上地流開祖・上地完文は、明治10年{1887年)5月1日、琉球藩本部間切伊豆味村
(沖縄県国頭郡本部町字伊豆味)に士族の長男として生まれた。伊豆味といえば、昔から、
ミカン、パイナップル、ブドウ、桜等の名所、そして武の里として知られる緑に囲まれた
小さな村落である。上地家は完文が3、4歳の頃、山村「岳之当(たきんとう)」に引っ越し、
以後、岳之当で青少年時代を心身共に健康に過ごした。
身長五尺五寸、精悍な顔つきをしたこの青年の、筋肉質でひきしまった頑丈な体は
その初期は伊豆味の土で鍛え上げ、後に中国拳法の「三戦」で練り上げる事になる。
沖縄国際大学文学部教授
上地流空手道北谷修武館館長 高宮城 繋『近代空手』1986・7月号掲載。
上地漢文が中国へ渡った理由は2つ、中国剣術修行と兵役忌避である。少年の頃から
本部界隈に伝わる武勇伝に人一倍興味を覚え、とりわけ唐行翁当山某の中国拳法談は
完文の好奇心を触発し、中国志向の気持ちを一層強めるものであった。
また、当時は兵役忌避手段として中国へ逃げるものが社会問題になるほど数多くいた。
同郷の兵役忌避者の中には、後日同門で拳、棍、万法を学んだ松田徳三郎(まちださ
さんだーうんちゅー)や新垣カマデーウンチューなどがいた。かくして完文は拳術修行
の野心を胸に秘め、兵役忌避という政治的亡命を心に期し、波乱に富む大陸生活の苦節
を覚悟しながら、明治30年(1897年)3月に、唐発ちの船出(密航)をした。
沖縄国際大学文学部教授
上地流空手道北谷修武館館長 高宮城 繋『近代空手』1986・7月号掲載。
豪気で図太い神経の持ち主だったとはいえ、若干二十歳の完文にとって、異国の風は
それ相応冷たく、戸惑いと心細さで文字通り、寄る辺なぎさの捨て小舟の境地であった。
離郷の際に、「異国の生活は逆境との戦いが総てで、己にうち勝つことが先ず問われな
ければならない」と克己の精神を説いた父の言葉を反すうしながら日々を耐えていた。
明治から大正にかけて那覇手中興の祖と仰がれる東恩納寛量と並謳される有名な武人に
湖城流空手道・杖道開祖、湖城嘉宝がいる。湖城は中国武道場を開いた初めての日本人
として有名であり、福州に上陸した完文、は同郷の松田徳三郎と共にこの湖城道場に入門
をした。だが、師範代の真壁御殿との間に感情的な確執が生じ、また、もともと同じ日本
人から中国拳法を学びたいなんて気持ちを持ち合わせていなかったことも手伝って、入門
数ヶ月で道場を飛び出した。そして、当時、虎形拳の名手として中国拳法界にその声価を
高めていた周子和の拳門に入ったのである。
沖縄国際大学文学部教授
上地流空手道北谷修武館館長 高宮城 繋『近代空手』1986・7月号掲載。
周子和は完文より3歳年上であった。だが、完文がその門下に入る頃にはすでに
拳の世界で重きをなす存在であった。幼少の頃よりの拳歴は周子和をすでに大勇
にしていた。若くして老成した武人を師と選んだ完文の求道者としての師観は
周子和に縁のある韓文公の「師説」に良く現れている。
「吾は道を師とするなり。夫れ何ぞ某の年の吾より先後生きるなるを知らんや」。
(わたしが師を求めるのは、道を求めるためである。だから、その先生が自分よりも
先に生まれたか、あとに生まれたかなどは問う必要はない。若い人でも道を知ってい
る人があれば、これを師としする)
沖縄国際大学文学部教授
上地流空手道北谷修武館館長 高宮城 繋『近代空手』1986・7月号掲載。
それから3年後、周子和門下でみっちり鍛えた完文は、湖城道場を久方振りに訪問した。
彼は3年前「出っ腹の愚鈍野郎」と馬鹿にされた屈辱感を意識して、見返してやろうという
気持ちで道場を再訪したわけではない。異郷の地で同郷の者ほど有難いものはない。相呼ぶ
魂は恩警の彼方で同郷の者を求めるのだ。完文は同郷の人の肌が恋しくなり、3年前の諍い
を忘れて、親しく湖城道場を訪れたのである。
沖縄国際大学文学部教授
上地流空手道北谷修武館館長 高宮城 繋『近代空手』1986・7月号掲載。
頑丈な体に精悍な顔つきをし、みちがえるようになった韋丈夫になった上地完文を迎えた
かつての師範代、真壁御殿は型を一手所望した。臆する色も無し、完文は請われるままに
「三戦」を演じた。それを見た真壁は驚いてしまった。見事の一語につきた。押せども、
突けども、蹴れども、踏めども微動だにせず、演武中の完文はまるで大地に巨岩をだいて
根をひろげたガジュマルの大木のように「盤石不動」で剛強そのものであった。
また、演武線上の軽快で敏捷な動きは力を伴っているだけに力感美あふれるものであった、
と真壁の弟子であり、完文とは同郷のよしみにあった松田徳三郎は、帰郷後、上地完文譚
の中で述懐している。
完文の「三戦」を見て「3年間によくもこれだけ鍛えたものだ」と感じた真壁は、前非を悔い
軽率な言動を詫びるに二心はなかった。かくして、真壁、完文、松田のその後の交友の契りは
同じ道を志向する者同志として深くなっていった。
沖縄国際大学文学部教授
上地流空手道北谷修武館館長 高宮城 繋『近代空手』1986・7月号掲載。
訂正。
その2、1行目。 中国剣術修行と兵役忌避である。→ 中国拳術修行と兵役忌避である
その4、8行目。 これを師としする → これを師とする。
その5 、みちがえるようになった韋丈夫になった上地完文を迎えた
↓
みちがえるように韋丈夫になった上地完文を迎えた
その5 → その6の間違い。
ちなみにこの「近代空手」7月号、これでもかなり省いて書き込みました。
本当は中国武術の起源や沖縄の文化、上地完文の父母の気性と精神、周子和
の武歴等々、色々と書かれてあったのですが…。(以下、1986、12月号
まで続きます)。うざかったらスミマセン。思うところあって無断転載は百も
承知で書き込みました。お目汚し失礼。関係者各位、重ね重ね申し訳ありません。
周子和には興味アリ
331 :
無断転載さん@ここらで一息。:03/07/12 08:32 ID:P/rFplbW
>>330 >周子和には興味アリ
周子和は字(あざな)を永寛とし、阿山道者と号し、1874年(明治7年)
中国福健省・福州市南嶼鎮芝田村に富豪の長子として生まれ、長じて南派少林の
名手・永秦県の周北に師事し、十八般の武芸を修めた。後に凄絶な神技の持ち主
として知られる山東省の名師・柯細佛にも師事し、南嶼上街と福州南后街の元師廟
に武術館を開設をした。
とあります。確か3、4年くらい前の月刊空手道の上地流特集に、周子和に関する
別の情報、というか記載もあったと思いますが。しかし残念ながらその号は職場に
置いてきてしまい、現在手元にありません。この周子和さんは、確か剛柔流の開祖
東恩納寛量の師である劉龍公(リュウ・リュウ・コウもしくはルー・ルー・コウ)
と繋がりがあったようです。何かの雑誌の剛柔流特集で、拳譜に名前が記されて
いたような…。ちなみに、この劉龍公さんのあるエピソードを、帰国後、上地完文は
日本の弟子達の前で教訓として話たそうです。
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/12 08:34 ID:sJieqy3P
上地流では猪木アリ状態をどうやって打開するんですか?
足尖蹴りでブッ刺す。
334 :
無断天気さん:03/07/12 08:59 ID:5ePa8oUn
痛そうですね。
>>330 周子和が門下の者に「武人の基本的な心構え」として、春秋時代の
兵法家孫武の格言を用いて、下記の言葉を諭すように語ったという。
『百戦百勝、非善之善者也。戦而屈人之兵、善之善也。』
(百戦百勝は善の善なるものにあらず、戦わずして人の兵を屈するのは善の善なるものなり)
また、戦術要諦として次のようにも語っています。
『拳頭全靠捷打慢、眼精手捷当防、両肩一赦瞬就来』
(隙さへあれば間髪入れずに手拳をもって連打すべし。眼を鋭くし、手さばきを敏捷に
して防禦に当てるべし。相手の攻撃は当方の一瞬の油断に乗じて打ち込んでくるものなり)
実戦における動作の機敏性を訓じ、心のゆるみを戒める言葉であり、またこの中
の「眼精手捷(がんせいしゅしょう)」は現在上地流の技訓の1つをなしています。
周子和門下に入り7年目、上地完文は武術修行のかたわら、武術の実践(戦)と
生活資金の一助を画するために街頭で薬売りを始めた。中国では昔から武術家が
街頭で武芸をみせて薬をひさぐのを「野士」と蔑称する場合もあったが、善意に
解釈すれば、それは武術修行の完成の場を求めるための行為と解釈する事ができる。
武人の薬売りは、他の武芸者あるいは腕に自身のあるものから果たし合いを挑まれ
ることを覚悟の上で、行わなければならなかった。そのため、売薬武人には高度の
武術の心得が必要であり、結局武人にとっての大道商人的な在り方は、自己の素質
を検証する合法的な社会的手段となるものであった。糸満最後の武士として知られる
マチャー文徳こと金城松(中国滞在十八年。拳術を修める)は、完文をこう評価した。
「志那で薬売りをするほどだから、上地完文なるものはおそろしい武人だ」と。
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沖縄国際大学文学部教授 高宮城 繋『近代空手』1986・8月号掲載。
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/12 23:45 ID:qBifu5Ip
で、↑の高宮城繁教授とは何者ですか?
何故、文学部の教授がそんな詳しいのでしょうか?
338 :
337:03/07/12 23:57 ID:qBifu5Ip
道場主?館長?ってのわかってるが
いやチョットただの道場主にしては詳し過ぎるなっておもったので
興味が沸いただけです。m(__)m
339 :
無断転載:03/07/12 23:58 ID:P/rFplbW
>>337 上記の書き込みにもありますが、上地流空手道北谷修武館館長さんです。
今ちょこっと検索使って調べたら範士九段で沖空会の人らしいです。
340 :
無断転載:03/07/13 00:01 ID:PmZCzWaY
>>338 これは失礼。すれ違いで書き込んでしまいました。
この人は他にも本を出版してるみたいです。よするに、出版できる
くらい上地流の歴史について調べているからではないでしょうか?
341 :
波照間:03/07/13 00:03 ID:c30PMv6u
沖空会で思い出したが、今日沖縄サンボ協会の人と飲みに行ってきた。
カポエラも道場を増やしてるらしいが、沖縄は一大武道聖地になってきたな。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/13 00:38 ID:Y7G2AFAh
ホントかどうか知らんけど、
ちょっと前の台湾武林で鶴拳特集やってたんだけど、
そんなかで周子和は食鶴拳も修業していたとなっていた。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/13 01:39 ID:5zBGi6ad
344 :
無断転載:03/07/13 01:46 ID:PmZCzWaY
>>342 周子和は、確か前述のルールーコウの弟子だか師匠だかの立場にあったと
思うので、修得していた可能性はありますね。剛柔もその内調べてみまふ。
入門8年目の春、上地完文は同門の者4、5名と連れだって遊郭に遊びに行った。
ほどよく飲み、遊び、夜がふけた。仲間は皆そのまま泊まる事にしたが、上地完文
だけはそのまま帰ることにした。帰路はフェーレー(追剥)が出る物騒な所として
世の人々が怖がっている道である。その事を百も承知で鼻歌混じりに歩いていた。
道の両側はところどころヤブがあるが、全体的に見通しのよい一本道。逃げ場はない。
案の定、しばらく行くと、どこからともなく怪しい人影が前方に現れた。近づいて行く
と、1人の巨漢が両手をひろげ仁王立ちとなり、上地完文の行く手に立ちふさがった。
「金を出せ!」
「金は遊郭で全て使った。悪いが一銭の持ち合わせもない」
「身ぐるみはげ!」
「着ているものをとるわけにはいかぬ」
と返した途端、追剥は完文の顔面狙って拳骨を叩き込んできた。
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沖縄国際大学文学部教授 高宮城 繋『近代空手』1986・8月号掲載。
豪力であり、相当な使い手である事を直感しながら、打ち込みの手を左手甲拳で
はじき飛ばし、相手の懐に飛び込み、右四本貫手で心臓部を貫ぬいた。一撃必殺、
上地完文の得意技である。相手は一言も発することなくその場に悶絶してしまった。
ちょうどその時、両側の草ヤブから人影らしきものが数人遠ざかって行くのを完人
は感じとっていた。瞬時に勝負のついたこの追剥との対決を、上地完文は終戦直後
友寄隆光氏(上地流空手道協会副会長)に語ったという。
余談であるが、上記の対決でも使われた「貫手」、それに「鶴嘴拳」などは上地完文
の得意技であり、また最も得意とするのが「弾拳(はじき)」で、いかなる相手でも
この技を顔面に食らうと二、三間は弾きとばされる凄絶な技であったといわれている。
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沖縄国際大学文学部教授 高宮城 繋『近代空手』1986・8月号掲載。