マダム・ボヴァリー

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143吾輩は名無しである:01/12/16 13:57
教授も大変だろうな、とふと思った。
144フェリシテ:01/12/17 03:35
やっとOKが出ました〜〜

明日書式校正などの細かい修正作業をして、プリントアウトします。
>>143さんのおっしゃる通り教授も「もう読みたくないよー」
というのが本音らしいです。「私の論文を読みたくない」
という意味ではないと書いてありましたが真意の程は定かならず…
一日に5人以上の学生が途中段階で送りつけてくるので大変なんだそうです。
「パソコン使えないことにしとけばよかった」とぼやいておられました。
確かにいえてますね。生徒の側からすればメールに添付して
送りつけるだけで返事を待つのみなのですから。

とにもかくにも終わりました。
このスレにはちょくちょく顔出します。
卒論以外の観点から議論ができるといいですね。
145フェリシテ:01/12/17 18:46
完了!!!
ということであげてみる。
146139:01/12/17 19:22
nousの使用がなぜ客観性を増すことに役立つのか、
「見せたいものを見せたい視点から描く」ことが
「作者の主観の表明」と結びつくのはわかるので
すが、それと客観性(あるいは没主観性)がどう
結びつくのか、どうも「主観・客観」、「語り手・
作者」、「一人称・三人称」という異なる概念が
整理されていないようで、まだ釈然とはしません
が、とにかく完成おめでとうございます。
締めきり5日前に完成というのは大したものです。
私がかつて、修士論文を提出したときなど、前日
徹夜でしたもの。
で、締めきり5分前に事務室へ行ったら、「表紙に
題名を書いてください」と言われ、あわてて綴りを
まちがえて大恥をかいたものです。
147フェリシテ:01/12/17 20:02
>客観性(あるいは没主観性)がどう
結びつくのか、どうも「主観・客観」、「語り手・
作者」、「一人称・三人称」という異なる概念が
整理されていないようで、まだ釈然とはしません

フローベールは叙述に対しては誰よりも意識的で、
そのためにどの作品も隅々まで彼の支配が貫徹されています。
徹底的に客観的であろうとし、そうすることで自らの意思を貫くことにより
彼の作品は彼の主観そのものに染め上げられてしまっていると
私には考えられます。
何もかもがフローベールであるということと、客観的であることは表裏一体を
なしているのです。(なんだか横道にそれたかなぁ?)
nousは厳密な意味では作中人物とは言えず、シャルルを「観察」する
役割を持った便宜上の語り手、本物らしく見せる視点のフィギュール、
レトリックであるというのが私の最終的な結論です。
そして、「最初の」主要登場人物を「観察」するためのnousが
役目を終えた後も作品に残存することは作者の没主観的な「記述」
を妨げる要因になったのではないかと考えました。シャルルは作者以外の
不特定多数の存在に「観察」されながら登場しなければならなかった。
作者が憎むブルジョワ根性を具現化したような存在を冒頭から描き始めるには
nousという1人称を用いて、それがシャルルの級友であったという設定から
描き始めることが、「没主観的な記述」をより完璧なものにするといえます。
そう考えると、nousがその中の名前はおろか、人数さえ明らかにされぬ不特定多数の
存在のまま消されてしまったことも理解できるからです。

また長すぎてしまいました。。。卒論も、くどすぎるのか、当初50枚の予定が98枚に。
148フェリシテ:01/12/17 20:10
「見せたいものを見せたい視点から見せる」
        ↓
「視点」のフィギュール。心理や場面の説明をせずとも
「視点」の先を表現することで物語を展開していくことが可能
        ↓
作者の主観的な「記述」を省いた、それでいて作者の「主観」に
染め上げられた作品が作れるのでは?
149フェリシテ:01/12/17 20:17
>上に書いた文章が「フェリシテにしてはどうもできすぎたい」
と思われた方々。。。

「視点のフィギュール」に関しては工藤庸子『恋愛小説のレトリック』
より抜粋です。いまだに「フィギュール」ってなに??と聞かれて
答えられないので困っていますが。
論文では自分の言葉っぽく手直しするか、
「引用」ということにしてしまっています。(w
150139:01/12/18 00:05
「徹底的に客観的であろうとする」ことが、「作品を作者の主観に
染めあげる」ことに通じるというのは、たしかにアリだと思うし、
事実、そういうことを言っている研究者は少なからずいるんだろう
なと思います。
ただ、これはある種の逆説なんですね。
だから、その逆説をいかに成り立たせるか、その理由づけというの
かな、まあそういうものが必要だし、そこが腕のみせどころ。
「私はそう思う」だけではちょっと弱いかなと...

あとしつこいようだけど、nousの問題としては、作者=語り手では
ないよということが、即客観性とは結びつかないのではないか、そ
のふたつを結び付けるためには、もうひとつ何かが必要なのではな
いかという気がします。

門外漢がいろいろ言って、失礼しました。
訳あって近々ひとの卒論を指導することになりそうなので、ちょっと
シミュレーションのつもりでいろいろ余計なことを言ってしまいまし
た。
151JPB@改:01/12/18 06:59
>フェリシテさん
おつかれさまでした。口頭試問もあるのでしょうから、それまでゆっくりして
くださいね。

6年前『牝猫』や『シェリ』『シェリの最後』『ジジ』『青い麦』等を読んでいた
時、主な訳者が工藤さんでした。それで、存じていました。しかし、精力的に
最近は仕事をされているようですね。「薔薇色」の論文は面白そうですね。おそらく
単なる「薔薇色」の数量的な減少が「老い」を描写してるって話にとどまらず、
同時代での「薔薇色」の象徴的役割や、主人公と「薔薇色」の特別な関係を解明
してくれているのでしょうね。

私も映画監督的な役割と視点の分散、それが「思想の文学」という言葉に集約さ
れるのがよく分からなかったりしますが。それについては、また今度。
152フェリシテ:01/12/18 13:52
最終的な公正も終わり、提出してきます。
139さんのおっしゃることや、JPBさんのおっしゃることは教授からも
指摘されていて、いちおう論文の中には書いていますが、長くなるので
ここでは避けます。
教授からは「主観の表現と徹底的な客観的記述」は表裏一体を無いしている
ということで、そういうことはすでに研究され尽くしており、
学部生(君の)レベルで下手なところに突っ込んでいくと、時間がなくなるので
免除...といいことでした...情けなや。
それから、「思想の文学」という言葉gきつすぎると言う事から
「作者主観の如実な表現」という言葉に変更してみたり。
細かい修正は一応やりましたので、提出という運びになりました。
口頭試問で、139さんがおっしゃることに突っ込まれる可能性もありますが、
諮問教授は掃き溜めゼミのうちのゼミ教授と、かなりお年を召されたカトリン
教授(愛称です。本名は伏せておきます)担当なので、若干安心してます。
エビ教授(愛称。本名は省きます)が担当のゼミ生は悲惨を極める、と言う事でした。
153フェリシテ:01/12/18 14:01
>139
>nousの問題としては、作者=語り手では
ないよということが、即客観性とは結びつかないのではないか、そ
のふたつを結び付けるためには、もうひとつ何かが必要なのではな
いかという気がします。

繰り返しになりますが、作者が憎む「ただ存在しているだけのもの」
の具現化とも言うべきシャルルを、作者以外の不特定多数の存在が
「観察する」ということが「客観性」につながるのでは?ということです。
細かい根拠は長くなるので割愛しますが。
あと、nousにはおもにシャルルとその他のクラスメイトを切り分ける効果が
あって、nousの視点は視聴者にも近いと言う事から「映画監督のような」
という表現を用いました。まぁ、その他にも「語り方」が統一されていない
とか、nousは恒常的な語り手とは言えないとか、いろいろいってるのですが。
あまり細かい部分に首を突っ込むときついと言うのが本音です。
なぜるように、なぜるように。

139さんのご指導はとっても勉強になります!
口頭試問で突っ込まれそうなところがあったら
また質問してもいいですか?
というか、139さんは院生なのですか?
154フェリシテ:01/12/18 14:05
うちのゼミでは「卒論」の場合「〜ということは〜といえるのでは?」
というレベルでよいそうなのです。こんなレベルの低い学生に
提出までつきあってくださって、語りかけてくださった皆様
ありがとうございましたm(_ _)m
155フェリシテ:01/12/18 14:12
卒論とは話が飛ぶのですが
『シェリ』についての論文は本当に面白かった。
JPBさんにも読ませたいくらいですが、著作権等の問題もあるので(?)
のせられません。長いし。

「薔薇色」は「老い」に反発するレアの心理描写に近い用いられ方
がされている。とか、『シェ理の最後』では「薔薇色」は時を集約する
つまり、美しさに対するレアの執着がまだあった時代を集約する効果がある。
ということでした。また、同時代、つまり1912年の「ベルエポックの終焉」
と「レアの美しさに対する執着」を「薔薇色」という言葉が象徴的にしている
そうです。細かい根拠についてはこれまた長くなるので割愛。
156吾輩は名無しである:01/12/18 14:17
フェラして
157吾輩は名無しである:01/12/21 05:37
age
158139:01/12/21 23:21
>>フェリシテさん
「カトリン」教授に「エビ」教授ですか。
もしや、とは思っていましたが、フェリシテさんの所属大学がわかって
しまいました。
芝生と時計台のある大学ですね。
わたしとフェリシテさんはおたがい気づかぬままどこかですれ違ってい
るかもしれません。
159吾輩は名無しである:01/12/24 00:51
ところで、"nous"って冒頭以外に出て来ます?
160フェリシテ:01/12/25 02:31
>>139
なんと!あまり、真面目な学生ではなかったのですれ違ったりもしなかったん
ではないでしょうか…研究室にもあまり顔出さないし…

>>159
T-1の途中まで、数十行にだけですが、計6回出てきます。

それから、『恋愛小説のレトリック』にも書いてありましたが、
nousには「僕ら」と「シャルル」を区別する機能もあることは先にも触れました。
以下の文(T-1)

口々に叫び、吠え、足踏みし、「シャルボヴァリ、シャルボヴァリ」
とはやし立てる。

On hurlait, on aboyait, on trépignait,
on répétait: Charbovari! Charbovari!

このonにもnousと似たような役割があると思います。
本物らしく見せる視点のレトリックということですかね。
161フェリシテ:01/12/27 02:27
あら。
あげてみます
162吾輩は名無しである:02/01/18 02:18
age
163吾輩は名無しである:02/01/18 02:36
agegege
164吾輩は名無しである:02/01/23 02:45
フェリシテさん何処へ?
165JPB:02/01/28 09:33
フェリシテさんはそろそろ口頭試問の時期ですかね。

作者という存在を強調し過ぎてしまうのではないかという懸念を持ちながら
なのですが、nousが「始まり」に置かれたという事実について考えてます。
小説を世界の再現と捉えるにせよ、問題設定と捉えるにせよ、異議申立てと
捉えるにせよ、そこにはすでに包括せんとするものが含まれますよね。
「私たち」という均質な視線がシャルルをとらえ、彼の粗相を辺りの均質さ
からの齟齬として、際立たせる。それは、その後パリ近郊の村で村人の日常
から浮いてしまうエマとも似ています。
この均質な視線に読者である個人を同化させ、シャルルやエマの行為の
ギクシャクとした部分を際立たせる効果を与えるものが「私たち」である
気もします。

しかし、その視線に乗っかってエマらを滑稽に笑うのもフロベールの青写真の上
なら、その視線ではなく、エマらに感情移入して周囲との齟齬に酔うのもまたそ
の陰画。なかなか恐ろしい出口無しの世界ではないか、と思ったりしました。

166フェリシテ:02/01/29 01:11
>>JPBさん
お久しぶりです。
あれからずっと遊びほうけて、バイトばっかりしてたので卒論で自分が何を書いたのか
あんまり思い出せません(-_-;)

>小説を世界の再現と捉えるにせよ、問題設定と捉えるにせよ、異議申立てと
捉えるにせよ、そこにはすでに包括せんとするものが含まれますよね。

ちょっと難しくて分からないです。ゴメンナサイ…

「私たち」にエマの行為のギクシャクした部分を際立たせる効果があるというのは
ちょっと疑問が残るのですが、それはシャルルとエマに共通の「ギクシャク」があると
いうことからくるのですか?シャルルとエマには共通点もあるし、ギクシャクした行為も
共通してるというのは同意ですが、「私たち」はエマとは接点を持っていないような気がします。
シャルルのぎこちなさ、集団へ溶け込まない不自然さ、孤立を際立たせる効果はもちろん
ありますが。

167139:02/01/29 01:30
おお、フェリシテさん、おかえりなさい。
私が余計なことを書いたので、来なくなったのでは・・・と少し
心配しておりました。

いつぞや過去ログを読み返して、フェリシテさんに言おうと思っ
ていたことがあったのですが、随分時間がたってしまい、忘れて
しまいました。
思い出したら書きます。
168Tango:02/01/29 03:57
そういえば、「今日は月曜日です」と言うときの
フランス人の Nous sommes 〜って言語感覚は面白いですね。
169JPB:02/01/30 04:50
おお、みなさんお久しぶりです。

>フェリシテさん
申し訳ないです。>>165の話しは99%思い付きです。ageるためとはいえ、
適当なことを言うと伝わりませんね。

何でそんなこと言ったかというと、たまたま読み返した『始まりの現象』
(エドワード・E.サイード 法政大学出版局)で、次のような一節を見つけ
たからです。
「<意図>によって私が意味するものは、ある特有の方法で何かを知的にや
りたいという、始まりにある欲求のことである。それは、意識的にせよ
無意識的にせよ、ともかく常に(あるいはほとんど常に)始まりとなる意図の
印をある形で示す言語、常に意味生産にかかわろうとする言語によって何かを
なしたいとする欲求である。ある作品、作品全体との関連からすれば、始ま
りへの意図はまさしく、作品がその中で展開する作られた<包括性>のことで
ある。」

彼は「作家の重要性の決定因」を「作品中の葛藤、想像力の矛盾の質」である
ことに賛同しながらも、「意図」を作品中の「葛藤と矛盾」に適用します。
どのようにそれが適用されるかといえば、「意図は個人的見解と共同体的関心
の結合部である」とみなすことによって、意図が作品との支配−被支配関係の
中に置かれるのではなく、社会と伝統との連関でみなすことが可能だという
ようにです。

ちょっとわかりにくいですね。それでは。



170フェリシテ:02/02/01 05:31
>>169
>彼は「作家の重要性の決定因」を「作品中の葛藤、想像力の矛盾の質」である
ことに賛同しながらも、「意図」を作品中の「葛藤と矛盾」に適用します。
どのようにそれが適用されるかといえば、「意図は個人的見解と共同体的関心
の結合部である」とみなすことによって、意図が作品との支配−被支配関係の
中に置かれるのではなく、社会と伝統との連関でみなすことが可能だという
ようにです。


ますます分からなくなりました。ごめんなさい、アホで…

とくにこの部分が難しいです。
>「意図は個人的見解と共同体的関心結合部である」とみなすことによって

やはり、学問ってのは単純なことを難しく考えることなのかしら。
それとも、私の頭が単細胞なのかしら…
171JPB:02/02/01 20:43
>フェリシテさん

>ますます分からなくなりました。ごめんなさい、アホで…

いえ、単に私の理解不足と文章ミスです(^^;

簡単にいえば、小説を書こうと決めたときがあるとしますよね。
で、そのときの作者はまず第一文を書かなきゃ、はじめられないですよね。
ここまでは一般的な事実としてください。

でも、第一文を書き始めるには、すでにある程度、小説の全体像が
頭の中で決まってなきゃできないですよね。となると、「書き始める」
ってことは、色んなものに対して決断を下してると考えてもいいですね。
例えば、世界(小説)の道標としての役割とか(こういうところから持ってって
みよう、とか)、業界に対する目配せとか(奴がこう書くなら、俺はこうやって
みよう、とか)、今まで読んでた小説に対しての批評とか(こう書くってのは
やっぱ違うよな〜、とか)・・・
ここは仮説です。

そう考えてみると、「書き始める」ことって不思議だな〜と思って来ませんか?
始めちゃったときには、ある程度作家の想像力は醗酵してきてる、とするなら、
その醗酵には、どんな要素が、どんな風に関係しているのだろう。こんなところ
から始まってます。
で、要素はやっぱり、作家をとりまく社会状況とか、資料として読んだテキスト群
が一方であって、その一方に自分がどうしてもこだわりたい部分とかがあって・・・
その双方がどっちかに対して優越してるってわけではなく、時には平衡、時には
どちらかに傾いたりしながらどっかの時点で書かれちゃう。ってことが引用では
言いたかっただけですね。すみません、混乱させてしまって。控えます。

172JPB:02/02/01 21:01
おっと「引用では」は不正確ですね。別にサイード自身は私の
言ってることとは雲泥の差で、きちんとテキストを追ってます。
この後彼は、社会状況が作家が参照(せざるをえない)するテ
キスト群に一定の秩序を与えているってことに、論点をシフト
してはいくわけですが・・・重ね重ねすみません。

>それとも、私の頭が単細胞なのかしら…

そんなことはないです。関心が違うだけでしょう。

>やはり、学問ってのは単純なことを難しく考えることなのかしら。

ただ、このことは認識としては、私は違うと思うのです。
言葉づかいに関しては、単に色々な場合に応用されうるような形で
一般化して書かねばならないという、職業としての学問のお約束が
あるから、サイードはそのように書いただけで、むしろ責務は勝手
に彼の言葉を濫用した、私の無学に帰せられるべきです。
法律や国際条規(GATT規約など)なども同様の表記上のお約束
がありますよね。色々な場合を包括しなきゃいけない言葉ってのは
やっぱり場所場所では必要かつ適切なのではないかと、私は考えます。
173フェリシテ:02/02/04 02:07
なるほど。
ちょっと分かりました。
2月から卒業旅行でしばらく日本を離れます。
口頭試問ギリギリに帰ってくるのでちょっとヤバめかもしれないですが。
でわ。
174吾輩は名無しである:02/02/20 15:57
フェラシテちゃん、ところでいつかえってくるの?
175吾輩は名無しである:02/03/06 23:57
age
176吾輩は名無しである:02/03/14 12:44
age
177吾輩は名無しである:02/03/26 21:30
age
178吾輩は名無しである:02/03/26 21:49
わたしは結構シャルルに共感しちゃって、あんまり話しに入り込めなかったというか、マダム・ボバリーの悲劇に、フーン、としか思えなかった。

主人公に共感して、それを書いた作者に親近感感じれないとだめなタイプなんですよね。だから、赤と黒なんかは大好きだし。同じ題材なら、アンナ・カレー二ナのほうが。

皆さんは、これにどう心を動かされて、いいと思うんですか?煽りじゃなくて、かなり真剣な質問です。
179JPB:02/03/26 22:52
>>178さん
共感という部分でいえば、一貫してこの主人公に、というのはないですね。
ただ、この小説では、それぞれの登場人物に、共感させられてしまうところ
があってそれが逆に何だ?という感じを起こさせます。

例えば、シャルルが教室ではやされるところなんか、自分が「先生」と
言おうとして「おかあさん」といってはやされたことを思い出して、恥ず
かしくなりますし、シャルルが一人めの妻に対し、つまんねー女だなと
思うところもわかるし、一人めの細君がなんとかシャルルのためにやって
あげようとするけど、愚痴ばかりみたいなところも身につまされる。

あとはシャルルと結婚したエマが、二人の生活を何とかいいものにしよう
と思ってがんばって、それでもとどかない何かがあると感じて、愕然と
するところもわかるし、金策に追われるエマの焦りなんかよくわかる(笑)

あとは、エマが不倫していたことに気づいたシャルルが、それでも憎みきれ
ないところも分かるし、不倫相手としゃべってるときに、ちっこいつか、と
思ってしまうところもわかる。

もちろんエマが不倫するところも良く分かるし、金を無心に行って断られ
たとき、おめー所詮その程度の愛情かよ、と思う部分もよくわかります。

そうやって色んな所に共感した後、何でこんなに同じようなところがある
んだ?と驚いて、二度心を動かされるという感じですね。共感という点で
いえば。
180吾輩は名無しである:02/03/27 00:06
フェリシテさん、もう来ないのかなあ。
いずれにしても御卒業おめでとうございます。
(昨日25日が卒業式でしたね。学長の祝辞は無茶苦茶でしたがーー
かりにも心理学科の教授があんな明らかな誤りをおかしてはいけま
せんよね。ローカルねたですみません。御容赦を。)
181吾輩は名無しである:02/04/05 19:18
age
182吾輩は名無しである:02/04/19 03:19
フェリシテ
183178:02/04/19 17:54
>179 すげーよくわかる。そうかーと思った。でも虚しくなりません?井戸底であるのはよくわかってんのに出られはしない蛙。
夢をみさせてくれよう!そんなこと言われたって落ち込むばかりなんだよう!
184吾輩は名無しである:02/04/20 02:46
誰かをフェラシテて忙しいんだ!
185吾輩は名無しである:02/04/20 04:02
卒論終われば就職活動から続く雑事に紛れる。
時折はボヴァリー を懐かしく思い出してくださいね>
186吾輩は名無しである:02/04/20 04:10
とどめはTrois Contesでヘロディアス鬱。
187吾輩は名無しである:02/04/22 02:25
フェリシテの卒論だけが、このスレの意義だったわけでもあるまい。
他の連中はどこにいった。色ぼけしたのじゃあるまいな。
188吾輩は名無しである:02/05/07 22:59
age
189吾輩は名無しである:02/05/19 03:19
age
190吾輩は名無しである:02/05/20 02:11
答えElectric Ladyland/Jimi Hendrix
191吾輩は名無しである:02/05/26 03:06
フェリシテスレ終了!
192吾輩は名無しである