司馬遼太郎をあれこれ語る 19巻目

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51無名草子さん
黒鍬者 一

江原素六のこと。素六は、幕末、横浜の外国公館の警備隊(通称菜葉隊)を率いた。
「黒鍬者」のタイトルは、江原家が戦国の黒鍬者の家系だったことから付けられた。

司馬さんは、「燃えよ剣」の執筆中、素六について調べた。甲州鎮撫隊が勝沼で官軍と
戦う直前、土方歳三が、菜葉隊に援軍を要請すべく神奈川に向ったからである。
ところが、調べてみると、素六は、この当時、すでに菜葉隊の軍務からは外れていた。
結局、素六を「燃えよ剣」に登場させることはできなかった。

この節度は称賛されてよい。禁門の政変にうっかり西郷を登場させてしまった前歴が
あるわりには、慎重な態度である。最近の作家・脚本家には、この節度を欠いた人が多すぎる。
52無名草子さん:2007/08/25(土) 13:57:42
黒鍬者 二

黒鍬者は、徳川体制の下でも、直参として召抱えられていた。
しかし、身分は低く、御家人の扱いさえ受けられなかった。年俸は12俵1人扶持である。
困窮をきわめた素六の少年時代が語られる。
素六の父源吾の教育論が面白い。といっても、彼独自のものではなく、当時の貧乏直参
に共通するものだろう。源吾は、勝小吉に似ている。

「武士の芝居見物ほど見ぐるしいものはない」
「侍の身分として往来で物を食うとは何事ぞ」
「学問を好むは貧乏のはじまり。学問とはそういうものだ」
「佐久間(象山)の塾など、やめよ。名誉の御直参が一陪臣の塾に通うとはもってのほかである」

江戸末期から明治中期の日本人というのは、いまの精神風俗からみて信じがたいほどに親切
であった。とくに有望な若者が嚢中の錐のようにして出てくると、それを宝石のように大切にする
気風があった。素六は、そんな人々に助けられながら、講武所で洋式練兵を学ぶ。

素六は、明治になってから、麻布中学を起こし、教育に情熱を注ぐ。
この稿は、麻布学園の校長代行が横領罪で逮捕された話で終る。
昭和30年代以降の大衆社会的状況は、江原素六ら無数の明治人がつくったこの国の社会を
終末に近づけている、とまとめている。