1 :
吾輩は名無しである:
文学って何?何のために存在するの?
原理的な問いでもうしわけないです。
2 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 00:40
うう・・・誰か答えて・・
アホな庶民を洗脳するための装置です。
4 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 00:44
社会に適応できないダメダメオチこぼれを吸い寄せてゴミ箱に捨てるための社会的装置、というのが正しい。
6 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 00:49
原理より現象を追う。
原理は秘されているが、現象は顕わだ。
7 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 00:50
プ
8 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 00:54
9 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 01:32
>>8 文学板なのに、文学とは何か?という問いに答えられないのはちと恥ずかしくないか?
意見をだしあおうや。
10 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 01:36
めんどうなスレ作りやがって。。。。。。。。
そんな“原理的”な問いにどんな意味があるのさ?
スポーツって何のため?
映画って何のため?
んな重苦しい問題にどうして答えなくちゃいけないんだよ。
要は楽しめればナンでもいいのさ!文学だろうが漫画だろうがアニメだろうが!
つまんない自己反省する暇があったらもっともっと読みたい本があるの!
まったく。。。
11 :
ジョン・ファウルズ:2001/02/11(日) 01:38
たった一言云うために長々と書く作業。
それなのに読者は見当違いな解釈をする。
誤解と傲慢の交差である。
12 :
1:2001/02/11(日) 01:45
>>11 引用だけして何かを主張したかのように示唆するのみ。
実に文学板的な事柄の処理です。
結論をバシっと言ってほしいと思う私はプラグマティストでしょうか?
13 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 01:48
売れたもん勝ち
14 :
1:2001/02/11(日) 01:49
じゃあバトルロワイヤル全肯定ですね。
15 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 01:53
クソスレ決定
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜終了〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
16 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 01:58
>11は、
ファウルズ自身の言葉だという裏をとったのかい?
『マゴット』が訳されて良し。
17 :
ジョン・ファウルズ:2001/02/11(日) 02:12
>>17 『魔術師』からの一部引用、一部創作。
太宰も似たようなことを宣っていましたね。
一つの真実のために100ページも云々と
18 :
1:2001/02/11(日) 17:57
なんだかなぁ・・
自分の馬鹿さ加減は棚上げかい?
20 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 22:03
この板だと自身の選民思想を肯定するために使われるケースが多い。
例:「○○どうよ?」
「あんなの文学じゃねぇよ」
そのくせ、こういう問いには答えようとしないんだよね、いやらしいよな。
あ、俺は「文学」なんてもはや「オタク」や「コギャル」のような
定義の曖昧なイメージ言葉でしかないと思っている。
21 :
吾輩は名無しである:2001/02/11(日) 22:45
サロンの小噺
>1
尊大だな、お前。
見せ掛けの「問い」なんか発しやがってまわりくどいんだよ。
言いたいことがあったらハッキリ言えば?
結論をバシっと言ってほしいと思う私はプラグマティストでしょうか?
以前にも書きましたが…長いので省略されるの前提で一気に。
あの猿に聞いてごらん――文学って何?
教父のように彼は答えるだろう――文学をじっと
見つめるだけで、わしにはあれが何なのかわかる。
だが君が説明をもとめればそれだけで、
わしにはその答えがわからなくなってしまう。
文学は百頭女です。定義して囲い込もうとしてもそこから逃れた
ものが常に回帰してくる。だから教父になるか、無知な会衆に
なるか、どちらかのように思える。レズリー・フィードラーが
秀逸なタイトルの本を書いています。
"What was Literature?"
結局、後から追うしかできない、今の段階では「〜ではない」という
否定のかたちでしか語れないものですよね。なんとなくこれは違うん
じゃん、みたいな。ただ、こんないいかげんな答えではしょうがない。
では、「文学にあるのは実質的な約定を持たない差異だけだ」と、
ちょっとパクって言ってみることにしましょう。そこから出発。
もし「文学」がある役割もしくは象徴的秩序であり、自らの内に入る
者に対しては意味するものと意味されるものとの結合を約束する、
つまり、「意味」という法律を発効させるものだとすれば、文学は
「始めに言葉ありき」の神の猿真似か、はたまた意味にあふれる世界
の縮図であるかのように見える。なにかを説明してくれそうなもの
としての文学、ですね。でも、この考えは安全な作品、読んで
ああなるほど、いや感心した、というものしか生まないでしょう。
そうではなく、約定=法律から外れて、いろんなことを秩序なく
言ってみるのが上の「約定なき差異」の文学ですね。「戯れ」(苦笑)
って言っても良いでしょう、別に。
ただ、俺は文学というものは「実質的な約定を持たない」というより、
そういう内的な秩序、もしくは法律みたいなものに戦いをしかける
「約定との争い」だと古臭く(本当はこれは小説の起源の話だから、
新しいんだけど)思っています。あるものを「何だろう?」とか
「なぜだろう?」と思ったときに、これこれこういう理由でそういう
ものなんだよと説明するのが法律だとすれば、その説明自体にケンカ
を吹っかけたりからかったり、ある約定が無関心の幕の向こうに
隠されて権威化しようとする時、そいつを引っ張り出して「なぜだ?」
と正面切って問いただす。それが文学には出来るはずです。
最近、不敬文学なんてことが取り上げられています。これも秘される
ことで権威化するものを引っ張り出すことですね。セルバンテスは
それまでの法律であった騎士道物語という自明のものに戦いを挑み
ました。これも大きく言えば一種の不敬です。なぜ?と子供が大人に
何度も問いかける時、大人は面倒臭そうにあしらう。しかし、子供
の問いかけは実は恐ろしい力をもっている。同じ力が文学にもある
だろうと、俺は思うんです。宮川淳の比喩を使えば、鏡の反射を
見ること(約定の受容)でも、その表面をすべること(約定なき差異)
でもなく、裏側を探ってやろうとする行為、それが文学だと俺は思って
ます。
ただ、文学なんてどうでもいい、という意見には同意します。むしろ
どうでもいいもの、力なきもの、無知なものに留まらなければ、
問い続け探ってやる力は生まれないと思うからです。文学は無用、
それで大いに結構だと思います。法律じゃないんですから。
24 :
1:2001/02/12(月) 01:52
なるほど。文学は反権力、反権威の象徴というわけですね。
そしてその反抗の原理や情動こそが、文学の文学たる所以、と。
ただ、現在の批評家気取りが多用する言葉で言えば、そうした“否定神学的”な構造だけでは
文学とは何か、という問いへの答えとしては、まだまだ曖昧な気がします。
とりえあえず反論したいのは
1、なぜ政治運動や思想のように、具体的な行動という形をとることなく、
あくまで文学という形式に固執するのか。これは「解釈するのではない、変革するのだ」という
フォイエルバッハのような主張ですね。
2そしてさらに、そういう体制的、伝統的、大衆的なものに対する“個”の欲求の昇華した形は、
現在においては、もはや文学という意匠にとどまるものではない。
アニメ、漫画、映画その他メディアにおいても、反抗への意志は具体化されるはずです。
この場合、活字的な媒体が一律に、あなたのいう“不敬文学”的な存在であり、
同時にそこへと携わる個k人の反動的な欲求の総量がそれぞれに一律であるのであれば、
なおのこと「文学」というマイナーな形式にこだわる必要はないわけです。
反抗は皆で、なおかつ万人受けする形で――それこそ三流映画の『バトルロワイヤル』のように――
行ったほうが、効果的ですからね。
だから問いはこういう形になるでしょう「なぜ―――文学であって他ではないのか」
25 :
1:2001/02/12(月) 02:00
おそらくこういう方向の議論となるでしょう。
先ず、漫画や映画という形、具体的な政治活動ではなく、
あくまで文学に―――というより、“言葉”にこだわるのは、
言葉に対する敬意、言葉という形で自己を表現する際の覚悟の問題だ、と。
意地の悪いいいかたをすれば、一見ただのコミュニケーションの道具、記号的存在である言葉は、
ここでは物象化されて現れるわけですね。言葉とは身体そのものだ、と。
そしてそういう身体への敬意とは、身体の起源へと遡及されるわけですね。
言葉への敬意は、同時に言葉を用いた人間への敬意へと、そしてそういう人間が生きていた歴史的状況への敬意へと重ねあわされる。
最後に行き着くのは―――――歴史、というわけです。
結局私には、「文学とは何か」という問題は
「なぜ文学であって――――他ではないのか」という問いへ、そして
言葉の問題、歴史の問題へと深化するように思う。
晩年の小林秀雄的な問題意識のような気がしますが、いかがでしょうか?
26 :
1:2001/02/12(月) 02:03
マターリマターリ
28 :
吾輩は名無しである:2001/02/12(月) 02:14
文字だべ
文学だど!
反権力、というとちょっとあれですね。子供が権威を受け入れた上で、
それに反抗する、のとは違うんです、俺の言いたいのは。否定神学は
神学もしくは解釈学を通過して、つまりあるキャノンが確立した後に、
それでも無を志向するわけですが、実際にはあることが言われる、
しかしそれはなぜそう言われるのか、と立ち止まる姿勢から、言葉を
ぐりぐりと積み重ねていく、それが文学じゃないかと。…うまく言え
ない、言い足りないけど、ヘンな用語に頼りたくないので。鏡の比喩
を用いましたが、鏡をじっと見たり、その表面に視線を滑らせたり、
または鏡を打ち壊すことはある「外部」の表明となります。しかし、
文学はその外部の「事前」に留まるものだといえばいいでしょうか…。
その点において、1の疑問は無効とされます。変革の意思には秘さ
れたものを曝け出し、糾弾し、さらには断頭台にのせることまで含
まれます。が、言葉は無限数の文を作り出しながら、決して権威を
覆すといった思いきった行動にはでない。言葉を出すまでの逡巡に
こそ意味があり、確定へのためらいこそが文学の底に流れるものだと
俺は思うからです。
31 :
JPB:2001/02/12(月) 02:45
>1さん
言葉とは身体そのものだ、と。
この部分は議論が必要だと思うのです。確かに文学作品は
言葉を要素として構成されるけれども、出来上がった作品は
身体に還元できない「余白」を含む。それは作品独自の身体
であり、作者が予想もしてなかった効果なりを生み出すこと
もある。
それを「文学」と呼ぶかどうかは別の問題としても、私は
そうした実体に対しては敬意や畏怖、そして愛情すら湧くん
ですね。それはまた別ジャンルでも、同じことです。その
「余白」をやむなく「文学」と呼ぶ。そう私は考えます。
32 :
1:2001/02/12(月) 02:49
つまりニーチェが、具体的なキリスト教会批判をするにではなく、
キルスト教道徳の歴史をルサンチマンの歴史として解釈し、フロイトが
道徳的な価値観の裏に、性的欲求の抑圧装置を発見したように、ですね。
ポストモダン的に言うなら“非決定”ではなく“未決定”のための脱構築と差異の反復、ということですね。
しかし文学も――そういう未決定を“散種”する文学もまた、
権威的な“暴力”に転化しうる、というのは、文学というより言葉の持つ二面性でしょう・・・・
33 :
吾輩は名無しである:2001/02/12(月) 02:50
漫画の神様、手塚治虫は文学をどう思っていたのでしょうね。
世間的基準からして、文学が一流、漫画は三流とした場合、漫
画界のトップに君臨しても、いわば三流のトップでしかない。
ジャンルの掟に逆らうことは出来ないのだろうか。手塚はどう
いう思いで『ファウスト』を繰り返し描いたのだろう?
34 :
1:2001/02/12(月) 02:55
>>31 その点は小林が「作家とその生活」という主題で問題にしたことですね。
つまり、文学の――或いは“書く”という行為が持つリアリティは
作品にあるのかそれとも作家にあるのか、と。
当時小林の立場は、どちらにもない、ということでした。
「作家がいなければ作品はない。が、作品はいつか作家のもとから離れなければならぬ」
これはいわば、両者の間の差異の強調です。
今風にいえば、あなたのいう「余白」とは、解釈者がある程度の自由と想像力でもって
作品を解釈するための多様性、或いは未決定性、とでも呼べるのかもしれません・・・
35 :
1:2001/02/12(月) 03:05
>>30 付け加えますと、僕は―――やはり文学は何か確定的なものを志向しているように思います。
というのは、なぜ逡巡するだけに留まることなく、言葉として表明するのでしょうか。
疑いを内に秘めるだけでなく、公開的なものへともたらすこと、
例えば「確かなものは何も無い」という主張もまた、ひとつの“確信”であるわけです。詭弁かもしれませんが。
2について、再び以前書いた文から発展させます。
文学の状況について
50年代末期から60年代初め、カウンターであることがヒップだった時、
つまり、ある外部に権力を設定して、その鏡を打ち壊そうと皆が躍起
になっていた頃、メイラーが"nadir"(天底)と"zenith"(天頂)と
いう言葉を使っていました。「枠」でもいいですし、大きな物語でも
いいでしょう。ある限界が外にあり、そうして限られていることに
違和感を抱いている者がいたということですね。日本では安保や
朝鮮特需、経済成長や学生闘争を過ぎ、「大衆」と「個人」が
際立つ時代風潮になると、「状況」を捉えて「個人」を考える作家と、
状況に統計的には含まれない「個人」を書く作家がでてきました。
そこでも、一部の作家を除いて、結局は枠の中の言葉でしかなかった。
が、時が過ぎ、そういった政治や個人という形は「消費」という、より
大きな雰囲気に繰り込まれてしまった。そして言葉にもモノにも人
にも雑多な広がりができあがります。いや、もともとあったんでしょう。
あえて言われなかっただけで…。
結局90年代初めまでに底板も天井も全て抜けてしまって、何一つ
単純に言い切れないまま、一方ではモザイクのようにあらゆるものを
「文学」に入れることで、他方では一つの閉じた「文学」体系を妄想
する(妄想して肯定/否定する)ことで、大まかに「全ては文学だ」
だの「文学は死んだ」だの言い捨てるスタイルがだらだらと文学論
を引きずってきました。カウンターが消えた時、何もかもが徹底して
相対化されて、「文学」は社会を映すこともそれに逆らうこともなく、
ただ「書くこと」「読むこと」だけが残った。その時、文学は曖昧に
全てをおおっている、または文学は単なる好事家のサロントークだ、
となるわけです。これは文学に限った話じゃなく、アミューズメント
パーク(あらゆるものの等値)とか蛸壺(バラバラなこだわり)とか、
文化全般についての把握も同じようなものです。
読み手は具体的に生きているわけだし、その中で自分に遭う・合うもの
だけを取っていくことが当たり前。結局は主流も周縁も作り出される
ものだって一番知ってるのが消費者だ、ということになった時、天底と
天頂は完全に打ち抜かれたわけです。なにもかも「交換」されうる
消費が外部となった。今はそれだけが外部と言ってもいいくらいで。
そこで「なぜ文学であって他ではないのか」とくる。売れないものより
売れるものの方が、有用性は高い。需要が高くより消費されるものの
影響力は無視できない。
ただ、文学はたまたまそこにあったんです。意味を付与する必要はない。
漫画でも映画でも音楽でもなんでもいいんです。要するに立ち止まるため
のきっかけを与えてくれれば、それでいい。鏡の裏に探りを入れる短針
となればいいんです。俺は文学を選んだ。商品を選ぶのと同じ選択です。
ただ、そこにあって俺はそれが欲しいと思った。それだけです。
言葉が音楽や映像以上の何かをしうる、そんな過剰な期待などしてません。
ただ、言葉は俺が疑問を発しつづけるのに手ごろなものだったんでしょう。
「なぜ―――文学であって他ではないのか」
…では逆に尋ねます。
「なぜ、他であらねばならないのか」
37 :
JPB:2001/02/12(月) 03:13
>1さん
そうですね。その「余白」には多分に自分の像が映っていたり
します。小林はそれをさらに切り崩して、ギリギリまで分解して
いった。しかし何らかのものが「ある」ことはある。小林はそれ
を自らの言葉では埋めようとはしなかった。なぜなら、名指すこと
は本質的に暴力的な行為であるから。しかし、その暴力性が時に
人を魅惑する側面があることは否めない。それは人間の性でしょうか?
文学とは、言葉を用いてためらう態度です。それならば、発表せず
とも文学は成立することになる。
しかし、発表とは対話の契機を作ることになる。そして対話にあって、
人はより逡巡するものではないでしょうか。鏡像が突然自分の言葉を
喋りだす、その時、私たちは鏡の裏を覗こうとするのです…。
疑いを内に秘めるだけでなく、公開的なものへともたらすこと、
これは対話へのアプローチとは考えられませんか?
39 :
1:2001/02/12(月) 03:31
>>36 そう、その通り。文学はただそこに在った。そして出会った。
偶然が必然へと転化する瞬間だ。そしてそこに、たまたま文学という意匠があった。
理由としてはそれで十分でしょう。
文学の歴史、その文化的な等価性や文学に関する党派的な争い、そのようなものは
上のような出会いに比すれば、たいした問題でもないのでしょう。
「なぜ文学であって――他ではないのか」これは、ジャンルを異にする者からの外在的な問いであって
議論がズレないようにもうすこし考えてみないといけない気がしますわ。
>>37 そうでしょう。ソフォストや、弁舌家が政治家でもあった時代からそれは変化していません。
問題は、言葉の暴力性にたいする否定ではなく、覚悟なのではないでしょうか。
つまり、文学者は敢えてそういう言葉の"暴力性"をひきうけるでしょうか。
もしそうなら、そこにはどういう覚悟があるのだろう、とブツブツ考えてしまいます。
40 :
1:2001/02/12(月) 03:35
>>38 ええ、その点は同意します。
が、対話という点では、話言葉で行われるコミュニケーションと
書き言葉として残存することのなる文学とでは違いが出てきますね。
パロールとエクリチュールの違い・・何だかデリダ好みの話題になってきましたが
詳しいことはまた明日に!
41 :
ixion:2001/02/12(月) 03:37
今読み返したら、「約定との争い」って書いた俺がわりいな。
ったく、言葉って奴は…^^;
1さん、ただ原理的なものを話していてもしょうがない。具体例も交えないと
つまらんことになりそうだから、いろいろ具体例も交えていきませんか?
あなたは、何を読んでなぜ「文学」に問いかけようと思ったんですか?
42 :
JPB:2001/02/12(月) 03:40
「人間の性」と言ってみても始まらない。「余白」が言葉を要請し
そこに暴力的に踏み込んで行かなければならないなら・・・
その暴力の質をどうするか。それが倫理であり品性であるでしょう。
それが再び生み出す「余白」において、様々な言葉を受け止めるだ
けの余地を創るなら・・・それは「未決定」という名差し以外の配慮
を生み出し得るのではないでしょうか・・・抽象的ですね。
ごめんなさい。
43 :
考える名無しさん:2001/02/12(月) 03:41
なぜ映画であって、テレビドラマではないのか
44 :
日本@名無史さん:2001/02/12(月) 04:57
「**とは何か」ってやるとなんでも意味ありげになるというだけのことよ
45 :
age:2001/02/12(月) 12:00
つまらないことかくな>44
AGE
46 :
考える名無しさん:2001/02/12(月) 12:39
なんかクソ難しいことになっているな・・・
「はじめにことばありき」。
ロゴス至上主義は西欧の癖なのかも知れないけど、これって確かに
動物と人間を豁然と分けるものではある。要は、
言語は映像より音声より、根元的なものであろうという伝統ですね。
で、その「根元的なるもの」をこねくりまわした結果、
意味不明な言葉の羅列(逝ってよし! レヴェルの内容はここに含めていいよね)、
日記、各種エッセイ、ノンフィクション、フィクション等々が
アウトプットされるわけですが、「文学」の名に値するものは
そう多くはないはず。
まずはフィクションであること。これが暗黙の大前提であるような気がする。
その理由はむしろ単純で、「現実または非現実を手触りとして伝えること」
が諸芸術の使命だからだ、と私は思っている。
これは私のオリジナルでもなんでもない。確かロシア・フォルマニストの
誰かさんが言ってたことで、「手触り」という部分に全ての秘密が隠されている。
例えば「悲しみ」。理に落ちれば哲学、思考停止を強いるなら宗教
となるところを、文学は「手触り」として人に届けることができる。
本を読んで泣く、という現象がここで初めて生まれるわけだ。
受け身で楽しめる漫画や映画と違って、「読む」という行為により、
いわば参加して得られる「手触り」が、根元的であると同時に
(各人にとって)上質であろうという予想は容易につく。
私は権威主義を徹底的に憎んでいるので、大方の「文学」定義からは
はずれるだろうが、上の譬えでいうと、自分が泣けるなら『いつでも会える』
はその人にとって立派な文学であると思う。シェイクスピアの悲劇と比較して
云々、というのはヒョーロンカに任せておけばいい。
(論旨がズレた。すまそ。言い足りないが、とりあえず)
47 :
吾輩は名無しである:2001/02/12(月) 15:13
「文学」が「言葉」に転化し、
「言葉」が「書き言葉(活字)」に限定されて論が進行しているが、
本当にそれでいいのかなあ?
あと、言葉は人間個人の内面が外在化したものか(集合意思、一般意思としてはそうかも)?
ホッブズ、デカルトが指摘したように、
極めて、社会的、慣習的側面が強いと思うのだが....
48 :
ixion:2001/02/12(月) 15:47
文学=言葉という論は、思考放棄だと思います。だから、上で
ファウルズや太宰の言葉引いている人いますが、誤解の可能性
を恐れず、迂遠な言葉を積み重ねること、つまり文学は言葉に
よってなんとかしたいと思いつつ、そのなんとかする以前に
留まって問いつづけるもの、と書きました。俺はそう思う。
また、文学=フィクションではないと思います。「虚実皮膜の間」
という言葉、これ車谷長吉がやたらと好きみたいですが、虚と実の
両方に距離を保つようにしなければ、なんでも大人の言うことを聞く
いい子(^^;)か、大人の言うことは一つも信じない悪い子(^^;)か
というとんでもないところにいきつくような…。虚と実は一枚隔てて
隣り合わせ、だから、「フィクション」という言葉についてまた言葉
を重ねて逡巡しない限り、それは法律的断定になります。日記は文学
として成立しえるが、それは「実」に忠実だからでも、「虚」をとり
込むからでもなく、思考の痕跡として、何かを言っているもしくは
知っている状態になることを目指しての「途上」にあることが見出せ
れば(@ハイデガー^^;)、それは文学足りえるのではないでしょうか。
「手触り」ってのは、現実をフィクショナルに消化すること、もしくは
読み手にある感情を届けるために創作すること、と捉えてしまうと、
フォルマリストの言う「文学現象の歴史性を現象に対処する仕方たる
歴史主義と混同」(トマシェフスキー)することになりかねません。
現実の手触りを伝える虚構=文学、では、「〜主義」と同様に覆い切れ
ないものが出てきます。個々の感情は文字媒体によっても、また社会
状況によっても左右されます。この論では、「これってあんまよくわか
らんな」というものは文学に分類されなくなるような気がします。
「手触り」の「手」とは何か?どのようにして「触る」のか?そこに
文学的な契機があると俺は思います。でも、
>例えば「悲しみ」。理に落ちれば哲学、思考停止を強いるなら宗教
>となるところを、文学は「手触り」として人に届けることができる。
の雰囲気はすごく分かるような気がするなぁ…これが「あわい」に
在る、「途上」にあることじゃないですかね。
言語習得、言語心理学、認知学、意味論といった言葉の解剖は、
それが研究「方法」である点で文学とは一線を劃すべきではない
でしょうか?>47さん
49 :
ixion:2001/02/12(月) 16:34
ごめん、具体的な作品とか自分で言っといて、つまらん抽象論展開して
もうた。ちょっと具体例から文学を考えてみます。
例えば、今ちょうど読み始めたコルタサルの"Orientation of
Cats"って作品では、語り手である夫と、妻と猫との三角関係がまず
明示されます。お互いが見詰め合う、その視線の方角(orientation)
が定まっているわけです。妻は猫と同じように、夫を何も隠すものが
ないような単純な眼差しでみつめます。しかし、夫は猫の視線の単純さ
を受け入れることはできても、妻の視線は「理解」したいと思う。
つまり、何かがそこに、奥深くにあるはずだ、それを読み取りたいと
願う。ここでもう均衡が崩れ始めてます。妻の内、もしくは向こう
側にもう一人の妻がいると、なんとか思おうとする。(ここはよく
分かるなぁ^^;)で、なんとか妻を見つめつづけて、秘された内部を
示す糸口をつかもうとするわけです。
ある日展覧会に妻を連れていった夫は、その妻が作品を見つめる視線
を見ながら、この視線を受け入れることが出来る、と思った。しかし、
最後の絵、猫が窓の外を見つめている絵の前で立ち止まった妻は、
全く自分とはかけ離れて、他人には理解できない何かを絵の猫と一緒に
窓の外に見ているのです。ここで夫にとっては、妻と猫、ではなく、
もう「猫たち(Cats)」になってしまっているわけですね。
この作品は、特に感動すべきものでもなく、退屈なものかもしれません。
しかし、自明と思われているものが崩れ、理解しがたいものが出現する
過程をよく捉えています。理解しがたい視線、もしくは「他」なるもの
を、なんとか捉えようとして失敗する思考と逡巡がよく示されています。
ここで、文学を夫の視線が真の妻(実はそんなものはないのでしょう
が…)を捉えようとする戸惑いと考えてみてはどうでしょう?対象は
さまざまでしょうが、こういう戸惑いつつ探針を伸ばす行為が、俺には
文学であると思えるのです。
50 :
吾輩は名無しである:2001/02/12(月) 16:38
行き場のない大学生を集めて、本を読んで論争しあう学問?
51 :
47:2001/02/12(月) 17:24
>ixionさん
懇切丁寧なレス感謝します。
多少煽りめいてしまいましたが、私がお尋ねしたかったのは、
1.何故、活字媒体やそれに依拠した手段に“文学”が限定されるのか?
2.価値創造主体としての個人を無根底に持ち上げるのはなぜか?
ということです。
1に関しては和歌、口承、携帯電話でのやりとり、音楽の歌詞、映画の台詞
美術批評、酒場でのやり取りも含めて“文学”足り得るのでは?ということで申し上げたのです。
2に関しては社会、伝統(歴史)に対して個人はどこまで対峙しうるのか?
またその個人も絶対化し得るのか?といった疑念から申し上げた次第です。
「自分の夢を懐疑的に語る」とは、あまりに有名な言葉ですが、こういった
葛藤こそが私にとっての文学であり、
それこそが“文学“をして宗教、哲学、科学と大きく分つものだと確信するのですが...
52 :
猫:2001/02/12(月) 17:29
ウンコのごとく不必要にして必然なもの。僕的にほぼ終了。
53 :
プリン:2001/02/12(月) 18:34
>>51 1、2についてはおっしゃるとおりでいいんじゃないですか?
「文学」というカテゴリーも個の特権化も近代の産物です。
まあこんな事80年代から言い尽くされてきたことだけど,具体的な
社会でいよいよ露見し始めました。日本中の大学で「文学部」が改組
されてきています。
まあ,にもかかわらず「文学」的なるものは「ブンガク」として,
諸ジャンルの内部で生き延びる,というのが大月さんたちの主張みた
いですが・・・・
54 :
1:2001/02/12(月) 23:28
ええっと「文学とは何か」という問いを、私がどのような経緯で抱くようになったか?と。
ううむ―――。
私は思想系というより、哲学科の院生です。で、思想なり哲学なりというのは、
先ず"解決すべき事柄"、つまり"これが問題だ"というものに出会わなければいけない。
問題のないところに、問いはたたないし、問いがたたなければ、何も言ったり書いたりする必要は無い。
で、これは多少煽りめいた話になるかもしれませんが、
文学を読んだり書いたりしている方にとっては"何が問題なのだろうか"と思ったわけです。
つまり、根本的な動機として、書かざるを得ないような感情の"過剰"を経験している者にとっては
何が"問題"であり、何がそうさせているのか。
で、なぜ“問題でなければならない”のかというと、
単に読んで楽しむという態度は、ただの諦観主義であり、学問的に言っても不毛な気がするからです。
勿論、暇つぶしに雑読している人間にとっては、こういう問題意識は無縁なものでしょう。
しかし私は“学”としての文学や哲学はそうではない、と考えます。
単に読むに足りず、解釈し、そして言葉へと再生産する作業、これはそれで、従来の日常、これまでの
生活態度や価値観、制度的な共通了解から脱出や開放を目指しているのであり、
それゆえに、そうやって具体化されて顕現する言葉は、それまでの価値観に対してある種の政治性、暴力性を
持ち得るわけです。
55 :
吾輩は名無しである:2001/02/12(月) 23:40
だからixionが饒舌になるようなネタ振りすんなって
56 :
1:2001/02/12(月) 23:42
おお、こうして書くとずいぶん左翼的な話になるのかなぁ・・・
具体例を挙げましょうか。
例えば小林秀雄は「政治と文学」で、政治は俺は嫌いだ!といってます。
政治における抽象的思考、例えば彼の場合、マルクス主義的な世界改変志向を嫌ったわけですね。
で、こういう経緯から言えば、小林は政治的なものとは無縁な感じがします。
ところが彼はソビエトに関する紀行文で、ドストエフスキーの文学は本質的に革命文学である、と断じている。
これは中期の小林のドストエフスキー論には見られない見方であるし、小林のドスト解釈を、歴史をタテ方向に裁断した際に
断片的に現れる“自然”への問いである、と解釈した江藤の見方ともズレている。
晩年の小林に、どういう変化があったのかは私はまだ理解できていませんが、
いずれにしろ言葉の持つ政治性について小林が深く思うところがあったのは事実でしょう。
『悪霊』のテーマは、たんなる概念であっても人を殺す動機になるということ、やはり言葉の魔力なわけです。
で、私としては、こういう言葉の暴力性をどう捉えるべきか、ということが問題なわけです。
57 :
・e・:2001/02/12(月) 23:47
以下、面倒なので固定HNでいきます。
58 :
おちいんちん小僧:2001/02/12(月) 23:50
チンポの長さをはかるために必要なもの、それが定規。
そしてそれが文学になることはないだろう。
しゅうりょうしますもうこのスレで発言はしないでください
59 :
吾輩は名無しである:2001/02/12(月) 23:51
文学=言葉じゃないってことになってなかたっけ?
あと「文学とは何か」という問いは遠近法的倒錯であるってことで
解決したんじゃなかったっけ?
60 :
・e・:2001/02/13(火) 00:00
>>59 他者の意見を確定ずみの事実と同一視するような意志の弱いヒトに用はありません。
もうすこし説明してくれたまえ。
61 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 00:05
62 :
ixion:2001/02/13(火) 00:07
ごめん、もうしゃべらんどくわ>55
63 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 00:15
>56
マルクス主義=「世界改変志向」×
マルクス的共産主義=「自然主義的決定論=進化論」○
小林のとった態度→懐疑主義的イデオロギー批判
ex.絵画鑑賞=イデオロギー、骨董=自己確認(少し違うか)
哲学(井上の造語)の問題→政府通達による“ことば”の扼殺
パンテオン、イギリス国教会の靖国神社へのずらし込み(井上主導)
国民国家の創設、精神世界の全的掌握。
64 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 00:30
>
>>17 >『魔術師』からの一部引用、一部創作。
>太宰も似たようなことを宣っていましたね。
>一つの真実のために100ページも云々と
ありがとうございました。『魔術師』は小笠原さんの訳でしたね。
みてみます。『魔術師』の映画はヒドイと聞いております。でも
観たい。
つまらねえな
長々とカク奴も
いちいち茶々入れる奴も
66 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 00:57
67 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 00:57
>問いがたたなければ、何も言ったり書いたりする必要は無い。
ここ、わかんないわ、俺。
ただ、見せ掛けの「問い」をいくら発したって抽象にしか行き着かないわな。
69 :
46:2001/02/13(火) 01:37
ixionさん、暴言は無視してもいいっしょ・・
日記もフィクションだと思いませんか? 何故なら、言語自体が
フィクショナルなものであるから。
個人的な真理を言葉にした時点で、「幾分かウソになる」現象を
感じたことのある人も多いはず。その上、「悲しいから泣くのではなく
泣くから悲しくなる」という実に頼りない部分も我々は持ち合わせて
いるわけで。こうなるともはや、「虚実のあわい」ということ自体が
単なる概念、言葉の遊びを含んでしまうものだと思う。
ただ、私はいわゆるノンフィクションに「文学は成立しえない」と
断じるつもりはない。
猫さん、
ウンコは必要なものっしょ・・
それはともかく、映像や音声と違い、意味の影を逃れられない言葉が
「必要&必然」から「意味も目的もない地平」へ逃れようとする身振りも
そのまま文学たりうるでしょう。上述の「頼りなさ」に対し、我々は
愛と憎しみの両方を抱かざるを得ないからです。
1さん、
「文学」は「心理学」同様、学問としては成立基盤に弱点がありすぎる。
ヒョーロンカに振り回されても、どこへも辿り着けはしないと私は思うのだが。
「何か新しいコト、これまでなかったモノ」のリスト、作者名と作品名で
埋めつくされた文学史を後生大事にする限り、「自分にとっての文学」なんて
一生見つからない。まぁあなたにはそんなもの、興味のないことかも知れないけど。
70 :
・e・:2001/02/13(火) 01:51
>>68 >ただ、見せ掛けの「問い」をいくら発したって抽象にしか行き着かないわな。
確かにそうだ。ただ哲学ではそういう見せかけの問いは「擬似問題」ということで、
要するにナンセンス(無意味)ということになるでしょう。
ただ、文学においては、それがどこまで「問いに値する」ものであるかは
多少事情が違ってくるのでしょう。小林の言うところでは、知というよりむしろ「信」、ということになりますかね。
>>69 別に文学史を後生大事にするともりはないのですが、「自分にとっても文学」とは、
あまりにナイーブで、フラジャイルで、あまりに日本的な響きがします。局所化された個人主義の雰囲気がします。
文学とは、もっとスケールの大きなものである、単に“自分にとっての必然”だけで充足していいものなのでしょうか。
>・e・
もう十秒以上、というか、一日以上たっているんだよね。
早いところ倒してくれないかなあ。
72 :
・e・:2001/02/13(火) 01:52
うう・・誤字が多い。
73 :
11:2001/02/13(火) 01:52
>>64 映画化は、『フランス軍中尉の女』が最後でしょうか。
『魔術師』は観ていませんが、前半部分しか描いていないそうです。
『コレクター』同様に小笠原訳です。
サンリオの『黒壇の塔』『ダニエル・マーチン』は絶版でしょう。
74 :
46:2001/02/13(火) 01:58
>>70 うん、私の見方に同意してもらえるとは最初から思ってません。(46参照)
でも、
>文学とは、もっとスケールの大きなものである
コレが権威主義の源、文学という幻の学問のマヤカシじゃないのかなぁ。
73さん、『魔術師U』読まれましたか?
おもしろかったですか?
75 :
・e・:2001/02/13(火) 02:03
>>74 権威主義というか・・・それは要するに「いいモノはいい、ダメなものはダメ」という線引きの
曖昧さというか、困難さに起因する問題でしょう。
まぁ、単に私が多読する方ではなく、一点集中型の読書をしているからかもしれませんが・・
76 :
46:2001/02/13(火) 02:15
>>75 だからですね。客観的に「いい-悪い」の線引きは不可能なのでし。
10代の頃のマイ・ベストと20代、30代、・・・のマイ・ベストが一緒、
ってことはないでしょ? ちゃんと生きてる限り。
同一の人間の中で、評価はつねに揺れ動く。
同一の作家の評価も、時代とともに揺れ動く。
それにも関わらず、「定まった評価」という概念が世の中にはある。
この事情をどう解釈するか、というだけの話でしょう。
私は単に、「そんなもんを確立するために日夜狂奔するのはヤダ」
といっているだけです。
77 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 02:58
>・e・
結局きみは何を問題にしているのだ?何が不満なのだ?
そこをはっきりしないと答えようがないでしょう。
164 名前:・e・投稿日:2001/02/11(日) 04:35
文学板を見ていただけたら分かると思うが
俺は
「バカドモどもがッツ!!!!!十秒で倒してのけるわッツ!!」
てのを猛烈にヤリたいのだハァハァ
しっかりしてくれよ、院生さんよ。
79 :
・e・:2001/02/13(火) 04:23
>>77 私の問題意識は、私自身にとってもまだあやふやだが↑で述べたとおりだ。
それにモノ読みに飽きると、「文学ってそもそも何だ」という疑問がわくのは
しごく当然ではないのか?
それとも雑読ばっかりで自己反省は苦手なのかな?
>>78 ふふふ。そういうレベルの低い煽りに当人の人間性が反映されるものだ。
落ち着いて自分の行為を反省したまえ。
80 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 05:23
>・e・
文学板と哲学板は住人がダブってる可能性が高いと思うぞ。
それに文学板も君が考えてるほど馬鹿ばっかりじゃないよ。
81 :
・e・:2001/02/13(火) 05:36
何がいいたいのさ?別に文学板をバカにしてるわけじゃないし、
俺も哲学板ばっかりにいるわけじゃない。
変なところで党派的な意識を持たないほうがいいんじゃない?
82 :
78とは別人:2001/02/13(火) 06:12
哲学板より引用
164 名前:・e・投稿日:2001/02/11(日) 04:35
文学板を見ていただけたら分かると思うが
俺は
「バカドモどもがッツ!!!!!十秒で倒してのけるわッツ!!」
てのを猛烈にヤリたいのだハァハァ
165 名前:傍観者投稿日:2001/02/11(日) 06:31
君の誤算はココも馴れ合いだった事を忘れた点にある。
166 名前:・e・投稿日:2001/02/11(日) 07:07
その甘っちょろい馴れ合いの果てに――――
このような姿がある!!
http://mentai.2ch.net/book/index2.html 167 名前:考える名無しさん投稿日:2001/02/11(日) 07:45
>>166 きみ今度文学板で見かけたら集団リンチしてあげるよ。うん、変なところで党派的な意識は持たない方がいいよね。
俺がウザイのは百も承知、最初にゴメンナサイ。では出発。馴れ合い無用。
>「虚実のあわい」ということ自体が単なる概念、言葉の遊びを含んでしまう
承知の上。何が虚で何が実か、そんなものが果たしてあるのか、問いつづける
ことが文学であると言っているつもりです。島田が「やけっぱち」と「間」
という言葉を用いて、歴史に関わる恋を書こうとしているのも、結局歴史の
虚実を追い詰めようという気概なのかもしれない。言葉遊びの可能性、抽象のみ
に終わる、それはありうる。その上で問い詰め突き詰める姿勢を引き受けられる
か、そこに日記が文学足りうるか否かの境界があります。逆にいうと、文学界
新人賞某作品のように、きれいにまとめたブンガク的なものは、見目は良くとも
鏡の表面を撫でているだけです。在るとは何か、ではなく、在るものをまとめる
だけのよわっちいものだ。つまらん。基盤なき問いを引き受ける気概が欲しい。
>日記もフィクションだと思いませんか? 何故なら、言語自体が
>フィクショナルなものであるから。
フィクショナルなものでも、何かを囲い込もうとぐるぐる回るときには
自分にとってフィクショナルでない、つまり切実なものは何かを考えている。
しかし、一語で世界は壊れない。むしろ世界との戦いでは、世界が勝つ。
それでも無為な言葉を連ねるのはなぜでしょう?「やけっぱち」に抽象化
したり世界に支援したりするのではなく、不自由な言葉を使うことを引き
受ける時、その人にとって切実な何かが鏡像の裏に見えているはずです。
>「文学」は「心理学」同様、学問としては成立基盤に弱点がありすぎる
これは批評や研究の話ですか?だとしたら俺は関わらない。成立基盤の脆弱さ
を批判するとき、その批判もまた危うい淵に立っているはず。「文学」は
もともと基盤なんかない。あるとすれば言葉だが、それもまた不愉快なほど
危うい。しかし、危うくても問いつづけるのが文学だと思う。暴力的なものは
危うい、だから言葉は揺れ動くものでも、殺す力にもなる。小林の知よりも信
ってのは、この危うさに身を沈める覚悟のことではないか?だからこそ、彼は
こう言う:
「出来上った知を貰う事が、学ぶ事ではなし、出来上った知を与える事が教える
事でもなかろう。質問する意思が、疑う意思が第一なのだ」
天才の暗室に向き合って、情熱と諦念のはざまにあっても、小林は問いつづけた。
それがついには『本居宣長』に到って、明らかに言葉を疑うところまで行ったの
ではないか?(これは大いに俺の誤読かもしれんが…)
>「バカドモどもがッツ!!!!!十秒で倒してのけるわッツ!!」
ナイーヴに聞こえるだろうが、一言。倒れた文学はただの屍だ。文学は
戦地においてさえも屍の上で問いつづけるものではないだろうか?
84 :
46:2001/02/13(火) 13:29
>世界との闘争
納得です。しかして、世界とは「地上のリアル」のことですか、
それとも「アナザーワールド」のことですか?
私は、キョムとタイハイとフアンとタイクツとヒサンとブンレツ
(以下無限に続く)を手触りとして届けてくれる昨今の文学には、
敬意を表しつつお腹いっぱいなので、かなりな程度アナザーワールド
寄りなのですが。
私は多分、ixionさんよりずっと不真面目でしょう。
しかし、脳天気にも、この地上にあり得る「新しいヴァージョン」を
真面目に希求してもいるのです。
「囲い込む」手段として言葉を捉える、というのは私にはピンときません。
言葉を追いつめ、また言葉に追いつめられる感覚以上に、
隠れん坊や鬼ごっこといった遊戯めいた要素を感じてしまいます。
私にとり言葉が倒すべき敵ではない以上、これ以上のやりとりは
「議論のための議論」(馴れ合いの一種?)になるのかもしれませんね。
>学問としての文学
イヤ、要するに信頼するに足る尺度がどこにも求められず、(
>>76前半)
まともな物差しのないまま、いろんなものを測っても仕方ないよね?
ってことです。
>小林秀雄
この話題、私はパスです。理由を書くと、どっからどう見ても煽りにしか
見えないので割愛します。すびばせん。
85 :
吾輩は名無しである:2001/02/13(火) 13:40
えーっと、まず、「文学」というカテゴリーは
広すぎて特定する風に定義することは不可能。
一度に東と西はいっしょに見れません。
だから、「文学」とは何か、というのは
数学で言う「1」とは何か、見たいなもんで、
議論したところで哲学的な問題に結びつくのみ。
「文学」自体を議論するよりも「文学」から派生した
○○派、○○ズムとはなにか、について議論するべきです。
86 :
JPB:2001/02/13(火) 16:43
>ixionさん
>文学=言葉という論は、思考放棄だと思います。
私も、1さんも文学は言葉だといったわけではないです。
少なくとも私は、人間の活動の一根底には言語活動があり、それが
書き付けられるという一事をもって出来上がるテキストがある。そ
してテキストを生産するという行為のうちにある暴力性とは何かと問い、
その暴力性自体を自壊させたりするのと同様な「対処の様態」を、やむなく
「文学」と呼んでいると考えています。「文学」とは何か?に対する解答
は私にはこれしか言えない。それが、どこかで聞いたことのある考えだと
しても。もし「文学」が権威的であるのだとすれば、多様な様態を恣意的に
名指し、「領土化」(・・・くっ)するからでしょう。
では、その「文学」とは、現在<どう>あるのか?<どう>ある「べき」なのか?
と問い、応答するならば、批評になり、研究になり、はたまた権威にすらなり
うるでしょう。「文学」における戦争は、私は、ここでしか原則的にはできない
と考えるのです。
しかし、それにもかかわらず、この場ではないところで戦える場所があるか?
あるとすれば、どこか?そしてどう戦うのか?
そう問うことが、私にとっての読み、書くことの基盤ですが、それは別にテキス
トとして再提出するものとしてではなく、日々の生活の中で漸進的に遂行するもの
で、だから態度の問題として結論せざるを得なかったのです。
>・e・
どこまでも恥知らずなんだな。
こういう場合って、お前の哲学ではどういう具合に合理化するワケ?居直り以外に。
88 :
・e・:2001/02/13(火) 23:31
>ixionさん
>言語の暴力性、或いは言葉への懐疑という点では、晩年のカミュも小林と通ずるところがあるように思う。
単に読むのではなく、書くという間主観的な契機へと身をさらすこと、これは、既存の価値観への疑いと同時に、
或る新たな価値観――それがフォクションであれ――の表明であり、またこれへの同意の呼びかけでもあります。
が、こうした形で言葉が公共性を帯びてくることは、また同時に言葉の暴力性とも結びつき、ひいては
自己欺瞞的なゴマカシになる。
カミュの場合、不条理を表明することによる、不条理自体のイデオロギーへの転化という問題は早くからあった。
晩年の『転落』では、もともと弱者の論理であったものが、強者の論理へと転倒してしまうことが
弁護士クレマンスの自己告白とその欺瞞性の描写によって説かれていたように思います。
ここに至って、カミュになお言うべき言葉があったのか―――これは大きな問題でしょう。
89 :
・e・:2001/02/13(火) 23:35
いきなりカミュの話をしてしまいました。半ばネタ振りでしゅ。
>JPB
>しかし、それにもかかわらず、この場ではないところで戦える場所があるか?
そうですね。哲学者にとって「私があること」の不思議が問題であるように、
文学者にとっては「なぜ文学が在って――他ではないのか」という問題は、
つかず離れずの大きな問題――というより態度?――なのでしょう。
>>87 居直っていますが―――何か不都合でも?
90 :
・e・:2001/02/14(水) 00:15
忘れてたよ。
>>85 だからですね、別に文学というジャンルの総体について述べて欲しいのではなく、
それぞれにとっての「文学」という概念やイメージを整理分析してほしいということで。
91 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 00:20
>89
サルトルとの論争で「反抗的人間」の形式性が指摘されてましたが、
貴方の言う権力性とはこのこととも関連があるのですか?
92 :
・e・:2001/02/14(水) 00:28
あの場合、歴史とは眺めるものではなく構築するものだ、というサルトルの立場からすれば、
ファシズムにもNO、共産主義にもNOというカミュの反抗の論理は、ただの諦観主義であり、
しかもこの諦観主義がさも有効なイデオロギーのように世に受け入れられてはたまらない、というのが
サルトルの意見でしたよね。
クレマンスの元ネタはサルトルであり、『転落』はサルトルのアンカージュマンの暴力性にたいする意趣返し
であるという指摘があります。
したがって関係ないとは言い切れませんが、反抗的人間の形式性とはあまり関係ないように思います。
93 :
・e・:2001/02/14(水) 00:32
>>91 あの場合、歴史とは眺めるものではなく構築するものだ、というサルトルの立場からすれば、
ファシズムにもNO、共産主義にもNOというカミュの反抗の論理は、ただの諦観主義であり、
しかもこの諦観主義がさも有効なイデオロギーのように世に受け入れられてはたまらない、というのが
サルトルの意見でしたよね。
クレマンスの元ネタはサルトルであり、『転落』はサルトルのアンカージュマンの暴力性にたいする意趣返し
であるという指摘があります。
したがって関係ないとは言い切れませんが、反抗的人間の形式性とはあまり関係ないように思います。
94 :
・e・:2001/02/14(水) 00:33
あぅ・・
>そしてテキストを生産するという行為のうちにある暴力性とは何か
>と問い、その暴力性自体を自壊させたりするのと同様な「対処の様態」
>を、やむなく「文学」と呼んでいると考えています。
この「テクストの暴力性」って話、ちょっと納得が行かない部分もある。
大体「暴力」とは、対象を切り取ることの暴力性なのか、言葉自体の
乱雑さなのか、断定してしまう恐ろしさなのか、権威あるものにさえ
近づいて引き摺り下ろすことの出来る言葉の力か、よく分からない。
おそらく「領有化」する力のことでしょうが、俺はそれを暴力とは呼ば
ない。むしろそれこそが問いの可能性に転化しうるものでしょう。
「囲い込む」手段として言葉を捉える、というのは、なにものか明確で
ない相手に円を描くように近づき、それを捉えようとする言葉の連なり
のことです。もちろん、その中心には何もなかったり、ただの幻覚だっ
たりするのかもしれないですが、そういったドン・キホーテ的なまわり
みちこそが文学だと思うんです。
一般に、意識の全ての状態は、それ自体において、なにものかについて
の意識である。(フッサール)
ロブ=グリエが内部のものから人間を、いやむしろ小説を奪取しようと
したのは、言葉が「なにものかについて」という可動性、突き詰める
姿勢を失い、内部に安住してしまうことを批判した結果でした。彼は
言葉を動かすために、内部の安住から引っぺがし、1つのモノに焦点
を定めてあらゆる角度から言葉を連ねます。
「黒い街燈柱で、様式化されたきづたの葉模様が根もとに巻きつき、
雪がその輪郭を際立たせていて……すぐさま兵士は、もっと細かい
説明を加えて、その約束の場所をはっきりさせようとする。だが
はじめるかいなかに、ある疑惑が彼をおそい、そのため、慎重を
期して、一連の脈絡のない文句、つまり関係らしい関係がなく、
大部分尻切れとんぼで、いずれにしろ聞き手にとってはさっぱり
わけのわからない言葉の枠内にとどまることのほうを選ぶ。彼自身
もそれに、一言いうたびに、いよいよ混乱してくる」(『迷路のなかで』)
「オドラデクは、忘却された物たちがとる形態なのだ。物たちは歪めら
れている」というベンヤミンのカフカ論を引用しつつ、「歪められた物
をめぐる幻想」という自作を語る室井光広は、対象が何であるかも明確
でないのに、それを思い出そうとする衝迫について書いているが、これ
は忘れられることによって逆に求心力を持つ対象を、なんとか囲い込もう
とする営為のことであろう。さまざまな文献をアミダクジ式に繋げ、
それによって嘘のような日常を捉えようとする時の後藤明生も、やはり
明確でない忘れられたものを追い詰めようとしているのかも知れない。
『壁の中』での興味深い言葉として「バラバラ人間」がある。混血で
ある地下室人のことを指してそう言うのだが、そして、ロシア近代
知識人のスラブと西洋の混血=分裂が、日本近代知識人の「和魂洋才」
とアミダクジ式につながり、さらに突き詰めて昭和人間のバラバラさ
が「分裂だの混血だの以前に、《和魂とは何でしょう?》というところ
からはじめなければらん」と書く。既に昭和以降に生きているバラバラ
もバラバラ、徹底して多方向に引き裂かれた俺が、文学は「〜とは何
でしょう?」を続けることだと断じるのも、結局時代の制約なのかも
しれない。
が、時代と文学とは何の謂いぞ?
97 :
・e・:2001/02/14(水) 00:47
>この「テクストの暴力性」って話、ちょっと納得が行かない部分もある。
>大体「暴力」とは、対象を切り取ることの暴力性なのか、言葉自体の
>乱雑さなのか、断定してしまう恐ろしさなのか、権威あるものにさえ
>近づいて引き摺り下ろすことの出来る言葉の力か、よく分からない。
自戒をこめて同意。
言葉の暴力性についてちょっと曖昧なままで使用してしまいました。もうすこし突き詰めよう・・
さて、どうでもいいはなしですが、高野文緒『ムジカ・マキーナ』の
一節から、「理想」という言葉を全て「文学」に変換してみます。
あと冒頭の「人間」を「俺」に。
しかし「俺」というのはどこまでも愚かなものだ……。待っていれば、
あるいは探しさえすればどこかから天啓のようにはっきりとした形で
「文学」が顕れるに違いないと信じている。だからこそ「俺」は、
決戦のようにただ一度の取り返しのつかない一撃で、そうした「文学」
を決定したがるのだ。
今度は「音楽」を「文学」に
理想の「文学」、あるいは「文学」の理想というものは、それは言わば、
実現されるべきものであるというよりはむしろ、「文学」を愛し、求め、
欲せずにはいられないその想いのうちに、その行ないのうちにこそ存在
するのではないだろうか……。
だからこそ、本を読みつづけることには意味があるのだと、
俺は思ってます。
99 :
考える名無しさん:2001/02/14(水) 01:00
ああ、なんでもかんでも脱構築してぇ。。。
ああ、ところかまわず脱糞してえ。。。
101 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 01:55
このスレッド読む機しませn
102 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 01:59
書く気しないところまで徹底して欲しい>101
ああ、どうにかこうにか彼女とやりてぇ。。。
しかし、このixionって脱糞野郎は、自分で垂れ流すだけ垂れ流しといて、人の迷惑を考えない奴だな。
死ね。
たのむから死んでくれ。
104 :
・e・:2001/02/14(水) 02:12
言葉の暴力性というと、何か言葉を擬人化し、物象化したような印象を与えるようだ。
例えば言葉の“抽象性”という説明はどうだろうか。
抽象は主に二つの働きを象徴していると考えて欲しい。
まず一つに、捨象するという働き。これはいろいろと想像できる。
捨象とは何ものかを切り捨て、忘却することである。何をか?それは“個”の契機、本来的なものの契機である。
言葉へと公共化し、一般化することにとって、事柄の“私秘性”が奪われ、忘却され、
反復可能で代理可能な、言葉という象徴界へと具体化される。
この言葉のもつ反復可能性、或いは代理可能性によって、事柄の一般化や量化がはかられる、広い意味で言葉が政治性を帯びる・・等々。
う〜ん、思弁だ妄想だ・・
言葉の抽象性と政治性とのつながりを指摘している文献でもあれば紹介してほしい・・
105 :
・e・:2001/02/14(水) 02:14
それにしても真面目なコテハンとジャリのような名無しとの対比が激しいな・・
文学板の特徴でございますか?
106 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 02:20
結局ここにはオナニー野郎しかいないわけね。
107 :
・e・:2001/02/14(水) 02:23
あ〜あ。俺の意見を実証するようなレスを真っ先に書き込んでくれて・・プ
108 :
・e・:2001/02/14(水) 02:24
オナニー野郎ねぇ。考えようともしないのか…。
つまらないからやーめた(--
ま、確かにちょこちょこ作家について書いてりゃ文句言われないしね。
掲示板だからね。文学じゃないからね。
110 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 02:51
そうそう、しょせん掲示板なんて便所の落書きの延長なんだから。
熱くなるだけ無駄だよ。プ>・e・
111 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 04:04
文学は芥川の小説のとおりに畑で取れるものだと思います.
112 :
46:2001/02/14(水) 04:18
(ixionさんに刺激されて、私も柄にもなく檄文を書いてみたくなりました。
さめた皆さん、許されよ。)
アナザーワールドの一例。
社会学で専ら有名なマズローは心理学者としても論文をものしていて、
私の読んだ邦訳タイトルは、なんと『人間性の最高価値』という。
フロイト以降、心理学は「病気を治す」臨床論理が主流となっているけれども
マズローは「超健康ということ」について一応科学的にアプローチしている。
この破天荒な(エキサイティングで愉快で、少々エロチックでさえある)論文は、
当然のように、20世紀の暗さの前に傍流へと追いやられた。
・・・もし、この流れがメインストリームだったら、世界はずいぶん違ったものに
なっていたことだろう。と思わざるを得ない。
すべての人がそれぞれの暗さと愚かさを抱いて、あがいている。
神ならぬ身、それらはすべて単に程度の問題にすぎない。少しでも下を見下す風潮は
個人的にタマランものがある。
オリジナリティに拘るのも、同種の愚かさではないだろうか。すべての書物は、
かつて読み手だった人間からの手紙のようなものではないだろうか。
かつてマズローが名指した「自己実現」にこだわり、自己救済のみに汲々とし、
読者への愛のかけらもない言説こそ、永遠に呪われてあれ!
そして、かつての読み手からの手紙が小さな革命を起こす奇跡を私は夢見る。
なにせ、
「だが、俺はこういう考えをどう扱ったらいいというんだ。教えてくれよ。
俺たちは喋るだけなんだ。だけど、それで十分なんだ」(L.ダレル『クレア』)
だったりもするのです。第一義的に、言葉は道具なのです。
言葉の豊かさと呪いを信じること。
すれっからしではいけない。と思うのです。
113 :
JPB:2001/02/14(水) 04:45
>ixionさん
>この「テクストの暴力性」って話、ちょっと納得が行かない部分もある。
大体「暴力」とは、対象を切り取ることの暴力性なのか、言葉自体の
乱雑さなのか、断定してしまう恐ろしさなのか、権威あるものにさえ
近づいて引き摺り下ろすことの出来る言葉の力か、よく分からない。
やはり、ここだけが焦点のようです。以降については、納得です。
「言葉の暴力性」とは、かなり粗野にまとめてしまって・e・さんともども
反省しておりますが、しかし、目的如何で手段を正当化しうることって
どうか・・・?と。ちょっと、うまく説明できないのです。
書くってことは、原理的には必然的に他人を傷付け得ると、私は考えてい
ます。ここが、抽象的なのかなあ?
すみません。さげますね。
46さんや・e・さんにも、応答したいんですが
また、あとで書きます。
ごめん、全然見当違いの方向から口挟んで悪いんだけど、
「文学」という言葉が最大公約数的にはどのように認識、共有されているか、
つまり、「文学」という言葉のパブリックイメージはどうなっているか、ということは
ここでは問題にはならないの?
んなこたぁどうでもいい、ここでは原理的なことを考えるんだよ、って言うのなら
おとなしく引っこむよ。
けどね、ここでどんなに面白い(しかも素人目にもある程度は理解できる程度の)
議論が交わされたとしても、多くの人は素通りし、それどころか罵倒する人までいるってのは
正直言って残念に思う。
誰を責めるわけでもないのだけれど、大半の人は「文学とは何か?」という
問いかけをしたくないんだろう。理由はさまざまにしても。
で、きっと「文学」のイメージは時間がたてばたつほどますます表層ばかりが
共有される、薄っぺらい言葉になっていくんだろうなと思うとうんざりしてしまうのです。
蛇足で山形浩生のとある雑文からの一文をもじって。
「文学。たぶん日本でこのことばを正気で口走るのは、よほどの例外を除いてペテン師ばっか。くやしい」
仕事からかえってきた。「私」で語るのがもう面倒くさいので、「おれ」でいく。
>ixion
おれの言う言葉の暴力性とは、何かを書きつける行為で何かが始まることを指した。
だから、テクストとは言えず、テキストといった。この辺は良くなかった。すまん。
例えば、便所の壁に悪口を書くことで人が一人死ぬ。これは、極端な例だが、悪意
で書き付けられた言葉が何かを始めるいい例だろう。また、署名することで運動に
参加し、人が大量に死ぬ。これもまたいい例だと思う。極端な例だが、おれはそう
考えていた。こうした行為とテキストを書くのはほとんど同じ行為だろうと。
それは目的なく書かれたものであっても、それが他人と交わる可能性が出る事実が
出てくることで、とりかえしのつかない事だ、と。(いや、最初の読み手である自分
にとっても)
そして、それはまた目的を含意せざるを得ないというのも事実。また、他人に目的
を明示するものとして働き得る可能性がでてくるのも事実。誤読して人を殺しうる
可能性すらある、とおれは考える。それは第三者に対する決定的な暴力だろう、と。
確かに、自分(他人に対しても)に対する「問いの可能性に転化しうるもの」として
あることもあるだろうけれど、そこは不確定で、そう読めるのは(失礼だが)文学
作品に精通した人だけなのではないか?という疑念が、どうしても起ってしまうんだ。
これは何だ?と考えたとき、どうしてもそこに権威なり研究なりの介入がおこるんじゃ
ないか、と。つーか、脈絡なくて悪いが、おれはだから書くという行為を、また
書かれたものが、目的が反攻や内省を促がすものであるからといって、それらを
選別することはできないんじゃないか、と思っている。
おれはixionのひく例を見て納得した。だから、「おいつめる」言葉に関しては
了解どころか感動さえするが、にもかかわらず、例えば、研究や批評はどうでも
いい、といってしまうことや、あるいはそれに反発し、黙殺するという言説は
どこかうさんくさい感じがするんだ。むしろおれは、それに関しては徹底的に翻訳
しつづけることが(それが絶対に透明には伝わらないとしても)無粋だが倫理的な
態度だと思う。
どうも読み返してみると、趣旨の違う応答になったな。何でだろう?
>・e・
おれには言葉の存在が、どうしてもレヴィナスの言う、「存在の重み」みたい
に感じられてしまう。しかし、作品の中には、そうではない一瞬があって、それ
を「余白」のように言い表してみたけど、だめだろうか?
例えば、ルイ=ルネ・デ・フォレの作品を、そう感じたし、他にもたくさん
あった(具体的には、示せないけど)。しかし、それはふだんの読み手として
のおれであって、書くために何かを読むとき(いや、論文とかね)、享受する
こと以外の、いろいろな夾雑物がまじってきて、まともに小説を読めなくなっ
たことも事実。そこで始めて、問いを立てることができたのかもしれない。
>46
>言葉の豊かさと呪いを信じること。
おれは、その信のためには、「文学」という法によるのではない
倫理のようなものを迂回しなければならない、と考えます。
>にっく
それを話題にするのをためらうのは、その結論をだすには、
なんだろう、学問的手続きがとりわけ必要な気がするんだ。
・・・すまん。クソ真面目で、オナニー野郎のマジレスとして受け取って欲しい。
119 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 17:09
age
120 :
ヘルツォーク:2001/02/14(水) 22:09
俺は、所詮言語を介してしか他者に伝わらない「文学」というものに限界を
感じるけどね。「言葉の豊かさと呪い」なんてものは個人の主観に拠るもの
であって、その主観は言語というフィルターを通してるわけだな。
ようするに音楽や絵画と違って作家の表現する衝動がダイレクトに伝わらな
いんだ。言語なんてものは、それ自体が事物を共通化する為の記号であって
本質に触れない。
121 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 22:32
>120 言語について?そんなあなたはクリストファー・ノリスでもド・マンでもデリダでもいいから読もうや(藁
122 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 22:41
>>121 お〜でたでた。ポスト・モダンあたりの名を出して、自分では何も
語れない奴。
デリダなんて読むより2ちゃんの方がためになるよ。
124 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 22:52
>122 名を出すという行為そのものが俺という存在の一部でもあるのだよw=自分の言葉で語るw
一度読んでみたら?(藁
125 :
・e・:2001/02/14(水) 23:30
>>120 それは文学の"境界"であって限界ではない。
外在的な批判だな。
126 :
・e・:2001/02/14(水) 23:42
もういちど、書き言葉と話言葉との違いに注目したい。
パロール(発話)は、パフォーマティブで状況論的で、それゆえに時や状況に則して
生き生きとしており、みずみずしいものなのでしょう。届けられる相手も特定される。
が、書き言葉とは何であろうか?文学者は誰を対象に書くのか?
非常に思弁的なように思われるかもしれないが、私は「書く」という作業は、自己を殺す作業にも通じると思う。
死と再生という、凡庸な二項対立かもしれないが、
「書く」という行為が、何か理念的なものであり、普遍妥当性を――努力目標としても――目指すのであれば、
書くことは徹底して自己を殺す作業のように思う。
「死」のテーマは文学の問題にどのように関連してくるのだろう・・
127 :
吾輩は名無しである:2001/02/14(水) 23:46
(今日の播餌にはどうやって食い付こうかな〜)
128 :
過客:2001/02/14(水) 23:49
はいはい、つまらない応酬はそれまでにして。
>エロトーク
「事物を共通化する為の記号」てゆうことやけども、
さて「言語というフィルター」を通して伝えられるものが、
何で書き手ごとに全く印象が異なるんやろか。
漱石の文章と鴎外の文章読み比べると、
全く性質の違う書き手が想像される。
わしら文章の調子から人柄とか生理的な思想を想像できるんやからな。
たぶんあんさん、想像力が欠けてるんや。
責任転嫁はあかんで。
あんさんの文学に対する批判の大黒柱は、
「ダイレクトに伝わらない」てとこにある思うんやけど、
確かに、文学の媒体は紙やからな。伝わりにくい。
視覚的にも聴覚的にも何の感動もあらへんわ。
でもな、上に書いた通り、簡単やないで。単なる記号やない。
もう少し紙から芸術を捉える技術を鍛えなさい。
129 :
過客:2001/02/14(水) 23:56
わしが書いとる間も時間は過ぎていたのね。
わしが書いたんは124までの話や。
流行遅れみたい。えらい恥かいたわ。
130 :
ヘルツォーク:2001/02/15(木) 00:00
音楽や絵画を例にしたのは悪かったかなあ。
例えばね「太陽」という言葉がある。この言葉は俺達の主観を伴わない
共通化された記号だ。文章自体が記号の羅列だから、作家は自らの主観
を一々記号に置き換えなければならないわけだ。作家は自分の見える太
陽を書こうとする。だけどすでに「太陽」という記号の概念がある。
だから作家は複数の記号によってそれを補おうとする。だけど、その記
号の各々に概念がある。
確かに境界の問題かも知れんが、少なくとも絵画や音楽はフィルターと
して言語ほどのハンディキャップを負ってはいない。
131 :
・e・:2001/02/15(木) 00:07
>>130 全く分かっていないとはいわないが、その辺が難しい。
言葉の記号性というと無味感想だが、晩年の小林がこだわった表現でいえばそれは「かたち(forma)」だ。
絵画や音楽、或いは漫画や映画には、たしかに堅苦しい「かたち」はなく、自由闊達に自己を表現できるのかもしれない。
だが一方で、そういう“自由なエゴの放出”が芸術なのか、という疑問がわく。
漫画は所詮漫画であるし、アニメもたかがアニメだ。
ハンディキャップのないことは、それほどイイことなのか?
それこそある種の普遍性の放棄であり、刹那的で主観的なものにすぎないのでは?
132 :
・e・:2001/02/15(木) 00:08
まぁ文学であれ音楽であれ、ダメなものはとことんダメだからさ。
133 :
吾輩は名無しである:2001/02/15(木) 00:11
>126
「書く」という事に力点を置くのですか?
「読む」或いは「読ませる」という事の方が重要(意義があるという訳ではない)な気がしますが...
哲学においても「書く」というのは二義的なもの、或いは妥協と思いますが(発話に対してのという意味です)
いわゆる「文学」が活字メディアに限定されるのは大衆社会といった、
歴史的段階を経ての事だと思うのですが...
134 :
・e・:2001/02/15(木) 00:20
>>133 ううむ・・・それは私が“学(ロゴス)”としての哲学という体制的なものに組み込まれているからかもしれません・・
プラトンが活字を嫌っていたのは有名です。対話(ディアレクティーク)こそ思惟の営みだ、と。
でも私にはそんな状況は与えられていない・・
活字メディアが近代の産物としても、ひとまずそれ以外に、私には自分の問いや意見を表明する場面は与えられれていない・・・
135 :
人:2001/02/15(木) 00:24
>・e・
真性の馬鹿だな、お前・・・
136 :
・e・:2001/02/15(木) 00:29
>>135ホメてくれてどうも。
煽りも中途半端なアナタは、バカさ加減も中途半端な凡人だね。プ
>・e・ さん
なんでもいいけど低レベルな煽りに反応するのはやめた方がいいよ
余裕がなさそうな感じ
138 :
宣伝部長:2001/02/15(木) 00:37
・e・はAV女優清水かおりのエロビデオで毎晩オナニーしてる厨房。
139 :
ヘルツォーク:2001/02/15(木) 00:39
>>131 俺は芸術だからこそ普遍性を放棄すべきだと思うね。
まあこのへんは芸術とは何かという問題があるわけだが、刹那的で主観的
だからこそ芸術なんだよ。所詮俺達は主観でしか他者と接し得ないし、外
界と関われない。価値観そのものが主観的で形の無いものだから、それを
ある普遍的なかたちを経ることによって、本質は歪められるんじゃないか
い。言葉の持つ共通理解なんてものは法律や規定集なんかに求められるも
のであって芸術に向かない。主観と主観が通じ合う瞬間に芸術が生まれる
からね。
140 :
・e・:2001/02/15(木) 00:39
そうですね。過剰反応はよしましょう。
私は私で楽しんでるんですけどね(笑)・・スイマセン
141 :
・e・:2001/02/15(木) 00:43
>>139 ええっとそれは、普遍性を放棄するのではなく、
芸術における普遍性をどう捉えるのか、という問題だと思う。
何度も引用してしまうが、小林の言葉「真に個性的なものこそが普遍的なのだ」
これをどう考えるか、ですね。
刹那的で主観的なもの、かつてニーチェはワグナーにこの“あまりに近代的な”価値観を見たわけですが・・
142 :
133:2001/02/15(木) 00:49
>134
マジレス感謝します。
別に貴方を責めるつもりはありません。
以前、物象化=身体性の発見=歴史主義の所でも気になったのですが、
重要なのは“誤解”ということではなく、“活字”という形態が自然的事象を分解、個別化、
再統合化及びその領域の伸張を図る時にロマン主義といった形で、
“文学”が発生するのではないのか?と考えるからです。
対象の抽象性、語りの内在化、結果としての死(自意識)、あるいは自然の発見
というものが言葉(活字)の罠なのではないのでしょうか?
話しことば=パロールによる掣肘もありうるでしょう。
ただ、本邦においては明治体制下における、やまとことば(新古今、古今)の弾圧
によって、批判の芽は予め封じ込められているような気がします。
逆にいえば、後期小林や、石川、中上の仕事はそう言った文脈で評価できるのでは?
と、考えております。
143 :
KDDI:2001/02/15(木) 00:51
難しいことはよくわかりませんが。
文学の起源は神話・口承民話ですよね。
そもそもは物語であった。
映画も漫画も基本的には物語りを語るツールなわけで、
ツールは交換可能である。メディアミックス。
でも、文学にしろ映画にしろ、その表現方法でなければならない
必然性がないものは、文学(ないし映画)ではないと言いたい。
どうか?
144 :
吾輩は名無しである:2001/02/15(木) 00:53
清水かおりで抜きまくり〜
145 :
吾輩は名無しである:2001/02/15(木) 00:55
>その表現方法でなければならない
>必然性がないものは、文学(ないし映画)ではない
その必然性の話をしてるのではないの?
言葉をめぐる抽象論になっているからわかりずらいだけで
146 :
ヘルツォーク:2001/02/15(木) 01:03
>>141 ああ、なるほど。読んでないから判らんが「真に個性的なものこそが普遍的」ならば、
小林こそ言葉の限界に気付いてたんじゃなかろうか。ニーチェは確か、悲劇の誕生で
芸術における音楽の優位性について書いていたような気がする。
ふと気付いたが、このスレ「文学とは何か?」だったんだな。さようなら。
147 :
46:2001/02/15(木) 01:53
JPBさん、
>おれは、その信のためには、「文学」という法によるのではない
>倫理のようなものを迂回しなければならない、と考えます。
うわ。日本語の意味がわからないぃ。
にしても、「檄文の解説」なんて間抜けなことをさせたい訳かな、
あなたは・・いえ、ヤレというならヤリますけど。(泣き笑い)
>「真に個性的なものこそが普遍的なのだ」
そうそう。「きたないはきれい、きれいはきたない」ってことですね。
この表現はシェイクスピア(らしい)。誰かの孫引きで、原典あたってません。
どんな表現であれ、「理解」ののろさではなく、稲妻のような直感の
スピードで、なにかを「分かる」ってことがあるでしょう。
そんな時は伝達の道具である言葉が使われていながら、理解そのものには
言葉は介在していないと思うのですが。
ときに、文学は「目的」ですか、「手段」ですか?
とりあえずsageで。
148 :
吾輩は名無しである:2001/02/15(木) 03:28
目的でも手段でもなしに「文学」は「文学そのものである」
と思うんだが、、、いやただの傍観者だ。。
哲学板にでも逝ってきます
149 :
JPB:2001/02/15(木) 11:40
>46さん
いやあ申し訳ない。したたかに酔っ払っていたので・・・水商売はつらい。
言葉をね、信じようと思っても信じられないわけですよ。言葉が人を喜ばせる
側面がある一方、人を殺す側面がある以上。そして、その言葉が創る文学も
さらに信じられない。で、それに信じるために研究とかを読んで、あるいは
判断を仰いでみる。いや、研究に関わっているとそういう態度をとってしまう
のです(w。しかし、それも法、つまり判断の基準をつくるもので、絶対として
うけとるわけにはいかない、と。だから、書き手が言葉に対してとる距離感と
態度=倫理をまず信じて(それは小説のうちによく表現されると思うのです。
論文やコラムだとフォーマットがかなりの程度規定されているから)みて、
書くということに向かい合わなきゃ、やっぱまずいかなと考えたわけですよ。
スミマセン、なんか。いや、檄文はわかります、大丈夫です。
>・e・さん
言葉の政治性については、どういう観点から考えるんですか?
研究という場でやるなら、やっぱり歴史的状況とか、言語流通の産業構造とか
近代の中では不可欠なんじゃないですか。哲学の人だとあんま興味ないかも
知れないけど、ケヴィン・マイケル・ドークの『日本浪漫派とナショナリズム』
とか参考になりますかね?
横槍を入れる様だが。
ハイデガーがポエジイを極限的な概念として思考したように、文学
などは極限的なもので、あるのは個々の作品だけではないのか。
ここのスレでは言葉について極限的なものを定義しようとしている
が、それよりは個別の現象として現れてくる作品を扱うのが先だと
思えるのだが。
文学が難解で厄介なもの、不要で暇人の遊びと思われているのは、
その個々の作品において書かれているものがいいかげんな普遍性
を目指しているという共通認識が出来あがっているからで、なぜ
そうした中間無き極限性が文学として認められてしまったのか
という貧しさについての考察を廻らせるべきであろう。どうも
皆言葉を定義しようとしているだけの様に見えて、退屈だ。
斯く滔滔と不要なレスを入力し乍も、文学作品と云う名に相応しい
個別の現象が壱つも浮かばないのは如何。無力。sage
152 :
・e・:2001/02/15(木) 18:14
>>150 それはその通りですね。とりわけ言語流通の産業構造に関しては、アドルノやハバーマスらフランクフルターシューレが、
或いはブルデューなどの社会学者も注目していました。大雑把にいうなら、マルクスの「交換」やフロイトの「代理」概念がキーワードになってます。
>>151 >ハイデガーがポエジイを極限的な概念として思考したように、
もうすこし説明をいただけますか?
ハイデガーのどの詩論ですか?ヘルダーリン、リルケ、トラークル、ゲオルゲ、ツェラン、ランボー、或いはギリシャ悲劇に関してですか?
いちおー専門なんで・・
153 :
46:2001/02/15(木) 21:30
道具はすべて、使い方次第。個人的には、言葉は原子力並みに
ヤバイものだとは思ってはいますが、兵器になりうるからといって
「原子力そのものに問題がある」とは思ってません。
政治的な文脈をマイナスすれば、原子力は人間が発見する・しない、
利用する・しないに関わらず、単にそこにあるだけなので。
つまり、
>言葉が人を喜ばせる側面がある一方、人を殺す側面がある
ことこそ、文学の面白さ、奥深さにつながっていると思うのですが。
もちろん、風力発電とかのヤバくない方法を採用して生きてゆくのは
個々人の自由でしょう。しかし、私は「文学教」という信仰について
檄を飛ばしたつもりはなかったのですが・・・(汗)>JPBさん
まぁしかし、(誰かが触れてましたね、あ、にっくさんだ)
文学のパブリックイメージが幾分か「文学教」めいたものでできている
のは確かだと思います。自分なんかよりよっっぽど知識と見識の豊かな
研究者や批評家の言に接したとき、圧倒される以上のことがどうにも
起きやすいのです。
つまり、「自分の感受性を疑う」こと、「思考停止に陥る」こと。
>中間無き極限性が文学として認められてしまった
などというのは、読者を圧倒(啓蒙?)することに燃え、おのれの
超絶的視点を他者に押しつけてやまない、一部(と言っておこう)
評論家の陰謀の結果です。
第三者的に文学を「外側から見て」いる限り、愚かにも愛しい自分自身の
感受性が、何かを感じて震えることはないでしょう。誰それの解説を苦労
して受け売りしても、それはただ思考停止を強いられているだけでしょう。
巻き込まれてナンボ。それが、文学というものじゃないですか?
>46さん
了解っす。言いたいことは言ったのと、このままだと権威によりかかりそう
なんで、一旦退場しますです。グッドラック!
155 :
・e・:2001/02/16(金) 00:15
文学の極限性・・ううむ、分からん。。。
156 :
通りすがりの名無しさん:2001/02/16(金) 00:28
優れた文学作品って?
ドストエフスキーと山田詠美、どっちが上ですか?
文学における価値基準について考えるのも一つの手ではないでしょうか。
157 :
吾輩は名無しである:2001/02/16(金) 13:02
>>130 こりゃ俺の私見なんですけど、、
絵画について言語と同じハンディキャップがある、とはどうしても
思えないんですわ。第一印象はどうあれ、絵画ってのはその奥にある
ものを伝えようとしてるわけでしょう。そこで相手もそれなりの
知識が必要となる、もっともそれがなくても確かに「感動」というものは
ーたとえば文学がそうであるように受け取ることはできるんですが・・・
写真ができてからの近年の写実主義のあり方を見てるとますます複雑に
考えてしまいます。
その点音楽のほうがより簡単に「感動」を伝えられる利点があるのでは?
ともおもってしまいます。
駄レス、遅レス、長レスと三拍子揃ってしまって申し訳ありません
158 :
吾輩は名無しである:2001/02/16(金) 16:20
>157
そうか?
厨房のとき、音楽の時間にクラシック聞かされて、退屈だったよ。
ビートルズの良さは爺婆には分からんだろ。
159 :
ヘルツォークの子分:2001/02/16(金) 19:39
俺はね。芸術とはアプリオリにしか通じ得ないものだと思うね。
作品を知覚するとき、感覚的に受け入れられることが重要なんであって、その作品世界に、
パトスに、共振するところに価値を感じるんだよ。
共振したときは、と〜っても感情的になるね。感情っていっても喜怒哀楽じゃないよ。いい
ようの無い高揚感だ。
作品とのコンタクトは頭脳による解釈の助けを借りてではなく、ある意味別の器官を通り感
情に作用するようなもんだ。
言語を通してこの感情に到達することは困難だね。どうしても頭脳的な解釈を経由するから
な。
160 :
ヘルツォークの子分:2001/02/16(金) 20:08
>>157 俺はね。第一印象で共振しないものは、所詮それだけのものなんだと思うよ。
ようするに主観と主観が通じ合わないんだな。
知識なんかいらない。大切なのは感情的プロセスなんだよ。
所詮その絵画の意味を言葉で説明したところで、「あーなるほど」とは思う
だろうけど、すでにコンタクトは失敗に終わったわけだ。
作品なんてものは、恐ろしく主観的なものなんだから、それと通じ合える機
会はそうそう無いもんだよ。
論ずるほどに本質からは遠ざかる危険はあるし、思考放棄は最悪の選択だ。
常にそれを心掛けていないと遭難しそう。
…でixionはどこ行ったのよ?
帰ってこーい!
162 :
・e・:2001/02/16(金) 23:36
同じく駄レスすまんが・・
>>159 アプリオリの使用を間違ってるよ。
>>160 じゃあモーニング娘全肯定ですね。
>162
>アプリオリの使用を間違ってるよ。
そりゃあんたのあたまが間違ってんじゃないの・・
僕には読めるよ
164 :
・e・:2001/02/16(金) 23:57
説明どーぞ。
165 :
吾輩は名無しである:2001/02/16(金) 23:58
先験的と言うなら、芸術はガキにしか理解し得ないものになるな。
つまらない論だ。
166 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 00:02
>162
意味わかんねえ。モーニング娘?ハァ?
167 :
子分:2001/02/17(土) 00:06
理屈抜きにわかるって意味でアプリオリを使ったんだが、ホント言葉って
なかなか伝わらんもんだねえ。
>>165 ある意味ガキだからこそ理解できるかも知れないね。もしかして芸術を高
尚なものだって思ってるんじゃない?
168 :
子分:2001/02/17(土) 00:08
理屈抜きにわかるって意味でアプリオリを使ったんだが、ホント言葉って
なかなか伝わらんもんだねえ。
>>165 ある意味ガキだからこそ理解できるかも知れないね。もしかして芸術を高
尚なものだって思ってるんじゃない?
169 :
子分:2001/02/17(土) 00:09
2重カキコスマソ
170 :
・e・:2001/02/17(土) 00:13
>>167 水掛け論になるようだが、原語の意味をキチンと踏まえた上で使用したまえ。
自分の意見を述べるのであれば、言葉の伝統的な意味内容への敬意も忘れるなよ。
ガキだからこそ分かる?アホか。
きっとあなたは“等身大”の芸術で満足なんだね。
171 :
・e・は:2001/02/17(土) 00:16
哲学板にいるのと同じ人?
だとしたら曲者
子分君気を付けて!
172 :
子分:2001/02/17(土) 00:20
>>170 等身大の芸術以外の芸術ってなんだい?
教えてくれよ。
173 :
165:2001/02/17(土) 01:04
ていうか、アプリオリな芸術なんてすでに矛盾してる。
芸術として定義されてんだから、アプリオリなわけがない。
何にたいして先立っているというのか?
あんながいう感情なんてのも、所詮作られて埋めこまれたものだよ。
それに気付かないままナイーヴに「主観」とか「第一印象」なんて
使うと、小林に笑われるぞ>子分
>作品を知覚するとき、感覚的に受け入れられることが重要なんであって、
>その作品世界に、パトスに、共振するところに価値を感じるんだよ。
はっきり言うなら、あんたは「熱い」芸術を求めていて、
それに「冷たい」理論や知識を対置しているだけだ。
だから何の新味もないし、面白くもない。
>作品を知覚するとき、感覚的に受け入れられる
じゃあ、どのようにして受け入れているのか、「感情的プロセス」は何か、
そこを突き詰めないとただの主義表明でしかない。
174 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 01:12
文学と小説の違いは?
175 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 01:20
俺も興味あるなあ、・e・君が「満足」できる“等身大”じゃない「芸術」ってやつがどういうものなんだか。
176 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 01:27
>>173 私は子分君と似た芸術感だね。
何に対して先立っているのか=知識や経験に先立ってるんだろうね。
アプリオリって言ってるんだから。
芸術的価値を観念的でなく皮膚感に求めてるんだろうね。
逆に芸術というものが定義されているとすれば、それはどのように
定義されるものと考えているのか聞きたい。
ブルデューの『ハイデガーの政治的存在論』とりあえず読んでみましたよ。
178 :
・e・:2001/02/17(土) 01:31
私のいいたいことは165さんが述べてくれたので・・
>>175 簡潔に述べておく。そもそも芸術に“満足”するとは何だ?
どんな芸術であろうと、いや、それが優れたものであればあるほど
何かしらの“ひっかかり”や驚き、不安が伴うものだ。
そういう、感情の“過剰”を誘発しない芸術などたいして意味がないのでは、とさえ思う。
俺は高二のとき『悪霊』を読んだが、読後感はマンゾクして寝れる、などというものではなかった。
むしろ、原始的な恐怖感さえ感じたよ。
179 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 01:33
小説の定義とは?
novel@`roman@`fiction@`shao shyuo
色々あるけど個別かつ具体的に検討しないと。
180 :
・e・:2001/02/17(土) 01:34
私のいいたいことは165さんが述べてくれたので・・
>>175 簡潔に述べておく。そもそも芸術に“満足”するとは何だ?
どんな芸術であろうと、いや、それが優れたものであればあるほど
何かしらの“ひっかかり”や驚き、不安が伴うものだ。
そういう、感情の“過剰”を誘発しない芸術などたいして意味がないのでは、とさえ思う。
俺は高二のとき『悪霊』を読んだが、読後感はマンゾクして寝れる、などというものではなかった。
むしろ、原始的な恐怖感さえ感じたよ。
181 :
・e・:2001/02/17(土) 01:35
ごめんなさい。。
ハァ、『悪霊』ですか。
お答えをもらったんでマンゾクして寝れそうです。
オヤスミ...。
芸術という用語が生まれた時点で、
何かしらからみあう政治性があったわけでしょう。
芸術は精神を高揚させる、
芸術は物事への深い洞察を生む、
芸術は現実とは別の位相に存在する、
いくらでも芸術論はあったが、そこに中心となるはずの芸術はなかった。
もともと中心がないまま、ごてごてと衣が着き、
大体で芸術ができあがった。だから統一した芸術などはない。
子分が「理屈抜きに分かる」と言ったのは、理屈は無駄だという
政治性の現われだろうし、
「観念と皮膚」という176も、最初から中心なき芸術論に陥っている。
最初から「好きなもの」しか存在しない、と言いきればいいんだ。
選択の根源を問いにしても仕方ないだろう。
芸術などは存在しないで、芸術「感」だけが存在する。適当に。
ハァ、『悪霊』ですか。
お答えをもらったんでマンゾクして寝れそうです。
オヤスミ...。
芸術という用語が生まれた時点で、
何かしらからみあう政治性があったわけでしょう。
芸術は精神を高揚させる、
芸術は物事への深い洞察を生む、
芸術は現実とは別の位相に存在する、
いくらでも芸術論はあったが、そこに中心となるはずの芸術はなかった。
もともと中心がないまま、ごてごてと衣が着き、
大体で芸術ができあがった。だから統一した芸術などはない。
子分が「理屈抜きに分かる」と言ったのは、理屈は無駄だという
政治性の現われだろうし、
「観念と皮膚」という176も、最初から中心なき芸術論に陥っている。
最初から「好きなもの」しか存在しない、と言いきればいいんだ。
選択の根源を問いにしても仕方ないだろう。
芸術などは存在しないで、芸術「感」だけが存在する。適当に。
二重、スマソ
・e・さんさあ。
感情的になるのは全然OKだけど
わざわざ高圧的な態度を取らなくても論旨は伝わりますよ。
読んでていちいち引っかかります。
188 :
子分:2001/02/17(土) 01:50
俺もショスタコービッチの5番を聞いてぶったまげたよ。この高揚感は何だろう
ってね。俺にはその瞬間に芸術的価値を求める。その後の解釈は知的欲求による
もんだ。
俺が「ある意味ガキのほうが理解できる」って言ったのは、例えば(ここは文学
板だから三島の言葉を例にするが)天皇と聞いて厳かさを感じるものもいれば、
醜いと思うものもいる。政治的概念を導入すれば醜くもなり、美しくもなる。
ようするに経験や知識から生じるもんだよ。
そういうものが無い子供のほうが、純粋に作品の本質に迫れるんじゃないかって
こと。
つ〜か、高圧的なのが彼の持ち味なんだから、そんなことで非難するなよ
190 :
・e・:2001/02/17(土) 01:52
すいません。。。
盛り上げようと必死なんです(笑)
191 :
子分:2001/02/17(土) 01:59
192 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 02:00
エサが尽きてきたか?
いつの間にか、話題の中心が「芸術」に移ってるね。
ちょっと質問なのだけど、「芸術」という言葉が生まれたのはいつ頃なのだろう?
俺の予想では、明治時代に「art」という概念が西洋から流入してきたときに
誰かがそれを「芸術」と訳したのではないかと思うのだけど、
知っている人がいたら教えてくれませんか?
で、もし俺の予想が正しかったとすると、
>>185で言う「政治性」を考えるためには
明治時代における日本の西洋への意識を掘り下げていかなきゃいけないんだろうな。
いつか暇が出来たらじっくりと調べてみようかな。
194 :
・e・:2001/02/17(土) 02:25
芸術と政治性か・・梅原猛が泣いて喜びそうなテーマ(笑)
195 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 02:33
芸術論じゃなくて、文学じゃなかったのか??
196 :
子分:2001/02/17(土) 02:45
おっ、まだやってるね
エサつきたんで寝ます。おやすみ
197 :
46:2001/02/17(土) 02:49
うーん。芸術って造語をでっちあげた人・・・、二葉亭四迷あたりかな?
>芸術は精神を高揚させる、
>芸術は物事への深い洞察を生む、
>芸術は現実とは別の位相に存在する、
これは政治性というより、人が「芸術」に向かう契機に関わること
なんじゃない? ルネサンス絵画の多くは「教会の意志」が契機
だったし、クラシック音楽では「パトロンの意向」が無視できない
要素だったわけで。契機が異様に内在化し、派手っちく屈折しはじめる
のは、やっぱり近代以降じゃないかな。その過程で「芸術」の
崇高かつ純粋なるイメージが醸成されてきたような気がするんだけど。
だから、
政治的というなら「芸術の価値」について論じることになるような。
ゴッホが億単位のカネで売買される、その背景にある思惑、・・・
いや、これは「政治的」というより「社会的」問題かなぁ。
198 :
freelove2000:2001/02/17(土) 03:17
199 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 04:03
「芸術において同質の精神が結合することほど神聖なものはない。
出会いの瞬間に芸術愛好家は自己を超越する。彼は存在すると同時
に存在しない。彼はそこで永劫をちらりと垣間見る思いがする。
しかし、その喜びを言葉にあらわすことはできない。眼には舌がない
からである。彼の精神は物質の束縛から解放されて、事物のリズム
の中に流動する。かくて芸術は宗教に肉迫し人類を高潔にする。」
岡倉天心『茶の本』五 芸術鑑賞より
なんか、とんでもないこと言ってますね。岡倉は学生時代(東大文学部哲学科)、
フェノロサから、ヘーゲル哲学(とりわけ美学)の手ほどきを受けたんだそうです。
「我々は詩人として地上にある」とは、たしか、ヘルダーリンの詩句
だったと記憶してますが...言葉云々を別にしたら、似てるような気も、します。
200 :
ixion:2001/02/17(土) 04:09
それよりも、イラク空爆だ。クソ。政治性なんて軽々しく使うもん
じゃないだろ…。
201 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 06:11
202 :
俺は高二のときシリーズ:2001/02/17(土) 06:27
>>180 >俺は高二のとき『悪霊』を読んだが、読後感はマンゾクして寝れる、
>などというものではなかった。 むしろ、原始的な恐怖感さえ感じたよ。
俺は高二のとき『筋肉マン』を読み、弟に「筋肉バスター」
をかけて、親父に怒られた。
高2→将軍
>>180 君がその後神の存在に興味を持ち、しかしながら
過って新興宗教にはいり、今後悔している事をキボンヌ(藁
205 :
傍観者:2001/02/17(土) 10:29
なんか、煽りがお下劣だな。
煽りも脳味噌使わんと外野から野次が飛ぶぞ。
>傍観者
気の効いた野次のひとつでも飛ばしてみろよ
207 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 11:36
ギリシャの芸術が現代人を感動させる理由を、マルクスが説明している
みたいなんですけど、どの本の中なんでしょうか?岩波文庫かしら?
208 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 11:44
209 :
やじうま:2001/02/17(土) 20:53
>>204@`206
自分で脳味噌足りない事認めてどうする?
それからもう/一つ、例えば……が/……へ行って/虐殺をする/できるだけ虐殺/
しやすい相手を見つけて虐殺/して、その結果/自己の/幻想を維持している/わけね
それは、……にとって/根拠のあることだけど―/千年王国(メシアニズム)/
といえなくもない/そのためには/必ず他者が/必要なのね
戦争も/交換の一形態/ということ?
ええ、根本的に考えれば/まったくそう/なのね
たぶん/詩人を一人/虐殺するのに/コストはいらないさあ
そのようにして/だんだん/言語をうしなっていく/つらいね
(藤井貞和「全文引用、たぶん」)
あ、言葉/あ、汚れ/あ、時間/あ、存在
(「じゅりあ・くりすてう゛ぁは……」)
こうした言葉たちを目にしたとき、俺は、ここに「文学」がある、と言い切りたい
欲望を感じる。それは別に抽象的な言葉を連ねているからでも、意味が分からなく
て何だか難しそうだな、困ったなぁ、これって文学っぽい?と思うからでもない。
ただ「……」を埋めようとする欲望や、「つらいね」と言われたとき、ああ、確か
に辛いね、でもなぜなんだろう?とか、「あ、」って、何で立ち止まるんだろう、
はっきり言えばいいのに、と思う自分を押し留められないからだ。何かを伝えよう
と努めることからちょっと外れて、自分の中で言葉の価値が変わるきっかけのよう
なものが、ぶくぶくと浮かんでくるような気がするからだ。泥のように固まろうと
する思念を、何かが揺り動かす。それを「出会い」と言うなら、思念と言葉が出会
ったのだ。
ないページに書く/君の手に偽テクストはにじみ出る/その余白から/
泥のような思念までの距離
とおいね/思念の泥までの距離
(「〈偽書〉について」)
「距離」を測定するためにはもちろん言葉は手ごろな道具だ。例えば「文学」と口に
出せばいい。「ああ文学ね」と他者が確かめてくれる。そして自分と他人と、うまく
交換し合って距離が決まる。決まったように思う。幻想が維持できる。しかし、
泥はまだ臭い、なんだろうこのぼんやりした臭いは?と問い続ける自分もまた、
幻想の脇に立ってしまう。距離はどちらか一方を定点とせねば測りえないが、
思念も言葉も定点にはならない。何かが本物だと思った瞬間、それはひっくり返って
偽物になる。何を言っても本物にはなれない。いつも本物は「とおい」ままなのだ。
序章はおわる/またはおわらない/うたはおわる/またはおわらない
(「行ってしまうまたは行ってしまわない」)
定点がないことに苛立ち、現実を定点とする詩人はまたこう言うかもしれない:
「だが 書物たちよ/反省するがよい 書物たちよ/なぜに おまえらに声がない
のか/反乱がないのか お前には逆らいたぎる狂った血/あの血がないのか?」
(金芝河「書物たちよ」)近くに、身体に、現実にたぎる血を求めて、行動を促す
かもしれない。しかし、全てのあこがれには定点がなく、また俺はあこがれなし
には何一つ語ることができないのだ。「自分」というものにまであこがれながら、
いつも終わり/終わらないことを繰り返す。"I can't go on@` I'll go on."
と呟く”I”にさえ、違和感を抱く。価値が手ごろな現実やはっきりした言葉に定点
を持つもので、かつ距離が測れるものであるなら、コストをかければ簡単に虐殺
できるだろう。夜と霧にまぎれて「殺せ」と命ずれば済む。しかし、言い切ること
は生きている限り決して出来ない。価値は常に見直される。桑原武夫は軽率にも
価値創造的な文学を純文学、価値再生産的な文学を大衆文学と呼んだが、繰り替え
される戸惑いはまた創造でもあるのだ。だからこそ、「文学」はいつも問いかけ
繰り返すことしかできない。
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
たいへんなことが起きる
(「枯れ葉剤」)
213 :
吾輩は名無しである:2001/02/17(土) 23:15
>209
あの、、、204ですけど、、、まじで206と
別人なんですけど。。。こんなこといっても説得力
ないので一応sageでかきます(藁
言葉なんて前線で死にゆく兵士の微笑に負ける。
長く書いてごめんね。しかも雑。最低。
でも藤井貞和の詩は最高。上のやつもキムジハのもの以外は
せぇんぶ藤井の詩です>213さん
反戦クソ詩だけ書いてる詩人じゃないんだよ…って、知ってるか。
きっと/たぶん/それではまた/おたよりします/母上さま/一休
おお、文学だ(笑)
♪かもね〜か〜もねそ〜か〜もね〜♪
文学は、自分が楽しめればいいもの、ということで^^;
219 :
吾輩は名無しである:2001/02/18(日) 00:27
文学は極私的なものってことで。
例えば、文学を文学と呼ぶことを、やめてみた。
何も変わらなかった。
今日もいい一日。
おやすみなさい...Zzz
例えば、文学を文学と呼ぶことを、やめてみる。
何も変わらなかった。
今日もいい一日。
おやすみなさい...Zzz
>ixion
thanks! ついでといっちゃあなんだけど甘えていい?
反戦ものの詩には興味ないん。
お勧めの詩集とかありますか?
なんというか、自覚的な詩人ですね。。。
223 :
ixion:2001/02/18(日) 02:32
藤井貞和なら、思潮社の現代詩文庫で2冊出てます。
それがお手軽で良いかと。ぜひ読んでみてください!!
他の詩人なら、田村隆一(旅シリーズも)、谷川雁(思想が良い、
当然埴谷雄高とあわせて読む)、鮎川信夫(繋船ホテル完璧)、
鈴木志郎康(プアプア)、吉増剛造(カッコイイ)、荒川洋治
(オカシイ)、伊藤比呂美(オッパイだけじゃないのよ)、飯島耕一
(マジメ)などは、現代詩のなかでも特に群を抜いていると思います。
あと、俺の中で金子光晴は別格。ねじめは嫌い。谷川はすごいけど
あまりぴったり来ない。
224 :
吾輩は名無しである:2001/02/19(月) 01:33
まだまだ!
225 :
吾輩は名無しである:2001/02/19(月) 01:49
____
いやいやッやめてッ /∵∴∵∴\
∫ /∵∴∵∴∵∴\
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ / / \\∴∵|
/\ / \ | | (゚) (゚) ヽ∵| ととととうさんんんんっ
| | (゚) (゚) |. | ⊂ 6)
(6-------◯⌒つ | | ___ / _/⌒v⌒\
| _||||||||| | \ι\_/ /ヽ⌒\ ノ )
\ /ι\_// _\____/ 一 | |
\____/ヽ⌒\ ノ )ハ_/ /__/ |
/ ー 一 | | 三___/| 下 | |/^ヽ
| |__三___| |__/ | ヽ_/ ヽ__人_ノ
| | ヽ| ト' | |/^ヽ
| | | |_/ ヽ__人_ノ
⊆@` っ とーっ
226 :
吾輩は名無しである:2001/02/19(月) 03:06
あらしとしてのAVや上のアスキー画。
「性的なものに直面しろ」と言うことなのか?
ある種の兆候が見られますね。非常に凡庸だけど。
227 :
・e・:2001/02/19(月) 04:13
いわゆる“文学”は存在せず、ただ個々の文学のみがある、とはいかにもポストモダンな志向だが、
こういう“中心なき文学”を語ろうとすれば、かつてその“中心”の自覚があったことを踏まえなければダメだと思う。
ポストモダンがヨーロッパの主体性哲学への反駁という形で勃興してきたように・・
だが、日本でかつて、文学をそれとして自覚した人物や時代があるのだろうか?
228 :
偽イタロ・カルヴィーノ:2001/02/19(月) 04:50
>ixion
正津勉はどうですか?
229 :
ixion:2001/02/19(月) 05:38
ixion酔ってるのか?ハイだな…
徹夜だから
オレモナー
233 :
吾輩は名無しである:2001/02/19(月) 07:25
「実践面が退潮の時には、原理の問題が議論の対象となる」
とギッシングが言っています(『ヘンリ・ライクロフトの手記』
岩波文庫@` p.68)
文学が元気があったら、原理の問題なんてしている暇ないよね。
作品を読んだ方がおもしろいんだから。
234 :
・e・:2001/02/19(月) 07:35
で、今は文学は元気なの?
・e・さあ…、ちょいウザいよ、お前。
言っとくけどixionがウザがられてるのとは訳が違うぞ。
お前「だけ」はいなくていいデス。
236 :
吾輩は名無しである:2001/02/19(月) 07:52
>で、今は文学は元気なの?
そんな、死人を鞭打つような質問をしちゃいかんよ、アヒルくん。
ixionの言ってることって本当に正論だと思うしいちいちうなずいてしまう。
>>98の書き込みとか、本当に好きだ。
きっと小説が好きで、文学について一度でも考えた人ならたいていは納得するだろう。
けど。
これからも「文学」という言葉は権威的な存在として流通し、
「文学」の名の元につまらない小説を見下す人も、
「文学者」の名の元に大人げのない論争を続ける人も、
「文学的表現」の名の元に持って回ったわざとらしい比喩表現を使う人も消えやしないんだろう。
「卵から孵ったばかりのヒヨコを相手にしているような気分」って何だよ!
リアリティねぇよ!お前、絶対そんなことやったことないだろ!
ああ、いやだ・・・。言葉が消費されていく・・・。
誤解しないでくれ、これはただの愚痴だ・・・。
238 :
えぼし御膳:2001/02/19(月) 15:02
上告中の某Yめ!
すこしばかりの不幸をひけらかして
悲劇のヒロイン演じるなってのよ。
てめえの小説なんて「タバコ」といっしょで
喫煙者にのみよろこばれるようなもので、
嫌煙者にはむしろ無いほうがいいんだよ。
>>237 「正論」なんて存在しないし、ixionだって、
そんな権威者っぽく扱わようと望んだりしてないよ。
インテレクチャルだから、って正論なワケじゃない。
自分で考える能力の欠如してる奴は、多少賢い書き込みを見ると
なんでも正論として位置付けたくなるもんだよ。
240 :
・e・:2001/02/19(月) 23:41
そのとおり。正論なんて存在しないし、文学の権威を物象化することもバカげている。
ところで私の質問に答えてくれそうにないので勝手にアヲっちゃいますが(笑)
文学の権威化が単に現在、無効なのでなく、かつてそれが権威であり、或いは権威的なものとして(いい意味でも悪い意味でも)
問題にされたこともなく、そしてこれからもその権威づけが無意味であるのなら、
極端な価値相対主義をとるなら、それこそホントに中心なき文学、ただ個々の作品がもたらすテクスト上の快楽を楽しめばいい。
そしてそこでは、楽しみの質に上下はないのだろう。全ては等価、全てはフラット。
あとにのこるのは、量的な快楽。つまり読んだもの勝ち、ということ。
好きなときに好きなだけ読書せよ、という、形式上の格率をのぞいて「○○すべし」という権利上の強制はなくなるだろう。
ここに至って「文学とは何か」という問いは、少なくともややト−ンダウンした仕方で縮小されるべきなのかな。
ええっと・・・
241 :
・e・:2001/02/19(月) 23:53
「文学とは何か」→「○○文学はどうよ?」→「私、○○文学好きです!」
こんな感じ(笑)・・?
242 :
吾輩は名無しである:2001/02/20(火) 00:57
なんかよく分からないけど、「大きな物語は死んだ」なんていうポスト
モダンのいい方が、いまの読者の文学感?と一致してるんじゃないの。
仮にも「文学とは何か?」というような大上段に構えた質問に答えるに
は、それこそ世界文学や日本文学の名作を読んでいるという最低条件が
いるじゃない。名作の読書量が要求されるわけ。しかし今は、辻、柳、
阿部などのピンポイント的な読書をしている人が多くて、「小さな物語」
(リオタール的意味なんてない、マンマの物語かけど)指向が強いんじ
ゃないの。?」
>「私、○○文学好きです!」
もっと細分化して「私、柳美里好きです!あと知らん」てとこかな?
243 :
・e・:2001/02/20(火) 01:11
>>242 そういうこと。まんまこの文学板を反映しているということは・・・
振り出しに戻ったわけですね。
ヴィトゲンシュタインの「登ればあとは用のない梯子」ではないですが、
これもひとつの“答え”ということになるのかな。
244 :
knights of labor:2001/02/20(火) 01:15
院出て、居酒屋でバイトしてから文学を語りましょう。
245 :
考える名無しさん:2001/02/20(火) 01:27
そもそも、「文学」などというものは存在しない。
246 :
考える名無しさん:2001/02/20(火) 01:30
結論でた?
じゃ、とりあえず以下は放置ということで・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜終了〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
247 :
吾輩は名無しである:2001/02/20(火) 18:00
gekiage
押し潰されて張り付いて/死んだその日が誕生日/動くホテルに棲み着いて/布団と/ご飯と/子分ができた
249 :
吾輩は名無しである:2001/03/29(木) 13:34
てりーにきいてください。
250 :
吾輩は名無しである:2001/04/12(木) 22:03
age
251 :
吾輩は名無しである:2001/04/12(木) 23:00
文学家とは、駄目な連中が自己正当化するためにつけた呼び名
屑、ゴミ、ハイエナ、うすのろ、低能な連中が多い
同義語 批評家
売れてる人間を見ると嫉妬して攻撃してくる人々
目を合わすと襲いかかってくる 近寄るべからず
なつヵしいスレだね
253 :
吾輩は名無しである:2001/04/13(金) 10:58
age
254 :
吾輩は名無しである:2001/04/17(火) 00:55
γ  ̄ )
/ リd" l" / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
______ 从从~(フノ) < 定期AGEなのね・・・
( AGEさせろ ) / ̄ ̄ \∩ \_____
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ∠__ イ | フ
∧∧ / __ \/ |_/
( ゚Д゚)ノ~<|`T´\|
∪| | | |´
〜| | | | |
∪∪ | ̄| ̄|
| ̄ ̄| | ̄| ̄ \
255 :
吾輩は名無しである:2001/04/27(金) 13:57
あげ
「批評」とは徹底して真実のみを語ろうとする誠実さの
ことのように思われ。
唐突にロマンチックな事を言う人だな。
ちっともロマンチックに響いてないけれども、
少なくとも論理的ではないよな。