1 :
この名無しがすごい!:
教えて。
あぼーん
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。
三島由紀夫「家庭裁判」より
真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。
三島由紀夫「招かれざる客」より
若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
三島由紀夫「絹と明察」より
若い女といふものは誰かに見られてゐると知つてから窮屈になるのではない。
ふいに体が固くなるので、誰かに見詰められてゐることがわかるのだが。
三島由紀夫「白鳥」より
ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである。
三島由紀夫「反貞女大学」より
愛から嫉妬が生まれるやうに、嫉妬から愛が生まれることもある。
三島由紀夫「反貞女大学」より
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
三島由紀夫「女の友情について」より
10 :
この名無しがすごい!:2010/03/06(土) 10:40:57 ID:YNANV0do
大ていわれわれが醜いと考へるものは、われわれ自身がそれを醜いと考へたい必要から生れたものである。
三島由紀夫「手長姫」より
11 :
この名無しがすごい!:2010/03/06(土) 10:41:47 ID:YNANV0do
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。
三島由紀夫「三熊野詣」より
12 :
この名無しがすごい!:2010/03/06(土) 10:42:27 ID:YNANV0do
自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
三島スレになっとるじゃないか・・
14 :
この名無しがすごい!:2010/03/07(日) 17:02:10 ID:DCZeJzNo
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。
男は愛することにおいて、無器用で、下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに無恰好である。
どうしても「愛する」コツといふものがわからないし、要するに、どうしていいかわからないのである。
先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。
どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、そこには何か有無を言わせぬ力がある。
男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、女の場合は純粋な精神力である。
どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。
非常に美しい若い女が、大金持の老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、
それはまちがつてゐる。
打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。
三島由紀夫
「愛するといふこと」
15 :
この名無しがすごい!:2010/03/07(日) 23:56:53 ID:DCZeJzNo
機関車を美しいと思ふやうでは女もおしまひである。
三島由紀夫「女神」より
16 :
この名無しがすごい!:2010/03/11(木) 17:13:38 ID:7Ubgzzut
日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたつて、それはもう自由思想ではない。
それこそ真空管の中の鳩である。
真の勇気ある自由思想家なら、今こそ何を措いても叫ばねばならないことがある。天皇陛下万歳!この叫びだ。
太宰治「十五年」より
17 :
この名無しがすごい!:2010/03/14(日) 23:37:45 ID:r9ADAsTA
不美人のはうが美といふ観念からすれば、純粋に美しいのかもしれません。
何故つて、醜い女なら、欲望なしに見ることができますからね。
三島由紀夫「女神」より
18 :
この名無しがすごい!:2010/03/17(水) 13:52:51 ID:t+W4AgTs
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫
「班女について」より
「ありのままのわたしを見てください!」
なんつーセリフをウリに使ってもいいのは、
ハダカに自信のある若くて美形な男女だけである。
久美沙織『これがトドメの新人賞の獲り方おしえます』(徳間書店)より
20 :
この名無しがすごい!:2010/03/18(木) 15:04:04 ID:MFUZKxFc
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。
まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。
三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より
21 :
この名無しがすごい!:2010/03/18(木) 15:15:33 ID:MFUZKxFc
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。
三島由紀夫「冷血熱血」より
22 :
この名無しがすごい!:2010/03/18(木) 15:20:32 ID:MFUZKxFc
愛は絶望からしか生まれない。精神対自然、かういふ了解不可能なものへの精神の運動が愛なのだ。
三島由紀夫「禁色」より
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。
詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
(中略)
小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。
三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、
練習は必ず毎日やらなければならぬといふことである。
三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。
自分がはたして誠実であるかどうかについてもたえず疑つてをります。
三島由紀夫「青春の倦怠」より
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。
三島由紀夫「文学とスポーツ」より
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。
温和な、やさしい、典雅な美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足して
ゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。
三島由紀夫「美しきもの」より
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ関係を持つてゐる。
そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもないニヒリストであつた。
日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか
できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。
三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者への手紙」より
都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に媚びることである。
他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。「御人柄」などと云つて
世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に
適しない役を演じたのがきらひだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。しかし弱点をそのまま強味へ
もつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。(中略)
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。
生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには
本当の病人の資格がない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々この鎖帷子が自分の肌を
傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを
「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようとしてゐるところかもしれないのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。
三島由紀夫「暁の寺」より
神は人間の最後の言ひのがれであり、逆説とは、もしかすると神への捷径(しようけい)だ。
*「捷径」の意味…近道
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
悪魔の発明は神の衛生学だ。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられてゐるやうなものだ。
三島由紀夫「暁の寺」より
生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間といふものだ。
三島由紀夫「美しい星」より
あらゆる改革者には深い絶望がつきまとう。しかし、改革者は絶望を言はないのである。
絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力であるにもかかはらず、彼らの理想は
その力の根絶に向けられてゐるからである。
三島由紀夫「美しき時代」より
明日を怖れてゐる快楽などは、贋物でもあり、恥づべきものではないだらうか。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか?
三島由紀夫「仮面の告白」より
あらゆる英雄主義を滑稽なものとみなすシニシズムには、必ず肉体的劣等感の影がある。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは一つもない。
三島由紀夫「第一の性」より
この世界には不可能といふ巨きな封印が貼られている。
三島由紀夫「午後の曳航」より
死といふ事実は、いつも目の前に突然あらはれた山壁のやうに、あとに残された人たちには思はれる。
その人たちの不安が、できる限り短時日に山壁の頂きを究めてしまはうとその人たちをかり立てる。
かれらは頂きへ、かれらの観念のなかの「死の山」の頂きへかけ上る。
そこで人たちは山のむかうにひろがる野の景観に心くつろぎ、あの突然目の前にそそり立つた死の影響から
のがれえたことを喜ぶのだ。しかし死はほんたうはそこからこそはじまるものだつた。
死の眺めはそこではじめて展(ひら)けて来る筈だつた。光にあふれた野の花と野生の果樹となだらかな起伏の
景観を、人々はこれこそ死の眺めとは思はず眺めてゐるのだつた。
三島由紀夫「罪びと」より
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。
三島由紀夫「虚栄について」より
私たちにとつてマルクスの恐るべきは、マルクスそれ自身ではない。マルクスを囲む凡俗が恐るべき標的なのだ。
思想とは凡俗の頭脳に食ひ込んで彼らを殺してゐる悪をいふのである。
横光利一「詩と小説」より
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けやうのないもので
辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義。
三島由紀夫「天人五衰」より
…遠いところで美が哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向こうで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。
人間の肉体にそれが宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。
三島由紀夫「天人五衰」より
空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。
三島由紀夫「小説家の息子」より
必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。
三島由紀夫「暁の寺」より
変り者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。
三島由紀夫「第一の性」より
芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのである。
三島由紀夫「日記」より
幸福がつかのまだといふ哲学は、不幸な人間も幸福な人間もどちらも好い気持にさせる力を持つてゐる。
三島由紀夫「スタア」より
告白癖のある友人ほどうるさいものはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座」より
われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用することと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
処女だけに似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。
それは成熟した女の淫蕩とはことかはり、微風のやうに人を酔はせる。
三島由紀夫「仮面の告白」より
言葉に対する不信が、そもそも自分の言葉を持たぬ者、ただの一度も言葉に信念の根拠を置かなかつた者から
発せられたことがまちがひだつたのだ。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。
これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、明らかに政治的意図があつて、先進工業国における
革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
…手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。
被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、民族主義を領略しようと企てるであらう。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
なんという三島由紀夫スレ
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。
三島由紀夫「第一の性」より
動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。
三島由紀夫「第一の性」より
変はり者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。
どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からはどう見ても無意味なものに対して、
頑固に忠実にありつづける。
三島由紀夫「第一の性」より
相容れないものが一つになり、反対のものがお互ひを照らす。それがつまり美といふものだ。
陽気な女の花見より、悲しんでゐる女の花見のはうが美しい。
三島由紀夫「熊野」より
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より
文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。
三島由紀夫「秋冬随筆」より
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評なのであります。
三島由紀夫「反貞女大学」より
芸術家といふのは自然の変種です。
三島由紀夫「反貞女大学」より
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。
僕らの肯定は諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。
――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。
なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。
一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。僕らは止められてゐる。
僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。
僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らはたえず僕らを
無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。
決定されてゐるが故に僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。
三島由紀夫「わが世代の革命」より
世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。
三島由紀夫「鏡子の家」より
狂人がある程度自分を狂人だと知つてゐるやうに、嫌はれるタイプの男は、ある程度、
自分が嫌はれることを知つてゐるのだが、狂人がさういふ自己認識にすこしも煩はされないやうに、
嫌はれてゐるといふ認識にすこしも煩はされないことが、嫌はれ型の真価の特質なのである。
三島由紀夫「鏡子の家」より
少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルにみえる少年にも、植物的な残酷さがそなはつてゐる。
少女も残酷です。やさしさといふものは、大人のずるさと一緒にしか成長しないものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座」より
女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐるが、
男に比して、すぐ肥つたりすぐやせたりしやすいところもお月さまそつくりである。
三島由紀夫「反貞女大学」より
ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を求めるやうになる。
…そして、さういふ奇妙な流行を作るのは、たいてい男の側からの要求であり、パリのデザイナーも
ほとんど男ですし、ほかのことでは何でも男性に楯つくけとの好きな女性が、流行についてだけは、
素直に男の命令に従ひます。
三島由紀夫「反貞女大学」より
かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、
北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。
人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ないものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より
私にとつては、美はいつも後退りをする。かつて在つた、あるひはかつて在るべきであつた姿しか、
私にとつては重要でない。
鉄塊は、その微妙な変化に富んだ操作によつて、肉体のうちに失はれかかつてゐた古典的均衡を蘇らせ、
肉体をあるべきであつた姿に押し戻す働らきをした。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
私はかつて、彼自身も英雄と呼ばれてをかしくない肉体的資格を持つた男の口から、英雄主義に対する嘲笑が
ひびくのをきいたことがない。シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大な
ニヒリズムは、鍛へられた筋肉と関係あるのだ。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
私が求めるのは、勝つにせよ、負けるにせよ、戦ひそのものであり、戦はずして敗れることも、ましてや、
戦はずして勝つことも、私の意中にはなかつた。一方では、私は、あらゆる戦ひといふものの、芸術における
虚偽の性質を知悉してゐた。
もしどうしても私が戦ひを欲するなら、芸術においては砦を防衛し、芸術外において攻撃に出なければならぬ。
芸術においてはよき守備兵であり、芸術外においてはよき戦士でなければならぬ。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。
すでに謎はなく、謎は死だけになつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
私の幼時の直感、集団といふものは肉体の原理にちがひないといふ直感は正しかつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。
すべての対極性を、われとわが尾を嚥(の)みつづけることによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑を
ひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、
ますます遠ざかることによつて相近づく。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
ほんのつかのまでも、われわれの脳裡に浮んだことは存在する。
現に存在しなくても、かつてどこかに存在したか、あるひはいつか存在するであらう。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
五十歳の美女は二十歳の美女には絶対にかなはない。
美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。
三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。
三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より
個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より
私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を外れた鼻に絶望して、
人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」といふことだからです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より
男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を差し引いたものが、家庭での彼の姿。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、
この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る
何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。
三島由紀夫「美しい女性はどこにいる」より
真に抒情的なものは、詩人の面立(おもだち)と闘牛師の肉体との、稀な結合からだけしか生れないだらう。
三島由紀夫「鏡子の家」より
芸術的才能といふものの裡にひそむ一種の抜きがたい暗さを嗅ぎ当てる点では、
世俗的な人たちの鼻もなかなか莫迦にしたものではない。
才能とは宿命の一種であり、宿命といふものは多かれ少なかれ、市民生活の敵なのである。
三島由紀夫「鏡子の家」より
女の裸体は猥褻なだけさ。美しいのは男の肉体に決まつてゐるさ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
101 :
この名無しがすごい!:2010/04/08(木) 18:40:18 ID:HLxoMo4L
φ(.. ) うむ
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。
つまり新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、
それが次第に一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、古くなるにしたがつて
古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。
三島由紀夫「文章読本」より
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、
ユーモアとは理知のもつともなごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より
あまりの三島スレぶりに驚いたw
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。
三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より
「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと
「若さ」に敗れる日が来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
芸術上の創造行為は存在そのものからは生れて来ない。
自ら美しく生きようと思つた芸術家は一人もゐなかつたので、美を創ることと、
自分が美しく生きることとは、まるで反対の事柄である。
三島由紀夫「女が美しく生きるには」より
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より
純粋とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。
三島由紀夫「純粋とは」より
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。
無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。
近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。
三島由紀夫「川端康成氏再説」より
たとへば情熱、たとへば理想、たとへば知性、……何でもかまはないが、人間によつて
価値づけられたもののかういふ体系を、誰も抜け出すことができない。
逆を行けば裏返しになるだけのことだ。
三島由紀夫「川端康成再説」より
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、
かういふ宿命を抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。
仮装こそ、「何かになりたい」といふ念願の仮の実現だからである。
三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か一時間の
会話の中には、人生の至福がひそむ
三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より
どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、
独特の血なまぐささがある。
概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾がくすぶつてゐるのである。
三島由紀夫「終末感と文学」より
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、
幸福感を感じるときには、もう衰退の中にゐるのだ。
三島由紀夫「春先の突風」より
春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして
青春は思ひ出の中でのみ美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、
思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春がこんなに人をいらいらさせるのは、
この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。
あの春先のまつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから
顔をそむけるやうに、顔をそむけずにはゐられないのである。
三島由紀夫「春先の突風」より
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、わびしさの同義語になる。
三島由紀夫「芸術家部落――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より
なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。
子供なら、何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も浪漫派に限らず、
芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、死に対する媚態と
死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。
三島由紀夫「日記」より
空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない
三島由紀夫「小説家の息子」より
男はどんな職業についても、根本に膂力(りよりよく)の自信を持つてゐなくてはならない。
なぜなら世間は知的エリートだけで動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を
証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。
三島由紀夫「小説家の息子」より
自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より
三島って意外といろんな本出してるんだな
小説家のイメージが強かったが
>>124 意外と面白い評論やエッセイが沢山あるよ。うんと頭のいい博識なナンシー関みたいな感じがします。
芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよい
三島由紀夫「芸術断想」より
夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。
性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素もあるのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、
「昔はよかつた」といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえない
三島由紀夫「芸術断想 期待と失望」より
赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、
すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、
又々十把一からげの顔になることかくの如し。
三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より
芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。
四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
諸君を北風の中へ引張り出して鍛へてやらうと思つたのに、ふたたび温室の中へはひ込むのなら、
私は残念ながら諸君とタモトを分つ他はないのである。
三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より
132 :
この名無しがすごい!:2010/04/17(土) 17:57:17 ID:FdgK36AE
>>131 言葉のチョイス好きだわ
三島以外の作家の言葉もやってくれ
意外に盛り上がってるなあ。
名言言ってる作家がそんなにいるのか……ってなにこの三島スレ。
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。
三島由紀夫「絹と明察」より
若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さが
おのれの安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。
三島由紀夫「絹と明察」より
自由やと?平和やと?そないなこと皆女子(おなご)の考へや。
女子の嚔(くさめ)と一緒や。男まで嚔をして、風邪を引かんかつてええのや。
三島由紀夫「絹と明察」より
人は信じた思想のとほりの顔になる。
三島由紀夫「鏡子の家」より
どこの社会にも、誰が見ても不適任者と思はれる人が、そのくせ恰(あた)かも運命的に
そこに据つてゐるのを見るものだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
権力や金に倦き果てた老人のたしなむ芸術には、あらゆる玄人の芸術にとつて必須な、
あの世界に対する権力意志が忌避されてゐる。
三島由紀夫「鏡子の家」より
芸術作品とは、目に見える美とはちがつて、目に見える美をおもてに示しながら、
実はそれ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。
作品の本質とは、超時間性に他ならないのだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
ひどい暮しをしながら、生きてゐるだけでも仕合せだと思ふなんて、奴隷の考へね。
一方では、人並な安楽な暮しをして、生きてゐるのが仕合せだと思つてゐるのは、動物の感じ方ね。
三島由紀夫「鏡子の家」より
美にとつては、世界喪失は苦悩ではなくて生誕の讃歌のやうなものなのだ。
そこでは美がやさしい手で規定の存在を押しのけて、その空席に腰を下ろすことに、
何のためらひもありはしないのだ。
いいかへれば天才の感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえやうと、決して
悲劇に到達しない特質を荷つてゐるのである。
三島由紀夫「鏡子の家」より
他人の情念にしろ、希望にしろ、他人にあんまり興味を持ちすぎることは危険です。
それはこちらが考へもせず、想像もしないところへまで引きづつてゆき、つひには
『他人の希望』の代りに、『他人の運命』を背負ひ込む羽目になります。
三島由紀夫「鏡子の家」より
美しい者にならうといふ男の意志は、同じことをねがふ女の意志とはちがつて、
必ず『死の意志』なのだ。
これはいかにも青年にふさはしいことだが、ふだんは青年自身が恥ぢてゐてその秘密を明さない。
三島由紀夫「鏡子の家」より
健康な青年にとつて、おそらく一等緊急な必要は『死』の思想だ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
人生といふ邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。
生きようとしないで生きること、現在といふ首なしの馬にまたがつて走ること
三島由紀夫「鏡子の家」より
もし魂といふものがあるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深く
ひそむものではなくて、人間の外部へ延ばした触手の先端、人間の一等外側の
縁(へり)でなければならない。
その輪郭、その外縁をはみ出したら、もはや人間ではなくなるやうな、ぎりぎりの
縁でなければならない。
三島由紀夫「鏡子の家」より
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかしそれら三つは、
いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。手で触れることのできたものから、
一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないやうな美しいものになる。
事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、それは汚濁になつてしまふ。
われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを涜(けが)し、しかも
自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから。
三島由紀夫「春の雪」より
歴史はいつも崩壊する。又次の徒(あだ)な結晶を準備するために。
歴史の形成と崩壊とは同じ意味をしか持たないかのやうだ。
三島由紀夫「春の雪」より
優雅といふものは禁を犯すものだ。それも至高の禁を。
三島由紀夫「春の雪」より
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど
愚かなのだから、今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて
一つの結晶を成した月光姫を見てゐるのかもしれないのだ。
別れてゐることが苦痛なら、逢つてゐることも苦痛でありうるし、逢つてゐることが
歓びならば、別れてゐることも歓びであつてならぬといふ道理はない。
三島由紀夫「春の雪」より
……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に終るのだ。
三島由紀夫「春の雪」より
肉体が連続しなくても、妄念が連続するなら、同じ個体と考へて差支へがありません。
個体と云はずに、『一つの生の流れ』と呼んだらいいかもしれない。
三島由紀夫「春の雪」より
どんな夢にもをはりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは
愚かではございませんか。
私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし永遠があるとすれば、
それは今だけなのでございますわ。
三島由紀夫「春の雪」より
『ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に』
三島由紀夫「春の雪」より
今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で
三島由紀夫「春の雪」より
本当の危険とは、生きてゐるといふそのことの他にはありやしない。
生きてゐるといふことは存在の単なる混乱なんだけど、存在を一瞬毎にもともとの
無秩序にまで解体し、その不安を餌にして、一瞬毎に存在を造り変へようといふ
本当にイカれた仕事なんだからな。こんな危険な仕事はどこにもないよ。
三島由紀夫「午後の曳航」より
大義とは?それはただ、熱帯の太陽の別名だつたかもしれないのだ。
三島由紀夫「午後の曳航」より
世界は単純な記号と決定で出来上つてゐる。
三島由紀夫「午後の曳航」より
ころがり落ちた歯車は、又もとのところへ、無理矢理はめ込まなくちやいけない。
さうしなくちや世界の秩序が保てない。僕たちは世界が空つぽだといふことを知つてるんだから、
大切なのは、その空つぽの秩序を何とか保つて行くことにしかない。
三島由紀夫「午後の曳航」より
血が必要なんだ!人間の血が!さうしなくちや、この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果ててしまふんだ。
三島由紀夫「午後の曳航」より
誰も知るやうに、栄光の味は苦い。
三島由紀夫「午後の曳航」より
感傷といふものが女性的な特質のやうに考へられてゐるのは明らかに誤解である。
感傷的といふことは男性的といふことなのだ。
三島由紀夫「青の時代」より
われわれは、なかなかそれと気がつかないが、自分といちばん良く似てゐる人間なるがゆゑに、
父親を憎たらしく思ふのである。
三島由紀夫「青の時代」より
男性は本質を愛し、女性は習慣を愛する
三島由紀夫「青の時代」より
凡ゆる愛国心にはナルシスがひそんでゐるので、凡ゆる愛国心は美しい制服を必要とする
三島由紀夫「青の時代」より
戦争といふ奴は、人間の背丈を伸ばしもしなけりやあ縮めもしない
三島由紀夫「青の時代」より
男が金をほしがるのはつまり女が金をほしがるからだといふのは真理だな。
三島由紀夫「青の時代」より
近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」といふやつはもつとも人間的な幻影だ。
人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。
原始人のやうに健康に欲望を追求し、原始人のやうに生き、動き、愛し、眠るのは、
近代においては「社会」なのである。新聞の三面記事が争つて読まれるのは、
この原始人の朝な朝なの生態と消息を知らうとする欲望である。
三島由紀夫「青の時代」より
過度の軽蔑はほとんど恐怖とかはりがない。
三島由紀夫「青の時代」より
小金をもつてゐれば誰でも社長や専務になれ、女は毛皮の外套さへもつてゐればみんな
上流の奥様でとほり、世間はかうした仮装に容易に欺されることを以て一種の仮想の秩序を維持して来たのであつた。
だから演技による瞞著(まんちやく)は今の社会に対する礼法(エチケット)である。
三島由紀夫「青の時代」より
人助けは実に気持のよいものであり、殊に利潤の上る人助けと来たらたまらない。
三島由紀夫「青の時代」より
人間、正道を歩むのは却つて不安なものだ。
三島由紀夫「青の時代」より
すべての人の上に厚意が落ちかゝる日があるやうに、すべての人の上に悪意が落ちかゝる日があるものだ。
三島由紀夫「青の時代」より
人間の弱さは強さと同一のものであり、美点は欠点の別な側面だといふ考へに達するためには、
年をとらなければならない。
三島由紀夫「青の時代」より
人間の存在の意味には、存在の意識によつて存在を亡ぼし、存在の無意識あるひは無意味によつて
存在の使命を果す一種の摂理が働らいてゐるにちがひない。
三島由紀夫「青の時代」より
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、
現代の綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。
三島由紀夫「盗賊」より
男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。
と同時に真の偽善者も亦、女の中にこれを見出だすのはむつかしい。
女は自分以外のものにはなれないのである。といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。
宗教が女性を収攬しやすい理由は茲(ここ)にある。
三島由紀夫「盗賊」より
女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に触れてゆくやり方は青年の特権である
三島由紀夫「盗賊」より
嫉妬こそ生きる力だ。
だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて嫉妬することを
知らない人が往々ある。
彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、もつと微妙で高尚な、それだけ、
はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。
三島由紀夫「盗賊」より
死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。
三島由紀夫「盗賊」より
たとひ自殺の決心がどのやうな強固なものであらうと、人は生前に、一刹那でも死者の眼で
この地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ計画された行為であつても、
それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、自殺とは錬金術のやうに、
生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)なのぞみであらうか。
かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。われわれの科学は
まだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすこともできないわけだ。
生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて三週間醗酵させれば
鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。
三島由紀夫「盗賊」より
人は死を自らの手で選ぶことの他に、自己自身を選ぶ方法を持たないのである。
生を選ばうとして、人は夥しい「他」をしかつかまないではないか。
三島由紀夫「盗賊」より
自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。
――生きてゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。
三島由紀夫「盗賊」より
死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹(つま)しいものです。
三島由紀夫「盗賊」より
何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ。
三島由紀夫「盗賊」より
決して生をのがれまいとする生き方は、自ら死へ歩み入る他はないのだらうか。
生への媚態なしにわれわれは生きえぬのだらうか。
丁度眠りをとらぬこと七日に及べば死が訪れると謂はれてゐるやうに、たえざる生の覚醒と
生の意識とは早晩人を死へ送り込まずには措かぬものだらうか。
三島由紀夫「盗賊」より
莫迦げ切つた目的のために死ぬことが出来るのも若さの一つの特権である。
三島由紀夫「盗賊」より
悪意は善意ほど遠路を行くことはできない
三島由紀夫「潮騒」より
男は気力や。気力があればええのや。
三島由紀夫「潮騒」より
女にとつて優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。なぜなら男が憧れるのは、
裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のはうであるから。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
あふれるばかりの精力を事業や理想の実現に向けてゐる肥つた醜い男などは何といふ
滑稽な代物でだらう。みすぼらしい風采の世界的学者などは何といふ珍物であらう。
仕事に熱中してゐる男は美しく見えるとよく云はれるが、もともと美しくもない男が
仕事に熱中したつて何になるだらう。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
女に友情がないといふのは嘘であつて、女は恋愛のやうに、友情をもひた隠しにしてしまふのである。
その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめてゐる。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属してゐる
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
どんな驚天動知の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、それにとりかかる前に、
或る休息に似た気持が来るものである。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
どんな驚天動地の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、それにとりかかる前に、
或る休息に似た気持が来るものである。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
外人の男たちの、鶏みたいな、半透明な血の色の透けてみえる、ひどく老化の早い、汚ならしい肌
三島由紀夫「肉体の学校」より
西洋人より、日本の若い男のはうが、ずつと動物的な美しさを持つてゐる。
つまり動物的なしなやかさと、弾力と、無表情な美しさとを
三島由紀夫「肉体の学校」より
男にしろ、女にしろ、肉体上の男らしさ女らしさとは、肉体そのものの性のかがやき、
存在全体のかがやきから生れる筈のものである。
それは部分的な機能上の、見栄坊な男らしさとは何の関係もない。
三島由紀夫「肉体の学校」より
個性を愛することのできるのはむしろ友情の特権だ
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
嫉妬の孤立感、その焦燥、そのあてどもない怒りを鎮める方法は一つしかなく、
それは嫉妬の当の対象、憎しみの当面の敵にむかつて、哀訴の手をさしのべることなのである。
…自分に傷を与へる敵の剣にすがつて、薬餌を求めるほかはないのである。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。
恋が本当に自由になるのは、たとへ一瞬でも思ひ出の絆から脱したときだ
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙のどこかにすでに完成されてゐるもの――
すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎない
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して
意識することなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところに
はげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、
かういふことだけを述べておけばよい。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より
道徳は、習慣からの逃避もみとめないが、同時に、習慣への逃避も、それ以上にみとめてゐないのだ。
道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶ち切つて、すべてのもの、あらゆる瞬間を、
決してくりかへされない一回きりのものにしようとする力なのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
肉体の仕業はみんな嘘だと思つてしまへば簡単だが、それが習慣になつてしまへば、
習慣といふものには嘘も本当もない。
精神を凌駕することのできるのは習慣といふ怪物だけなのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
自然の物理的法則からすつかり身を背けることが大切なのだ。自然の法則になまじ目移りして、
人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか逃避の王者になるかしてしまふ。
自然はくりかへしてゐる。一回きりといふのは、人間の唯一の特権なのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
明日を怖れてゐる快楽などは、贋物でもあり、恥づべきものではないだらうか。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
習慣からのがれようとする思案は、陰惨で、人を卑屈にするばかりだが、
快楽を捨てようとする意志は、人の矜りに媚び、自尊心に受け容れられやすい。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
男は、一度高い精神の領域へ飛び去つてしまふと、もう存在であることをやめてしまえる!
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。
あなたばかりではありません。誰もさうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、
自分といふ人間の足りないところを、よくよく知るやうになるのです。
女は女の鑑(かがみ)にはなれません。いつも殿方が女の鑑になつてくれるのですね。
それもつれない殿方が。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
情に負けるといふことが、結局女の最後の武器、もつとも手強い武器になります。
情に逆らつてはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に負け、
情に溺れて、もう死ぬほかないと思ふときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまゐります。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
女は恋に敗れた女に同情しながら、さういふ敗北者の噂をひろげるのが大そう好きで、
恋に勝つてばかりゐる女のことは、『不道徳な人』といふ一言で片附けるだけなのでございます。
いはば、さういふ勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、細目にわたる具体的な不名誉は、
お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
世間を味方につけるといふことは奥様、とりもなおさず、世間に決して同情の涙を
求めないといふことなのです。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
惚れすぎて苦しくなり、相手をむりにも軽蔑することで、その恋から逃げようとするのは、
拙ない初歩のやり方です。万に一つも巧くはまゐりません。
ひたすらその方をうやまひ、尊敬するやうになさいまし。
お相手がどんなに卑劣な振舞をしても、なほかつ尊敬するやうになさいまし。
さうしてゐれば、とたんにお相手はあなたの目に、つまらない人物に見えてまゐります。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある。
どんな思想も、またどんな感覚も、烈しい苦痛ほどの明晰さに達することはできない。
よかれあしかれ、それは世界を直視させる。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。
彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。
自分の立脚点をわきまへ、そこに立つて主人役たるべきであらう。
三島由紀夫「招かれざる客」より
偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。
三島由紀夫「招かれざる客」より
いかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つてゐると
信ずることから生れて来る。自由そのものの使命感である。
では僕の使命は何か。僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものがそれだとしか僕には言へない。
そのものに対して僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、
その待つこと、その心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。
僕の使命は用意することである。
三島由紀夫「招かれざる客」より
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。
演劇的批判にしか耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。
三島由紀夫「宗十郎覚書」より
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。
三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の
胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。
純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。
三島由紀夫「奔馬」より
壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士の
さし出した槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、
古びて、褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。
血も花も、枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。
だからこそ、血と花は名誉へ転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。
三島由紀夫「奔馬」より
忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で
握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が御空腹でなく、
すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま
退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。
又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、
ありがたく腹を切らねばなりません。
何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。
では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。
飯はやがて腐るに決まつてゐます。
これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。
三島由紀夫「奔馬」より
聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に生きてゐながら、何もせずに生き永らえてゐることが
まづ第一の罪です。その大罪を祓ふには、涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を
拵えて献上して、自らの忠心を行為にあらはして、即刻腹を切ることです。
死ねばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、右すれば罪、左すれば罪、
どのみち罪を犯してゐることに変りはありません。
三島由紀夫「奔馬」より
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内側の核をなしてゐたのだらうか。あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に滑稽の
塵が降り積つたにすぎぬのだらうか。
三島由紀夫「奔馬」より
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあらうか』
三島由紀夫「奔馬」より
左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。
三島由紀夫「奔馬」より
恋も忠も源は同じであつた。
三島由紀夫「奔馬」より
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのはたしかに
穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも知らないで
人生を送るのだ。
だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。ごく少数の異常な純粋、
この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く同じ同等の《悪》へ
おとしめようとする機構なのだ。
三島由紀夫「奔馬」より
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。
あの夕焼の花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふ
たはごとも忽ち色褪せてしまひます。
三島由紀夫「暁の寺」より
社会正義を自ら代表してゐるやうな顔をしながら、それ自体が売名であるところの、
貧しい弁護士などといふのは滑稽な代物だ
三島由紀夫「暁の寺」より
一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人はおのづから、
別の生の存在の予感に到達するのではなからうか。
三島由紀夫「暁の寺」より
現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、
同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交はる一点に
存在するのである。
三島由紀夫「暁の寺」より
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……
三島由紀夫「暁の寺」より
この世には道徳よりもきびしい掟がある
三島由紀夫「暁の寺」より
生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられてゐるやうなものだつた。
そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ
三島由紀夫「暁の寺」より
知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの極致は、
永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。
三島由紀夫「暁の寺」より
真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ生れる
三島由紀夫「暁の寺」より
必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。この想像力には甘美なところがみじんもなかつた。
三島由紀夫「暁の寺」より
ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと望んだからだ。
三島由紀夫「暁の寺」より
存在の不治こそは不死の感覚の唯一の実質だつた。
三島由紀夫「暁の寺」より
自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら思はれる。
お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺がたのみもしないのに、
その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない綱渡りを強ひたのだ。
陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を家財道具に換価させ、
美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を流刑に処し、異端を
病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。
それは、膿盆の上の、血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、
そのたびごとに、老ひも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。
三島由紀夫「暁の寺」より
人生が車の運転と同様に、慎重一点張りで成功するなどと思はれてたまるものか。
三島由紀夫「暁の寺」より
裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。
私一人をいつもじつと見つづけて、あれはいけない、これはいけない、とたえず
手取り足取り指図して下さる神様でなければ。
その前では何一つ隠し立てのできない、その前ではこちらも浄化されて、何一つ羞恥心を
持つことさへ要らない、さういふ神様でなければ、何になるでせう。
三島由紀夫「暁の寺」より
どんな高尚な事業どんな義烈の行為へ人を促す力も、どんな卑猥な快楽どんな醜怪な夢へ
そそのかす力も、全く同じ源から出、同じ予兆の動悸を伴ふ
三島由紀夫「暁の寺」より
ここは三島由紀夫の亡霊にとりつかれた
者が住み着く恐怖スレですか?
追憶は「現在」のもつとも清純な証なのだ。
愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるやうな感情は、
追憶なしにはそれを占つたり、それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。
それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつすやうなものである。
泉のうえにおちちらばつてゐたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
祖先はしばしば、ふしぎな方法でわれわれと邂逅する。ひとはそれを疑ふかもしれない。
だがそれは真実なのだ。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
今日、祖先たちはわたしどもの心臓があまりにさまざまのもので囲まれてゐるので、
そのなかに住ひを索めることができない。かれらはかなしさうに、そはそはと時計のやうに
そのまはりをまはつてゐる。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
美は秀麗な奔馬である。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。
川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものは
けふ川ではない。だが川は永遠にある。
ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。
わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
ああ、あの川。わたしにはそれが解る。祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契。
その憧れはあるところでひそみ或るところで隠れてゐる。だが、死んでゐるのではない。
古い籬(まがき)の薔薇が、けふ尚生きてゐるやうに。
祖母と母において、川は地下をながれた。父において、それはせせらぎになつた。
わたしにおいて、――ああそれが滔々とした大川にならないでなににならう、綾織るもののやうに、
神の祝唄のやうに、神の祝唄(ほぎうた)のやうに。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
老婦人は毅然としてゐた。白髪がこころもちたゆたうてゐる。おだやかな銀いろの縁をかがつて。
じつとだまつてたつたまま、……ああ涙ぐんでゐるのか。祈つてゐるのか。それすらわからない。……
まらうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーつと退いてゆく際に、
眩ゆくのぞかれるまつ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまつて。
「死」にとなりあはせのやうにまらうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきはまつて
独楽(こま)の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……
三島由紀夫「花ざかりの森」より
われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。
三島由紀夫「遠乗会」より
>>42 > 愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか?
>
> 三島由紀夫「仮面の告白」より
ああ、あの川。わたしにはそれが解る。祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契。
その憧れはあるところでひそみ或るところで隠れてゐる。だが、死んでゐるのではない。
古い籬(まがき)の薔薇が、けふ尚生きてゐるやうに。
祖母と母において、川は地下をながれた。父において、それはせせらぎになつた。
わたしにおいて、――ああそれが滔々とした大川にならないでなににならう、綾織るものゝやうに、
神の祝唄のやうに、神の祝唄(ほぎうた)のやうに。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか?
この熱望が人を駆つて、不可能を反対の極から可能にしようとねがふあの悲劇的な離反に
みちびくのではなからうか?
三島由紀夫「仮面の告白」より
抵抗を感じない想像力といふものは、たとひそれがどんなに冷酷な相貌を帯びやうと、
心の冷たさとは無縁のものである。それは怠惰ななまぬるい精神の一つのあらはれにすぎなかつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より
ロマネスクな性格といふものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこつてゐて、
それが往々夢想といふ一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考へてゐるやうに
精神の作用であるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。
三島由紀夫「仮面の告白」より
処女だけに似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。それは成熟した女の淫蕩とは
ことかはり、微風のやうに人を酔はせる。それは可愛らしい悪趣味の一種である。
たとへば赤ん坊をくすぐるのが大好きだと謂つたたぐひの。
三島由紀夫「仮面の告白」より
傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔であることを要求しない。
三島由紀夫「仮面の告白」より
潔癖さといふものは、欲望の命ずる一種のわがままだ。
三島由紀夫「仮面の告白」より
正義を行へ、弱きを護れ。
三島由紀夫「につぽん製」より
自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。
三島由紀夫「につぽん製」より
とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。
人生といふやつは、まるで人絹の柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、
なかなか業(わざ)がきかないのであつた。
三島由紀夫「につぽん製」より
期待してゐる人間の表情といふものは美しいものだ。
そのとき人間はいちばん正直な表情をしてゐる。自分のすべてを未来に委ね、
白紙に還つてゐる表情である。
三島由紀夫「恋の都」より
羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。
三島由紀夫「恋の都」より
自分の尊敬する人の話をすることは、いはば初心(うぶ)なフランスの少年が女の子の前で
ナポレオンの話をするのと同様に、持つて廻つた敬虔な愛の告白でもあるのだ。
三島由紀夫「恋の都」より
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。映画に出てくる
親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の背広を着て、
ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュしたつもりでゐるが、
本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。
旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。
三島由紀夫「恋の都」より
自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。
なまじ大人になつていろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。
婿えらびをする能力といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、
ずつと豊富にもつてゐるのかもしれないんだぜ。
三島由紀夫「恋の都」より
後悔ほどやりきれないものはこの世の中にないだらう。
三島由紀夫「恋の都」より
女の批評つて二つきりしかないぢやないか。
「まあすてき」「あなたつてばかね」この二つきりだ。
三島由紀夫「邯鄲」より
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
三島由紀夫「天人五衰」より
人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。
三島由紀夫「天人五衰」より
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。
しかし自分の意志にかかはりなく、夢の中で自分を強いるもの、超歴史的な、あるひは
無歴史的なものが、この闇の奥のどこかにゐるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。
三島由紀夫「天人五衰」より
一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。
老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ具はつてゐることを学ぶのだ。
稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。……さうして血が失はれるやうに
時が失はれてゆく。
三島由紀夫「天人五衰」より
意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではないだらうか。
もちろん賤しいのは意志のはうだ。
三島由紀夫「天人五衰」より
或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より
……詩もなく、至福もなしに!これがもつとも大切だ。
生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知つてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より
「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。
「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。
一寸ばかり育ちがいいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で
『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけの
ことなんだからね。
純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。
日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ」
三島由紀夫「天人五衰」より
スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
三島由紀夫「天人五衰」より
しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのではなかつた。
これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、しかし
石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より
この世には実に千差万別な卑俗があつた。
気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、鶴の卑俗、知識にあふれた卑俗、学者犬の卑俗、
媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗、蝶の卑俗、
斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは卑俗の劫罰だつた。
そして卑俗の最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より
何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。
三島由紀夫「天人五衰」より
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ
三島由紀夫「天人五衰」より
人間は自分より永生きする家畜は愛さないものだ。
三島由紀夫「天人五衰」より
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。
もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、
さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
三島由紀夫「天人五衰」より
老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の病だといふことは、
人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な病ではなくて、
われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。
肉体の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、
滅びの証明に使はれてゐるこに他ならなかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より
生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた。
三島由紀夫「天人五衰」より
高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
三島由紀夫「葵上」より
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。
三島由紀夫「道成寺」より
久々に来てもやっぱり三島スレw
お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より
苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より
「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。
生れながらのけだかい白い肌の言はせる言葉だ。
三島由紀夫「朝の躑躅」より
世界といふものはね、こぼれやすいお皿に入つてゐるスープなの。
みんなして、それがこぼれないやうに、スープ皿のへりを支へてゐなければなりませんの。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。さてどつちが早く汚れるでせう。
三島由紀夫「綾の鼓」より
今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
三島由紀夫「綾の鼓」より
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?
幸福な人には景色なんか要らないんです。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。
この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。
愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうがずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
花作りといふものにはみんな復讐の匂ひがする。
絵描きとか文士とか、芸術といふものはみんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた
大輪の菊なのさ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
お嬢さん、教へてあげませう。
武器といふものはね、男に論理を与へる一番強力な道具なんですよ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。
生れて来て何を最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。そのうちに大人になつて
不幸を幸福だと思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気が
あたしにはするの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を
止めてゐてごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。
五なら五、六なら六だけ生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、
函数なんです。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
あなたらしさつていふものは、あなたの考へてゐるやうに、人が勝手にあなたにつけた
仇名ぢやない。人が勝手にあなたの上に見た夢でもない。あなたらしさつていふものは、
あなたの運命なんだ。のがれるすべもないものなんだ。神さまの与へた役割なんだ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
もしあたくしが豚だつたら、真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。
でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしぢゆう思つてゐることは、豚が時たま
自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
大丈夫よ、自分を本当の真珠だと信じてゐれば、硝子もいつかは真珠になるのよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに耐へてゆけますのも恋ゆゑでございます
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。
三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より
正しい狂気といふものがあるのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
日本人本来の精神構造の中においては、エロース(愛)とアガペー(神の愛)は
一直線につながつてゐる。もし女あるひは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、
それは主君に対する忠と何ら変はりない。
三島由紀夫「葉隠入門」より
男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。
武士道の世界は、一見荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な
人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。
三島由紀夫「葉隠入門」より
忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら
湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、
人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。
三島由紀夫「葉隠入門」より
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。
三島由紀夫「葉隠入門」より
長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期は
かならずしも選ぶことができない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。
そして生きるといふことは向かうから、あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために
準備することではあるまいか。
三島由紀夫「葉隠入門」より
「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。
三島由紀夫「葉隠入門」より
エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、
人の言行などはもはや問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて
人をほめて歩くこともない。
そんな始末におへぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であつた。
三島由紀夫「葉隠入門」より
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも
重んじないわけにいくだらうか。
いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは
縁の切れない、さういふ中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の
若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、
おのれの誇りとしてくれることである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より
私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を
調味料で除去すれば、うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、
さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉はうまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を
固めたのである。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい
三島由紀夫「青年像」より
巧くなつて不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ
三島由紀夫「原田・メデル戦」より
今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐる
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
不退転の決意とは何か?すなはち、国民自らが一朝あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を
守る決意であり、自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。それがなくては、人は明日のはうへ
生き延びることができない。明日にのこつてゐる繕ひものとか、明日立つことになつてゐる
旅行の切符とか、明日飲むことにしてある罎ののこりの僅かな酒とか、さういふものを
人は明日のために喜捨する。そして夜明けを迎へることを許される。
三島由紀夫「愛の渇き」より
われわれが人間の目を持つかぎり、どのやうに眺め変へても、所詮は同じ答が出るだけだ
三島由紀夫「愛の渇き」より
苟(いやしく)も仕事をしようとすれば、命を賭けずに本当の仕事ができるものではない。
三島由紀夫「愛の渇き」より
生れのよい人間は滅多に風流になんぞ染つたりはせぬものだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
われわれはむしろ、自分が待ちのぞんでゐたものに裏切られるよりも、力(つと)めて
軽んじてゐたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。
それは背中から刺された匕首(あいくち)だ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに
値ひしないといふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には
困難である
三島由紀夫「愛の渇き」より
この世の情熱は希望によつてのみ腐蝕される
三島由紀夫「愛の渇き」より
ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも
困難である。人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平
三島由紀夫「愛の渇き」より
生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。
わたしたちが生の内にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を
人並に容易にするために役立つてゐる能力なのだ。なぜといつて、この能力がなかつたら、
わたしたちにとつての生は、困難でも容易でもないつるつるした足がかりのない真空の
球になつてしまふ。この能力は生がさう見られることを遮(さまた)げる能力であり、
生が決してそんな風に見えては来ない容易な人種の、あづかり知らぬ能力であるとはいへ、
それは何ら格別な能力ではなく、ただの日常必需品にすぎないのだ。人生の秤をごまかして、
必要以上に重く見せた人は、地獄で罰を受ける。そんなごまかしをしなくつても、
生は衣服のやうに意識されない重みであつて、外套を着て肩が凝るのは病人なのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
下から上を見たときも、上から下を見たときも、階級意識といふものは嫉妬の代替物に
なりうるのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
人生には何事も可能であるかのやうに信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間におそらく人は
普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度忘却の底に横たはつたのちも、
折にふれては蘇つて、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき豊饒さを、再びわれわれに向つて
暗示するのである。
三島由紀夫「愛の渇き」より
あまりに永い苦悩は人を愚かにする。
苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を疑ふことができない。
三島由紀夫「愛の渇き」より
嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に近づくのである。
三島由紀夫「愛の渇き」より
衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものが
この世にあらうか
三島由紀夫「愛の渇き」より
妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。
時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、夢はひとつの習慣になつて、
今日まで規則正しくつづいてゐる。
三島由紀夫「朝顔」より
女といふものは、自分を莫迦だと知る瞬間に、それがわかるくらい自分は利巧な女だといふ
循環論法に陥るのですね。
三島由紀夫「魔群の通過」より
下手な絵描きに限つて絵描きらしく見えることを好むものである。
三島由紀夫「魔群の通過」より
魔はやさしい面持でわれわれに誘ひをかける。
三島由紀夫「魔群の通過」より
中年の女といふものは若い女を見るのに苛酷な道学者の目しか持たぬ点に於て
女学校の修身の先生も奔放な生活を送つてゐる富裕な有閑マダムもかはりない。
三島由紀夫「魔群の通過」より
『時』は私たちの生きてゐることの徒(あだ)な所以をいひきかせるために
流れてゐるのであらうか?
三島由紀夫「花山院」より
寡黙な人間は、寡黙な秘密を持つものである。
三島由紀夫「日曜日」より
恋人同士といふものは仕馴れた役者のやうに、予め手順を考へた舞台装置の上で
愛し合ふものである。
三島由紀夫「日曜日」より
善意も、無心も、十分人を殺すことのできる刃物である。
三島由紀夫「日曜日」より
まことに海も山も時であつた。
人の目に映つたこの世のさまざまな事象は、一旦記憶の世界へ投げ込まれるや、時の秩序に
組み入れられた存在に他ならぬ。そこにあるものは、時の海、時の山脈に他ならぬ。
波はもはや浜辺に打ち寄せてゐる青い海水ではない。時の水に充たされた海には、
時の潮が時のつきせぬ波を波立ててゐるにすぎない。そのとき海が却つてその本質を、
その流転の本質を露(あら)はにするのである。
人間もまた時間の形をしてゐる。これだけが人間のほぼ確実な信頼するに足る外形である。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より
この世には自分の形を忘れることのできる人とできない人との二つの種族がある。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より
歌舞伎役者の顔こそ偉大でなければならない。
大首物の役者絵は、悉く奇怪な偉大さを持つた顔を描いてゐる。その偉大さには一種の
不均衡と過剰がある。
拡大された感情、誇張された悲哀を包むその輪廓は、均斉を保たうがためにこの悲哀や
歓喜の内容に戦ひを挑んでゐる。美の伝達力として重んぜられたこの偉大さは、
歌舞伎が考へたやうな美の必然的な形式なのである。
そこでは美と偉大の結婚は世にも自然であつた。美が一個の犠牲の観念であり、偉大が
一個の宗教的観念となることによつて、この婚姻が成り立つた。大首物の錦絵の顔は、
偉大に蝕まれた美のあらはな病患を語つてゐる。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より
もし罪といふものがあるなら、それは罪の行為が飛び去つたあとの真白な空白にすぎぬだらう。
罪ほど清浄な観念はないだらう。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より
『奇蹟』は何と日常的な面構へをしてゐたらう!
三島由紀夫「ラディゲの死」より
神がかりの人間は、神が去つたあとで、おそろしい疲労に襲はれるんださうだ。
それはまるでいやな、嘔吐を催ほすやうな疲労で、眠りもならない。
神を見た人間は、視力の極致まで、人間能力の極致まで行つてかへつて来る。
ほんの一瞬間でも、そのために心霊の莫大なエネルギーを費つてしまふ。
三島由紀夫「ラディゲの死」より
僕が『天の手袋』と呼んでゐるものを君は識つてゐる筈だ。
天は、手を汚さずに僕等に触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。
レイモン・ラディゲは天の手袋だつた。彼の形は手袋のやうにぴつたりと天に合ふのだつた。
天が手を抜くと、それは死だ。
三島由紀夫「ラディゲの死」より
生きてゐるといふことは一種の綱渡りだ。
三島由紀夫「ラディゲの死」より
嫉妬は透視する力だ。
三島由紀夫「獅子」より
愛の問題ではないのです。女には事実のはうがもつと大切です。
三島由紀夫「獅子」より
皮肉は何といふ美味なつまみものであらう。殊に酒精分の強い洋酒の場合は。
三島由紀夫「獅子」より
凡て悪への悲しげな意慾が完全に欠如してゐるこのやうな人間、(それこそ悪それ自体)が
地上から滅び去るとはどんなによいことであらう。さういふ善意が滅びることは、
どれほど地上の明るさを増すことだらう。
三島由紀夫「獅子」より
この世に戦争をもたらし、悪しき希望を、偽物の明日を、夜鳴き鶏を、残虐きはまる侵略を
もたらすものこそ「幸福」の思考なのである。
三島由紀夫「獅子」より
不安は奇体に人の顔つきを若々しくする。
三島由紀夫「毒薬の社会的効用について」より
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは
何てけがらはしいんだ。
三島由紀夫「急停車」より
体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、
生き延びたいと感じた。まことに自然である。
平和な時代であつても、スポーツは青春の過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、
知的な目ざめは、つかのまの解放へ急がうとする自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。
それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、自殺が勝つかである。
三島由紀夫「急停車」より
人間の歴史は、青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、
まだ戦争以外のものを発明してはいない。
三島由紀夫「急停車」より
一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じることの、
目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう!あれはまるで阿片だ。悪習だ。
一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。
三島由紀夫「急停車」より
俺の美は、何といふひつそりとした速度で、何といふ不気味なのろさで、俺の指の間から
辷り落ちてしまつたことだらう。俺は一体何の罪を犯してかうなつたのか。
自分も知らない罪といふものがあるのだらうか。たとへば、さめると同時に忘れられる、
夢のなかの罪のほかには。
三島由紀夫「孔雀」より
小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。
感染しないやうに、ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。……しかし
本当に細菌の秘密を知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。
そして私は感染を、つまり幸福になることを、怖れた。
三島由紀夫「施餓鬼舟」より
青年の文学的な思ひ込みなどは下らんものだ。
三島由紀夫「施餓鬼舟」より
女が生活に介入してくることによつて、人は煩瑣(はんさ)を愛するやうになる。
男女関係は或る意味では極めて事務的なたのしみだ。
三島由紀夫「慈善」より
男を事務的な目附で眺めることができるのは既婚の女の特権である。
公私混同には持つてこいの特権だ。
三島由紀夫「慈善」より
幸福の話題は罪のやうに人を疲らせる。
三島由紀夫「慈善」より
悪徳の虚栄心が悪徳そのものの邪魔立てをする。「魂の純潔」なるものを保たせようと
するならば、少くとも青年には、美徳の虚栄心よりも悪徳の虚栄心の方が有効なのである。
三島由紀夫「慈善」より
曇つた空を見てゐると、人間の習慣とか因襲とか規則とかいふものはあそこから落ちて
来たのではないかと思はれるのである。曇つた日は曇つた他の日と寸分ちがはない。
何が似てゐると云つて、人間の世界にはこれほど似てゐるものはない。
人はこんな残酷な相似に耐へられたものではない。
三島由紀夫「慈善」より
戦争が道徳を失はせたといふのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがつてゐる。
しかし運動をするものに運動神経が必要とされるやうに、道徳的な神経がなくては
道徳はつかまらない。戦争が失はせたのは道徳的神経だ。
この神経なしには人は道徳的な行為をすることができぬ。
従つてまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だつた。
三島由紀夫「慈善」より
罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を
人は恕さない。
三島由紀夫「果実」より
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや
透明で複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。
三島由紀夫「死の島」より
形式とは、僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の優美なことは、
およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を負かす。
あれは僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……
三島由紀夫「死の島」より
占領時代は屈辱の時代である。虚偽の時代である。面従背反と、肉体的および精神的売淫と、
策謀と譎詐の時代である。
三島由紀夫「江口初女覚書」より
まだ続いてるとは驚いた。
蘭陵王は必ずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥じてはゐなかつたにちがいない。
むしろ自らひそかにそれを矜つてゐたかもしれない。
しかし戦ひが、是非なく獰猛な仮面を着けることを強ひたのである。しかし又、蘭陵王は
それを少しも悲しまなかつたかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとしてゐたかもしれない。
なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかはり、それだけ彼のやさしい美しい顔は、
傷一つ負はずに永遠に護られることになつたからである。
三島由紀夫「蘭陵王」より
私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知つた。何ら発展しないこと、これが重要だ。
音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるやうに!)
決して発展しないといふこと以上に純粋なことがあるだらうか。
三島由紀夫「蘭陵王」より
個人が組織を倒す、といふのは善である。
三島由紀夫「個人が組織を倒す道徳――『サムライ』について」より
論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の寄宿舎の
そねみ合ひと大差がありません。
三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より
剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の
研師のちがひほどの問題で、剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、
殺し合ふのは当然のことです。
三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より
私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、新聞雑誌の人生相談の
欄に招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
三島由紀夫「小説とは何か」より
女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光った。
あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば気味がわるいと仰言る。あなた方は
御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、夜になればお互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、
薔薇が鱗を光らす世界を。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より
どんな時代にならうと、権力のもつとも深い実質は若者の筋肉だ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
灼熱した不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。
三島由紀夫「彩絵硝子」より
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
本当に男を尊厳できるのは、劣等感を持つた女だけだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
この世には無害な道楽なんて存在しないと考えたはうが賢明だ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。いつもでは困るが、
一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
歌うたひにはみんな白痴的な素質がある。
歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。或る流露感だけに
涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
同情といふ感情は一種の恐怖心で、自分に大して関係のないものが関係をもちさうになるのを
惧(おそ)れるあまり、先手を打つて、同情といふ不良導体でつながれた関係をもたうとする感情だ。
三島由紀夫「親切な機械」より
事件といふものが一種の古典的性格をもつてゐることは、古典といふものが年月の経過と共に
一種の事件的性格を帯びるのと似通つてゐる。
事件も古典と同じやうに、さまざまの語り変へが可能である。
三島由紀夫「親切な機械」より
表現によつて、われわれは生へ還つてゆく。芸術家が死のあとまでも生きのこるのはそのためだ。
しかも表現といふ行為は、芸術家の生活は、何といふ緩慢な死だらう。精神が肉体を模倣し、
肉体が自然を模倣する。つまり自然を――死を模倣する。自然は死だ。そのとき芸術家は
死の限りなく近くに、言ひかへれば、表現された生の限りなく近くにゐるのだなあ。
芸術家にとつては、だから絶望は無意味だ。絶望する暇があつたら、表現しなければならぬ。
なぜかといつて、どんな絶望も、生を前にして表現が感じなければならぬこの自己の無力感、
おのれの非力を隅々まで感じるこの壮麗な歓喜と比べれば何ほどのことがあらう。
三島由紀夫「火山の休暇」より
蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。
しづかに森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた
絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。
水泳は覚えずにかへつて来てしまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、
後年私がそれを求めてさすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう
一つの真実を、私は覚えて来たからである。
三島由紀夫「岬にての物語」より
人生経験は多くの場合恋愛に一定の理論を与へるが、人は自分の立てた理論を他人に
強ひこそすれ、自分は又してもその理論に背いて躓(つまづ)くのを承知で行動する。
三島由紀夫「牝犬」より
生活とは凡庸な発見である。いつもすでに誰かが先にしてしまつた発見である。
三島由紀夫「牝犬」より
理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、
人は「親密な他人」になれない。
三島由紀夫「牝犬」より
吝嗇といふものは一種の見張りであり、陰謀であり、結社であり、油断のならない正義の
熱情である。
三島由紀夫「牝犬」より
浪費癖にくらべると、吝嗇は実に無我で謙遜である。
三島由紀夫「牝犬」より
愛とは目的をもたない神秘的な洞察力がわれわれを居たたまれなくさせる感情のやうにも思はれ、
一個の想像力のやうにも思はれ、本質的に一つの「解釈」にすぎないやうにも思はれる。
三島由紀夫「椅子」より
女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど出来はしない。
男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。
三島由紀夫「志賀寺上人の恋」より
女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きづり下ろしてしまふ。
女は主義といふものを全く理解しない。『何々主義的』といふところまではわかるが、
『何々主義』といふものはわからない。主義ばかりではない。独創性がないから、
雰囲気をさへ理解しない。わかるのは匂ひだけだ。
三島由紀夫「禁色」より
女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。
有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何といふ損失であらう。
男の精神性に加へられた何といふ汚辱であらう。
三島由紀夫「禁色」より
あらゆる文体は形容詞の部分から古くなると謂はれてゐる。
つまり形容詞は肉体なのである。青春なのである。
三島由紀夫「禁色」より
絶望は安息の一種である。
三島由紀夫「禁色」より
窓の外から眺める他人の不幸は、窓の中で見るそれよりも美しい。
不幸はめつたに窓枠をこへてまでわれわれにとびかかつてくるものではないからである。
三島由紀夫「禁色」より
本当の美とは人を黙らせるものであります。
三島由紀夫「禁色」より
美といふものは手を触れたら火傷をするやうなものだ。
三島由紀夫「禁色」より
思想を抱いてゐる男は、女の目にはもともと神秘的に見えるものである。
女は死んでも「青大将は俺の大好物だ」なんぞと言へないやうに出来てゐるからである。
三島由紀夫「禁色」より
家庭といふものはどこかに必ず何らかの不幸を孕んでゐるものだ。
帆船を航路の上に押しすすめる順風は、それを破滅にみちびく暴風と本質的には同じ風である。
家庭や家族は順風のやうな中和された不幸に押されて動いてゆくもので、家族をゑがいた
多くの名画には、華押のやうに、ひそんだ不幸が手落ちなく一隅に書き込まれてゐる。
三島由紀夫「禁色」より
人の不幸は何程かわれわれの幸福である。
激しい恋愛の時々刻々の移りゆきではこの公式が一等純粋な形をとる。
三島由紀夫「禁色」より
感情の或る種の詭計(きけい)の告白に当つて、女が示す放恣な陶酔の涙ほど、
人の心をうごかすものはない。
三島由紀夫「禁色」より
様式は芸術の生れながらの宿命である。作品による内的経験と人生経験とは、様式の
有無によつて次元を異にしてゐるものと考へなくてはならぬ。
しかし人生経験のうちで作品による内的経験にもつともちかいものが唯一つある。
それは何かといふと、死の与へる感動である。われわれは死を経験することができない。
しかしその感動はしばしば経験する。死の想念、家族の死、愛する者の死において経験する。
つまり死とは生の唯一の様式なのである。
芸術作品の感動がわれわれにあのやうに強く生を意識させるのは、それが死の感動だから
ではあるまいか。
三島由紀夫「禁色」より
表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止(とど)めを刺し、その息の根を止める行為だ。
三島由紀夫「禁色」より
女が髭を持つてゐないやうに、彼は年齢を持つてゐなかつた。
三島由紀夫「禁色」より
自殺はどんな高尚なそれも低級なそれも、思考それ自体の自殺行為であり、およそ
考へすぎなかつた自殺といふものは存在しない。
三島由紀夫「禁色」より
愛さないで体を委すといふことが、男にはあんなに易しいのに、女にはどうして難しいのだらう。
なぜそれを知ることが、娼婦だけにゆるされてゐるのだらう。
三島由紀夫「禁色」より
どんな思想も観念も、肉感をもたないものは、人を感動させない。
三島由紀夫「禁色」より
『君は僕が好きだ。僕も僕が好きだ。仲良くしませう』――これはエゴイストの愛情の
公理である。同時に、相思相愛の唯一の事例である。
三島由紀夫「禁色」より
しかしいつも勝利は凡庸さの側にある。
三島由紀夫「禁色」より
褒められた女は、精神的に、ほとんど売淫の当為を感じる。
三島由紀夫「禁色」より
女は決して征服されない。決して!男が女に対する崇敬の念から凌辱を敢てする場合が
ままあるやうに、この上ない侮蔑の証しとして、女が男に身を任す場合もあるのだ。
三島由紀夫「禁色」より
愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。
三島由紀夫「禁色」より
醒めることは、更に一層深い迷ひではないのか。どこへ向つて、何のために、われらは
醒めようと望むのか。人生が一つの迷妄である以上、この錯雑した始末に負へない迷妄のうちに、
よく秩序立ち論理づけられた人工的な迷妄を築くことこそ、もつとも賢明な覚醒ではないのか。
三島由紀夫「禁色」より
愛は絶望からしか生まれない。
精神対自然、かういふ了解不可能なものへの精神の運動が愛なのだ。
三島由紀夫「禁色」より
精神はたえず疑問を作り出し、疑問を蓄えてゐなければならぬ。精神の創造力とは疑問を
創造する力なんだ。かうして精神の創造の究極の目標は、疑問そのもの、つまり自然を
創造することになる。それは不可能だ。しかし不可能へむかつていつも進むのが精神の方法なのだ。
精神は、……まあいはば、零を無限に集積して一に達しようとする衝動だといへるだらう。
三島由紀夫「禁色」より
美とは到達できない此岸(しがん)なのだ。さうではないか?宗教はいつも彼岸(ひがん)を、
来世を距離の彼方に置く。しかし距離とは、人間的概念では、畢竟するに、到達の可能性なのだ。
科学と宗教とは距離の差にすぎない。六十八万光年の彼方にある大星雲は、やはり、到達の
可能性なのだよ。宗教は到達の幻影だし、科学は到達の技術だ。
美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前してをり、確乎として
手に触れることができる。われわれの官能が、それを味はひうるといふことが、美の前提条件だ。
官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。
なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮(さまた)げるから。
希臘人が彫刻でもつて美を表現したのは、賢明な方法だつた。
三島由紀夫「禁色」より
此岸にあつて到達すべからざるもの。かう言へば、君にもよく納得がゆくだらう。
美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあつて
最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、
片時も安眠できない。……
三島由紀夫「禁色」より
この世には最高の瞬間といふものがある。この世における精神と自然との和解、
精神と自然との交合の瞬間だ。
その表現は、生きてゐるあひだの人間には不可能といふ他はない。生ける人間は、その瞬間を
おそらく味はふかもしれない。しかし表現することはできない。それは人間の能力をこへてゐる。
『人間はかくて超人間的なものを表現できない』と君は言ふのか?それはまちがひだ。
人間は真に人間的な究極の状態を表現できないのだ。人間が人間になる最高の瞬間を
表現できないのだ。
芸術家は万能ではないし、表現もまた万能ではない。表現はいつも二者択一を迫られてゐる。
表現か、行為か。愛の行為でも、人は行為を以てしか人を愛しえない。そしてあとから
それを表現する。
三島由紀夫「禁色」より
しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かといふことだ。それについては
人間は一つだけ知つてゐる。それは死なのだ。
死は行為だが、これほど一回的な究極的な行為はない。
三島由紀夫「禁色」より
死は事実にすぎぬ。行為の死は、自殺と言ひ直すべきだらう。人は自分の意志によつて
生れることはできぬが、意志によつて死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自然哲学の
根本命題だ。しかし、死において、自殺といふ行為と、生の全的な表現との同時性が
可能であることは疑ひを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない。
これには逆証明が可能だと思はれる。
生者の表現の最高のものは、たかだか、最高の瞬間の次位に位するもの、生の全的な姿から
αを差引いたものなのだ。この表現に生のαが加はつて、それによつて生が完成されてゐる。
なぜかといへば、表現しつつも人は生きてをり、否定しえざるその生は表現から除外されてをり、
表現者は仮死を装つてゐるだけなのだ。
三島由紀夫「禁色」より
このα、これを人はいかに夢みたらう。芸術家の夢はいつもそこにかかつてゐる。
生が表現を稀(うす)めること、表現の真の的確さを奪ふこと、このことには誰しも
気がついてゐる。生者の考へる的確さは一つの的確さにすぎぬ。死者にとつては、
われわれが青いと思つてゐる空も、緑いろに煌めいてゐるかもしれないのだ。
ふしぎなことだ。かうして表現に絶望した生者を、又しても救ひに駆けつけて来るのは美なのだ。
生の不的確に断乎として踏みとどまらねばならぬ、と教へてくれる者は美なのだ。
ここにいたつて、美が官能性に、生に、縛られてをり、官能性の正確さをしか信奉しないことを
人に教へるといふ点で、その点でこそ正に、美が人間にとつて倫理的だといふことがわかるだらう。
三島由紀夫「禁色」より
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の
思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼む
ミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは人間性の自然である。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩(平八郎)は太虚といふものこそ
万物創造の源であり、また善と悪とを良知によつて弁別し得る最後のものであり、
ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。
彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚は
そのまま太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、
壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、
その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に偏在する太虚に帰することが
できるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば
能動的ニヒリズムの根元と考へてよいだらう。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の創造の
母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達して
また現世へ戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へには
この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。
ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動とも
いふことができるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。
ラショナリズムに立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、
太虚の一つである。この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも
口や耳を通じてひそんでゐる。
われわれが持つてゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。
もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に帰すれば、天がすでにその心に
宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていく
ほかはない。形のあるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつて
ゆすぶられる。何故なら形があるからである。しかし、地震は太虚を動かすことはできない。
これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を語ることができるのである。
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる
行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。
また、心の外にある虚は、すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。
この説は世界の実在はすなはちわれであるといふ点で、ウパニシャッドのアートマンと
はなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」
といふことをつねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと
思はれるのである。心がすでに太虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。
だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。心が本当に死なないことを
知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、
ともすると日本には、平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」
といふ人が無数にふえていくことが想像される。肉体の延命は精神の延命と同一に
論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重のヒューマニズムは、
ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、
肉体の死ぬことばかり恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり
平和である。しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを
恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
死を恐れるのは生まれてからのちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの
心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の性質であつて、肉体を離れるとき初めて
この死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ気持のうちに
死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に
帰ることである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
ひたすら聖人に及ばざることのみを考へてゐるところからは、決して行動のエネルギーは
湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と同一視することであり、
自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを
経過した行動ならば、その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。
陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまつたく
うかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
日本が貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの
一環に属することによつて西欧化に対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による
抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を
革正することによつてしか、最終的に成就されない道である。そのとき革新思想が
どのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその政治的有効性の方向に
引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれは
この陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の
対立状況における精神の闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
世間で謙遜な人とほめられてゐるのはたいてい犠牲者です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より
己惚れ屋にとつては、他人はみんな、自分の己惚れのための餌なのです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より
どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいへませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より
流行は無邪気なほどよく、「考へない」流行ほど本当の流行なのです。
白痴的、痴呆的流行ほど、あとになつて、その時代の、美しい色彩となつて残るのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より
エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より
全く自力でやつたと思つたことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、
誰にも身を売らないつもりでも、それと知らずに身を売つてゐるのが、現代社会といふものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 美人の妹を利用すべし」より
男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、
一等自尊心を鼓舞されて、大得意になるといふ妙なケダモノであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より
女の人が自分の体に対して抱いてゐる考へは、男とはよほどちがふらしい。その乳房、
そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考へず、何かますます
普遍的な、女一般に属するものと考へる。この点で、どんなに化粧に身をやつし、
どんなに鏡を眺めて暮しても、女は本質的にナルシスにはならない。
ギリシアのナルシスは男であります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より
人に恩を施すときは、小川に花を流すやうに施すべきで、施されたはうも、淡々と
忘れるべきである。これこそ君子(くんし)の交はりといふものだ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の恩は忘れるべし」より
若い人といふものは、殊に喧嘩の話が好きです。若いくせにひたすら平和主義に沈潜したり
してゐるのは、たいてい失恋常習者である。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より
「洗練された紳士」といふ種族は、必ず不道徳でありますから、お世辞の大家であつて、
「人間の真実」とか「人生の真相」とかいふものは、めつたに持ち出してはいけないものだ、
といふことを知つてゐます。ダイアモンドの首飾などを持つてゐる貴婦人は、そのオリジナルは
銀行にあづけ、寸分たがはぬ硝子玉のコピイを首にかけて出かけるのが慣例です。
人生の真実もこれと同じで、本物が必要になるのは十年にいつぺんか二十年にいつぺんぐらい。
あとはニセモノで通用するのです。それが世の中といふもので、しよつちゆう火の玉を抱いて
突進してゐては、自分がヤケドするばかりである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 空お世話を並べるべし」より
男と女の一等厄介なちがひは、男にとつては精神と肉体がはつきり区別して意識されてゐるのに、
女にとつては精神と肉体がどこまで行つてもまざり合つてゐることである。
女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いづれも肉体と不即不離の関係に立つ点で、
男の精神とはつきりちがつてゐる。いや、精神だの肉体だのといふ区別は、男だけの
問題なのであつて、女にとつては、それは一つものなのだ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
五百人の男と交はつた女は、心をも切り売りした哀れな娼婦になり、五百人の女と交はつた男は、
単なる放蕩者に止(とど)まつて、精神の領域では立派な尊敬すべき男であるといふ事態も起り得る。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
精神と肉体をどうしても分けることのできない女性の特有そのものを、仮に「罪」と
呼んだと考へればよい。そして一等厄介なことは、女性の最高の美徳も、最低の悪徳も、
この同じ宿命、同じ罪、同じ根から出てゐて、結局同じ形式をとるといふことです。
崇高な母性愛も、良人に対する献身的な美しい愛も、……それから「よろめき」も、
御用聞きとの高笑いも、……みんな同じ宿命から出てゐるといふところに、女性の
女性たる所以があります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。
死者に対する悪口は、これに反して、いかにも人間的です。悪口は死者の思ひ出を、
いつまでも生きてゐる人間の間に温めておくからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 死後に悪口を言ふべし」より
ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」
などと持ちかけるダラシのないヤカラはゐないことです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 ケチをモットーにすべし」より
利口であらうとすることも人生のワナなら、バカであらうとすることも人生のワナであります。
そんな風に人間は「何かであらう」とすることなど、本当は出来るものではないらしい。
利口であらうとすればバカのワナに落ち込み、バカであらうとすれば利口のワナに落ち込み、
果てしもない堂々めぐりをかうしてくりかへすのが、多分人生なのでありませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 馬鹿は死ななきや……」より
告白癖のある友人ほどうるさいものはない。もてた話、失恋した話を長々ときかせる。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より
やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であつて、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所をみとめるのに、
人も同じやうに弱いといふことを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より
どんなに醜悪であらうと、自分の真実の姿を告白して、それによつて真実の姿をみとめてもらひ、
あはよくば真実の姿のままで愛してもらはうと考へるのは、甘い考へで、人生をなめて
かかつた考へです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より
北欧諸国で老人の自殺が多いのは何が原因かね。社会保障が行き届きすぎて、老人が何も
することがなくなつて、希望を失つて自殺するのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より
青年男女の自殺といふのはママゴトのやうなもので、一種のオッチョコチョイであり、
人生に関する無智から来る。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より
大体、男女といふものは、色事以外は、別種類の動物であつて、興味の持ち方から何から
ちがふし、トコトンまでわかり合ふといふわけには行かないのであるから、どこへも
男女同伴夫婦同伴などといふのは、人間心理をわきまへぬ野蛮人の風習である。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より
どんな功利主義者も、策謀家も、自分に何の利害関係もない他人の失敗を笑ふ瞬間には、
ひどく無邪気になり、純真になります。誰でも人の好さが丸出しになり、目は子供つぽい
光りに充たされます。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より
友情はすべて嘲り合ひから生れる。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より
三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知つてゐるとは
いへないのが、人生の面白味ですが、同時に、小説家のはうが読者より人生をよく知つてゐて、
人に道標を与へることができる、などといふのも完全な迷信です。小説家自身が人生に
アップアップしてゐるのであつて、それから木片につかまつて、一息ついてゐる姿が、
すなはち彼の小説を書いてゐる姿です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 小説家を尊敬するなかれ」より
神経が疲労してゐるとき病的に性欲が昂進するのは、われわれが、経験上よく知つてゐる
ことである。これを「強烈な原始的性欲」とか、「本能の嵐」とかに見まちがへる人がゐたら、
よつぽどどうかしてゐるのである。これはむしろ本能から一等遠い状態です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 性的ノイローゼ」より
怪力乱神は、どうもどこかに実在するらしい、といふのが私のカンである。
仕事をしてゐるときでも、ふと自分が怪力乱神の虜になつてゐると感じることがある。
しかしこの世に知性で割り切れぬことがあるのは、少しも知性の恥ではない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 お化けの季節」
人間対人間では、いつも勝つのは、情熱を持たない側の人間です。
あるひは、より少なく情熱を持つ側の人間です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より
セールスマンの秘訣は決して売りたがらぬことだと言はれてゐる。人が押売りからものを
買ひたがらぬのは、人間の本能で、敗北者に対して、敗北者の売る物に対して、
魅力を感じないからであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より
人を待たせる立場の人は、勝利者であり成功者だが、必ずしも幸福な人間とはいへない。
駅の前の待ち人たちは、欠乏による幸福といふ人間の姿を、一等よくあらはしてゐると
いへませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より
いくら禿頭でも、独身の男といふものは、女性にとつて、或る可能性の権化にみえるらしい。
男にとつていかに独身のはうがトクであるかは、言ふを俟ちません。かく言ふ私でも、
結婚したとたんに、女性の読者からの手紙が激減してしまひました。これは大いに私を
意気沮喪させる現象でありました。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より
孤独感こそ男のディグニティーの根源であつて、これを失くしたら男ではないと言つてもいい。
子供が十人あらうが、女房が三人あらうが、いや、それならばますます、男は身辺に
孤独感を漂はしてゐなければならん。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より
男はどこかに、孤独な岩みたいなところを持つてゐなくてはならない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より
このごろは、ベタベタ自分の子供の自慢をする若い男がふえて来たが、かういふのはどうも
不潔でやりきれない。アメリカ人の風習の影響だらうが、誰にでも、やたらむしやうに
自分の子供の写真を見せたがる。かういふ男を見ると、私は、こいつは何だつて男性の
威厳を自ら失つて、人間生活に首までドップリひたつてやがるのか、と思つて腹立たしくなる。
「自分の子供が可愛い」などといふ感情はワイセツな感情であつて、人に示すべきものでは
ないらしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より
日本も三等国か四等国か知らないが、そんなに、「どうせ私なんぞ」式外交ばかりやらないで、
たまにはゴテてみたらどうだらう。さうすることによつて、自分の何ほどかの力が
確認されるといふものであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 何かにつけてゴテるべし」より
現代は一方から他方を見ればみんなキチガヒであり、他方から、一方を見ればみんな
キチガヒである。これが現代の特性だ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴呆症と赤シャツ」より
男が持つてゐる癒やしがたいセンチメンタリズムは、いつも自分の港を持つてゐたいといふことです。
世界中の港をほつつき歩いても最後に帰つて身心を休める港は、故里の港一つしかない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 恋人を交換すべし」より
美しい女と二人きりで歩いてゐる男は頼もしげにみえるのだが、女二人にはさまれて
歩いてゐる男は道化じみる。
三島由紀夫「春子」より
事件といふものは見事な秩序をもつてゐるものである。日常生活よりもはるかに見事な。
三島由紀夫「サーカス」より
相似といふものは一種甘美なものだ。ただ似てゐるといふだけで、その相似たものの
あひだには、無言の諒解(りようかい)や、口に出さなくても通ふ思ひや、静かな信頼が
存在してゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「翼」より
模倣が少女の愛の形式であり、これが中年女の愛し方ともつとも差異の顕著な点である。
三島由紀夫「翼」より
翼は地上を歩くのには適してゐない。
三島由紀夫「翼」より
人間の野心といふものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、幸福といふものは皆と
同じになりたいといふ欲求だ。
三島由紀夫「クロスワード・パズル」より
どんか死でもあれ、死は一種の事務的な手続である。
三島由紀夫「真夏の死」より
一人死んでも、十人死んでも、同じ涙を流すほかに術がないのは不合理ではあるまいか?
涙を流すことが、泣くことが、何の感情の表現の目安になるといふのか?
三島由紀夫「真夏の死」より
われわれには死者に対してまだなすべき多くのことが残つてゐる。悔恨は愚行であり、
ああもできた、かうも出来たと思ひ煩らふのは詮ないことであるが、それは死者に対する
最後の人力の奉仕である。われわれは少しでも永いあひだ、死を人間的な事件、
人間的な劇の範囲に引止めておきたいと希(ねが)ふのである。
三島由紀夫「真夏の死」より
記憶はわれわれの意識の上に、時間をしばしば並行させ重複させる。
三島由紀夫「真夏の死」より
悲嘆の博愛を信じろと云つても困難である。悲しみは最もエゴイスティックな感情だからである。
三島由紀夫「真夏の死」より
生きてゐるといふことは、何といふ残酷さだ。
…残酷な生の実感には、深い、気も遠くなるほどの安堵があつた。
三島由紀夫「真夏の死」より
われらを狂気から救ふものは何ものなのか? 生命力なのか? エゴイズムなのか?
狡さなのか? 人間の感受性の限界なのか? 狂気に対するわれわれの理解の不可能が、
われわれを狂気から救つてゐる唯一の力なのか? それともまた、人間には個人的な不幸しか
与へられず、生に対するどんな烈しい懲罰も、あらかじめ個人的な生の耐へうる度合に於て、
与へられてゐるのであらうか? すべては試煉にすぎないのであらうか?
しかしただ理解の錯誤がこの個人的な不幸のうちにも、しばしば理解を絶したものを
空想するにすぎないのであらうか?
三島由紀夫「真夏の死」より
事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、
そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。
三島由紀夫「真夏の死」より
われわれの生には覚醒させる力だけがあるのではない。生は時には人を睡(ねむ)らせる。
よく生きる人はいつも目ざめてゐる人ではない。時には決然と眠ることのできる人である。
死が凍死せんとする人に抵抗しがたい眠りを与へるやうに、生も同じ処方を生きようとする人に
与へることがある。さういふとき生きようとする意志は、はからずもその意志の死によつて生きる。
三島由紀夫「真夏の死」より
死もわれわれの生の一事件にすぎないといふ残酷な前提…
三島由紀夫「真夏の死」より
男性は通例その移り気に於て女性よりも感傷的なものである。
三島由紀夫「真夏の死」より
死の近い病人が無意識に死の予感にかられて、自分を愛してくれる人たちを別れ易くして
やるために、殊更自分を嫌われ者にする、といふ言ひつたへには、たしかに或る種の真実がある。
病苦や焦燥のためだけではなくて、病人のつのる我儘には、生への執着以外の別の動機が
ひそんでゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「貴顕」より
この世界の愚劣を癒やすためには、まづ、何か、愚劣の洗滌が要るのだ。
藷たちが愚劣と考へることの、一生けんめいの聖化が要るのだ。あいつらの信条、
あいつらの商人的な一生けんめいさをさへ真似をして。
三島由紀夫「葡萄パン」より
大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまいを正して、静止してゐるかの
やうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇つてゆく
透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で順々に
充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。
それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を
支へてゐる力の持続は、すばらしい。
三島由紀夫「雨のなかの噴水」より
この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐつてゐる。かつて無数の若者の流した血が
海の潮の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらはありありと見る。
徒に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、喚(おら)び、
猛き獣のごとくこの小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。
三島由紀夫「英霊の声」より
われらには、死んですべてがわかつた。死んで今や、われらの言葉を禁(とど)める力は
何一つない。われらはすべてを言ふ資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を流したからだ。
三島由紀夫「英霊の声」より
われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、
さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神で
あらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくては
ならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと
歴史とをつなぐ唯一条の糸があるからだ。
三島由紀夫「英霊の声」より
そして陛下は決して、人の情と涙によつて、われらの死を救はうとなさつたり、われらの死を
妨げようとなさつてはならぬ。神のみが、このやうな非合理な死、青春のこのやうな
壮麗な屠殺によつて、われらの生粋の悲劇を成就させてくれるであらうからだ。
さうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだらう。われらは戦士ではなく、
闘技場の剣士に成り下るだらう。神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬだらう。……
三島由紀夫「英霊の声」より
陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、
そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと
人間であらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、
たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。
清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だか、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。
何と云はうが、人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、
陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。
それを二度とも陛下は逸したまふた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
三島由紀夫「英霊の声」より
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。
歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、
あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであらう。
この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を
失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉ふた。
三島由紀夫「英霊の声」より
もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ
陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか。
三島由紀夫「英霊の声」より
貴族とは没落といふ一つの観念を誰よりも鮮やかに生きる類ひの人間であつた。たとへば
「出世」といふ行為を離れてはありえぬ「出世」といふ観念を人は純粋に生きることが
できないが、そこへゆくと、没落といふ観念はもともと没落といふ行為とは縁もゆかりもない
ものなのである。没落を生きてゐるのではなく、「失敗した出世」を生きてゐることにならう。
没落といふ観念を全的に生きるためには、決して没落してはならなかつた。落下の危険なしに
サーカスは考へられないが、本当に落ちてしまつたらそれはもはやサーカスではなくて、
一つの椿事にすぎないのと同じやうに。
三島由紀夫「宝石売買」より
女性のもつ人道的感情はきはめて麗はしいもので、多くの場合、審美的でさへあるのである。
三島由紀夫「宝石売買」より
女の宝石をほめるのは、面と向つてその体をほめるやうなものではなからうか。
宝石への誉め言葉が時あつてふしぎな官能の歓びを女に与へるのはそのためだ。
三島由紀夫「宝石売買」より
打算のない愛情とよく言ひますが、打算のないことを証明するものは、打算を証明するものと
同様に、「お金」の他にはありません。打算があつてこそ「打算のない行為」もあるのですから、
いちばん純粋な「打算のない行為」は打算の中にしかありえないわけです。
夜があつてこそ昼があるのだから、昼といふ観念には「夜でない」といふ観念が含まれ、
その観念の最も純粋な生ける形態は夜の只中にしかないやうに、又いはば、深海魚が陸地に
引き揚げられて形がかはつてゐるのに、さういふ深海魚をしか見ることのできない人間が、
夜の中になく夜の外にある昼のみを昼と呼び、打算の中になく打算の外にある「打算なき行為」
だけを「打算なき行為」とよぶ誤ちを犯してゐるわけなのです。
三島由紀夫「宝石売買」より
何度失敗してもまた未練らしく試みられて際限がないあの錬金術同様に、打算のない行為と
いふものは、何度失敗しても飽きることなく求められて来ました。はじめそれは
精神の世界で探されました。宗教がさうですね。お互ひが真に孤独でなければ出来ない行為は、
精神の世界では、愛がその最高のものであり、もしかしたら唯一のものかもしれません。
そこで打算のない行為の原型が愛に求められました。しかし残念なことに、愛は対象の属性には
決してなりえないといふ法則が発見されたのです。これがつまり基督の昇天です。
彼の愛は人間の属性になるには耐へなかつた。孤独の属性になるには耐へなかつた。
三島由紀夫「宝石売買」より
嘘つきにみえる方が正直にみえるより得ではなくつて?
だつて安心して本当のことが言へますもの。
三島由紀夫「宝石売買」より
現代人は自分の外部に、すべて内部の観念の対応物をしかみとめない。
宝石などといふ純粋物質の存在をみとめない。しかし人間の内部と全く対応しない一物質を、
古代の人たちは物質と呼ばずに運命と呼んだのではなからうか。精神のうちでも決して
具象化されない純粋な精神が、外部に存在して、ただ一つの純粋物質としてわれわれの
内部を脅やかすに至つたのではあるまいか。
三島由紀夫「宝石売買」より
どんな卑近な情熱でも、そこには何らかの自己放棄を伴ふものだ。
三島由紀夫「孝経」より
良心は人を眠らせないが、罪は熟睡させるのである。
三島由紀夫「孝経」より
若さは礼儀正しく、しかも兇暴に撃ちかかつて来て、老年はこちらにゐて、微笑しながら、
じつと自信を以て身を衛る。青年の、暴力を伴はない礼儀正しさはいやらしい。それは
礼儀を伴はない暴力よりももつと悪い。
三島由紀夫「剣」より
相手の完璧さは完璧さの仮装であり、完璧さに化けてゐるのだ。
この世に完璧なものなんぞあらう筈はない。
三島由紀夫「剣」より
廉恥の心は持ちつづけてゐるべきだが、うじうじした羞恥心などはみな捨てる。
「……したい」などといふ心はみな捨てる。その代りに、「……すべきだ」といふことを
自分の基本原理にする。さうだ、本当にさうすべきだ。
三島由紀夫「剣」より
少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたことがある。見るか見ぬかの
一瞬のうちの変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だつた。それが渦巻きはじめた。
ぴたりと静まつた。するとそれは蒼黒い、平べつたい、冷たい鉄の円盤になつた。
彼は太陽の本質を見たと思つた。……しばらくはいたるところに、太陽の白い残影を見た。
叢にも。木立のかげにも。目を移す青空のどの一隅にも。
それは正義だつた。眩しくてとても正視できないもの。そして、目に一度宿つたのちは、
そこかしこに見える光りの斑は、正義の残影だつた。
三島由紀夫「剣」より
剣は結局、手の内にはじまつて手の内に終るな。
三島由紀夫「剣」より
人間が本当に学んで会得することといふのは、一生にたつた一つ、どんな小さいことでもいい。
たつた一つあればいいんだ。
三島由紀夫「剣」より
幸福なんて男の持つべき考へぢやない。
三島由紀夫「剣」より
誰かが苦しまなければならぬ。誰か一人でも、この砕けおちた世界の硝子のかけらの上を、
血を流して跣で歩いてみせなければならぬ。
三島由紀夫「美しい星」より
一人の人間が死苦にもだえてゐるとき、その苦痛がすべての人類に、ほんのわづかでも
苦痛の波動を及ぼさないとは何事だらう!
…どうしてあの原子爆弾の怖ろしい苦痛ですら、個人的な苦痛に還元され、肉体的な体験だけで
頒(わか)たれることになつたのだらう。
三島由紀夫「美しい星」より
いやが上にも凡庸らしく、それが人に優れた人間の義務でもあり、また、唯一つの自衛の
手段なのだ。
三島由紀夫「美しい星」より
今や人類は自ら築き上げた高度の文明との対決を迫られてをり、その文明の明智ある
支配者となるか、それともその文明に使役された奴隷として亡びるか、二つに一つの
決断を迫られてゐる。
三島由紀夫「美しい星」より
アメリカは、広島への原爆の投下によつて、自らの手を汚しました。これは彼らの歴史の
永久に落ちぬ汚点となりました。
三島由紀夫「美しい星」より
あるべきだと考へるものは、決してこの世に存在しない。しかし何かが存在しないなら、
それが存在すべきだつた。
三島由紀夫「美しい星」より
肉の交はりはそもそも心の交合の模倣であり、絶望から生れた余儀ない代償ではないだらうか。
三島由紀夫「美しい星」より
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために
作つた言葉だよ。偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに
身を隠してゐるのに、ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。
人智が探り得た最高の必然性は、多分天体の運行だらうが、それよりさらに高度の、
さらに精巧な必然は、まだ人間の目には隠されてをり、わずかに迂遠な宗教的方法で
それを揣摩してゐるにすぎないのだ。宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、
そこにこそ真の必然が隠されてゐるのだが、天はこれを人間どもに、いかにも取るに
足らぬもののやうに見せかけるために、悪戯つぽい、不まじめな方法でちらつかせるにすぎない。
三島由紀夫「美しい星」より
人間どもはまことに単純で浅見だから、まじめな哲学や緊急な現実問題やまともらしく
見える現象には、持ち前の虚栄心から喜んで飛びつくが、一見ばかばかしい事柄や
ノンセンスには、それ相応の軽い顧慮を払ふにすぎない。かうした人間はいつも天の必然に
だまし討ちにされる運命にあるのだ。なぜなら天の必然の白い美しい素足の跡は、
一見ばからしい偶然事のはうに、あらはに印されてゐるのだから。
恋し合つてゐる者同士は、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。それだけならふしぎもないが、
憎み合つてゐて、お互ひに避けたいと思つてゐる同士も、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。
この二例を人間の論理で統一すると、愛憎いづれにしろ、関心を持つてゐる人間同士は
否応なしに偶然に会ふといふことになる。人間の論理はそれ以上は進まない。
三島由紀夫「美しい星」より
しかしわれわれ宇宙人の鳥瞰的な目は、もつと広大な展望を持つてゐる。そこから見ると、
関心を抱き合ひつつ偶然に会ふ人の数とは比べものにならぬほど、人間どもは、電車の中、
町中で、何ら関心を持ち合はない無数の他人とも、時々刻々、偶然に会つてゐるのだ。
おそらく一生に一度しか会はない人たちと、奇蹟的にも、日々、偶然に会つてゐるのだ。
ここまでひろげられた偶然は、もう大きな見えない必然と云ふほかはあるまい。
仏教徒だけがこの必然を洞察して、『一樹の蔭』とか『袖触れ合ふも他生の縁』とかの
美しい隠喩でそれを表現した。そこには人間の存在にかすかに余影をとどめてゐる
『星の特質』がうかがはれ、天体の精妙な運行の、遠い反映が認められるのだ。実はそこには、
それよりもさらに高い必然の網目の影も落ちかかつてゐるのだが……。
三島由紀夫「美しい星」より
かつて叫ばれた八紘一宇といふ言葉は、かかる文明史的予言であつたものを、軍閥に利用されて、
卑小な意味に転化されたのだ。
三島由紀夫「美しい星」より
世界連邦の理念は、国際連合的な悪平等の上に立つてにつちもさつちも行かなくなるやうな
ものではなく、文明史的潮流の予言的洞察の上に立ち、日本といふ個と、世界といふ全体との、
お互ひがお互ひを包み込むやうな多次元的綜合(!)に依るべきである。
三島由紀夫「美しい星」より
人間には三つの宿命的な病気といふか、宿命的な欠陥がある。
その一つは事物への関心(ゾルゲ)であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは
神への関心である。人類がこの三つの関心を捨てれば、あるひは滅亡を免れるかもしれないが、
私の見るところでは、この三つは不治の病なのです。
三島由紀夫「美しい星」より
466 :
この名無しがすごい!:2010/06/04(金) 22:20:45 ID:gRHuE0gF
「マイクロソフトはキャッシュカウ(金を生み出す卵)!!」
三島由紀夫 in heaven
いくら人間が群をなして集まつても、宇宙法則の中で『生命』といふものが例外的なものに
すぎないといふ無意識の孤独感は拭はれず、人間はとりわけ物に、無機物き執着します。
金貨と宝石とは人間の生命と生活に対する一等冷淡な対立物であるにもかかはらず、
さういふ物質をとらへて、人間的色彩をこれに加へ、人間的臭気をこれに与へることに
人々は熱中して来ました。そのうちに人間は物に馴れ親しみ、物の運動と秩序のなかに、
人間の本質をみつけ出すやうにさへなつたのです。
そして有機物にすら、生きて動いてゐる猫にすら、人間の惹き起す事件にすら、いや、
人間そのものにすら、物の属性を与へなくては安心できぬやうになつた。物の属性を
即座に与へることが事物に完結性の外観をもたらし、人間が恒久性の観念と故意を
ごつちやにしてゐる『幸福』の外観をもたらすからです。
三島由紀夫「美しい星」より
かやうに人間の事物への関心は、時間の不可逆性からつねに自分を救ひ出さうとする欲求で、
三十年前にロンドンで買つた傘を愛用してゐる紳士も、今年の夏の流行の水着を身につける女も、
三十年間にしろ、一ヵ月にしろ、その時間を代表する物質に自分を閉じ込めて安心するのです。
物質に対する人間の支配は、暗々裡に、いつも物質の最終的な勝利を認めてきた。
さうでなかつたら、どうして地球上に、あんなに沢山、石や銅や鉄のいやらしい記念碑や
建築物やお墓が残つてゐる筈がありませう。さて、そこで人間は、最後に、物質の性質を
ある程度究明して、原子力を発見したのです。水素爆弾は人間の到達したもつとも逆説的な事物で、
今人間どもは、この危険な物質の裡に、究極の『人間的』幻影を描いてゐるのです。
三島由紀夫「美しい星」より
性慾は実は人間的関心ではないのです。それは繁殖と破壊の間から、世界の薄明を
覗き見る行為です。
三島由紀夫「美しい星」より
彼らはみな、苦痛が決して伝播しないこと、しかも一人一人が同じ苦痛の『条件』を
荷つてゐることを知悉してゐるのです。
人間の人間に対する関心は、いつもこのやうな形をとります。同じ存在の条件を荷ひながら、
決して人類共有の苦痛とか、人類共有の胃袋とかいふものは存在しないといふ自信。……
三島由紀夫「美しい星」より
政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで
普遍性と共有性を認めます。毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと
人類共有の文化的遺産になります。しかし苦痛がさうなつては困るのです。大演説の最中に
政治的指導者の奥歯が痛みだしたとき、数万の聴衆の奥歯が同時に痛みだしては困るのです。
三島由紀夫「美しい星」より
神のことを、人間は好んで真理だとか、正義だとか呼びたがる。しかし神は真理自体でもなく、
正義自体でもなく、神自体ですらないのです。それは管理人にすぎず、人知と虚無との
継ぎ目のあいまいさを故ら維持し、ありもしないものと所与の存在との境目をぼかすことに
従事します。何故なら人間は存在と非在との裂け目に耐へないからであるし、一度人間が
『絶対』の想念を心にうかべた上は、世界のすべてのものの相対性とその『絶対』との間の
距離に耐へないからです。遠いところに駐屯する辺境守備兵は、相対性の世界をぼんやりと
絶対へとつなげてくれるやうに思はれるのです。そして彼らの武器と兜も、みんな人間が
稼いで、人間が貢いでやつたものばかりです。
三島由紀夫「美しい星」より
神への関心のおかげで、人間はなんとか虚無や非在や絶対などに直面しないですんできました。
だから今もなほ、人間は虚無の真相について知るところ少く、虚無のやうな全的破壊の原理は
人間の文化内部には発生しないと妄信してゐる人間主義の愚かな名残で、人知が虚無を
作りだすことなどできないと信じてゐます。
本当にさうでせうか? 虚無とは、二階の階段を一階へ下りようとして、そのまますとんと
深淵へ墜落すること。花瓶へ花を活けようとして、その花を深淵へ投げ込んでしまふこと。
つまり目的を持ち、意志から発した行為が、行為のはじまつた瞬間に、意志は裏切られ、
目的は乗り超へられて、際限なく無意味なもののなかへ顛落すること。要するに、
あたかも自分が望んだがごとく、無意味の中へダイヴすること。あらゆる形の小さな失錯が、
同種の巨大な滅亡の中へ併呑されること。……人間世界では至極ありふれた、よく起る
事例であり、これが虚無の本質なのです。
三島由紀夫「美しい星」より
科学的技術は、ふしぎなほど正確に、すでに瀰漫してゐた虚無に点火する術を知つてゐます。
科学的技術は人間が考へてゐるほど理性的なものではなく、或る不透明な衝動の抽象化であり、
錬金術以来、人間の夢魔の組織化であり、人間どもが或る望まない怪物の出現を夢みると、
科学的技術は、すでに人間どもがその望まない怪物を望んでゐるといふことを、証明して
みせてくれるのです。そこで、人間をすでにひたひたと浸してゐた虚無に点火される日が
やつてきました。それは気違いじみた真赤な巨大な薔薇の花、人間の栽培した最初の虚無、
つまり水素爆弾だつたのです。
しかし未だに虚無の管理者としての神とその管理責任を信じてゐる人間は、安心して
水爆の釦を押します。十字を切りながら、お祈りをしながら、すつかり自分の責任を免れて、
必ず、釦を押します。
三島由紀夫「美しい星」より
平和は自由と同様に、われわれ宇宙人の海から漁られた魚であつて、地球へ陸揚げされると
忽ち腐る。
三島由紀夫「美しい星」より
人類はまだまだ時間を征服することはできない。だから人類にとつての平和や自由の観念は、
時間の原理に関はりがあり、その原理によつて縛られてゐる。時間の不可逆性が、
人間どもの平和や自由を極度に困難にしてゐる宿命的要因なのです。
三島由紀夫「美しい星」より
私が彼らの想像力に愬(うつた)へようとしたやり方は、破滅の幻を強めて平和の幻と同等にし、
それをつひには鏡像のやうに似通はせ、一方が鏡中の影であれば、一方は必ず現実であると
思はせるところまで、持つて行く方法でした。
空飛ぶ円盤の出現は、人間理性をかきみだすためだつたし、理性を目ざめさせるには
その敵対物の陶酔しかないことを、理性自体に気づかせるのが目的であつた。そして
われわれの云ふ陶酔とは、時間の不可逆性が崩れること、未来の不確実性が崩れること、
すなはち、欲望を持ちえなくなること、――何故なら人間の欲望はすべて時間が原因で
あるから――、これらもろもろの、人間理性の最後の自己否定なのでした。人間の純粋理性とは、
経験を可能にする先天的な認識能力のすべてを云ふのださうで、人間の経験は欲望の、
すなはち時間の原則に従つて動くからです。
私は未開の陶酔を人間どもに教へようとしたのでした。そこでこそ現在が花ひらき、
人間世界はたちどころに光輝を放ち、目前の草の露がただちに宝石に変貌するやうな陶酔を。
三島由紀夫「美しい星」より
人間の政治、いつも未来を女の太腿のやうに猥褻にちらつかせ、夢や希望や『よりよいもの』への
餌を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、未来の暗黒へ向つて人々を
鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まらうとするあの政治、……あれをしばらく
陶酔のうちに静止させなくてはいかん。
三島由紀夫「美しい星」より
歴史上、政治とは要するに、パンを与へるいろんな方策だつたが、宗教家にまさる政治家の
知恵は、人間はパンだけで生きるものだといふ認識だつた。この認識は甚だ貴重で、
どんなに宗教家たちが喚き立てやうと、人間はこの生物学的認識の上にどつかと腰を据へ、
健全で明快な各種の政治学を組み立てたのだ。
さて、あなたは、こんな単純な人間の生存の条件にはつきり直面し、一たびパンだけで
生きうるといふことを知つてしまつた時の人間の絶望について、考へたことがありますか?
それは多分、人類で最初に自殺を企てた男だらうと思ふ。何か悲しいことがあつて、
彼は明日自殺しようとした。今日、彼は気が進まぬながらパンを喰べた。彼は思ひあぐねて
自殺を明後日に延期した。明日、彼は又、気が進まぬながらパンを喰べた。自殺は
一日のばしに延ばされ、そのたびに彼はパンを喰べた。……或る日、彼は突然、自分が
ただパンだけで、純粋にパンだけで、目的も意味もない人生を生きてゐることを発見する。
自分が今現に生きてをり、その生きてゐる原因は正にパンだけなのだから、これ以上
確かなことはない。
三島由紀夫「美しい星」より
彼はおそろしい絶望に襲はれたが、これは決して自殺によつては解決されない絶望だつた。
何故なら、これは普通の自殺の原因となるやうな、生きてゐるといふことへの絶望ではなく、
生きてゐること自体の絶望なのであるから、絶望がますます彼を生かすからだ。
彼はこの絶望から何かを作り出さなくてはならない。政治の冷徹な認識に復讐を企てるために、
自殺の代りに、何か独自のものを作り出さなくてはならない。そこで考へ出されたことが、
政治家に気づかれぬやうに、自分の胴体に、こつそり無意味な風穴をあけることだつた。
その風穴からあらゆる意味が洩れこぼれてしまひ、パンだけは順調に消化され、永久に、
次のパンを、次のパンを、次のパンを求めつづけること。生存の無意味を保障するために、
彼らにパンを与へつづけることを、政治家たち統治者たちの、知られざる責務にしてしまふこと。
しかもそれを絶対に統治者たちには気づかせぬこと。
三島由紀夫「美しい星」より
この空洞、この風穴は、ひそかに人類の遺伝子になり、あまねく遺伝し、私が公園のベンチや
混んだ電車でたびたび見たあの反政治的な表情の素になつたのだ。
こいつらは組織を好み、地上のいたるところに、趣きのない塔を建ててまはる。私はそれらを
ひとつひとつ洞察して、つひには支配者の胴体、統治者の胴体にすら、立派な衣服の下に
小さな風穴の所在を嗅ぎつけたのだ。
今しも地球上の人類の、平和と統一とが可能だといふメドをつけたのは、私がこの風穴を
発見したときからだつた。お恥ずかしいことだが、私が仮りの人間生活を送つてゐたころは、
私の胴体にも見事にその風穴があいてゐたものだ。
私は破滅の前の人間にこのやうな状態が一般化したことを、宇宙的恩寵だとすら考へてゐる。
なぜなら、この空洞、この風穴こそ、われわれの宇宙の雛形だからだ。
三島由紀夫「美しい星」より
人間が内部の空虚の連帯によつて充実するとき、すべての政治は無意味になり、反政治的な
統一が可能になる。彼らは決して釦を押さない。釦を押すことは、彼らの宇宙を、内部の
空虚を崩壊させることになるからだ。肉体を滅ぼすことを怖れない連中も、この空虚を
滅ぼすことには耐へられない。何故ならそれは、母なる宇宙の雛形だからだ。
三島由紀夫「美しい星」より
愛と生殖とを結びつけたのは人間どもの宗教の政治的詐術で、ほかのもろもろの
政治的詐術と同様、羊の群を柵の中へ追ひ込むやり方、つまり本来無目的なものを
目的意識の中へ追ひ込む、あの千篇一律のやり方の一つなのだね。
三島由紀夫「美しい星」より
皮肉なことに愛の背理は、待たれてゐるものは必ず来ず、望んだものは必ず得られず、
しかも来ないこと得られぬことの原因が、正に待つこと望むこと自体にあるといふ
構造を持つてゐる。
三島由紀夫「美しい星」より
気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の最も
甘美なものの片鱗がうかがはれる。それは整然たる宇宙法則が時折洩らす吐息のやうなもの、
許容された詩のやうなもので、それが遠い宇宙から人間に投影されたのだ。人間どもの
宗教の用語を借りれば、人間の中の唯一つの天使的特質といへるだらう。
人間が人間を殺さうとして、まさに発射しようとするときに、彼の心に生れ、その腕を
突然ほかの方向へ外らしてしまふふしぎな気まぐれ。
三島由紀夫「美しい星」より
美しい気まぐれの多くは、人間自体にはどうしても解けない謎で、おそらく沢山の薔薇の
前へ来た蜜蜂だけが知つてゐる謎なのだ。何故なら、こんな気まぐれこそ、薔薇はみな
同じ薔薇であり、目前の薔薇のほかにも又薔薇があり、世界は薔薇に充ちてゐるといふ
認識だけが、解き明かすことのできる謎だからだ。
私が希望を捨てないといふのは、人間の理性を信頼するからではない。人間のかういふ
美しい気まぐれに、信頼を寄せてゐるからだ。
三島由紀夫「美しい星」より
もし人類が滅んだら、私は少なくとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を
書かずにはゐられないだらう。この墓碑銘には、人類の今までにやつたことが必要かつ
十分に要約されてをり、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかつたのだ。
その碑文の草案は次のやうなものだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきつぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾つた。
彼らはよく小鳥を飼つた。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑つた。
ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』
これをあなた方の言葉に翻訳すればかうなるのだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らはなかなか芸術家であつた。
彼らは喜悦と悲嘆に同じ象徴を用ひた。
彼らは他の自由を剥奪して、それによつて辛ふじて自分の自由を相対的に確認した。
彼らは時間を征服しえず、その代りにせめて時間に不忠実であらうとした。
そして時には、彼らは虚無をしばらく自分の息で吹き飛ばす術を知つてゐた。
ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』
三島由紀夫「美しい星」より
人間は前へ進まうとするとき、必ずうしろへも進んでゐるのだ。だから彼らは決して
到達することも、帰り着くこともない。これが彼らの宇宙なのだ。
三島由紀夫「美しい星」より
破滅か救済かいづれへ向つてゐやうと、未来は鉄壁の彼方にあつて、こちらには、
すべてに手つかずの純潔な時がたゆたうてゐる。この、掌の中に自在にたはめられる、
柔らかな、決定を待つていかやうにも鋳られる、しかもなほ現成の時、これこそ人間の時なのだ。
三島由紀夫「美しい星」より
どんな威嚇も、人間の楽天主義には敵ひはしないのだ。その点では、地獄であらうと、
水爆戦争であらうと、魂の破滅であらうと、肉体の破滅であらうと、同じことだ。
本当に終末が来るまでは、誰もまじめに終末などを信じはしない。
三島由紀夫「美しい星」より
生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間といふものだ。
三島由紀夫「美しい星」より
一寸傷つけただけで血を流すくせに、太陽を写す鏡面ともなるつややかな肉。あの肉の外側へ
一ミリでも出ることができないのが人間の宿命だつた。しかし同時に、人間はその肉体の
縁(へり)を、広大な宇宙空間の海と、等しく広大な内面の陸との、傷つきやすく
揺れやすい「明るい汀」にしたのだ。その内面から放たれる力は海をほんの少し押し戻し、
その薄い皮膚は又、たえまない海の侵蝕を防いでゐた。若い輝かしい肉が、人間の矜りに
なるのも尤もだつた。それは祝寿にあふれた、もつとも明るい、もつとも輝かしい汀であるから。
三島由紀夫「美しい星」より
警官にさよならをいう方法はいまだに発見されていない。
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」より
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。
三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より
人間のあらゆるいやらしさと崇高さとがちっとも矛盾しないのが人間だと思うんです。
三島由紀夫
河上徹太郎との対談「創作批評」より
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと
別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、
御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものは
それをどうしてもやらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思います。あまりあり過ぎると、
女蕩(たら)しになる。生活者になってしまうと思う。
生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気のあり方、
そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。
そのためには一億くらいの条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションに
ならないんだ。これはある意味で幸福だな。第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
芸術家というものは、かなり追いつめられて来てから、始めて自分の「場」を発見するんだね。
そして芸術家の価値というものは成功したとか成功しないとかいう問題でなく、
自分の宿命を見究めたかどうかにあるんだと思うな。
三島由紀夫
戸板康二との対談「歌右衛門の美しさ」より
僕は「仮面の告白」以来、小説というのはやっぱり人生を解決する、あるいは人生を
料理するものだという考えが抜けないね。どんなに唯美的に見えても、その小説が何か
作家の行動であって、一種の世界解釈だという考えは抜けないね。
ほんとうに生きるということと同じなんだから、それは唯美的に見える作家のほうが
かえって強く持っている考えであるかもしれない。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より
日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式意欲に
対する日本人独特の感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、
日本人は無意識にそれを形式的にキャッチしようと思う。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より
ベケットでね、「ゴドーを待ちながら」ね、僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。
それは二十世紀文学の悪い一面だよ。ゴドーが来ない。これはいやしくも芝居でゴドーが
来ないというのはなにごとだと、僕は怒るのだ。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より
僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。
どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。
無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。
そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるやつは、まだなんにもわからないわけだ。
それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、
お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで模索して、
最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、
結晶体の上の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を
仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、
汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、
相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。なぜ日本刀だけで、
負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだった
からだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり計算して、
こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの
考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。
生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵で
みるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの
思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるかという分かれ目に
ぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。
腕力があり、剣があって、初めて自分の思想が貫かれるのだろう。
最後に人間の顔と顔とが、ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に立たないと思う。
やっぱりそのときには剣がものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを
一所懸命、言葉で考えてる人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら
間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、
「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。というのはね、
やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。
結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来は
ないんだけれども、文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、
その二つの対立だよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
「文化を守る」ということは、「おれを守る」ということだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、
今日始めなきゃだめなんだよ。だから一番緊急なことなんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始める
というのが、ぼくは一番現実的な考えだと思うね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、
あぶないときにどっかに置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、
こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。
日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう連中はね、
どんなインテリよりもぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の歴史を見ても
よくわかりますがね。文化人というのはいつものんきなんだが、資本家が金をこわがるように、
どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、はかなさ、というものを感じないんだろうかね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな
破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。
そっからすべてものの危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを投げ出しても
いいと思うしね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、
そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。それは
アンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけど、決して
古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)
天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところに
あるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。
その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、
お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと
飛び上がる椅子をつけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル先から
女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。
自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです。
日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で
飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。
それはカソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。
頑張ってれば世界的なモデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
虚栄心、自尊心、独占欲、男性たることの対社会的プライド、男性としての能力に関する自負、
……かういふものはみんな社会的性質を帯びてゐて、これがみんな根こそぎにされた悩みが、
男の嫉妬を形づくります。
男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた怒りだと断言してもよろしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。
三島由紀夫「禁色」より
人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。
三島由紀夫「禁色」より
不安こそ、われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。
三島由紀夫「暁の寺」より
ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知つてゐたので、正直に
白状したのかもしれません。たいてい勇気ある行動といふものは、別の或るものへの
怖れから来てゐるもので、全然恐怖心のない人には、勇気の生れる余地がなくて、
さういふ人はただ無茶をやつてのけるだけの話です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より
西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、
免疫にしてしまつたはうが賢明なのかもしれない。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、
どの恋愛読本にも書いてないのはふしぎなことです。
三島由紀夫「第一の性」より
あらゆる忠義によるラジカルな行動を認めなければ、天皇制の本質を逸すると僕は言っている
わけです。場合によっては共産革命だって、もし錦旗革命だったら天皇は認めなければ
ならないでしょうね。天皇制の本質なのかもしれませんよ。それをよく知らないで、
右翼だとかファッショだといってバカにしきって戦後共産党がやっていたのは共産党が
バカだといいたいね。米のなかった時代に朕はたらふく食った、汝国民は飢えていろなどと
いう代りに、何で赤旗をもって宮城前で天皇陛下万歳をやらなかったかといいたい。
あそこで陛下の帽子をふっているあとを追いかけていって革命を成功させなかったか。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
彼ら(共産党)は天皇制護持を平気で言えるという時点まで踏み切れない。
だから日本の共産党はダメなんだ。天皇制護持までできれば成功していたし、第一党に
なっていただろうと思うが。彼らに言わせれば、まあ惜しいことをした。しかしもう遅い。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
守るというのは剣の使命であって、言葉の使命ではないからだ。言葉はただ刺すだけだ。
守ろうと思ったら、剣を執らなきゃだめだ。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
ところが二百マイルも遠い所へ行っているはずのF・ロイドが、ライトの家の裏手の芝生のそばのしだれやなぎのかげに、こっそり隠れていた。
クイーン氏は、ぶるぶると震えるような不安を感じた。
パティーがまえになんといったっけ?
「フランクはかなり恨んでいたわ」だ。
しかもフランク・ロイドは危険な人物なのだ・・・・・
エラリー・クイーン
「災厄の町」より
歌舞伎の世界というのは、名優は自分は死なないで、死の演技をする。それで芸術の最高潮に
達するわけですね。しかし武士社会で、なぜ河原乞食と卑しめられたかというと、あれは
ほんとうに死なないではないか、それだけですよ。そのひと言だけで芸術はペッチャンコですよ。
三島由紀夫
埴谷雄高との対談「デカダンス意識と死生観」より
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの
昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐殺であります。(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配が
なかったら、いくらでも嘘がつける。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、
相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。
それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。
しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に
堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が
入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が
一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、
大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、
たちまち殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが
言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、
そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の
道だと思っている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理が
あるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を
許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは
不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている。
もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、
いつまでたっても無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものを
やろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
どんな政治体制でも歴史的な基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では
日本の天皇制もまったく同じだと思います。ですから民主主義が悪いとか、天皇制が
いいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に立った政治体制が
できていくということは当然だと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。
…資本主義国家も国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の
国家の時代という点では、国家の管理機能はむしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。
これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、そんなことは先のことである。
我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんというように
私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、
それに対する防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの
社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が
戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、日本の例をとってみますと、
日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識が
ある国です。というのは、ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。
ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、クラブというのがありますね。
みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブをステイタス・
シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段を
するわけです。(中略)
アメリカにはステイタス・シンボルというものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。
…一つの社会風俗的現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに
乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金でキャデラックに乗っている、それが
ブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けば
それがブルジョアなのか。そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に
別荘を持っている。(中略)
私は階級差というものの甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を
使ったってできるのだ。(中略)
権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、
我々はむしろ権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に
同情する人がなくなっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン
動物愛護協会というものなんです。これは生活の余裕がなければできないことで、
オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方はわかりますが、犬を可愛がって、
犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうになっちゃう
ものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中から
どうやって社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
自分に危険がないような暴力行為はまったく意味がない。それにはモラルがないですからね。
ですから、アウシュヴィッツや、原子爆弾には、いまでも反対ですね。それは、
ヒューマニズムとちょっと違うんだな。ヒューマニズムだからそういうことをしちゃいけない、
というのとはちょっと違う。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
無を、スタイルによって自分の中にうまく引き止めた人間、それが芸術家じゃないでしょうか。
一般にスタイルってものは、ある個人のいちばん深いところから出てきて、社会の
いちばん浅いところまで支配しちゃうようなものでしょうね。後世から見ると、それが
その時代のスタイルというふうになって、非常に歴史的なものになっちゃうんですね。
不思議ですね、これは。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
精神分析ってのは、ついにスタイルの問題を解決しない。スタイルを解決しなきゃ、
芸術は絶対分らない。精神分析は、いつも超歴史的なモメントを持ってきて、いつも
おんなじところへ引き戻す。おんなじところへ引き戻して、どうしてミケランジェロがいて、
どうしてワットーが出てくるか、そういうスタイルの問題を、何ら解決しない。ですから
あれは、あらゆる芸術美学がそうですが、フロイトも芸術論でいちばん失敗していますね。
カントも「判断力批判」では失敗していますね。かりにも美ってものに哲学者がタッチしたり、
あるいは哲学者以外のああいう学者がタッチしたら、全部まちがえるのはそこです。
ぼくは、けっきょく、それが歴史だろうと思うんです。芸術っていうのは、非常に個性的な
あらわれ方を、自分ではしていると信じているんだけれども、どんなことをしてもできない。
それが芸術なんですね。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
(西洋では)フレッシュとボディは違うのだ。キリスト教は、フレッシュは否定するが、
ボディは否定しない。それは受肉という思想があるから。インカーネーションでもって、
ボディが復活するのであって、フレッシュは復活しない。フレッシュは滅びる。
日本ではそれが、フレッシュとボディの区別がない。日本の体という場合には、
フレッシュとボディは渾然一体なんです。それで「源氏物語」の闇のなかにあらわれる
女体は、やはりフレッシュでありボディである。同時にその背後のものを暗示しているね、
一つながりのあれですね。
それが日本の「色」というものだと思います。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
村松剛が言ったひと言を忘れないのだが、天皇制がなぜ日本に合っているかというと、
日本人が嫉妬深いからだと、うまい説明だと思ったな。つまり、一つのクッションを置いて、
権力を授受しないと、絶対に日本人は承服しない。日本人同士の互選では、権力というものは
一日も成立たんと言うのだ。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
鏡花を今の青年が読むと、サイケデリックの元祖だと思うに違いない。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より
鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の
真相を知っていた人だ、という気がしてしようがない。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より
ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、
鏡花はどこかへ連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていって
くれる文学というのはほかにない。
…谷崎さんも、もうひとつ連れていってくれない。天国へもいかない。川端康成さんは
ある意味で、「眠れる美女」なんかでどこかへ連れていくね。地獄ですかね。
鏡花が連れていくのは天国か地獄かわからない。あれは煉獄だろうか。
スウェーデンボルグ流に言うと天使界かな。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。
そういうときに何があるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、
ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
ボク、嬉しい…(三島由紀夫・ホテルの一室にて)
534 :
この名無しがすごい!:2010/06/22(火) 02:38:01 ID:jsYcx1gY
てすと
ヒューマニズムなんて言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか
身を投げることしかない。それはもっとつきつめれば焼身自殺だよ。このあいだ、
アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これはことばにかけると同じ重さを、
からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任」より
テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を
刻むべきだよ。彼ら(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、
女の足を纏足(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。
これは伝統的なものだと思うんだ。中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、
自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の人間主義というのは非常に
人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――」より
中国人は猿真似の国
モノを作り変えるなんてとんでもない
未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、連綿たる
過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、
その一番ラストに自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は
日本というものの一番の精髄をになってここにいま立って、そこで自分は終るのだ。
そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な誇りは
持てないと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。
…もし美しき社会主義を夢見れば醜き社会主義にやられてしまうんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、
なにから、やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。
うそでかためれば安全、謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、
とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、不特定多数の人間の平均的な好みに
自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが現代社会ですよ。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、
そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より
戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、
ぼくは必ずしも信じない。
…客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の
客観的条件というのはないんだ、それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。
それを熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかがかもしだされてくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より
人間の生存本能や、自己防衛本能を超越できたら、人間というものはもう少し
飛躍するのだろうと思いますけど、気違いはそれが飛躍してしまうんですね。
三島由紀夫
尾崎一雄との対談「私小説の底流」より
僕はやっぱり物体というものは、バイブレートするものだと思うんですよ。物体自体が、
一つの構成要素がバイブレートしていなければ、この宇宙は成り立たないと思うな。
ほんとうはバイブレートしているのかもしれないけれども、われわれにはその動きが
全然見えないわけですね。
三島由紀夫
尾崎一雄との対談「私小説の底流」より
ニーチェの「アモール・ファティ」じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、
人間にとって、それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
…いま日本はナショナリズムがどんどん侵食されていて、いまのままでいくと
ナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
身を守るということは卑しい思想だよ。絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう
原理を守らなくちゃならないでしょう。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
三種の神器です。ぼくは天皇というのをパーソナルにつくっちゅったことが一番いけないと
思うんです。戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな存在に
しちゃったからです。天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。(中略)
それで天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり
非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか、
これは私がいつも考えてきたことであります。なぜなら、われわれは自分の肉体の外へ
一ミリも出られない。こんな不合理なことがあるだろうか。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
おれの作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ。ぼくは空間を
意図しないけれども、時間を意図している。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。
外在すると同時に内在するその中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の
行為である。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
私にとっては、関係性というものと、自己超越性――超時間性といいましたかな、
そういうものと初めから私の中で癒着している。これを切り離すことはできない。
初めから癒着しているところで芸術作品ができているから、別の癒着の形として
行動も出てくる。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかに
どんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して
私は去っていきます。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
時間を支配しているのは女であって、男じゃない。妊娠十ヵ月の時間、これは女の持物だからね。
だから女は時間に遅れる権利があるんだよ。(中略)
女は自分が時計なんだから、肉体がちゃんと時計の役割をして、規則正しく自分の影響を
受けている。時間内存在なんだよ。男は時間外存在になりかねないから、しょっちゅう
時計に頼らないと、こわくてこわくて。
三島由紀夫
寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、
みんな大笑いする。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でも
なんでもない、ただ爆弾持って駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、
ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、百メートルを十六秒以下で
なければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。
ベトコンはやせているから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。
どうして日本のインテリというのは、ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は
重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との関係において。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
ナルシシズムというのは、自分の問題じゃないでしょうね。他人からの関心の問題ですからね。
ですから、自分へのこだわりとちょっと違うかもしれませんね。自分へのこだわりは、
ナルシシズムと反対かもしれませんね。もし、自分へのこだわりを捨てたければ、
もっとみんなナルシシストになればいいのです。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
自分になんかだれも興味をもってくれないというのは、まず社会の根本原則ですね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
僕は、自分の本質がなにかということを考えるということはやめたのです。
…自分とはなんだという問題ですね。つまり、ほじくってほじくって、玉葱の皮をむいて
いくでしょう。だんだん孤独になって、いまの大江君の「万延元年」など見ると、
そういう感じが非常にしますがね。玉葱の皮むいている。
(芯が)あるはずかもしれないけれども、皮だけかもしれない。一番簡単な通俗的な方法は
精神分析ですね。僕が自分の精神分析をすれば、どんな精神分析学者よりもうまくやる
自信がありますよ。なんでもあります、僕の中には。
…僕の変なことをやる動機なりなんなり、精神分析で解釈すれば、なんでもつくのです。
なんでもできますね。どんな精神分析学者をつれてきても驚かない。僕のほうが
うまいでしょうね。人間というのは、やはり動機で動くものじゃないと思っています。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
谷崎さんにしても川端さんにしても素晴らしい芸術家だけれども、男というものは一人も
出てこないでしょう。元禄時代、元禄時代というけれども、西鶴はちゃんと書いていますよ。
男の世界を書いている。人間がデリケートな感情から発して、激しい行動に一直線に
つながるところを書いてますね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさえ言えることで、あの戦争が日本刀だけで戦ったのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦ったのである。
ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のように使って斬死した特攻隊だけである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。
三島由紀夫「若さと体力の勝利――原田・ジョフレ戦」より
守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
人は最期の一念によつて生を引く。
三島由紀夫「椿説弓張月より
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと衰へが、
内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
女の貞淑といふものは、時たま良人のかけてくれるやさしい言葉や行ひへの報ひではなくて、
良人の本質に直に結びついたものであるべきだ。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より
楽しみといふものは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでゐる。
三島由紀夫「熊野」より
淋しさといふものは人間の放つ臭気の一種だよ。
三島由紀夫「熱帯樹」より
世の中つて、真面目にしたことは大てい失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。
三島由紀夫「白蟻の巣」より
骨肉の情愛といふものは、一度その道を曲げられると、おそろしい憎悪に変はつてしまふ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
この世には人間の信頼にまさる化物はないのだ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
われわれは言葉が現実を蝕むその腐蝕作用を利用して作品を作るのである。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、さうして永久に変貌するんだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
真の矜恃はたけだけしくない。それは若笹のやうに小心だ。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。
三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より
われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、美を保ち、
それから受ける快楽を保つ方法を知らない。
三島由紀夫「川端康成読本序説」より
芸術とは物言はぬものをして物言はしめる腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは
比喩であるのである。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』」より
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
人間の情熱は、一旦その法則に従つて動きだしたら、誰もそれを止めることはできない。
三島由紀夫「春の雪」より
夢とちがつて、現実は何といふ可塑性を欠いた素材であらう。
三島由紀夫「春の雪」より
まかりまちがへばいつでも被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。
三島由紀夫「奔馬」より
存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。
三島由紀夫「奔馬」より
同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。
三島由紀夫「奔馬」より
何事かの放棄による所有、それこそは青年の知らぬ所有の秘訣だ。
三島由紀夫「暁の寺」より
停電のときに、停電だと言つて、一体それが何になるのだらう、
…怠惰の言訳としてしか言葉を使はぬ人間がゐるものだ。
三島由紀夫「暁の寺」より
今夜が最後と思へば、話なんていくらだつてあります。
三島由紀夫「暁の寺」より
余人にはわかるまい。無感覚といふものが強烈な痛みに似てゐることを。
三島由紀夫「仮面の告白」より
好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもつとも不徳な
欲望かもしれない。
三島由紀夫「仮面の告白」より
頽廃した純潔は、世の凡ゆる頽廃のうちでも、いちばん悪質の頽廃だ。
三島由紀夫「仮面の告白」より
我々が深部に於て用意されてゐる大きな変革に気附くまでには時間がかかる。
三島由紀夫「盗賊」より
確信がないといふ確信はいちばん動かしがたいものを持つてゐる。
三島由紀夫「盗賊」より
直感といふものは人との交渉によつてしか養はれぬものだつた。それは本来想像力とは
無縁のものだつた。
三島由紀夫「盗賊」より
愛といふものは共有物の性質をもつてゐて所有の限界があいまいなばかりに多くの不幸を
巻き起すのであるらしい。
三島由紀夫「盗賊」より
青年にとつて反抗は生で、忠実は死だ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
ちつぽけな希望に妥協して、この世界が、その希望の形のままに見えて来たらおしまひだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
金でたのしみが買えないと思つてゐるのは、センチメンタルな金持だけです。
三島由紀夫「鏡子の家」より
芸術によつて解決可能な事柄は存在しない。
三島由紀夫「禁色」より
青春が無意識に生きることの莫大な浪費、収穫(とりいれ)を思はぬその一時期。
三島由紀夫「禁色」より
青春の一つの滴のしたたり、それがただちに結晶して、不死の水晶にならねばならぬ。
三島由紀夫「禁色」より
生に煩はされず、生に蝕まれない鉄壁の青春。あらゆる時の侵蝕に耐へる青春。
三島由紀夫「禁色」より
精神の創造力とは疑問を創造する力なんだ。
三島由紀夫「禁色」より
ナルシスは、その並々ならぬ誇りのために、却つて不出来な鏡を愛する場合がある。
三島由紀夫「禁色」より
夢想は私の飛翔を、一度だつて妨げはしなかつた。
三島由紀夫「岬にての物語」より
耽溺といふ過程を経なければ獲得できない或る種の勇気があるものである。
三島由紀夫「岬にての物語」より
あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、別居し、離婚した。
純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。
三島由紀夫「純粋とは」より
性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。
三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記――澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。
退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。
「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために
与へた最も素朴な観念である。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。
それといふのも、人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口を
いふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、
自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、
彼より二三歩離れた林檎の樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の
模倣でもあるのである。――端的に言へば、私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい。)
生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の意味を明かにしてくれるのだ、と。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。
逆説はその場のがれこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を
追ひつめ、どどのつまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。
逆説家がしばしばいちばん誠実な人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に
触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、逆説とは、もしかすると
神への捷径(しようけい)だ。
*「捷径」の意味…近道
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
天才(ジエニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができやう。
才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、
われわれはワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。
ワイルドの哄笑は、言葉の本来の意味での悪魔的な笑ひである。悪魔の発明は神の衛生学だ。
ワイルドの悪魔主義は衛生的なものだ。この笑ひは衛生的なものだ。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が
歯医者へゆく御褒美に菓子をせびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。
社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに
飽き、つひには恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。
彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、
おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、醜聞といふ「死」の
一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、
しかし運命のみが独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、
磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を
与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。
虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。
ワイルドの虚栄心は、受難劇の民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の
虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それがその男にとつての、ももかく
最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の小説に
選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。
それは人間の言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家は
バネをもつてゐる人形のやうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。
彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に世を去つた。彼は今も異邦人だ。
だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の生まじめは、
もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
愛は断じて理解ではない。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より
不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。
三島由紀夫「床の間には富士山を――私がいまおそれてゐるもの」より
自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
三島由紀夫「私の顔」より
すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた自然に他ならない。
三島由紀夫「情死について」より
青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。
三島由紀夫「堀江青年について」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
能は、いつも劇の終つたところからはじまる。
三島由紀夫「変質した優雅」より
いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、死の瞬間にしかないだらう。
三島由紀夫「行動の河(三島由紀夫展)」より
死の観念はやはり私の仕事のもつとも甘美な母である。
三島由紀夫「十八歳と三十四歳の肖像画――文学自伝」より
ただ耐へること、しかも矜持を以て耐へること、それも亦、ヒロイズムだつた。
三島由紀夫「『東文彦作品集』序」より
決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。
三島由紀夫「友情と考証」より
すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は
選択後の問題にすぎません。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より
近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか。
三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より
文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に基づく「名」を与へることなのだ。
三島由紀夫「現代の文学『円地文子集』解説」より
今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。
三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より
大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には
親しみを抱く傾きがある。
三島由紀夫「明治と官僚」より
人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむ。
三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より
性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。
三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記――澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より
作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。
三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より
孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割はそこにしかない。それに誠実に
直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。
三島由紀夫「空白の役割」より
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独である。
三島由紀夫「道徳と孤独」より
女方こそ、夢と現実との不倫の交はりから生れた子なのである。
三島由紀夫「女方」より
秘密といふものはたのしいもので、悩みであらうが喜びであらうが、同じ色に塗りたくつて
しまひます。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
動いてゐない人間の顔つて、何て醜いんだらう。
三島由紀夫「魔神礼拝」より
誰も死に打ち克つことができないとすれば、勝利の栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。
私たちは原稿の代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく
感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
惨めな気持ちになる秘訣は、
自分が幸福であるか否かについて考えるひまを持つことだ。
バーナード・ショウ
崩れたもの、形のないもの、盲いたもの、……それは何だと思ふ。それこそは精神のすだただ。
この世の絶頂の幸せが来たとき、その幸福の只中でなくては動かぬ思案があるのです。
三島由紀夫「癩王のテラス」より
退屈な人間は地球を屑屋に売り払ふことだつて平気でするのだ。
世界がなかなか崩壊しないといふことこそ、その表面をスケーターのやうに滑走して生きては
死んでゆく人間にとつては、ゆるがせにできない問題だつた。
女の美しさが、男の一番醜い欲望とぢかにつながつてゐる、といふことほど、女にとつて
侮辱はないわ。
この世は不完全な人間の陽画に充ちてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より
世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の何ものでもない。
世間は決して若者に才智を求めはしないが、同時に、あんまり均衡のとれた若さといふものに
出会ふと、頭から疑つてかかる傾きがある。
「愛してゐる」といふ経文の読誦は、無限の繰り返しのうちに、読み手自身の心に何かの
変質をもたらすものだ。
美の廃址を見るのも怖いが、廃址にありありと残る美を見るのも怖い。
三島由紀夫「天人五衰」より
老人はいやでも政治的であることを強いられる。
老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は失はれてゐる。
微笑とは、決して人間を容認しないといふ最後のしるし、弓なりの唇が放つ見えない吹矢だ。
飛ぶ人間を世間はゆるすことができない。
三島由紀夫「天人五衰」より
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。
三島由紀夫「檀一雄『花筐』――覚書」より
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
三島由紀夫「恋する男」より
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、
政治的鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、
一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。
ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、
爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。
ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。
三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より
人間の性の世界は広大無辺であり、一筋縄では行かないものだ。
性の世界では、万人向きの幸福といふものはないのである。
音楽といふ観念が音楽自体を消すのである。
嘘つきの常習犯ほど却つて、自分の喋つてゐることが嘘か本当か知らないのではあるまいか?
一瞬の直感から、女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかほとんど役に立たないと
言つていい。
三島由紀夫「音楽」より
いくら成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人が
しつかりした判断で決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。むかしは、お婿さんの
顔も知らずに嫁入りした娘が一杯ゐるのに、それで結構愛し合つて幸福にやつて行けたもんだ。
たしかなことは、不幸が不幸を見分け、欠如が欠如を嗅ぎ分けるといふことである。
いや、いつもそのやうにして、人間同士は出会ふのだ。
三島由紀夫「音楽」より
精神分析学は、日本の伝統的文化を破壊するものである。欲求不満(フラストレーション)
などといふ陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活を冒涜するものである。人の心に
立入りすぎることを、日本文化のつつましさは忌避して来たのに、すべての人の行動に
性的原因を探し出して、それによつて抑圧を解放してやるなどといふ不潔で下品な教理は、
西洋のもつとも堕落した下賤な頭から生まれた思想である。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といふ諺が、実は誤訳であつて、原典のローマ詩人
ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」といふ願望の意を
秘めたものであることは、まことに意味が深いと言はねばならない。
精神分析学者には文学に関する豊富な知識も必要だ。
三島由紀夫「音楽」より
人間は、どんなバカでも『お前を盲らにしてやるぞ』と言はれれば反撥する程度の自尊心は
あるから、テレビのコマーシャルをきらふけれど、『お前の目をさまさせてやる』と
言はれて不安にならぬほどの自尊心は持たないから、精神分析を歓迎するわけですね。
男性の不能の治療は、無意識のものを意識化するといふ作業よりも、過度に意識的なものを
除去して、正常な反射神経の機能を回復するといふ作業のはうが、より重要であり、
より効果的である。
見かけは恵まれた金持の息子でありながら、人生は貧乏人さへ知らない奇怪な不幸を
与へることがある。
三島由紀夫「音楽」より
女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。
私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、
夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。体全体に
きらめく汗の滴を宿した……。
目の前に横たはる麗子の姿が、私にはどうしてもそんな風に見える。そこにはあらゆる美徳、
あらゆる悪徳が蔵されてゐる。そして一人一人の男はそれについて部分的に探りを入れる
ことはできるだらう。しかしつひにその全貌と、その真の秘密を知ることはできないのだ。
三島由紀夫「音楽」より
われわれは誰が何と言はうと、愛が人間の心にひらめかす稲妻と、瞥見させる夜の青空とを、
知つてをり、見てゐるのである。
どんな不まじめな嘘の裏にも、怖ろしい人間性の問題が顔をのぞかせてゐる。
神聖さと徹底的な猥雑さとは、いづれも「手をふれることができない」といふ意味で似てゐる。
強度のヒステリー性格は、受動的に潜在意識に動かされるだけではなく、無意識のうちに
識閾下の象徴を積極的に利用する。
三島由紀夫「音楽」より
精神分析を待つまでもなく、人間のつく嘘のうちで、「一度も嘘をついたことがない」
といふのは、おそらく最大の嘘である。
ひとたび実存主義的見地に立てば、「正常な」人間の実存も、異常な人間の実存も、
「愛の全体性への到達」の欲求においては等価であるから、フロイトのやうに、一方に
正常の基準を置き、一方に要治療の退行現象を置くやうな、アコギな真似はできない筈である。
つまりそれはあまりにも、科学的実証主義のものわかりのわるさを捨てすぎたのである。
三島由紀夫「音楽」より
社会構造の最下部には、あたかも個人個人の心の無意識の部分のやうに、おもてむきの
社会では決して口に出されることのない欲望が大つぴらに表明され、法律や社会規範に
とらはれない人間のもつとも奔放な夢が、あらはな顔をさし出してゐる。
神聖さとは、ヒステリー患者にとつては、多く、復讐の観念を隠してゐる。
三島由紀夫「音楽」より
どんな不キリョウな犬でも、飼ひ馴れれば、可愛くなる。
幸福といふものは、どうしてこんなに不安なのだらう!
誰も他人に忠告なんて与へられやしないよ。だから法律が、結局、人間生活のすべてなんだ。
はじめ思想や主義を作るのは男の人でせうね。何しろ男はヒマだから。
でもその思想や主義をもちつづけるのは女なねよ。女はものもちがいいんですもの。
人間には憎んだり、戦つたり、勝つたり、さういふ原始的な感情がどうしても必要なんだ。
三島由紀夫「永すぎた春」より
美しい身なりをして、美しい顔で町を歩くことは、一種の都市美化運動だ。
現実といふものは、袋小路かと思ふと、また妙な具合にひらけてくる。
他人の心のわかりすぎる人間は、小説なんか書かない。
建設よりも破壊のはうが、ずつと自分の力の証拠を目のあたり見せてくれるものだつた。
皆が等分に幸福になる解決なんて、お伽噺にしかないんですもの。
三島由紀夫「永すぎた春」より
あつちには病人がをり、こつちにはもう数週間で結婚する二人がゐる。人生つてさうしたもんさ。
さうして朝は、誰にとつても朝なんだ。
他人のことを考へることが、私たちのことを考へることでもある。
幸福つて、素直に、ありがたく、腕いつぱいにもらつていいものなのね。
三島由紀夫「永すぎた春」より
私があるとき死はない、死があるとき私はない。
だから人間は死を怖れることはないのだ。
贅沢や退屈のしみこんだ肉は、お酒のしみこんだ肉と同じで、腐りさうでなかなか腐らない。
希んだものが、もう希まなくなつたあとで得られても、その喜びは無理矢理自分に言つて
きかせるやうなものなんです。
人間つて決して不幸をたのしみに生きてゆくことなんかできませんのね。
目には目を、歯には歯を、さうして、寛大さには寛大さを。
人を恕すといふことは、こんなことだつたのか。こんなに楽なことだつたのか。……
そしてこんなに人間を無力にするものなのか。
世の中つて、真面目にしたことは大てい失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。
三島由紀夫「白蟻の巣」より
人生とは何だ? 人生とは失語症だ。世界とは何だ? 世界とは失語症だ。歴史とは何だ?
歴史とは失語症だ。芸術とは? 恋愛とは? 政治とは? 何でもかんでも失語症だ。
座敷のまんなかに深い空井戸が口をあけてゐる家といふものを想像してみるといい。
空つぽな穴。世界を呑み込んでしまふほど大きな穴。あんたはそれを大事に護り、
そればかりか、穴のまはりに優子と俺をうまい具合に配置して、誰も考へつきさうもない
新らしい『家庭』を作り出さうといふ気になつた。空井戸を中心にしたすてきな理想的な家庭。
三島由紀夫「獣の戯れ」より
不在といふものは、存在よりももつと精妙な原料から、もつと精選された素材から成立つて
ゐるやうに思はれる。楠といざ顔をつき合はせてみると、郁子は今までの自分の不安も、
遊び友達が一人来ないので歌留多あそびをはじめることができずにゐる子供の寂しさに
すぎなかつたのではないかと疑つた。
凡庸な人間といふものは喋り方一つで哲学者に見えるものだ。
どこかひどく凡庸なところがないと哲学者にはなれない。
若さといふものは笑ひでさへ真摯な笑ひで、およそ滑稽に見せようとしても見せられない
その真摯さは、ほとんど退屈にちかいものと言つてよろしく、中年よりも老年よりも遥かに
安定度の高い頑固な年齢であつた。
三島由紀夫「純白の夜」より
明治時代にはあだし男の接吻に会つて自殺を選んだ貞淑な夫人があつた。現代ではそんな
女が見当らないのは、人が云ふやうに貞淑の観念の推移ではなくて、快感の絶対量の
推移であるやうに思はれる。ストイックな時代に人々が生れ合はせれば、一度の接吻に
死を賭けることもできるのだが、生憎今日のわれわれはそれほど無上の接吻を経験しえない
だけのことである。どつちが不感症の時代であらうか?
どんな女にも、苦悩に対する共感の趣味があるものだが、それは苦悩といふものが
本来男性的な能力だからである。
秘密は人を多忙にする。怠け者は秘密を持つこともできず、秘密と附合ふこともできない。
秘密を手なづける方法は一つしかない。すなはち膝の上で眠らせてしまふ方法である。
三島由紀夫「純白の夜」より
感情には、だまかしうる傾斜の限度がある。その限度の中では、人はなほ平衡の幻影に身を委す。
といふよりは、傾斜してみえる森や家並の外界に非を鳴らして、自分自身が傾きつつあることに
気がつかない。
粗暴な快楽が純粋でないのは、その快楽が「必要とされてゐる」からであり、別の微妙な快楽は、
不必要なだけに純粋なのだ。
貞淑といふものは、頑癬(たむし)のやうな安心感だ。彼女は手紙といいあひびきといい、
あれほどにも惑乱を露はにした一連の行動を、あとで顧みて、何一つ疾(や)ましいところはないのだと
是認するのであつた。
三島由紀夫「純白の夜」より
不安はむしろ勝利者の所有(もの)だ。連戦連勝の拳闘選手の頭からは、敗北といふ一個の
新鮮な観念が片時も離れない。彼は敗北を生活してゐるのである。羅馬(ローマ)の格闘士は、
こんな風にして、死を生活したことであらう。
恋愛とは、勿論、仏蘭西(フランス)の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらが
より多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ
出した手紙のなかで書いてゐる。
三島由紀夫「純白の夜」より
ああ、誰のあとをついて行つても、愛のために命を賭けたり、死の危険を冒したりすることは
ないんだわ。男の人たちは二言目には時代がわるいの社会がわるいのとこぼしてゐるけれど、
自分の目のなかに情熱をもたないことが、いちばん悪いことだとは気づいてゐない。
退屈する人は、どこか退屈に己惚れてゐるやうなところがあるわ。
夫婦と同様に、清浄な恋人同志にも、倦怠期といふものはあるものだつた。
狩人は義士ぢやございません。狩人のねらふのは獣であつて、仇ではございません。
獲物であつて、相手の悪意ではございません。熊に悪意を想像したら、私共は容易に
射てなくなります。ただの獣だと思へばこそ、追ひもし、射てもするのです。昆虫採集家は
害虫だからといふ理由で昆虫を、つかまへはいたしますまい。
三島由紀夫「夏子の冒険」より
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。
きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだから。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。
人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相当に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。夢の代りに不安がある。これはダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。
病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。しかもダイヤは決して死ぬことが
できんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。お父さんは病気を売りつけるのだ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。
どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。
トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。
私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の顔が
街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。
お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。気がついてからのお前の暴れやう、
哀訴懇願、あの涙……お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は
美しかつたのに、生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に
負けたんぢやないわ。命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに
黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、
明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに
黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか
明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか
黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく知つてゐる。
明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。
黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に
明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。
黒蜥蜴:法律が私の恋文になり
明智:牢屋が私の贈物になる。
黒蜥蜴、明智:そして最後に勝つのはこつちさ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
明智:あんたは女賊で、僕は探偵だ。
黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに盗んでゐた。
私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつとつかまえてみれば、
冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。
明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。
黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。
明智:しかし僕も……
黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。
明智:何が……
黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より
女の化粧がはじまると男は自分一人でゐるときよりももつと孤独になるものだ。
あれは草の上で、つやつやした白い毛を日にかがやかせて、因業な口つきで、彼と田舎娘の、
彼と誰それの、……一つ一つの寝姿をじつと見詰めてゐた。軽蔑ならまだ耐へられる。
憤りや嘲笑ならまだ耐へやすい。しかしあの目つきには耐へられない。あの山羊の
何の意味もない見詰め方に出会つては、この世界で太刀討できる人間があらうとも思はれない。
あの目つきで見つめられたら最後、人間の幸福も希望も愛情も、迅速で巧妙な殺人のやうに、
即座に消し去られてしまふのである。と謂つて殺された山羊の口もとに悪意の翳さへないことが
いよいよ救はれない。……
三島由紀夫「山羊の首」より
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。
三島由紀夫「アポロの杯」より
多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。
三島由紀夫「アポロの杯」より
芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。
三島由紀夫「アポロの杯」より
時々、窓のなかは舞台に似てゐる。
三島由紀夫「アポロの杯」より
ほんのつまらぬ動機からも、子供にありがちな移り気と飽きつぽさは、なにかおおきな意味を
みつけたがるものでございます。
三島由紀夫「祈りの日記」より
厭世的な作家?
そんなものはありはしないよ。認められない作家はみんな厭世家だし、認められた作家は
長寿の秘訣として厭世主義を信奉するだけだ。とりたてて厭世的な作家なんてありはしない。
彼らとてオレンジは好きなんだ。オレンジのの滓(かす)がきらひなだけだ。この点で
厭世家でない人間があるものかね。
三島由紀夫「魔群の通過」より
潔癖な人間には却つて何事もピンセットで扱ふことに習熟したやうな或る鷹揚さ、緩慢さが備はるものだ。
三島由紀夫「果実」より
世間といふものは、女と似てゐて案外母性的なところを持つてゐるのである。それは
自分にむけられる外々(よそよそ)しい謙遜よりも、自分を傷つけない程度に中和された
無邪気な腕白のはうを好むものである。
強欲な人間は、よくこんな愛くるしい笑ひ方をするものである。強欲といふものは
童心の一種だからであらうか。
よく眠る人間には不眠をこぼす人間はいつでも多少芝居がかつた滑稽なものに映る。
三島由紀夫「訃音」より
絶対に無道徳な貞節といふものが可能ではあるまいか。絶対に道徳を知らないで道徳に
奉仕することができはすまいか。無道徳といふ無限定が、その無限定のために、やすやすと
不徳乃至(ないし)道徳といふ限定に包まれうるものならば、象が大きすぎるといふ理由で
鼠に負けるならば。
三島由紀夫「慈善」より
事実らしさを超えて事実がありうるのはふしぎなことだ。子供が一人海で溺れれば、
誰しも在りうることと思ひ、事実らしいと思ふであらう。しかし三人となると滑稽だ。
しかし又、一万人となれば話は変つてくる。すべて過度なものには滑稽さがあるが、
と謂つて大天災や戦争は滑稽ではない。一人の死は厳粛であり、百万人の死は厳粛である。
一寸した過度、これが曲者なのである。
三島由紀夫「真夏の死」より
男の天才、女の美貌、これこそは神様のさづかりもので、あだやおろそかにはできんのだよ。
天才といふやつは、自分で自分が思ふやうにならず、この世の通常ののぞみは全部
捨てなければならん宿命に生まれついてゐる。美人も同様に不自由な存在なのさ。
自分で自分の美に一生奉仕しなければならんのだ。
美に対する女性の感受性は、凡庸でなければならなかつた。機関車を美しいと思ふやうでは
女もおしまひである。女にはまた、一定数の怖ろしいものがなければならず、蛇とか毛虫とか
船酔とか怪談とか、さういふものは心底から怖がらなければならぬ。夕日とか菫の花とか
風鈴とか美しい小鳥とか、さういふ凡庸な美に対する飽くことのない傾倒が、女性を真に
魅力あるものにするのである。
三島由紀夫「女神」より
個性美は飽きの来るものである。もつとも大切なのは優雅だ。女の個性が優雅をはみ出すと
大てい化物になつてしまふ。一芸に秀でることはもつとも禁物だつた。美といふものは本来
微妙な均衡の上にしか成立たないものだから。
女をわれわれが美しいと思ふのは、欲望があるからですよ。ほんたうに欲望を去つて、
なほかつ女が美しく見えるかどうか、僕には、はなはだ疑問なんです。自然とか静物なら
美しさがよくわかるし、その美しさは多分贋物ぢやないでせう。しかし女はね。
僕はいはゆる美人を見ると、美しいなんて思つたことはありません。ただ欲望を感じるだけです。
不美人のはうが美といふ観念からすれば、純粋に美しいのかもしれません。何故つて、
醜い女なら、欲望なしに見ることができますからね。
三島由紀夫「女神」より
美といふものは第三者から見て快いのみならず、美しい者のお互にとつても快いのである。
お互が自分の美しさを知つてゐても、鏡によらずしてはそれを見ることができないといふのは
宿命的なことだ。自分が美しいといふ認識は、たえず自分から逃げてゆくあいまいな
不透明な認識であつた。結局この世では他人の美がすべてなのだ。
女の人には、自分で直感的に見た鏡が、いちばん気に入る肖像画なんです。それ以上の
ものはありませんよ。
火に対抗するのには氷といふのはまちがひですよ。火には火、もつと強い、もつと猛烈な
火になることです。相手の火を滅ぼしてしまふくらいな猛火になることですよ。
さうしなければ、あなたの方が滅びます。
一つの悪い評判といふものは、十の悪い評判とつながつてゐるものなんです。
三島由紀夫「女神」より
母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへやうか。
三島由紀夫「きのふけふ」より
文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。
われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。
思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。
三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より
私を美しいと云つた男はみんな死んぢまつた。だから、今ぢや私はかう考へる。
私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬんだと。
三島由紀夫「卒塔婆小町」より
経済学の学説なんぞといふものは、どつちみち如意棒のやうなもので、エイッと声をかけて、
耳へ入るだけの小ささに変へてしまへばやすやすと握りつぶせるのである。そもそも唯物論は、
『金で買へないものは何もない、どんな形の幸福も金で買へる』といふ資本主義的偏見の
私生児なのである。
感動すまいとする分析家は、感動以上の誤りを犯す場合がままある。
三島由紀夫「青の時代」より
人間的な遣り方といふものは、人に馬鹿にされまいといふ馬鹿げた用心から、完全に
免かれた一部分を生活のなかにもつことだ。
しばしば人を愛してゐることに気がつくのが遅れるやうに、われわれは憎悪の確認についても、
ともするとなほざりな態度をとる。さういふときわれわれは自分の感情の怠惰を憎らしく
思ふのである。
三島由紀夫「青の時代」より
報ひとは何だらう。そんなものがあつてよいだらうか。報ひといふ考へ方は、いま悪果を
うけてゐる者が、むかしの悪因の花々しさに思ひを通はす、殊勝らしい身振にすぎぬではないか。
値踏みといへば、五千円といふまちがへやうもない名前をつけてやる行為です。世間一般でよぶ
鷲の剥製といふ名の代りに、値踏みをする人は五千円といふ特別誂への名でよびかけます。
すると鷲の剥製は、魔法の名で呼ばれたつかはしめの鳥のやうに歩き出して彼に近づいて
くるのです。
…人形に魂を吹き入れて『立て!』といふとき、魔女たちはこれに似た感情を味はひは
しないでせうか。人は値踏みによつてのみ対象に生命を賦与(あた)へることができるのです。
これ以上打算のない行為があるでせうか。
三島由紀夫「宝石売買」より
死といふ事実は、いつも目の前に突然あらはれた山壁のやうに、あとに残された人たちには
思はれる。その人たちの不安が、できる限り短時日に山壁の頂きを究めてしまはうと
その人たちをかり立てる。かれらは頂きへ、かれらの観念のなかの「死の山」の頂きへかけ上る。
そこで人たちは山のむかうにひろがる野の景観に心くつろぎ、あの突然目の前にそそり立つた
死の影響からのがれえたことを喜ぶのだ。しかし死はほんたうはそこからこそはじまるものだつた。
死の眺めはそこではじめて展(ひら)けて来る筈だつた。光にあふれた野の花と野生の果樹と
なだらかな起伏の景観を、人々はこれこそ死の眺めとは思はず眺めてゐるのだつた。
三島由紀夫「罪びと」より
明日の遠足がよいお天気であるやうにとねがふ子供は、その明日がお天気であつただけで、
もはや遠足そのものの与へる愉しみの十中八九を味はひつくしてゐるのです。よいお天気の朝を
見ただけで、彼の満足の大半は、成就されたも同じことです。
仏の花を買ひにゆくといふ殊勝な用事を彼にうちあけることが、私には何故かしら
嬉しかつたのです。私は悪戯をする子供の気持よりも、修身のお点のよいことをねがふ
子供の気持のはうが、ずつと恋心に近ひことを知るのでした。まして恋といふものは、
そつのない調和よりも、むしろ情緒のある不釣合のはうを好くものです。
三島由紀夫「不実な洋傘」より
男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フエテイシズム)にとらはれてゐるとすれば、
色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも
「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に
近づけるのである。
動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な
環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば
強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、
彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。
三島由紀夫「篠山紀信論」より
この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、
美を作り、その美が多くの眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。
幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に
背致したものが生れる。
三島由紀夫「美に逆らふもの」より
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして
行ひ難いことだ。
三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より
「ぜいたくを言ふもんぢやない」 などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと
無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが芸術(革命)を生むと信じられてゐる。
三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より
文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を
死後に持つことである。しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。
よくこんな経験があるものだ。十年も二十年も前に、たとへばピクニックに行つて、
一人だけ群を離れて、小滝や野の花の茂みのある静かな一劃に出てしまふ。そのとき何となく、
意味もなく口をついて出た言葉が、十年後、二十年後になつて、何かの瞬間に、再び
ふつと口をついて出てくるのだ。すると永年小さな謎の蕾として眠つてゐたその言葉が、
今度は急速に花をひらき、意味を帯び、人生のその瞬間を決定する、とりかへしのつかない
重要な言葉になつてしまふのだ。
小心で優柔不断らしい女が、男を不幸にしてゐる。
結婚して一ヶ月もたてば、大した苦労を嘗めなくても、女は十分現実を知つたといふ自信を
持つやうになる。
一等怖ろしいのは人間の言葉の魔力である。証拠らしい証拠がなくても、耳に注がれる
言葉の毒は、たちまち全身に廻つてしまふ。
三島由紀夫「お嬢さん」より
玉のやうな男の児。「玉のやうな」とは何と巧い形容だらうと一太郎は思つてゐた。
明るい薔薇いろをした堅固な玉。弾む玉。野球のボールのやうに力強く飛びまはる玉。
それは飛び出して、ころころ転がつて、両親や祖父母の膝の上へ跳ね上り、笑ふ玉、
喜ぶ玉、きらきらした国旗の旗竿の玉のやうに青空に浮び上り……、それを見るだけで
みんなに幸福な気持を起させるのだ。
人の心といふものは、一定の分量しか入らない箱のやうなものである。
あなたはお嬢さんだわ。本当に困つたお嬢さん、私の妹だつたら、お尻にお灸をすえてやるわ。
どうしてあなたは叫ばないの? 泣かないの? 吼えないの? 思ひ切つて、景ちやんの顔に
オムレツでもぶつけてやらないの? 花瓶を叩き割らないの? お宅の硝子窓だつて、
ずいぶん割り甲斐があるぢやない? あなたのヤキモチは小細工ばかりで醜いわ。
そんなの、ほんとに女の滓だわ。
三島由紀夫「お嬢さん」より
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつてゐても、
醜聞といふものは、いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージとよく符合する
やうにできてゐる。ましてその醜聞が、大して致命的なものではなく、人々の好奇心を
そそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには尚更である。かくて醜聞は
そのまま神話に変身する。
微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは
社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が
個人の自由を守つてきたのである。しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つて
おけば腐つてしまふ。伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の
歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方を
よくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの間には決定的な差があるが、
木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次のオリジナルに
なるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。
かくて伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の
秋は今年の秋とおなじである。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
われらの外部を規制する凡ゆる社会的政治的経済的条件がたとへ最高最善理想的なものに
達したとしても、絶対的なる「美」からみればあくまでも相対的なものであり、相対的なものが
絶対的なものを規制しようとする時、それは必ず悪い効果を生じます。いかによき政治が
美を擁護するにしろ、必ずその政治の中の他の因子が美を傷つけることは、当然のことで
仕方ないことです。したがってあらゆる時代に於て美を守る意識は反時代性をもち、
極派からはいつでも反動的と思はれます。すなはち、彼らのいはゆる反動的なるがゆゑに
貴族主義的です。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
中庸を守るとは洞ヶ峠のことではありません。いはゆる微温的態度のことではありません。
元気のない聖人気取ではありません。「中庸」の思想こそ真に青年の血を湧かせる思想なのです。
それは荊棘の道です。苦難と迫害の道です。
右顧左顧して世間の機嫌をうかゞひもつとも「穏当な」道を選ぶといふ思想こそ、孔子が
中庸といふ言葉であらはしたものと全く反対の思想です。中庸といふこと、守るといふこと、
これこそ真の長い苦しい勇気の要る道です。このやうな時代に、美を守ることの勇気、
過去の日本精神の枠、東洋文化の本質を保守するに要する勇気、これこそ真の男らしい
勇気といはねばなりません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で
星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、
美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々に
おくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に
映る星の光など見てくれません。たゞかれらの目に美しくみえるフォームでとびこんで
くれることを要求するのです。
『私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの
思ひを、あきらめて棄ててかかるのである』川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を
云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。しかも川端氏のやうなこの一言が
云へる境地に、一体達することができるかしら、とたへず不安に見舞はれます。
――たゞ一意専念、あの未知の国から一条の光をこの地上へもたらせば私の仕事はすみます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より
伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。
真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆を
おそれてゐる。この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来
デモクラチックである。
日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。
芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。
しかしその融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして
再び蝋として凝化し固形化する。これが詩人の作品である。
即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは
地上的なる形態を超えて存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より
人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。
流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。
神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは
注目すべき事実だ。
どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。
それを書いた瞬間に、すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝
警笛や荷車や鈴や軋(きし)りやあらゆる騒音が活々とゆすぶれだし、約束のやうに
辷(すべ)り出す、さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや
恵まれずとも怨まない。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より
「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される
文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――
小説のなかで存分に演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、
さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に僕は耐へられません。僕にはわづかながら
遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。僕の文学は、腹を狼に
喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その少年の
莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は生命を
賭けます。僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される
文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――
小説のなかで存分に演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、
さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に僕は耐へられません。僕にはわづかながら
遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。僕の文学は、腹を狼に
喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その少年の
莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は
生命を賭けます。僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければ
ならなかつた喜劇俳優が、その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。逃避でせうか。自嘲でせうか。
僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。彼は
悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねば
ならなかつたのです。
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。
「戯作」と云つても同じことでございませう。
あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけでは
すぐ枯渇してしまふ、ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅を
もたらす危険を内包してゐる。
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり
文化財となる。それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。
それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら
焼けることだけを目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げて
しまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な
傑作になる機会を逸してしまふといふことである。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より
愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては
「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛に
お株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な
目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。
さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしば
あるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を
逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、
日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた
考へだと言へるであらう。
三島由紀夫「愛国心」より
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。
歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、
その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より
ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが
完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよい
のである。演劇とはスキャンダルだ。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが
抱きうる決心である。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより
数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。
大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の
「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。
三島由紀夫「師弟」より
偽悪者たることは易しく、反抗者たり否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる
外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに万全を尽くすことは、
人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。
人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。
三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より
理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、
意地悪はヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、
やはり清潔な秩序の精神が、まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活の
シンボルであつてほしいと思ひます。
三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より
理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より
これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より
私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より
伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より
物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より
趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも
一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。
ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に
はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。
三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より
君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは
野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて
似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。
三島由紀夫「新古典派」より
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と
なるのである。 犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが
見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて
罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より
歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は
却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。
美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。
類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
三島由紀夫「歌舞伎評」より
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
(「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、
女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く
捨ててかへりみない。
…女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに
目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。
この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を
味はふことができぬのである。
私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが
理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物は性交のあとに
悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて
芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は
そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。
しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。
決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、
個々人の死の分量は同じなのである。
自分の死の分量を明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。
まづ個人が復活しなければならないのだ。
三島由紀夫「死の分量」より
若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんてことは、ほとんどないんぢや
ないかと思ふ。
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、
人間のかなり大事な一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。(中略)
その結果、若い人たちの性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりが
なくなり、非常にニヒリスティックになるといふことは言へると思ふ。
今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、
欲望の充足が非常に簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆に
どうやつてもいろいろな社会的な欲望の充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに
入つて来ると思ふのです。
性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、
もし性欲が非常に簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。
それはある場合においては賭事であつてもいいし、目先の小さな刺激であつてもいいし、
何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことになれば、ほかの
欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、
ほかの欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことに
なつてしまへば、ほかもみんなくだらなくなつてしまふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れてめちやくちやに
なつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないで
パチンコばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、
一方では女の子とちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも
多いんぢやないか。従つてすべてに欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない
反感を感じたおぼえがある。たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、
反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、戦死した彼らのかたはらには、
ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンがあつた。
甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、
祖国のために死んだはうが論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死を
ジャスティファイする権利をもつてゐる。
三島由紀夫
「『青春監獄』の序」より
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。
しつかりした共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ
共通の判断で、あれを善い、これを悪い、あれは正しい、これは
正しくない、といふ。それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を
与へるから「美しい」行為といはれるものは、直ちに善行を意味するのである。もしそれが
古代ギリシャのやうな至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と道徳的感覚は
一つものになるであらう。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。
かういふ方法で政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきた
ことを意味する。我々は今日、自分のモラルの感覚を云々することはたやすいが、
どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、明言することは
だれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に
従ひがちになるのである。
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられたことはない。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて
来てをり、もしモラルの感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に
抗して、芸術家が己れの感覚の誠実をうしなはないことが大切になるのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではないことは、本当の意味で西洋的な
作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の西欧思潮の
大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか
見えないかといふ色合の差にすぎない。
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへある。
芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に敏感であり、又これを裏目から支える
風土の問題に敏感である。
われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。
西洋イコール批評と云つても差支へない。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。
三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より