1 :
吾輩は名無しである:
結局子供が背伸びして書いたような西洋の劣化コピー軍という結論になったよ
in english please
カズオ・イシグロはどうなるんだ?
イギリス国籍だからセーフ、と言う気か
5 :
吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 08:27:29.15
同意。ヨーロッパの東洋趣味のスノッブがたまに気まぐれで誉めてくれる程度のものでしかない
唯一見所があるとしたら日本人の醜さ・劣等について正面からモノ言ってるものだけ
日本人論すら西欧のそれのほうが日本人自身より核心を突いている
6 :
吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 08:35:47.39
昔のハリウッド映画に出てくる日本人とかか?
7 :
吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 08:37:26.18
独善建設のひとですか?
8 :
吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 10:43:16.67
つーか、今の日本文学界って在日・帰化が多い噂があるね
最近、名前を目にする三浦しをんって人の顔写真を見たら
うわ、コレは!・・・って顔だった
一般論になるけど、そうやって断言して、自分の足許にあるものを見逃すとマヌケなことになるからな
といっても日本語で書いてくれないと読めないし、
自分の好きな分野・作品が続々と和訳されるわけでもない。
10の面白さを含んだ本でも外国語では全く読めず、1にもならない。
だが日本語なら、10や9はもちろん、8や7でも充分、1よりは上。
徳川家康や織田信長の戦記を、
日本人以外の誰の作品で読めと?
ルイスフロイスで
13 :
吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 15:21:03.40
日本人の醜悪さと向き合わない作品以外が欧米劣化コピーなのは同意
村上なんか作品も本人も逃避しきってるからな
ナルシストの三島ですらそこは逃げなかったよ
三島の外国媚媚の作品は価値ないがその辺の正直さがあった点だけは評価できる
14 :
吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 23:06:42.62
>>13 あなたが一番評価している日本人作家は誰ですか?
15 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 08:27:53.28
反日教育の成果だな。
16 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 08:35:13.58
反日教育というのはアジアから来るわけではない。
17 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 09:04:09.93
日本は西洋近代に上手に負けることで、西洋中心世界のバランスを
崩した。
18 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 09:10:48.08
中世の純然たる延長みたいな徳川体制の終わりから零戦開発まで
ほんの70年ばかりだ。信じられん。
19 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 10:26:20.84
源氏物語はどこの国のどの本が原点なんだ?
20 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 11:26:38.21
日本の近代化の成功の要因は文明とは軍事だという点に正直だったからだ。
21 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 11:34:48.28
軍事的に弱い文明は劣等文明である。これが進歩的な世界だ。
22 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 11:38:17.63
近代日本の父祖たちは西洋人の言うことではなくやっていることを
手本にした。彼らは賢明だったわけだ。
23 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 11:54:15.06
禅の公案で問答をふっかけられて行為で返すような話に似てる。
暴力で言論に応じるのとはちょっと違う。
24 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 12:20:03.19
刃物を貸して下さいと師に願ったら刃先を向けられて、文句を
言ったら「お前に必要なのは刃であろう」と切り返されて悟る
話が公案にあるな。
25 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 12:47:29.05
刃物というのは喩えだ。西洋哲学の概念で言えば間主観性における
主客構造を意味してる。
26 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 13:01:09.66
>>1 西洋の誰の書いたものを読めと?
西洋人のオマケみたいな半人前な生き方しか出来ないアジアの
土人が同国民の言うことを信用するはずないわなw
27 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 13:30:03.20
金色の髪で付け鼻がないと人間らしい理性的な振る舞いが出来ないと
信じ込んでやがる。
28 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 13:42:33.87
感情的になるのはサルにも出来る。
それをして人間らしさと言ってるのが21世紀現代人だ。
29 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 20:59:49.07
理性的でない人間が良心的であり得るか?
価値判断の基準が西洋だったら、それは読む価値のある作品は西洋のものになるな
上田秋成、山田風太郎、坂口安吾とまあ、知名度はさておき、
毛唐相手に楽勝できる人材はいる。
ピアニストのグールドの愛読書は漱石の「草枕」だったというから
毛唐でもわかる奴はわかるんやねw
>>1の無知おそるべし。
つーかスレタイのバカっぽさが気に入ったので、次の次あたりはここに移り住もうかなw
32 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 21:35:31.44
智に傾けば角が立つ。
情に棹挿しゃ流される。
まこと近代は住みにくい?
33 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 21:40:17.83
涙は神経作用の分泌物と智が語る。
情は泣くばかり。
人間らしく考える奴はいない。
というわけで、毛唐に読ませてやりたい日本文学ベスト5を挙げてみたい!
俺は
鶴屋南北「東海道四谷怪談」
上田秋成「雨月物語」
坂口安吾「夜長姫と耳男」
山田風太郎「忍法魔界転生」
大岡昇平「俘虜記」
35 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 21:47:16.06
「人は考える葦である」と俺が言う。
「そんなのはパスカルの言葉だ」と皆が思う。
37 :
吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 22:00:11.70
その内の誰かは「それは人間は葦のように考えなければならない
という意味だよ」と言うかも知れない。
そうしたら皆、「それは小林秀雄の言葉だろ」と内心呟くであろう。
ともあれ、外国に売り出せそうな作家という視点で考えると、
意外と明治大正世代は弱いんだよな。
なんというか、漱石なんかも含めて、自分のことにしか目が行っていないというか、
自意識がグローバルスタンダードとなる道を通せん坊している。
となると、やはり近世か戦後かになるよなあ。
武田泰淳の「富士」なんかも「世界文学」たりうる。
三島とか川端とか太宰とかはちょっと弱いな。
翻訳という荒波を越えるには、
むしろある種のセンスは邪魔になる。
「世界文学」は、ある種の普遍的なテーマで書かれている。
その人類共通の関心事は二つあり、両者共に驚くほど単純なことがらである。
すなわち色恋沙汰と刃傷沙汰。エロスとタナトス。つまり、三面記事的通俗性が
世界文学の必須の条件なのは論を待たない。
シェイクスピアしかり、バルザックしかり、ドストエフスキーしかりである。
漱石も鴎外も太宰も二葉亭も、人殺しが起きないから世界文学たり得ないので、
エログロな通俗性を引き受ける度量がなくては海外では通用しない。
なので、近松とか南北とか西鶴とかの近世の作家はグローバルスタンダードたりうるし、
「娯楽奉仕の思想」をうたった安吾も山田風太郎もその資格がある。
人が殺せなければ世界基準にはなり得ない。
これは歴史が証明している一般的真実である。
あとあれだな。
上で「西欧の劣化コピー」を連呼している人がいるけど、それも?なんだよなあ。
俺日本の近代文学はそんなに詳しくないんだが、西欧の模倣に努めた文学者なんているの?
むしろ問題は、明治期からすでに日本文学の「ガラパゴス化」が
極限にまで推し進められてしまったことだとだと思うが。
まあ藤村の「破戒」なんかには、よくも悪くも「コピー」への努力が認められなくはないが
_/__ / _/__ / _ ―┼―
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| | ノ ._| ヽ_ノ \ (__)\ レ ○
 ̄ ̄
あとまあ明治の文人は西欧からの影響以前に漢文の素養があったからなあ。
むしろコピーというなら、芥川なんかをはじめとして、
中国文学のコピーのほうが事例としては多かったのではないか
MacだとAAが崩れてなんて書いてあるかわからんw
>なんて書いてあるかわからん
「みんながオマエの死ぬのを待っている。ぐずぐずしてるなさっさと死ね」と書いてある
えーそんなー
46 :
吾輩は名無しである:2013/12/20(金) 23:31:21.95
そうそう。
あと谷崎もアリ。
西鶴はラテン文学の素養のあった人ですね。
俗物趣味
>>40 西欧のものを手本にした作家なんていくらでもいるだろ
北は積極的にマンのエピゴーネンたろうとしたし
江戸川乱歩なんて名前からして模倣だし
「日本のフォークナーにおれはなる!」といった中上もいる
漱石は英文、春樹は米文、その他細かいところを挙げればきりがないほど
でも外文の模倣だろうと、「ガラパゴス化」だろうととくに問題ではない
良いものは良い
そして良いものは常に寡い
外文のほうが粒ぞろいに見えるのは、いいところどりしてるからだけ
>>39 部分的には正しいように思うが
カフカの「城」のように殺人のない世界文学もあるからな
世界文学っつって
ひとつの尺度で一丸となっているものじゃないからな
>>50-51 ふむ、俺みたいのかテキトーに思いつきを書き散らすのと違って
説得力がありますなw
こういうネタスレにこそあなたのような知識を持った正論吐きが必要なのです!
そんなあっさり折れるなよw
いやきみの言ってることには正しいところもあると思うんだ
おれがカフカを挙げたのはちょっとずるかった
モダニズム文学はちょっと話が別というところがあるからね
恋愛と殺人に、なにか超越的なものへの感受性というのも加えてほしい
必ずしも宗教でなくてもよくて、狂気やオカルトのようなものもありだし
最悪もっと日常的なエピファニーといったようなものでもいい
世界文学たるにはそういうエッセンスが欠かせない
しかし日本文学はそういったものを非成熟であるとしてきた傾向があるのじゃなかろうか
ふむ、
超越的な何かへの感受性は、恋愛(エロス)と殺人(タナトス)と独立して存在しているとお考えですか?
むずかしいなおい
独立はしていないが別の水準のものと考える
超越性は象徴界への参入の以後に形成されるものであるから
エロス/タナトスよりも後発的なものではあるが
欲動の性質ではなく、その力学にかかわるという意味では
より根源的なもの、といっていいかもしれない
超越性の起源はおそらくフロイトが「不気味なもの」で言ったような
抑圧されたものの回帰、とかかわりがある
抑圧されたものには、逆にたえずもとあった状態に戻ろうとする力がはたらいている
フロイトふうにオイディプスを例に出すと
恋愛と殺人が、母と交わり、父を殺すところだとすると
超越性は予言とスフィンクスにあたる
いちど封じられた予言はスフィンクスという「不気味なもの」によって回帰するのである
精神分析は門外漢ですが、それでもコンパクトでわかりやすいサマリーだと思います。
超越性への指向が、欲動の性質ではなく力学に関わるという指摘は興味深い。
だとすれば、「超越的な何かへの感受性」は、もっと一般的に、
「オブセッション」と言い換えてもいいのではないか。
スフィンクスはオイディプスのオブセッションであり、
モービー・ディックはエイハブ船長のオブセッションであり、
バルザックの小説の登場人物、「絶対の探求」のバルタザールや
ゴリオ爺さんや「知られざる傑作」の画家が捕われている
オブセッションは、全て超越性への指向だと言い換えられる。
一方、そうしたオブセッションは、確かに日本文学にも存在していると思う。
「好色一代男」、「南総里見八犬伝」、「雨月物語」なんかはそうじゃなかろうか。
こうした側面が「未成熟」だと見做されるようになったのは明治以降じゃないかと
あとハムレットの幽霊なんかも正にオブセッション。
まあ一神教徒の狩猟民族は色々無理して生きてるわけですなw
ドイツ流の教養主義が蔓延れば
欲動の発露たる性愛や暴力は至高善への過程に見られる未熟なものとして捨象される。
また、仏教的無常観ではうつろいやすいものとして
自我論的な統覚にはいたらない。
むしろこのような自我構成の克服こそが仏教の要諦でもある。
なるほどオブセッションにすると通りがよいようだね
だたやはりいちばん念頭にあるのはyはりキリスト教だから
信仰をあっさりオブセッションとしてしまっていいものかというのはある
西洋でもロマン主義的なものと古典主義的なもので振幅があるが
超越的なものの観念が希薄な日本ではロマン主義的なものへの触れ幅が小さい
「自然に帰る!」といってみたところで、ただ田舎暮らしをすることでしかない
オブセッションを書くと「人間が書けていない」といわれてしまう
だから悪いとかならずしもいっているわけじゃないが
おれはそのへんの近世の作は読んでいないのでなんともいえない
「雨月物語」は溝口映画のおかげもあって海外でも読まれているようだね
たとえば歌舞伎の演目である『箱根権現躄(いざり)の仇討』などは
上で列挙されている性、殺人、神秘、不具、グロといった要素が満載なわけですが、
一般に近代小説(あるいは文学)の要件とされる理想と現実とのギャップやその克服過程である
運命との闘争には結びつかない。
主人公の身に降りかかる不幸もあくまで貴種転生譚におけるプロセスとして処理されてしまう。
そこらへんがクライストあたりを代表格とするドイツ悲劇との決定的な差ですね。
アイザア・バーリンの指摘する病理としてのロマン主義には至らない。
>>58 仏教は小説と相性が悪いだろうね
漱石の門はそれで失敗したのかもしれない
海外小説の側から仏教に接近した例としては
ビートニクが思い当たるが彼らはすぐに書くのをやめちゃったからね
>>60 「病理としてのロマン主義」を解説お願いします
>>60 またまた思い付きですが、日本民族における超越的なるものとの関係は、
継続的な闘争ではなく、突発的な痙攣として現れるのではないか。
百姓一揆から赤穂浪士の討ち入りから大戦末期から安保闘争に至るまで。
んでその痙攣が治まると何事もなかったかのようにケロっとしているとw
確かにこれは小説にはしづらい
>>61 >解説お願いします
自意識の抽出とその結果として顕れる自我の分裂〈即自(self)と対他(me)〉
そしてこの分裂を推進力として生じる自己回帰運動が芸術や創造、つまり自由につながり
やがて各主体の意識のに浮上する国家や自然といった超越的なものに接続してしまうということ。
簡単に言うとサルトル風の実存ですかね。
バーリンはフィヒテやシェリングを使って心理学的に分析しています。
で、マルクスやサルトルもこのヴァリアントに過ぎないと。
ロシア革命に衝撃を受けたバーリンはボルシェビズムの起源はロマン主義にありとしているわけです。
>>62 自由や自己、その担保たる人格の統一性について考える日本人なんていませんよ。
いるとしたら天皇ぐらいですかね。
やはり日本人はダメですかw
坂口安吾はこんなこと言ってますが
「天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである。
地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。
天皇に政治権なきこと憲法にも定むるところであるにも拘らず、直訴する青年がある。
天皇には御領田もあるに拘らず、何十俵の米を献納しようという農村の青年団がある。かゝる記事を読む読者の半数は、皇威いまだ衰えずと、涙を流す。
かく涙を流す人々は、同じ新聞紙上に璽光(じこう)様を読み笑殺するが、璽光様とは何か、彼女はその信徒から国民儀礼のような同じマジナイ式の礼拝を受けたり、米や着物を献納されたり、
直訴をうけたりしており、この教祖と信徒との結びつきの在り方は、そっくり天皇と狂信民との在り方で、いさゝかも変りはない。
その変りのなさを自覚せず、璽光様をバカな奴めと笑っているだけ、狂信民の蒙昧には救われぬ貧しさがあります。
超人間的な礼拝、歓呼、敬愛を受ける侘びしさ、悲しさに気付かれないとは、これを暗愚と言わざるを得ぬ。
人間が受ける敬愛、人気は、もっと実質的でなければならぬ。
天皇が人間ならば、もっと、つゝましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすゝめる。
これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。
私とても、銀座の散歩の人波の中に、もし天皇とすれ違う時があるなら、私はオジギなどはしないであろうけれども、道はゆずってあげるであろう。
天皇家というものが、人間として、日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が、元来、尊敬というものゝ全ての限度ではないか。
地にぬかずくのは、気違い沙汰だ。天皇は目下、気ちがい共の人気を博し、歓呼の嵐を受けている。」
駄目というか、西欧的な自我構成を日本国民は保有しえないということで、
明治以降の日本は天皇を疑似キリスト教的唯一神として擬制することによって
かろうじて近代的自己像を獲得し得たわけですね。
日本における近代的自己なんてものはそのおすそ分けに過ぎない。
だから天皇の名によって発せられる義務としての道徳律を取っ払うと
欲望さえも世間的な相関性の網の
目に分散してしまう。
坂口安吾による漱石批判なんてまさにそれですよ。
安吾は世間的な価値を軸にするのではなく実存に根差した欲動を出発点としているんですね。
そういう意味では能動的ニヒリストです。
しかし西欧の近代小説はやはり第一次大戦あたりに
ひとつの大きな切断点を迎えているよね
モダニズム文学があって、その後言語哲学〜構造主義を経て
「近代的自我」はそういうものもあったよね的に
括弧つきで語らざるをえないものになってきている
67年のアストゥリアスのノーベル賞受賞
その翌年、68年の川端康成の受賞
そのあたりが「ヨーロッパの芸術」であった小説が
「世界の芸術」になったといえる指標になるのかもしれない
近代的自我を喪失したヨーロッパと
あらかじめ近代的自我をもたなかったような日本とが
ついには同じ土俵に立ったといえるのかどうか
ふむ、近代国家構成員としての日本人は、いわば天皇制という
「新興宗教」の教徒に過ぎないわけですね。
しかしこの宗教に、西欧的な意味での超越性があるかと言えば疑わしい。
例えば靖国問題にしても、昭和天皇はA級戦犯が合祀されていることを知って不快を示し、
それ以降、今上天皇に至るまで、40年近く参拝をしていないということですが、
こういう事態が例えばバチカンとかイスラム圏とかで起きれば、
当然血で血を洗う宗教闘争が生じる道理なのだが、我が国にはそれは起こらない。
まあいい事だとは思いますがw
いや、ヨーロッパ人は近代的自我を喪失なんてしていないと思うw
近代的自我の行き着く果てに、自己否定なり自己の相対化なりが起こっているので、
あ奴らはそんなにあっさりと自己のルーツを放棄したり喪失したりはしないw
日本人ならそこらへん淡泊だがw
なので、モダンからポストモダンへの移行も、歴史的断絶であるどころか、
むしろ歴史的連続性というか、さらに強く言えば歴史的必然性だとも言える。
アウシュビッツは古典的人間中心主義のただ中に、既に可能性として内在していたし
最初の世界大戦が、芸術の様々な分野において近代的理性への疑念を生み出したとすれば、
それも歴史の必然性の賜物だとも言える。
近代がその黎明からポストモダンを内包していたというのには賛成だし
1920年あたりの転換が歴史的必然であったというのもそのとおりだろう
でもそれがその転換のインパクトを小さくするわけではない
おれは人間全般ではなくて文芸を中心に考えているのだけど
自我の相対化は極言すれば言語中心の世界観によってをもたらされたのであるだろう
いわゆる「言語論的転回」は小説の評価尺度を変えてしまったということなんだ
メルヴィルの再評価は1921年を待たねばならなかったし
カフカが19世紀に書いていたらそれは出来損ないの小説として扱われただろう
「自我」はあいかわらず小説のテーマでありつづけるが
自我が脱中心化された以上いわゆる「近代的自我」は
小説の中心的な主題としては有効ではなくなっている
むろん19世紀の偉大な小説はいまだに組みつくせぬ泉ではあるが
いくつかのかつての「名作」はとうに時代遅れのものになっているだろう
日本の小説だけ読んでればいい。
外国のは偽物。
日本人なら日本の文化だけ味わっていれば間違いない。
売国奴なら話は別だが。
例えばラカンなんかは西欧的自我構造は言語構造に由来するといっており、
であるがゆえに、他者に対する配慮と敬意の言語である日本語に自分の理論は適用できないとまで言っている。
つまりデカルト的「われ思う故にわれあり」という主知主義的認識論から
「われ欲すゆえにわれ思う」という意志主義への転回がなされたわけだ。
では、その意志は何に由来するのか?というと、デカルト的自我の剥離とその再統合を促す言語の分裂によるものだ、ということであり、
この種の議論は大体1920年代の中欧で起こり始めた。
しかしながらその萌芽はすでにニーチェ、ドストイエフスキーに見られる。
とはいえ歴史的状況に由来するのではない。
何故ならばドストイエフスキーがサンクトペテルブルクで遭遇したカオス的状況は
幕末の日本でも出現したことであるが(100万都市の江戸で50万人が疫病で死亡し、経済が崩壊している)
この経験を外傷として記録した文学作品は本邦に存在しない。
というのは悲惨な事実を悲劇として構造化し得るプリズムを有してはいなかったから。
であるならばそのプリズムこそが創作と解釈の鍵となる。、ともいえるわけだ。
歴史状況に依存するものではない、という部分には若干疑問がある。
なぜなら、小説という形式はその流通経路とは無縁でないし、
そうした流通経路=メディア自体は歴史的状況に他ならないからだ。
ドストエフスキーは今で言うジャーナリストでもあったわけだ。
「悲惨な事実」の「悲劇としての構造化」は、恐らく個人レベルにおいては江戸時代でもなされている。
しかし、幕末においては、一部の知的エリートを除いて、
マスとしての民族、つまり「日本民族」なるものは存在しなかったのではないか。
自然現象である「疫病」に対するマスとしての民衆が、文学の真剣な対象たりえたか、
という問題は「歴史的」なものだと思う。
つまり、その時点においては「江戸市民」なるものも存在していなかったのではないか
>>71 確かに宇能鴻一郎だけを読んで暮らすという選択肢もあるわけです
>「悲惨な事実」の「悲劇としての構造化」は、恐らく個人レベルにおいては江戸時代でもなされている。
幕末の疫病は外国人居留地から発生したものであり、飢饉による打ちこわしや
経済危機も幕府の失政や為替の混乱によるもの、
また地方からの流民が大量に押し寄せたという点でもロシアと類似している。
開国(西欧化)の余波として発生した混乱としては同類なの。
>しかし、幕末においては、一部の知的エリートを除いて、
>マスとしての民族、つまり「日本民族」なるものは存在しなかったのではないか。
いや、ロシアも似たようなものですが?
だからルソーは国民教育を欠いたロシアは国民国家たりえずその西欧化は失敗するであろうとまで言っている。
トルストイの小説なんかは露骨ですが、あの当時の貴族層を柱とする知識人層はフランス語で 会話していたりするわけです。
逆に言えば我が邦は江戸中期でも鋳物師クラス(上級職人)が万葉・古今に通じていたぐらい
国民国家としての文明の浸透度は高かった。
しかし、その文明はブルジョワイデオロギー(市民文化)を促すものでもない。
というのは❝文❞の性質や背景となる宗教文化が違うから。
なるほどー
78 :
吾輩は名無しである:2014/01/04(土) 02:47:41.16
>>1に同意
ジャップの本読んでる暇あったら西欧の古典読み漁れ
日本人の書いたもの読んでも無意味!
西洋の文学だけ読め!(日本語訳で 笑)
とは言っても、現代日本を代表する作家が村上春樹っていう時点で、今の日本の文壇は死んでるわな。
ちょっと目を離すとこれだよ
きみら脳みそゴリラなんだからゴリラはゴリラらしくウホウホ言ってればいいんです。
人間の掲示板に書き込まないように。
そもそも、近代ヨーロッパ発祥の文芸ジャンルに過ぎない小説が
我が邦においてその構成力や審美性(あくまで西欧的価値判断)で劣るからといって
日本語で書かれた文芸がすべて読む価値がない、とするのは凄い飛躍ですけどね。
それは交響曲的構成が達成されていないので、ジャズやロックその他ネイティブミュージックも駄目だとするような論です。
というか、2chはすぐ極論に走るなあ。
しかし小説を書く以上はある程度その西欧的価値判断を受け入れざるをえないわけで
そうでないとしたら非西欧的価値判断による小説というのを追求していかなければならないけれど
それはどんな基準で、どんな作品がいっとう上等なものなのだろう?
ひいきなしにみたとき日本からS級小説が出ていないというのはどうやら事実にも思え
A級が無価値とはいわないがA級読むくらいならS級をまず読もうぜって言う気分も分からなくない
これは日本が非欧だからではなくてたとえばイギリスで同じことが言われてても不思議はない
「イギリス人の書いたものを読んでも無意味」とね。
なにしろ1984なんかが20世紀最高の小説とされてるような国だからね。
たとえば宇宙人が地球の映画芸術について学びたいので100作選んでくれないかときたら
小津、黒澤、溝口あたりをはずすわけにはいかないが
小説で100といわれたときに日本の作品はひとつでも選んでもらえるだろうか?
85 :
吾輩は名無しである:2014/01/04(土) 20:59:13.43
>>1 源氏物語は何をコピーしたんだ。
君には答える義務がある。
おれは源氏物語を原文で読めないし、現代語訳した作品にも興味がないけどな。戦争と平和とか罪と罰なんかを繰り返して読んでるほうがいいよ。
日本人作家を卑下してるわけじゃないけど、子供の頃、西洋が舞台の映画が好きだったから、頭に場面が浮かびやすいんだ。
個人的な意味でしかないけど、夏目漱石とか森鷗外とか、映像に浮かびにくいんだよな。調度品とか着てる服だったり、その当時の映像がなかなか浮かんでこない。
おれは
>>1ではないし、別に擁護する気は全然ないけど、自然と外国の本を選んでる気がする。
しかし源氏物語が素晴らしい文芸作品だってことは知ってるから、いつか読むかもしれない。
その宇宙人が良い宇宙人か悪い宇宙人かによって当然セレクトは変わってくる。
悪い宇宙人には「家畜人ヤプー」は読ませられない
88 :
.:2014/01/04(土) 21:24:29.69
米人類学者Cavalii−Sforzaの遺伝子勾配データ、
朝鮮人は世界でも類を見ないほど均一なDNA塩基配列の持ち主であり
これは過去において大きな Genetic Drift
(少数の人間が近親相姦を重ねて今の人口動態を形成)
あるいは近親相姦を日常的に繰り返す文化だった事を表します。
朝鮮人は遺伝子レベルで劣等種である
これは遺伝学的に事実だが、研究者の間では表だって指摘することはタブーになっている。
日本人の作品が無意味ってわけじゃない。意味はあるはずだ。それは間違いない。新聞でも三島のことを報じてたし、日本文学ここにありって感じじゃないか。
ものすごく割りきって言えば趣味の問題じゃないの?
むろん良い宇宙人だよ
ただキレさしたら怖いからな慎重に選べよ
海外でも、村上は別格として
三島、安部、大江、川端、谷崎、あたりは読まれてないことはない
サラマーゴや莫言くらいには読まれてるんじゃないだろうか
非ヨーロッパのマイナー言語の文学としてはよくやっているといってもいいくらいだ
ただガルシア=マルケスやミラン・クンデラほどに熱心に読まれてるってわけじゃないし
オルハン・パムクくらいにも届いてないんじゃないか
まあ欧米には「第三世界枠」というもんがあるんじゃないかなあw
それで罪悪感を紛らわせているという嫌な見方もできる。
ところが日本は「後進国」でありながら「第三世界」ではないからね。
要は「売り」が弱い。
「搾取された民衆」とかじゃなくて、漱石にせよ鴎外にせよ、
「苦悩するインテリ」だからね、日本の近代文学のルーツはw
逆に言えば、日本文学の印象が薄いのは、クオリティーの問題ではなく
対西欧的な「売り」がないという点なので、
そういうローカルな事情からは自由な宇宙人に読ませるなら
日本文学がセレクトされる余地は十分ある。
欧米世界で小説が完成の域に達したのは疑いもなく19世紀のことなので、
日本は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、その「既に旬が過ぎて腐りかけている」
芸術を慌ててとりこんだわけだ。
同時代にはすでにプルーストなんかがいたんだから、
既にモダンからポストモダンの兆しが現れていた。
こうした日本の文学史の特殊性は、宇宙人の興味を引くに十分だろう。
そこで漱石の「猫」ですよ。
宇宙人もびっくりだろう。
なんと猫も知的生物だったとは!
たとえば英語圏のオーストラリアやカナダは西欧的自我構造の国なんだろうけど
日本ほどにも良い小説を出しているわけではない
カナダはこのあいだようやっと初めてノーベル文学賞をとったが
オーストラリアはまだとっていない
西欧的価値判断に適わないからというのは
日本が世界文学を生み出せていないことにたいするいいわけにはならない
というかだったらオーストラリアやカナダの立場はどうなる?
きき腕じゃないけど勝っちゃったよ〜、とか嫌味すぎる。
ノーベル賞がバロメータなのもいかがなものかとw
選出基準が政治的かつ恣意的で、なおかつ一年に一名しか選出されないシステムでは、
統計的なデータとしてはあまり意味をなさないと思うな。
日本もいくらか贔屓してもらってるところはあると思うけどね
オリエンタリズムというかエキゾシズムというか
鬱蒼たる竹林があってその奥に鄙びた藁葺き小屋があって
その中で老人が若い女の足を舐めている・・・というようなのが
なんといっても対西欧にたいする日本文学の「売り」だと思うな
まあそんなに広く受けるような売りではないけれど
ノーベル賞はむろん指標のひとつにすぎないよ
ノーベル賞とかぬきにしてもたいして読まれてないんだよ
オーストラリアかカナダの作家のものをひとつでも読んだことがある?
まあ欧米にとって日本近代文学は、オリエンタリズムの対象にもできないし、
かと言って身内でもないという中途半端なポジションにあるんだろう。
そこらへん上に挙げられていた黒澤や溝口であれば、
まだコスチューム・プレイとして距離は取れる。
しかし「三四郎」は?
彼は思考する主体であり、観察され、描写される客体ではない。
つまり、「三四郎」を読む欧米人は、主人公に対する距離を取りあぐねるだろう。
>>96 ごめんノーベル賞取ったから何か読んだという記憶がないw
オーストラリアは記憶にないが、ルグインはカナダじゃなかったっけ?
結局、テーマや描かれる状況がローカルなものであり、
なおかつそのローカル性が、オリエンタリズムやエキゾチズム等の
「売り」に転嫁できないという理由で
世界に知られてない傑作なんて、この世にいくらでもあるだろう。
カナダやオーストラリアのローカル性も、概ねこうしたものなのではないか
だから漱石より、対欧には谷崎川端芥川がよい
でもそこ入り口ではけっきょくたいした広がりはない
ガルシア=マルケスクラスになると
「第三国枠」とかオリエンタリズムとか関係なしに読まれる
ここではあんまり評判が良くないのかもしれないが
村上春樹は「第三国枠」とかオリエンタリズムとかなしに
広く受けている日本で最初の作家だよ
それがなぜなのかと考えることは無駄ではないだろう
>>99 ローカル性というのは逆に言うと対国内需要向けの「売り」なんだよ
>>98 ルグウィンはカリフォルニア生まれだな。
ノーベル賞を気にしようがしまいが
カナダとオーストラリアの作家は読まれていないってことさ
ルグインそうだっけw
いやいやいや、
「読まれていない」んじゃなくて、俺が読んでないことが証明されただけだからw
これ全然違うからw
とは言えカナダはともかくオーストラリアは後進国かもなあ。
あとオーストラリア人って先祖が流刑者だってことで、
未だに相当強いコンプレックスを持ってるらしいw
俺の知人のオーストラリア人も結構屈折した性格をしていたw
そいつ大の日本びいきで、欧米社会大嫌いで、祖国に適応できずに逃げて来たんだが、
イケメンなのを買われて土日はホテルの結婚式場でキリスト教式の神父をやっているw
なんたる皮肉かw
おれが読んだ唯一のオーストラリア小説は流刑囚が主人公だったよ
文学に関して言えばコンプレックスはあったほうがいいんだろうね
優れた小説を生み出す土壌には文化軋轢
なかんずく異言語体験というのが重要であるように思う
20世紀の主だった作家は、むろん例外はいくらもいるだろうが
亡命者だったりポリグロットだったりすることが多い
日本やイギリスやオーストラリアの弱点はそこにもあると思う
中欧が20世紀の言語哲学を牽引したのも
そこが言語的るつぼであったことと無関係ではない
おれも知人の結婚式にいったとき
まぶしいくらいのイケメンのバイト神父がいたわ
でてきたとき花嫁の登場よりはるかに大きな歓声が上がったよ
あーそいつら大低平日は英語教室で講師やってるからw
まあ文学が誕生する条件として、複数の言語の間での内的な軋轢を挙げるのには反対はしない。
漱石における漢文と英語、二葉亭におけるロシア語、鴎外におけるドイツ語なんかは正にそれだろうな。
花袋とか国木田とか藤村とか、いわゆる文壇のコアにいた連中からは
あまりそういう匂いがして来ないのは示唆的かも知れない
なので、このスレの一部の住人には申し訳ないのだが、
優れた文学が本質的に孕んでいる「他言語性」とでも言うべきベクトルを考えれば、
日本人が書いたものだけ読んでもダメだし、西欧の著作だけを読んでもダメということになる。
さらに、文化=言語の軋轢を内的に経験することが世界文学者の条件ならば、
生粋の日本人よりも在日や華僑の方が優れた文学者を輩出する可能性が大きいw
春樹さんを馬鹿にするのは韓国人だからスルー
欧米枠かどうかはともかくポルトガル語圏のブラジル」では
吉川英治の「宮本武蔵」がミリオンセラーだそうですが?
教養小説風に処理されているとはいえ、武士道小説でも評価されるということですね。
109 :
吾輩は名無しである:2014/01/05(日) 19:09:38.09
ジャップは悩みがないのに無理やり悩もうとするからな
あえて言うなら悩めないことに悩んでる
かっこだけ。ジャップの本に価値なし
110 :
吾輩は名無しである:2014/01/05(日) 19:10:59.92
日本人作家が創造した本はもう読みません。
ならさっさと祖国へ帰れよキョッポ
>>106 >文化=言語の軋轢を内的に経験することが世界文学者の条件ならば
しかし、これは微妙な問題で
欧米で近代文学が国民文学として生まれたのは
共通語であるラテン語に対しての自国語と国民精神の宣揚にあるわけで
であるならばローカリゼーションこそが欧米風の近代文学成立の条件足り得る。
そしてこのようなローカリゼーションは江戸期の国学の志向するものであり、
ゆえに国学派は漢語で書かれた古典テキスト(万葉集)の自国語への翻訳に心血を注いだ。
しかし、そのようにして出来上がったものが欧米的な文学に伍するものかというと…。
また、日本以上に中国文化圏に近接していた朝鮮半島において同種の葛藤がうまれたかというと…。
>>112 興味深い問題提起です!上で世界文学者の条件と言いましたが、
「20世紀以降の」と付け加えた方がいいのかも知れない。
もっとも、欧米における近代文学の成立過程においても、
ラテン語と自国語という多言語間のせめぎ合いが重要な要素だったと言える。
つまり、そこでの「ローカル性」は、安穏とした閉ざされたものではなく、
常に(その当時の)「世界全体」との緊張を孕んだものではなかったかと。
まあこの場合世界とはキリスト教と言い換えてもいいのではないかと思いますが。
一方、本居宣長だって相当頑張って「唐心」と闘争しているわけですが、
大陸文化と闘っても命の危険はなかったわけで、やはり欧米に比べれば
のんびりしていたといわざるを得ないのではないかw
つまり、欧米においては、貴族から下層民に至る全ての階級をキリスト教が貫いているため、
文学者の葛藤は民族ないし世界の葛藤となり得た。
しかし日本にあっては、その構造上、文学者の葛藤はインテリの葛藤の範疇を出ることはできない。
つまり、
>>109-111に代表されるような層と我々インテリは分断されているわけですw
まあ日本人だ朝鮮人だと言う前に、そもそも人間じゃなくてゴリラなんだから、
そこは自覚してほしいものですがw
>>114 うぬぼれが過ぎやしませんか?自覚したほうがいいですよ。
自惚れてはいませんw
一部の書き込みのレベルが低く過ぎるというだけでww
>>112 欧米ではなくて欧州じゃないの?
アメリカはそこに含めちゃいけないように思うけど
119 :
?:2014/01/05(日) 23:04:34.81
>>72のラカンの発言は勇み足だと思うけれど
やはり日本語というのはそうとう特殊な言語だよね。
言語構造というのではなく
二種類の表音文字と、漢字という表意+表音文字が混交しているという点で。
こういう種類の言語で小説を書くことが
ヨーロッパ語で書くことと比べてどうなのか、といことがある。
フォークナーは『響きと怒り』で複数の色のインクを使いたかったとかいうけど
そういう文章の位相のニュアンスを日本語ではわりあい簡単に書き分けたりできるんじゃないか
響きと怒り、ひびきといかり、ヒビキトイカリ・・・・
同じ単語の組み合わせをいくつかの色で描くことが出来る
でもこれは必ずしも有利に働くとは限らないのじゃないか
言語芸術とは比ゆ的に言えば線描で色を描くようなことなんじゃないか
読み手の想像力を引き出すところに良さがあるんじゃないか
フォークナーが色違いのインクを使っていたら『響きと怒り』はより傑作になっていたろうか?
正直イタリックさえつかわずになんとかしたほうが偉かったんじゃないだろうか
国学というのは学者の仕事でしょう?
国学的な文芸作家ってのはどんな人がいるの?
上の方でいいそびれたけど笙野頼子なんかは
西欧小説のキリスト教的自我に反発して
神道的な自我アイデンティティを模索している小説なのかもね
しかしあれは日本人にも意味不明だから
外国の人はとうてい読めなさそうだけど
上田秋成は国学者だったかと
興味がでてきた
本居宣長と「神学論争」をしているんだね
あらましをみると秋成のほうがよほどまともに思えるね
123 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 13:37:39.57
欧米では科学の発達等による神の死?のようなものも関係しているのじゃないかとも思う。
他民族が複雑に混ざり合う大陸では宗教がアイデンティティを支えていているから、宗教の喪失=アイデンティティの喪失、そしてそこからの再生という物語が生まれる。
が、ほぼ単一民族である日本では日本人であるというアイデンティティが失われるということはない。
>>118 確かにアメリカは大陸ってより大きな島国と言ったほうがいいんだが、
20世紀入るとヘミングウェイとかヘンリー・ミラーとか大戦前にフランスにいたりしてるし、
文学畑はどうか詳しくないけど、大戦中はブレヒトとか亡命ユダヤ人が流れ込んで来たりして、
文化的状況は欧州と連動はしていたんじゃないか。
逆にポーなんかは欧州に強い影響を与えたみたいだけど
>>123 それはどうかな。
日本人ほど自らのルーツに無頓着な民族は世界に類例がないんじゃないかw
二百年前の日本人が今の我々を見たら、あまりの変わりように、同じ民族かと目を疑うだろうなw
明治期と敗戦時の少なくとも2度にわたって、
我々の「アイデンティティ」は政治の力によって書き換えられてきている。
右翼がよりどころとするのは明治期に書き換えられたアイデンティティで、
左翼が準拠するのはGHQによって上書きされたアイデンティティ。
両方根無し草なのは一緒
まあそういう長いものには巻かれろ的姿勢がアイデンティティといえばアイデンティティかw
129 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 17:16:02.74
>>128 逆に日本人であるという確固としたアイデンティティがあるからこそ、節操なく思想も変えられるのではないかと。
何に巻かれようが結局日本人には変わりないからな。
でなければ一億総玉砕からあっという間にアメリカ万歳なんてあり得ないだろ。
アイデンティティが確固としてあるからコロコロ変われるとw
よくわからん理屈ですなw
131 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 18:26:36.33
>>1世界中がたいてい「どこかの国のモノマネ」だよ。
日本だけじゃない。ただモノマネで終わるのと、
モノマネから新しい概念を産んでいくのとの違いはある。
いまの日本は前者であって、情けないが、これからの若者がそうであるとは
限らない。我々が老害にならずに若者たちに本当の文化を
築く術をもたらせたらいいなと思ってる。これは日本の歴史には
なかったことだしね。戦争に徹底的に負けて、アメリカの植民地に
なっているからこそ、できる荒業だとも思う。このままでは
まずいことは同意です。
132 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 18:30:40.02
日本はいつも「田舎者」だった。かつては支那のものまね、
今は欧米白人のモノマネ。マッカーサーに征服されたときの
昭和天皇の写真をみてごらんなさい。あれに「腰紐」を足したら
完全に「猿回し(白人)と猿(天皇)」になってしまい、
我が国の歴史のすべてが見渡せる傑作写真となる。
こうならないためにも、我々の役目としては今後こんな
不幸な島国に生まれてくる若者のために「反省」の材料を
提供することじゃないだろうか。当然、支那共産党だの
戦勝国連合のいう反省じゃないことは言うまでもない。
現在の若者は賢いよ。ただし、我々がマトモであるかぎりに
おいて。
>>120 >国学的な文芸作家ってのはどんな人がいるの?
江戸時代からかなり時代は下りますが、
新国学を宣言して民俗学を設立した柳田学を批判的に継承した
折口がまさにそうでしょう。
>>113 >ラテン語と自国語という多言語間のせめぎ合いが重要な要素だったと言える。
>つまり、そこでの「ローカル性」は、安穏とした閉ざされたものではなく、
> 常に(その当時の)「世界全体」との緊張を孕んだものではなかったかと。
>まあこの場合世界とはキリスト教と言い換えてもいいのではないかと思いますが。
例えば自国語書かれたデカルトの方法序説はカソリックとプロテスタントとの対立が背景にある。
ドイツロマン主義の隆盛はナポレオンによる侵略が背景にある。
もし、このような支配/被支配といった外交的緊張関係が西欧風の国民文学発生の要因とするのなら、
我が邦ではセミナリオ・コレジオの設置による文化侵略を受け、奴隷貿易まで行われた安土・桃山時代から江戸初期にかけて国民文学が発生しなければならない。
また、隣の朝鮮では明王朝による廃仏毀釈 を強制された15世紀初頭や日本や清国による侵略の行われた
16世紀後半から17世紀初頭にかけて国民文学運動が起らなければならない。
特に朝鮮の場合は15世紀の世宗によって行われたハングルの布告を考慮すれば尚更だ。
地勢的に日本と違って大陸と近接していた朝鮮半島が「のんびりしていたといわざるを得ない」わけではない。
また、あの当時の朝鮮人士の知的水準が我が邦や西欧人に比べて劣っていたわけではない。
>>124 言語についての話だからね
ラテン語を共通語としたとかいうのは完全にヨーロッパの話だろ
アメリカの国民文学の祖といえばトゥエインの「ハックルベリーフィン」が挙がることが多い
「ハックフィン」の口語体の創出は、対英文学というところが大きい
日本の明治の「言文一致」と似たところがあると思う
アメリカ文化はともかくアメリカ文学は
そもそもヨーロッパ文学からの差異化によって生まれたのだから
ひとまとめに欧米としてしまうのは単純化のそしりをまぬかれないな
136 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 19:03:17.90
なにが国学だよオタク野郎。きめえんだよ
>>134 すごく勉強になる話だけどやや極論だな
文化軋轢は必要条件であっても十分条件ではない
それに文学の天才の出現というのはまぐれみたいなとこもあるから
唯物史観ではとらえきれない
>>133 『死者の書』ですか?
ああいうのは今読んでも良いものなんでしょうか?
丸谷才一なんか「さっぱりわからない」とか言ってたけど。
139 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 19:13:37.43
日本民族=日本国民、それを日本人というと、怒る人もいるだろうが、
ほぼ事実上そうである。
さて、日本人は、よくやってきたし、よくやっている、
というのが公正な評価ではないか。
郵便宅急便はちゃんと届くし、電車は時刻表どおり運行する。
震災時でも暴動も起らないし、それなりの都会であっても、
戸締りを早期にしなくてもいい。
自動車や電気製品は、まだま国際競争力がある。
欧米的には、こういうものも「文化」なのだから、
いちおう「一等国」なのである。
問題は、広い意味の芸術的創作(決まりきったクラシック演奏などはなんとかやれるが
なんらかの「創意」を求められるととたんにできなくなる)や
まじめな反復練習ではどうにもならないような
瞬間的に複雑な動作を求められるスポーツなどが苦手、
ということにすぎない。これはしかし、いわゆる「創造力」というのが、
郵便物をちゃんと届ける能力と、相反するものだからじゃないのか。
相撲をつよくしたければ、長距離走の能力はさがるざるをえない。
家電は最高、テレビドラマは最低、楽器は最高、楽曲は最低、
これがそう悪いこととは思わない。
粗悪な自国製品を、むりに佳いと言いさえしなければいいだけの話だ。
なお、誰も好んでベトナム製の自動車に乗ろうと思う人がいないのと同じく、
現代日本の文学や芸術を好んで鑑賞しない、とまではなっていないのは、
ひとえに日本語および独自の生活習慣という障壁のおかげであろう。
文学板だからここ
浅い一般論を語るのはかまわないけど文学からめてね
141 :
.:2014/01/06(月) 19:35:10.51
■100年前の朝鮮の現実…「肺結核や解熱として小便を飲む。大便を食べる」■「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々」明治39年 荒川五郎 著より
・衛生観念は全く無く、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので仕事をしないで呆然としている。
雨が降ると動かないので雨具が無い。日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。 ようするに、治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。
・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れているが、 朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。
・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。また、痰を吐くときは口の近くに小便壷を持ってくる。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、家の中の物が水に浸るが、 洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている
全文はこちらで読めます⇒
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0 韓国の彫刻
http://jackassk.web.fc2.com/funny/photo/unko/art1.jpg
142 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 20:36:41.32
日本の芸能に関してなら、個人的には、伝統芸能だけで足りる。
映画やドラマは時代劇を食べたり飲んだりしながら見る、
くらいで暇つぶしにはなるし、
Jポップはまったく聴かない。むかしの演歌はたまに聴くが。
それで不満ということはないし、もちろん不便もない。
日本人が書いたものを読むのが無駄、とか、いまさらいわず、
話しネタに困る、とかもあろうから、いちおう目を通しておく、くらいにして、
さっさとやめればいいだけの話しじゃないの。
>>134 興味深い指摘です。
ただ、無学を省みず異論を二つほど。
まず安土桃山時代はまだ戦国時代がようやく収束したあたりだし、
末端の民衆に「日本国民」なる意識は萌芽としてさえあったかどうか。
文化侵略を危惧していたのは既得権益を侵されたトップの連中だけでしょう。
あと中国との関係ですが、我々にとっては幸いなことに、
欧州のアグレッシブな国々と違い、かの大国は、あまりに広い自国を治めるのに
いつもいっぱいいっぱいで、殆ど外部に興味を示して来なかったという歴史があるw
だから我々も朝鮮も比較的のんびりやれたので、そうでなければ今頃日本という国家は存在していないかも知れない
>>135 その通りなんだが、
やっぱグルですよ連中はw
あれ違うか。モンゴル民族はアグレッシブだったよなあ。
西の方ではあんなにやんちゃやってたのに、そんなにこっちに攻めて来なかったのはなぜかな?
神風っていうか騎馬民族だったから海が苦手だったからか、
それとも日本がそれほどおいしい国でもなかったからか。
そこらへんどうなんだろう
148 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 22:01:05.65
共通語としてラテン語があった、というのは、
ヨーロッパの知識層のみのことにはちがいなかろうが、
ラテン語系の語が、雑に言えば、(いわば)概念を表し、
たとえば、英語やドイツ語などに「固有」の言葉が(いわば)情感を表す、
という大きな分け方はできると思う。
概念(とくに抽象概念)を表すのが、漢語
情感を表すのが和語、だといういのと似てみえるのではないか。
ゲルマン語圏の思想家や作家には、後期のハイデガーやトールキンあたりが代表であろうが、
ラテン語系嫌い、というのがいただろうし、
フエミのなかにも、そういうのがいただろう。シクスーなど。
いわゆるエクリチュール・フェミニーヌ重視というものである。
149 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 22:03:54.26
日本を攻めた元軍の兵隊は多くが高麗人だろう。
150 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 22:16:22.46
失礼しました。
高麗人は全体の三〜四分の一だったようだ。
むかしの俗説を鵜呑みにしていました、申し訳ない。
ほー
もっとも末端の兵隊なんて、被支配民族の割合も多かったんだろうなあ
152 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 22:40:11.81
日本人の書いたもののほとんどは無意味だけど、日本人でも外国あるいは外国語との
神経勝負で生きてきた人たちの文章だけは別。
読む価値あるよ。
生存してる人だったら、古井由吉 堀口大學 奥本大三郎 島田僅二 野崎歓 堀江敏幸
ウィキったら弘安の役のクビライはかなり本気だったのだなあ。
まあ海はむずいよね。
堀口先生は今年おいくつなんでしょうか・・・
もう少し調べたら、元側の兵士は南宋出身者がメインだったようだね。
海云々ってよりも鎌倉武士が普通に強かったってことか。。。
日本文学関係ないけどw
156 :
吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 23:47:34.84
堀口大學は今年109歳になられてご健在だよ。
今得たばかりのにわか知識で申し訳ないのだが、
「元寇」という呼び名は江戸時代に水戸黄門がつけたんだね。
これは興味深い。
水戸学派による「大日本史」編纂という、
それこそ「国家」の物語を作り上げて行く作業の中で、
「外敵の侵略」という概念が明確化されて行く。
158 :
吾輩は名無しである:2014/01/07(火) 00:01:53.69
元祖世界最強元軍を撃退できたも、
ことだまのさきわうくにの言霊の力かもしれんよ。
朝廷におかせられる祈祷も、日蓮上人のお経も、名もなき民草の祈りも、ことだまである。
ところで、わが国領域に新しい島ができたようだが、
これも、いざなぎのみことのご神力が今にも及んでいるからか。
ハイハイw
つーか当時の貴族階級のそういう論調が、現場で苦労して戦ったのに
報償が少なかった武士階級をひどく憤らせたらしいねw
鎌倉時代の武士は「お国のため」ではなく報償と名誉のために戦ったのだろう。
「弘安の役」の「役」という字にも、
封建武士の「働き」なんだというニュアンスが読める気がする。
>>152 古井が必死に、しかしさりげないつもりで、自分の名前を混入しているw
だっけど情け無ぇじじいだなwww
右翼が好きな日本人作家って誰?
まさか百田なんか好きじゃないよねえ?^^;
こんな影響力皆無の場所でステマする作家などおらんわw
ほんとデンパとゴリラには困ったもんだ
ステマは詐欺だからな、下手な鉄砲も数撃ちゃ中る、だ。詐欺現場の立地条件(?)は問題にしない。
千人から嘲笑されるうちに一人引っ掛けられりゃあそれでいい、だけの完全な恥知らずだ。
しかしさすがにムーには、もう引っ掛かるヤツは一人もいないけどなw
ふむ、それはむしろ君の願望であろう。
作家がここに書き込んでいて欲しい。
自分が生きているこの場所が、世間に影響を与えるステージであってほしい。
言い換えれば、名をなした者が、自分と同じ土俵に生きる、
自分と同程度の恥知らずであって欲しい。
まあそこまでは人間の心理一般に関する所なので理解できなくはないのだが、
文化板にはその願望を事実だと信じ込む奴大杉w
つーか俺が何のサギをしてるのww
166 :
吾輩は名無しである:2014/01/07(火) 13:44:41.50
スレチ話しだから、悪いんだけど、
中国の王朝は、中原を遊牧系民族が支配すると、侵略的拡大主義的になる、
というのがあるようだ。
この理由は、割と簡単に説明できるという人がいる。
中国の王朝は長らく、遊牧系民族の侵入にたいしての防衛費に
国家支出の半分近くを費やしているが、支配者が、そのとうの遊牧民の場合は、
いらなくなるから、というのだ。
たしかに、領土が大きかった、唐は鮮卑系、元はモンゴル、清は女真、
ということで、納得のいく話だと思う。
ちなみに、元(いちおうは、チンギス・ハーン系諸王朝の宗家だった)の時代に兌換紙幣経済が発生したのも、
東ヨーロッパ以東の民族のあらかたが直接間接に服属したおかげで、国防費がかからんので、
国家の信用創造力が途端に大きくなったから、
というのが有力説のようである。
いや面白いっす。
【ZAKZAK】韓国旅行で冤罪の恐怖、いきなり逮捕、知らぬ間に起訴…
外交関係の悪化で「日本人狙い撃ち」、点数稼ぎに走る韓国警察[1/7]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1389068422/ ◆韓国旅行で詐欺冤罪の恐怖… いきなり逮捕、知らぬ間に起訴され罰金支払う
韓国へ旅行に出かけた大阪市内の男性(66)が現地で詐欺の濡れ衣を着せられた末、
身柄を拘束され、罰金70万ウォン(約7万円)を支払わされていたことが本紙の取材で分かった。
ズサンな捜査に気味の悪い監視態勢――
顛末を聞くと、アナタも韓国を旅行することが怖くなる。
日本の犯罪者は全員外国人
>>166 塩を媒介して、実質銀本位の兌換紙幣経済を確立って、
単なる筋肉馬鹿じゃないなあモンゴルは。
信長がスケールアップした感じか。
日本が陸続きじゃなくてよかったよ。
>>168-169 つまんねーから消えろ
信長も中央集権的な政治=経済的システムを構築しようとした人物だと理解しているが、
モンゴルの「世界経済圏」システムは桁が違うなあ。
中央集権と封建制は、それぞれ「システムの合理化」と「多様性の保持」という
相反する利点を有しているわけだが、日本は明治期までは
大体においては封建主義的な美点を保持してきたわけだ。
もっとも、封建制から中央集権制への移行は、明治維新以外にも、
ニュアンスと度合いを変えながら歴史上、何度も変奏されて来てるのだろう。
徳川政権の参勤交代にしても、封建性と中央集権制の合いの子みたいなもんだし、
今のグローバリゼーションもそれだよな。
アメリカの横暴は蒙古の比ではないw
>>171 けなし文句といえば「在日」しか思いつかんのかw
大和民族に君みたいなゴリラは要らんw
175 :
吾輩は名無しである:2014/01/08(水) 05:04:25.85
お題:教養主義の復活
新自由主義と反知性主義と保守層が異常に親和性が高くてそれについて着目してるのだが、
恐らく政府はサッチャー政権を模倣してるのだと思う
しかし政府は元より大衆の価値観がこれほどまでも経済的価値に偏重していると文学なんてそのうち滅びるのではないかと思うがそれについて
176 :
吾輩は名無しである:2014/01/08(水) 05:27:53.46
>大衆の価値観がこれほどまでも経済的価値に偏重していると
大衆の価値観ってなに
これほどまでってどれほどまで
177 :
吾輩は名無しである:2014/01/08(水) 05:33:02.30
ネグリ&ハートとかならそんなに読みづらくないから
左翼は(勉強してから)ゆるく団結すればいいと思う、ネットもあるんだし。
日本人が書いたドゥルーズとかデリダとかの本はむずかしい。
これだとスレタイに屈してしまうのだが、今度の芥川賞はよんでみようかなあ。
178 :
吾輩は名無しである:2014/01/08(水) 05:37:23.49
Television rules the nations♪
179 :
吾輩は名無しである:2014/01/08(水) 06:09:25.80
>>176 例えば1967年のベストセラーに万延元年があって俺は驚いた
娯楽のない当時としては自明かもしれん
しかし今は文学がコミュニティツールとして普遍的に国民を支配するか?しないだろ?ならば滅びるしかないのでは?
反知性主義に啓蒙やら教養やらで対抗できると?
左翼の歴史に学ばぬ蒙昧、右翼のごとし。
滅びるのはコミュニティツール()の方だろう
良き文学作品は読まれ続けるだろう
>>181 この期に及んでそれかよw
結局左翼も右翼も、頼るは使い古されてはいるがまるで根拠のないイメージ論なんだよなあ
現実に反知性主義に対抗するには、今ひとつの反知性主義をもってするしかない。
昨今の劇場型の政治の根本には、そうしたアイロニーが横たわっているのだろう。
地方の浮動労働者と都市のエリートという格差が如実に増大している現在、
マスを動かしうるのは田舎芝居しかない。
それがわかった上でちゃんとその田舎芝居を演じ切る
度量と知性がなければ世は動かせない。
安倍の危うさは、その田舎芝居を演じ通すクレバーさとしたたかさに欠ける所だな。
靖国参拝などは、意図はどうあれ、それこそ純粋に田舎芝居として行わなければならない事項なのに、
彼の行動は未熟な精神論に発している可能性が高い。
まあお坊ちゃんなんだよな。
彼が崇拝する祖父の岸はろくでなしだったが、それでも海千山千の
「プロの政治家」ではあったので、草葉の陰で、孫のぼんくらぶりには
さぞや呆れているだろう。
>>175 滅びるというのは具体的にどういうイメージなんだ?
文学部は縮小するだろうし
文学作品のマーケットも縮小するだろうけど
図書館が焼かれ
文系知識人が軒並み処刑されるとか
思想統制のけっか新しい本を書く人間がだれもいなくなるとか
それほどのことにならないだろう
滅びるってどうなった状態なんだ?
>>157 水戸学というのは明からの亡命知識人である(そして明王朝の皇統に連なる)朱舜水の影響下(光圀公も師事していた)で構築された学問であり、
北狄の侵略に抗して成立した南宋イデオロギー(朱子学)の気風が強いのですよ。
故に我が邦における大覚寺と持明院の抗争も南北朝という中華風の歴史観で再編成され、水戸学は南朝を正統としています。
かかる経緯から楠流軍術の祖として一部軍術家(由井正雪とか)にカリスマ的人気のあった
楠正成・正行親子が忠義の士としてもてはやされ、光圀公も晩年に勢いで銅像まで建立してしまう始末です。
脱線ついで言うのならこれが幕末に再燃して佐賀の江藤新兵、大隈重信、枝吉神陽、副島種臣らが義祭同盟といって景気よく尊王の狼煙を打ち上げてしまう。
で、この枝吉神陽が君臣一体論という思想を提唱する。
初代司法卿たる江藤がこの思想と無縁であるはずがない。
つまりまあ、そういうことです。
また、大日本というのは大日如来の本たる国という意味であり、
これが神の国となったのは中世仏教(顕密体制)の影響もあるのだけれど、
まさに神がかり的になったのは元寇以降ですよ。
神武天皇がどうとか神功皇后がどうとか言い始めたのもちょうどこの頃で
一部研究者によると元寇以前は神功皇后に関するエピソードは松浦さよ姫伝承だったらしいですね。
そういう意味ではしっかりと国際関係が文化面に反映されていますよ。
ほー。
何から何まで興味深い話ですが、
要は弘安の役で神風が吹いちゃったことが、
現在まで続く日本国の自己イメージの基本を作ったということなんですかね。
だとすれば元寇は日本の歴史の重要なターニングポイントなんですね。
まるで知らんかったw
百田さんが言ってる
売れない小説は無意味、無価値
純文学は誰も読んでない
ほー。
大胆な発言ですなw
つまり現在純文学なるものを読んでいる人間はゼロ人であるとw
では今現在、谷崎をぺらぺらめくっている私は何者でしょうな。
幽霊かなんかでしょうか。
言いすぎたな。
能や文楽より少ないって言ってる。
つまりお前と数百人ぐらい
数百人の根拠はww
つーか一瞬「シックスセンス」のオチを思い出した
193 :
吾輩は名無しである:2014/01/09(木) 14:26:05.14
王朝の栄華がもし日本文化におけるイデア的なもの、であったれば、
保元の乱から元寇あたりまでに、日本史版の、「イデアの消滅」「神の死」
「大文字の父殺し」がさかんにあった、といえるんではないの。
ただ、その「王朝の栄華」は、死後の従順(フロイト「トーテムとタブー」)のごとく、
失った過去のでっちあげ的「理想の父」化、かもしれんが。
意味が分からん
195 :
吾輩は名無しである:2014/01/09(木) 21:46:06.01
文学界でインサイダーになったことはないけど
作家なのにクリエイターではなくただの代弁者に
すぎない人も多そうだ
どういう宗教を信じているのか
どの政党を支持しているのか
それをまずは明示してほしい
>>187 >要は弘安の役で神風が吹いちゃったことが、
>現在まで続く日本国の自己イメージの基本を作ったということなんですかね。
?
神風が吹いたかどうかはともかく、
一夜にして突如として船団がなくなったというだけの話(文献上)で
そこで竜神様が神風を吹かせて滅ぼしたのだ、と合点して
ますます加持祈祷に力を入れ始めたわけです。
自身が漁師の倅である日蓮などはかかるまじないこそが古来の神々に対する冒涜であり
国体を損じているのだ、と批判していますね。
ちなみ近世以前の漁師は一部地域では神饌を奉納する役割も果たしていました(そして差別もうけていた)。
>元寇は日本の歴史の重要なターニングポイントなんですね。
元寇以降に宋制を導入して(おまけに天皇家の祖先は呉人であるとまで言い始めた)
天皇独裁と貨幣経済を打ち出した後醍醐帝以降でしょう。
この王権の奇妙なところは上述の蒙古襲来後になぜか滅亡したはずの宋制の復活を本朝にて言い出した。
でもまあ、この紛争を南北朝と区分したのは実質上の水戸学の始祖たる明王朝の遺臣、朱舜水ですけどね。
そして大陸における明王朝の誕生と足利政権(ようするに北朝方)による日明貿易復活の頃を境に
何故か歴史の表舞台から姿を消してしまった。
ちなみに国文学の世界では持明院統は唐詩の流れをくむ自然賛美の内面観照的な歌風であり、
大覚寺は人工的配列による技巧的なものであるとされていますね。
まあ、この技巧的な歌風が宋代の四六駢儷体の流れをくむものなのかはよく分かりませんが。
ちなみに一般に元寇と言われていますが、文永・弘安の役に我が邦に攻め込んできたのは
元に帰朝した高麗水軍なんですね。
で、高麗水軍というのは例えば壇ノ浦の合戦にてその一部が源氏方に与して
平家打倒に寄与したと言われています。
この功績として所領を与えられた一族の子孫に>>上で名前の挙がっている政治家の外祖父とかいるわけです。
ついでに言うのなら、元王朝への高麗の帰属と滅亡後(そして李氏朝鮮誕生後)に
何故か、本朝にて朝鮮半島の旧称である新羅なる国号が文献上確認されるようになった。
神功皇后による三韓征伐とかが言われ始めたのもちょうどこの頃。
これは後醍醐帝とは逆で、実はうち(日本)の方が朝鮮半島の本家なんだ、という心理ですが
まあ、似たようなものでしょう。
ちなみに日帝36年におけるおける現地調査の結果、偽造の疑いの濃厚な好太王碑文以外
神功皇后による侵攻の事実は確認されなかった。
そこらへんはまるでついて行けないので、開き直って馬鹿を重ねれば、
やはり中国式の中央集権制は日本にはそぐわないんでしょうかね。
中央集権であるからには、まずその言い出しっぺが「出る杭」とならねばならなくて、
後醍醐天皇もそういうポジションではないかと思うのですが、
彼自身の力量の問題とは別に、日本では既得権益層に正義あり、
みたいな風潮は昔から現代に至るまで強いのではないか。
明治維新なんかもブルジョア革命でも平民革命でもなく、
いわば武士階級の中の内乱だったわけで
これも妄言なんだが、革命と権力の集中って表裏一体で、
ある種の父権制が優越している文化に特有のものなんではないか。
何となく暑かったり寒かったり自然が厳しい風土の方が
権力の集中や革命が起きやすい気がする。
日本みたいな高温多湿の国は、なんかそういう尖んがった事象にはそぐわない
200 :
吾輩は名無しである:2014/01/12(日) 17:17:47.37
日本史上に父権の強まった時期というのは、何度かあるだろうが、
このスレの話題に沿えば、宋学の流行期もそれが顕著だった、といえるのではないか。
宋学の流行というのは、出だしは案外早くて、院政期あたりには、
おそらくその萌芽があったようだ。
院政は、ろこつに国権=父権だし、
氏の長者の同族内での権威(のちの幕権の正統性は、かなりがこれに負う)
が高まるのもこの時期であろうから、
すぐに納得いくのではないか。
それが、のちのちまで、残響を及ぼすわけである。
もちろん、文化の輸入というのは、人と物の流入を介して起こるものだ。
知的人士も来るし、書物も輸入されているわけであるから。
なお、日宋貿易というと、ふつう平氏政権を思い浮かべるが、
中世史学の本を読むと、じっさいのところ、清盛は、藤原氏の貿易利権を奪ったということらしい。
201 :
吾輩は名無しである:2014/01/12(日) 17:25:01.37
明王朝は南朝懐良親王を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。
ところで、↑の真偽のほどは、どんなもんなの?
詳しい名無しさんにききたい。
>>201 >明王朝は南朝懐良親王を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。
それは時系列的に話が合わないし、
勘合貿易復活(つまり朝貢)に際して明朝は「持明」と指定してきたわけですから
大覚寺統はその時点で除外されていたと思いますけどね。
そもそも、宋制の導入と呉王の末裔を一時的にとはいえ僭称した大覚寺を
呉人初の統一王朝たる明王朝が認めるわけがない(自らの立場が怪しくなる)。
それに明王朝は廃仏毀釈を断行し、儒教を国教に据えた初の王朝なので
怪しげな密教に傾斜した大覚寺などは排除の対象でしょう。
モンテスキューが「法の精神」で指摘していることですが皇帝による稲刈りというのは明王朝なんですね。
日本では昭和帝以降。
ちなみに育苗法による田植えが我が邦に伝わったのは江戸初期に朝鮮半島から(農機具も朝鮮のものが同時に伝来した)。
皇室行事たる有職故実が整えられたのは江戸初期の後水尾帝から明治初期にかけてのこと。
>>203 ちょっと突っ込んでおくけど、
>ちなみに育苗法による田植えが我が邦に伝わったのは江戸初期に朝鮮半島から(農機具も朝鮮のものが同時に伝来した)。
は間違いだね
他スレでも話題になることがあるが、稲は南方系の植物なので南から北へ少しづつ広まっていった作物なので、朝鮮半島から日本への伝来というのが怪しい
あと、朝鮮半島は梅雨に雨が多いわけじゃないから、水田じゃなくて陸稲が多かった
近年「○○が昔からあったというのはフィクション。実はもっと近年に成立した」系の言説が多いけど、日本史関係はやりすぎも多いな
>他スレでも話題になることがあるが、稲は南方系の植物なので南から北へ少しづつ広まっていった作物なので、朝鮮半島から日本への伝来というのが怪しい
> あと、朝鮮半島は梅雨に雨が多いわけじゃないから、水田じゃなくて陸稲が多かった
稲作というのは日本や朝鮮半島では山間地にため池を作って裾野で耕作していたんですね。
で、昔は直播(南方の手法)だったのだけど李朝時代に育苗法(要するに田植え)が発明されて
単位面積当たりの収穫高が飛躍的に上昇した。
また、日本の場合はおそらくはオランダ経由で伝わったであろう干拓技術や治水技術も加わって
平野部における大規模水田が定着した。
この結果江戸時代を通じて臨海地域の平野部を中心に耕作地が3倍ぐらいになっている。
そしてこのような新開地に浪人を初めとする浮浪人を入植させて村落が形成された。
民俗学界隈では葬送儀礼を代表とする農村儀礼は江戸中期頃に形成されたと指摘されていますね。
半島の場合はこのような大規模干拓事業や村落共同体が形成されなかったので日本的な共同性が薄い。
また、清王朝の経済構造に組み込まれて商業が盛んだったので首都圏への人口集中が進んだ。
>近年「○○が昔からあったというのはフィクション。実はもっと近年に成立した」系の言説が多いけど
技術革新による生産様式(と社会構造)変容を指摘しているだけですね(といってもマルクス主義的進歩史観に立つわけではない)。
また、民族学者である岡正雄が戦前から指摘しているように日本社会=稲作でもない。
もし、稲作が南方伝来による北上というルートで伝播したのなら岡が指摘するように
日本の最南端である薩摩地方が芋作(芋が主食)であるというのはおかしい。
仮に薩摩=海人系(つまり別文化)としてもかなり早い段階で皇統に番兵として帰属した薩摩隼人が
天皇の謦咳に接して米食化しなかったのは何故か?となりますね。
薩摩は火山灰地だったから、稲作には不向きだからでしょ
どっちが正しいんだか早く決めてもらわないと気になって夜も寝られません!
もっとも、今さら自らのルーツを掘り下げようとしても、
もはや手遅れかも知れない。
我々はとっくの昔に迷子になっている。
恐らく我々は真に「日本国民」であったことなど一度もない。
戦前までは、少なくとも都市圏の外では地方共同体が
ルーツおよび現実のコードとして優越していたと思われるが、
戦後の都市部への人口流入とその結果としての核家族化によって
地方共同体の優越は失われた。
我々はもはや国民でも共同体の構成員でもないし、
「主体」を持った西欧的「個人」ではなおさらない。
つまり、現在の日本人は基本的に「2ちゃんねらー」なのである。
ひろゆきは60年以上の昔からはるかに準備されていたのだ!
212 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 10:15:12.14
フォークナーは、来日した際に、
日本文化の特徴は(欧米と比較して)知性の偏重、という大方の見方とは正反対のことを述べていた、
と記憶している。
主体性云々に関しても、あんがい正反対の見方が出来るのではないか、と思うものだ。
むしろ日本人は主体性過剰で、それが歴史的な虚無信仰に現れている、そして、
主体信仰が行き過ぎた虚無信仰ゆえに、主体性が乏しいかのごとくみえる、ということだ。
これはある意味、日本的プレモダン=ポストモダン、の図式に従えば、ポストモダニズムのひじょうな先取りであった
といえないか。
話しは変わるが、アポロ的=ヘラス的、ディオニュソス的=オリエント的、
という「悲劇の誕生」における図式は、むしろ、逆であり、古代オリエント文化的なものが
たとえば、形式主義的的、といわれるような、アポロ的なものであった、というのは、
実証的歴史的にはいえる。
似たことで、華夷秩序についても、むしろ、夷の文化のほうに、普遍性の萌芽があった、
のではないか。天を祀ることにしても、もともとは遊牧民系の風習であろう。
征服したものに征服される、とはよくいうが、征服したものに征服されたものにまた征服される、
と、もうひとひねりできないものでもない。
213 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 10:29:25.86
文学板チャネラーの大半は、ふつうにいえば、自意識過剰、
すなわち主観性(主体性)の過多、がゆえの、(表面的には)世間的価値観へ従属的、
しかし、(たとえ自覚的にせよ)いわば本心は虚無的、であって、
これは、いたって日本的なものにみえる。
214 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 10:30:37.55
↑自覚的は、無自覚的の誤記
興味深い指摘です。
もっとも主体や個人という概念は、
自意識や主観の寡多で測られるのではなく、
判断や行動の際の責任の在りかの問題かと思う。
つまり個人や主体は、社会的な範疇に含まれる概念でしょう。
寡多じゃかくて多寡だw
なので、議論の軸が少し変わっていると思う。
それに、時おり見かける「日本のプレモダンはポストモダンを先取りしている」
的な論調には少々首を傾げるところがある。
こうした思考が、曖昧な自己肯定以外に、何か新しいものを生み出すとは思えない。
とりあえず、アルファベットやハングルで書かれても読めないから。
読めなきゃどんな名文も、新聞の四コマ漫画以下だよ。
思考とは、結果ではなく過程であって、西欧のポストモダンはその実、
非常にアングロサクソン的な内的闘争であるわけです。
その結果西欧的主体に疑問符が突き付けられたのであって、
それが日本の状況にたまたま似ている部分があったとしても、
それはシマウマとイシダイの縞が似ているという程度のものでしかないと思う。
219 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 11:47:30.83
主体性がある=ぶれない、的な常用的意味にのもとづけば、
むしろ、ぶれないのは、好みであって、あんまり知的なものではないだろう。
たとえば、日本人は家では靴を脱がないとくつろげない、ようなことは、
好みであるから強固なのだ。
そういう好みの領分が、知的判断とされるものに及ぶほどに、欧米人は、非常に強い、ある意味、子供っぽい、
から、よくいう「主体性」があるかのようにみえる、といえないか。
例えばフーコーやドゥルーズにしても、
ルターの宗教改革や、ルネッサンス時のアリストテレス主義からプラトン主義への移行
といった闘争の系譜に位置付けられうると思う。
思考は、外的なものであれ、内的なものであれ、闘争の過程そのものとも言える。
221 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 11:58:06.84
雑には、ヨーロッパ大陸的文化なものへの反感が、
島国的な場当たり的てきとうさ(と見えるもの)への共感になったのが、
ポストモダニズムだと思うね。
これは、フランス現代思想家の、フランス文化嫌いイギリス文化好き、によくあらわれている。
とはいえ、ヨーロッパは、大陸というよりも半島であって、
中近東や中国などと比べると、よほど歴史上場当たり的にやってきただろう。
ようするに、あんがい「父」が弱い文化ではないか。
フロイトは、ヨーロッパ人のユダヤ人嫌いは、じつはキリスト教嫌い、なのだ、
といっていたが、これは本当だと思う。
「ゴッドファーザー3」で、法王になる枢機卿が、マイケル・コルレオーネに、
泉水に浸っている小石をとり、割って乾いた内側を見せて、「ヨーロッパは、水に浸った小石のようで、キリスト教の精神は浸透していない」
とのことをいう。
ヨーロッパ文明=クリスチャニティー、みたいな他地域における通説よりも、
こっちのほうが、意外と、的を射ている、と思うものだ。
いや、生得的な好みであれば、日本人だけでなくどんな民族でも持っているでしょうw
アイデンティティとは、主観の問題ではなく、他者(他民族)と向き合う際に、
自己をどう定立するかという、いわば政治的な概念だと思います。
223 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 12:19:36.67
アリストテリアニズムというのは、よくいわれるように、
プラトニズムと反対に、ピタゴラス派よりも、イオニアの自然学のほうに親近感を持っている。
アリストテレスは、医学者の家系で、だから、その系譜だったという説がある。
アリストテレスの「ギリシヤ中心主義」というのは、
むしろ、優位な文明であるオリエント的なものへの反感であって、
本居宣長の漢意批判、や、ハイデガーのラテン(語)的なものへの批判、
などのはしりじゃないのか。
なお、アレクサンドロスの「東征」にしても、
とうにオリエント側では当時は、後進国の酋長の軍勢が攻め込んできた、
くらいに思ったことだろう。
金に攻められた宋や、清に攻められた明の知識人、
織田信長に焼き討ちされた比叡山の坊主たち、
みたいなものであろうか。
むしろ歴史を大きく見れば、ヘラスのほうが夷で、オリエントのほうが華だったのである。
この種の場当たり的「下克上」が、むしろ欧州の十八番で、
体系的、とされるような文化は、おそらくつけ焼き刃であろう。
なお、日本の近代化が、中国よりも上手くいったのは、
欧州ほどではなくとも、中国よりは「野蛮」だったから、じゃないか。
政治的というより外交的な概念と言った方がいい。
民族のや国家のアイデンティティとは、その本質から言って
ディプロマニックなものではないか。
他者が存在しないところにアイデンティティの問題は存在しないだろう。
今回の靖国騒動にしても、アイデンティティの概念にまつわる
日本的な混乱が引き起こしていると言えなくもない。
靖国参拝は、一方では安部首相の「好み」の問題ではあるわけだ。
しかし、アイデンティティの表明はディプロマシーに属する問題であり、
「内的な事項」ではない。
その見立てが甘すぎたのは政治家として致命的だが、
その甘えの構造そのものは極めて日本的だと言える。
しかしその日本的なるものは美点であるどころかダメダメなわけです。
225 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 12:39:56.54
なお、アリストテレスは、どうやらマケドニア人らしく、
だとしたら、とうじとしては、「ギリシャ人」ではなかった。
マケドニアは、アレクサンドロスの父、フィリポスの代に、
半島の覇権を握るまでは、ギリシャ人とはみなされず、
オリンピックの出場資格なしだった、そうだ。
小アジアの植民都市でさえ、おそらく、出られたのに、である。
非ギリシャ人の「ギリシャ中心主義」とは、在日朝鮮人の右翼、
みたいな屈折した心理かもしれない。
226 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 12:46:05.62
中国南北朝鮮の「靖国問題」への批判は、毎度のことだから、
さておくとして、今回は、アメリカがやや強く文句を言っている、というのが、
すこし違うわけだね。
しかし、アメリカの批判というのは、
この難しい時期になんでわざわざ煙をたてるか、というような、いたって場当たり的なものだろう。
東京裁判の正当性云々ということはあるにせよ、原理原則的批判、という感じはしない。
いや、同盟国に向かって公式に「失望した」なる表現を使うのは極めて異例な事態だよw
「やや強く」どころではない。
あなたも安倍もやはり「日本人」ですなあw
それに繰り返しになるが、国家元首によるアイデンティティの表明は、
完全にディプロマティックな行為と見做されるので、
そもそも本質的に「原理原則」の問題ではない。
もっともオバマも自国の世論は気にしているだろうが
229 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 13:06:43.56
安部は靖国に行かなかったほうがよかったと、と、私は思うよ。
A級戦犯祀るのはけしからんと思うし。
兵隊は祀ってもいいよ。
ただ、アメリカは、場当たり的にいっているだけ、ということ。
だちたい、原理原則云々なんていうほど、米国国務省高官は、深く考えてないだろう。
ケリーは、そういうことよりも、むしろデミソースの味のほうにうるさいんじゃないのか。
いちおう条件反射的に、東京裁判は正当だった、A級戦犯のうちは、死刑になったものは、
なるべくしてなった、
くらいの理解はあるだろうが。、
大体、アメリカが中東で抱えているやっかい事に比べれば、
「宗教問題」としての靖国など、吹けば飛ぶような存在でしかないだろうw
もっとも精神論重視で後先考えない宗教的行為という意味では、
今回の靖国参拝は「テロ」に分類されうるがw
だから国際政治なんてものは昔から本質的に「場当たり」であり、
だからこそ恐いんでしょw
イラクの大量殺傷兵器は結局どうなったのかとw
なかなか話が通じないなw
あたしゃ軍神祀ってる神社で不戦の誓を立てる意味がわかりません
愛人の家で家内安全を祈るようなものでしょうに
233 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 13:36:24.09
安部は安部なりに政治判断したんだろう。
コアな支持者の機嫌取りを、たとえアメリカが迷惑がっても、
優先させた、ということじゃないの。
だいたいね、「靖国問題」について言うこと自体バカらしいわけね。
法的には、東京裁判は正当なのだ。昭和天皇の戦争責任の有無、
に関しては、国際法上は、東京裁判で不起訴だからなし、国内法的には、天皇は神聖にして侵すべからず、
だから、責任なし。
この国際法上云々に異論を唱えるのは、
天皇の戦争責任問題を、世のああでもないこうでもない的な議論に差し戻すことになるから、
自称右翼こそ、やめたほういいわけね。
こういう結果以外に、法的な真理などないのだ。
あとは、道義云々の問題であるから、狭い意味で「公的」とははならない。
うまい例えですなw
それで八方丸く治まるだろうという発想が子供の甘えなんですね
236 :
吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 15:06:11.43
Diplomacyには、お付き合い、の意味もあるだろう。
つまり、首相は、内輪のお付き合いを優先させた、というだけの話しじゃないの。
政治家にとって、その支持基盤の強化が、権力維持のために第一になすべきこと、
であるとすれば、首相のしたことは、政治判断としては「正しい」だろう。
だから心情的にどうこうというよりも、損得勘定に基づくのじゃないか。
その損得が、たとえ多数国民の損得と違うとしても、そうだろう。
それはその通りだけど
その損得勘定を明らかに見誤ったわけでしょ。
今回の件は北方領土問題にもマイナスに働くだろうし、
自分の指示基盤のネトウヨに目配せするためにこれだけ国益を損ねてしまったら
話にならない。
経済がとりあえず上向いているのだから、今それをやらなくとも政権の安定は保証されている。
なので、やはりある種の「心情」が働いたと見るべきではないか。
体力と年齢へのあせりもあると思う(「今やっておかないと」的な)。
どのみちアウトな行為でしょう
>>232 靖国に祭られてる霊の中で、「軍神」って何%かね?
99%以上は、死にたくないのに泣きながら死んでいった
犠牲者たちだと思うけど。
そういう人たちの霊に対して、「もう2度とあなたたちのような
悲惨な死者を出しません」ということでしょ。
安倍がそんなこと考えてる訳がなかろうw
知りませんよそんなの。
不採用通知のお祈りを賽銭箱に突っ込むとか受験戦争に絡めて合格祈願の方が英霊も喜ぶんじゃないですか
御利益の程は存じませんが。
そもそもあれ長州藩御用達で薩摩藩入ってないとか聞くし、死んでも帰れぬニューギニアの人は入ってるのかって疑問もある。
大体葬儀なら寺でしょうに。
何よりも不思議なのは公式参拝を違憲として反対する人間が国家権力による強制的な宗教法人への教義の変更、分祀を迫ること。
憲法違反にならんのか、それは。
>>239 本人の脳内なんかどうでもいい。
対外的に、そう主張することが可能であれば充分。
「靖国には軍神しかいないぞ! 靖国参拝=軍神参拝だ!」
に対してはちゃんと反論できるだろ。
実際には思っていなくても、
「いえいえ。私は軍神ではなく、他のかわいそうな犠牲者を思っています」
と言うことはできるし、それがウソだと立証する手段もない。
不誠実ですな
>>207 >薩摩は火山灰地だったから、稲作には不向きだからでしょ
南方起源論(そして海の道)を説く柳田は九州南端と言ってますけどね。
ただ、ここ30年ほどの稲研究(京都学派による)ではベトナム→雲南省→浙江省→玄界灘ルートが有力なの。
そして柳田あたりが強引に南方起源論を主張する弥生時代の稲は水稲(ただし直播)であっても赤米であり、
現在の稲は白米で後世に伝来したものなの。
何故白米かというと、儒教では白が「貴」とされるからでしょうね。
麻の伝来もそうであり、儒教では麻>絹>綿という優先順位なわけです。
古代朝鮮(高句麗、新羅)や大陸東北部からの渡来人(秦氏族)が我が邦に伝えたのは絹。
そして彼らに征服されたと言われる三輪氏族はその伝承から分かるように麻(あるいは苧)、
しかし明への帰属によって儒教イデオロギーの浸透した李朝以降の朝鮮では麻が正式とされている。
A級戦犯合祀とには靖国神社が定めた祭祀基準の逸脱という問題もある。
そしてこのことにより日本国祭祀権の総領たる天皇の参拝中止と首相参拝の自粛という経緯がある。
だから本件に関しては@祭祀基準の逸脱A無名兵士の礼拝施設たる靖国神社の性格の変容B政教分離の逸脱
などが問題点として指摘されており、
特にAの問題点である
礼拝施設から東京裁判史観への政治闘争の場という事が外交問題となっている。
で、中韓両国政府による「反省をしていないのか」(天皇も歴代首相も参拝をやめたではないか)という問いかけに対して、
⑴「戦争で命を落とした犠牲者に対して尊崇の念を表した」
⑵「平和を祈念して」
と言っても、⑴の「犠牲者」に「戦死者」という合祀基準を逸脱したA級戦犯が何故含まれるのか?
また、その結果⑵の「平和」がいかなるロジックによって導き出せるのか?
と詰問されたら何も答えられない。
逆に言えば「黙して語らず」となれば孟子に登場する恵王のように受け取られても仕方ない。
このように外交が絡む場合、内向きのよくわからない理屈は通用しないのですよ。
それがわかっていない。
>>245 んー、どうもそれだと論点が古代と近世とに極端に分かれていて、間の時代をすっとばしすぎじゃないか?
朝鮮の李朝期の農業関係の書物を調べると、朝鮮半島で水田が広まったのはかなり後らしいが
ふむ、稲作の話でも靖国の話でも、いずれも薩摩の存在が矛盾となって、
見掛け上の整合性に楔を打ち込んでいるのは偶然にせよ面白い。
しかし靖国も知れば知るほど急ごしらえのつぎはぎ細工に見えてくるのだが、
これはまさに日本の近代史の在り方そのものなので、
その意味で確かに日本の魂を代表している施設なのかも知れない。
にしても、俺は自分を一応ナショナリストだと思ってるんだが、
靖国が国体のよりどころってのはあまりにインスタントな思想だと思うんだよなあ。
出雲大社や伊勢神宮ならともかく
靖国は国体云々じゃなくて、日本と中韓の宗教の違いが出てるからこれだけ揉めるんじゃないか
無神論の社会主義のはずの中国なのに、宗教問題で揉めるのは不思議なんだけど
>>248 それより
>>245が天皇と稲作の普及をセットで捉えてる史観に違和感を感じるな
日本が朝鮮半島に対して行ったのは外交的侵略であって侵略戦争の被害者である中国及び東南アジア諸国とは立場違うと思うんですがね
民間が声上げるのはどこの国でもあるけど何故韓国政府が戦犯の処遇を云々するのかも意味わかりません。どういう歴史認識なのか非常に興味がある。
253 :
吾輩は名無しである:2014/01/17(金) 13:35:07.41
江戸幕府大老酒井忠清(だったと思う)は、徳川幕閣を「陣屋仕立て」といっていたらしい。
陣屋仕立てというのは、ようするに、にわかごしらえ、ということだ。
いわば、どさくさまぎれ、間に合わせ、になんとか、統治機構の格好をつけたようなものだ、
というものだろう。
しかし、これは、江戸幕府や明治政府や戦後政府にかぎらんのじゃなかろうか。
文明全般に於いて、日本史上には、はるか昔から、陣屋仕立てしかなかったんじゃないのか、と思うものだ。
254 :
吾輩は名無しである:2014/01/17(金) 13:40:44.96
稲作問に関しては、薩摩じゃなく、日向に場所を遷したらどうか。
こっちは地味はたぶんいいんだろう?
皇室の神話上の故地でもあるし。
そこで古くの主食生産が、米なのか芋なのか、ほかの五穀なのか、
どうだったか分かれば
疑問はだいぶ解消するのじゃないか。、
255 :
吾輩は名無しである:2014/01/17(金) 14:22:24.39
苫米地英人はどうですか?
ラノベも出したけど。
256 :
吾輩は名無しである:2014/01/18(土) 05:39:34.63
俺自身は左翼だけど土着的右翼(今の日本の保守層ではない)の勃興を願うよ
今の保守層って簡単に言えばネオリベネオコン(現代の帝国主義者)あって、
こいつらのせいで醜悪な景観、添加物塗れの食文化が骨の髄まで蝕みそれが自明であるかのようになった
しかし先祖返りはできないし、ヨーロッパのよう民主主義的なスローフード運動も起きないだろ、
起きても電通や大手マスコミ主導の前者とは履き違えたステマ
ねえムイミン♪
こっち向いて♪
258 :
吾輩は名無しである:2014/01/18(土) 11:58:56.14
>>256 周回遅れだ。
いや、悪口じゃないよ。文学板だから。
それで何かが生まれるかもしれない。
でも、左翼側からの右翼へのエールも、ネオコンネオリベ批判も民主政権が終わった今だと周回遅れだと思う。
外国文学を読む奴は売国奴
261 :
吾輩は名無しである:2014/01/19(日) 12:19:58.31
262 :
吾輩は名無しである:2014/01/20(月) 08:09:12.76
たしかに西洋の劣化コピーだな。どの作家の話を聞いても白人の名前や
その理論しか出さないもん(例、三島・安部公房・大江ら。敗戦後に
教育を受けた作家なんてどうでもいい。あんなのはただのウンコ)。
でも安部公房だけはその中から独自の感覚を生み出せたと思う。後はダメだね。
263 :
吾輩は名無しである:2014/01/20(月) 08:43:57.58
↑
と、漫画しか読んでない馬鹿が書いてます。
漫画は世界が認めるジャパン文化
文学は世界の模倣
どうしてこうなった
漫画も日本近代文学の子供なんだけどね
日本近代文学の成果がささやかなものであっても、何かを生み出したことは確かだ。
教科書レベルの文章を母国語で書けない国がたくさんあることを思うとな
266 :
吾輩は名無しである:2014/01/24(金) 05:34:47.02
アニオタじゃないがエルフェンリート、なるたる、灰羽連盟、ひぐらしあたりのゼロ年代()のアニメには心打たれるものが多かった
今のアニメは知らない
267 :
吾輩は名無しである:2014/01/24(金) 05:41:39.93
追記だがそれらアニメも名著を文庫本でブックオフで読むように、
ようつべの違法アップをスペイン語やら英語サブ付きで観た
WIKIだが追記だがそれらアニメも名著を文庫本でブックオフで読むように、
どうすべようつべの違法アップをスペイン語やら英語サブ付きで観た
269 :
吾輩は名無しである:2014/01/24(金) 06:20:16.46
何言ってんの?ウィルス気分?
270 :
.:2014/01/24(金) 15:19:03.17
舛添
⌒ 日本の文化習慣を完全にマスターした朝鮮人もいるんだ。それが私だ!
< `Д´> わかったら、サッサと姉貴に生活保護よこせ!
【舛添要一の正体】
● 外国人参政権推進
● 「新党改革」の記者会見で国旗に対して「邪魔だから」と発言、 取り除かせた
● 朝まで生テレビで自分は在日朝鮮人の家の子だとカミングアウトした
● 舛添要一の姉が生活保護受給してたそーですよ。金あるくせに。さすが朝鮮人
● 不倫、愛人、隠し子(妻3人、愛人2人、子2人、婚外子3人)
● DV(家庭内暴力、手あたりしだいに物を投げつけ、ナイフで妻を威嚇
楽しいから本読むんでしょ。
難しいことは全然分からないけど、日本人作家だろうと外国人作家だろうと、読んで自分が楽しめれば意味あるでしょ。
囲碁も好きだけど、周五郎や司馬遼も好き。それでいいと思うんだけど。
本好きなら百田を読むしかない。
273 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 13:48:59.85
ムー大陸さんのお話はとてもおもしろいです
在日朝鮮系であるらしい芥正彦氏がかつて三島との対談で
関係を絶ったところから逆転するのが革命だとたんかをきったのを
連想しました
274 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 14:13:36.56
>>265 西洋人が何百年かの歴史をかけたのを半世紀くらいで真似したんだぞ?
275 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 14:29:15.66
もちろん、源氏物語に注釈を付け平家物語を愛読して来た歴史が
あっての話。
276 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 14:54:00.74
それで何とか、皮一枚だけは西洋人と同じ人間であるかのような
世界にまで持って来た。
277 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 15:30:31.57
太平洋の縁に浮かぶ土人島の島民
278 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 15:32:49.30
西洋人の召使いだ。
279 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 15:34:29.39
ヨーロッパでメイドの仕事でも探せよ。
西洋かぶれのバカ女ども。
280 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 15:52:43.24
日本人がそういう素直な態度を取ったら奴らはさぞかし喜ぶであろう。
281 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 18:13:01.78
世俗主義のペラペラした奴らの仲間入りをしろって?
とかなんとか言われても
西欧への劣等感はほんとに世代によって違ってくる
とくにバブル世代以降は良くも悪くも格段に薄くなってるというのがあるからなぁ
劣等感が薄れたら逆に作品がつまらなくなったというのは、それはそれでありかなと思う
文学的には駄目だけどな
漫画って半世紀以上の手法の集積があって、これが伝統になっていると言っても良いんだけど
文学はそういう意味での伝統が無いような気がする
外国から手法を輸入して前世代の成果を批判するパターンが多いな
284 :
吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 19:52:56.28
>>274欧州の歴史はそんなに浅くないよ。むしろ中国を評価しすぎだと思う。
285 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 10:44:09.26
>>282 俺も社会人一年目がバブル崩壊直前だったから分かる。
しかし「NO」と言いたがった途端にペシャンコで、コンプレックスは
逆に強化されたのでわ?
286 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 10:47:37.49
バブル時代はまだ冷戦構造の緊張感はあったろ。
いつか核戦争で死ぬと思ってた。夢もクソもない。
287 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 15:02:00.83
バブル崩壊の次に来たのが新宗教ブーム、90年代半ばに
右翼国家思想が再燃するまで。
288 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 15:14:31.17
下らない暗黙の前提押し付けんなよ?
289 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 16:16:38.83
勝手に人を甘く見て、勝手に裏切られてもそんなのは俺の知った
ことじゃない。
290 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 16:20:53.35
たかが人間風情の世界でな。
291 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 16:57:28.27
環境のせいにするな、底辺個人の自己責任だ
自己責任、努力不足、低学力、低学歴
貧乏人、低所得者、低賃金労動者はガス室に送るべき
不満を持つ奴は即効死刑だ死刑
今の恵まれた日本で貧乏人になるのはありえない
死んだほうがいい
嫌なら自殺しろ
292 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 18:06:05.12
日本は貧困率が高いのだ
日本の国民は銃を持っていないので資本家に舐められているのだ
293 :
.:2014/01/27(月) 19:06:09.86
■100年前の朝鮮の現実…「肺結核や解熱として小便を飲む。大便を食べる」
「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々」明治39年 荒川五郎 著より
・衛生観念が全くなく、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので仕事をしないで呆然としている。
雨が降ると動かないので雨具が無い。日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。 要するに、治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮人にとっては一緒だ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなると言う。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れているが、 朝鮮人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。
・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になり、家の中の物が水に浸るが、 洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。
全文はこちらで読めます⇒
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0 韓国の彫刻
http://jackassk.web.fc2.com/funny/photo/unko/art1.jpg
294 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 21:23:59.11
295 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 21:34:01.04
自己責任したきゃ俺みたいに隠者暮らしするんだよw
296 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 21:36:38.17
社会的地位ってのは社会責任抜きに成り立つもんじゃなかろ。
297 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 22:20:24.15
権利ばかりで義務を知らない奴らだろう。
298 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 22:22:34.15
ヤンキーか貴様ら。
ムーのスレはここ?どこか他でやってる?
最近は雑談スレとかハスミンスレで遊んでますぜ
301 :
吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 22:35:51.84
権利もない義務ばかり他人に押し付けるクソもいるがな。
久しぶりに覗きましたが、変な流れですね。
日本に存在したのは欧米流憲法思想によって措定された権利/義務の関係ではなく
命令・強制に対する服従と逃避(あるいは反抗)ぐらいでしょう。
権利や義務というのはそれこそフィクションですよ。
303 :
吾輩は名無しである:2014/02/11(火) 11:18:43.09
ウェルベック読み始めたけどいい感じだよ。
なぜ、西洋においては礼儀が猜疑の目で眺められるのであろうか。なぜ、西洋においては慇懃が(韜晦でないとしても)距離あるいは偽善として通用しているのであろうか。
なぜ《非公式な》(西洋では、無礼講といった感じでこの言葉は言われている)関係の方が規律のある関係よりもいっそう望ましいのであろうか。
西洋の無作法は、《人間》についてのある神話にもとづいてできあがっている。位相幾何学的には、西欧の人間は、社会的で人工的で虚偽の〈外面〉と、親密で真実な〈内面〉(神との交流の場)とからなりたっている二重の存在だと言われてきている。
この考え方に従えば、人間的な〈人間〉というものは、自然によって(あるいは聖なるもの、あるいは罪禍によって)みたされた場所であり、たいして評価もできない社会という包装によって包まれ閉じられた場所である。
礼儀正しい動作は(それがのぞまれている場合には)、世俗的な限界を通しての(ということはまた、この限界を軽蔑し、この限界を媒介として、ということだが)人間という一つの充謐からもうひとつの充謐へと向けられる敬意の表徴である。
しかし、〈人間〉の内部こそ尊敬されるべきだと判断される場合となると、相手の人間の世俗的な包装への関心を否定することによって、その人間をいっそうよく理解することになるというのが、論理の筋道にかなってくる。
つまりは、いっさいの世間的な価値と絶縁して(と当人の思う)、他人の媒介をへたいっさいの規準とは無関係に、率直でぶっきらぼうで飾らない(つもりの)間柄こそが、相手の個人的な価値をいちばんよく尊重することになってくる。
無作法であること、それが真実であることだ、と西洋のモラルはいう。人間的な(濃密で、充実した、芯のある、聖なる)《人間》がたしかに存在するならば、人がまず最初に(頭で、唇で、身体で)いわゆる《お辞儀》をする対象は、それであるだろう。
だが、わたし自身の人間は、相手との充謐との闘いのなかにはいってしまえば、当然人工の擬態という媒介をなげすてることによってしか、
そしてまたわたしの《内部》のありのままのすがた(肉体的にして精神的な、まさしく両義をもたせて使った場合のすがた)をはっきり見せることによってしか、おのれを識ってもらうことは出来なくなるであろう。
したがって、二度目には、わたしはわたしの挨拶を簡略化するだろうし、わたしはわたしの挨拶を気どらない、いかにも自然で、屈託のない、いっさいの規準に無関係なものに、見えるようによそおうことであろう。わたしはあまり上品でないであろう。
あるいは、自分の収入の豊かさと地位の高さ(つまり、ものをたっぷりもつ、《充実》しているという様態、人間としての自分の置かれている様態)、これを近寄りがたい横柄さによってではなく、
おのれの挙措のいつわりの《素朴さ》で示そうとするあのパルム公爵夫人(プルーストにおいての)流の、いかにもわざとらしい思いつきに見をゆだねた上品さを、わたしはもつことであろう。
なんてわたしは純真なんだろう、なんてわたしは上品なんだろう、なんてわたしは率直なんだろう、なんてわたしは《人間》であることだろう、西洋の無作法が語ろうとするのはこのことなのである。
https://encrypted-tbn3.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQcdwI22kXlhTDIJ55V6ivgx1A_9MRIpyV6ZjmRZmiMrzFPdhRJ2Q 煩雑な規準をもち、動作の端正な書体をもつもうひとつの礼儀、日本人の礼儀、はわたしたちの目に敬意が誇張されすぎていると(つまり、わたしたちの目に《相手に恥をかかせるもの》と)見えることがあるにしろ、
それは、わたしたちが西洋人流儀に人間の形而上学にしたがって読み取るからなのであって、実はこの礼儀は空虚の行使なのである(強力な規準、しかし《無》を表徴する基準を知れば、これを納得することができるのだが)。
その場合場合によって、微妙な基準にしたがって測られた深さまで、一人の人間が相手の前でふかぶかと身を折り曲げる(ある定まった位置にいつまでもとどまっている両腕、両膝、頭)。
あるいはまた(昔の写真によれば)贈り物を進呈するには、わたしは眼が床に嵌め込まれるほどに身体をひれふさせる。するとそれに応えて、相手もまた同じことをする。
同じ一つの低い線が、地面の線の、贈り物を差し出す人と受け取る人、それにおそらくは言うにたりるものを何一つ内容として持っていない(持っているとしてもごくわずか)という礼儀の資本である包まれた箱、この三つのものを結ぶ。
(部屋の空間に書き記された)一つの書体が、こうして交換の行為のなかに与えられるこの書体があるために、交換の行為のなかからいっさいの貪欲が姿を消すのである(贈り物は二つの貪欲が姿を消失したその中間に宙吊りになったままで残っている。)
お辞儀はここではいっさいの屈辱から、さらにはいっさいの虚栄からまぬがれている。
文字通りこのお辞儀は、なにびとにお辞儀をしているのでもない。二つの自足した世界、個人的な二つの帝国(自分自身が鍵を握っているそれぞれの自我を支配するのは、それぞれの人間であって相手ではない)、
お辞儀がこの二者のあいだの、配慮のこもった、好意的で、慎重な交流の表徴になりはしない。
このお辞儀は、何一つ拘束もせず、繋ぎとめもしない。深みのない網の目、形式の網の目の表れであるにすぎない。
「誰が誰にお辞儀をするのか?」、ただこのような問いだけが、このお辞儀を正当化して、地面にひれふすまで平身低頭させ、お辞儀の中の意味だけでなく、書体に勝利を得させて、
わたしたちがいきすぎと読み取るその姿勢に、動作の控え綱をつける。
しかもその動作によって表徴される内容はすべて、他人目にはみてとれないことだが、じつはそこにありはしない。《形あるものは空虚である》(色即是空)と、仏教の言葉は語っている。繰り返し語っている。
お辞儀の儀礼、みずからを書くだけのことであって、ひれふすのではない。
二つの肉体の屈曲、これが、もろもろの形(この言葉の造形的な意味と世俗的な意味とが、ここでは分離不可能となっている)の実践を通して告げているのは、そのことである。
わたしたち西洋人の話し方の習慣はたいへん不完全である。というのも、もしわたしが、あの国では礼儀は宗教であるというとするならば、礼儀の中に聖なるものがあるのだと思わせてしまうことになるのだから。
この表現は、実は次のことを示すものであるとして受けとられなければならない。つまり、あの国では、宗教は礼儀にほかならない。あるいはまた、宗教は礼儀にとってかわられているのであると。
ロラン・バルト『表徴の帝国』
309 :
吾輩は名無しである:2014/02/25(火) 05:50:36.14
いまの日本の現代思想()は所謂翻訳文化的教養主義を軽視し
アニメや漫画、akbを背景としたクールジャパン()を絶対視しているが全然思想的にも批評的にも海外に影響を与えていないし
すっごく内閉的で自慰的
つかいつから現代思想は萌豚を代弁する思想になったの?
310 :
吾輩は名無しである:2014/02/25(火) 06:26:46.06
「現代思想」の講議を中央大学でしていた井上摂が由良君美の
珍説に異義を唱えられないようじゃ、現代思想も底が知れてる。
>>307 日本の歴史を理解してないというより、歴史そのものを拒絶する
思想家の日本論読んでも仕方ない。
あれだ、小津映画ばかり見てたクチだな。
邦画は脚本書くときは「ですます」調が基本の台詞にすべきだね。
西洋人の皮をかぶったような立ち振る舞いは嘘臭くて。
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イi´、 , l :i
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| ビ 祝 | ./ ,rエ´;;;ン iノ .l
| ル ☆ .| ! ヽ\ | l ! 丿 i
| カ が 追 .| .! |_.| |________________|/ |
__| ム .建 軍 .|_ l フヘ、l / | ハ ノ ント ハ iイ .l
| | .サ っ 売 | | { ⌒\| | V / /⌒ .i
| | __. ハ た 春 | | _,--V \ー―――´ーrーv'
| | |新夕| ム よ 婦 | | ∠ V_____r ⌒丶、_ ヽ、
| | |聞日| ニ 像 | |/ /`-uui iu;;;;;;;;廴__ \
| |  ̄ ̄ ダ | | ,´::::::::::::::::::u:::::::::::::::::::\ `i
| |_____________________________| |--ー '~ヽん、_ '''''''''''''' /`ヽー--,-}
「 |/|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | |´ ヽ、 ヽ||| ̄ヽ、_,ノんu"`ヽ、_,/ /
| ||| .| || \ ヽ| / /
| ||| .| || 丶 \ / /
| ||| .| || | 〉 ッ、 ノ イ |
| ||| .| || /Xケィ'_,彡 f K宛X| |
| щ_______.⊥ || (__ィzイ_____\ キ )
外国文学を出版している会社は反日だ
317 :
吾輩は名無しである:2014/03/01(土) 16:13:47.97
大枚はたいてガルシア・マルケス「百年の孤独」買ったよ。
まじ楽しみ。日本文学に飽きてきた。
319 :
317:2014/03/02(日) 07:39:21.04
>>318 じゃあ、おまえのお気に入り、おもしろいと思う本、あげてみろよ。
本、読んでるのか?こないだの芥川賞のやつなんて全部読めるか?
>>319 嫌なら日本を出て行って好きな国に住めばよろしい。
自国の作家を褒めるのは日本人として当たりまえ。
321 :
吾輩は名無しである:2014/03/03(月) 07:22:09.77
322 :
吾輩は名無しである:2014/03/23(日) 21:43:07.63
密入国ペクチョンたちへ、
同胞からありがたいお言葉!
950 :韓国人:2012/06/09(土) 22:03:24.01 ID:Md2rMX4P
同じ韓国人として恥ずかしい。
どこまでも卑怯卑劣な在日韓国人のことが恥ずかしい。
朝鮮戦争で同胞を裏切って、祖国を見捨てて逃亡した人間のクズどもが
日本に密入国し、汚い手段で寄生を続けている。
さらに生活保護や子ども手当を不正受給して、参政権まで要求している。
奴らは韓国人の汚点である。
1人残らず死ぬべきである。
>>64 ある意味凄い
思っていてもなかなか口には出せないよ
サブカルな人になりたいと思って自分学校で一生懸命に自習している人が陥りがち
なんですけど、色々な本や映画、ライブ、お笑い、演劇を見ているうちに、それを
受容することばかりに心地よさを感じてしまって、観る側のプロみたいになって
しまうことってよくあるんです。
(中略)
色んなライブを見ました。色んな映画を観ました。でも「じゃあその結果、
君はどうしたの?」と聞かれると「え?いっぱい見たんですけど・・・何か?」で
終わっちゃう。
映画を何本観た、本を何冊読んだ、サブカルになりたいならばその結果、受容したもの
を換骨奪胎し、自分なりの表現としてアウトプットすることが重要です。それが稚拙であろ
うとクオリティが低かろうと、まずは自分で何かを表現してみるということが第一歩ですか
ら。もう一度言いますね。プロのお客さんになってはダメです。
大槻ケンヂ
無意味と主張してるひとは、気づかないうちにワナに嵌ってるだけかもしれない
326 :
吾輩は名無しである:2014/03/30(日) 13:00:07.92 BE:1095656562-PLT(14000)
夏目漱石読めば十分
>>324 日本語としては「ひちにん」が正しいが、レッドブックの「ななにん」も間違いではない
ただ朝鮮人や関西人が良く使う「しちにん」は明らかに間違い
これを使っていると日本人である事を疑われるので気を付けるように
331 :
吾輩は名無しである:2014/10/09(木) 19:49:03.19
原始神道に戻ればいいんじゃないか。
苔の神聖を歌い上げればいいしゃないか。
個人なんてモノは近代の幻想でしょう。
多様性云々は基本的には、個別の文化の尊重ですよね。
イスラム国が成立するのは、そういうことでしょう。
ある一定のルールでグローバルなんてもう古いのだから。
ローカルに深く深く入り込むこそ、世界標準になる。
332 :
.:2014/10/09(木) 19:53:20.63
アジア大会は、韓国への不信感を増すような判定が多かった。
この韓国での判定についての疑問をテーマにしたタイ制作のYouTube動画は、
欧米などのネットユーザーの注目も集め、韓国を批判するコメントが数多く書き込まれている。
「『韓国するな』という言葉は、不正するな、という意味だ。
米国では『韓国するな』という『新語』はとても人気だ」
「韓国はいつも相手をだまして、嘘ばかり」
「韓国に正義の報復を」
「アジアの詐欺師。恥を知れ、泥棒韓国」
「消えうせろ、韓国」
「韓国には、羞恥心が無いのか」
「韓国は損得勘定ばかり」
「韓国には、中立公正という言葉は無いのか」
「韓国には、信用を大事にする習慣は無いのか」
「韓国は今回の大会を成功と考えているが、そんな低レベルで国際社会の信用を得られると思っているのか?」
「韓国は大きく狂っている」
「タイよ、心配しないで。私たちはあなたたちの味方だ。私はイタリア人で、韓国人が大嫌い。
アジアの一員だからという理由だけで韓国と関わらなきゃならない君たちを気の毒に思っている」など。
333 :
正理会:2014/10/23(木) 12:53:17.78
左翼の糞売国
日本人なら日本人が書いたものしか読む必要ない