1 :
吾輩は名無しである :
2001/05/04(金) 11:41 あるスレに啓発されてとりあえず、こんなスレ造ってみました。率直なご意見ご感想をどーぞ。
>1 あるスレとはもしや・・・「あ」?
>>2 違うよ。別のスレです。
覚束ない私見を述べれば中上健次以後、つまり80年代の作家たち 村上春樹、村上龍、高橋源一郎、山田詠美、吉本ばなな、といった作家たちはそれまでの日本文学の潮流というものを一旦断ち切っているのではないか?
つまり純文学的作品と目されながら、かつ売れる、という単純な意味あいにおいて。
中途半端ですが、一応話のたたき台としてどーぞ。
4 :
吾輩は名無しである :2001/05/04(金) 13:23
挙げられた作家の内、そこに自覚的だったのは中上健次、辛うじて両村上ぐらいじゃないの? 高橋は多分に戦略的だけど、どちらかというと上から下へという特権意識を感じる。 吉本、山田はそんなこと夢にも思っていないと思う。
>>4 そうかもしれないですね。
ただ、山田、吉本らにその意識がなかったにしても、現実としてそう扱われているのではないか、と思っていたので名前を挙げさせてもらいました。
源一郎の上から下への特権意識、というのも面白いですね。
一応文学板ですので、名前は出しませんでしたが、逆の動きといったものもあるように思われます。ウレセン筋から純文、というような。
もちろん、ほんとうはどちらが上で下ということもないのでしょうが…
>>5 ウレセン筋という言い方はよくないですね。エンターテイメント系という呼び方に変えておきます。
源一郎と春樹ってほんとに駄目になったのか?
8 :
吾輩は名無しである :2001/05/04(金) 14:51
age
9 :
吾輩は名無しである :2001/05/04(金) 19:28
>つまり純文学的作品と目されながら、かつ売れる、 純文学にして通俗小説といった横光利一の純粋小説論なんかもそうなんでしょうか? だと、したら、 福田氏の『作家の値打ち』などはその事を念頭に批判展開をしている様にも思えます。
10 :
吾輩は名無しである :2001/05/04(金) 23:31
続き知りたし、上げておく。
11 :
吾輩は名無しである :2001/05/04(金) 23:39
>>9 通俗小説、というジャンル分けである必要はこのさいないんでない? 単に売れるか売れないか、ってことだから。
12 :
吾輩は名無しである :2001/05/04(金) 23:42
>>7 春樹はしらんが、源一郎がダメになったと言われるのは非常に良くわかる。
『あだると』読むに耐えんかったしなぁ。結局、ポテンシャルとギャング、火星人の
実績だけで商売してると受け取られても仕方がない。あぁ、まるで国債。。
しかし、しかしだ。君が代はちょっと違うんじゃないか?
そう、その乱暴さこそ今まで君に足りなかったものなのだよ!と快哉を
挙げたくなった。あの世の中のなめかたは買いだと思う。
13 :
吾輩は名無しである :2001/05/05(土) 09:25
っていうか、ばななと詠美って文学なのかね? あれ
14 :
吾輩は名無しである :2001/05/05(土) 09:42
やまだかってない文学? そんなばなな!
15 :
1 :2001/05/05(土) 21:10
>>9 横光利一「純粋小説論」ですね。名前は知っていますが、私は専門家ではないので「純文学にして通俗小説」という有名な一句を知るのみでその詳しい内容を知りません。良かったら詳しく説明して頂けませんか?
誰でもいいからざっと説明してやれい
17 :
吾輩は名無しである :2001/05/05(土) 22:31
もっとききたいからあげ
18 :
9 :2001/05/06(日) 00:09
>>15 =1さん
亀レススマソ。
>私は専門家ではないので
いえ、私も一緒です。「純粋小説論」に関しては現物にあたったことはなく、
評伝、辞典類からの知識で恐縮なのですが...要約すると、
@私小説…意識重視、一人称的世界観で緻密さに富むが物語的構成に欠き、一般受けはしない(独り善がり)
A通俗小説…物語性重視、三人称的世界観で恣意的構成ではあるが一般向け。ただ、通俗性(ご都合主義)は免れえない。
こういった、当時の小説状況(プロ芸は除く)を四人称の設定下で自意識をもつ人物の
必然と偶然の劇で近代市民生活を意識的側面から包括的に描写しようとしたのが「純粋小説」であり、
その理論的実践が『家族会議』にあたる。
のだそうです。近代的自意識やその諸個人間の連関を全体的視点で統合するといった
志向はジョイス、プルーストといった現代小説のそれとも相通ずるものがあるのですが、
我邦の文壇史的には資本主義の興隆による商業ジャーナリズムの台頭、その結果としての
新興商業文学の隆盛に対する既成文壇の危機感の現れと捉えられているようです。
19 :
1 :2001/05/06(日) 02:12
>>18 なるほど。わざわざありがとうございます。
この定義をみると、私小説と通俗小説は違う、という前提が(純文学を自認する側に)そもそも初めから存在するように感じられますね。(9さんがそういう意見だというのではなくて、ね)
けれど、省みるとどうもこれは私自身を縛っている前提でもあるように思われます。
赤川次郎の書くものと、中上健次の書くものは違う。
シドニィ・シエルダンの書くものとスティーブ・エリクソンの書くものは違う。
これは私にとっては厳然たる事実のように感じます。もちろんそれは客観的な市場原理の前には単に趣味嗜好の問題に過ぎないのでしょうが。
そしてそこにある違いというのは、その作品に刻印される私性によるのではないか、とやはり私もそう考えてはいます。
でもひょっとしたら、それはこの「純粋小説論」が世俗的に流布されたものを私がただ引きずっているせいなのかもしれないと、ちょっと今思いました。
あるいは私のような世俗的な思い込みが集約される形で「純粋小説論」が出てきたのか?
混乱してきたので、誰か自分以外の人の意見を聞いてみたいところです(藁
20 :
1 :2001/05/06(日) 02:39
>>12 ちよっと遅くなりましたが・・ なにしろ私は最近源一郎をきちんと読んではいないので。
けれどちょっと思ったのですが、その種の(どのように君が代が使われたのか私は知らないのでぜひ教えて欲しいという期待も込めて書くのですが)乱暴さ、というのは果たして今有効な戦略足りえているのでしょうか?
文学というものがまだあるとします。更にサブカル対文学という対立図式が成立するとします。そこで仮に文学がサブカルより幾分か上位に位置するのなら、たぶんその価値は「政治性」を導入出来ることにあると私は思うのです。
ただそのような源一郎やあと「5分後の世界」の村上龍のような素材論的な(あとたぶん村上の「ねじまき鳥・・」もそうでしょうが)方法は今果たして有効なのか? 私にはやや疑問に思えています。(それをちょっとうまく言葉にはできないのですが)
・・もっと分かりやすく言えば、それらは果たして今真に挑発的であるのか、ということですね。私には単に中上とその取り巻き批評家らの後追いをしているように思えるのですね。(教科書的な歴史の導入)
我ながらつまんねいこと書いてんなー。発展的な批判求む。
むむ。久しぶりに面白そうなスレだ。 浅田彰はこの国に戦争さえ起これば文学を含む芸術全般がよくなると 言ってましたが(あとスターリン体制のような国家による抑圧)、そういう ことでよくなってしまう芸術って一体・・・?って思ってしまいますな。 浅田が最近よく言ってるように「イロニーの反対は真面目ではない、現実である」 ということで、これからどんどん現実にさらされてゆくしかない芸術は、まあ 良くなっていくのだろうけど、ではなぜ芸術は現実にさらされなければ良くならない のか。なぜ資本主義下では弱体化するしかないのかという疑問は残りますなあ。 1さんの言ってることとは微妙に違うのでsage
22 :
吾輩は名無しである :2001/05/06(日) 11:54
age
23 :
1 :2001/05/06(日) 13:55
>>21 それも面白いお話ですね。仰る浅田氏の発言は恐らく皮肉を含んだものでしょうが、ある種の説得力はあるように思われます。
たしか柄谷行人も村上龍との対談で似たようなことを言っていたのを私は覚えていますが。
文学というのは基本的に否定性を内包するものであるから、今みたいな何でもが許される日本みたいな国では成立するはずがない、と。(「エクソダス」出た頃の群像だか、文学界だったか? 今手元にないので少し違うかもしれないけど)
>「イロニーの反対は真面目ではない、現実である」
これはたぶん、柄谷もよく好んで口にするフレーズですね。たしかにそれはその通りだし、これは今も有効に機能しうる言葉であると思うのですが、しかし21さんが仰る浅田氏の発言や、柄谷氏の発言を考え合わせてみますと、彼らが言ってることはどうもおかしいのではないか? と私は思うところがあるのです。
つまり彼らは、今の日本には抑圧があたかも存在しないかのごとく振舞っているように見える。
でも私は違うと思うんですよね。何か、それは違うんじゃないか?
24 :
1 :2001/05/06(日) 13:56
少ない判断材料からいきなり何ですが、そういう意味では、彼らの言ってることは私には概念的に思えます。自分たちのおメガネにかなう小説が出てこない、よって、今の日本には抑圧がない、というような。(この辺は私はかなり適当なこと言っていると思うので、より詳細を知る人の発言を期待したいところです。) ・・うーん。何が言いたいかというと、なんつーか今だって芸術は十分現実にさらされてるんじゃないの? その現実というのは個別に異なるだろうけども。ってことなんですね。 おそまつ(藁
25 :
吾輩は名無しである :2001/05/06(日) 15:48
>>9 話の腰折るようですまんが、福田和也は『作家の値打ち』の中でどういう批判展開をしてんの?
26 :
9 :2001/05/06(日) 23:02
>>25 さん
横光利一や獅子文六の新聞連載小説についての言及があったと思います。
多数の読者を獲得(つまり、売れて)し、それなりの質を保持していたということです。
こういった、質への眼差しがあればこそ、渡辺淳一、丸谷才一批判(量的問題)、日野啓三批判(質的問題)
にもそれなりに意味があるように思えるのです。
そしてこれらの批判の根拠として矢作俊彦、北杜夫評価(戦前の市民文化の残照)があるのではないのでしょうか?
仮に、福田氏の批評が文壇的パフォーマンスに過ぎない物だとしても、その立脚点や問題提起は
福田氏個人を離れた場で論じられて然るべきものを含んでいると思うのですが…
27 :
吾輩は名無しである :2001/05/07(月) 00:29
age
28 :
1 :2001/05/07(月) 01:24
>>25 サンクス。訊くの忘れてた。
>>26 なるほど。それは興味を誘われるお話です。ただ、そこで当然問題になってくるのは
>それなりの質 と呼ばれるものの内実になってきそうですね。
確か福田氏は「作家の値打ち」の中で簡潔に優れた純文学の条件として、それは読むものの価値規範を揺るがせる作品である、と簡潔に規定していたように思います。(エンターテイメントについては・・・忘れた(藁 )
優れた純文学作品は読むものの価値規範を揺るがせる、たしかにそれはそうだろうと思うんです。しかしひっかかる。(あらゆることにひっかかりまくりだな、俺。とほほ)
その規定はあまりにも分かり易すぎるのじゃないか? ま別に分かりやすくてもいいんですが・・・ うーん何がひっかかるんだろう?
29 :
21 :2001/05/07(月) 01:53
>>23 >つまり彼らは、今の日本には抑圧があたかも存在しないかのごとく振舞って
>いるように見える。でも私は違うと思うんですよね。何か、それは違うんじゃないか?
ううむ。あまり詳しくはないが、むしろ彼らは「抑圧があたかも存在しないように
振舞っている」物書きたちに対して、警鐘を鳴らしている側なんじゃないでしょうか?
ただここで言う「抑圧」は1さんの意図するものとは違って、完全に政治的なもの
だとは思いますが。
1さんは
>>20 で、「政治的なもの」の導入は戦略としてもはや通用しないのでは
という意見を述べられましたが、ならば文学はこれからどういう戦略でやっていくべきだと
考えていますか? これは
>>24 で言われた「個別に異なる現実」とは具体的にどんなものか
という質問でもありますが。
30 :
1 :2001/05/07(月) 06:43
>>29 うーん。不用意にものは書くものじゃないな・・ そうですね。柄谷浅田両氏について仰ることはたしかにその通りだと思います。問題設定が違うのでは、という指摘も恐らく正しいですね。
私には、商品としてしかありえない小説、というものを単純に前提において、そこでいかに文学は可能なのか、ということについてからだけものを考えていたようです。これに関しては返す言葉もありません。
ただもう一つの質問、
>1さんは
>>20 で、「政治的なもの」の導入は戦略としてもはや通用しないのでは
いえ、私はそんなことは言ってないはずですが・・「政治的なもの」はむしろもっと必要なんじゃないかな、という風に考えています。ただ、単に >素材論的な >批評家らの後追いをしているよう でしかない導入ならそれは全然駄目なんじゃないの、というま、当たり前といえば当たり前のこと言ってるだけなんです。
私の書き方が悪かったかな・・
31 :
1 :2001/05/07(月) 06:44
>ならば文学はこれからどういう戦略でやっていくべきだと考えていますか? だからこの(恐ろしい)質問には「政治的なもん」の導入、と答えるべきなんでしょうが・・でも正直よく分からないですね。 「戦略」と私はこれも不用意に書きましたが、たぶんこの言葉自体がそもそも違うと思うんです。例えば中上(中上の名前を出すのにも苛立ってしまうのは何故だろう?)の「枯木灘」「地の果て至上のとき」などは立派に「政治的なもん」が導入されていると思うんです。たぶん中上自身もそれに十分自覚的であったことでしょう。 でもそれは仮に「戦略」と呼ばれるにしても、あるぎりぎりの選択の元になされたのではないか、という気がしてならないのですね。本能的な選択を積み重ねていくそのうちに予想もしない形で、目指していた「政治的なもん」と小説の上でたまたまぶつかったんじゃないのか、と。ま、かなーりナイーブな考え方かもしれませんが。 質問の趣旨とはちがうかもしれませんけども、私は基本的にそういう小説が好きだし、読みたいと思っています。 >「個別に異なる現実」とは具体的にどんなものか 一番苦しいのがこの質問ですね。なんと不用意な発言をしたことか! でも頑張って答えてみます。この直前の >今だって芸術は十分現実にさらされてるんじゃないの、ということなんです。 ここの「現実」というのは先の「商品としてしかありえない小説」ということを考えながら書いたのだと思うのです。つまり、それは作家であるならば誰にでも所与のうちに条件として課されるはずのものだろうと、いうことで。 だから「個別に異なる現実」というのは、それ以外の個人的な条件ということですね。なに大体がつまらんことです。リストラされたとか、いじめにあったとか、大学落ちたとか、就職ない、とか。でも本人にとっては重要、なことなわけで、だって自分の人生ですから。 つまり、文学ってそういうとこから始まるのじゃないのかな、という素人の素朴な思いを言葉にしたに過ぎないわけです。 先の中上に絡めて言うと、たぶん彼が二十代半ばで東京から熊野に戻ろうと決意しなければ、(そういう状況に追い込まれなければ)「枯木灘」は書かれることがなかったと私は思っています。恐らくその他の熊野を舞台とした優れた短編群も。 ま、勝手に私がそう思ってるだけですが。 一応頑張って答えてみましたが、どうでしょう?
32 :
1 :2001/05/07(月) 06:53
にしても俺ばっかし発言してんなあ・・ 元々他の人の話を聞きたくてこのスレ立てたのに・・
age
34 :
吾輩は名無しである :2001/05/07(月) 22:43
ごめんまちがい、で、あげ
35 :
吾輩は名無しである :2001/05/07(月) 23:33
誰もが歌う流行歌はカラオケ隆盛にもかかわらず消えてなくなった。 文学もまた、万人に愛されるものではなくなった。 漫画界に手塚治虫が再び現れることがないように、文学に第二の漱石鴎外は誕生しない。 中上は最後のスーパースターであったかもしれない。
36 :
吾輩は名無しである :2001/05/07(月) 23:52
売れる本=内容の低い本 という意識(図式)が結構あると思うんだけど、これって偏見だよねぇ。 なんでレヴェルの高い内容の本が、売れる本を目指してはいけないのか、 その理由がわからん。売れればすぐに「内容が低い」とか言って貶められるし。 「文学」とか言って高尚なもののように考えているほうがおかしいんじゃない。
37 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 00:59
>>36 お前みたいな中学生みたいな意見、うんざりだ。
聞き飽きた。
売れようが売れまいが内容なんてそんなに関係ねえだろ。
当り前じゃねえか、そんなこと。
38 :
JPB :2001/05/08(火) 02:49
しかし、「政治的なるもの」のありようをまずは考えてみるとどうなるでしょう。 そこが、議論を前進させるところかも。 まず、1さん、21さんともども「文学」の場に「政治的なるもの」を介入させる という点で一致している。では、どのようにしてか。 少なくとも、素材論、つまり、政治的なモチーフを扱った小説を書くのではない、 ことは言われています。それを更に敷衍すれば、アレゴリーとして「政治的なもの」 を描くことも一応は拒否される。と、同時に、党派的主張を、作品が代弁すること も拒否される、と。ここまでは良い。 この段階までの「政治的なもの」の導入だと、どうしても「あれは左翼」「あれは 右翼」といった形の言明に絡めとられますね。 さて、では、このような導入と中上の導入はどう違うのか。 中上は党派的主張ではなく権利問題として「政治的なもの」を扱ったというのが私見 です。つまり、マイノリティーという立場がバックボーンにありながらも、それを 党派的にまとめあげるのではなく、「おれはそうじゃない」「おれはここにいる」 という形で、帰属に向かう言語の力に対して立ち止まりつつ、個人の問題として描 いた。 さて、ここまで、まずは整理してみました。 しかし、今日は落ち。。。
39 :
21 :2001/05/08(火) 07:16
うーん、なんだか難しいなあ。 >中上は党派的主張ではなく権利問題として「政治的なもの」を扱った >というのが私見です なるほど。新宮のシンポジウムで確か鎌田氏だったと思うが、 「『地の果て、至上の時』では秋幸は路地に敵意を剥き出しにしている」 みたいなことを言っていました(記憶違いかもしれませんが)。「路地」と いう党派性が出来てしまうと「そうじゃない」「おれはおれだ」と主張 することで、個人の問題として追求したのだと言えますね。 ただ僕は中上は好きだけど、語るための言葉を持つほど読み込んでいません。 そして「資本主義下の文学」ということを考えると、中上の作品は確かに 素晴らしいものですけど、どこか無理をしているというか、ほとんど力任せ に文学を成り立たせているという感じがするのです。それは中上にしか出来ない ものであり、誰も真似の出来ないものでしょう。 僕が興味があるのは、むしろこの中上の「力任せ」です。なぜ資本主義下では 「力任せ」でないと文学は成立しないのか、ということです。 すいません。ちょっと朝で忙しいので、続きはまた夜に書きます。
40 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 08:15
>37 36さんの言ってることの方が正しいと思う。 売れてる作品をけなしたり、売れもしないつまんない作品を良作だと評価すると その分野自身がだめになる。 マンガを見よ。売れてる作品が評価されてきたおかげでマンガは文学を抜いた。
41 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 08:21
横レススマソ。 >僕が興味があるのは、むしろこの中上の「力任せ」です。なぜ資本主義下では >「力任せ」でないと文学は成立しないのか、ということです。 全ての人間関係・社会関係が生産関係や商品関係に置き換えられ、 そこで流通する「文学」もこういった功利的価値を持たざる得ないからでしょう。 前期中上作品に顕著な聖/賤の構図や、それをもとにした神話的物語も こういった資本の生産関係下では保険金殺人のような手段にすりかえられ、 物語の構成要素というよりは寧ろ社会の歪みを正す批評対象として、 権力に回収されるか、あるいはトレンディードラマのように消費社会のアナロジーとして 資本的価値を推進するイデオロギーとして機能するだけの気がします。 千年の愉楽―日輪の翼―賛歌等はその衰亡過程を作家自身の自覚のもとに 描ききった作品のような気がします。 まあ、この後の展開が重要だったのですが、中上の死によって その機会が永久に失われたのはなんとも残念なことです。
42 :
1 :2001/05/08(火) 10:25
やあ、盛り上がってるところ、すまぬですが、ここでまた私見を・・・ これはみなさまの意見も聞いてみたいので・・ 私は中上健次の作品、特に中期のものは「資本主義下の文学」にはむしろ適応していないものなのではないか、と考えています。彼の作品は素晴らしいものが多いし、また日本的な風土の中にあって挑発的であるようにも思えます。当然、だからこそ批評対象としてもみな興味をひかれるのでしょうが。 ただ、だからといって売れるのか、というとどうもそうではないのではないか。柄谷行人の話によれば、中上が死んだ折に、本屋へ行くと中上の本が「軽蔑」しかおいてなかった、いかにも中上らしいがあれはまずいな、というようなことを書いてたのを私はよく覚えています。今はかなり文庫などでも読めるようになりましたが、でも状況がさほど変わったとは思えません。 これは自らの経験に照らし合わせて言うのですが、例えば田舎に行けば中上健次の名前を知ってる人なんて殆どいません。読書家を自称してる人でも、読んでるものといえば、浅田次郎、とか森瑶子、最近だと「永遠の仔」あたりまでですね。たしかに中上は日本近代文学において最後のスーパースターであったかもしれませんが、たぶん世間はそう思ってはいない。36さんの意見とは逆に、単に売れてるものが良い、という単純なゆえに強い認識がある。ここにはきっと私たちが思っている以上の溝があるのじゃないのでしょうか? もう一つ付け加えれば彼の作風は赤川次郎、西村京太郎的な大量生産、といったものから一番遠いように思われます。「地の果て至上のとき」が発表されたのが1983年であることは実に驚くべきことだと私などは思うのですが・・私が思うに彼の文学が「力任せ」に見えるのは、それが成立しない場で、無理やり文学を体現しようとしていたから、なのじゃないでしょうか? >>21さん そういう意味では彼の小説は「資本主義下の文学」と呼ぶに足るものですが、適応していたかというとどうもそうは思えない、というのが私の考えです。
43 :
1 :2001/05/08(火) 10:29
しまった字詰めすぎたな・・
>JPBさん
「政治的なもん」の内容を具体的に詰めるべきだというのは私も同感です。どうも私は大雑把なので、勢いだけで言葉を連ねてしまいがちで・・
ただ、小説の内容面だけではなく、次のようなことも考え合わせてみてもらいたいのです。厚かましいですが・・
私は対サブカルとして、とりあえず、「政治的なもん」をあげましたが、それは、安室奈美江が沖縄サミットで前座として歌ったり、GLAYが皇居前広場でウン万人コンサートを開いてみたり、といったことを踏まえています。
浅田氏は「J回帰」とか言ってましたが。日本のポップカルチャーシーンは感性面における喚起力はずば抜けていますが、そういう政治性に対しては恐ろしく無防備なように思えるので。(だからひょっとしたら「政治」と呼ばれるものの内容が違うかもしれませんが・・)
もし、文学がいまだ文学であるのなら、そうした「回収」からほどよく拮抗するというのが、私の意見(ナイーブ!!)ですが、それはいかにして可能なのでしょうか?
>>41 さん
私はあなたの仰る具体的内容までは不勉強ゆえ踏み込めぬですが、
>物語の構成要素というよりは寧ろ社会の歪みを正す批評対象として、権力に回収されるか、あるいはトレンディードラマのように消費社会のアナロジーとして 資本的価値を推進するイデオロギーとして機能
この話には大きく同意したいと思います。私が考えるに、これは一つには恐らく文学(だけではないのですが)の情報としての「ストック化」という現象が大きくかかわっているような気がします。
阿部和重は「インディビジュアル・プロジェクション」を書く際、「売るために」マーケティング調査をしたらしいですね。しかし彼のマーケティング対象はそれだけではないのではないか? 「売るために」だけではなく「文学的である」ために柄谷行人や蓮見重彦の著作をもその調査対象としているのではないか? だとしたら文学って一体? ということですね。
私が考えたいのは、そのような世界、時代における文学の可能性、についてでもあるのです。って格好つけすぎか・・
44 :
1 :2001/05/08(火) 11:09
あれ、よく読むと21さんとは意見かぶってますね。ごめん・・
45 :
JPB :2001/05/08(火) 14:57
う〜ん、と。少し議論を混乱させてみますね。 「売れる小説が良い」という点に関して。 色んなスレで、この議論を見かけますが、売れる小説にもいいものはあるという 当たり前の答えしかできません。泉鏡花はかの時代の売れっ子ですね。 売れる、売れないは、作品の内容云々に関係しているのではなく、マーケ ティングの善し悪し(どれだけ金をかけたか)にあるとも思います。 中上に関して。 同意です。ただ、なぜ中上だけが、こうして意識的に取上げられるのかには 少し疑問があります。 「回収」について。 ほぼ41さんの意見と同じです。ソフト面からだけ「政治的なもの」を導入する と考えるならば。 とりあえず、ここまで。
46 :
JPB :2001/05/08(火) 15:54
いや、まて、やはり売れる売れないは内容にも当然関係しているよ。。 はは。。。申し訳ない。。。 で、その、なんというか。疑問点を敢えて二つ。 一.なぜ、「政治的なもの」を「文学」というフォーマットで提出しなく てはならないのか。もし、それが、動員力ということであれば(例えば コンサートのような)なんか、まわりくどくないか?、ということです。 その必然性とは何か?ということでもあります。 二.これは「資本主義下の」という部分にあります。果たして「文学」なる ジャンルが歴史的に持続していて、「資本主義下」において何らかの変質を 蒙った、という捉え方はどうか?という疑問です。 わたしは、15世紀以降に資本主義が生起し、それが伝統社会を変質させ 新たな紐帯として国民国家ができあがってくるという理解をとり、その 国民国家内の統一性の基礎として、国語(標準語)が定められ、その 流通(教育の充実)を背景として「文学」なるジャンルが出来上がった という理解をしております。で、その中で売文業者が商売を始めるわけ ですから、それはもはや「文学」の条件としてある、という見方になり ます。 また、あとで書きます。なんか。わかりにくいですよね。
47 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 20:53
>46 深く同意します。と同時に、日本という国の特殊性に思いを馳せました。 日本においては敗戦後の外来語の乱入だけではなく、古来から厳密な意味での単一言語は 成立していないのではないか?カタカナ、ひらがな、漢字、三者が入り交じった状態下で、 想像的な同一性を統一性として誤認してきたように思えます。 その文脈で言うと日本における私小説というジャンルは、「一つの誤認」として非常に 興味深くはある。と言うわけで、 >その中で売文業者が商売を始めるわけですから、 それはもはや「文学」の条件としてある、という見方になり ます。 ここにはちょっと疑問符を提示したい。果たしてそのような論理性を 日本文学は経由し、そしてその生の条件として意識/無意識を問わずに 引き受けているだろうか?
48 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 21:22
>>46 一について
非常にアホな言い方になりますが、政治的なモノの導入を
対他的な戦略ではなく、対自的な戦略としてみるとわかりいいのでは?
つまり、そんなモノでも取り入れなきゃとてもじゃないけど、作品に
緊張なり遠近法なりを持ち込めないからじゃないのかな?
49 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 22:44
>>47 それでも日本人には昔から「日本人なら話せば解る」という暗黙の共通認識があるようです。思想的にも民族全体としてはそれほど振れ幅の大きい方ではなく、勿論、際立った対立が無かったわけではありませんが、それは寧ろ異例の範疇で扱う事柄のように思います。この点、実に「統一性」の高い民族だとは言えないでしょうか? そして、その理由として、「単一の言語を使い続けてきた単一民族だからだ」ということが、ずっと言われ続けて今に至っています。諸外国と比較した場合のことは正直知りませんが、日本国内なら、どこへ行っても、話したことと殆ど等価の意味が相手に通じるという認識が誰にもあるようですし、、実際も、その通りになっているようです。このことは、日本語が「統一性」のある言語であることを表しているのではないかと考えますが、拝読するに、どうも違う意見をお持ちのようですね。スレの趣旨とは離れてしまいますが、私にとって大変に興味深い異例な内容だったので、宜しければ、この辺りについて、簡単にご解説願えないでしょうか。
50 :
JPB :2001/05/08(火) 22:48
こう、寝食を忘れて阿佐ヶ谷とかでだべってた昔を思い出します。。
>>48 さん
了解です。つまり、対自的というのは、小説を書く作家の意識において
「政治的なもの」を導入することで、作中に色んな「緊張や遠近法」を
持ち込む、ということですね。
問題を作家の姿勢論に限定するなら、確かに充分だと思います。
ただ1さんの問題の射程として、その「緊張や遠近法」を文学が帰属
する場の批評として作用させたり、読者に対してあるモノを伝達しよう
としたりする媒介として捉えようということもあるかなと思ったのです。
そういった意識的な小説作りが、ともすると難解に傾いたり、メッセージ
の吐露に終わったりするのもまた事実ですから、ある程度市場に流通させ
つつ、その中に何らかの挑発を埋め込むような作品、それを考えていく
ことが必要、というのが、まあ暫定的な解答かと。あとは実際に書く
しかないですね。
51 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 23:10
>49 統一性と同一性の解釈の違いのようにも思えますが。 私が47で意図していたのは、JPBさんの視点が 市民革命を経由しない日本という場に果たして有効かどうかという 問題提起をすることでした。 簡単に言って、言葉の意味が通じるためには必ずしも 統一性を必要としないように思います。 なぁ、わかるだろ?ーあぁ、何となくわかるよ。 この関係を支えているのは言葉というよりも、 同じ共同体に属し、同じような事柄に接しているという 暗黙の了解です。このような横の連携を「同一性」という言葉に 込めています。同一性の共有には必ずしも意識的な道程を必要としません。 >思想的にも民族全体としてはそれほど振れ幅の大きい方ではなく 日本的なるものの特徴はここに如実に表れているように思います。 揺れ幅が大きくなる機構はあらかじめ排除されている。 同一性の坩堝の中では、あらゆるものが自身のかって知ったるモノとの 類似の中で捉えられる。根本的な差異は混淆の中へ絡め取られていく。 本当は地形的な条件を踏まえて話を進めたかったのですが、 まとまり無く、スレの趣旨からも大きく逸脱するので、端折って書きました。 僕個人としては必ずしも統一性を同一性の上位に置くわけではありません。 しかし、そこの違いというのには敏感でありたいなぁと思っています。 長々と長文すみません。sageます。
>51 下がってない。。ごめんなさい。
53 :
JPB :2001/05/08(火) 23:23
>>47 さん
さて、「想像的な同一性を統一性として誤認」の部分を、「統一的に
働いている作用そのものが、まさに想像的な同一性にほかならない」と
読みかえてもよいですか?つまり、実際は方言同士でまったく意思疎通
できない人達が、書き言葉においてあたかも意思疎通が可能であると
思える意志そのものが想像的な同一性であるということです。
つまり、意思疎通が帰納的な帰結であるかのように思うことが、単一
言語のシステムである、と。だから下手に厳密であっちゃまずいんです。
むしろ誤差が予測の範囲内で起ることが大切。そして、対外的には一枚
岩で見せていく。だから、そうした統一へ漸進的に向かおうという意識
そのものが統一性であり、それは実在ではなく機能である、と。
近代国家の言語行政は厳密な実在を権力的に押し付けていったわけでは
ないと思うのです。。
後半は了解です。わかりにくいですか?ぶっちゃけると、ドアはその
機能が厳密に理解されなくとも、開くじゃないか、だから開くこと
はドアの統一的認識として、そのように共有されるということが言いた
かったのです。
54 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 23:25
単に「作品に緊張なり遠近法なりを持ち込む」ために 「政治的なもの」を作品に持ち込むとしたら 形式的で皮相なものになるでしょうな。 むしろ1さんが32のレスで言っていたように作品世界 の内部でたまたま「政治的なもの」とぶつかる、という 体験が必要なんでしょう。私はたとえば作家が「政治的なもの」 を作品内に持ち込んでくる、その動機と逼迫性を知りたいと思います。 もう一点。シンプルな設問で申し訳ないのですが、 せっかくスレッド・タイトルが「資本主義の下における」となっているのだから、 資本主義のシステムが「文学」というジャンルそのものに与えた 影響について考えてみてくれませんか?「売れる」「売れない」 という問題設定も含めて。ホメロスの時代には確かに文学は 金銭に拝跪する必要はなかったかもしれない。しかし産業革命以降 芸術のパトロンが消え、市場経済が幅を利かせてくるにつれて 到底そんなことは言っていられなくなるわけです。 これはまあ実に大雑把な分節の仕方ですから異論があるなら どんどん聞かせてください。資本主義システムが積極的に芸術 スタイルを変貌させ展開させた例も数多くあるはずであるし。
55 :
JPB :2001/05/08(火) 23:26
あら、51を見ると一緒じゃないですか。ハヅカシ
56 :
吾輩は名無しである :2001/05/08(火) 23:54
いや、俺が言いたいのはだな、 売れてもいいものはあるし、売れなくてもいいものはある。 売れても悪いものはあるし、売れなくて悪いものがあるってことだ。 当り前だろ、そんなこと。恥ずかしいこと言わせんな。 出版社・取次・書店の営業力、人づたいの評判からマスコミでの露出、その時代の社会の状況、 そんなもんが複雑かついい加減に絡み合って「売れる」という現象が成立する。 もちろん、本の内容もその要素のひとつとして数えられるだろう。 それだけの話だ。 質と量を単純にごっちゃにして安易な結論を出そうとしてる奴をバカだと言いたいだけだ。 「文学コンプレックス」か? 勘弁してくれよ、いまどき。
57 :
JPB@やっと青くできました :2001/05/09(水) 00:00
>>51 さん&
>>54 さん
市民革命を経由しない日本という場に果たして有効かどうかという
問題提起・・・@
壮大ですが、がんばります。
@について。これは、あの、その通りです。申し開きようもないっす。
ちょと調子にのってました。
「日本文学は経由し、そしてその生の条件として意識/無意識を問わずに
引き受けているだろうか?」
>>47 「私はたとえば作家が「政治的なもの」
>>54 を作品内に持ち込んでくる、その動機と逼迫性を知りたいと思います。」
この二つはほぼ同じ問題を提起していると考えます。つまり、「生の条件」
の一様相である「逼迫性」それが、「文学」という行為へとなぜ向かうのか?
ということだと思います。わたしも同様の質問を
「なぜ、「政治的なもの」を「文学」というフォーマットで提出しなく
てはならないのか。その必然性とは何か?」
>>46 と言いました。
これは実際、作家として主体を形成するとき、問われるのでしょう。
まさに各人各様ということしか。。。
58 :
吾輩は名無しである :2001/05/09(水) 00:01
>>56 えっと、どのレスに対して言ってるのか答えてもらえると助かる・・ 俺にじゃないよねえ。
んん・・・? 何に対してそんな過剰反応を示しているんだ?・・・
>>55 いえいえ。53とても楽しく読みました。
>近代国家の言語行政は厳密な実在を権力的に押し付けていったわけでは
ないと思うのです。。
その通りと思います。厳密な実在そのものがアプリオリに有るわけでも
ないですしね。しかし、このスレってベンヤミン読みが多そう。。
61 :
JPB :2001/05/09(水) 00:08
>>56 さん
「売れてもいいものはあるし、売れなくてもいいものはある。
売れても悪いものはあるし、売れなくて悪いものがあるってことだ。」
その通りです。なるべく、安易に流れないようにはしてるのですが・・
62 :
JPB :2001/05/09(水) 00:28
「資本主義のシステムが「文学」というジャンルそのものに与えた 影響について」・・・A これが二点目のお題ですね。これ、いくつか困難を分割する必要が あると思いますが、まず、「文」を商品として売るにはどういう 条件が必要か、という問題を考える必要があります。 まず、買い手(=読み手)の存在、そして、言語的な透明性。 そして、印刷技術。そして、資本をそこに投入しようとする業者。 ほかにもあるかも知れませんが、とりあえずこれだけ。 そして、それを「文学」として売るにはどういう条件が必要かも 考える必要があります。別に「戯作」でもいいわけで。サロン的な 物語でも、民俗的口承でもいいのに、なぜ「文学」か、ということ です。しかも、それをそれぞれの国家の枠組みのもとで考える・・。 回りくどいですか? ちょっと、疲れてきました。一休み。
>>56 「売れても・・」っていうのは当たり前なことですよね。
ただ一般読者、っていうのもそんなにバカじゃないと思うんですよ。
「売れる」という要素にはさまざまな要素が含まれているとしても
そこには何か原因があるわけで...その原因というか秘訣
というのは何なんでしょう?一般読者が「よし」と思うような
作品の持つ魅力とは?
例えば大きくヒットする映画のような力を文学は持たないのでしょうか。
64 :
JPB :2001/05/09(水) 00:48
>63さん 正直、今となっちゃあ、無理かなあという気も。ホントに各人が必要 としてるものだけかなあ。でも、それでいいと思ったりもする。 わたしもあれこれ言いながら、小説より服とか買っちゃうし・・・ 文学はこそこそしてた方が自分としては嬉しい。
65 :
吾輩は名無しである :2001/05/09(水) 01:04
>>63 何で大きくヒットする映画のような力を文学は持たなければならないのでしょうか?
これは単にグチなんだけど。 じつは最近、単純に「血沸き肉踊る」作品と読書体験に出会っていないのですね。 知的な作品というのは、それはそれなりに面白いんですがね・・・ まあ僕の感性というか、知性に問題が...(爆) とりあえず「血沸き肉踊る」はない。 それはなぜかと考えているんです... (あ、おまえはバカだとかトンマだとかいう叱咤は素直に受けるつもりです・・・)
このトンマ! (爆)とか書いてるお前の知性、確かに問題がありそうだ。 過去の「血沸き肉踊る」作品と読書体験って何だ? で「それなりに面白い」ものって何だ?
>>67 ああ、失礼。本当にくだらないレス書いてゴメン。あれは気に
しなくていいから議論続けてください。
(ただ「資本主義下における文学」っていうタイトル見て
思ったこと、最近感じていたことをしゃべってみただけ。)
ああ、それと上の話はベンヤミンとはまったく関係ないこと
じゃないの?
69 :
JPB :2001/05/09(水) 01:38
>>68 さん
あるとすれば、ブレヒト論の方向でしょう。
そろそろ議論するのも疲れてくるころあいで・・・
70 :
1 :2001/05/09(水) 03:55
>>68 さん
>ただ「資本主義下における文学」っていうタイトル見て
>思ったこと、最近感じていたことをしゃべってみただけ
全然構いませんよ。私はそういう書き込みの方が面白いですから。
元々そういう趣旨のスレです。そこから議論が発展するならお慰み。
>>54 さん
>私はたとえば作家が「政治的なもの」
>を作品内に持ち込んでくる、その動機と逼迫性
それは「自分を取り巻くある種の状況に対する戸惑い、苛立ち、それから危機感」によるものでしょう。
私は
>>54 さんの意見にはまったく異論がなくて、ほんとうは私もそういう話の展開を期待していたのですけどもね。
どうもみんなそういう方面には興味がないようで。困ったもんです。
71 :
1 :2001/05/09(水) 03:56
それから「政治的なもの」についてのことでどうも誤解があるようですね。私がそれを持ち出したのは一応日本近代文学百年の遺産、ということを踏まえてのことです。 売上において劣る小説がマンガや音楽等のサブカルに差をつけるならそれぐらいしかなかろう、という程度の意味ですね。他にあったら教えてください。 別にそんな差はない、というのならそれはそれで結構ですが。 「文学」や「学問」が偉そうな顔するのならそれなりの差を示さなくてはならない、と私などは思うのですが・・みなさんはどう思われますか?
72 :
1 :2001/05/09(水) 04:08
>>65 さん
>何で大きくヒットする映画のような力を文学は持たなければならないのでしょうか?
非常にいい質問ですねえ・・ニヤリッ。
答えは簡単。
生き延びるためです。
ではまた。
73 :
21 :2001/05/09(水) 06:37
>1
夜に書き込むと
>>39 でいいながら、結局ロムってました。それにしてもえらい盛り上がり
ですなあ。なんだか議論が幾つも同時進行してて、よく分からない状態です。
うーん、それでは改めて「資本主義下の文学」ってことで、たしか
>>46 でJPBさんは
資本主義で文学が変容したというよりは、資本主義と一体になった国民国家の形成
こそが文学を保証したのだと指摘されました。これは確かに重要な指摘です。この辺をまず
解決しないと「資本主義が文学を変容させた」という命題は導けません。たしかそのあと
日本の特殊性とか市民社会の話になっていましたが、ちょっとレスが多すぎて話の筋を
見失ってしまいました。
74 :
21 :2001/05/09(水) 06:38
で、まあ僕なりの意見を言わせてもらうと、資本主義と国家は分けて考えなければ
ならないというものです(あくまでここではの話)。国家と資本主義は常に共謀関係
にあるのであって、同一ではないというものです。だからある場合には、資本主義は
国家すらも弱体化させることがあります。僕の考えでは、国家によって保証された文学は
資本主義によって成長させられるのだけれど、やがて栄養を与えられすぎて死んでゆく、
そういうイメージです。
そこで、では栄養を与えられすぎると死んじゃう文学ってなんなの? というふうに問題を
進めたいんですけど、駄目っすかねえ?
あと個人的には、
>>68 氏も少し述べてましたが、ベンヤミンの「複製技術の時代における
芸術作品」のような観点も議論の中に混ぜたいですね。
>>74 さん
そうですね。それは端的に文学が「制度」に取り込まれていく
過程で力を失っていくプロセスを描いているんじゃないでしょうかね。
で結局文学は「芸術」を忘れて「教育」や「経済」に目を向け始め、
次第に保守化し硬直化してゆく、というような...
だから文学の成立と国民国家(と同時に「国語」)の成立は非常に密接に
かかわっていると言えると同時に、国民国家は文学の成立・発展を阻害し
弱体化・矮小化した、と。
問題は「制度」がなければ文学がやっていけなくなったこと、
また文化・芸術がもともと「制度」と密接な関係を持っていた
ことでしょうな。この両者のダブル・バインド的愛憎関係を
解かないかぎり「政治的なもの」(また現在では「政治的なもの」
と「国家」の問題を切り離して考えることはできないと思うが)
と文学の問題は解けないでしょうな。
あとベンヤミンについてはテクノロジーの問題を取り上げなければならないでしょう・・・
(相変わらず軽口レスでごめん)
76 :
41 :2001/05/09(水) 08:09
>>74 =21さん
>そこで、では栄養を与えられすぎると死んじゃう文学ってなんなの?
うーん、資本によって衰弱するのだったらなんとなく分かるのですが、
“栄養”というのが、ちょっと良く分かりません。
資本主義の成立はJPBさんがおっしゃってる様に15.6世紀頃に遡れるのですが、
近代国家の成立はもっと後になるようですし、近代国家と資本主義の接近や
その中での相互影響や変容があるので、問題はかなり錯綜するように思えます。
個人的には再生産の場での対象化と主体化といった、絶えざる切断と統合が文学を介して
行われているような気がします。
かなり粗雑な見方なのですが、切断点においては資本のアナーキズムへ
統合過程においては国家統合的理念へと揺れるといった所ですか、どうも曖昧な表現で恐縮なのですが。。。
77 :
1 :2001/05/09(水) 12:14
>>73 -
>>76 うーん。面白ひ・・・この人たちって一体何者? って思うのは私だけですかね?
ぜひこの線で話をすすめていってもらいたいものです、と勝手なこと言いつつ、私はなお静観したいと思います・・
78 :
49 :2001/05/09(水) 22:16
>>47 レスが遅れて申し訳ありません。ご説明頂いた内容、充分了解いたしました。
楽しいお話の腰を折りたくないので、これにて退散することにしまが、
ひとまず、お礼まで。
79 :
坂口安吾 :2001/05/10(木) 00:07
>>57 >>75 日本人が世界人になることは不可能ではなく、実は案外簡単になりうるものであるのだが、
人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の真実の生活とは、常に
ただこの個の対立の生活の中に存しておる。この生活は世界聯邦論だの共産主義などというものがいかように
逆立ちしても、どうなし得るものでもない。しかして、この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。
文学は常に制度の、また、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に
協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対普遍の関係なのである。
「続堕落論」
80 :
JPB :2001/05/10(木) 00:41
「人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではな」い という生の条件のもとで、「個の生活により、その魂の声を吐くもの」 という規定は、個人の権利問題としての小説といえないでしょうか? 1さん。ごめんなさい。元はといえば、私が変に曲げてしまって。。。
資本主義下のテメエの身でも案じてろっての
>>81 別段、なんの不満も不安もない。
つーか、いま何か心配事でもあるんじゃないのか?
まあ、元気出して行こうぜ。
広い世の中、キミより酷いことになってるヤツなんて
いくらでもいるぞ。
83 :
21 :2001/05/10(木) 06:59
>>76 >うーん、資本によって衰弱するのだったらなんとなく分かるのですが、
>“栄養”というのが、ちょっと良く分かりません。
「栄養」という言い方がまずかったのかな? この場合の栄養というのは例えば
ローコストで大量の本を出版できるシステムであったり、表現の自由が確保されて
いたりということで、作品そのものが良くなるための要素ではありません。
小説を書くための環境はどんどん良くなっていくのに、そうなると逆に文学は衰弱
してゆく、と言いたかったのです。
みなさん「資本主義」という言葉に慎重になっていますね。確かにこだわりだすと
どうしてもその歴史性を問うことになり、当然そうなると「近代文学」の成立について
も問わざるを得なくなります。しかし僕は思うのですが、やはり15世紀に現れた
資本主義と、今の資本主義は違うと思うのです。それは決定的には、資本主義の対立軸が
今はもう存在しないということが大きいと思います。ここで問題にすべきなのは、
コミュニズムという対立軸を失ったここ数十年の資本主義であり、その影響下での
文学についてだと思うのです。
84 :
21 :2001/05/10(木) 06:59
ではコミュニズムという対立軸がない資本主義のもとでは、文学はいかように変容する のか。それはざっくばらんに言っちゃえば、「商品主義への開き直り」でしょう。また 文学の方も、そう振舞うことを強要されるのです。つまり「芸術だなんだって言った ところで、所詮は商品のひとつに過ぎない」という考え方です。そして資本主義下では それは否定できない。それはどうしても覆せない、事実として立ちはだかるのです。 ちょっと前の哲学板に立っていたスレのタイトルですが、「全ては貨幣価値に換算 できる」ということです。こうして文学のアウラは衰弱してゆく。 えーと、続きはまた。
85 :
吾輩は名無しである :2001/05/10(木) 08:04
屁理屈を言い続けると、自分でも信じていないことを信じてしまう。ってのは本当の話ですね。
86 :
41=76 :2001/05/10(木) 08:20
>>83 =21さん
レス感謝します。
つまり、栄養=近代流通システム(出版・取次・販売を含む)で、
この結果、文学作品の“芸術作品”→“商品”といった変容が生じるという事ですね。
こういった状況は前レスにもあったベンヤミン、アドルノの言説によると
大衆消費財化を招き芸術文化の根源性を損なうものとして疑問視されていますが、
ただ、それだけではなく、大衆欺瞞の装置として(この場合は映画なのですが)
マイナス方向に働くといった指摘があったようにも記憶しています。
政治性についてのレスの中で1さんが指摘されていた無配慮(政治統合への)
等はこういった状況についてのものだと(勝手に)理解していますが、いかがでしょうか?
また、スレの最初の方で名前のあがった高橋源一郎等もこういった状況下でのカウンターカルチャー、
サブカルチャーの是非の文脈で論じられるような気もします。
87 :
吾輩は名無しである :2001/05/10(木) 08:23
>>85 誰にたいして何を言いたいのかは知らんが、君は一体何様だ?
退屈な論者の登場で、だんだん話が退屈な方向に向かっている・・・
>>88 では、あなたご自身の退屈でないご意見ご感想をぜひどーぞ(藁
90 :
1 :2001/05/10(木) 11:28
どうも言葉というのは難しいですね・・ という「言葉」をエクスキューズにしつつちょっと思ったことを
まず、売れる売れない、ということですが、私が考えていたのは単に、まずどんなご立派なこと書いたって読まれなくては仕方ないぞ、
という意識からなのですね。つまり小説をいかに流通にのせるか、というよりは、自らの内側から発される言葉をいかにしてたくさんの読者に届けるか
といった「表現」の本質(と勝手に私がそう思っている)そのものに関してちょっと考えてみたかったわけです。売れる、というのは一つの結果に過ぎません。
>>63 一般読者が「よし」と思うような 作品の持つ魅力とは?
小説が生き残るためにはたぶんこれを考えなくてはならないような気が私もしています。
91 :
1 :2001/05/10(木) 11:32
それから共同体的「統一性」とか(詳しい用語とはちょっと分からないのですいませぬが)の問題について。別に私は気分を害したわけではありません。ただ、ちょいと難しい話題ばかりがでてくるようなので、
少し煽ってやれ、ぐらいのkarui気持ちで・・1の立場であれをやるのはさすがにまずかったか・・ ちと反省。私の書き込みで気分を害したならお詫びしておきます。すいませんでした。
それから私は思うのですが、たぶんあの議論は「政治性」について関係があるのではないでしょうか?
>>51 >この関係を支えているのは言葉というよりも、 同じ共同体に属し、同じような事柄に接しているという
暗黙の了解です
つまり、この>暗黙の了解 をかく乱してしまうからこそ、中上(馬鹿の一つ覚えみたいで恐縮ですが)の作品は「政治的」なのではなかったか、ということですね。
>>53 JPBさんの
>近代国家の言語行政は厳密な実在を権力的に押し付けていったわけではないと思うのです
たしかにそうなのかもしれません。ただ、そうでない立場の人々もいたのではないか? 例えば明治大正期におけるアイヌですね。
朝鮮の人らはどうでしょうか? そしてまた「路地」と呼ばれる場所の人々は?
JPBさんのお話に私がひとつ付け加えたいのは、権力性というのはもっと柔軟なものなのではないか、ということですね。
どういうことかといいますと、JPBさんほど教養のある方でさえ(であるからこそなのかもしれませんが)ついうっかりあのように書いてしまう、
という部分にこそ「権力」と呼ばれるものの本当の恐ろしさがあるのではないか、ということです。(これは皮肉ではありません。応答を求めるマジメなレスです。
レスの程度が低く思えるのは私に学がないせいでしょう。一応念のため)
他にもたくさん思うところがありますが、ひとまずはここまでってことで、てへッ。
JPBさん、21さん、41さんを含め、みなさん有益なレス、ほんとありがとうございますです!! 多謝。
おや? 静観するんじゃなかったのか?
93 :
JPB :2001/05/10(木) 13:35
いえいえ、ご指摘ありがとうございます。やっぱり、「統一性」とか こうコンセンサスのない用語はなるべく抑制したほうがいいですね。 と、いくつか。 まず、「権力」の問題について。確かに、私の書き方は、同化政策の 実態を無視した書き方でしたね。そこに、権力が露呈したのであれば むしろ反面教師として読んで頂ければ幸いです。ただ、私の言いたかっ たことも、まさに権力とは柔軟なものではないか?という問いなので、 それについては了解しました。
94 :
JPB :2001/05/10(木) 13:52
ただ、一応「言語行政」という書き方で限定をかけておいたのですが これは標準語−地方語という軸を念頭においています。ですからひとし なみ「国民」と目される人々がその変容になんらかの軋轢を感じてい ただろうという視点から、ではなぜ、その軋轢が軋轢として認知されな かったのだろう、という疑問を持ち、そのひとまずの答えとして、あの 言い方がでた、というわけです。ここでは方言もアイヌ語もウチナーグチ も同列に、その政策を受けたという認識から書かれています。 ただ、琉球処分後、あるいは北海道開拓事業後、圧倒的な力を 背景にそれが行われたことは必然です。
95 :
JPB :2001/05/10(木) 14:12
で、あの話を持ち出したのは、ほかでもなく「文学は芸術」なのか? という疑問から発せられています。芸術だとすれば、さて、どのような 芸術なのか、という疑問です。私は、まず、文学が芸術として認知さ れるならば、自立した領域を持たなくてはならないと考えました。 それには私の前提する、文学は国家に保証されて出てきたという、理屈 を反駁してもらう必要があったわけです。 で、同時にもつ疑問は、文学を芸術として擁護すべきなのか?という 疑問です。私は文学を「かけがえのないもの」とは思いますが、「芸術」 だといってしまうと、本来誰でも手にとれる筈のものを、無駄に権威化 してしまうのではないか?という危惧があるのです。 文学が「良俗と反する」と目される時代があり、そのときであれば、 「文学は芸術」というテーゼも可能であったかもしれません。まさに 明治の黒田清輝の裸体画がそうであったように。 そういう感じで、前提を問うというつもりで提出しただけなのです。
96 :
JPB :2001/05/10(木) 15:25
っと、全部読みかえしてみると、誰も文学は芸術として擁護されるなんて言って ないですね(^^;。とはいえ、私としてはは、現在、文学を擁護したり、差異化させ たりする場合、やはり文学ジャンルを、それが立っている土台も含めた形で考えて みたいという欲求があったことだけは確かです。で、言ってみました。 過去ログをちゃんと読んでから発言するようにします。申し訳ない。
97 :
1 :2001/05/10(木) 15:26
>JPBさん
丁寧な分かりやすい文章でのレス、ありがとうございます。ひょっとしたら反論になっていないかもしれませんが、
私もこれで話を終わらせたくはないので拙いですが一応考えを・・
>>46 >国民国家内の統一性の基礎として、国語(標準語)が定められ、その流通(教育の充実)を背景として「文学」なるジャンルが出来上がった
という理解をしております
たしかにそのような説は眼にしたことがあります。大げさな言い方をすれば、ひとつの国策、として仕組まれた文学とでも言うべきものでしょうか。
いかにあがいてみせようとも、それは単に国家の上で予定調和的に踊っているの過ぎない、という。(私の理解の仕方はおかしいかな、もしかして?)
これには79のレスにあった安吾の文章を私は対抗させたいと思います。
>文学は常に制度の、また、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に
協力しているのだ
単純化すると、JPBさんが言われているのは、統一性(また不用意な言葉ですいません)を志向する制度が文学を成立させたということだと思うんです。
安吾の言ってることはこうです。我々を取り巻く制度というのは常に不完全なものである。だから >個の生活により、その魂の声を吐くもの でもって制度を少しでもよりよく書き換えてゆかねばならない。
これはたしかに
>>75 さんが言うように >ダブル・バインド的愛憎関係 で非常に危ういような気もしますが・・ (おれの理解はあってるのだろうか・・なんか不安になってきた・・)
98 :
1 :2001/05/10(木) 15:29
>>62 JPBさん
>別に「戯作」でもいいわけで。サロン的な物語でも、民俗的口承でもいいのに、なぜ「文学」か、
だからJPBさん、私は学問的な定義は知りませんが、「戯作」と「文学」とを分かつのは、個人がよりよく生きるための思想
があるかないか、ということじゃないのかと思うのです。戯作と呼ばれるジャンルに思想がない、ということではありませんよ。
もし生きるための思想が存するのなら、それはすべからく「文学」であると私は声を大にして言いたい。
私のとりあえず今想定する「文学」とはそういうものです。
ん、あれ、96? まあいいや、せっかくおれも書いたんだし・・
>本来誰でも手にとれる筈のものを、無駄に権威化してしまうのではないか?
だからこれは逆ですね。私は「本来誰でも手にとれる筈のものを」どうすれば実際に「誰でも手にとれる」
ようにすることができるのか、ということをここで考えたい。そのためにちょいとお知恵を拝借したい、とずっとそのように言っているはずですが・・
あれ、私の書き方がやっぱり悪いのかなあ・・
99 :
JPB :2001/05/10(木) 15:43
はは、クロスしましたね。 いや、でも了解ですよ。 ただ、「国策としての文学」という説は、ちょっと私のニュアンスと は違います。むしろ「国家システム内での文学」ですね。
100 :
1 :2001/05/10(木) 15:57
>「国家システム内での文学」 ですか。それでも私の反論は成立するかな? うーん・・書きたいこと書いたのでとりあえずしばらく静観・・
101 :
JPB :2001/05/10(木) 16:00
1さん。これはマジレスですが。 むしろ小説を積極的にほっておく、というのはダメ? ダメかなあ?ダメだろうなあ・・・
102 :
吾輩は名無しである :2001/05/10(木) 18:20
議論と言うのは、まともな意見から始まり、屁理屈で潰されると。
103 :
JPB :2001/05/10(木) 21:07
すまんです。続けてください。
104 :
fishman :2001/05/10(木) 21:10
>101 ダメじゃないと思う。1さんとは意見が異なるのだけど、 本来、一般化できない個別な事象を、一般化させるーもしくはそのように 見せる仕組みが文学だと思う。(←これ反感買いそうだなぁ。。) むしろ、これまで、文学は構われすぎてきたように思う。 そこには何もないんだという理解が、逆に必要なんじゃないか。
105 :
吾輩は名無しである :2001/05/10(木) 21:21
102の屁理屈は、JPBさんじゃなく、その他大勢の方に 掛かっているように読めるんですけど。
106 :
JPB :2001/05/10(木) 22:04
>>105 さん
いや、やっぱりもともとの議論をかき回したのは私です。
それを、皆さんがむしろ引き戻してくれたというのが
流れですよ。
誰がどうこうってわけじゃなく、いやさ、まだ参加させてもらいますよ。 迷惑かもしれませんが(^^。こういう議論は好きなんで。。。
108 :
吾輩は名無しである :2001/05/10(木) 23:16
>107 今回に限らず話題が大きくなると、錯綜や逸脱が増えていくのは 仕方がないことなんでしょう。あまりすんなりと一本化するのも気持ちが悪いし。。 一つのスレから複数のスレに分化させていくというのも一つの手かもしれませんね。
109 :
1 :2001/05/10(木) 23:22
まあ、いくらか時間かけて気長にやってきましょう、ってのは無責任で駄目でしょうかね? ここでも有益 な情報は得れるのですが、やはり素人にとってはずっと書き込み続けるのは辛いもので・・ 結果として豊かなもんが得られれば私はそれで嬉しいので。どうかお付き合いのほどを・・・てへ
110 :
1 :2001/05/10(木) 23:30
あ、それから、基本的に私は今、
>>104 fishmanさん >そこには何もないんだ って前提から
このスレ一応たててます。
何を生かし、何を殺すべきなのか、そういうことも当然考えていかないといけないのでしょうね。
111 :
1 :2001/05/10(木) 23:59
んで、これは一応提案なんですが、
>>108 さんの言う>錯綜や逸脱 大いに結構なんじゃないでしょうか?
なんか、普通は関係ないものが突然出会っちゃう、みたいな感じで私は面白いと思います。見てる人もその方が思ったこと発言しやすいでしょうし、
せっかくのこういう場ですから。自分が気になったレスにどんどん意見してみて下さい。これまでにも結構面白いレス、たくさんついてると思うので。
まあ、あまり行き過ぎると訳がわからなくなってくるでしょうから、その都度誰かが自分なりの視点から幾つかの話題を締めてみる、と。
たぶんその締め方でも人によって異論がでて、またそれも面白いんじゃないでしょうか?
どーもいい加減なようですが・・ どうでしょう?
>>111 あ〜、賛成。
>ほんとうは私もそういう話の展開を期待していたのですけどもね。
>どうもみんなそういう方面には興味がないようで。困ったもんです。
>ぜひこの線で話をすすめていってもらいたいものです、と勝手なこと言いつつ、私はなお静観したいと思います・・
俺、お前のこういうところ嫌いだったから。
あと、スレ作成者としての過剰な自意識とか。
>>113 そうかい。じゃあキミが代わりになにか一席ぶってくれ。無理だろうけどな。ぷぷッ。
115 :
21 :2001/05/11(金) 06:56
うーむ。今日はtotoの予想で疲れたので、静観。 一言だけ・・・>ALL 文学が衰退しているというのは誰の目にも明らかですが、それは資本主義の発達と直接 関係があると思いますか。思わないですか。 今さらですが、ちょっと端的にこれだけ聞いてみたいっす。あ、僕は別に文学を芸術として 保護すべきだといってるんじゃないです。ちなみに。
116 :
吾輩は名無しである :2001/05/11(金) 07:13
文学が衰退している。良くそんな話を聞きます。ただ私見では、そうは見えませんが。 月刊誌はたくさんあり、多くの作家がいて、世間には読み切れない程の作品が溢れている。 むしろ文学は分散し、拡散し、狂い咲きしている。と言った方が良いでしょう。 問題は売れてる、流行ってる作品が少ない。それで文学が衰退しているように見えるのでは 結局、売れない作品がいくら出版されても、その分野の発展には貢献しないということです。
117 :
1 :2001/05/11(金) 08:38
>>112 うーん。どうやら調子に乗って書きすぎて、誰かの機嫌損ねてしまったみたいですね。
せっかく同じことに興味もってくれていたはずなのに、不快な思いさせてしまって、未熟さゆえ、申し訳ないです。他の皆様もあいすみませんでした。
ただ言い訳させてもらうと、あなたと同じこと私もレス読み返しながら思ったので、ああいう提案をしたまでのことです。
まあ、どちらにしろ結局押し付けになってしまうんでしょうが。私はもう何も強制はしません。
本当に書き込みするのちょっとやめとこうと思います。私はどうも一人で書きすぎているようですから。
元々それは私の本意でもありません。ただいまいち議論の前提がどうもうまく定まらなかったようなので(未だに定まっていませんが)、やむなく色々動いていたまでのことです。
それが鼻についたのならすいませんでした。
>JPBさん
失礼なこと書いた私に、わざわざ丁寧に反応してくださってほんとうにありがとうございました。
昨日のあれは久々に楽しかったです。「言語行政」に関するレス、私も了解です。ほんとうはJPBさんと「政治的なもの」について
話をしてもう少し具体的につめていきたかったのですけども。でも書くうちに自分の中で色々わかったこともあります。ありがとうございました。
>21さん
たくさん有意義なレスくれたのに、きちんとまともなレス返してなくてすいません。でも色々と考えていることはあります。
ベンヤミンについてはちょっと違うこと考えていたのですが・・ 色々勉強になりました。ありがとうございました。
長々と作成者づらして失礼しました。では。
119 :
JPB :2001/05/11(金) 11:50
>1さん いやいや、まって下さい。せっかく、ベンヤミンがらみで書いてみよう かと思って、少しまとめてたとこなのに。1さん、あきらめるのがはや 過ぎる。それで本当に文学が変えられると思うのですか?(と、煽ってみたり) で、こちらこそ、申し訳ないのが「文学の擁護」云々に関しては特に 誰を名指したということもないのですよ。21さん、もしそう思われた のでしたら申し訳ないっす。あれは一般論です。 で、別に話題を振りましょう。
120 :
JPB :2001/05/11(金) 12:48
叩き台として、ベンヤミンを素材にした「政治的なもの」の導入を論じてみます。
先に41さん、21さんの方で「複製技術の時代における芸術作品」に関する意見が
とり交わされていました。
>>74 -
>>76 で、「複製」の論点はおそらく次の三点。
@ 技術の進展によって起りつつある「芸術」観念の変容を記述する。
A 技術の進展によって起りつつある「芸術」に向かう「大衆」の知覚の変容を捉える。
B その中で映画の役割を位置づけ、新たな芸術としての評価を与える。
で、ベンヤミンはその論の中で「危機=逼迫性」を次の言葉で捉えると私は考えます。
映画についてですが、ベンヤミンは「半ば専門家」としての大衆が、映画制作を、
「コントロール」し、「革命的なチャンス」へと転化しうるというヴィジョンを
抱き、しかし「このコントロールという革命的なチャンスは映画資本によって反革命
的なチャンスに転化させられている」といい、さらに「映画資本の促進
するスター崇拝が、人格という例の魔術を(中略)保守しているだけではない。こ
れに加えて、お客様は神様だとする観客崇拝がこれを補完している」として批判し
ます。
また「西欧では映画は資本主義的に搾取されていて、自分自身を再現したいという
現代人のまっとうな要求を、いまだに無視している。のみならず、失業が大衆を生産
から排除していて、労働過程のなかで自分を再現したいという第一義の要求をすらも
拒んでいる」とあります。
「革命」云々は今日にはそぐわないとして、こうした観点を現代に当てはめると
どのようなものが見えてくるでしょうか。後半は「自分を再現できたらどうなるん
だよ」という疑問などもでそうです。一応の比較項として出してみました。
121 :
JPB :2001/05/11(金) 13:08
で、自分の書き込みをもとに自問自答します。 「なぜ、大衆が映画製作をコントロールしうると断じられるのか? そんなに簡単か?」 ベンヤミンのテキストではその答えは次のように応答されます。 「映画の技術」は「スポーツの技術と同様」に「展示される営為に、 万人が半ば専門家として立ち会えること」があり、それは文学の 歴史的状況を「一瞥」することで理解できるとします。 「数世紀にわたって文学においては、一方に少数の書き手がいて、 他方に数千倍の読み手がいる、という状態が続いていたが、前世紀 の終わり頃、その点に変化が生じた。新聞が急速に普及し、さまざまな 政治的、宗教的、学問的、職業的、地域的組織をどんどん巻き込んでゆ き、読者となじませるにつれて(ママ)、次第に多くの読者が、最初は 散発的に、書き手に加わるようになった」というのがそれです。 その結果「同時にこのような読者のために」投書欄が作られ、読者は 「労働の経験や、ルポルタージュ」を「どこかに公表するチャンスを 基本的にはもてる」がゆえに、「作家と公衆の間の区別は、基本的な 差異ではなくなり」同時に「ケース・バイ・ケースで反転しうる」し 「書き手としての資格」は「共有財」になるとしてます。 「で、映画は?」と私。 「こういったすべてはほとんどそのまま、映画の分野に移して語る ことができる」 さて、現代の作家−読者関係にうつしかえるとどうでしょう?
122 :
JPB :2001/05/11(金) 13:24
これは、一部分の拡大ですから、これをもって「複製」の意見とはいえ ません。むしろ真価は、技術論的にはモンタージュのよる思考の中断や、 それが観衆にあたえる「ショック」や「気散じ」または自己把握などの 効果や、「専門家集団の介入」という提案にあると考えます。そして それがそれらが「政治的」に結びつくとこに、読みでがあると思います。 で、まあ、ここでは生産活動についての論は少ないのですが、私はそれを 一連のブレヒト論の中に位置する「生産者としての作家」にあるのでは ないかなあ、とネタを振りますが如何でしょう?
で、21さんの疑問に関しては、う〜ん。一応、保留。夜にでも。 多分、芸術云々は多分75さんの「文学は芸術を忘れ」って部分だけ きになっちゃったという感じかな?でも、あとから見ると趣旨が違う。 で、そこからああゆう書き方になっちゃったという感じ。ゴメンね。 いやわたしも作品は芸術となりうるんだという「矜持」は持たないと 駄目かな、と思うので・・・。
124 :
吾輩は名無しである :2001/05/11(金) 22:37
age
>>112 オメ−なにすんだよ。スレ盛り下げてどうすんだ。
オメエの母ちゃんも泣いてるぞ。
126 :
偽金子光晴 :2001/05/12(土) 03:43
お話を伺っていて(ロムっていて)、1さん、JPBさんに教えていただきたいのですが、 「資本主義下でない文学」などということは、ありうるんでしょうか? 煽っているわけではありません。文学は、資本主義の発展と一緒になって、それこそ 複製技術の発達によって、成立したものだと思うのです。 だからJPBさんが仰る「芸術の自立した領域」というのも、その領域は資本主義内部の 領域であって、そこから外に出るものではないでしょうし、1さんが安吾を引用して仰っている 「個人」「人間」というものも、資本主義の外に(不完全な制度の外に)出ることはできないと 思うのです。 また、「権威」の問題が出されていましたが、文学が特定の作者によって書かれた、特定の 言葉である以上、文学に「権威」が立ち現れてしまうのは避けがたいと思います。 つまり文学とは、資本主義下にあって、権威として振る舞うように最初から出来上がっている ものであって、そこから逸脱するとしたら、それはもう文学ではなく、では何だと言われれば ふさわしい名称が見つからないようなものだと思うのですが、どうなのでしょうか?
127 :
吾輩は名無しである :2001/05/12(土) 05:20
Rebecca Harding Davisの"Life in the Iron-Mills"や Upton Sinclairの"Jungle"について具体的に何か言って くれる人待ってるわ。
128 :
21 :2001/05/12(土) 08:28
>>120 自らベンヤミンを振っておきながら、手元にテキストがないのと理解不足のため
まともなレスができません。ごめんなさい。
僕はJPBさんが
>>120 で整理された@のところだけを「複製技術」で関心し
AとBについてはうまく理解できなかったものと見えます。確かそんな話をしていたな
とうろ覚えでなんとか思い出せるだけで(多分難しくて理解できなかったのだと思い
ますが)まともなレスが出来るほど理解していません。
129 :
21 :2001/05/12(土) 08:29
で、JPBさんが整理してくださったのに甘えて、自分の意見を書いてみたいと思います。
>>121 によると、ベンヤミンは芸術活動はかつて一部の作り手と、その数千倍の受け手
によって成り立っていたが、時代の移り変わりによってだんだん受け手だった者が
作り手に参入できるようになったと述べています。なるほど、確かに日本の文学で考えて
みても、かつて文章を書くというのは特別のことで、教育のある一部の人間にしかでき
なかった。書き言葉と話し言葉は違っていたわけだから、言葉を話せても文章が書けると
いう訳ではなかった。それが明治中期の俗語革命(言文一致運動)と国民教育により、
今では誰でも言葉が話せれば文章も書けると(見なされる)ようになった。つまり、
文章を書けるということが特別でも何でもなくなった。
ベンヤミンはこのことを肯定的に見ているようですね。それがいわゆる「革命」の契機に
なり得るということで。もちろん僕自身も、「書き手としての資格」が共有財になること
は素晴らしいことだと思います。ただ、やはりこのことがそれまであった文学のアウラを
弱めることにも繋がっているのだと思うのです。
130 :
21 :2001/05/12(土) 08:30
あ、よく見たら
>>126 さんがすでに言いたいことを書いてくれてましたね。
>文学が特定の作者によって書かれた、特定の言葉である以上、文学に「権威」が
>立ち現れてしまうのは避けがたいと思います。
そう。問題はその「権威」がいまや完全に死に絶えたことだと思うのです。それは
やはり文章を書くことが当たり前になってしまった現実と関係があるように思います。
現代資本主義下では、商品の差異化ということが叫ばれます。誰でも書けるような文章
は誰も買わない。当たり前ですが、中には誰にも書けないような文章でも、地味だという
理由で切り捨てられる。差異化は話の面白さ、奇想というところでのみ図られる。
書きながら、ちょっと違うかなという気がしてきた・・・。
131 :
JPB :2001/05/12(土) 09:30
>偽金子光晴さん
私も実は同じ問いを1さんに
>>46 で提出しています。それは、
>二.これは「資本主義下の」という部分にあります。果たして「文学」なる
>ジャンルが歴史的に持続していて、「資本主義下」において何らかの変質を
>蒙った、という捉え方はどうか?という疑問です。
>わたしは、15世紀以降に資本主義が生起し、それが伝統社会を変質させ
>新たな紐帯として国民国家ができあがってくるという理解をとり、その
>国民国家内の統一性の基礎として、国語(標準語)が定められ、その
>流通(教育の充実)を背景として「文学」なるジャンルが出来上がった
>という理解をしております。で、その中で売文業者が商売を始めるわけ
>ですから、それはもはや「文学」の条件としてある、という見方になり
>ます。
というものでした。私としては、資本主義下において、いや、まさに
資本主義下だからこそ文学は生起できると思うのです。しかし、もう少し
自分なりに考えてみると、資本主義が引き起こした最大の現象である「近代」
の「国家」なる枠組みが、文学の生起を助け、また
>>74 さん
>>75 さんの
おっしゃるように「ダブル・バインド」「切断と統合」の絶えざる層の
もとに文学は変容をいくつもこうむりながらある、と思ったわけです。
だから、前半の偽金子さんの疑問に、私は全面的に同意します。
132 :
JPB :2001/05/12(土) 09:45
そして、中盤の「だからJPBさんが仰る「芸術の自立した領域」というのも、その領域は資本主義内部の
領域であって、そこから外に出るものではないでしょうし、1さんが安吾を引用して仰っている
「個人」「人間」というものも、資本主義の外に(不完全な制度の外に)出ることはできないと
思うのです。」という部分です。
これで、途中、お互いがそれぞれ前提しつつもズレたのですが、私もそう思います。おそらく、
これに関しては基本的には共有されているような気がするのです。ただ、私は、国家の枠外に
文学はでることは難しい、といって1さんと意見が分かれました。そこの経緯については
>>91 -
>>100 をみて頂ければ、私の考えが、ほぼ偽金子さんと同意であることが了解されると
思います。
133 :
JPB :2001/05/12(土) 10:23
>21さん ベンヤミンについてはもう、私もアレなんですが。ともかく、技術力の増大が 芸術の「一回性=アウラ」を消去すると同時に「礼拝的な」感受性までも消した。 ベンヤミンは前者をやや懐かしみつつ、後者の消失には可能性を見出していると 思うのです。(アウラと礼拝性はイコールのようで、私にはズレるのです) というのは一方で技術の増大がもたらした分業体制の下でのいわゆる人間疎外。 それを複製技術(同様の技術革新でもある)でもって、弁証法的に解決しようと いうのがあのエッセイの眼目なんだろう、と。その解決法というのは、つまり、 あの時代としては「プロレタリアートとしての目覚め」なんていう表現ですが、 むしろ、「機構から解放された現実を見る視点」をその具体例として、読むこと ができるでしょう。つまり、現在だったら、カメラワークによって、システム内 にいるとどうしても見出せないような視点を見出す可能性というか。 つまり、システムの中でとまどう自分の姿をじっと見詰めるもう一つの 目をカメラが代補し、それを受け取るというようなものを読ませてもらったという わけですね。ベンヤミンの論はそれをファシズム美学の動員論に対比して、 主体認識の形の動員(プロパガンダではなく)に向かおうとしてます。 という感じ。つーか、それは本題とはズレますな。すみません。
134 :
1 :2001/05/12(土) 10:25
議論の継続を図って下さってありがとうございます。もう書き込まない、などと言いながら質問がくると、話の種を提供した責任上やはり答えないわけにはいかないですね。
受け答えをJPBさんだけに任せておくのも無責任な気がします。
とりあえず、あの件に関しては反省しているので
>>112 のかた平にお許しを・・ということで。自意識過剰については・・これもなるべく気をつけますです、はい。
>>126 偽金子光晴さん
>「資本主義下でない文学」などということは、ありうるんでしょうか?
これはJPBさんも21さんもずっと問題として出してくれていたものですね。もっともスレタイトルの「資本主義下」ってのには、今私たちを取り巻くこの状況、という以外に私は特に意味を考えてはいなか
ったのですが。だから資本主義の歴史と文学の成り立ち、についてもそれは私の興味の関心外になります。当然、偽金子光晴さんが満足するようなお答えはちょっと今の私にはできかねます。申し訳ありませんが。
ただこれは安易でずれたな発想なのかもしれませんが、社会主義や共産主義下(例えばソ連とか北朝鮮)で書かれたような文学、小説、というのは存在しないのでしょうか?(当然それだってグローバルにとらえれば資本主義下、から逃れる
ことはできないのでしょうが)
135 :
1 :2001/05/12(土) 10:27
おや、またJPBさんとクロスしてるみたいだ・・
>>126 >JPBさんが仰る「芸術の自立した領域」というのも、その領域は資本主義内部の領域であって、そこから外に出るものではないでしょうし、1さんが安吾を引用して仰っている
「個人」「人間」というものも、資本主義の外に(不完全な制度の外に)出ることはできないと思うのです。
恐らくそうなのかもしれません。ただ私は >資本主義の外に(不完全な制度の外に)出 よう、などと大それたことを考えているわけではないのです。
人の生き方というものが多様である以上、人をある規格に沿わせようとする制度が、可視的なものであれ不可視のものであれ、たとえどんなに優れたものであろうと一定の不完全さを内包するのは避け得ないことだと私などは思います。
ただその、>不完全な制度 に息苦しさを感じる「個人」が何事か異議申し立てする、その意思の発露、通路として「文学」は存在できないのかな、とちょっとあそこではそのように考えて書いてみたのですが。
ただちょっとおかしな言い方をしますが、その「息苦しさ」というのはひょっとしたら、資本主義(不完全な制度)の内側にありながら、外にあるのかもしれない、とは思います。それは人間が制度に順応しきれていない、はみ出している、あるいは足りない、ということでしょうから。(いかにも基準、からものを見ている言い方であいすみませぬが)
そのようなものはいかに回収されいかに回収から抵抗してしまうのか。
私などが考えたいというのはそういうことですね。
もしもきちんとしたお答えになってなかったらすいません。
「権威」の問題については今、21さんが話題を振ってくれているようなので少し私も考えて見たいと思います。
>そこから逸脱するとしたら、それはもう文学ではなく、では何だと言われればふさわしい名称が見つからないようなものだと思うのですが
うーん。どうなのでしょうね? もし文学もまた制度的に硬直化しているのなら、それも更新していく対象に含まれるのでしょう。
「権威」と関わっているので、仰っているのとはちょっと受け答えがずれているかもしれませんが。
また必要があったら書き込みします。では。
136 :
JPB :2001/05/12(土) 10:42
それで、ふたたび、レスから話題をふってみます。ほとんど整理屋ですが、
このさい私自身の主張はどうでもよいです。
>「また、「権威」の問題が出されていましたが、文学が特定の作者によって書かれた、特定の
言葉である以上、文学に「権威」が立ち現れてしまうのは避けがたいと思います。
つまり文学とは、資本主義下にあって、権威として振る舞うように最初から出来上がっている
ものであって」という理解と
>>126 >「問題はその「権威」がいまや完全に死に絶えたことだと思うのです。」
>>130 という理解が
まさに同時に共存するような状況は面白い、と思います。
そこに1さんの
>覚束ない私見を述べれば中上健次以後、つまり80年代の作家たち
村上春樹、村上龍、高橋源一郎、山田詠美、吉本ばなな、といった
作家たちはそれまでの日本文学の潮流というものを一旦断ち切ってい
るのではないか?
という問題提起も合わせて考えてみると面白いのではないでしょうか。
137 :
JPB :2001/05/12(土) 10:57
私自身、先の「権威」に関する引用は、対立しているものとして あげたのではなくて、お互いが補い合うものだとしてあげました。 もちろん私も同じ理解だったりします。 最近、むしろ権威をパフォーマンスとして演じなければならない作家 が、ちょっとかわいそうだったりします。また、個性を演じなくては ならない作家も、もうちょっと休ませてあげたいとも思います。 などと思いつつ、文学を確かに権威として見る自分もいます。しかし なぜそれを「権威」として見てしまうのか、もしかしたら別の何かが 意識に上ってこなきゃまずいんじゃないか、ということで、とりあえず ネタ振りは以上です。疲れた・・・
138 :
偽金子光晴 :2001/05/12(土) 14:36
このスレをプリントして読み返してみました。難しいところもたくさんありましたが、 JPBさんがまとめてくださったので、助かりました。有難うございました。 私はこの板の「高橋源一郎の新聞連載小説」というスレッドに参加しています。 このスレッドは私に、予想以上の文学的問題を考えさせられるスレッドになってしまいました。 どうしてこんなことをこのスレで言うかというと、高橋源一郎が朝日夕刊で連載中の「官能小説家」 という小説の混乱の原因が、まさにここで議論されているような「資本主義下の文学」「権威になっちまう文学」 ということへの、作者のスタンスの取り方が超中途半端であることが原因ではないか、と思ったからなのです。 私が、「文学が特定の作者によって書かれた、特定の言葉である以上、文学に「権威」が 立ち現れてしまうのは避けがたい」と書いたのも、それが動機です。 文学というものの権力性、権威になっちまう性を等閑視するのは、中途半端な逡巡しか生まなくなっている のではないか、と思ったのです。 それに対して21さんが、「問題はその「権威」がいまや完全に死に絶えたことだと思うのです。それは やはり文章を書くことが当たり前になってしまった現実と関係があるように思います。」と仰ってくださいました。 私の理解では、現代において「権威」は、死に絶えたのではなく、拡散したのではないでしょうか。 「文章を書くことが当たり前になってしまった」結果、そして複製技術とテクノロジーの発達の結果、 「権威」たろうとする文学が激増していることは、「ネット小説」を見れば一目瞭然です。 権威は、大江健三郎とか三島由紀夫みたいな「(比較的)大きな権威」と、ネット小説みたいな 「細かい権威」(失礼)に細分化されていったのです。
139 :
偽金子光晴 :2001/05/12(土) 14:47
そしてこの、権威の拡散、細分化は、ベンヤミンが予想(期待?)したような「革命」に
つながることは、ないと思われます。
複製技術と情報テクノロジーの発達は、文学を「王様対庶民」に分断したのではなく、
小さな王様をたくさん作ることになったからです。
ここから「資本主義」に戻りますが、1さんが
>>135 で仰っている、「制度下での個人の
異議申し立て」も、こういう王様並列状況では、異議申し立てすること自体が、すでに
制度の一部として取り込まれてしまう。なんせ王様たちを作ったのが、制度なんですから。
前のほうでJPBさんが仰っているとおり、資本主義というのは、ぜんぜんガチガチしてなくて、
むしろ、ヌルヌル、ウネウネと、あらゆるところに染み込んでいくもので、私が思うに、
社会主義国家でも共産主義下でも、文学は資本主義的であり、権威的になってしまうのです。
>>139 なんだかまた以前出てきたような個人と制度とのループになってきたね。
141 :
偽金子光晴 :2001/05/12(土) 16:18
>>140 さん、蒸し返しでスミマセン。
あと、
>>137 で提起された、「なぜ文学は『権威』なのか」という問題ですが、
これは簡単。文学が作者によって書かれているからです。権威とは固有名と、
固有名を保証するシステム(この場合は「文壇」)によって作られるから。
そうですな。じゃ、ちと思うがままに述べてみますか・・・
>>140 さんのいう通り、また制度と個人の関係の問題が回帰してきましたね。こうした
問題のループは、視点を少しだけ引いて構えてみると、むしろこの議論のループ性が問
題化できるのではないでしょうか。すなわち、対立→止揚、誤解→和解、縮小→拡大、
混沌→構築というような言い方で。
こうしたことはこの文学板を見るだけで何度も起っています。そしてそれは決してここ
だけの話ではなく、現実にも色々な文脈に従って生じていることでもありますね。しかし
まあ、こうしたことを飽きもせず反復し、同じ結果しかもたらさない議論を繰り返すのは
馬鹿げて見えますよね。まさに、道化。『気狂いピエロ』です。
続きます。
でも、こうした反復を自覚的に生きる。まあ、ベンヤミン流に言えば「遊戯的」に生きる という言い方になりますが、これが一つまあ文学的行為になりうるのではないかという気 がしないでもないです。例えば、ベンヤミンは『一方通行路』の中でこう言っています。 「生がどのように構築されるかは、目下のところ、確信の力よりもはるかに、 諸事実の力にかかっている。しかも、これらの事実たるや、いままでほと んどいかなるときにも、いかなる場所でも、確信の根拠になったことのな いような事実なのだ。こうした状況のもとでは、真の文学活動は、文学の 枠内におのが場を求めるわけにはいかない。文学の枠内にとどまっている ことは、むしろ文学活動の不毛さの現われとして、ごく普通に見られるこ とだ。」 で、こうした退屈さを自覚的に生きるなんていう態度は、すでに文芸作品の中で 作品化されてはいますね。以前はまあキャッチフレーズにもなったりしたんじゃな いですか。「敢えて」とか「とりあえず」とかですね。そうした態度が生に対する 真剣さを失わせ、文学の堕落を促がしている、今こそ真剣に文学にとりくむべきだ という主張も一方で生まれます。そして、この劇はふたたびメディアの中で劇化さ れ、トピックとして囲い込まれるというわけです。 続きます。
で、私の主張は「文学を積極的に放ってみる」ということでした。それは例えば ベンヤミンに倣っていえば、次のようになります。 「文学の有意義な働きは、行為と執筆が厳密に交替するときにのみ成立しうる。 この働きが、現在活動している様々な共同体に影響を与えるためには、書物と いうものが持つ、要求水準が高そうな、普遍志向のポーズよりも、一見安っぽ い形式の方が適当であって、そうした形式を、ビラ、パンフレット、雑誌記事 やポスターの形で、作り上げていくことが必要となる。この機敏な言語だけが 現在の瞬間に働きかける能力を示す。」 なんて、ブッてみましたが、おそらく似たようなことは色んな人が様々な言 い方で語っていることでしょう。だから、もう少し、これをクローズ・アップ してみます。この「行為と執筆が厳密に交替する」という部分を、少し考えて みたいのです。これは「執筆(された内容)」が単に人々の行動に影響を与え そうして変革を達成すべし、というテーゼと解釈してよいのでしょうか。また 翻訳の問題にずらすのもここでは控えます。むしろ、ここは、「行為と執筆」 を現実と観想として分離するのではなく、「執筆」もまた「行為」の一事例で あり、現実的行為の中に執筆的行為が組み込まれた生、という観点で理解した いのです。そこで、疑問がでます。執筆的行為とは何か?その行為が現実化す るとはどういう事なのか? 続きます。
私はこの段階で少し立ち止まります。さて、これを理論化し、普遍的なものと して提出するか?それとも、別の話題に振っていくか?の二者択一です。私は 後者を選びます。 ひとまず、答えを急がず、この文章の「ときにのみ」を検討してみましょう。 つまり、ある時点・瞬間において「のみ」、「文学の働きは成立しうる」ので す。しかも「しうる」であり。常に成立しうるではありません。では、この瞬 間とはいつ?であり、どこ?に成立しうるのでしょう。そう疑問がでます。 どこ?を検討しましょう。さて、この「瞬間」は自分と他人の間にあるものか、 自分と自分の間にあるものか、そこが問題です。普通に考えると、自分と自分で す。これを例えば階層化すれば「超越論的自我−自我」や「意識−無意識」など のように、説得−決断の連関としてとらえられるかもしれません。これを進めて いって納得する人もいれば、不毛として断じる人もいるでしょう。 さて、このように袋小路に至っては「中間休止」を入れ、再び思考を開始する。 先程の遊戯的な反復に酷似しています。で、これが私の文学に対する態度にどう 関係してくるのでしょう? 続きます。
いや、私よりベンヤミンがその執筆的行為が組み込まれた生を克明に描いて います。 「街道を歩いていくか、飛行機でそのうえを飛ぶかによって、街道の発揮する 力は異なる。同様に、テクストを読むか、それを書き写すかによって、テクス トの発揮する力は異なる。空を飛ぶものに見えるのは、道が風景の中を進んで いくさまだけであり、(中略)、道を歩いて行くものだけが、道の支配力を知 る。飛行者にとっては」風景に過ぎない道は、歩行者にとっては「道が号令をか けて、遠景や、見晴台や、林間の空き地や、すばらしい眺望を、道のまがりく ねりごとに呼び出すさま」を体験する。「同じように、書き写されたテキスト だけが、それに取り組む者の魂に号令をかけるのであり」「新しい眺めを」 「テクスト」(を書き写すこと)は「切り開くはずなのだ。なぜなら、読者は 夢想の自由な空をさまよう、自分の自我の動きにおとなしく従うのだが、書き 写すものは、そうした運動に対し号令をかけさせるのだから」 で、ここでの書き写しは、繰り返される問題を議論することと同じです。だ って、小説を書き写す人はいかにも非生産的で、滑稽に見えますから。 続きます。
147 :
JPB :2001/05/12(土) 20:25
さて、ではこうしたある意味不毛な試みは生産性や希望、結論や真理なる一歩へ事態を変革し うるのでしょうか?無理だ、と人は笑います。私も無理だろうなあと苦笑します。しかし、 無理でも、例えば麻雀を例にとれば、かき混ぜなくては積んだときに期待がありません。同じ 結果になるかもしれないですけれども。途中で飽きて、人はかき混ぜることから積む人と交替 しようとするでしょう。自分で積むひとになろうとするかもしれない。 執筆的行為を忘れるかどうか、選択は人それぞれですよね。 捨てられない人はベンヤミンと同じようにニヤリと言います。 「希望はある。でも、それは、ぼくらのためではない」 そして『勝手にしやがれ』の主人公のように、言うでしょう。 「最低だ」 やべー、長すぎた。みなさん、スマソ。
最後やっぱいらなかったな・・・誘惑に負けた。
149 :
吾輩は名無しである :2001/05/12(土) 22:08
カフカ 「希望? 希望ならあるとも。僕たち以外の希望ならたくさんあるとも」 違ったっけ?
>149さん へへへ。スマソ。
151 :
21 :2001/05/13(日) 07:57
>JPBさん
>>142 -147
うーむ。ちょっと荒っぽく言うと、ではベンヤミンは芸術の一回性への礼拝(行為)から
自ら芸術作品になること(執筆)へと「厳密に交替」せよと主張しているのでしょうか。
つまり芸術作品を崇めるのではなく、自らそれになる。文学で言うなら、街道を飛行機で
眺めるのではなく、それを歩いてみよと。JPBさんによれば「書き写す」というのは滑稽
だから、それはつまり「繰り返される問題を議論すること」ということになりますか。
なるほど。それは確かにスローガンとしては分かります。しかしそれは実際にはどういう
形を取るのでしょう。「文芸批評」というのがそうなのでしょうか。小説を読んで
語り合うという行為がそうなのでしょうか。しかし世の中の人はもうほとんど文学に興味を
失っています。語り合うどころか読むことさえしていません。JPBさんの言うように放って
おけばいいというのは分かります。僕もそう思うし、それしかないのだとも思います。
しかししかし、放っておいたら、文学は本当に死んじゃうんじゃないでしょうか。いや、
今度こそは本当に・・・
僕、ちょっと焦ってますかね(笑
152 :
21 :2001/05/13(日) 07:58
>偽金子光晴さん
>>138 -139
高橋源一郎の話は興味深いですね。彼は物書きとしてのそれなりの誠実さがあるから
こそ、その「逡巡」が生まれるのだと思います。実は高橋はデビュー作しか読んだ
ことがありませんが、やはりああいう小説を書いてしまった人は今は苦しいだろうと
予想はしていました。高橋は自作が権威として振舞ってしまうことを、どうしても
許容できないのでしょう。
ところで偽金子さんは
>>139 で、文学はどうしても権威的にならざるを得ないと仰って
ますが、では高橋も今はそうすべきだと思われますか?
153 :
21 :2001/05/13(日) 07:58
>1さん ずーっと、こう議論してきてふと思ったのですが、ひょっとしたら文学はまだ始まって すらいないのかも知れませんね。明治以来続いてきた文学のひとつの形が終焉し、 今は新しい文学への産みの苦しみの時期であると。 楽観的な考えですが・・・
154 :
JPB :2001/05/13(日) 09:01
>21さん まあ、あれは戯れ言ですから(^^。 何が言いたかったかというと、まあ、文学を読んだり書いたりするもの 常に白眼視されてきた。今もそれは、形を変えて残ってるけど、がんばれ。 ということなのかな?ベンヤミン云々は、オハズカシイ。あれは読み書き との距離をゼロに近似させていこうとのことなんじゃないですか。書くよ うに読んでいく、読むように書いていく。そうすることで、風景の変容を 自覚する。その個人的変容からまず始める、と。 日本近代史の中で文学を読んだり書いたりすることが、比較的良かった 時代っていつかって考えると、戦後から1970年代くらいまでなんじゃな いかと。これはネタ振りですが、文学をいつの時代と同じ状況にすれば いいのでしょうか?これは、まさに技術がまだ印刷と映画しかなかった 時代なら、当然文学がドミナントになるわけですが、文学が肩代わりし てた領域が減ってきたから読者層の低下は必然では、と楽観的なわけです。 そうなると教育問題にも目をむけていく必要がある・・・? で、そうですね。いや、自分で出版社を作って、やってみるというのも 実際的な活動ですかね。しかし、出版、印刷、流通、販売のシステムはか なり分業的で、なおかつ料金全国一律の再販制度がある。で、出版社の財 源は広告と雑誌でしょう。で、誤解があるかもしれないけど、引き受けの 制度は確か、必然的に出版社がカツカツになってくような感じだったような。 返本を先に予測した形での支払で、「少しずつ足りない」という編集社の状態。 う〜ん。
おっと、「低下」は「縮小」で、「編集社」は「出版社」ですね。
156 :
1 :2001/05/13(日) 10:39
>21さん そうですね。今なにかを肯定的に語るのは非常に難しい気がします。文学というジャンルについては特に。 元々その認識は厳しく持っていたつもりでしたが、みなさんの具体的な話を聞いてくと、やはりまだまだ甘かったようです。 >JPBさん 旺盛な活動にはほんとうに頭がさがります。またレスしますね。 >偽金子光晴さん JPBさんがすでに指摘してくれているようですが、制度と個人の関係がまた出てくるのは具体的にはこういうことからではないでしょうか? >異議申し立てすること自体が、すでに制度の一部として取り込まれてしまう。 私はこれを制度に自分たちの意見を付け加えるチャンス、としてみようとしているわけです。いわば参加、として捉える。もちろんその参加自体、制度のうちにあるのも承知の上で、です。偽金子光晴さんはこれを「取り込まれる」と捉える。 なんというか、同じ現象を別の側面から見ている、といえばよいのでしょうか。 私は「個人」に重点をおき、偽金子さんは「制度」に重点をおいてそれを捉えている、とどうもそんな気がします。制度と個人の問題が繰り返し議論されるのは、その辺りにも原因があるのではないでしょうか? 私は別に資本主義にせよ、国家システムにせよ、それ自体が悪いものだとは思っていません。制度のうちでしか人は生きることができないし、元々制度というのは人の生を豊かにするためにある、とそのように思っていますので。 でも・・・ひょっとしたら資本主義、というシステムについてももう少し具体的に考えてみる必要があるのかもしれませんね。むう・・・
157 :
JPB :2001/05/13(日) 11:01
>1さん 私も国家に関しては「参加」の線があるとも思います。実は私の視点は 国家寄りなのかも(^^。具体的なのはいいですね。 しかし、1さんがこうした事柄に興味をもった背景(あるスレ)ってなん だろう?って思います。
158 :
偽金子光晴 :2001/05/13(日) 15:08
>21さん。
>>152 「文学はどうしても権威的にならざるを得ないと仰って
ますが、では高橋も今はそうすべきだと思われますか? 」にご返事します。
高橋源一郎と奥泉光が、今年の「群像」2月号で対談していて、ここで高橋氏が
こんなことを言っています。
「驚くべきなのは、みんなが書きたがっているということです。新人賞への応募も多い。それを
最も象徴的に表わしているのが今はインターネットへの書き込みです。書くことの垣根が低く
なってきている。(中略)インターネットのすごいところは、書く場所も提供するが同時に読者も
提供してくるわけですね。要するに表現の場を。しかも批評が入ってこない。批評が入ってこない
表現の場が無間に提供されている。だからみんな書くわけです。
書くことの楽しみを無批判的に、批評なくして味わってしまうと、読むことに対する欲望が薄れて
くるのではないでしょうか。もちろんこれは一般的に読書能力が落ちていくこととダイレクトにリンク
しているとは思わないけれども、読む欲望にボディブローのように効いてくると思うのです。
よくわからないものを読むより、書くことの民主主義が広がってきた。その中で、読むこと、あるいは
小説家としてのある種の特権性を既得権のように守ろうとしてしまうとしたら、それも恐ろしい。」
私がこれまでこのスレで言ってきたことも、おおむねこの発言からヒントを得ているわけですが、
私がイラつくのは、最後の「小説家の特権性を守ろうとするのは、恐ろしい」という部分です。
何故恐ろしいのか? 高橋源一郎は全共闘でした。「政治」がいやで「文学」を始めたら、「文学」
も「政治」みたいになっちゃう、というので悩んでいる人です。自分は政治的でありたくない、それくらいなら
「間違える」方がいい、と思っている人です。
しかしそれは、「自分の書くものは読まれて欲しいが、自分は特権的でありたくない」と言っているのと
同じことです。それは、控え目に言ってもゼイタク、はっきり言えば欺瞞なので、僕はイラついてしまうのです。
私は、高橋源一郎に限らず、文学は、その権威性、特権性を、正直に認める必要があると思っています。
文学をやる人間、文学者である人間というのは、資本主義下の一人ファシズムと言われても、まあしょーがない、
くらいの気持ちでいないと、中途半端なウソツキにしか見えなくなってしまうと思います。
そしてそういういやーなものを背負って、初めて何事かが始められるでしょう。「新しい文学」の何事かが。
私は「新しい文学」は、始められなければならない、始まって欲しい、と思っています。
それは、私のイメージでは、今の文学の言葉ではない、新しい言葉で語られる、リアルな文学です。
ところが、こういっている私自身、そんな新しい言葉に具体的なイメージは、全然浮かびません。
そういう意味で、21さんが
>>153 で仰っている「文学はまだ始まっていないのかもしれない」という言葉には、
深い共感を覚えました。このスレで、おぼろげながらでも、「新しい文学」のイメージが浮かべばいい、と
実は期待しているのです。(アオい、と言われても結構です)
>>158 そういう控えめな源ちゃんに対して奥泉光が、圧倒的なテクニックで彼ら(ネット小説)と差をつけようか、って発言してたのは好対照だったように思えるね。
160 :
fishman :2001/05/13(日) 19:13
>>158 、159
僕は高橋さんの拘泥を圧倒的に支持します。
例えば、奥泉光が圧倒的なテクニックで彼ら(ネット小説)と差をつけようかと言うとき、
そこにはテクニックによるヒエラルキーが厳然と成立し得るんだという安心があるように思う。
源ちゃんはそのようなヒエラルキーを良く知っているし、肯定もしているけど、
「資本主義下」ではそんなもの何だって言うんだいという別の視点にもとらわれてる。
これは欺瞞と言うよりはある種の誠実さなんじゃないだろうか?
その誠実さが何を生み出すかと言えば、おそらくは何も生み出さない。
しかし、ひどく観念的な言い方になってしまうけれど、その二つに引き裂かれたところにしか
資本主義下の文学なるものは成立しないように思える。
161 :
脱線 :2001/05/13(日) 19:45
プロの作家がアマの作家(?)に対して批評性や特権性を標榜する事自体おかしい。 プロの画家が小学生の落書きや精神病患者のスケッチに対してデッサンの過誤を指摘するようなものだ。 観客の興味や消費者の志向がそちらに向かい、自らの生存基盤が脅かされるからといって、 そんな事を主張するのはナンセンス。 ま、ネット小説にそれ程の集約力があるとは思えないのだが。
162 :
大塚英志 :2001/05/13(日) 21:05
>>158 別に逃げているわけじゃないんだけれども、正直に言っておきたい。自分が八〇年代に身につけてしまった言葉と、自分が実際に現状で語っていることの、つまり持っている辞書と語っていきたいことの主題の乖離を特に文芸批評を書くときにぼくは強く感じて自分でちょっとうんざりしている。でも書くとああなってしまう。
2001 群像5月号 加藤典洋との対談で。
163 :
JPB :2001/05/13(日) 22:12
164 :
遅れてきた75 :2001/05/14(月) 01:36
(このスレもそろそろ終わりに近いようですね・・・) ちょっと見ないうちにこんなにスレが延びているんですね。おどろきました。 リアルタイムで議論に参加していないので何かよく分からない議論も中にはありましたが。 さて話を蒸し返すようで申し訳ないんですが、 私の関心事は以前も書きました「文学」と「制度」の問題なん ですが、ちょうど上で文学の「権威」(と作家の技術)の問題が 取り上げられていましたので「権威」が「制度」を源泉とする 魔術的な力であることを認識しつつ、JPBさんの議論に沿った形で 皆さんに伺いたいんです。つまり「文学は芸術として擁護されるべきか?」 ですね。これは他の多くの人の持っている問題と軌を一にするものだと 思われます。このスレでも何度も議題になっていますが、まだ 明確な結論は出ていないように思われます...(あ、他に独立した スレッドが立っているようですが。)
165 :
遅れてきた75 :2001/05/14(月) 01:36
ところでJPBさんは
>>123 でこう言っています。
>いやわたしも作品は芸術となりうるんだという「矜持」は持たないと
>駄目かな、と思うので・・・。
ということは「文学」の持つ権威というものはやはり作家の持つ
文章技術および構成力によるみずからの文章の“差異化”から
出発するんでしょうかね?その“差異”から礼拝に値する権威が
生まれてくると。しかしそこに「制度」というものが入り込んでくる。
これは文学が資本主義システムに囲まれていること、システムが
なければ文学が生きていけないこと、から必然的に帰結してくる結果です。
その結果システムは作家の持つ権威を硬直化させ、固定化させてしまう方向に働く。
しかしそうすると現代社会のもう一方のシステムである「民主主義」
と齟齬をきたしかねなくなってくる。高橋源一郎の「官能小説家」の
揺れ具合はその民主主義成立の過渡期に舞台を借りつつ、固有名の
持つ権威を脱=構築させながら、再=神話化するというノスタルジックで
作家の“矜持”を透かしみせてしまうような中途半端な甘さにあるのかもしれませんね。
しかし以上のようなノスタルジーは文学を「芸術」と見て諦めない
人々には共通のものだと思います...
さて皆さんは「資本主義」とならんでもう一つの現代社会の
車輪の一つ、「民主主義」下の文学についてはどう思いになるでしょうか...
もともと「文芸」というのはそもそもその出自からして有閑階級の“娯楽”
だったのではないでしょうか・・・(以上、ネタ振り)
166 :
偽金子光晴 :2001/05/14(月) 03:43
(徹夜続きの今日この頃、頭を活性化させてくれるスレに感謝しております。)
さて、遅れてきた75さんの「文学は芸術として擁護されるべきか?」 という問題ですが、
「擁護」というのがどういうことを仰っているのか、ちょっと判らない所もあります。
たとえば文化庁が文楽や能狂言を「庇護」する、みたいなことをイメージしてしまいますが、
恐らくそういう意味ではないでしょう。するとこれは、「愛」のことでしょうか?
煽っているわけではありません。
>>165 は、「官能小説家」の読者の一人として、とても
興味深く読みました。(「民主主義」は、確かに、あの小説の大切なキー・ワードでもあると思います。)
文学と民主主義、ということになると、話は
>>160 さんともつながってくると思われますが、
fishmanさんのように、民主主義を意識することの「引き裂かれ」を「誠実」と取ることもできるでしょう。
けれども私は、それが「何も生み出さない」以上、やはり評価することはできないと思います。
端的に言って、「引き裂かれている」高橋源一郎の「官能小説家」や「君が代は千代に八千代に」と、
「ヒエラルヒー肯定」奥泉光の「グランド・ミステリー」と、どっち取る?って言われたら、
か・な・り迷うけど、やっぱり「グランド・ミステリー」の方が、旅のお供や眠れない夜にはふさわしいんじゃ
ないでしょうか。保守反動ですか?
文学と民主主義に、ただ引き裂かれて逡巡するだけであれば、高橋源一郎は保守反動にかなわないと思う。
それは結局、「新しい文学」ではないからです。引き裂かれて、しかも「何かを生み出さないと」いけないと思う。
>166 うんと、ちょっと良くわからないのが、そのかなうーかなわないって所なんです。 何も生み出さないというところに焦点を当てるなら、それは高橋に限ったことではなく、 奥泉も同じなわけで、そこに優劣の評価軸は成立しないんじゃないかと思うんです。 ただ単に異なる2本の線があると言うだけではないでしょうか? 高橋・奥泉がここで特権的に語られる価値のある作家かどうかにはちょっと 疑問が残るので、sageておきます。
>書誌学的な知識を小説にする技術 に秀でてるという点で、奥泉も源ちゃんも、ここで語られる価値のある作家だと思うよ。でもさげ
169 :
モー娘。らぶ。。。 :2001/05/14(月) 20:27
最近、2ちゃんにご無沙汰だったけど、こんなおもしろいスレが立っているとは・・・。2ちゃん侮りがたし。 で、リアルタイムで議論に参加できなかった悔しさをこめて、多少の問題提起を。 「資本主義下の文学」ということでいうと、日本の文学はもちろん資本主義下にありますが、それと同時に再販制度という独特の制度の下にあることも議論に織り込んでもらえればな、と思います。私はさる貧乏出版社に籍を置いているのでリアルに感じていますが、文学に限らず重厚長大な書物は再販制度の下に守られているという現実があり、さらに再販制度の維持が困難かもしれないという状況が到来しつつあるんです。これが一点。
170 :
モー娘。らぶ。。。 :2001/05/14(月) 20:28
それと、「売れる」「売れない」問題でおれが想起してしまうはかつての転向問題です。転向という言葉は元々プロレタリア文学に向かうことを指したということですけど、小林秀雄が喝破したようにプロレタリア文学作品も一つの商品であって、プロレタリア文学が圧倒的に「売れる」という状況があったことがプロレタリア文学への「転向」を促す一つの契機になったのではないかと個人的には思っています。昭和初期にはプロレタリア文学からの再転向が起こりますが、これもプロレタリア文学が「売れない」状況に陥ったことがその背景にあるんじゃないかと思うんですよ。 この転向問題と直接関わりがあるとは思えませんけれども、かつて『文学界』(だったかな? たしか5、6年前)にて行われた後藤明生、古井由吉たちによる鼎談の中の古井発言が引っかかります。「資本主義下の文学」という大テーマではなかったと記憶してますけど、古井はそこで「中上以降の作家は売れることの重圧を常に感じているはずだ」というような発言をしていたはずです(うろ覚えなんで家に帰ってから確認します)。古井発言は明らかに「売れる」ことを意識しつつも結局あまり「売れなかった」中上を念頭においていると思いますが、中上には「売れない」ことに対するあせりがあったんじゃないかという気がします。それが『地の果て 至上の時』以降の迷走の一因にもなっているんじゃないかというのはおれの仮説だけど、「売れる」ことに対する緊張感が中上にはあったと感じます。 こういう観点はどうでしょうか? これが二点目。
171 :
JPB :2001/05/14(月) 22:12
>75さん いや〜手厳しい。 >ということは「文学」の持つ権威というものはやはり作家の持つ >文章技術および構成力によるみずからの文章の“差異化”から >出発するんでしょうかね? これはまずその通りなのではないかと思います。例えば、奥泉でいえば 彼がおそらく論文執筆過程で形成した、論文叙述のディシプリン。これを 崩す形で、文体の差異化を行っている、と(例えば『石の来歴』)。で、 よく言われることですが、「民主主義」は誰しも読むことができ、書く ことが可能であるとの幻想を抱かせた。しかし、そのことが奥泉や高橋 がもってる文章技術の質の違いを見抜けなくさせる。その部分を、二人と も実は分かっている。それがあのような発言になっている、と。 そういう意味で、文章が、あるいは言説がといってもいいけれども、そ れが属するジャンルに対する意識を「民主主義」下の読者は見えなくな っているし、だからこそそこに「参加」の糸口もあるという相反した状況に あると思うんです。だからこそ、ベンヤミンを引いてImplyしたかった ことは、書くように読み、読むように書くという作家−読者のReflexiveな 関係の自覚、これしかないと思ったのです。少なくとも変革主体として読者 がありうるには。私はあのように言いましたが、資本主義−国民国家の二重 性を文学の前提条件にすると認識している以上、文学は芸術に帰結しません よね。それこそ偽金子さんがいうように固有名のシステムのみがそれを 保証し、75さんもおっしゃるように文学者の系列そのものを再=神話化すら してしまうわけなんだと思います。
172 :
JPB :2001/05/14(月) 22:43
で、私は「文学は芸術に帰結しない」と微妙な言い方をしました。これは なぜか。確かに、一回性の神話や希少価値としての芸術はありえないかもしれ ない。しかし、また、個人と結びついた変革動因としての「芸術」のあり方は 可能かもしれない、と。 私は歴史学畑なのでこういう言い方になってしまいますが、ここで論じられて いる主題は、文学を歴史の変動要因として位置づけることができるか、と 読み替えてもいいかと思われます。私は、その文学の前提としての国家制度を くどくど最初に言いましたが、制度が生み出したSide-Effect(副作用)として の文学と見ることで、新しい文学なるものを模索できるかなと思ったのです。 ここで論じられていることは、例えばマジレススレの「渡し舟」の比喩を使って 考えるならば、芸を披露する船頭さんに向かって、あっちへいけとか、 もっと大きい河にうつりなさいよ、とアドバイスするようなことだし、 船がまだ通ってもいないところに航跡を見出そうとするような立場なのだ と思います。ならばこそ、当然名指しもできない。なぜならまだそこにないの だから。 80年代の文学はある意味、そうした副作用をとにかく「待ち望む」という 態度で生産されていた。しかし、ここに来て、不況やグローバリゼーション という安定した国民国家の枠組みが動揺するに至って、「先取り」が強く志向 されているという姿勢が見えるのです。方法として、過去にそのオルタナティブ を探るもの、別ジャンルとのコラボレートで何かを生み出そうとするもの 居直るもの、その中で高橋源一郎はFishmanさんの言うように「引き裂かれ」 の中で消尽しようという気配も見える、と。 ひとまずは、文学をとりまく「再販制度」のような実際の制度の問題が、 ある。そして、二次的な読者−作家の関係を規定するような不可視の「制度」 がある。これらは、かなり高度に分節化されているので、下手に手を出すと 当然取り込まれる。ならば、1さんのようにまず、文学に対する認識主体を 考えてみようとするのが「先取り」の方法としては順当だ、と思いました。 一応、議論の循環を避けようと、変動条件をまずおさえることを私は示唆 したのです。なんか、言い訳めいてきましたが、ともかく。
173 :
1 :2001/05/14(月) 23:55
>>171 うーん。勉強になるな・・・
>偽金子さんがいうように固有名のシステムのみがそれを保証し、75さんもおっしゃるように文学者の系列そのものを再=神話化すらしてしまう
これを前提にして考えると「権威になっちまう文学」に対する戦略の一つは、まさしく「文章技術の質の違い」でもってその神話性そのものを打ち抜く、ということになるのではないでしょうか?
>モー娘。らぶ。。。さん
後期中上に関しては私も同じことを感じていました。みなさんがどう思っているのか、一ファンとして私も興味あります。
174 :
続き :2001/05/15(火) 00:00
「文章技術の質の違い」でもってその神話性を打ち抜く、というのはちょっと分かりにくいですよね。 分かりやすく言うと、漱石の神話を打ち抜くのは漱石の書いたものそれ自体だ、って程度の意味です。 よく考えると当たり前のことですね。失礼しました。
175 :
偽金子光晴 :2001/05/15(火) 00:32
えーJPBさんの
>>171 -172が面白すぎるので、何とかそこから発展・進展させたいと
思っておりますが、多分敵わないと思います。
まず、fishmanさんの
>>167 「何も生み出さないというところに焦点を当てるなら、それは高橋に限ったことではなく、
奥泉も同じなわけで、そこに優劣の評価軸は成立しないんじゃないかと思うんです。」
というのは、僕はそうは思わないんです。というのは、高橋源一郎は、「文学なんかこわくない」で、
こう言っているからです。(朝日文庫版160頁)
「小説ッテイウノハネ、君、以前アッタモノニ何カ一ツ付ケ加エテ制作サレタモノノコトヲイウノサ。」
つまり、高橋源一郎は、小説によって「何かを生み出そうとしている」わけで、つまり、このスレでいう
「新しい文学」をめざしている作家だからです。
高橋源一郎と奥泉光、というのは、「間違えてもいいから新しい文学を作りたい」という文学の傾向と、
「文章技術および構成力によるみずからの文章の”差異化”」を目指す文学の傾向を、
うまい具合に代表しているんじゃないかと思います。ぶっちゃけていうと、奥泉は何も生み出さなくても
いいけれど、高橋源一郎は、そうはいかないでしょ、ということを僕は言いたかったわけです。
176 :
偽金子光晴 :2001/05/15(火) 00:49
さて、JPBさんの
「文学を歴史の変動要因として位置づけることができるか」
という問題提起ですが(ったってJPBさんの話はもっと豊かだけれど、今夜は
とりあえずこれにレスします)、私が思うに、まさにこの点こそ、文学を活性化させ、
同時に再=神話化から軽やかに逸脱させる、最重要ポイントではないかと思います。
そりゃーそうですよね。この点では1さんが仰る、(
>>156 )「制度への異議申し立てとしての
参加」につながるもの、と私は理解しますが、文学が、歴史の変動要因として読まれる
(あるいは、書かれる)ことがあまりにもシカトされてしまったために、文学はオタッキーな
趣味の問題に成り下がってしまったのではないでしょうか。(成り下がった、と私は思っています。)
この原因は、まさに日本で八〇年代くらいに流行した、そして私なんかが大いに
カブレた、あの「ポストモダニズム」ちうやつのせいなんでしょう。今、実はイーグルトンの
「イデオロギーとは何か」を読みつつ、反省をしている所なのです。
ただ、JPBさんにお尋ねしたいのですが、歴史の変動要因としての文学、というのは、
文学者が、作家が、作ろうと思ってできるものなのでしょうか?文学を歴史の変動要因として
捉えるのは、むしろ僕たち読者の役割ではないかと思われますが、その点はいかがですか?
177 :
75 :2001/05/15(火) 01:19
(非常にタイミング悪いがこの時点でコピペしておく)
>>166 (偽金子光晴さん)
うーん。おっしゃる事の半分ぐらいは分かりますが、あとの半分ぐらいは分かりません。
高橋源一郎氏は自身がマスコミにも色気を示しているし、現代の大衆的な
サブカルチャーにも相当感度のいい感受性を備えている人のようなので、
文学の『権威付け』のようなこととは決定的に「引き裂かれた」立場の
人であることは間違いないと思います。一方、奥泉氏もその作風は“純文学”風
とは到底言えないもの(?)のようであるし...相当頭のいい人物で
あることは間違いなさそうですが(ノヴァーリスで論文書いたの?)...
178 :
75 :2001/05/15(火) 01:20
(上の続き) さて、私はあなたが言う「保守反動」によって何か新しいものが生まれて くるようには到底信じられません。高橋氏は確かに「引き裂かれて」はいるが、 「何も産み出していない」わけではない。作品を生産している。確かに 今となっては古臭い80年代的なポストモダン的イロニーに彩られて いるとしても、文学を取り巻く状況はあの頃に比べて端的に何か変わったんでしょうか? 私が恐ろしく感じられるのは、実際には何も変わっていないのに、 強引に何かを変えることです。誤解されるのを「敢えて」承知で言えば 変化を捏造することです。あなたが「新しい文学」という言葉で言おう としていることの内実は一体何なのでしょうか? (ここらへんは現在の小泉内閣が訴える“変革”の内実に対する?でもある。 だがあえて言えば政治の世界は文化に比べて10年は遅れているので、 今ごろ変化が訪れたのだと解釈できないわけではない) おそらく「ポストモダン」というのも、あの当時にしてみれば 我々にとってそれなりに“リアル”な実感があったのだと思います... だからこそ当時実感としてそれが「新しい」何かであると認識された。 では現在において、単なる「先祖返り」でなければ何が“リアル”なのか? むしろ“リアル”という観念そのものがボロボロに崩れてきている 状況ではないのか?さてそういうわけで私は文学の将来について は(今のところ)否定的な意見しか持ち得ません。だがそれへの 一つの処方箋として、JPBさん他が「文学」の外的条件の変更では なく、それへの「認識主体」の変化を持ち出してきているように見えますが 再度ベンヤミンの時代のような大きな技術革新が起こっていればともかく、 作品の生産者と享受者の間でなにかの意識変革は起こりうるのでしょうか?... “インターネット”は書くことの平等化をさらに改悪することはあっても 新しい“何か”を作リ出すにはあまりにもツールが安物のような気がしてならない・・・ (以上、暴言放言あらかじめ失礼!)
参戦者、大募集!!(藁
180 :
偽金子光晴 :2001/05/15(火) 14:21
>75さん。
>>178 で、とりあえずいっこだけ、私の言い足りなかった分を補わせてください。
>「保守反動」によって何か新しいものが生まれて くるようには到底信じられません。
とありますが、私は奥泉的なクラシカルな小説作法(?、まっいいや)によって、新しい文学が
生まれるとは思っていないのです。高橋源一郎のような、新しい何事かを始めようとして果たさない
中途半端さは、結局奥泉タイプの堅固な「保守反動」には「かなわない」ということを言いたかったのでした。
新しい文学をやるなら、徹底的にやらないと、19世紀市民小説の強固な壁はぶち破れやしないよ、という
ことです。とりあえず、これだけ。
181 :
吾輩は名無しである :2001/05/15(火) 18:07
書いてて飽きません。僕は怠い文を読むのは飽きたけど。
えーと、振り逃げみたいになってしまうのは嫌なので、レスします。 JPBさんが『消尽』などという素敵な言葉を引っ張り出してくれたので、 それに絡めて。。 僕が何より感じるのは偽金子光晴さんのsomething newに対するちょっとした疑念です。 あまり粘着質に源ちゃんにこだわるのは本意ではないのですが、例えば 「小説ッテイウノハネ、君、以前アッタモノニ何カ一ツ付ケ加エテ制作サレタモノノコトヲイウノサ。」 この引用がカタカナで書かれていることの意味は何でしょうか? それは「これは裏声なんだよ」というキャプションかもしれないし、「これは裏声の裏声なんだよ」 というキャプションかもしれない。そのどちらかを決定づけることはとても難しいことなのだけど、 少なくともあなたが直線的に引用するような、なだらかな地声ではないと思うのです。 ここ最近の高橋源一郎を支えているのはむしろ、その新しさに対する諦念ではないでしょうか? 新しいものなどない。とすれば出来ることは徹底的に形式を消費すること。 であるからこそ、彼は量産に走れた。そんな気がするのですが如何でしょうか? ひょっとしてあなたはバルトがソンタグにかけた言葉というのを念頭に置いていますか? 僕もその言葉はとても素敵なものだと思うし、期待もしたいのですが、 今も高橋がそのような新しさに目を向けているとは思えないのです。 もっとも、だからといって高橋がベケットの地点にたどり着ける気も到底しないのですが。。
議論が「現時点において、いかに読み、いかに書くか」という問題に収斂してきましたね。
その選択肢として、1さんは《まさしく「文章技術の質の違い」でもってその神話性そのも
のを打ち抜く
>>173 》という視点を提出しておられます。私の読みではこれは偽金子さんも同意し
ている方法で、それは《「文章技術および構成力によるみずからの文章の”差異化”」を目
指す
>>175 》に見られます。これらはいずれも書き手の言葉の強度によって、言葉が形成する
見通しのよい像に亀裂を走らせる、ということだと理解します。
しかし、敢えて言います。これらは果たして80年代において何度も繰り返されたスローガン
ではなかったか、と。そうして待ち望まれたものが90年代において到来しえたか、と。これに
関しては75さんのような理解にむしろ私はくみします。しかし、1さんも偽金子さんも、にも
関わらず、そこにさらなる何かを加えようとしている姿勢は「政治的なるものの導入」や「新しい
言葉で語られる、リアルな文学」の導入を企図している点でまた、私はその姿勢にも共感するので
す。
続きます。
184 :
JPB :2001/05/15(火) 23:16
簡単ですが、私の考えを。 まず、文学ジャンル内では、様々な議論が起ってくれることを望みます。やはり、 一人一人が個別に再生産するよりは、固定した党派性ではない、流動的な集合−分散 を繰り返すConflictが起ることが望ましいかと。ただ、生活がありますからね。別に 仕事をもった作家が、別にそれでメシくわなくてもいいやくらいの勢いでかきまわして くれれば、と思っています。「政治的なもの」は、内容面ではなく、そういう部分で 発揮されて欲しいですね。ここで私の言う「政治」は、なんども言うように、遷移する 集合の紛争です。カオスでもない。 で、内容面では、これは人それぞれですが、私は人がながす部分を克明に描くような 「リアル」を望みます。そうした執着は、悲劇ではなく喜劇の方向で。 読者においては、ベンヤミンに託した部分にほぼ示したつもりです。 ごめんなさい。とりあえずは、その程度のみです。
ごめんなさい。上の
>>183 、
>>184 は余裕がないときに書いてるせいか
おざなりでした。ちょっと、保留させてください。
nandakamawarininitayounasuregatakusandekiterukegasurukedo・・・
187 :
偽金子光晴 :2001/05/16(水) 01:16
>JPBさんが
>>183 で言及してくださった、私の考えは、ちょっと違います。
どうも奥泉光を出したのが良くなかったのかな。私が言いたいのは、
一方に19世紀市民小説の系譜が、バルザックとかから奥泉に至るまで連綿と続いている。
もう一方で、新しい文学をめざす動きが、ジョイス、ベケットから高橋源一郎まで続いている。
新しい文学は、常に試行されなければならない。
でも高橋みたいな中途半端じゃ、新しい文学の資格がない。
でも私は新しい文学が欲しいんだ。
そういうことです。
これはいかにも幼稚な意見だと我ながら思いますが、同時にfishmanさんの
>>182 に対する
回答でもあります。
あの引用がカタカナであることの意味は、仰るとおり、それが「裏声」だからだと思います。
しかし、まさにその「裏声性」こそ、私が高橋源一郎に対してイラつく原因なのです。
まさにご指摘のとおり、高橋氏は「新しいものに対する諦念」を持っているのでしょう。
とすれば、私は高橋氏に言いたい。「じゃ、やめろよ」と。
「19世紀市民小説を書けばいいじゃん。新しい小説ができないんだったらさあ」と。
新しい文学は、そんなへっぴり腰じゃ、できないよ。
えー。私がけっしてfishmanさんに対立しているとか、そういうことではないのはご理解いただきたいです。
fishmanさんの高橋源一郎が量産に至る分析は、全面的に同意します。
あと、バルトはソンタグに、なんて言ったか、教えてくだされ。
予想その1:「君が偉いのは、もうわかったから」
予想その2:「僕もウディ・アレンの映画に出たいんだけど、何とかならない?」
188 :
JPB :2001/05/16(水) 19:23
>偽金子光晴さん 正面から考えてみたものの、当然ながら具体的な考えは思い浮かびませんでした。いくつか 考えを再開する中で、拾って頂ければと思います。それが、文学のことであるとは言えないか もしれませんが。 まず、75さんの言われる「再度ベンヤミンの時代のような大きな技術革新が起こっていれ ばともかく、作品の生産者と享受者の間でなにかの意識変革は起こりうるのでしょうか?」と いう痛い問いを考えたいと思います。今、少なくとも私を襲っている変化とは、技術革新では なく、存在条件の変化ではないか、と考えます。それは、国=家という比喩から人質という比喩 への移行ではないかと考えます。国と自分の相互関係の臨界がほぼ一致していた頃というのは 国家のサブシステムである会社を通じて自己のライフコースの保証を信頼することもできました。 しかし、貯金しても儲からず、年金は保証されず、失業すら恒常的になり、その対策としてユーロ を買ってみたり、アメリカの相場に参入してみたりという形でネットを利用するようになり、 といった現状は、端的にライフコースの直線性を分断し、ほどよい遠近法を歪ませる結果になって いるような気がしています。 軽微な形であるとはいえ、二国に税金を払い、二カ国語を使うという状況は、その束縛というか 生存条件が<国=家の子>から<国=家の人質>としての存在へと移行しつつあると思います。今までは 楽観的であるとは思いますが、そうした存在条件の移行は、作家人生という一貫性に亀裂を走らせる のではないか、と。つまり、脱サラして作家というルートは、転職という行為にほぼ等しいと思うの ですが、文学の権威の喪失はこうした転職に何の保証もないことを顕在化させるのではないか、と。 しかし、にも関わらず、作品を書こうという強度において、それが生み出す言葉が何かを変えれば幸い かな、と思うのです。だから、積極的に放っておこう、と。 続きます。
189 :
JPB :2001/05/16(水) 19:52
>>188 文章ボロボロですね。ご寛容のほど。
いや、もともと作家には何の保証もないわけですが、それが必ずしも共通見解になって
いるわけではないですね。作家としては、権威こそが保険であり存在基盤なのですから
下手に顕在化しても困る。講演料が減らされると困るわけです。
ま、それはともかく、75さんの危惧、つまり「私が恐ろしく感じられるのは、
実際には何も変わっていないのに、強引に何かを変えることです。誤解されるの
を「敢えて」承知で言えば変化を捏造することです」という質問は、重大に受け
取るものであるし、現状を認識するときにはそれを織り込んでおくべき質のもの
だと思うのです。偽金子さんいかがでしょう。
私が認識主体に限定するのも、できるだけ私自身の状況を普遍化しようとすることを
避け、にも関わらず、自分の位置をある文脈の中で生かそうとする「政治的なもの」の
実践である、と敢えていっておきます。「政治的なもの」とは、現代の文脈では
主人の打倒でも、主人との同一化でもなく、主人不在の人質状況の中での発話の作法、
であると思うのです。その中では、不安定さや流動性が限定的な条件としてあり、
その条件の下での発話=生を遂行するには、いかなる言葉が必要となるのか、それが
私自身の新たな言葉の予見だといえるでしょう。
ひとまずは。
190 :
JPB :2001/05/16(水) 20:39
最後に「歴史の変動要因としての文学、というのは、文学者が、作家が、作ろうと思って できるものなのでしょうか?文学を歴史の変動要因として捉えるのは、むしろ僕たち読者 の役割ではないかと思われますが、その点はいかがですか」という疑問に答えなくてはな りません。これが、難しい。 端的に「がんばれ」と言い残すことも出来るのですが、それは避けます。 文学がシステムのシフターとして定位できるかという質問ならば、今まで議論されてきた ように、難しいといわねばなりません。また、ベンヤミンが夢想するように、動員の鍵 として設置するのも、私見としては難しいのではないでしょうか。 文学に私が夢想するのは、先に述べましたように「副作用」です。国家はこの副作用性を 実体的制度で隠蔽したり、利用を通じて操作可能にしたり、ということを歴史的にデフォ ルメしてますが、やってきました。人間と病と薬の関係を想起してみれば理解が早いです。 つまり、文学には二つ(以上)のベクトルが常に内蔵されているということです。 できれば、読者はドミナントなベクトルの脇に追いやられた別のベクトルに視線を馳せ その視点を現実の中に持ちこむことで《歴史》の現場を汚染させる役割を担えるだろう、と。 Dirt/Pollutionの「厳密な交替」を生きることで、人質同士の共犯性を指摘できれば まあ、よいだろう、と。そして、集合−解散の諸条件を帰属に抗うように刻みつつ 未来に手渡す、と。 いや、このような言い方しかできませんなあ。まったく具体性もない。スローガン でしかない。いやはや。現実にはへらへら生きることしかできないですからねえ。 できれば偽金子さんの考えも伺いたいです。 しかし、これは自己満足であると同時に、将来において孕まれる副作用の芽であり、 それによって自分は再開することができる、そのような考えを刻みたいものですね。 では。
「つまり」じゃねーや、「だがしかし」とか「にも関わらず」だな。 スマソ。本調子じゃないです。
>>180 >予想その2:「僕もウディ・アレンの映画に出たいんだけど、何とかならない?」
ここ笑いました。実は僕の記憶も曖昧なんだけど、ソンタグのきまじめさに対して、
きっと今君がひどく考えているそのことを、まじめさとは全く異なる軽やかさで
解消する者が現れるだろう。それこそ正に新しさだと。。新しさは君の肩に
軽く手を掛け「君は随分まじめだねぇ」と静かに笑うだろう。
確かこんな具合だったと思います。曖昧でごめんなさい。
僕も確かに新しさに対する期待のようなものは持っています。
ただ、それはこれまでの文脈から全く切断された奇蹟のような
出来事ではなくて、本当にちょっとした違いなのじゃないかなぁとも思うわけです。
ちょっとした遠近法の揺れがこれまで全く見えなかったものを
かいま見せてくれるように。
個人的には文学に残っている問題というのはどうやって幕を引くかということ
だけのような気がします。鮮やかに引くのも一興、ぐずぐずに崩れていくのも一興。
ただぼけっと見守るよりは、鮮やかな徒花になりたいものだと思ったりします。。
軟弱レスですみません。
193 :
吾輩は名無しである :2001/05/16(水) 21:09
>>190 すっごくいやな言い方すると、挙げられた文学の効用は
古典の読み替えで事足りないかなぁ?いや、すごく同感はしてるんですよ。
194 :
JPB :2001/05/16(水) 21:51
>>193 さん
いえいえ、あんな抽象的な文章読んで頂けただけで嬉しいです。
私も、その実践についての範囲は特にどれということもないのです。
そこはそれ、読み替えをそのまま出すもよし、読み替えそのものを
作品化するもよし、ほら、古典というと嫌がる人もいるじゃないです
か。そこには同時代的にリアルな言葉を、と、それこそ「政治的に」
やる、と。そんな感じですね。
まあ、私が書くわけじゃないですから、私は気楽なものです。はは・・・
ここで格好よくアルチュセールの引用をしたいとこなんだが、あいにく手元に本がない。
196 :
吾輩は名無しである :2001/05/17(木) 11:21
ところで再販制度の話はどうなった?
197 :
名無しさんの主張 :2001/05/17(木) 11:38
渡部直巳(だったかな?)が再販制度撤廃によってリストラされるのは黒井千次と後藤明生のどちらか考えることが文学にとって有益なんじゃないかとか話してたけど、あれはおもしろかったな。 もちろん渡部は後藤の方をとるんだろうけど。
198 :
吾輩は名無しである :2001/05/17(木) 12:48
長々とダルイ文章が続いた後に、短くキレの良い文を見ると、 砂漠の中でオアシスを見つけたようにうれしい気持ちになりますね。
198って嫌味な奴だなあ! だるいならわざわざ覗かなけりゃいいじゃん。
200 :
吾輩は名無しである :2001/05/17(木) 18:05
みんなが思ってることを素直に書いただけじゃ
201 :
吾輩は名無しである :2001/05/17(木) 21:26
良質レスの発言者が疲弊し、ROMってて、話が見えないだけに 何も言えなかった人達が、ちくりちくりと板を汚す。 いつものことだけど、何だかなぁ。
>>201 だからそういう分かったような自意識だけの事書かない方が・・・
俺も同じだが
なんだ?198=200? 時間にまったく驚くね。暇な奴だなあ・・・
204 :
吾輩は名無しである :2001/05/17(木) 23:32
再販制度ってそもそもなんぞな、もし?
205 :
久しぶりに覗いた75さん :2001/05/18(金) 00:05
いやはや・・・
>>189 と
>>190 のJPBさんの話は感動的ですらありますな...
もちろんあなたはプロの物書きですね。無論そうであってもそうでなくても
私にはどっちでもいいことですが。それより物書きとしての“矜持”から
くる良心性、というのか、弱小の物書きが陥りやすい人真似やネタの略取
からは程遠く、隠微なオリジナリティーのようなものを確立されているよう
に思われる。劇的な差異ではなく微細な差異をかき集めてゆくような...
そうした繊細な手つきというのも、背後に確かな文章力という裏付けが
あってこそなんでしょうな。ははは。生意気言ってすいません。
ところで愚直で無粋な疑問を提示することにしか能のない私には
皆さんのレスを読みながら、一つの疑問が頭の中で形づくられたわけです。
つまり「『新しい文学』ってなに?」ということなのですが...
>>偽金子光晴さんは
>>187 で「徹底的にやらないと、新しい文学など
生み出せない」というようなことをおっしゃられている。
だが「徹底的にやる」というのはどういうことか?たとえば
ジョイスやベケットを例に取ってみる。しかし80年代のポスト・
モダンのモード(流行)はそれ以前にあったこれらのマイナーな
前衛的作品を表舞台に出しただけで、それ自身は何も本当に新しいもの
など作れなかったのではないのか?、という疑念が残る。「つまり」、
マイナーな価値をメジャーにすることによって文学それ自身が持っていた
担保まで売りに出してしまった。その結果それ以降、どんな“新しい”
ことをやろうと、単にそれはジョイスやベケットの“下手糞な”焼き直し
でしかなくなるような状況になっている。(これも至極ありきたりな
意見だな...)
206 :
久しぶりに覗いた75さん :2001/05/18(金) 00:06
しかし一方で、fishmanさんが
>>192 でおっしゃられているような
「ちょっとした違い」を示して今までになかったものを「かいま見せて」
くれるだけではまったく物足りないんですね...というか現状は
「ちょっとした差異」だらけで大局的(いやな言葉だが)に見れば
何も違わないのですね。むしろそうした大したことのない差異を
主張するものばかりでムカムカしてくるわけです。それにバルトが
言っている“軽やかさ”など装われたものにすぎないわけです。
なぜならバルト自身は掛値なく自分は「新しいことを言っている」
という自信を持っていたことは間違いないでしょうから。
というわけで何かまとまりのないレスになりましたが、結論はありません。
単に上にあるような意見を繰り返しただけですが、「新しい文学」
「文学の未来」といったような言葉にひっかかっただけですから。
以上ネタ振り(のつもり)
こんな駄文書いて、あー恥ずかし
208 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 01:50
>205,206 うーんと、言わんとするところはわかるんだけど、 今のあなたが感じている不満を解消する文学が現れたとして、 それはやっぱり新しい文学という言葉で形容されるんじゃない でしょうか? 何となく、上のレスに対してと言うよりは「新しい」という言葉に 過敏に反応しているようにも見えたものですから。 少しスレの趣旨を省みてみたいのですが、果たして資本主義下で失効してるのは 文学だけなのでしょうか?このような疑問を立てると、売り上げークオリティ という袋小路の二項対立に陥ってしまいそうですが、失効してるのは 必ずしも文学だけではないと思えます。 とするなら、失効の原因を、メディアの特性や作家の方法意識に帰結するのは ちょっと尚早なようにも思えるのですが。
209 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 02:38
わたしは75さんがひっかかるのはよく分かる気がしますよ。偽金子光晴くんや fishman くんのレスを読んでおると意気込みはわかるのだが、 文学が常に「新しさ」を強要する制度でもあるってことに、ほとんど無自覚であるように思えるからね。「ついうっかり」の権力性があそこにも現れとるのではないかな。 いや、失礼、208さん。その線でどうか話をお続け下さい。
210 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 06:58
ここ、一人か二人しかいないんだろ?
211 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 07:06
最近は創作文芸板を荒らすのはやめたんですか?
212 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 07:09
いやあ、10人位はいるよ(w マジレスで議論が煮詰まってくると 皆さん発言を控えるようになるから そう見えるだけでさ。
206
>>209 ええ。確かに私は性急に「新しいもの」を求めすぎているのかも
しれません。しかし「文学が常に「新しさ」を強要する制度」だ、
という意見には留保が必要かと。なぜなら「新しさ」を求めるのは
「制度」の働きであるというより、クリエーター個人の欲求の
部分が大きいのでは?
むしろ「新しさ」を取り込もうとする動きのほうが「制度」の働き
だと思います。この二つはちがうもんでしょう?新しく生まれ出る
ものは制度なんかを必要としますか?制度は自分が自己増殖して
充実したいから「新しいもの」を取り込むんでしょう?それで
制度下で支えられなければ「新しいもの」がやっていけないとしたら、
そっちの制度のほうが問題だ。それだったら新しい制度を作った
ほうがまだマシです(我ながらアオい意見だ...)
それよりも制度に関して問題だと思うのは、けっしてそれが
“ソーリー”と言わないことじゃないでしょうか?(ハハ、ここは冗談)
映画やポップ・ミュージックといったジャンルでも状況は
大体同じなんでしょうね・・・数年前から新しい映画やポップス作品
には期待を抱かないようになっている自分がいる...
ここにいるみなさんの青山真治に対する評価ってどんなものですか・・・?
215 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 12:53
1=偽金子光晴=JPB=75=吾輩は名無しであるの一部
>>215 え? まじで? けどそれならそれですごくない?
217 :
偽金子光晴 :2001/05/18(金) 16:57
私がJPBだったら、ホントにすごい。でも違います。なんて言ってもしょうがないのか。
徹夜続きの仕事が一段落して脳が機能停止しているので、ちょっと休んでます。
213も僕じゃない。あ、そうか、言ってもしょうがないんだな。けっこう歯がゆい。匿名も。
今日は何にも書くつもりじゃなかったんだけど、「新しい文学」のイメージについてですが、
全然イメージがありません。そのイメージを作るために、ここでいろいろくっちゃべっているようなわけで・・・・
高橋源一郎は新しい文学じゃないとか、僕が感じるのは、しょせん、減点法の小言コウベイなんです。
それじゃいかんと思うので、現在みなさんのお話を伺い中。
だから
>>209 さんの
「文学が常に「新しさ」を強要する制度でもあるってことに、ほとんど無自覚」
というのは、目からウロコ。このことについては、脳が整ったら、すぐに書きます。
あと、再販制度なんですけど、実は私、本屋でして。しかも再販制度の外にいる本屋(しかも古本屋ではない)
なので、話せばどこまで行くか判らない。これについては別スレを立てるべきではないかと
思います。再販制度なんて、全然知らない人もいるわけだし。
218 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 18:34
1=偽金子光晴=JPB=75=吾輩は名無しであるの一部 明らかにJPBだけ突出してる。
219 :
デュさん :2001/05/18(金) 21:04
途中参加いいですか?上からずっと読んできて、後半の「新しさ」について ちょっと引っかかったもんで。偽金子光晴さんの発言に顕著なようですが、 新しさっていうのは、何か自立した概念なんでしょうか? 偽金子光晴さんの視点が、文学をアウトプットする立場なのか、インプットする立場なのか ちょっと見えにくいだけに、あまり極端なことは言いたくないのですが、 新しさというのは結局事後認知でしかあり得ないと思うのです。 アプリオリにその原因があるわけではなく、事後の周囲の評価の中から生まれてくるもの ではないでしょうか。これは何も文学に限った話ではないですよね? 便器を芸術作品として認めさせるには美術展に出品してしまえばいいという話と 一緒です(杜撰な例えだなぁ。) ところで、ここでちょっと考えてみたいのは、ところでその評価って誰が決定するのってことです。 読者?それとも識者?はたまた制度? これを追い込んでいくのも有意義なことかもしれない。 でも、その前にその評価機能こそが失調してるんじゃないのって 疑問は湧いてこないですか?何か上の方のレスと被ってきたけど。 動かないがらくた(評価付け機能のことね)相手にしてもしょうがないじゃん? って思いが多分にあります。 じゃあ、変わりになるものを示せって?みんなが納得するonly oneなんて あるわけないじゃないですか!そんなのは個々人で勝手にやってきゃいいじゃないですか! そう言う野放図な拡散性こそ正に資本主義下の文学じゃないでしょうか?
こんばんわ。全部自作自演だったら痛快ですなあ(^^。75さん、私はモノ書きじゃ ないですよ。接続詞とか代名詞にあんな無頓着なモノ書きがいるものですか(^^。とに かく私の書いたことは、叩き台みたいなもんです。 問題なのは、現行の「文学」諸々に関する「違和感」みたいなものが、どう自分の考 えに結実していくか、それがどう表現されるかです。結論はやはり219さんのように ならざるを得ないとしても、議論の中でお互いの「違和感」の質を確かめておくのも 一興かと。 ここに書き手の人がいれば、それを刺激に小説を書いてもらえればよいですよね。
221 :
吾輩は名無しである :2001/05/18(金) 22:58
差異性=革新性って話だったと思うけど 前レスまで上がった疑問点は。 ・差異が革新(進歩)であることへの疑義 ・差異=革新とした場合その差異が真の差異であるかどうかへの疑義 ・差異=革新であるために差異を読みこむ事を暗に強制する構造への疑義 だと思うんですけどその辺どうでしょう?
222 :
JPB :2001/05/18(金) 23:06
>>190 の自己レスとして。
「≪歴史≫の現場」などと書いてしまって、これは一体なんだ?と思いました。自分としては
まさに「書かれ−読まれる」現場のことなのだろう、と。
ここで
>>219 さんのこの疑問をぶつけてみたいのです。
「ところで、ここでちょっと考えてみたいのは、ところでその評価って誰が決定す
るのってことです。読者?それとも識者?はたまた制度?これを追い込んでいくの
も有意義なことかもしれない。でも、その前にその評価機能こそが失調してるんじ
ゃないのって疑問は湧いてこないですか?」
この後半部分をもうすこし自分としては詰めてみたいです。私が考えられる限りでの「評価機能」
は、まず文壇内での小説家−批評家関係ですよね。一方で読者−作者の共同体のようなものが
設定できますね。また、メディアと作家の関係もある。あんまり詳しくないので「失調」の
事例を教えて頂ければ。
もう一つは「野放図な拡散性」があるはずなのに、大して拡散できていないじゃないかという
苛立ちがおそらく「資本主義下の」という限定に込められているような気もするのですが、
どうでしょう。「野放図」な態度で作品を書いても、作品自体は「野放図」でもなんでも
ない、みたいな。そこのところを「制度」として議論していたし。
いかがでしょう?
223 :
吾輩は名無しである :2001/05/19(土) 00:18
賛成! ただ、「評価機能」の「失調」の話は小説だけじゃなく、映画やマンガなんかのも考慮にいれると、幅が広がってきて おもろいかもしれないっすね。大変そうだけど。
224 :
吾輩は名無しである :2001/05/19(土) 02:32
219にはほとんど同意なんだけど、やっぱり一点気になるんだよね。。。 「「新しさ」の評価は後付けだ」という意見は受け入れられるとしても、 上のほうで議論していたのは「絶対的な「新しさ」」というもの はあるか、それは何か、だったわけでしょ。つまり実作者の側の話を しているわけだ。他人の評価のことは二の次で。 だから後半で「評価機能なんか相手にしてもしょうがない」と 言っているが、これは結局他人の評価をすごく気にした言い方のよう な気がするんだよね。「「野放図」な態度で作品を書いても、作品 自体は「野放図」でもなんでもない」みたいなことでね。 やはり他人の評価を気にしたモノ作りなんじゃないのか、っていうね。
225 :
吾輩は名無しである :2001/05/19(土) 02:48
しかもその論法だと「誰が評価するのか」が非常に大きな ファクターになってくる。本当に「資本主義下」で戦っている のなら第一の要素は売上げであり、客受けである。それ以外 の場所なら、それぞれで評価を乞うべき相手は変わってくるでしょう。 だからそんなことは言ってないんだよね。それなら万事、 「傾向と対策」で済む話じゃないの?あるいはできるだけ早く 空気を読んでウケをねらいにゆくとかね。ある意味で(これが すべてではないが)こういう事態が今の創作を面白くして いない大きな原因だと思われるのだがいかがか。なんか正に 「制度」付き、みたいな。
>>225 つまり充分に拡散されていない、というようなことか?
>>226 さん
225さんではないですが、確かに文学はとりあえず紙と書くものさえあれば何かを
書き留めることはできます。拡散が書く現場での動きやすさだとすれば、まさに機敏に
動くことができる。しかし、それによって結実した作品を受けての側に、ばらまいて
いこうとするときに、さて・・・となってしまうのじゃないか、と。
資本主義下での書く生活というサイクルは、書き→売り→再び書く、というコースを
たどるのですが、学生ならこうした生活の予測をせずに行けるのですが、職業になって
しまうと
書く→売る(それだけじゃだめだから、講演もやり、エッセイも書き、対談する)
→その間に思案する(または編集社と合議しつつ、ネタを決める)→再び書くのように
どうも、拡散性が充分に保証されないし、拡散を生きようとすると、おそらく職業作家
足り得ないのかな・・・とも思うのです。
228 :
吾輩は名無しである :2001/05/21(月) 02:21
やはり文学は政治と切り離して考えることは出来ないのではないか? 日本近代文学の創始者である坪内逍遥ははじめ政治小説を書いてた。 彼が「小説神髄」で勧善懲悪を排し写実を説いたのは、それまでの政治参加への 挫折があった。そこに文学の自立した空間(芸術)を作ろうとしたのだけれど、 その空間を保証したものこそ実は政治だったのではないか。だから政治さえ機能し始めれば 文学は再び復活する。小泉内閣がファシズムに走ったら、小説家も売上がどうのなどと 呑気なことは言っていられないはずだ。 てなことを言いつつage
229 :
吾輩は名無しである :2001/05/21(月) 15:08
>>227 >それによって結実した作品を受けての側に、ばらまいて
いこうとするときに、さて・・・となってしまうのじゃないか、と。
おそらく219が考えてる拡散って言うのは、一つの作品が同心円上に
拡がっていくという拡散ではなくて、無数の作品が自己分裂するように、
ごくごく小さな固まりが繁茂していく拡散なのじゃないのでしょうか?
>>225 >本当に「資本主義下」で戦っている
のなら第一の要素は売上げであり、客受けである。
売り上げもまた失調している評価付け機能といえないでしょうか?
この板に限らず、日本最高の作家が赤川次郎だという言説は成立しづらいですよね?
「絶対的な「新しさ」」についても、言外でそんなものありえなよと言うことを
きちんと語っているように思えるのですが。。
個人的には222でJPBさんが設定したラインで話が進んでくれると面白いと思います。
230 :
KZ :2001/05/21(月) 18:22
文学←文字を用いた表現。という条件のもとでなら、すべての表現で文学って成り立つとは思わない? つまり、アニメやゲームを文学的に捉えるのってありなのか? やがて紙の本も変わってしまうのかな。 ごめん、うまくまとめられない。
231 :
吾輩は名無しである :2001/05/21(月) 19:07
>>222 >>227 だとすると「資本主義下」では職業作家は「野放図」な作品は
書き得ない、又は困難である。それでは趣味で書いてる人(ネットなどで発表
してる)はどうなのか?確かに表面的な書く条件は違うがどうなんでしょ?
232 :
吾輩は名無しである :2001/05/21(月) 19:19
資本主義下っていうけど、今の日本の経済システムはソ連のNEP(新経済政策) をモデルにつくられたそうです。
>>229 さん
なるほど。私は実際の本の供給−受容関係から解釈していました。
>>231 さん
そこに可能性を見出すか、それが仇となるか、それは見守りたいですね。
あんまりネット小説を見ていないんで、良さそうなのがあったら教えてく
ださい。
234 :
吾輩は名無しである :2001/05/25(金) 23:50
ageてみるか
235 :
吾輩は名なしである :2001/05/31(木) 06:26
明智君、私と貴方との貸借関係、10コペイカを返して呉れたまえ。 同一労働¥同一賃金
236 :
吾輩は名なしである :2001/06/01(金) 20:52
JPB=ジュ二ア・バタフライのパパだ。勢いが誰かににている。
237 :
吾輩は名なしである :2001/06/01(金) 21:28
版権が商品として流通市場にのるか?・・・今月のテ−マ なかなか資本主義的。
238 :
吾輩は名無しである :2001/06/01(金) 21:54
>>227 でJPB氏が言っているように、
「拡散」というテーマは一見極めて資本主義的なように見えて、
皮肉なことに資本主義下において作家は「拡散」が許されていない
情況にある。この矛盾はどう解消すべきなのか?
資本主義が大衆の嗜好を多種多様に分裂させ、百花繚乱に咲き乱れて
いる中で、作家は特定の主題に縛られ、また一所に留まるように
周囲からプレッシャーをかけられている。ちょうどそれは「ロッキー」
のあとに「ロッキー2」を作るように要請されているようなものだ。
現代資本主義社会は案外それほどダイナミックなものではないの
かもしれない。というか人々の意識自体がたいしてダイナミック
なのではないのかもね。
239 :
田中洸人 :2001/06/02(土) 01:40
240 :
JPB :2001/06/04(月) 14:27
238さんが挙げておられたので、たまには書き込んでみます。 流れを中断してしまうのですが、これだけ時間が経てばいいですよね。 議論は前半、おそらく文学を再活性化するものは何か、という話題で進んできて1さん が「政治的なもの」の導入を提起したところで、私が茶々をいれました。 それは、議論を文化の一領域としての文学内部の議論にしておくのはもったいないなと 思ったからです。せっかく「資本主義下の」とあるわけですから。ということで、敢えて 視野を広くとって政治や経済領域との関係を、簡単にではありますが歴史的に見ようと 試みたわけです。 しかし、それはやはり資料不足もあり、なんとなく形式化してきたところで、もう一度 文学内部の問題に戻ってきたわけです。そこで、論じられたのが「新しさ」でした。私 の感じでは、「新しい」文学が出る(出す)ことが文学領域を再活性化させる、一つの方途として 提起されたように感じたわけです。 しかし、「新しさ」とは何ら実態のあるものかという疑問が出され、議論はハタと沙汰やみに なってしまったわけでした。現在、その「新しさ」を評価するような機能が「失調」している がゆえに、それを肯定的に捉え、積極的に書いていく、これこそが先取りにあたら時間を費やすよ りも有効である、との暫定的結論がでたわけですね。
241 :
JPB :2001/06/04(月) 14:48
結局のところ、「野放図」に書くにせよ、体系内での差異を目指して書くにせよ 書かれ、文学を再活性化させたものこそが「新しい」はずのものである、という 見通しが出たわけです。 が、またそれをまぜっかえすようにして、それは予定調和的な「新しさ」に回収 されるのではないか、という疑念が出てくる、というのが、この議論のサイクル だと言えるでしょう。 しかし、この種の循環は、文学を安心して享受できる立場においてのみ成り立つ 事柄かもしれません。国家(政治・外交)と経済が比較的安定し、その中で文化 的生産に携わるような文学主体を形成しうるという条件がこの循環を可能たらし めているともいえるわけです。実際、人は文学領域内だけで生きているわけでは なく、働き、生活し、その上で選び取った趣味として読書をしているわけですよね。 こう書いてくると、あたかも文化的領域というのは、政治・経済領域に依存して いるようです。実際、私は、中盤でそれを積極的に言わんとしてさえいました。 悪しき「社会学主義」にともすると組する議論の流れでした。
242 :
JPB :2001/06/04(月) 15:04
おそらく1さんの疑念はそこにあったわけですが、そこから「読書」そのもの が「歴史の変動要因」たりうるかどうか、という議論が偽金子さんや大勢の方を 巻き込みつつされました。それはつまり、「働き(経済)、生活する(政治)」 仕方に読書が何らかの逆向きの力を及ぼせるか否か、という議論でもあります。 先の「活性化させたものが新しさである」という論理を、ここで用いれば、 この「逆向きの力」を読書主体を出発点として、生活主体、経済主体へと及ぼし 得ることができたものこそ「文学」の名が(内容はなんであれ)冠せられてよい と思います。確かに、経済活動あり、国家形成あり、で文化生成、という順序は 無しにできないものだと思います。 しかし、ここで「逆向きの力」と称されるもの、これは注意が必要ですね。そう、 プロパガンダとかナショナリズムは、この「逆向きの力」の典型とも成り得る わけです。さて、どうするか。
243 :
JPB :2001/06/04(月) 15:25
で、ここからはもはや比喩でしか語れないのが、私の限界です。 先に、「人質」 という存在様態が生れていると私は云いました。これは、この「逆向きの力」の 純粋さから区別する必要があったからです。なぜか。つまり、親子関係の比喩 だと、親を殺して自分が主人に(素朴な革命)というあり方や、親の不在に自ら 親を僭称する(ナショナリズム)というあり方、も可能ですよね(恣意的な言い 方ですが)。同時に親子だと、権力関係も見やすくなるわけです。 ところが、誘拐犯と人質だと、微妙に違います。誘拐犯は人質を殺してしまうと 自分もつかまる。人質は、だからといって、反抗すると身の危険がある。その結 果、お互いに「作法」の下で、微妙な関係を営んでいく必要が出てくるというわ けです。つまり、時に共犯関係であったり、時に緊張状態であったりというクル クルと変転する関係が権力関係を複雑化させるわけです。 で、この二つの比喩は外部に違いもある。それは、「つかまる」といった不安定 要素の出現にほかならないです。だから、後者は外部にはでられないわけです。 この誘拐犯−人質関係において「逆向きの力」を考えること、が次の 書き込みにしたい、と思うわけですが、先に言った「Dirt/Pollution」 というのがそれにあたる比喩なのですが、ちょっと疲れました。
いかんせん、サッカーが・・・・ 人質と犯人の間で重要なのは、言葉と刃物です。刃物が無ければ、犯人は権威を維持できない。 しかし、それはいつ何時奪われるかわからない。寝てる時かもしれないし、不意の争いで奪わ れるかもしれない。だからなるべく人質を厚遇しなくてはならない。怒らせないよう、死なせ ないよう気を遣うというわけですね。 一方で人質もそれにつけこみつつ自分の権利を主張する。良いベッドが欲しい。クーラー欲しい と。しかし、最終的な生殺与奪の権利は犯人にあります。ところが、時に、その関係に苛立った り、変えたくなったりして人質が「こんな生活ヤダ!死んでもいいから奴に文句言おう」と思った とします。で、「このタコ!」と言おうとしますが、《怒らせてはいけない》。だから、違った言 い方で、「このタコ!」を「あのー自首したいとは思いませんか?おれ死にたいんですけど・・・」 と脅迫する。誘拐犯は、最終決断の《殺す》を発動させたくないので、別の言い方で応酬します。 そうやって、微妙な紛争を孕みつつ関係を変容していくというわけです。
で、Dirtというのは、親子関係の純粋さにおいては「このクソ親父!」「出てけ馬鹿息子!」 というマジ闘争になるところを、人質−犯人関係の「あのー俺死にますよ」「えっ待って 何が不満なの?」といった紛争に捻じ曲げる働きであって、同時にそれが相手をも捻じ曲がった 応答という変化を引き起こすのがPollutionとしての働きというわけです。 で、この言葉の歪み(Dirt)は、何を基に生み出されるか。この辺は安易ですが、状況・相手 関係・時期に対する徹底した観察が有効だと思うわけです。これが、「読み」の実践だとすれ ば、相手への最初の一言が「書き」の実践に対応します。そのような一言が文学だとして、そ こに面白さと有効性が付与されればよいなあ、と夢想するわけです。 何度も関係は中断され、再開され、再びいい感じのDirtにおいて、前回こうだったから 今度はこう、みたいな調子で(前テクストもふまえつつ)サイクルが循環できればなあ とまあ思ったりして・・・はは。 ぐだぐだですね。あとは、権威/権力/制度の区別。アクターに性別を導入したらどうな るか?とか、外部とは何か?という問題とか、言葉の「作法」の三方向性(パフォーマン ス/コミュニケーション/ダート)とか、妄想は広がるばかりですが、いやさ戯れ言、 笑い飛ばしてください・・・
246 :
吾輩は名なしである :2001/06/04(月) 22:18
龍之介の蜃気楼が好きだったり、深沢七郎が好きだったり教育現場にいたり、 書きにはそれの何倍の読みが必要なのだろうか?好きな部門に入れたので じっくりよむぞ。
247 :
JPB :2001/06/05(火) 17:23
このスレも、もう死に体ですね(^^
>>246 さん
それは、おめでとうございます。て優香、なぜ、そのような細かい部分を(^^
で、「書きにはそれの何倍の読みが必要なのだろうか?」という部分、そうですね
これ、話半分というか、資本主義どうこうっていうアレじゃなく、雑談めいた答え
でいいですか?
これは・・・自分の経験だけに基づけば、書きたいっていう衝迫が、どっからきてる
のか明確になったとき、筆が動くような気がするのです。別れちゃって悲しい
とか、むかつくとか、の正体を掴もうとするとき、まず筆は動く。一方、何か自分の
中の空虚というか欠如、それを埋めるために書くということもあります。こうだった
らいいのになあ・・・みたいな。ここはでも、何でもありで、問題はその強さです。
小説家になって、偉くなってやる、でもアリだと私は思います。
で、それを小説の形で書くか、評論とかの形で書くか、そこでまず選択する必要が
あると思うのです。で、この感じは小説でしか書けないと思うなら、小説で書く。ルポ
や批評、漫画、映像、ツールはイパーイあります。
作品をめざして書く、賞を目指して書くということから少し外れます。それは、私が
出来てない以上説得力がないです。ここでは、次の行動に移る時の起爆剤としての書き
となりますが、例えば「別れ」に自分が動けなくなったとき、自分固有の「別れ」の
源泉をまず明るみに出すために「別れ」を主題にした小説や評論等をむさぼり読む。
で、自分との違いをまず感想レベル、次に表現レベル(これは、俺だったらこう書く
みたいな)、そして、衝迫のレベルで読みます。例えば、敢えて、その小説の中から
三つだけクル部分を拾い、それがなぜクルのか、作家はなぜこれをこう書かねばなら
ないのかを考え、それを書き記していく。これは、小説の体は成していないけれど
私自身にとっては非常に面白い小説になります。で、それをどうすることで次へと
「捻じ曲げて」(変わったりとか成長したりでもいいけど、ここはこれがいいっす)
行けるかを、想定された可能性として描いていく。で、近所を走る、自転車でブック
オフまで行く。これで、一連のサイクルは自分的には終了、というわけです。
いや、それを人様に見せるにはどうすればいいか?という質問は、ナシですよ(^^
248 :
JPB :2001/06/05(火) 17:30
付記っす。 いやあ、自分を読者として書くためには、読みは自分の気がすむまでやれば よいと思います。題材は千差万別、これはもうのべつまくなし野放図に、ですね。
249 :
吾輩は名なしである :2001/06/05(火) 20:02
JPBさんへ 早速の注釈ありがとうございます。 伊藤整文学賞がゲットできる逆エール。
250 :
JPB :2001/06/05(火) 20:19
>>249 さん
えっ、その賞が何だか、マジで知らない・・・鬱打詩嚢・・・
251 :
吾輩は名なしである :2001/06/06(水) 00:31
増田みずこ 「月夜見』姶良舞踊
252 :
吾輩は名無しである :2001/06/06(水) 05:01
age
253 :
吾輩は名なしである :2001/06/07(木) 05:48
85 屁理屈も言い続けると・・・ 86’ガラスを舐め続けると自分がガラスに同化してゆく。 瞑想している時さえ言葉で考えている。
254 :
吾輩は名無しである :2001/06/07(木) 06:04
すべての書籍は日本銀行券に負けている。合掌。
255 :
吾輩は名なしである :2001/06/08(金) 21:05
マネタリストは流動性トラップにひっかかり、クモの巣理論の中心点に収斂ス。
256 :
吾輩は名無しである :2001/06/08(金) 22:43
うるせえ! とりあえずそこで経済がグルグルまわってりゃいいんだよ!
257 :
Fishman :2001/06/09(土) 21:58
久し振りにあがってる。。240から246までのJPBさんのレス、 とても笑い飛ばせないなぁ。 >そのような一言が文学だとして、そこに面白さと有効性が付与されればよいなあ、 と夢想するわけです。 ここはホント全面的に賛成です。直線的な歩行がプロバカンダやナショナリズムであるとするなら、 踊るように、回るように歩くと。ただ、そのような歩行形式がどこまで力を持つことが出来るのか。 これはもうJPBさんに対する疑問ではなくて、個人的に考えていかなくちゃならない問題だなぁ。。
258 :
JPB :2001/06/10(日) 21:27
>Fishmanさん そうですね。私も「有効性」なんて言いましたが、それが常に現実の後追いでしかない ことは否めないですね。ただ、文学なるものを行為として、「信じる」のではなく、そこに 「賭ける」ということは出来るのでは、と思います。賭けそのものは能動的行為だと思うので。 最近は、あんまり小説を読む暇も無いのですが、ネット上の色々な小説を丹念に読んで みたいなあ、とも思っています。うざがられるだろうけど(^^
259 :
Fishman :2001/06/10(日) 23:12
>JPBさん 「賭ける」うん、とても良い言葉だと思います。今、文学について語り、 また真摯に取り組もうとするなら、その態度以外にあり得ない気すらしますね。。 ネット小説はほとんど読んでいません。何か良いものが あったら紹介してくれると嬉しいです。
260 :
吾輩は名無しである :2001/07/01(日) 01:10
JPBに寄せる唄。黒い瞳をロシア語で謡いたい。
261 :
ソンタグ :2001/07/01(日) 04:24
キミたち、他にすることないの、随分ヒマやにゃー。
262 :
吾輩は名無しである :2001/07/08(日) 05:41
誰か続けて。面白い。けどわたしには無理。