「妖怪」を歴史小説の文脈で読もうとすると、わけがわからなくなるな。それらしき部分は単なる読者サービスだ。
司馬さんは作品の冒頭近くで、この作品のテーマは○○ですと自分で言ってしまうことが多いが、
それに慣れている読者は、「妖怪」の冒頭で述べられる「源四郎が将軍になる話」を鵜呑みにして
混乱してしまうかもしれない。そういうストーリーでもない。かといって単純な怪奇譚でもない。
ヒントになるのは、兵法を修めた源四郎が幻術にかかりにくくなる話と(それでもかかってしまうのだがw)、
熱心な念仏信者である堅田ノ入道が、幻術にかからなかったという点だろうか。
私たちの日常は、合理的なものと非合理なものとによって構成されている。
他人が死んで火葬場で骨になったのを現実として認める人間が、神前で拝めば願いごとがかなうと
信じたり、占いを信じたりもする。非合理なものは実在するんよ。夢や妄想も個人的に抱くだけでなく、
共同幻想として多くの人間に共有されていたりする。
「妖怪」の中に出てくる妄想シーンはかなり非常識だけど、その情景を想像することができるということ
自体、読者各人に妄想能力が備わっているということだからな。作中に登場する兜率天の情景など、
共同幻想として多くの人に共有されている。
ただ、ちょっと残念なのは、だからどうした?と、この作品に向かって言いたくなるところだ。
いくら兵法の修行を重ねても、源四郎は最後の最後まで唐天子の幻術にひっかかっていた。
まあ馬鹿は馬鹿のまま死ぬしかないということだな。救いがないんよ。これも厳然たる事実なんで仕方ない。