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無名草子さん:
会社員の家庭に生まれる。父親は関西大学を卒業してカネボウに入社したが、慶應閥の会社だったため出世できず、そのため秀樹の母は子供たちに学歴の重要性を叩き込んだ[1]。
1965年、母親の意向で教育程度の高い私立幼稚園に入園。大阪の公立小学校に入学した時には平仮名や片仮名から漢字の一部まで読み書きできるようになっていたため、
大阪市内の名門公立小学校に1年生の2学期から越境入学[2]。
しかし小学校2年生のとき、父親の転勤で東京都練馬区に転居。このとき、小学校で「関西弁、関西弁」と囃し立てられて仲間外れにされる[3]。このため小2の2学期から千葉県の津田沼の社宅に移り、地元の小学校に転校[4]。
小4のとき父親の転勤で兵庫県に転居し、塾に通い始める[5]。小6から伸学社に通い、私立トップ進学校である灘中学校に5番で入学したものの、入学後は勉強しなかったため灘では中の下の成績に落ちてしまった[6]。
灘でも陰湿ないじめを受け、教壇の後ろの大きなゴミ箱に閉じ込められて鍵をかけられ、授業の間じゅうそこに押し込められたこともあった[7]。
その他、泳げないことが知られたときはプールに連れ込まれそうになり、2時間ほどクラブの部室に立てこもったこともあった[8]。
このとき、秀樹の母は「あなたの性格を直さないとどうしようもない」と言いつつ、「どうせあなたは自分を変えられないから、違うところで見返しなさい」と檄を飛ばして得意分野を見つけるよう促した[8]。
灘在学中に解法暗記を中心とした勉強法を開発した。高校2年のとき藤田敏八監督の映画『赤い鳥逃げた?』を観て衝撃を受けたことから熱狂的な映画ファンとなり、高校3年生のときは受験勉強の傍ら年間300本の映画を観賞していた[9]。
当時「1000万映画」と呼ばれる低予算映画が話題となっており、映画製作費を効率的に稼ぐ手段として医師を志し[9]、大学は東大理III、慶大医学部、慶大経済学部への現役合格を果たす。