【チビ厨】和田秀樹22暗記目【かまってちゃん】

このエントリーをはてなブックマークに追加
305無名草子さん
野球を始めたのは、1987年、江南市立藤里小学校1年のとき、地元の「江南団地野球」に入ったのがきっかけ。

1991年、父の故郷島根県出雲市へ転居。父も大学時代日体大で活躍し、首都大学野球連盟リーグの首位打者1度・ベストナインに2度選出されている。実兄は立教大学で活躍した。
高校時代浜田高校のエースとして、1997年度の全国高等学校野球選手権大会に2年生エースとして出場。初戦でエース・石川雅規を擁する秋田商と対戦。9回同点から満塁策をとるが、続く打者石川も歩かせてしまいサヨナラ押し出しで敗れる。
翌1998年度の全国高等学校野球選手権大会ではベスト8に進出。初戦は富樫和大-加藤健のバッテリーを擁する新発田農に勝利。続く3回戦で森本稀哲を擁する東東京代表帝京高校と対戦、森本に本塁打を打たれるが、試合は3-2で勝利。
次の準々決勝では古木克明を擁する豊田大谷高校と対戦、延長10回3-4で敗れた。この前年の秋に上腕三頭筋を断裂していることもあり、この当時は120km/h程度しか出ていなかったが、帝京高校の選手は「150km/hに見えた」と証言している[1]。

早稲田大学人間科学部に進学。1年秋、9月12日の東京大学戦で東京六大学初登板。同級生のトレーナーと試行錯誤を重ねて、フォームにさらに磨きをかけた。
それにより高校時代には130km/hにも満たなかった球速が2か月で140km/hを超えるまでになっている。2年春から先発陣に仲間入りし、群を抜くペースで三振を奪い話題を集めた。また、打撃に優れ、高校時代はクリーンナップを打った。

2002年には江川卓の持っていた東京六大学野球連盟奪三振記録443を更新し、通算476奪三振にまで記録を伸ばしている。早稲田の「ドクターK」と呼ばれ、
プロ注目の投手として各球団が争奪戦を展開した。なお、この世代には他大学にも好投手が揃っており、法政大学の土居龍太郎・慶應義塾大学の長田秀一郎・立教大学の多田野数人らとしのぎを削っていた。