【ネットなんて】唐沢俊一18【怖くないもん(w】

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「ニュースを疑わないという感性」

唐沢 いいめものクレームについての話はその後どうなったんですか。
岡田 あれについてオフィシャルな場所では全く何も発言してこなかったのは、今日のこの対談で話そうと思ってとっておいたの。
唐沢・編集部 おおー。
岡田 いや、興味深かった。というのは、ぼくは自分のデビュー作から出版社の許可をとりつつ、かなりの内容をネットで公開している。つまり、著作権についてアレコレ言うだけでなく、行動で示してきたつもり。
そんなヤツが「アイデアに著作権がある」なんて本気で思ってるわけがないんですよね。なのでネットで的外れな非難されても、あんまり気にならなかった。
 それより意外だったのは、「ブログの書き手というのは、ネットニュースを疑ってない」んですよね。いかにも怪しげなニュースサイトが一言書いただけで、みんなそれを「岡田が言ったことだ」と信じちゃう。それを元にブログを書く。
しかも、そのニュースサイトの書き方も、明らかに公正さを欠いた偏向っぽいというのは、ブログを書いた人たちだってわかっているのに。
唐沢 「ソースを確認しない」ということはありますね。私の、「新・UFO入門」関係の騒ぎについても、週刊誌はきちんと私の方の言い分を確認してきたけど、ネットでいろいろ論評していた人間で、「唐沢の見解はどうなのか」と尋ねてきた人は一人もいなかった。
私のメールアドレスを知ってるはずの人でもね。まず、唐沢が悪い、という前提から入る。中には「唐沢が言ってることは聞かない」と明言していた人までいた。
岡田 週刊誌もゼロだったし、どこかで記事を読んだ読者から個人的にメールが来るというのもゼロだったの。すごいよね。
唐沢 無名の読者ならともかくとして、著名な作家とか評論家とか名前がある人で今回の件に言及している人も、一切コンタクトしてこないし、そもそも私のサイトも見ない。
真偽を確かめようともせず、叩く側の文面をそのまま引っ張ってきて、それを見た人がまた別の記事を書く、というように拡大再生産している。それだけなんですよね。

「反証責任はヤツにあり」

岡田 どうしてこういうことになるのか、考えてみたんです。自分がここまで叩かれなかったら、こんなに真剣に考えなかったでしょうね。
その意味ではいい機会でした。わかったことはね、彼らは「反証責任は岡田にある」と思っているんですよ。
つまり、「疑いをかけられた」とか「今叩かれだした」とすると、「言われた人は反論するはずだ」と。
  つまり、岡田斗司夫は叩かれた。「それじゃ岡田斗司夫のサイトを見に行こう。もし、やましいことがなかったら反論があるはずだ」「反論がないのはアイツの責任だから、叩かれても仕方ない」となる。
 これは、面白い思考経路だな、と思ったの。おまけに、ぼくは自分が叩かれて、自分がついこの間まで同じ思考経路をたどっているのに気がついた。ぼくも含めて、「ネットをやっている人間はバカになる」なんですよ。
唐沢 確かに、一言で言うとそうなりますね。カゲキだけど(笑)
岡田 ぼくも含めてバカ。ネットはバカの感染力を高める。これが本当にぼくはショックで、しばらくネット断ちしたのはこれが原因なんですよ。
 ネットをやっていると、あまりに情報がたやすく手に入るから、「情報が手に入らないのは、情報を出してくれないヤツの責任だ」と思っちゃう。
唐沢 もう本能的にそう思っちゃうんですよね。「自分に不便」とか「自分の欲しい情報がない」というのは「情報を出さないヤツが悪いんだ」となる。
あまりに簡単に情報が手に入ることに慣れきっちゃったせいでしょうが。
岡田 ぼくが、デビュー作からずっと書いている「自分の気持ち至上主義」というのが、ネットの側から解釈するとどうなるのか、というと、「自分がわからない、知らないのは、相手の責任だ」ということになる。
例えば「わからないのは向こうの説明が下手だからだ」「情報の出し方が悪いからだ」ということになって、「テレビのバラエティー番組はこんなにわかりやすく説明してくれているじゃないか」「学者の説明はわかりにくい、だから学者は頭が悪い」という発想になる。
 これがね、ぼくにとってものすごく衝撃的な事実で、これで一冊本を書こうかと思ってる(笑)
「すべてが祭り」の構造

唐沢 とにかく彼らは、真実の追求だとか、相手の言い分がどうだとかそういうことはどうでもよくて、とにかく「今、その情報がどのような扱われ方をしているか」にしか興味がない。
そして、その扱われ方に乗ることだけを考える。
岡田 彼らは「新しいネタが欲しい」とか「新しい騒ぎが欲しい」「日頃の憂さを晴らす対象を欲しい」と言ってるだけ。
ぼくもこの騒ぎが起こったときに関係者からすぐ言われたのは、「一切情報を出さないのが一番いい」ということ。
それは何でかっていうと、ちゃんと説明して沈静化させることより、放っておいて冷めるほうが早いから、だと。
唐沢 何か言うと、また燃料投下したことになって燃え上がっちゃう。
これまさに私が幻冬舎の法務担当者に言われたのと同じで、「言い訳したところで何もならない。法律上やるべきことをやるだけがあなたの義務で、それ以外には何も義務はないですから」ということを再三言われましたね。
岡田 でも、僕がネットをやってる限りは、それを納得できない。だってぼくもブロガーの一人だから。
つまり、「でもそんなことを言っても、ネットをやっている人はもう何百万人も何千万人もいる」と。「その人たちの信頼を失ったらもうダメじゃないか」と思ってしまう。
唐沢 その恐怖はすごくありますね。逆に書き込む方は、相手のその感覚を利用して、まるで世間全体がこっちのバックについている、というような書き方をするのが常です。
匿名性というのが逆に、その匿名氏がありとあらゆるところに存在するかのような錯覚を起こさせますから。
岡田 ところがですね。ぼくがネットとの距離を置いた瞬間にわかったんですけれど、今、ブロガーと呼ばれているブログを書いている人たちと一般のネットをやっている人たちの間に、温度差がすごくある。
ネットはもはや最先端ではない

岡田 これが今回考えた仮説なんですけれど、5年前まではネットは世界の先端だったわけです。
つまり、ネットで起こることはいつか世界でも起こって、ネットで話されていることが何年かして世間では話されている。
だから、ネット住民たちはネットが世界で最先端だと思っている。この癖が10年くらい続いていて、この5年くらいは思考が完全にそうなっているんだけど。
 だけど、それが最近そうでなくなってきた。そもそも、ネットが先進性を持っていたのは、いわゆるニフティのパソコン通信が最初だと思う。
それが「ネットによると」という言葉をマスコミが使うようになってきたのは3年から5年前。それで、その先進性が危うくなってきたのは2007年の夏。
「セカンドライフ」が日本では流行らなかった。つまり、ネットというのは世界の中の先進的な場所ではなく、「熱心なブロガー」がいるだけで、もしかして現実社会にあまり反映されないかもしれない。
去年の夏くらいから「ネットでの検索一位」というのがあまりCMとか広告に使われなくなった。「続きはネットでね」みたいなCMも増えているだけれど、それに対する批判も増えてきた。
 今たぶん、ブロガーみたいな形で、意見を言ったり聞いたりするためにネットをやっている人よりも、通販とかオンラインチケット購入とか、ホテルの予約とかにネットを使っている人が増えている。
唐沢 そっちの利用が多いでしょうね。私なんかも今、ネットをつなぐ動機はまず、通販利用だもの。
岡田 ブログとかを読んだり書いたり、そういう欲望が人間にはあるんだけれど、それはどんどんケータイの方に移っていってる。
ついにグーグルが、ケータイをベースにしたシステムを作ってる。つまり、「パソコンのネット文化」が世間から遅れだしている。
だから、パソコンのブログを書く人たちの社会的影響力が急激に下がりつつある。
彼らがいる場所はすでに「世界の先端」ではなく「情報世界の最深層」なんです。
「情報的肥満」という病

岡田 ネットの情報というのは「速報性」と「誰でも発信できる」「確認がとりにくい」が特徴です。つまり「早い」「安い」「怪しい」であって、情報のジャンク・フードなんですよ。
ぼくがダイエットしたからこう考えるのかも知れないけれども、ジャンクフードみたいなジャンク情報を摂りすぎると、人間は「情報的に肥満」する。
そして、ネットに関してはみんな最新のモノを集めなければ気が済まなくなってくる。これは完全にネットによる「情報的肥満」。
その肥満症状はネットを断ったからわかったんであって、こんな騒動がなかったらまず気がつかなかった。
唐沢 思うのは、ブログや何かでも、結局世間にちゃんと出ている人間の記録や世間とのつながりでネットの外のことを書くんじゃなくて、ネットの中の情報をネットで書いている。
まさにセカンドライフなんですよ。ネットの中と世間の間には深くて暗い溝がある。しかしそれを、やっている方は気がつかないんですよね。
「ネットというセカンドライフ」が世界のすべてだと思ってしまう。すべての人間が何かをやるときはネットで検索をして、ネットで情報発信ということを求めている、というふうに思っているんだけれど。
 これは前から私、考えていたんだけれど、自分でネットにブログとか書いてある程度評判になったとき、これは社会に自分を知らしめるツールだと思っていた。
けれども、それに反応してくれるのは本当にごく一部の、ネット界の住人だけであって、ネットの外の人たちに対しては大して影響がない。
やはりネットの外に伝えるには非ネットの、出版とかテレビに出るということの方が有効なんです。
元々ネットというのは外(現実世界)からの情報を取り込んで蓄積するはずのものだったのが、ネットの中で情報が生まれ、ネットの中で情報が消費されるという形になっちゃっているんですよね。
 その情報がネットの中にあって、いろいろな人間から人間にコピペで伝達されていき、それが生きて動いている限りはそれはネットの中では「本当のこと」だということになってぐるぐる回る・・・・・・。考えてみれば面白い。
ネットといじめの構造は似ている

岡田 今のネットの最大の目的は何かっていうと、「みんなが何を考えているのか知ること」なんですよ。
『ぼくたちの洗脳社会』の中で書いたんですけれども、「情報社会の本質というのは、情報が流れるのではなくて、情報に対する解釈が流れる社会」、つまり「それをどう思うのか」が流れる。
だからこの場合、「岡田斗司夫は悪いに違いない」っていう解釈が流れるんです。したがって、ネットではネット住人たちが今、どう思っているのかをすぐ知ることができる。
それは「いじめの構造」に非常に似ている。まず、誰をハブにするのか、誰を仲間はずれにするのかっていう「場の雰囲気」つまり「空気」が決まる。
空気によって判断がクラスの中で早めに固まる。そのときに一斉にそいつをいじめ始める。
なぜそいつをいじめるのかという理由もなく、なぜそんなことをするのかという疑問もなく、ただ「みんなの空気」に合わせることが人生の最重要問題なんです。
おそらく2007年の本当の流行語大賞は「空気読めない」ですよね。
唐沢 本当に「KY」(空気読め)が重要視されましたよね。
岡田 だから、いつのまにか、「ネット社会の空気を読むこと」がネット住人たちの最大の目的になってしまった。
でも、それはネット住人だけの話ではなく、おそらく今の日本人の最大の関心事なんですよ。
唐沢 それは、外での人間関係が希薄だからネットの中だけは共有したいという空気なのかな・・・・・・山本七平じゃないけれど、みんなと同じ空気の中にいたいっていう・・・・・・。
しかもその空気を共有していることによって何かが生まれるかというと何もない。「みんなが共有していることが大事」なんであって、その経路であるとか、真実かどうかに関しては全く何も問題にしない。
これはUFO関係の掲示板にデバンカーの人間が否定意見を(もちろん証拠を含めて)書き入れたときの、奇妙に白けた感覚と一致しますね。
みんなが「ある」って意識を共有しているところに、どうして反対意見を書き込むんだ、お前はこの場を壊すのか、という感情ね。
ガセであろうと何であろうと、ネットの中だとそういうひとつの意見を元にした「場」が実現しちゃうわけですよ。
岡田 ぼくらも既にそういうふうになっているんですよ。だから、何か情報がある。
例えばグルメの情報があったり、映画の情報があったりネットで検索する。そうすると、公式サイトを見るんじゃなくて、「解釈の記事」を読んじゃう。
つまり「その店に行った人はどう思っているのか」、もしくは「その映画を観た人はどう思っているのか」とか。
ところが、ネットの中にある情報というのは、映画を観た人とか店に行った人じゃなくて、『「店に行った人の記事」を読んだ人』とか「『店に行った人の記事を読んだ感想の記事』を読んだ人」とかいうふうに、
どんどん「解釈」のほうが増えているから、その「解釈」のほうをみんな「正解」だと思う。
 おまけに、それがもし「不正解」だった場合、「情報元の公式サイトがそれを訂正しないのはケシカラン」という話になっちゃう。
つまり客観的に見ると「訂正責任は被害者の側にある」ということにされちゃっている。
これは人間性が低いからとか、頭が悪いからではなく、「ネット社会が持つ本質的な欠陥」なんですよ。
こういう感性に、ネットに繋がっているといつのまにか伝染して、罹患してしまう。
ぼくは自分が叩かれたからブロガーやネット社会の悪口を言いたいんじゃない。
ネットというものの本質的な構造欠陥の話であり、情報的に肥満してる人というのはその被害者だと思うんです。


ネットというストレス解消システム

唐沢 問題の本質よりも、対応とかそういう方に注意が集まっちゃうんだね。
ケンタッキーフライドチキンでゴキブリを揚げたという話、これはその情報をネットに書き込んだヤツが悪いに決まっているんだけれども、今ネットで炎上しているのは、ケンタッキーの対応についてでしょ。
「あの対応はよくない」とか「問い合わせたときに応対した人間が非常に良くない対応をした」とかそういうことでフレーミングが起こってしまっている。
肝心の「ゴキブリを揚げた」という情報が本当だったのかウソだったのかはいわゆる"悪魔の証明"で、無かったことを証明するのはまず不可能に近い。
でも、みんなはその不可能なことを突きつけて相手が困ることを喜んでいる。
編集部 ケンタッキー自体には大した影響はないんですよね?株価は下がるかもしれませんけど。
岡田 株価は一時的に下がるかもしれないけれど、大した影響がないのはケンタッキーという会社にとってであって、担当の店長とかには影響がある。彼の人生には影響があるかもしれない。
 つまり、「かわいそうな誰か一人を破滅させることによって、みんなに巨大な損は発生せずにストレスを解消できるシステム」として、ネットは存在している。
唐沢 自分たちがやった行為で、誰かが落ちぶれる、仕事をなくす、誰かが高い地位を失う、というのが、彼らの唯一の社会へのつながりなんですよね。
岡田 だって、吉野家のバイトが「テラ丼」(原文ママ)作った話だって、そいつが仕事を辞めなくちゃいけないほど悪いことかって言ったらそうじゃない。
 それで、非難に対する反論責任も反証責任も本人にあって、それも1対100万だから、一人相手にきちんと反論したとしても、100万人が揚げ足取るんだからさ、揚げ足の取りようっていくらでもあるわけだ。
それで、ネットをする人はその構造に気がついていない。
唐沢 だから、今まで生まれてから一回も「食べ物を粗末にするな」ということを言ったことのないような人間、ドリフのコントを笑っていた人間が、今回の件では一斉にそういうことを言い出すわけね。
偶然だけど思想史研究の芹沢一也さんが新聞で言ってました。「自己満足感に浸りつつ非を唱えられる対象を、血眼になって探している」のが今の社会だ、って。

(次号に続く)