司馬遼太郎をあれこれ語る 19巻目

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52無名草子さん
黒鍬者 二

黒鍬者は、徳川体制の下でも、直参として召抱えられていた。
しかし、身分は低く、御家人の扱いさえ受けられなかった。年俸は12俵1人扶持である。
困窮をきわめた素六の少年時代が語られる。
素六の父源吾の教育論が面白い。といっても、彼独自のものではなく、当時の貧乏直参
に共通するものだろう。源吾は、勝小吉に似ている。

「武士の芝居見物ほど見ぐるしいものはない」
「侍の身分として往来で物を食うとは何事ぞ」
「学問を好むは貧乏のはじまり。学問とはそういうものだ」
「佐久間(象山)の塾など、やめよ。名誉の御直参が一陪臣の塾に通うとはもってのほかである」

江戸末期から明治中期の日本人というのは、いまの精神風俗からみて信じがたいほどに親切
であった。とくに有望な若者が嚢中の錐のようにして出てくると、それを宝石のように大切にする
気風があった。素六は、そんな人々に助けられながら、講武所で洋式練兵を学ぶ。

素六は、明治になってから、麻布中学を起こし、教育に情熱を注ぐ。
この稿は、麻布学園の校長代行が横領罪で逮捕された話で終る。
昭和30年代以降の大衆社会的状況は、江原素六ら無数の明治人がつくったこの国の社会を
終末に近づけている、とまとめている。