【盗作猿】ランディの日記を先取り予想だ!【パクルなよ】

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友人のつなぶちさんの企画なさったツアーで、4月10日からバリに行って来た。とっても
楽しかった。礼拝用衣装もオーダーメイドで作ったし、王族の方々とも会った。バロンダ
ンスも見たし、豚の丸焼きもいただいたし、エステで受けたマッサージは、マッサージに
はうるさい私にとっても感動的で、この上ない極楽気分も味わえた。

だが、今回の旅の主目的は、決して単なる観光ではない。ニュピと呼ばれるバリの新年を、
自分自身で体験するための旅だったのだ。

バリの暦は独特で、サカ歴の元旦がニュピだ。今年は4月13日がそれにあたる。4月にお
正月というのは何だか変な気分だが、暦などは所詮人間が決めたものであるから、いろん
な正月があってもいいだろう。それに、年頭のエッセイにも書いたが、私は元旦の朝の静
謐な雰囲気が大好きだ。静寂をもって迎えると聞いたバリの新年には、だた心が引かれた。

バリは、「神々の島」と言われる。観光案内によると「神々も憩う、不思議が香る島」だ。

人間にとって神様とは何だろう。神様にとって人間とは何だろう。人間を人間として認識
するためには距離と数が関係する。遠い雲の上にいる神様から見ると、人間なんて小さな
豆粒が蠢いているようなもので、じゃなま昆虫の群れにしか見えないのではないだろうか。
かつて神様は、洪水で人類を滅亡させた。神様にしてみれば、蟻の巣にバケツで水をぶち
まけるのと同じ気持の行為だったかもしれない。西洋の神様は恐ろしい。

バリの神様はヒンドゥー教の神様だけど、毎年大晦日にはヤマという地獄の主神の神様が
悪霊退治の大掃除をするというから、おっかない。ニュピの前夜のオゴオゴでは、悪霊の
行列を見ることができる。ものすごいスピードで暗闇を疾走する鬼たちは、それはもう迫
力充分だ。だけどその表情には何だか愛嬌があって、神様に滅ぼされる悪霊達が、少し可
哀想だなあと思えてくる。

ニュピの当日は一切の外出禁止というのにも、とてつもなく厳しい神様達が睨みをきかす
島なのだなあという思いを強くした。外出禁止は、外国からの観光客にも適用され、ふら
ふら通りを出歩いたりすると、島の警官に逮捕されてしまう。もともと静かにバリの新年
を迎えるつもりで来たのではあるが、注意事項の説明を聞いているとめっちゃ厳しいので、
小心者の私はドキドキするばかりだ。
132今さらバリ予想2:02/04/20 12:53
外出も禁止、火や電気の使用も禁止、大きな声を出して騒ぐのも禁止、ついでに食事も禁
止。それでいったい正月に何をするかと言うと、ひたすら断食して瞑想するのだ。

つなぶちさんによると、断食は体内を浄化するためにやるのだという。そんなもので浄化
できるのかどうかはわからないが、彼がそう言うのなら、たぶんそうなのだろう。まあ、
一日くらい何も食べなくても死ぬわけじゃなし、断食明けの豚の丸焼けだけを楽しみに、
すきっ腹をかかえて瞑想することにした。

瞑想なんてするのは久しぶりだ。瞑想の場所は王宮の展望台。すばらしい眺めだ。小鳥の
声だけが聞こえる静寂の中、瞑想をしていると、身体がふっと軽くなり、魂が浮遊する感
覚が訪れる。三日前のムラスティの映像が、脳裏にフラッシュバックする。海と空は溶け
合う青。海で清められて、船で流されていくのは私だ。そして光。始めはぽつんと見えて
いた小さな光に吸い寄せられていく。身体が空を飛び、耳もとでは風の音がごうごうと鳴
っている。光はどんどんと強くなり、そのうち光の洪水の乱反射となって、眩しくて何も
見えない。

ああ、これが神様そのものなんだとわかった。正確に言えば、瞑想から醒めた後はよくわ
かんなくなっちゃったけど、瞑想している間は、すべてが明晰で、神様の圧倒的な気配を
すぐそばで感じることができていたのだ。

実は、私のように、眩しい白い光を瞑想中に見ることができるのは、珍しいことだそうだ。
後で私から話を聞いたつなぶちさんには、えらく羨ましがられた。気をよくした私は、帰
国後も瞑想してみたが、あの白い光を見ることはできなかった。バリの新年だからこそ、
出会えた光だったのだろうか。
133今さらバリ予想3:02/04/20 12:54
たった一日の断食、瞑想、そして祈り。理由はないが、確信した。神様はいるんだ。それ
も、雲の上にぽつんと一人だけいるのではない。私たち人間のいるこの世界に、実はもう、
たくさんいるんだ。そこらじゅうにいるんだ。

だから、「神様が降りてくる」とよく言うけど、あれは間違った言い方かもしれない。神
様は常に私たちのすぐそば、すぐ隣にいるんだけど、人間はよく大切な事を見失うから、
なかなかそれがわからないんだ。

そして神様達は、限りなく寛容で優しい。神の裁きは、人が人を裁くように、罪人を一方
的に非難し、糾弾し、痛めつけるだけの裁きとは、たぶん違うんじゃないかなと思う。一
見厳しそうに思える裁きの数々は、実は大いなる再生のチャンスを私達に与えてくれてい
るのかもしれない。

それに、人が人を裁くのと同じように、神様が人間を裁いたとしたら――。ロクでもない
ことばっかりしている人間たちなんて、とっくの昔に滅ぼされてしまって、この地球上か
らきれいさっぱり消えているはずではないか。

イエス様だって、こう言っていた。
「汝らのうち罪なき者まづ石擲て。」「われも汝を罪せじ。」と。