宋の帝や廷臣は、意識して軽く扱われただろう。金国の帝呉乞買のションベン事件も、同様の
文脈で捉えるべきだ。
水滸伝のときから、高Qはバカ扱い。蔡京は第1巻までは重く扱う予定だったような気が
するけど、青蓮寺が本格的に始動しはじめると、軽くなった。
政府の人間ではない祝家荘ですら軽い扱い。
帝や廷臣や国に忠実な人物を軽く扱うことで、なにがしかの快感があったんだろうね。
楊令が帝のいない国を作ると宣言した後で、史進が宣賛に向かって、「おまえだって、帝と廷臣
がいる国しか、国として観念できなかったろう」という件がある。
このはしゃぎすぎの軽薄な会話を読んだ時、率直にいって、子どもが書いているのか、と思った。
12世紀の人間である宣賛はそうかもしれないが、この小説を読んでいる読者は21世紀の人間だ。
(もっとも宣賛は、そんな単純な人間ではないし、楊令糞の思いつきぐらい予測できない人物とも
思えないんだがな。水滸伝の宣賛登場シーンを読み直してもらいたい)
それも配慮して作中人物に台詞を喋らせないと、作中人物がバカに見えてしまう。