>>170 >広彦は両手を頭の後ろへ回して唇を尖らせた。秋は笑ってテレビを指差した。
「テレビを消して。もうお父さんも帰ってくるから」
言い終わらないうちにチャイムが鳴った。春彦だ。広彦はリモコンを放り出し、廊下へ飛び出した。
「おかえり!」
玄関扉を開けると、外の空気はいっそう冷たくなっていた。だが、ひやりと背中が冷えたのは寒さのせいだけではなかった。
見慣れた父のかたわらに見慣れない少女が立っていた。
年頃は広彦と同じだろう、長い髪をツインテールにした可愛い女の子だ。しかし、つぶらな黒い目は奇妙だった。鉱物を思わせる、作り物めいた冷たさがあった。
「こんばんは」
まるで花咲くように、にっこりと笑う。けれど、その目は冷たいままだ。
「あら、その子は?」
エプロンを脱いだ秋が廊下をやって来る。
「ちょうど門のところで会ったんだ。広彦の学校の友だちだって。何か用があるそうだよ」
「こんな時間に、一人で?」
秋は驚いたように少女を見たが、すぐにリビングを指差した。
「ちょうどご飯ができたから、食べていったらいいわ」
しかし少女は笑みを引っ込め、首を振った。視線はずっと広彦へ向いている。
「あんたが総上広彦ね」
姿に見合った可愛らしい声は、ひどくすさんで張りつめていた。
「初めまして。さようなら」
ぞっと全身の毛がそそりたつのを広彦は感じた。本能的な恐怖を感じて勢いよくドアを閉じ、鍵をかける。
どんと、凄まじい衝撃があって空気が震えた。アルミのドアがひしゃげて砕けたガラスが飛び散った。秋が悲鳴を上げたが、長くは続かなかった。
気づくと倒れていた。視界の半分が赤い。まだ靴をはいたままの春彦の足がすぐそばにある。だが、そのかたわらに眼鏡の取れかかった頭が横たわっているのはなぜだろう。手を伸ばして父に触れてみようとしたが、体が動かなかった。口の中がピリピリしたし、体中が痛かった。
ドアがなくなった玄関の向こうに、少女の姿はない。代わりにトラが広彦を覗きこみ、ざらざらした舌でしきりと頬をなめている。
そのうち近所の人の姿が見え始め、サイレンの音が近づいてきた。トラの姿はどこかへ消え、いろんな顔と手が自分を覗きこみ触れるのを感じた。
「ああ、ひどい」
「子供はまだ息があるぞ」
「かわいそうに、こんな……」
赤い回転灯が人々の頭上で輝いているのをぼんやり見ながら、広彦は気を失った。
これをもっと早く持ってくる。