北方水滸伝・楊令伝を語ろう第四十六章

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719無名草子さん
国民の8割が自分を中流と思っていた飽食の時代には、欲望のほとんどはカネの力で解決された。
物語に求められるようになったのはカネの力では実現できない妄想をフィクションで示してくれる
ことだったのだろう。妄想というか趣味も多様化した。ハードボイルド小説というのも、そのような
趣味の多様化の中で咲いたあだ花だったのだろう。
ところが時代は変わった。平均所得は下がり、資産のある人も将来不安から消費は控える。年間の
自殺者数は増加するばかり。ベタな情緒を丸出しにして傷を舐めあうような感傷的なものは望まないに
しても、楊令伝のように、善良な民を皆殺しにして痛痒を感じない情操欠如のキチガイが次々に登場
する物語が受け入れられる状況ではない。少なくとも、作中に幻王を批判する人物がいなければ、
読んでいても腹が立つだけ。
たとえるならば、オウム事件を素材にした小説で、事件を追う刑事の性格が、麻原そっくりな小説を
読んでいるようなものだからな。読者は、いったい作中の誰と同一化して、物語に参加すればいいのだ?