大藪春彦で何が悪い!

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153吾輩は名無しである
ツルゲーネフの「猟人日記」からロシア文学に入り、次々に古本屋で買い集めては読む。
邦彦はロシア文学に中に、権力への反逆と地鳴りのように巨大な民衆のエネルギーを見た。

そして、イヴァン・カラマーゾフの大審問官に人類の意識の極致を見た邦彦は、神々の黄昏に
思いをひそめ、大戦の惨害に人間性の根底まで蹂躙(じゅうりん)され、しかも次の大戦の不可
避を知る絶望は、「神は死んだ。人類への絶望のため・・。」という、ニーチェ流のニヒリズムを
思想としてではなく、実感として受け取る。

だが、邦彦はチェーンやドスを振り回しての出入りには必ず加わる。

自分は選ばれた物だと言う盲信が、向う見ずな糞度胸となり、闘争の際に彼が示す狡猾さ、
素早さ、冷静さは比類が無い。

名門の高校を難なくパスするが、ここではポン中など数えるくらいしかいない。

「鋼鉄はいかにして鍛えられたか」のニコライ・オストロフスキーを知る。
宗教と言えどもこのように美しい人間を作らなかった。

(中略)
借り手の無い図書館のマル・エン(マルクス=エンゲルス)全集をむさぼり読んでゆく。

(中略)
失意にさまよう邦彦に、若くして決闘に倒れたロシア悪魔派の天才、レールモントフの毅然(きぜん)たる
姿が圧倒的にのしかかってくる。

(中略)
人生は芝居だ。幕間(まくあい)喜劇に過ぎないとふれまわって芝居の方法論を学ぶ。
誰もがたどるスタニスラフスキーやダンチェンコやクレーグの演出手法の丸覚え。それは彼の頭の中で、
一つのものへとすり替えられる。 計算しつくされた自然さだ。

     ――『野獣死すべし』 大藪春彦 1958年


和製ハードボイルドの「野獣」が誕生するまでの精神遍歴の一部。