で, 自発も含意した「花見客の姿が見られるようになりました」→「花見客の姿が見ることが
できるようになりました」などと統辞論的にも意味論的にもDQNな言い換えをする責任回避な
NHKと追従民放のアフォアナ逝ってヨシな訳です。それにこれじゃア鬼ッ子とは言え血が繋がッてる
ミラレルとミレル、間に割り込む、コトガデキルの言垣(呉用もとい誤用)築いて生木割きだ罠。
ただ,「字が読める」→「字を読むことができる」「私, 字が読むことができません(厨アナ)」と,
可能動詞そのものまで避ける過剰適応な姿勢は反動的で大変宜しい。
尚, 可能の表現というのは方言(地方語ってか)でも格別の配慮を要するのか,
「読書しられる」の代りに「読書出来る」を使う江戸弁, 形容詞「いい」を使う
津軽弁の「読むにいい」, 流音をイ音化や撥音化や促音化して差別化を図る
(嘘です)宮城弁, 話法の助動詞を使うえげれす弁, 可と能と会の他に江戸弁から
借用した出来も使う支那弁などと苦労しているみたいです。
板違いなので少し戻しますと,
(1) 伊藤整氏は岩波文庫『〜の発想の諸形態』所載の, 愛妻を戦災で喪った
作家に言及した文章(名前と内容が想い出せません)他で,「生きる」に限って
「生きれる」形を複数回使っていた。他の動詞では使っていなかったし,
寧ろより伝統的な非可能動詞「行かれない」系も使っていたかも知れない。
(2) 「ラ抜き」を疑え, そして「可能動詞」を疑え, なんちゃって。
「見れる」が, もし仮に, 可能動詞によって乱された, 読まれる・見られるの
響きの対を別の形にせよ回復しようとする意識のなせる業だった場合, 読めるに
目を瞑って見れるだけを責められない。可能動詞さえ出現していなければ!
(3) 「契冲」(契沖も可か?)の「詞の辞書(読む・見るはこっち)」と「辞の辞書(る・らるはこっち)」を
Mac(darwin)や Unix/Linux で使うための界面軟件を作っていたりすると, こういったことがやたら
気になる訳です。
(4) ×さらば ○さばら←洩れのような芳しからぬレスを書く輩でも,前言を翻して
再カキコするに当って下手な言い訳しますた。尚,「洩れ」は『犬3C74派だもの』の
上梓もとい下賜に伴い312Bの字を憚って「4F33れ」を削除して改刻したものです。