1 :
吾輩は名無しである:
NAMの話は哲学板で、ここでは氏の文学に関する業績についてのみ
語りましょう。「日本近代文学の起源」「意味という病」「畏怖する
人間」その他漱石論もろもろ。
2 :
考える名無しさん:2001/04/01(日) 21:10
なんだかんだ言って、
二流の批評家とは、明らかに違うよね。
3 :
吾輩は名無しである:2001/04/01(日) 22:33
太宰が嫌いで安吾が好きって言ってたよね
三島由紀夫と同じだな
三島は近親憎悪的な嫌悪感を太宰に持ってたらしいし
ひょっとして太宰=三島=柄谷なのかな?
4 :
吾輩は名無しである:2001/04/01(日) 23:25
わくわく♪
ギャラリーとして喜んで参加させて頂きますです
5 :
吾輩は名無しである:2001/04/02(月) 02:07
村上龍が柄谷の「日本近代文学の起源」を読んで「文学は死んだ」みたいなことを
感じたらしい。確かにあそこに書いていることを全て認めるならば、文学を取り巻く
風景はそれまでとガラッと変わってしまうはずである。事実、柄谷以降の文学はそれ
までとすっかり変わってしまった。書き手たちは自らの表現に対して、常にためらい
がちにならざるを得なくなった。風景が、内面が、近代の産物であることが明らかに
なった以上、それまでと同じように無邪気に言葉を書き付けることができなくなった。
そしてそのことが文学を(ある意味で)つまらなくさせたことも事実である。
責任は柄谷にはない。今までに柄谷が提出した問題系を超えようとする作家・批評家が
出てきていないことによる。だからこそ、このスレッドのみんなでこの山を乗り越える
べく力を合わせて戦おうではないか。ヘイヘイホー!!
6 :
吾輩は名無しである:2001/04/02(月) 03:46
柄谷は三島もきらいなんだよ。
7 :
吾輩は名無しである:2001/04/02(月) 05:24
文芸時評面白かった
コイツって文学批評も腐ってるから、参考にしちゃだめだよ。
9 :
吾輩は名無しである:2001/04/02(月) 15:19
辛気くさいのが嫌いなんじゃないの?
>無邪気に言葉を書き付けることが...
そりゃもともと文学じゃねえだろ
ある意味正統派の全共闘くずれでしょ、この還暦。発想の貧困なるこの存在!!
12 :
吾輩は名無しである:2001/04/02(月) 22:43
>>6 それならますます三島=太宰=柄谷で互いに近親憎悪?
13 :
吾輩は名無しである:2001/04/02(月) 23:04
循環史観といった点から三島を評価してたけどなあ。
14 :
6:2001/04/03(火) 00:46
>>13 そうなんですか。
「終わり」の言説を分析するために利用したんじゃ
ないかと思ってましたが。三島や大江や村上春樹を。
>>12 互いに、って何だよ。三島が太宰を毛嫌いしたのが
「近親憎悪」、太宰は三島なんか問題にしてない、時代が
ズレてて一度しか会ってない。
柄谷なんか全然違うじゃん、カルすぎ。
日本文学の本流(太宰、三島)と一緒くたにすな!
16 :
吾輩は名無しである:2001/04/03(火) 01:35
なるほど、確かに荒れるな・・・
ずっとsageで書いてるアンチが一人いるみたいだけど、「腐ってる」と
いう言い方にしろ、「発想の貧困」にしろ、「カルすぎ」にしろ、
そういう罵倒だけじゃ何も面白くないんで、もうちょっと具体的に書いて
ほしいなあ。せめてあなたがなぜそんなに嫌っているのかを教えてくれたら
いいんだけど。
17 :
13:2001/04/03(火) 01:35
>>14 共感はしないが一定の評価は下すといった感じですか。
「終わりなき世界」とかで言ってた気がする。
無論、ああ言った閉じた構造を破砕する事が柄谷のスタンスなんだろうけど。
同じ対象でも時と場合によって評価がコロコロ変わるんであんまり本気に出来ない所もあるんですが。
18 :
吾輩は名無しである:2001/04/04(水) 00:09
hage
19 :
吾輩は名無しである:2001/04/04(水) 01:39
柄谷は村上春樹を批判的に引用したはずだが、読んでるうちに村上春樹って
そんなすごい作家だったのかと逆に感心してしまうから不思議だ。
20 :
奥さまは名無しさん:2001/04/04(水) 04:23
柄谷は村上春樹に一時夢中だったという噂である。
21 :
吾輩は名無しである:2001/04/04(水) 22:39
>柄谷は村上春樹を批判的に引用したはずだが、読んでるうちに村上春樹って
そんなすごい作家だったのかと逆に感心してしまうから不思議だ。
あほですか?あんなの柄谷がレヴィ=ストロースや現象学のタームに引きずられて
書いた駄文ですよ。春樹の作品に向き合っていないで、自分の知識、しかも未消化なもの
によって裁断しただけだ。
ソシュールだとかデリダだとかドマンだとか引っぱり出すことしか藝のない
柄谷なんてつまらん。
柄谷はいつも人をけなしていて、それが彼の文章を醜くしている。珍しく評価した
「アレクサンドルカルテット」、あれを認めるなら、あれについて論文書いてみな。
22 :
吾輩は名無しである:2001/04/04(水) 22:52
村上春樹を批評した文章は確かにダメダメである。
23 :
考える名無しさん:2001/04/04(水) 23:49
>あほですか?あんなの柄谷がレヴィ=ストロースや現象学のタームに引きずられて
>書いた駄文ですよ。春樹の作品に向き合っていないで、自分の知識、しかも未消化なもの
>によって裁断しただけだ。
あほですか?柄谷がレヴィ=ストロースや現象学のどういうタームにどういうふうに
引きずられて書いたのかあなたが記述しない限り、あなたが柄谷を批判したことが
そのままあなたに当てはまるのだということに気付かないのでしょうか。
ソシュールだとかデリダだとかドマンだとか引っぱり出すことしか藝のない
柄谷なんてつまらんなんていうあなたの意見も、ずいぶん型にはまっていて
つまらないですね。
24 :
吾輩は名無しである:2001/04/05(木) 00:23
やっぱ荒れるね。
25 :
21:2001/04/05(木) 17:15
23>
>あほですか?柄谷がレヴィ=ストロースや現象学のどういうタームにどういうふうに
引きずられて書いたのかあなたが記述しない限り、あなたが柄谷を批判したことが
他人のふんどしで相撲とっているだけなんだよ。そのうちインキンになるぜ。
レヴィストロースにしろ、現象学にしろ、そういうものをきちんと読んでいる人は
柄谷なんて読まない。
ああいうレトリックに騙されるのはね、哲学を読まない哲学にコンプレックスにある
仏文の連中だけだよ。哲学科で柄谷の話すれば分かるよ。冷たい視線浴びる。
あの男に出来ることは、中上と安吾を賞賛すること位か。
>ずいぶん型にはまっていてつまらないですね。
つまらん文章書く人間には、つまらない文章しか書けないんだよ。
柄谷だって、群像でそうやっていただろ。
確かに私の書いた文章は型にはまっている。こういう人はよくいる。
それにどう応じるかを柄谷の読者は考えていないのか。
26 :
吾輩は名無しである:2001/04/06(金) 02:55
あんた,なにむきになってるの?
27 :
吾輩は名無しである:2001/04/06(金) 05:02
たかさんでしょ。
28 :
考える名無しさん:2001/04/06(金) 21:30
このごろ仏文見ないね
29 :
吾輩は名無しである:2001/04/06(金) 22:07
いらねーよ。
30 :
吾輩は名無しである:2001/04/06(金) 22:13
そういえば、デリダは読んだことないって言ってたけど。
31 :
吾輩は名無しである:2001/04/07(土) 03:10
哲学畑の連中でカラタニを本気で評価してしまった連中もいるにはいたが。
野家『言語行為の現象学』啓一とか。
ま、最近のNAMってるカラタニのことはほとんど見捨てただろうけど。
32 :
奥さまは名無しさん:2001/04/07(土) 07:57
柄谷の名前出すと
博士論文通らないって本当ですか?
33 :
吾輩は名無しである:2001/04/07(土) 17:59
フランス語やドイツ語はできるのでしょうか?
34 :
考える名無しさん:2001/04/08(日) 01:39
一応できる,という程度。独仏の文献は邦訳や英訳で読んで疑問があれば原文を
参照する程度のはず。
35 :
吾輩は名無しである:2001/04/08(日) 06:15
それでもおれよりはましか
36 :
吾輩は名無しである:2001/04/08(日) 20:51
学者としてみようとするから色々言いたくなるんじゃない?
単純に批評家としてみればたいしたものだと思うけどなぁ。
NAMは何とも言えんが・・・。
37 :
づえちゅ:2001/04/08(日) 23:38
狭義の"文藝評論家"としても大成できる才能があったと思う。
70年代前半には江藤淳は自分のあとの文壇をしょって立つのは
柄谷だと期待してはず。かつての自分が小林秀雄から皇太子
として扱われたように。
『畏怖する人間』と『意味という病』は"江藤淳の皇太子"としての
柄谷の才能を十全に現している。しかし柄谷は文壇の中で同じような
ことをくり返しながら出世していくようなことに魅力を感じておらず
アメリカ留学から帰ると狭義文藝評論からははずれた『マルクスその
可能性の中心』を連載し始めた。
その後東京新聞の時評のような狭義文藝評論もやったが柄谷の関心は
文壇から離れていくばかりだし,文壇そのものが衰退してしまったの
で小林→江藤→柄谷の王位継承は永遠の幻となった。
しかし私は『畏怖する人間』と『意味という病』のころが柄谷が最も
輝いていた時だと,今でも確信している。
38 :
吾輩は名無しである:2001/04/09(月) 00:07
江藤だって文芸から逸脱していったじゃん。
それに吉本の影響濃いからさ。
39 :
吾輩は名無しである:2001/04/09(月) 12:38
福田は柄谷からバトンタッチされたと思っているのだろうなあ。
40 :
吾輩は名無しである:2001/04/09(月) 12:43
>38 江藤の逸脱の仕方と柄谷の逸脱の仕方を比べれば、
柄谷の方が遙かに魅力的じゃん。
作品そのものではなく、その作品を書かせた背景にこだわるような所は
確かに吉本的かもね。
二人とも作品が読めないと言う指摘も大ありだけど。
41 :
名無しさん:2001/04/09(月) 20:22
柄谷は福田和也との対談でこう言っていた。
「これまで小説を(正確に)読める批評家は3人いた。
江藤淳、平野謙、そして自分」だそうな。
ちなみに、ここで小説を正しく読むとはどういうことを言っているかというと、
自分の考えをカッコにくくり、作者が言いたいことを汲み取るということ。
柄谷はまずそういう作業をやった上で、あの独自の理論に当てはめるんだそうだ。
42 :
吾輩は名無しである:2001/04/09(月) 20:52
その人選には疑問があるなぁ。
柄谷にしてもその順序逆じゃない?というつっこみが
かなり有効な気がする。
43 :
吾輩は名無しである:2001/04/10(火) 00:35
柄谷は小説が読めないというのが定説だと思っていたが。
吉本も読めない方だが,柄谷よりももっと誠実に作家に付き合うような気がする。
44 :
名無しさん@1周年:2001/04/10(火) 01:52
>>43 たしかに「作家」とは誠実につきあってるかもね。
けど「作品」に対しては……
45 :
吾輩は名無しである:2001/04/10(火) 02:29
ところで、吉本スレッドって以前ありましたかね?
どうも記憶にないのですが・・・>ALL
46 :
吾輩は名無しである:2001/04/10(火) 03:57
47 :
吾輩は名無しである:2001/04/10(火) 20:00
>>43 作家の人格というものが(個人的な付き合いでもない限り)作品から
派生するものである限り、作品に対して不誠実で作家に対して誠実というのは
ちょっと矛盾すると思うんだよね。
48 :
吾輩は名無しである:2001/04/11(水) 00:54
ただこのスレは吉本板ではないはずで、じゃあ、柄谷が「作品」に対して誠実かといったら、これもまた疑問だといえる。
というか、柄谷はまともに文学を論じようとしないし、その能力があるかも疑問。
彼は昔吉本が言っていたように本当は批評家ではなく、作家に向いていたと思う。
49 :
吾輩は名無しである:2001/04/11(水) 21:37
>48 前々から疑問に思っていたんだけど、逸脱を嫌うよね、この板。
ところで、柄谷が作品に誠実でないというところ具体例を交えつつ
批判なり、賞賛なりしてくれると、話に流れが出てくると思うのだが。
吉本がかって彼をこう評したっていうのはそれこそ必要ないんじゃない?
50 :
吾輩は名無しである:2001/04/11(水) 22:52
>柄谷はまともに文学を論じようとしないし、・・
申し訳ないが、どうしてこう言えるのか、教えて欲しい。
初期の文芸時評や漱石論は「文学」をまともに論じているとは言えないのだろうか?
私的には「作品」に誠実な読みよりも、「作家」に誠実な読みのほうが
より「文学的」なような気がするのだが?
51 :
吾輩は名無しである:2001/04/12(木) 00:23
俺も教えて欲しいage
52 :
吾輩は名無しである:2001/04/12(木) 23:01
初期のいいっすね。
小林や吉本の「おれは本気だ!」みたいのがよく出てて。
「おれは本気だ!」ですよ、文芸批評は。
53 :
からたに:2001/04/15(日) 00:28
どうした? アンチども
54 :
吾輩は名無しである:2001/04/15(日) 22:33
さぁ?気分的アンチに語る術なしってとこじゃない?
55 :
吾輩は名無しである:2001/04/20(金) 19:06
柄谷を崇めているドキュソが相変らず多いな。
哲学板に帰れよ、ゴルァ
56 :
吾輩は名無しである:2001/04/20(金) 21:14
>55 うん、君がここを見なければいいだけだね。
ご丁寧に上げてるし。うぷぷ。
57 :
吾輩は名無しである:2001/04/21(土) 07:31
このままアンチが出てこなかったら、連中は批判する論理的な言葉を持たぬ単なる
気分屋的ドキュソであったと確定する。
>柄谷を崇めているドキュソが相変らず多いな。
崇めているわけではない。君の意見を聞きたいだけである。NAMは宗教だのどうの
といったくだらない中傷は聞き飽きた。もっと論理的に説明せよ(できないのなら
できないんでちゅとあっさり認めたまえ)。
58 :
考える名無しさん:2001/04/21(土) 15:06
これが批評だばかやろう
59 :
吾輩は名無しである:2001/05/01(火) 03:15
彼って修士論文何書いたの?
60 :
づえちゅ:2001/05/01(火) 04:03
おれは『内省と遡行』あたりから柄谷はイタいと思うようになってきたし
NAMは論外と思っている非信者だがそれでも初期の文藝評論はすばらしいと
思う。
61 :
吾輩は名無しである:2001/05/06(日) 22:29
NAMってどこらへんが論理的に破綻してますか?
友人で批評空間とか好きな奴がいるんですが、僕はバカなのでいつも
ワケがわからないまま言いくるめられてしまいます。
62 :
たか:2001/05/07(月) 13:48
上に私の名前が出ていますが、私のこと知っている人も知らない人も、
お久しぶり。
しかし、この板見ても、柄谷行人の魅力ってよく分からない。
上には名前が出てないが、柄谷は、中村光夫を評価していたと思うが。
まあ、「マクベス論」を読み返してみるか。
他のほとんどの文章は印象に残っていない。鼻についただけです。
63 :
吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 16:38
>>60 『マルクス』あたりから日本を意識しなくなってしまい、
扱う範囲を広げたことで、読者の評価が相対的に低くなってしまった……と見てはどうだろう?
文芸評論家としての彼は評価するが批評家としての柄谷は評価しない、
なんていうのも同じように相対的な評価でしかないと思う。
(文芸評論家としてなら、比べられる対象も<比較的>少なくなるし、その水準も低くなるし、ね)
そもそも、柄谷を誰と比較するのか、という問題も残っている。
柄谷はダメとして、じゃあ誰?となると、同時代人ではそういないのではないか。
そこで比較対象として出てくるのが文芸評論家としての小林であり江藤であり、批評家・知識人としての吉本。
柄谷以後となると比較することすら難しい。
陳腐な物言いになるけれども、小林・保田がいたように、江藤がいたように、柄谷がいる。
その事実を受け止めずに「アンチ柄谷」を気取っているだけでは、柄谷以外はおろか、柄谷すらまともに評価出来ないのではないだろうか。
それはともかく「たか」はウザイ。
>>62 >しかし、この板見ても、柄谷行人の魅力ってよく分からない。
まだ板とスレの違いが分からないか。
それに、ここはお前に「魅力」とやらを教えるスレではないぞ。勘違いしないように。
>上には名前が出てないが、柄谷は、中村光夫を評価していたと思うが。
何故この文が出てきたのか、文脈からではさっぱり分からない。
そして、この文章がどのような意図を示しているか分からない。
やはり、たか。貴方は頭が不自由で自意識過剰で、文脈一つ読めず作れず、語る力を持っていないようだ。
>他のほとんどの文章は印象に残っていない。鼻についただけです。
そしてこのような「私の読書感想」を恥とも思わず書くことの出来るその精神に、乾杯。
(゚д゚)ウマー
64 :
63:2001/05/07(月) 16:40
太宰、三島と言えば駒場祭で入選したデビュー作のことを思い出さずにはいられないが……
そこらへんは話題に出しても平気?
もしかして最近は手に入りにくい?
(俺もコピーを持ってるだけだけど……)
65 :
吾輩は名無しである:2001/05/07(月) 20:53
>59
書いた。雑誌に載ってる
66 :
吾輩は名無しである:2001/05/08(火) 20:04
柄揚げ
67 :
吾輩は名無しである:2001/05/12(土) 01:18
>上には名前が出てないが、柄谷は、中村光夫を評価していたと思うが。
何故この文が出てきたのか、文脈からではさっぱり分からない。
そして、この文章がどのような意図を示しているか分からない。
やはり、たか。貴方は頭が不自由で自意識過剰で、文脈一つ読めず作れず、語る力を持っていないようだ。
文脈なんて関係ないよ。講談社文芸文庫の蓮実、浅田、三浦の対談読んでみい。
中村光夫のことがよく出ておるぞ。
68 :
吾輩は名無しである:2001/05/12(土) 12:27
>>67 このスレッドでの文脈ってことだろ。
たかが独り言じみたことしか言わないのは定説。
69 :
吾輩は名無しである:2001/05/12(土) 23:50
アメリカで認められたいってこと? NAMとかやりだしたのは。
あっ、ここは文学板か。
70 :
吾輩は名無しである:2001/05/13(日) 00:04
>64 三すくみって奴ね。
>63 中村を評価したのはハスミン。
Namはもっと悲劇的な動機で始まったのでは?
71 :
63:2001/05/13(日) 02:03
>>69 五月祭賞への2回目の入選(佳作)で、柄谷はマルクスについて書いていたと思う。
だから、最初からマルクスをやりたかった、と後に柄谷自身が言っていることも、ある程度は本当だろう。
しかしそれと同じくらいに『マルクスその可能性の中心』をアメリカ―ド・マンの影響(評価)の下に書きたかった、というのも本当だろう。
その意識が無ければあの時期の形式的(by柄谷)な本は書けなかったろうし、少なくともそこに切断線をみるべきだと思う。
状況(日本)に拠っていたのでは書けないような本を、あの時期の柄谷は書いていた。
だからこそ帰国後の文芸時評でうんざりしていたのだろうし、文芸評論はこれっきりだと思っていたのだろう。
そのような文脈で『マルクス』から『内省』まで(或いは80年代いっぱい、とみても良いのかもしれない)書かれていた、
と見ればその時期からの印象だけを取り出して「柄谷はイタイ・ツマラナイ」と断定してしまうことは「ツマラナイ」と思う。
現に90年代には再び漱石論が書かれているわけだし、少なくとも文学板で柄谷を扱うということは、
「思想としての批評」の部分の(相対的な)評価の低さをのみ見て文芸評論の柄谷までもその評価の枠内に入れてしまうということではないだろう。
63で俺が言っているのは、それでは柄谷は欧米の知識人・学者に比べて思想的な厳密性が低い、ということで終わってしまうだろうということだ。
そうではなくて、日本という文脈の中で捉えなおすことで、初めて柄谷を評価する基盤が出来るのではないか。
世界に出ようとして出れなかった思想家、そういう捉え方でも一向に構わない。
90年代にJ回帰し、漱石を再び正典化した文芸評論家、そう捉えても良い。
ただ、その文脈で柄谷を見なければ何の意味も無いのではないか。
こいつはイタイ、「所詮」柄谷、そういう感想しか持てなくなるのではないか。
柄谷を一事象として、「思想(としての批評)」の枠内に閉じ込めたいのならそれでも良い。
しかし文芸評論家として柄谷を(1のように)見るとするのならば、
あくまで日本、あくまで先行者たちや同時代人、後発者との関わりの中で見なければならないだろう。
それを否定―「狭い視野」として―するのならば、それは文壇の否定に他ならず、
それこそ立場として「70年代後半〜80年代の柄谷」へ賛同することに他ならないだろう。
そしてそれは少しも内容的には文学には関わりが無い、というのは柄谷自身が体現してしまったのではなかったか。
72 :
63:2001/05/13(日) 02:10
>>69 前置きがかなり長くなってしまったけど(笑)この文脈で捉えるのならば、
NAMはJ回帰―もしくは自己回帰でしかありえないと思う。
漱石論をやり直したように、60年代をやり直す。
そして、60年前に「近代の超克」が出来なかった「運動(行動)」をやり直す。
ただし、あくまで無害な形で。
そこでは漱石は正典化され、運動は非暴力的なものとなる。
今の所俺はあくまで「回帰」でしかないと捉えているけど……まあNAMスレでもないのでこのくらいにしておきます。
73 :
吾輩は名無しである:2001/05/14(月) 10:04
私は、世界に出ても通用するものを柄谷は書いていると思います。
というか、じゃあ日本で欧米の理論家と多少なりとも議論できる人を
出してこいといわれた時、正統派哲学者みたいな人で誰がいますか。
確かに厳密であることを哲学というのなら、彼の思考は哲学ではない
でしょう。というか、彼は哲学であること=独我論から出ようと
してるわけですから。NAMは可能かどうか論ずる前に、すくなくとも
ポストモダンのだるい風潮から脱出しようとしているところは評価したい
です。
74 :
吾輩は名無しである:2001/05/14(月) 11:17
「外部」が存在するか?つーことすか。
それこそ、徒党を組んで追究するようなことの
正反対にあるような問題ではなかろうか。
75 :
63:2001/05/14(月) 13:14
>>73 ただ、それを言い始めると1の意図した「柄谷行人」から離れるのではないか。
>氏の文学に関する業績についてのみ語りましょう。(
>>1)
文学板の態度としてはこれで良いと思うし、思想的・理論的なものは哲学板でやれば良いのではないか。
文学にも応用されている理論的なものは、むしろ「柄谷派」の文芸評論家にあてはまるだろう。
>彼は哲学であること=独我論から出ようとしてるわけですから。
その問題を「柄谷行人」の問題として「文学板」で扱うとするのならば、
むしろそれに関連して、文学にも「この私」はいない、といった柄谷の言葉をどう理解するか、という問題になると思う。
そうではなく批評から独我論に風穴を開けようとした柄谷行人をどう評価するか、
という問題へ行ってしまえば、それはむしろ状況論的な、批評家としての柄谷行人への評価の問題にしかならないだろう。
それでは文芸評論家としての柄谷行人について語ることは出来ないし、
文学には「この私」がいないといいながら漱石論・英米文学理論に立ち戻った90年代の柄谷を正面から受け止めることは出来ないのではないだろうか。
76 :
吾輩は名無しである:2001/05/15(火) 21:11
カラタニ上げ
77 :
山城むつみ:2001/05/17(木) 04:17
NAMを語る上ではフロイトの「死の欲動」を考えればよい。
死の欲動は外に向かえば「攻撃性」になるが、内に向かえば、
「良心」になると、後期フロイトは考えた。
倫理(良心)を掲げるNAMの運動の動機は、だから、内化された死の欲動に端緒を
持っているのだ。
そして、攻撃性が内化され、自分へと向かうと義務のための義務を説くカントのリゴリズムが
必然的に帰結するだろう。
なぜなら、リゴリズムは自己への高圧的な態度を不可避に伴うからだ。
ゆえに、柄谷のカントへの傾倒と死の欲動は不可分にリンクしているのである。
死の欲動から倫理へ。そして、倫理なき経済(資本制経済)への対抗へ(NAM結成へ)。
これが柄谷が近年果たしたと思われる「転回」であろう。
その「転回」の背後にはカントやマルクス以前にフロイトの影響を見るべきである。
78 :
吾輩は名無しである:2001/05/17(木) 05:24
機械論じゃん。
:???
1=
貧乏、彼女がいない、童貞、風俗には自分に自信が無いから抵抗が有る、
女の扱いが分からない。女と何を話して良いか分からない。
素人女はAV嬢のように「Hの時あんな淫乱ではない」という偏見が有る。
女を全く理解していない。「素人女は淫乱じゃない」と思っている。
東京出身だが都会に馴染めない、車の運転が下手何年ももう乗ってない、
ペーパードライバー、運転していないだけのインチキゴールドカード、
教習所時代卒検も何度も落ちている。趣味は一人遊び、妬みや嫉みが多い、
それを自分で認識できない、悪食、勉強が嫌い、仕事が嫌い 生涯賃金が20代で読み込める、
両親からは「早く自立して家を出ろ」と思われている。ズボンが短い、服装がださい、
何年も服を買わない。高校時代に同級生とさせ会話できない、購買のパン売りおばちゃんにまで欲情
酒が飲めるが壊れる、引っ込み思案、メールを通すと人格が変わる、実物の女とは面と向って話せない。
本を1冊通して読めない、若しくは1冊しか読まない パンツにうんこがつく、それをあまり気にしない、
缶コーヒーが大好き カップラーメンとコンビニ弁当を食べる、それも一緒に、会社で疎外感がある、
学校で疎外感があったそれを相談すると明らかに疎外されてるのに違うよ気にするなと肩を叩かれるが回りの目がいきなり変わる、
でも何も起きない、距離だけ遠くなるカラオケに男としかいったことがない、もしくは一人で行く(笑)馴染みの店はコンビニ、
自転車をこぐのが早い背中を丸め前かがみになり立ちこぎをする、移動は殆ど自転車、原付すら恐くて乗れない。たまに乗るとこけそうになる。
又は金が無いので買えない、優柔不断、AVをレンタル屋で選ぶのもさえカナリ迷う。
渋谷が怖い、パンツと言う言葉に下着を連想してしまう、童貞である事を恥じているが それがどうしたという思いもあるが、でも隠す、
童貞コンプレックス、毛深い、毛がない、勃起だけが抜群の勢い (笑)怒ると倍のキレかたを見せる脚が異様に太い、足が短い、顔がデカイ、体型は太め、
眼鏡をかけてる、 人の目線を気にするが誰も自分に注目してない事も同時にしってる、 この時間にジュースを飲んでる、餅が好き 深夜番組の安いギャルで平気で突発的に抜く、(笑)
ビデオ録画を多用、カバンは壊れるまで使う そういえばこのスニーカーは2年前からはいてるなあ、親には反抗的だが現実的に反抗できるのは親だけ、煙草を吸うとむせる、焼き鳥は好きだがレバーは苦手、
大きな物音にびびる、 オナニーしても罪悪感さえない、最近AVも飽きてきて別のジャンルに走る(洋物等)
80 :
吾輩は名無しである:2001/05/18(金) 07:39
2chらしからぬ素直な議論なのでage
81 :
吾輩は名無しである:2001/05/26(土) 20:51
本当に良スレだと思うから上げる・・・他のスレよりかなりまともだと思うんだけど、どう?
82 :
AKIRA:2001/05/27(日) 00:01
芥川や太宰が存命中に、もしNAMがあったら、
彼らはきっとNAMに参加していただろう。
彼らもまた国家(共同体)の道徳と資本主義を軽蔑していたから。
83 :
吾輩は名無しである:2001/05/27(日) 00:10
文学者のNAMに対する無関心について議論したい!
84 :
AKIRA:2001/05/27(日) 00:23
>>83 柄谷は日本文学は死んだと考えている人だからね。
そんな柄谷のNAMに(日本)文学者が賛同を示すのは
敵に塩を送るようなものだから。
85 :
名無しさん:2001/05/27(日) 00:37
文学者って例えば誰のこといってるの?
誰が関心示せば、無関心でなくなるの?
86 :
吾輩は名無しである :2001/05/27(日) 00:48
文学者なんて関係ないんだよ。
時代錯誤なんだよね。NAMの人たち(柄谷など)も
わかってるのにやってるんだよね。
批評空間の読者数の方がNAMで活動してる人より
多いんでしょう。
87 :
柄谷@N.Y.:2001/05/27(日) 00:51
とにかく「単独者」たれ、お前ら。
88 :
吾輩は名無しである:2001/05/27(日) 00:56
共同体に破壊と混乱をもたらすために
NAMはある。
それはまさしく「ディコンストラクション」の実践に
ほかならない。
89 :
吾輩は名無しである:2001/05/27(日) 00:57
>>87 2ちゃんへの出入りが止められないうちは
無理じゃないかしら?
90 :
吾輩は名無しである:2001/05/27(日) 01:02
「壊し屋」柄谷。
この姿勢は今も昔も変わらないな。
91 :
匿名希望さん:2001/05/27(日) 01:03
私には哲学に関する知識は皆無で、理解も困難だが、それでも柄谷の文章は読めるし読ませる。
文学に関する「業績」がいかなるものであるかは置いて、ただ面白い作品をいくつも書いてくれたと思う。(「私小説の両義性」とかね)
その意味で、哲学者・批評家としての彼の中から「文学に関する」部分を抽出しようとするよりはむしろ、あらかじめ「文学者」として
柄谷を見たほうが私には理解が早い。(これは私の個人的な事情に過ぎない。したがってこの文章は、このスレのこれまでの内容とは全く関与しない)
実際彼の文章はいかなる種類のものであれ独自のリズムがあって、読んでいて快感を感じる。
好き嫌いはあるだろうけれど、僕としてそれは彼が一流の物書きだからだと結論したいし、時に情念のほとばしるような様は
文学者のものに近しいという気がする。
92 :
吾輩は名無しである:2001/05/27(日) 01:09
>>89 ネットワークに破壊的に関与することが
「単独者」の在り方だから、「荒らし」
として2chに寄生すれば、「単独者」
としてあることと矛盾しないよ。
93 :
柄谷@N.Y.:2001/05/27(日) 01:17
俺は海外では自称「哲学者」で通しているぞ。
94 :
吾輩は名無しである:2001/05/27(日) 04:01
文学者がNAM的なものに無関心であることを分析すれば
逆に今の文学の状態がよく見えてくると思うぞ。
>>85 この場合、文学者って誰のこと?という問いは、要は昔のように文学という概念が
まとまったものではないって言いたいわけでしょう?
まあそれも今の文学の状態だわな。
>>86 あとNAM的なものは文学とは無関係ではありえないと思うぞ。逆に、NAM的な
ものと無関係でいられる文学というものがあったら教えてもらいたい。
s
96 :
吾輩は名無しである:2001/06/29(金) 18:20
sage
97 :
吾輩は名無しである:2001/06/30(土) 07:39
age
98 :
吾輩は名無しである:2001/06/30(土) 14:54
あげ
99 :
名無しの国のアリス:2001/07/01(日) 00:44
島田氏のスレで聞いても答え頂戴出来そうにないので失礼します。
6/30 早稲田大学での柄谷氏と島田氏の講演会のテーマは何だったか
お分かりの方いらっしゃいましたらば、是非教えて下さい。
100 :
吾輩は名無しである:2001/07/01(日) 01:29
101 :
吾輩は名無しである:2001/07/01(日) 14:20
>>99 NAMs主催「資本と国家に対抗する新しいアソシエーションの可能性、
『NAM生成』をめぐって」が以下の要領で開催されます
参加者:柄谷行人氏 島田雅彦氏 西部忠氏
日時:6月30日(土)午後4時から午後6時
場所:早稲田大学大隈講堂
入場無料
102 :
名無しの国のアリス:2001/07/01(日) 22:23
教えて下さりありがとうございます。当日は大隈講堂満席だった
そうですね。101さんは出席なさったのでしょうか?
いずれにせよ今だ彼等は注目を浴びる存在なのでしょうねぇ。
島田氏も柄谷氏も互いを批判しつつ一緒に仕事をしていたりするので不思議です。
103 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 01:08
話題に上がってないけど
アエラのインタビューは(・∀・)イイ!!
吉田司の厨房振りにワラタ。
にしても元気なおっさんだね。
カラターニカコイイ!!
104 :
あああ:2001/07/02(月) 02:47
柄谷よい思うゾ
少なくとも今の日本でメタレベルからの批判だと感じるのは、あと吉本。
それから東がどこまで出るかといったとこでないの?
105 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 06:20
やはり、
ココに来て書きこみなんかする輩などは
「〜してるアホどもが・・・」と
柄谷さんにアッサリうんざり
言い棄てられてしまうのでしょうか。
106 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 06:27
柄谷行人って本名?
107 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 11:15
108 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 11:33
アエラのインタビューで、
石原慎太郎を「アホ」の一言で片付けていた柄谷。
すごいね、奴は。
まあ、柄谷にしてみれば、石原や田中康夫は所詮
内在的批判しかしていないということなのだろう。
つまり、資本と国家の枠内での批判=改革ね。
他方、柄谷はそれらを根本的に止揚する批判=運動をやっている。
しかし、NAMの実情がどうなってるのかいまだよくわからんが。
109 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 13:09
柄谷でなくとも石原はアホで済むと思うが。
奴はエリツィンみたいなもんだし。
110 :
モー娘。らぶ。。。:2001/07/02(月) 13:18
今週末の批評空間のシンポジウムは絶対に逝こう!
111 :
NAM至上主義者:2001/07/02(月) 16:57
112 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 17:32
NAMの全国集会こないやつは
批評空間のシンポジウムにくる
資格なしと柄谷は言いそうだな
113 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 18:55
ここは文学だけどさ
NAMは宗教じゃないわけで、単独者のアソシエーションなんだろ?
中小企業の大企業への連帯に原理があるわけで
それが広まったらどうなるよ?国家が存在はするが宙吊り状態で
国家の手前に変な共同体が存在するみたいに単独性とカント的な義務をもった
ただの原始社会じゃねーか???違うのか?誰か馬鹿な俺に説明してくれ
114 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 23:18
「日本近代文学の起源」おもしれー。こんな批評を描かれちゃったら
俺の出番なくなるよ。
>>113 >中小企業の大企業への連帯に原理があるわけで
??・・・そうなの?
あとアエラっていつの?
116 :
我輩は名無しである:2001/07/02(月) 23:29
>114
あれってドゥルーズのベルクソン解釈を原理的に
借用しただけでしょ。
まあオリジナルなんてないという彼自身の論理で
言えば問題ないのかもしれないけどね。
でも、それをあたかも自分で考えたみたいな
態度をとるから、馬鹿にされてるんだよね。
117 :
:吾輩はゴキブリである:2001/07/02(月) 23:33
「日本近代文学の起源」がドゥルーズのベルクソン解釈の原理的な
借用って、それ構造でしょ。テーマは近代文学、とりわけ言文一致だから、まったく違うものでしょ。
柄谷いいんじゃないの。
118 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 23:40
119 :
我輩は名無しである:2001/07/02(月) 23:40
>116
私も発想はいっしょだなあと思ってました。
ただ117も言うとおり、テーマは近代文学なのでいいのでは。
ひとつ気になるのが、言文一致の問題でナショナリズムとか
やってますよね。あそこでべネディクト・アンダーソンを
持ってきたときは、ちょっと失望しましたけどね。
120 :
吾輩は名無しである:2001/07/02(月) 23:41
「日本近代文学の起源」いいよ。借用って言っても
ドゥルーズのベルクソン解釈を読めば誰にでもできる訳
じゃないでしょ。117さんいうこというな、ゴキブリのくせに(笑
121 :
我輩は名無しである:2001/07/02(月) 23:46
今はNAMでバカやってるけれど、
昔は偉い人だったのですね。
122 :
柄谷行人:2001/07/02(月) 23:59
NAMこそ最大の批評なのです
123 :
吾輩は名無しである:2001/07/03(火) 01:02
義男あげ
124 :
吾輩は名無しである:2001/07/03(火) 01:04
NAMっていうのはグローカル的な抵抗手段?
125 :
吾輩は名無しである:2001/07/03(火) 22:14
「なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。
それは告白がねじまげられたもう一つの権力意志だからである。
告白はけっして悔悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、
「主体」たること、つまり支配することを狙っている。」
--日本近代文学の起源 P100--
126 :
吾輩は名無しである:2001/07/03(火) 23:53
先生、今日はタイガース勝ちましたね。
パソコン買ってもプロ野球の結果しか見ないってほんとですか?
歯を磨いてもむだだよ〜
by 善男
128 :
柄谷義男:2001/07/04(水) 07:00
だれだここで俺の本名をばらしてるやつは
しかも義男という芸名まで
しかし俺がすばらしい文芸評論家であることは変わらない。
しかしナムはどうだナムは、やっぱり東は俺が干したのか
129 :
吾輩は名無しである:2001/07/04(水) 12:52
上のほうにあるけど、NAMに入っていないと批評空間のシンポジウムにすら出られないの?>NAM会員
130 :
吾輩は名無しである:2001/07/04(水) 16:06
↑
うんなわけない
131 :
NAM至上主義者:2001/07/04(水) 18:40
132 :
考える名無しさん:2001/07/04(水) 18:46
>>131 NAMの集会じゃなくて批評空間のシンポジウムだぞ!
それってあまりにも排他的じゃないか?
スタ官的じゃねえか。
133 :
行人教信者A:2001/07/04(水) 18:50
NAM八幡大菩薩・・・
134 :
吾輩は名無しである:
先生、今日もタイガース勝ちましたね。最下位脱出ですね。