バルトの言う「作品からテクストへ」を

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1名無しさん@1周年
説明して下さい。
お願いします。
2カジノロワイヤル:2000/07/16(日) 02:22
このスローガンの作者は
大統領主催のパーティーに行く途中、
トラックに轢かれて死んだので
今ではその真意はわかりません。

それと、この事故死が
自殺だったのか、本当の事故だったかも
わかりません。
3ピカール:2000/07/16(日) 03:11
批評にテクニカルタームを増やした元凶。
アホは批評すら理解出来ない時代になってしまいました。
4名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 03:32
だから「作品からテクストへ」の説明をしてやれよ。
53>1:2000/07/16(日) 04:22
作品のレクチュールは、その作品の意味そのものへの追求。
テクストのレクチュールは、終止しない行為=遊戯であり、生産行為そのもの。
1の「言う」って、何処で?文献?

4のsot君には分かるかな?分からんよな。
6名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 04:23
ageとく。
7名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 05:10
>5
意味がわからん。翻訳の硬い文とテクニカルタームでなく
もっとわかりやすく教えてくれ。
8名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 05:24
>7
うむ、ヌシの言う通り、5のカキコは明らかに文学板症候群なのじゃ。
孤悲屁してたら、それは読んだつもりになっていたとしても、
所詮は弧悲屁なのじゃ。一人哀しく屁をこいているのと一緒じゃ。
まずは「レクチュール」なる語の綴りを挙げてもらいたいぞよ。
そしてこの語が語源絡みでどのように展開されているか、述べて
もらいたいものぢゃ。
儂か? 儂はバルトはバルトでもクリスチャンのバルトのほうが
よいぞよ。
9名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 08:49
>7
クリスチャンのバルトの顔って不気味じゃないですか?
夢に出てきましたよう。
105_lecture>8=7=4:2000/07/16(日) 09:10
自作自演はいいよ.
結局分からんのなら,レス書くなよ.無記名の君に答える義理は無いよ.
Picardに誰も反応しないのは,Barthesの本すら読んで無いみたいだね.
1は寝てるだけか?ネタスレか.
11厨房:2000/07/16(日) 09:28
「作品」とは、個性と独創性をもつ「作家」が一つの「意味」を指示するために書いたものであり、その所有権は「作家」にある、とされる。

「テクスト」とは、その原義は経糸と横糸から織られる「織物」であり、多様な要素からなる錯綜体である。
そこに個々の「読者」が関わることではじめて「意味」が生成される動的な場である、とされる。

つまり「作者」から「読者」へ中心をシフトしたってことかな。
バルトはそれを極めてラディカルに言っているので、鵜呑みにしてはいけないかも。
ちなみに5の「レクチュール」は「読む行為」という意味。
「遊戯」とは「読む行為」における記号の結合はつねに恣意的だということ。
厨房の意見ですまんのう。
12厨房:2000/07/16(日) 09:32
あ、あと、わしは5と同一人物ではないです。
念のため。
13>11:2000/07/16(日) 09:34
新批評はテクニカルタームが、多すぎて素人には分かり難いですな。
14名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 09:37
作品においては、読み手に与えられた自由は、
「読むか、読まないか」だけ。書き手のメッセージを、
一方的に受け取るだけ。
テクストは、読まれることによってはじめて完成するもの。
だから、「誰に読まれたか」、「いつ、どこで読まれたか」、
「どのようなかたちで読まれたか」
などによって、無限のかたちがある。
15名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 21:43
8である(もちろん、8=7=4ではない)。

このスレはネタなのかもしれないが、いちおう言っておく。
同名の論文は日本語訳が出ている。構造分析の中だと思う。
人に尋ねる前にそれにあたるのが早いだろう。
柄谷板と同じような展開を危惧する。

以下はやや粘着質的なものになっている。
読まずに飛ばすがよかろう。

>5=10
貴兄がバルトに対して、あるいは、書かれたもの一般に対して真摯な態度を取り、
その上での反応であるならば、半ば揶揄・扇動に近い言動を取ったことに対して、
率直に謝罪しよう。
しかし、すぐに自作自演であると非難するのは、まったくもって異なる場から、
たまたま同じような感想・印象を抱いた複数の者に対し、非常に失礼であると
同時に、自らをも貶める行為に堕す危険が常につきまとうということを
付け加えておこう。

理解しているということは、誰にも通じる言葉でわかりやすく表現するといった
能力を包含し、さらには、そのような態度をとる義務すら発生する場合がある。

難解な翻訳語(それも語源を遠く離れてしまった造語)を駆使し、独り悦に浸る
態度がいかに愚かか、さらには、そうした態度がいかに「開かれた」作品、
読書の快楽なるものに反するものか、貴兄に繰り返す必要もあるまい。

テクストなる、江湖に流布したタームすら「うさんくさ」く思われている、
だからもういちど自分自身に思いださせる意味でスレ名の論文を書いたと
バルトも前書きで言っていたように思う。

もちろん、レヴィナスが好んで引用したユダヤの諺のように
「子供には肉を与えるな、パンを与えよ」なのだが。

バルト・エーコ・イーザー・ジュネット、あるいはさらに遡り、20年代初頭の
いわゆる「言語の牢獄」内でもがき苦しんだフォルマリズムの先人に対し、一定の
敬意と愛慕の念を抱きつつ、その著作に取り組むのは、文科系の学に触れ始めたものに
とって半ば義務といえるだろう。八十年代、九十年代を過ごしてきた文化系の
学生にとって、こうした著作は避けて通れないものだった。

バルトに関して言えば、小生の場合、そこには常にエーコが、イーザー、インガ
ルデンが、ジュネットが、さらにはリクールがいた。
つまり、バルトの著作は、他の人物たちの著作とともに相互参照されつつ、
読まれるべきであって、それこそが、バルト作品をテキストへと生まれ変わらせる
唯一の方法だと言っておきたいのだ。

小生は専門家ではない。今は遠く離れてしまった、一読者である。
であるから、誤解を恐れず、簡潔に、わかりやすく述べるよう努めよう。
16名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 21:44
(承前)
「書かれたもの」を読むということ。それは、読者が作者の「言いたかったこと」
「意図」を探し求め、素直に読み取り、理解し、果ては、「お勉強」することではない。
これは当然のことだろう。作者の意図を述べよ、なんて、お気楽な入試問題や中等教育の
国語の時間にしか出くわさないのだから。

本を読むということは、それまで読んできたことを反芻し、自分が持つありと
あらゆる常識・知識・経験(エーコの百科事典的な参照群)を引用し、参照しながら、
これから読み進めるであろう部分を、あるいは、「作者」が書かなかった部分、
書き落とした部分を、つまりは、空白を予想し、うずめながら(イーザー)
読み進めるという行為。

または、ある作品を前にしながらも、他の様々な作品からの引用、または他の作品への
引用を読み込み、その反響を聞き、読者自らが意味の生産に携わっていく行為(バルト)。
#「無為の主体」云々についてはおいておく。

早い話、読者は、あたかもお偉いさんの尊いお話に頭を垂れつつ、一言一句も
聞き漏らさないかのような態度で拝聴するといった、受身的な読み方をしているのでは
ない。あるいは、作者の「意図」という唯一の財宝を探し求めて、来る日も来る日も
人里離れたわびしい山腹を掘り進む、謹厳実直なトレジャー・ハンターでもない。

作者が描いた素描に後から色をのせてゆき、一枚の絵画を完成させていく
ような行為(リクール)。意味の生産そのものにタッチする能動的な行為。

前者の読みの対象が、ある一定の閉鎖された「空間」に限定された「作品」
であるとするならば、後者の読みが行われる場、つまり、なんらかの具体的、
物質的なものではなくて、こうした読みが行われることそのもの、その方法、
意味の生産行為等々を広く「テキスト」と呼んでいたように記憶している。
17名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 21:46
(承前)
手に取ることの出来る、物質的な本には、「始めと中と終わり」があるが、テキストは
無限に広がってゆく。単一の作品を読むという行為は、他の作品の反響を耳にしつつ、
比較参照しつつ、意味を織り上げていくということだ。一つの作品を読むということは
このような意味の多形的生産活動を通じて、それまでに読んだ作品を、あるいは、逆説的だが
これから読むだろう作品を横断的に、そして、同時に読むということ。

「作品」はさまざまな規則を読者に押し付ける。これは聖なる書だ、学術論文だ、
娯楽小説だ、自伝だ云々。しかし、「誰かが読む」ことによって、はじめて意味が
生産され、いわば無限のメタモルフォーゼこそが「作品」の存在意義なのだとしたら、
規則やコードにどれだけ意味があろうか。
『キリストに倣いて』をあたかもあのセリーヌが書いたかのように読むこと。
作品の規則に縛られることなく、逆に戯れながら、さらにその上を行くこと。
書を作品としてでなく、意味生産の場、すなわちテキストとして読むこと。

ここにこそ、消費としての読み、から、遊び・ゲーム・戯れ(jeu)としての読みへの
移行がありうる。
享受(jouissance)(初期レヴィナスでも出てくる実に意味深な言葉だ)悦楽(plaisir)が
可能になるのは、こうした読書だ。つまり、ともに「イク」こと(バルト)。
もちろん、学者たらんとするエーコなどは、「解釈の対象」としてテキストを捉え
「自由な読み」に一定のガードレールをつけようとしたわけだが。

すでに黄ばんでしまった手許のメモを頼りに書いてみた。
間違った解釈も多いだろうし、他の誰かの議論が混ざり込んでいるかもしれない。
それらについては、現役の学部生、院生、研究者等々が逐次、わかりやすく訂正
していただけたら幸いだ。
以上である。長文御免。
187(4でも8でもない):2000/07/17(月) 00:44
文学方言使えるだけで、己を特権化できると思ってるその世間知らずの
おこちゃまの5に読んでもらいたいのであげ。
19再び8である:2000/07/17(月) 01:35
>18=7
いや、申し訳ない。不毛な争いこそ、避けるべきものだと思いsageさせてもらった。
貴兄の述べられた通り、様々なタームが裏付けのないまま浮遊し(たとえば、13氏の
言う新批評とは今世紀初頭のニュークリを意味するのか?不可解だ)、一部では勘違い
としか思えない「特権化」なる身振りが如実に感じられる。

おそろしいことではあるまいか。
批評用語を操る方々は、ほんとうに、小説を読んでいるのか?
アウエルバッハの名は出すまい。ナボコフの名も出すまい。彼らが印象批評の徒だと
非難されるだろうことも織り込み済みだ。
しかし、あれほど小説を読み、熱狂的に、かつ細心の注意を払って、批評を
展開してきた人々がこの二十世紀に確かに存在したんだということを忘れていないか。

小生は単なる一読者であるから、偉そうなことは言えないが、
あまりに悲しい状況だと思うのである。
ということで7氏には申し訳ないが、再度sageさせていただく。

ちなみに、テキストと読者という関係を見事に描いていると小生が思う
作品のひとつに、pynchonのlot49がある。oedipaの科白がまさに我らと
テキストの関係を象徴していると思う。面白い作品なのでこの機会に
再読をお奨めする。
201 :2000/07/17(月) 08:51
これだけ真っ当なレスが来るとは思いませんでした。
有難うございます。
あげ。
21名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 11:15
8と11の言っていることが
かなりの程度で正しいと思う。
>8
バルトを読むときに、イーザーや
インガルデンを参照すべきという
のもそのとおりだと思う。
イーザー『行為としての読書』
インガルデン『文学的芸術作品』
がいいでしょう。読者、読む行為を
強調したイーザーの立場は
読者反応理論(reader response theory)の
代表的な立場です。
>11
バルトの言っていることを鵜呑みにしては
いけないというのも、そうだと思います。
>13
8も指摘しているが、新批評の話を出すのは
このスレの話の流れからは突然すぎるね。
フォルマリズム、新批評、構造主義批評、そして
脱構築批評。こんなふうに名づけるのもばかばかしいけど、
一応区別しておいたほうがいいでしょうね。
2221:2000/07/17(月) 11:20
↑なんか、上で8に書いたこと、8に
言うべきことじゃないな。>1にすべき
だったかな。まあ、いいや。

いままでのすべてのレスをふまえて
下記を参照してみては。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/2358


23厨房:2000/07/17(月) 12:58
ドイツの受容美学(イーザーとかね)を参照するバルトの読み方も面白いけど、(まさに「テクスト」を編んでいくような…)
フランスのテクスト論の実際的な影響関係を考えるとバフチンとトドロフとクリステヴァを合わせて読むことがお勧め。
「作者」について考える上ではフーコー「作者とは何か?」が合わせて読まれるべきかな。
詳しい内容まで踏み込むと厨房にありがちな誤りが出てきそうなので本屋にたくさん置いてある概説書の類を読んでみて。
24再度8である:2000/07/17(月) 19:34
しつこく8である。レスをつけて下さった諸兄姉に感謝しつつ。
>21
泥仕合になるかと思い、小心者の小生はどきどきしていたのであるが、
このようなフォローをしていただき、感謝申し上げる。

貴兄も触れておいでだが、小生がバルトの表面的な受容に危機感を抱いているのは
まさに「鵜呑みにしてはいけない」側面を持っているからだと思うからなのである。

コードからの逸脱、規則の牢獄からの解放というものが、果たして一般読者において
可能なのか。読書の愉楽(plaisir)を可能にする「消費としての読書」からの離脱が
果たして可能なのか。バルト自身は、件の論文でも書いていたと思うが、エクリチュールの
実践を伴うかたちで、この読書の快楽を追求し、自身によるバルトを結実させた。

しかし、我々一般読者にとって、そのような実践を伴う読みというものは、いまだ
ムツカシイ。これはイーグルトンだったか、文学研究は、大きくわけて、記号論、
精神分析学、そして、マルクス主義的な政治批評だったか、この三者の交点において
可能になると述べていたように記憶する。最近まで世にはびこった、安易な政治批評は
三流評論家、五流研究者、カルチャーセンターの主婦的大学院生に任せておけばよいと
思うが、我々の読み、受容のコードを決定する要因をやはり別のしかたで追い求めなければ
いけないと思っておる。安易な「読書の愉楽」のスローガンには吐き気すら覚えるものである。

>23
レスに感謝いたします。バフチンからクリスティヴァのラインは、御指摘の通り、
確かに重要だと思います。クリスティヴァが初期に提出した内的対話のモデルは、まさしく
バフチンが初期に提示していたものであるし、特に作者とは何か、という点を
さらに再考する意味で、バフチンに戻るというのは、フーコーの表面的な流用といった
傾向をストップするためにもアクチュアリティを持っていると言えましょう。

話はずれますが、フーコーとなると、今度は自己の問題になってゆくのですね。
リクールの以前の仕事(物語と自己同一性、倫理、責任等々)と併せて考えてみたい
と思っています。
25名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:10
あげ
26名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 04:02
小生とかいってんじゃねえよ。大笑いなんだよ。
11はナイスだよ。わかりやすい!その点だけでもgoo。
誰かもっと評価しろっての。

まずはバルトの言ってる「テクストの快楽」を体験した者
のみバルトを批判してよし!だね。ル・セミオティック万歳。
27名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 06:38
5が来なくなったな(藁
28名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 08:07
>26 確かに厨房は、分かりやすくて良いなぁ。
8の小生(藁)みたいな自慰レスは、良く分からん。5の弧悲屁君と変わらん。改めよ。
29名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 17:25
>28
だったらてめーでやれって。ごみが。
308:2000/07/19(水) 19:27
再度8である。

おやおや、荒れておるな。
元気があってよろしいと言いたいところだが。
#サゲておくだけの羞恥心もあるようだしな。

カルシウム不足かな。
それとも運動不足か、はたまた恋愛不足か。

荒らすにしても扇るにしても、もすこし、修業がいるようじゃな。
これでは優雅さに欠け、かたはら痛しじゃ。

とにかく、読むものが思わず苦笑いしてしまうようなレスを所望しておるぞ。

ここは文学板らしく、我らが偉大なる同時代人Shakespeareの言葉を
ひいておこうか。

There are more things in heaven and earth@` Horatio@`
Than are dreamt of in your philosophy.(Hamlet@` 1.5.166)

コンテクストの意味とは敢えて異なる意味あいを込めて
引用してみたのだが、有名な言葉だから、これ以上はいらんわな。

夏休みが始まって時間が出来たのなら、ゆっくり読書でもしたまえ。
受験生なら夏のうちに数学と英語のおさらいをしておきたまえ。
秋以降は暗記科目で忙しいだろうからな。
学校のレポートがあるなら早い時期にビブリオだけでもつくっておきたまえ。

ま、そういうことで。夏風邪など召しませぬよう。
31名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 20:37
>23
厨房氏が何故ここでフランスのテクスト論の流れを持ち出しているかというと、
テクスト論が重要なのは「作品からテクストへ」のみならず、「読者からテクストへ」と
いう契機も含んでいたからであると推測する。
テクストが「多様な要素からなる錯綜体」であると同時に、読者もまた複数のコード(解釈の規範)からなる「錯綜体」である。
バルトやその後続のテクスト論は作者を脱中心化すると同時に「読者」の脱中心化もその射程に入れていたのである。
(そしてそれは主体の解体へと接続されるだろう。)
バルトをイーザー等とあわせて読めば、イーザー等の限界を知ることができるだろう。
すなわち厨房氏はバルトとイーザー等をあわせて読むことは「面白い」がそれ以上ではなく、却ってバルトのテクスト論を
読者中心主義として矮小化してしまう危険性をもつことを指摘したいのであろう。
328:2000/07/19(水) 22:01
なんだかついついしつこくなってしまう
この粘着質的性格に対して寛恕を乞いつつ
>31
レスに感謝申し上げます。
貴兄の提示される図式は非常によく見えますし、流れはその通りだと
思いますけど、問題は、その「読者」の「脱中心化」なるものの先に
あるものが見えない、ということなのです。

バルトは、一読者としてでなく、バルトなる何ものか、バルトなる名
あるいは、表紙の上に印刷された文字の配列として、テクストとの
絡み合いを実践したわけですね。最終的には、RB par RBにおいて。
それは別に読者中心主義でもなんでもありません。
問題となっているのは、(我々の)受容のしかたであって、
バルトの作品群そしてテキストそのものではない。

小生が問いかけたのは、そのような問題ではなく、読者あるいは
「主体」すらも解体されるという、その先にいったい何があるというのか、
果たして、それは可能なのか、という点なのです。

まあ、小生が保守的だということもあるのですが、だからこそ、
リクールの名を挙げたのですよ。他者のような自己(ムツカシイですが)で
再度倫理を取り上げてもいますし。

エーコ的な奥歯にものの詰ったような歯止めの掛け方ではなく、
世界も人間もすべてがテキストと見なされつつも、しかし、やはり
これを統合する結節点というものがあらざるをえない状況というものへ
目を向けねばならないのでは、という話なのです。
ここからは、おそらく、読者、作者といった問題群ではなく、
主体、自己、倫理、義務、対話といったものがキーワードとして
現れてくるのでしょう。
ということで、ひとまずこのあたりで。
33名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 23:11
同IPの方が多いようで・・・。(wara
34名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 23:42
ガキばっかだな。
今どきテクスト論なんぞやるとは。
35名無しさん@1周年
(chuchuchu・・・。
IP?Remote_Host?Client_IP?
夏は厨房がやたら多いようで・・・。
言葉覚えたらすぐ使いたがるようで・・・。
頭もsageならよかったようで・・・。
(chuchuchu・・・。