1 :
無名草子さん:
2 :
無名草子さん:2011/10/17(月) 19:06:27.21
3 :
無名草子さん:2011/10/17(月) 19:13:29.20
いつまでやってんだよ、この暇人w
4 :
無名草子さん:2011/10/17(月) 19:22:32.68
忍者モノ短篇をいくつか挟んで、胡蝶の夢かな。
5 :
無名草子さん:2011/10/17(月) 19:26:23.28
>>4 なんでおまいが独りで順番をきめんだよ、カス!
精神の歪んだおかしな人物ばかりが登場する短篇です。
初読のときは、暗い雰囲気が好きになれませんでした。
最低でも一人は心ばえの爽やかな人物が出てこないと、読んでいて息苦しくなる。
もっとも、よく考えてみると、忍術という怪しい術を使う人間が心ばえが爽やかな
わけがありません。その意味では、この短篇は忍者のリアルな姿を捉えている
ともいえます。
7 :
無名草子さん:2011/10/17(月) 19:41:10.68
短編集の「最後の伊賀者」なの?単体の短篇のみ?どっち?
単体です。
9 :
無名草子さん:2011/10/17(月) 20:00:33.20
スレを私物化するなカス
削除依頼出しとけよ
10 :
予告:2011/10/17(月) 20:08:21.76
最後の伊賀者・・・・・・・・・・・・・短編集「最後の伊賀者」収録
飛び加藤・・・・・・・・・・・・・・・・・短編集「果心居士の幻術」収録
果心居士の幻術・・・・・・・・・・・短編集「果心居士の幻術」収録
伊賀の四鬼・・・・・・・・・・・・・・・短編集「一夜官女」収録
戈壁の匈奴・・・・・・・・・・・・・・・短編集「白い歓喜天」収録(短編全集1巻)
兜率天の巡礼・・・・・・・・・・・・・短編集「白い歓喜天」収録(短編全集1巻)
11 :
無名草子さん:2011/10/17(月) 20:14:30.38
風神に門は終わってしまったのか。言いたいことがあったのに・・・
>>1 乙
うぜえ!
>>6 小姓に足の小指の爪を噛ませて気持ちよくなる服部正就。
その正就に忍法を仕掛けて失脚させようとする野島平内。
妻にへそくりがバレるぐらいなら平内に奢ったほうがましと考える喰代ノ杣次。
どんなに貧乏しても伊賀同心の身分が捨てられない和田伝蔵。
爽やかな人物がおりませんなー。
こういう息が詰まりそうな忍者モノを読むと、女にモテまくり、やりまくりの
霧隠才蔵の物語のほうが楽しくていいやと思ってしまうな。
短編だから苦痛を感じる前に読み終わってしまうから、それほど息苦しくはないよ。
だけどこれって労組のストライキの話みたいだ。
俺もここで山田風太郎の感想文を書こうかな
17 :
無名草子さん:2011/10/18(火) 13:40:56.81
>>15 ストライキの話だよ。だから主人公の名前がヒダリ。
伊賀同心たちが服部石見守を相手取って起こしたストライキは実話をモデルにしている。
ただし、日時と場所は変えられている。
史実の方は、慶長10年12月、四谷長善寺を舞台にしている。
小説は、慶長8年、西念寺。
この史実があるために、服部正就は、配下の伊賀同心に命を狙われる悪役として
登場することが多いよね。横山光輝「兵馬地獄旅」も、そう。
服部正就の正室が松平定勝の長女というのは事実だが、名前がキチと変えられている。
史実では松尾という。
この小説のラストでは、服部正就は大坂夏ノ陣の最中に行方不明になったとされ、ヒダリ
に殺されたかのような匂いがある。他に逃亡説もあり、伊賀に帰って、姓を妻の名・松尾
に変えたともいう。この説は、松尾正就の孫が松尾芭蕉であると云っている。
正就の屋敷の庭は醍醐三宝院の林泉を真似たとされているが、そこに出てくる心字池
とは、上から見た形が、漢字の心に似ている池である。
風神の門の隠岐殿救出シーンに登場した蘭・菊・梅という忍者は名張川流域の
出身であった。その地域の忍者は、植物の異名をつけるのが特徴であったと
司馬さんは解説しておられる。
ところで、この小説に“名張ノ康蔵”という忍者の名前が出てくる。
康蔵という名称の植物を探してみたが、なかった。
正就の父・正成の事績に出てくる天正2年の武田勝頼との戦いとは、第一次高天神城の戦いである。
ヒダリと杣次が辻斬りの噂話(自作自演なんだが)をしている。辻斬りの現場とされた
鮫ヶ橋は四谷鮫河橋とも云う。戦前は貧民窟だった。
ヒダリらの一揆の後、伊賀同心は六組に分けられ、大久保甚右衛門正次らに分属させられた
と書かれている。大久保甚右衛門正次という人物は実在しない。大久保甚右衛門忠直という
人物なら、伊賀同心を預かった四名の旗本のひとりである。
その四名とは、大久保甚右衛門忠直・久永源兵衛重勝・服部中保正・加藤勘右衛門正次で
ある。大久保正次の名は、大久保忠直と加藤正次の合成である。
28 :
無名草子さん:2011/10/18(火) 14:56:34.40
急いでいるときに交通機関のストライキで不愉快な思いでもしたのだろうか。
ストライキの首謀者の名前が露骨にヒダリだし、そのヒダリのイメージを
葭切になぞらえるなど、なかなか手の込んだ作品だな。
・・・ということです。前スレの>396さん。上野のヒダリとは関係ないみたいですよ。
娯楽忍者モノとはずいぶん雰囲気の異なる史書をベースにした忍者モノです。
忍者というより奇術師のようです。初代・引田天功のようなものかもしれません。
初代は、縄抜けや催眠術を得意としていました。
越後が舞台になっているが、プリンセス・テンコーも越後出身な。
本名が加藤だったら渦貝との間に出来た子の子孫ということも考えられる。
謙信が飛び加藤を殺す気になったのは、加藤が維曼国の金色太子を金子太子と
言い間違えたからだろうな。
謙信が信奉する毘沙門天の生前の名を言い間違えれば、そりゃ謙信も怒るわな。
謙信は司馬作品に名前だけはよく出てくるけど、台詞があるのは、この作品だけ?
永江四郎左衛門が宿泊していた近衛屋敷の主人・近衛前嗣とは、近衛前久のこと。
飛び加藤を処刑した武田信玄の家臣・馬場信勝とは、馬場信春のこと。
いずれも誤植ではなく、そのように名乗っていた時期があった。
梟の城や風神の門のように敵の忍者と戦う娯楽時代小説ではない。
中心は、飛び加藤が操る幻戯の数々。
気持ちの悪い怪人であるが、醜女が好みというところに愛嬌があるな。
38 :
無名草子さん:2011/10/18(火) 17:33:29.25
>>32 文献によっては金色太子を金子太子としているものがあるのかと調べてみたが、
見当たらない。金色太子は二つばかりの文献で確認できた。
誤植認定してよろしいようですな。
京で飛び加藤と出会う永江四郎左衛門の場面が好きだな。
時期は永禄3年で桶狭間の戦いのあった年。
信長の上洛までまだ時間がかなりあって、京の公家屋敷は荒れ放題。
その様子を描写しているあたりは、細部まで目が行き届いていると思った。
>>38 原典は「御伽草子」のなかの「毘沙門の本地」という物語。
そこで金色太子となっているから誤植だよ。
「毘沙門の本地」にさらに原典があるのかどうかは知らないけれど、おそらくフィクション
なんだろうな。飛び加藤が言っている天竺の小国の国名なども、架空のもの。
要するに、この場面、加藤は「御伽草子」を読んでいたが、謙信は読んでいなかった、
というだけの話だ。
埋め
>>34 名前だけはよく出てきて、謙信と信玄は別格扱いを受けているけど、台詞つきの
登場の仕方はないな。伝聞で台詞が叙述されることはあるとしてもだ。
記憶にある限りでは、「飛び加藤」が唯一の登場作品ではないかな。
「播磨灘物語」では、信長の戦略の中に位置づけたれた対武田対策と
対上杉対策がわかりやすく書かれていた。同盟や戦闘の概略は、これで掴めるはず。
手取川の戦いや七尾城の戦いの概略は書いてあったぞ。もちろん主人公黒田官兵衛
がこれらの戦闘に参加したわけではないから、謙信の台詞などはない。
飛び加藤の越後での宿泊先である関ノ庄菩提ヶ原は、フィクションっぽい地名だな
と思ったけど、調べたら実在した。高田城のある丘陵だ。
現在は合併して上越市本城町になっている。関ノ庄も菩提ヶ原も、地図にはなかった。
飛び加藤の事跡に関しては史料によって諸説紛々なので、興味があるやつは
自分で調べてくれ。参考文献は、この小説のなかに書いてある。
そんなの面倒という奴は、以下を読め。
本名は加藤段蔵。
死亡時の様子については、この作品に書いてあるもののほかに、武田家に仕官
しようとする際、土屋平八郎という剣客に斬られたという説がある。
この作品では、出身地は葛城の當麻村になっているが、ほかに常州(常陸国)
茨城郡という説もある。この説は、加藤は忍術を風間次郎太郎に授けられ、
長野業正に抱えられていたとしている。
飛び加藤は小島剛夕の「半蔵の門」では服部半蔵と戦う。
この劇画の印象が、俺としては最も強い。
>>35 永江四郎左衛門の宿泊先を紹介するときは、近衛前嗣と言い、
飛び加藤が近衛家の系図を述べる場面では、近衛前久と言っているんだよな。
どうして同一作品中で人名を統一しないんだろうか。
ちなみに、前久の前に出てくる種家とは前久の父である。
埋め
家康嫌いとか言われてるが、関ヶ原読んで格好良すぎて東軍にのめり込んだ
狡猾に書くの上手いな。覇王の家も読むのが楽しみだ
これは力作。松永弾正・筒井順慶を果心居士とからませるメイン・ストーリー。
さらに信長・秀吉を端役で登場させたことで、おなじみの戦国歴史モノと伝奇
小説が見事にブレンドされた傑作。
>>40 松永弾正は、「果心居士の幻術」のなかで、お伽草子を読んでいると書かれている。
“婦女子の好きなお伽草子”とあるから、読んでいない謙信は婦女子ではないな。
>>52 「飛び加藤」は諸記録に現れた加藤の挿話を、日時と場所を変えて読みやすく並び替えた
だけの小説。創作の加わった部分といっても、加藤が越後に下って謙信に会うまでの経緯
や加藤の幻術が出てくる挿話をドラマ仕立てにして、わかりやすくしただけだ。
その点、「果心居士の幻術」は、弾正の謀叛や洞ヶ峠の順慶のような歴史的事件に果心を
うまくからめている。スケールの大きい物語になっているな。
果心居士が登場人物のひとりであると同時に、他の登場人物にとっての“死神”の象徴
になっているところがすごい。勢いの熾んなるものには果心の呪法は用をなさない。
弾正が正々堂々戦で勝敗を決しようとしていると、果心は大人しく引きさがる。
暗殺という卑怯な手を用いようとすると、そこに果心がいる。
果心居士の履歴を説明する余談のなかに、
婆羅門僧の菩提仙那が天平年間に雅楽を日本に伝えたとある。
菩提仙那は日本にソラマメを伝えたことで有名。
仏哲は菩提仙那の弟子であるが、天平8年(726)に菩提仙那とともに来日した。
林邑人・仏哲の伝えた雅楽が、後に林邑楽と呼ばれるようになる。
なお、林邑国とは、チャンパ王国のことで、ベトナム南部にあった国である。
埋め
信貴山落城後、果心は伊賀の百地丹波の客忍になっていた。
ここに天平伊賀の乱が勃発。このあたりの詳細は、「梟の城」を読んでください。
「梟の城」でも、この作品でも、伊賀丸山城主が滝川勝雄で、ルビが<まさかつ>になっています。
正しくは滝川雄利で、彼が滝川雅雄と名乗った時期はありますが、
滝川勝雄と名乗った時期があったのか、また、そもそも勝雄を<まさかつ>と
読んでいいのか、疑問です。
61 :
無名草子さん:2011/10/19(水) 18:00:41.92
>>60 勝雄は、マサカツと読めるだろう。勝の一文字でマサルと読めるから。
しかし、この人物は滝川雄利の名で後世に知られているのだから、
わざわざ滝川勝雄なんて書かなくていいと思うがな。
でも、二度も同じ名前を書くということは、参考文献がそうなっていたんじゃないか?
参考文献は「梟の城」っていうオチじゃないのかw?
>>60 いつもは百地三太夫と記す司馬さんが、この作品では百地丹波と記しているな。
三太夫は丹波の孫という別人説に立脚してのことだろうか?
そうじゃないだろうよ。風神の門のナイの術の余談のところで、百地三太夫が登場
するが、三太夫は諏訪頼重の祖父・諏訪頼満の屋形に忍び込み、ナイの術をやっている。
司馬説だと、別人説だとしても、三太夫が祖父、丹波が孫にならないとおかしいw
モデルになった実在の人物を必死になって探すのが忍者ヲタの習癖だけど、
フィクション部分が膨らみすぎているから、あまり意味がないな。
司馬さんも、名前のみ登場する忍者は、テキトーに書いているんだろうよ。
竹内城は実在した城で、この小説では竹内氏は筒井順慶に属していて、謀叛を企む
松永弾正が果心居士に殺させてしまう。もっとも竹内冬秀と竹内道秀は架空の人物。
なお、史実では竹内城主・竹内下総守秀勝は、早くから松永弾正に随身した弾正の
重臣である。
∧_∧
O、( ´∀`)O 田の神じゃー
ノ, ) ノ ヽ
ん、/ っ ヽ_、_,ゝ
(_ノ ヽ_)
筒井順慶については、評論集「歴史の世界から」に「僧兵あがりの大名」という評論がある。
果心居士は、インドのバラモン僧・吠檀多(ベーダンタ)と、日本人の母・せんの間に
生まれたハーフである。
なお、吠檀多は、この小説では人名にされているが、本来は、バラモン教の聖典で
あるヴェーダに含まれる哲学書の部分=ウパニシャッドの別名である。
吠檀多(ベーダーンタ/梵/Vedanta)。
伊賀の乱において、果心居士の逃走ルートになる鬼瘤越えは、現在の地名でいうと、
伊賀市奥馬野である。
この作品のラストは、あっけない。初登場の玄嵬という修験者に簡単に殺されて
しまう。淡々と史実を述べているだけの感じ。
72 :
無名草子さん:2011/10/19(水) 19:07:27.13
短編小説はそんなものだろうよ。興味のない部分は、サラリと流すのが鉄則。
果心居士を育てた師である義観という人物が登場する。
どこかで見たことのある名前だと思ったら、幕末の上野戦争当時の寛永寺の執当職が義観。
「大坂侍」とか「花神」には、ひょっとすると出ているかもしれない。もちろん別人だが。
埋め
よくわからない小説だった。ラストの耳無と鵜蔵の会話からすると、鵜蔵は
嘉兵衛屋敷から最後に出て行った入道を愛染明王だと思っている。
その場面までは、読者も入道が愛染明王だと推測している。
ところが耳無だけが、死んだ愛染明王の正体を知っている。
鵜蔵は、耳無と愛染明王が闘っている間、その正体に夜這いをかけているはずなんだが、
ラストの会話からは、杉蔵の屋敷に、その正体がいたのか否か、鵜蔵はその正体と寝た
のか否かについては語られない。
おそらく、鵜蔵は、杉蔵の家を襲った愛染の手下と闘っていただけで、夜這いは
できなかったのだろうな。夜這いの前に、愛染の手下に襲われたのだろうよ。
これはつまんないからネタバレしていいだろう。
60歳過ぎの男の忍者が、23,24歳に見える娘に化けていたというだけのオチ。
しかも、22、23歳にこしらえて、23,24歳に見えるというオマケつき。
空海の風景(文庫版)に付いてなんですが、
あとがきで、真言宗の僧侶Kさんの雨降しの名人だ、と言う噂の話しがありますよね。
それに対するKさんの反応に付いて、
〜密教修法をやった人間の焦げ臭い一端を不用意に嗅がされてしまった〜云々とあるんですが、
これは、どう言う意味なのでしょうか?
密教修法の過程での神秘的な体験を通して、
Kさん本人は、その体験を心から信じて怯えているのだ、と言う意味なんでしょうか?
それを敷衍して、密教修法をやった人間の焦げ臭いと言う表現になったのでしょうかね。
それとも単純に、嘘っぱちだからふれられたくないと言う趣旨の表現なのでしょうか?
>>75 愛染明王のいまわの際の叫び声が、若い女の声なので、わからなくなるのだろうな。
このような場合、正体が顕れるのが物語の鉄則。
>>78の映画では正体は男だ。
耳無は正体は女だと思い込んでいた。鵜蔵に「まさか」と言われて、女説を即座に引っ込め、
60歳すぎの男と見解を改める。下忍に「まさか」といわれて、即座に見解を改める主人公も変。
>>80 >愛染明王のいまわの際の叫び声が、若い女の声なので、わからなくなるのだろうな。
>このような場合、正体が顕れるのが物語の鉄則。
その鉄則を覆したのかもしれないな。
それで、耳無は愛染が死んだ後まで女だと思い込んでいた。
読者も状況からすると、入道は愛染ではなく、小若であると思うはず。
しかし、燃え上がる屋敷を脱出するときの耳無には、「それをたしかめる
体力も余裕も残されていなかった」と曖昧にしているよ。
耳無の思い違いという線も残している。
>>82 しかし、そこから論理必然、小若は60歳過ぎの男が化けていたとの結論には
ならないだろう。耳無が最後のページでやっている推論は、へんだと思う。
入道と小若が別人であっても、いっこうにかまわない。
耳無の推論の根拠は、三ヶ月前に小若が池原村に来たということと、神隠しに
あった子供以外は、入道の姿を見かけた村人がいないということだよな。
そこで、入道は常時小若に化けていたという推論を立てた。
しかし、一人とはいえ、入道の姿を見た村人はいるんだ。別人の可能性はある。
小若に夜這いをかけていっぱつやれるはずだったのに、その役を鵜蔵に譲った
から、心残りだったんじゃないか?それで愛染の最期の叫びが小若の声に聴こえた。
>>80 耳無は見解を改めたのではなくて、小若に化けた男が愛染と言っているだけさ。
ここでみんなが混乱しているのは、ラスト近くの耳無の台詞「愛染は、大坊主で
はないわ。小若という・・・女であった」があるからだよ。ここだけ読むと、小若が
大坊主に化けていたようにも思える。また、耳無は、小若と大坊主は別人であると
思っているようにも思える。
それと神隠しにあった少年の証言があるにもかかわらず、途中で大坊主は少年の
幻覚と言ったりする。ところが、その後で大坊主が実在することを見せる場面がある。
ここも混乱を誘っている。
まあ、出来の良い短編ではないな。
60歳のジジイが化けた22歳の女なんか、お断りだな。
エロ小説に出てくる顔も体も20代にしか見えない40代の熟女のほうがいい。
初読は学生の頃だけど、雪山を歩く主人公と、次々に発見される伊賀忍者の
屍だけが印象に残っていた。寒そうな小説というイメージ。
白い雪景色のなかに紅一点の小若。これも印象に残っていた。
今回、再読するまでは、小若がジジイの化けた姿であることを忘れていた。
湯舟ノ耳無は、その紅一点は、実は60歳過ぎのジジイだったと結論づけているが、
そこを読んで、雪景色の中の紅一点というイメージが崩れてしまった。
別人にしとけばよかったのにね。
登場しない伊賀の四鬼2名について
音羽ノ城戸の信長狙撃シーンは、「梟の城」でも余談として出てきた。
柘植ノ四貫目には「忍者四貫目の死」という短篇があることは以前も
述べた。この作品では四貫目の名前の由来が書かれてある。
忍び込んだ城に長期間潜むために、生米を四貫も食いだめするところから
四貫目という名になった。ちなみに四貫とは、15kg。
秀吉の伊賀忍者20名を殺害する手助けをしたキジモンとは、
木地屋・木地師と呼ばれる什器を製作する轆轤師である。
「街道をゆく」にも何回かこの話題が出てきた。
いま思い出せるのは、「紀ノ川流域」。
風神の門でも話題になった猿投頭巾が、この小説にも出てくる。
行商人に扮装した耳無が被っていた。
92 :
無名草子さん:2011/10/20(木) 18:17:50.72
連投君、おつかれさん。
埋め
>>87 60歳の男が20歳の娘に化けたからといって、すごい忍者だとは思わんからなー。
むしろ風景として、一面の雪景色の上で繰り広げられる殺伐とした忍者どうしの
闘いの中に、ひとりだけヒロインを配置したほうが絵になったな。
まず、結論を確認。入道(大坊主)と小若は同一人物で、これが愛染明王。真実は60歳すぎの男性。
次に、愛染明王の正体についての混乱の原因を探る。
1.鵜蔵の「まさか」発言は、杉蔵の家で小若を抱いた体験の後のものであるか否かが不明
2.殺される忍者・怪人は、死に際には正体を晒すのが物語の鉄則なのに、娘に化けたままで死ぬ
3.入道たちが杉蔵の家に向かった後、小若ひとりが嘉兵衛屋敷に残っていたのか否かが不明
4.「愛染は、大坊主ではないわ。小若という・・・女であった」という耳無発言は別人説のようにも読める
5.入道を見たという少年発言の後、少年の幻覚と否定したかと思うと、次には実際に入道を出す
6.死んだ愛染の遺体が確認されておらず、女の叫び声がほんとうに聴こえたのか曖昧
7.そもそも60歳の男が20歳の女に化けることが、すごい忍者の条件なのだろうか、そこが不明
8.真実の姿である入道の姿を村人に隠し、娘に化けることに、どういうメリットがあるのか不明
9.耳無が嘉兵衛屋敷で愛染と闘うつもりならば、小若が杉蔵の家にいたのでは闘えない。
入道が杉蔵の家に向かったのを確認した後に、嘉兵衛屋敷に向かった耳無は入道と小若は
別人と思っていたということではないのか?
各論1.鵜蔵の「まさか」発言は、杉蔵の家で小若を抱いた体験の後のものであるか否かが不明
夜這いに成功し、鵜蔵が小若を抱いた後に敵に襲われたとすれば、耳無が愛染の死に際に
聞いたという女の声は空耳ということになる。そうすると、鵜蔵の「まさか」発言はリアリティで
充溢する。
鵜蔵と敵との格闘の最中に、小若ひとりが嘉兵衛屋敷に戻ったということも考えられないか?
愛染は入道姿で杉蔵の家にむかったんだよ。小若に変装する時間の余裕はないよ。
各論9.耳無が嘉兵衛屋敷で愛染と闘うつもりならば、小若が杉蔵の家にいたのでは闘えない。
入道が杉蔵の家に向かったのを確認した後に、嘉兵衛屋敷に向かった耳無は入道と小若は
別人と思っていたということではないのか?
耳無は入道の存在に気づいていないから、確認はしていない。
嘉兵衛屋敷に愛染がいると思っている。この時点では、耳無は愛染の正体を知らないよ。
漠然と男だろうと思っているだけだ。
101 :
無名草子さん:2011/10/20(木) 19:32:17.99
耳無は伊賀の四鬼とまで呼ばれた達人で、かつ主人公なので、彼の言葉を疑いなしに
真実と思い込んでいないか?
鵜蔵の「まさか」が真実で、耳無が死の前日にネゴトを言ったのかもしれんよ。
俺は、耳無が聞いたという女の声は空耳だと思うな。
だって、名前が耳無だからw
102 :
99:2011/10/20(木) 19:33:52.96
>>100 まぎらわしいことをして、すみませんでした。
>>101 耳無が勘違いをしている場面は他にもあるからな。
殺された忍者の足裏の十文字切りを見て、伊賀者の仕業と即断した。
その後、新事実が出るに及んで、考えを改めたけどね。
何でも疑ってかかる忍者は、女を見ても、男が変装していると思うのかもしれんね。
耳無も鵜蔵も、大入道の姿は一度も見ていないんだよな。
客観的には少年の証言どおり、大入道は存在するにしても。
耳無のごときは、その少年証言すら幻覚だと思っている。
それなのに、ラストでは、大入道の存在することを前提に、小若と同一人物か否かを
論じている。へんでねぇ?
>>104 鵜蔵は大坊主を見ているよ。本文には記されていないけれど、大坊主の率いる
軒猿たちと闘っているから。
待てよ。その大坊主こそ愛染で、耳無も別の場所で闘っているんだぞ。
まあ、屋敷が火事になるまでは鵜蔵とたたかい、屋敷に火がついたのを見て
引き返したとも考えられるな。
しかし、どうして慌しい闘いの最中に、女に変装するんだ?
やはり女の叫び声は空耳だろうよ。
なんでおまいらは小若が登場すると熱くなるんだw?
常識的に考えろよ。60歳ニューハーフを見れば、小若と入道が別人であるとわかるよ。
論点7.そもそも60歳の男が20歳の女に化けることが、すごい忍者の条件なのだろうか、そこが不明
これがあるから、この小説は、つまらんのだろうな。
愛染明王という忍者にミステリアスな部分があるとしても、それを解明したから、どうだっていうの、
と思ってしまうんだわ。
そんなところをミステリアスだと思うおまいらの感覚が信じられん。
60歳の男が22歳の女に化けていると勘違いした主人公の話だろうよ、これって。
どうやったって化けられるはずがない。
そうだよな。ネカマ詐欺事件のように上手くいくはずがない。
「伊賀の四鬼」とか「和州長者」のようなくだらん作品は、つっこみどろが多くて楽しいな。
この作品は、賤ヶ岳合戦の前哨戦として、情報収集にあたっていた羽柴と柴田の
忍者の闘いを描いている。ただし、賤ヶ岳近辺を舞台にした以外は、賤ヶ岳合戦
が始まる前に物語が終了してしまうから、背景設定に合戦が関係するだけだ。
ほとんど忍者しか登場しないし、全員オリジナルのキャラクターだから、いまいち
盛り上がりに欠ける。
埋め
117 :
無名草子さん:2011/10/21(金) 12:56:44.23
>>95 その結論が間違いなんだよ。入道(大坊主)と小若は別人。
1.嘉兵衛屋敷では、愛染がいた。
この場面、愛染は男女いずれかわからない。
次の台詞の口調からは、男のようにも思える。ミスリーディングを誘う。
2.最後に、墨染の道服をきた入道あたまの巨漢が・・・
「最後に」がミスリーディングを誘う文言になっている。最後に出てくるのは普通なら棟梁。
3.みじかい悲鳴をあげた。意外にも可憐な女の声
耳無は、それをたしかめる体力も余裕も残されていなかった。
これで愛染は女であることを強く匂わせるが、男の可能性も完璧には否定しない。
4.「愛染は、大坊主ではないわ。小若という…女」
ここで愛染=小若が確定
5.六十は越しているであろうが、…二十二、三にこしらえていた。
2.のミスリーディングが尾を引いているため、60歳を越しているのは入道だと
思い込み、入道が小若に化けていると勘違い。六十歳の男とは書いていない。つまり、婆。
愛染が60歳の婆が化けた23歳の小若であることを証明する文言は、
実は、男口調の
>>118の1.の台詞のなかにある。
「今夜戌ノ下刻、杉蔵の家へ忍んでくる」
この情報を知っているのは、耳無とこの会話を交わした小若だけなのである。
>>95 論点1.小若は入道ではないから、はじめから嘉兵衛屋敷にいた。鵜蔵は小若と寝ていない。
論点2.可憐な女の声の悲鳴で騙されやすいが、可憐な声の婆だっている。
論点3.不明ではない。小若はひとりで嘉兵衛屋敷にいた。
論点4.そのとおり。大坊主と小若は別人である。
論点5.入道の存否についての叙述は、読者の混乱を誘うにしても、すこしやりすぎな感がある。
論点6.最後の最後まで愛染が男女いずれであるかを隠すためだろうな。
論点7.愛染は爺ではなく婆。
論点8.同上
論点9.耳無は入道の姿を確認していないので論外。耳無は女の悲鳴を聞くまで愛染は男だと思ってはいた。
test
混乱の原因は
>>77だけでなく、
>>78の映画のせいもある。
この小説の小若に相当する小弓という女性が、愛染明王となって主人公と戦う。
愛染明王が死んだとき、正体である男の姿に変わる。
そろそろ次に行こうぜ。「伊賀の四鬼」は飽きた。
映画「忍びの衆」は、伊賀の四鬼が秀吉の命により、お市の方を北ノ庄城から誘拐する
物語になっている。その過程に小説の内容を組み込んでいる。
映画の伊賀の四鬼は全員小説とは別人。そのうちの一人に鬼瘤という忍者がいる。
「果心居士の幻術」に出てくる鬼瘤越えを思い出した。
音羽の城戸も登場するが、四鬼の上忍という位置づけ。
>>115 映画では、賤ヶ岳合戦も出てくるよ。伊賀の四鬼の一人・おりんの色仕掛けにより、
佐久間盛政が兵を動かしてしまう。おりん役は「痴人の愛」の大楠道代(旧姓・安田)。
>>124 お前の書きこみ自体が飽きてんだよ
馬鹿の一つ覚えで日に何十回も書きやがって
阿呆だから文体変えることもできねえのなw
彡川川川三三三ミ
川|川/ \|
‖|‖ ●----● |
川川‖ 3 ヽ
川川 ∴)д(∴)
>>127 川川 / 飛び加藤の恋人がきましたよー
川川‖ /‖
川川川川 /‖\
O社のFさんにそっくり
まだあわてるような時間じゃない
埋め
133 :
無名草子さん:2011/10/22(土) 13:14:34.39
どうした?『戈壁の匈奴』は、まだか?
「お前は、嘗て、西夏の女を見たことがあるか」
「ございます」
「それは、この女達に似ていたか」
「さあ。なにぶん若年の頃でございましたゆえ……」
鉄木真は、黙った。やがて、
「はげ」
兵が走り寄って、禿を鉄木真の前に引きだした。
鉄木真が主人公。スケールの大きな短篇です。13世紀のモンゴルを描くと、地理的にスケールが大きくなる。
モンゴル兵の戦いの動機が美女とまぐわって性欲を充たすことにあったという物語。性欲は偉大だ。
20世紀の探検家サー・アルフレッド・エフィガムの導入部も、いい空気を出しています。
アウレル・スタイン教授は実在の人物ですが、エフィガムはどうなのでしょうか。おそらく架空の人物。
リーシェン公主は、この小説では女性にされているが、史実では男性。
したがって、窩闊台(オゴタイ)の妾になれるはずもなく、窩闊台に殺され、西夏は滅亡した。
玻璃(水晶)の浴槽というのもデタラメだろうな。
リーシェン公主が男である事実を知っている読者にとっては、けっこう笑えるホモ小説。
砂漠の民が犬とやっちゃう風俗も出てくる。
アルフレッド・エフィガムが宿泊したラマ教寺院のある寧夏は、現在、寧夏回族自治区になっている。
その首府である銀川市が、西夏の首都・興慶府がったところだ。
142 :
無名草子さん:2011/10/22(土) 19:09:44.64
司馬さんが最も愛した中国の周辺民族の物語を、へんな方向に誘導するなよ。
このスレにいるのは俺とお前だけだからな
いやいやお前も俺だよ
よく来たな、ここは初めてか?力を抜けよ
149 :
無名草子さん:2011/10/23(日) 18:40:15.85
鉄木真と蒙克がやっている『やぶさるめる』は、ドラマ「坂の上の雲」では、
秋山好古と袁世凱がやっていたな。
もういいです
グロ注意
人質にとられる前の李?公主が飲んでいた茘酒(れいしゅ)という酒は、
茘枝酒(ライチシュ)のことなんだろうか?
157 :
無名草子さん:2011/10/24(月) 12:13:03.66
茘酒は、この作品の中では、血のように赤いと云われているから、別物じゃないかな。
茘枝酒は、淡いオレンジ色だ。
戈壁の匈奴は、鉄木真の生涯のなかの、西夏の女への想いだけに焦点を合わせて
語られたので、うまく短篇のなかに収まった。しかし、鉄木真は長篇で語るべき人物
だろうな。決して嫌いな作品ではなし、面白くもある。でも、後の司馬さんの長篇・短篇
の書き分け基準からすれば、長篇でやっていただろうな。
「鬼謀の人」の村田蔵六は、後日、「花神」になった。
「英雄児」の河井継之助は、後日、「峠」になった。
「戈壁の匈奴」も長篇化していただきたかったですね。
「花神」と「峠」は、当時の読者の感覚では、長編の主人公になりそうもない人物を
主人公にして成功した。「国盗り物語」の斎藤道三もそうかもしれん。
「戈壁の匈奴」は、また長編を一作も書いていない時期の作品なんで、仕方ない。
現在ならカタカナ表記されるべき人名・地名が、中国の史書に登場する漢字の当て字に
なっているから、それだけで嫌う読者もいるだろうな。
俺は明治時代の欧州圏の人名・地名を漢字の当て字で書いているものですら好きだから、
カタカナ表記よりも雰囲気が出ている戈壁の匈奴は大好きだ。
漢字の当て字で表記するのは、時代の空気を出すためのテクニックなんで、
時代小説の場合、カタカナ表記はやめてもらいたいな。もっとも、その当て字
が何を指しているのかわからない場合があるから、フリガナ・かっこ書きで
カタカナを使うのは歓迎だけど。
この作品中の花剌子模国(クワラズム)というのは、見たことはあるけど、
どの国なのかわからなかった。
>>164 世界史の授業ではホラズム・シャー朝で習っているはず。詳しい参考書では
花剌子模国のほうをかっこ書きで記述しているから、見覚えがあるんじゃないの。
だが、パミール高原に、葱嶺の当て字を使うのはやめてほしい。
高原一面にネギが生えているようなイメージが思い浮かんでしまう。
>>160 ペルシャの幻術師から1年足らずで格段の進歩を遂げていると想う。
ペルシャの幻術師は、とことなくアマチュアっぽさが残るが、戈壁の匈奴は
安心して読める。
戈壁の匈奴と同じ昭和32年の作品・兜率天の巡礼もいいよね。
閼伽道竜と波那の夫婦生活を描いた場面は、当時未婚の司馬さんなのに
どうして上手く書けるのか不思議だった。
昭和25年の結婚と、同29年の離婚は、以前は伏されていたからな。
夫婦生活の叙述もそうだけど、閼伽道竜と波那の死別の叙述のリアリティも
半端じゃない。離婚体験でもなければ、あのように上手くは書けない。
そういや作品に登場する親子関係も、子供をもったことのない作家に書ける
ような出来じゃないよな。斎藤道三と義龍のちょいとわけありの親子関係が
実に上手く書けている。
与一氏
埋め埋め
兜率天の巡礼は、後半、道竜の妄想を通して、世界史の有名シーンをふんだんに
見せてくれるから、歴史小説の文脈で捉えられがちだけど、舞台となっているのは、
昭和10年代から22年までの日本なので、現代小説なんだよな。
秦氏=ユダヤ人説という学説を、物語風に展開してみせた現代小説。
司馬さんの一回目の結婚 - 離婚の事実を知る前は、道竜の妄想に出てくる
世界史の場面にばかり興味をそそられたけど、その事実を知った後は、
むしろ道竜の妄想世界以外の純文学部分に興味をそそられる。
筆者は明日より参加
波那は糖尿病が悪化して、死亡の10日前から精神に変調をきたす。
夫である道竜ですら認知できなくなり、道竜にむかって、
「怖いィ。お前の、お前の顔……。ああッ」
と叫ぶ。
以前は単なる創作とばかり思っていたけど、いまは、この部分を読むと、
離婚直前の夫婦間の緊張をうかがわせる叙述に見えるな。
参考までに、この時期の司馬遼太郎年表
昭和25年 最初の結婚
昭和27年 長男誕生
昭和29年 離婚
昭和32年 「兜率天の巡礼」を近代説話に発表
昭和34年 再婚
そういえば、高杉晋作の妻の名は雅子。
君たちね、全集の年表に最初の結婚・離婚の事実が書かれていないのは、
著名人であられる司馬氏のプライベートが興味本位で書き立てられて、離婚した
元の奥様とご子息の平穏な家庭生活が乱されないようにとの配慮があっての
ことだからね。関係者のすべてが故人になられない間は、こういうことは
そっとしておくべきだと思うけどね。
司馬作品は娯楽作品ばかりではなくて、初期作品のなかには純文学系のものも
ごくわずかだけど存在する。作者の人生が色濃く投影された部分もあるだろう。
それゆえに、作者のプライベートとの関連が気になる。それを知りたいという欲求
は理解できなくはないが、最低限、ご本人の子ども世代がお亡くなりになられてから、
というルールはあってもいいと思うね。
といいつつ、喜んでいるんだろう、おまいw
まじめな話をしているのに、どうして君は、そうやって茶化すの?
つーかマイナー作品が立て続けに続いているじゃない。有名な作品をやれよ。
街道をゆくをやれよ
>>79 なんですが、
みなさんはあの比喩の真意をどう思いますか?
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190 :
無名草子さん:2011/10/25(火) 15:01:25.66
>>183 兜率天の巡礼は、むかしは未読の方が多かったが、最近は文庫で手軽に入手できる。
最高傑作ではあるまいか。誰も、そんなことを言わないけど。
最後は自殺する主人公の妄想を通して、時間と場所が大きく飛ぶ。
5世紀のコンスタンチノーブル、唐の長安、大和・飛鳥時代の日本。戦中・戦後の日本。
この飛びっぷりは見事。
この小説の最初と最後に出てくる上品蓮台院は架空の寺。
京都市北区紫野にある上品蓮台寺と名称が酷似しているので紛らわしいが、
上品蓮台寺は、真言宗智山派。小説の寺は、不断念仏宗となっている。
上品蓮台院(小説)は、元は仁和寺系列の真言宗と書かれてあったので、
上品蓮台寺(実在)=真言宗智山派の総本山を調べてみたが、智積院であった。
仁和寺は真言宗御室派総本山である。
閼伽道竜が奉職していた大学は、京都のH大学であるが、京都で法学部も医学部もある
大学といえば、京都大学しかない。
閼伽波那の病状についての叙述について
糖尿病の悪液質が脳に侵入して意識不明の状態であると書かれている。
悪液質を「悪い液質」のイメージで捉えておられるような気がする。
(もっとも浸入ではなく侵入と書いておられるから、そうではないかもしれないが)
悪液質は、たしかにむくみや腹水・胸水といった症状を伴うが、
基本は各種疾患により全身が痩せ衰えることだよね。
水が脳に溜まって意識不明になることがあるの?
閼伽波那の精神病の診察をするため、H大学から医専部医局員がやってくる。
医専部とは、戦時中の軍医不足を解消するために、全国13の大学に設置された
臨時医学専門部のことである。
これによって合計約2,000名の医師増員が行われる予定であった。
以上連投である。
閼伽道竜が祖述していたというベルリン大学の政治史の教授R・トライチュケは、
ハインリッヒ・フォン・トライチュケがモデルであろうと思われる。
連投君は、いったい何をしているの?考証?
大避神社がある赤穂郡比奈という地名は、地図で探せなかった。
現在地は、赤穂市坂越1297となっている。
秦氏=ユダヤ人説によると、この小説でも紹介されているとおり、
大避大神とはダビデ(大闢)になるらしい。
神社側は大避大神=秦河勝と説明しているらしい。
203 :
無名草子さん:2011/10/25(火) 19:55:13.23
>>191 時間と場所の飛び方は、「街道をゆく」よりもダイナミックですね。
しかも、フィクションを多量に含んでいるから、ワクワク感の強さは
「街道をゆく」の比ではないと思います。
売れた長編を数多く発表した作家なので、兜率天の巡礼が好きな
司馬作品のアンケートで上位にくることはありませんが、私も好きな作品です。
ファンタスティックな作品だわな。
古代史が放つロマンというのは、神々の時代に近いだけに、
現代人を酔わせるものがある。
実際の古代人は、歯磨きしていないから、口臭がきついよ。
ロマンもふっとぶよ。
殺虫剤もないから、害虫だらけだろうしな。ハエが顔にとまっても、平気で食事を続けるのが古代人。
>>204 評論家の解説でも、兜率天の巡礼はファンタジーであり「果心居士の幻術」や「妖怪」に
通じるものがあると評されているが、違うと思う。純文学系の徹底したリアリズムだと思う。
(純文学=リアリズムという図式に異論があるのは、ここでは、さておく)
兜率天の巡礼をファンタジーと評する論者は、実在したネストリウスが「閼伽道竜」と表記
され、ネストリウスとルビが振られているごとく、歴史上の人物と、この作品だけに登場する
オリジナルのキャラクターの人格がダブっている部分を指して、そのように云っているのだろう。
しかし、いわゆるファンタジーと、登場人物の主観世界にあるファンタジーをリアルに描写すること
とは異なる。関羽と後藤又兵衛が戦う小説はファンタジーだが、関羽と後藤又兵衛が戦う妄想
をしている登場人物を、作家がありのままに描写することはリアルである。
我々が読書体験の中で、書物の中の人物と同一化してしまうことはよくあることである。とくに
歴史上の人物の場合、その時代の制約の中に読者が入り込まないと、人物を理解できないこと
が多い。その場合、読者が人物になりきることがある。その主観世界をそのまま描けば、一見
ファンタジーに見えるが、登場人物の主観的な体験をリアルに描いただけなのである。
世界史でおなじみの大宗教会議の場面は、小説で読んだのは最初で最後だったので、
面白かった。ただ、司馬さんの訳語は、一般に行われているものと異なるものが多い。
ここに対照表を掲げておく。
キリル僧正・・・・・・・・・・キュリロス
ハクペシア・・・・・・・・・・・ヒュパティア
ジャスチニアン帝・・・・・・ユスティニアヌス1世
コンスタンチノーブル・・・コンスタンティノープル
アンテオケ・・・・・・・・・・・・アンティオキア
この小説を読んでいると、ネストリウス派を異端とした宗教会議がコンスタンティノープルで
行われたように誤解されるおそれがある。
会議の場所は、エフェソス(現・トルコ共和国セルチュク郊外)である。
ハクペシアというと誰のことだかわからないだろうが、ヒュパティアと表記すればご存知の
読者も多いはず。レイチェル・ワイズ主演の映画「アレクサンドリア」(2009年公開)の主人公である。
映画「アレクサンドリア」の話題にゆきたいところだけど、ヒュパティアは、この小説では、
キリル僧正(キュリロス)の悪性格を立証する余談の中に登場するだけなので、脱線は避ける。
最近DVD化されたから、詳しく知りたいやつは、それを見ろ。
主人公・閼伽道竜は、戦時中に北畠顕家に関する研究の講演速記を出版したこと
を理由に公職追放されている。
自身をネストリウスになぞらえ、自分を引き立ててくれた主任教授をテオドル監督に
なぞらえ、自分を公職追放したGHQをアレクサンドリア教会閥のキリル僧正になぞら
えている。このように自国の比較的最近の事件になぞらえてくれると、5世紀の東ローマ
帝国で起きた事件も理解しやすくなるな。
閼伽道竜が同僚のR教授に誘われて講演した山陰のY市とは、鳥取県米子市。
島根県のY市としては安来市があるが、市政が布かれたのは昭和29年なので、違う。
東ローマ帝国から、唐代の中国に話が飛ぶ。異端とされたネストリウス派の信者は、
唐の都長安へ、約200年の時を経てたどりつく。
このあたりは「空海の風景」にも詳しく書かれている。「風景」では景教徒の長老は、
史実どおり阿羅本だったが、兜率天の巡礼では守牟礼奴(スムライヌ)になっている。
>>207 じっくり読むと、閼伽道竜がネストリウスやアウギンゾム教父に変身している幻想小説
ではありませんね。研究者である閼伽道竜は、書物を読んで思索を重ねている。自分
を書物の中に現れる人物に投影しているだけ。
そんな閼伽道竜の頭の中を作者がのぞいている小説でした。
唐に景教が入るのは、二世太宗の貞観9年(635)ですが、物語はさらに200年
下ります。会昌の廃仏毀釈令(845)の直前。景教徒の胡女呼珊に妻・波那の
イメージを投影する閼伽道竜。
さらに天啓5年(1625)の大秦景教流行中国碑のお話。これも「空海の風景」に出てきます。
その碑石の側から、人骨一体が出土された。閼伽道竜は、この人骨を漢詩に出てくる
胡女呼珊(玄宗に殺された景教徒の少女。作中名は波那)の死に結びつけた、とあります。
おそらくそんな漢詩はありません。作り話でしょうね。
ここから日本へやってきた景教徒・秦氏の物語になります。
ただし、長安へやってきた景教徒たちとは、つながりがありません。
別グループだったのです。長安に景教が入った時期よりも、はるかな昔
に日本へ景教が入ったというのです。ここが秦氏=景教徒説の弱点ですね。
物語としても、非常につながりが悪い。ネストリウスの話から直接秦氏の
話につなげればよかったのですが、学問的にしっかり実証されている
長安の景教の話を間にはさんでしまった。
コンスタンティノープルから船に乗ってはるばる日本に来る動機が不明だわな。
キリスト教圏を抜け出てしまえば安全なのに、なんで極東の島にまで来たのか。
>>219 それは秦氏=ユダヤ人説のウィーク・ポイントではなくて、この小説の見解。
普洞王が訪ねていった大和の天皇の名が明らかにされていないが、
「新撰姓氏録」によれば、普洞王(浦東君)は仁徳天皇の御世に、
波陀の姓を賜ったと伝えられている。
この三柱鳥居の発見で小説を終了してもよかったのでありますが、
まさか現存する大酒神社を焼くわけにもまいりませんので、架空のお寺である
上品蓮台院を出して、この場所で閼伽道竜は焼身自殺します。
>>219 中国・朝鮮経由にすると通説と整合するが、司馬さんは、中国の史書で
東ローマ帝国が大秦と表記されているところに注目して、普洞王に「我々は大秦
から来た」と云わせたかったのだろう。普洞王の台詞を聞いて勘違いした日本人が、
普洞王は秦の始皇帝の子孫と思いこんだという流れにもっていきたかった。
中国沿岸を伝いつつ、東海の比奈ノ浦にたどりついたというのがどうもなー。
朝鮮は避けたのかw
ウォン安で困っているところへ、東ローマ帝国からユダヤ難民がやってきたから、
「為替介入してくれ」と頼んだ。ユダヤ人はそれを嫌って、比奈ノ浦を目指したんだろ。
聖徳太子まで登場するサービスの良さ。もっとも秦氏は聖徳太子のパトロンだった
から、出るのは当然なんだが。
アウギンゾム教父と胡女呼珊の話は、せつなかったな。
228 :
次回予告:2011/10/26(水) 18:53:25.26
胡蝶の夢
>>207 そうなのか?自分の好みのタイプの女とセックスしているところを妄想しながら
オナニーしている男を主人公にしたAVは、ファンタジーAVというだろう?
230 :
無名草子さん:2011/10/26(水) 19:14:27.69
>>191 最高傑作は言い過ぎかもしれないが、主人公の一生をダラダラとやる長編よりは、
兜率天の巡礼のように、一つのテーマをじっくりと演繹・敷衍した小説が好きだな。
この手の力のこもった作品を、もっと書いてほしかった。手間と時間のかかる短編
だったと思うよ。
>>218 ネストリウス派の大移動というのは、エフェソス会議の直後から始まったのだろう。
とりあえず東ローマ帝国の支配の及ぶ地域を脱すればいいわけだが、その内の一部
が陸路5〜6世紀の中国・朝鮮まで来ていた。その中の一部が日本に渡ったと考える
のが素直だろうな。船に乗ってコンスタンティノーブルから日本へ、というのは無理が
ありすぎる。
それから200年後に長安へ来た連中だけど、こいつらは布教を目的として唐を目指した
連中と考えればいい。5〜6世紀に東ローマを脱した連中は単なる信者。逃げるだけが
目的だ。このように考えると、秦氏=景教徒説も成り立つ余地がある。
>>229 せめてゴジラとガバラの闘いを妄想している少年を主人公にした「オール怪獣大進撃」を
たとえに挙げてくれ。
>>231 秦氏=景教徒説が成り立ったからといって、どうってこともないんだがな。
しかし、「戈壁の匈奴」や「兜率天の巡礼」を読むと、街を歩いていても、
通行人の顔が気になって仕方ない。
「あいつはタングート」
「こいつは女真」
「まちがいなくインドネシア」
通行人の顔を吟味しつつ歩くようになってしまった。
>>207 ファンタジーはファンタジーだよ。
君の論理は、作者がファンタジーをダイレクトに表明すればファンタジー小説になるが、
登場人物というワンクッションを置けば、リアリズムになるというものだよ。
それはへんでしょう。
ファンタジー部分の分量にも左右されるし、全体の文脈・作者の意図にもよると思いませんか?
兜率天の巡礼の場合、読者のファンタジー趣味に応じようという意図は感じられない。
主人公の研究中のテーマに関する想念の道筋を示す中に、主人公が歴史上の人物
に自己を投影した部分があった。これって読書の際、我々も日常的に行っていますよね。
推理小説の探偵になりきって犯人探しをするみたいな話。
歴史上の人物に投影された人格は、主人公とその妻と主任教授。自分と自分の身近に
いる人を小説の登場人物に投影することは我々だってよくやる。
時代の異なる武将ふたりを闘わせるようなファンタジーとは違うと思いますがね。
うめ
239 :
無名草子さん:2011/10/27(木) 13:21:53.21
ファンタジー云々よりも、閼伽波那の命日が昭和20年8月15日であること、主人公の公職追放と自殺、
そういった文脈に組み込まれた秦氏ユダヤ人伝説・・・。そこが重要な小説だよ。それだけじゃ娯楽性が
ないから、秦氏=景教徒説を織り込んだ。
風神の門でも秀頼は死んでしまうのですか?秀頼生存説の司馬作品はありますか?
真田十勇士がポピュラーな存在になったのは立川文庫の力によるところが大きいが、
その執筆者である玉田玉秀斎(口述)・山田阿鉄(速記)らのオリジナルではない。
立川文庫に類似した講談本は明治末年には数多く出版されていた。講釈では、
猿飛佐助や霧隠才蔵は、立川文庫以前に既にポピュラーな存在だったのである。
現在確認されている最古の十勇士モノとしては、明治33年6月発行の「難波戦記
夏合戦」(神田伯龍講演、丸山平次郎速記)がある。
立川文庫の「猿飛佐助」にさかのぼること10年である。
講釈師の講談は著作権が明確でなかったから、立川文庫の玉田玉秀斎を含む多くの
講釈師の共有するものだったんだろうな。
ただ、立川文庫の執筆者グループのひとりである池田蘭子著の小説「女紋」のなかに
ある次の叙述は問題があるだろう。立川文庫の山田阿鉄の故郷の石鎚山の麓にあった
猿飛橋からヒントを得て猿飛佐助と命名したという叙述だ。これはウソだな。
忍者ブームというのは第三次まであるのだが、江戸時代の第一次ブームを忘れた記事
が多い。論者の勝手といえばそれまでだが、昔は昭和30年代のブームを第三次ブーム
と言うのが定着していたので、もう一度確認しておこうね。
第一次:文化文政期・・・歌舞伎で自来也が大ヒット
第二次:大正時代・・・・・立川文庫の真田十勇士と活動写真の忍者モノ
第三次:昭和30年代・・・時代小説・映画・テレビ
現代だと「NARUTO」でNINJYA人気があるか
以上連投である。
うめようぜ
ここ毎日書き込んでるやつなんなの?マジキモい…同じよーな文章で自演してるし
こういうのが小説を史実と思い込んだり人に吹聴したりするんだよねー…
あとこいつはそうとう年食ってる感がある
>>246の書き込み見ても年寄りくさい
252 :
無名草子さん:2011/10/28(金) 13:23:37.97
「空海の風景」のあとがきに、司馬さんと親しかった真言宗の僧侶の名前がイニシャルで出てきました。
司馬さんの質問に親切に答えてくれたSさんと、雨乞いが出来るというKさんのお二人です。
その二人の本名が「歴史と風土」という談話筆記の中の「密教世界の誘惑」に出ています。
Sさん=酒井栄信
Kさん=菊入頓如
「歴史と風土」は全集第一期の月報に連載されていた司馬さん本人の談話速記だけど、
内容的には他の評論・随筆あるいは小説の余談と重複している部分が多い。
ただし、談話だけに、随筆よりも詳しく書かれているし、匿名で出てきた友人・知人が、
実名で語られているから、見逃せない本だな。
前スレの「風神の門」の補足になるが、新聞発表前は、この小説の題名を
「天の門」にするか「風神の門」にするかで迷ったと司馬遼太郎は編集者への
手紙に書いていたらしい。
天の門だとタイトルを見ただけではどういう小説なのか内容がわからないわな。
風神だと忍者の禍々しさと通じるものがあるけど、才蔵のイメージとは遠い。
よく意味のわからないタイトルであります。はい。
>>252 密教・雑密についての話になると、智積院の酒井さん・菊入さんの思い出、
十三詣りで母方の叔父に連れてゆかれた大峰山の思い出は必ず出てくるよ。
とりわけ大峰山の不滅の灯明は、司馬少年に強いインパクトを与えたみたいだね。
予告されているのに、胡蝶の夢はまだ始まらないのか?
>>252 ありがとうございます!読んで見ます
>>252 >>256さん
〜密教修法をやった人間の焦げ臭い一端を不用意に嗅がされてしまった〜
に付いてはどういう理解をされていますか? どうもこのニュアンスが通底になっていると思うんですが分からないです・・・。
259 :
無名草子さん:2011/10/29(土) 13:59:43.90
埋め
261 :
無名草子さん:2011/10/30(日) 17:31:33.31
>>257 連投君の頭がコチョウしちゃったんじゃないw
263 :
無名草子さん:2011/10/31(月) 16:27:50.00
別にいいじゃん
埋めるぞー
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長篇の出版順序でいうと、「翔ぶが如く」の次ぐらいだったろうか。実を云うと筆者は
「翔ぶが如く」の後、司馬遼太郎から遠ざかっていた。「項羽と劉邦」を除くと、地味
な作品が続いていたのだ。「胡蝶の夢」が出版されたとき、本屋で手にとって立ち読み
したが、買おうという気持ちにならなかった。初読は、司馬さんが亡くなった後だ。
それでも、当時の自分にとってあまり興味のわかない題材だったらしく、内容はほとんど
覚えていない。今回、じっくりと読み直してみようと思う。
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戦もチャンバラもない時代小説の存在理由がよくわからない。
第1章 恋が浦
島倉伊之助(司馬凌海)が、14歳で蘭学修行のために江戸へ旅立つまでが語られる。
ペリー来航の1年前である。
この小説を読むまでは、この人を知らなかった。作者は自分と同じシバリョウの名前に
惹かれて関心をもったのだろうか。
なお、司馬凌海は自閉症だったと言われている。
この章は、もっぱら佐渡が舞台である。筆者は佐渡へ旅行したことがないので、
地図や画像を手がかりにして読んでいる。
修学のための旅立ちというと、「竜馬がゆく」を思い出す。都会の大学へ行くため
に出郷した経験のある方には、物語の世界に入ってゆきやすい、おなじみの導入部である。
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支援
ぬるぽ
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281 :
280:2011/11/01(火) 17:35:57.51
× 衣裳
○ 意匠
伊之助の祖父・島倉伊右衛門の碁の師匠・九世安井算知は、安井俊哲ともいう。
碁院には、後に出てくる典薬頭と同じく四家あった。本因坊、井上、安井、林の
四家である。
胡蝶の夢には、佐渡奉行になった川路聖謨の日記「島根のすさみ」のさわりだけが出てきますが、
詳細に読みたければ、「街道をゆく〜佐渡のみち」がお勧めです。
佐渡金山の水替人足の悲惨な労働環境についても、ほどほどに書かれています。
蛋白質、窒素、十二指腸は、司馬凌海の訳語と言われているね。
でも、周囲の人たちと調和できない変人だったみたい。
この点、村田蔵六とちょっと似ているけれど、凌海の方が重症。
医学校教授時代に自分が指定した教科書を買い占め、原価より高く売って利益を得るという
非常識なこともしている。そのお金で放蕩したので、謹慎処分になったという変人。
287 :
無名草子さん:2011/11/01(火) 19:08:43.24
>>266 菜の花の沖のように、ずっと後でドラマ化された作品もあるけど、翔ぶが如くの後は、
話題になることは少なかったな。本は売れてはいたんだろうが。
その反面、評論・随筆でお書きになったことが、大げさに取り上げられるなど、小説家と
して正面から評価の対象にされるのではなくて、変な方面で持ち上げられていたような感じ。
俺も、刊行後すぐに買ったのは項羽と劉邦だけだった。
このあと問題の「ひとびとの跫音」もあったしな。えっ、これが司馬遼太郎?と驚いた。
第2章 平河町界隈
この章も伊之助。松本家の若殿さん・良順の薬箱持にしてもらうべく平河町の松本家
を訪ねます。同行したのは祖父の伊右衛門。
続いての宿泊先である薬屋の小西屋とその当主・義兵衛は、おそらく架空の存在。
薬屋の小西というと、大阪道修町の小西新兵衛商店と小西儀助商店が有名。
しかし、いずれの小西屋もこの時期江戸に支店はない。
小西新兵衛商店は昭和19年に武田薬品と合併。小西儀助商店は接着剤ボンドの
コニシである。
筆者は「上方武士道」に登場する小西屋総右衛門は小西新兵衛あるいは小西儀助
がモデルであろうと考えていた。しかし、幕末の文久年間、両店とも道修町では
まだ営業を開始していない。小西屋の屋号が使われただけであろう。
小西新兵衛店は、京都で営業していたが、蛤御門の変で店を焼かれ、その後、大阪
へ出てきた。
小西儀助店の創業は明治3年である。
伊之助が気軽に「順徳さんの火葬塚」と言っているので、近所のおっさんのことかと
思っていたら、順徳天皇のことだった。
順徳天皇は後鳥羽上皇とともに承久の乱を起こした人物。敗れて佐渡に流された。
調べてみると、なるほど伊之助の故郷である真野町新町付近に順徳天皇火葬塚があった。
松本家の門番が着用していた菖蒲革の袴。
菖蒲革とは、元来、地を藍で染め菖蒲の葉や花の文様を白く染め抜いた鹿のなめし革
のことである。「菖蒲」の音が「尚武」に通じるところから、武具に用いられた。
門番が着用していたのは、上記の菖蒲革に似せて染められた布地のことであろう。
小西屋義兵衛の羽織に関して述べられている奢侈禁止令は、天保13年(1842年)のものである。
江戸時代、奢侈禁止令は何度も出されたが、天保の改革の一環として出されたそれは、とりわけ
厳しかったようである。むかしの時代劇で天保時代が描かれるときは、奢侈禁止令に配慮した
演出がなされていた。
最近はカツラと着物で芝居をすれば時代劇になると思い込んでいる輩が増えた。
とにかく平成は、昭和の時代劇をもっと研究しろ。平成は新しいものを作ろうと
思うな。昭和の真似をするだけでいい。
もういいです。
埋め
302 :
無名草子さん:2011/11/02(水) 20:48:16.36
>>269 やっと胡蝶の夢が始まった。これも長いよなー。
第3章 良順と妻
この章は松本良順と松本家の歴史が語られますので、伊之助は登場しません。
伊之助が松本家を訪ねたのが嘉永5年。良順が多紀楽真院の考試を受けたのが
嘉永2年ですので、伊之助はまだ佐渡にいた頃です。
松本家の初代・松本善甫については名前が紹介されているだけだが、一説によると
にぎり寿司を発明した人物として有名である。
善甫は、会津天満宮の祠官であったが刃傷沙汰を起こし故郷を出奔、上方を経由して
江戸にいたり、お玉が池に住んだという。そこで、現代風の握り鮨を創始したらしい。
のち、医学書を何冊か読んで医者を開業し繁盛する。
元禄五年(1692)幕府に召し出され、翌年には奥御医師となる。
松本家 系図
初代善甫・興正(元禄8年歿)・・・元禄6年奥医師
|
四代善甫・・・数原通玄の子:松本家へ養子
|
五代善甫・興世(寛政7年歿)・・・天明6年改易
|
お光――六代:大沢良庵[松本善賢]
|
長男:松本良甫…御家再興
|
登喜――佐藤順之助[松本良順]
松本良順の実父・佐藤泰然の祖は伊奈氏の出とされている。戦国期の伊奈忠次の子孫
である。伊奈氏は忠次の孫の代で改易、武蔵小室藩は廃藩となったが、家名は
旗本として存続し、明治維新に至った。
典薬頭四家についての簡単な解説
半井家・・・・・・・和気氏の後裔。禁裏医官の出身で、成信の時に徳川家に仕えた。
今大路家……織豊期の名医曲直瀬道三の子孫。
吉田氏・・・・・・・奈良時代の医官、百済系の帰化渡来人である吉田宜の子孫。
竹田家・・・・・・・堺の医師・竹田薬師院の末裔と思われる。
埋め
良順の漢方考試の試験官の名前が五人出てくる。
そのなかの一人喜多村安正は栗本鋤雲の父である。
埋め
第4章 伊之助
この章で、はじめて伊之助と良順が出会います。
伊之助と蜂の巣の挿話はたいへん面白い。
少年の行動のなかには大人の常識では理解できかねるものがありますが、
当の少年は少年なりの動機でいたって真剣に行動している。そこに誤解が
生じたりする。伊之助と同じ体験がある方はほとんどいないと思いますが、
描かれている状況は、なんとなくわかる。自分の13〜14歳の頃を思い出させる
素晴らしい挿話だと思いました。
10歳の頃でもなく、17歳の頃でもない、第二次性徴のど真ん中の14歳の伊之助。
体は大人に近づきはじめるのに、多量に子どもの部分を残したこの年齢の少年を、
性の側面からではなく、精神の側面から描いた秀逸な挿話だな。
蜂にさされた伊之助は大葉子を塗って患部の治療をしようとするが、
オオバコ軟膏が虫さされに効くのは本当である。
子どもの頃どこにでも生えていたオオバコを長年見ていない。
懐かしかった。
沼津兵学校の口頭試問で、幕臣の子弟に酒井雅楽頭・井伊掃部頭を読めない者
が多数いたという余談は、司馬作品に50回以上登場する余談ではなかろうか。
飽きた。
奥御医師の薬箱の権威に関連する余談に登場する宇治の御茶師・上林家は、
「風神の門」でも、余談で登場した。才蔵と獅子王院の最後の闘いの舞台は、
駿府の伏見屋勘左衛門の屋敷であったが、これが上林家の縁者という設定
であった。
317 :
無名草子さん:2011/11/04(金) 15:36:15.92
>>315 昭和40年代のはじめだったと思うが、「沼津兵学校」という演劇を観た記憶がある。
幼かったので内容は覚えていないんだが。
昭和14年に今井正監督で同名の映画がある。それと同内容なんだろうか?
旧幕臣と長州藩出身の学生の交流を描いたものらしいのだが。
>>314 あぜ道のような、人に踏みつけられる場所にしか生えないオオバコでしたね。
しっかりと根を張っているし、葉っぱも厚いから、犬のうんこを踏んだときなどに、
靴底のうんこをこすり取るのに重宝した雑草でした。
犬のうんこにたかるキラキラした大きなハエを最近みなくなったな。
>>315 司馬作品で沼津兵学校を真正面から取り上げたものはないから、この余談ばかりが
記憶に残っているな。
幕臣の子弟は阿呆ばかりということにされた。その延長線上に、多紀楽真院が
意地悪で権柄ずくの人物になるというのがある。
>>322 幕臣の子弟は阿呆ばかりというのと、多紀楽真院が吉良上野介のような意地悪
というのとは無関係だろうよ。松本良順も幕臣なんだし。
川路利良のウンコは太かったの?
タイトルの胡蝶の夢は、荘子による有名な説話。漢文の教科書にも出てきたはず。
「荘子 内篇第二 斉物論篇 十三」
だから、何?
>>324 左から二つ目のキンバエは、ペットショップの売り物になるぐらいに可愛いな。
伊之助みたいな変なのがわいてきたな。
眠い
知ってるか?キンバエをバシッとやるとたまに腹から小さな蛆が出てくるんだぜ
Google notebookが完全に終了するようなので、このスレの継続も難しくなってきました。
レスの作成にはGoogle notebookのノート内検索に頼る部分が大きかったので、
代替手段が見つかるかるまで一時中断いたします。
途中でやめるのなら最初から作らない。Google documentはnotebookと仕様が
違いすぎる。
二度と来るな!
一時中断なんて言うな、一生中断しててくれ
はぁ…どの板も長きに渡るスレには必ず馬鹿が居座るなぁ
よぅ
>>332、司馬作品人と語り合いたいならいくらでも相手してあげるよ?トリ外さず自演しなければね
ただまぁ蠅がどーたら、小説の人物に欲情して書きこんでる程度の人間だからなぁ~
うめ
uuuunnnnnnnnneeeeeeeeeeeeee
第5章 春風秋雨
嘉永5年(1852)秋。松本良順の往診と蘭学学習の模様が語られるが、
内容は鎖国以来の蘭学の歴史と坪井信道についての余談がほとんど。
良順は高田馬場の旗本・大久保甚右衛門の用人・増田徳右衛門(40歳)を往診する。
この旗本・大久保甚右衛門については、ご記憶の方もいらっしゃるかと思うが、
「最後の伊賀者」にも同姓同名の旗本が登場する(
>>26参照)。伊賀同心の一揆の後
に彼らを預かった旗本の名である。もちろん名を世襲した子孫ということになる。
良順より先に増田徳右衛門を診察していた竹内玄同は、実在した蘭方医である。
安政5年に、大槻俊斎・伊東玄朴らと共に、お玉が池種痘所を設立する。
越前丸岡藩の典医で、幕府の奥御医師になったのは安政5年である。
良順が蘭語の学習に用いていた文化7年刊行の辞書「和蘭訳鍵」の著者は、
藤林普山である。『ヅーフハルマ』が約7万語所収の大部の著であったのに対し、
「訳鍵」は約3万語所収のコンパクトな普及版である。
胡蝶の夢では触れられていないが、坪井信道は織田秀信(三法師)の五世の孫
とする伝承もある。
林洞海の親族については、後に詳述されることがあるかもしれないが、司馬作品
に関連する人々を何人か紹介しておく。
林董・・・・・・・・・妻・つるの弟。良順の実弟。洞海の養子となる。
日英同盟締結時の英国公使で、坂の上の雲に登場。
長女・多津・・・榎本武揚の妻
次女・貞・・・・・海軍中将・赤松則良の妻。赤松則良は、この作品では、第4章の沼津兵学校
のところで名前が出てきた。
赤松登志子・・・赤松則良と貞の長女。森鴎外の最初の妻。
埋め
坪井信道が尾張町二丁目の漢方医・牧野一徳の下で修行中、あんまのアルバイト
で生活費を稼いだという挿話が出てくるが、この牧野一徳という人物は探し出せなかった。
あんまのアルバイトで有名なのは、適塾時代の大鳥圭介であるが、あるいはその
挿話の流用かもしれない。
347 :
無名草子さん:2011/11/07(月) 15:06:34.04
>>295 足原茂兵衛は、この後もちょくちょく登場するが、牧田弥蔵は消えたな。
>>306 佐藤泰然の父親が、伊奈氏の用人であったとしか書いていないぞ。
作品にケチをつけるのなら、引用は正確にしろよな。
第6章 放れ駒
嘉永7年(安政元年)。前年にペリー来航。本格的に蘭学時代が到来する。
しかし、部屋住みの身分で代診と勉学に明け暮れる良順の毎日に、たいした変化はない。
伊之助は丁字屋の娘・お真魚と遭曳き。良順から拝領した小柄を、近所の旗本・里見源左衛門
が拾ったことから、一騒動がもちあがります。
>>348 この作品では、松本良順の祖父・佐藤藤佐のことを、藤助と書いているね。
どっちでもいいの?
>>350 藤助ではなくて、藤佐が正しいと思う。
良順が、自分の末子に、松本本松という山本山のような名前を付けたのは、
祖父の名前が佐藤藤佐なので、それを真似した。
佐藤藤助では洒落にならない。
∧-─-、
/ ─ \
/ (●) ゙i
< | (、_,.)''ー 、 | 上から読んでも松本本松、下から読んでも松本本松
゙i(●) ) /`) ) / 佐藤藤助だと、下から読むと助藤藤佐になっちゃうね
\ ヽ `ニ´ノ/ よい子のみんなは、絶対に真似しちゃだめだよ
`''ーr -一''゙i
(⌒`:::: ⌒ヽ
ヽ:::: ~~⌒γ⌒)
ヽー―'^ー-'
〉 │
日本赤十社の創設者である佐野常民は、博愛主義者と呼ばれているが、
この小説では、伊東玄朴の象先堂にあった『ドゥーフ・ハルマ』全21巻を質入して、
自己の遊蕩による借財の弁済に当てたことになっているね。
こっちのほうが、よい子のみんなは、絶対に真似しちゃだめなんじゃないの?
>>353 高橋克彦の『火城』では、それは違うと言っている。
佐藤藤佐が仕えていた伊奈遠江守とは、伊奈忠告のことなのだろうか?
一部の資料には、天保年間、堺奉行と京都町奉行を務めている伊奈遠江守斯綏
という人物がいるのだが。
>>355 よくわからんから司馬は伊奈遠江守としか書いていないんだ。ほじくるな。
丁字屋のお真魚も、その祖父・嘉蔵も架空の人物なのだが、「祖父・嘉蔵」で検索すると、
雅子さまの記事ばかりヒットしました。
伊東玄朴が診療に出向いた遠藤但馬守胤統は、大塩平八郎の乱の当時、
大坂城玉造口定番だった。反乱の鎮圧のため出動している。
本作品に登場する遠藤但馬守の家老・松井与七郎も実在の人物で、大塩の
乱の関係文書に、その名が見える。
「翔ぶが如く」の宮崎八郎と芦名千絵は、恋愛にならないうちに芦名千絵が
フェイド・アウトしてしまったが、伊之助とお真魚は、いくところまでいっちゃい
ましたね。この時期の司馬さんは、まだ恋愛を書いていたんだ。
芦名千絵は、はじめは桐野利秋と恋愛するのかなと思わせる場面があったよな。
桐野利秋も宮崎八郎も、史実に有名な恋愛話があるから、オリキャラは割り込めなかったんだろう。
362 :
無名草子さん:2011/11/07(月) 20:25:25.40
>>287 翔ぶが如く以降は、ドラマ化されたのは菜の花の沖だけじゃないか?
主役クラスが若干地味だな。松本良順をドラマで見たのは、『五稜郭』の
石立鉄男ぐらいしか記憶にないな。
363 :
無名草子さん:2011/11/08(火) 12:38:35.31
>>351 すこし後の章で、藤助は藤佐と改名したという叙述が出てくるよ。
作品の中ではずっと藤助で通しているけれど、括弧書きで藤助の
後年の名が藤佐であることは明らかにしている。
364 :
無名草子さん:2011/11/08(火) 12:50:25.45
>>350 悪たれ藤助が伊奈家の用人になった後に藤佐と改名したと覚えておけばよい。
百姓町人の子に藤佐という名はつけないし、旗本の用人の名としては藤助は軽すぎる。
>>355 伊奈忠告の死亡時期とキャリアを考慮すると、伊奈斯綏と同一人物でないと
具合が悪いんだよな。嘉永三年に勘定奉行になっているから、順序としては
同一人物がそれ以前に堺奉行と京都町奉行を務めていなければ具合が悪い。
第7章 猫の恋
安政2年(1855)。良順は御医師見習として江戸城へ登城する身分となる。
その準備で慌しい時期に、伊之助が丁字屋のお真魚のもとに夜這いを始め一騒動。
良順が伊之助に夜這いの事実を問い質すのは、阿部政之助家への往診の帰りである。
阿部家はサンベ坂にあるとされるが、正しくは安部家である。ここは間違えたのではなくて、
作中、阿部政之助が賊に襲われる筋書きになっているため、敢えて人名を変更したものと
思われる。
華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂という。
昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ(新撰東京名所図会)。
築地鉄砲洲の講武所(のちの軍艦操練所)は、堀田備中守中屋敷跡に作られた。
堀田備中守とは、この後、伊之助が行く佐倉の藩主・堀田正睦である。
第8章 佐倉へ
御医師見習の良順は、江戸城へ初登城。
そのころ、伊之助は佐倉の順天堂へ。
初期作品では、老中以外の役職(たとえば大坂城代)に就いている人物の名前は
テキトーなことが多かったが、この時期の作品では、考証が厳密である。
松本良順の挨拶を受けた若年寄の名前も正確である。
鳥居丹波守・・・鳥居忠挙:下野壬生藩の第6代藩主
森川出羽守・・・森川俊民:下総生実藩の第9代藩主
行徳船に乗船中、伊之助は同乗した行商人から「直侍」とからかわれるが、
この「直侍」とは、講談「天保六花撰」の登場人物である片岡直次郎のことである。
以上自演である。
チラ裏に書いてろ、連投君
>>372 御同朋と御坊主をちゃんと区別して書いておられるな。
これについて詳しく書かれたものに、「この国のかたち」4巻(92)「御坊主」がある。
>>375の片岡直次郎の兄貴分・河内山宗春も出てくるよ。
御坊主が登場する小説としては、「上方武士道」の「お坊主脅し」の章。後藤宗海という
スケベエな御数奇屋坊主が登場し、高野則近にやっつけられる。
>>378 美しい写真であるが、筑波山の手前に見える鉄塔と電線が興をそぐな。
時代小説を読む楽しさは、空想の中で、鉄塔と電線を消してしまうことができる点にあると思う。
司馬さんも、街道をゆくの「南伊予・西土佐の道」の中で、コンクリートとアスファルト
が大嫌いとおっしゃっているな。これに加えて、電柱と電線が大嫌いな連中が時代小説
を好きになるじゃないかな。もちろん風景としてのそれらが大嫌いという意味だけど。
>>370 講武所の所在地が三つ書かれていたけど、四谷門外の間(あい)の馬場というのが、
探せなかったよ。調べてよ、連投君。
司馬さんは加賀原にも講武所があったと書いておられるけど、気になる記事があった。
『 講武所は、築地にでき、後に三崎町(水道橋)に移り、
このとき、その三崎町から撤去された町屋の代地として、
空き地であった、加賀原、があてられた、という。』
そこで、『「講武所」自体がいつしかこの周辺の俗称となり、
後の花街もまた《講武所》と呼ばれることになる。』
講武所ができたとたんに、髪結床が講武所まげをヒットさせたというのもうそっぽいな。
ツイッギー来日とミニスカートの流行の間にも、若干の時間差があったはずだ。
おまい、いくつだよw
やはり連投君はかなりのオッサンだな
ジジイだろ
明日もお休み
お前はもう無職なんだからずっと休みだろww
393 :
無名草子さん:2011/11/12(土) 13:47:11.50
>>386 司馬さんは小説では考証がしっかりしていなかった部分を、後日、街道をゆくで
正確に書き直すパターンが多いよ。「神田界隈」には、講武所について詳しく書いてある。
第9章 順天堂
佐倉の順天堂における伊之助の日々が綴られています。
安政の大地震の際、伊之助は、良順の身を案じて、佐倉から江戸の平河町まで
夜通し駆けます。しかし、これが順天堂大学陸上部の発祥エピソードというわけではないようです。
この章は、盛りだくさんだ。まず、伊之助が旅籠・相州屋の飯盛女・お花とイッパツやる
挿話から始まる。松本良順の祖父・悪たれ藤助が江戸に出府する旅の途次、宿場に
泊まるごとに女を買い、千住に着いたときは無一文に近かったという伝承からの流用
かもしれない。
伊之助が相州屋で出会った武州豊島熊野権現参りの講の人々。
現在では、王子稲荷と呼ばれている。京浜東北線の王子駅西口から赤羽方向に
歩いて5分の場所にある。
順天堂の歴史が語られる。佐藤泰然の事跡はすでに第6章「放れ駒」で語られたので
重複もあるが、より詳しく語られている。
その過程で、佐藤泰然が両国薬研堀から佐倉に移転した理由のひとつに、天保11年
(1840)の水野忠邦による三方領知替え事件が語られる。
398 :
盗作隠蔽屋、文学的話し合いができない冷蔵庫死体レイパー:2011/11/12(土) 17:05:02.86
布置将臣ストーカーの鈴木ケイあまな川上弘美ミエコハーマン椅子組(シャブ中)、
アルカディア関連スレッドに大量移動、荒らし中
434 名前:吾輩は名無しである :2011/06/06(月) 18:21:32.16
バカがww朝日日経が本気になれば盗○問題を立ち消えにすることなんて朝飯前だぜ?w
くやしいのうwwくやしいのうwww
434 名前:吾輩は名無しである :2011/06/06(月) 18:21:32.16
バカがww朝日日経が本気になれば盗○問題を立ち消えにすることなんて朝飯前だぜ?w
くやしいのうwwくやしいのうwww 2011/04/10(日) 12:10:25.63
無名草子さん:うっひっひっ。実はおまえの部屋は前からずっと監視されてるんだよ。
ここでは書けないが、某組織から金で頼まれてだな、 しっかりと見えちゃっているわけさ。
30 :無名草子さん:2011/04/10(日) 12:14:36.33
徹底的に追い込むよ〜。 部屋に目張りしても君がPCの前で必死なのは見えてるよ〜。 腹いてぇ。
良順の祖父・悪たれ藤助(佐藤藤佐)の挿話は、序盤から細切れに叙述されているな。
この章では、藤佐が煽動したとされる天保義民事件が書かれている。三方領知替え
に対する反対運動だ。
>>397 長崎留学中の佐藤泰然は、蘭館長ニーマンからオランダ語を学んだとされている。
このニーマンは、日本にクレオソートをもたらした人物としても有名である。
1839年 和蘭(オランダ)商館長ニーマンが「ケレヲソート」の名称で長崎に輸入
クレオソート。のちの征露丸である。
佐倉入りする佐藤泰然は、舟橋宿で一泊したとされているが、船橋宿の誤植である。
ちなみに、舟橋宿は越前国(福井県)の宿場である。
佐藤泰然は宮小路を通って、佐倉城の大手門から三ノ丸の家老・渡辺弥一兵衛の屋敷
に向かう。渡辺弥一兵衛は実在した人物である。
なお、佐倉城は現存しない。復元もされていない。
佐倉市の市制50周年記念事業として、佐倉城の再建計画が持ち上がっていたが、
市の財政難などにより計画は宙に浮いてしまっている。貧乏な自治体なのである。
伊之助を順天堂で出迎えたのは、睾丸手術を受けた山内豊城の子の山内六三郎
である。山内堤雲の名で知られる。
慶応3年、パリ万国博に派遣された徳川昭武の通訳として随行している。
戊辰戦争では、榎本武揚の軍に加わり、禁固に処されている。
順天堂で佐藤舜海が講義している外科書は、はじめはセリウス著とされていたのに、
次に出てきたときは、セルシウス著になっている。
セリウスはドイツ人でスペルはCelius(1794―1876)なので、セリウスでよいと思う。
同書がオランダ語に翻訳されてセルシウスとなったのかもしれないが、筆者はオランダ語
になじみがないので、詳らかにできない。
なお、セルシウスで思い起こされるのは、スウェーデンの物理学者・天文学者セルシウス
である。温度計の標準となっている「摂氏」のセルシウスである。
幕府の外科は、この時期にあっても漢方であったので、外科医たちはマグネシアすら
手に入らず嘆いていたという叙述があったが、意味不明。
マグネシアとは、酸化マグネシウムのことで、便秘や胃炎に用いられる薬剤である。
内科が用いる薬であって、外科にはあまり関係ない。
ここの荒らしの正体は布置将臣だったのかwww
ここの荒らしの正体は布置将臣だったのかwww
ここの荒らしの正体は布置将臣だったのかwww
ここの荒らしの正体は布置将臣だったのかwww
硫酸カルシウム=石膏であれば、ギブスを作るときに使うから、外科にも関係するけど、
それと勘違いしたとは思えないな。
>>407 マグネシア一瓶も自宅の薬局に置けないと嘆いていたのは松本良順の述懐で、
マグネシアを外科医が用いるとは書かれていないよ。
もっとも、その段落の前後の段落が幕府の外科御医師に関する話なので、真ん中
の段落のみ外科に限定しない漢方一般の話にすると、読者は勘違いしやすいけどな。
蘭書の取り扱いを独占していた日本橋三丁目の長崎屋とは、長崎屋源右衛門のことで、
元来は薬種商である。ただし、旅館も兼業していて、オランダ商館長が江戸に滞在する
場合は、長崎屋に宿泊した。オランダ人は長崎の出島に閉じ込められていたような誤解
をしている読者もいると思うが(司馬がそう書いているから)、オランダ商館長は大名の
参勤交代と同様に、定期的に江戸に参府していた。その定宿が長崎屋である。その関係
から、蘭書の江戸における独占販売の権利を与えられていた。
412 :
無名草子さん:2011/11/12(土) 18:19:50.85
スーパー長崎屋と関係があるの?
>>412 ないです。スーパー長崎屋は、戦後、布団屋からスーパーに発展したものです。
現在はドン・キホーテの傘下にひゃーって、長崎屋の看板で営業している店舗は少なくなったずら。
東京にいた頃、いつも長崎屋で買い物をしていたから、悲しいずら。
胡蝶の夢は、丁字屋のお真魚や松本家の用人・足原茂兵衛を使い捨てにしていないから、
小説として充実しているな。伊之助の個性を引き出すためには、この二人の人物は重要だ。
伊之助が語学の天才で、作者が語学の大学出身ということから考えると、伊之助の
モデルが大学時代の友人(もしくは教師)の中にいたんだろうかと邪推してしまうな。
あるいは、作者自身のキャラが一部かぶっているとかあるんじゃない。
伊之助は滅多にいないような変人なんだけど、作り物のキャラという感じがしなくて、
妙に生々しい人間臭さがある。
この小説を読んでいると、読者は伊之助の保護者になってやりたいという気分になるな。
この世で伊之助を理解していたたった二人の人物、祖父の伊右衛門か師匠の良順の
立場になって、この小説にはまってゆく。
主人公の松本良順は、わりあい平凡な人物だから、伊之助が登場しなくなると
面白さが半減することが懸念された。ところが、すでに伊之助の保護者の気分、
すなわち良順の気分になっている読者は、伊之助不在の部分も、物語を自分の
こととして捉えることができるようになっている。
>>418 「花神」の手法と同じだな。天才かつ変人である村田蔵六に感情移入することは難しい。
しかし、蔵六の理解者・保護者である桂小五郎あるいはシーボルト・イネとは、読者は
容易に一体化できる。
連投君が復活したか、永眠してればいいのに
第10章 帰雁
松本家でも順天堂でもトラブル続きの伊之助は、伊右衛門に連れられて佐渡へ帰ります。
第11章 城の中
良順が長崎の海軍伝習所(第二期)へ赴くまでの経緯が語られます。
またもや多紀楽真院の妨害に遭遇しますが、養父・松本良甫の頑張りと、
永井尚志(玄蕃頭)の働きで、良順は希望どおり長崎へ旅立つことができました。
佐渡にいる伊之助についても、末尾で触れられています。
奥御医師の退屈な毎日に鬱屈した良順は、紀伊国橋から御堀に飛び込む。
良順は事前に、「堀田の中屋敷へ行って、井戸を使わせてくれ」と頼んでいた
のであるが、後の叙述では、「良順があの飛びこみの前に、堀田の下屋敷の
井戸を借りる」算段をしていたことになっている。
>>425 木挽町一丁目にあったのは、この小説にしばしば登場する堀田備中守正睦(下総・佐倉十一万石)の中屋敷だな。
後で書かれている下屋敷が誤り。
司馬さんは、シーボルトが牛痘によるジェンナー式の種痘を行った旨を書かれている。
行ったことは行ったのであるが、失敗している。文脈からするとシーボルトがこれに成功した
ように読めるので注意してください。
1823年(文政6年):長崎に着任したシーボルトは、牛痘法による種痘を試みたが不成功に終った。
闇に滅せよ、連投君
観光丸の艦長・ファービュス大尉は、ファビウス(Gerhardes Fabius)で検索した方が
ヒットしやすい。観光丸の元の船名・スームビング号も、スンビン号で検索した方が
ヒットしやすい。この本では大尉になっているが、中佐とするものもある。
そのファービュス大尉の海軍建設の意見書を翻訳した長崎通詞・西吉兵衛とは、
第5章「春風秋雨」の余談に名前が出てきた紅毛流の蘭医・西玄甫の11代のち
の子孫である。
観光丸の復元船がハウステンボスで就航している。
神戸海軍塾で練習船として使われた。坂本竜馬のおかげで有名になった船だ。
勝麟太郎が登場する。初期の司馬作品で勝が悪く書かれることはなかったが、
後期の作品になるに従って、勝の辛辣な物言い、大風呂敷、わがままが強調
されるようになってくる。
>>418 伊之助と良順の二人主人公だな。後半、関寛斎も重要人物として登場してくる。
キャラクターが傑出しているのは伊之助だ。タイトルの胡蝶の夢も、伊之助が
愛読していた「荘子」からの引用だし、司馬のあとがきも伊之助の話が中心。
第12章 長崎
松本良順が長崎に到着。ポンペ来日前の良順の日々が語られます。
長崎奉行の荒尾土佐守成允、海軍伝習所目付の岡部駿河守長常、その下僚ですが
伝習所の実質的な世話役・勝麟太郎らとの接触を通じて、江戸時代の行政の有り様
が綴られています。
良順はオランダ語会話を学ぶために出島に赴き、カピタンのドンケル・クルチウスの
面識を得ます。
長崎で寛文年間に作られた上水道について語られております。
町名主の倉田次左衛門が私費を投じて作ったように書かれておりますが、
倉田次郎右衛門の誤りです。
また、後のほうで、長崎の名主は“乙名(オトナ)”と言われると書かれておりますが、
ここでは名主になっています。
人間、ものを調べることによって、少しずつ賢くなってゆくものですね。
長崎奉行の荒尾土佐守成允は、主としてオランダ・ロシアを相手に外交を担当して
おりました。万延元年に田安家の家老に出向し、文久元年に死んでおりますので、
幕末争乱期には、その名が登場しません。
長崎奉行所・立山役所は、長崎歴史文化博物館にその一部が復元されております。
館内で体調が悪くなった場合、1階事務室内の休憩室をご利用いただけます。
伝習所目付の岡部長常は、のちに外国奉行や軍艦奉行を務めています。
文久3年に刺客に襲われたりしておりますので、他の幕末モノ時代小説にも
顔を出しているやもしれません。
永井尚志がやり残し勝麟太郎が受け継いだ仕事の一つとして、長崎造船所の
建設が挙げられている。現在もコットル船を建造していると書かれているが、
コットル船とはカッター(Cutter)のことである。幕末にはコットルと読んでいたらしい。
またもや佐藤泰然の長崎留学時代の余談が出てきた。小出しにするから、
これで3度目ぐらいじゃないか?
俺は泰然自若の構えで、その余談を読んでいる。
本国がナポレオン軍に占領されたため、ヘンドリック・ヅーフが出島に長期間滞在
せざるをえなくなった話が出てくる。
よい子のみんなは、ここで世界史の復習だ。
フランス占領下のオランダに成立した衛星国
1795年 - 1806年 バタヴィア共和国
1806年 - 1810年 ホラント王国
1810年 - 1813年 フランスの直轄領
1813年 - 今日 オランダ王国
前章の話なんだけど、この小説では、天璋院は、お調子者の高村隆徳に
乗せられて、松本良順の長崎行きを妨害するおバカな役柄で登場するな。
良順が本蓮寺の山門から見上げた日見山というのが、どの山なのかわからないなー。
日見峠のある山のことなのだろうか?
長崎に日見山養国寺というお寺があるが、これではないような気がする。
有名な山として魚見山があるが、これと勘違いしたのだろうか?
>>452 魚見山ではないな。魚見山は長崎湾の入口付近にある。西坂からはかなり離れている。
>>452 日見山養国寺ではないよ。長崎市網場町だから、7kmぐらい離れている。
日見峠のある山のことなんじゃないかな。
>>454 日見峠は山頂にあるわけではないから、日見山というのは地図に出てないんだよね。
あのあたりにある山は烽火山という。
456 :
無名草子さん:2011/11/16(水) 20:22:54.48
日見峠方面にある山といえば、烽火山か英彦山のいずれかだろうな。
金比羅山は西坂からみると北だ。
「本蓮寺の山門を下りて背後に見える日見山」とあるから、おそらく烽火山のことだな。
>>455 つーかわざわざ山頂を通る峠道は作らないだろうw
>>456 本蓮寺の山門と石段の向きを地図で確認した。振り返って背後に見える山は鳴滝方面の
烽火山以外にはない。確定だ。
第13章 はるかな海
第二期海軍伝習のためオランダからヤパン号(後の咸臨丸)が長崎へ来航してきます。
ポンペとカッテンディーケは、この章から本格的な登場です。
良順はポンペと面談し、医学校の設立の抱負を聞きます。
良順の説得により、長崎奉行に昇格した岡部駿河守が、医学校建設を容認しました。
咸臨丸はスクーナー式コルヴェット艦と紹介される文献が多い。
この作品でも、木造スクーナーで船種はコルヴェットとしている。
コルヴェットは三本マストが特徴だ。咸臨丸は三本マスト。
スクーナーの特徴は二本マスト以上の縦帆帆装なんだが、咸臨丸が帆を張った
絵を見ると、船尾のマストが縦帆帆装だ。
そのために「スクーナー式」コルヴェットといわれるのだろうか?おせーて、エロい人。
咸臨丸は明治後「函館で岬にふれて破損し」たと書かれている。
正確に言うと、木古内町サラキ岬で沈没した。函館からは20km以上離れた場所だ。
ポンペは父の任地であるベルギーのブリュッゲで生まれたと書かれている。
ブリュッゲってどこだろうと思っていたら、ブリュージュのことだった。
筆者はフランス語読みのブリュージュがもっとも馴染みがあるが、英語読み
だとブルージュ、オランダ語読みだとブルッヘと表記されることが多い。
辞典類はブルッヘが多いが、ブリュッゲと読む人もいないわけではないらしく、
ネットでもそこそこにヒットする。
ヤパン号が長崎湾に入港したとき、ロシアのプチャーチン艦隊も寄港していた。
ペリーと同時期に来日した際の旗艦パラルダ号は、沿海州のイムペラトル湾で
自焼したと書かれているが、インペラトール湾で検索した方がヒットしやすい。
翌年の来日の際の乗艦がディアナ号である。ディアナ号は安政元年の東海地震
で津波により大破した。安政4年(この小説の時期)の来日の乗艦がアメリカ号である。
カッテンディーケが長崎に入港したとき、松本良順は妓楼・花月にいた。
坂本竜馬が酔って柱を斬りつけ、その疵が残っていることで有名な料亭である。
女郎屋を営業していたころは引田屋という屋号であった。
第一次海軍伝習生として、昌平黌の秀才、矢田堀・塚本・永持の三人が姓のみ紹介されている。
矢田堀景蔵
塚本明毅
永持享次郎
である。
矢田堀景蔵とは、矢田堀鴻(こう)のことで、鳥羽伏見の敗戦の後に幕府の海軍総裁になった。
実際に艦隊を掌握していたのは、副総裁の榎本武揚である。したがって、矢田堀は函館へは
行かず、静岡に移って沼津兵学校の校長を務めたりした。なお、初代校長は、西周。
同じく第一期伝習生であった勝麟太郎が数学で苦労した話が出てくるが、塚本明毅は後に
数学者になった。これも沼津兵学校組。
永持享次郎は、第一期伝習において、矢田堀景蔵、勝麟太郎とともに、造船術、運転、砲撃の履修を命じられている。
亨次郎は第一次伝習の終了をまたずに長崎奉行支配吟味役に転出しており、その後、対馬を占領しようとしている
ロシアのビリレフと退去に関する交渉を行っている。元治元年10月、38歳で歿。
第二期伝習生の中で優秀だった二名が挙げられている。榎本釜次郎(武揚)と
伊沢美作守である。後者は、伊沢謹吉のことである。伝習生当時は部屋住みの
身分であって、美作守は父親の大目付井沢政義である。
中島三郎助は第一期生。
嘉永6年にペリー艦隊が浦賀沖に来航した際に、旗艦サスケハナに乗船した経歴を有する。
戊辰の役では箱館戦争で戦い、戦死した。
佐々倉桐太郎も第一期生。
咸臨丸でアメリカへ渡航。サンフランシスコで祝砲を撃った人物。
箱館戦争には参加していない。
明治4年、海軍兵学寮に出仕。
小野友五郎も第一期生。咸臨丸渡航組である。
数学者で、造船や測量方面で活躍。
浜口興右衛門も第一期生。航海術を学び、咸臨丸でアメリカ渡航。
明治4年、横須賀製鉄所に勤務。
結局、この章に羅列された海軍伝習所出身者で、これから始まる第二期伝習に参加するのは、
榎本釜次郎
伊沢謹吉
肥田浜五郎
松岡盤吉
赤松大三郎[則良]
名前は記されていないが、他に岡田井蔵も第二期生。
ポンペの「日本滞在見聞記」の翻訳者のひとりである荒瀬進氏は、「この国のかたち」2巻の
“ポンペの神社”にご本人が登場する。自宅の庭にポンペの祠があって、毎朝それを拝むように
祖母に言いつけられていた人である。たしか祖父君がポンペのお弟子さんだったと思った。
第14章 伊之助の長崎
順天堂から佐渡へ帰っていた伊之助が、良順に誘われて長崎へ行きます。
長崎で語学の天才を開花させる伊之助の姿が描かれています。
老荘思想に凝っていた19歳の伊之助。実は俺も19歳の頃、荘子をよく読んでいた。
若い日に胡蝶の夢を読めばよかったな。
長府の阿弥陀寺は奇兵隊が屯所にしていたことで有名だが、長府の廻船問屋の船を
阿弥陀寺船というのは初耳だ。
“人ノ食ヲ食フ者ハ、人ノ事ニ死ス”(淮陰侯列伝)は、本作品では伊之助の台詞で出てくるが、
咸臨艦殉難諸氏紀念碑に榎本武揚が揮毫した文の中に引用されている。
488 :
無名草子さん:2011/11/19(土) 13:58:55.33
>>487 伊之助の台詞と榎本武揚の揮毫が偶然一致したというよりも、この小説の下調べの
過程でヤパン号(咸臨丸)について調べていたら、榎本の碑文に出くわしたのだろうな。
同じ時期に項羽と劉邦書いてることもあるかもね
第15章 ポンペ
西御役所内の医学伝習所でポンペの講義が始まります。
長崎医学伝習所の評判は全国に伝わり、後に伝習生となる長与専斎、石黒忠悳、
関寛斎と伝習所とのかかわりが語られています。
西御役所の塾舎が手狭になったので、岡部駿河守は大村町の高島秋帆屋敷へ
移転の手配をしました。
関寛斎は、この後たっぷり出番があるけど、長与専斎、石黒忠悳は簡単な紹介
だけなんで、興味がわかないね。名前だけはよく見かけるけど、何をやった人な
のか、よくわからんし。
492 :
無名草子さん:2011/11/22(火) 18:39:17.00
第16章 ちいさな航海
カッテンディーケの海軍伝習所は、演習航海に出ます。
平戸、長州、薩摩へ寄港します。
海軍伝習所の伝習生の服装(和服)のひどさについては、この国のかたちの
「歴史のなかの海軍(三)」にも出てくる話である。
船酔いした良順にカンテラを差し出したトローイエン一等士官は、実在した人物である。
艦砲術、造船術を教授し、艦砲演習と歩兵操練の監督も務めていた。
>>411で述べられているオランダ商館長の定期的な江戸参府については、
胡蝶の夢でも若干触れられているよ。この章では、カピタンが定宿にしていた
阿弥陀寺(長府藩)のオランダ屋が登場する。
>>411の長崎屋の地方版。
木村摂津守の面会希望を拒絶した平戸藩主は、松浦曜(てらす)である。
この年の6月26日に平戸で死去している。
薩摩行きの箇所で登場する幕府の小人目付、高松彦三郎と宮崎寛三郎は、
いずれも実在した人物である。
鹿児島入港に際して、下手な操艦をした薩摩藩出身の伝習生、成田彦十郎と
加治木清之丞も、実在した人物である。
加治木清之丞は、鳥羽伏見の戦いの小銃第二隊兵糧役で、慶応四(1868)年
1月3日伏見で戦死している。享年35歳。
カッテンディーケが驚いた薩摩の国産蒸気船は、雲行丸で、国産第一号である。
明日は良い文の日であり良い兄さんの日なので「坂の上の雲」を読む
薩摩藩が建造した桜島瀬戸村の造船所は見つかったが、手根の造船所というのは
見つけられなかった。
島津斉彬を評して、遠洋航海策の先駆者と書かれている。
ちなみに、長井雅楽のは航海遠略策である。
カッテンディーケが云っている驢馬の力を使った製粉用の石臼は、モーラ・アジナリアという。
鹿児島に上陸したオランダ人たちは、城下の津畑という土地で薩摩人たちの
熱烈な歓迎をうける。津畑という地名は現在は残っていないようだ。
第17章 夏の雲
海軍伝習所の演習航海を終え長崎に帰った良順はコレラに罹患します。
安政5年夏のコレラの大流行です。
ポンペが開設した医学伝習所付属病院は、現在、長崎大学病院に発展している。
長崎にコレラ菌をもたらしたフリゲート艦ミシシッピー号は、嘉永6年のペリー艦隊
の4隻の蒸気船の中のひとつである。サスケハナ号に旗艦任務を譲るまでは、
ペリー艦隊の旗艦であった。
緒方洪庵のコレラ治療法に関する著書「虎狼痢治準」は、カンスタット、モスト、コンラジという
3名の医師の著書を参考にして書かれたものである。この3人の名前が、ガンヘッド、モスラ、
ゴジラに見えてしまう方は、特撮映画の見すぎである。
ここ一人で延々書いてるひと、つまんないからもーやめてよ。
あなたはどうあがいても司馬さんにはなれないのよ。
514 :
無名草子さん:2011/11/26(土) 12:55:35.99
第18章 江戸の風聞
将軍家定の死と伊東玄朴の奥御医師登用を中心に物語が進みます。
将軍継嗣問題および安政ノ大獄と家定の死の関連が詳しく語られた興味深い章です。
井伊直弼は司馬作品に何度も名前が出てくるけど、台詞があるのは胡蝶の夢だけかな?
最後の将軍は?
右の文章は、医官多紀家に伝わる「還読秘書」という臨床経験書に出ている。この本の
脚気の記述のくだりを、家伝の本だけに多紀楽真院は当然読んでいたであろう。
治療法としては、不換金や正気散を用いるとあるが、効くわけがなかった。司馬氏のいう
ような二種類の薬があるわけではなく、不換金正気散という一種類の薬なのである。効く
わけがなかった。
つーかいま安政5年7月の家定の死の話をしてんだよな。
多紀楽真院は、安政4年に死んでんだけどw
l´ _..ゝ-――‐- 、
`r'´ l
|. _,,,._ -==-..ェ、|__
___... -‐ ..ニ|. ,ィ/__ヽj レ''_`ij|- `ニ..''_‐
-‐ '' "´ _レイ イ__o.ソヽイ._o_` |l `
{ i|/ヽ._/ i |ヽ__ ィリ
. じリしi ,,,. l_l ,,, l |
||. l,リr----―ァl}| 死してなお上様の御脈を看るとは、楽真院、
. | ゝ、{| ヽ ̄ ̄ 7 リ/ そちはなんという忠義者よ
/'、 ヾ ゞニニン ノ l
. /≡ヽ、 ゝ-‐"ー-'´)ヽ
/ヽ≡ ≡ ̄≡ ̄≡ ̄≡l\
-‐ ''´ゝ、 ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ノ ≡`'' ‐-
≡ ≡ ≡\≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡
島津斉彬の臨終の脈を看た坪井芳洲とは、坪井信道の養子の坪井為春の
ことなんだよね。この小説の「春風秋風」の章では、養子縁組前の名前で
ある大木忠益で登場しているんだけど、司馬さんは気づいていない様子。
伊東玄朴を急いで幕府の奥御医師にしたもので、それまでの主家である鍋島家へは事後報告
のかたちになった。その使者である納富又次郎という人物が登場する。
しかし、納富は佐賀藩士であり、幕府からの使者ではない。ここは『伊東玄朴傳』の誤りを踏襲
している模様。
家定の御側用人の朝比奈昌広が登場する。去年の大河ドラマ「龍馬伝」で
石橋凌が演じていた長崎奉行と同一人物である。ただし、「龍馬伝」の朝比奈
は慶応3年になっても長崎奉行をしていたが、そのころは朝比奈は長崎にいない。
>>518 不換金正気散は胃薬だからな。脚気には効かない。
>>521 気づいているはずがないよ。史料丸写しの知ったかおじさんだから。
>>519 多紀楽真院の死は知っていたと思うけどな。楽真院は鴎外の史伝「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」
に登場する。司馬さんが鴎外を読んでいないはずがない。
それにしても、この章の中心は玄朴の蘭方と楽真院の漢方の闘争なのに、そこがフィクション
というのはガッカリだな。
自身が医者の鴎外と、薬種商のせがれにすぎない司馬との差が出たな。
司馬さんの前の奥さんは、元阪大医局の薬剤師だろう。不換金正気散について
教えてもらえばよかったのに。
529 :
無名草子さん:2011/11/28(月) 14:07:58.74
>>526 そうすると、多紀楽真院が家茂に飲ませる薬にねずみの糞を混ぜたのを、
伊東玄朴が糞だけつまみ出して飲んだというのもフィクションなんですかね?
もしここで玄朴が犯人は誰だ(多紀楽真院だ)とさわげば、蘭方の製薬所方に当然嫌疑
がかかるから、「製薬所の者(蘭方)が、粗忽千万なことをしたと見える」とあっさり無実の
罪をかぶってネズミの糞を自分の口にほうりこむというのも変だよな。
第19章 秋の丘
安政6年。長崎の良順の身の回りに起きた出来事が語られます。
解剖(腑分け)と写真の話が中心です。
良順と写真とのかかわりについての叙述の中に、大坂相撲の熊川という力士が登場する。
文久3年、新撰組が大坂で力士たちとトラブルを起こすが、そのときに殺された熊川熊次郎
という関取であろうと思われる。後日、内山彦次郎殺害事件に発展した事件であり、司馬
遼太郎の初期作品には頻出する。
なお、 『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』(朝日選書)には、「1860年の相撲取り」
と題して、大関熊川一行の写真が紹介されている。熊川が長崎で相撲興行をしたことは
事実である。
腑分けに関しては「花神」などで既に小説化しているから、あまり興味を惹かなかったな。
写真の歴史に関しては、これだけまとめて叙述したのは、はじめてなんじゃない?
>>533 上野彦馬は「翔ぶが如く」にも登場している。乃木希典が熊本の新戦場を写真に撮ろう
と言い出した話だ。あの場面では、上野は熊本で写真館を開業していた。
>>533 ポンペの解剖を見学したシーボルト・イネは懐かしかったな。
>>469 第13章で“永持”とのみ紹介されていた第一期海軍伝習生が、本章でポンペの解剖の
段取りをつけた永持享次郎(穀明)である。
\ ∩─ー、 ====
\/ ● 、_ `ヽ ======
/ \( ● ● |つ
| X_入__ノ ミ そんな釣り針で俺様が釣られクマ――
、 (_/ ノ /⌒l
/\___ノ゙_/ / =====
〈 __ノ ====
\ \ 伊之助 \
\___) \ ====== (´⌒
\ ___ \__ (´⌒;;(´⌒;;
\___)___)(´;;⌒ (´⌒;; ズザザザ
この小説では、前田玄造に湿板写真術を伝授したのは、無名の英国人船員になっているが、
ちょうどこの小説のこの時期(安政6年)、スイス人のピエール・ロシエが長崎に滞在して、
上野彦馬・堀江鍬次郎・前田玄造らに湿式写真を教えている。無名の英国人船員のモデル
であろうと思われる。
>>534 坂本竜馬の有名な写真を撮ったのも上野彦馬だから、「竜馬がゆく」にも上野の名前
は出てくるんじゃないかな。
?通の話を読み比べてつくづく感じたが
司馬遼太郎は曲がった味付けをして史記原典の面白さを台無しにしてるな
いま水蜘蛛の稽古が終わった。
第20章 万延元年
大老井伊直弼は、長崎海軍伝習所と医学伝習所の閉鎖を決定する。
松本良順とドンケル・クルチウスの依頼を聞き届けた長崎奉行・岡部駿河守は、
医学伝習所の存続を井伊に直訴する。
安政と文久の間に挟まれて目立たない万延の年号。
万延元年(1860)は、3月18日からである。3月3日に起きた桜田門外の変という
不吉な事件が改元の契機であるから、桜田門外の変は安政7年に起きたと
云ってもらいたい。翌年の2月19日には、万延は文久と改元される。
観光丸艦長の矢田堀景蔵は、第13章「はるかな海」で“矢田堀”の姓のみで
紹介されていた伝習所第一期生である(
>>469参照)。
>>520 多紀楽真院の死はこの章で叙述されているな。松本良順への帰府命令は、漢方派の
奥御医師の工作とされているが、そこで多紀楽真院は、将軍家定の死後隠居願いを
出して、その直後に病死したという但し書がある。創作上の都合で死期を2年延長された
のか、書いた後に多紀楽真院の死期に気づいて慌てて死亡させたのかは、筆者には
詳らかにできない。
>>546 サブタイトルは万延元年なんだけど、この章は桜田門外の変で終わっているから、
安政6年暮から安政7年3月3日までの話しかしていないんだよね。
司馬作品のみならず、日本史の参考書・年表でも、改元があった年度は1月1日
から新しい年号で書かれるのが一般だよな。改元は災害・疫病の流行・政治上の
忌まわしい事件の後に行われるから、それらの年号が改元後の新しい年号だと
違和感があるな。
慶応から明治への改元は、慶応4年9月8日(旧暦)なんだけど、1月1日に遡って
明治とするとされた。であるから、法的には慶応4年という年は存在しないことになった
のだが、他の改元の際も、このような遡及があったのかね?
552 :
無名草子さん:2011/12/01(木) 15:10:35.01
今度台湾行くから、
街道をゆくの台湾のやつ買おうと思うんだけど、
97年出版の630円のやつと09年出版の987円のやつって何が違うのかな?
なにかが違う。値段が違う。
>>411 >オランダ商館長は大名の参勤交代と同様に、定期的に江戸に参府していた。
この章で、その話が出てくるよ。
今朝、NHKの番組で七福神のうち唯一日本出身の神であるえびすさんの由来について説明
していた。古事記に出てくる神に由来するという説明だったので、「この国のかたち」のなかの
「七福神」で司馬さんが述べている漂着水死体信仰を家族に講釈していた俺は、恥をかいて
しまった。
伊耶那岐命と伊耶那美命との間に生まれた最初の神である蛭子命(ヒルコ)がえびすさんの
起源という説明だったの?
忘れた。
オノゴロ島から流された蛭子命が漂着したという伝承は各地に残っていて、
司馬さんが七福神で書いていた異人の漂着水死体信仰と習合した。
それで、漂着死体と蛭子命を同一視するようになり、蛭子命を祭神とする神社が各地にできた。
えびすさん=蛭子命説と、えびすさん=漂着水死体説は、習合してひとつに
なったと考えていいよ。
いま、胡蝶の夢を順にやっているんですけど・・・
560 :
無名草子さん:2011/12/02(金) 14:08:50.64
>>559 胡蝶の夢ばかりやりたいのなら、別スレをたてればいいだろう。
司馬作品全般について語るスレなんだから、連投君のように、同一作品を自分のペース
で延々と続けられても迷惑なんだよ。
>>559 つーかおまいはもっと早く本を読めんのかw
いつまで胡蝶の夢をやってんだよ。なげーよw
胡蝶の夢はしばらく休止します。
明日から再開
もういいです
「これという趣味は無いが、資料を読むのが何よりも楽しい」――司馬エピソードで必ず出て来る件りですが…。
司馬さんは、一体どんな本を読んでいたんだろうか?
というのは、秀吉を書いたのも家康を書いたのも昭和40年以後だろ。
ところが、史実関係の叙述は、昭和30年代までの史学の成果と大事な点で何もかも矛盾する。
ここ10年〜15年に、昭和30年代までの史学書籍が学術系文庫で次々と出版されて今や誰にもわかることだが。
第21章 小島養生所
ポンペが市民病院の設立を具体化するところから始まり、伊之助がポンペに嫌われて
長崎を去る直前までが描かれています。佐藤舜海と関寛斎が長崎にやってきたのも
この時期です。
ポンペが市民病院設立を考え始めた時期はかなり早い。この小説でも、17章「夏の雲」
(良順がコレラに罹患した頃)で、その話が登場する。なお、病院が設立された小島郷の
名が登場するのは、次章からである。
568 :
無名草子さん:2011/12/03(土) 16:43:22.80
>>567 小曾根乾堂が、小島郷の字佐古の土地を買収したと書いてあるけど?
黒羅紗は、西南戦争の二・二二の戦闘で奪われた連隊旗に関する乃木証言
のなかに出てくるね。乃木は河原林雄太少尉に連隊旗を黒羅紗の袋に入れて
背負わせたと証言した。
花月(引田屋)の豆奴という芸妓が登場する。「音吉」「豆奴」など男名前を名乗るのは
江戸の深川芸者(辰巳芸者)の特徴なんだけど、長崎の丸山もそうだったのだろうか?
>>571 明治元年に長崎・丸山の芸妓等が阿片を服用して死亡するという事件があった。
その記事に出てくる芸妓は、こはま(23歳)、あけぼの(27歳)という女名前
を名乗っているね。
以上自演である。
まだやってんのか、暇人ww
小島養生所設立の実務を担当した中山誠一郎を調べていたら、同姓同名の関八州取締出役
がいた。嘉永3年に、国定忠治を召し捕った人物だ。
その養子に中山右門太(のちの中山譲治)がいて、彼は安政4年に長崎で蘭学・英学を修めている。
この小説の中山誠一郎は養子の方なんだろうか?
国定忠治を召し捕った中山誠一郎は、戊辰戦争のときの甲府代官と同一人物だな。
養生所の設立に反対だった長崎奉行所の役人、寺崎助一郎と橋本良之進が実在した
人物なので、中山誠一郎もそうだろうと思うのだが、国定忠治を捕縛した人物とは別人
だろうな。
養子の中山右門太は、安政4年に長崎へ行き、文久2年に長崎英学所頭取になっている。
その間ずっと長崎にいたのなら、彼だということも考えられるな。誠一郎が世襲の名で
あればの話だけど。
>>577 文久年間に、長野桂次郎が下谷七軒町に開いた英語塾に、中山右門太も出入りしているのな。
この小説に登場したのが万延元年春。
安政4年:長崎で蘭語と英語を学ぶ。
万延元年:長崎で小島養生所の設立に関与。
文久元年:江戸の長野桂次郎塾で英語に磨きをかける。この塾は英語以外は喋れないというルールがあった。
文久2年:長崎英学所頭取になる。
こういうルートも考えられるな。
伊之助が一時名乗っていあっという「虧」という名。司馬さんは“かくる”と読ませていたのでは
ないかと書かれている。“九仞の功を一簣に虧く”の「虧」である。
伊之助の数多い名乗りのうち「盈之(みつゆき)」も紹介されている。
伊之助の愛読書が「老子」であることは以前にも出てきたが、「盈」の文字は
「老子」の“道は冲しきも、これを用うれば或た盈たず”から見つけたのかもしれない。
関寛斎が伊之助にポンペと良順の言葉を伝えるシーンで、夜鷹そばが登場する。
夜鷹は夜間に路傍で客を引き売春をした私娼の江戸方言である。
夜鷹そばの語源については、この夜鷹が食べていたそばだからという説と、
夜鷹は10文で買える娼婦、夜鷹そばも10文で食えるから、夜鷹そばと呼ばれた
という説がある。
江戸時代は売春もそばも同じ値段だったのに、現代じゃ、どうしてこんなに差がついてしまったんだ?
>>582 江戸時代でも大見世の花魁と遊ぼうと思えば、揚げ代と祝儀で10両〜20両(100〜200万円)は
必要だった。しかも、花魁といっぱつやれるのは、3回通った後だから、300万〜600万円はかかる。
安いのは夜鷹だけ。
3回目 2回目 1回目
馴染み 裏を返す 初回
┝━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━┥
88彡ミ8。 /)
8ノ/ノ^^ヾ8。( i )))
|(| ∩ ∩|| / / <イッパツやれるまで600万円かかるのよ
从ゝ__▽_.从 /
/||_、_|| /
/ (___)
\(ミl_,_(
/. _ \
/_ / \ _.〉
/ / / /
(二/ (二)
>>571 その話は、街道をゆくの「本所深川散歩」に出てくるね。
>>581 夜鷹というと宮沢賢治の「よだかの星」を思い出してしまうな。
小学校の教科書に載っているのを読んで、泣いてしまったがな。
>>586 大久保一蔵は、名前を変えたよだかなんだよな。
それ市蔵の間違い。
丸山で浪費した佐藤舜海が、佐倉の商人・芳野屋常五郎にカネの無心をする。
この芳野屋常五郎という人物は、10章の「帰雁」にも名前が登場した。順天堂の
経理をしていた商人ということだったが、この章では佐藤舜海からカネの無心を
する手紙が芳野屋常五郎宛てに届いていたという話になっている。
第22章 平戸
ポンペに破門された伊之助が長崎を去り平戸に住みついて岡口等伝の娘佳代と
結婚するまでの経緯が描かれる。周囲の人たちと調和できない伊之助の客観
描写はここまで何度も出てきたが、この章では、自分がどうしてそうなのかを
伊之助自身が考える描写が多い。小説としては最も面白い章かもしれない。
娘の名が佳代で母親の名が三千代というところで、細うで繁盛記を思い出してしまいました。
幕末の西彼杵半島の港ごとに必ず売春宿があったという話は、にわかに信じられんな。
この小説では、どの港にも必ず酌婦がいるのだが、ウソだろう。
地図を見ると、商店すらわずかしかない過疎地にしか見えないが。
西浜の酌婦の名前が梨江というのもヘンだな。文久元年にそんなハイカラな名前の
日本人はおらんやろ。
長崎は蘭方外科が盛んであったから外科用の西洋鋏が名産品になり、他地方の人々も
長崎鋏を土産にしたとあるが、ほんまかいな?
>>593 シーボルトの弟子に中村栄達という人物がいるのかね。聞いたことないけど。
その従兄弟という松林飯山は実在した人物だ。
とくに本作品と関係あるとは思えない松林飯山についての余談を書くために、
架空の中村栄達をはさんだのかね。そうだとすると無理やり感が濃厚。
引き続き伊之助の西彼杵紀行。
七釜港の妓楼に泊まる。ここの妓は“無口な妓”という匿名で、もはや名前を付ける気力も失せている。
平戸宮ノ前の薬種商・大崎屋平兵衛に出会うことで、のんきな旅が急ぐ旅に変わる。
平兵衛と手代の佐吉も、最初は名無しだった。比較的長く登場するようになってから、
名前を付けた感じだね。それにしても司馬作品のオリキャラは、平兵衛が多い。
もう少しすると、また平兵衛が出てくるよ。
伊之助による大崎屋平兵衛の中風の治療シーンは、たいへん良く出来ている。
専門的な知識は身につけたが実務経験が少ない人たちが、一度は体験するほろ苦い思い。
>>600 ここの叙述はすごいね。
中風に関する西洋語の概念が頭の中で明滅するが、出来損ないのカタクリのように固まらない。
↓
思い出すのは、ふしぎに漢方の書物ばかり
↓
あげくのはてに、自分が佐渡で子供の頃に見た医者の治療の記憶がよみがえる。
長じてから書物で得た知識を実用化する工夫がつかないで、子どもの頃に経験した
稚拙な工夫の記憶を頼りに物事を処理することってあるよね。
大崎屋平兵衛は平戸宮ノ前で薬種商を営んでいるという設定だ。伊之助が平戸に到着
してからも、司馬さんは宮ノ前という地名を使っている。平戸に宮ノ町(訛でミヤンチョ)
はあるが、宮ノ前町はないんだけどな。
>>603 南蛮人と平戸の住人との間で生じた乱闘事件で宮ノ前事件というのがある(1561年)。
この宮ノ前を町名と勘違いされているのではないかな?平戸港付近の七郎宮の露店
で事件が生じたから、宮ノ前事件というんだけど。
平戸にたどり着くまで、けっこう時間がかかる。ここまで平戸の岡口等伝の名前は
出てこないから、中村栄達が伊之助が頼ってゆく人かなとミスリーディングしたりする。
岡口等伝で住んでいる“西のくぼ”は、西の久保である。
西の久保の生ゴミ回収日は、火曜日と金曜日である。
西の久保は、現在、平戸市鏡川町の小字になっている。
>>606 すみません。西の久保地区の不燃ごみの日は何曜日なんですか?
吉田寅次郎が平戸遊学中に世話になった葉山鎧軒も西の久保の住人であった。
「世に棲む日日」では、鎧軒の号ではなく、もっぱら葉山佐内の通称で登場する。
江戸時代初期の蘭方医である嵐山甫安も西の久保の住人であるが、彼とその弟子・桂川甫筑
については、第5章「「春風秋風」で触れられている。
伊之助が三千代を見ていて「娘(佳代)の着物を着ればいいのに」と思ったところで、
親子丼になるのかもしれないと一瞬不安になった。
佳代出生にまつわる小麦様の伝承について
朝鮮の陣で出産した長男については壱岐の土豪に託したとしか書かれていない。
この長男は市三郎といい、壱岐の若宮島近海に捨てられたという伝承がある。
市三郎を拾って育てたのは、彦三郎という商人であるとも、土肥甚三郎であるとも
云われている。
>>611 嵐山甫安の三人の師匠は、カッツ、ブッシュ、ハルムと書かれている。
アルマンス・カッツ
ダニエル・ブッシュ
ハルムについてはアブラハム・ファン・ケルペンだという説がある。
小麦様にとっての次男になる子は、筆頭家老の西口家の祖となったと書かれている。
松浦[西口]信正である。
司馬さんは「坂の上の雲」で乃木希典をこき下ろしていますが連載時に
批判や脅迫を受けたりしなかったのでしょうか?
平戸に棲息する亜熱帯植物の名前が数多く出てくるが、そのうちのビロウを漢字
で書くと檳榔となる。「台湾紀行」で出てくるビンロウ(台湾人が噛み煙草のように
噛んでいた実)も同じ漢字が当てられるが、別の植物である。ともにヤシ科の植物。
「平戸ではクロイオと申しますが、他国では何と言うのでしょうか」(等伝の台詞)
答えはメジナである(関東)。関西ではグレと呼ばれる。
メジナの刺身というと、ジム・メッシーナを食っているようで気持ちが悪いので、俺は
グレと呼ぶことにしている。
>>600 伊之助が自分がどうして嫌われるかを分析している部分も優れた出来栄えだな。
「関ヶ原」で石田三成が嫌われる理由を分析していた部分と比べると、深化が著しい。
三成の場合、ちょっと気をつければ直せる悪癖。伊之助の場合、少年期の教育・しつけ
の問題が大きく影響しているから、ちょっとやそっとでは直せない。
>>601 これは真理だろうな。オトナになって身につけた知識では、口は達者になるが、それだけだ。
スポーツや芸事でも同じこと。20代ぐらいまでに基礎ができていないと、口が達者になるだけ。
伊之助は嫌われ者といいつつ、遊女を含めると伊之助を好きになった人物が10人以上存在する不思議さ。
もういいです
627 :
無名草子さん:2011/12/06(火) 12:55:10.10
>>613 娘の佳代ではなくて母親の三千代と漢詩のやりとりをするところも変な感じがするよな。
>>619 連載時から遺族の人々から手紙もらってたとか
第23章 崎陽の雲
新任の長崎奉行・高橋美作守の妨害はあったが、文久元年8月、ついに小島養生所が
完成した。平戸では伊之助の妻・佳代が懐妊する。
この章の初めのほうで、良順が平戸の伊之助の噂を聞きつけ、丸山で伊之助の
噂話をする場面がある。そこに文久元年秋と書かれているので、この章は文久
元年秋から始まると勘違いする読者がいるかもしれない。実は私もそうだった。
しかし、本章中盤で小島養生所の開院式が同年8月とあるので、本章冒頭は、
文久元年春と考えてもらいたい。
在任わずかで江戸へ帰ってしまう朝比奈昌寿が長崎奉行に任命されたのが
文久元年3月22日である。小説時間が同年春であることからすると、ほんとうに僅かな期間である。
なお元治元年に長崎奉行となる朝比奈昌広は、昌寿の子である。
>>523参照。
この小説では悪役にされてしまった長崎奉行・高橋美作守和貫は、グラバーや高杉晋作
と文久年間に長崎で接触している。他の小説では“いい人”で登場しているかもしれない。
老中の安藤信正の名前が出てくる。文久2年1月に坂下門外で襲撃され負傷した後に
信正と改名している。文久元年春のこの時期は、安藤信行という名であった。
はじめ良順と敵対しのちに良順の理解者になる有馬帯刀が、架空の人物か
否かはよくわからない。時代劇でよく見かける名前であるが(TVの水戸黄門
にも登場)、その名の旗本屋敷は江戸切絵図に載っている。したがって、実在
したことは間違いないが、この小説の有馬帯刀が長崎目付であったかどうか
までは不明。
高橋美作守が長崎奉行を罷免されたのは文久2年8月と書かれている。時期は正確であるが、
理由は小島養生所設立をめぐる松本良順との対立・紛糾の責任をとってということではない。
文久2年7月に一橋慶喜が将軍後見職に就任し、老中・安藤信正は隠居謹慎処分を受ける。
安藤系列の高橋美作守は、そのあおりをくらって罷免されたものと思われる。
シーボルト事件を紹介した後、土生玄碩と似たような境遇に陥ろうとしていた良順を
義兄の舜海と有馬帯刀が助けるという話なんだが、フィクションだろうな。
有馬帯刀の用人で俵本平兵衛というのが登場する。また平兵衛か・・・
俺たちゃ 三人平兵衛 ♪
/■\ /■\ /■\
( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`)
⊂ つ ⊂ つ ⊂ つ
.人 Y 人 Y 人 Y
し'(_) し'(_) し'(_)
能勢屋平兵衛 大崎屋平兵衛 俵本平兵衛
良順が袖の香に月琴で金銭花を演奏させた。植物のキンセンカを詠ったものらしいが、
キンセンカを漢字で書くと金銭花となることを初めて知った。
銭の花なんですな。キンセンカに対する見方が変わってしまったわ。
伊之助が個性的すぎるのか、良順の章はパッとしないな。史伝を述べる部分が多くなる
せいもあるけどね。べらんめい口調で長崎奉行と喧嘩をさせても、伊之助ほどにはキャラ
立ちしない。
百姓身分の伊之助は史料に残っている大きな履歴に反しない限り自由に動かせるけど、
幕臣身分の良順の場合、大暴れさせても最終的には収まるところに収めないといけない。
良順が臥煙が喧嘩をする口調になったところは、あまり面白くなかったな。
第24章 暗転
文久2年8月のポンペの帰国を中心に、その後の長崎養生所をめぐる騒動、
江戸の西洋医学所の話と続きます。緒方洪庵が大槻俊斎の後継として
西洋医学所の頭取になり、長崎の良順のもとにも江戸への帰府命令が届きます。
ポンペのモンペ
ポンペの帰国は、森鴎外の「独逸日記」の叙述から説き起こされる。明治20年にドイツ
で鴎外がポンペに会うシーンである。鴎外はもちろんポンペとは面識がないが、父の森静泰
が松本良順の弟子であったという縁である。
この頃から小島養生所は、精得館と呼ばれるようになる。
良順の後任の学頭が薩摩の八木玄悦[称平]であるが、島津斉彬が日本初のガス灯
を製作した際、ガス灯用法の蘭書を翻訳したのが松木弘安(寺島宗則)と八木玄悦である。
戸塚静海の師のひとりとして宇田川玄真が挙げられているが、第5章の「春風秋雨」
で名前が出てきた宇田川榕菴の養父である。
ポンペが日本を去る日、乗船したヤコブ・エン・アンナ号から稲佐山が見える。
ロープウェイで有名な稲佐山であるが、12月1日〜9日までの間、定期検査
のため運休している。
緒方洪庵は“良順のもとで修学中の二人の息子”に手紙を書き送っていると
書かれてあるが、緒方惟準のほかにどの息子が長崎で修学していたのであろう?
緒方平三というのは惟準の幼名だよね。平三と惟準で二人にしたとか・・・?
654 :
無名草子さん:2011/12/07(水) 21:35:41.84
先日の「坂の上の雲」再三部見た
秋山真之が当初から二百三高地の重要性に気づいていたように描かれていたけど
実際は、どうなんだろうか?
スタジオパークに児玉源太郎役の高橋英樹が出演していて製作秘話を語っていた
東大阪の司馬遼太郎記念館に新規オープニングの時に行ったけど、また行きたいな
>>654 真之がそういう事を言ったと書かれた史料は無いよ
だから言ったか言わなかったかは謎のまま
日露戦争が始まるまでは、秋山兄弟と正岡子規を主人公にした小説だった。
その流れでゆくと、秋山真之が203高地占領と旅順艦隊撃滅に第三軍の戦略目的を
限定した主唱者であったというフィクションでもよかったんだろうが、ちょこっと真之に
それを言わせただけで、その後は司馬さんが余談で語ったり、児玉に言わせるようになったな。
第25章 江戸へ
長崎を去って江戸へ帰る良順。だが、この章は、同じ文久2年に佐倉を去って横浜に
転居した佐藤泰然の話が中心です。泰然がこの時期かかわった人々、ヘボン、山内六三郎[堤雲]、
末子の林董[佐藤信五郎]らについて語られています。
みんなあっちのスレに移動してるのか
良順よりも少しばかり早い時期に長崎を去った佐藤舜海と関寛斎の話もあるな。
関寛斎を徳島藩の藩医に推挙したのは順天堂の先輩にあたる須田泰嶺である。
前の章で、伊東玄朴が幇間の桜川由次郎の脱疽の治療に、クロロホルム麻酔
による下腿切断術を行ったことが記されている。わが国におけるクロロホルム麻酔
の最初であると紹介されているが、筆者が調べた史料によると、これは伊東玄朴
の仕事ではなく、須田泰嶺の仕事であるらしい。
>>660 俺が調べた文献では、伊東玄朴になっているよ。ひょっとして伊東玄朴と須田泰嶺が
共同で施術したんだろうか?
ヘボンの治療を受けた攘夷志士の間宮一とは、元治元年の鎌倉事件の犯人である。
鎌倉事件とは、英国軍人のボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉見物に出かけ、
鶴岡八幡宮近くの段葛で攘夷派浪士の清水清次と間宮一に殺された事件である。
佐藤泰然は横浜運上所で翻訳の仕事をしていた山内六三郎の屋敷へ転がり込むような
形で転居してしまう。山内六三郎については、その著書が第9章「順天堂」で紹介されている。
泰然による睾丸手術を受けた山内豊城の三男である。
佐藤泰然は医者に転業する際、伊奈家の用人の地位を気前よく友人である山内豊城に譲った
ような話を以前されていたが、お互いの妻が姉妹なんで義兄弟なんだよな。友人に譲ったという
より親戚に譲ったんだから、別に気前よくもないな。
この章には山内六三郎と蒲生安之丞の娘・お駒の婚姻の話しか出てこないけど、
林董の妻も、蒲生安之丞の娘・操なんだよな。
関寛斎に関連して、同じく徳島出身の蘭医・高良斎について余談で言及されている。
良斎が“明石侯の眼疾を癒した”とあるが、その明石侯とは松平斉韶であろうと思われる。
映画『十三人の刺客』で暴君にされていた明石藩主である。
第26章 殿中
西洋医学所の頭取助になった良順は、法印・伊東玄朴による様々な妨害に悩まされます。
しかし、その玄朴も文久3年正月に失脚し、奥御医師を罷免されます。
第11章「城の中」と酷似した内容だな。多紀楽真院が伊東玄朴に替わっただけ。
こんどは蘭方医内部における旧派と新派の争い。といっても、新派は良順とその
弟子たちだけなんですけど。
むかし「江戸を斬る」で村上冬樹が伊東玄朴を演った。
玄朴の三女加代の婿・織田貫斎は、重病のハリスの治療をしたことで有名である。
典薬頭の半井家は、第3章「良順と妻」でも紹介されていた。そこでは半井刑部大輔
と紹介されていたと思う。本章では半井山城守と紹介されているが、半井家では代々
出雲守を世襲しているようである。
>>308参照。
典薬頭・今大路家も、第3章「良順と妻」でも紹介されていた。そこでは今大路中務大輔
と紹介されていたと思う。本章では民部大輔である。
池田多仲は、この小説では伊東玄朴の腰巾着のような扱われ方である。
池田と同じく津和野藩出身の西周の青年期に、池田はオランダ語の初歩
を教えている。
蕃書調所の箕作阮甫に蘭語を習いたいと頼んで断られた勝海舟の話は、第5章の
「春風秋雨」でも出てきた。同じ小説内で二度目である。
西洋医学所の事務局長ともいうべき目付の浅野伊賀守とは、浅野氏祐である。
戊辰戦争前後の徳川慶喜に密着していた人物で、明治20年代には徳川公爵家
の家令を務めている。
緒方洪庵のうなぎの棲家のような細長い便所の話のところで、後架という言葉が
出てくる。文脈からすると便器を意味するように読めるが、後架=便所である。
後架は元来、禅寺で僧堂の後ろに設けた手洗い場を意味した。そのかたわらに
便所もあったところから、便所を意味する言葉になった。
679 :
無名草子さん:2011/12/10(土) 18:28:09.27
語学教師のことを“句読師”と呼んでいたことは、福沢諭吉の著書等に出てくる。
この小説に登場する人物でいうと、医学所の学生争議で学生代表として良順に
談判を申し入れた田代基徳が、元治元年(この小説のこの時期から2年後)に、
医学所の句読師になっている。
必死だな
今日はいよいよ203高地だ
ところで映画の203高地も司馬原作?
王城の警護者の松平容保はあくまでも小説だったんだなー
文藝春秋で子孫が容保爺ちゃんは最後まで忙しそうにしていて明治政府に恨みを持つ暇もなさそうだったって書いてたよ
>>681 違うよ。司馬さんは死ぬまで坂雲の映像化は許可しなかったんで
遺族が許可したの?
>>684 奥さんが脚本の第一稿を読んで決めたらしいな
司馬さんが描きたかったのは明治時代の戦争ではなく明治時代の人物だから
映像化されると戦争の部分だけが描かれるので司馬さん自身はダメと言った訳だしな
ドラマ向きのシーンだけ膨らましてて、戦争はさらっと簡潔に描いてるし、このドラマ化で良かったと思う
なんか好古のイメージが俺と違う・・・
やっぱ原作が一番だわ
>>687 野沢は嫌がったが上から言われて仕方なく恋愛展開を入れたりしたそうだ
それで糞になったのを苦にして自殺したらしいな
>>688 自殺ってウソだろ・・・?
結婚の話とか大げさにやっててかなり違和感あったなぁ あれは萎えた
児玉源太郎はなかなかハマっていたと思うけど好古はなーんか違和感
>>689 ドラマ化を待たずに死んだのが自殺である証拠で
その当時の新聞を漁れば警察発表に自殺の疑いありと書かれてるぞ
691 :
無名草子さん:2011/12/12(月) 20:03:11.35
伊之助 まだ〜
第27章 変転
伊右衛門が、平戸で岡口等伝の娘と結婚した伊之助を、佐渡へ連れ戻します。
佳代は伊之助の子を懐妊していました。
この章の伊之助は、現代の感覚で見ますと、大人の男には見えません。
封建時代の家制度や世間の重さを勘案しても、理解しにくいかもしれません。
伊右衛門が見た“太古そのままの豊旗雲”というのは、万葉集に収録された中大兄皇子の
「海神の豊旗雲に入日さし 今夜の月夜さやけくありこそ」をふまえている。
豊旗雲とは、辞書によると、旗がなびいているように空にかかる美しい雲という意味らしいが、
具体的にどういう形の雲なのかになると、写真を撮った人たちの解釈がまちまちなので、
筆者にもよくわからない。作中の伊右衛門は自身たっぷりに豊旗雲と言っているが。
伊右衛門は、宮ノ前の旅籠・丸屋五兵衛に宿泊する。旅籠の主人も、伊右衛門と岡口等伝の
仲介をする田中了庵も、架空の人物である。
前述したが、平戸に宮ノ前という町はない(
>>603)。京都市をはじめ各地に宮ノ前町という
町名があることから勘違いされたのだと思う。
695 :
無名草子さん:2011/12/13(火) 16:40:21.73
平戸宮ノ前の薬種商が大崎屋平兵衛だったので、旅籠も丸屋平兵衛になるのではないかと
心配していたが、五兵衛だったので安心した。
伊之助が奉行所の医官になれなかった件について、雪亭さんは、前の奉行の戸田
様が江戸に帰られ、岡松様が新任の奉行になったが、その岡松様が蘭方に関心が
ないから、と言っている。大ウソである。
佐渡奉行も複数制であって、戸田と岡松は文久2年7月まで同役であった。
岡松が戸田の後任の佐渡奉行というのは大ウソで、それぞれの任期は、次のごとくである。
岡松伊予守久徴 安政6年12月〜文久3年
戸田与左衛門正意 万延元年10月〜文久2年7月
つまり、岡松は戸田よりも先に佐渡奉行になり、戸田よりも長く務めただけである。
>>696は許容できない嘘だな。同じ嘘でも、伊之助が乗った佐渡に帰る船が田野浦に停泊し、
そこでたまたま長州藩による攘夷決行を目撃するという挿話は、よくできたフィクションといえる。
さりげなく目撃しているから違和感がないな。伊之助は長州藩の砲撃には無関心だし。
ペリーが来航すると竜馬が目の色を変えて黒船を追っかけるエピソードは、映画・ドラマで
散々やられたので飽きた。
米商船ペムブローク号を砲撃した庚申丸の艦長は、松島剛造である。
松島剛蔵は長州藩の藩医の子に生まれ、この小説でも頻繁に名前の出てきた坪井信道
に師事して蘭方を学んだ。のち長崎海軍伝習所で海軍を学ぶ。おそらく一期生。
この小説の登場人物たちと似たようなコースを歩んだ人なのだが、第一次長州征伐の後
に政権を握った俗論党のために処刑された。「世に棲む日日」では登場機会が多い。
>>699 佐渡は田舎なので幕末でも煮売屋だったんだなw
702 :
無名草子さん:2011/12/14(水) 13:42:00.63
>>692 丸屋五兵衛がつぶやいたように、伊之助を廃嫡して次男に跡を取らせればいいんだよな。
伊右衛門が伊之助に執着する理由がよくわからなかった。もっとも肉親の情というのは
他人には計り知れないものがあるからな。
それにしても、久しぶりに再会する祖父の船に走ってゆく伊之助は異様だった。婆ちゃん子
は三文安いというが、爺ちゃん子も事情は同じだな。
語学に没頭する伊之助の自己診断のくだりは面白かったな。
伊之助は我の強さ=性欲の強さに根拠を求めていた。
“我は性欲になったり、学問になったりする。その学問も、研究というような精神のゆとり
などはなかった。記憶だった。飢えた者が物でも食うように、片っぱしから記憶し、つねに
記憶について空腹感があった。”
第28章 関寛斎
文久2年暮に徳島藩の藩医になった寛斎は、翌年3月に徳島入りします。
藩主・蜂須賀斉裕(佐幕派)とその世子・蜂須賀茂韶(尊攘派)の対立を通して、
激動の文久3年が語られます。
寛斎が屋敷を与えられた場所を、司馬さんは、富田裏の掃除町としているが、
正しくは富田の裏掃除町である。現在の町名は徳島市中央通。
寛斎が故郷の偉人として自慢していた侠客・笹川ノ繁蔵の名前は、今日では
知らない方も多いと思うが、その食客・平手造酒はご存知の方が多いと思う。
平手造酒の登場する映画は枚挙に暇がない。三波春夫の大利根無情は、
飯岡ノ助五郎一家との大喧嘩で落命した平手造酒を歌った曲である。
708 :
無名草子さん:2011/12/14(水) 15:23:00.02
余談で蜂須賀家の略史が語られています。
蜂須賀正勝と小瀬甫庵「太閤記」については、濃尾参州記の第6章「蜂須賀小六」を参照してください。
蜂須賀家政と高木法斎の関ヶ原合戦の顛末については、古往今来に「法斎の話」
というのが収録されています。
蜂須賀家の農民支配に関連して、名子と下人の身分が出てくる。文脈からして、下人は
名子の言い換えなのではと思われる読者がいらっしゃるかもしれないが、両者は別の
身分である。名子については、司馬さんが括弧書きで(農奴)としているが、そのとおり。
いちおう独立した百姓である。下人は名子よりさらに身分が低く、家内奴隷のことである。
>>710 明治帝に泥棒呼ばわりされた蜂須賀当主は実は正勝の血は引いてなくて
それ言った明治帝のほうが血を引いてるんだよね
だから明治帝が可愛そうになって調べたって話もあるよ
引き続き、寛斎が仕えた蜂須賀斉裕と蜂須賀茂韶の話になる。
蜂須賀斉裕は作中にも書かれているように、第11代将軍家斉の子。つまり家慶の異母弟。
蜂須賀茂韶は、司馬作品に頻出する明治天皇の葉巻を万引きして「蜂須賀、先祖の血は
争えんのう」と陛下に言われた椰子。
寛斎は漢方の後藤派の理論で蜂須賀斉裕を治療しようとします。
山脇東洋の師である後藤艮山については、19章「秋の丘」で詳しく触れられています。
司馬さんは後藤派と言っていますが、調べるときは古方派で調べてください。
関寛斎は自分は百姓身分出身なので、万一殿のお命を縮めまいらせるようなことが
あれば、鎌で腹を切ると云っています。元ネタは、狂言「鎌腹」かもしれませんね。
716 :
無名草子さん:2011/12/14(水) 16:38:16.12
紀行文で有名な橘南谿は、街道をゆくその他の司馬紀行に頻出する人物であるが、
医者だったのか。初めて知った。
第29章 良順
一橋慶喜登場。サブタイトルは「良順」ですが、主役は一橋慶喜です。
横浜鎖港問題をめぐる参預会議の紛糾と、慶喜による久光と中川宮への一喝。
良順は慶喜の侍医として脇に侍っているだけです。
司馬さんは、元治元年の年号を使っているが、この章のラストは2月16日に慶喜が
中川宮邸へ乗り込むシーンで終わる。元治への改元は2月20日なので、起こっている
事件は、すべて改元前の文久四年の話だな。
前章あたりまでは、政治的事件は背景として余談で簡単に説明するだけだったのが、この章から
物語の中心に位置してきたな。
主人公の松本良順が、時代の中心人物である一橋慶喜に直接かかわってしまったのだから
仕方ないよ。可能な限り、「竜馬」「最後の将軍」等の他作品とかぶらないような配慮はしている。
良順の相棒の石川玄貞は、解体新書メンバーのひとり石川玄常の孫であるとされていますが、
これはデタラメですので覚えないでくださいね。玄常は江戸生まれ、玄貞は陸奥国登米郡桜場村
の生まれで元々千葉姓ですから無関係です。祖父でも孫でもありません。
江戸時代の禁裏と公家の所領はあわせて5万石と書かれていますが、これもウソです。
禁裏御料が3万石、公家はあわせて7万石と覚えておいてください。場合によっては
上皇領1万石を加えてもいいですし、皇族が寺の門跡になれば寺領も禁裏・公家領と
考えてもいいかもしれません。下級公家は貧乏でしたが、貧乏は御家人や諸藩の下士
も同じです。
おまえの書くものは小説っぽくないといわれたさかい、蝋燭屋の大和屋辰吉、その女房のおよし、
娘のおせい、良順の用心棒の吉丸善蔵と小谷新八郎、松本家の小者の三吉。オリキャラを
いっぺに6人も出したったで、でや、すごいやろ。
良順が京へ連れてきた松本家の下僕は三吉であるが、長崎に行くときに連れて行ったのは
松本家の若党・逸平(23歳)であった。第11章「城の中」を参照せよ。
>>723 なんのために出したんだろうな。この章だけの使い捨てなんだろうに。
726 :
無名草子さん:2011/12/14(水) 20:31:28.38
この時期の薩摩の宮廷工作は、島津久光の腹心の高崎猪太郎と高崎佐太郎であって、
遠島中の西郷吉之助ではないと、どうしてわざわざ書かなければいけないんですか?
遠島中の人間が京都で宮廷工作なんかできるはずがないのは当然だと思うのですが。
>>726 作者の心に、なにかひっかかるものがあったんだろう。具体的に言うと(以下略
最近、海音寺さんがブツクサ言う声が、耳元で聴こえてしゃーないねや。
横浜鎖港問題は、当事者の思惑が捩れに捩れた政局課題なんで、理解が難しいな。
理解しやすいのは松平春嶽の発言だけだ。
730 :
無名草子さん:2011/12/15(木) 13:47:56.93
>>726 むかし文久3年8月18日の政変で、西郷隆盛が大活躍したかのごとくに書いたことがある。
中川宮[青蓮院宮]は、上方武士道と比べるとこんなに変わる。20年の時の隔たりを
感じさせますなー。
慶喜が宿所にしていた東本願寺の枳殻邸についての詳細は、この国のかたちの「庭」を参照してください。
安政条約の改定申入れのために外国奉行・池田長発をパリへ派遣した話は、
この国のかたちに「巴里の廃約」という独立した一篇があります。
同行した田辺太一は、台湾出兵後の大久保利通の北京談判にも同行して
おりますので、翔ぶが如くの「波濤」の章以下にも登場します。
慶喜の攘夷発言を手を拍って喜び、「政治的に能力を欠い」ていると評された山階宮とは、
山階宮晃親王のことです。天保12年に二歳年下の叔母・幾佐宮隆子女王とともに出奔する
という不祥事を起こし伏見宮を除籍されていたのを、慶喜の尽力で還俗したという経緯に
鑑みれば、山階宮が慶喜にお世辞をつかうのは当然なのであります。
乃木希典とクロパトキンはどちらが無能ですか?
第30章 浮雲
佐渡に帰ってきた伊之助の日常です。相変わらず流行らない医者をやっています。
新任の奉行所組頭・中山修輔の引き立てにより、臨時雇いの奉行所の医官になります。
>>696 この章で、司馬さんも岡松伊予守の任期に気づいているね。
文久2年に奉行二人制から一人制へのリストラがあって混乱されていたみたいだ。
それにしたって、「変転」の章では、“岡松伊予守様が御入国になったが、このお人は
蘭方には御関心がうすい”と言っている。聞いたのは雪亭さん。
この章では、“御奉行の岡松伊予守がたしかに役人を通して雪亭さんに漏らしたのだが、
岡松は文久三年夏に江戸へ帰ってしまった”だよ。ひどいね。
高村隆徳について詳しく書かれているが、この人は11章「城の中」で良順の長崎行き
に容喙してきた“鼻どの”である。
高村隆徳を引き立てたのは土岐豊前守朝旨であるが、その妹婿の小笠原順三郎は、
SF時代劇ドラマ「JIN」で主人公が居候していた旗本の名である。第1話で、橘恭太郎は
「湯島四丁目裏通り樹木谷に住む小普請組小笠原順三郎支配内、橘恭太郎と申します」
と名乗っている。
高村隆徳は江戸へ出てきた当初、日本橋本町二丁目の玉屋という化粧品屋の食客に
なっている。玉屋の主人は玉屋善太郎というが、元来は京の店で、江戸日本橋に支店
を出していた。小野小町にあやかった小町紅は江戸時代のヒット商品。
山本半二という雪亭さんの息子が登場する。伊之助の幼馴染である。世間に馴染めない、
他人に嫌われるといわれつつも、意外に友人の多い伊之助である。
744 :
無名草子さん:2011/12/15(木) 19:08:43.98
>>743 同姓同名の別人だが、「坂の上の雲」にも山本半二が登場する。
旅順口閉塞作戦で福井丸乗組みの山本半二一等機関兵曹である。
広瀬武夫中佐の戦死を目撃された方です。
伊之助の実像が回を追うごとに明らかにされてきたな。“ガリ勉おばか”になってきたわ。
教えられたことはすべて記憶するが、情況に応じて応変の対応ができない。
教えられたとおりを愚直に再現する。素人に質問されても、「教えられていないから、
知りません」と答える。こりゃダメだわ。
もういいです
もっとやってください
748 :
無名草子さん:2011/12/16(金) 13:57:15.64
>>745 伊之助の性格はもっと複雑なのかと思っていたら、わりとありふれたものになってしまったね。
ただし、エリートさんを融通のきかない性格に描くことはありふれているけど、伊之助の場合、
世捨て人のような人。ここが珍しい。
新任の佐渡奉行の中村石見守は、名を時万という。安政3年に幕府が
タウンゼント・ハリスと結んだ下田条約の下交渉に当たった人物です。
組頭・中山修輔の名は信安。それほどメジャーな人ではないので、事績を調べてもこの小説に
書かれていることにほぼ尽きます。詳しく知りたい方は、飯島竹雄『中山信安』を読んでください。
伊之助の弟が島倉家の当主になっていた。伊右衛門が平戸から伊之助を連れ戻す章
では、伊之助が嫡男だから連れ戻すということだったのに、弟はすでに結婚して島倉家
を継いでいる。へんな話だな。
丸屋五兵衛の呟きどおりになっていてワロタ(
>>702)。家を嗣がないのなら、伊之助は
あのまま平戸で佳代と暮らしていてもよかったんだよなw
しかも弟の名前が伊兵衛。伊之助の家は分家なんだが、本家の当主の名前が伊兵衛であることは
第23章「崎陽の雲」に書かれている。偶然、同姓同名だったのだろうか?
後半は佐渡の医者や学者が多数紹介されている。益田玄皓、萩野由之、円山溟北らのことであるが、
初めて知ったという読者が多いんじゃないか?俺も、そうだ。なお、漢方医の考査について伊之助
に文句を言いにきた松岡両洋は、架空の人物であると思われる。
>>754 金山の水替人夫として本土の受刑者を多数送り込んでいたことから、佐渡というと
犯罪者の子孫ばかりが住んでいるという偏見を持っている人がいるかもしれんからな。
佐渡にも高い水準の学問や文化があったということを証明したかったのだろう。
山師の下にいて人夫たちの監督をしている役職を、この小説では“かなこ”としているが、
金子、金名子、金児などの漢字が当てられる。川路聖謨の「島根のすさみ」では、金児
になっている。
第31章 江戸晩景
新撰組登場。近藤勇と松本良順は義兄弟になります。
「江戸晩景」とは、長州征伐によって明るみに出た江戸の旗本たちの不甲斐なさのことでしょう。
本章の舞台はほとんど京都です。
幕末の新撰組を今日に伝える有力史料「新撰組永倉新八」の解説から始まる。
物語から入らず解説から説き起こすいつものパターン。
自分の読書体験を振り返っても、解説付きの文庫本や児童向けの本の場合、
解説を先に読まなかったか?外国の歴史が関係する小説の場合、解説で
時代背景を大まかにわかっていたほうが、小説の内容が理解しやすい。
小樽時代の永倉新八が登場する映画かTVドラマを数年前に見た記憶があるんだが、
タイトルを思い出せない。
>>724 前回は下僕・三吉を京へ連れて行ったけど、今回の下僕は政吉だね。
松本家には何人の下僕がいるのだろう?
余談ながら、この稿をここまで書いてから、古い友人の宮崎八十八氏に電話してみた。
「塩田という姓は会津にあります。……牛渚は、私だけが知らないのかもしれませんが、
どうも」
宮崎氏でさえ、この塩田牛渚という名は知らなかった。
電話がおわってから五分ほど経って、筆者はインターネットで検索してみた。驚いたこと
に、塩田牛渚のキーワードを含んだページが次々に出てきた。
「宮崎八十八でも、検索してみるか。ありゃ…、どうした…、……無い……」
その塩田牛渚が、近藤・土方を相手に「折助流の酒盛りをしよう」と言う。
折助=中間は、「奴」とも言う。
ここで、豆腐の冷奴の語源について豆知識。
折助=中間=奴は、大きな四角形を染めた半纏を着ていることが多かった。
ここから食材を大きめの立方体に切ることを「奴に切る」と表現するようになった。
「冷奴」は豆腐を奴に切って食べることからその名がついた。
黒田勘兵衛が好きで、播磨灘物語の文庫本を買いました。ところが1巻を読み始めたらいきなり…
「黒 田 官 兵 衛 はま だ 出 な い」
と書かれてて本を閉じてしまいました。播磨灘物語は面白いですか?
あと官兵衛はいつ出ますか
>>766 ありがとうございます!
読んでみます!
768 :
無名草子さん:2011/12/19(月) 12:00:27.57
>>764 塩田牛渚が長崎の木下逸雲の下で学んでいた件で、江戸期の画家の名前がずらり
と出てくるが姓が書かれていない。
梅逸=山本梅逸
海僊=小田海僊
竹洞=中林竹洞
である。
労咳の沖田総司が良順を訪ねてきたくだりの余談で、労咳の治療に関するベルツ・エルヴィンの
東京音楽学校講堂における講演の内容が叙述されている。ベルツ・エルヴィンの「ベルツの日記」
は明治期を描いた司馬作品にしばしば登場する。翔ぶが如くの46章「流説の巷」でも紹介されている。
この章では山崎蒸も登場する。山崎蒸や中川宮は司馬さんの初期作品で活躍したキャラであるが、
伝奇小説で活躍させたキャラを後期の史伝文体で再登場させると、全然面白くないな。
その最たるものが「城塞」だな。ほとんどの登場人物は「風神の門」で登場済みなわけだが、
どれもみなつまらん。伝奇ロマンで有名になった人物をリアルに描こうとするとこうなる。
葛籠重蔵や霧隠才蔵が女にもてても嫌味がない。それどころか彼らと男性読者は
同一化できる。「城塞」の小幡勘兵衛がもてている場面は、変態か犯罪者にしか
見えないんだよな。
葉タバコをキセルに詰める呼吸を良くするという理由で少女を手籠めにする勘兵衛と
同一化できる読者はいないだろうな。
良順の著書「養生法」に関する余談のところで、他の医者が書いた類書が羅列されているが、
そのうちの辻恕介の「長生法」はフーフェランドの訳書。フーフェランドといえば緒方洪庵が
翻訳した「扶氏医戒之略」というのが司馬作品に頻出する。
第32章 大坂
第二次長州征伐の最中、将軍様が死ぬ。2011/12/19に死んだどこかの将軍様と
異なり、こちらの将軍様は、その死を悼まれているようである。
徳川家茂は、政治的能力の点はともかく、性格の良さでは司馬作品中でも断トツの人物だな。
皮肉屋の勝海舟ですら、家茂を絶賛しているからな。
枚方のくらわんか餅は、巴堂という和菓子屋で現在でも食べたれるらしい。
良順の病院建設に協力した尼崎藩の桜井家とは、桜井松平家のこと。
松平宗家五代目の松平長忠の次男・松平内膳信定を祖とするというから、
松平宗家九代目にあたる家康にとっては、遠い親戚。
>>779 分家なんだが、織田信秀と組んで、家康の祖父・清康や父・広忠を排除し本家を
乗っ取ろうとした仇敵なんだわな。家康という人は、こういう親戚でも許してしまう。
広島で永井尚志・近藤勇と会見した長州代表は山県半蔵(宍戸備後助の偽名を用いる)
と紹介されているが、司馬作品には宍戸タマキの名前で登場することもある。同一人物。
小笠原長行が藩主になる前に交わっていた学者の名前が羅列されているが、その中に
羽倉簡堂という人物がいる。この人に『赤城録』という著書があるが、極悪人の長岡忠次郎
を「国定忠治」という義賊に仕立て上げた最初の人物である。
多紀楽真院の子・多紀養春院がやっと出てきた。この人が奥御医師になったのは、
伊東玄朴と同年同日である。
同じ日に奥医師になった息子の養春院に玄朴いじめをやらせるわけにはいかんから、
死んだはずの父・楽真院の死期を延ばして、これに玄朴いじめをやらせたんだろうな。
浅田飴の浅田宗伯が、また出てきたね。
ついでに言っておくと、この章の最後のほうで登場するボードウィンは、
太田胃散の処方を作った人。この小説の登場人物たちに現代人も
ずいぶん世話になっている。
美濃の本巣郡真桑村の領主が、家茂に真桑瓜を見舞いに持ってきた。
真桑は地名だったんだな。
子どもの頃はウリという果物をしょっちゅう食べていた。日本国民はほぼ全員メロンに
憧れていたのだが、メロンは高くて病人の見舞いにしか使われなかった。
ところが最近はメロンしか売っていなくて、ウリを見ることがない。子供の頃はバカ
にしていたウリを食いたくなった。
>>787 バナナをもらうと、まず仏さんに供えた。皮も中身も真っ黒くなってから、
生きている人間が食べた。
790 :
無名草子さん:2011/12/20(火) 09:58:59.21
司馬は結局、荒唐無稽な娯楽小説の作家に過ぎないわけだが、
日本人の平均的レベルの知的水準を満足させるような、
ちょうどいい内容なんだよな
思想学的な素養がなくたって、何がいいたいのか分かる。
おお
「胡蝶の夢」の考証面白いね
考証者はレス毎にコテハンつけてくれたら有難いね
他人のレスも挟まるからどれが考証者のレスか、パッと見わかりにくい所がある
ともあれ頑張ってください
ちょっと「胡蝶の夢」読み返したけど、そういえば「胡蝶の夢」にかぎらず司馬の作品は
主人公がある程度成長してから物語が始まることが多いね
そして出郷・出奔が導入部になることが多い
出生から語り起こす歴史小説の王道とはちょっと違う
792 :
無名草子さん:2011/12/20(火) 13:24:47.34
>>774 デスクトップ2ちゃんでは、
>>774に健全でない言葉が含まれているので表示できないというのだけど、
健全でない言葉なんか含まれてないよ。
>>792 フーフェランドがNGワードにひっかかったんだろうなw
フーフェランドの「フェラ」がまずいんだろう。
ひょっとしてフェラーリもダメか?
>>787 ブドウも、一般向けはワインにするしかないような渋いやつで、見舞い用がマスカットだったな。
りんごでは、国光リンゴが家庭用、インド・リンゴが見舞い用だったな。
第33章 西の風
家茂が歿した後、良順は江戸に帰府します(慶応3年2月)。吉原に検黴所を作ったり、
穢多頭の弾左衛門の治療をしている良順ですが、その間に京では大事件が・・・。
徳川慶喜が大政を奉還します。江戸でも薩州三田藩邸の焼打事件が起きます。
医学所の教授陣の名前が羅列されているが、その最初に出てくる坪井芳洲は、これまでも
この小説に2度登場している。第5章「春風秋雨」では、坪井信道の女婿・大木忠益の名前
で登場する。第18章「江戸の風聞」では、島津斉彬の死亡時に脈を採った薩摩藩の藩医
として紹介されている。坪井為春の名前で検索するとヒットしやすい。
同じく医学所教授のうち足立寛と田代基徳は、第26章「殿中」に登場する。当時は学生で、
良順が兵学書を読むことを禁止したことに反発してストライキをした学生たちの中心人物であった。
続いて良順が吉原に検黴所を作った話である。司馬作品に登場する吉原の大籬は
決まって角海老なんだが、ソープランド角海老グループと関係があるのだろうか?
検黴所の設立を許可した江戸町奉行・石川河内守は、最後の北町奉行である。
石川利政という。
>>802 四代目橘家円喬の新作落語「心中の心中」に石川河内守が出てくるね。
穢多の人権は7分の一。穢多が七人殺されたら奉行所へ訴え出ろと言った南町奉行の
池田播磨守とは、池田頼方。安政ノ大獄当時の奉行にろくなのはおらんな。
806 :
無名草子さん:2011/12/22(木) 17:19:39.37
>>523 朝比奈昌広はこの章にも登場する。当時外国惣奉行並だった朝比奈が、江戸南町奉行並を兼帯
したというのは本当。
穢多頭の弾左衛門と紛らわしいのが、非人頭の車善七だ。こっちは上方武士道に登場した。
もっとも善七の弟の善八というやつが門兵衛と対決したのだが。
史実では、12代目弾左衛門の弾譲は、非人頭車善七との間で問題を起こし押込の処分を
受けて引退している。
益満休之助も再登場しているな。上方武士道組の再登場はけっこう多い。
良順に大政奉還のニュースを伝えたのは、福地源一郎。ここまで良順と一面識もなかった
福地源一郎が、こんな重大ニュースを幕閣に伝える前に良順に伝えた真意は不明です。
>>806 薩摩三田藩邸の焼打ちに反対した穏健派の町奉行として朝比奈昌広の名前が挙がっているな。
もうひとり穏健派の町奉行として駒井相模守の名前も出ている。山田風太郎の『警視庁草紙』を
原作にした金曜時代劇「山田風太郎からくり事件帖」の主人公だったのが、この駒井相模守信興。
三田藩邸焼打事件の報告を目付・阿部邦之助から受けて自刃した若年寄は、松平正質では
ないかと司馬さんは言っておられる。想像するのは勝手なんだが、正質のルビが「ただまさ」に
なっている。正しくは、「まさただ」であることは言うまでもない。
次に、阿部邦之助を呼びつけて怒鳴った老中・松平周防守は、川越藩主の松平康英である。
この方は『翔ぶが如く』の第1章で文久2年の遣欧使節の随員であったと記されている。
当時は、松平石見守康直という名前であった。同一人物である。
>>809 間接的には繋がりがあるんだよな。福地源一郎は長崎でオランダ通詞の名村八右衛門
から蘭学を学んだ。良順とともに長崎で写真の研究をした上野彦馬の蘭学の師匠も、
名村八右衛門なんだ。
薩摩藩邸焼打事件についての詳細は、阿部邦之助が市来四郎に語った史談会の内容が
ベースになっているようだ。市来四郎は島津久光の側近で、翔ぶが如くに何度も登場する。
西郷隆盛も司馬さんも、久光側近の中では好意を持っていた人物である。
日本史の教科書で「名主・庄屋(肝煎)」と書かれていたが、肝煎りの意味がわからなかった。
今回この小説に肝煎りの語が出てきた機会に調べてみた。それによると、
「肝を煎る」→「心を煮つめる」→「心遣いをする」→「世話をする」→村人の世話をやく名主・庄屋
なんだそうである。
第34章 江戸の正月
リアル世界も、もうすぐお正月ですが、この小説は現在慶応3年12月25日の薩摩
三田藩邸焼打事件のところです。
この章は鳥羽伏見の戦いから、徳川慶喜の敵前逃亡について扱っています。
松本家のお正月の場面で、蝶足の祝膳が運ばれてくる。
蝶足の祝膳というのは、外側を黒に塗り膳の足を高くしたものだが、
一般には女性用の祝膳といわれている。当主の良順がどうして女性用の祝膳を
用いたかは筆者にはよくわからない。
正月の武家屋敷に万歳が来ている模様が描かれているが、万歳とはマンセーする人
のことではない。正月早々マンセーする暇人はいない。漫才師が漫才をして小銭を
稼いでいるのである。当時のことだから三河万歳である。
良順が検黴所を作った根津の遊郭とは、文京区根津のことだ。
根津遊郭は東京帝国大学が近いことから教育上よくないということで、明治21年6月末日
をもって廃され、翌7月1日からは深川の洲崎で営業した。
>>308 典薬頭は、第3章では四家であったが、第26章以降、半井家と今大路家の二家に
限定されたようだ。
>>673 半井家は、この章では再び刑部大輔に戻されている。
>>674 今大路家は、中務大輔(3章)→民部大輔(26章)→兵部大輔(34章)と変遷している。
正月の回礼のところで、松平肥前守というのが出てくる。この小説の中で一度説明されているが、
佐賀の鍋島氏を松平肥前守という。
>>820 今大路家の祖の曲直瀬道三は兵部大輔と号し昇殿を許されている。
その後は、中務大輔を世襲じゃないかな?
徳川慶喜の敵前逃亡については、『歴史の世界から』所収の「歴史を変えた黄金の城」に詳しい。
司馬さんは開陽艦に乗艦して品川まで帰った人々のうちに戸塚静海がいたように書かれて
いるが、誤り。慶喜に随行したのは、慶喜の侍医である養子の戸塚文海。
また、戸塚静海の号を香春院としているが、これも誤り。杏春院である。
元々静春院と号していたが、将軍徳川家茂の没後、和宮が静寛院宮と称したため、
「静」の字を避けて杏春院と改名したものである。
この章では、慶喜が慶応4年正月13日に、天璋院に対し「自分は退隠する。あとは田安殿(亀之助)
がよい」と言っている。これと紛らわしいのが、前々章の家茂発言。家茂は「自分に万一のことがあれば、
あとは田安亀之助を立てるように」と天璋院に言い残している。この家茂発言を、明治になってから
聞いた慶喜は、もしこの発言を知っていたら自分は将軍にならず亀之助の後見をしていただろうと
述べていた。つまり、家茂と慶喜の両人とも亀之助を立てるようにと言ったのは偶然の一致で、慶喜が
家茂の遺言を聞いていたわけではない。
第35章 西軍来る
慶応4年1月〜3月。新撰組の江戸退却から甲陽鎮撫隊の敗戦までを中心に、良順が
今戸の称福寺に野戦病院を作った話までが語られます。
まず鳥羽伏見の戦いの補遺。敗戦の殿軍を引き受けた土方歳三率いる新撰組の活躍が
語られる。ここに登場する陸軍奉行の浅野美作守[浅野氏祐]は、第26章「殿中」に登場
している目付の浅野伊賀守と同一人物である。西洋医学所の目付であるから、良順と深い
関係のある人物なのであるが、そのことには触れられていない。
その浅野美作守が大坂行きのために乗艦した順動丸は、良順が京の一橋慶喜を診察するために
乗艦した艦船である。
>>830 良順が京の宿にした蝋燭屋の大和屋辰吉や、その女房およし、娘のおせいは、予想どおり
再登場しなかったね。
医学所に治療に行く近藤勇が乗った障子船。武家身分しか障子船には乗れなかったと
書かれているが、このまえ見た忠臣蔵では、紀伊国屋文左衛門が障子船に乗っていた。
∧_∧
( ・д⊂ヽ゛ 沖田
/ _ノ⌒⌒ヽ.
( ̄⊂人 //⌒ ノ
⊂ニニニニニニニニニニニニニ⊃
l l l l l l l
r:┐ / ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ
| | r=、| {::5} {::5} |, =、
| |_ ゙ー'7 r ====.z 弋ー'
{三Lト、 { { ̄[_] ̄[_] ̄} } 総司
{三ト、 \_, ヽ廴_[_]_,ノ /
| | \_辷L≧=─┬ '´
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廴! i{{__,廴∠二二>辷=≠=┘ | |
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/ j 厶─┼‐┼‐┼<ノ
/ ,' └┬‐┼‐┴‐┴ '´
/ , , , , / _,j |
{`ー‐<. ///// 人} \_厶
`ヽ二∠∠.厶イ 仁二ニ== '
沖田総司の終焉の地については、千駄ヶ谷の姉ミツの家という説と、良順が一時住まいに
していた今戸八幡の神主居宅という説がある。この小説では、千駄ヶ谷説のようだ。
この章のラストは、永倉新八・原田左之助らが近藤勇と袂を分かった話であるが、
彼らの組織は靖兵隊と呼ばれている。
第36章 佐渡から
情報の伝わるのが遅い佐渡にも、大政奉還・戊辰戦争の影響が現れてきます。
祖父・伊右衛門を亡くした伊之助は、佐渡を出て横浜に向かいます。
会津浪人の大竹主計と名乗る者らが、佐渡で強盗まがいを働く。
司馬さんは、大竹主計なる人物は会津藩士にはおらず、偽名であろうと書かれているが、
実在する人物である。四百五十石の軍事奉行番頭対席遊撃隊頭で、九月五日、会津面川で
戦死している。佐渡で強盗まがいを働いたか否かまでは知らない。
この章の伊之助はひどすぎるな。上手く書けていないというのじゃなくて、
他人に命じられないと自分の為すべきことがわからないという性格がひどすぎる。
ここまで良順を中心にやってきたのに、良順が会津へ行ってしまうと、会津を舞台
にすることなく、入れ替わりに江戸(横浜)に来た伊之助と関寛斎が中心になる。
会津戦争をやってほしかったのに。
当時、早乙女貢の会津士魂が話題になっていた頃で、会津戦争を書くと全面対決
のようになってしまうからな。避けたんだろう。
今更だけど播磨灘物語読んだ!
城攻めや野戦の雰囲気とか生き生き伝わってきたり、色々な人々の思惑が複雑でとても面白かった!
又兵衛が出ていった理由とか、ずっと疑問だったことが解けてよかった。
ただ、官兵衛の祖父や父の話はもうちょい省略して、九州攻略の話を増やして欲しかったなぁ。あと、官兵衛のことをちょっと美化しすぎなんじゃとちょっと思った。
会津士魂をAmazonで検索したらカスタマーレビューが一つも・・・
そういう哀しい作品なんだね
843 :
無名草子さん:2011/12/25(日) 18:41:08.81
>>838 《あとがきにかえて》という司馬さん自身の文章で、伊之助のキャラ設定に至るまでの
経緯が書かれているよ。
>>841 司馬さんが歴史上の人物で最も好きだって言ってるからね
>>844 なるほど。確かに愛に溢れてる感じがしたw
好きで好きで仕方ないみたいな。
天下人になるまでの秀吉も好きだったらしいね
確かに。好きなのかも。秀吉の汚点の晩年の朝鮮出兵のとこも、秀次のとこもサラッとしてたしなぁ。
個人的には秀吉の晩年が気になるけど、魅力的だったんだろうなとは思う。
本能寺で死ぬまでの信長も好きだったみたいね
第37章 阿波から
阿波の蜂須賀家は、戊辰戦争直前に藩主・蜂須賀斉裕が病死し、蜂須賀茂韶は官軍に
与します。関寛斎も軍医として出兵することになります。
寛斎は、関家の若党・佐助の父の瘍の治療のため撫養へ行く。
佐助の父は川舟の船頭だった。
ちなみに、第33章「西の風」で、松本良順が弾譲の治療に行くために乗った
川舟の船頭の名前も佐助である。
どうやら川舟の船頭は、すべて佐助という名で統一されたようだなw
慶応4年1月の阿波沖海戦について
榎本武揚が乗艦する開陽丸は、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いの後、敵前逃亡した際に
乗艦した艦船である。この小説のその箇所では、開陽丸ではなく開陽艦と記されていた。
薩摩の軍艦春日丸は、翔ぶが如くで萩の乱が起きる直前、三浦梧楼が前原一誠を説得
するために長州へ向かったときに乗艦した艦船である。
薩艦・翔鳳丸は、この作品の三田藩邸焼打ち事件のところで登場した。
第38章 江戸の良順
慶応4年3月、無血開城に至るまでの江戸の様子を、良順と江原素六を中心に語ります。
江原素六の属した撒兵の意味がよくわかりません。
>>854 撒兵とはオランダ語の「サッペウス(英語では“a sapper”。工兵の意)」に由来します。
しかし、幕府歩兵には工兵として別に造築兵500がおりますので、撒兵の役割が何なのかは不明です。
「撒兵」=「散兵」=軽歩兵の古語じゃないの?と思うだけなんだけどw
第39章 脱走
慶応4年4月〜閏4月。江戸城を官軍に明け渡し、慶喜も上野を去り水戸へ。
新撰組も幕府歩兵も江戸を脱出。松本良順も会津へ向かいます。
まずは司馬さんによる医学所跡探し。
司馬さんは佐久間町のそば屋でそばを食っているが、6軒ヒットしたので特定できなかった。
御徒町通りは和泉橋から三枚橋の間と書かれているが、ここでいう三枚橋は御徒町のそれ
であって、高杉晋作が渡った将軍しか通れない上野の三枚橋ではない。
>>679 田代基徳が医学所の句読師であったことは、三回目の登場である本章において
やっと明らかにされた。
しかし、ここまでの2回の登場では田代基徳の名で登場しているのに、この章では
「田代一徳(のち基徳)」となっている。不思議だ。
ネタバレになるが、良順が田代一徳に預けたオランダ人の頭骨は、最終章においては
どういうわけだか、陸別町の関寛斎が所持していたことになっている。
しかも、陸別町の郷土資料室の人々が寛斎が町に寄贈した遺品を整理していると、
その頭骨が発見され、たまたま陸別町を取材していた司馬遼太郎氏がその現場に
立ち会っている。司馬さんは、ポンペの弟子の子孫であられる荒瀬進氏に頭骨の写真
を見せてもらっており、「これに間違いない」と確信されている。物語はそこで終わる。
>>824 戸塚文海が徳川慶喜の侍医であることは、この章でやっと明らかにされている。
良順が可愛がっていた太田雄寧の略歴が書かれている。のちに彼が主宰した東京医事新誌
においては、一時期森鴎外が主筆を務めていた。
渡辺洪基が英語を学んだという箕作麟作とは誰だべ?箕作麟祥とは別人なの?
それとも箕作麟祥の別名か?
撒兵隊の江原素六の戦いは、「市川・船橋戦争」あるいは「船橋の戦い」で調べてください。
クロパトキンはどうして後退戦術が好きなのですか?
>>867 戦力不足の日本がロシアまで前線伸ばすとは考えられないからだろ
第40章 横浜
慶応4年閏4月、伊之助は横浜に到着します。佐藤泰然の紹介で横浜語学所の番人になりました。
日本の内戦により関東の養蚕農家から横浜への輸送が困難になり、イタリアが
新潟開港を強く望んだと書かれている。理由はそのとおりだが、強く望んだのは、
イタリアよりむしろフランス。ロッシュが執拗に交渉している。
幕末に横浜警備をしていた菜葉隊は通称で、正式名称は若菜隊。
佐藤泰然の宅のあった弁天の弁天社は、現在の正式名称は厳島神社。当時は、洲干弁天社で、
通称は「清水弁天」または「横浜弁天」である。
873 :
無名草子さん:2011/12/27(火) 16:18:35.34
山内提雲の妻は、山内千代。なんか聞いたことがある名前だな。
松本良順が主人公なんでクライマックスは会津戦争だとばかり思っていた読者は、
ちょっと拍子抜けするな。
第41章 惨風
伊之助の語学所(横浜仏語伝習所)は官軍に接収され軍陣病院になります。船橋の戦い等の
戦闘で負傷した兵の治療を行いますが、伊之助は医者ではなくウィリアム・ウィリスの通訳とし
て勤務します。他方、江戸では彰義隊戦争が始まります。関寛斎は神田講武所跡に野戦病院
を作ります。
英国公使館付きのシッドールを知っとーる?
ドングルイのドングリ拾い
関寛斎の奥羽出張病院日記が引用され、そのなかに益満休之助の名前が出てくる。
おなじく松方良作という負傷した薩摩藩士の名前も出てくるが、松方長作の誤植である。
>>880 第33章「西の風」では、秘密工作に従事していた益満休之助は、工作終了後は薩摩藩から
冷たくあしらわれ、上野戦争には長州藩兵として出兵したと書かれてあった。
負傷したら三田の薩摩藩邸で関寛斎の治療を受けたんだ。フ〜ン。
益満休之助の死因はテタヌス(破傷風)なんだが、良順も若い頃テタヌス患者を診察した
ことがある。司馬さんはそのことだけ書いて患者の名前は省略しているが、第5章「春風秋雨」
に出ている。ちゃんと調べろよ。旗本・大久保甚右衛門の用人・増田徳右衛門(40歳)だ。
関寛斎の記念館が旧陸別駅にあるよ
酷寒の地でよく頑張ったな
884 :
無名草子さん:2011/12/28(水) 13:19:06.76
>>880 >松方長作の誤植
複数の文献に当たったのか?君の調べた資料が誤りという可能性はないの?
伊之助が語学塾春風舎を設けたのは大槻俊斎宅跡であるが、隣家の手塚良斎という医者は
漫画家・手塚治虫氏の祖父らしい。
>>885 手塚治虫さんの祖父は手塚太郎という方で、長崎控訴院長をつとめ、関西大学の創立者の一人。
887 :
無名草子さん:2011/12/28(水) 15:06:30.42
第42章 西風東雨
会津落城。松本良順は落城の1ヶ月前に会津を離れ横浜のスネル館に潜伏しますが、
父の泰然に勧められて自首します。
他方、官軍の軍医・関寛斎は居丈高な薩摩閥に愛想を尽かし辞表を提出、阿波に帰ります。
会津の軍陣医部では切断手術は良順ではなく名倉知文がやっていたと書かれている。
名倉知文は良順が医学所から連れてきた弟子で、旅立ち前に深川の妓楼・大黒屋で
遊んだときの弟子の一人である。
第39章「脱出」では、
>>864の渡辺洪基の名前しか出ていなかった。
「峠」で河合継之助とも関係の深かったスネルが、この小説でも登場した。
山路愛山の父が彰義隊で、明治後も天朝の捜索の手が厳しく逃亡を続けた旨が書かれている。
父の名は山路彰善。幕府の天文方であった。
>>890 政治犯である松本良順を自分の館に匿うという重要な役だな。
しかし、外国人居留地は治外法権なのに、どうして日本の警察がスネル館で良順を
逮捕できたのだろう?
>>892 良順は外国人ではないから、日本国の主権に服する。国内法で犯罪者に当たる日本人が
治外法権の地域に逃走しただけだから、その逮捕のために外国人居留地に踏み込むことは
可能なんじゃないか?外国公使の承諾は必要なのかもしれないが。
榎本武揚は、佐藤泰然の孫の多津の婿である。泰然の娘つるは林洞海の妻、その娘が多津。
このことはすでに第37章「阿波から」で説明されているが、そのときは多津を「たつ」と表記していた。
ドラマ「五稜郭」では、次のような配役だったな。
榎本武揚 (釜次郎) :里見浩太朗
榎本多津 (武揚の妻) :浅野ゆう子
佐藤泰然 (多津の祖父):森繁久彌
林洞海 (多津の父) :田村高廣
林つる (多津の母) :久我美子
林董三郎 (のちの薫) :野村宏伸
松本良順 (多津の叔父):石立鉄男
山内六三郎 :宮田恭男
益満休之助 :平泉成
梁田右衛門 :下川辰平
関寛斎が辞表を出した相手は、大村益次郎な。
松本良順に米国への亡命を勧めた公使デロングは、翔ぶが如くではデ・ロングと表記されている。
征台の役のところで活躍した。
佐藤桃太郎を、司馬さんは佐藤泰然の甥としているが誤り。
祖父は江戸詰めの庄内藩医・佐藤然僕(ねんぼく)、その長男・信継の長子が桃太郎である。
司馬遼太郎と交友のあったお客様を
「それがなんなんやろ、凄いっていってほしいんやろなぁ
司馬遼太郎と知り合いやったからってだからなんなんってかんじー」
とアホの上司が嘲っていた
ああ、今思い出しても腹が立つ
ぶん殴りたい
日本人としてぶん殴りたい
ハードカバーの本の角でぶん殴りたい
もちろんこの上司は、司馬遼太郎を読んだことはないだろう
でも、あの下品な顔を目の当たりにして、自分はもっと勉強しよう、本を読もうと思った
歳をとってからの頭の悪さは本当に恥ずかしい。
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> わりとどうでもいい <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^^Y^ ̄
ヘ(^o^)ヘ
|∧
/
第43章 東京
江戸が東京と改称され、慶応も明治と改元されました。
野戦病院の機能を果たしていた旧医学所(大病院)は、大学東校と改称され、
イギリス医学からドイツ医学への転換が図られます。
受験日本史で覚えさせられた大学東校と大学南校。どこを基準に東と南なのかを
知りませんでしたが、この小説を読んで初めてわかりました。
どこよ?
相良知安によるドイツ医学への転換の背景に、薩摩閥と肥前閥の対立があったのは知らなかった。
それにしても相良知安は、江藤新平ほどではないにしても、悲惨な末路をたどっているね。
変人の伊之助が結婚していた事実を知って、少なからず驚いた俺
平戸で生まれた長男の司馬亨太郎は、有名なドイツ語学者だよ。この小説では、少年時代、
ホフマン夫人にドイツ語を習ったことが書かれてある。
ちなみに伊之助は長男を実家に託けずに、自分で引き取っている。
次女の喜多文子は、この小説には登場しないけど、これも有名な女流棋士。
長女の綾は、戸籍上は絢(あや)。綾子と呼ばれていたらしい。
司馬は男前だからな
この章のしめくくりは、明治6年初夏、征韓論で大久保に敗れた西郷隆盛をホフマンが
診察する場面。通訳は伊之助だったので、伊之助も西郷を身近に見ていたことになる。
やぶにらみじゃないの?
>>911 西郷に征韓論を強行に迫られて病気になった三条実美の診察をしたのもホフマンだね。
佐藤尚中も同行している。
>>907 司馬亨太郎は、しばりょうたろうと読むのかと思っていたら、こうたろうなんだね。ガッカリ。
;;; ∧∧ ...__≡=- / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.ィ ;;;;.ィ;;;;(゚Д゚ ) ヽ ≡=- < 走れ!コータロー
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第44章 陸別
関寛斎が官軍に辞表を提出して大病院を去った明治元年から、服毒自殺する明治45年まで
を駆け足で語っています。その間に明治12年の伊之助の死も語られます。
放免後出世した松本良順は、もうどうでもいいといった感じですね。司馬作品における山県有朋
の扱いと変わりがありません。
関寛斎と司馬凌海は、ドラマチックに死なせているが、良順は年表を掲げただけだな。
徳富蘆花の口を借りて、良順に嫌味さえ言っている。
登場場面の多さでは松本良順が主役と言っていいが、三人の死の場面を比較すると、
良順はどうでもよかったみたいだな。幕末史を通覧する必要上、佐渡や阿波に引きこもった
伊之助や寛斎ではやりにくい。江戸や京都にいることが多かった良順ならそれが可能。
そのためだけに主役にしたみたいだ。
>>918 伊之助だけでも一本小説を書けるんだろうが、読者は司馬さんに幕末通史を期待してしまうからな。
その期待に応えたという側面はある。
まあ、この小説は特定の人物を描くというよりも、江戸時代の身分制に迫ってゆくのが目的みたいだから。
あまり取り上げたことのない穢多の話なんかが出てきたのは、そのためだろう。
主要登場人物の最期は、まああんなものだろう。関寛斎と司馬凌海は、もともとドラマチックな死様
だから、そのとおりにした。
伊之助が死の直前に『荘子』の「荘周夢に胡蝶になる」を思い出す。
宿の番頭に住所を訊かれ、はじめは司馬凌海となった後の江戸の住所を喋るが、
息をひきとる前には、「佐渡新町、農、伊之助」とつぶやく。
ここは感動的だね。
「荘周夢に胡蝶になる」と上手くリンクしているしな。
>>919 司馬凌海は、比較的に若死。
関寛斎は長生きしたけど、最期は自殺。
良順は、逮捕・投獄が1年たらずで、その後は順調に出世。
歴史上の人物は、竜馬や歳三のように、若死にしないと主人公にしにくいな。
生きながらえて、どのような人生を送ったかを考えなくていいからな。
ロマンの対象にしやすい。
陸別は寒いよ
例年2月にしばれフェスティバルという催しがある
零下20℃以下の酷寒を楽しむイベント
924 :
無名草子さん:2011/12/30(金) 13:38:26.59
前章で明治2年創業の丸善の話が出てくるけど、早矢仕(はやし)有的がハヤシライスの
発明者というのは本当なんですか?
>>924 丸善の広報担当者は、そのように言っておる。ハヤシライスの名前の由来については、
説が五つ以上あって、真相はよくわからない。
後藤新平が司馬凌海の門人だったのも、この小説で初めて知った。
後藤新平は、あちこちで名前が出てくる人だね。
口では関寛斎は陸別の恩人とか言いながら、子孫がいなくなると墓すら守ってもらえないのね。
関寛斎に財産分与の訴訟を起こしたのは孫の大二。
長男生三の次男である。
裁判所の呼び出しに対し、寛斎は息子の一人を代理人として出頭させ、翌日、服毒自殺した。
<あとがきのかわりに> 伊之助の町で
あとがきのかわりにと言っているが、あとがきである。
はじめの数枚は「ます」「です」の話し言葉文体なのに、途中から普通の文章言葉
になる。たぶん話し言葉で書くのが途中から面倒になったのだろう。
>>922 “何かを見たいというのが、私の創作の唯一の動機かもしれません”…(中略)…
“私は、伊之助という少年を見たかったのです”
伊之助の実家は、竜馬の坂本家ほどではないが、比較的裕福な家だった。
ところが北前船が沖乗り可能になって、佐渡に寄港することが少なくなり、
伊之助の新町の商家の繁栄にもかげりが生じた。祖父・伊右衛門は伊之助
に学問で身を立てさせようとする。ところが、伊右衛門の知恵では大量の記憶
を伊之助に強制する以外に学問への接近法を知らない。部屋に閉じ込めて
記憶ばかりさせる学習方法が、伊之助のような変人を産み落とした。
「山姥の家――人間を私有すること」と同じく、戦後のお受験狂いを批判した作品だな。
>>932 「若い訪問客」も、特に“お受験”のことには触れていないが、その結果として生み出された
与一君という感じだわな。
現在もやっているのかどうかは知らないが、この作品が発表された当時、テレビのニュース
で中学受験をひかえた小学6年生が、正月休みを返上して塾の合宿で除夜の鐘を聞きながら
勉強している異常な姿が毎年のように流れていた。
>>933 その10年くらい前までは、“お正月には凧あげて 独楽を回して遊びましょう”という歌詞
のままの正月休みだったのにな。
悪形は、将棋用語ではアクケイ、仏教用語ではアクギョウ、歌舞伎用語ではアクガタと読む。
この短篇の悪形は、歌舞伎用語のアクガタと読むらしい。
富永有隣が主人公であるが、吉田松陰の野山獄での話は「世に棲む日日」で一章を
割いているから、それほど目新しい話はない。松蔭死後の富永有隣は、そんなに魅力的
なキャラでもないし、読んだ人は少ないんだろうな。
>>936 戊辰戦争後の長州藩脱隊騒動については、これと「大楽源太郎の生死」が最も詳しいんじゃない?
938 :
無名草子さん:2011/12/30(金) 19:40:02.52
>>932 北前船の沖乗りのところで、稲妻型に航行する間切り航法を「先切り」と書いて“まぎり”と
ルビを振ってんだけど、そういう書き方もありなの?
国盗り物語の道三の成り上がり方とか
新史太閤記の清州会議などの政治的演出
関ヶ原の謀略など、策略系が好きなんだけど、司馬さんの作品で他におすすめはありますか?
この3つ以外なら播磨灘物語は読んだことあります。
謀略策略系ねえ、パッと思いつくのは「城塞」「歳月」「翔ぶが如く」「項羽と劉邦」あたりかな
関ヶ原を読んだのなら城塞も読むべきだと思う
>>940 うん、城塞はすぐにでも読もうと思ってた
今、他の作者でフランス革命を題材にしたやつも謀略策略盛りだくさんなんで並行して読もうかなと思ってる
歳月か、これは題名すら知らんかったな、今調べると幕末かー
幕末は知識弱いんだよな、でもせっかく紹介してくれたから是非読んでみる
でもそう考えると飛ぶが如くもそうか
幕末って滅びの美学ってイメージでマキャベリストが少ないイメージだったわ
まあそんな中でも遊泳術に長けた奴っているもんだよね
項羽と劉邦はいかにもって感じですぐにでも読みたいね
いかにも人を食った劉邦に期待
>>941 「義経」はどうですかね
政治的欠陥者の義経と政治中心主義の頼朝の対比が鮮やか
後白河法皇とか食えない人物も出てくるし
なるほど、でも義経はあんまり好きじゃないからなー…w
文句いってすまんが
それこそ後白河法皇が主人公とか面白そうだがw
後、北条義時と三浦義村が政治的人間の最高傑作って言ってる人をネットで見かけたけど
意外と戦国以外にも多いんだね。こういう人。
もっと、以前の藤原一族もそうだし。
944 :
939:2011/12/31(土) 13:56:55.21
項羽と劉邦、塩野七生のチェーザレボルジア買ってきました
>>936 野山獄の“野山”は町名だと思っていましたが、長州藩士の野山氏の屋敷跡に建造された
獄舎なので野山獄だったんですね。この小説を読んで初めて知りました。
>>945 かつての長州藩士野山家と岩倉家の屋敷跡だよ。道を挟んで向かいに建つ両家は仲が悪く、
1645(正保2)年、酒に酔った岩倉孫兵衛が、野山六右衛門の家族を殺傷したため、両家とも取りつぶされた。
両家の屋敷は藩に没収され、牢獄になった。
野山獄は上牢として上級武士が、岩倉獄は下牢として庶民が収容された。
「高須久は、被差別部落の人を家に入れ三味線を弾かせたとの罪で入獄していた」という
話しを聞いたことがあるんだが、この小説の高須久とずいぶん違うね。
司馬作品では奇兵隊は身分制を崩壊させ近代の扉を開いたことになっているから、
戊辰戦争後の大リストラについてはあまり語られない。こういう短篇では脱隊騒動
について触れられているが、他作品ではあまり書かれていないな。
鎮圧じ時間がかからなかったせいもあるがな。もっとも「有隣は悪形にて」で興味深いのは
松蔭刑殺後の有隣の物語の部分だけだな。
有隣を出獄させるために必死だった松蔭が気の毒になるな。恩を仇で返すとは、まさに
有隣と民主党。
小器量を絵に描いたような富永有隣は、小説の主人公にはならんだろう。
後味が悪いだけで、何の感動もない。
954 :
無名草子さん:2011/12/31(土) 18:41:13.03
955 :
無名草子さん:2012/01/01(日) 00:17:30.58
>>939 陰謀家、策士が出てくるのは他には
戦雲の夢(長宗我部元親)
項羽と劉邦(張良その他)などがある
元親は「戦雲の夢」じゃなくて「夏草の賦」だよ
957 :
無名草子さん:2012/01/01(日) 15:46:22.57
富永有隣を匿った大石円は、明治10年、愛媛県松の獄に収監されたと書かれているが、
松の獄ではなく、松山の獄ではなかろうか?
なにが嬉しくて新年早々富永有隣を語るんだよ。
司馬キャラの中でも文句なしの最低キャラだろw
澤田正二郎が富岡先生を演じた新国劇の芝居の話が出てくる。
同じく新国劇の島田正吾さんの死亡記事から・・・
平成16年11月26日午前4時45分に、島田正吾は脳梗塞のため死去した。享年98歳。
正吾の書斎の机の上には真山青果作の『富岡先生』の台本が置かれていた。
>>958 もう少し胡蝶の夢を引っ張るか、または逆に早く終わればよかったな。
新春早々富永有隣の話しをするのは、つらいものがある。
>>958 脱隊騒動の後に逃走した富永有隣について、木戸孝允は「放っておけ」の一言だもんな。
大楽源太郎の場合は血眼で追跡したのにw
司馬作品の吉田松陰はめっちゃいい人だけど
けっこう癇性な人とも聞いたことあるけどどうなんだろ
富永有隣よりはいくらかましな大楽源太郎を主人公にした小説
大楽の門人の神代直人らが大村益次郎を暗殺した話を花神で読んでいるから、
それだけで大楽を好きになれなかったな。この小説も同様。大楽のいいところは
まったく描かれていない。冷泉殺しはとくにひどい。
大楽源太郎を「いいやつだったよ」と言っている人もいるんだけど、勝さんだからなw
大楽が師の月性とともに絶賛している勤王僧・黙林とは、宇都宮黙霖のことである。
黙林の名で出ている史料もあるが、一般には宇都宮黙霖。
大楽の実家・山県家は、家老・児玉家の陪臣と書かれているが、児玉若狭のことである。
>>969 児玉若狭なら絵堂の戦いでは俗論党政府軍として出兵しているな。大楽は養子に出された
とはいえ、元来が児玉家の陪臣だから立場は微妙になるね。第二次長州征伐の頃は
西山書屋を開いて戦に出なかったのは、そのせいもあるのかね?
司馬さんは、大楽が単に臆病者の卑怯者だから、という書き方だけどな。
文久3年の将軍家茂暗殺計画のところに出てくる肥後藩士・堤松右衛門は、堤松左衛門かもしれない。
大楽源太郎と肥後藩士・堤松右衛門(松左衛門のこと)が一橋慶喜と直談判するために
訪れようとした慶喜の宿館・東本願寺は、もっと詳しくいうと東本願寺の枳殻邸。
「胡蝶の夢」で何度も出てきたね。