★産廃物&盗作屋・田口ランディ監視スレ Part19★

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57 【乱D文庫-54】
【文庫54〜57は文芸板に漏出したサイバッチ掲載予定の告発手記
 正式な告発記事は下記のサイバッチで読むことが出来る。
――【サイバッチ!】インデプス 緊急特別寄稿だゴルァ! の003号 [03/01/02]
 http://www.emaga.com/bn/new.cgi?cybazzi または http://www.cybazzi.com 
なお、原文では告発者の実名が出ていたが、ここではランディ側犯罪幇助陣営からの
告発者へのストーカー攻撃を警戒し、告発者名を■で伏せ字にしました。】
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754 :吾輩は名無しである :02/02/28 01:32
by ■■■■■
 わたしがMYCOM PC WEBに連載を始めたのは97年の10月のことでした。あるライターのかたに紹介さ
れたのがきっかけです。PCをネタにからめた軽いエッセイをと依頼されました。当初は試験的に始ま
ったメルマガだったので、何回続くかわからなかったのですが、多少の反応もあったので楽しく書い
ているうちに、担当の編集者と連絡がとれなくなりました。のちにご病気のためと解かるのですが、
その間、ひとりで勝手にちょっとずつネタがPCにあまりからまないものなどを書いているうちに、代
わりの編集者のかたが代理でついて、感想のメールなどを記して送ってくれるようになりました。
 こうして気がつくと新しい担当に替わって、――仮にAさんと呼んでおきますが、彼がこまめに感
想のメールを送ってくれるので嬉しく楽しく、さらに励みに思って原稿を書いているうちに、同じメ
ルマガに新しい連載が始まりました。98年6月のことです。それが田口ランディさんの「ドリーミン
グの時代」でした。

 最初は田口さんをどうとも意識しておりませんでした。ただ、おなじように日常のエッセイという
ことで、ネタに困れば時事ネタに頼ることもあろうから、あまり被らないよう、こちらはPC寄りにし
ておいたほうが無難だろうな――という程度には漠然と配慮していましたが。
 そのうちに、奇妙なことがおこってきたのです。こちらが、配慮しているにもかかわらず、なんと
なくネタが被る感じです。正直、すこしやりにくくなったなと思いました。

太った人が新幹線の座席で横に座ったので、いきおい、身を縮めなくてはならなくなったような――
そのときはそう思っていました。このあたりのことは、感覚的なことのため、原稿をふたつ出して比
べてもらうわけにいかないので難しいところです。
 しかしやがて、これはたんなる偶然ではないのではという疑いが頭をもたげ出してきました。それ
の決定的な最初がこれでした。田口さんが連載をはじめて半年後の、
【第29回】時空を超えるもの
 http://pcweb.mycom.co.jp/column/dream/dream029.html
です。これは、わたしの連載を見守ってくれていた友人のあいだでも、ちょっとした話題になりまし
た。あきらかに田口ランディは■■■■■に喧嘩を売っていると、憤る友人もいました。田口さんが
書いた内容が、わたしの書いたものに対する皮肉になっているのではないかと指摘する声でした。田
口さんにさかのぼること、およそ半年前に書いた、わたしのこのエッセイです。
【第30回】大学のゼミで行った韓国旅行
http://pcweb.mycom.co.jp/column/oshigoto/oshigoto030.html
 こうして比べてみると、たしかに、一部、似た部分はあるのです。

ぺんちゃんとわたしは研究室で知り合った。ぺんちゃんはわたしを毎日ゲーセンに連れていってくれ
た。シューティングのやり方を教えてくれた。落ちゲーのやり方も教えてくれた。格闘ゲームのほう
も教えてくれようとしたけどわたしのおぼえが悪くて挫折した。ゲーセンでお腹がすいたらアイスを
食べるのだと教えてくれた。作りかけのゲームがゲーマーの意見を聞くため置かれることのあるお茶
の水のゲーセンの場所を教えてくれた。ついでにクソゲーという言葉も教えてくれた。しょっちゅう
ゲームのエンディングをみせてくれた。攻略の難しいゲームだと筐体のそばに人だかりができて、そ
ばに座っていると照れくさいけどちょっぴり誇らしいような気分になった。わたしにとってのぺんち
ゃんはゲーセンの師匠である。バイトで授業に出れない時はノートとってくれたし、それからあたし
が水商売のバイトを始めるって言った時は、誰よりも大反対してくれたりしたのだ。引越だって手伝
ってくれたし、しょっちゅう様子を見に来て、貧乏学生のあたしに食べ物とか持ってきてくれた。だ
けど、あたしはなぜかこの子とはつきあえないなあ、って思ってた。まぶしすぎるような気がしたん
だ。自分には。
58 【乱D文庫-55】
755 :吾輩は名無しである :02/02/28 01:33
 このエッセイの、わたしのオチは、「いま思えば、あのときに失恋しちゃったのだと思います」で
終わっているのですが、田口さんの場合は「当時は気付かなかったけど、わたしは本当は愛されてい
た」です。彼女がそれをもって何を伝えたいのかは知りませんが、ただ、相手は、はっきりとこちら
を意識しているのではないのか? しかも悪意を持って、意識しているのではないだろうか。そんな
ふうに感じました。

 にもかかわらず、わたしは自分のその感覚を否定しました。気にしすぎだ。たまたま、たまたまこ
うなっているのだ。
 余談ですが、わたしは小学一年のとき、盗癖のある同級生とおなじ教室になったことがあります。
彼女がはっきりと盗癖を持つと認識されるようになるまでの、教室の、独特の、嫌な感じ――いま思
えば、このときの気分はあれによく似ています。とにかく、教室の中で、モノがよくなくなる。消し
ゴムとか、鉛筆とか、下敷きとか。子どもなのでモノがなくなったと先生に訴えても、
「どこへやったの! よく探しなさい」
と、一喝されてしまう。本人もあまり自信がもてないので、無くしたと思って泣く。当時教室の中
で、幾度もこういう悲しい場面が繰り返されました。わたしの当時の気分は、あのときと、じつによ
く似ています。

 やがて、ぽつりぽつりと、タイトルが微妙に重なる回が出るようになりました。あてこすられてい
るような表現も見受けられるようになりました。(このあたりの資料が必要なようでしたら、のちほ
ど気がつく限り、まとめてお送りしたく思います)。たしかわたしは金曜日で、彼女は水曜日の配信
のメルマガに掲載されていたと思うのですが、だんだんと、田口さんの曜日が近づくのが嫌になりま
した。また、なにか当てこすりのようなことが書かれているのではないか? なにか書けば、また書
かれるのではないか? そう思うだけで、うんざりしました。書く喜び自体も減っていきました。
 わたしはひそかに担当編集者のAさんを恨みました。Aさんが田口さんを連れてきたのは知っていま
した。わたしの軽めのエッセイが、それなりにPC系のメールマガジンの中でも受け入れられるのがわ
かったので、Aさんはもっとエッセイの連載を広げる方向にいって、田口さんを呼んできたのです。
なぜ、この事態を見て見ぬふりをするのだろう? これだけ友人たちが騒いでいるのに、両者の担当
であるAさんが気付かないわけがあろうか? わたしにはAさんの気持ちがわからなかった。感想の
メールをもらっても、以前のようには素直に喜べず、返事も滞りがちになりました。そのうちに彼か
らのメールも減っていった。わたしは孤独でした。
 話はまだ余談になりますが、例の盗癖のある同級生の件です。彼女が決定的に盗癖があると知れた
のは、わたしの買ったばかりのフクロウの形をした消しゴムが無くなった日のことでした。それは真
新しく、当時にしてはちょっと形が特殊で、まわりの子からうらやましがられ、自分でも大事にして
いた消しゴムでした。消しゴムは出てきました、カッターで切り刻まれてバラバラになって周囲の子
の目撃証言により、ついにそうとわかったその日、切り刻まれた消しゴムを手に泣くわたしに、盗癖
のある女の子は憎憎しげに言い捨てました。「買って返せばいいんでしょう?」 その瞬間、担任の
先生がおもわず彼女の頬を平手で叩きましたが、わたしはもっと激しく泣きました。こんな人に、大
事にしていた消しゴムは切り刻まれ、無残な最期を遂げたのだと。幼い頭で、盗癖というのは、悪意
だと知った瞬間でした。
 盗作の、実質上の経済的な被害というのは、たぶん消しゴムや鉛筆や下敷きがなくなったときと同
様、そう多くはないのです(注:藤森直子さんの場合は別ですが。彼女にはかなりの実質的な被害が
あったようにわたしは見ています)。微々たるものですが、それよりも、大事なものを、悪意をもっ
て切り刻まれている――その苦痛が、本当の意味での被害なのです。
 田口さんの連載が始まって1年半後の1999年12月、わたしはAさんからの電話を受けました。年明
け、田口さんの呼びかけで新年会を行なうからお越し願えませんかと。
(ついに来たな)
59 【乱D文庫-56】
756 :吾輩は名無しである :02/02/28 01:34
 なんだかそんなふうに思ったのを憶えています。これがわたしと田口さんが初めて顔をあわせたと
きでした。最初で最後になりましたが――。ですので、すこし話は横にずれますが、Webで誤解され
ていたように、わたしがランディさんと旅行したという事実はないのです。念のため申し上げます
と、【第22回】旅のテンションを生きる http://pcweb.mycom.co.jp/column/dream/dream022.htmlに
おいて、田口さんが他人のフィジカルな欠点をさらし者にしたあげく、エッセイ集に収録するにあた
ってたいへん悪意ある加筆を行なったと非難を浴びていた一件です。わたしはたしかに視覚障害とい
うことでは保因者ですし、薬学部も中退していますし、当時の仕事としてはテクニカルライターと呼
ばれるのがいちばん近いようにも思いますが(Aさんにはこのあたりの話はしていたかもしれません
が)、それはたぶん不思議な偶然の一致というもので、わたし以外にモデルにされた別のかたがい
らっしゃるのではないかと思われます。
 さて、当日を迎えて。
 実際、それは不思議な新年会でした。当時MYCOM PC WEBには外部のライターが7〜8人ほど連載を
持っていたのではないかと記憶していますが、集まったライターは、わたし、それに田中宇さん、そ
して田口ランディさんの3人でした。(この一件については田口さんがご自分のコーナーに書かれた
ため、他のライターの人が連載中の文章に冗談めいた口調ではありましたが、「わたしは仲間はずれ
ですか」と憤って見せたほどでした。配慮に欠けたことをする人だと思ったものです)
 MYCOMの数名の編集者とともに、総勢6名の新年会が始まりました。わたしは終始、無言で背中をま
るめて運ばれてくるものを食べ続けました。田口さんはAさんの肩を叩き、大きな声で言いました。
「Aはさあ、あたしに昔から約束してたもんね。僕が偉くなったら、田口さんに必ず原稿を依頼にい
きますって。待っていてくださいって。約束を果たしたね。偉い偉い」
 Aさんは照れたように笑っていました。ふたりは田口さんがNIFTYでフォーラムを持っていたときか
らのお知り合いだという話で盛り上がっていました。わたしはとにかく食べていました。やがて田口
さんがわたしに話を振りました。
「■■さんは何が書くきっかけだったの?」
 わたしは、かいつまんで、自分の恩師の話をしました。もともとはその手の運動に携わっていた人
でしたが、わたしに文章を書く喜びを教えてくれた人です。脳死・臓器移植に関する本の著者でし
た。引きこもりになったわたしを唯一心配してくれた人です。すると田口さんは吐き捨てるように、
「うわあ、嫌だ。バカサヨに可愛がられたんだ」
と言いました。自分自身への攻撃は耐えられても、自分の愛する周囲の人間への攻撃というのは耐え
難いものです。無言で悔しさを我慢するのに精一杯でした。
 ふたたび田口さんはAさんやほかの出席者と声高におしゃべりを始めました。
 やがてお開きの時間が来て、田口さんはわたしに、
「もっと話がしたかったけれど」
と言いました。
「わたしもです。もっとお話をおうかがいしたかったすね」
 機械的に言いました。すると、田口さんはふいに目を光らせて、
「どんな話が聞きたかったの? あたしから」
と尋ねました。瞬間、頭が真っ白になったのですが、自分の口から出てきたのはこんな言葉でした。
「お兄さんはどうして亡くなられたのですか?」
 「コンセント」を書かれる以前の話です。彼女が、原稿中でなにか物言いたげなことは気付いていましたので。
 田口さんはちょっとぼおっとした顔になって、それから淡々とお兄さんが亡くなるまでの経緯を話
されました。そしてふいに湯河原に帰るといって、店を出て駅の方角へと歩いていかれました。
 残されたわたしは、田中宇さんたちと二次会の会場へと向いました。
60 【乱D文庫-57】
757 :吾輩は名無しである :02/02/28 01:35
 すこし飲み直しするつもりでした。
「ズブロッカをロックで」
と注文すると、田中さんが驚いたような顔になりました。なぜ、飲んだ酒の名前まで書くかといえ
ば、「コンセント」の主人公がズブロッカをロックで飲むんですね。わたしはもう小娘のころからこ
れが定番なので――だいぶ気になったからです。なにもかも偶然が重なりすぎるのが悪いのでしょう。
 飲んでいると田中さんが話し掛けてこられました。このときにはじめて田中さんの名前と顔が一致
しました。名刺を交換していたはずなのに、すこしも田中さんの存在が認識されていなかったので
す。自分でも驚きました。田中さんは、すこし気を悪くされたようでした。言い訳をすれば、それほ
ど田口さんと会うということだけに集中しなくてはならない、当時の緊張状態があったのです。わた
しはわびて、田中さんとすこしのあいだ談笑したと思います。
 しかし、このあと、忘れられないことをわたしは田中さんから告げられるのです。
 田口さんと親しくされているという田中さんはこう仰いました。
「きょうの田口さんの目的はあなただよ。田口さんはここに来るまえに言っていたんだ。『彼女は書く
ことに関して、精神的に問題がある。だから書くものがパッとしない。わたしが助けになれたらと思う』」
 まがりなりにも一人の筆者として生きている人間に、これほどの屈辱があるでしょうか。
 わたしは帰ってから、友人数名にこの話をいたしました。彼らが死ぬほど憤ってくれたのが、当時
の救いでした。

 これから1年ほど連載を続けて、わたしはMYCOMの連載をやめる日を迎えます。わたしはエッセイ
でパクられないものをと焦るあまり、連載を切り替え自伝ぽいネタを書いてみたり、最後は社会派の
ネタに挑むといってクローン牛のことを取り上げてみたりと、わけのわからない方角へと突き進んで
いきました。精神状態は最悪でした。締め切りがくると一人で布団の中で泣いたりしていました。A
さんとの関係もまた最悪になりました。わたしはつまらないことでAさんと言い争い、連載を降りる
ことにしました。最後にAさんに尋ねました。
「どうして編集者として田口さんからわたしを守ってくれなかったのですか? それが辛かった」
 すると彼は、何を言われているのかわからないと言って、さらにこう付け加えました。
「僕が田口さんに何か言えると思いますか?」
 これが答えでした。
 その後、自分にも数社から書籍の話がきたりして、とにかく書かなくてはいけない状況になったこ
とも手伝って(これは幸いでしたが)、田口さんのことは極力忘れようと努めてきました。もっと
も、忘れようと努力してもなかなか忘れられるものではありませんでしたが――。やがて田口さんの
盗作が囁かれ出して、ある人からはっきりとその噂を教えてもらった日のことは忘れられません。
(ああ、やはり)
という思いでいっぱいでした。そして2ちゃんねるで多くのスレッドを目にして、わたしは心底ホッ
とため息をついたのです。自分の頭のほうがおかしいのではないかと疑いつづけた日々は終わったの
だと。わたしは、Webの多くの名無しさん、そして貴誌のおかげで助けられました。本当にありがと
うございます。次はどうか、他の被害者の方々を助けて差し上げてください。わたしも及ばずなが
ら、力になれたらと思います。

 #最後に――もう一つ、後日談を。
 どこの出版社とは申しませんが、ごく早い段階で、このように言われました。
「そして、書籍ができあがったとしてそのときには――田口さんに帯を書いてもらいますか?」
 一瞬、凍りつきました。もちろんこの件についてはお断りしました。
 これもまた、偶然だろうと思います。