>>170 >「ヒーくん!」
一瞬、呼吸が止まる。聞きなれない少女の声だったが、その呼び方はいやというほど覚えている。
胸の痛みとともに、軽い眩暈。頭を押さえて耳によぎった声を振り払い、広彦はトラックが去ったのとは反対のほうへ視線を向ける。
少し離れたところにダックスフントを連れた少女が立っていて、目が合うなり空いている手をぶんぶん振り始めた。
背中まで届く波打つ栗色の髪に、すらりとした小柄な体。小鼻が少し上を向いた、まだ幼さの残る童顔。オレンジ色のスキニーパンツと、丈が長めで肩口の開いたトレーナーという格好に、クマの顔を象ったショルダーバッグをかけている。
少女は犬を引っ張るようにして駆け寄ってきた。遠目にはわからなかったが、左目の下に小さな泣きボクロがある。
「わー、やっぱりヒーくんだ。わー」
やたらわーわー言いながら顔を近づけてくるので、広彦は思わず後ろへ下がった。少女はきょとんとし、ついで悲しそうに眉間にしわを寄せた。
「まさか、あたしのこと忘れちゃった? もう覚えてない?」
「如月都津(キサラギツツ)」
それだけ、呟くように答える。たちまち、日の光が差したかと思うほど少女の表情が明るくなる。
「そうだよ、都津だよー。覚えててくれたんだね。わー」
お花畑が見えそうな勢いでくるくる回りだす飼い主を、犬の方はつぶらな瞳で見守っている。都津はすぐにハッとして回るのをやめ、体に巻きついたリードのロープを真っ赤になって回収にかかった。
「ちょっと待って、ちょっと待ってね。行かないでね」
「犬、飼ったんだ」
「中学校に入る時に知り合いのおじさんからもらったの。いま四歳」
都津はロープを取り終えると、乱れた髪を撫でつけ、前髪を留めていたピンをつけ直した。イチゴの飾りが髪の上で少し揺れた。
昔の面影を残した幼馴染の笑顔から、広彦は思わず視線をそらした。
「このアパートに引っ越して来たの?」
「こっちの高校に入ることになったから」
「どこ?」
「舞花学園」
都津は目を見開き、口をOの字型にした。
「舞花? あたしと一緒だー」
ここはもっと強い印象を。