文体模写 スレッド 2

このエントリーをはてなブックマークに追加
321発情期ザムザ検査
「佳風ちゃん……」
 呉雄は驚いた。
 部屋に入ってきた佳風はコスチュームプレイをしていた。
 ごつごつした黒い甲殻に身を包み、頭には触覚のついた黒いゴム帽子、手には
黒い手袋。言うまでもなく『変身』のザムザのコスプレだった。
 (それにしてもなんで『舞姫』のエリスや『罪と罰』のラスコリーニコフのコスプレ
じゃなくて、色物キャラの毒虫のコスプレなんだろう?)
 訝しむ呉雄の横に、佳風はそっと腰をおろした。
 呉雄は何か声をかけようとしたが、佳風はうつむいたままで顔をあげようとしなかった。
「あ、あの、佳風ちゃん……?」
 すると、呼びかけに応えて佳風がぽつりと口を開いた。
「……呉雄君、カフカの『変身』は読んだ?」
「……うん」
 (いくら定評ある名作文学とはいえ、なぜ何十年も前に発表された古典作品の話を
するのだろう?)と呉雄は不思議に思いながらも素直に答えた。
「そう。……私も読んだわ。そして、許せなかった」
 呉雄はドキッとした。
 まさか、巷の文学青年のように、不条理小説不要論をはじめるつもりではないか、
と考えたからだ。
 (ううっ……僕だってカフカはいらないと思うけど、文学ヲタじゃないんだから
コアな話はやめてくれよ……不条理は放置しておけばいいじゃないか……)
 内心頭を抱える呉雄に、佳風は思いがけない話を切りだしてきた。
「呉雄君、ザムザの最期、どう思った?」
「え……、可哀想だなって、思ったけど……?」
 呉雄はとまどいながらも素直に感想を述べた。
 佳風の言う「ザムザ」とは『変身』に登場してくる一人称の主人公で、ある朝
目覚めると、自分の体が毒虫に変身していることに気付く。しかし周りからひどく
迫害されて無惨にも殺されてしまうのだ。背中に腐敗した林檎をつきたてて……。
「そうよね……、可哀想よね……。可哀想すぎるよね……。ヒドイよね……。
ヒドすぎるよね……」
 佳風の頬に涙が伝う。
 佳風は泣いていた。そして声を震わせて絶叫した。
「たとえ不条理小説の登場人物だって、たとえ殺人事件の犠牲者だって、人間は
人間よッ! 毒虫じゃないわッ! 毒虫じゃないのよッ! それが「殺されるべき
毒虫」? 「不条理の運命」? 許せないッ! 許せないわッ! 挙げ句の果てに、
殺される凶器がよりによって、林檎なんていくらなんでもあんまりよッ!
可哀想すぎるわ……。ヒドすぎる……。残酷よ……ッ!」
 佳風は本気で怒り、泣いていた。
 呉雄はたまらなくなり、佳風の細い肩を抱き寄せ、そっと涙をキスでぬぐった。
 そして唇を奪う。
「ああ……」
 まだ涙の糸を引きながらも佳風は呉雄の口づけを受け入れた。
 呉雄の優しいキスと、なだめるように背中を撫でる手のおかげで、佳風は少し
落ち着きを取り戻した。しかし、なおも弾劾は終わらない。
「たとえ毒虫だって……心を……魂を持って生まれてきたのなら……林檎なんかの
ためにでなく、人間として生きて……死んでほしかった……。なのにあの人は
毒虫として……人間性のカケラもないような極悪非道な周りの人間のために……
自分の巡りあった運命にとまどいながら死んでいった……もう少し生きながらえて
いれば、人間として生きていける機会はあったのに……家族のみんなとも仲良く
やっていけたのに……。「文学史に名を残す」……? そんなのウソよッ!
そんな……そんなことのために、犬死にできる人間なんかいるはずがないわッ……。
どんな人間も、自分が生きているうちに幸せになれるように、精一杯生きなきゃ
ならないんだわ……。一人の人間を犠牲にして、踏みにじってまで実現しなけりゃあ
いけない文学って何? 「不条理文学の創始」? 一人の人間を……、人生を……、
想いを踏みにじってまで毒虫に変身させなければいけない『文学』なんて、何の
意味もないわッ!そんな文学は間違ってるわよッ……!」
 佳風は呉雄の胸にもたれかかり、泣き崩れた。
「……たとえ小説の登場人物だって、人間は人間なのよ。人間は小説家の野望を
達成させる道具ではなく、自分の人生を歩むのよ……」
「佳風ちゃん……、佳風ちゃん……」
 呉雄は最愛の少女をどうやって慰めればよいかまったくわからず、ただ抱擁を
したまま口づけを繰り返すばかりだった。