加する
形式が在るとすれば、その意味の把握からスタートするべきであると考える。
結果的に意味を形式という行動様式をつかって表現するという風土をスタイル(形式)
とするのが望ましいし、変化に即対応できる風土だと考える。

固定してよいものと、固定してはならないものがある。固定してはならないものを
識別、区別し、その識別・区別に基づいた振り返るという風土をもって、その風土
自身を形式とするならば、時代に遅れる事もなく、良いものは残し、悪いものは
いつでも捨てる用意がある団体・組織であると考えられる。

伝統・形式・風土に関して言えば、一途、と頑は違う、根を太らせながら、
変化する表層、これこそが生き残ってゆく、大樹であると考える。
根底がひっくり返っては分裂してしまう。根底は太らせるもので、寛容と忍耐と進化等の
概念に流れる観念でもって、創造活動をすることが、大樹となるものの原則ではないだろうか。

続く

合氣道も形式がある。太らせる形式、弾く形式、固定する形式、様々な合氣道の色の中で、
合氣道全体が存在している。しかし、社会という枠では合氣道は固定された存在となっている。
変化を拒むシステムの中に、合氣道全体も存在せざるを得ない現状がある。

時代は変化するが、社会のシステムは時代に遅れて変化する。その中に合氣道は
存在するが、合氣道はそのシステム内での存在が全てではない。表の合氣道、裏の合氣道、
革命的合氣道も合氣道全体として、存在している。社会のシステムの圧力が、合氣道に
入ってくると、社会の奴隷化してしまう合氣道となってしまい、自然界から人間社会の
システムに吸収される運命をたどるのだろう。

結果的に開祖から離れた合氣道になってしまう。こういう危ぐも私は少なからず、
もっている。私は思う。全体に必要な事は、寛容という二文字にキーがあるのではないかと。

では失敬。
425もくじ-6:03/10/26 21:13 ID:ZWMeW/Cc
006:【はじめに】               │ 224:【コラム・その2…無意味な話】
014:【合気道感のバックボーン】        │ 235:【人間の力の無限性を証明?】
022:【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】  │ 253:【運動神経と心身統一の関係】
030:【強さとは】               │ 261:【真善美】
041:【強さ=称え合う】            │ 265:【体は大切だね】
051:【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】  │ 278:【心の話】
057:【合気道は論理術(思考術)?】      │ 288:【死と生と神と弟子】
071:【生死は論理ではない】          │ 303:【私が不在であって事実が観える】
082:【宗教的】                │ 311:【我々の本性は魂である必要がある理由】
091:【一に還元=合気】            │ 325:【想念の根元は愛、呼吸力の根元も愛】
098:【人間理解】               │ 334:【意識の視点】
106:【壁・自分の幻想を知る手段としての「気」】│ 341:【ちゃんと合氣道の話を少し】
120:【奇想天外】               │ 350:【原則に善悪は存在しえない】
129:【記憶は過去・今は無意識直視】      │ 363:【人生と死生観】
141:【合氣道の日本語文字技】         │ 372:【人格は服、本音は裸、魂は私】
151:【武産合気は観察意識】          │ 380:【ことばと、鍛錬についての話を少々】
164:【観察意識を掘り下げる】         │ 388:【コラム・切ない気持ち】
176:【幻想の世界に住む私】          │ 393:【原因・結果・選択・創造】
184:【自信とは幻想である】          │ 400:【合氣道は使えるか?】
192:【合氣道…秩序・自信・意識】       │ 406:【男らしさは優しさである】
205:【パンドラの箱を空けてみよう】      │ 413:【修業・スポーツ・趣味・金】
214:【コラム…天真爛漫】           │ 419:【合氣道に関する形式主義】
426名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/26 21:39 ID:MRNc1qVr
>>413
勝敗でなく様が重要です。
427名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/27 22:18 ID:CSyw4re3
426は、例の一味の臭いがプンプンとするべや。

今日は少しだけコラム的に書こうと思う。
合氣道でも、趣味の分野でも、組織でも、人間の集まる場所なら何処でも、
適応されるのが、自分という個人と、公の自分の役割だろう。

最初は個人として合氣道に触れる。次第に段位があがり、合氣道全体が見え始める。
すると、自分の個人レベルでの行動が、全体に及ぼす影響の大きさに気づき始める。
つまり、合氣道の世界が狭く感じられる。このような個から、公への自分の立場への
移行は、だれでも感じる事だろう。

各道場においても、個は全体に大きな影響を及ぼしている。本人の自覚、無自覚を
問わず、そのようになり道場全体の、雰囲気に影響を及ぼしている。そしてその
集合体で、同門のグループの雰囲気が創られる。

続く

門下の核の道場は、その原点を支配して、揺るぎない真実を表現してゆく
道場となるのはいうまでもない。核が揺らいだら、全てが揺らぐ。これは門下の
個人にまで及ぶ。その上の階層である合氣道全体にも核の影響は及ぶ。

合氣道とは人間修業であるので、人の人生に及ぼす影響が非常に大きい。
したがって、核の道場、は門下への影響に及ぼす責任として非常に重要になっている。
合気道の核は、開祖なのだが、開祖ではなく、開祖の一解釈が一人歩きし、寛容が
見失われるような事になったら、大変な事になる。開祖の解釈の数だけ完全分離する。

我々は、合氣道を修練しているが、同時に、合氣道全体に影響を及ぼしている。
我々は、合氣道の大門を、背負う自覚があろうがなかろうが、部外者は、
一合氣道修行者を見て、合氣道を判断される立場にある。白だろうが黒だろうが、
この責任から逃れる事は不可能だ。

続く

我々は、開祖と同じものを目指しているだろうか?開祖で止まっていないだろうか?
あるいは、開祖の手前で止まっていないだろうか?また、開祖の我々自身の解釈で
止まっていないだろうか?

開祖が身近に居るという感覚は修行者としては、一つの計りになると考える。
何故ならば、開祖は、宇宙であり、自然界であり、昇天されたからだ。
だから今居る。我々自身にインスピレーションを与えているかもしれないし、
見守っているかもしれない。

とにかく見られている。もし、開祖に恥じる事があるとすれば、
それは、開祖が何処かに消えて無くなったという心がそのようにさせるのだろう。
開祖は生きている。生と死がワンセットの世界において、建前にしても、開祖が死んだ
とは我々は言うことができるだろうか。

では失敬。
431パールハーバー師匠:03/10/29 20:57 ID:y68s7mp6
おいおい幼児君、ちょっと待ちなさいよ。
君は、合気の道を歩む者の悪い典型である「自惚れ」領域に入っていないか?

>我々は、開祖と同じものを目指しているだろうか?開祖で止まっていないだろうか?

君は、何かね?
開祖の合気全てを、君の全てを以て表すことが今できるから
こういうことを書けるのかね?

「開祖を目標に置くんじゃなくて、開祖の目指していたものに目標を」
だなんていう言い訳は、通用しないぞ。

自分を見失うな。謙虚に生きろ。稽古しろ。
大きなことは言わない方がいいな。もう。
432名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/29 20:59 ID:SayyjqFe
「合気」がわからないので、言葉だけ「呼吸」に置き換えて、
合気自体は不可思議な境地に祭り上げてしまったのだと思う。
合気道で合気とは、怨念、うらみかな。
433名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/29 21:09 ID:zmv7X15L
最初こいつは人と議論するぐらいの容量あったんだけどな、
こうなっちまったんだよ。

涎垂れ流してるだけ。さぞ気持ちのいい稽古しかしてねんだろ。
434幼児:03/10/30 01:19 ID:G6hM2vWi
自惚れの領域という点ですが、私も人間ですから、欲求はありますが、
自分に惚れるという、自己満足的な欲求は感じてはおりません。なにより、
そういうものを満足させる事に興味がありません。私の利害に基づく欲求からでしたら、
何のために馬鹿げた長文を書きましょうか。
むしろ生きている事が恥ずかしい感覚で生きています。

すくなくとも、虚栄心、傲慢等に代表されるようなものは、自分の修業どころで、
消滅方向へ向けてゆくものです。

>「開祖を目標に置くんじゃなくて、開祖の目指していたものに目標を」
まさに、言い訳でもなく、正真正銘まったくそのように思っています。
だから、開祖の先(上の文)と我々箇々自身との関係で、鍛錬をしてゆくことが
私にとっての誠実な答となります。つまり私にとっての真実です。

どこまで、正直につづれるか?が私のもっとも重きを置く所です。
だから、大きな事もそれ以下の事も発言しない方向です。
大きいのでしたら、私が大きいのであって、嘘でなければね。
小さいのであれば、私が小さい。嘘でなければね。この嘘という問題の信頼性ですが、
こればかりは、読者の判断に委ねられる所で、私の興味・関知の対象ではありません。

大前提として、ある意図に基づいて、ここで、幻想の幼児という人間をでっち上げよう等
とは思っておりません。私は何処までも、正直さ、真実を追究してゆきます。
それ以外、申すこともないでしょう。
435幼児:03/10/30 01:29 ID:G6hM2vWi
>>434は、
パールハーバー師匠氏他、読者諸君へです。
436【弟子道という考え方-1-】幼児:03/10/30 22:03 ID:G6hM2vWi

我々は本当は人生を語ることはできない。つまり合気を語る事もできない。
むろん武産合気を語る事もできない。人生を語る事ができるとすれば、
生と死を体験した者が、その者自身に語るものだろう。つまり知る、会得した
ということになるだろう。つまりこれらの真実は、個人的なものであり、
主観的なものでしかあり得ない。是非で語るものではなく、主観のみだ。

私は合氣の道を歩く一修行者であり、合氣道で会得したもの、あるいは、
そこから得た気づき等をここで語る。私から語られるものは、一視点である。
諸君はここを誤解されないようにしていただきたい。

いかなる者も、本来はなにも客観的真理は語れない。しかし己の真実は語り得る。
そして、人間の感受する共通秩序は普遍的事実として発言することは許されるだろう。
この普遍事実に落とし込む選択は、私に委ねられている。選択の問題となる。

科学は真理を語り得る。科学というのが一つの枠があるからだ。
広大無辺な自然となると真理は語り得ない。真理と普遍とは微妙な問題だが、
私の発言から、その差の理解は汲んで頂きたい。

続く
437【弟子道という考え方-2-】幼児:03/10/30 22:03 ID:G6hM2vWi

まず、ここらで、私の言う開祖とは、どんなものかを一度話しておこうと思う。
開祖は、植芝盛平であるが、弟子である。私の先輩、師匠も弟子である。私も弟子である。
これは、頂点に人間が位置し、そこからピラミッドができあがっている状態をいうのでは
ない。頂点は、自然界であり、開祖の言う「宇宙の中心に帰一」となる。
その心の弟子達が合氣道修行者であり、全ての人間が収まっている場所だ。

だから、弟子というのは、この世に居れば、弟子しかいない。
社会的には、弟子の先をあるく先輩の事を師匠とか開祖とか宗家とか言うが、
本来は弟子しかいない。開祖は自分の事を、「爺」と申された。頂点に君臨する
ような存在として、存在していなかったのは、我々自身が感じられる所だろう。

「宇宙の中心に帰一」つまり自然界と一体、あるいは、秩序と調和そんな
概念に代表される事を明確に自覚をもって、その道を歩くのが、弟子という言葉で
表されるということだ。

続く
438【弟子道という考え方-3-】幼児:03/10/30 22:04 ID:G6hM2vWi

「宇宙の中心に帰一」というのは、合氣道という道のみがそこに通ずるものではなく、
様々な修業体系が存在するが、私の考えは人間の創造活動そのものが道といっても
大げさではないし、私にとっては現実味をおびている。

つまり、個々の取り組み態度で、なんでも道になる。つまり弟子に成りうる。
弟子と気付いた時点で、弟子となる。弟子道とよんでもよいかもしれない。
結果的に、「宇宙の中心に帰一」というのは真実ならば、弟子道しかないだろう。

もし、合氣道が何かに属する概念があるならば、私は武道とは言わない。
弟子道と言う方が、新しいし、常識概念に毒されていない。といっても、
弟子道が一般概念化すれば、いずれ、古くなり、常識概念に成り下がるだろう。
だから合氣道は、合氣道と呼ぶしかない。

続く
439【弟子道という考え方-4-】幼児:03/10/30 22:05 ID:G6hM2vWi

自己を宇宙の中心に帰一することと言うのは、神との同化ということでもあり、
自然界と一体でもあり、心身統一でもあり、寺院は己の心にでもある。
この精神は、全ては私の責任ということになる。その心があるならば、その
顕れとして、人をなおすことではない。自分の心を直すことである。とも言える。

相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、自己を宇宙の中心に帰一すること、
すなわち、自分の事で、自然界の弟子であり、奉仕者とも言える。
奉仕者を別の言葉でいうならば、私の好きな陽明学の知行合一。良知に従う事
となる。良知は自然秩序(合気)と考えて頂いて良い。

我々自身、しっくりくる解釈を、一つのたとえの言葉として持っておくのは、
理解を深めると思う。ただ、その解釈から拡散してすり替わってしまうのは、
問題があるので、我々自身で我々自身の心を戒めないといけないだろう。

だいたい、こんな所が、開祖と合気の私の考え方、および立場となる。
このような視点で、私は合氣道を歩き、世の中を観、自分を観ている。
そして観た結果を、純粋であろうという想定でもって、自分を観る。
その想定とは、正直、純粋をもって観る。同時に傲慢、慢心等を
弾き、良知に外れないよう、発言、行動をする。もちろん外れる。
外れるから修業ができる。こんな所だろう。つまり経過を語る。

続く
440【弟子道という考え方-5-】幼児:03/10/30 22:06 ID:G6hM2vWi

経過というのは、生死を会得していない者を差し、ここには存在しえない。
しえないが、居るかもしれない。居るかもというのは、私は断言できないという
ことであり、超人の可能性を否定できないということだ。

私は会得していないから、何を語っても、私自身の経過、つまり今以上も
今以下も語る事はできない。つまり私の事しか語ることは実質不可能だ。
私だけでなく、我々の大半(ほぼ全数・例外が超人)はそうだろう。

だから、我々弟子達は、我々自身が感じた事しか真実を語る事はできない。
客観的現象は、本を読めばよいし、ビデオを観ると分かりやすい。
他者が感じた真実は、他者の理解を超える事はできない。

同時に、我々が他者から発言された言葉は、我々自身の理解を超えて理解することは
できない。しかし、不理解の不足を結論を出すという短気に負け、解釈で補うという
事をせねば、純粋に不足点は感じられる事だろう。
結論を急ぐ短気も、傲慢な精神も、この点で成長を阻害する。

続く
441【弟子道という考え方-6-】幼児:03/10/30 22:07 ID:G6hM2vWi

つまり道においての有益な発言、あるいは、発言すべき発言は、私はどう感じたか?
という問いの答しか真実味はない。これは私の独断的見解でなく、我々自身が
体験談を渇望する点、そして本当の事を知りたい欲求が真実を語っている。

だだ、知識そのものつまり状況描写的な理解を求めるならば、、体験談は不要で、
求める方法は如何様にもある。人を選ぶ必要もない。知る人を探せば良い。
文献をあさればよい。ビデオを見ればよいのだ。技術論等が代表的だ。
できるか?できないか?は別問題だが。
当然議論の対象ともなろうし、議論により最適知を得られる可能性は開けている。

問題は、合氣道は道であるから、知識は不要だ。あってもいいが、邪魔をする
場合が多い。むしろ、知識を使って、自分の体験を確認するという手順が、
自分を知る。つまり自分の歩いている位置を知るのに都合がよい。ココで言う
ここで言う知識とは、状況描写的知識だ。これに凝り固まると、可能性が固定されてしまう。

続く
442【弟子道という考え方-完-】幼児:03/10/30 22:08 ID:G6hM2vWi

我々の道を歩く上で、大切な事は、歩くことと、歩いている所を知る事とがセットで、
自分の位置を知ることができるという理解に基づく、勉強、研究、探求だろう。
会得のみならば知る必要もないのだが、伝達という時点に来ると、位置を知ること
は伝授するときに大切になる。

伝授とは他人はもちろんだが、自分への伝授、つまり記憶の事で、筋道を立てて、
記憶させることは大切だ。結果的に沢山の気づきの筋道が統合されて、ある一つの
確信を掴める。その確信が掴めれば、そこから波及される事象すべての理解に
到達する。

稽古というのは、非常に広い概念で、道場に限定できえない。もし稽古を定義せよ
と言われるならば、抽象的な定義とならざるを得ないが、合氣道と、ともに生きる
事、すなわち自然界と離れない心での人間活動ということになるだろう。道場で
体術をするのは、鍛錬の一つであり稽古の一側面だ。これとて、先の定義の自覚が
なき場合は、形は稽古だが、実が不在となる。

もし、道場に厳しさというものがあるならば、「自己を宇宙の中心に帰一」という
心のチェック機構が厳密に働いている風土ということになるだろう。それを行うのが、
先を歩く弟子であり、師範であるが、それにおんぶにだっこも、つくられたものだ。
やはり全体の雰囲気が、そのような空気になっている道場が、厳しい場所ということに
なるだろう。

では失敬。


守る物ってものがある。
我々の愛する人達の信じている心、希望、夢、幸せ等。そして、
我々自身が共感できる美しく、尊い物、こういう物を我々は、
守るだろう。守るというより、守らされる立場に立たざるを得ない時も
ある。

守りたくても、力及ばずの時もある。悔しいが、やるだけやるしかない。
無力感を感ずるが、やるだけやるしかない。頭で納得することもできる。
自己正当化もできる。自分に酔う事もできる。しかし、本心の感じた、
無力感はぬぐい去る事はできない。

この誤魔化すことのできない無力感はどうすれば良いのか?人を助けるなど
という心は、そもそもできないのか?できる事だけすれば良いのか?
感ずるままに進むしかない。苦しみたい者は苦しませておけばよいのか?
介入するということは、人と繋がりを持つということで、自分の問題とか、
他人の問題とかいうものでもない。

続く

繋がりをもつということは、関係性に絆を持つということで、ファミリーとなる。
年を重ねると、ファミリーが増える。ファミリーは一つで、苦労も喜びも一つだ。
我々にできることと言えば、繋がりをもって、手を取り合って生きる事しかないと
いうことかもしれない。

結果的に、協力して生きるという単純な作業の繰り返しで、ファミリーは
栄えるのだと考える。何処までがファミリーで、どこまでがファミリーではないか?
という問題は、存在しない。我々自身の繋がりの中で、出来る事をすることしか
ないのではないか。それ以上の欲も達成不可能だし、それ以下では手抜きとなる。

人との関係においての孤独というものがあるとすれば、繋がりの問題に帰着できる
と考える。他人との繋がり、すなわち心の開放の事で、開放された部分で、他者との
接点ができる。心を閉ざすのは、他者の介入を閉ざす事で、繋がりを
自ら拒否する事になり、まさに、鎖国状態と化する。

続く

心の鎖国化は、あえてする必要のある時期もあるだろうが、問題は、あえてという
段階は永遠ではないということの自覚のあるなしで、大きくとらえ方の違いを生む。
引きこもりという社会問題があるが、引きこもりも必要な時もあると私は考える。

我々の心は鎧で防御する必要はない。感情を味わう事を拒否することもない。
不快な感情も、愉快な感情も、全部味わうのは、当たり前の事ではないだろうか?
拒否するのは何故か?つまり私の言いたい事は、味わった結果、拒否すれば良い
のであって、味わう前に、拒否する事は、感情そのものを否定することになると
いうことだ。

感情そのものを拒否すると、直ぐに閉じこもる癖が付く。これ以上入ってこないで…と、
はぐらかしたり、あれやこれやと防波堤をこしらえる。簡単に言えば、死にそうに
苦しがっている者を見たとき、我々は心を閉ざせば、他人事で終える事もできる。

続く

しかし、心を開いたのなら、他人ごとではない。自分がその場に居合わせたなら、
なんらかの行動を取らざるを得ない。そしてその苦しがっている者が大切な者で
あるならば、なおのこと、行動が必要となる。行動を即される。同情だけで、
終わっては居られないということだ。

我々は、他人事にならされている。自分の事で精一杯で、他人の事なんか考えて
いられないと言う。人だらけの環境の中では、確かにそうかもしれない。
しかし、ファミリーという範囲は年とともに拡大する。その人達には、せめて、
我々自身、心を開く事が誠実だと私は考える。

我々の日常を通り過ぎてゆく人との関係の中で、我々自身の心に、風景として通り過ぎる
人もあれば、心に引っかかる人もある。それは、時々刻々と変化してゆく、我々自身に
できることと言えば、心を少しずつ開けるだけの、心の鍛錬をし、鎖国ではなく、
開国を宣言し、人との心の絆や、結びを行い。ファミリーを広げてゆく事が至善では
ないかと、ふと考えた。

では失敬。
447【こんにちは、絶望-1-】幼児:03/11/01 21:08 ID:zxxZK4Ye

最近は諸手取り呼吸上げと体の転換と素振りで、疲れ果てて居る私です。
調子に左右されたり、体調に左右されるている。まさに私のリズムが
もろに、そこに顕れている。シンプルなモノほど誤魔化しが利かない。

天候に左右され、場所に左右され、雰囲気に左右され、金に左右され、
なにかに左右されている。なにかのリズムに左右されている。気分が良かったり、
不快だったり、ゆらゆらといつも揺れている。そんな自分を観察する。

本日の私は疲れており、どこか静かな静寂の中に止まりたいという気分だ。
こういう時、ちょっとした高台の田舎の縁側に、腰を下ろし、月夜をながめながら、
町を見下ろしていたくなるものだ。静寂は都会では金が掛かる。私は都会という
場所には住んでいないが、理想とする静寂にはあまり出会う事ができない。

続く
448【こんにちは、絶望-2-】幼児:03/11/01 21:09 ID:zxxZK4Ye

何時かそういう静寂な時間とともに、くつろげる場所と心をセットで
自分のものにしたい。そんなささやかではあるが、誤魔化せない夢を持っている。
今は、何かに頼る必要がある、それはモノであったり、外部から取り込む必要が
ある事象だ。

これが理想という空間は、段階があって、取りあえず、マトリックスの
仮想現実のような真っ白な静まりかえった空間。そしてその先にあるのが、
その心で眺める自然の風景。これが理想だね。その時は露天風呂で裸で居たい。
最高の存在感と共に、そこに居ることができるだろう。

私の完璧性というものの象徴はこんな所にある。完璧性を心の表現で表すならば、
これを私の平常心と言いたい。まさに、胎児が羊水の中で母と共に存在している
状態と言える。この感覚は実に心地よいと思う。大切な事は止まり続けるということだ。

続く
449【こんにちは、絶望-3-】幼児:03/11/01 21:10 ID:zxxZK4Ye

人は最高の快楽に向かって突き動かされる側面をもっている。それが性という
一部に向けると、セックス中毒的になるし、虐待による快楽、様々な部分的快楽
に向けると、全体性とならず、社会的には偏った快楽の表現者として扱われる。

快楽の表現は様々あるのだから、それを仮想的に味わう事、あるいは、実際に
体験することは自分の心の肥やしになると私は考える。宗教にはまるとどうなるか?
とか、ドラッグとはどんなものか?とか、いじめの快楽とか、一種のダークサイドの
快楽を経験することは、有益だと思う。同時になんの経験も成しに、それらを
裏社会として、扱うというのは、健全ではないように思われる。

確かに合気道にはまると、一種の密教的な魔境の境地をかいま見る時もある。
これは武道においてそいう側面も否定できないということだろう。北斗のケンで
いえば、北斗流拳だったけ、カイオウのようなものだ。はまるモノというのは、
素晴らしいと同時に魔性をはらんでいると思う。

続く
450【こんにちは、絶望-4-】幼児:03/11/01 21:11 ID:zxxZK4Ye

これは知識でもそうだし、なんでもそうだ。もっとも善いと思われるものは、
もっとも悪いという側面が同時に存在している。個人に置いても、もっとも、
長所である部分が、もっとも短所である部分と結びついている。どちらも、
消すことはできない。一方を消したら、もう一方も消滅する。

最高の体験をしたいなら、最悪の体験を求めても同じ事だ。身近な例は、
恐怖映画を観る心境だろう。最高の長所を感じたいなら、最低の短所を感じる事だろう。
愛する者においても、気に入らない点を好きになれたなら、
今までにない魅力を発見し、それが愛する者の最高の美点と入れ替わるだろう。

合気道においても、それは言えると思う。最悪の合気道の中に最高の合気道を
発見できうるし、もっとも攻撃的でないと思われる動作がもっとも攻撃的であった
という発見だったりということだ。もっとも固い動作がもっとも柔らかく、リラックス
しないことがリラックスだったりといったものだ。

続く
451【こんにちは、絶望-5-】幼児:03/11/01 21:12 ID:zxxZK4Ye

我々の見る世界というのは、見たいモノは大きく見えて、見たくないものは
小さく観える。だからその逆をあえて観る事によって偏った視点を発見できるという
事だ。

さらに、人間全体、社会全体でみると、逆の思考をすればするほど、正常というものが
理解できる。真実が隠されていて、感動が隠されているならば、偽物を観て、
偽物になっていないと真実は見えない。感動が隠されているならば、無感動というものを
知らなければ、感動が理解できない。

問題は、逆というものの理解ができるか?という点だ。あくまで、世界は我々自身の
心と共に存在している。世界というものを正確に語る事はできない。何故ならば、
他人が体験した世界を観るなんてことは、不可能な事だからだ。

続く
452【こんにちは、絶望-完-】幼児:03/11/01 21:13 ID:zxxZK4Ye

だから逆というのは、我々自身の心が感じる不快という感情をより所に置き、
そこから観て、快楽の逆という意味の事を体験し、味わう事は有益であるという
点で帰着する。その結果、全肯定の場所をかいま見、寛容と共に生きる事ができるだろう。
これは競争の消滅であり、傲慢の消滅である。在るのは、調和、協調、和合、融合などに
代表される概念を実感するということだろう。

絶望、どん底、苦痛、老い、病、憎しみ、恐れ、悲しみ、様々な苦を友としたとき、
感情を知り、人間を知り、情を知る。その両方を知る者はなにものか?という
答も同時に知らされてくる。味わう事は実は、もっとも身近でダイナミックな感動を
はらんでいると考える。

では失敬。
453【組織と鍛錬の間-1-】幼児:03/11/02 21:40 ID:wQjJzIb2

身体操作に置いて、腰の振れというのは、中心の振れとなって全体に響く、
心の操作においても、心の中心のぐらつきというのは全体に響いてくる。
思想・理論においても、各言葉の概念であっても、全てにおいても、前提や、
根底、中心が、中心的役割を演じられなくなったのなれ、全てがひっくり返ってしまう。

外から強靱な中心を造る事もできるが、直接的に中心をつくることもできる。
体の転換や、諸手取り呼吸上げなんかは、その好例だろう。心と身体の中心そのものを
鍛錬形態として行っているのが、肥田式強健術、ヨガの一部に代表されるような部類のものだろう。

私の観るところ、合気道はその心身操作の全体をカバーしていると思うが、
鍛錬という視点で観ると、現代の道場は、鍛錬を大々的にうたって、道場
運営してゆくことが難しいというのは、私の私見のみならず、熱心な合気道
修練者の思う所だろう。また道場運営に携わる人達のある種のジレンマだと
感じられる。当然私の属する道場においても、例外ではない。

続く
454【組織と鍛錬の間-2-】幼児:03/11/02 21:41 ID:wQjJzIb2

鍛錬として始まった形態(合気道)がいつの間にか、健康法や、趣味、
交流の場、あるいは、組織の力学、社会的役割等が主体になってしまうと、
鍛錬は、それらと同一線上のものにすり替わってしまう。そして、その中で
どの色が濃くでるかは、道場主の先に存在する何を信じているかによる。
つまり何が一番大切な事なのか?どのような形を是とするか?
という問いが結果的に道場全体を支配する。

鍛錬をしたいのに、様々な世間のしがらみを引き吊りながら鍛錬の邪魔をする。
人間が集まる所、あるいは、明確な組織が出来上がれば、出来上がるほど、
鍛錬をしにくくなるというのは、宗教、スポーツ、武道武術等様々な大小組織、
つまり人の集まる所では致し方ないと思う。

そんな中で、我々は自分の成長、あるいは、目指す自分に近づく為に、適切な
人が集まる場に、収まる事を渇望すると同時に、そこに収まるべき場に、おのずと
収まって行き、人の集まる場所が出来上がる。つまり組織が出来上がる。そして、
また、そこから更に極めたいというグループも出来上がって、それらを繰り返しながら、
自分と組織との関係は変化し続けてゆく。

続く
455【組織と鍛錬の間-3-】幼児:03/11/02 21:41 ID:wQjJzIb2

今の時代は、交流に対しては比較的寛容な気配を感じる。だから、組織の枠をこえて、
個人的に交流することによって、取りこぼしを補う事も可能であろう。道場(ある組織)で
規則により、あるいは、伝統により許されない鍛錬も、別の場所では大々的に行うことができる。

我々個々に大切な事は、組織ではなく、鍛錬と開祖の思想の追究だろう。それを広め伝える
(自分に或いは人に)事が我々の正しい道であると信ずる。何処かのチェーン店のように、
組織の維持拡大のみのような功利主義、商用主義と同列で展開するのは、道ではないだろう。

我々自身が今いる道場というのは、善くも悪くも、我々自身を表している。不満の矛先は
道場には存在しない。本人の自覚あるなしに、深い所では、我々自身、どのような
道場が自分にとって最高の環境かは、在る程度は見当はついているはずだ。
それを問う時に大切な事は、世間を無視して、自分と道場との関係を考えてみること
に尽きると思う。

続く
456【組織と鍛錬の間-完-】幼児:03/11/02 21:42 ID:wQjJzIb2

率直に言うならば、組織はあまり関係ないということだろう。そこに集まる人達
と自分の目指す所、あるいは、自分の思想形態、鍛錬に関する自覚にをより所に、
その仲間の一員に収まるのだろう。

今かりに所属する道場で、ある部分で、道場風土を牽引する役割を背負っている
人がいたとするならば、背負わなくとも、むしろ牽引される側、つまり引き上げ
てくれる環境を選択してゆくのも、一考に値するし、牽引力を付ける為にも、
外に出る必要性は否定できない。道場主もそうするだろうが、牽引役もそうすべきだ。

外に出るというのは、武道武術界という外を広く観るという考え方もあるし、
合気道そのもののコアな部分をどんどん観てゆくという考えもある。私の場合は
後者を選択するが、これは我々それぞれの性分に依るところだろう。

私の場合はルーツにたどり着く事を渇望している。つまり開祖なんだが、
開祖を少しでも感じられる場所というものを、直観と縁により突き進む事になる。
私は世間のゴシップに心が動く程、頭が良くない。いずれにしても、私には一つの
道しか用意されていないということだろう。これを引きこもりと言われて本望だ。

では失敬。

我々の日常生活は様々な思惑だらけの世界の中に居る。
動機があって、意図が芽生え、言行、となって人間生活が営まれている。
動機はどこから来るのかっていうと、究極的には死にたいというわけだろう。
これが、今日の結論であり、テーマだ。

生まれて死にたいのが人間ならば、生まれた我々は死にたい訳だ。
だから苦しくて、苦しくて仕方が無くて、死んだり。病気になって死んだり。
交通事故で死んだり、とにかくいずれ死ぬ。快楽も死ぬほどの快楽を頂点とする。
「生きる程楽しい!」とは言わない。大抵、「死ぬほど楽しい!」と言う。

こう観てゆくと、我々は死というものは、凄いとか、楽とか、最高とか、
どちらかというと、最高の境地を指し示して表現している。もし、人生と
いうものが、最高に向かって進むものであるならば、死は最高の場所となる。
我々は幾度となく、死という言葉を肯定的に使う。

続く

我々自身においても、合気道の最高の境地は、死の直前となるだろうし、
人生を明確に知ったと言えるのも死の直前だろう。人生を断言できるのは、
死の直前の人のみ許される特権であり、しかも個人的なものだ。

つまるところ、我々は死をもってこの世というものを知ることができる。
死の寸前でもないものが、人生を語る事は本当は嘘であるのだろう。
すなわち、この世に生まれてきた目的を普遍的に語るならば、死を知る事であり、
人生を知る事でもあり、知の極致も死と言うことになる。死を知る事から
目をそらす事は、人生から目をそらす事に尽きるだろう。

一方、他人の死は悲しんだりする。どちらかというとマイナスイメージだ。
殺す!というのは、最高のさげすみだろう。自分は死ぬ事を肯定的に使って置きながら、
他人には否定的に使う。実に面白いし、興味深い。

続く

おそらく、死というものは、他人の思惑で手を下してはならないものだろう。
ただ、その手を下すという所で動機如何によるものだろう。
手伝って差し上げるのならば善い事だろう。選択権は当事者だが、死ぬ事ができない
場合があるからだ。いずれにしても、人は死ぬべき時に死ぬのだろう。

死にたい。知りたい。したい(なんちゃらをやりたいという意味)。死体。実に似ている。
私の考えの根底の一断片に、死という快楽が存在している。だから、死というものは是で、
俗世間での思惑とは少し外れていると思う。常識では、死は避けるものだろう。
いや、避けるのは生命維持という視点での話で、この点では私と常識は一致している。

問題は、死のイメージの事になるだろう。是非の問題だろう。医者は、死は非だろう。
合気道では、魂という概念が在る以上、死と生は超越している。つまり一つとなる。
生も死もなく、今しかないというのが魂の属性だからだ。

同時に、魂という点で考えると、事の確信はエゴと協力、利己主義と利他主義だろう。
生→死という時の流れが人生とするのが常識で、魂を持ち出した時点で、今しかなくなる。

続く

先の動機で考えて見ると、常識は、時間を人生だと考える。合気道では今の存在を私とする。
時間という概念を持ち出すと、蓄積的、過去未来、蓄積的成長などの概念のとりこになる。
そして、最大の競争意識を支える個という執着物も同時にセットで生んでしまう。

魂という概念に個はない。属性が神だからグループ、繋がり、調和的、協力となる。
時間もない、物質でもない。だから少なくとも、とらわれはゼロだろう。

さて、問題は、我々は魂を持ちながら、肉体をもっているので、競争意識と調和意識。
利己主義と利他主義等、こんな大きな大前提となる二元論の動機で、我々の言行の行動
指針が支えられていると言える。

だから人間は二つに分ける事ができるといっても言い過ぎではない。利己主義と利他主義者。
利他主義というのは、狭いと家族、広いと宇宙。利己主義も狭いと個人、広いと宇宙。
結果的に、二元論は、左右だけでなく、上下もあって、論理的には球体を示している。
広くなれば、同じものに取り込まれる。二元概念というものは、それ自体が広くなれば、
一元化してしまうものだ。

続く

私がここで言いたい事は、我々の常識は左右には敏感だが、上下には鈍感であるという事実だ。
そして成長と後退は、上下で起こる。例えば、自分という言葉だが、ある人は、まったくもって
一自分の肉体をもって自分と呼ぶし、ある者は、自分は宇宙とする。またあるものは、
自分と家族とは一つという意味で自分と呼ぶ。

しかし一般社会での思考習慣は実に抽象的に自分というものを表現する。私という言葉も同様だ。
我々自身、本当は私と呼べる者は一人もいない。後の私の課題として、私という字は仏に似ているが、
なにか繋がりがありそうだ。

死という問題と、この上下左右の概念空間の問題を掛け合わせるならば、死を知ると言うことが
人生の目的と仮定して話を進めているが、目的が死を知る事であるならば、死に近い知のあるもの程
上位ということになる。あらゆる上下の計りは、生側か?死側か?で計る事ができるといってもよい
のではないか。(そのような視点もありうると考えて頂きたい。)

続く

私が合気道や武道関係で人を見るときは、死を基準に観ている感がある。死を恐れない者の
身体操作は観ていて解る。これは想像ではなく。人間というものは、感じられるのだろう。
戦争でもなんでも死に近い者が勝つ。つまり制限がないということだ。

私は、私を語る事もできないのにも関わらず、私といいながら、様々な事を言ったり、
行動したりしているが、もし、未来の学校があるとするならば、私は、私をまず
教えるべきだと考える。そして私は死ぬのだと教えるべきだと考える。
私が教師ならそんな所を共有したいと思う。
今日は漠然としたエッセイとなってしまった。

では失敬。

物理法則とか合理的思考、唯物的思考つまり、我々自身が抱えているドグマは、
それ自体を共有する人間達との社会生活をおくる常識として、あるいは、
意識の一つとして用いる事は便利である。

問題は、多くの人間が、その常識が唯一であるという原理主義的に常識を扱っている
ということで、これは、ドグマの特性を持っているということだ。簡単に例を上げよう。

病気は、常識からみると病気というマイナスイメージだ。
死も生命尊重主義という常識から観るとマイナスイメージとなる。
規則厳守、正しさの信仰、答、結果を求める心、時間は過去から未来へ進む。
歴史は真実だ。こういったものは、常識に立脚している。

問題は常識という原理主義は、一つの考え方、一つの視点、一つのマトリックスであると
いう完全なる理解が、常識には、盛り込まれていないと言う点だ。
これが、常識の城壁であり、常識自体を守る自己防衛システムとなっている。

続く

つまりここまでの結論を出すならば、常識は一つの意識であって、これは、ある特定の
場所で人間生活を送る為に使う事ができる道具であるということだ。つまり日本に居る
ならば、日本の常識を使えるならば、日本の言葉を話す事と同様に、日本でうまく生活
するための、一つの道具を手にしているという程度の事だ。

例えば、常識の面白い点という例を出すならば、先進国では、ハリウッド映画の洗脳が
うまくいき、最大の攻撃は、殴る、蹴るだろう。別の常識では、喉を割るだったり、
耳を叩くだったり、転ばすだったりする。また、争わないという心が最大の攻撃だったり
もする。

また、我々は原爆の被爆者の生々しい写真を沢山目にする機会があるが、当のアメリカ人
に聞いてみるとよい。彼らは、あまり原爆の被爆者の実体を知らない事に驚くだろう。
先進国のみならず、日本に限定すれば、こんな聞き慣れた言葉がある。
「日本の常識、世界の非常識。」私はそれだけでは不足だと考える。
「先進国の常識、宇宙の非常識」さらに、常識は、固定された意識であるうちは、
寛容の精神には到達しない。

常識に寛容が盛り込まれるならば、常識としてうまく機能するだろうと考える。
つまり常識に自己防衛機能がなくなった時点で、常識という概念は終演を迎える。

続く

さて、常識とはマトリックスであり、ドグマであり、固定された意識状態であり、
原理主義等に代表される一つの意識の牢獄だが、映画マトリックスは、この
実体をうまく映像化しており、常識への疑問段階を経ている諸子達には、非常に
予感的な感覚を通して、楽しく観ることができるだろう。単なる娯楽としても、
十分楽しい映画で、シリーズ3部作を観るのは、お勧めだろう。

さて、常識という視点から、合気道を観てみるとまた、色々な発見がる。
素朴な疑問として、何故、当て身主体の空手のような形態にならないのか?
また、何故、試合が無いのか?(一部にはあるが)。何故、剣・杖をする
門下があるか?。何故、袴を履くのか?。何故掴みの鍛錬を強調するか?。
こんな素朴な疑問の中に、最大の答があると考える。

世間では脱力だとかリラックスとかいう表現で、盛んに盛り上がっている
風潮もあるが、少なくとも、私の鍛錬する合気では、リラックスとか脱力は
強調しない。そのかわり、実技がある。つまり理合いが成立している。
たぶんどの合気道場でも同じだと思う。

続く

常識で考えるならば、リラックスとか脱力というのは、的を得ているのかも
しれないし、理解はしやすいかもしれない。しかし、問題は、リラックス、脱力の
先にある感覚伝授が実であり、リラックス、脱力は、そこに至る技術に過ぎないという
ことだ。

さらに、大抵は、技術は、技術そのものの追究に終始するという、技術の
特性が、実の追究の邪魔をする。技術という考え方も一つの常識から観て、受け入れられ
やすい概念体系だから、技術至上主義も存在しているし、現にこれらの話題は、ここ2chでも
こと欠かない。

心身操作はを語ると技術に聞こえるだろうが、実は、そのようになっているという理合いで、
こうすると、こうなるという自然界の秩序の発見の再現であろう。再現性があるものが、
常識が科学的というならば、それは科学的とも言える。しかし科学的に考えて行った先に
理合いがあるのではなく、常識から観ると結果的に科学的という概念に収まっているに
過ぎない。

先祖の教えや、ブッダ、キリスト、モハメッド色々な聖人達、もちろん開祖も含むが、
こういう人達の教えは、余計な解釈を交えず、そのまんま、実行すれば、こうなるよ。
という風に純粋に実技として実行すれば、そのようになるという理合いを語ってきた。

続く

だから、本来は、事は簡単で、必要な事をすれば良い訳で、むしろ、必要な事が
できないが為に、合気道などの道は存在するという、また面白い流れとなっている。
合気道も仏教その他、古典的宗教と同じく、業の解脱にその本質をおいている。
必要な事をすれば、自ずと、その境地に到達し、気づき、その気づきがその道の実
の部分として成り立っているわけだ。

言い換えるならば、個人の気づきを普遍化することはできないし、私の気づきは私のもので、
概念として理解してもらうことはできても、気づきを共有はできない。つまり
気づきは個人的なものだということだ。

結果的に道と名のつくものは、常識から観ると超人に成る道ということになり、
超能力者になる道、あるいは、神業の体得者への道となるだろう。しかし、
体得者、あるいは、修行者は、超人でもなんでもなく、人の道だという認識として
淡々と歩く。

続く

もちろん、これらの道には、超人技を極めるという目的論的な邪悪なささやきに
負けて、人の道を踏み外してしまう人もいるし、この道にも様々な執着物が存在する。

そう、神社・寺院にも人の通る道(参道)があり、その周辺には様々な石像や、見物が
あるが、それは、守り神であったり、邪魔者であったり、幻想の象徴であったりだ。
これらの配置の意味する所は、その道の純粋性に到達するときに出会う境地の象徴を
示すものが多い。注意深く参道を感じながら、周辺を観てみると理にかなっている事を
実感できるだろう。

特に、人間修業に特化した象徴物であるもの。すなわち神社、寺院、あるいは、武道で
言えば型等は、順序があるし、その意味もあるし、その意味の境地の再現も全て、その
象徴に盛り込まれる。これは、創始者の意識、無意識の両方が関与せざるを得ない。

続く

なにが言いたいのかというと、伝承者というものは、その伝承者のもっともしっくりくる
象徴物をこしらえる。それが伝承の核心となっている。伝承の核心とは境地の共有となる。
境地を伝達する時、伝道者はあらゆる手段(道具)をもちいて表現する。そこには、
その伝承者の存在が宿るというのは理にかなっているだろう。

つまり型を正確に学ぶならば、開祖が感じられるはずであり、開祖の愛した事象に
触れれば(有形無形含む)開祖が観えるということだ。だから合気道修行者として、
開祖を感じたいのなら、開祖と同じものを愛すれば、意識のシンクロは起こるという
ことではあるまいか。

つまり、もし境地を共有したいのなら、同じ事をただすれば良いということだろう。
さらに、開祖は苦労されて、後世代に直接的に境地の再現に近づく工夫されて体系
をこしらえている。そのまんまただ行うだけで、十分な気づきが起こると考える。
但し、我々が余計な解釈、拒み、しがらみを捨てればという所ではないだろうか。

では失敬。
470名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/12 14:51 ID:P9/aBKMd
△○□ 真合気道!入身転換術反射道7 □○△
http://sports.2ch.net/test/read.cgi/budou/1067162467/l50

>670 :万有愛護♪ ◆YNJHAJIMEY :03/11/12 14:27 ID:cEyjnvAN
>>666
>>たかだか11年愛器をやっただけで原理原則を悟ったような口を聞くのは

>原理原則など、小学生でも一年で悟れます。
>はっきり言いますが、この僕の12年間の稽古量を超える合気道人は、この世に存在しない。
>僕は他の誰よりも、多くの稽古をしてきました。
>合気会だけではなく、どこの誰でもいいですよ。
>僕より簡単に原理原則を説明出来る人がいたら、紹介してほしいものです。

キミたちの挑戦を待てるよ
471【勇気と覚悟と自己超越-1-】幼児:03/11/13 22:05 ID:D/wX9Te5

我々は何処にいるのか?という素朴な問いを今日は立ててみたい。
とは言ってもいつもながら、いつもその話なのだが、導入の挨拶は、
様々に変わる。どのような話の展開になるのかは解らない。

さて、最近の私は、音楽を少し探究しており、音の可能性というか、
音の深さと広がりについて少し探求しているっていう訳です。
これは、武道でいう気合いにも関連するし、呼吸にも関係する。
これは、音とは、振動という意味で音をとらえるのが、真実ではないかという
ちょっとした予感めいたものを感じたからです。

他者が発する気合いによる硬直状態もあるし、他者の発する音に対して、
快・不快を経験する場合もある。それに、音楽によって気分が左右されるし、
音楽によって特定の身体の部分と共振めいたものを感じる事もある。
言葉という観念・想念操作は、言うに及ばずだ。

続く
472【勇気と覚悟と自己超越-2-】幼児:03/11/13 22:06 ID:D/wX9Te5

今回の探求は、振動という点で、どんな身体的影響があるのか、注意深く
音楽を聴いてみた。だいたい掴んだものと言えば、自然界の音との一致で、
だいたいの音、振動が説明が付けられるという結論に達した。
つまり人間は自分自身が自然という初期状態にある。その差を楽しむというのが
音の楽しみということになる。

身体感覚から音を振動としてとらえるならば、音そのものには、なんら実は
なく、振動を体は受け取っている。そして共振を起こし、呼吸や内蔵、その他が
音楽と同調する。これが身体で音楽のパターンで、意識するにせよ、無意識であるにせよ
音楽という振動はそのような結果になることを確認した。

実際は、音というリズムや、歌詞による観念・想念という主に心、すなわち感情で
聞くと同時に振動として身体感覚でも、聴いているということになる。
それがミックスされて、我々は音という振動物をとらえている。
振動物といっても、人間の知覚を超えて音楽(音)を聴くことはできない。

続く
473【勇気と覚悟と自己超越-3-】幼児:03/11/13 22:06 ID:D/wX9Te5

私は、仕事中大抵音楽を聴いているが、感情で聴くものと、身体できくもの、
を分けて好みが成立しているようだ。あと、ながらではなく、瞑想というか、
音楽そのものに浸る時に聴く音楽もある。それらを含めて大きく分けて3つに
分類される。浸る音楽は、イメージが観える。そのイメージと重ねて、合気の
体術のイメージトレーニング的にイメージの世界で稽古することもできる。

音楽好きなら、他人の音楽傾向を把握すれば、大抵その人の人物像が解る。
読書傾向でも簡単に解ってしまう。車好きなら、車を観れば、その人が解る。
合気道なら、他人の身体操作を観れば、人が理解できるだろう。
子供の運動会などで、走る姿をみれば、その子が一目瞭然だろう。

大人になると走るのを恥ずかしいと思う人もいるようだが、走れば、
その人そのものを表すから、恥ずかしいのだろう。ばれちゃうからね。
しかし、精妙な世界から観るならば、歩いても、顔でもなんでも、
文章にも言論にもそこに顕れるのだろう。

続く
474【勇気と覚悟と自己超越-4-】幼児:03/11/13 22:07 ID:D/wX9Te5

しかし、顕れるという事に敏感ではない人にとっては、また、顕れから
実体と結びつけてとらえる感覚の退化した人にとっては、様々な自分の行動の
顕れが、丸裸であるという自覚がないため、隠し通せると考えるのが自然だ。

我々が目にする人の中にも、バレバレっていう人がいるものだ。
本人は真剣に隠して居るのだから、こちらもあえて嘘につき合うはめになる。
顕れに敏感になればなるほど、正直にしないと恥ずかしいという感覚になること
は想像できよう。特に道場などでは、ほとんど丸裸の状態だろう。

恥ずかしいという言葉で思い出したが、人間というものは、恥ずかしい感覚が
訪れる瞬間を記録することは、大切だと考える。つまり恥ずかしいと感じる
ケースはどんな状況の時か?っていう問いは、成長にとってとても大切だ。

恥ずかしい事は、見られるという、第三者の視線に自分が立つ場合に感じる。
だからずっこけた自分の写真を見るのは、恥ずかしいだろうし、また別の人も、
それ相応の恥ずかしさを感じるものだ。

続く
475【勇気と覚悟と自己超越-5-】幼児:03/11/13 22:09 ID:D/wX9Te5

稽古では、恥ずかしさというものは、ゼロでなくてはならない。
純粋に観る人、すなわち体験者にならなくては、身に付かない。
第三者の視点で、思考を介入させ、言語と記憶にたよった身体操作を一生続けても、
身体操作の核心は掴めない。時系列的な自然成長は望めるが、事の核心には至らない。
今も、昔もモノ覚えは体で覚えるということだろう。

さて、恥ずかしさに話しが展開して、その感情は人間成長にとって大切な感情サイン
であるという事に帰着しているが、これは壁の一種で、ちょうど、恐怖を感じた
瞬間、愛を行う瞬間、つまり次の瞬間の自分が想像不可能の場所に立っている事を
意味する。

それを越えるのは、自己超越であり、新しい世界のスタートで、心境としては
バンジージャンプの決心の前の一点の感覚であろう。覚悟が決まれば、スパット
ジャンプできる。また覚悟がなくとも、勇気でもって飛ぶこともできる。
さらに意気地がないのなら、人に押してもらうこともできる。それすら出来ない
としても、瞬間の中に放り込まれる場合がある。例えば、ちょっとした拍子で、
飛んでしまったっていうパターンだ。進化でいえば、突然変異だね。

続く
476【勇気と覚悟と自己超越-6-】幼児:03/11/13 22:09 ID:D/wX9Te5

最後に出てきた、瞬間の中に自分を放り出すというのは、技術の問題で、
覚悟も勇気も他人もなにも必要がない、方法で行う事ができる。
これは、感情に支配される次元を越えた次元に意識の入り身を行う事だ。

感情に支配されない意識の次元も存在し、それは、合気の稽古によって自然に、
理解できるだろうし、自分自身に問いを向ける人なら、気づきは時間の問題となる。
その意識でもって瞬間、すなわち、時間の消し方さえマスターすれば良いとい
う問題に置き換える事ができる意識次元もあるという事だ。

上位の意識を経験したのなら、勇気や、覚悟という言葉に代表される感情は、
消滅する。勇気などは幻想であったと理解するわけだ。開祖の言う、死を
恐れない境地はその次元にあるということだ。この問題は、自分自身を知る
事による鍛錬で、速かれ、遅かれ到達する意識の次元で、超人の話ではない。
その証拠に、我々が仮に戦場に繰り出されたら、勇気という言葉は消滅するだろう。

続く
477【勇気と覚悟と自己超越-7-】幼児:03/11/13 22:10 ID:D/wX9Te5

さて、我々は、平和な社会に住んでおり、それでも常に自己超越を経験している。
この経験を感動と呼ぶ。子供のころは、自己超越ばかりしていたから、
怪我も多かったし、泣くこともあった。様々な感情表現が存在した。
いや、自己超越と感情はセットで存在できる。

もし、我々の毎日が、無感動で、終わらない毎日が繰り返されるような感覚をもって
生活しているとするならば、自己超越をしていないという一点で、帰着させることが
できる。つまり完全な繰り返しのパターンに入っており、意気地なしの状態にいる。

この心境は、なにかの拍子に、突然変異を期待したり、チャンスを探したり、
人に押してくれ!という思わせぶりを行うだろう。そうなることは自然な事だ。
しかし、第一歩は覚悟と勇気をもって事にあたれば、実は毎日が感動となることは、
理にかなっている。

続く

趣味や仕事その他に没頭する事は良いことだろう。問題は没頭そのものが
逃げ道的にならなければという事で、仕事中毒とか、快楽主義とは区別が
必要であるということだ。没頭といっても実に幅が広く、それだけ観ると、
誤解を生む表現だろう。

難しい表現を避けるならば、童心に返り、ワクワクしながら、自分の成長を
噛みしめ、泣き、笑い、苦しみ、怒り、そんな感情起伏の中にどっぶりと浸かる
生き方を私は、没頭、あるいは、夢中とあえて定義したい。

これを、永遠の今に生きる心境とも言えるし、生きる証を噛みしめて等ともいう。
このレベルで生きる者にとっては、魂・神・馬鹿・気違い等の言葉は、
当たり前の言葉ではあるまいか?

では失敬。
479名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 05:52 ID:FuaMsZrh
合気道について思うこと何点か。

合気道は確かに元をたどれば数百年の長い伝統を持つ武道で、戦闘を生業にする武士の間で継承されてきたわけだ。
動乱を生きぬくための術としての合気道であったから、当然、原始合気道は戦場で役に立つ武道であった。
さもなければ、数百年に渡って継承されることはありえない。
戦場で使えないものを武士が取り入れ、残すとは思えない。

では、現在と昔では何が違うのか。

もちろん練習の形態が違うのは当然だが、以下の二点ではないかと考える。

@主たる継承者であった侍達が、剣術や槍術、相撲などで、十分な「剛」の基礎体力、戦闘力を備えていたこと
頭脳労働者が主となった現在と違って、命のやり取りの戦乱の世であるから、侍達の基礎の戦闘能力は現代の武道家なぞを遥かに超えるレベルにあったであろう。
となれば、「剛」を知っている侍達は、合気道の教える「柔」の脱力についても、理解をしやすかったのではないか?

A想定される相手が鎧を着ていたこと
合気道の基本練習である「しっこう」(膝を交互に出しながら進む動き)はあれは、鎧を着た侍が前に進むときの動きである、鎧を着ているならば合理的な動き方である。
また、基本練習の体の転換で相手の手首をつかむのは、相手が剣や短刀を持っていることを想定しているからだろう。
現代において不条理とも思える動きが多く残っているのは、鎧を着て、剣をもった侍同士の戦いから生まれた動きだからではないか?
素手、軽装が当たり前の現代社会においては適合的でない前提となってしまっている。
それゆえ、合気道には現代武道では不可欠になった「スピード」という概念が抜け落ちてしまっている。


こんなことは、開祖は百も承知だったし、その上で現在のような体系にしたのだろうが、そのうち前提が違うこと、適合的でないことが忘れ去られてしまったのではないか?
もちろん、治安の良い日本での事だったから、今のような形でも護身術としては通ったのだろうし、「争うな」の教えにはそれなりに共感はするが、現代の合気道は、その分進化、変化への活力や柔軟性を失ってしまった感があるわな。
480名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 06:02 ID:RNXKhfoT
>>479
十キロの鎧着けて膝行したら、死ぬ目に遭うと思うぞ。

どのへんがどう合理的なんじゃ。

ありゃ、ただ単に正座の状態から素早く動けるようにする鍛錬じゃねーんか。
座り技もあるやんけ。
481名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 09:36 ID:458beSoF
いや、10KG程度じゃ死なねーと思うぞ。
バランスを保つのが大変になるだけでな。
ドラマとかで、殿に呼ばれた侍が、鎧を着たままで膝行で前に出て行く姿を見た事ないんか?
全体の重心の安定を保つ練習だろうよ、あれは。

まあ、おれも実際に鎧を着て動いてみたわけじゃなし、推測の域はでないがな。
482名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 09:45 ID:RNXKhfoT
膝の骨出そう
483名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 10:15 ID:458beSoF
>>482
大体10KG程度の体重の増減なんか、武道やってりゃざらに有るわな。
君の理屈が正しいとすると、60KGで膝行やっていた人が、少々太って、70KGになって膝行をしたら、膝の骨が出るという理屈になるぞ?
そんなことどう考えてもあり得ないだろ。
実際には、100KGで膝行をこなす人も、世の中にはざらにいるわけでさ。

そんな、細細とした本質と関係ない部分をつっつく暇があったら、もっと全体の本質的な部分で、生産的な議論をしないか?
484名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 10:26 ID:RNXKhfoT
冗談というものを少しは理解してチョーだい
485名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 20:24 ID:rrCtm9ID
>479
なんだかなぁ…貴方の意見は違和感を感じるよ。うちは岩間系なんだけど合気道は近代武道だって教わっているよ。
岩間は合気道発祥当時の開祖の教えを伝えていて、体術、剣術、杖術、手裏剣術など教わるが、鎧を着た想定になんか
なってないもの。それに膝行や手を握るってのは、確かに戦国時代に生み出されたものだけど、現代にそれ等が
残っているのは、それなりに理由があっての事で、別に現代にそれ等が適合していないとは思わない。
486MkII ◆SvM8Ucf5mY :03/11/18 21:58 ID:AOInX2f4
>>485
えーっと。。。
あれはコピペですよ。
487胎児:03/11/18 22:43 ID:+AQJaHC2
コピペだろうとなんだろうと、僕はまとまった意見、引用、結構じゃないですか。
同時に、生産的な議論という点には賛同する。じゃあお前の意見は?って。
僕は今日は寝る。
488名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 23:31 ID:ZwbCtL9F
もちろん、巡り巡れば体の転換にはとても大きな意味があり、手を握ることそのものに意味がないとは言わないわ。
ただ、伝承が間違ってしまうと、とんでもない伝わり方をしてしまい、あたかも、喧嘩のさい、相手が手をつかんでくることを想定して、あの練習があるかのような教え方をしているのを聞いたことがある。
「適合的」と言う言葉が、何を持って適合的であるかとの定義にも拠るが、少なくとも、何故この動きが生まれてきたのかの意味を考えながら練習しないと、本質を見誤る恐れがあるのではないかと考えるが、如何お考えだろう?
断っておくが、合気道が喧嘩の役に立つか、立たないかとの不毛な議論をするつもりはまるでないから、そこはご理解願いたい。
489【合氣道の一つの世界観-1-】幼児:03/11/19 21:52 ID:y94DyCB4

今日は、皆さんの隙間からおじゃまするという形で、ちょっとだけエッセイしたい。
邪魔する気はないが、一人でつぶやいていても、つまらないので、改めて、
武道、合氣道を考えてみたい。とっても、いつもの焼き直しだが…。

皆さん様々な武道感、合氣道感をお持ちだと思うが、どれも個人的なもので、
尊重されるものだ。そして、それはどれも個人にとっては、正解であり、
正解というのは、人として人生の道の途上の合氣道感、武道感として、各々が
誠実に語るならば、それが我々自身にとって正解なのだろう。

結果的に、人間修業というものは、行き着く所は同じで、手段は武道に
限らず、人の数をも超えるだけ無数に存在し、我々は、意識・無意識に
それを行っている現実がある。

多様性・寛容・調和というものは、対立・批判・競争という概念を退け、
一つにとどまる事を差す。これを愛とか神とか自然と言ってもいいが、
つまり、どどまる場所は善として存在しているし、我々自身が本能的というか
原初的に、良心としてあるいは、良知として感じている。

続く
490【合氣道の一つの世界観-2-】幼児:03/11/19 21:52 ID:y94DyCB4

さて、私は合氣道をどのようにとらえているのか?という問いだが、
これは、私が接してる合氣道の道場、門下。そして私の人生観がミックスされて
形成されている。私に限らず、諸子同様だろう。

まず、高みから身近に下げるという形で、私の合氣道感を語らせて欲しい。
最終局面は、死の瞬間であり、己を知ることであり、これまでの合氣道感の
集大成を感じる時だ。その想定を今語る事は、すなわち私の合氣道感の根底を
語る事になる。

それを一言で言えば、合氣道と出会って良かったぁ〜なのだろうが。
すなわち、この世で生きて良かった。であり、楽しいというただ、単純にそこに
行き着いてしまう。

従って、何が楽しいのか?という問いが合氣道感を語る事になるだろう。
実技的には、身体操作の効果的体系ということができるのだが、身体操作と
心は一つで、体を動かすと心もそれに影響され、心を動かすと身体に影響が及ぶ。
だからこれを心身操作の学習と言える。

続く
491【合氣道の一つの世界観-3-】幼児:03/11/19 21:54 ID:y94DyCB4

具体的に心身操作の識別をつけるならば、思考、感情、精神、感覚すなわち私の肉体の
見えない部分を鍛錬・学習する事となる。そして結果的に顕現する身体実技を通して
合氣道の体術として顕れている。(一般世間では観てくれを合氣道と取る。)

その鍛錬・学習方法は、道具(肉体を含む)を用いた操作であろう。それを行うのは、
肉体を越えたもの、すなわち魂という概念で代表される実在(私)が行う。
その存在があろうがなかろうが問題ではない。心身を見渡せる位置の意識で、心身を
鍛錬すると補足してもよいだろう。
簡単に言えば、体の動かし方(実技)を行う事によって、内面の鍛錬を行う。
と結論づける事ができる。

だから、試合はいらない。強くなくてもよい。踊りでも良い。攻撃はいらない等だ。
これは、非常に誤解を受けやすい表現だが、強さも、踊りも、攻撃も、本来は
言葉にできるものではないし、一面的解釈で捕らえられる代物ではない。

続く
492【合氣道の一つの世界観-4-】幼児:03/11/19 21:54 ID:y94DyCB4

ただ、このような発言をする意図を語る事は、誠実な心に恥じないだろう。
根底を語ると、我々現代人は、攻撃に弱い。自分を守るという想念が支配的な時代に生きている。
そうではなくて、受け入れる、寛容、受容、調和などは、主張・競争・功利とは、
相反する個がなく、個人主義的生き方ではないということだ。

合氣道では、調和に代表される、まあ、簡単に言えば、仲良くであろう。
仲良くを無限大に拡大解釈してゆくのが合氣道であると私は捕らえる。
攻撃・競争・主張の社会では、守る・防御的・護身的に調和的概念をとらえる
思考習慣となっている。個は全体との接点がないというのが前提となっているようが、
私はそのようには考えない。

単純に考えて、攻撃在るところには、防御がある。これが、守りの精神を生む。
あるいは、攻撃の精神を生む。そして我々は、守りが高じると攻撃をする。
これは、怖くなると怒る。臆病風邪に吹かれて、つっつかれたくなくて、
とりあえず、先手必勝だとか、こんな精神に代表されている。

続く
493【合氣道の一つの世界観-5-】幼児:03/11/19 21:55 ID:y94DyCB4

私が言いたい事は、まず、攻撃をする人間、防衛する人間というものは、
どちらも同じだ。それがどちらの極にころんでも、同じタイプの人間であるということだ。
つまり、弱いということ、そして臆病に尽きる。他人とは相成れない、あるいは、人は裏切る。
突き詰めると、愛の欠落であろう。ただ生きる事ができない状況にいる。

そこから抜け出す道として、つまりカルマ、業、等の原因と結果の直線的理解を
越えた世界観の提示あるいは、会得という道として宗教や、武道、そして私の愛する
合氣道が存在しているということだ。つまりマトリックスを越える、そして、
現代の我々自身が陥っているドグマを越える技術として存在している。

だから、武術とか、世間で言われる獣的な強さというものとは無縁ではある。
しかし、修業体系としては、そのような強さは、付録として我々自身に付いてくる。
これを開祖は、霊力にとらわれるな…的に表現されたが、その霊力を目的として
鍛錬することは、超能力を目的としたエゴイスティックな強さの追求と化するのは、
目に見えている。しかも、この強さの追求への執着は強烈だろう。

続く

霊力というものに、敏感な体系としては、新体道や、肥田式、ヨガの一部等にも
そのような戒めは存在している。一種の魔境のささやきだろう。知識にも、
趣味にも、どんな人間活動にも魔界はみられる。

我々自身で、神へ通ずる参道を脇目もふらず歩かなくてはならないと考える。
確かに、魔境をかいま見る時もある。そんな自分に怖くなる時もある。
しかし、付録的な能力は、実ではない。使う必要が在るときは、人の為であり、
自分の為ではないということを心すべきであろう。

私が受けそして、私の持つ合氣道感というものを語った。これは私個人のものでもあり、
同時に私の真実である。どうも、おじゃましました。
では失敬。
495名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/21 08:30 ID:fhrZDJoA
しかし、元来の合気道は、人殺し技だったわけださ。
それをきちんと昇華したものが今日の形態であるとお考えだろうか?
496名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/21 11:52 ID:iHGWpP72
>>495
>元来の合気道は、人殺し技だった

そんな事はない。成立過程を考えても。
497名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/21 14:19 ID:m4nRWk9R
>そんな事はない。成立過程を考えても。
…いや、俺も岩間でその話しを聞いた事があるよ。開祖はそれゆえに、身元を保証する紹介者がいないと入門させなかった。
岩間は、その名残で、紹介者がいないと入門するのが大変なのよ。

498名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/21 14:28 ID:iHGWpP72
もう江戸時代に入った頃には武芸はサラリーマン武士のたしなみ的なものだったり
道場開いて生徒を集めてメシ食う手段だったわけじゃないの?

合気道ができた時代考えたら。。

>>497
岩間って何ですか?参照URLなどあったらきぼんぬ。
499胎児:03/11/21 23:18 ID:SEGhH5ly
問題は、我々自身、合氣道をどのように捕らえるか?が合氣道の本質にあると
考える。合氣道は武術を通じて心身操作を学ぶ体系であると私は認識する。
同時に身体は、心(魂でもいい)をを制限する物以外なにものでもないという
根幹を占める考えを確信している。

武術は、人殺しにも使える人間があみ出した一つの道具と考える。
道具は、使う者、それを捕らえる考えによりいかようにも解釈できる。
その解釈を討論しても意味をなさない。在るのは人の数だけだ。

武術イコール殺人技術は社会通念であるが、殺人技術自体を学んだ場合、
その学んだ事をどのように活かすかは、個人に委ねられる。

殺人技術への活用主義に還元して全てを捕らえると、現代社会においての存在意義が
攻撃と防御。守りと攻め。競争。対立。それらを越える事はできない。
殺人技術の文字通りに活用したならば、彼方にあるのは、最終戦争となる。
私個人は平和を望む。

岩間(茨城道場)は、ウエッブページはこしらえていないと思う。
門下道場は数カ所ある。岩間スタイルで検索すれば出てくる。
500名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 00:01 ID:a2JzcXHJ
だから合気道は殺人技術じゃねーべ。
だって人殺せないしw

だって締めもないやん?
当て身かてちゃんとした伝承ないやろ?
「含まれます」て看板があるだけでさ。
ほんとはすごく大事なはずなのに。
杖とか剣とかは型の都合で含めてるだけと言ってもいいやろ?
501名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 00:07 ID:w0BKY7bm
締めで人が殺せるのか
502胎児:03/11/22 00:49 ID:8nPtzPif
合氣道を各々がどのように捕らえて、修業しているのか?という点が、
様々な発言から、掴む事ができる。
私は、各自の合氣道の修業感を語る事をすれば、我々自身の問題として、
考える事ができるだろう。私は各自の修業から得た洞察を共有する、
あるいは、反面教師とする事が有益だと考える。
503名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 07:03 ID:0TgW9rtU
いや、投げにせよ、極めにせよ、使いようによっては人を殺すことも十分にできる。
それを敢えて、刃を削って、傷つけない様にしたのが現在の形ではないか?

大切なのは、何故、敢えて刃を削ってでも伝承しようとしたのか?
必要のなくなった殺人術を、何故、活人術として伝承しようとしたのか?
先人達の思いをできるだけ正確に受け止めて、伝えていくことが必要なのではないかと考える。

薬の多くが、毒の研究から生まれてきているように。
化学の発展が、錬金術というとてつもない代物から生まれてきているように。
悪をベースにして善が生まれることのほうが、世の中には多いと私は考える。

先人達の意図は何であったのであろうか?
504名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 09:36 ID:a2JzcXHJ
>>503

だーからー。江戸時代に入った頃にすでに武術の技は無用の長物に化しつつあったわけで、
そこで武術家というより「武人」の中で理論派の人が「メシのタネにするために」
「〜流」っていう体系をまとめて、どこかの藩で指導者として採用されて
食いつないでいく事とかを目標にしたんじゃないの?
明治以後生まれたようなものも、なんとか大会で警察に採用されたヤツとそれ以外で
運命ががらっと違うわけでしょ?
505胎児:03/11/22 13:34 ID:8nPtzPif
>>503
先人達の意図は何だったのかな?と私も常々考える。
そこで、我々現代人は、現代人のドグマでもって条件反射的に、
現代人流の解釈を即座に反応として、発言する。

あなたの言われる先人達の思いに代表されるものを、噛みしめる事が、
先人方への恩返しでもあり、後輩である我々の進む重要なカギが
あると考える。

我々の戒める事の一つをあげるとするならば、あなたのおっしゃるような
「先人達の意図は何であったのであろうか?」を噛みしめながら、
各々の修練にあたるということであり、同時に畏敬の感情を持ち続ける事ではないか?
とも私は思う。講釈は学者にさせておけばよい。
薬のお話は、興味深く聞かせてもらった。
506名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/23 02:33 ID:dWjEuFzf
空手にせよ柔道にせよ人殺しの技が起源であった事は間違いない。
肉体的な争いごとが意味を持たなくなるにつれ、それらの殺人術は意味をなくしていった。
その中で、武道が生き残るための方策は2つ。
1、競技化し、安全性を保証し、その精神のみを受け継ぐ形にする。
2、敢えて死の恐怖を演出し、合法的な範囲での実戦性を追求する。
言うまでもなく、1の典型は、合気道や柔道であり、2の典型は、極真空手などであろう。
1、の場合、問題は、伝承しようとした精神が、いかにして生まれ、どのような内容であったのか、と言うことであると考える。

507名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/23 02:40 ID:dWjEuFzf
有名な言葉に、
「空手家は何故戦うのか?、戦わないためだ」
これは、伝統空手の教えなのだが、武道の高段者と全般に通じることであろう。
自らを日々の修練の場に置くことにより、醸し出す雰囲気と、自らの強さに対する自信が、最終的には争いごとそのものが降りかかってくることを回避させる。
そんな境地があらゆる武道の理想とするところではないだろうか?
それゆえ、
「生兵法は怪我の元」
と、片手間程度に学んだ武道ほど、危険なものはないというのも、武道全般に通じる教えではないだろうか?
508名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/23 02:51 ID:dWjEuFzf
こう、うまく言えないのだが、合気道も当然、戦場の修羅場をくぐった人達にとっては、
「俺はその気になれば、人を殺せるけど、敢えてそれはしないよ」
「だから敢えて、危険な技であいてを壊すこともできるけど、安全な逃げ道を作ってあげるよ」
「それは、実戦に裏付けられた、自分の能力に対する確固たる自信があるからなのだよ」
といった発想から、生まれてきたのではないかと、考える。
これはあくまで主観に過ぎないけれどな。
509名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/23 03:01 ID:dWjEuFzf
ところが、実際の修羅場をくぐった人達が居て、その知恵が伝承されていた頃は、それで良かったのだろうが、その実体験の記憶が薄らいでいくとどうなるのか?
「その気になれば人を殺せる」部分の経験が抜け落ちてしまうと、それは空鉄砲でしかなくなってしまう。
少なくとも、護身、実戦という観点からすれば、それが事実であり、今日武道版で議論されているような様々な合気道の抱える問題の原点になっているであろう。
そこで敢えて、意義を見出すとすれば、試合がないとは言え、決して楽とは言えない日々の修練をこなすことにより磨かれた自らの精神性こそが、現代社会を生きる上での糧となって行く、という点にこそ、今日の合気道の意義があるのではないかと考える。
510名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/23 03:06 ID:dWjEuFzf
誰かがうまい例えをしていたが、強くなりたいものにとって、柔道や空手が、普通免許であるとするならば、合気道は、F1の免許なのだと。
普通免許を持っていないものが、F1の免許をとろうとしても、なかなかとれるものではなかろう。
とれなくはないが、気が遠くなるほどの訓練が必要になるのが、F1の免許である。
単純に道を走りたいならば、まず、普通免許を取るのが一番であろうよ、と。
少なくとも、私にとっては、適合的な例え話に思えるのだが、いかがであろうか?
511名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/23 07:16 ID:KpMZxg87
ネタかマジかわからんところがすごい
512胎児:03/11/23 11:54 ID:+uXoT6PX
>>506〜510
>そこで敢えて、意義を見出すとすれば、試合がないとは言え、決して楽とは言えない日々の
>修練をこなすことにより磨かれた自らの精神性こそが、現代社会を生きる上での糧となって
>行く、という点にこそ、今日の合気道の意義があるのではないかと考える。

私もそこに行き着くと考える。実際の修羅場の実体験をどこに置くかという問題だと思う。
つまり、現代の実戦とはなんだ?勝つとはなんだ?という問いに答があると思う。
その答から、上記の発言が現実性をおびると考える。
過去の世界での実戦と今の世界での実戦は、同じではないだろう。

今の実戦の究極は、核ボタンだ。実戦と言えば、核のボタンに行き着くまでの、
様々な戦いを制する点に極点がある。この点が勝つという意味の本質だろう。

この考え、つまり、F1の免許と普通免許の流れの詳細の事だが、
端的すぎる発言として自覚している。
そこに至る私の考えの詳細は、後ほど発言したいと思う。では一端失敬。
513名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/23 15:38 ID:KpMZxg87
このスレってひょっとして1人で書いてるのか?

意義?趣味だろ。

まとめて書くときは、胎児から幼児とする。今回はエッセイとレスのあいのこ状態だ。
別に、コテハンに意味はない。意見に人格はない。

さて、胎児コテハンで言った予告の詳細を語るが、
実戦・勝つ・実践・武術・修羅場等、これらについて我々自身に明確に自覚する事が
我々自身の個々の武道感、合氣道感に繋がるだろう。

人が実戦と言うとき、実戦闘状態のまさにその場に居る状態の意識状態が前提にあって、
言葉を交わす事だろう。実戦闘と戦いと言うことができるが、限定してかたるならば、
街の喧嘩を実戦とする場合もあるし、暴漢が突如襲ってきたとういう実戦もあるし、
人との討論での戦いということもできるし、まさに一般に言われる戦争の状態とも言える。
これは私は議論の対象であるとは思えない。何故ならば、答は実戦闘の中にしかないからだ。

そして、その場合は、生き残る者と死ぬ者、勝者と敗者が出来上がる。実戦を分裂とするならば、
真っ二つに別れてしまった状態だ。つまり敵と身方があって成立する。敵が居て、身方がいるという
事を信念に持つ者達が行う分裂前の決定的瞬間を差す。

続く

敵と味方が存在するという概念を持たない信念が存在するが、それが天下無敵の状態だ。
天下無敵は、誰よりも強いというような意味合いで存在していない。調和すれば、いつでも
天下無敵だ。石は天下無敵。植物も天下無敵。もちろん人間も天下無敵。敵を創るのは
創っている本人の心にある。

問題は合氣道は調和を目指す。どこまでも仲良くやる方法を実技する。一般的に言われる
勝ちでは勝者と敗者を生む。そうではなくて、勝者と敗者を無くする方法に関与する実技を
良しとする。これを合氣道でいう実戦と言う。やっつけてやろう!ではなくて、元に戻そうだ。
元に戻してさらに仲良くしようという思想だ。その思想に立脚して技が存在している。

しかし、やっつけてやろう!という考え方から、合氣道の型や鍛錬形態を見ると、
矛盾がでてくる。アプローチが違う、前提が違うということだろう。もちろん真実は、
アプローチが違っても、実戦に通用するものだろう。これは各自の修業の進行状態に依る。
そして、それを試す必要もない。試したい衝動がまさに、敵を創っている心だ。

続く

武術は、そのような考え方から、様々なアプローチがある。目的があって武術が生まれる。
人殺しあるいは、人守りの為という目的があって、武術が生まれる。もし人を殺す必要もなく、
守る必要もない世の中では武術は生まれようがない。今の世の中で、何故、武術が残っているのか
といえば、武術という真剣な戦いの場で通用するであろう身体操作の技術体系は、現代にとっても、
有効であるということに尽きる。

真剣な戦いの場というのは、まさに我々の人生の事で、生死に密着しているし、今という瞬間にも
生かせる。つまり、即実践可能な汎用性のある人間修業・学問と言える。極限状態で戦う方法は、
極限状態以下の状態でも使える。制限された場所で通用する方法は、制限を越えた環境では、通用する
かどうかは解らない。このようなシンプルな筋道で理解できるだろう。

そして、真剣な戦いの場を、修羅場というならば、現代は平和である。即、命と引き替えに選択を
迫られる状況は、無いとは言えないが、頻繁にあるとも言い難い。そんな中で、武術鍛錬が
軟弱になるのは、致し方ない。軟弱はすなわち時代の象徴だろう。しかし、今は軟弱から、
真剣な戦いの場の想定まで、幅広く様々な場を探す事ができる豊かな社会がある。

続く

同時に、我々自身自分も我々自身の修羅場の想定にふさわしい場所を選択して、そこで稽古している。
今の道場、体系に不満があるなら、別の環境も用意されている。合氣道が仮に不満なら、
別の武道に行けば良い。合氣道こそ素晴らしいのならそこにとどまればよい。
さらに、合氣道の中にも様々なスタイルがある。そして、個人の修羅場の想定の選択により
スタイルも選択される。

極論を申し上げるならば、合氣道を修業するもので、合氣道に不満をもつのはおかしい。
自分の選択を信じられないということは、すなわち自分が信じられないということであり、
自信が無いという事になる。これを勝敗に当てはめるならば、敵に注文を付けるということで
あるし、環境により自分が左右されるという宣言をすることになる。

真実は、調和であり、環境と自分の選択はイコールだろう。自分にとって、正しく選択し、
正しく鍛錬するならば、その選択はいかなるものであっても、自分にとって間違いはありえない。
そういう意味で、段階として各自の選択に応じた武道を行う事がベストであり、現在稽古している
武道に不満が存在するならば、まだその武道と調和していないか、すでにその武道体系の目指す
境地を越えているか、あるいは、その武道に触れる前段階であるという自覚が必要なのかもしれない。

では失敬。
518【鍛錬と感動そして愉快-1-】:03/11/24 23:15 ID:llva7vPJ

このところ、発言者の諸君がいらっしゃるので、私のエッセイを書くのが
少々心苦しいのですが、まあ、一日おいてのエッセイなので、お許し下さい。

私は極から今を語ってしまうので、少々世間ずれがひどい事は自覚しております。
そういう意味で、反面教師として頂けると幸いだと思います。同時に、私が
ここで、エッセイする事は、私自身を知る事でもありますし、私の観察する
世界を表す事にもなります。つまり、私は著者であり、読者です。

人は、私をオナニストだとか引きこもりだとか言いますが、
その通りです。どよのうにも見えます。

さて、今日は、態度、自覚に関する事を、私自身を戒めると同時に、
私の考える愉快という所まで、帰結させたいと考えて、エッセイします。

続く
519【鍛錬と感動そして愉快-2-】:03/11/24 23:17 ID:llva7vPJ

武産合気とは、自己探求の結果の到達点(無限の)であり、芸術と同様、
限りがないものだと私は考えます。この考えは広くとらえれば、全ての
人間活動に言える事でありましょう。

人間活動の本質は、自己超越であり、生命活動の原則と不一致するべくもなく、
自己超越を我々は「感動」と呼び、感情から「感動」を解釈できます。
感覚からは、「感動」を身震いとか、胸が熱くとか、腹の底から…とか感じます。
思考からは、「感動」を気づきとか、なるほど!とか悟ったとか解釈します。
やってる事は、自己超越の快楽です。美しい生命共通の言葉でいえば、
生命の息吹とでもいいますか。

自己超越の快楽は、生きている者、すなわち様々な形態の生命が、様々な形で、
感じている、証みたいなもので、生きる事の脈動、鼓動は常に、我々の今に
宿っている訳で、生きる事に敏感であれば、そのように感じるのは理にかなってます。

大人になると、頭が良くなってというか、思考を必要以上に使って、シュミレーションを
します。予測できるはずもない世界にまで、そのシュミレーションを行います。
そのシュミレーションは、過去と未来そして今という場所以外の場所に向けて行われます。

続く
520【鍛錬と感動そして愉快-3-】:03/11/24 23:18 ID:llva7vPJ

問題は、シュミレーションの精度と使用用途に問題があると言えると考えます。
私がナイフをもった相手と対等したとき、シュミレーションできるのは、
その対等した瞬間の後、生き残った場合に限り、過去をシュミレーションして
思い出す事ができます。

しかし、ナイフを持った相手にシュミレーションして未来の勝ちを予測は出来ません。
出来ることをするだけです。もし頼るという表現が当たっているとするならば、
頼るものは、思考ではなく、直観ということになりましょう。そして意識のレベルの
話をするならば、無意識ということになりましょう。但し、無意識を意識できるように
なることが武道の目指す意識ではありますが。便宜上無意識を用いたということです。

ここで、問題となるのは、明らかに私に有利で、勝ちが間違い無いという場合も、
シュミレーションは不要であると言うことです。何故ならば、先のナイフの例は、
全力を尽くす、必要な事をする。という一点で事を行うと言うところに確信があり、

某ショップのマニュアル対応のごとく、殺意のある相手をシュミレーション
すなわち自分のマニュアルで処理してよいのか?という問題です。
これは微妙なニュアンスで、思考を介入することが悪いというのではなく、
自らこしらえた制限(思考)に縛られた対応では全力を出しきっていないという
事を示唆したい訳です。

続く
521【鍛錬と感動そして愉快-4-】:03/11/24 23:18 ID:llva7vPJ

別の例として、目の前に居る、気に入った女性と、近づきたい時、シュミレーションは
不要でしょう。声をかければよいです。もっと言うなら、つき合っている女性が
たまらなく、愛おしい瞬間に出会ったなら、「愛している」とささやけばよいでしょう。
心身統一、知行合一、言行一致、無念無想というのは、遠くにあるのではなく、
今、ここにある意識の持ち方で、訓練せずとも、本来はすれば良いだけでしょう。

武術、武道は、殺人技、この言葉に神経質であれば、心的、肉体的ダメージを敵に
与え、敵を制するという一面的とらえ方で、少々筋道を立てて考えてみます。

これは、敵に適応するという考え方で、鍛錬するものは、身につけてゆく能力ですが、
これを自分に向けるならば、自分の内面にある心的、肉体的な敵を制する事もできると
いうことになります。自分の心に入り身できるならば、人の心にも入り身できる。
人の力を転換できるならば、自分の力も転換できる。つまり、心に置き換えるならば、
自分のマイナスの情熱を転換によってプラスに転じる事もできるということは、
実践家であれば、明らかな事でしょう。

続く
522【鍛錬と感動そして愉快-5-】:03/11/24 23:20 ID:llva7vPJ

最高の憎しみ持ちは、最高の愛情深さを持つ者だし、最高の怒りんぼは、
最高の悲しみがりやだし、叱りんぼは、優しい者だし、落ち込み屋が転じれば、
探求屋になる。いばりんぼさんは、寂しがりやだし、一面的とらえ方でのみ、
つまり二元論でとらえるかぎり、どのようにも観えるが、人の性質の特性であり、
情熱の質の違いに過ぎない。

情熱というのも、もっとも原初に「愛」という情熱があるならば、その波及の形態だろう。
感動というものは、「愛」の一つの原初の感情の感じ方だと考える。だから、自己超越と
愛と、感動等はまったく同じものだというのが私の考えだ。

入り身と転換は、心身鍛練であるならば、様々に応用が利くのは、当然の帰結でしょう。
但し、魂主体で鍛錬するならばという前提(実践)なくして不可能だろう。
魂主体というのは、身体と心を観察できる状態の事で、観察意識とでもいうのが適当
ですし、一般の人が無意識として扱う深い意識で、鍛錬するという事になりましょう。

合氣道でいう、あるいは武道で言う馴れ合いでなく、真剣というのは、このような
意識の持ち方で練習、稽古を行うということで、嫌だとか、恥ずかしいとか、
怒れるとか、感情と同化するのではなく、感情すら観察する意識で鍛錬がなりたつ。
別に武道でなくとも、禅でもヨガでも祈りでも、日常生活ですら同じだろう。
できるか、できないかは、我々個々の問題となる。

続く
523【鍛錬と感動そして愉快-完-】:03/11/24 23:21 ID:llva7vPJ

つまり、2chでやっているような、「何ちゃら(笑)」とか、部分に反応するような
対応を道場に持ち込み、鍛錬は成り立たないということです。また、それが許される
道場は主流であるとは思えません。まあ、2chでは、許されても、道場では許されない
でしょう。私は、個人のお好きなように…。という立場で自由は尊重します。

しかし、武道というものは、一瞬で、無我、無念無想、言行一致になれる事であり、
本来は、常にそこに居る必要があるという建前があります。
建前と表現したのは、今の社会の思考習慣に対する配慮です。前提あるいは、
そうである。としたいところです。

そのように、我々は鍛錬してゆくのだと考えます。同時に自己超越がセットで
起こるでしょう。そしてそれは同時に感動であり、開祖の言う、愉快にというのは、
そういう愉快であると私はとらえます。「ガハハハッ!」ってやつで、
当たり障り無い、「ウフフフッ!」という愉快とは違うと考えます。
では失敬。
524【合氣道は減算主義-1-】幼児:03/11/26 23:49 ID:CjlnOU4P

今日は、合氣道に関して、思う事ままに書こうと思う。
常に気づきはあるのだが、あえて言葉に出さない事も沢山あるので、
ちょっと、そんな事を書こうと思う。思うままに書くと何処かに
飛んでいくだろうが、まあ、許してください。

まず、一教から四教までの、解釈の一つとして、私の考えは、自分を
中心とした世界の特性を感じる事ができるということです。
一教は、前進感覚。二教は、下降感覚。三教は、上昇感覚。四教は、中心感覚。
これで、球体ができる。それに転換という渦が加わる。五教は、後退感覚でしょうか。

これで、前後、左右、上下そして転換をすることにより立体的な球体の力学の
感覚が学べる。四教は、その中心に自分が入る。心では、押す。突き上げる。
突き下げる。入る。開く。こんな動作の基本が一教〜五教まで繰り返し鍛錬できる。
個人的には三教が好きです。

続く
525【合氣道は減算主義-2-】幼児:03/11/26 23:50 ID:CjlnOU4P

体の転換も好きですが、これは、丹田と丹田がぶつかるような相性というか、
鍛錬のポイントを絞った稽古相手であると、おなかが気持ちよいです。
諸手取り呼吸上げも、同様です。やはり体の転換と諸手取り呼吸上げは、
誤魔化しが自覚しやすいので、鍛錬の計りになってます。

話は転換しますが、最近思う事と言えば、世間は加点主義・前進主義・進歩主義が
盛んなようです。つまり、稽古すれば、どんどん上手くなるという考え方が支配的です。
人間は様々な積み重ねで、成長できるのだという考え方が根底にあるからこそ、
人は頑張って成長し、幸せになるのだという考え方ですね。

このようなアプローチもあります。禊ぎ(みそぎ…清め、汚れを洗い流す)的な
アプローチです。つまり成長という言葉の意味が、純粋という言葉に
転換され、結果的に純粋の彼方には、本性という地点にたどり着くと言うことに
なり、自己発見の地点を目指す事となります。これは何も足しません。むしろ
加点主義から言えば減算主義となります。

自己発見と自己創造は同じ事で、自分の可能性の発見。自分の素晴らしさの実感と
言えましょう。本当の自分に出会う。あるいは、目覚めるという地点を指します。

続く
526【合氣道は減算主義-3-】幼児:03/11/26 23:51 ID:CjlnOU4P

禊ぎという概念を実践してゆくことは、自分は汚れているという前提があります。
これを合氣道に置き換えると。合氣道の究極は、宇宙と同化。自然との同化。
神との合一。調和。和合。全て同じ事を言うのですが、それを合氣道の極点に
置くならば、合氣道の心身操作は既に、我々自身が知っており、邪魔しているのは、
自分の持っている汚れである。と言うことができます。

すると、合氣道は稽古して到達するものではなく。汚れを手放すと同時に、
稽古、鍛錬することにより、自らを禊いで、邪魔なものをとっぱらえば、
最終的に、武産合気の境地をかいま見る事となるという事になります。

これは、修練者の心の持ち方の問題で、稽古・成長・鍛錬のとらえ方の問題となります。
同時に、合氣道のアプローチの前提の問題になってきます。開祖の言う禊ぎという言葉
を我々自身の内で合氣道に結びつけて消化するには、前進主義では不可能です。
前進主義で行ったとしても先に、転換場所は必ず在ると言うことです。

続く
527【合氣道は減算主義-4-】幼児:03/11/26 23:52 ID:CjlnOU4P

世間の思考習慣とはまったく違った次元のアプローチが、合氣道に関わる実践内容に
関係しているように思います。このアプローチは最初から知り、合氣道の素晴らしさに
出会う人もいれば、稽古を通じて発見してゆく人もおり。だいたい初段で、どのアプローチ
で合氣道に触れた人でも、同じような地点に立つようです。(私の観てきた範囲)

つまり、初段で去る人、初段から始まる人という、まさに初段が壁となっている
ようです。

基本的に、このアプローチは、不思議というものを実技で表現してゆくスタイルで、
不思議を不思議のまま実技に還元するという事実主義です。
気とは、こうだ。と現時点の偽り無き実技できる地点を求めるアプローチであり、
抽象的を実技とし、抽象的を無理に具体的にするものでもなく、実技という
この世の、共通する現象として表す事を良しとします。つまりオカルトと言われる
ものの消滅を指すということに尽きます。

続く
528【合氣道は減算主義-5-】幼児:03/11/26 23:52 ID:CjlnOU4P

この世にオカルト、神秘主義なるものは、本来なく。全て事実というアプローチです。
合氣道が真実を告げるもので、その答が、人即宇宙であるならば、人が創ったもの全て
真実であるという事になります。否定のしようがないということにならざるをえない。

もし、それを否定するならば、開祖の言う、我即宇宙を否定しなくてはならない。
否定せずとも、開祖は例外であるという考えを持ち込まなくてはならない。
(例外というのも宇宙であるから…。などと言わないで欲しい)
そうなってくると、全ては「在る」のであって、在ると思えないのは、誰だという事に
なり、それは、我々自身の汚れを指すという所に帰着する。

このように、様々に考えを巡らせると、結局、世間の思考習慣とは別のアプローチが
真実であると言わざるを得なく、そして、その秩序を見つける。すなわち会得、体得、
自覚するのは、合氣道は、比較的、発見しやすい体系であると実感は得ている。
もちろん合氣道のみが、「在る」という一点を理解する道であるとは思えないが、
実践無くしてできないものは、少ないし、魔境(思いこみ等)の介入する余地も多い。

実践して、真実を掴みながら、振り返って真実を自覚するという流れが、体系的に
出来上がっている修業形態も少ない。型が全てを語る。通常このような修業は、
マスターのような人が、判断して今いる場所を確認したり、問答したりで、
試行錯誤するが、実技は自分の心身から感じるものを受け取れば良い。シンプルだ。

続く
529【合氣道は減算主義-完-】幼児:03/11/26 23:53 ID:CjlnOU4P

思考や、感情の中をぐるぐる回る事もなく、ただ心身を動かせばよい。
ただ合氣道をすれば良い。ただ、座禅をくめば良いと同じだが、合氣道は動くから
私のような気が散りやすい者にも退屈はしない。実にシンプルな修業形態であるが、
その可能性は素晴らしいと私は絶賛する以外に、私の取るべき態度はない。
開祖は、万人の道と言ったが、確かにそうなのだろう。

人は心身を動かして、真実に至るのなら。人生で言えば、真実は死という事に
帰着する。志を立てる。志をつらぬく。立志と様々に志がつくが、同時に
その志を「死」に置き換える事も同様の意味をもつように思う。

宇宙との一体が合気の究極ならば、死との一体も同様だ。すると、
一体化した時点で、死は消滅する。つまり死自身になったなら、あるいは、
宇宙自身になったなら、宇宙および、死そのものが消滅する。死んだ者は
死ぬ事ができない。宇宙自身がどうやって宇宙を観るのか。

いったい開祖は何処にいるのだろう?宇宙ならば、ここに居る。
ふと、目の前の開祖の写真を眺めた。なにか微笑み返したような気がした。

では失敬。
530もくじ-7:03/11/27 00:18 ID:FaTMChm5
───────────────────────────────────────────────────
006:【はじめに】/014:【合気道感のバックボーン】/022:【お爺ちゃん(開祖)の抜け落ちた知恵】
030:【強さとは】/041:【強さ=称え合う】/051:【合気道は心の使い方の操作法を学ぶ物】
057:【合気道は論理術(思考術)?】/071:【生死は論理ではない】/082:【宗教的】/091:【一に還元=合気】
098:【人間理解】/106:【壁・自分の幻想を知る手段としての「気」】/120:【奇想天外】
129:【記憶は過去・今は無意識直視】/141:【合氣道の日本語文字技】/151:【武産合気は観察意識】
164:【観察意識を掘り下げる】/176:【幻想の世界に住む私】/184:【自信とは幻想である】
192:【合氣道…秩序・自信・意識】/205:【パンドラの箱を空けてみよう】/214:【コラム…天真爛漫】
224:【コラム・その2…無意味な話】/235:【人間の力の無限性を証明?】/253:【運動神経と心身統一の関係】
261:【真善美】/265:【体は大切だね】/278:【心の話】/288:【死と生と神と弟子】
303:【私が不在であって事実が観える】/311:【我々の本性は魂である必要がある理由】
325:【想念の根元は愛、呼吸力の根元も愛】/334:【意識の視点】/341:【ちゃんと合氣道の話を少し】
350:【原則に善悪は存在しえない】/363:【人生と死生観】/372:【人格は服、本音は裸、魂は私】
380:【ことばと、鍛錬についての話を少々】/388:【コラム・切ない気持ち】/393:【原因・結果・選択・創造】
400:【合氣道は使えるか?】/406:【男らしさは優しさである】/413:【修業・スポーツ・趣味・金】
419:【合氣道に関する形式主義】/428 :【合氣道においての個人と公】/436 :【弟子道という考え方】
443 :【心の開国とファミリー】/447 :【こんにちは、絶望】/453 :【組織と鍛錬の間】
457 :【生きる目的は死を知る事という考え】/463 :【ただ合気道をするということ】
471 :【勇気と覚悟と自己超越】/489 :【合氣道の一つの世界観】/514 :【実戦・勝つ・実践・武術・修羅場】
518 :【鍛錬と感動そして愉快】/524 :【合氣道は減算主義】
───────────────────────────────────────────────────
531【心と体の関係-1-】幼児:03/11/28 23:26 ID:xG6AdnT5

合氣道を実践するという事について少しエッセイしようと思う。
入り身と転換というのがあるが、これを我々の日常に置き換えて、
事実観察してみる。

まず、合氣道は心身操作を通じて魂を清める。魂を清めるという表現に
不快を感ずるならば、心身を鍛える。心身を強くする。このように表現
しても、意味は同様だろう。最終的という言葉もおかしいが、本当の自分
に出会う。あるいは、自分に目覚める等、そんな表現となろう。

心の悪い癖は身体の乱れとなる。身体の乱れは心の乱れとなる。
心を正すならば、心自体で心を正す事はできない。体を正して、心に
働きかける。体が悪いなら、心の乱れであり、心を正して体を正す。

心と体の両方を直接的に直すなら、魂という、心と体の両方を観ている
自分の本体にしなくてはならない。心と体の両方をしっかりと見据える
意識の中心を創る、戻る、とどまる事に集中しなくてはならない。
その意識の視点なくして心身同時の直接鍛錬はなりたたない。

続く
532【心と体の関係-2-】幼児:03/11/28 23:26 ID:xG6AdnT5

心と体、心身、は一つの言葉で表すならば、肉体だろう。
肉体の中に五感があり、五感を総合する心があり、そして感情があり、
思考することができる。肉体と魂との行き来の邪魔をする信念や
イデオロギー、条件付け、経験なども存在する。それらを解りやすく
体系的に表現することは、骨の折れる事だが、知りたい人はその手の
書籍にわんさと載っている。実践家が知るべき事は、それらの関係性だろう。
つまり自分自身への知覚・認識の問題だ。

活用主義的にこれまでのまとめとして、話を脱線させるならば、
自分の悪い癖というものがあるならば、体に現れている。その体を正せばよい。
傲慢であるならば、事実と自分の意識の位置がずれているということで、
本当の自分よりも、自覚している自分の方が高いという問題で、心の癖だ。
傲慢は、自分は凄いと思いこんでいる信念だ。事実に負けている。

自信が無いと言う心の癖は、自分の中心点が定まっていないということで、
体の中心ができていない。心の中心ができれば、すなわち魂という言葉の
概念を実践的に把握できるなら心の中心は自覚できるだろう。同時に体の
中心を把握できれば、心の中心も把握できる。

続く
533【心と体の関係-3-】幼児:03/11/28 23:27 ID:xG6AdnT5

心の中心、体の中心と話は進んでいるが、これは、「魂」に拒否反応がでる
方を対象に語る内容であり、魂の自覚に到達している方にしてみれば、
中心という言葉は、段階的な言葉であるという点では事実認識に至っているだろう。

これは、仏を知るまでは、仏像が必要な場合もある。神を知るには、
十字架が必要であると同様の意味でとらえていただくのが、適当だと
考える。人生が夢であると解るまでは、夢をでっち上げた方が良い。
つまり全体性への到達までには、段階として小目標を置くことは健全だろうと
いうことだ。

さて、話は魂から、日常にひとっ飛びとなる。
逆説というのは、面白い。逆説というのは、視点の転換の表現で、
入り身とは、体験的言葉というか実感以外は表現しないという視点だ。
論理から逆説を作り出すのは時間が掛かるが、しっかり逆の位置に
意識を据える事ができれば、その意識から話す言葉は逆説となる。

続く
534【心と体の関係-4-】幼児:03/11/28 23:28 ID:xG6AdnT5

視点の転換の例を上げるならば、「出産」という例で言うと、
子供はつくる。出産という言葉が表す通り、生み出すというような意味合いが
感じ取れる。我々が出産と言うとき、子孫を残す。子供が出来たと言う。

転換して語るならば、出産は、提供であり、手伝いであり、授かるだろう。
子供に選ばれたのであり、その子供に手を貸したのであり、その子供の
先祖の一人に選択された。ということになる。

どちらも、現象としては、同じ事をしているのだが、中身が違う。
合氣道の技とはそんなものだろう。パラダイムシフトも同じ。
主観的には世界は別世界に変わるが、現象としては同じ事をしているように観える。

続く
535【心と体の関係-5-】幼児:03/11/28 23:29 ID:xG6AdnT5

蚊に刺された。という現象は、腕が蚊を呼んで刺してもらった。となりえるし、
そして感じる感じ方も、刺されて痒いと選択することもできるし、痒さを
BGM的に感じ夏の風流と選択することもできるし、集中の鍛錬を自然が私に…。と
とらえる事ができる。全て一瞬で選択している。しかも無意識に。

我々の人生では様々な事が起こる。起こった現象を条件反射で機械的動作のごとく
習慣的反応を繰り返すのは、まったくマシンだ。
我々は選択できる。反応を選択できるということで、選択は制圧ではない。
コントロールでもない。転換だろう。まったく別の事柄というような風に
変容するということだろう。新たな選択は次の原因をつくる。自己超越(感動)は
このようにいつでも選択と同時に起こっている。

出来るだけしっかり掴んでもらっての鍛錬である転換は、自分に降りかかる
強い、あるいは激しい、事象であっても転換する心の鍛錬、訓練、矯正である。
心の鍛錬であるからこそ、体はどんなに強い掴みでも動けなくてはならない。
そこから始まるのが、合氣道の技であり、合氣道の心の技でもあるのだろう。

続く
536【心と体の関係-6-】幼児:03/11/28 23:29 ID:xG6AdnT5

入り身も同じ事で、体験的、実践的な意識に常に自分の意識を保つならば、
いつでも実感的表現となる。これも、論理で考えるならば、時間が掛かるが、
その意識にとどまるならば、出てくる言葉は、そのようになる。ごく当然の
結果であろう。

しっかり入り身と考えて走る車を観察すると、乗っている人は、
車で走っているのではなく、車のアクセルを踏んでいるのであって、
走っているのは、車であって、人ではない。現象として走っているが、
車を走らせているのは車であって、人はアクセルを踏んでいるだけだ。

速い車に乗って、スピードを出している人は、アクセルを沢山踏んでいるだけで、
その人が速いわけではない。当の本人のほとんどは速い気分と同化しているだろう。
スポーツ観戦も、あらゆる観戦も同化して興奮している。入り身という考え方は、
実践であり、入る事で、観戦して楽しむ心境になるのは俗の楽しみと化する。

続く
537【心と体の関係-7-】幼児:03/11/28 23:30 ID:xG6AdnT5

実践に入れば入る程、事実と同化する以外に道はないであろうことを
実践家であれば理解していることだろう。もちろん、観戦も、実践的に観る事は
できる。問題は同化してしまっている状態と、同化することは天地の開きがある
ということだろう。

稽古での受け、事象の観察も同様で、事象を逆説でとらえる事もできるし、
実践でとらえる事もできる。コミュニケーションは、意識の共有であり、
分かり合いを繰り返す事だから、本来の共有は、愛で結ばれた状態であれば、
言葉はいらない。

言葉は常に二元論で語るしかない。言葉は、右と左の差で、その左右の位置関係を表現して
相手に伝える。双方はその位置を確認して観念空間の位置をとらえる。そして意識の
共有を行って、その観念空間を楽しむ。気心が知れた相手の場合は、より絞られた
観念空間を深く、高く登ってゆくので、エキサイティングで楽しい関係となる。

心の最高の入り身は、相手との同化であるが、肉体をもっている以上、
相手と自分との同化は不可能だから、どこまでも分かり合う事が愛の表現の一つと
なるだろうし、肉体を通じて学ぶ事があるとすれば、苦労して一つになることを
して、愛というものを知る、丁寧な足取りが人生と言えるかもしれない。

続く
538【心と体の関係-8-】幼児:03/11/28 23:31 ID:xG6AdnT5

心の世界、観念世界には感覚はない。心は完全に自由な世界にあるのだが、
完全な自由な世界に我々は住みたいと思うが、深く考えてゆくとそうではない。
我々は、直接的な感覚を望む、そして同時に不自由な感覚を望む。

完全な自由な世界では、セックスによる快楽は存在しえない。完全な自由では
快楽をむさぼれると思うかもしれないが、そうではない。相手に拒否されたり、
相手の予想外の反応がなくては楽しめない。全て心に描いた事が思い通りに
なったなら、なにもする必要がなくなる。いい加減あきあきする。

合氣道でも、心に描いた通りに相手が動いてしまったら、こんな面白くない
鍛錬はない。これは鍛錬とは言わない。また、自分の体が完全に心に描いた通り
自由に動いたならば、肉体を通じて学ぶ必要がない。

そこで、それならば、その不自由を含めたものが自由だろう?という問いが出てくる。
その通りであり、だから我々は、制限された肉体をもった世界を創造した。
肉体の制限は、その観点から非常に喜ばしい。

続く
539【心と体の関係-9-】幼児:03/11/28 23:31 ID:xG6AdnT5

男性諸君がこれを読んでいると想定して、話を展開するが、女性は異性であり、
異性以外なにものでもない。男性の視点から完全に転換された視点をもっている。
男性の視点から下記をごらんあれ。
www.nu-artistique.net/hegre/Luba_flying/c_102104/
(人間の美しい女性の空中写真)

女性なら、おそらく全体が観えるだろう。おそらく美しいと思うに違いない。
男性は局部に視点が執着される。最終的に美しいと思うかもしれない。
我々男性は、気が散る。そしてその気が散った視点が、条件付けであり、
執着であり、それに縛られてにっちもさっちもいかない事がある。居着いた状態だ。

別の例であるが、強面顔、優しい微笑み、恐喝言葉、バカにした態度、
様々な魔法によって、我々は真実を見失う。つまり心が持って行かれる。
自らの中心ができれば、世界(ここでは他人)の中心と対面することができる。
顕れにとらわれると、観念操作の餌食になる。餌食になった先でも転換することが
できるが、技がない内は、まず、中心にとどまる事が直接的だろう。

続く
540【心と体の関係-完-】幼児:03/11/28 23:32 ID:xG6AdnT5

つまりしっかり掴まれて、動ける鍛錬というのは、心の鍛錬であり、
まさに、実際的には、上記の例を指すのであって、それらの観念操作、一種の
魔法に負けない術であると言える。同時に強い中心をこしらえる鍛錬となる。

観念操作と身体操作の悪用が、競争社会のテクニックとして存在する。
悪用と善用はどちらが勝つか?という問いだが、善用が勝つ。
何故ならば、悪用しているものにも良心は存在し、良心に反する行為をしているという
罪の意識は必ずある。善用は何の迷いもない。迷いのないものが勝つ。

では、悪用でも迷いの無い者が勝つではないか?という問いが同時に芽生えるが、
悪用はエゴに立脚している。善用は全体に立脚している。視野が広い方が勝つ。
エゴという思いこみ、つまり強い信念による強さは、真実の前に無力であるということだ。
自然と人間が対立した場合、勝つのは自然である。

つまり「俗世間の通念でいう人間」として死んでいる者が勝者である。
開祖が凄かったとしたら、死んでいたから。つまり宇宙自身、自然自身で在れたから
だろう。勝つと単純に考えると、善の為に死すという点も見逃してはならない。
善を成すというのは、死がないという地点をクリアする場所が存在するのだろう。

では失敬。
541名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/02 18:54 ID:bF39UFWs
一対一の場合ならば、確かに心の負い目の無い善が勝つと思う。
が、心の負い目は、集団になる事で消すことができる。
人間は善行は一人で行うが、悪事は複数で行いたがる。
結果、集団が生まれるところに、必ず悪は生じ、中枢を腐らせることとなる。
「権力は腐敗する、絶対権力は絶対的に腐敗する」
1の善は、往々にして、10の悪に握りつぶされることとなる。

勢い、善が、善として栄え、生き延びるためには、きちんと汚れと共存せねばならない。
善の目的達成のための手段としてならば、悪の手段も選ばないことが、悪との戦いの中では、求められて行くと考えるが、どうであろうか?
542胎児:03/12/03 21:29 ID:N6nAwXB+
事の問題は、各々の私自身はどう在るか?だと思う。
あなた自身はどう在ろうとする?私自身はどう在ろうとする?
それ以外の現象を客観的に考える事に、私は興味を覚えない。

善と悪という現象も我々自身の中に存在する。そして生きている。
つまり共存している。その結果どの選択をするかは自分以外コントロール不能。
すべきことをする以外なにも無い。善悪の判断は誰がするのかという問いが
この問題の根底にある。
543名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/03 21:41 ID:wPx3UM+A
そう、つまりこういうことかな。

小悪は確かに、小善によって押さえることができる。
が、巨悪を小善にて押さえることは不可能である。
では、巨悪を巨善で抑えれば良いのか?

それは否である。
巨善も巨悪も、表裏一体の関係にあり、紙一重で危うさを持つがゆえに、専制政治というものは否定されるべきものなのである。

であるがゆえに、善と悪そのものが入り混じった、あるがままの世界が理想であり、それをことさらにどちらの側に傾けようとする試みそのものが過ちなのである。
544胎児:03/12/07 19:43 ID:SCOlXq5d
その通りであると、文字に誠実を尽くすと言えない。誤解を避ける
為に、誤解されそうな部分だけを書く。

あながの意図するところは、「あるがまま」という点だとするならば、
そして、そこにとどまる事が是であるならば、私は完全に共感する。

>それをことさらにどちらの側に傾けようとする試みそのものが過ちなのである。
と、言う点では、私はなにも言えない。つまり右か左か?に分けるのが
過ちの行為だとも思わない。現実は、その時々の全てを含んでいる。分ける事も、
つなぐこともできず、現実はそこにある。最終的には我々自身の此処の創造一つ一つに
善悪の根底がある。

非常に変な発言だと思われるかもしれないが、今、この瞬間瞬間、我々は
現実を創っている。リアリティーといってもいいかな。

ということで、現実について少しエッセイすることをひらめいた。
一端失礼する。
545【現実とは触れる?】-幼児-:03/12/07 21:35 ID:SCOlXq5d

現実については、我々は実に簡単にあつかっているように思える。
私も普段の日常生活とされるものを現実として扱うし、その現実に
基づき、できるだけ目立たぬように活動している。

我々の多くが、良しとする現実をぶち壊そうなどとは思っていない。
極道の道だって、現実をぶち壊そうとはしない。社会秩序の世界から
観ると裏社会と言われる世界も現実を壊せない

つまり秩序肯定派も、否定派も、それぞれの世界を現実と言うし、そうなる事を願う。
むしろ裏社会の人のほうが現実を受け入れている。現実(一般概念)とは一つでは
ないということを。現実は究極の現実への経過に過ぎない。つまり現実は創造の
産物である。

さらに、精神を病んでいると言われる人達の現実は、それぞれかなり違う。
また感覚に障害のある人の現実もそれぞれ違う。ここで、はっきりさせて
おかなくてはならないことは、真実の現実とは我々の創造を越えて存在する。

続く
546【現実とは触れる?-2-】幼:03/12/07 21:36 ID:SCOlXq5d

それに、現実を受け入れられず、さまよう物まで出る始末だ。そのようなものは、
現実に顕れることはできない。その現実に意識の焦点を合わすならば、顕れるだろうが、
好きこのんで、その現実にいく必要もない。偶然観たなら受け入れるしかない。

真実の現実から言うならば、行為+直観すると言った方がいい。時間はそこには
存在しない。時間も我々個々で創造し、我々集団の此処の現実を創造している。
無意識と意識があるように、意識の時間は大抵、みんなで共有している。
通常我々の言う意識の上でのとらえられる時間は、無意識ではなく、意識(といわれるもの)で、
創造した現実に意識の焦点をあつめている。

意識の焦点からはずれて生き場をなくして、無意識を我々自身でこしらえた。多くの諸君は、
無意識をもっている。なかには、極端な先には、無意識をもっていない者もいる。
さらに、無意識を意識化できる者は、その無意識部分で戦いを繰り広げている。
言ってみれば、想念界では、戦いが存在している。つまり意識の善の場を設定する
戦いだ。そして戦わない者が創造の先端に居る。

続く
547【現実とは触れる?-3-】幼:03/12/07 21:37 ID:SCOlXq5d

想念界の戦いを肌身をもって感じられないからリアリティーがないよ。という諸君には、
このように言うことができる。会社の雰囲気、家庭の雰囲気。この雰囲気といわれる物の
正体を考えれば解る事だろう。行為と直観が敏感なら、それはコントロール可能である
と理解するだろう。合氣道は気の武道なら、それを実践できるはずだ。
但し、雰囲気を観ることができるようになったならという事だろう。

ただ、その雰囲気をとらえる事は、怖さもあるという事だろう。
もちろん怖さもある。目がよく見えるようになると、見たいものも良く観えるが、
観たくないものもよく見えるということだ。感覚は全て同時に開放されるように感じられるので、
個人の肉体の特質が顕れるが、リアリティーを感じるには、各々は全て感じているだけで、
意識で否定するだけの話だ。何故ならば、意識の焦点が共有時間に設定されるからね。

我々は、つまるところ、この世をでっちあげるために、協力して、時間意識に焦点を
当てている。その当てている張本人が我々自身の意識であろう。共同で現実と称する
夢をこしらえている。真実には劣るだろうが、真実に近い夢の中に生きている。

続く
548【現実とは触れる?-4-】幼:03/12/07 21:37 ID:SCOlXq5d

今は時間のスピードが速すぎる。つまり創造の時間が早すぎる。創造が混乱している。
混乱しているから、創造はしやすい。つまり新しい現実を創りやすい。
開祖流に言うなら、魂の世界を魄にもってきやすい環境ということになるだろう。

そう、トリッピーな事をいうならば、私がスプーンを曲げても、びっくりしないでしょ?
ということだ。つまり日常的に起こっても、不思議じゃなく、現実に近い状態で、
リアリティーをもって観てもらえる現実になってきたということだ。

多くの人が本当の現実を受け入れれば、現実はゆったりした時間の中で、
悠々自適に存在するだろう。これだけ病んでいる人、つまり時間のスピードを
早め続ける社会の脱落者が出ている中では、みんなが、スローモーションで
生きるべきだろう。それでなければ、そういう人達を救えない。膨れあがった
無意識を適度な位置に調整する必要があるのだろう。これを癒しと世間では言っている。

本当の現実は、我々自身が今、創っている。問題はそれに意識的か?、
無意識で感じるか?あるいは、でっち上げられた現実を本当の現実と
小さくまとまるか?はたまたトリッピーに現実を創造する人か?だろう。
開祖は現実の創造の仕方を教えている。

続く
549【現実とは触れる?-完-】幼:03/12/07 21:40 ID:SCOlXq5d

まあ、少なくとも、今の社会から見ると、ゴキブリと仲良くできるならばリアリティーの世界は、
そこにあるでしょう。それと宗教的、民族的の象徴物、つまりゴキブリを普通に思える心境で
世界を観るとどうなるか?というのが真のリアリティーに近いと考える。

但し、それも真であり、そうでないものも真であるということを忘れてはならないだろう。
合氣道を歩く者であるならば、下記の絵に象徴される感覚を克服(受け入れる)せねばならないだろう。
http://dmt.fc2web.com/gallery/cg/index.html
私が怖いのは、青い色のやつだね。受け入れるしかないとあきらめている。
金色のやつも怖いがあまり自分に影響はない。
合氣道的には下記かな?
http://dmt.fc2web.com/images/gallery/sh.gif

では失敬。
550【無意味な話-1-】幼児:03/12/11 23:30 ID:hlwmapwD

無意味・ゼロ・一・今・無力・無意識・死・神・仏・芸術。このようなものを
考えたり、行ったりすることは、無意味である。つまり、意味の無い事である。
死が無意味なら、生も無意味である。しかし、人生に関する死と生を語る時、
人生は無意味であると語ると、世間からの風当たりは強い。

上に上げた「無意味〜芸術」までをなんとするか?という所から、今日の探求は
始まる。私は「無意味〜芸術」までの概念をとらえる事を、まずでっち上げた。
そして今、どうするか?と問う。今問うことは、全ての今に通ずる。

つまり、合気の鍛錬の今、その瞬間にも実践できる事であり、当然、日常生活にも
実践出来ることであり、まさに、今、これを書いている私自身が実践できることでもある。

続く
551【無意味な話-2-】幼児:03/12/11 23:30 ID:hlwmapwD

さて、まず私の探求を始める前に、常識は、「無意味〜芸術」までをどのように考える
だろうか。あまり考えないだろう。常識は無意味な事を考えても無駄であると考えるだろう。
つまり、無駄であるという結論が、最初から解っているということだ。

しかし、求められた結論に我々自身の持論・体験・行動を展開して無意味であると証明できるの
だろうか?
さらに、無意味を体験させること、あるいは体験する事ができるだろうか?
体験できない、伝授出来ないことは、実践とは言えない。知っているという知識だろう。

無意味を体験できるということは、「無意味・ゼロ・一・今・無力・無意識・死・神・仏・芸術」
等を理解できるということになる。これは歴然とした人間の壁として存在している。
この壁は、合氣道でも言えるし、合氣道の身体操作の技術の壁としても存在するし、心の壁として
も同時に存在する。答を出さない状態だ。

つまり、「無意味〜芸術」までを理解することは、我々自身にとっての、オカルトの消滅だろう。
奇蹟の消滅といってもよいし、ありえない事が在るという事が無いということの気づきでもある。
同時に、自分(我々自身)のいる今まさに、ここが理解できるということになる。

続く
552【無意味な話-3-】幼児:03/12/11 23:31 ID:hlwmapwD

そして理解できることが良くて、理解しないことが悪いのでもなく、そういう世界が在るという
証明を試みている。証明できることは、そういう考え方もあると解釈しても、近いし、
可能性が在るという解釈でも構わない。しかし、そういう世界を現実として生きる者もいることを
差別してはならないだろう。

仮に、その人間を、狂人とか変人とかそういう者の話は、聞いても無意味だよ。と差別するならば、
精神病院で、発狂じみた奇声上げる人を差別するし、その内面などまったく理解不能だろう。
さらに、盲目の人。耳の聞こえない人。動物。このような存在とは意思を通じ合えないという
のだろうか。世間で言う引きこもりや、鬱の人達、この人達は甘えだろうか?
私は完璧に正常であると断言できる。社会から見ると社会の共有している意識からは外れている
ということだろう。それ以上の意味は無い。それ以上の意味をでっち上げるのが社会だ。

「無意味〜芸術」の中には時間も含まれる。結論から言うと時間は存在しない。
時間は存在しえないと言ってもよい。もちろん、我々が共有している意識では時間は
存在する。しかし、主体の意識に入ってみれば、あるいは、そのように想像してみれば、
はたまた、イメージしてみれば、理解が進むだろう。

続く
553【無意味な話-4-】幼児:03/12/11 23:32 ID:hlwmapwD

ハエは速い。速いということは、我々の時間感覚よりも、ゆっくりした時間の中で生きている。
人はスローモーションで動く邪魔者だろう。しかし人間から観るとハエは速く観える。
ナマモノという動物はゆっくり動くが、彼らの時間感覚は、人間より速い。ナマケモノから観れば、
人間のスピードはハエのように速いだろう。だから人間にはゆっくり観える。もしナマケモノが
一瞬意識がとぎれた時、人は突然現れる、あるいは、消える。まさに幽霊かもしれない。

人間は常識がはねのける存在が存在している可能性は、否定できない。

人間も同じで、運動神経だかなんのスピードかは私には解らないが、なにかの感応のスピードの
高低が存在すると考える。これを意識のスピード。あるいは、身体を移動する気の流れが
スムースに行える心身とも言える。単純に感応力とも言えるし、客観的表現で言えば、
洞察力とも言える。直観とも言えるだろう。

続く
554【無意味な話-5-】幼児:03/12/11 23:33 ID:hlwmapwD

そして、その考え方を限りない次元まで展開するならば、感応力の限界の存在の偏見を無くした
としたら、瞬間をとらえる意識は可能性として存在する。ここで重要なのは、可能性だ。
その可能性が存在するならば、次の問は、可能性は存在するか?という問いになる。

可能性は何時も存在している。今も存在している。我々は可能性を選択によって現実にしている。
可能性と時間はセットで存在し、そして今の現実を我々自身の意識で、創造し、物質化している
という考え方の可能性は否定できない。

つまり、思った事が実現する。あるいは、感じた事が起こってしまう。来るという瞬間
来ているとか、痛いと感じて、その後、痛い所に何かが当たって来たとか…。つまり、
その次元では、原因と結果が逆転したりするという可能性の現実も存在する。

この考え方を、一つの考え方として現実的に体験している、つまりその現実に生きている
人がいるという可能性は否定できない。否定できるだろうか?

続く
555【無意味な話-6-】幼児:03/12/11 23:33 ID:hlwmapwD

否定できる事を証明しようとした時点で、過去になっているし、過ぎ去った過去は、
可能性も否定する事になる。そしてその元をたどって、無意味な事は考えようとしない
という時点にくる。そして常識的思考習慣に逆戻りというのが、常識的見地から観た現実感だろう。

しかし、可能性を信ずる所ではなく、現実として体験している人が居た場合、我々は理解
しようとしない。そして思考停止は、その瞬間意識が飛んでいるという現実も理解しない。
自分が意識が飛んだという実感は、今でも簡単に起こる。知らない事に出会った瞬間、
人は意識がなくなる。放心状態になるということだ。

合気の技は心身操作によってそれを行う事により、自分も同時に、意識を飛ばさない術を
身につける。そしてそれは、エゴを持って活用することはできない。
つまり目的をもってそれを行う事はできないし、コントロールは不能であるという事になる。
無心でなければ、原因と結果が逆転するまでの時間に入れない。

続く
556【無意味な話-7-】幼児:03/12/11 23:35 ID:hlwmapwD

これを理解して読んでくれる人は実体験による理解に触れている人でしかあり得ないが、
もともと、ここでは一部の人に向けてエッセイしているので、実体験にもかすらない方は、
ここまでは、読まないだろうから、先に進ませてもらう。

そういう現実もあり、また、そういう現実に苦しむ人も居るという事を、我々は理解する
努力をし、それらの偏見を除去し、様々な現実を体験することが、様々な存在と分かり合える
事だと考える。

そして、様々な存在と楽しく、愉快に此処を生きる術であり、愛する心の一つだと考える。
極論を言うならば、様々な現実をもって道場に集まる人達。様々な事を様々な形で、
合氣道から得ている。これは無限であり、個々の創造を超えている。

合氣道が絶対的な善であるという信仰をもったなら、合氣道によって自分の特質が理解できる。
何故ならば、正しいのは合氣道であり、間違いが自分だからだ。正しい事をすれば、
正しい結果になる。また逆の思考で、正しいなら合氣道と出会うという可能性も否定できない。
これが合氣道原理主義という事になるのかもしれないが、合氣道の信仰は、自然である。
自然の原理主義は誰にもおとがめはないので、胸を張ってもよいという可能性は否定できない。

続く
557【無意味な話-完-】幼児 :03/12/11 23:35 ID:hlwmapwD

そして最後に、人間は可能性を信じている。可能性を知っている。
何故、可能性を知っているのか?可能性が在る事を知っているからではないか。
では可能性を行えばよいのではないか。すると可能性は物質化するということを
完全に知る事に繋がる。

これが理解できたなら、我々は開祖の言う魂から魄の世界という流れの断片の知的理解には
到達できるだろう。知的理解が先か後か?という問題ではなく、知的理解に到達した時点で、
自覚できるということになる。自覚というのは認識であり、知覚できるということで、
行動できる。あるいは、使えるといってもよい。つまり行為・実技の問題となる。

私の尊敬する先生は、武産合気は実技の問題だと言われたが、その考えの深さには、
畏敬の感情を抱かずにはいられない。

では失敬。
558【忘れる事を覚える-1-】幼児:03/12/13 12:21 ID:a1Vedrkk

我々は恐れている。我々は現実を恐れている。
我々は恐れるに足らない事を恐れている。
我々は恐れが在る事を認めて居るし、恐れが無い事を認めない。

我々は人の身体的ダメージを受ける事を恐れず、身体的ダメージを
与えられるまさにその瞬間の兆しを恐れている。現実の痛みよりも
前に、あたかも現実の痛みが芽生えるだろうという自分の想像に
恐れている。

だから、我々は兆しを恐れる。現実の痛みを受ける前に、自分の
こしらえた空想・妄想・想像に怯える。そしてそれにうち勝とうと
適当に敵をこしらえて、それに対する防御をする事、あるいは、
その敵に勝とうとすることを熱望する。

続く
559【忘れる事を覚える-2-】幼児:03/12/13 12:21 ID:a1Vedrkk

そして、勝つ方法ばかりを追う。そして負け続ける方法を同時に追わない。
それらを追う者は誰か?それは、選択なのだが、その当の本人は、その選択に
同一化して、勝ちが正しいと信じている。これはその世界にはまっている人には
そこが何処か理解できない。勝つ事を追う者は、負け続ける方法を追う事を理解できない。
同時に、双方は同時にその相反するものを恐怖している現実がある。

痛みを知らず、心が痛まず、今いるその現実、すなわち物質界の
事を正確に知るのはなんだという問いがあるが、これは、世間で
言われる客観的視点ではない。

客観的視点は空想に過ぎない。そうではなく、身体は今、現実の中にいる。
物質界の中に居る。まさにここに居る。まれに腹が痛いのを我慢してこれを
読んでいる人もいるかもしれない。しかし、人は意識を二つ同時にもてない
以上、これを読んでいる時は、腹は痛んでいない。

もし、前の瞬間「腹は痛んでいない」と私の文面を読んだ時、まさに
その瞬間、「本当にそうか?」とか解釈して読んだとしたら、その者は
その瞬間これを読んでいるのではなく、あなた自身の解釈を読んでいるということだ。
つまり現実を観ていないということになる。この現象はいつでも起こっているし、
これを推奨するというか、これを現実とするのが今の先進国(地球規模かな)の共有意識であり、
幻想の世界となっている。つまりバーチャルと言う名の伝染病だ。

続く
560【忘れる事を覚える-3-】幼児:03/12/13 12:22 ID:a1Vedrkk

幻想の世界には恐怖がある。幻想は現実ではない。痛む時痛むのが現実だが、
幻想は痛む前に痛むのではなく、恐怖する。そして次の反応はその恐怖に勝つ為、
あるいは逃げる為に、何かをする。つまり戦いを挑む。そして社会は競争している。
あるいは奪い合う。何を奪い合ったり、競争したりするのか?

恐怖という持ち物(あたかも持ち物のように扱う人にとっては)だから、
あるいは、自分の物、自分の所有物なんてないのに、自分の物は自分と同一化して
それを奪われまいとする。そういう者は、幸せも、愛も自分の持ち物であり、
引き裂かれる物であると信じている。

つまり、思想すら持ち物だと考える訳だ。例えば、あなたの考えは間違っていると
言われるとしよう。多くの物質主義、精神主義の人は、あたかも、自分を否定されたように
感じ、怒る。自分と思想を同一視している客観的視点というものが自分であると
いう幻想に立脚した反応だ。思想は触れることはできない。それはあなたではないのに、
私が傷ついたと思う訳だ。何が傷ついたのか自覚しているとしても、漠然と「心」と
いうのがせいぜいだろう。

続く
561【忘れる事を覚える-4-】幼児:03/12/13 12:24 ID:a1Vedrkk

心はとらえどころがないと考えるのも常識的発想で、世間一般と共有できる世界観だが、
心は、今自分がどのような状態か知らせてくれるアンテナのようなもので、心で感受した
実体のない感覚を、魂は受け取る。別に魂といわずとも、トラウマといってもよい。
深い心の趣向に触れる。つまり基準に触れる。チカーっていうようなイメージかもしれないし、
そうでないかもしれない。個々様々な感覚だろう。

その触れた感受が、快と感ずれば、受け入れ、不快と感ずればはね除ける心を生む。
はね除けるとどうなるか?否定したり、違うといったり、蹴ったり、そんな自分を
憎んだり、やってる事は一つでも、反応は様々に出す事ができる。
この工夫をこんどは心地よい方法にしようという選択を、そのような心はでっち上げる
事をする。

不快と感ずる事を退けるには、強く成ればよいという安易な発想。あるいは、
不快を退けるには、弱者を気取ればよい。あるいは、派閥をこしらえる。
あるいは、知識を武器に使う。簡単に言えば、スッ裸を避ける方向に向かう。
本音、本性から目をそらす方向を模索する。そしてそれをあたかも自分とするように
自己洗脳してゆく。これが現実社会の人々の実体だろう。つまり開祖の言う、魄の世界の
実体だ。道具・技術・イデオロギーに走るということだ。

続く
562【忘れる事を覚える-5-】幼児:03/12/13 12:24 ID:a1Vedrkk

ここまで語ると、実は、社会に適応しようとやっきになる中心存在は思考であると
ということが見えてくる。その証拠に、感情と感覚より思考による選択を我々は
選択する。感情と感覚を置き去りにし…。そして、思考すなわち、論理、合理性、科学的
等というものを信仰対象として思考者たらんとして頑張ってる。

学校では遊べと言わず、宿題を出す。何故か?ルールが在る。何故か?
正しい事を正しいと教える。何故か?これらを観れば、システムが人に何を
即しているのか理解できるだろう。感覚と感情は、既に自然(善)を知っている。
思考はプログラムしなくては、自然(善)を知らない。

問題はこれが事実であり、マトリックスであり、そういう現実があるということで、
まったく意味はない。つまりそういう現実感をもって生きている人が今は沢山居るという
事実を語っているに過ぎないということだ。

続く
563【忘れる事を覚える-6-】幼児:03/12/13 12:25 ID:a1Vedrkk

テレビ、本、あらゆるメディア(人も含む)が現実を「思考という現実」にすり替えを
即している。私も此処で、あまり得意ではない思考を使って、諸君らと共通の現実と
接点をもって書いている。思考は理解の筋道が必要だからだ。テレパシーが通じないなら、
別の手段しかない。それが論理という考え方もあるということだ。(※拡大解釈なきよう)

結論は思考(幻想)の世界に住んでいるという現実を僕らは理解しているかい?
という事だし、様々な現実があることを理解しているかい?という事だし、
人間が到達できる現実は、創造である点であり、なんの意味も無くなる。
私が精神病的、あるいは狂人的に映るならば、そう思っているのは思考である。

だから今、幸せであれば良いのだが、思考と現実感はセットで存在するので、
思考は「本当に幸せか?」とか、「幸せの核心がもてない」とか、実感できないという。
当たり前である。思考が実感するはずがない。実感は感覚しなくてはならないし、
知覚しなくてはならない。認識しなくてはならない。やらなければ解らない。

そしてやった所で意味もなく。思考は、ただ幸せであったと気付くだけだ。
武道をする人は、強さに敏感だという前提があるとするならば、「幸せ」を
「強さ」に置き換えて理解しても同様だ。理解に分離はあり得ない。

続く
564【忘れる事を覚える-7-】幼児:03/12/13 12:26 ID:a1Vedrkk

思考は理解の助けになるが、思考自身は行動の邪魔をする。行動には意味がないからだ。
目的主義とは相反している。生きる事には意味がない。生きる事そのものが愉快なので
あって、愉快には意味はないということだ。ただ愉快になっていることが生きる事だ。

開祖は思考の事を、「覚えて忘れる」と称した。覚えるのだ!とは言っていない。
むしろ、思考中心の現実感をもっている者は、忘れる事を覚えるのだ!というほうが
正しいような気がする。合気は変わる。合気は変わらないが、時代が変われば、
合気が変わったように観える。変わらないのだが、変わるように観えるというのが
幻想の世界に住んでいる者が感じる現実だ。本当の現実は変わりようがない。

宇宙の秩序が突然変わると言えるだろうか?もし変わるという思考が介入するならば、
視点が逆になっている。宇宙が在る。そして自分がある。自分の考えが在って宇宙が
あるのではない。だから答は単純だ。人は知る以上の事は知っていない。

しかし思考の欲求は欲張りで、知らない事も知っているというようになんとか
でっち上げるように、論理的構築を施す。知らない事が在る事を知る事に無知と
言えよう。これが思考の特性だ。

続く
565【忘れる事を覚える-完-】幼児

最後に実験しよう。あなたは誰だ?と感じてみよ。そして感じ続けてみよ。
答を出すな。解釈を加えるな。ただ、あなたは誰だ?と問うて欲しい。

その状態に、思考は介入しえない。そしてそこで得られる直観は、バイパスがないと
思考にもってくることはできない。つまりその瞬間自分が何を考えていたのは理解できない。
だから、思考が介入した時点で、その状態の事はすっかり忘れる。

これが思考の特性の全てだろう。

では失敬。