1 :
名無しさん@1周年 :
2000/05/18(木) 18:32 誰か教えてくだされ。
マギー四郎とか引田天功のマジックを忠実に描いた平成の自然主義運動です。 どうせ俺のレスはつまらんよ。
3 :
マジレス :2000/05/18(木) 18:55
あらためて問われると結構難しい…。 とゆーことで識者のみなさまの議論に期待いたします。
4 :
真っ白いスカンクどもの館 :2000/05/18(木) 19:41
はったりっぽい真実、真実っぽいはったり。
5 :
天然八歩 :2000/05/18(木) 21:04
魔術的リアリズム…本来はリアリズムを突き詰めた果てに現出する魔術的・幻想的 世界(たとえばロブグリエ)のことを指していたと思うのですが、いまは皆さん、 「魔術的・幻想的世界をリアルに書くこと」という意味で使われているようです。 個人的にはラテンアメリカ小説が日本に紹介されたあたりから、なんか意味が変わ ってきたような印象があります。 今では「魔術的リアリズム」=ガルシア・マルケスみたいな小説という感じかな?
6 :
名無しさん@1周年 :2000/05/19(金) 00:27
南米での事件。 子供がさらわれると言う噂が広まって、写真撮ってた日本人が殺されちゃった。 これがマジックリアリズムなのかー? てちょっと思った。 こんな描写、小説でしたら笑われちゃうよねえ。
7 :
真っ白いスカンクどもの館 :2000/05/19(金) 01:17
魔術的レアリズムって、噂的レアリズムのことでしょ。
8 :
>7 :2000/05/19(金) 11:06
そうそう、あの一行情報のことね。
9 :
さくま :2000/05/24(水) 22:45
フランス以外、特に旧植民地における、プロレタリア文学化したシュールレアリズム の事。これに対して、フランスのマジックレアリズムはヌーボーロマンと呼ばれてい ます。解剖台の上のミシンとコウモリ笠の出会い、がシュールレアリズムの提唱した 夢の世界ならば、では現実はどうなのか、現実ははたして現実以上に夢の世界の構成 物で出来上がっているのではないか、と疑問を呈したのが、商品の上の神と物の出会 いを主張した唯物論です。資本論こそが最初のマジックレアリズムと言えるかもしれ ません。よく混同されてしまうのが、マジックレアリズムと幻想文学ですが、違いは 政治性にあります。いくら舞台が沖縄であっても、また登場人物が没落していく元首 であっても、どうにも出来上がってきた作品がマジックレアリズムに見えないのは、 そのへんに原因があると言って良いでしょう。社会変革の意志がそのまま文体におけ る現実変換の力となっているのです。とはいえ、幻想文学とマジックレアリズムの境 目を定義するのは、波打ち際に線を引いて海と陸を分けるようなもので、困難ではあ ります。たとえば幻想文学の代表とも称される泉鏡花ですが、その初期はきわめて階 級意識が強く、その後手仕事日本の世界に逃げこまなければ、立派なプロレタリア作 家となったであろう、と折口信夫も言っています。職人と言えばプロレタリアと連想 出来にくくなった現在では、より幻想文学であると歴史上定義されているのです。
10 :
( ´∀`) :2000/05/26(金) 04:17
ちょっと待て待て。 もしかして同志社英文の人? なんか、ちょうど授業でやってるところなんだけど。まさかねー
11 :
さくま :2000/05/27(土) 02:26
ちがいます。なぜ英文学でこのような事をやるのか、参考までに関連性を教えていただけるとありがたいのですが、よろしくお願いします。
12 :
>10 :2000/05/27(土) 07:24
斉藤先生の授業? ホモっぽくて微妙に禿げてるあの先生に文芸批評だったかの授業を受けたなあ。 落ちた。 って、何年も前の話ですが。 横槍失礼。
13 :
天然八歩 :2000/05/27(土) 07:36
事典を引いてみました(^^) 「マジックリアリズムという表現は美術史に端を発する。この言葉は1925年に出版 された「ポスト表現主義-マジックリアリズム」の中でフランツ・ローが始めて使 用した。この概念はいわゆる「新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)」派の画家 達の過剰に精密な現実描写が、まさにその過剰な精密さのゆえに、非現実的・魔術 的次元に移って行く事を意味した。 (中略)文芸評論家エドモン・ジャルーは彼の友人ジュリアン・グリーンの作風を 評する際、この美術史の用語を転用した。またフランドルの幻想文学者Daisneは、 マジックリアリズムの理論を文学で展開した。Daisneはマジックリアリズム初期 の巨匠の一人にボンテンペリを挙げている。(後略)」 (ツォンダーゲルト「幻想文学事典」より)
14 :
名無しさん@1周年 :2000/05/29(月) 17:15
>10 千葉先生って知ってる? 3月に退官されたんだけど、あの年で助教授だった。 授業は、必ず遅刻してくる上、生徒の遅刻には思いっきり嫌味を言う。 内容も彼のセミナー、朗読テープを聞いて終りっていう授業だったし。 先生たちの間でも嫌われてたのかな?
15 :
14 :2000/05/29(月) 17:16
ゴメソ。 >12だった。
16 :
12 :2000/05/29(月) 23:26
>14 ごめん。全然ちがったみたい。 ていうか、わたしは英文じゃなかったんで、英文の先生はよくわからないです。 当てずっぽうでした(笑) 全然関係ない話でごめん。
17 :
名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 18:58
八歩さんの説明でよく分かったです。 たしかにマルケスやコルサルタルはそういう効果狙ってるのがわかります。 ただ彼らの作品は他の意味でも魔術的だったというのが誤解のモトだったのデスネ。
18 :
名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 19:15
『未開人』のリアリズム という印象を受けた。
19 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 11:05
で、1はどうしたんだ?
20 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 16:28
私は文学評論に関しては文学部唯野教授を読んだだけのなんですが、みなさん どうやって勉強されたのですか?
21 :
>20 :2000/06/03(土) 16:32
みーんな、間違って文学部か文系教養課程で血道あげちゃったのよ
22 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 16:37
>12 斎藤先生は、今も文学理論の講座持ってるよ。 他にも英文科のセミナーにも文学理論、評論を扱うっぽいのがあるみたい >20 私も文学部唯野教授を読んだだけです。初めて読んだときは講義のところを とばして大学のドタバタ騒動だけ読んでたけど、最近たまに講義のところを 読み返してる。他の入門書とかより、よっぽどわかりやすいと思うよ
23 :
名無しさん@1周年 :2000/06/04(日) 04:22
>13 これではピンチョンやエリスなどのハイパーリアリズムとの違いがはっきりしない。 また、三島由紀夫もインタビューでザッハリヒ、ザッハリヒと言っていること から判るように、日本には新即物主義が知られていたにもかかわらず、マジック リアリズムの受容は、アストリアスの一部の作品を除けば石油ショック以降 で、成立要件を満たしていなかった理由もわからない。 マジックリアリズムを幻想文学と比較している時に、幻想文学サイドからの 説明をもってよしとするのは正確でないし、フェアでない。
24 :
>23 :2000/06/04(日) 08:49
13さんは別によしとしてる訳ではないと思うぞ。 そんなら君の説明を聞かせてくれ。
25 :
>マジックリアリズムの受容 :2000/06/04(日) 12:29
大江とか筒井(とか篠田一士)がラテン、ラテンと言ってるところにちょうどマルケスがノーベル賞取って、 集英社や新潮でどかっと本が出て、売れた、ってだけでは。(byブームに乗った読者)
26 :
ixion :2000/06/04(日) 13:01
ところで、ピンチョンって「ハイパーリアリズム」っすか?>23さん いろんな分類があるなぁ…。エリスはB・E・エリスですか? 「マジック・リアリズム」って、40年代あたりにカルペンティエルが 広めたんだよね。その頃は、ダダ・シュール(とくにデュシャン)が 既に先行するものとして文学の中にも書き込まれていたわけで、手法的には そこらへんを意識して出来あがったんじゃないかな。写実的な平面があって、 その平面が実は立体という別次元があってこそ成立するように、言葉によって 出来事がなぞられるとき、その同時性の横糸に対するように歴史性の縦糸を 噛み合わせ、さらにその縦横に編み合わされたファブリック、テクスト平面に 神話やら何やらの重石を乗っけて立体へと変じていく。重力の重石で歪む 時間平面みたいなかんじ、かな…渦巻きみたいな、すり鉢みたいな重=芯と しての神話性。うわカッコ付け過ぎ、嘘臭い。 ところで、魔術的リアリズムって南米だけじゃないでしょ?こないだやっと J・ウィンターソン『さくらんぼの性は』読んだけど、これもそうっぽいし、 モリソンの『ビラヴィド』もそうじゃないかな…分類にもし意味があれば。 だから、未開人のリアリズム、ではなくて、未開を求心力としようとする リアリズム、なら分かる。文学に開/未開はないかもしれんけど。
27 :
ixion :2000/06/04(日) 13:13
んー、カルペンティエルが「広めた」ってのはまずいか…。 "lo real maravilloso"って言葉が、結構有名になっちゃった、 てカンジかな。 すんません、失礼しやした^^;
28 :
>23 :2000/06/04(日) 18:14
>ピンチョンやエリス エリスって、あの「アメリカン・サイコ」の兄ちゃんのこと? 恐れ多くもピンチョンと同列にあつかうなよー、バカかと思われるぞ。
29 :
Neil Hertz :2000/06/04(日) 19:06
>モリソンの『ビラヴィド』(ixion くんの書き込みより) 訳者が『ビラヴド』だってごねてね、某先生が痛いところつくから。 それから上の28の方、もっと勉強しようね。
30 :
ixion :2000/06/05(月) 00:58
痛い所ってなんでせう?古語の動詞用法の過去形とでもかけてるんでせうか? <Beloved>Neil Hertzさん そう考えると『ビラヴド』なんですかね、 あんま考えてなかったけど。内容も歴史によって愛することを奪われる ことと、愛にとり憑かれる(=beloved)ことみたいな感じですからね…。 マジックは、時間と闘うリアリズム、かな。
31 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 01:05
>26 >ダダ・シュール(とくにデュシャン) ってデュシャンと魔術的リアリズムってなんなの?シュルレアリスムの文脈で デュシャンは捉えていいの?
32 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 01:07
↑訂正 ってデュシャンと魔術的リアリズムの関係ってなんなの?
33 :
ixion :2000/06/05(月) 01:27
デュシャンはダダの文脈で(もシュルでもどっちでも良いんだけどさ^^;)。 あと、当たり前のことだけどカルペンティエルとシュルレアリスムとの 接近があります。『この世の王国』序文の言葉は、ブルトンとよく 比較されるし<シュルと魔術的レアリスム で、デュシャン。例えば「階段を降りる裸婦」なんかを見てみると、 平面的に人物を見ること+立体を重ね合わせること=要するにキュビズム のような手法に加えて、動き=時間の経過という位相が取り込まれて います。いませんか?いるでしょう、多分ね…。俺専門家じゃないから 知らんけど。それが例えばクレーになるとレベルを多重化させるんじゃ なくて、逆に「記号」によって余白を噴出させるやり方を取るし、ダリに なると「記憶の固執」なんかのあまりにも有名な「時間の空間性」へと 進んでいく。写真ならマン・レイのバイオリンのケツが、肉体の曲線が 時間を無視するようにドーンとそこにある。 ダダでもシュルでも、キリコの「街」のようにここでもあそこでもない 影の重なる場所を作り出そうとしてる。って、マコンド浮かばない? 浮かばないか…俺の妄想でした、以上。>32さん
34 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 03:24
32>ixion氏 すいません、よくわかんないだけど。。。 >ダダの文脈で(もシュルでもどっちでも良いんだけどさ >動き=時間の経過という位相が取り込まれています。 確かに最初期や最晩年の作品にシュルレアリスティックなものがあるけど、 「階段を降りる裸婦」のどこが魔術的リアリズムなの?「時間の経過という位相」 が取り込まれるとどうして魔術的なの? >クレーになるとレベルを多重化させるんじゃ >なくて、逆に「記号」によって余白を噴出させるやり方を取るし これと前の文章とのつながりがみえないんですが。。それと「『記号』によ って余白を噴出させる」となにが魔術的にリアリスティックなの? >「記憶の固執」なんかのあまりにも有名な「時間の空間性」 「時間の空間性」って?それを「記憶の固執」のどこで表現してるの? >肉体の曲線が時間を無視するようにドーンとそこにある。 なんで今度は時間性のない例をあげるの?そもそも時間性の導入と魔術的リアリズム ってどう関係あるんですか? >ダダでもシュルでも、キリコの「街」のようにここでもあそこでもない >影の重なる場所を作り出そうとしてる。 「影の重なる場所」って?何か全然ピンとこないんですが。。。
35 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 07:03
いいよいいよ!文学板らしくなってきた!!
(何もこんな妄想に突っ込み入れなくてもいいのに…) 「『百年の孤独』の第2の読書【註:第1は「はっきり分かるような書き方」の物語。第2はその物語がメルキアデスによって既に書き記されているという神話的物語】は起きたこと(記録)の秩序を起こりうること(想像)の秩序に確実に幻想的に溶かし込む、その結果、前者の宿命は後者の欲求によって解放されることになるのだ」(カルロス・フエンテス) では、ここからいささか曖昧過ぎる「魔術的リアリズム」(以降MR)の「神話性」に切りこみましょう。MRという分類タームの自己矛盾性は、私達が「普通あるもの」として見ている物語(=R)と、「特殊にありえるかもしれないもの」として想像する物語(=M)とのぶつかり合い、と指摘できるでしょうが、これが矛盾として機能しないがゆえに、私達はマルケスらをMRの作家と定義「せざるを得ない」わけです。『百年』から分かりやすい例を挙げるならば、ホセ・アルカディオの血の流れがまるで影のように伸びていく様や、あのシーツと一緒に昇天する娘なんかがありますね。あれは記録し得る現実の二次元性(平たい日常として書かれるもの)が、想像の三次元性(奥行きをもった想像の領域)に出遭う、というより「溶かし込まれる」わけです。まぁ、小説ではいたって普通のことですが。
そこで、思考をこうめぐらせてみましょう:実は「見る」ことも記録Rと想像Mの狭間にあるのではないか?と。『百年の孤独』の冒頭を読んで誰しもが気づくことは、ホセ・アルカディオの「科学」や「名づけること」が、アルカディアの「存在の延び広がり」を切り取っていること、つまり、RがMを駆逐するように見えることです。これは、私達が今目の前にあることを記録する行為に似ています。フーコーの言う近代、記号は自分が認識することで意味が生まれるんだ、モノはあるから見えるんだ、と(いう勘違い?)。しかし、それが何か異質なものと出遭うわけですね、出遭うというより何かがうごめく。日常繰り返される風景を見ることから、何か別のものを想像するという奥行きが生まれることがある…これを大げさにすれば、「神話」の重石が「現実」の平面に凹みを作り、それが虚実皮膜の間の渦巻きとなる、と言ってみることもできるでしょう。
L.H.O.O.Q.「見よ/彼女の尻は熱い」…デュシャンの作品、いや、ダヴィンチの作品?ただの平たい絵葉書、それとも何か深い芸術?これは、"Look"と"Elle a chaud au cul"の「どちらにも読み取れる」訳ですが、デュシャンの「レディーメイド」(既に創られたモノ)作品の中に入るのでしょう。もしくは、「泉」と名付けられた便器=芸術でもいいです。これがなぜか見る者に「普通にあるもの」R以上の「特殊にありえるかもしれないもの」Mを読み取らせてしまう。デュシャンの後に発見された重要な言葉に「アンフラマンス(極薄)」(「スーパーフラット」とは関係あるのかしらん)がありますが、その言葉が解釈されているように、私達が既にあるものとして薄く切り取っている平面が何か奥行きのあるようなものへと感じられてしまう(のは多分に美術館の雰囲気のせいかもしれませんが)、これが「神話」への溶かし込みではないでしょうか?前出のフエンテスはこうも言っています:「神的なものは自らに先行する記号を前提とする」…これはつまり、そこにただあるように見えるものから、何かを読み取ってしまう「占い」のようなR→Mへの変換のことでしょう(ジョイスの「エピファニー」にも似ていますが)。ファブリック=テクスト=カンヴァスから、あるヴォリュームへと目が想像してしまう経験…こう言うと、どんなものにでも当てはまる気はしますがね。他にも、クレーの壁画(「ナイル」とか)は、Rを詳細に描く代わりに直接「記号」を書いちゃって、そこからMを読み取らせようとしている。またダリの「記憶の固執」は、時計が悠久の空のもと、砂漠と海を背景に萎れているという、当たり前にあるものがありうべきものへと変換する瞬間を、平面のような奥行きのあるような間に描いています。こういった点で、彼らはデュシャンとは違う道を進んではいますが結局同じ系列であり、故にダダとシュルの厳密な区別など不要だし、するのは「区分法」の専門家にお任せしましょう。
では、「時間」はどうそこに絡んでくるのか?ちょっと視点を変えるだけです。私達は今目の前に「現在」があると思いながら生きている(としましょう、便宜上)。マコンドに生きたそれぞれの者たちにとって、それぞれの現在の出来事があったわけです。しかし、そこに重ねられるようにして、すでに書きこまれた「歴史」があり、またさらにその歴史さえもがメルキアデスの「占い」によって先行されていた…ここにMとRが重なり合う世界が創出されています。同様に、私達の背後にも、それぞれ何百人の現在があったわけです。これを俯瞰しようとするとき、そこに「神話性」が生まれる。「階段を降りる裸婦」は、階段を降りている一つの現在だけを描いてはいません。裸婦と思われるものは動いていて、自分の残像を引きずっています。現在は層をなして重なっている、そこにR→Mへと移り行くアンフラマンスな像(infraって「下に」ってことですよね)が描かれていて、なんとなく神秘的だな、と妄想を膨らませる馬鹿がここに一人いるわけです、ハイ。 「まるで時間がぐるぐる回って、私達は最初に戻ってしまったみたい」(『百年の孤独』)
はい、終わり。さっさと裏に回そう。
ほんとに申し訳ない。
>ixion いいじゃん。 これ自体がMRってことも意図してんでしょ? でも本人が下げたがってるので上げないけど。
そんなこといったら全部MRだろー、って意見大歓迎! むしろそれが当たり前になれば、文学の特権化もなくなるし、 マジックレアリズムという「用語」の拘束力も薄れますから。 >42さん
44 :
南米以外 :2000/06/05(月) 12:32
時代順とか調べないで書いてるけど、 Bヴィアン「日々の泡」のディティールにはコルサルタルのような狙いを感じる。 レム「浴槽で発見された手記」あたりではカルペンティエール「失われた足跡」との共通項を感じる。 、、、全然ダメ?
32>ixion ふーむ、わかったような、わからないような。。。 >「普通にあるもの」R以上の「特殊にありえるかもしれないもの」Mを読み >取らせてしまう これって、西欧芸術の最大の特徴の一つでしょ?デュシャンがこういう類のもの をつくったのには19世紀へのアンチテーゼだったんでしょ?写実主義→印象主義→ →セザンヌ→キュビスムの流れにある、視覚オンリーの芸術の思想性、宗教性のなさ を批判して、非知覚的な美術、西欧のなかの西欧美術である中世美術(特にビザン ティン美術)を復活させようとした。この意味で言ったらイコンこそ魔術的リアリズム の真骨頂だと思うんだけど。。「階段を降りる裸婦」の運動性は未来主義とのつながり なんじゃない? ところで虚実皮膜論を持ち込めば幻想的な作風の作家のみならず蝋人形だって 魔術的リアリズムの範疇に入ってくると思うんだけど。人によっては常数に考 えるみたいだけど。。というわけでさげ。
46 :
名無しさん@1周年 :2000/06/06(火) 16:54
すいません、ちょっとわからなくなってきたんで整理させてください。 1 >30 マジックリアリズムの人はどうして時間と闘ったの? そのモチベーションはなんなんですか? 2 >33 シュールやダダなど、いわゆる前衛と呼ばれる人達は 結局時間や歴史を信頼し、分析してはいても、闘って るとはお世辞にも言えない(歴史がそれをいずれ証明 するであろう、というコメントがきわめて前衛的なの からわかるように)から前衛と呼ばれたんじゃないの? 前衛を気取ってるやつなんて単なる犬じゃん。 3 ixionさんにとって「歴史」「神話」ってなんなの? それが単なる憧れの対象ならイコンとかわんないじゃ ん、というのが45さんのいわんとするところだと思 います。私も大賛成。仏像は顔が命、とか言ってんの とかわんないよ、それじゃあ。フランスの神話なら良 くて日本のはやばいんじゃないの、とか言ってりゃす むとも思えないけどな。それともグローバル(笑)な 神話ならオッケーなの? 4 そりゃ時間や歴史や神話や社会構造を無批判に取りい れて一緒に寝るのは快適だろうけどさ、シュールはそ こで分裂したんでしょ? マジックリアリズムを最も 骨抜きにするイデオロギー側の意見が、幻想文学や前 衛あつかいしてあげくのはてにはすべてはマジックリ アリズムであるって言う事なんじゃないの? そして もう一歩だけ踏み込んでおけば、その手の囲い込みが ハイパーリアリズムの問題構成を生んだ原因だと思う けど、どうでしょう。
47 :
d :2000/06/06(火) 18:51
d
48 :
名無しさん@1周年 :2000/06/06(火) 19:01
>28 へ〜そりゃまた、あんたはずいぶんなお利口なんだろうね。 でもさ、谷崎みたいに大見得切るのはみっともないから、小さな声でしか言わな いけど、文学はバカのやるもんだぜ。お利口なやつは商品としての本がはたして 善か悪かなんてぐるぐる考えてないで、アマゾンドットコムの株でも買ってるよ。 それにあんたはエリスよりピンチョンのほうが上だって言いたいんだろうけど、 ちがうね。お利口なえせインテリにはそう見える、てこと。まあ、百歩ゆずって そういう意見が大勢なのはみとめよう。でもさ、そんな一般的にそう言われてる ことをくりかえしても、実質的にはあんたはなんにも言ったことにはなんないん だよ。たとえばトーマスマンみたいな看板絵描きは、リアルタイムでは今じゃ 想像もつかないくらい、立派な作家だと思われてたんだぜ。ピンチョンも同じ。 エリスはドスパソスの後継者で新即物主義だからピンチョン以上にハイパーリア ルなの。
49 :
名無しさん@1周年 :2000/06/06(火) 21:10
32=45>46
私は34番で「そもそも時間性の導入と魔術的リアリズムってどう関係
あるんですか?」って質問していたんだけど、ixion氏の30番の
「マジックは、時間と闘うリアリズム」って発言、見落としてた。これ
はホントによくわかんない。
イコンに関しては、イコンは描かれた表層的対象(実は絵の具という物質
である、描かれたキリストや聖母)を通して、その背後に真実在(彼らに
とっては現象的なものこそ、仮象なわけだから)を見るためのもの、
って文脈において、確かにデュシャンの芸術と関連があると思うけど、
それと魔術的リアリズムの関係がわからないです。これだったら、確かに
仏像や、(偶像崇拝を禁じる宗教の)神像こそ、真の魔術的リアリズム
になっちゃうと思うんだけど)
デュシャンスレッド
http://www.2ch.net/test/read.cgi?bbs=art&key=959035060&ls=50
マジックは、時間と闘うリアリズム、かな。って、ただ575で遊んだだけ。スマヌ、いいかげんが俺の信条^^;突っ込まれると専門家ではないので脆いね。 でも、時間を前面に出すのはいつだって「書くこと」のあり方でしょ?今何かを書いたら、もうその瞬間に書かれた過去になってしまう。それをどう扱うかを考えたときに、年代記もしくは出来事を記述するような形で時間を追いながら、それが既に書かれてしまっていた(占いの形でも、神話祖型でも良いけど)とする手法がMRの一つだし、またカルペンティエルの諸作を読めば分かるが、時間を遡行させたり円環させたりして、わざと「今書いている場所」を見えなくさせ、よって「今読んでいる場所」さえもその足跡を消そうとしたりするのも一つ。ただ、これはジョイスやフォークナー(特に『アブサロム』における語り手クウェンティンがあらかじめ語られた時間を歪める物語のあり方など〉、さらに言えば『トリストラム』にも見られることで、時間を相手にしてるのはMRだけではない。ただそれが手法として意識され、また多分にオリエンタリズム(っつーのは「東洋」じゃなくて、当然異物たる彼岸への憧れね)の産物として出てきたのがMRという用語で、俺はそんなものは無効だと思ってる。 >マジックリアリズムの人はどうして時間と闘ったの? そのモチベーションはなんなんですか?マジックリアリズムを最も骨抜きにするイデオロギー側の意見が、幻想文学や前 衛あつかいしてあげくのはてにはすべてはマジックリアリズムであるって言う事なんじゃないの? 逆に質問。なぜ前衛扱いすることから「全てはMR」につながるのか全く分からないんだけど。あと、「仏像は顔が命」って…^^;
時間と神話性について考えます。書かれる「今」があり、それを書くのは「後追いの今」であるとしましょう。そりゃ、書いたらもう「今」じゃないですからね。では、それら対象(書かれる)と表現(書く)を包み込むようにしてある「全ての今」のようなものがないか、と考え始めると立ち現われるのが神話性ではないでしょうか?(簡単にメタレベルというと、チョイ語弊がありますが…)そして、これらの重層性みたいなものを意識するときに、R←→Mへの変換、もしくは飛躍という願望が現われます。もちろん、「全ての今」などを考えずに年代記の編纂、出来事の羅列をすることも出来ます。べったべたリアリズムですね。ただし、その際は書く側が対象をただ後追いしていることに気付かないまま、自分が創造主であるかのように振舞ってしまいがちです。そして、リアリティが「絶対にある」かのように信じ込んでしまう。しかし、そのとき書かれてしまった「今」はもう死んでいるんです、なぜなら書く者が「今」を、後から領有するようにして切り取ってしまっているから。では、この書くこと=領有・殺戮を、なんとか切り崩すことはできないものでしょうか?
MRは単なるアレゴリーだ、と言う人もいます。俺はこの意見はある程度正しいと思う。なぜなら、アレゴリーとは端的にR←→Mへの変換、もしくは飛躍のことと解釈できるから。ただ、この飛躍には何とかして時間(今:後追いの今:全ての今)にけりをつける必要があります。そこで、一般にMRといわれる作品には時間を操作するものが多い。それは何とかしてすベての今を包み込むような「場」に近づきたいとする欲望の現われでもあります。その場では、単に「これが今だ、当時は今だった、これから今になるだろう」って歴史の編纂じゃなくて、噂だろうと夢だろうと妄想だろうと、ある時間ありうべき時間ありえない時間などすべてが放りこまれている、というよりばら撒かれている。ただこのとき、これを収集や支配への欲望と勘違いしたら、書く者は近代小説(ってもいろいろあるけど)みたいな「神」の視点の表現者になってしまう。「神話」は、「神が語る物語」じゃない。いろいろな話の寄りあい所帯みたいなものでしょう。語る者の意識をいくら拡大しても、その先には果てしなく領有すべき対象がある、だから神になろうとするプロジェクトは行き詰まる。それなら、全てを包み込むようなものがありそうだとして、それを「今」とされているものの中に突っ込んでやって、時間を混乱させてやろう、と。MRって呼ばれるものはこうして出来あがった、ように見える。 ただし、分類用語に意味はない。『ドン・キホーテ』の末尾、作者は「古文書という古文書」を集めたと言うが、「それほど真実ではない」と知っているし、しかも判読できない墓碑銘・詩があるとする。それを判読した学者は「ドン・キホーテの3度目の出発を期待して」いるらしいが、それは書くこと書かれることの時間が混乱していることを示す。また他にいくらでも例はある。もともと、この時間との対峙は表現に埋め込まれていたもので、なにもMRを特別視する必要はないのでしょう。
具体例:「私は、まだ鍛冶屋の炉もない、おそらく私がユバルの役をつとめていた、このエノクの町が、飛行機で直行すれば、首都からわずか三時間のところにあることを知って驚いた。すなわち、「創世記」の第四章と〈あちら〉で経過している時代の年号とのあいだにある五十八世紀を、一八〇分で渡りきることができるのである。きょうこの瞬間に、〈中世〉に、〈征服時代〉に、〈植民時代〉に、あるいは〈ロマン主義時代〉に属している、さまざまな市の上空をとおって、ある人々が現在とみなしている―まるで、ここの今は〈現在〉でないかのように―時代にもどることができるのである。」(『失われた足跡』牛島信明訳)
ラスト、ほんとすいませんといいながら書く俺(T_T) >イコンは描かれた表層的対象(実は絵の具という物質である、描かれたキリストや聖母)を通して、その背後に真実在(彼らにとっては現象的なものこそ、仮象なわけだから)を見るためのもの、って文脈 以上のように考えると、「神」が真実をめざすその意図を読み取るイコンとは、MRは異なることがわかる…かぁ?MRには「現実の向うの真実」なんてくっさい馬鹿らしいものはないんじゃないかな、多分。MRにおける「神話」は、「神が語る物語」じゃなくて、いろいろな話の寄りあい所帯みたいなものだから。大体、言葉だろうと絵だろうと、表現ってのは他者の表現を介して、他者の表現に満たされたものとしてしか受け取られないし、表現は他者のコンテクストにどっぷりつかった形で入ってくるわけだから(バフチンのパクリね^^;)、それは真実の読みとりじゃない。まぁ、「個にとっての」真実の読み取りをする人もいるけどね。 どうでもいいけど、ダダとかシュールって、確かに自分にとっての絶対的・最終的な言葉がないことに苛立った鬱屈からできたようなものだろうけど、抽象表現絵画になったらもう苛立ちも何もないよね。「前衛を気取ってるやつなんて単なる犬じゃん」その通り、だって前衛を気取るときには「苛立ち」が残ってるから。今は前も後ろもないんじゃないかねぇ…。
55 :
>50 :2000/06/07(水) 02:02
>43 でそう言ってませんでした? それから定義するのは大事なことだと 思いますけどね。>52意味なんかないって、あんた、コーネリアス じゃあるまいし、たのむからそんな話しの腰を折るようなことはせん でもらいたいですな。だいたいあんたのその姿勢、途中で論議を投げ 出して都合のわるいとこではしろうとを装うその無責任さが、歴史に 酔っ払うことしかできない前衛そのもののじゃないかっていわれてん じゃないの? しっかりと定義もできないようじゃデッサンできずに 画を描こうとするのと同じ。大地を踏み締めずに空を飛べるとでも? それからちょっとだけつっこんでおきますが、時間と神話性は書く今 と書かれる今ってのとはちがうんじゃないの。どのへんの文芸論あた りからかはわかるけど、そんなことで時間は混乱しないんじゃないの? 仮に時間が混乱したところでそれがどうだっていうの? もっと混乱 させるべきものがあるんじゃないの?
いや、前衛扱いってのが良くわかんないのよ、実際。あと、なんで定義が 大事なのかマジ教えてほしいんですわ>55さん だって、定義はいつだって見なおされつつ変化していくんでしょ?「歴史に 酔っ払う」って、「歴史」自体が定義しまくりちゃうの?フーコーじゃねー けどさ。過去を知ることは大事、当たり前。でも過去はイコール定義・分類 された歴史じゃないでしょう。 >どのへんの文芸論あたりからかはわかる ごめん、どこ?あと「混乱させるべきもの」って、小説に「〜べき」があるの? 喧嘩吹っかけてるわけではないので、よろしく…って、勘違いされるんだろう なぁ。
あともう一つ、書く今書かれる今を包み込むような、全ての今を目指すもの =神話性って書いたんですが…「『百年の孤独』は史料の死んだ時間を悪魔的な ものに変えつつ支配し、現在が具える全時間に隠喩的、神話的、同時的に 入っていく。」(フエンテス)のニュアンスを出したかったのです。53の例も そうですね…。
58 :
>56 :2000/06/07(水) 03:29
あんたのははぐらかしてるだけでなんにも言ってないよ。 定義は常に見直されつつ変化していくもの あんたは見直してすらいないっていうこと。 そんなことは自分でわかってんじゃないの と書いてきましたが、じつはわたしの言ってることなんて 意味がないのです。 とは、すくなくともまともに人と議論しようと思ってる態度 には見えん。自己満足と自己欺瞞はうんざり。 「時間を混乱させてやろう」ってのがマジックリアリズムだ って書いてるからそう言っただけ。べきっていうのはあんた の態度にかかるもので小説にかかったもんじゃないよ。 だいたいあんたが自分で考えたようなとこはひとつもないじゃん。 それはね、何かを書くってことじゃないんだよ。 あんたの文学論は現状に対する肯定と人のパクリの言い訳で できてんだね。そういうのを前衛気取りっていうの
59 :
58 :2000/06/07(水) 03:45
おやすみ。あとはかってにやってくれ
60 :
名無しさん@1周年 :2000/06/07(水) 04:13
ixionの文章って人に読んでもらおうって文章じゃないよ。しかもやたら難しい 言葉使って、人を翻弄させるけど、全然中身がない。で結局、自分でも理解して ない言葉を他人につっこまれて、何一つまともに答えられない。それを悟られない ためにまた、無意味にぺダンティックな言説を弄して、煙にまくと・・・・・ 文学なんかやるまえに、人にわかるような文章書く練習したら?
いや難しくないだろ?たしかに中身はないけどな。<60 答えてはいるが、もう少し簡潔に、50点というところか。 あと、58も結局何一つ自分で言わないまま、攻撃している だけに見えるが、どうなんだ? というわけで、不毛な議論はSAGE
62 :
58 :2000/06/07(水) 11:43
>わたしはなんども自分の意見を言ってますよ。どこであれを 言ったどこでそれと書くのは面倒なので、新しく考えたこと。 マジックリアリズムに近いのは、いわゆる19世紀リアリズム と称される伝統的な小説形態ではなく、むしろベケットのような メロドラマである。どう?
63 :
58 :2000/06/07(水) 11:45
> はよけいでした。失礼。
浅学饒舌陳謝以上。ごめんね>58さん60さん
65 :
吾輩は名無しである :
2000/09/14(木) 14:28 笙野頼子がマジックリアリズムって説について、どー思いますか?