1 :
吾輩は名無しである:
を卒論のテーマにします。
どうよ?
2 :
吾輩は名無しである:2001/07/04(水) 20:54
19世紀小説、とりわけフローベール:フランス19世紀は「小説の世紀」と言ってもいいほど多数の傑作が生まれたが、なかでもフローベールの作品は、テーマの現代性と文体の不思議な力によって際立っている。具体的なテクストの分析を通じて、現代文学の出発点ともなったフローベールの作品の特異な魅力のありようを明らかにすることが当面の目標。
3 :
あらすじ。:2001/07/04(水) 20:54
19世紀フランス文学の白眉。写実主義確立者の小説はこんなにも優雅で面白い。おぼこ娘エンマは、インテリと結婚すればバラ色の人生が開けると信じて医師シャルル・ボヴァリーのもとに飛びこむが、現実はとてもそんなものじゃあなかった。夫は愚鈍を絵に描いたようなもっさいおやじだし、結婚生活はひたすら退屈なシロモノであった。渇をいやすべく不倫に走るエンマ。ボヴァリー婦人の色道が始まる!書記のレオンにもうめろめろ。お次のロドルフは天下の色事師で、またもや、めろめろ。愛こそわが人生!しかし、結局不逞の道を行く者には天罰がくだされる。彼女は放蕩から金を使いこみ借金地獄に苦しんだ果てに自ら毒を飲む。血を吐いてぶっ倒れるエンマ。マダム・ボヴァリー愛に死す。
4 :
吾輩は名無しである:2001/07/04(水) 20:55
こういう物語がフローベールの精緻な筆にかかると見事に優雅、見事に美しくなるのよねー・
5 :
吾輩は名無しである:2001/07/04(水) 20:57
ウザイ比喩表現が山ほど出てくる
原文で読めるならいいが、学部生レベルならば異邦人でもアウト。
文体にこだわる作家はやめといて、ゾラとかにすることを勧める。
6 :
吾輩は名無しである:2001/07/04(水) 20:57
ルウルーがいい。
7 :
吾輩は名無しである:2001/07/26(木) 22:39
エマ夫人にもえ〜
8 :
吾輩は名無しである:2001/07/26(木) 23:19
アランが、スタンダールは何度読んでも面白いが、
フロベールは読むたびごとに、褪色していく、
みたいなこといってるね。
映画「アブラハム渓谷」は傑作。
卒論の参考には出来ぬかも知れんが、
一見の価値あり!!オスすめ。
10 :
吾輩は名無しである:2001/08/22(水) 12:37
フローベールを受け付けない人間の特徴としてはどんなことが挙げられますか?
ちなみにスタンダールは好きです
11 :
吾輩は名無しである:2001/08/22(水) 12:42
>>9 漏れも浪人時代に見て感動した。
音楽の使い方がええよねえ。
12 :
川端初心者:2001/08/23(木) 00:34
同じフローベールの「感情教育」とどっちがおもしろいですか?
ボバリー夫人はおれだぁ・・・
14 :
吾輩は名無しである:01/09/18 05:48
物語の最初はよかった。
ヒロインのエマがナイーブで夢見がちというところに惹かれた。
「プヴァールとペキュシェ」読んでくれ。
あのユーモア感覚は強烈だと思う。
「ボヴァリー夫人」より好きだな。
「感情教育」はちょっと型にはまった
ビルディングロマンみたいな感じで
それほど好きじゃない。
16 :
吾輩は名無しである:01/09/26 23:24
エマみたいな奥さんって、現代日本にもいっぱいいそう。
ヴァンサンカンとかよんで、パリに過大な幻想を抱いて・・・
エンマが死んだ直後くらいに、シャルルについて
「彼は、妻を愛していた、とにかく。」
と書かれていた部分(新潮の邦訳で)・・・今読むと心が痛い。
ビルディングロマン...
ごい。スがない。
ブヴァールねえ。君はハスミアンハスミエンヌだらうね。
愛におぼれて身を滅ぼした人妻といえば、
アンナ・カレーニナもまたしかり。
しかし、アンナのそれが情熱に満ちた真の愛であったのに対し、
エマのそれはその場しのぎの愛といったところが異なるのだが。
20 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/10/09 23:51
どっかで見覚えあると思ったら、高校のころ好きだった本だ。
基本的にフランスは好みじゃないけど、ボヴァリー夫人は面白かった。
久しぶりに読んでみよう、っと。
そしてコメント載せるね。。
>>15 ビルディングロマン→ビルドゥングスロマン(ドイツ語)
22 :
吾輩は名無しである:01/10/14 14:17
>>15 僕もそう思う。「プヴァール」は文学好きじゃなくても面白く読める。おすすめ。
新潮の生島訳は荒いよ。中央公論社の山田訳がいいね。高めだけど。
24 :
吾輩は名無しである:01/10/26 00:11
『ボヴァリー夫人』はフランスの国民文学だから
日本にはあわんのかもしれない。
25 :
吾輩は名無しである:01/10/26 00:27
>22
賛成。とにかく面白い。
知ったようなことを言って何も読んでいないよ、18は。
「ビルディングスロマン」みたいなもんだよ。
26 :
名無しチェケラッチョ♪:01/11/05 16:28
「三つの物語」の「純な心」はどうよ?
いい話なのだがフローベールが書いてんだし、なんか仕掛けてると思って
何度も読み返したよ。あと聖者の話(タイトル失念)も良し。ダイナミック。
「ヘロディアス」は好きじゃない。
マダム・ボヴァリーで卒論かぁ…いがらしゆみこが漫画にしてるよ。
学生に戻った気分でカキコ。
シャルルの先妻のエロイーズが死んだときにも、
「彼女は彼を愛していた、とにかく」
とかかれている部分がありますよね。(新潮)
うまい対比だなぁと思ったんだけど、これって先妻の哀れな死に方が、
後のシャルルの死のミジメさを象徴しているってことなのかしら?
じつは私も卒論のテーマこれなんです。
フローベールの作品って特にそうだけど「作者の不存在」見たいなものが
注目されていますよね。私は地の文にこだわっていこうかと思ってます。
私はこの作品には「主人公は誰?」という印象を始め受けました。
つまり、誰か一人に焦点を当てて、ある一つの価値観でもってペンを走らせた
という感じが全くしなかった。シャルルを語るときにはシャルルの視点から
物が語られ、(つまりエマは美しく、病弱で、か弱い母である…?)
エマを語るときには全てがエマの視点から物を判断した描写がなされている。
こういう傾向って、遠藤周作の小説にもあったような気がするし、
「異邦人」では作品全体がムルソー一人の視点で描かれているから
一人称という特殊な形になった。
では冒頭の「私たち」って誰?とかこんなことを書こうと思ってるのですが
皆さんご意見聞かせてください。
あと、それでも、主人公はエマだ、と確信せざるを得ない理由についてですけど
私は仮説として「カメラワーク的なエマの視点」を挙げようかと思ってるんです。
というのはヴォビエサールでのダンスのときに
「クルクルまわると、周囲のものがみんな回った。ランプも家具も壁板も床も、
軸を中心に回転する円盤のようにまわった。」
という描写が使われているのですが、ここはとくに「完全に」エマだけの視点で
描かれている。つまり、まわっているのは自分なのに、全て自分中心に「世界が」
「周囲のものが」回っている、そんな気になってくる。このような描写はエマが
恋をしているときによく用いられていて、ロドルフとの逢引のときや、レオンとの
キスの場面なんかでも使われているんです。
こういう部分は作品中でもそう多くはないんだけど、このような描写がこの作品の中に
強烈にエマを印象付ける役割を果たしているような気がするんです。
だから、この作品の主人公は「エマ」だ。というふうに持っていきたいんですが
なんか無理があるような気がしないでもなく…
どうでしょうかねぇ?
>>29 「無理があるような気がしないでもなく」どころか、
題名が『ボヴァリー夫人』なのだから、主人公はエンマだと
私は単純に考えたけど(w、それじゃあ駄目なんですかねえ・・・
題名のつけ方って、意外に意味深長だと思いますよ。特に
フローベールの場合。彼は「ボヴァリー夫人は私だ。」とも
言っているわけだし・・・
「主人公は誰?」という問いはあまり有効じゃないような気がする・・・
確かに「語りの視点」は複数に渡りますが、それは所謂、
「近代小説のはしり」として『マダム・ボヴァリー』を
特徴づけている性格としてすでに指摘され尽くしている点
ではないでしょうか? ですから話題はすぐに、具体的な
フローべールのそれを描く描写のしかたなどの、技術的な面に
移ってゆくのだろうと思います。(自由間接話法など)
冒頭の「わたしたち」についてはすでに膨大な批評があると思いますが、
代表的なものにはどんなものがあったかは、失念してしまいました。
どなたかフォローよろしく
31 :
吾輩は名無しである:01/11/06 20:31
>29ルオー爺さん
レスありがとうございます。
御幣があるかもしれないですが、「主人公は誰?」というのは私の
当初の印象であってこの問を卒論中でするわけではないんです。
でも、ルオーさんの助言を参考にして、29の後半の
「カメラワーク的な描写」に焦点をあてていこうかな。
ただ、そういった部分がものすごく希少なのでそれで50枚も書けるのか不安です。
逆説的に、フローベールはエマが主人公であることを印象付けるために
このような手法を用いた!!とか言うのはどうでしょうか?
冒頭の私たちについては様々ありすぎて、とても一ヶ月ちょっとでは
読めそうもないのでノータッチでいくか、ネタ本抜粋コースで頑張ります。
学部生で、あまり真面目に勉強してこなかったツケがいまこたえている
のですが、やはり、語り尽くされたことを卒論にするのはダメかな??
あ、ごめんなさい31はフェリシテでした。
33 :
吾輩は名無しである:01/11/06 20:53
おお!
ちょっと目を離した隙にレスが増えてるね
>逆説的に、フローベールはエマが主人公であることを印象付けるために
このような手法を用いた!!とか言うのはどうでしょうか?
それのどこらへんが逆説的なのかよく分かりませんが、確かにその線で行けば
学部生レベルの卒論としては充分。
抜粋はばれやすいので他の大学の教授の論文なんかを参考にすれば?
>>31(フェリシテさん)
「語り尽くされたことを卒論にする」のは全然問題ないと思いますよ。
特に卒論の段階なら。過去の研究を何も知らずにやみくもに
書くよりも印象はいいんじゃないですか、評価する側にたいしては。
しかし50枚で済むなら楽ですね・・・
やはりあの小説の中ではエンマはかなり強い思い入れをこめて
描かれているような気がします。エンマ自身が思い込みの非常に
激しい人物として描かれている。エンマにとっては「世界は全て」、
自分を中心にして「廻っている」、という感覚は普遍的なようです。
そのことがあの小説のアクセント・ポイントになっていて、
全体がそれを巡って構成されている。私にはむしろ何故、フローベールが
「ボヴァリー夫人は私だ」などと言ったのかが常々疑問に
思うことでした。思い込みの激しい、多少愚かな部分も
持っているこの女登場人物に対して、何故彼が感情移入し、
自分自身を重ね合わせたのか、その本当の意図はどこにあったのか、
それは彼の伝記を読んでもいまいちピンと来ません。
>ルオー爺さん
レスありがとうございました。
さっきまで寝てました・・・
50枚というのは卒論にしたら短いんですか?
あんまり卒論書いたことないので(ワラ
先生が50枚といえば素直にそのとうりにするという、情けない学部生です。
フローベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったのはもののはずみとか
だれかが言っていたような気がしますが、私は単に「みんな恋がしたいのよ。
そうでしょ?」ってことなのかと思ってました。おバカでごめんなさい…
あんまりその辺は突っ込むつもりはないので参考書、ネット等から拝借しようと
思います。
またちょくちょく覗かせてもらいますね。相談乗ってください。
では、おやすみなさい。
19世紀文学においての「ボヴァリー夫人」についてですけど、
ストーリー的には比較的ありきたりですね。俗に言う恋愛心理小説。
で、特に注目すべき点がフローベールの文章の書き方にあります。
19世紀のスタンダール、バルザックという作家は非常に文章が粗い
といわれます。バルザックは校訂のたびに文章を書き足して、
思いついたことをどんどん書いていくタイプです。情報量が多すぎて、
全くリファインされた形跡が見られません。
スタンダールは文章にこだわらなかったように思えます。というのも、
4,5行のうちに同じ単語が2個も3個も出てきたりして、美しい文章
と呼ぶにはほど遠いといえます。フランス語を勉強した方ならば
「ボヴァリー夫人」をフランス語で読むことが可能と思いますので、
一度読んでみるのがよいと思います。フローベールは小説を書くにあたり、
一文一文を考え抜いて、書いたと言われています。ですから、文章は
非常に洗練されており、美しいです(読みやすいかどうかは別ですが)。
連続の書き込みですが、気になったので少し書かせてもらいます。
ただ、フローベールを深く読み込んだことがないので、多少
的が外れているかも知れません。
誰が主人公か、という議論に関してですが、わたしもこれは単純に
エンマだというふうに感じていました。逆に、エンマではなければ誰か?
というふうに考えると、適当な人物が見あたらないと思います。
そうすると、「小説には主人公がいなければならないかか」という議論に
なってしまいますが、これはここで論ずるには適当なテーマではないですね。
視点の移動(28でいわれているようなこと)という手法?は19世紀以前には
ほとんどの作品に見られるものなので、「ボヴァリー夫人」に固有というもの
ではありません。詳細は省略しますが、視点の移動の問題は20世紀になり、
サルトルによるモーリヤックらに対する「神の目」批判以降、顕在化していきます。
仰られているように「異邦人」など以降は一人称小説が勢力をもちはじめます。(続)
このスレ、往年の「仏文スレ」を思い出すよ(泣
> 逆説的に、フローベールはエマが主人公であることを印象付けるために
> このような手法を用いた!!とか言うのはどうでしょうか?
このことに関してですけれども、これに関してはまず前提が必要かと思います。
どういうことかというと、「なぜフローベールはエンマが主人公であることを
印象づける必要があったのか」という前提を論ずる必要があります。わたしは
2年ほど前に拙いフランス語で再読したので詳細は失念しましたが、このことに
特に疑問を持ったという記憶はありません。
冒頭の「nous」ですが、わたしもこれには疑問をいだきました。
バルザックやらスタンダールなら、適当に書いたのだろう、と思えますが、
まさかフローベールが軽率に書くとは思えないからです。よほど、考え抜いて
書いたのだろうと思いますが、私もこれに関しては自分の意見をもてないでいます。
どなたな詳しい方おしえてくださるとありがたいのですが・・・。
最後ですけれど、「ボヴァリー夫人はわたしだ」という有名な言葉のことです。
フローベールは非常に潔癖な人であったのは周知の事実です。
彼はブルジョワ社会を嫌悪していたのですが、売れる作品を書くにはその
ブルジョワ社会を対象としなけれならない。
非常に雑な言い方をすれば、醜いブルジョワ社会のボヴァリー夫人を描いて
生活している自分もまた醜い、という自虐的な意味合いも多少なりとも込め
られているわたしは理解しています。
>通りすがりさん
レスありがとうございます。なんだか、スレを私物化しているような気がするので
控えめにしようかと思ってるのですが、言葉がうまくまとまらず…。
私は冒頭の「nous」はあえて、主人公という存在をぼかすために用いたものだと
いう仮説を立てようかと思ってました。あまり説得力ないんですけど…
フローベールはシャルルに、彼がブルジョワの中にみるいやらしい性格をことごとく
与えた。それに相反する存在としての「nous」という見方もあるようですね。
私の卒論に有効な接ではないので除外。(エマ以上に自己中かも。)
この作品の主人公ついては、主人公はシャルルだ!エマだ!という議論がかねてからなされて
いるみたいなのですが、通りすがりさんのおっしゃるような
>誰が主人公か、という議論に関してですが、わたしもこれは単純に
エンマだというふうに感じていました。逆に、エンマではなければ誰か?
というふうに考えると、適当な人物が見あたらないと思います。
という意見もとても参考になります。
私もなんとなく「エマ」で問題ないような気もしますが、ちょっとまだ途中なので
よく分かりません。
エマ作品の中に強烈に印象つける役割が、ある特殊な表現によってなされている、
ということをもっとはっきり立証するための材料を集めている途中です。
もちろん、いま通りすがりさんのおっしゃるような「前提」を組み立てようと
必死こいて参考書読みあさってるのですけど、フランス語で読めるほど勉強
してこなかったので難儀してます。
>>40 なるほど!とっても参考になります(^ー^)
ありがとうございました。
良スレ発見! ソツロン頑張れ!!
フローベールの作品は、テーマの現代性と文体の不思議な力によって
際立っている。フローベールの小説において主題の展開は、バルザック
のように新たなものを次々に付け加えることによって行われるのではな
く、最初ごく簡単に提出されたテーマが次第に開花し、同心円的に豊かに
なるという形でなされてゆく。
ってな文言をネットで見つけました。私にとっては難しい言い回しです。
通りすがりさんのレスでなんか意味がやっとわかったような気がする…
三流大のフェリシテでした…
ではおやすみなさい。また明日。
フランス語で書くの? それとも日本語で書くの?
46 :
Flaubert:01/11/07 03:28
俺の名を、「フローベール」と書くのはやめてくれ。
「フロベール」という表記が、俺の名の発音に最も近い。
私の名を「エンマ」と書くのはやめて。
「エマ」っていう表記が、私の名の発音に一番近いの。
48 :
mimesis:01/11/07 04:19
nousの問題。
そこに大衆という読者像を見るという観点は平凡かな?
好奇心という残酷さとかね。スキャンダルを成立させる
構図があの教室に描かれているのではないか。
お気楽な読者を激しく撃っているのではないか。
教授にきいたら激しくガイシュツっていわれそうですが。
49 :
Baudelaire:01/11/07 05:15
俺の名を、「ボードレール」と書くのはやめてくれ。
「ボドレール」という表記が、俺の名の発音に最も近い。
50 :
打倒ズザザ猫:01/11/09 08:33
50!
今日は大学から…
お久しぶりに覗いてみたら下がってたのであげておきます。
バイトで忙しくて卒論進んでません(TДT)
今から参考図書荒らしがむばりまっす。
では。
52 :
吾輩は名無しである:01/11/09 16:30
>>45 私は日本語で書きます。フランス語で卒論書く人なんているのかな〜?
私には到底至難の業。フランス語で読むことすらまともにできないので
笑っちゃいますよね。4年間何してたんだろうと情けない限りです。
こんな私ですが、よろしければ教えを賜りたく…
でも皆さんすごいですよね、原文で読まれた方はやはり大学でフランス語を
勉強されたんですか?私なんてもうすでにほとんど覚えていないのに。。。
私は恥ずかしながら、大学に入るまでフランス語というもののしくみすら
まったく知りませんでした。今の研究も、まず邦訳を読んでから、気になったところを
原文でチェック。という感じ。
ちなみにマダムボヴァリーは未だ原文入手すらできていないという有様。
たすげで。
NOUSの問題はおもしろいですよね。
私はフローベール自身が読者というか一般大衆の側に立って
ブルジョワ的ないやらしさをことごとく与えたシャルルを
こき下ろしているように感じたんですけど、どう思いますか?
論文とかあんまり読んだことなくて勝手な想像で話してますけど。
55 :
吾輩は名無しである:01/11/10 17:43
あげ
56 :
吾輩は名無しである:01/11/12 02:32
age
冒頭のnousについて私なりの見解が出ました。
フローベール論といえば、は「神のような語り手のの視点」がかつてから
とりたざされてきたけど、私はそもそもフローベールの小説に「語り手」を想定する事自体
無理があると思います。
この作品以外の作品においても語り方に論理的な一貫性がまるで無いから。
例えば、登場人物の心の中に入り込んで克明に心境を描写したと思えば、
多分、おそらくといった至極曖昧な表現で心境を描写したりしている。
でも従来の体裁とのバランスも必要ではないか。
そこで、冒頭の「nous」はシャルルの学校の友達という設定で用いられているけど、
これは第一部の途中で姿を消す。ではコレも語り手ではない。
つまり、語り手を表しているような「nous」は実のところ逆に語りの視点を
バラバラに分裂させる事に寄与しているといえるし、作者自身もそれを明らかに狙っている。
だって、この処女作以降、語り手の視点がばらばらであることはレアリスム小説の
当たり前の感覚になってしまう。っちゅーことは、この「nous」が読者を旧体系
から新しいフローベールの世界に導いてくれている。
読者は「私たちが自習室にいると...」よいう文によって安心して小説の中に
導かれ、いったんその得意な世界に入ってしまうと作者は語り手を暗殺して物語の
慣行や慣習とは縁を切ってしまう。読者はその事に気付きさえしない。(文学者は除く)
どう??
>例えば、登場人物の心の中に入り込んで克明に心境を描写したと思えば、
>多分、おそらくといった至極曖昧な表現で心境を描写したりしている。
人間全て自分の感情がわかるとは限らないだろ。
いってることが幼稚なんだよ
59 :
吾輩は名無しである:01/11/14 01:57
さっき、間違って第三次世界大戦スレに書き込んでしまった!!(TдT)
だれかたすけてコピペしてください。。。
エラー:2重カキコですか??ってしつこいの。ちがうっつーのに。
だいたい、
>>58の
>フローベール論といえば、は「神のような語り手のの視点」がかつてから
とりたざされてきたけど、私はそもそもフローベールの小説に「語り手」を想定する事自体
無理があると思います。
この作品以外の作品においても語り方に論理的な一貫性がまるで無いから。
例えば、登場人物の心の中に入り込んで克明に心境を描写したと思えば、
多分、おそらくといった至極曖昧な表現で心境を描写したりしている。
これのどこが「冒頭のnousについての見解」なんだよ?
これは「全治全能の神のような存在である語り手」論の反論に過ぎないだろ
62 :
フェリシテ@代理:01/11/14 02:09
839 名前:フェリシテ :01/11/14 01:54
そのあと、この間から言っていた「主人公の不存在」について論じようと思います。
nousの問題にしても、やはりこの作品に語り手を想定する事が出来ない以上、
主人公であるエマをどのように特徴付けるかという事にはかなり神経を使ったと思います。
物語というのはどのような視点からでも読めるし、現に妻に浮気された人なら
シャルルのほうに感情移入して読むことだって出来る。
でも最初に提出された語句僅かなテーマを同心円的に開花させていくのが
フローベールのやりかただし、その最初のテーマというものはやはりエマ
だったと思うのです。(新聞記事から、この安っぽいメロドラマのような
材料をひっぱてきたんですって)
彼は、やはりエマを主人公として位置付けるために何らかのさくを講じたと思う。
それが「カメラワーク的視点」だ!
ってかんじですすめていこうかな。
もう時間がにゃい〜!!
>>58 そうですね。でも語り手が想定されていたとすれば、物語冒頭のnousと
いわざるを得ないと思います。そのnousは第1章の前半で
「今では私たちの誰一人として彼について何かしら憶えている
事のあるものなどいないだろう。」
と語っている。そのくせ、シャルルの奥さんや、その浮気相手の心境まで
克明に描写してしまうというのは少々無理があると思うのです。
>>62 ありがとうございます!!
ついでに感想、いちゃもんなどありませんか?
明日ゼミなんで、材料は少しでも多く集めておきたくって
65 :
mimesis@お助け:01/11/14 02:21
>(新聞記事から、
その新聞を読むような好奇心が、nousにこめられているのではないか
というのが、私のnousに対する見方です。
>「カメラワーク的視点」だ!
私の記憶が確かなら、誰かが『感情教育』における「トラベリング」
について論じていたと思います。ハスミンだったような……
「トラベリング」ってどういうことですか?
恥ずかしながら『感情教育』はまだ、熟読していません。
ゼミで読まされて、「読まされる」と思うとどうも真剣に読めなかった
記憶が...
ところで1さんはどこ行ったのですか?
当面の目標は達成されたのでしょうか?
67 :
mimesis:01/11/14 02:41
>>65 なるほど。
確かに、そのような「要素」もあると思います。
また、フローベールはブルジョワを、もといブルジョワ根性を軽蔑していましたから
視点をnousに置く事によってシャルルの滑稽さをブルジョワ根性の
滑稽さに重ねて象徴的にしたと思うし、あのシャルルが落とした帽子を
しつこく拾おうとする場面などは、対して価値もわからぬ絵画を執拗に
買いあさるブルジョワ根性と同種の滑稽さがあると思います。
でもそれならアランだかアレンだかを最初の登場人物にしてしまったり、
完全にエマの視点からのみ、シャルルの滑稽さを描くだけで充分だと思うのです。
nousの意味についてはおそらく様々な見解があると思いますし、
その全てをあげつらっていたらきりが無いので、私の卒論ではnousの必要性についてのみ
論じようと思います。んで、必要性は、上に書いた通り。
がフローベールが
>>67 わーい、なんか、かなりいい感じの資料になりそうです。
明日、早速図書館でトラベリングについての資料探してきます!
ハスミンですか??
すっごく参考になりました!ありがとう!
がフローベールが については無視してください。
70 :
吾輩は名無しである:01/11/14 02:54
なぜフローベールは冒頭部分でまずシャルルの生い立ちから
話を始めたんだろう?
なぜいきなりエンマを登場させなかったんだろう?
それが不思議。おかげでエンマの生い立ちと人となりの印象が
薄くなってないかな? エンマの不倫を語る物語として、弱くなってないかな?
>>70 私はあらすじについては取るに足らないテーマだし、
エマがどのような少女時代を送ったかってことは本の趣味
を別にすれば、筋としてはそれほど重要視されていないと感じました。
70さんのいうようにエマを語る物語としてはシャルルの学生時代
から語り始めることはエマの存在感を薄くしてしまう危険だってあるわけ
だし、そこになにかの「ねらい」が無ければそんな事はしないと思います。
私は、最初のテーマとして出されたエマの不倫だけを描くためにエマの少女時代から
語り始めてしまうと、もう1つのテーマであるシャルルの、もといブルジョワ根性滑稽さ
を表す方が大変だと思ったのですがどうでしょうか?
だってエマはシャルルをことごとくうとましく思うわけですから、
エマの人となりよりもシャルルの滑稽さのほうが物語のテーマとしては
重要視されたのだと思います。これが「ねらい」だと私は解釈していますが
そのとらえ方は必ずしも1つではないと思います。
私は、そのねらいはともかく、後処理のエマの存在感をどのように保つかという
ところに着眼点を置いているのです。
と書くことで自分はどのような論文を書こうとしているかを
いちいち確認しているのです。
睡魔が襲ってきました。
明日はゼミ、かつ自動車学校の卒業検定前の学科効果測定があるので
もうそろそろおいとまします。でわ。
>>71 うん、君なかなか賢いね。その通りかもね。
まあ描写の順序が難しいから、というのはともかく、
「ブルジョワの滑稽さ」を描くのがもう一つのテーマだったことは忘れてた。
それほどフローベールにとってブルジョワは憎悪の対象だったんだね。
僕の頭はこの作品以降の近代小説に毒されているので、そんな悠長な
ことは考えられなかったよ。不倫を描くなら、単刀直入に
本題に入っていって、もっとドロドロ描きたいところだな。
やはり、当時の「ブルジョワ批判」といったテーマにはなかなか
馴染めないな・・・ 現代の我々からは遠く離れているもの。
その意味では、この作品は公平に見て「ブルジョワ批判」に
成功していると言えるのだろうか?
その「批判」はあまりにも「婉曲的」すぎると言えないだろうか?
もちろん当時の表現に対する倫理観や、検閲(?)の問題があったとは思うけどね。
そういやぁ、この作品、風紀紊乱の廉で訴えられてるんだよなぁ・・・
フェリシテく〜ん!
76 :
吾輩は名無しである:01/11/14 13:11
あ、汚ねーな。
>>44 >フローベールの作品は、テーマの現代性と文体の不思議な力によって
>際立っている。
って、現・明学の朝比奈弘治先生の文言まんま丸写しじゃん。俺、この先生に
フラ語教わったことあるんだよな・・・ それで後半は大方、フェリシテの創作
だろう? 如何にもフェリシテのやりそうなことだよ。他人の文章と自分の文章を
合体させる、とか。
「ブルジョワ批判」て、爺さん婆さんが唱える念仏みたいで萎える、、、
実態が分からなければ、なんでも万能な“魔法の呪文”みたいに見えるよ・・・
フローベールの生きた実態、みたいなのが知りたいんだけどな・・・
77 :
吾輩は名無しである:01/11/15 19:24
>>76 ≫フローベールの小説において主題の展開は、バルザック
のように新たなものを次々に付け加えることによって行われるのではな
く、最初ごく簡単に提出されたテーマが次第に開花し、同心円的に豊かに
なるという形でなされてゆく。
っていう文言はアルベール・チボーデの文言でした。たぶんチボーデの
やつを先生が引用されたのではないでしょうか?私にはこんな難しい文言は
書けませんし(w
ちょっと消えててごめんなさい。
>>70 それでね、「ボヴァリー夫人は私だ」というのもやはり
ブルジョワ批判と絡まってくるのだと思うのです。
「今も、多くのボヴァリー夫人がフランスのあちこちで泣いている」
とか。
つまり、フローベールは、自分が憎いと思うもの、醜いと思うものは
全てエマもそう思うように描いています。そういう意味での
「ボヴァリー夫人は私だ」だと思う。何も情熱に溺れて失墜する
自己中な女に自分を重ねていたわけではなく、grothesque(滑稽)な
ものに対する嫌悪感が大きなテーマだと思うんです。
だからこれは一見不倫を描いた物語のようなあらすじをしているけれど
本当のテーマはもっと別のところにあったはずです。
だって、エマの不倫を描いた物語ならば、なぜタイトルは「エマ」
とか、「エマ・ボヴァリー」ではないのでしょう?
これは、エマが、俗世・ブルジョワ根性・世間の慣習そのようなものに
縛られていたことを表しているといえないでしょうか?
もちろんエマの中にもブルジョワ的なものは多く見られる。
例えば、中流階級の人間であるのに貴族に憧れたり、パリに過大な
幻想を描いたり。これは、フローベール自身がブルジョワであったことを
表しているといえます。フローベールは自分がブルジョワであるくせに
ブルジョワ根性を憎んでいた。自分は他のブルジョワとは違うということを
この作品で表現しようとしたんじゃないでしょうか?
ブルジョワ社会って言うのは今の日本そのもので、大して価値もわからないのに
ヴィトンやエルメスのかばんを買いあさったり、お金に振り回されて
「この絵は1億するから価値がある。」とか「この茶碗は千利休が愛用したもので
1000万円もするから触ってはいけない。観賞用だ」という価値判断をする社会
のことだとどこかで学んだのですが、まさにそのとうりだともいます。
茶器の「用の美」という知識もないのに、高いから観賞用といえてしまうその
根性が、フローベール曰く、「grothesuque」なのでしょう。
ごめんなさい、長すぎちゃいました。
今日、工藤庸子『恋愛小説のレトリック』を買って来ました。
図書館でずっと貸し出し中だったので…2600円もした〜!!
文庫になっていないということはきっと価値ある本なのでしょうから
惜しくありません。(←これがブルジョワ根性。まだ読んでもいないのに)
これを読んでから、また書き込みますので70さん、復活してくれてると
いいのだけれど…勝手に試合放棄しちゃったんで嫌われちゃったかしら?
あ、そうそう。
>「ブルジョワ批判」て、爺さん婆さんが唱える念仏みたいで萎える、、、
実態が分からなければ、なんでも万能な“魔法の呪文”みたいに見えるよ・・・
フローベールの生きた実態、みたいなのが知りたいんだけどな・・・
萎えちゃったんですか〜??
当時(19世紀)書物を読む人達ってほとんどがブルジョワでしたから
(ブルジョワ=中流階級の人)その根性を批判したというのは
私は画期的だと思います。
故に、理解されなかった面もあるでしょうが。
「つまらない男と結婚するくらいならいい男の愛人になれ」という
思想は当時のブルジョワには全くなく、貴族と違って、ブルジョワって言うのは
不倫しない生き物ですから、この物語の表面的なあらすじや、その奥に
潜んでいるテーマについて、当時の社会が風俗的によしとしなかった背景は
私にはそれほど疑問ではありませんでした。
でも、この作品がその後ブルジョワ根性に利用された感はあります。
「われこそは真の価値のわかるブルジョワなり」といわんばかりの
ブルジョワ根性がはびこる要因になりえたでしょうね。
「エルメスなんて若い子が持っても意味がないし似合わないのよ」
としたり顔で言うおばさんがいるように。
「あんたが持つよりましだ」といいたい。
シャルルが「ブルジョワ的」と思われる個所は
娘にピアノを習わせようとするところですね。
貴族に習えとばかりに、現代の日本でも楽譜も読めない
男親が娘にピアノを習わせたり、髪を伸ばさせたりする
ことはよくあります。実にブルジョワ的。
81 :
吾輩は名無しである:01/11/15 19:47
このしつこさ、絶対に仏文だ…
82 :
しつこいフェリシテ:01/11/15 20:12
ごめんなさい、もう一言だけ。
>やはり、当時の「ブルジョワ批判」といったテーマにはなかなか
馴染めないな・・・ 現代の我々からは遠く離れているもの。
そうですか?私はすごく身近なテーマだと思う。もちろん時代的に
「ブルジョワ」という言葉は使わないけれど、村上春樹の小説には
このようなテーマが含まれていると思う。私は春樹とフローベールは
小説の書き方(文体の作り方)も似ていると思うし。
ちょっと強引かもしれないけど、話のネタや筋で魅せられるなら村上龍と
バルザック、プルースト。文体で見せられるなら春樹、三島、谷崎とフローベール。
というような区分が私の中にはあります。
なんか間違ってると言われても自分の中の区分なんで
どーしょーもないんだけれども。
83 :
良スレ委員会:01/11/15 20:14
良スレ発見!!
フェリシテ萌え〜
84 :
吾輩は名無しである:01/11/15 22:54
>フェリシテ
>ちょっと強引かもしれないけど、話のネタや筋で魅せられるなら村上龍と
バルザック、プルースト。文体で見せられるなら春樹、三島、谷崎とフローベール。
というような区分が私の中にはあります。
なんか間違ってると言われても自分の中の区分なんで
どーしょーもないんだけれども。
これはいくらなんでも強引すぎる。
龍のどこが話のネタや筋で魅せられるのかさっぱり分かりません。
自分の中だけの区分ならここで披露しなくてもいいじゃん。
85 :
吾輩は名無しである:01/11/15 22:58
>>76 >>44でフェリシテはネットで見つけた文言だって書いてあるんだけど。
まさかフェリシテの考えた文言だと思ってた?
だとすれば76は真性ドキュソ決定だね。(ワラ
よく読んでレスしろよ
86 :
吾輩は名無しである:01/11/15 23:00
>>79 >「つまらない男と結婚するくらいならいい男の愛人になれ」という
思想は当時のブルジョワには全くなく
いったいいつの時代にそんな思想があったんだ??教えてくれ!
87 :
吾輩は名無しである:01/11/15 23:07
88 :
吾輩は名無しである:01/11/16 02:39
文学板には、フェリシテよりこの作品について理解が深い
人間はいないのか?卒論のテーマにする1さえ出てこれない有様。
フェリシテにも責任あり。
フェリシテの意見は斬新で面白いが、議論が成り立たない以上
スレの私物化以外の何物でもない。好きなときに自分の思うことを
述べるばっかりじゃなく、レスを議論が成立しやすい時間にするとか、
それなりの配慮はして欲しいと思うよ。文学板の過疎化は進むばかりなんだから
一人で熱くなってるスレばっかり上がってくると、議論で盛り上がってるスレが
下がって迷惑するし。
>>86 私の中にはそういう思想があります(-_-;
アメリカの恋愛ルールブックみたいな
ものに書いてあったような…(ワラ
あと、フランスの雑誌に現代女性の特集がしてあって
(留学してたときにエマみたくパリジェンヌに憧れて必死こいて読んだ)
それに書いてありました。昔のフランスの貴族の女性は
結婚してから恋をし始めるものだったらしいです。結婚するまでは完全に箱入り。
ロマン派のフランス文学とかは不倫の話多いですよね?
この作品が問題視されたのは「ブルジョワの不倫」が描いてあるからだと
私は解釈してます。
>フェリシテさん
「彼は、妻を愛していた、とにかく」と前妻の死の箇所の照応は良いですね。
ところで、今、卒論で「ブルジョワ」って書いて突っ込みとか入らないですか?
何というか、「ミドルクラス」とかって言った方が当たりは柔らかいと思うのです。
というのは、細かい人だと「ブルジョワ」は生産手段を持っている云々・・・という
語句の定義でもめそうな気も。
シャルルってのは「プチ・ブル」という奴ですよね。学校教育において生産された
地方名望家というか、地方医師。地域では名士として嘱望されるような。でも、
決して生産を担っているわけではないっていう。
それにこの時期、郵便制度の国家的統一が進んだおかげで、地方とパリの情報の
共有が促進され、地方のミドルクラスの人もパリの生活を思い描けるようになった
ってことが、それら風俗の模倣に拍車をかけた。そのミドルクラスの典型が
エマであり、またシャルルであるとも考えられますよね。
フロベールの立ち位置って、そういうところから言えば、貴族の末裔として、
プチブルを皮肉っているとも見えます。読み違いかもしれませんが、フェリシテ
さんはフロベールの位置をシャルルと同階級に置いているように感じるのですが。
いかがですか?
飲み会の帰りなのであまり難しいことは考えられませんが、
「ブルジョワ」の定義はよく調べていないので参考になりました。
ミドルクラスというのは初めて聞きましたが、私のゼミでは「ブルジョワ」
「プチ・ブルジョワ」くらいの区別しかしていません。
よって突っ込まれたことはないです。
このような区別を軸にした議論を2ちゃんでしてしまうと
余計板の中で孤立してしまうと思ったので避けていたのです。
シャルルとフローベールを同階級に置いているという指摘は
そのとうりです。ただ、それはフローベール自身も意識していたことで
彼自身同階級の「ブルジョワ」をグロテスクと表現しているわけですから
問題はないと感じました。ブルジョワという言葉自体は「中流階級」という
意味を持っており、フローベールがいう「ブルジョワ」は中流階級の
ことであるので。
それと、フローベールは貴族の末裔だからプチ・ブルを皮肉っている
分けではないですよ。本当の価値を分かりもしないのに
いたずらに社交界や上流階級の暮らしに憧れてみたり、その真似をしてみたり
する「根性」を皮肉っているのです。
あくまでも彼が憎むのは「ブルジョワ根性」であって、「ブルジョワ」では
ないと思います。
エマのモデルはフローベールの父(医者)の教え子の妻だそうです。
どっかに写真があったのですがフランス語のページなんで
もう探せません(w
フローベールは貴族の末裔ということよりも、
父が医者であることをとても意識していたと思います。
その意味においてシャルルと作者は「同階級」であると
思うのですが。
逆に、フローベールとシャルルを同階級でないとしてしまうと、
エマが「同階級」の夫をグロテスクと感じる意味がなくなって
しまいませんか?
「ボヴァリー夫人は私だ」という作者の言葉や、
題名が「エマ」や「エマ・ボヴァリー」でないことを
考えると作者はシャルルを「同階級のグロテスクなやつ」と
意識していると思います。
94 :
吾輩は名無しである:01/11/18 02:04
>フェリシテ
>エマが「同階級」の夫をグロテスクと感じる意味がなくなって
しまいませんか?
エマが夫を「同階級」と意識していたとはとても思えないんだが。
ところで何故題名が「エマ」とか「エマ・ボヴァリー」で
ないのかはとても気になる。階級と絡めて考えてしまうのは
どうかと思うけどフェリシテの意見を是非聞きたいな。
もう寝たかな?
>フェリシテさん
なるほどです。私がフロベールを「貴族の末裔」と言ったのは、若い時にパリで
社交生活の真似事をしたりしてたフロベール自身が、おれは違いの分かる人間なん
だぞ、という意識をもって、精神的貴族を自認しているように思えたからです。
そして彼の皮肉は、彼もまた共有している「本当の価値を分かりもしないのに
いたずらに社交界や上流階級の暮らしに憧れてみたり、その真似をしてみたり
する」という「根性」に向けられた。ここには、自分は奴等とは違うと思いたい
気持ちと同時に、自分も奴等と所詮同じという気持ちが絡み合って存在している
ように感じられました。
そういう、自分は一人の人間であると同時に、他人とやってることの上では交換
可能なんじゃないかという部分が、「私」という超然とした語り手を許さず、
「ぼくたちは」という表記になって現れたと、恥ずかしながら素人的には思った
ものですから。
>区別を軸にした議論
これはもういいですよね。私もあんまりここにこだわるわけでないです。
何というかフローベールの皮肉というのは両義的に感じるわけですよ。
エマは不貞の輩であると同時に上昇志向を抱いたアクティブな女性と
思ったりもするし、同時にシャルルは情けない男なんだけど、一面職務
に忠実で、とても善良に見えますよね。あとは『感情教育』のモロー青年
達が恋と革命に破れた末、最後に、あーおれたちも若かったなあ、みたい
な発言を見ると、とても紋切り型なんだけれども、完全に突き放している
わけでもなく、かといって共感せいと迫ってくるわけでもない感情を
読んでて感じてしまいます。
あ、最後に。ミドルクラスと言ったのはとりわけ深い意味があるわけ
でもなくて、私は服飾とそのメディアを研究していたので、その時
近代モードを考えようとすると、どうしてもフランスを避けて通れない。
で、アメリカの学者なんかもフランスの1850〜90年代に言及
するわけですがそんときに「ブルジョワ」はカッコ付きで示されてて、
特別な意味合いがあるから、ここではアッパーミドルクラスを指し、
また純然たる中産階級はミドルクラスといい、労働者階級はワーキング
クラスと言う、みたいな意味合いの文があったような気がしたので。
明日は追加教習(見極め不合格…運動神経ゼロ)なので1つだけ。
>>95 JPB@改さん
>ここには、自分は奴等とは違うと思いたい
気持ちと同時に、自分も奴等と所詮同じという気持ちが絡み合って存在している
ように感じられました。
それは題名が「エマ」とか「エマ・ボヴァリー」でないことにすごく
関連性があると思うのは私だけでしょうか?
エマには苗字「ボヴァリー」という呪縛があった。ボヴァリーという姓は
フローベールにしたら「ブルジョワ根性」の象徴であるように私には感じられました。
そして、フローベールには「ブルジョワ」という呪縛があった。
フローベールは徹底的にエマに自分の性格を投影するわけですが、それは
作者の感情というものはどこにも描かれていないのに
「フローベールの作品は、羊羹のように、どこを切ってもフローベールだらけである」
というような言い方をされる所以だと考えます。
JPBさんの感性ってとても面白いですね。
私は卒論ではブルジョワの定義についてはあまり深入りしないつもりですが
書く上でそのような知識を取り入れられることはとても嬉しいです。
ところで、卒論の話に戻っていいですか?
作品中には3人の「ボヴァリー夫人」が登場しますよね。
シャルルの母と、先妻エロイーズと、エマ。
これはもちろんエマノ物語であることに疑いはないんだけれど。
例えば「ゴリオ爺さん」の主人公はラスティニャックですよね。
じゃぁ、何故私たちはこの作品を読んで「エマが主人公」って
意識することが出来るのでしょう?
私はこの前から「カメラワーク的な視点」がこの役割を果たしていると
思うのですが。黒沢明監督の映画にも応用されたロドルフとのキスシーン
なんかはとても印象的で、あのような描写がエマを主人公たらしめている
と思いました。
他にもそのような描写、エマヲ主人公といわざるを得ない部分ってありますか?
また長すぎてしまいました…
えっと、冒頭のnousや、語り手の視点については
東大の工藤庸子先生の「恋愛小説のレトリック」という参考書
を今読んでいます。今日書き込んだことも少し受け売りがあるかもしれない
のですがお許しを。
たいていの図書館には置いているはずなので、JPBさんにも
オススメします。とっても面白く、参考書という感じがしない本です。
では、おやすみなさい。
疑問なんですが、フェリシテさんは「ボヴァリー夫人」の主人公を決めることに
こだわっておられるようですが、
「ボヴァリー夫人」の主人公は誰か?というのを決めることにそんなに意義があるんでしょうか?
その問いかけの意味が分かりません。それから「ボヴァリー夫人」の主人公が誰か、が分かった
ところで何が分かるのでしょう? その問い自身にあまり意味があると思えないのですが。
それからあなたの仰っているとおり、ロドルフとのキスの場面が「エマの視点」を
代理しているというのが当たっているとしても、それは作者がその部分を
「エマの視点」で描こうと思っただけで、
小説全体をこの登場人物を中心に描こうとした、という根拠にはならないでしょう。
ちなみに私はこの小説は題名の「ボヴァリー夫人」から、率直にエンマが主人公だとは
思いましたが、別にエンマが主人公でなくてもいいかなとも思いました。
ちょうど田舎住まいの一「ブルジョワ」階級人たちの生活情景を
ペンで活写した、みたいな(陳腐な表現だが)。特に有名な「農業共進会」
の場面などを読むとね。まあ「主人公は誰か?」にこだわって読むのも
面白いかもしれないけど。むしろどの場面がどんな視点で書かれているかを
調べるほうが面白いかもね。冒頭の nous の問題も併せてね。
101 :
フェリシテ:01/11/19 15:28
>>100 >ちょうど田舎住まいの一「ブルジョワ」階級人たちの生活情景を
ペンで活写した、みたいな(陳腐な表現だが)。
そうでしょうか?生活情景を活写しただけならば、この作品のテーマの
設定はとても難しくなるように思います。
もちろん、私は「エマが主人公である。」ということにこだわっているのですが、
これは私の研究テーマに密接にかかわる点なので、注目しているまでです。
繰り返しになりますが、「主人公は誰か?」という問を卒論中でするつもりはありません。
ですが、主人公はエマであることを前提に、作者がエマを主人公として印象付ける必要性
については言及していくつもりです。私には主人公の設定というものは作品の中で
大きな意味を持つように感じられるし。それは人それぞれで、そのような研究をされて
いる方もいらっしゃるので私もしてもいいかな、と(笑)これじゃぁ、浅はかかも
しれませんが、今のところ先生からは突っ込まれていないので放っているというのが
ホントかな…
>主人公が誰か、が分かったところでなにが分かるのでしょう?
う…。なにが分かるかということにあまり重きをおいていません。
私は「何が言えるか」ということに注目しているのですが、
この違いはたぶん私のゼミだけの区分なので筆舌しがたいですが…(すいません)
繰り返しになりますが、「主人公はエマで、作者にはエマを印象つける必要性があった」
ということを前提に、「カメラワーク的視点はこれに寄与していると言える。」
というかんじで進めています。
>むしろどの場面がどんな視点で書かれているかを
調べるほうが面白いかもね。冒頭の nous の問題も併せてね。
これから、卒論のテーマを変えるのは至難の業なのでそれはちょっと
ご遠慮しておきます…ゴメンナサイm(_ _)m
>フェリシテ
追加教習どうだったの?
最近のレス読んでるとだいぶ方向性が決まってきているようだけど、
ここで議論するからには、他者のレスも参考にしていくべきだよ。
でないと単に時間の無駄だ。もちろん、フェリシテのレスを踏まえずに
レスするやつにも責任はあるけれど、君自身の意見が成長しなければ
スレが盛り上がりに欠けるのも仕方ない。
>オバン夫人
>「ボヴァリー夫人」の主人公は誰か?というのを決めることにそんなに意義があるんでしょうか?
がいしゅつ。レス読んでね。
僕自身は、主人公は誰か?という問は不毛だ思うけど、それは最近の
文学の傾向であるようにも思う。そして、その傾向はこの作品以降
始まったように思う。
「主人公の設定に意味なんてあるのか?」という疑問が「ボヴァリー夫人」には
こめられているともいえないだろうか。だとすればフェリシテの疑問も
正当といえるのでは?
103 :
フェリシテ:01/11/19 15:54
>>102 >ROM人さん
>ここで議論するからには、他者のレスも参考にしていくべきだよ。
そうですね。ちょっと反抗期になってたかも。
ここの議論に頼ってしまうと、卒論のテーマが変わってしまいそうで
自分の意見に固執しすぎていた部分もあると思います。反省。
追加教習は合格しました!でも卒検まで1週間以上あるんです。
不安だぁ…スレ、むしろ板と無関係の質問ですが、
斜線変更のタイミング、特に右斜線から左斜線に変更するときって
超難しくないですか??ってドキュソ丸出し。恥。
>フェリシテ
>ここの議論に頼ってしまうと、卒論のテーマが変わってしまいそうで
自分の意見に固執しすぎていた
これはやめておいたほうがいいと思う。ここではあくまで柔軟な
議論をすべきだ。君の卒論に付き合っているほどみんなひまではないし、
君がそのような態度だとスレが下がるのも当然というものだ。
×斜線
○車線 ね。
難しいか?サイドミラーを何秒かおきに見る癖をつけないと
難しいかもしれないが。サイドミラーに移る車の大きさで
スピード感を見極めるのは初心者には難儀かもしれないが、
合格したんならできてるんじゃないの?
>ROM人さん
難しいです〜!見栄はってMTなんかにするんじゃなかった…
サイドミラーに写る車の大きさでスピード感を見極める…
なんか超むずかしいじゃないですか!絶対出来てないと思う…
スレとは無関係なレスなのでsageてみました。
あと、ご指摘、ありがとうございます。m(_ _)m
今日はここまでにしといて、また本読みます。
では僕もsageで。またROMに戻ります。
>>102 >「主人公の設定に意味なんてあるのか?」という疑問が「ボヴァリー夫人」には
>こめられているともいえないだろうか。
この部分は完全に同意だけど、その結果この作品で主人公探しをする事に
逆に意味がある、という理屈はちょっと奇妙じゃないかなぁ?
だいたい主人公を設定しない小説というのは、すでに18世紀の時代からあると
思うのだが。ただ「ボヴァリー…」がヌーヴォー・ロマンと似ている、
と言われる所以は、その徹底した客観的・モノ的な描写の視点にあると思う。
例えばフェリシテが引用しているエマのキス・シーンでさえ、心理的な
視点はエマにあるのかもしれないが、読者にはそれがエマの幻想、
もしくは主観的なまぼろしであることを分からせるような仕掛けがちゃんと
組まれていると思う。そこがフローベール的なエクリチュールの質じゃないかなぁ・・・
むろんエマはこの小説のストーリーの主軸になっているんだけど、
「主人公」といえるような物語の主体ではなくて、物語を縫い合わせる縦糸の
ような働きをして、そこに緯糸としてさまざまな登場人物、逸話が絡んでくる。
特に最後にブルジョワの象徴のような名誉勲章を貰ってしまうオメー氏などは
カラマーゾフのスメルジャコフ並みに強烈な脇役キャラだ。
そんなわけでこの作品を、オメー氏から見た、一ブルジョワ夫人の
崩落の過程、として考えることもできないわけではない。
「田舎住まいの一「ブルジョワ」階級人たちの生活情景をペンで活写した」
という文言もあながち間違っているとは思えない…
108 :
フェリシテ:01/11/19 23:45
では、
主人公を設定することに意味なんてあるのか?
という問に意味はあるのでしょうか?
そういう問をしてしまうと「主人公ってそもそもなんだ?」という問を
しなくてはならなくなってくる。
だからあえて私は「主人公はエマであるという前提をもとに」論文を書いていくつもり
です。
私はこの作品の主人公はエマであると思います。何故エマか、ということは
深入りするつもりはありません。
それをやると、私の本来の卒論の目的がこんがらがってしまうからです。
(申し訳ない)
>>107 >例えばフェリシテが引用しているエマのキス・シーンでさえ、心理的な
視点はエマにあるのかもしれないが、読者にはそれがエマの幻想、
もしくは主観的なまぼろしであることを分からせるような仕掛けがちゃんと
組まれていると思う。
「フローベール的なエクリチュールの質」とは、作者の掲げるテーマや、作者の存在が
その作品のどの部分にも克明に描かれているわけではないのに、作品全体に
作者の存在感を感じるというような書き方であると私は思います。それ以外は
フローベール以外の作家もやってきたことではないでしょうか?
なるほどです。でも私には、それが「エマは主人公といえるような
主体的な存在ではない」ということに繋がるとは思えません。
主人公の存在意義については言及を避けますが、少なくともこの描写は
エマを物語の主体的な存在に近づける役割を果たしていると思う。
109 :
フェリシテ:01/11/19 23:48
申し訳ありません。
「フローベール的なエクリチュールの質」とは・・・〜
やってきたことではないでしょうか?
ここまでは最後に書きたかったやつです。恥。
110 :
吾輩は名無しである:01/11/19 23:53
111 :
吾輩は名無しである:01/11/20 00:03
ちょっとフェリシテがつっけんどんになってきた。。。
みんなそろそろ主人公ネタから離れろよ〜
フェリシテがこなくなっちゃうよ
112 :
フェリシテ:01/11/20 00:14
>>111 そんなことないですよ〜。ただ、やっぱり卒論に戻りますね。
煮詰まるとこのスレに頼りたくなってきているみたいなので。
また新しいネタが出来たらきます。
それまで、このスレが残ってるといいですが。。。
では。
113 :
吾輩は名無しである:01/11/20 00:45
フェラして。
114 :
吾輩は名無しである:01/11/20 01:02
115 :
JPB@改:01/11/21 21:18
スレ止まってますね。残念だなあ。
>フェリシテさん(見ないかもしれないけど)
フェリシテさんが以前書いた「くるくる回った」という描写の部分というのは
新潮文庫でT−8の公爵家におけるダンスの場面ですよね。それのほかにV−8
でエマがロドルフに金の無心に行って駄目だった後、「突然、火の色をした多くの
小さな球が、炸裂する弾丸のように空中で爆発して平らにひろがり、グルグル旋回
して、木々の枝の間の雪に溶けこむかという気がした。一つ一つの球の真ん中には
ロドルフの顔が見えた。球は数を増した。それが近づいてきてエマの体に深く入って
消えた」という描写がありますが、同じ8節という偶然はさておき、これでエマは
自殺するわけです。ここになんらかのエマの登場−退場に符合した描写の痕跡を
認められないですかね?
ま、これ以前フロベールにしては幻覚的な描写だな、と思ったところなんですが、
エマを中心にしてその周りを球が回っていると見えなくもない・・・ちと強引か。
116 :
JPB@改:01/11/21 21:45
と、ついでなんですが、T−7で語り手がエマに対して「だいいち自分の
感じないことは理解も出来ず、型どおりにあらわれないものは何も信じ
られないたち」という評価を下す部分があるのですが、そうではなくて
エマもまた理念を先行させて世界を統轄しようというオメー氏と同じ
タイプの人間であるように思えます。
オメー氏が後段、盲人の憤慨を言説で封じてしまったりという部分は
その理念の拡張の端的な例だと思われますが、エマの失態は悲劇と
喜劇の違いはあれども、後に理を持って農場を経営しようとした
『ブヴァールとペキュシェ』の二人が、ことごとく現実に翻弄されて、
にもかかわらず新たな知、新たな知を求めて行くその姿につながって
いく気がするのです。
初め私は落ちぶれたシャルルと出世を遂げるオメーという対比で見て
いたのですが、オメーとエマの対比というのも、男女あるいは求めた
対象の違いはあれども、比較して読んでみると面白いのかなあと感じ
ました。
117 :
フェリシテ:01/11/22 02:52
卒論につまってます。でも、もう大人になって(笑)ここに頼るのは無しにします。
>JPBさん
>>115 私もその描写は気になっていました。まだ毒を飲んで死んだことがないので
人がそのとき何を見るかは計りかねるのですが、これはエマの視点で描かれている
ことは間違いないですよね。だって「ロドルフの顔が見えた」ですから。
原文はどうなってるんだろう?恥ずかしながらまだ入手できていないのです。
原文の人称が気になりますよね。もしonなら面白いことが発見できるかも
しれないし。
>>116 エマとオメーの比較、面白そうですね!確かにエマとオメーは似ている部分が
多くある。ただ、オメーの中にはエマが思い描くようなロマン派的思想が
見受けられる個所はあまり見当たらないような気もしますが。
今日じっくり読み返していて、第三部で「私はからだは売りません」とギョーマン
を突っぱねたエマがロドルフのところに自分を売りに逝くところの表現はとても面白い
ですね。
「先刻彼女をあんなにおこらせたそのものの方へすすんで身をささげに
駆けつけるのだ、ということには気付かず、こうしてからだを売るのだということは
考えても見なかった。」
なんだかとても断定的な視点に立って語っているし、エマがもはやあれほど崇高なものと
考えたロマン派的な気高さなど微塵もないところが物悲しいというか、笑えるというか。
118 :
フェリシテ:01/11/22 03:00
断定的な視点に立ってエマの心境までも高みの視点から描写すると思えば
金を貸してくれとせがまれたロドルフについて、これまた高みの視点から
「おそらくそれだけの金を今もっていたら、くれたであろう」と
いささか自信なさげな様子も見せるところも語り手の七変化に心奪われる
ところです。
119 :
フェリシテ:01/11/22 03:25
>>115 第三部第8章の抜粋部分
>「突然、火の色をした多くの 小さな球が、炸裂する弾丸のように空中で
爆発して平らにひろがり、グルグル旋回 して、木々の枝の間の雪に溶け
こむかという気がした。一つ一つの球の真ん中には ロドルフの顔が見え
た。球は数を増した。それが近づいてきてエマの体に深く入って 消えた」
この部分はよく読むと、エマの周りをまわっていないと思います。
むしろエマの目の前で、「爆発した点を中心に」ぐるぐる旋回した
という感じがします。「木の枝の間の雪に溶け込むかと。。。」という
部分などを見ると、やはり「エマの周り」というには無理があるかな?
ただ、エマの登場―退場という解釈は面白いですね。すごくいい感性
されてると思います。私には思いもつかなかったけど、これも卒論の
材料に出来たらいいな。
120 :
オバン夫人:01/11/23 11:06
>>115(JPB@改さん)
フローベールは、『トロワ・コント』所収の「聖ジュリアン伝」などで
思いっきり幻想的な小説による描写を展開しています。フローベール=幻想小説家
という構図もあながち間違いではないかも。というより、もともとロマン派的な
作品を溺読してきたこの小説家の資質が実はここにあるのかも。「サロメ(ヘロディア)」
などといった、題材の取り方に既にその傾向が見られると思うけど・・・
121 :
JPB@改:01/11/25 01:03
>オバン夫人さん
なるほど。写実的であるをモットーとしたフロベールという印象に私は囚われて
いました。『トロワ・コント』未読なのですが(確か、今は亡き福武文庫に翻訳は
ありましたよね?)それは面白そうです。
と、同時に翻訳だけだと、なかなか語りづらいところありますよね。フェリシテ
さんから紹介してもらった『恋愛小説のレトリック』を読んでて、そう思いました。
例えば、私なんか「大きな繋馬車が中庭に入って来ると、若駒が高く嘶いた。階下で
提灯が二つ三つ光を見せたかと思うと、消えてしまった。人夫たちが木靴を曳きづり
ながら、砂利の上を通っていく。夕食を告げる鐘が鳴った。」(『ブヴァールとペキ
ュシェ』)のような、視点の高速移動を歯切れ良く描いていくのがフロベールの特徴
だと思ってたのですが、原文ではそうでもないのでしょうか?
>フェリシテさん
工藤庸子さんの『恋愛小説のレトリック』読んでみました。ほんとに
すらすら読めました。コレットがらみの著作しか知らなかったのですが
論じている範囲はとても広いですね!そのついでに、工藤さんの『ボヴ
ァリー夫人への手紙』(?)も読んでます。
しかし、シャルルの父母も変な人たちですね。親父の方なんか、シャル
ルに「シャルル、気をつけろよ」なんて忠告してもいる。いい親父です。
ユーモアたっぷりで(笑)。ここまではですけどね。母親の方も今で言う
教育ママですよね。やっぱり再読するといろいろ見逃してたところ多いです。
特に二章の最初なんか、こう牧歌的な・・・光景で(子供が産まれるところ)、
おっと余計な雑談ですな。
123 :
フェリシテ:01/11/25 02:45
>JPBさん
お久しぶりです。
「恋愛小説のレトリック」面白いでしょ?
私はゼミの先生に卒論の修正を求められ、へこんでるところです。
「これでは材料帳に過ぎない」とかいわれちゃって。
今までろくな論文書いてこなかったバチが当りました。
>>視点の高速移動を歯切れ良く描いていくのがフロベールの特徴
だと思ってたのですが、原文ではそうでもないのでしょうか?
原文でもそれはフローベールの特徴だといえると思います。
フローベールの小説(原文)には過去形で圧倒的に「半過去形」が多いんです。
英語で言えば「過去進行形」に似た自制なんですが、過去のある出来事や
基準点を軸にしてその背景や、状態を述べる時に用いられるものです。
例えば、「外は雪が降っていた」とか。
書き言葉では単純に起こった出来事を述べるだけの時は「単過去形」を用います。
バルザックの小説などではこの単過去形が多く用いられます。
「昨日は雪が降った」など。
歯切れが良いのは後者の単過去形のほうだと思うんですが、
フローベールの小説は視点移動がとてもスムーズに行われてるし、
翻訳で読む限りでは接続詞の使い方がうまいなと感じました。
今手元に本が無いので(彼氏宅)失念しましたが。
フェリシテは今日は酔っ払いなのでこの辺で失礼します。
124 :
吾輩は名無しである:01/11/27 16:40
あげます。
125 :
フェリシテ:01/11/30 16:30
すいません。どなたか『マダム・ボヴァリー』の原文テキストが手に入るサイト
ご存じないですか?ABUから手に入れようと思ってたら文字化けしちゃって…
文字化けを直すソフトがダウンロードできるサイトでもいいです!
急いでます。誰か助けて〜!!!
126 :
吾輩は名無しである:01/11/30 17:09
んなもん知るか!
127 :
吾輩は名無しである:01/11/30 20:04
なんだマルチポストか。
128 :
吾輩は名無しである:01/12/04 17:10
age
129 :
フェリシテ:01/12/04 17:12
原文テキストやっとゲットしました。
ご迷惑おかけしました。
皆さんいかがお過ごしですか?
最近下がりまくってるみたいで残念です。。。
130 :
吾輩は名無しである:01/12/04 21:49
自己解決厨?
131 :
フェリシテ:01/12/05 14:21
この間から卒論のテーマが変わりつつあったので思い切って
「カメラワーク的視点」と主人公の関係については切捨て、
(卒論語時で証明できるものでもなさそうで、しかも時間がないし)
「語り手」についてのみ語ろうかと思います。
というのも、エマを主人公と意識できる場面はたくさんあって、
「くるくる回った」とかいうカメラワーク的視点はエマだけでなく
むしろシャルルのほうに多く使われていることが原文を読んで判明したからです。
時間がないので、参考書切り張り状態なんですけど、なんとか
期間内に提出できればいいかな。。。なんて。
132 :
吾輩は名無しである:01/12/05 14:50
12月になってからやっと原文ゲットって、そんなんでいいのかい?
いや、あおりじゃなくて、素朴に。
133 :
吾輩は名無しである:01/12/05 15:39
てゆ〜か、指導教官はなにをしとるのだ!
134 :
吾輩は名無しである:01/12/05 17:09
てゆーか、ゲットした原文の引用扱いはどうするつもりなんだ?
(それにマルチポストはいかんよ。)
フロベールよりも先に、ガイドライン板逝って
「教えて君のための〜」読め。
>>131 フェリシテさん
おいおい、いまごろになって無茶苦茶言うなァ(笑)
もう提出なんじゃないですか?結局、どうなったのでしょうか?
と、ageてみる。
136 :
フェリシテ:01/12/14 15:16
お久しぶりです。
なんかちょっとへこんでましたが、なんとかやってます。
ゲットした原文データベースは引用のためだけに利用します。
自分で書き込むと絶対に間違うので…ちゃんと原文のテキストは入手してますよ。
それは11月のうちに。
「語り手」については自分なりの結論が出ましたが、なんとも先生の顔色は
よくありません。私の結論では
語り手をあらわしているかのごとき冒頭のnousは実は語り手をばらばらに
分裂させる効果があり、「語り手は作者ではない」という従来の3人称の
小説の暗黙の了解を破るために用いられたもの。その役割は「物語最初の主要登場人物
シャルルの観察」と「シャルルとほかのクラスメイトを切り分ける」というもの。
工藤庸子『恋愛小説のレトリック』は「nousとは視点のフィギュールである」と
ありましたが、それは作者の目指す没主観的な記述のために用いられたもので、
「客観的な視点」を徹底することでフロベールは「思想の文学」を作り上げた。
ってな感じなんですが、先生いわく「語りがあるということは語り手はいる」
ということで、ちょっと私のいわんとしていることとずれた返事ばかり返ってくる
のでいらいらしてるのです。
仮説が「統一された語り手は存在しない」ということなんですが、それからなにが
いえるかといえば、上に書いたようなことではないかと。
ご意見、ご感想などお待ちしております。
137 :
フェリシテ:01/12/14 15:22
>>129 で原文テキストっていってるのはデータベースのことでした。
勘違いさせたかもしれないですね、申し訳ありませんでした。
あと、
>>136で
「語り手は作者ではない」という従来3人称小説
の暗黙の了解。。。
のところを、
「語り手=作者」という従来の暗黙の
了解を破るために「語り手は作者ではない」と明示するものである。
に変更します。
ごめんなさい。
138 :
フェリシテ:01/12/14 18:15
>JPBさん
工藤庸子さんのコレットがらみの本って『フランス恋愛小説論』とか
『プルーストからコレットへ』ですか?『シェリ』の翻訳も工藤さんですよね。
先日先輩の論文を見せてもらって初めて『シェリ』についての論文を読みました。
「薔薇色」の使われ方についての論文でした。
「薔薇色」はレアの寝室の描写で最も多く使われているということから、
薔薇色には「美しさ」と「老い」を対比する効果があるということ
『シェリ』の続編『シェリの最後』では「薔薇色」という単語が極端に減ることから
失われた色彩によって「時の経過」が表現されているということ
卒論のレベルとしてはかなり高度なもので、私の論文と見比べるとなんだか
情けなくなりました。
139 :
吾輩は名無しである:01/12/14 20:45
>フェリシテさん
ナラトロジーの分野に踏み込むと、わたしにはさっぱりわからない話
になりますが、「『語り手は作者ではない』という従来の三人称小説
の暗黙の了解」には、わたしも?となりました。
「『語り手=作者』という暗黙の了解」にも?なんですが...
ここは語り手が全知であることを言うべきところなのでは...と個人的
には思います。
あと素朴な質問
なぜnousを使うことが「語り手を分裂させる」ことになるのか(複数形
にしたから分裂させたのだというのはちょっと説得力に欠けるように思
います。
nousの使用と「客観的な視点の徹底」はどうむすびつくのか。(客観性
を徹底したいなら、nousは避けることになるのでは?)
なぜ「客観性を徹底すること」が「思想の文学」につながるのか。
フロベールは専門外なので、門外漢のたわごとですけど。
卒論、締め切りはいつですか?がんばってください。
140 :
フェリシテ:01/12/16 04:29
>>139 >「『語り手=作者』という暗黙の了解」にも?なんですが...
ここは語り手が全知であることを言うべきところなのでは...と個人的
には思います。
ごめんなさい。書き間違いで誤解を生んでいるようです。
従来の3人称の小説には「語り手=作者」という暗黙の了解があった。
だからこそ、3人称の小説の語り手は全知であることができた。
「ボヴァリー夫人」では冒頭の数十行のみが1人称で語られるという
設定で書かれているため、語り手の正体はつかみにくくなっているが、
冒頭のnousは「作者=語り手」という従来の安定した構図を覆し
「語り手は作者ではない」と暗示する効果がある。ということです。
>なぜnousを使うことが「語り手を分裂させる」ことになるのか(複数形
にしたから分裂させたのだというのはちょっと説得力に欠けるように思
います
複数形だから分裂させたというのはちょっと違います。
この作品は1人称の人物が語り始めるという設定で書かれていることは
明白です。しかし、1人称の「語り手」が全知であるということはありえません。
全知の視点というものは3人称の語り手にしか許されていないからです。
ということは、nousはこの作品における恒常的な「語り手」ではない
ということが出来ます。つまり、シャルルを「観察」するために用意された
便宜上の「語り手」としてのnousはシャルルを「観察する」という役目が終われば
姿を消して、この作品に恒常的な「語り手」は想定できないということになります。
その意味で、「語り手をバラバラに分裂させる」効果があると述べました。
141 :
フェリシテ:01/12/16 04:44
続きです。
>>139 >nousの使用と「客観的な視点の徹底」はどうむすびつくのか。(客観性
を徹底したいなら、nousは避けることになるのでは?)
私は逆だと考えます。冒頭に1人称を持ってくることによって「語り手は作者ではありませんよ」
と示唆する効果があることはすでに述べましたが、そうすることによって
シャルルは「作者以外の不特定多数の人物」に「観察」されながら登場する
ことができます。ご存知のようにこの作品ではシャルルには作者がブルジョワの
中に見るいやらしい性格をことごとく与えられています。
そのような人物を評価するときに、作者の主観から描くのではなく、
ワンクッションおいたnousという視点から描くことによって客観性が
生まれると考えます。
そして、客観的な記述を徹底することによって、作者は映画で言う監督の
ような存在になり、「視点人物の入れ替わりによって場面をスムーズに切り替える」
「見せたいものを見せたい視点からのみ見せる」「作者以外の人物に観察させる」
という作品が作れるわけです。
「見せたいものを見せたい視点から見せる」→「思想の文学」
ですよね。「思想の文学」は解説からのパクリでした。
もっとも、「思想」という言葉がきつすぎるので
「没主観的な記述を徹底することにより、
作者の主観をより如実に表現した」
といってみると分かりやすいかな?
この作品には作者の存在を示唆するような記述は1つもありません。
冒頭の部分すら一人の登場人物のような者が語りだすのだから。
作者はシャルルを滑稽だとも愚劣だとも表現しないけれど、
エマの視点から充分それを表現していることになります。
これが、フローベールの作品が没主観的な記述による「思想の文学」
といわれる所以ではないかと考えます。
142 :
フェリシテ:01/12/16 04:50
締め切りは後5日です。大体の骨格は出来上がりましたので、
後は教授の細かいダメだしを待つのみになりました。
「カメラワーク的視点」とか、「主人公」とかいってたときよりは
だいぶ「まし」になったとしか言われていないので不安ですが。
教授も大変だろうな、とふと思った。
144 :
フェリシテ:01/12/17 03:35
やっとOKが出ました〜〜
明日書式校正などの細かい修正作業をして、プリントアウトします。
>>143さんのおっしゃる通り教授も「もう読みたくないよー」
というのが本音らしいです。「私の論文を読みたくない」
という意味ではないと書いてありましたが真意の程は定かならず…
一日に5人以上の学生が途中段階で送りつけてくるので大変なんだそうです。
「パソコン使えないことにしとけばよかった」とぼやいておられました。
確かにいえてますね。生徒の側からすればメールに添付して
送りつけるだけで返事を待つのみなのですから。
とにもかくにも終わりました。
このスレにはちょくちょく顔出します。
卒論以外の観点から議論ができるといいですね。
145 :
フェリシテ:01/12/17 18:46
完了!!!
ということであげてみる。
nousの使用がなぜ客観性を増すことに役立つのか、
「見せたいものを見せたい視点から描く」ことが
「作者の主観の表明」と結びつくのはわかるので
すが、それと客観性(あるいは没主観性)がどう
結びつくのか、どうも「主観・客観」、「語り手・
作者」、「一人称・三人称」という異なる概念が
整理されていないようで、まだ釈然とはしません
が、とにかく完成おめでとうございます。
締めきり5日前に完成というのは大したものです。
私がかつて、修士論文を提出したときなど、前日
徹夜でしたもの。
で、締めきり5分前に事務室へ行ったら、「表紙に
題名を書いてください」と言われ、あわてて綴りを
まちがえて大恥をかいたものです。
147 :
フェリシテ:01/12/17 20:02
>客観性(あるいは没主観性)がどう
結びつくのか、どうも「主観・客観」、「語り手・
作者」、「一人称・三人称」という異なる概念が
整理されていないようで、まだ釈然とはしません
フローベールは叙述に対しては誰よりも意識的で、
そのためにどの作品も隅々まで彼の支配が貫徹されています。
徹底的に客観的であろうとし、そうすることで自らの意思を貫くことにより
彼の作品は彼の主観そのものに染め上げられてしまっていると
私には考えられます。
何もかもがフローベールであるということと、客観的であることは表裏一体を
なしているのです。(なんだか横道にそれたかなぁ?)
nousは厳密な意味では作中人物とは言えず、シャルルを「観察」する
役割を持った便宜上の語り手、本物らしく見せる視点のフィギュール、
レトリックであるというのが私の最終的な結論です。
そして、「最初の」主要登場人物を「観察」するためのnousが
役目を終えた後も作品に残存することは作者の没主観的な「記述」
を妨げる要因になったのではないかと考えました。シャルルは作者以外の
不特定多数の存在に「観察」されながら登場しなければならなかった。
作者が憎むブルジョワ根性を具現化したような存在を冒頭から描き始めるには
nousという1人称を用いて、それがシャルルの級友であったという設定から
描き始めることが、「没主観的な記述」をより完璧なものにするといえます。
そう考えると、nousがその中の名前はおろか、人数さえ明らかにされぬ不特定多数の
存在のまま消されてしまったことも理解できるからです。
また長すぎてしまいました。。。卒論も、くどすぎるのか、当初50枚の予定が98枚に。
148 :
フェリシテ:01/12/17 20:10
「見せたいものを見せたい視点から見せる」
↓
「視点」のフィギュール。心理や場面の説明をせずとも
「視点」の先を表現することで物語を展開していくことが可能
↓
作者の主観的な「記述」を省いた、それでいて作者の「主観」に
染め上げられた作品が作れるのでは?
149 :
フェリシテ:01/12/17 20:17
>上に書いた文章が「フェリシテにしてはどうもできすぎたい」
と思われた方々。。。
「視点のフィギュール」に関しては工藤庸子『恋愛小説のレトリック』
より抜粋です。いまだに「フィギュール」ってなに??と聞かれて
答えられないので困っていますが。
論文では自分の言葉っぽく手直しするか、
「引用」ということにしてしまっています。(w
「徹底的に客観的であろうとする」ことが、「作品を作者の主観に
染めあげる」ことに通じるというのは、たしかにアリだと思うし、
事実、そういうことを言っている研究者は少なからずいるんだろう
なと思います。
ただ、これはある種の逆説なんですね。
だから、その逆説をいかに成り立たせるか、その理由づけというの
かな、まあそういうものが必要だし、そこが腕のみせどころ。
「私はそう思う」だけではちょっと弱いかなと...
あとしつこいようだけど、nousの問題としては、作者=語り手では
ないよということが、即客観性とは結びつかないのではないか、そ
のふたつを結び付けるためには、もうひとつ何かが必要なのではな
いかという気がします。
門外漢がいろいろ言って、失礼しました。
訳あって近々ひとの卒論を指導することになりそうなので、ちょっと
シミュレーションのつもりでいろいろ余計なことを言ってしまいまし
た。
151 :
JPB@改:01/12/18 06:59
>フェリシテさん
おつかれさまでした。口頭試問もあるのでしょうから、それまでゆっくりして
くださいね。
6年前『牝猫』や『シェリ』『シェリの最後』『ジジ』『青い麦』等を読んでいた
時、主な訳者が工藤さんでした。それで、存じていました。しかし、精力的に
最近は仕事をされているようですね。「薔薇色」の論文は面白そうですね。おそらく
単なる「薔薇色」の数量的な減少が「老い」を描写してるって話にとどまらず、
同時代での「薔薇色」の象徴的役割や、主人公と「薔薇色」の特別な関係を解明
してくれているのでしょうね。
私も映画監督的な役割と視点の分散、それが「思想の文学」という言葉に集約さ
れるのがよく分からなかったりしますが。それについては、また今度。
152 :
フェリシテ:01/12/18 13:52
最終的な公正も終わり、提出してきます。
139さんのおっしゃることや、JPBさんのおっしゃることは教授からも
指摘されていて、いちおう論文の中には書いていますが、長くなるので
ここでは避けます。
教授からは「主観の表現と徹底的な客観的記述」は表裏一体を無いしている
ということで、そういうことはすでに研究され尽くしており、
学部生(君の)レベルで下手なところに突っ込んでいくと、時間がなくなるので
免除...といいことでした...情けなや。
それから、「思想の文学」という言葉gきつすぎると言う事から
「作者主観の如実な表現」という言葉に変更してみたり。
細かい修正は一応やりましたので、提出という運びになりました。
口頭試問で、139さんがおっしゃることに突っ込まれる可能性もありますが、
諮問教授は掃き溜めゼミのうちのゼミ教授と、かなりお年を召されたカトリン
教授(愛称です。本名は伏せておきます)担当なので、若干安心してます。
エビ教授(愛称。本名は省きます)が担当のゼミ生は悲惨を極める、と言う事でした。
153 :
フェリシテ:01/12/18 14:01
>139
>nousの問題としては、作者=語り手では
ないよということが、即客観性とは結びつかないのではないか、そ
のふたつを結び付けるためには、もうひとつ何かが必要なのではな
いかという気がします。
繰り返しになりますが、作者が憎む「ただ存在しているだけのもの」
の具現化とも言うべきシャルルを、作者以外の不特定多数の存在が
「観察する」ということが「客観性」につながるのでは?ということです。
細かい根拠は長くなるので割愛しますが。
あと、nousにはおもにシャルルとその他のクラスメイトを切り分ける効果が
あって、nousの視点は視聴者にも近いと言う事から「映画監督のような」
という表現を用いました。まぁ、その他にも「語り方」が統一されていない
とか、nousは恒常的な語り手とは言えないとか、いろいろいってるのですが。
あまり細かい部分に首を突っ込むときついと言うのが本音です。
なぜるように、なぜるように。
139さんのご指導はとっても勉強になります!
口頭試問で突っ込まれそうなところがあったら
また質問してもいいですか?
というか、139さんは院生なのですか?
154 :
フェリシテ:01/12/18 14:05
うちのゼミでは「卒論」の場合「〜ということは〜といえるのでは?」
というレベルでよいそうなのです。こんなレベルの低い学生に
提出までつきあってくださって、語りかけてくださった皆様
ありがとうございましたm(_ _)m
155 :
フェリシテ:01/12/18 14:12
卒論とは話が飛ぶのですが
『シェリ』についての論文は本当に面白かった。
JPBさんにも読ませたいくらいですが、著作権等の問題もあるので(?)
のせられません。長いし。
「薔薇色」は「老い」に反発するレアの心理描写に近い用いられ方
がされている。とか、『シェ理の最後』では「薔薇色」は時を集約する
つまり、美しさに対するレアの執着がまだあった時代を集約する効果がある。
ということでした。また、同時代、つまり1912年の「ベルエポックの終焉」
と「レアの美しさに対する執着」を「薔薇色」という言葉が象徴的にしている
そうです。細かい根拠についてはこれまた長くなるので割愛。
156 :
吾輩は名無しである:01/12/18 14:17
フェラして
157 :
吾輩は名無しである:01/12/21 05:37
age
>>フェリシテさん
「カトリン」教授に「エビ」教授ですか。
もしや、とは思っていましたが、フェリシテさんの所属大学がわかって
しまいました。
芝生と時計台のある大学ですね。
わたしとフェリシテさんはおたがい気づかぬままどこかですれ違ってい
るかもしれません。
ところで、"nous"って冒頭以外に出て来ます?
160 :
フェリシテ:01/12/25 02:31
>>139 なんと!あまり、真面目な学生ではなかったのですれ違ったりもしなかったん
ではないでしょうか…研究室にもあまり顔出さないし…
>>159 T-1の途中まで、数十行にだけですが、計6回出てきます。
それから、『恋愛小説のレトリック』にも書いてありましたが、
nousには「僕ら」と「シャルル」を区別する機能もあることは先にも触れました。
以下の文(T-1)
口々に叫び、吠え、足踏みし、「シャルボヴァリ、シャルボヴァリ」
とはやし立てる。
On hurlait, on aboyait, on trépignait,
on répétait: Charbovari! Charbovari!
このonにもnousと似たような役割があると思います。
本物らしく見せる視点のレトリックということですかね。
161 :
フェリシテ:01/12/27 02:27
あら。
あげてみます
162 :
吾輩は名無しである:02/01/18 02:18
age
163 :
吾輩は名無しである:02/01/18 02:36
agegege
164 :
吾輩は名無しである:02/01/23 02:45
フェリシテさん何処へ?
フェリシテさんはそろそろ口頭試問の時期ですかね。
作者という存在を強調し過ぎてしまうのではないかという懸念を持ちながら
なのですが、nousが「始まり」に置かれたという事実について考えてます。
小説を世界の再現と捉えるにせよ、問題設定と捉えるにせよ、異議申立てと
捉えるにせよ、そこにはすでに包括せんとするものが含まれますよね。
「私たち」という均質な視線がシャルルをとらえ、彼の粗相を辺りの均質さ
からの齟齬として、際立たせる。それは、その後パリ近郊の村で村人の日常
から浮いてしまうエマとも似ています。
この均質な視線に読者である個人を同化させ、シャルルやエマの行為の
ギクシャクとした部分を際立たせる効果を与えるものが「私たち」である
気もします。
しかし、その視線に乗っかってエマらを滑稽に笑うのもフロベールの青写真の上
なら、その視線ではなく、エマらに感情移入して周囲との齟齬に酔うのもまたそ
の陰画。なかなか恐ろしい出口無しの世界ではないか、と思ったりしました。
166 :
フェリシテ:02/01/29 01:11
>>JPBさん
お久しぶりです。
あれからずっと遊びほうけて、バイトばっかりしてたので卒論で自分が何を書いたのか
あんまり思い出せません(-_-;)
>小説を世界の再現と捉えるにせよ、問題設定と捉えるにせよ、異議申立てと
捉えるにせよ、そこにはすでに包括せんとするものが含まれますよね。
ちょっと難しくて分からないです。ゴメンナサイ…
「私たち」にエマの行為のギクシャクした部分を際立たせる効果があるというのは
ちょっと疑問が残るのですが、それはシャルルとエマに共通の「ギクシャク」があると
いうことからくるのですか?シャルルとエマには共通点もあるし、ギクシャクした行為も
共通してるというのは同意ですが、「私たち」はエマとは接点を持っていないような気がします。
シャルルのぎこちなさ、集団へ溶け込まない不自然さ、孤立を際立たせる効果はもちろん
ありますが。
おお、フェリシテさん、おかえりなさい。
私が余計なことを書いたので、来なくなったのでは・・・と少し
心配しておりました。
いつぞや過去ログを読み返して、フェリシテさんに言おうと思っ
ていたことがあったのですが、随分時間がたってしまい、忘れて
しまいました。
思い出したら書きます。
そういえば、「今日は月曜日です」と言うときの
フランス人の Nous sommes 〜って言語感覚は面白いですね。
おお、みなさんお久しぶりです。
>フェリシテさん
申し訳ないです。
>>165の話しは99%思い付きです。ageるためとはいえ、
適当なことを言うと伝わりませんね。
何でそんなこと言ったかというと、たまたま読み返した『始まりの現象』
(エドワード・E.サイード 法政大学出版局)で、次のような一節を見つけ
たからです。
「<意図>によって私が意味するものは、ある特有の方法で何かを知的にや
りたいという、始まりにある欲求のことである。それは、意識的にせよ
無意識的にせよ、ともかく常に(あるいはほとんど常に)始まりとなる意図の
印をある形で示す言語、常に意味生産にかかわろうとする言語によって何かを
なしたいとする欲求である。ある作品、作品全体との関連からすれば、始ま
りへの意図はまさしく、作品がその中で展開する作られた<包括性>のことで
ある。」
彼は「作家の重要性の決定因」を「作品中の葛藤、想像力の矛盾の質」である
ことに賛同しながらも、「意図」を作品中の「葛藤と矛盾」に適用します。
どのようにそれが適用されるかといえば、「意図は個人的見解と共同体的関心
の結合部である」とみなすことによって、意図が作品との支配−被支配関係の
中に置かれるのではなく、社会と伝統との連関でみなすことが可能だという
ようにです。
ちょっとわかりにくいですね。それでは。
170 :
フェリシテ:02/02/01 05:31
>>169 >彼は「作家の重要性の決定因」を「作品中の葛藤、想像力の矛盾の質」である
ことに賛同しながらも、「意図」を作品中の「葛藤と矛盾」に適用します。
どのようにそれが適用されるかといえば、「意図は個人的見解と共同体的関心
の結合部である」とみなすことによって、意図が作品との支配−被支配関係の
中に置かれるのではなく、社会と伝統との連関でみなすことが可能だという
ようにです。
ますます分からなくなりました。ごめんなさい、アホで…
とくにこの部分が難しいです。
>「意図は個人的見解と共同体的関心結合部である」とみなすことによって
やはり、学問ってのは単純なことを難しく考えることなのかしら。
それとも、私の頭が単細胞なのかしら…
>フェリシテさん
>ますます分からなくなりました。ごめんなさい、アホで…
いえ、単に私の理解不足と文章ミスです(^^;
簡単にいえば、小説を書こうと決めたときがあるとしますよね。
で、そのときの作者はまず第一文を書かなきゃ、はじめられないですよね。
ここまでは一般的な事実としてください。
でも、第一文を書き始めるには、すでにある程度、小説の全体像が
頭の中で決まってなきゃできないですよね。となると、「書き始める」
ってことは、色んなものに対して決断を下してると考えてもいいですね。
例えば、世界(小説)の道標としての役割とか(こういうところから持ってって
みよう、とか)、業界に対する目配せとか(奴がこう書くなら、俺はこうやって
みよう、とか)、今まで読んでた小説に対しての批評とか(こう書くってのは
やっぱ違うよな〜、とか)・・・
ここは仮説です。
そう考えてみると、「書き始める」ことって不思議だな〜と思って来ませんか?
始めちゃったときには、ある程度作家の想像力は醗酵してきてる、とするなら、
その醗酵には、どんな要素が、どんな風に関係しているのだろう。こんなところ
から始まってます。
で、要素はやっぱり、作家をとりまく社会状況とか、資料として読んだテキスト群
が一方であって、その一方に自分がどうしてもこだわりたい部分とかがあって・・・
その双方がどっちかに対して優越してるってわけではなく、時には平衡、時には
どちらかに傾いたりしながらどっかの時点で書かれちゃう。ってことが引用では
言いたかっただけですね。すみません、混乱させてしまって。控えます。
おっと「引用では」は不正確ですね。別にサイード自身は私の
言ってることとは雲泥の差で、きちんとテキストを追ってます。
この後彼は、社会状況が作家が参照(せざるをえない)するテ
キスト群に一定の秩序を与えているってことに、論点をシフト
してはいくわけですが・・・重ね重ねすみません。
>それとも、私の頭が単細胞なのかしら…
そんなことはないです。関心が違うだけでしょう。
>やはり、学問ってのは単純なことを難しく考えることなのかしら。
ただ、このことは認識としては、私は違うと思うのです。
言葉づかいに関しては、単に色々な場合に応用されうるような形で
一般化して書かねばならないという、職業としての学問のお約束が
あるから、サイードはそのように書いただけで、むしろ責務は勝手
に彼の言葉を濫用した、私の無学に帰せられるべきです。
法律や国際条規(GATT規約など)なども同様の表記上のお約束
がありますよね。色々な場合を包括しなきゃいけない言葉ってのは
やっぱり場所場所では必要かつ適切なのではないかと、私は考えます。
173 :
フェリシテ:02/02/04 02:07
なるほど。
ちょっと分かりました。
2月から卒業旅行でしばらく日本を離れます。
口頭試問ギリギリに帰ってくるのでちょっとヤバめかもしれないですが。
でわ。
174 :
吾輩は名無しである:02/02/20 15:57
フェラシテちゃん、ところでいつかえってくるの?
175 :
吾輩は名無しである:02/03/06 23:57
age
176 :
吾輩は名無しである:02/03/14 12:44
age
177 :
吾輩は名無しである:02/03/26 21:30
age
178 :
吾輩は名無しである:02/03/26 21:49
わたしは結構シャルルに共感しちゃって、あんまり話しに入り込めなかったというか、マダム・ボバリーの悲劇に、フーン、としか思えなかった。
主人公に共感して、それを書いた作者に親近感感じれないとだめなタイプなんですよね。だから、赤と黒なんかは大好きだし。同じ題材なら、アンナ・カレー二ナのほうが。
皆さんは、これにどう心を動かされて、いいと思うんですか?煽りじゃなくて、かなり真剣な質問です。
>>178さん
共感という部分でいえば、一貫してこの主人公に、というのはないですね。
ただ、この小説では、それぞれの登場人物に、共感させられてしまうところ
があってそれが逆に何だ?という感じを起こさせます。
例えば、シャルルが教室ではやされるところなんか、自分が「先生」と
言おうとして「おかあさん」といってはやされたことを思い出して、恥ず
かしくなりますし、シャルルが一人めの妻に対し、つまんねー女だなと
思うところもわかるし、一人めの細君がなんとかシャルルのためにやって
あげようとするけど、愚痴ばかりみたいなところも身につまされる。
あとはシャルルと結婚したエマが、二人の生活を何とかいいものにしよう
と思ってがんばって、それでもとどかない何かがあると感じて、愕然と
するところもわかるし、金策に追われるエマの焦りなんかよくわかる(笑)
あとは、エマが不倫していたことに気づいたシャルルが、それでも憎みきれ
ないところも分かるし、不倫相手としゃべってるときに、ちっこいつか、と
思ってしまうところもわかる。
もちろんエマが不倫するところも良く分かるし、金を無心に行って断られ
たとき、おめー所詮その程度の愛情かよ、と思う部分もよくわかります。
そうやって色んな所に共感した後、何でこんなに同じようなところがある
んだ?と驚いて、二度心を動かされるという感じですね。共感という点で
いえば。
180 :
吾輩は名無しである:02/03/27 00:06
フェリシテさん、もう来ないのかなあ。
いずれにしても御卒業おめでとうございます。
(昨日25日が卒業式でしたね。学長の祝辞は無茶苦茶でしたがーー
かりにも心理学科の教授があんな明らかな誤りをおかしてはいけま
せんよね。ローカルねたですみません。御容赦を。)
181 :
吾輩は名無しである:02/04/05 19:18
age
182 :
吾輩は名無しである:02/04/19 03:19
フェリシテ
>179 すげーよくわかる。そうかーと思った。でも虚しくなりません?井戸底であるのはよくわかってんのに出られはしない蛙。
夢をみさせてくれよう!そんなこと言われたって落ち込むばかりなんだよう!
184 :
吾輩は名無しである:02/04/20 02:46
誰かをフェラシテて忙しいんだ!
185 :
吾輩は名無しである:02/04/20 04:02
卒論終われば就職活動から続く雑事に紛れる。
時折はボヴァリー を懐かしく思い出してくださいね>
186 :
吾輩は名無しである:02/04/20 04:10
とどめはTrois Contesでヘロディアス鬱。
187 :
吾輩は名無しである:02/04/22 02:25
フェリシテの卒論だけが、このスレの意義だったわけでもあるまい。
他の連中はどこにいった。色ぼけしたのじゃあるまいな。
188 :
吾輩は名無しである:02/05/07 22:59
age
189 :
吾輩は名無しである:02/05/19 03:19
age
答えElectric Ladyland/Jimi Hendrix
フェリシテスレ終了!