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342或毒蟲の一生
 一 時代

 それは或寝臺の上だつた。三十歳の彼は悪夢から目醒めると、腹部にかけた
西洋風の掛蒲團に氣附き、彼は固い甲殻の背中を下にしてちょつとばかり頭を擡げ、
わが身を探してゐた。膨らんだ腹、弓形の固い節、か細い脚、腹の白い斑點……
 そのうちに彼はわが身が毒蟲になつてゐるのを覺つた。しかし彼は部屋の中を
熱心に見探つてゐた。四方の壁、毛織物の商品見本、雑誌から切り抜いた繪、
窓のトタン板、……
 彼は驚愕と戰ひながら、職場にある自分姿を想像して行つた。が、運命はおのづから
もの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、寝臺を下りようとした。
すると何時もは右側を下にして寝てゐたのだが、今のやうな身の上になつては、どんなに
力をこめても體がゆれるばかりでそれは叶はなかつた。彼は寝臺の上に佇んだまま、
箪笥の上にかちかち鳴つてゐる目覺し時計を見上げた。針は妙に遅かつた。のみならず
如何にも遅刻らしかつた。
「人生は一行のカフカにも若かない」
 彼は暫く寝臺の上からかう云ふ自分を見下ろしてゐた。……