マジレススレ

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1吾輩は名無しである
みんな、普通に話しませんか?
どのスレも結局話が反れて「口喧嘩スレ」みたいに
なってるじゃないですか。普通にお話したい人、
なんでも書き込んで下さい。文学ネタでね。
2吾輩:2001/05/06(日) 23:32
ほうほう、それは言えてる。後味悪いスレが増えたよ。
このスレのお題は?
3吾輩は名無しである:2001/05/06(日) 23:35
何でもいいのですが、とりあえず皆さんいろんな意見があると
思いますが、「なにをもって文学というのか」でもレスって
もらいましょうか。皆さんのマジ意見が聞きたいです。
こんなスレがあってもいいでしょう?
4金之助さん:2001/05/06(日) 23:43
親譲りの無鉄砲で厨房の頃から煽りばっかりしている。中学校に居る時分、
2ちゃん以外の板で「氏ね」、「オマエモナー」を連発して一週間出禁にな
ったことがある。なぜそんなむやみをしたと聞く人があるかもしれぬ。べつ
だん深い理由でもない。
5ixion:2001/05/06(日) 23:48
結果として途上に留まるだけであろうとも、
文により何かを探求しようと志すことで、
問い続けることを自らに課す営み。

よって、書くだけでなく読むこと考えること
さらにはもちろん生きることにおいても
文学は可能であると思います。
6吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 00:01
>>5
ついでに生きることの意味も教えていただけると大変助るのですが。
7吾輩は子猫である:2001/05/07(月) 00:02
>>5
あんた良いよ、良い。
広い意味での文学はそうかもしれん。
では、文字世界に限っての文学とはどう考えますか?
マジ意見きぼーん。
8吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 00:05
そう、
たとえそこに到ることができないとしても、
そこへ至ろうとする姿勢をもちつづけて
生きていくことに意味があると思います。
9はまむぎ:2001/05/07(月) 02:03
>8
「意味」とかじゃないと思う。
持ち得るのはあくまでも姿勢、態度ではないか、と。
10吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 02:04
素朴なそして無知な疑問なんですが、
[芥川賞]と[直木賞]の選考基準の違いってなんですか?
11ixion:2001/05/07(月) 11:29
あ、それ俺も知りたい<選考基準の違い

何だろうねぇ…掲載された文芸誌の違いかな。もしくはより長く生き残る作家
を輩出するのが直木賞とか。あ、それは結果としてか(苦笑)
とにかく、一応の純文学=芥川賞/大衆文学=直木賞ってのがいかに曖昧かは、
10さん自身がよく分かってるんじゃないですか?
車谷と花村がそれぞれ直木・芥川獲った頃、流行りの言葉使って「クロス
オーヴァー」なんて言われてたけどね。今さら枠組の失効かよ、あほか、と
思ったのを覚えている。過去の受賞者みりゃあ、とっくの昔からそうだって
分かるのに…。
12吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 11:36
ある作家に芥川賞を与えなかった時、審査員がその理由として「(作品が)面白すぎる」
と言ったというが。真偽のほどは分からん。
13ixion:2001/05/07(月) 12:01
>7さん

作品としての文学については、ちょいと取り留めのない話になります
が、いつも思いだすのは藤枝静男が志賀直哉に「描写」について尋ねた
時に、志賀が答えた言葉ですわ。
「はなれて強く即く(つく)」
文でモノを表現しようとする時、書き手はふと対象を描き切り、それが
無抵抗に読み手に受け入れられる瞬間があるように錯覚する。で、それ
はありえないわけです。そりゃ当然ですえ。たった1つのモノでも、
描き切ることはできない。言葉というのはそういう不自由さを内包して
いて、それでも伝える役割は充分に果たしている。なぜかと言えば、
言葉が「つかず離れず」のものであるからです。言葉とは描くものと
描かれるものの2つが、合一することもなくまた矛盾することもなく
存在できる場です。仏教で不即不離と言えば、見えるものは異なるが
その奥では同じであること、なんてまぁ抹香クサイ話になるわけです
が、でも一抹の真実は含まれている。それは即も離も、どちらがどう
優れているということはなく、表れ方の違いだということです。で、
言葉は不自由と思うけれども、でも何かにくっつくことも離れること
もある、ってなさまざまな様態をとるもので、これ不即不離である
からこそ、言葉は便利なわけだ。
14ixion:2001/05/07(月) 12:02
言葉とはたとえて言えば渡し舟です。岸に即したままでも離れたまま
でもいけない。「渡す」行為のうちに存するわけです。ここで言う
「岸」というのは、モノのこともあれば思想のこともあり、まぁいろ
いろな地形が考えられるわけですが、とにかく言葉というのは即であり
離であり、またどちらでもない渡し舟ですね。「文学作品」とは、
アタシが思いまするに、この渡し舟の船頭の妙技なんですね。つまり、
普段渡し舟なんてのは船賃払って乗りこんで、しばらくぼんやり、
はい着いた、ってな具合です。これじゃああんまり面白くないじゃない
か、実は渡し舟ってのはこんなに面白いんだよ、と、船頭が岸に着く
かと見せかけて離れたり、歌を謡ったり、あちらこちらと景色を指して
みたり、とにかく「渡し」の面白さに気付かせる、こうじゃなきゃあ
文学とは言いません。「離れて強く即」いたり、即いて強く離れたり、
船頭の舵1つです。何も辛気クサイ自分探しやベッタリ描写、小難しい
思想が文学じゃあござんせん。そうアタシは思うんですわ。
アーヴィン・ウェルシュが「文学は末期症状を迎えている」と言った
って?バカヤロウ、モノや思想に末期症状はあるかもしれんが、「河」
がある限り「渡し」は死なねぇんだよ!!だから笙野のおばはん、純文学
擁護なんてしなくて良いですえ。あんたは船頭の妙技を見せてくれりゃ
あええんです。あ、「純」船頭とかはどうでもいいことです。さらに
さらに…

あれ、大きな橋がかかったら、船頭は廃業か?ハハハ。
15吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 12:06
現在二つの賞の区別がつきにくいのは、純文学から思想性や
主題性が失われているためか、大衆文学から娯楽性が失われ
ているせいか、両方か、なんでしょう。多分。
16吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 14:57
>あれ、大きな橋がかかったら、船頭は廃業か?ハハハ。

TVやネットなんかは文学から見て「大きな橋」と
なってしまったと思われますか?
それとも全く芸風の違う新しい船頭さんたちと
言うべきでしょうか。
仮に大きな橋が掛かって、お客がそっちへ流れても
一部の風流家に愛される伝統芸能として文学は細々と
続いていくかもわかりませんね。
ただそうなったら「もはや船頭界も終りだね」なんて
愚痴りながら舟に乗る方も多いんでしょうね。
もう、そうなってると思う人も多そうですけども。

ixionさんの書き込み、好きです。多分私には貴方の「渡し芸」の
半分も楽しみ切れていないんだろうとは思いますが。
17吾輩は子猫である:2001/05/07(月) 16:58
いやはや、ixionさんの弁論には納得させられます。文学板の中にもこんな人が
いるのか、捨てたもんじゃないですね。これからも熱の入ったレスをお願いします。
さて、「文学とは」と取り留めの無い議題を出したのは十分承知しています。
その広大さ繊細さ故に、時として僕の頭の中を文が食うのです。
活字虫は食うとすぐ糞をします。糞をされると困ります。僕の思考回路を
狭めるのです。その糞が僕の中での「文学」という存在でした。
考えれば考えるだけ大きくなるばかり。そりゃ取り留めないですよね。
しかし、ixionさんのマジレスがどうやらその糞を少し取り除いて
くれたようです。ありがとうございます。ixionさんのような人が
いれば船頭さんは廃業しなくてすみます。ぼくは、どうせ死ぬなら
船頭さんのユラユラ渡し船で沈没したいです。

18吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 20:42
ixionさんは言葉の媒体としての部分をクローズアップされてて、
とても腑に落ちるのですが、何も渡さない言葉というのは考えた
ことがないですか?かなり観念的ですが、言葉の物質性とでも言い
ましょうか。
例えば先に挙がった藤枝静男の「悲しいだけ」という言葉は
それがどこに向かっても方向指示し得ず、言葉だけが
ごろりと投げ出されているように思うのですが。
19吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 21:19
とくに上の話と関係ないんだけど。
「言葉の物質性」とか言い出す人の議論ってあんまり好きじゃないんだよね・・・
「言語派」っていうの? 自分でも理由はよく分からないが。

話が拡がっていかない、というか。意識が内向きだというか。
一時期、流行ってたみたいだけど。ソシュールとかフーコーとか?
確かに「言葉の自立性」とか言われると、「文学」を真面目に
やってる人には受けがいいんだよね...
だけどねえ・・・「文学」ってそんなにエラいもんかねえ・・・
そういうの(言語の物質性?)をねらった文学作品(例えば詩の作品とか)というのも
読んでてすごく鼻につくようになった。なんか自意識を形式で隠して誤魔化している
っていうか・・・なんかすごくナルっぽく感じるのね。

最近はあまり「コトバ」が自己主張していない作品のほうが好きです。
上のixion氏とはちがった意味で、橋渡しをしたらすぐに役割を終えるような、
そんな言葉。
20吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 21:40
>19 18ですが、ソシュールやフーコーは特に念頭に置いていないです。
物質性と自立性では話がシフトしてしまっているように思えるのですが。。
21吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 22:26
>>20
うむ。
では「言葉の物質性」と「自立性」の違いをちょっくら
教えてくれんかね。あんたが。
22ixion:2001/05/08(火) 00:28
つまらない比喩をこねくり回してしまいましたが、もう少しそれを
続けてみます。

>TVやネットなんかは文学から見て「大きな橋」となってしまった
>と思われますか?

テレビに関しては、常に何らかの伝達の良さ、分かりやすさを意識
しなければいけないという点で、船頭に妙技を見せる余裕があまり
ないですね。もちろん、面白い企画編成、また多少ひねった脚本
などはあるでしょうが、文学のように岸から離れたままどんどん
違う方向に漂うのは(ほとんど)許されない。けっこう真面目な
船頭さんで、まぁその点で言えば動きのない「橋」に近いのかも
しれない。いろいろな可能性はあるけど。
ネットに関してはまだ判断がつかないです。すいません。
23ixion:2001/05/08(火) 00:30
>何も渡さない言葉というのは考えたことがないですか?かなり観念的
>ですが、言葉の物質性とでも言いましょうか。

あります。ただ言葉のために言葉を弄ぶようにしても、まぁ浮遊する
シニフィアンとか、そう言ってもいいですが、結局は船というのは
岸があって存在しえるものですね。例えば船に乗って船の模様しか
見ない、または見えない、そう考えるとよほど壮麗な船でもない限り
憂鬱です。ただし、言葉が何かを指し示すことなく、言葉が次の言葉
に結ぼれてどんどんどんどん風景が移り変わって今自分はどこにいる
のか不明である、そういう「漂い」はあってもいい。
言葉の物質性、といっても、物質はただそこにあるわけではなく、
とすれば言葉もただ投げ出されているなんてことはない、と俺は
考えています。「悲しいだけ」に関して、あれが「ごろり」とした
言葉の手触りを与えてくる理由は、一つには「妻の死が悲しいだけ」
という感覚が物質のように実際に存在している、と「妻」に対しての
感情を吐露しておきながら、そこに差し挟まれる「離れた眼」が
あるからでしょう。散歩の風景を、自衛隊機を、機関車を、「労務者
急募」の看板を、坂道を、滝を、墓を、そして生と死さえも無機物に
変換するように見つめる眼、藤枝静男自身が中上との対談で

「いろいろ考えていくと、科学的に言って生物と無機物、鉱物、そう
いうものの区別はほとんどない。へたをすると鉱物・無機物が有機物
の方へ転化するという極限のところまで今きていますね」

と語っているが、妻に即することと離れることの両方を組合せている
から、「悲しいだけ」という作品は良いわけですね。
だけど、この作品に対し「言葉の物質性」というのはどうか?俺は
この作品は見事に即物と感覚の両岸のあいだに漂いながら、何か
「行く手に大きい山」を観じている見事な渡しの妙技だと思うんです。
言葉を投げ出してはいない。逆に「私々小説」的な極限のところまで
自分に向かっていると思う。うまく言えないけど。
24吾輩はコネコである:2001/05/08(火) 01:56
話題を変えていいかな?
性悪説と性善説。みんなどっち?
誰か第一声あげてみてよ。
25Tango:2001/05/08(火) 02:38
>ixionさん
船頭の喩え、とてもいいですね。言葉がどんなに融通無碍なものであるか、
改めて実感しました。特に「あちらこちらと景色を指してみたり」という
件には思わず膝を叩いて唸ってしまったくらいです。例えば、そう、「口
数の少ない舟子が、ふと或る方向を見るように促す。と、そこには、人を
ただ無心にし、ただ人に見ることだけを許すように静謐を湛えた風景が広
がっている」なんて演出もあるわけですね。

そんなことを考えながら、思い出したことがあります。
この比喩の中で「笑い」は、どのように扱われるでしょうか? 少々、手
垢で汚れすぎた感のあるテーマですが、それだけに等閑にしてはいけない
のだ、という気もします。人はなぜ笑うのか? 笑いはどこからやってく
るのか? そもそも笑いとは何なのか? 文学にとってはさほど大事に与
らないテーマかもしれませんが、一つ意見を聞かせて頂けませんでしょう
か?
26吾輩は名無しである:2001/05/08(火) 21:04
>>18 >>23
ふむぅ。折衷案的な感想を一つ。「悲しいだけ」という言葉は
むしろ十全に読者にその内容物を渡しきっているのではないか?
しかし、渡しきった後にもその外壁は残る。それは読者が受け取った以上の
ことは何も語らない。しかし、現実にそこにある。
それはまるで記憶の中に埋没していくしかないが、今ここで目の前にある
妻の死という現実そのものである。
ちょっと図式的すぎますか。
27吾輩は名無しである:2001/05/08(火) 23:26
>>24
性善性悪ってそもそも人間がどっちかって事ですよね。
答えとしてはちょっとズレるけど
「しちゃいけない」の方が概念として先にできた気がする。
理由はバカなので説明できないけど、直観で。
28吾輩は名無しである:2001/05/09(水) 06:24
>>26
「言葉の物質性」について。
あなたの図式を明確に要約すれば、

>しかし、渡しきった後にもその外壁は残る
ここで渡された「内容」というのが例えば使い古された用語で言えば「意味内容(シニフィエ)」
だとすれば、渡した後に残る外壁は「シニフィアン(意味するもの)」であり、
そのシニフィアンの物質性、言語記号(=言葉)の持つ物質性 materiality こそが、
「妻の死」という動かしがたい現実の現実性 reality と連動してその実在性を
ありありと浮かび上がらせる、というようなことなのでしょうか。あえて意図的に
図式的に説明してみましたけど。

で、問題はこういう説明の成否なんですけれども。たとえば詩をやっている
連中はこういう説明(たぶんもっとうまく説明するだろうが)をして
結構満足したりするのだろうか。それほど単純だとは思えないけれども、
やはり「詩の言葉」を解説する人ってこういう説明に流れがちな気がする...
それで、そう見ていくと上のixionさんの説明のほうがよほど魅力的に感じて
しまうんですけども...そこのところみなさんはどーでしょうか?
29吾輩は名無しである:2001/05/09(水) 16:19
私は>>26さんの話のほうが面白いと思いますよ。

まあ、たんに変わった娯楽として、小説を楽しむのならixionさんのような説明で十分なのでしょうが・・
30吾輩は名無しである:2001/05/09(水) 17:18
横レスですが、荒木の写真論と比較してみてはとふと思いました。
31吾輩は名無しである:2001/05/09(水) 19:49
>人はなぜ笑うのか?

可笑しいから>>25
32吾輩は名無しである:2001/05/09(水) 20:01
可笑しいってどういうこと?>31
33吾輩は名無しである:2001/05/09(水) 20:52
>>30 荒木ー篠山で比較すると面白いかもね。
34fishman:2001/05/09(水) 21:12
おりょ、珍しく写真の話題。中平卓馬なんかも良い比較対象になりそう。
35吾輩は名無しである:2001/05/09(水) 21:17
最初に笑った猿が最初の人になった。
36Tango:2001/05/09(水) 22:34
最初に笑われた猿は・・・気の毒だねぇ。
37にっく:2001/05/10(木) 09:09
>>25
笑いを生み出すのは対象とその周囲の「ずれ」ではないかな?
以前にどこかで読んだうろ覚えの記憶の受け売りですが。

で、「笑い=ずれ」と仮定して話を進めると、文学にとってさほど大事に
与えられないテーマである理由もわかる気がします。
文学にとって「ずれ(「文学的」に言えば差異)」は笑って済ませられる
問題ではないから、というよりはむしろ、その「ずれ」を突き詰めようという姿勢
こそが文学の大きな役割の一つだ(った?)からではないでしょうか。

「ずれ」を受け入れることで笑いは生まれるが、笑いで済まさずに
「ずれ」に対して抗おうという姿勢こそが文学・・・なのかもしれないと思います。

蛇足になりますが、安部公房の小説に出てくる主人公がどこか滑稽なことが
多いのは、主人公こそ「ずれ」に対して抵抗の意思を示しているものの
書き手自身に「ずれ」を受け入れる視点が存在しているからではないか、
このレスを書きながらふとそんなことを思いました。
38名前はいらない:2001/05/10(木) 12:41
39Tango:2001/05/10(木) 23:09
なるほど、なるほど>にっくさん

一行一行、何度も読み返してますが、そのたびに思考が錯綜して解決の糸口
すら見えて来そうにないです(笑
もう少し考えさせてください。

今まで考えて来たことを2、3。

○「おかしい」から推測して、「人は予期せぬ出来事に遭遇すると笑うこと
がある」というのが一つ。

○発生の起源は、やはりコミュニケーションの手段であったろう、というの
が一つ。もう少し言うと、「笑う」というより「笑ってみせる」、その為の
笑い。更に言うと、昔の人(昔も昔、大昔です)は、他者との関係の中でし
か笑わなかっただろう、ということ。

○現代人は一人部屋にいるときも本やテレビを見て笑うことをするけど、昔
の人は、そういう笑いを知らなかったのではないだろうか? つまり、「思
い出し笑い」や「ペットの仕草に笑う」などの笑いは、高度な「笑い」とい
えるだろう、ということ。

○「ペットの仕草に笑う」に見られるように、現代人は、身の回りの現象か
ら(勿論、言語活動の中からも)滑稽さや可笑しみを引き出して笑うことを
するが、それは、漸次的に獲得し、徐々に発達させてきた能力であろう、と
いうこと。

いま、最後の項の「引き出して」というところを文学的(?)に考えている
のですが、なかなか難しいですね。

丁寧なレス、感謝です。
40Tango:2001/05/10(木) 23:11
(あ、何も省略されてません・・くれぐれも、「ここ」は押さないください)
41吾輩は名無しである:2001/05/10(木) 23:13
小泉改革の試金石は参院選立候補者選び

 「新世紀維新」を掲げる小泉純一郎首相=写真。9日の代表質問でも、十八番の「構造改革」を連発していたが、これを具体化する力量がなければ、単なる“遠吠え首相”で終わってしまう。そんななか、野党陣営から首相の改革姿勢を瀬踏みする“踏み絵”が突き付けられた。7月29日予定の参院選を前に、毎度毎度の官僚OBがズラリと並んだ比例代表候補の差し替え要求だが、これが自民党内の改革支持派と最大派閥・橋本派など守旧派との攻防を誘発しそうなのだ。


 「小泉首相の改革主張には共感できる部分も多いが、自民党の参院比例代表の内定候補の顔ぶれを見ると中央省庁の幹部OBばかり。果たして、これで政官業癒着の構造に鋭いメスが入れられるのか?」


 こう疑問を呈するのは民主党の鳩山由紀夫代表。


 首相就任後、田中真紀子外相ら女性5閣僚や慶大教授の竹中平蔵経済財政担当相、政策新人類の石原伸晃行革担当相らを抜てきするなど、総裁選で公約した「脱派閥人事」を断行した小泉首相だが、看板である構造改革の着手はこれから。特に、政官業癒着の中で既得権を確保してきた自民党橋本派を中心とする守旧派との血を見るような戦争は不可避といえる。


 自民党のこうした守旧体質を現すのが参院比例代表候補(後述)。運輸省や厚生省、農水省などの幹部OBがズラリと並ぶが、当然、出身省庁などの既得権を確保する傾向が強いといわれる。橋本派が権勢を誇っていた小泉内閣誕生前に内定していたものだが、これでは首相が7月の参院選で「日本を変える、自民党を変える」と訴えても、「看板に偽りあり」となりかねない。


 実は、先の総裁選で首相は「自民党総裁選立候補に当たって」と題する“公約”の中に、次のような一文を仕込んでいた。


 「衆参両院の候補については、政治を志す有為な若者に道を開くため、一般公募などによって、予備選の導入を図る」


 まさに、これは候補者選定方法の見直しを示す意思表明。前出の鳩山代表はこの点を踏まえ、代表質問で「小泉首相が構造改革を断行するというなら、既得権を守る立場の比例代表候補を見直すべきでは?」と、踏み絵を迫ったのだ。


 これに対し、小泉首相は「候補者の選定にあたっては、今後、『聖域なき構造改革』という趣旨に合った人に出てもらいたい。小泉内閣を支持する方々が出て、多く当選してほしいと思う」と候補見直しに含みを持たせたうえ、「私の内閣の方針に反対する勢力はすべて抵抗勢力だ」といい、党内外をけん制した。


 現在、80%前後という圧倒的支持率を追い風にする小泉首相だが、その改革姿勢は自民党議員の大勢とはかなり違う。先の代表質問でも、首相答弁に野党議員が大きな拍手を送る一方、自民党議員はシラーとしていた場面が多々あった。自民党では「参院選までは小泉人気に乗って議席確保が第一だが、その後は本格的な改革支持派と守旧派の主導権争いに突入する」とみられているのだ。


 小泉首相は先手必勝で「候補者差し替え」を打ち出すことができるのか?


 政治評論家の浅川博忠氏は「比例代表も選挙区も、現在の自民党候補のままで参院選で勝っても、最も恩恵を受けるのは候補者が多い橋本派。小泉首相は『参院選勝利』という名誉は得られても、改革支持派を増やすことは難しい。当然、山崎拓幹事長と組んで候補者の差し替えを狙ってくる可能性は十二分にある。橋本派は断固阻止するだろう。来月末の国会会期末の時点で、内閣支持率をどこまで維持できるかが大きなポイント。参院選前にも、改革支持派と守旧派のすさまじい攻防が始まりそうだ」と語っている。


【主な自民党参院比例候補=新人】


高祖 憲治 元近畿郵政局長
近藤  剛 商社顧問
段本 幸男 元地方農政局長
福島啓史郎 元農水省局長
藤井 基之 元厚生省課長
藤野 公孝 元運輸省審議官
森元 恒雄 元自治省審議官
小泉 顕雄 元京都府園部町議


42fishman:2001/05/10(木) 23:25
>>39
>発生の起源は、やはりコミュニケーションの手段であったろう、というの
が一つ。もう少し言うと、「笑う」というより「笑ってみせる」、

ここ納得。コミュニケーションと言うよりは危機回避としての
笑いってことですよね?一部の猿が尻をこすり合うように、
彼らは笑った。
このように考えていくと、笑顔に先立って笑いがあったのではなく、
笑いに先立って笑顔があったということになりますね。
これって何か示唆的ですよね。
43横レスすまそ:2001/05/10(木) 23:32
>>42
>笑いに先立って笑顔があったということになりますね

ということだと、いわゆる「眼が笑ってない」笑顔、つまり
人間の笑いの中でも最も高度で複雑な笑いが、先立ってあった、
という意味になるのか? う〜〜ん、そうかぁ?
44吾輩は名無しである:2001/05/10(木) 23:42
笑いに先立ってあった笑顔。これの詳しい表情はひとまず
想像していませんでした。ですから、「眼が笑ってない」笑顔が
それにあたるのかは私にはわかりません。
個人的には現在でいうところの笑顔と同じモノを
彼らが浮かべていたとは考えづらい。眼が笑っていない笑顔というよりは
むしろ泣き顔に近かったんじゃないかなと思います。
45吾輩は名無しである:2001/05/10(木) 23:51
>>5だと文学とロックン・ロールとは似たジャンルのモノ、って感じになりますね。何となく。
46横レスすまそ:2001/05/10(木) 23:54
>>44
即レス、感謝。
だが、「眼が笑ってない笑顔」と「泣き顔に近い笑顔」は、
各自の想像の中でどうにでも変容しうるぞ。どう違うのかが
極めて、あいまい。ということは、論を展開してゆく基礎とは
なりにくいね、画像でもない限り。
発生の期限も「コミュニケーション」から「条件反射」まで
考えうることになる。ん〜、微妙な表情を言葉で表現すること
そのものの限界なのか??
47Tango:2001/05/11(金) 00:18
英語には"laugh"と”smile"とがあって、この両者の淵源が犬の行動にも
見られる、と唱える学者もいるようです。
そういえば、日本語にも「わらう」のほかに「えむ」がありますね。
両方とも一種の言語の役割を果たしていたと考えてよさそうですが、
どうでしょうか?

>ん〜、微妙な表情を言葉で表現すること
>そのものの限界なのか??

文学板でもあることですし(笑)、是非その方向で話を進めていただけると
たいへん助かるのですが・・>>46さん
48吾輩は名無しである:2001/05/12(土) 23:52
週末age
49吾輩は名無しである:2001/05/13(日) 20:21
笑う警官はよかった。
50fishman:2001/05/13(日) 20:39
>>46 確かに論を進める根拠にはなりにくいですね。
僕が上のレスで面白いと思ったのは、単純に笑顔と笑いの成立関係の逆
立ちだったので、具体的な例示を求められると弱いです。ハイ。
発生の起源を追求するのも面白そうですが、とてもそれを展開していくだけの知識も
画像(笑)も持っていないですから、47にも見られるような、言葉の違いがその他
のものにどう影響していくのかという視点にシフトしていくことを望みます。
51にっく:2001/05/15(火) 06:42
>Tangoさん
こちらこそ、丁寧なレスありがとうございます。

私見になりますが、「笑う」という行為もまた感情の発露の一種であるからして、
「笑う」という能力が他者との関係の中で育まれたにせよ、他者とは無関係な
側面も強いのではないかと思います。
コミュニケーションの手段であるのと同時に、ごくごく個人的jな行為でもあった、
といったところではないでしょうか。
(「箸が転がっただけでも笑う」という言葉がありますが、これなんてのは後者に
あたるだろうと思います)

>>47にある「わらう」と「えむ」で言えば、「えむ」の方が言語的な役割が強いのに対して
「わらう」の方はそうした役割は比較的弱いのではないか、そんな気がします。

それと、>>39の最後の項に関してですが、笑うという能力は、徐々に発達していったと同時に、
道徳・倫理的な理由によって衰退した部分もあるのではないでしょうか。
例えば、「人権」の存在によって身体的特徴を笑うことが難しくなってしまったように。
52吾輩は名無しである:2001/06/02(土) 02:49
agwe-
53ixion:2001/06/02(土) 03:44
「笑い」を考察する場合、社会学的に他者との伝達「関係」の中で理解する
のがひとつ、また言語学的に検討するのがひとつ、ここではもうひとつ
文学の見地から考察してみましょう。
バイロン卿はDon Juanのなかで"And if I laugh at any mortal thing,
'Tis that I may not weep"と書いてます(この"any mortal thing"は
anyを強調して「あらゆるもの」ぐらいの訳ですが、ここでは敢えて「あら
ゆる死すべき定めのもの」とズラして読みます)。このmortalを突き通す
「笑い」こそ、中心を解体する力を持つわけですね。「死」は拘束力の強い
ものです。儀式としては厳粛さが要求され、感情としては涙が期待される。
そこに「笑い」を持ち込むことで、死という求心的な観念、その円の中心に
もうひとつの中心をぶつけることができる。「チャイルド・ハロルド」にも
"Yet mark their mirth―ere lenten days begin"で始まる一節があり
ますが、宗教的な節制・悔悟・祈りによって「公」の中心の位置に特権化
されるものに、「私」の側としての「笑い」がもうひとつの中心を突き
つけるわけです。だから、健全な社会では「公」の序列がいかに厳格で
あっても、市井は「私」の笑いによって社会に対し批評・複眼的な姿勢を
保つことができるんです。芸術でいえばモナリザのひげは健全な笑いですね。
54ixion:2001/06/02(土) 03:45
この「私」の笑いが持つ力は、「脱中心」以外にも「近接」があります。
このふたつは「不敬=中心に近づきすぎること」という例を考えれば同一の
ものなのですが、笑うことによって近づくことが可能になるというわけです。
ボーテの『オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』のなかに、ユダヤ人を
騙して糞を預言者の実と偽り売りつける話がありますが、シナゴーグで
皆が真剣な顔してうんこを取り囲み、「これを口に入れれば預言が得られる」
とか言うわけです。このとき私たちは「笑い」を通して預言やシナゴーグ
という宗教的な権威を脱中心化し、また同時にそのユダヤ人たちに近づいて
彼らを「笑える奴だ」と思う。これが脱中心=近接ですね。この場合、
糞やうんこといったものに対しても脱中心=近接が作用しています。つまり、
ふつうは避けて通るようなものを「笑う」ことによって近づけ、自分のもと
に引き落としてくるわけです。会議の場で「うんこ」とは言えなくても、
笑い話なら「うんこ」でいい、それが笑いの健全さですね。

…と書いてみると、何やらバフチンや山口昌男のにおいがぷんぷんとして
きますね、別に彼らがうんこのように臭いわけではないですが。
55吾輩は名無しである:2001/06/03(日) 12:48
AGE
56Tango:2001/06/03(日) 20:57
すっかり忘れてた(天才は忘れた頃にやってくる)

逆説としての笑いですね>ixionさん
それとは少し違うのですが、ベルグソンやホッブズが言及している笑いも
一つの逆説的笑いと言ってよさそうです。

でもですね・・読んでて、どうも良く解らない。
もう、「あれ? 何の話だっけ?」というくらい解らないんだけど、一方
で、彼等のような大哲学者・思想家が適当を言うとも考えたくない。で、
「ひょっとすると、ほんとにテーマが違うんじゃ?」ってところに行き着
いたわけなんですね。

具体例を出すと、たとえば、チェーホフの"喜劇"に「桜の園」があります。
本人がそう言ってるのに赤の他人が水を差したかないんだけど(そして、そ
の辺りの事情については既に定説があることなのかも知れないけど<無知)
これには、正直、承伏しかねる気持ちが拭えない。喜劇ぃ?(゚Д゚)ハァ? と
思っちゃう。

どうも、「笑い」(に限らず人間の感情全般)には、質的変遷があるような
気がするのですが、どうなんでしょうか?

>私見になりますが、「笑う」という行為もまた感情の発露の一種であるからして、
>「笑う」という能力が他者との関係の中で育まれたにせよ、他者とは無関係な
>側面も強いのではないかと思います。

そうです、そうです。仰る通り>にっくさん
どうも「大昔」に遡り過ぎたようでして、変な前置きをして申し訳ないです。
きちんとスタートラインを引くなら、「文学にみる人の感情の歴史」とでも
言うべき事柄から始めるのが妥当でした。

というわけで、もう少し最近のことに話を戻しましょうか、ね?
題して「喜劇の誕生」 ・・なんつって(笑
あ、お呼びでない?(以下略)
57吾輩は名無しである:2001/06/04(月) 06:37
桜の園って喜劇だったんですか。
確かにギャグっぽい気がする部分もあったけど。
そういう意味じゃないのか。ハッピーエンドってことだったんですか?
借金をしまくる貴族どもの神経にびっくりした。
58吾輩は名無しである:2001/06/04(月) 08:27
安部公房の話が出ていましたが、カフカの小説にも
珍妙な小人のような人間が出てきますね。

59考える名無しさん:2001/06/05(火) 02:00
あぎゃ
60吾輩は名無しである
後藤明生『笑いの方法』についての解説が聞きたい。
小昔一瞥した限りだが、ゴーゴリの『外套』についての
説明にいささか違和感を覚えた。
たしか、悲劇性と滑稽さといったアプローチだと思ったが。