文学は芸術か? 科学か?

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1吾輩は名無しである
どうなんでしょうか?
小説や詩は芸術だと思いますが、では批評はどうなるんでしょうか?
文学を芸術とイコールで結んでしまっていいものなんでしょうか?
ご教示お願いします。
2吾輩は名無しである:2001/08/23(木) 18:12
糞スレ=文学スレ、下がれ
3吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 20:59
レスなしですか・・・。
あんまり興味ないんですかね・・・。
4吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 21:00
あなたの意見を書いてみよう!
5吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 21:04
私は小説はひとまずおいといて、批評は芸術ではないと思います。
批評は芸術でもないし科学でもない。
では何かと問われれば、ジャーナリズムなんだとしかいえないんだけど。

まあ、まずこのあたりから。
6吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 22:12
まず芸術と科学の定義を書いてみてくれな
7三流大:2001/08/24(金) 22:18
学部でやってる研究は根拠を、まあ厳密に設定するから
学問であり科学な感じはします。友人が言うには
だそうです。なんだかな

科学とは論理的な知識体系の応用である。
論理的とは演繹的又は帰納的に考えること。
演繹的とは一般法則や前提事実から出発して個別の法則を導き出す論理のこと。
帰納法とは自然の様々な様態(個別的な事柄の集合)を観察した上でそこから共通した特徴を導いてくる論理のこと。
殆どの論理がこの二つの混在した形である。
※ 数学だけは純粋に演繹法である。
自然科学(数学や物理等)と社会科学(社会学や記号学)の内、自然科学だけが科学的と呼ばれる風潮がある。(自然科学の実験結果は普遍的で社会科学の実験結果は普遍的ではないという思い込み)
8三流大:2001/08/24(金) 22:20
何故か?
自然科学の実験で得られる結果が常に何より明確なものという錯覚がある。
何故錯覚と言えるのか?
・ニュートン力学では確固とした存在である時間や空間も一般相対性理論によれば歪む。
・古典物理学では宇宙はエーテルで満たされていると考えられていたが現代物理学はそれを否定している。
・古典物理学ではあらゆる物質は観察者の有無に関わらず存在するとされていたが、量子論(干渉論・重ね合わせ論)によれば粒子は観察者の意思によってその姿を表す。
各々の時代で、所謂科学的な論理は真理として認識されてきた。しかし、絶対であるはずの真理が更新される歴史が存在する。
自然科学が正解に向かっているという誤解。
9三流大:2001/08/24(金) 22:22
自然科学は恣意的(個人的)なルールに乗っ取った知の体系
に過ぎない。(文学も一緒。)自然科学という概念で世界の
全てを語れない以上(例えば、山田さんが林檎を手から離し
たとき林檎が如何に地面に落ちるか又は山田さんが手を離し
た時に如何なる電気信号が山田さんの脳を駆け巡ったかは自
然科学で説明できる。しかし、何故山田さんが手を離したか
は説明できない。)絶対的なルールでなく恣意的なルールで
ある。最初に恣意的に切り分けた概念が真理(絶対的のもの)
に近付く事は不可能である。どちらの科学も矛盾が少ないよう
に改良されているに過ぎない。(その良悪の判断も論理的で
はあるが恣意的なので絶対性は無い)

科学的な事が普遍的な真理でなくとも矛盾しない。

では、ニュートン力学は科学ではないのか?
その論理体系の中で矛盾しなければ十分に科学的である。

真理(であるはずの科学)の変更が他の論理体系によって行なわれる。
つまり科学的(論理的)=絶対的ではない。
10三流大:2001/08/24(金) 22:25
何故進化論は科学的でノアの箱舟は非科学的か?
進化論は正しい正しくないの結論は出ていないが、
論理的に進化論の中では矛盾が無い。故に科学的
である。ノアの箱舟は論拠が「『旧約聖書』に書
いてあるから」だけである。論理的でない。一見
演繹法に反していない(前提条件から個別の法則
を導く)様に思えるが、前提条件(旧約聖書の生
物学的記述)そのものが論理的でない。(自然科
学は前提条件の法則そのものが論理的である。)
論理的でないものを論理的に説明しても論理的でない。
『旧約聖書』は何故論理的で無いのか?
物語・テクスト(言説の織物)としては論理的だが生物学
としては論理的ではない。
※注意
『旧約聖書』を文学論的に説明することは論理的である。
(文学的には論理的だから)
詩論は詩そのものについては語れない。
詩が如何にして生まれたか(作家が如何に書いたかという
ことだけではない。)しか語り得ない。
故に詩は論理を超越しているが詩は論理的に語る事が出来る。
11三流大:2001/08/24(金) 22:27
私達の日常使う言語はあるルールに乗っ取って使われている。
(言語ゲーム論・ヴィトゲンシュタイン)それは文法や修辞法
や国語学というルールではなく、その社会やコミュニティの生
活形式の一致からくる判断の一致というルールである。故に
「もう、そろそろ。」
「うん。」
「それじゃ。」
というテクスト的には無意味な会話にも意味が付加されていく。
それは会話を交わす両者の間に共通のルールがあるから可能なの
である。この言語ゲームこそが言語行為である。つまり言語ゲーム
の中ではあらゆるテクストが有意味となる。言語が行為により生成
するので無意味に成り得ない。
※ 言語における無意味(ナンセンス)とは言語の指し示す命題が実存
との関わりを持たないことである。
詩の一つの方法としてこの日常言語からの逸脱がある。各々の時代や
コミュニティの持つ言語ゲームのルールでは切り取れないものを詩人
は詩的言語によって詩とする。詩とは全てが有意味である日常言語を
メタファーによって意味から開放し、「詩」にしたものである。メタ
ファーとはそれがそれでしかない言葉である。所謂隠喩という意味で
は使っていない。(隠喩とは、ある物を別の物にたとえる語法で修辞
法の一つである。たとえを用いながら、表現面にはその形式(「如し」
「ようだ」等)を出さない方法。白髪を生じたことを「頭に霜を置く」
という類。暗喩法とも言う。もしくは複数の物を内的・外的属性の類似
によって同一化する技法でもある。)この説明は乱暴ではあるが詩論の
一端である。つまり論理的な詩の定義である。この定義に反するか否か
で詩を定義する事は可能である。乱立する様々な詩論も論理的であれば
文学を科学的に語っている。その中で一方では詩とされるものが一方で
は詩とされない矛盾も出てくる。各々が確信するところの論理は互いの
論理を否定することがある。これは自然科学においても同一である。
これは詩論の科学性を些かも否定しない。何故なら科学は絶対ではない
からである。
12読む気起きない。:2001/08/24(金) 22:30
↑誰か要約して。
13三流大:2001/08/24(金) 22:29
言葉とは何か?
言語における意味
「言語の中には積極的辞項のない差異だけがある」(ソシュール)
言語を成り立たせているものは、語でも形態でも、また、意味でも
音でもなく、それらのものを出現させ、言語的に機能させている「差
異」にほかならない。私達が普段用いている言語記号は、二つの面を
持っている。二つとは、「指示部」と、「対象」である。「指示部」
とは表現であり、「対象」とはその表現が指している内容のことであ
る。ソシュールは、それを、「指示部=シニフィアン」、「対象=シ
ニフィエ」と呼んでいる。

つまり、「蜜柑」を例にすると、ミカンという音、あるいは、蜜柑と
いう文字は言語の「指示部」であり、実物の蜜柑、あるいはミカンと
いう概念はその言語の「対象」だということである。しかし、その蜜
柑という言葉や発音が必ずしも実物、概念としての蜜柑を意味しなく
ても良い。車という言葉はミカンを意味したってかまわない。自分だ
けそうすれば、それは意味が通じないが、大多数がそうすれば、蜜柑
という言葉は車を指す言葉になるのです。これらと同じようなことは、
日本語とその他の外国語とを見ても言える。日本語では、「蜜柑」だ
が、英語では「orange」である。つまり、指示部が違っても、
意味内容は同じである。これらから分かることは、言語の指示部と対
象の結びつきは必然によるものではなく、人間の恣意性によるのだと
いうことだ。
事物が何であるか(意味)を決めるものは、実は事物そのものではな
い。「他のものがそうではない」という「差異」によって決まる。概
念と対象が一致するかどうかで重要になるのは、たんにこの区別、こ
の差異だけである。差異さえあれば、意味を持つ。言語も同じである。
言語はそれ自身で意味を抱いている実質ではなくて、たんなる差異の
形式である。意味が生じるのは差異においてだけである。人間関係、
すなわち社会によって、言語は意味を与えられていく。
14吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 22:43
だから「文学」なんて「学問」扱いするな!
暇つぶしのための芸で十分だろ
15三流大:2001/08/24(金) 22:46
学校で
「文学なんて学問じゃないよね」
「科学的じゃないし」
「やっぱ理系の方が格好いいしね」
と言った私の女友達に
その日の夜送られてきたメールらしいです。
その会話の輪の隅にいたA君からきたそうです。
ややこしく書いてる割には単純かつ省略しすぎたための
語弊も見受けられる「熱い」メールでした。
晒されているとは夢にも思っていない熱いA君が
僕は好きです。
16吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 23:18
晒すなよ(w
17JPB:2001/08/25(土) 01:36
ゴメン、不覚にも笑ってしまいました・・・
というか、彼は笑って一言云うだけでよかった・・・
「余計なお世話だ」と。
18三流大:2001/08/25(土) 09:27
>>17
坊やだからそれは無理でしょう・・・。
19吾輩は名無しである:01/09/03 19:15 ID:tPYK4N2c
>>18
シャア?
20理系二流半大学生:01/09/04 15:53 ID:ifXFSU9E
>>6
>まず芸術と科学の定義を書いてみてくれな

当時の人間は納得させられなくとも、現代の人間を納得させられれば、
人は彼のことを世間に認められなかった天才と呼ばれる。
つまり、芸術かどうかは、他人に納得させることができるかどうかによるのでは
なかろうか。
故に、芸術とは、己が"美"と感じたこと、感じることを、
他人に納得させる手段ではなかろうか。

一方、科学とは論理的に考えることではなかろうか。
特に私の学んでいる、物理・化学といった自然科学は
自然現象を観察することによって演繹的に法則を見出し、
そこから帰納的に新たな法則を見出していく学問である。

故に、文学自体は、他人に自分の思考・感情・感覚等を伝える手段なので、芸術であり、
文学を研究すること、つまり文学の中に法則を見出し、
そこから新たな法則を”論理的に”導くことは科学といえるのではなかろうか。
21理系二流半大学生:01/09/04 16:10 ID:ifXFSU9E
>>8
>自然科学の実験で得られる結果が常に何より明確なものという錯覚がある。
>各々の時代で、所謂科学的な論理は真理として認識されてきた。しかし、絶対であるはずの
>真理が更新される歴史が存在する。
>自然科学が正解に向かっているという誤解。

自然科学では、自然現象こそが真理であり、いくら論理体系の中で矛盾していなくとも
自然現象(つまり実験結果)と矛盾していれば、それは偽とされる。
故に、法則は飽くまで仮説にすぎず、実験によって矛盾が発見できない場合のみ
”一時的に”正しいとしているに過ぎないのである。
当然8さんが例に上げられたように、新たな実験結果が得られれば、
それまでの理論は偽(間違い)とされ、新たな実験結果を説明し得る
新たな理論が構築される。
つまり、科学法則は”絶対であるはずの真理”などではなく、逐次更新されていくべきものなのである。
故に8さんの考えは誤解である。

なお、”科学的な論理思考法”が真理であるかどうかは科学は気にしていない。
それが真であると仮定する所から科学は始まっている。
22理系二流半大学生:01/09/04 16:31 ID:ifXFSU9E
>>9
> 科学的な事が普遍的な真理でなくとも矛盾しない。

そうではなく、普遍的な真理ではないと、科学とはいえないのだ。
特に、普遍的であることが重要で、再現性がないことは、科学ではない。
いやむしろ科学では扱えないといった方が誤解がないだろう。
例えば、宇宙が始まってから百億年に一回、宇宙に一つしかない特別な惑星が
真っ二つになるのが”真理”だったとする。
百億年に一回では観察できないし、たった一つの特別なものでは実験もしようがない。
これでは研究のしようがない。

>では、ニュートン力学は科学ではないのか?
>その論理体系の中で矛盾しなければ十分に科学的である。

先に述べたように、自然現象(つまり実験結果)と矛盾していれば、
論理体系の中で矛盾していなくともそれは偽とされ、科学的ではない。
例えば、前提が誤っていれば、いくら論理的に考えて、論理体系の中で矛盾しないようにしても
その結論は偽であろう。
23理系二流半大学生:01/09/04 16:45 ID:ifXFSU9E
>>10
>何故進化論は科学的でノアの箱舟は非科学的か?
>進化論は正しい正しくないの結論は出ていないが、論理的に進化論の中では矛盾が無い。
>故に科学的である。

そうではない。進化論と一口に言っても。膨大な人数の研究者による様々な理論があり、
当然その中には矛盾する物もある。
進化論が科学的とされるのは、とりあえず現在わかっている現象を矛盾(があまり)なく説明でき、
かつ、矛盾する現象が見つかる度に修正し続けてきたから科学的といえるのだ。
決して
>自然科学は前提条件の法則そのものが論理的である。
からではない。
前提条件の法則は、自然界がそうなっているからとりあえず仮定したに過ぎないものであり、
ちっとも論理的ではない。
ノアの箱舟が科学的ではないのは、その説明では説明できない現象があるからだ。


以上、ついつい自分の専門分野を誤解されているようで、いやだったので、
拙いながらも反論させていただきました。
24 :01/09/05 10:23 ID:/75v8Ehc
へー勉強になるね。
誰か理系の人に反論できないの?
25 :01/09/13 02:59
>23
>自然科学は前提条件の法則そのものが論理的である。
からではない。
前提条件の法則は、自然界がそうなっているからとりあえず仮定したに過ぎないものであり、
ちっとも論理的ではない。

複雑系はどんな感じ?
26吾輩は名無しである:01/09/14 02:03
隠喩は芸術ですか?科学ですか?
27吾輩は名無しである:01/09/14 02:11
>26
それって、詩ですか?皮肉ですか?
2826:01/09/14 15:30
>>27
このスレのタイトルが妥当かどうか、ということです。
29吾輩は名無しである
1みたいなやつ、ほんとムカつく。
会ったら絶対殴ってると思う。