シンボルとアレゴリー

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1Alice
あるHPからコピペしましたが、したの引用部分の説明は正しいのですか。
何がなんだかわからんが。
「鳩は平和のシンボル」だというのは分かるが、アレゴリーというのが
わからん。寓話のことだから教訓的な話のことですか?

>ポストロマン的状況では、シンボルに対するアレゴリーの復権がある
>(ベンヤミン=ド・マンの流れ)。従来、アレゴリーは特定の意味を
>指示するのみで、その暗示的潜在力をすぐさまなくしてしまう記号
>(デノテーション)として、コノテーションとしてのシンボルの優位
>が主張されてきた。シンボルは実体性に基礎をおくがゆえに、知覚
>作用と連動して豊かな意味を開示する一方で、外部の内面化が色濃く、
>観念的になって実体を失いやすい。共時的なロマンティックイメージ
>に収れんしがちなのである。
> アレゴリーは非実体的なもの(先行する記号)に基礎をおくので、
>時間的な遅れを意識せざるをえない。その起源との隔たりを明らかに
>する限りで、自己が存在するわけである。「アレゴリカルな記号によ
>って構成される意味はそれが決して一致することのできない先んずる
>記号の反復しえない反復にある」。アレゴリーは、自己が意味すると
>ころのものを回収できない。時間的に隔たった記号との関係で規定さ
>れるので、シンボルのように全体性を構成しえない。外部に晒される
>ままになって、それ自身の受肉を遂げるのである。
> したがって、起源との隔たりや外部での目的のない断片的成長は、
>アレゴリカルな記号を待ってはじめて可能なのである。そして、時間
>を無化して予定調和的に共感するシンボルのベールをとるのである。
 
2空耳 :2000/09/09(土) 16:52
アレゴリー
  ・・・ ・・・ 喩え。比喩。寓意。
       特に、18世紀以降象徴とし対比して用いられ、
       それ自身の形象的価値よりも、他の観念を一義的に
       示唆する為の単なる機縁や記号として機能するものと
       される。   「広辞苑」より

世界が理性によって明るく照らし出されるに従い、憂鬱になる精神がある。

世の常識を認めず、文明の進歩を拒む頑なな精神である。この精神の持ち主は、

世界を語るに際し、通常の言葉、論理的な言葉を用いない。

芸術における比喩的な表現を、象徴(シンボル)と寓意(アレゴリー)

に分けて前者の優位性を説くのはゲーテ以来の常套とされてきた。

今世紀初頭のドイツの評論家ヴァルター・ベンヤミンは、この通念を

くつがえし、寓意の持つ独特の表現力に注目した。象徴が世界の背後に

見えざる調和を求めるのに対し、寓意はむしろ調和を破る異和効果を目指す。

象徴は事物を現実の世界から別の次元へと返済し、寓意は事物によって

現実の世界を告発する。、憂鬱な精神が好むのはこの寓意による方法だ。
3空耳 :2000/09/09(土) 16:59
「寓意」の具体例

なぜ私よりも上手な友人たちが、サン・ジャックの塔を描こうとしないのか、

あなたは説明ができないでしょう。それはつまり、彼らにとって現代の広場は

主要な関心の対象であっても、中世の塔は取るに足らないものだからです。

しかし、もし彼らが私と同じように、この塔の胸壁の後ろに敵の姿を認め、

また銃眼から覗く武器を見たなら、そして私と同じように、この塔から

煮えたぎる油や溶けた鉛を浴びせかけられるのではないか、と案じたのであれば、

彼らは私よりもはるかに優れた作品をこしらえるに違いないのです。

                  シャルル・メリヨン(19世紀の腐食銅版画家)
4空耳 :2000/09/09(土) 17:04
メリヨンは、この塔に隠れた敵によって、狙撃されることや、熱い油を

浴びせられることを、真剣に恐れている。その妄想が、この塔を描いた理由だと

いうのである。もちろん、この塔にメリヨンの敵がひそんでいたという事実は無い。

ボードレールが記したように、メリヨンは「いたるところに陰謀をかぎつけるのである。

かくしてサン・ジャックの塔はメリヨンの恐怖の対象となり、見えざる敵の寓意として

画面に描かれることになる。そしてこの作品では、画面の前景に描かれた怪獣像が、

どうやらその見えざる敵の具現化した姿ということになるのである。

                 「風景画の病理学」
5空耳 :2000/09/09(土) 17:16
以上、引用してみました。
私が勝手に要約すると、意味を取り違えそうなのでそのまま持ってきました。
長いのはどうかお許しください。
上の引用文よりかは意味が取りやすいと思います。

象徴とは、中世、ルネサンスの絵画においてはかかすことのできない
重要な要素でした。象徴とはそれらにとって、常に神の国(=世界の背後にあろう
見えざる調和)を示すものであり、それ以外のものではありえませんでした。
鳩=平和 花園=マリアの処女性 などなど
寓意は寓話とあるように、マザーグースの世界のイメージがありますね。
しかしそれは象徴のようにポジテイブなものではなく常に告発であったように思います。
しかし常にその解答は得られませんでしたよね。
それが自己を回収できないという言葉につながるのではないでしょうか。
一つ、意味がとりにくいなーと思ったのが、時間との隔たりの箇所です。
>時間的に隔たった記号との関係で規定される
メリヨンにおける怪獣の像にあたるのか?
6マッスル北村 :2000/09/09(土) 17:33
単純化しちゃうと、
アレゴリー:記号を修辞的に用いることで概念から遊離させる
シンボル:概念と記号とが調和的に用いられる
ということ。
ド・マンに詳しい人フォロー頼む。
7Alice :2000/09/09(土) 19:17
空耳さん、マッスル北村さん、愚問におつきあいいただき、ありがとうございます。

実際に教会にはいるとイエスや天使の絵があり、無学な者にも
一瞬にして神のすばらしさを把握させることが出来る気がします。
聖書を読むより効果がある。見た瞬間に感動するわけですから。
こんなのがシンボルだと言うことですね。
わたしなりにいうと「一瞬にして分かる経済性」がシンボルの基盤
なんじゃないでしょうか?なぜ一瞬で分かるかというと、文化による
すり込みがあるから。鳩や花園という誰でも知っている具体物は
鳩=平和や花園=マリアの処女性に結びつきやすい要素があり、
抽象的「よきもの」を表現するのに手っ取り早い。

だからわたしもシンボルはよくわかる。

アレゴリーはシンボルよりも劣る。
私に言わせれば一瞬にして、何をいわんとしているのか理解できないから。
何時間も本を読んで理解しなければいけない、しんどさがある。
中世の城にうえから煮えたぎった油をぶっかける敵の姿を見る
というのは、一般的じゃないのだと思います。なんというか
思いこみが激しい、個人的な気がします。中世の城が示すある一部分
しかみていないというか。「中世の城イメージアンケート」をとったら
メリヨンみたいな事を言う人は変わりもんですよ。
かえって想像力があって怖い気がする。

こう考えるとアレゴリーは「告発」だというのは分かる気がします。
つまりシンボルが持つメジャーな結びつきを告発するという。
なぜ告発するのか。シンボルの結びつきの権力を解体したいから
っことなんでしょうか。

「グリム童話」や「日本昔話」は寓話でありアレゴリーだと思います。
何を言いたいのか考えるといろんな解釈が出来ますから。
話聞いたり読んだりするのに時間がかかるし。
道徳的なことを教えるのはアレゴリーのほうがいいんでしょうかね。

なんてことを考えました。
 
8空耳 :2000/09/09(土) 19:57
そうですね。
キリスト教美術の講義をとっているのですが、
まさに中世においてあれだけキリスト教美術がさかんになったのも
無学な人間への啓蒙の為だったそうです。
当時は字の読める人間はすくなかったでしょうからね。
まさに知覚作用と連動して豊な意味を開示するのですね。

キリスト教世界という単純明快なクリアな世界を表現するには
象徴の方が寓意よりまさっていた。
人間の暗部を告発する寓意は中世のようにキリスト教に支配されていた
単純世界においてはただ複雑で怪奇なものにすぎなかった。

しかし18世紀以降、また産業革命以降、
キリスト教の教条主義的単純世界は崩壊し、
自己の暗部と対峙する必要が出てきた時、
象徴は弱かった、と、いうことではないでしょうか。
だからこそゲーテの時代とベンヤミンの時代とでは順位が逆転
してしまったのでは?

絵画において、知識として象徴は対処できますが、
寓意は人それぞれの思い込みにすぎないですから、
深い読解力が必要ですね。
それは文学においても全く同じですが。

話は飛ぶのですが、今ロシア文学についての講義をとっているのですが、
ドストエフスキーにはいくつかのシンボルがでてきますよね。
教授が象徴に関する知識の無い人間は本当の意味で罪と罰は理解できないと
言うのですが、皆さんどう思われますか?
私は知識は単なる知識に過ぎないと思うのですが・・・

さて、やはり時間のくだりは明快に理解できないのですが・・・
誰かフォローお願いします。
9名無しさん@よっぱらい :2000/09/09(土) 22:07
横レスすみませぬ
2はなんの本からの引用なんでしょうか。
10Alice :2000/09/09(土) 22:07
>http://www.asahi-net.or.jp/~AE7H-KBYS/illusion.html
>●●●小林弘明 岩成達也論補遺
>悪癖からくる下降を特徴とする妄想

ちなみに上からの引用です。

どうもベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』あたりから読まないと
いけないみたいで、しんどいです。

ところで十字架というのはシンボルなんでしょうか。
何のシンボルか?「キリストの受難」?
「人類の罪を一身に背負ったということ」?

何のシンボルか分かりませんが、一般的にキリスト教のシンボル
だとすると、変ですね。張り付けにあった十字架をシンボルにするなんて。
やはりここには「この世で貧乏で苦労するほど天国に行きやすい」
という逆転の発想があるのかもしれません。

下のもよくわかりません。

http://inscript.co.jp/tatumi/t4%20Chase.htm
Metaphor Murders
メタファーはなぜ殺される
巽 孝之
第4回
第4章
ディスフィギュレーション宣言
シンシア・チェイス『比喩の解体』を読む
11空耳 :2000/09/09(土) 22:27
とりあえず私の引用は全て
「風景画の病跡学」 気谷誠  平凡社
からのものです。

十字架についてやったか汚いノートひっくりかえしてみましたが、
勉強してないみたいですね。
(それにしても本当に汚い・・・)
十字架が何かのシンボルであるとすれば、
それはキリストの苦難の象徴、
ひいては原罪を償う為に現れた救世主としてのキリストの
イメージですかね。

そちらのURLは今からとんでみます。
(もっともわかんなさそうだけど)
12空耳 :2000/09/09(土) 23:43
飛んできました。
1までものすごい根詰めて読んでしまった為
燃え尽きました。
一応最後まで読みましたが。
明日もっと丹念に読んでみます。
(読解力無いもので)
とりえず彼は修辞学が脱修辞学に通じること。
そしてその通じると言う考え方そのものが既に修辞的であるということ。
そのことについてチェイスの批評をとりあげ、
物語性と構成、(オイデイプスの例)
詩人の伝記における言葉の変異、(ワーズワースの例)
フロイトの心理分析と患者に対するその効果、
の3つについて言及し、
それらをふまえた上で新たなる文学批評の将来を提示しているのではと
思います。

まちがってたらすいません。
でもおもしろい批評ですね。
勉強になります。
13空耳 :2000/09/10(日) 00:29
あ、変異、は変容の方がいいですね
14ミック :2000/09/10(日) 01:58
おお・・・ついにこんな名前のスレまで立つとは・・・ドイツ文学スレ
でベンヤミンの宣伝を繰り返した甲斐が・・・でも難しそうだからすぐ終わるな
、これ。

 僕はド・マンは読んでません。
 ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』で注目したアレゴリーは中世というか、バロック
悲劇に使われているものです。

 >アレゴリーはシンボルよりも劣る。
 >私に言わせれば一瞬にして、何をいわんとしているのか理解できないから

はい、アリスさんがここ以下の文章でまとめてくれてるのは、アレゴリー
に対する素直な反応だと思います。アレゴリーをシンボルのように何か
指示する対象がはっきりしているものと考えると、訳がわからくなります。
実際、ベンヤミン以前はバロック悲劇は「壮大なくず」と見なされてました。
でもベンヤミンは「アレゴリーはシンボルと同じ読み解き方をされるべきではない」
と主張してバロック悲劇(やカフカの小説)を再評価しようとします。
シンボルの徒にとってはアレゴリーは「歪み」だとベンヤミンはカフカ論の
中で言ってます。シンボルに慣れた人々はその歪みを正そうとしますが、
「アレゴリーはアレゴリーの徒によって読まれなければならない」と。
ではその具体的方法は・・・『ドイツ悲劇の根源』(法政大学orちくま学芸文庫)
読んでください。とても説明する自信はなかとです。
 原典でくじけたら川村二郎『アレゴリーの織物』(講談社)の解説を読みませう。

 さて、ごくおおざっぱで申し訳ないですが、こんなもんでいいでしょうか。
レスがあったらまた細部を(できる範囲で)書こうと思います。
15マッスル北村 :2000/09/10(日) 02:29
アドルノはベンヤミンの「パサージュ論」を指して
「下らない事実を驚くべきもののように提示すること」と表現している。
フォルマリスムでいう「異化」に近いものだと考えると、わかりやすいかな?
16ミック :2000/09/10(日) 03:09
え、フォルマリスムの「異化」は単なる技術論じゃないの?
もしそうなら全然違うよ〜。ベンヤミンがああいう一見どうでもいいような
バロック悲劇や19世紀パリの雑文や子供の玩具に執着したのは、そういう
「キッチュなもの、くだらないもの」の中に救済の契機があると考えたから
でしょ。
 アドルノはそうした、今で言うサブカルチャー的なものは「ただの
ゴミ」と考えてた人だから、そういうことを言ったんじゃない?確証はない
けど、そう思う。
17マッスル北村 :2000/09/10(日) 03:47
救済と言うより、カバラ的秘教主義の側面があったと思う。
ベンヤミン自身にしてみれば救済の意味合いがあったかも知れないけど、
当時の社会情勢からすれば遊戯的な言葉遊びととられても仕方なかったのでは?
ルカーチなどの「真面目な」マルクス主義に比べれば特にそうだったと思う。
18吾輩は名無しである :2000/09/10(日) 04:30
誰も突っ込まないところを見ると、みなさんお揃いで勘違いしてますね。
教授に馬鹿にされないためにサービスで講義。

>実際に教会にはいるとイエスや天使の絵があり、無学な者にも
>一瞬にして神のすばらしさを把握させることが出来る気がします。
>聖書を読むより効果がある。見た瞬間に感動するわけですから。
>こんなのがシンボルだと言うことですね。
ちがいます。それはシンボルではなくアレゴリーです。
「道徳的なことを教えるのはアレゴリーのほうがいい」んです。
野蛮人や未開人にキリスト教を布教するには、壮麗な絵や像を見せて、
キリスト様はこんなにすばらしいものだと教える。いわば教条主義です。

8についてですが
>自己の暗部と対峙する必要が出てきた時、
>象徴は弱かった、と、いうことではないでしょうか。
これも違います。
疾風怒濤時代は中世の古めかしい教条主義を撃ち破るものです。
この時代の寵児であるゲーテは遺物を排除するためにそれまでの
教会の教条主義的アレゴリーをゴミ箱に捨てました。
空耳さんの言うように、「象徴が弱い」ということではなくて
全く逆です。「自己の暗部と対峙するため」に、教訓的な寓話
を捨て、ゲーテは象徴へと転じることになった、ってことです。

>ベンヤミン以前はバロック悲劇は「壮大なくず」と見なされてました。
ちなみに厳密には「ゲーテ以降ベンヤミン以前」です。

シンボルとアレゴリーのどちらが偉いと言うことはありません。
近代はシンボル思考だったから今アレゴリーの見直しが進んでるだけです。
マッスルさんと北村さんはドイツ文学板でやった方がよいのでは?
19つまらないツッコミだが :2000/09/10(日) 04:44
>マッスルさんと北村さんはドイツ文学板でやった方がよいのでは?

そりゃどうかと思うぞ!
20マッスル北村 :2000/09/10(日) 04:54
>>18
をいをい、勝手に二人に分けないでくれよ(笑)
アレゴリーについてはそれはまっとうな見方なんだけど、ベンヤミンは
ロマン主義のシンボリズムを批判するためにあえて「アレゴリー」を持ってきたんだよね。
ベンヤミンはマルクス主義者だったけど、ひねくれてたから
マルクス主義の教条主義をユダヤ的な教条主義でパロディ化した。
アレゴリーが偉い、というよりも、アレゴリーの持つ物証化された空虚さが
むしろ象徴主義を全体化を回避するための多様性に繋がったってこと。
危機的状況でそうした戦略を採ったところがベンヤミンの面白いところなんだけどね。
で、ドイツ文学板ってどこにあるの?
21マッスル北村 :2000/09/10(日) 04:56
物証化→物象化の間違いね。
寝ぼけてるな。もう寝よう。
22ミック :2000/09/10(日) 05:34
>アレゴリーの持つ物象化された空虚さが むしろ象徴主義を全体化を回避するための多様性に繋がったってこと

よくわかんないんですけど。さらなる説明を求む。
「ドイツぶんがく好きな人!」というスレが下のほうにありますよ。

>この時代の寵児であるゲーテは遺物を排除するためにそれまでの
>教会の教条主義的アレゴリーをゴミ箱に捨てました。
>空耳さんの言うように、「象徴が弱い」ということではなくて
>全く逆です。「自己の暗部と対峙するため」に

 なぜシンボルが文学で大流行しているのかというと、これは間違いなく心情描写
に便利だからです。モノを描写しておいて、その実それが人間の内面の描写でもある
という手法が、文学でよく使われるシンボルだと思う。ゲーテもその動機からシンボル
を使い始めたのだろうか?
 ゲーテの何を読むとそのようなシンボリズムへのマニュフェストが
わかるの?教えてくださいな。
23Alice :2000/09/10(日) 07:56
 C・S・ルーイスの『愛とアレゴリー』(筑摩書房)をみたところ、
シンボルは「思考形式」で、アレゴリーは「表現形式」だと言って
いますが実際には見分けがつかないのが普通のようです。またルー
イスはアレゴリーは「主観的要素」だとも述べています。解説によ
るとextended metaphorというアレゴリーの定義も出てきて、ここで
時間が問題になります。

 ド・マンはシンボルとアレゴリーをこのように定義します。
 (「時間の修辞学」より)

  「シンボルは同一性ないしは同定の可能性がある場合に成り立
  つのに対して、アレゴリーはまずそれ自身との起源との間にへだ
  たりがあることを明示し、その起源と合体しようとする郷愁と欲
  望を拒否しながら、この時間的な差異からなる中空に自らの言語
  を確立する。そうすることによって、それは自我が自我以外のも
  のとまやかしの一体化をするのを妨げる」

  「アレゴリーの記号は先行する別の記号に言及する。アレゴリー
  の記号によって構成される意味は、それが決して一致することの
  出来ない先行する記号の反復の中にのみある」

      富山太佳夫『方法としての断片』からの孫引きです。

 ここのところを富山はこう説明します。

   何かと何かが同一視され、その間にあるはずの時間と空間が無化
  されるところに成立するシンボルに対して、ド・マンが復権を要求
  するアレゴリーは時間的な差異において成り立つ。前者が同定によ
  って一つの全体かを試みるとするならば、後者はつねに隔たりと分
  化をはらんでしまう。

とりあえず、ここまで。

http://www2.imaging.co.jp/home1/mbros/hamada/J-html/gh-j004.html
パフォーマンス―寓話ともアレゴリーとも―
24ミカエル :2000/09/10(日) 10:26
横から一言。
「シンボル」と「アレゴリー」はそれぞれレトリックの用語で、
特に前者は「象徴」と訳されますよねえ。
必ずしも「シンボル」(言語学の用語)≠「象徴」(修辞学の用語)
なので、できたらこのスレでは「象徴」と「アレゴリー」
という言葉を使いませんか?

で、修辞学(レトリック)の基本的な理解では、
・「象徴」→ メタファーを原理とする比喩。「世界の背後にある
壮大なアナロジカルな関係を言葉を借りて表現する」と言ってもよい。
(例)聖処女マリアの純潔を、白ユリを使って表す。

・「アレゴリー」(寓意)→ ある抽象概念を具象的な形象を
用いて表す。18さんの言うとおり、中世期に無知な人を教化する
際に多く用いられた。
(例)「死」という観念を表すのに、大鎌をふりまわす骸骨の
イメージで表現する。

アレゴリーは即物的で、象徴のように背後にあるアナロジー的
な関係を前提しない、という点で忌み嫌われてきたのではない
でしょうか。さらに無知な民衆を教化するための安物の比喩と
して低く見られてきた。現在アレゴリーが注目されているのは、
そうした象徴化に対する「ずらし」の特性が再評価されている
からではないでしょうか?(ここらへんは勝手な私観)
アレゴリーが頻繁に用いられている文学作品としては、例えば
フランス・中世の「薔薇物語」がありますね。
25ミカエル :2000/09/10(日) 10:28
(上の続き)
ところでベンヤミンの「ドイツ悲劇の根源」、あれは相当難物
で、途中で投げ出しましたが、あそこで述べられているアレゴ
リー解釈はやや常識的な修辞学的理解からはかなり逸脱してい
ると思います。なのであれはあれでまた別に扱うべきだと思い
ます。ベンヤミンは中世のアレゴリーと近世(バロック)のア
レゴリーを区別しているし。(「アレゴリカーの世界の見方」
と言われてもねえ...)
26空耳 :2000/09/10(日) 15:49
なんか本物の知識人がでてきてしまったようですね。
書いててもやもやしていたものが晴れてきました。
民衆を強化する為に描かれた教会美術・・・アレゴリー
その教会美術の中にあらわされた神の国を意味するもの・・・象徴
これで良いのでしょうか?
自分でもなんかひっかかってたんですけど、
間違いを指摘してくださり、有り難うございました。

中世の象徴とアレゴリーとを取り違えていた為、
優劣のあたりも大きな勘違いをしていたようです。
ゲーテにおいて、アレゴリー(矢印)象徴へと移行した後、
ベンヤミンにおいては象徴(矢印)アレゴリーへとまた移行しましたよね。
中世(矢印)ゲーテの理由はわかったのですが、
ゲーテ(矢印)ベンヤミンの社会的背景はなんなのでしょうか。
私は素人考えで社会が大きく産業革命によって変革した為、
象徴では表現しきれないものがでてきたからアレゴリーが優位にたったのかと
思ったのですが。
(メリヨンの例などを読んで)

それと、時間の隔たり、起源との隔たり、
このあたりもさっぱりです。

このあたりも解説して頂けると嬉しいです。

27マッスル北村 :2000/09/10(日) 15:50
ゲーテは、「普遍のために特殊なものを求める」ことをアレゴリー、
「特殊の中に普遍的なものを見る」ことを象徴、としてみている。
ベンヤミンが批判したのは、象徴が普遍を求めることだったと思う。後にでてくる、
機械的複製論の発想もアレゴリーの持つ「全体化されない空虚さ」から来てる。
あんまりベンヤミンの用語を使うと訳分かんなくなるけど、「星座的布置」で
対象を構成する具体的な諸要素を、微視的な概念によって布置し直すというのもそういうこと
じゃないかと。
単に断片的なものを称揚するだけじゃなくて、断片と全体との関係を、象徴の力を借りずに
アレゴリカルに再構成するという発想が、ベンヤミンの独創性。
ゲーテは「箴言と省察」のなかで「特殊なものを生き生きと捉えたものが、同時に普遍的なものを、
それとは気付かぬままに手に入れることになる」として、これを「元来、文学(ポエジー)の本性たるものである」
と書いてるから、やっぱりアレゴリーには否定的だったのでは?
28マッスル北村 :2000/09/10(日) 16:20
今日は暇だからじゃんじゃん書き込んじゃう♪
>ゲーテ(矢印)ベンヤミンの社会的背景はなんなのでしょうか。
19C後半〜20Cにかけて、資本主義が古典的な自由市場から独占資本的な形態に移行していって、
ゲーテ的なロマン主義的な主体は、全体に通底することで自己表出するという方法論が、
全体がシステム化されることによって機能しなくなった。
こうした状況の中で主体の有り様を取り戻すために、様々な思想が登場したわけですね。
>それと、時間の隔たり、起源との隔たり
象徴はその対象との結びつきの恣意性を隠蔽することで、むしろその起源を見えなくする。
この同一性がロマン主義には普遍的な世界観を表現するのに適していたのに対して、
アレゴリーの場合には、教条主義的であるが故にその対象との恣意的な結びつきがあからさまなので、
それを受け取る側には必然的に対象(起源)との時間的隔たりが生じる、ということではないでしょうか?
29空耳 :2000/09/10(日) 16:53
マッスル北村さん、ありがとうございます。

>ゲーテ(矢印)ベンヤミン・・・
つまりベンヤミンの時代になるとゲーテの時代に存在していた
普遍が無くなってしまったという事でしょうか。
システム化・・・世界の分断 ととらえて良いのでしょうか。
またゲーテ時代に普遍が存在していたならば
中世においては閉じられた世界において普遍が存在したと言うことでしょうか。
ゲーテ、ベンヤミン時代と比べるならばどのような世界観でとらえるべきでしょうか。

>時間、起源・・・
ゲーテは、「普遍のために特殊なものを求める」ことをアレゴリー、
「特殊の中に普遍的なものを見る」ことを象徴、としてみている。

ここはすごく分かりやすかったです。
これが恣意性の隠蔽ですね。
恣意性のあからさまな結びつきが時間的隔たりを生じさせる、
これは具体的に死神の例をとって言うと、
死神自体の起源が現在の自分と時間的隔たりがある、ということでしょうか。
メリヨンの場合ならば、塔は中世であるから時間的隔たりがある。
こうとらえていいのでしょうか?
30空耳 :2000/09/10(日) 17:05
ゲーテ時代に普遍が存在していたなら、
中世においては閉じれた世界において普遍が存在した・・・
明らかに流れが変ですね。
読まなかったことにして下さい。(笑)

31マッスル北村 :2000/09/10(日) 17:33
普遍がなくなった、というよりも、普遍的な世界観がむしろ主体を疎外するものではないか、
と考えられてきたということでしょうね。
時間的隔たりというのは、受け取る側にとって、象徴の場合だと記号とそれが表現している理念を
同時に受け取れるのに対して、アレゴリーの場合は、その理念を捉えるためには
時間がかかる、ということ。
32空耳 :2000/09/10(日) 17:47
成る程、わかりました。
全然違いましたね。
ありがとうございます。
愚問にお付き合いいただき有り難うございます。
33Alice :2000/09/10(日) 23:05
>アレゴリーはまずそれ自身との起源との間にへだたりがあることを明示し
                    ド・マン(「時間の修辞学」より)

アレゴリーとそれが意味するものは、象徴ほど強い結びつきを持たない。
かえってちぐはぐな関係が露呈される。

>その起源と合体しようとする郷愁と欲望を拒否しながら、この時間的な差異
>からなる中空に自らの言語を確立する。  ド・マン(「時間の修辞学」より)

「起源と合体(つりバカ日誌みたい^^)しようとする」ということは、象徴
のように意味するものと一致したいな、ってことでしょう。「おれは総理大臣ら
しくなりたい」と願う森さんみたいに。ド・マンのいう「郷愁」というのはウエ
ットな感じでよくわからんが、「欲望」はこういうことでしょう。これを拒否す
る。ストイックですね。なんでかね。有機的全体に組み込まれるのがいやなんで
しょうか?
 アレゴリーとそれが意味するものは時間的なへだたりがある。象徴のように一
瞬で分からないから。この「時間的差異」のなかに自らを確立する。あやふやで
はっきり分からない状態にとどまるってことかな。すくなくとも意味するものと
の違和感を感じさせる。なんかデリダのいう「差延」のようだ。

>そうすることによって、それは自我が自我以外のものとまやかしの一体化をす
>るのを妨げる              ド・マン(「時間の修辞学」より)

記号論のように世界は言語で出来ていると考えると、硬直してその起源さえ隠蔽
されてしまうメジャーな象徴にたいして、アレゴリーはゲリラ戦をおこなう。ま
るで米軍とベトコンの戦いみたいに。意味するものと意味されるものの予定調和
的有機性を解体しようとする。ド・マンが自分の本を『読むことのアレゴリー』
としたのはそこにあったのでしょう。
34ミック :2000/09/11(月) 02:41
ぬおおお、たった1日でなんと立派なスレに成長したのか
35ミック :2000/09/11(月) 03:15
>ゲーテは、「普遍のために特殊なものを求める」ことをアレゴリー、
>「特殊の中に普遍的なものを見る」ことを象徴、としてみている。

 これはゲーテがシラーを批判したときの言葉ですね。講義ノートに書いてあった。
ベンヤミンは「『親和力』論」の中でゲーテの象徴への志向を批判してますが、以下
まとめてみます。

 ベンヤミン(以下B)にとって、アレゴリーを取るか象徴をとるかというのは、単に文学批評の方法論以上に、世界観そのものに関わる選択だったようです。彼はゲーテ(以下G)の自然観を重視しています。「Gの『親和力』」(コレクション1巻83p)で、ゲーテの「根源、原現象(Urbild)」の概念は自然との連関で捉えられる、単数形の統一体的なものだと主張します。
これは、今までのレスに出てきたように、Gの普遍主義とも一致してますよね。ゲーテの図式に従えば、Uebildを象徴するものがBild(つまり個々の芸術作品)になるはずです。Bいわく「Gは原現象という意味での『真の』自然の現前を芸術作品の中に前提した」と。そしてBは、「Gは知覚可能な領域からUrbildを見て取ろうとした」と言い、「こんなことはできない。むしろ
逆である」というわけです。

 というわけで、BはGの自然観もろとも芸術観を批判するのですが、ところがGを全否定してるのかというとそうでもない。「創作者としてはそのような態度でもよい」とも書いてるんですよね。どうもBはGの芸術観だと「批評」の重要性が薄れてしまうことを危惧していたようです。
 BとGとの芸術観の差異についての説明はこれでよろしいでしょうか。大雑把だから穴はあちこちにあるだろうけど。

 ド・マンが考えたような、アレゴリーに時間的概念を持ち込むとどうなるんでしょうね。「アレゴリーは確定的な意味として捉えられない」というBの見解を補強することになるんでしょうか。確かに、カフカの作品に登場する人々の奇妙な身振りを象徴として捉えようとするとそれこそBを超える衒学的な解釈になりそうですが。


36名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/11(月) 03:22
空耳さん・・・。
戻ってきて、お願い。
37吾輩は名無しである :2000/09/11(月) 03:42
>36
洋楽板の人カナ?
38名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/11(月) 04:05
そらみみさん・・・。
39吾輩は名無しである :2000/09/11(月) 04:58
私も寝ぼけてました。スマソ。
マッスルさんとミックさんはドイツ文学スレで続きをやったら
どうでしょう。と書きたかった。
ゲーテのマニフェストですが、ブルトンじゃあるまいし
そんなに都合のいい物はありません。断片的にしか書かれてません。
強いて言えば「詩と真実」がその萌芽と言えるかな。
しかしどうやらまた勘違いされてる。ミカエルさんのまとめをちゃんと読みましょうよ。

>アレゴリーの場合には、教条主義的であるが故にその対象との恣意的な結びつきがあか>らさまなので、それを受け取る側には必然的に対象(起源)との時間的隔たりが生じる
ちょっと違います。というかこれでは分からない(笑)

>時間的隔たりというのは、受け取る側にとって、象徴の場合だと記号とそれが表現して>いる理念を同時に受け取れるのに対して、アレゴリーの場合は、その理念を捉えるため>には時間がかかる、ということ。
だいぶ違います。ウソはいけません。(笑)

>アレゴリーとそれが意味するものは時間的なへだたりがある。象徴のように一瞬で分か>らないから。
これも問題があります。言っておきますが象徴だから一瞬で分かるとかアレゴリーだから時間がかかるとかそういうことはありません。
ド・マンの言う時間は、認識にかかる時間ではないです。起源と今ここにあるテクストとの差異における絶対的時間、言い換えると起源と自己の間に横たわる時間を指します。
この絶対的な隔たりによって普遍的なものに遡及してもずれが生じます。だから「B」の洞察は的確です。確定的なものとしては捉えられません。

サービス講義終了。後は各自で小説にあてはめて楽しんで下さい。
けど何故このスレはコテハンばっかりなのか・・・なんか気持ち悪い。
40吾輩は名無しである :2000/09/11(月) 05:00
あ−ごめんよ。引用を改行しわすれた。
41お子さまランチ :2000/09/11(月) 10:58
>何故このスレはコテハンばっかりなのか・・・なんか気持ち悪い。
「自分の発言に責任を持ちなさい」とマリア幼稚園のシスター伊藤から教育されたからです。ちなみにみんな家族で「サザエさん」をみます。
くわえてみんな今読んでる本は高橋哲哉の「戦後責任論」です。

だれかもっとわかりやすく書ける奴はいないのか!

42ミカエル :2000/09/11(月) 12:09
>26
やだなー空耳さん、「本物の知識人」だなんて。僕はただの院生ですよ。
ベンヤミンについてはまったく専門外だし。18=39さんは本物っぽいけど。
ところで、ベンヤミンのアレゴリー解釈において、なぜアレゴリーがいつも
時間的契機と結びつけられて論じられているのかが、いまいちまだよく分からないんだな・・・
「理解するのに時間がかかるから」、っていうのはまあ置いておいて。
27&28のマッスル北村さんの説明で大体あっているような気もするが、
もっと分かりやすく書けんものだろうか・・・? >普遍と断片、起源的隔たり、時間的隔たり
ふーむ...アレゴリーが「星座的布置」(コンステラツィオーン?)と
関連があるとすると、それはその構成が象徴に拠らない(普遍的ではない)、
すでに死に絶えたものだからだろうか? そのためにその起源と<自己>の
あいだには「絶対的な隔たり」があるのかな...?
43ミカエル :2000/09/11(月) 12:13
ついでにベンヤミンを読んでいてキーになると思われた部分を引用しておきます。↓

「・・・この時間という決定的なカテゴリーのもとでこそ、象徴とアレゴリーの関係を印象的かつ定式的に言い表すことができるのだ。つまり、象徴においては、没落の変容とともに自然が変容して神々しくなった顔貌が、救済の光のなかに一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相(facies hippocratica [ヒポクラテスの顔])が硬直した原風景として、見る者の目の前に広がっているのである。そもそもの初めから付きまとっている、すべての時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことに潜む歴史は、一つの顔貌 ―― いや髑髏の相貌をもってその姿を現わす。そしてこのような髑髏には、たとえ表現の一切の<象徴に特有な>自由が、形姿の一切の古典的調和が、一切の人間的なものがまったく欠けていようとも、この最も深く自然(Natur)の手に堕ちた姿のなかには、人間存在そのものの自然(本性)のみならず、ひとつの個的人間存在の伝記的な歴史性が、意味深長に謎の問いとして現れている。これがアレゴリー的なものの見方の核心、歴史を世界の受難史として見るバロックの現世的な歴史解釈の核心である。」
(「コレクションT」p.200−201)
44空耳 :2000/09/11(月) 14:55
私にとって院生さんは立派な知識人になるのですて(笑)
せっかく時間的差異について理解した気になっていたのに、
39さんによって振り出しに・・・
終わりなんて言わずにお願いしますよー

とりあえず、
ド・マン「時間の修辞学」
ゲーテ「親和力」
ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源」

ついでにC・S・ルイス「愛とアレゴリー」
「薔薇物語」
は読んだけってことですね。
ナルニアは大好きなんだけどなー・・・
45(゚Д゚) :2000/09/11(月) 14:56
>>41
分かり易く書くとまたなんか「違う」とか言われそう。
46(゚Д゚) :2000/09/11(月) 14:59
つっこみ覚悟で、
時間的隔たり、は、記号と対象が絶対に(象徴のようには)結びつかない
ってことでどう?
以上、工房の横入りでした。
47マッスル北村@気持ち悪いコテハン :2000/09/11(月) 15:35
違うかあ…おれもよく分からないんだけど。
「時間」って言葉を何で選んだのかってところに引っかかったのか。
普遍的な世界観は時間(に伴う変化)を否定するから、そこに「時間」を持ち込んだのかな?
そうすると、「時間」=還元不可能な歴史(また分かりにくい表現でごめん)と考えていいのかも。
48ミック :2000/09/11(月) 18:19
うーん。ついて行けなくなってきた。撤退いたします。でも勉強になりました。マッスるさん、そら耳さん、院生さん、ありがとうございました。

>マッスルさんとミックさんはドイツ文学スレで続きをやったら
>どうでしょう。

 いやあ、それはたぶん迷惑になると思いますけど。
49Alice :2000/09/11(月) 19:40
>ド・マンの言う時間は、認識にかかる時間ではないです。起源と今こ
>こにあるテクストとの差異における絶対的時間、言い換えると起源と
>自己の間に横たわる時間を指します。
シンボルとそれが意味するものは時間のずれなくぴったり一致している。
アレゴリーはそれが意味するものとぴったり一致できない。
世界を言い表そうとするものにはシンボルの方が素材的に有利。
言い換えればシンボルは浅田彰のような説明上手。
浅田君にいろんな事を説明してもらうとすっきりして解りやすい。
浅田君の言語がまるで世界というパズルの所定の位置にきっちり
あてはまるようだ。だから普遍を思考するゲーテはシンボルをつかった。
ここにはシンボルとアレゴリーの優劣の関係があると思う。
もちろんド・マンはこの優劣関係を「それは違う、逆だ」といって
ひっくりかえしアレゴリー優位説をうち立てるわけではなく、アレゴリー
をてこにして脱構築を行う。というような青写真で読みました。

シンボルは空間的、アレゴリーは時間的。

「シンボルはそれが意味するものとクリアに一致し瞬間的にぱっと
解る」(現前の形而上学の担い手)のにたいし「アレゴリーはそれ
が意味するものと瞬間的にぴったり一致しないからすぐに解らない」
からズレにより時間の契機が露呈される。

このように人間の認識の時間に置き換えて考えた方が解りやすいので
はないか。一般に記号論は人間をも記号の戯れとして解体するとされ
るけど、私は人間・主体を特権的な立場に保ちたいのです。
認識主体が存在せずして記号があるのか?ということを愚考したわけです。
50空耳 :2000/09/11(月) 19:48
と、いうことは、基本的にマッスル北村さんとは
同じ見解であるということですよね?
51Alice :2000/09/11(月) 20:07
>ド・マンの言う時間は、認識にかかる時間ではないです。起源と今こ
>こにあるテクストとの差異における絶対的時間

人間的時間ではない絶対的時間を認識しているのは誰なんでしょうか?
私たちはどこから記号について語っているのか。教科書的理解や大学の
講義のためとか、文学理論を作品に当てはめるとか私には全く興味がな
い。人間に返ってこないものには不信感があるのです。
52吾輩は名無しである :2000/09/11(月) 21:02
おめえら、おすごいでえすわん。
53考える名無しさん :2000/09/11(月) 21:11
パチパチパチ 〜 ヽ(´ー`)ノ
54空耳 :2000/09/11(月) 21:19
Aliceさんはきちんと自分の見解を持っててすごいなあ。
55吾輩は名無しである :2000/09/13(水) 03:33
平日は眠いからだめなんですよ。
気持ち悪いってのは他スレッドは名無しさんばっかりなのに
ある意味異様だってこと。
>46
>時間的隔たり、は、記号と対象が絶対に(象徴のようには)結びつかない
言い方は不味いですが、あってないとはいえないです。
>47
>普遍的な世界観は時間(に伴う変化)を否定するから、そこに「時間」を持ち込んだの
>かな? そうすると、「時間」=還元不可能な歴史と考えていいのかも。
さあベンヤミンの意図は分かりません。でも時間を目的的に導入したという考え方は避けて下さい。ベンヤミンはアレゴリーを考察しただけですから。マッスルさんの文章からはっきりとはいえませんが、多分それでいいと思います。
>49
>シンボルとそれが意味するものは時間のずれなくぴったり一致している。
>アレゴリーはそれが意味するものとぴったり一致できない。
後半はあってますが、前半が違います。何度も言いますが、時間は関係ないです。一致もしません。人間もけっこうですが、そのまえに象徴と記号を混同してます。
>教科書的理解や大学の講義のためとか、文学理論を作品に当てはめるとか私には全く興
>味がない
これはいいすぎですよ。

アレゴリカルな記号はその前の普遍(と思われている何か)を参照します。単純に言うと、キリストの立派な絵がそれ以前のキリストその人をさしてるとしたら、絵がどんなに立派で精密であろうがキリストとはどんなに頑張っても一致しませんよね。両者の間には隔絶があり、これがずれです。それから「象徴が普遍をぱっと浮かび上がらせる」というのはあくまでゲーテ以降に一般化された図式です。アレゴリーはその歴史性を疑問視し再考するものだってことをお忘れなく。
56空耳 :2000/09/13(水) 21:51
>単純に言うと、キリストの立派な絵がそれ以前のキリストその人をさしてるとしたら、
 絵がどんなに立派で精密であろうがキリストとはどんなに頑張っても一致しませんよね。
 両者の間には隔絶があり、これがずれです。

キリストとは一致しない、というのは既にキリストが死んでいるからですか?
それともそうではなく所詮絵だから一致しないということですか?
それとキリストの絵はキリストそのものを指すのにアレゴリーになるのですか?
(死神が鎌を振り下ろす(矢印)死のイメージ、というようにイメージの
 移行が無いのに)

私の引っ張ってきた引用からなので申し訳ないのですが、
メリヨンはアレゴリーを用いて版画を制作したそうです。
その絵の中では、中世の塔は彼の新しい世界への漠然とした不安を
示しているそうです。
すると前時代における普遍を示しているのでは無いですよね。
メリヨンの絵の中のアレゴリーは非常に個人的な意味でのアレゴリーに
過ぎないということでしょうか。

理解が悪くてすいません、
でももうちょっとつきあって頂けないでしょうか。
57Alice :2000/09/14(木) 00:18
こんばんは、みなさん。前回私が書いたのは、シンボル・アレゴリー
と人間の関係です。スレッドをたてた動機はシンボル・アレゴリーが
よく分からないからです。シンボル・アレゴリー・アレルギーというか。
ごめんなさい山崎邦正みたいに滑りましたね^^。
そこでよく分からない場合はどうするか?自分の経験に基づく実感から
始めたわけです。シンボル・アレゴリーの感じ方です。それで導きの糸は
「一瞬で解るかどうか」。なんてか細い糸なんだ。切れそうだぞ。でも
これで最後まで押し通そう、だってそう感じたのは事実だもの。自分の
実感を信じよう。それであんな結論になってわけ。人間の時間にこだわった
のもそういう理由。絶対的時間というのは分かります。ここの実感に頼って
いたんじゃ学問じゃないもの。だから抽象的・原理的なよものの考え方は
大事ですもの。でも自分の直感とその原理的な捉え方を結ぶ道を示して
もらえればな、と思ったわけです。原理を経験につなげて欲しいんです。
「アレゴリーとシンボルの優越は問えない」。だって人間がいないんですもの。
空耳さんの例には感動しました。メリヨンって凄い人だと思った。陰ながら
応援したくなった。城壁を上るときに上から落とされる煮えた油を感じる
なんて、ホントに生き生きとした考えだと思った。そんなところです。
ベンヤミンやゲーテについても考えるきっかけが出来て良かった。

昨日調べた資料です。ド・マンの「時間の修辞学」は「批評空間」に
訳出されていると思います。知ってる人情報下さい。

絶版だけど
トドロフ『象徴の理論』(法政大学出版局)
こちらは手に入りますね
ヘーゲル 長谷川訳『美学講義』上(作品社)
が役に立つと思いました。今読んでるところです。
58空耳 :2000/09/14(木) 01:30
今まで色々読んできて思ったのですが、
もしかしたらアレゴリーの方が一瞬でわかるものなのかもしれませんよ。
だって死神 死のイメージは誰にでもわかるじゃないですか。
でも白百合 純潔のイメージはインテリじゃないとわからないんじゃないですか?
(単純な例ですから違うと思われるかもしれませんが)
アレゴリーはもともと庶民の物であったわけだし
分かりやすいものじゃないといけなかったんじゃないですか?
そしてそうあるべきなのでは?
メリヨンの例でわかりずらいのはそれがあまりにも
個人的だったからではないでしょうか。
しかし一度彼に説明されれば納得できるだけの説得力あります。
それが現代の新しいアレゴリーの方向性なのかも。

勿論間違っていると言われればそれまでなんですが、
私にとってアレゴリーとは心情的に共感できる記号に思えます。
ゲーテやドストエフスキーにきら星のごとくちりばめられたシンボルという記号。
それは言わば絶対的な決まり事で逆らえないですよね。
「知性」。威圧的に感じます。

一方メリヨンの多用したアレゴリーは常に人の感情に訴えてくる記号。
Aliceさんは感動したと言って下さいましたが、
人を感動させることができるのもそこに人の感情が
介在しているからではないでしょうか。
スタンスとして慈愛に満ちている気がします。
人の愚かさや弱さを暖かく抱擁してくれる。

これが私のアレゴリー・シンボル観です。
59空耳 :2000/09/14(木) 01:59
あ、この場合の一瞬でわかるっていうのは
どんなに知識の無い人でも心情的に共感することができるって
ことです。
60Alice :2000/09/14(木) 02:50
>「アレゴリーとシンボルの優越は問えない」。だって人間がいないんですもの。
「アレゴリーとシンボルの優劣は問えない」の書き誤り。
57はたくさん書き誤りがあってごめんなさい。
私が考えていたのは「リプリゼンテーション」つまり「表象作用」
「記号の使用者における心像の出現」のようですね。
ヘーゲルの『美学講義』から一部を紹介。

アレゴリーにまず要求されるのは、人間界や自然界の一般的・抽象的な事態や現象
−−宗教、愛、正義、不和、名誉、戦争、平和、春、夏、秋、冬、死、うわさ−−
を擬人化し、主体としてとらえることです。が、この主体性は、その内容から
しても、外形からしても、それ自体が真の主体ないし個人であるはずはなく、抽象的
な一般観念が主体性という空虚な形式をとったにすぎず、いわば文法的な主語にすぎ
ないといっていい。アレゴリーの素材となる存在は、いかに人間の姿をとっていよう
とも、ギリシャの神々や、聖人や、何らかの具体的個人が持つ具体的な個性をもつに
は至らない。それの表す抽象的な意味と一致させるためには、主体性を骨抜きにし、
明確な個性はすべて消去する必要があります。だから、アレゴリーは冷ややかで味気
なく、意味の抽象性故に、表現の着想に関しても、具体的な直感力や叙情的な想像力
よりも知性の働きの方が重視されると言っていい。ウェルギリウスのような詩人たち
がアレゴリーを得意としたのも、ホメロスにみられるような個性のある神々を自ら生
み出すことができなかったからです。

ヘーゲル 長谷川訳『美学講義』上巻、p. 435

事態は複雑です。
61Alice :2000/09/14(木) 04:55
トドロフ『象徴の理論』p.319より、まとめます。

象徴と寓意のロマン派的解釈

象徴・・・生産的。自動詞的。有縁化。反対物の融合。存在すると同時に
     意味作用を行う。その内容は理性ではとらえられず、言語に絶
     するものをあらわす。無意識の産物。果てしない解釈の仕事を
     刺激する。象徴の意味は無限。意味が活発に生きる。

寓意・・・既成のもの。他動詞的。恣意的。純然たる意味作用。理性の表現。
     意図的であり、余剰なく理解されうる。意味は完結し、終了、い
     わば死んでいる。

宗教画を教会の意図から考えると、能率的に一定以上の意味を伝えることなく
(キリスト教のすばらしさ以外を感じられては困る)教化する。
記号論的ないい方をするとバルトの「デノテーション」。キリスト教のすばら
しさ以外は伝えないやせ細った記号。つまり寓意。となるでしょう。

受容理論もしっかり押さえないとまずいですね。ヤウスの『挑発としての文学
史』(岩波書店)を昨日買いました。
62吾輩は名無しである :2000/09/14(木) 10:45
トドロフの解釈は「象徴」にむやみにポジティヴな価値付けを
している。それは彼が他の著作においてもドイツ・ロマン派
を評価していることからして当然のことだが。(以前の普遍/
個別の文学史的抗争についての議論を参照のこと)
要は彼は、ベンヤミンが解釈したようなアレゴリーの持つ豊か
な鉱脈を理解できなかったから、あるいは知らなかったから。

トドロフはフォルマリストうんぬんやジュネットと組んで「詩
学」うんぬんについての言論で有名になったが、肝心の「修辞
学」の理解は伝統的な範疇にとどまっており、せいぜい規範的
な解釈しか示せない。もう終わって反動化した哀れな二流学者。
63アタシは名無しヨン! :2000/09/21(木) 02:23
要するに、「アレゴリーの復権」って簡単に言えば(僕は文学のことはよく知りません)
言葉がただの記号に過ぎないってことに関する開き直りって理解していいんでしょうか?
しかし、昔の人もホントに、マジで、言葉が実体と(シンボル的に)結びついてると考え
てたんでしょうか?
64横槍2号 :2000/09/21(木) 08:09
横レス、すいません。
61さんの引用したトドロフによる象徴と寓意の定義って、モロに逆なんじゃないか?と思いました。
これ間違って引用してませんよね?
65>64 :2000/09/21(木) 12:44
確かに逆でもおっけーだね。どちらの定義も「いわば死んでいる」から
66横槍2号 :2000/09/21(木) 16:47
>65
もうちょっと詳しくお願いします。

あるメタファーが習慣化する→デッド・メタファー→シンボルになってしまう、ってことですか?
「逆でも」というか、逆じゃないと駄目なんじゃないですか?
定義がシンボル的なら、逆転させて通常と違う意味をあたえるのがアレゴリー的?
わかりません。
67>66 :2000/09/21(木) 21:47
価値を絡めるから
定義が腐って可逆になるんじゃないのかな?

シンプルに
象徴(しんぼる) ・・・具体→抽象
寓意(あれごりー)・・・抽象→具体
これだけじゃだめかな?

ついでに
象徴&寓意⊂比喩(めたふぁー)

安易かな?
68吾輩は名無しである :2000/09/21(木) 22:03
同じ→だけど
受けての流れと
作り手の流れね
69横槍2号 :2000/09/21(木) 23:14
比喩とメタファーって違いますよね?
比喩の一種として直喩や隠喩(メタファー)や換喩やらがあるという、、、
70吾輩は名無しである :2000/09/21(木) 23:53
たしか直喩も隠喩も換喩も、
英語では「メタファー」と言うんじゃないのかな?
71横槍2号 :2000/09/22(金) 00:47
そうなの?換喩はメトニミーじゃなかったですか?
シネクドキはなんだっけ?
72名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 09:54
おひおひ、こんなところで古典的な修辞学の比喩のカテゴリーを
全部ピックアップしようっちゅうのかね。そんなことは修辞学の
辞書でも引いて一人でやってくれ。
7367 :2000/09/22(金) 12:17
>寓話のことだから教訓的な話のことですか?
これぞまさに「デッド・メタファー」
寓意が曲解される原因なんだろう。
74アタシ :2000/09/22(金) 13:17
日本国憲法の天皇の定義に出てくる「象徴」って言葉、どう思う?
レトリック的にはなに喩?
つまらなかったら、このレス無視してもいいです。
7567 :2000/09/22(金) 13:43
数学の技法にシンボルは多用されるが
アレゴリーと言えるものはない。
数学全体が壮大な寓話だからだろう。
76横槍2号 :2000/09/22(金) 17:01
対象をどう見るかでも変わってきますね。
喩えられるものと喩えるものの関係をメタファーとみるかシンボルとみるか。

>72
そんなこと初めから言ってませんよ。よく読みましょう。
77吾輩は名無しである :2000/09/23(土) 00:38
うーん、メタフォーとシンボルの違いは何なんでしょうか?
常套化して、新鮮味を失い、「死んだ」メタフォーがシンボル?
78アタシ :2000/09/23(土) 03:14
坂を下りてきたのは一人の若者だった。肥桶を前後に荷い、汚れた手拭で鉢巻
をし、血色の良い美しい頬と耀く目を持ち、足で重みを踏み分けながら坂を下りて
きた。それは汚穢屋--糞尿汲取人--であった。彼は地下足袋をはき、紺の股引を
穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその姿とては定かでは
ないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声が私に呼びかけたので
あった。それが汚穢屋の姿に顕現したことは寓喩的(アレゴリカル)である。何故
なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛で
あったに相違ないから。
。。。これは三島の『仮面の告白』の一節だけど、どう解釈すれば良いんだろう?
79アタシ
坂を下りてきたのは一人の若者だった。肥桶を前後に荷い、汚れた手拭で鉢巻
をし、血色の良い美しい頬と耀く目を持ち、足で重みを踏み分けながら坂を下りて
きた。それは汚穢屋--糞尿汲取人--であった。彼は地下足袋をはき、紺の股引を
穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその姿とては定かでは
ないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声が私に呼びかけたので
あった。それが汚穢屋の姿に顕現したことは寓喩的(アレゴリカル)である。何故
なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛で
あったに相違ないから。
。。。これは三島の『仮面の告白』の一節だけど、どう解釈すれば良いんだろう?