★上地流の検証

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885名無しさん
このような惨状を目の当たりに見た仲村文五朗(琉球三線の大家)を中心と
する有志が数名集まって、和防団撲滅の方法を模索した。そして町内にいた
上地完文(49歳・武人)、本部朝茂(年齢不詳・武人)、友寄隆優(29歳・義人)
の三名に和防団鎮圧の先導的行動をとるように懇請した。余談だが、本部朝茂
(武名・虎寿)は実戦唐手として名を馳した本部朝基の甥であり幼少の頃より父に
武術を仕込まれた唐手の達人である。

完文が中国拳法の達人である事を風の噂で耳にした人たちの中には、拳法の
伝授を熱心に請う者が多かった。しかし、完文は拳法について「私は知らない、
分からない」で押し通し絶対教えようとはしなかった。

伝授を請う者の中に、前述の仲村・友寄の両氏も居た。二人は完文に何度も何度
も教えてくれるよう懇願し、なぜ完文が拳法の伝授を拒むのかについて聞きだしたが
「懺悔の実質は問題状況からの逃避にあるのではなく、問題となった状況(弟子の殺人
事件)を貴重な教訓として誤ちを犯さない人間を育てることにある」と説得し、拳法伝授
の再開を熱心に説き続けた。

人間育成、拳法を無形の文化と考え、また当時の和歌山市内の治安を考慮した完文は
大正15年(1926年)4月、ついに決心を固め、会社の後方にある社宅を道場として使い
拳法の指導の再開を始めた。

始めは友寄隆優ただ一人のみの教授のハズであったが、完文達に鎮圧行動の要請が
回ってくるより前に、既に和防団壊滅のためたった2人で行動をおこしていたという赤嶺
嘉栄は友寄の弟分であり、友寄たっての願いで赤嶺も入門を許されることになった。また、
続いて赤嶺と一緒に行動を共にしていた玉村進も入門を許可された。

道場は少数精鋭主義をとり、入門には厳しい制限があった。まず入門を希望する者は
紹介者を必要とし、しかも紹介者は完文の高弟たちと知友の関係者にあるものに限られ
紹介者即人物保証人でなければならなかった。また、門弟は道場外での演舞を一切禁じ
られ、飲酒行為も全て禁じられていた。