マルセル・プルースト18

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1吾輩は名無しである
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マルセル・プルースト17
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マルセル・プルースト17
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2吾輩は名無しである:2013/09/19(木) 18:24:16.93
失われた時をもとめて について何度でも語る 01/10/15
http://www.logsoku.com/r/book/1003073055/
「失われた時を求めて」について語る 2005/11/13(日)
http://www.logsoku.com/r/book/1131810328/
「失われた時を求めて」について語る 第二巻 2007/09/22(土)
http://www.logsoku.com/r/book/1190464274/
3吾輩は名無しである:2013/09/19(木) 18:25:58.62
マルセル・プルースト 2010/09/10(金)
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マルセル・プルースト2 2010/12/16(木)
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マルセル・プルースト3 2011/06/02(木)
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マルセル・プルースト6 2011/09/01(木)
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マルセル・プルースト6 2011/11/13(日)
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4吾輩は名無しである:2013/09/19(木) 18:28:45.69
ご参考までに

原文PDFはこちら(但し、1946−7年のNRFの15分冊版)
http://beq.ebooksgratuits.com/vents/proust.htm
*死後出版部分(「囚われの女」以降)は現在流布している訳(新
プレヤッド版等を底本としている)と結構異動があります。
新潮6人訳がこの版に拠っています。

15分冊を結合するとさらに検索に便利です。
PDForsellというソフトを使うと割と簡単に結合できます。
http://yomogi.bakufu.org/pdf.html

英訳はこちら
http://ebooks.adelaide.edu.au/p/proust/marcel/index.html
*スコット・モンクリフによる1922年から1931年にかけて
出版された訳です。

英文による第一篇「スワン家のほうへ」の注釈(Bookmarks)等。
カラー図版や映像も豊富でそれを眺めるだけでも面白いです。
http://www.bookdrum.com/books/in-search-of-lost-time-vol-i-swanns-way/9780099362210/index.html
5吾輩は名無しである:2013/09/20(金) 08:06:39.16
>>1
乙!
テンプレ貼るのが面倒だよね。リンク含めて5連投になるし。
6吾輩は名無しである:2013/09/21(土) 03:15:16.02
        ,__                 
        .゙lllレ              .=u,_         
        .,illl「   .hyyyvvnv=rllh     ゙《l!      ._ノ'  
    .¨^'Wuilll「   ..ll|  ″    ..ll|      ′   ._yll″  
      ,rl|ミ《iy  .|l|       .|l|        _yill″  
     .,zl厂 .゙ア   )uyyvv=rー!巛!  ,   _,,yll厂     
   _yl厂      .′         ゙リlllllミ¨′
  .-(″                   `′ 
                 _ ,ノ ,ヘ、、  っっ
               /´   ノ    `ヽ、っっ
              /     /       ヽ   <こ、これは>>1乙じゃなくてみかんなんだからね!勘違いしないでよね!
                i′   ,/         ',
             {    {           }
              ',    `、        ,!
           ___ヽ    `       丿__,,
          , ゝ  `ヽ、         /´   く _
        <-‐''´  ̄ ̄`,ゝ、、___,,, <´ ̄ ̄` ー->
          ` ー''´Z_ノ        ヽ、_ヾ ー ´
7吾輩は名無しである:2013/09/21(土) 11:21:02.42
11月刊行 岩波文庫 『失われた時を求めて6』
8吾輩は名無しである:2013/09/22(日) 00:20:43.20
>>1

とにかく失われた時を求めてが長すぎ
9吾輩は名無しである:2013/09/23(月) 18:30:14.32
井上訳で挫折したオレはとにもかくにも吉川さんの訳で読み続けている
吉川さん頑張って完結してください、必ず最後までついていきます。

正直高遠にしなくて良かったと思う
10吾輩は名無しである:2013/09/24(火) 12:12:50.02
>>9
井上訳は命綱無しで絶壁を登るようなもんだよ。遭難するのがオチ。
あと、訳が「なるほど〜であった」のオンパレードだからそれだけで嫌になる。

高遠訳は完成するにしても、あと15年はかかると思う。
俺は二冊買って辞めた。三巻目は買っていない。
11吾輩は名無しである:2013/09/27(金) 00:10:28.27
ドストエフスキー・・・善
トルストイ・・・真
プルースト・・・美
12吾輩は名無しである:2013/09/27(金) 00:20:46.15
吉川と高遠は完結してないから今現在で読みやすいのは鈴木先生だな
13吾輩は名無しである:2013/10/02(水) 17:51:25.84
この書き込みを最後に消えたけど、この人どうなったの?

746:G ◆Y.6.rbvT92 2013/03/21(木) 22:13:38.54
まだ地縛霊生きてたかw
14吾輩は名無しである:2013/10/02(水) 18:18:03.58
>>12
最終巻の索引(登場人物、引用された文学・芸術作品)も
充実しているし。
15吾輩は名無しである:2013/10/02(水) 23:39:20.02
地縛霊って、うしろの百太郎みたいだ
16吾輩は名無しである:2013/10/03(木) 12:49:44.47
G ◆Y.6.rbvT92
通称 ホモハゲGは、個人情報が漏れてからここには一切来ません。
17吾輩は名無しである:2013/10/03(木) 20:58:57.60
G=ヒッキー・ニート=生活保護不正受給木村朋史=木村トミー=クラブシャレトミー=ランキング予想屋

こっちのスレで予想屋が全く同じパターンで荒らしてる
http://kilauea.bbspink.com/test/read.cgi/nuki/1356407978/

こっちのスレではずっと独りで連投してる
The Dynasty SMAG La Familia (2012 -  )
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10128/1356744994/
18吾輩は名無しである:2013/10/03(木) 21:40:32.01
Gさんは居なくなったがキモネンは健在なんだなw
19吾輩は名無しである:2013/10/05(土) 21:03:24.41
古い新潮文庫で読み始めようと思うんですが
これの評価はいかに
20吾輩は名無しである:2013/10/05(土) 21:32:24.41
新潮版良いよ。淀野・井上の東大コンビ訳は味わい深い。
「長い間、私は宵寝に慣れてきた。」
21吾輩は名無しである:2013/10/06(日) 00:45:57.76
>>19
ありがとうございます。字体も古く大変そうですが
挑戦してみます!
22吾輩は名無しである:2013/10/06(日) 00:47:32.73
失礼しました。>>20さんどうもです。
23吾輩は名無しである:2013/10/09(水) 23:34:30.71
>>20
一行目からもうちゃんとした日本語とは言えない文章じゃん
24吾輩は名無しである:2013/10/10(木) 01:52:14.87
>>23
訳してみてよ。
Longtemps, je me suis couché de bonne heure. Parfois, à peine ma bougie éteinte,
mes yeux se fermaient si vite que je n'avais pas le temps de me dire : « Je m'endors. » Et,
une demi-heure après, la pensée qu'il était temps de chercher le sommeil m'éveillait ;
je voulais poser le volume que je croyais avoir dans les mains et souffler ma lumière ;
je n'avais pas cessé en dormant de faire des réflexions sur ce que je venais de lire,
mais ces réflexions avaient pris un tour un peu particulier ; il me semblait que j'étais
moi-même ce dont parlait l'ouvrage : une église, un quatuor, la rivalité de François Ier
et de Charles-Quint.
25吾輩は名無しである:2013/10/10(木) 07:47:29.45
早めに寝たのはいいんだけど、大体何時頃に寝たのか
研究した人いるかな?
26吾輩は名無しである:2013/10/10(木) 14:47:05.44
>>25
たぶん晩飯後すぐぐらいだから8〜9時じゃないかね
27吾輩は名無しである:2013/10/11(金) 07:50:55.12
『ジャン・サントゥイユ』『楽しみと日々』などは、筑摩のプルースト全集
(単行本)を買わないと読めませんかね?「書簡集」も読みたいのだけど。
28吾輩は名無しである:2013/10/11(金) 14:33:34.49
楽しみと日々は福武文庫でもあるね
29吾輩は名無しである:2013/10/12(土) 07:46:47.60
>>28
ありがとうございます。探してみます。
30吾輩は名無しである:2013/10/19(土) 10:19:05.54
新潮社文庫 RTP 第一巻第一スワンの恋1958年
福武書店(文庫) 楽しみと日々1986年

絶版本ですか…w
31吾輩は名無しである:2013/10/19(土) 13:35:18.73
新潮って揃いで持っている人なかなかいないだろうね
32吾輩は名無しである:2013/10/20(日) 12:23:41.64
改訂版の7巻セットなら持ってるよ。
翻訳はこれが一番好き、だけど、
鈴木訳も読みやすくてよかった。
プレイヤードのウヴコンは最高(スリスリ /// ウヘヘw

失時が文(学)オタや懐古厨の慰みものになっているのは勿体無い。
アニメ化でもすればいいのにw
33吾輩は名無しである:2013/10/22(火) 01:53:00.60
おすすめは何巻?
34吾輩は名無しである:2013/10/22(火) 07:36:49.15
G=ヒッキー・ニート=生活保護不正受給木村朋史=木村トミー=クラブシャレトミー=ランキング予想屋

こっちのスレで予想屋が全く同じパターンで荒らしてる
http://kilauea.bbspink.com/test/read.cgi/nuki/1356407978/

こっちのスレではずっと独りで連投してる
The Dynasty SMAG La Familia (2012 -  )
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10128/1356744994/
35吾輩は名無しである:2013/10/26(土) 05:39:51.78
キモネン。。。
36吾輩は名無しである:2013/11/17(日) 09:52:31.80
2012/11/17(土) 09:38:06.51
鈴木、井上も確認してみました。
鈴木訳の「面くらっちまう」が若干崩している程度であとは標準語だなあ

鈴木水色4p357
「いったい全体どうしてご自分のものをこんなにも散らかしておけるんでしょうね。
まあ試しにこの滅茶苦茶のなかでまごまごしない女がほかにいるかどうか、見て
ごらんなさいまし。これじゃ悪魔だって面くらっちまうでしょう」

井上文庫3p349
「どうしてご自分のものをこんなにちらかして平気でいられるのか、私にはわけが
わからない。こんなごったがえしのなかですぐ見当のつくような女がほかにいるか
どうかさがしてごらんなさいませ。悪魔だってとまどってしまいますよ」

(y) perdre son latin
ロワイヤル仏和中辞典
 何だかわけがわからない[覚えたラテン語を忘れる]
プチロル仏仏
  ne plus rien (y) comprendre
37吾輩は名無しである:2013/11/17(日) 20:38:46.53
吉川訳「ゲルマントのほうU」出ましたね。
フランソワーズはやはり西国人っぽいかな

「私が髪をとかしてもアメデの奥さまを疲れさせるなんてことはありゃしません」p354

彼女の娘
「あん人は、はじめっから徹底的に療養すべきだったのよ。」p350
38吾輩は名無しである:2013/11/18(月) 18:15:55.02
2012/11/18(日) 17:54:13.05
今日はプルーストの命日でFabolousの誕生日。
39吾輩は名無しである:2013/11/19(火) 20:58:23.79
2012/11/19(月) 09:22:23.84
海野弘が、「プルーストの浜辺」で「囚われの女」を白鳥乙女譚・メルヘンとして読んでいることは前述した。

鈴木水色「囚われの女2」p292
>そうこうするうちに、冬も終わり、ふたたび美しい季節がやってきた。
L’hiver cependant finissait ; la belle saison revint


>やがて夜はいっそう短くなり、以前ならまだ夜も明けない時刻に、早くも私は窓のカーテンから、日々ますます
明るさを増してゆく太陽の白い光が注がれるのを見た。
Bientôt les nuits raccourcirent davantage, et avant les heures anciennes du matin, je voyais
déjà dépasser des rideaux de ma fenêtre la blancheur quotidiennement accrue du jour.

>これらすべてのイメージ――そこにはいまだかつて考えたこともない嘘と過失とに満ちた生活が、
ちらりと浮かぶのであったが――私の苦悩はただちにそのイメージの素材自体を変質させ、私は
地上の光景を照らしだす光のなかでそれをながめていはいないのであった。それは別世界の断片
だった。見知らぬ呪われた惑星の断片であり、〈地獄〉の眺めだった。〈地獄〉とは、バルベック
の全体であり、近隣のすべての土地のことだった。というのもエメの手紙によると、アルベルチーヌ
はよくそこから、自分より若い娘たちを呼び寄せて、シャワーに連れていったからだ。
鈴木水色11p176

Toutes ces images – échappée sur une vie de mensonges et de fautes telle que je ne l’avais
jamais conçue – ma souffrance les avait immédiatement altérées en leur matière même, je ne
les voyais pas dans la lumière qui éclaire les spectacles de la terre, c’était le fragment
d’un autre monde, d’une planète inconnue et maudite, une vue de l’Enfer. L’Enfer c’était
tout ce Balbec, tous ces pays avoisinants d’où, d’après la lettre d’Aimé, elle faisait
venir souvent les filles plus jeunes qu’elle amenait à la douche.
40吾輩は名無しである:2013/11/19(火) 22:51:52.64
刊行ペースが遅すぎる
全部訳して完訳が確定してから
月刊もしくは一気に出して欲しい
41吾輩は名無しである:2013/11/19(火) 23:12:40.26
俺もそう思っていたけど今では吉川さんの翻訳ペースに慣れた
もう一人の方は知らネ
42吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 08:52:54.04
ほんとに訳全部終わるのか?とハラハラしながら読むのが醍醐味
43吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 11:47:01.62
文体
『失われた時を求めて』の文体は、複雑な構文と多くの比喩を持った非常に息の長い文章に特徴付けられている。
このような長い文章はある観念やイメージが喚起する一切のものを記述しようとする作家の姿勢に基づくものであり、
例えば文章の中で一つの対象が登場すると、その語に対して何行にも渡って修飾が加えられ、
その後ふたたび元の語が引用されてまた修飾が始まり、その後でようやく述語部分が登場して一つの文が完結する、
というような形のものがしばしば表れる。これはまた草稿やゲラを何度も読み返しながらそのたびに新たな記述が加えられていった結果でもある。
このような長い文章はまた、文章が結論部分に至るのをいつまでも引き延ばしておくことで読者の期待を宙吊りにしておく冒険小説の技法をも思わせる。
ただし、こうした長い文章は実際には作品全体の三分の一程度を占めるに過ぎず、作品全体を通じて常に用いられているわけでもない。
長文が用いられる場面も語り手の分析的な独白を記述する場面に限られており、状況に合わせて適宜短い文も使われている。
文章の平均的な単語数も標準的なフランス語文の二倍程度であり、
また使用されている語彙も極端に多いわけではなく、ある統計によればジロドゥーのそれよりも少ないという。
プルーストはまたその文章表現において特に隠喩(メタファー)を重視していた。
『失われた時を求めて』の最終巻にも隠喩と印象を巡る一節が一種の文学論の形で記されている箇所があり、
この中では隠喩によって「二つの感覚のエッセンスを引き出し、時間のもつ偶然性から感覚を解放するようにして、
一つのメタファーの中に二つの対象を含ませる」と述べている。またメタファーの持つ、ある対象が他の比較対象を喚起する、という機能は、
『失われた時を求めて』のモチーフである「無意志的記憶」の機能、
すなわちある現実の経験がそれと類似した過去の記憶を引き起こすという機能と同じ構造を持っており、
隠喩の使用は「無意志的記憶」のモチーフのいわば文体レベルでの表現と見なすこともできる。
44吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 11:52:12.91
構成
『失われた時を求めて』の物語は直線的な進み方をしておらず、現実の事柄を述べる傍らでしばしばその印象や記憶を巡って脱線し、
また語り手が時に応じて一般的な法則を明らかにして、それを比喩とともに例証したり抽象化したりすることで話の流れがしばしば中断されてしまう。
このために作品の全体像は容易には把握しがたいが、しかしプルーストはこの小説を非常に緻密に構成している。
まず作品全体を支える構成として、語り手が不意に経験する記憶の奔流(無意志的記憶)が作品の始めと最後に配されており、
作品の冒頭に置かれて作品の原動力となっていくその記憶の現象が、最終巻になって再び現れてその幸福な感覚の秘密が究明され、
物語の結論部にあたる語り手の文学的な使命の自覚へと繋がっていくという形になっている。

物語自体は場所を機軸にして展開していく。作品の冒頭で、語り手がそれまでに過ごしたことのある様々な部屋が回想されていくが、
ここでその後展開する物語の主要な場所がすべて示されている。
幼い語り手の散歩道として「スワン家のほう」と「ゲルマント家のほう」という二つの方角が提示されているが、
全編の主要人物のうちの多くはこの二方向のうちのどちらかから現れ、前者はブルジョワ社会を、後者は貴族社会を象徴する方角となっていき、
最後の巻でこの両家の間に生まれたサン=ルー嬢が登場することによって二つの方向が象徴的に統合される。
このほかにも、第四巻以降で展開される同性愛の主題をそれとなく予告するなどの様々な伏線や、
章同士の照応関係、要所要所におかれた無意志的記憶の現象など、長大な作品に堅牢な構造を与えるための様々な工夫がなされている。
45吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 12:38:21.70
>>43-44
引用元を明示してもらわないと、あなたの意見なのかどうかわりませんよ。
wikiからの引用だったらそれを示してください。それとwikiを引用することで
あなたは何を言いたいのですか?
46吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 18:40:32.97
高遠訳ってやる気あるの?
吉川訳との刊行ペースの差が酷いんだが。
やっぱり一流学者&名門出版社と、二流学者&三流出版社の差かね。
ここまで差がつくと、吉川訳の刊行を待って、その訳文を参照しながら訳そうとしているとの穿った見方をされてもしょうがないと思うんだが。
47吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 20:32:35.79
片や、プルーストのスペシャリスト。作品中にでてくる「絵画」の研究の世界的
第一人者。タディエの浩瀚な評伝を訳し(書簡にも通暁することになるはず)、
フランス本国でカイエの共同研究・出版にも携わっている。
辞書についても、仏和辞典(ディコ)の編集委員の1人。
1999年の井上究一郎の通夜で企画を持ちかけられ、10年を経、満を持して
の刊行開始。
もう一方は、専門はプルーストであっても、むしろ文人的学者。プルーストの
最終的なタイプ原稿であるグラッセ版「消え去ったアルベルチーヌ」(2008)
というニッチな翻訳がきっかけとなっての全訳企画。
準備期間とプルーストに関する蓄積が違うわけで、先行したにもかかわらず、
周回遅れどころか3周遅れになってしまったのはやむをえない気もする。
48吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 20:47:33.46
久々に高遠訳第1巻を開いてみたが、あとがきの「読書ガイド」で啖呵を切り過
ぎてるのも重荷になってそう。
>机上に既訳をすべて並べて読み比べているうちに、処々で私の解釈と異なる
部分が見られるだけでなく、日本語のリズムや表現をことさらに重要視してきた
文学の愛好家(アマトゥール)としての私の神経を逆なでする部分にしばしば
突き当たることになったのだ。
>大切なのはプルーストに対する真率なる愛情であって、プルーストが書いた
つもりのない表現の日本語になっているとしたら、それは誰かが正さなくては
ならないだろう。
>面上の唾を覚悟で、自戒をこめつつ言えば、多くの場合、辞書の調べ方が足り
ない。あるいは調べたうえで文脈から考えようとしていない。p449
>可能な限り正確で、的確な表現に支えられたプルーストを日本語で織り上げる。
>私は覚悟を決めた、先達への敬意を失わず、しかも、プルーストだけを見据え、
プルーストだけに誠実でありつつ、この全訳を続けて行こうと。
p443−450

4者の翻訳を比較した論考
http://www.shotoku.ac.jp/data/facilities/library/publication/education-gaikoku52_04.pdf
49吾輩は名無しである:2013/11/20(水) 21:03:52.71
2012/11/20(火) 01:03:26.05
鈴木水色「囚われの女2」p289
>けれどもアルベルチーヌのなかに私が想像して苦しんでいたのは、私自身の欲望だった――絶えず別な
女の気をひき、こうして新しい小説の下書きを書こうとする私自身の欲望だった。このあいだ、アルベルチーヌ
といっしょにいたくせに、ブーローニュの森でテーブルについていたサイクリングの少女たちをちらと眺めずに
はいられなかったあの目つき、それをアルベルチーヌに想定してみることだった。知識は自分についての知識で
しかないように、嫉妬も自分についての嫉妬でしかない、と言うこともできるだろう。観察などは物の数にも
入らない。知識にせよ苦痛にせよ、自分の感じた快楽からしか引き出せないのである。

mais ce qui me torturait à imaginer chez Albertine, c’était mon propre désir perpétuel de plaire à de nouvelles femmes,
d’ébaucher de nouveaux romans ; c’était de lui supposer ce regard que je n’avais pu, l’autre jour, même à côté d’elle,
m’empêcher de jeter sur les jeunes cyclistes assises aux tables du bois de Boulogne. Comme il n’est de connaissance, on
peut presque dire qu’il n’est de jalousie que de soi-même. L’observation compte peu. Ce n’est que du plaisir ressenti par
soi-même qu’on peut tirer savoir et douleur.
50吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 14:34:22.28
>>44
>物語自体は場所を機軸にして展開していく。作品の冒頭で、
語り手がそれまでに過ごしたことのある様々な部屋が回想されていくが、


この展開がとても好き。記憶というのが脳の隙間に折りたたんで挟み込んであり、
そこから引き出して大きく広げることができるという不思議な感覚。
51吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 17:17:59.34
>>48
素人がそんなに拘って何か意味があるの?
多くの翻訳が出版されることを喜ぶべき。
実際新訳が売れているのかなぁ…?売れなければ、出せないのだよ。
吉川氏の親戚ならホドホドに
52吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 17:28:25.86
正直高遠訳はもう打ちきりでいい。
高遠氏には出版される吉川訳のあら探しをしてほしい。
そうすれば、重刷の時に間違いがなおって万々歳だ。
無駄に翻訳の数だけ多くてもしょうがない。
53吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 17:38:28.74
なんかそのPDF見ると、吉川訳って読みにくそうだな。
新潮社版で満足してるからいいや
54吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 17:39:37.96
>>52
>無駄に翻訳の数だけ多くてもしょうがない。

あなたが決める話じゃないからなぁ(笑)
55吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 21:10:15.90
「プルースト 心の間歇」ってバレエのDVD観たけど、面白い。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲14番に合わせて、シャルリュスがモレル
のまわりを軽やかに舞ったり
サン・ルーとモレル、アルベルチーヌとアンドレのパドドゥー。
ttp://deagostini.jp/bld/backnumber.php?issue=41
ttp://www.youtube.com/watch?v=2hmpX_3w4yA&list=PLEF954337742F5F76&index=15
56吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 21:46:33.73
2012/11/21(水)
>長いこと私は早めに休むことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と
思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという想いに、はっと眼が覚める。
いまだ手にしているつもりの本は下におき、灯りを吹き消そうとする。じつは眠っているあいだも、さきに読んだことを
たえず思いめぐらしていたようで、それがいささか特殊な形をとったらしい。つまり私自身が、本に語られていた教会
とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになりかわっていたのである。(岩波文庫の吉川一義訳)

Longtemps, je me suis couché de bonne heure. Parfois, à peine ma bougie éteinte, mes yeux se fermaient si
vite que je n’avais pas le temps de me dire : « Je m’endors. » Et, une demi-heure après, la pensée qu’il
était temps de chercher le sommeil m’éveillait ; je voulais poser le volume que je croyais avoir dans les
mains et souffler ma lumière ; je n’avais pas cessé en dormant de faire des réflexions sur ce que je venais
de lire, mais ces réflexions avaient pris un tour un peu particulier ; il me semblait que j’étais moi-même
ce dont parlait l’ouvrage : une église, un quatuor, la rivalité de François Ier et de Charles-Quint.

中野知律「『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書」(1999)
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/11881/1/ronso1210300460.pdf

>ここに提示された三つのテーマは『失われた時を求めて』を支える「建築的、音楽的、
歴史的」構成法に対応する
>小説のパースペクティヴの象徴とみられる枕頭の書の三つの内容のうち、まず「教会」と
「四重奏」がプルーストの小説美学の根幹に関わるモチーフであることに異論はあるまい。
自らの小説の構成を教会建築の諸要素に例えて語った作者の言葉はよく引かれるものである
し、言語芸術の可能性について語り手の思索を促すヴァントイユの七重奏曲は、執筆の初期
の段階では「四重奏」として構想されていたものである。
57吾輩は名無しである:2013/11/21(木) 23:49:53.19
立ち読みしてきたが、吉川訳最低だった。ラノベ調w
58吾輩は名無しである:2013/11/22(金) 00:11:30.40
広がりと余韻が心地いい。そのなかで語り手のエゴイズムに心酔する。
59吾輩は名無しである:2013/11/22(金) 00:16:23.71
>>48

>大切なのはプルーストに対する真率なる愛情
>可能な限り正確で、的確な表現に支えられたプルーストを日本語で織り上げる。
>私は覚悟を決めた、先達への敬意を失わず、しかも、プルーストだけを見据え、
プルーストだけに誠実でありつつ、この全訳を続けて行こうと。



これだけでよかったのに。
60吾輩は名無しである:2013/11/22(金) 07:56:56.51
蛇足というやつですな
61吾輩は名無しである:2013/11/22(金) 22:57:14.35
2012/11/22(木)
Mme Verdurin が Odette に
「馬車で家まで送ってあげるよ。ここに一人分のスペースがあるから。M. de Forcheville
の隣にね」と言う。Swann は当然のことながら自分が Odette を家まで送り届けるつもりで
いたので、不平たらたら。

仕方なく Swann は馬車から降りて一人でふてくされて帰っていく。あとで、Mme Verdurin は
自分の旦那に対して「ほんと、M. Swann って何なのよ。変な人。あれじゃ、まるで、Odette
は自分のものだ、って言ってるようなものよ」とブツブツ言う。Mme Verdurin は Swann を
Odette から引き離そうといつも画策している。
62吾輩は名無しである:2013/11/23(土) 07:50:27.81
>>61
>44 : 吾輩は名無しである[age] 投稿日:2012/11/22(木) 09:37:32.66
>そこからさらに、原文では6ページほどあとの一節。

>Mme Verdurin が Odette に
>「馬車で家まで送ってあげるよ。ここに一人分のスペースがあるから。M. de Forcheville
>の隣にね」と言う。Swann は当然のことながら自分が Odette を家まで送り届けるつもりで
>いたので、不平たらたら。

>仕方なく Swann は馬車から降りて一人でふてくされて帰っていく。あとで、Mme Verdurin は
>自分の旦那に対して「ほんと、M. Swann って何なのよ。変な人。あれじゃ、まるで、Odette
>は自分のものだ、って言ってるようなものよ」とブツブツ言う。Mme Verdurin は Swann を
>Odette から引き離そうといつも画策している。そういう一節。

>原文は、このあとに引用するよん。

貼るならこういう風にした方がいいのでは?
63吾輩は名無しである:2013/11/23(土) 10:55:48.52
ヴェルデュラン夫人は、かつて、スワンを全く同じパターンでオデットの隣りに座らせてる。

Odette était allée s’asseoir sur un canapé de tapisserie qui était près du piano :
– Vous savez, j’ai ma petite place, dit-elle à Mme Verdurin.
Celle-ci, voyant Swann sur une chaise, le fit lever :
– Vous n’êtes pas bien là, allez donc vous mettre à côté d’Odette,
n’est-ce pas Odette, vous ferez bien une place à M. Swann ?
>すでにオデットは、ピアノのそばのタピスリーを張ったソファーに腰をおろしていた。
 そして「ほら、ここが私のお気に入りの席」とヴェルデュラン夫人に言う。
 夫人のほうは、スワンがひとりで椅子に腰かけているのに気づき、その席から立たせた。
「そこはお楽じゃございませんでしょ。さあさあ、オデットの横にいらして。いいでしょ、
オデット、スワンさんの場所をつくってさしあげて。」吉川2p63

おかげでヴァントゥイユのソナタのアンダンテ楽章の小楽節は、オデットと2人の「愛の国歌」
になってしまい、スワンはついに全曲を聴かずに、この世を去る。
64吾輩は名無しである:2013/11/23(土) 13:31:00.68
プルーストスレって、どうして長々と下らないことを書く奴と読めもしない仏文を
貼り付ける頭が変な人が集まるのかなぁw
65吾輩は名無しである:2013/11/23(土) 19:58:47.04
淡々とスルーでええんとちゃうか
66吾輩は名無しである:2013/11/23(土) 23:33:13.04
2012/11/23(金)
ポーの「大鴉」
その「大鴉」の註解を書いたマラルメの「白鳥のソネ」

アルベルチーヌにプレゼントしようとしたヨットの名前をこの詩に
ちなんで白鳥号とつけようとした。
http://yaplog.jp/raguan/archive/2670
http://langue-fr.c.u-tokyo.ac.jp/resonances/resonances03/resonances2004_note_b.pdf
http://julesverne.jpn.org/blog/index.cgi?no=32
67吾輩は名無しである:2013/11/24(日) 10:12:00.24
>>64
カウンセラーの友人に聞いたことがあるけど、
こういうのも精神疾患(およびその前段階)の一つの形態らしい。
カウンセリングの中でも結構出てくる話題だとか。
相手が病人だと思えば、あまり怒りも湧いてこなくなるんじゃないかな。
68吾輩は名無しである:2013/11/24(日) 17:35:03.70
目の前で語られるんじゃなくてネットだからスルーしやすいし
69吾輩は名無しである:2013/11/24(日) 23:32:35.05
2012/11/24(土)
文学全集版
ながいあいだ、ぼくは夜早く床に就いてきた。ときには蝋燭を消すとたちまち目がふさがり
「ああ、眠るんだな」と考える暇さえないこともあった。しかも三十分ほどすると
もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめるのだった。

現在の文庫版
長いあいだ、私は早く寝るのであった。ときには、蝋燭を消すとたちまち目がふさがり
「ああ、眠るんだな」と考える暇さえないこともあった。しかも三十分ほどすると
もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめる。

吉川訳
長いこと私は早めに休むことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、
「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、
眠らなくてはという想いに、はっと眼が覚める。
70吾輩は名無しである:2013/11/25(月) 01:13:25.77
なんか全部日本語として不自然だね
日本人の作家ならそうは書かないという表現ばかり
71吾輩は名無しである:2013/11/25(月) 02:12:05.41
「私は宵寝に慣れてきた。」が一番良さそうだ。
72吾輩は名無しである:2013/11/25(月) 03:00:52.77
>>69の文学全集、文庫は鈴木訳。

井上訳

筑摩世界文学大系・プルースト全集版
>長いあいだに、私は早くから寝るようになった。

文庫版
>長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。

この論文のような批判を受けて文庫版で直したんだろうか
http://www.meijigakuin.ac.jp/french/teachers/kudo/pdf/kudo7.pdf
73吾輩は名無しである:2013/11/25(月) 13:01:48.82
>>71
新潮訳ですね。「長いあいだ、私は宵寝になれてきた。」

過去の習慣(現在はそうでない)、ラストと照応させるため「時」という語
を使うとするとこんな感じか

長らく、宵寝に親しんできた時期があった。

「親しむ」(習慣のニュアンス)はつくだに訳から
 「私はもうかれこれ長いあいだ、宵寝に親しんで来た。」
74吾輩は名無しである:2013/11/25(月) 23:47:43.81
2008/11/25(火)
「プルーストとシーニュ」
75吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 02:42:43.46
『ジャン・サントゥイユ』ってどうですか?
読んだ人、感想聞かせてください
76吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 07:48:58.71
Longtemps, je me suis couché de bonne heure.

いつまでも冒頭の訳に拘っていたら、次に進めないよ。
冒頭位、原文で十分でしょ。暗記したわ。
77吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 07:54:03.67
冒頭だけ原文てw
78吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 10:18:54.47
>>77
だから、冒頭だけじゃねえよ。
日本語にしようと思ったらかなりのバリエーションになるじゃね。
原文で理解しろよ。それくらい出来るだろ。
79吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 10:42:45.16
>>73
原文には「親しんできた」とか「慣れて」とか「ことにしていた」とかは無いんだよね。
直訳だと「長い間、私は早めに寝た。」だし。
80吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 11:14:35.66
いきなり「長いあいだ」とすると過去から現在まで持続する行為を想起するけど
次に「早く寝る」という一回性の行為とも読める文が続くからおかしく感じるんじゃないかなぁ
81吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 12:50:49.05
>>80
早くから寝たものだ、という訳もあるからね。
ここは半過去じゃないわけだし、単なる代名動詞複合過去でしょ。
82吾輩は名無しである:2013/11/26(火) 22:36:06.98
2012/11/26(月)

>厳密に言うなら、のちにアルベルチーヌのことを考えたときのさまざまな私にも、ひとりずつべつの
名称を与えるべきだろう。それにもまして私の前にあらわれた、一度として同じであったためしのない
さまざまなアルベルチーヌにも、ひとりずつ別の名称を与えるべきだろう。それは海にも――便宜上、
私は単数で海と呼んでいるが――じつは複数の継起する海があるのと同じで、そのさまざまな海を前に、
もうひとりのニンフたるアルベルチーヌが浮かびあがったのである。だがなによりも――物語のなかで
これこれの日はどんな天気だったと示されるように、いや、それより有益に――名称を与えるべきは、
私がアルベルチーヌに会うそれぞれの日に私の心を占めて、あたりの人びとの雰囲気や外観までをつくり
あげていた確信であろう。それは、さまざまな海の外観がほとんど目に見えない雲に左右されるようなも
ので、雲が集まったり揺れ動いたり拡散したり消え去ったりするだけで、目の前のひとつひとつの色合い
が一変してしまう。吉川4p642−643頁
83吾輩は名無しである:2013/11/27(水) 23:22:23.54
2010/11/27(土)
ドレフィス事件への言及
84吾輩は名無しである:2013/11/28(木) 23:29:39.53
2012/11/28(水)
若い頃はプルーストといえば美しい言葉をつかって美しい小説を書く人だと信じていたし、それも決し
て間違いではないのであるが私は彼をかなりの偏屈者だと思う。作品中には婉曲ではあるがシニカルな
言葉が作品のあらゆるところに書かれているのはいうまでもない。が、わかりやすいのは小説にも劣ら
ず面白い評論の方である。

たしか最初に読んだのはラスキンの「胡麻と百合」の序文だと思うが、実はその時はよくわからずその
小説とも随筆ともわからない文章におどろいただけであった。その翻訳本の表紙には「ラスキン=プル
ースト」という帯がついていて、何かでかじった「プルーストはラスキン好き」というのを鵜呑みにし
た。時を経て読んではじめてこの文章はラスキンの読書論を批判していること「帯は間違い」に気づい
た。

普通、まともな人なら翻訳本の序文に批判など書かない(笑)。まして常規を逸脱して長い。
今の私は英語の苦手なプルーストがこの翻訳本の為どれだけ苦労して翻訳したか又出版にいた
ったかくらいは知っている。ここまでしたのなら、褒めとけよと思うのが普通の感覚ではなか
ろうか。しかしプルーストはいつものように婉曲ではあるが「ラスキンに反論する」である。

いうまでもなくこの原型は「サント・ブーヴに反論する」にすでに見られるものだ。先日吉川一義先生
もいっておられたとおりプルーストはあれはダメこれはヨイという言説をしない人なのである。さらに
晩年残された命を「失われた時を求めて」の完成にエネルギーをそそいでいた時「N・R・F」誌編集長
ジャック・リヴィエールの依頼に応じて「フローベールの文体について」を書くがこの偏屈ぶりも面白
い。この評論は非常に短い間に急いで書かれているためいわば彼の評論の骨格だけが残り特徴が伺いや
すい。
85吾輩は名無しである:2013/11/29(金) 23:58:21.89
205 : つくだに[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 13:01:58.87
クラシックは疎いけど、失われた時の映画化された場合、どんなサントラが合うかとかよく考える

http://www.youtube.com/watch?v=-Mzb3UwPpsk&feature=autoplay&list=PL399F66A543CB9590&playnext=1
↑これなんかけっこう合うんじゃないかなーと思う。これも同性愛がからんだ話だけど
86吾輩は名無しである:2013/11/30(土) 23:38:49.96
2011/11/30(水)
モンクリーフ訳は、アーサー・ウェイレイの源氏物語の英訳とほぼ同時代になり、
2つの長編が西洋で並べて論じられるようになったきっかけになっています
87吾輩は名無しである:2013/12/01(日) 23:12:56.24
2012/12/01(土)
「見出された時」でもトレドのサント・トメ教会にある最高傑作
「オルガス伯の埋葬」が登場します(460cm×360cmの大作)。
http://www.salvastyle.com/menu_mannierism/elgreco_orgaz.html

第1次大戦中、夜のパリの街でサイレンが鳴り、戦闘機が次々と舞い上がり、
前哨灯が敵機を照らし出す。映画「地獄の黙示録」を先取りしたようなシーンで。
実際、「ワルキューレの乙女たち」(の騎行)「黙示録」という言葉も出てくる
88吾輩は名無しである:2013/12/02(月) 07:57:36.82
過去のものを貼り付けるバカどっかへ消えろ
89蓮見:2013/12/02(月) 08:08:47.11
過去のものを張り付けて何が悪い?
90吾輩は名無しである:2013/12/02(月) 09:01:59.18
そもそも大昔に書かれた小説のスレだし…
91吾輩は名無しである:2013/12/02(月) 11:49:19.23
>過去のものを張り付けて何が悪い?

そうお前は、何が悪いのか分からん人なので説明できん(w)
92吾輩は名無しである:2013/12/02(月) 23:36:25.66
2012/12/02(日)

>いや、アルベルチーヌは私にとってけっして芸術作品などではなかった。たしかに一人の女を芸術的に愛する
とはどういうことなのか、それは私にも分かっていた――スワンを知っていたからだ。だが私には外側から物を
見る能力がまるでなく、眺めているものの正体も分からぬくらいだったから、相手の女がだれであれ、自分から
そんなことをするのは不可能だった。スワンが昔を思い出して、私にはとるに足りないように見えた女のことを
芸術的な風格を付け加えて話したりすると、私はすっかり驚嘆したものだ――たとえばスワンはかつて相手に対して
垢ぬけした態度でそうしたように、わざわざ私のために、その女をルイーニの肖像画と比べたり、相手の衣装のなかに
ジョルジョーネの絵の中にあるドレスや宝石を見つけだしたりするのである――。私にはそんなところが皆無だ。
鈴木10p286
93吾輩は名無しである:2013/12/02(月) 23:40:12.61
2011/12/02(金)
ムッシュ・ルサンチマンあるいはマドモアゼル・ルサンチマンかなw
失礼ではございますが、お嬢様の目は節穴でございますか?w
「A propos du “style” de Flaubert」について書き込める唯一の言葉が
その悪態でございますか?w

↓このへんを読むだけではプルーストのフローベールについての態度がまだわからないw
Ce n'est pas que j'aime entre tous les livres de Flaubert, ni même le style de Flaubert.
Pour des raisons qui seraient trop longues à développer ici, je crois que la métaphore
seule peut donner une sorte d'éternité au style, et il n'y a peut-être pas dans tout Flaubert
une seule belle métaphore. Bien plus, ses images sont généralement si faibles qu'elles ne
s'élèvent guère au-dessus de celles que pourraient trouver ses personnages les plus insignifiants.

鈴木訳も一応載せておくかな(一部修正)。
「私はフローベールの著作をこよなく愛しているというわけではないし、
また彼の文体さえもそう好きなわけではない。」
「ここでは長くなりすぎるので詳述できないが、いくつかの理由から、
文体に一種の永遠性を与えるのはメタファーのみであろうと私は考えている。」
「だがおそらくフローベールのどこを探しても、美しいメタファーなどは
ひとつも見つからないだろう。」
ここまではあたかもフローベールを貶しているように思えるけれど、
プルーストらしい戦略的な前置きであることが後でわかってくる。

ちなみに「A propos du “style” de Flaubert」全文PDFは↓
http://www.kufs.ac.jp/French/i_miyaza/publique/litterature/PROUST__A_Propos_du_Style_de_Flaubert.pdf
94吾輩は名無しである:2013/12/03(火) 06:20:28.40
いつまでたっても頭が変な人の遊び場にしかならないな、このスレ。
95吾輩は名無しである:2013/12/03(火) 12:06:00.61
>>94
ご丁寧にも過去スレの同一日のものを貼っているw

プルーストなんて凡人じゃ理解できないんだから、東大・京大出の
研究者に任せておけばいいんじゃね?
岩波文庫の六巻にしても、背景知識がなければ理解できないと訳者も
言っていることだし。
96吾輩は名無しである:2013/12/03(火) 23:18:19.46
2011/12/03(土)

Quand on vient de finir un livre,
1冊の書物を読み終えたとき,
non seulement on voudrait continuer à vivre avec ses personnages,
avec Mme de Beauséant, avec Frédéric Moreau,
読者はボーセアン夫人だとか,フレデリック・モローなど,いま読んだ作中人物たちと
いっしょに生き続けていたいと感じるだろうが,そればかりでなく,
mais encore notre voix intérieure qui a été disciplinée
pendant tout la durée de la lecture à suivre le rythme d'un Balzac,
読書のあいだ中ずっとバルザックやフローペールのリズムを追うことに
慣らされてきたわれわれの内心の声は,
voudrait continuer à parler comme eux.
まだこの作家たちの口調でしゃべっていたいと思うであろう。
97吾輩は名無しである:2013/12/04(水) 08:06:56.67
« Quelle buse! » pensais-je.
98吾輩は名無しである:2013/12/04(水) 22:51:48.21
2012/12/04(火)
ブルジョワジー(仏: Bourgeoisie)は、市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級をさす。
貴族や農民と区別して使われた。短くブルジョワ(仏: Bourgeois)ともいうが、これは単数形で個人を指す。20世紀の
共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられたが、この資本家階級
という意味では上層ブルジョワジーのみをさしている。しかし本来はブルジョワジーという言葉には中産階級も含まれ、
特に17〜19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層であった
99吾輩は名無しである:2013/12/05(木) 23:10:43.95
本物のスノッブのスレになってきたな
100吾輩は名無しである:2013/12/05(木) 23:33:17.75
101吾輩は名無しである:2013/12/05(木) 23:45:09.87
2012/12/05(水)

>祖母の死とアルベルチーヌの死を結びつけてみると、このころの私の生活は、
この二つの殺人によって穢されているように見えた。これを許すことができる
のは、ただこの世の卑劣さのみだろう。
Dans ces moments-là, rapprochant la mort de ma grand’mère et celle d’Albertine,
il me semblait que ma vie était souillée d’un double assassinat que seule la
lâcheté du monde pouvait me pardonner.
102吾輩は名無しである:2013/12/06(金) 08:40:46.01
2012/12/05(水)

>祖母の死とアルベルチーヌの死を結びつけてみると、このころの私の生活は、
この二つの殺人によって穢されているように見えた。これを許すことができる
のは、ただこの世の卑劣さのみだろう。
Dans ces moments-là, rapprochant la mort de ma grand’mère et celle d’Albertine,
il me semblait que ma vie était souillée d’un double assassinat que seule la
lâcheté du monde pouvait me pardonner.
103吾輩は名無しである:2013/12/06(金) 08:43:28.28
2012/12/06(木) 06:41:33.06
私はイスラーム思想に関するハードな本で、きっちり読んだのは、
井筒の「イスラーム思想史」(中公文庫)一冊きりだ。
ひじょうに勉強になった、とはいえ、
大分前から井筒のイスラーム思想史理解には、ずいぶん文句が出ているようではある。
特に印象に残っているのは、誰だったか忘れたが、(講談社現代新書も書いている)今一線のイスラーム学者がいうに、
井筒のつくった「砂漠の思想」というイメージが、いまはひじょうに固定観念的に足かせになっている、
というのだな。
その人によると、イスラームは、ほかの世界宗教同様、都市宗教・都市思想の性格が強いのであって、
「砂漠の」というようなロマンティックなイメージは、そうした当然あるべき理解をゆがめる、というのだ。
余談でした。
104吾輩は名無しである:2013/12/06(金) 23:38:04.17
2012/12/06(木)
娘になりたいという願望は女装趣味に直結しそうだが、渡邊守章の指摘のとおり女装趣味
はRTPでは前面に出てこない

>もっともプルーストの「蒐集癖」にもかかわらず、「女装」への欲望やその快楽が語られていない
のは不思議である。話者自身が「論外なケース」として、最初から排除してしまっているからだ。
カーニヴァルや仮装舞踏会という、社交界の祝祭的なトポスの不在とも、それは無関係ではないか
もしれない。(鈴木ハードカバー月報)
105吾輩は名無しである:2013/12/07(土) 03:31:58.62
なんとなくインテリ気分に浸りたいというだけの
知能の低い便所の落書きだな
何かを思考しようというのではなく
ただ誰かの言った片言をもってきて
自分を飾っている馬鹿の典型という
106吾輩は名無しである:2013/12/07(土) 12:47:36.37
ブーメランブーメランブーメランブーメラン
107吾輩は名無しである:2013/12/07(土) 13:08:14.29
>「強度のあるプルーストの文体が、ドイツ語に翻訳すると普通になってしまう」
>『やっぱり世界は文学でできている ――対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義2』

と言うのには笑ってしまった。日本語とフランス語の区切りを一致させようとしていた
バカ研究者もいたしなw
108吾輩は名無しである:2013/12/07(土) 13:35:47.61
日本語に翻訳された外国の詩を読んでああだこうだと講釈してる勘違い野郎どもに比べれば
小説や散文はまだ許容範囲内じゃねw
109吾輩は名無しである:2013/12/07(土) 17:04:03.73
>>75
読んだのはずいぶん前だから細かいことはすっかり忘れてしまったが、
文章が「失われた・・・」に比べて全く凡庸。
プルースト節(?)がまだできていない。
習作という印象を受けました。
110吾輩は名無しである:2013/12/07(土) 23:44:35.52
2012/12/07(金)

>それにしても、多くの人間がそうであるように、彼女は森のなかのあの岐路の「中心」(エトワール)では
なかろうか? そこは、われわれの人生にとってそうであるように、きわめて多数の異なる地点からやってきた
道筋が集中しているところである。井上10p600
Comme la plupart des êtres, d’ailleurs, n’était-elle pas comme sont dans les forêts les « étoiles » des carrefours où
viennent converger des routes venues, pour notre vie aussi, des points les plus différents.


「一冊の書物というのは、広大な墓地である。そこにある大部分の墓石は、名前も消え去って、
読むこともできないのだ。」
un livre est un grand cimetière où sur la plupart des tombes on ne peut plus lire les noms effacés.
111吾輩は名無しである:2013/12/08(日) 07:46:01.26
筑摩のプルースト全集買ってもいいけど、RTPの訳(1〜10巻)は要らね。
112吾輩は名無しである:2013/12/08(日) 23:10:41.84
2012/12/08(土)

>私はジルベルトが私にあゆみよるのを見た。私にとって、サン=ルーの結婚、そのときに私をとらえけさも
そのときのままに変わっていなかった思い、それらはまるできのうのことのようであった。そんな私は、いま
ジルベルトのかたわらに、一六歳ぐらいの少女を見て、びっくりした。その少女ののびた背丈は、私が見よう
とはしなかったあの時のへだたりを示しているのだった。井上10p605
113吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 01:52:56.15
平民の出であったプルーストがこうした社交界に出入りできるようになるのは容易なことではなかったが、
彼には物まねの才能があり、著名人の声や話し方を真似てみせることによって評判を取り、太鼓持ちのような形で受け入れられていった。
あるときプルーストはたまたま社交の場で真面目な意見を披露したところ場がしらけてしまい、
それ以来社交界において自分が求められているものが何であるかを悟ったという。
114吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 07:50:02.25
>母に三度目のお休みを言いに戻ってきて、すげなくあしらわれたジャンの背後で、
>小さな庭木戸はゆっくりと閉ざされた。「先生、あの子は少しさびしがっておりますので」
>とサントゥイユ夫人は息子の弁解に、シュルランド教授の方を向きながら静かに言った、
>「あの子のベッドのところまでお寝みを言いに行ってやれなかったのは今夜が初めてなんです。
>それで、とても苛々しておりますの。ほんとに敏感な質の子でして。」

『プルースト全集 11』より
115吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 11:11:51.05
他人との意見交換や議論をする気は全くない人というのは、本当に荒廃している。
116吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 12:05:15.93
>>115
そもそも意見交換できるレヴェルにある人はいないので。
だから人間よりも、本に相手にしてもらうしかない。
117吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 13:27:25.62
ぼくは自分で言うのもなんですが文学的感性が鋭くて
そのへんの文学青年や愛好家と違います
プルーストはおろかベケットやウエルベックなど
フランスの最良の文学的感性をちゃんと感受して響きあうことができます
ただ語学は苦手というか退屈なのでもっぱら翻訳本を読んでいます
プルーストについてはいま論文を書いているところで
本気でプルーストに興味がある人なら読み方のコツを伝授してあげてもいいと思ってます
118吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 14:50:30.33
>>109
レスありがとうございます
自分でも読んでみようと思って
古本を注文しました

習作だろうけど
プルーストが20代に何を書いたか読んでおきたい
119吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 19:04:57.45
>>117
プルーストの挫折や劣等感についてはどうお考えですか?
彼のマイナスの感情とどう響きあうことができていますか?
120吾輩は名無しである:2013/12/09(月) 23:41:01.03
2012/12/09(日)
"Si vous le permettez ,je vais aller vous chercher ma fille pour vousla presenter.
Je suis sûre quelle sera une gentille amie pour vous."

「もしよろしければ、今すぐここに私の娘を連れてきて、あなたにご紹介いたしますわ。
娘は、きっとあなたの素敵なお友達になると思いますわ。」
(見出された時より)
121吾輩は名無しである:2013/12/10(火) 13:11:49.11
>>120
だからそれを引用して、あんたは何を言いたいのか示せよ。
何のために貼り付けてるんだ、ボケ!

ジルベルトの娘が、主人公と何で「素敵なお友達」になれるのか
考察してみろ。
122吾輩は名無しである:2013/12/10(火) 17:57:16.62
>>121
貼り付けしか出来ない能なし>120は、あなたの問は高度すぎて
お手上げなんです。100年待っても答えはありません。
123吾輩は名無しである:2013/12/10(火) 21:39:39.29
>>122
ぼくがあなたにアドバイスするとすれば
研究書は一旦脇に置いて
たとえ拙くても自分なりに答を出していく訓練をしてみてはどうでしょうか
そうでないと面白くないでしょ?
そういう訓練に2chはちょうどいいと思いますよ
124吾輩は名無しである:2013/12/10(火) 23:13:52.39
2012/12/10(月)

>だがこのような欲望と旅との類似そのものが、私の心を決めさせた――信仰と同様に、あるいは
物理の世界における気圧と同じように、目にこそ見えないが強力な一つの力、知らない街や女など
はひどく価値ありげに見せるが、いったんそれらに近づくとそのかげからこそこそ逃げて行き、たち
まち町と女をごく卑俗なつまらない現実へと顛落させる力、そのような力の性格をいつかは多少究明
してみようと。鈴木水色9p270
125吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 12:09:18.48
>>121
なんでそんなに怒ってるの?
おれは見て、ふ〜ん去年の今日こんな書き込みがされてたんだ、って思ったよ。
それはそれでいいし、怒ることなんかじゃないと思うよ。
そうやって怒ることでかえって空気を悪くしてないかい?
126吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 12:26:26.31
>>125
お言葉ですが、単に貼り付けているジジイは理由も示さずに貼り付け行為を
繰り返しているだけ。普通、引用したいなら何らかの理由があるわけだろ?
こんな事は、個人的に過去スレみてればいいわけだ。あなたは、無意味な行為よりも
空気の方が大事なんだ。こんなこと言う暇があったらプルーストについてなにか
言ってよ。
127吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 12:55:06.86

むべやまかせをあらしといふらん
128吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 15:42:34.44
>>126
理由は説明せずに貼り付けるってのも一つの主張のかたちとしてあっていいでしょう。
それを無意味と決め付けるのはあなたの恣意でしょ。
掲示板はあなたのものじゃないから、わがままであばれるのはよせよ。
129吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 21:28:35.82
>>126さんの言ってること、確かに一理ありますね
ただ貼り付けだけではぼくもつまらないと思います
では、建設的に

ぼくは「失われた時を求めて」は金持ちや権力者を擁護するばかりで
人間の平等や社会的正義についてあまりに無頓着な小説だと思います
みなさんはどう思いますか
130吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 21:45:46.64
>>129
あなたは、まるで文学が分かってない人だと思いました。
131吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 23:12:40.46
>>130
同意。
132吾輩は名無しである:2013/12/11(水) 23:44:26.00
2011/12/11(日)

スワンが、自分がまさにオデットを「囲い者」にしていることに気がつく
シーンでギュスターブ・モロー(の「まぼろし」)がでてくる。
吉川訳だと図版つきだが(193−4頁)、高遠訳は「サロメを描いた
絵を想起させる」といって程度にさらっとふれるだけ(211頁)。

その代わり、高遠だと、ヴィクトリア、ランドーといった馬車について
見開きで図版を入れていたりする。84−5頁。
逆に乗合馬車(omunibus)については、吉川訳には図版あるが(407頁)、
高遠訳には注がない。

モローの「まぼろし」については、ユイスマンスの「さかしま」に詳細
な描写がある
http://mysticdiary.blog99.fc2.com/blog-entry-333.html
133吾輩は名無しである:2013/12/12(木) 09:46:47.62
プルーストっていえばシャルリュースの放尿感が有名だよね。
あとはカテドラルと海岸とプティットマドゥレーヌとお茶。
しかしフランス人ってあんまりお茶飲まなかったんだけどねえ。
この20年くらい、コーヒーはお茶にずいぶんおされてるみたいだけどねえ。
134吾輩は名無しである:2013/12/12(木) 12:18:30.80
>>132
Proust  Moreau  Apparitionで検索したら、こんなサイトが出てきた。
ハーバード大学の「スワン家」出版100周年の企画らしいけど面白い。
(レーナルド・アーン宛書簡に描かれたプルースト直筆の絵なんかも出てる)
http://www.proust-arts.com/moreau-apparition.html
135吾輩は名無しである:2013/12/12(木) 13:09:25.79
136吾輩は名無しである:2013/12/12(木) 13:29:11.37
岩波文庫のカバー絵もプルースト直筆じゃなかったっけ?
137吾輩は名無しである:2013/12/12(木) 21:05:07.91
2011/12/12

高遠弘美のブログ、旧仮名なんだけど、
「支那」という表現の使用も高遠の文人趣味的好みや思想的
スタンスから高遠が固執したのだと睨ん
でいる。

「中国の骨董品」は高遠訳では「支那の工藝品」になっている。
138吾輩は名無しである:2013/12/13(金) 22:52:21.83
2006/12/13(水)

「失われた〜」はあんだけ長い文章なんだから、
読みたい人はどこから読んでもいいと思っている。
おいしいケーキや、コーヒーや紅茶でもたしなみながら、
いい気分で読んで行くには最適な小説だと思うな。
139吾輩は名無しである:2013/12/14(土) 21:21:03.36
2010/12/14(火)

毎日新聞 今週の本棚:2010年「この3冊」
◇鹿島茂(明治大教授・仏文学)
<1>『マラルメ全集 1 詩・イジチュール』=マラルメ著、松室三郎・菅野昭正・清水徹・阿部良雄・渡辺守章訳
<2>『失われた時を求めて 1 スワン家のほうへ 1』=プルースト著、吉川一義訳
<3>『ユイスマンスとオカルティズム』=大野英士著
二〇一〇年は戦後の仏文学研究の総決算の年だったのかもしれない。
仏文学における最高峰であるマラルメとプルーストの主著がこれ以上は望みえない日本語となって出版されたからである。
もしフランス語と日本語を完璧に解する人がいたとするなら、この二つの翻訳においてマラルメとプルーストは世界最高水準で理解されたばかりか、最高の日本語に訳されたと認めざるをえないだろう。
『ユイスマンスとオカルティズム』は新世代の仏文研究のレベルの高さを示す好例。
しかし、喜んでばかりはいられない。というのも、仏文研究はどう見ても、これがピークで、あとは下り坂となるほかないからだ。
原因は仏語学習者の減少で、裾野がこう細ってはかつての隆盛は望みえまい。
そして、この傾向は日本全体を象徴しているのではないか? 杞憂(きゆう)であることを望みたい。
140吾輩は名無しである:2013/12/14(土) 21:39:50.43
てす
<139
<139
141吾輩は名無しである:2013/12/15(日) 08:36:22.33
何のテストだよ
142吾輩は名無しである:2013/12/15(日) 21:27:54.04
2012/12/15(土)

>ところで私はいま昔のヴェルデュラン夫人の邸で、サン=ルー嬢に紹介されようとしているのだった。
そのサン=ルー嬢にアルベルチーヌの代役をつとめてくれるよう頼んでみようと考えながら、私はその
アルベルチーヌと二人で何度もヴェルデュラン夫人のところへ行くために、ドヴィルの方で小さな軽便
(トラム)に乗ったことを、うっとりと思いだしていた。鈴木ハード13p202−3
Avec quel charme je repensais à tous nos voyages avec Albertine – dont j’allais demander à Mlle de
Saint-Loup d’être un succédané – dans le petit tram, vers Doville, pour aller chez Mme Verdurin,

>無色でとらえることのできない時、それをいわば私がこの目で見たり、それにふれたりできるようにと、
時は少女の姿で自分を実現し、一つの傑作のように彼女を作りあげたのである。一方それと並行して私に
対しては、ああ! 時はただその仕事を果たしたにすぎなかったのだ。
Le temps incolore et insaisissable s’était, afin que, pour ainsi dire, je puisse le voir et le toucher, matérialisé en elle
et l’avait pétrie comme un chef-d’oeuvre, tandis que parallèlement sur moi, hélas ! il n’avait fait que son oeuvre.
「囚われの女」三度目の一日、ひとり窓辺で聞く行商の呼び声や電車の警笛 鈴木ハード9p214−215

>初めあたりはしんとしており、臓物料理(トリップ)を売る呼び子と電車の警笛が沈黙を破って、
まるででたらめな調律師のようにちがったオクターヴで空気を振動させた。やがて交錯するモチーフ
が少しずつ聴き取れるようになり、さらに新たなモチーフが加わった。
Il y eut d’abord un silence, où le sifflet du marchand de tripes et la corne du tramway firent résonner
l’air à des octaves différentes, comme un accordeur de piano aveugle. Puis peu à peu devinrent distincts les
motifs entre-croisés auxquels de nouveaux s’ajoutaient.
143吾輩は名無しである:2013/12/15(日) 21:30:02.85
2012/12/15(土)

われわれがくらがりのなかで生きているこの人生があかるみに出され、われわれがたえずまちがって
ゆがめられているこの人生がありのままの真実に連れもどされる、要するに、この人生が一つの書物の
なかで現実化される、そういうことが可能であるように私に思われるいまこそ、なんとますます人生は
生きるに値すると思われることだろう! そのような書物を書くことができるなら、その人はなんと幸福
であろう、と私は考えるのであった、そしてその人はなんとつらい仕事をかかえることになるだろう!
(井上文庫10p606−607)

人が暗黒のなかで送っている人生も光で照らしだすことができ、人がたえずゆがめている人生もその
真の姿に引き戻すことができる。つまりは一冊の書物のなかにそれを実現することができる。そんな
ふうに見えるようになった今、どんなにかこの人生は私にとって、いっそう生きるに値するように思われ
はじめたことだろう。そのような書物を書ける人は、どんなに幸せ者だろうか!と私は考えた。またその
人の前方には、どんなにつらい仕事が横たわっていることだろう!(鈴木ハード13p205)

Combien me le semblait-elle davantage, maintenant qu’elle me semblait pouvoir être éclaircie,
elle qu’on vit dans les ténèbres ; ramenée au vrai de ce qu’elle était, elle qu’on fausse sans cesse,
en somme réalisée dans un livre. Que celui qui pourrait écrire un tel livre serait heureux, pensais-je ;
quel labeur devant lui !  
144吾輩は名無しである:2013/12/16(月) 00:08:09.84
鈴木訳最終巻「あとがき」を反論風に使ってみた。

>>95>プルーストなんて凡人じゃ理解できないんだから、東大・京大出の研究者に任せてお
>けばいいんじゃね?
>岩波文庫の六巻にしても、背景知識がなければ理解できないと訳者も言っていることだし。

『見出された時』のなかで語り手は自分の本を読む人たちについて、「彼らは私の読者では
なくて、自分自身のことを読む読者だ」と繰り返し語っている。これはまた作者プルース
トが想定する『失われた時を求めて』の読者の姿でもあっただろう。そこからも容易にう
かがえるように、本来この小説はひと握りの研究者のためのものでも、閉鎖的で高踏的な
文学論のためのものでもなくて、自分自身を振り返るすべての読者に開かれているはずだ
った。

>>138
>「失われた〜」はあんだけ長い文章なんだから、読みたい人はどこから読んでもいい

作品の進行につれて、とてつもなく離れた挿話が互いにひびきあい、結びついて、徐々に
全体が伽藍のように構築されてゆくのを感じるのは、プルーストを読む醍醐味と言っても
よい。よくプルーストの小説はどこを開くのも自由であり、どの断章を読んでも面白いと
言われるが、この面白さも全体の構造を知らなければ半減して、一種の文学的スノビズム
による自己満足に陥りかねないだろう。
145吾輩は名無しである:2013/12/16(月) 08:15:37.26
>>144
>『見出された時』のなかで語り手は自分の本を読む人たちについて、「彼らは私の読者では
なくて、自分自身のことを読む読者だ」と繰り返し語っている。

>>95はわたしが書いたものですが、確かに普遍的なことをプルーストは目指そうとした
(実際にそうなっている)のかも知れませんが、作品には膨大な量の文学・絵画・音楽
が引用されていて、それを調べるのは一般人では無理です。繰り返しになりますが、
登場人物の会話に含まれているものが何に関係するかがわからないと、作品が理解できないと
訳者も言っているように、普遍的なものは読み取れるけど現実には知識がなければ歯が立たない。
ここにはフランス語の原文も知らない人がいますし、言葉にしても当時の辞典を参照しなければ
なりません。
以前はプチ研究者みたいな人がいて、その人がこのスレの宿主みたいな感じだったのですが、
寄生虫が宿主を殺してしまい、私みたいな恩恵を受けていたものが迷惑しています。
146吾輩は名無しである:2013/12/16(月) 21:28:59.78
2chで世迷言を書いてるアホがとうとう出たw
147吾輩は名無しである:2013/12/16(月) 22:38:40.17
2012/12/16(日)

...dans une posture trop différente de celle où il dort habituellement,
il suffit de son bras soulevé pour arrêter et faire reculer le soleil,...

>普段寝ているのとずいぶん違う格好で眠りに落ちたりすると、片腕を持ち上げている
だけで太陽の歩みを止め、後退させることさえできるので....

(スワン家の方へT p29 吉川訳 岩波文庫)

太陽を後退させるというのは、旧約聖書からの引用だったかな。

「太陽を後退させる」というところ。正確にいうと、「日影を10度だけ後退させる」


該当箇所

8 Hezekiah had asked Isaiah, “What will be the sign that the Lord will heal me and
that I will go up to the temple of the Lord on the third day from now?”

9 Isaiah answered, “This is the Lord’s sign to you that the Lord will do what he
has promised: Shall the shadow go forward ten steps, or shall it go back ten steps?”

10 “It is a simple matter for the shadow to go forward ten steps,” said
Hezekiah. “Rather, have it go back ten steps.”

11 Then the prophet Isaiah called on the Lord, and the Lord made the shadow
go back the ten steps it had gone down on the stairway of Ahaz.

http://www.biblegateway.com/passage/?search=2%20kings%2020:8-11&version=NIV
148吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 12:50:36.00
>>146
まだ居たんだ落ちこぼれ研究者w
149吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 12:52:26.17
>>147
他人のレスを了解も得ないで勝手に貼るなよ。
これがお前の自己表現かw
150吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 18:43:20.29
>>148
>まだ居たんだ落ちこぼれ研究者w

ホモハゲGの提灯持ちさんか?
能無しは相も変わらずだなw
151吾輩は名無しである:2013/12/17(火) 22:01:48.30
03/12/17

フランスのイリエ=コンブレー(シャルトル南西)には「プルーストのマドレーヌと紅茶」
といった土産物が売っているそうです。
152吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 07:41:41.64
>>150
>ホモハゲGの提灯持ちさんか?

提灯持ちって歳いくつだよ。
死語だろw
153吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 10:29:31.72
G=ヒッキー・ニート=生活保護不正受給木村朋史=木村トミー=クラブシャレトミー=ランキング予想屋

こっちのスレで予想屋が全く同じパターンで荒らしてる
http://kilauea.bbspink.com/test/read.cgi/nuki/1356407978/

こっちのスレではずっと独りで連投してる
The Dynasty SMAG La Familia (2012 -  )
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10128/1356744994/
154吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 11:54:43.65
>>153
鈴木まで出て来たw
これで粘着の変種を含めると、キモネンは3人になったな。
155吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 12:03:42.99
>>154
違うな。お前だけだよw
156吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 12:44:02.07
少ないサンプルで恐縮だけど、人の使った言葉に対して「死語だろ」って言う人に若者はいない気がする
中年以上の人ばっかりだ、自分も含めて…
157吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 13:21:45.60
プルーストが好きで真面目に読んでる若いヤツが
こんな糞スレに目を留めるわきゃないだろw
158吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 15:34:06.57
Gはどこへいったの?
159吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 23:43:16.28
2012/12/18(火)

>そしてまた笑った。けれどもガラルドン夫人は、ますますそり返って表情を冷たくしながら、
しかもやはり大公の健康を気にしているといった様子で、従妹に言うのだった。
「オリヤーヌ(こう言われたときレ・ローム大公夫人は、驚きと笑いの表情を浮かべて、目に
見えない第三者の方を眺め、その第三者に向かって、自分が一度もガラルドン夫人に苗字なし
の名前だけで呼ぶことを許可したわけでないと、しきりに証明したがっているように見えた)、
明日の晩ちょっとわたしのところへ寄っていただきたいの。モーツァルトのクラリネット五重奏
をお聞かせするわ。あなたがどう思うか、知りたいのよ」
 彼女は相手を招待するというよりも、何か用事を頼んでいるように見えた。また、モーツァルト
の五重奏が、新しい料理人の作った料理の一つであるかのように、そしてこの料理人の腕について
食通の人(グルメ)の意見を聴くのは貴重なことであるとでも言わんばかりに、この五重奏について
の大公夫人の考えを必要としているように見えた。
「でも、その五重奏なら知っています。すぐにでも言えましてよ……大好きですよって!」
(鈴木ハード2「スワンの恋」p269)
160吾輩は名無しである:2013/12/18(水) 23:44:55.26
2012/12/18(火)

>彼女は若いころに、くねくねと途方もなく長くのびた首のようなショパンの楽節を愛撫することを
覚えたのである。その楽節は実に自由な、実にしなやかな、手に快くふれるようなもので、出発のとき
の方向とはまるではずれた、もっとずっと遠いところ、とうていこれが届くとは人の予想していなかった
ようなはるかな地点に、まず自分の場所を求め、その場所を試してみようとするのであるが、しかしこの
ように遠い幻想の地にたわむれるのも、結局は前にもまして周到なやり方で戻ってきて、人の心を感動させ
るためにほかならないのであった――まるであらかじめ狙い定めてぴたちとクリスタルの上に舞い戻り、それ
が冴えた響きを発して、思わず感嘆の声を上げさせるように。鈴木2p266

>そのあいだにピアニストは弾く手をいっそう速め、音楽の感動は頂点に達した。
Cependant le pianiste redoublant de vitesse, l’émotion musicale était à son comble

>ただし彼女の不安の対象は、ピアニストではなくてピアノであった。その上におかれた蝋燭がフォルティシモの
たびにぐらぐらして、笠に火がついてはしまわないまでも、紫檀に危く染みがつきそうだったからだ。
mais la sienne avait pour objet, au lieu du pianiste, le piano sur lequel une bougie tressautant à chaque
fortissimo risquait, sinon de mettre le feu à l’abat-jour, du moins de faire des taches sur le palissandre.

>しかし彼女の手がそれにふれようとした瞬間に、最後の和音とともに曲は終わり、ピアニストは立ちあがった。
Mais à peine ses mains allaient-elles la toucher que, sur un dernier accord, le morceau finit et le pianiste se leva.

井上奈緒美『プルーストとショパン: 「霊媒的なるものの方」へ』(2003)
http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/4567/1/20012-344-003.pdf
161吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 07:41:58.44
ずっといる貼り付けバカは何を言いたいのか?
バカだから理由などなくやりたいことをやってる池沼なんだろうか
こんなバカは他のスレでもいるのか知ってる人がいたら教えて欲しい
162吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 08:26:47.75
貼り付け人を罵倒する書き込みしかしない、それのみを生きがいとして
いるはた迷惑なバカは他のどんなスレにも、まあ、いないでしょね(笑
163吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 19:14:25.09
>>162
貼り付けバカ以上のバカが出てきたw
164イラストに騙された名無しさん:2013/12/19(木) 22:39:10.52
2012/12/19(水)

鈴木文庫「逃げ去る女」p243−244
>このように私たちの記憶の最良の部分は私たちの外部にある。それは雨もよいの風や、ある部屋のかびくさい臭いや、ぱっと
燃え上がったときの焔の臭いのなかに存在しているのであり、私たち自身のなかで知性が無視した部分、過去のなかから最後まで
とっておいたもの、最良のもの、すべての涙が涸れ尽きたと思われるときもなお私たちに涙を流させるもののなかに存在している
のだ。
 私たちの外部にあるのか? いやむしろ結局は同じことだから、お好みなら内部にと言ってもよい。だが私たち自身の視線から
姿を隠して忘却のなかにある。ただこの忘却のおかげでのみ、私たちはときおり過去の自分の存在を見出し、その存在が直面した
ものの前に自分を位置づけて、かつて愛していたもの、今はどうでもよくなったもののために、苦しむことができるようになる。
それというのも私たちはもう今の自分ではなくて過去の存在になるからだ。

ロベール・プルースト、ジャック・リヴィエールが編集した15分冊版では重複するとして削られているみたい。

>だからこそ記憶の最良の部分は私たちの外部にあるのであり、雨もよいの風や、ある部屋のかびくさい臭いや、
ぱっと燃え上がったときの焔のにおいのなかに存在しているのであり、私たち自身のなかで知性が使い道も分からずに
無視してしまった部分、過去のなかから最後までとっておいたもの、最良のもの、すべての涙が涸れ尽きたと思われる
ときもなお私たちに涙を流させるもの、そうしたものを見出すことのできる至るところに最良の記憶は存在しているのである。
私たちの外部にあるのか? いやむしろ内部に、だが私たち自身の視線から姿を隠して、多かれ少なかれ長びいた忘却のなか
にあるのだ。ただこの忘却のおかげでこそ、私たちはときおり過去の自分の存在を見出し、その存在が直面したものの
前に自分を位置づけて、ふたたび苦しむことができるようになる。それというのも私たちはそのときもう私たちでなくてその存在
だからであり、それは今の私たちにとってどうでもよいものを愛していたからだ。
(鈴木ハード「花咲く乙女たちのかげに1」p384−385。文庫だとp456−458あたり)
165吾輩は名無しである:2013/12/19(木) 23:07:37.46
出版100周年記念の稼ぎ時にコピペ貼りである
166吾輩は名無しである:2013/12/20(金) 08:17:37.56
「コピペ貼り」はないであろう。
167吾輩は名無しである:2013/12/20(金) 21:09:17.47
2ch的表現だわな
168吾輩は名無しである:2013/12/20(金) 22:50:05.24
2012/12/20(木)

>不意に一つの思い出の結晶することがあった。もうずっと前からその思い出に再会する
ことがなかったのは、それが私の記憶の目に見えない広大な流れのなかに溶けこんでいた
からだ。たとえば数年前にバスローブの話をしていたとき、アルベルチーヌが顔を赤らめ
たことがあった。
(鈴木文庫「逃げ去る女」p163)

>想像力というものは、初歩的でどこまでも単純に構成されている(人間の発明は、晴雨計
であれ、気球であれ、電話であれ、そのほかなんであれ、もとの形に改良を加えて、後には
原形が認められないくらいに完成されるが、想像力はそのような無数の変貌を経てこなかっ
たからだ)。だから想像力は一度にごくわずかなものしか見ることを許さないので、あの
シャワー室の思い出は、私の内心のヴィジョンの全領域を占めるようになった。

Tout d’un coup c’était un souvenir que je n’avais pas revu depuis bien
longtemps – car il était resté dissous dans la fluide et invisible étendue
de ma mémoire – qui se cristallisait. Ainsi il y avait plusieurs années,
comme on parlait de son peignoir de douche, Albertine avait rougi.

Comme la constitution de l’imagination, restée rudimentaire, simpliste
(n’ayant pas passé par les innombrables transformations qui remédient
aux modèles primitifs des inventions humaines, à peine reconnaissables,
qu’il s’agisse de baromètre, de ballon, de téléphone, etc., dans leurs
perfectionnements ultérieurs), ne nous permet de voir que fort peu de
choses à la fois, le souvenir de l’établissement de douches occupait tout
le champ de ma vision intérieure.
169吾輩は名無しである:2013/12/21(土) 14:42:57.51
集英社の箱入り本、装丁が美しいね
文庫化されてるけど、箱入りの方を古書で買って読み始めました
170吾輩は名無しである:2013/12/21(土) 22:29:07.49
2010/12/21(火)

凍てつく寒さのときに味わう楽しみは、
外界とすっかり遮断されていると感じるところにある。

「スワン家のほうへ」より・吉川一義訳。

「われわれが過去を想いうかべようとしても無駄で、
知性はいくら努力しても無力なのだ。」吉川一義訳

2012/12/21(金)

>このように変化に乏しく、結果の出ない行動を絶えずしなくてはならない
というのは、スワンにとってあまりに残酷なことだったので、ある日、腹部の
しこりに気づいた時は、腹の底から湧き上がる喜びを感じた。...これは命に
関わる腫瘍で、今後は余事にかまける必要はなく、遠からぬ最後の瞬間まで、
この病気に支配され、この病気の言うがままになるほかないと考えたのである。
(スワンの恋 古典新訳文庫 p324)
171吾輩は名無しである:2013/12/21(土) 22:52:27.08
でもプルーストのあの長々しい物語は過去を、既にもうその行く末を知る者が
まだこれから起こることを知らぬ者の目で描こうとして奮闘した軌跡のように思えるなぁ
172吾輩は名無しである:2013/12/22(日) 00:35:03.07
んなこたあない
奮闘などしない
173名無しは無慈悲な夜の女王:2013/12/22(日) 23:35:10.94
2012/12/22(土)

>私がバルベックでアルベルチーヌを眺めながら、目の感覚にほんの少しずつ、味や匂い
や触覚をつけ加えはじめたのは、はるかに以前のことだった。それ以来、もっと深く、
もっと甘く、もっとあやふやな感覚がそれにつけ加わった。ついで、苦しい感覚が。
要するにアルベルチーヌは、石のまわりに雪が降り積もるように、私の心の図面を通して
巨大な建築物を生み出す中心にすぎなかった。鈴木文庫「逃げ去る女」p55

Le temps était loin où j’avais bien petitement commencé à Balbec par ajouter aux
sensations visuelles quand je regardais Albertine, des sensations de saveur, d’odeur, de
toucher. Depuis, des sensations plus profondes, plus douces, plus indéfinissables s’y
étaient ajoutées, puis des sensations douloureuses. Bref Albertine n’était, comme une
pierre autour de laquelle il a neigé, que le centre générateur d’une immense
construction qui passait par le plan de mon coeur.

吉川「花咲く乙女たちのかげにU」p229−230
>そもそもわれわれの注意はつねに自己を特徴づけているものに向けられていて、他人の
特徴について何よりもそうした特徴に目が向けられる。近視の男は、べつの近視の男につ
いて「だってあの男は、ほとんど目を開けられないぐらいですよ」と言う。肺病患者は、
どれほど頑健な人の健全な肺にも疑念を差し挟まずにはいられない。不潔な男は、他人が
風呂に入らないことばかり口にする。体臭の強い人は、人は嫌な臭いがするものだと言い
張る。寝取られた亭主は、いたるところに寝取られ亭主を見る。身持の悪い女は、どこに
でも身持の悪い女がいると言う。スノッブは、どこにでもスノッブがいると言う始末であ
る。
174吾輩は名無しである:2013/12/23(月) 22:57:32.22
2012/12/23(日)

M. Blochの母方の金持ちの大叔父、大法螺吹きのM. Nissim Bernard の名前の発音。

吉川 ニッシム・ベルナール
鈴木 ニシム・ベルナール
井上 ニッサン・ベルナール
新潮 ニッサン・ベルナール

>眠るにはさらに場違いな、ふだんとかけ離れた姿勢、たとえば夕食後の肘掛け椅子に座ったままでうと
うとしたりすると、その場合、大混乱は必至で、すべての世界が軌道を外れ、肘掛け椅子は魔法の椅子と
なって眠る人を猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐらせるから、まぶたを開けるときには、数か月
前の、べつの土地で横になっていると思うかもしれない。

>ベッドで寝ていても、眠りが深くなり、精神が完全に弛緩すると、それだけで精神は寝入った場所の地
図を手放してしまう。すると夜のただなかに目覚めたとき、自分がどこにいるのかわからないので、最初
の一瞬、私には自分がだれなのかさえわからない。私は、動物の内部にも微かに揺らめいている存在感を
ごく原初の単純なかたちで感じるだけで、穴居時代の人よりも無一物である。しかしそのときの想い出が
――私が実際にいる場所の想い出ではなく、私がかつて住んだことがあり、そこにいる可能性があるいくつ
かの場所の想い出が――まるで天の救いのようにやって来て、ひとりでは脱出できない虚無から私を救い出
してくれるのだ。かくして私は、何世紀にもわたる文明の歴史を一瞬のうちに飛びこえるのだが、すると、
ぼんやりとかいま見た石油ランプや、つぎにあらわれた折り襟のシャツなどのイメージが、すこしずつ私
の自我に固有の特徴を再構成してくれるのである。

>われわれのまわりに存在する事物が不動の状態にあるのは、それがそれであって他のものではないとい
うわれわれの確信のなせる業(わざ)であり、つまり、それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性
が、それを不動の状態に置いているのかもしれない。とはいえ私がこのように目覚めるとき、わが精神は
私がどこにいるかを知ろうと必死にあがくけれど徒労におわり、すべてが、事物が、土地が、歳月が、ま
わりの暗闇のなかをぐるぐると旋回する。
175吾輩は名無しである:2013/12/24(火) 14:30:47.57
『ムッシュー・プルースト』って皆さん的にはどうですか?
絶版なんだよな
176吾輩は名無しである:2013/12/24(火) 22:44:01.64
2012/12/24(月)

>このような想起のうずまく混沌とした状態は、きまって数秒しかつづかなかった。多くの場合、いっとき
自分のいる場所が不確かなので、その元凶であるさまざまな推測のひとつひとつも区別できなかった。それは
キネトスコープなる映写器で馬が走るのを見ても、つぎつぎと提示されるコマをひとつずつ取り出せないのと
同じである。吉川1p33

>渦を巻いて錯綜するこういった思い出は、きまって数秒しかつづかない。そのときよく私は、
ちょっとのあいだ自分の居場所が不確かになり、さまざまな想定を互いに区別することもできずに
あやふやになってしまう――ちょうど本物の馬が走るのを見るときには、映写機(キネトスコープ)
が次々と映し出す馬の位置をばらばらに切り離すことができないように。鈴木文庫1p37

>渦を巻いて錯綜するこういった思い出は、かならず数秒で消えるけれども、そのときよく私は、
ちょっとのあいだ自分の居場所があいまいになり、そのあやふやな状態を作りだすさまざまな想定を
互いに区別することもできなくなってしまう――ちょうど本物の馬が走るのを見るときには、映写機
が次々と映し出す馬の位置をばらばらに切り離すことができないように。鈴木ハード1p27

Ces évocations tournoyantes et confuses ne duraient jamais que quelques secondes ; souvent, ma brève
incertitude du lieu où je me trouvais ne distinguait pas mieux les unes des autres les diverses suppositions
dont elle était faite, que nous n’isolons, en voyant un cheval courir, les positions successives que nous
montre le kinétoscope.
177吾輩は名無しである:2013/12/24(火) 22:46:24.11
2012/12/24(月)

>私がひどく悲しげな顔をしている夕べには、気晴らしに幻灯を見せるという手が考えてあり、家族の者は夕食の時刻を
待ちながら、幻灯で私のランプを覆ってしまう。すると幻灯は、ゴシック様式時代の最初の建築家やステンドグラス工の
ひそみにならい、不透明な壁のかわりに、触れることのできない虹色の輝き、超自然の多彩色のまぼろしを配置する。そこに
伝説が描き出されてゆくさまは、揺らめいては消え去るステンドグラスを想わせる。ところが私の悲しみは募るばかりで、
というのも就寝の責め苦はべつにして、習慣のおかげで耐えられるものとなっていた私の部屋が、照明が変わるだけで破壊されて
しまうからである。いまやこれが自分の寝室とは思えず、不安な想いに駆られた私は、まるで汽車から降りてホテルや「山荘」の
部屋にはじめて着いたときの気分になるのだ。吉川1p36−37

>夕方、あまり悲しそうにしているのを見かねた家の者は、気分を晴らすために幻燈を見せることを考えついて、
夕食の時間が来るまでのあいだ、それを私のランプの上にかぶせてくれた。すると、ゴシック期の最初の建築家や
焼絵ガラスの巨匠のように、幻燈は暗い壁を、手で触れることのできない虹の色や、さまざまな色をした超自然の
幻に変えてしまい、そこには伝説の物語が、まるでちらちらと揺れて一瞬に消えてゆくステンドグラスのように描き
出されるのであった。しかし悲しみは、そのためにますます大きくなるばかりである。というのも、部屋にすっかり
なじんだおかげで、寝るときの責苦を除けば、私には自分の部屋がなんとか耐えられるものになっていたのであるが、
ただ照明を変えただけでも身についたその習慣は破壊されてしまうからである。今はもうそれが自分の部屋だとも思われず、
汽車から降りてはじめて到着したホテルか「山荘」の一室のように、気持が落ち着かなくなるのだった。鈴木水色1CSp30
178吾輩は名無しである:2013/12/24(火) 23:02:21.35
アスペの貼り付けはまだ続いてるのか
179吾輩は名無しである:2013/12/25(水) 22:31:03.11
2012/12/25(火)

>夢はやはり私にとって、常にきわめて印象的な人生の出来事であり、現実が純粋に精神的
なものであることを悟るのに大いに役立ったものの一つだった。私は今後作品を書くうえで、
けっして夢の助けをおろそかにはしないだろう。
Le rêve était encore un de ces faits de ma vie qui m’avait toujours le plus frappé, qui avait
dû le plus servir à me convaincre du caractère purement mental de la réalité, et dont je ne
dédaignerais pas l’aide dans la composition de mon oeuvre.

>私は考えた、夢はときとしてこんなふうに、さまざまな真実や印象を私にもたらしてくれ
るだろうが、その真実や印象は、私の努力だけではあらわれず、また自然に起こる偶然の出
会いによっても示されはしないものなのだ、と。また私は、夢がある種の存在しないものに
対する欲望や愛惜の念を心に呼びさますであろうし、それは仕事をしたり、習慣から身を引
き離したり、具体的なものから自由になるための条件なのだと考えた。ときには詩女神(ミ
ューズ)にとってかわることもあるこの第二の詩女神(ミューズ)、この夜の詩女神(ミュ
ーズ)を、私はけっして軽んじはしないだろう。

Je pensai qu’ils viendraient quelquefois rapprocher ainsi de moi des vérités, des
impressions, que mon effort seul, ou même les rencontres de la nature ne me
présentaient pas ; qu’ils réveilleraient en moi du désir, du regret de certaines choses
inexistantes, ce qui est la condition pour travailler, pour s’abstraire de l’habitude, pour se
détacher du concret. Je ne dédaignerais pas cette seconde muse, cette muse nocturne qui
suppléerait parfois à l’autre.
180吾輩は名無しである:2013/12/26(木) 21:23:16.64
2012/12/26(水)

「失われた時を求めて」にはla tomate n° 1とla tomate n°2 という双子の兄弟が登場する。
まるで首にトマトを載せているように頬が真っ赤だからこのあだ名がついた。
(鈴木訳「ソドムとゴモラU」の冒頭)

La tomate n°2 se plaisait avec frénésie à faire exclusivement les délices des dames,
la tomate n° 1 ne détestait pas condescendre aux goûts de certains messieurs.

トマト1号はバイでM. Nissim Bernard の愛人をしていたことがあるが、ベルナールは、間違
えて純粋ヘテロの2号をデートに誘ってしまい、2号にこっぴどくぶん殴られ、目の一方を
腫れ上がらせる。
ベルナールはそれ以来、食べるトマトも連想で嫌いになってしまうというエピソード。
181吾輩は名無しである:2013/12/27(金) 23:43:07.08
2005/12/27(火)

失われた時を求めて、って、
記憶の糸を手繰って、とは、
ちょっとだけ違う。
その違いが大きいみたい。
182吾輩は名無しである:2013/12/28(土) 23:54:58.07
2012/12/28(金)

>それは私たちの生だ。そしてまた他人の生でもある。なぜなら作家にとって
の文体は画家にとっての色彩と同じで、技術でなく視覚(ヴィジョン)の問題
だからだ。文体はこの世界が私たちの前にあらわれる仕方の質的な違いを明ら
かにするもので、直接の意識的な方法ではそれが不可能であり、もし芸術がな
かったとしたら、その違いは各人にとって永遠の秘密になるところだろう。

>物質や経験や言葉に下に、何か別のものを見つけようとするこの芸術家の
仕事は、私たちが自分自身から顔をそむけて生活しているときに、自尊心や
情熱や知性や習慣が絶えず私たちの内部で遂行する仕事とは正反対のものだ
――そうしたものはそのとき、私たちから真の印象を完全に覆い隠すために、
その印象の上にもっともらしい命名や実用的な目的を積み重ね、それを私た
ちは誤って生と呼んでいるのである――。要するに、このきわめて複雑な芸
術こそ、まさに唯一の生きた芸術なのだ。ただこの芸術のみが私たちの固有
の生を、この「観察」されることのない生を、他人のために表現するととも
に、私たち自身にも見せてくれる。その生の観察できる外観は、翻訳されね
ばならず、しばしばこれを逆さまに読んで、苦労しながら判読しなければな
らない。私たちの自尊心、情熱、模倣の精神、抽象的知性、習慣などが行な
った仕事は、芸術によって解体されるだろう。芸術は私たちを逆方向に歩ま
せ、深いところに戻らせるだろう。そこには現実に存在したものが、私たち
には知られずに横たわっているのである。
183吾輩は名無しである:2013/12/29(日) 23:45:25.71
2012/12/29(土)

堀辰雄全集第3巻405頁
>そういうこの世ならぬ色合(ニュアンス)のせいか、私にはそのアスパラガスが、何だか
或る微妙な生物が面白半分にそんな野菜に変身しているような気がし、そしてその変装(
食べようと思えば食べられる、硬い肉の)ごしにまるで曙の生れようとしているような
色合、あの虹の下描きのような色合、青味を帯びた夕暮れの消えんとしているような色合
となって、その風変りなエッセンスが――それを晩飯に食べた暁は、夜中ずっと、シェク
スピアの夢幻劇(フェアリイ)みたいな詩的でばかばかしい笑劇(ファース)でも演ぜら
れているかのように、私の尿瓶を香水瓶に変えてしまうところの、それほど風変わりな
エッセンスが、そのうちに認められるように私には思われた。

吉川「スワン家のほうへT」p269
>しかし私がうっとりしたのは、アスパラガスを目(ま)のあたりにしたときである。それ
はウルトラマリンとピンクに染まり、穂は、丹念に細かいタッチの薄紫と紺碧で描かれ、
気づかないうちに色がぼかされて根元にいたるのだが――根元はまだ植わっていたときの
土で汚れている――、それはひとえにこの世のものとは思えない虹色の輝きの効果である。
私には、天上を想わせるこの微妙な色合いに、じつに魅力的な女たちが隠れているような
気がした。ふざけて野菜に変身しているが、食べて歯ごたえのある身に変装したところに、
曙の色合いが生まれ、最初の虹が素描され、青い夜は消滅し、その貴重なエッセンスが
垣間みえる。夕食にそれを食べたあともなおそのエッセンスが認められたのは、それが
一晩じゅう、シェイクスピアの夢幻劇のように詩的かつ下品ないたずらをして、私の溲瓶
(しびん)を香水瓶に変えてしまうときである。
184吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 02:11:39.82
koboストアから失なわれた時を求めての高遠訳が出てるね。
結局、新訳は両方買うことになりそうだ。
185吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 02:41:34.63
やはりプルーストはフランス語の美しさを味わうものだろう
186吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 11:09:37.34
年内に貼り付け基地外さんが消えてくれることを切に願うw
187吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 11:10:13.99
プルーストてゆとり世代以下のガキには受けないんだろうな
って思いながら読んでる。
実際俺のクラスでは全然失われた時を求めてなんて良くないって意見多かったし。
と、ここまで読んで俺の年齢は?と思ったあなたは御明察。
要するに、中学生でもプルーストのよさわかる人間はいるってことで。
188吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 11:54:00.02
おもしろいな
189吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 12:28:03.03
少なからぬクラスメイトが読んでみたことが
あるってだけでその学校凄いんじゃ。
190吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 12:56:10.04
失われた未来を求めてというエロゲが三年ほど前に発売されたからそれと勘違いしてるんじゃないか?
キャラクターデザインが深崎暮人だったからそこそこ売れたと思う
191吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 14:48:48.95
>>183
アスパラガスを食べたあとの尿の臭いの違いを嗅ぎ分けられる人は
5人に1人らしい。
ttp://gigazine.net/news/20101230_asparagus_makes_your_pee_smell/

検索するとくさいという評価が通常で、いい匂いと言っている人はなさそう
だが、語り手は香水parfumと言ってるのだから、芳香と感じてるのだろう
なあ

ガルシア=マルケス「コレラの時代の愛」にもアスパラガスを食べた後のおしっこが
いい匂いだと言い、毎日妻にアスパラガスを調達させる医学博士が登場する。
ご丁寧にも、パリで医学を修めた際、アドリアン・プルーストに師事していたと
いう設定になっている。
ttp://d.hatena.ne.jp/norah-m/20070115/p1
192吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 23:08:48.00
2012/12/30(日)

鈴木文庫「見出された時1」p371−373
>そしてまた私は人生が、そのいくつかの瞬間においてはあんなに美しく見えるのに、
結局はつまらないものと判断されるわけも分かっていた。それは私たちが人生を、
それとはまったく別のもの、人生のかけらすら含んでいないメッセージによって、
判断したりけなしたりするためなのだ。

>これに付随してせいぜい私が気づいたことといえば、一つひとつの本当の印象の
あいだにも違いがあり――人生を画一的に描いたものがさっぱり本物らしくない
わけは、このことで説明される――その違いはおそらく次のような事情が原因だろう
ということだった。すなわち、私たちが人生のある時期に口にしたごく些細な言葉や、
私たちの行なったつまらない身振りも、実はさまざまなものにとりかこまれ、さま
ざまなものを反映しており、こうした周囲のものは頭で考えただけではそれを無関係
で、知性は理屈を並べるのにそんなものを必要としていなから、その知性によって
そこから引き離されてしまったけれども、言葉や身振りをとりまくこうしたもの―
―それは、ここでは田舎のレストランの花で飾られた壁面に反映するバラ色の夕焼けで
あり、空腹感であり、女への欲望や、贅沢なものの与える快楽であり、かしこでは、
水の精(オンディーヌ)の肩のようにときおりちらりと水面に浮かぶ音楽の楽節を
包みこんだ朝の海の青い渦なのだが――そうしたもののなかにはごく単純な身振りや
行為が、まるで蓋をした無数の壺のなかに入れられたように閉じこめられており、
その壺の一つひとつには、まったく異なった色、におい、温度のものが充満している
のだろうということだ。そのうえそれらの壺は、私たちの過ごした歳月――その間に
私たちが、ただ夢や思考のなかだけのことであれ、絶えず変化してやまなかった歳月
――の高み全体にわたって積みあげられ、実にさまざまな高さに位置づけられていて、
きわめて多様な雰囲気の感覚を与える。
193吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 23:12:37.14
2012/12/30(日)

>なるほど私たちはこうした変化を、知らず知らずのうちになしとげてきた。しかし、
とつぜん戻ってきた思い出と、私たちの現在の状態とは、歳月、場所、時間を異にする
二つの思い出と同じく大きく隔てられているので、それぞれに固有の独自性は別にして
も、そうした距離だけでこれらのものはもう互いに比較もできないものになってしまう
だろう。そうなのだ、思い出は忘却のために現在の時間とのあいだにいかなる絆を結ぶ
ことも、いかなる鎖の環を投げることもできず、その場所、その日付にとどまり、谷間
のくぼみや峰の頂きにあって他から遠く離れたまま、孤立を保っていたのである。
 それでもそうした思い出が、不意に新しい空気を呼吸させるのは、まさしくそれが
かつて私たちの呼吸した空気だから。詩人たちはより純粋な空気で楽園を満たそうと
空しい努力を払ったが、すでに一度呼吸された空気でなければ、すべてを一新するあの
深い感覚を与えることはできないだろう。というのも、本当の楽園とは失われた楽園に
ほかならないからだ。

(鈴木文庫 見出された時 1, p.383)
友情の場合は単なる見せかけにすぎない。その証拠に、友人と一時間のおしゃべりをするために
一時間の仕事を諦める芸術家は、どんな道徳的理由でそうするにせよ、存在しないもののために
自分が一つの現実を犠牲にしていることを承知しているのだ(友人が友人であるのは、私たちが
人生において抱いているあの甘美な狂気のなかでの話にすぎず、私たちが人生において抱いている
あの甘美な狂気の中での話にすぎず、私たちはその狂気にふけりながらも、知性の奥底では、
それがまるで家具を生き物と思い込んでその家具相手に会話をする狂人のおかすような過ちであると
知っているのだ)。
194吾輩は名無しである:2013/12/30(月) 23:15:45.67
2012/12/30(日)

鈴木文庫「見出された時1」p383
>他の快楽が現実性を欠いているというしるし(シーニュ)は、充分にあらわれているの
ではなかろうか? 私たちを満足させる力がないというのもその一つで、たとえば社交の
快楽の場合は、せいぜいのころ、いやな食物をつめこまれてむかむかするだけの話だし、
友情の場合は単なる見せかけにすぎない。その証拠に、友人と一時間のおしゃべりをする
ために一時間の仕事を諦める芸術家は、どんな道徳的理由でそうするにせよ、存在しない
もののために自分が一つの現実を犠牲にしていることを承知しているのだ(友人が友人で
あるのは、私たちが人生において抱いているあの甘美な狂気のなかでの話にすぎず、私た
ちが人生において抱いている あの甘美な狂気の中での話にすぎず、私たちはその狂気にふ
けりながらも、知性の奥底では、それがまるで家具を生き物と思い込んでその家具相手に
会話をする狂人のおかすような過ちであると知っているのだ)。 あるいはまたアルベルチ
ーヌに紹介された日に感じたように、快楽の満足のあとにくる悲しみも一つのしるし(シ
ーニュ)で、あの日私はひとつのことを獲得するために――つまりこの少女を知合いにな
るために――いささか苦労したが(もっとも、ごく小さな苦労にすぎなかったけれども)、
せっかくの目標があとでちっぽけなものに見えたのは、それを獲得したからにほかならな
かった。


ドゥルーズ「プルーストとシーニュ」p38
>凡庸な愛も、偉大な友情にまさる。なぜならば、愛には豊富な
シーニュがあって、沈黙した解釈でおのれを養うからである。
芸術作品は哲学の著作にまさる。なぜならば、シーニュに包まれて
あるものは、あらゆる明白な意味作用よりも深いからである。われわれ
に暴力を加えるものは、われわれの積極的な意志と、注意をこめた
仕事のあらゆる成果よりも豊かである。そして、思考よりももっと重要な
ものとして《思考させるようにするもの》が存在する。
195吾輩は名無しである:2013/12/31(火) 16:42:56.87
毎日、貼り付け基地外さんご来場以外は閑古鳥が鳴くスレになっちまった。
196吾輩は名無しである:2013/12/31(火) 18:21:52.35
モーリアックが持ち上げていたけど
プルースト全集はまだ読む気がしないな
ロシア文学をなんとか克服したい
昨年はドスト
今トルストイ
197吾輩は名無しである:2013/12/31(火) 21:27:19.06
2012/12/31(月)

プルーストは当初、La Prisonniere(囚われの女)と対比する形で
La Fugitive(逃げ去る女)という題にするつもりだったけど、インドの
詩人タゴールの本の翻訳が当時同じ題名で出てしまったので、やめたと
いう経緯が鈴木「逃げ去る女」の訳注等に書かれています
198吾輩は名無しである:2014/01/01(水) 01:32:56.60
>195
暗いと不平を言うより進んであかりをつけましょう。
199吾輩は名無しである:2014/01/01(水) 08:00:53.65
アレを「あかり」だと勘違いしている頓馬もいるんですね
200吾輩は名無しである:2014/01/01(水) 09:03:46.42
「心のともしび」で言ってるのは間違いなく「あかり」だよ
201吾輩は名無しである:2014/01/01(水) 17:55:36.19
うわー、痛い痛い、プラトニックな愛なんてキモいんだけどw
202吾輩は名無しである:2014/01/01(水) 19:17:36.26
2013/01/01(火)

プルースト19歳のときの匿名時評記事再発見、初の書籍化
http://www.editionsdesbusclats.com/2012/11/marcel-proust-le-mensuel-retrouve/
プルースト若かりし当時のモードや展覧会評
203吾輩は名無しである:2014/01/02(木) 20:17:51.83
>>200
何で早朝からラジオ聞いとるんやwカトリックの方?
204吾輩は名無しである:2014/01/02(木) 21:53:51.55
2013/01/02(水)

「ゲルマントの方U」300頁
>ゲルマント家にもひけをとらぬくらいにフォーブール・サン=ジェルマン
の頂点に立つ二、三のサロンがあるけれども、そこには欠けているいくつ
かの要素が、ゲルマント公爵夫人のサロンをそれらと区別していた――
ちょうどライプニッツが、モナドの一つ一つは全宇宙を反映しながら、そこ
に何か特殊なものをつけ加えていると認めているように――。

鈴木「ゲルマントのほうT」p192−194
>「とんでもない! バルベックでいっしょに読んだ哲学の本を覚えているだろう。
現実世界に対する可能性の世界の豊かさを書いた本を。

>もう一度、ぼくらの読んだ哲学書の話に戻るとね、あればまるで合理的な原則か、
科学的法則みたいなもので、現実はだいたいああなるんだが、でもちょっとあの
大数学者ポワンカレのことを思い出してみたまえ。彼は、数学が厳密な正確さを
持つとは信じていないんだよ。


[認めたまえ。プルーストの喜劇的要素はきみも気に行ったはずだ。彼はなによりもまず、
喜劇作家なんだよ]
[喜劇的要素? コメディの要素なんて、ほとんどないように思ったけど]
(中略)
[〈スワンの恋〉の章のこの部分を再読してみるといい。ここでスワンは、不実で気まぐれ
なオデットのとりことなり、感情に恐喝者としてのあらゆる手管を使って、オデットをなに
がなんでも観劇にいかせまいとする。ここのユーモアに注目していることだ、わが友よ]
(ダン・シモンズ「イリアム 上」ハヤカワ文庫p254−255)
205吾輩は名無しである:2014/01/03(金) 10:33:58.84
>>203
カトリックじゃないよ
昔はテレビでもやってて、早起きした日にテレビつけたら
ろうそくがゆらめいていておもむろに「暗いと不平を言うよりも」ときた。
多分一定の世代以上なら一度は見たことある人多いんじゃないかな
206吾輩は名無しである:2014/01/03(金) 19:46:39.41
祝! Kindle化! 光文社、偉い!
207吾輩は名無しである:2014/01/03(金) 20:00:47.36
2013/01/03(木)

ヴァルター・ベンヤミンbot @w_benjamin_bot
夢の世界では出来事が、決して同一のものとしてではなく、似たものとして、つまり
見分けがつかないほどそれ自体に似たものとして出現する。子供たちはこの世界
の目印のひとつを知っている。それは靴下である。
『プルーストのイメージについて』

ドゥルーズ「プルーストとシーニュ」
>『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』は、三つの偉大なシーニュの研究である。
しかし、ソクラテスのダイモン・イロニーは、出会いを越えることにおいて成立する。ソクラテスに
あっては、知性がまだ出会いに先立っている。知性は、出会いを喚起し、刺激し、組織する。
プルーストのユーモアは、これとは異なった性質のものである。ギリシャ的イロニーに対する、
ユダヤ的ユーモアである。シーニュは、出会いの時に開花し、力が加わったときに開花する能力
を与えられねばならない。知性は常にあとからくる。それは、あとからくるときにはよいものであり、
そのときだけによいものである。プラトン主義とのこのような差異が、どれほど多くのほかの差異を
伴っているかについては、すでに述べた通りである。ロゴスはなく、象形文字だけが存在する(この
一文、傍点)。思考するとは、解釈することであり、したがって、翻訳することである。本質とは、
同時に、翻訳さるべき事物であり、また翻訳そのものである。つまり、シーニュであり、意味である。
本質は、シーニュの中に入りこんで、われわれに思考を強制し、必然的に思考されるために、
意味の中に入りこむ。至るところに象形文字があり、その二重の象徴は、出会いの偶然性と、
思考の必然性、《思いがけないものと、不可避なもの》である。
208吾輩は名無しである:2014/01/04(土) 19:35:22.44
>>206
未完で終わるのが濃厚となった今、電子化で少しでも稼ごうとしてるんじゃね?
209吾輩は名無しである:2014/01/04(土) 22:24:46.50
2013/01/04(金)

訳注をみると、プルーストが1895年と若い頃にシャルダンの絵について書いた
文章の再利用と出ていた。
図版には、ルーヴルにある『食器台』Buffetという絵が載せてあり、プルーストが
この絵を文章で再現したことがわかるようになっている(「隠された画」)。
http://www.salvastyle.com/menu_rococo/chardin.html

>エルスチールの水彩画で見てからというもの、私がふたたび現実のなかに見出そうと
努め、どこかしら詩的なものとして好んだのは、ナイフが斜めに置かれたままで中断
された仕草だったり、くしゃくしゃになったナプキンの丸く膨らんだところに陽の光
が黄色いビロード片を加えていたり、飲み残しのグラスでは高貴に開いたその口がよく
見えたり、陽の光が凝縮したように透明なガラス器の底に残るワインが暗くきらめいた
りすることや、照明の具合でさまざまに容積が変動したり液体が変質したりすることや、
なかば空になったコンポート鉢のなかでプラムが緑から青へ、青から金へと変化するこ
とや、古めかしい椅子が日に二度にわたり移動してテーブルクロスのまわりに腰を落ち
着けたりすることであり、テーブルクロスが敷いてあるのは、あたかも大食の儀式が
執り行われる祭壇を思わせ、クロスの上に置かれた牡蠣の殻の底は、まるで石でできた
小さな聖水盤で、そこに浄めの水が数滴残っていたりした。このように私が美を見出そ
うとしたのは、予想だにしなかったところ、もっとも日常的な事物のなか、つまり
「静物」のもつ深い生命のなかであった。(吉川訳4p488)
210吾輩は名無しである:2014/01/05(日) 19:41:57.04
2012/01/05(木)

好みじゃない女との恋愛に30代半ばの何年も浪費してしまったと慨嘆するスワンが
結局、その好みじゃないオデットと結婚している
そのオデットはスワン亡きあと、スワンとの結婚前からその恋敵として登場していた
フォルシュヴィルとちゃっかり再婚し、ジルベルトもフォルシュヴィル嬢となる
211吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 21:20:13.80
2012/01/06(金)

美形キャラというとシャルリュスのみならずサンルーをも夢中にさせた
ヴァイオリニストのモレルがいますね。一筋の前髪をはらりと垂らした。

語り手と出会った頃の若きサンルーが夢中になっていたのは、ユダヤ
人の安娼婦ラシェルだったりするわけですが

モレルは、近頃、裁判で非常に道徳的で立派な証言をして、被告人の有罪
の決め手となり評判になったとされている。
212吾輩は名無しである:2014/01/06(月) 23:29:20.02
213吾輩は名無しである:2014/01/07(火) 01:55:38.22
でなに、今更このつまんない放送がなんなの。
214吾輩は名無しである:2014/01/07(火) 23:14:55.15
2006/01/07(土)

フランソワーズは普通にいじわる。
異常に善人な祖母と母親。
プルーストは悪意バリバリって感じ

シャルリュスやモレルやオデットや外交官の侯爵
のような小悪党に毛の生えたようなヤツは沢山出てくる

確かスワンは禁足を食ったのではなかったけ?
叶恭子と結婚しておばさん顧客に嫌われる
君島一郎(故人)って感じか。

シャルリュス=デビ夫人(性別違うが何となく)
モレル=羽賀研二
オデット=松田聖子
ノルポワ侯爵=岡崎久彦(元外交官、政治評論家)
215吾輩は名無しである:2014/01/08(水) 20:48:40.77
2013/01/08(火)

プルーストも『失われた時を求めて』の第1巻は、ガリマールのところを
含め出版を断られ続け、結局、グラッセ社から、自腹を切って出している。
216吾輩は名無しである:2014/01/09(木) 20:54:30.68
2012/01/09(月)

井上究一郎は森有正辞職後にポストに就いたんだ。
217吾輩は名無しである:2014/01/10(金) 21:49:34.20
2012/01/10(火)

井上究一郎の孫の金沢英之って人、海洋生物→宣長・古事記
と専門がシフトしているのだな 

http://www.let.hokudai.ac.jp/linguistics/japanology/staff-list-225.php
218吾輩は名無しである:2014/01/11(土) 22:47:56.26
2013/01/11(金)

>優れた文学書には、一種、外国語で書かれたようなところがある。
一つ一つの単語に、私たちはそれぞれ、自分なりの意味を、
少なくとも自分なりのイメージを担わせるわけだが、おおかたそれ
が見当ちがいなのだ。 ただ、優れた文学書の場合は、読み手の側
のどんな誤読も、すべて美しいという風になってしまう。

Les beaux livres sont écrits dans une sorte de langue étrangère.
Sous chaque mot, chacun de nous met son sens ou du moins son image,
qui est souvent un contresens. Mais dans les beaux livres, tous les
contresens qu’on fait sont beaux.
219吾輩は名無しである:2014/01/12(日) 20:56:30.45
03/01/12

サマセット・モームが同じようなことを言ってますね。
「退屈なところは読み飛ばしてOK。ただしヴェルデュラン夫人とシャルリュス
男爵の部分はちゃんと読むこと。面白いから」という論旨だったと記憶してます。
この二人に着目するところが、いかにも皮肉な英国人>モーム
220吾輩は名無しである:2014/01/13(月) 20:34:00.37
03/01/13

『見出された時』を映画化したラウル・ルイスがインタビューで

「プルーストは永遠に、いつまでも読めると言われています、というのは
読むたびに同じところを読み飛ばすとは限らないからです。
・・・途中で読むのを止めて、また読み始めて・・・でも、前に読むのを
やめたのと同じところで読むのをやめることは決してないのです。
ですから、同じ本を一生読むことができるのです」

と語っていました。
221吾輩は名無しである:2014/01/14(火) 23:05:02.74
2013/01/14(月)

「ナボコフの文学講義」上下(河出文庫)

>プルーストはプリズムみたいだ。彼、ないしそれの唯一の目的は
屈折させること、そして屈折させることによって、回想のうちに一つの
世界を再創造することである。(下p65)
222吾輩は名無しである:2014/01/15(水) 21:27:02.56
2010/01/15(金)

わたしの好きな場面(人物)

・オペラ座の海中を思わせる幻想的なシーン
・バルベックにて花咲く乙女がわらわら沸いてくるシーン
・男どもがモノクルを回すシーン(随所)
・ツンデレなモレル
・身内が死に掛けてんのにハイテンションなゲルマント侯爵

ほか多数

2012/01/15(日)

井上究一郎の「ガリマールの家」。
ガリマールが一度出版を断った原稿の件でプルーストのところへ「奪還」に駆けつけた、とか、
「ジードのような人たちにさえ、興味はなかったね。−私にとってプルースト以上のものはなかったのだ!」
みたいな記載があって面白い。

2013/01/15(火)

ナボコフ文学講義のプルーストの項。
『失われた時を求めて』全体でなく『スワン家』を対象としているが、
『見出された時』の啓示の瞬間、長い小説の末尾にも言及されて
終わる。

作者の分身的なレオーニ叔母を蜘蛛に喩えるところなど、ドゥルーズ
の『プルーストとシーニュ』を思い出させる。
プルーストの先駆者として、ネルヴァル、ボードレール、シャトーブリアンでなく、
トルストイが何度も持ちだされる。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』。
223吾輩は名無しである:2014/01/16(木) 21:24:51.34
02/01/16

とにかくルグランダンのケツの描写
224吾輩は名無しである:2014/01/17(金) 22:30:05.74
2008/01/17(木)

吉田城の遺稿集が出るよ。
年末から延期になったが、『プルーストと身体』。

2012/01/17(火)

スワンさんという人のアマゾンのレビュー、
随分プルースト関連の本が取り上げられていて、参考になりました。
http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A26AP1ROGNV14U/ref=cm_cr_dp_pdp

プルーストは、カペーを馬車か車で全員寄せ集めてコルク張りの部屋で演奏させたが、絵については画集もずいぶん気に入っていたみたい。
225吾輩は名無しである:2014/01/18(土) 20:41:57.28
02/01/18

私が以前に知っていた現実は、もはや存在していなかった。
スワン夫人が別の装いをし別の時間に来るだけで、
大通りはすっかり別のものになるのだった。
我々が知ったあれこれの場所は、単に空間の世界にのみ属するのではない。
我々は便宜上、それを空間の世界に配置してはいるけれども。
それらの場所は、当時の我々の生命を形作った一連の印象の中の、
ほんの薄い一切れに過ぎなかったのだ。
ある映像の記憶とは、ある瞬間の愛惜でしかない。
家々も、道も、大通りも、移ろいやすい、ああ、歳月のように。

2010/01/18(月)

身内が死に掛けてんのにハイテンションなゲルマント侯爵
 これは一緒。死んだ?お前の言うことは大げさすぎる!ってwwww
・プロメテウスになったシャルリュス男爵
・ラ・ベルマの魅力に気付く主人公
・ドンシエールでの日々
・カンブルメール夫人とショパンの話をする
・石に躓いたりして無意識的記憶に気付く
・逃げ出してからのアルベルチーヌとの手紙などのやり取り
・ビー玉とか本を上げるジルベルト
226吾輩は名無しである:2014/01/18(土) 20:43:27.17
2012/01/18(水)

プルーストが自宅で聴いたのはドビュッシーで、その他フランク、
ベートーヴェン晩年等はプーレ四重奏団のようですね。

ターナーはエルスチールのモデルはともいわれてますね。
評論選Uの美術論では、シャルダンとレンブラント、
ワットー、モロー、マネの名が。

2013/01/18(金)

プルーストとジョイスは一度だけ顔を合せたことがあるらしいが、食べ物
の話をちょっとしただけみたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/17075271.html

>「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、
一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの
趣味にもあわなかった女のために」

« Dire que j’ai gâché des années de ma vie, que j’ai voulu mourir, que j’ai
eu mon plus grand amour, pour une femme qui ne me plaisait pas, qui n’était
pas mon genre ! »
227吾輩は名無しである:2014/01/19(日) 00:33:58.93
んで、だからなんなの、なにを言いたいの?
228吾輩は名無しである:2014/01/19(日) 20:57:54.76
02/01/19

シューレンドルフの『スワンの恋』、
唯一、評価できる点は
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェによってヴァントゥイユのソナタが作曲されたこと。

2012/01/19(木)

ちくまのPR誌に鈴木道彦がおやじのことを連載している。
その中に、東大の仏文をつくった面々が全く生活を考慮しないで
研究が遊びそのものでやっていたことが書かれている。(鈴木、辰野、渡辺は
戦前の資産家の生まれであったらしい)
229吾輩は名無しである:2014/01/20(月) 20:33:43.08
2012/01/20(金)

「失われた時」には当時フェルメールの真作か不明であった絵につき、
スワンが真作と断言するエピソードがあり、現在それが定説になっています

「贅沢貧乏」にプルーストの写真の記載があった。
「彼の肖像の二つの目は、真実の現実であるところの心象に写るものを、今も見つめている」
「プルーストを見ることができなかったことを、嘆いている」

2013/01/20(日)

イースト・プレスから、「まんがで読破」シリーズなんて出てる。
『失われた時を求めて』もある。
http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=913

ポプラ社からは、「百年文庫」なる企画で、
小川国夫、龍胆寺雄の短編とともに、
『楽しみと日々』から「乙女の告白」が収録
されている。鈴木道彦訳。
http://www.poplar.co.jp/hyakunen-bunko/lineup/detail.php?id=72
230吾輩は名無しである:2014/01/21(火) 20:50:16.13
2012/01/21(土)

ジャック・リヴィエール「フロイトとプルースト」85頁
>羚羊を思わせる大きな目と、懶げな瞼の、あのペルシャの若い貴公子
(ポール・デジャルダンのNRFに収録された文章の引用)

エルマンによる評伝293頁
>「作品に身を捧げて疲れ切ったような老けた青年で、経帷子をまとってラザロの
ように作品の中から立ち現れて、私たちを貪るように見つめていた。」プルーストは
若いころあれほど人々に印象を与えた、あの飛び出したようなまなざしをあいかわ
らずもっていた。
(モーリヤックが、晩年のプルーストに食事に招かれた際の文章の引用)

サイードの「音楽のエラボレーション」
(みすず書房、1995、新装版2004)という本を何気なく開いたら、プルーストと
音楽について書いてあった

http://tamura-shoten.ocnk.net/product/8746
PROUST,M. A la recherche du temps perdu. 8 tomes en 13 vol. Paris, Grasset et Gallimard, 1914-1927. Edition Original.

グラッセ版は実物を見たことがない。550万で買う人いるのかな。
231吾輩は名無しである:2014/01/21(火) 22:48:32.14
2年経っても売れてないw
232吾輩は名無しである:2014/01/22(水) 21:38:24.66
2012/01/22(日)

グラッセ版は、どこからも出版を断られた挙げ句の実質、自費出版らしいですね。

ジャック・リヴィエール(1887-1925)
第一次大戦前からNRFに執筆しており、大戦中休刊されていた同誌復刊後は編集長となる。
NRF出版社(ガリマール書店の前身)により版権買い取りには彼も関連しているんだろうか。

1923−4年の講演を収めた「フロイトとプルースト」(岩崎力訳、弥生書房1981)より

>1914年にはじめて《スワン》を読んだ時ほど強烈な感動を、生きているうちにふたたび感じる
ことがあるかどうか、私にはわかりません。
>プルーストの作品は、私の感覚というお菓子をそっくり作り直してくれたのです。57頁

>最初私にもっとも強烈な驚きを与えたのは、この本の第二部『スワンの恋』でありました。私は
全く新しい世界に入りこんでおりました。愛について、それまで誰も気付かなかった扉が開くのを
見るような気がいたしました。その扉は、苦悩に満ちた無数の小さな星のまたたく、暗く壮麗な空
の下に通じておりました。
>それは最初から、自分の目の前で突然一種の奇蹟が実現したような印象でありました。
147頁。

井上究一郎の「ガリマールの家」からの抜粋。
グラッセ版を読んだガリマールとリヴィエールは、口をそろえていう。
「われわれ仲間がつくるどんなものよりすぐれている。」
ガリマールはプルーストと工作したのち、グラッセ社にいく。
500-600部残っていたが手押し車で運び、初版の表紙を全部はがしNRFの表紙を貼り付けた。
NRFの表紙のついた初版本を買った連中がグラッセに駆けつけてグラッセ版の表紙をくれ、といった。
社長は表紙を1枚2000フランで売った。
私が持っている初版本もことによったら、この残部のなかの1冊で一度上着をぬぎかえているかもしれない。

プルーストとリヴィエールの書簡が始まるのは1914年からで、出版を軌道にのせたのがリヴィエールと営業部長のトロンシュ、となっています
233吾輩は名無しである:2014/01/22(水) 21:39:44.69
2012/01/22(日)

グラッセ初版は1100部印刷されたはずとあります。

1100部−5、600部=5、600部
これがいったん表紙がはがされることなく無傷のグラッセ版の部数

残りは、いったんはがされた表紙を2000フランで買い足し、
「上着をぬぎかえた」(グラッセ表紙→NRF表紙→グラッセ表紙)
ということですね。

グラッセ版がいかに希少であるかわかります。

フランス綴じのものをあとから所有者
がモロッコ革で装丁したのだと思います。

「プルウスト研究」(大空社)
という昭和初期の雑誌の復刻版があり、フランス綴じになって
います。
これをみるとアンカットの折り畳んだ紙を何枚か重ねたものをさらに
囲うように薄い無地の紙(ちょうど表・背・裏を1枚の紙でカバーする
サイズ)を背の部分で貼りつけてあります。そしてその紙を包み込む
ようにさらに題名等のはいった表紙(表だけでなく裏、背表紙も1枚と
なっていて上下左右とも本体より一回り大きい)をかぶせてあります。
現在の文庫や単行本のカバーに似ていますが上下も縁を折り曲げ
ているところ、また背表紙部分が糊付されはずせなくなっているところ
が違います。
多分、ガリマールは「ばかだったから」(本人曰く)ここをべりっと剥したのでしょう。

下記のフランス装キットのカバー用の紙(緑・紫の紙)が表紙
なのだと思います。
http://misuzudo.shop13.makeshop.jp/shopdetail/001002000004/
234吾輩は名無しである:2014/01/22(水) 21:40:53.97
2013/01/22(火)

ユルスナールが「源氏物語」等について語っている記事があった。
「日本中世のマルセル・プルースト」と絶賛。
『失われた時を求めて』と似ているという意味ではない、西欧文学
に源氏に似ているものは全くないと断っている。また、念のために
言っておくと紫式部の時代の文学は、国文学史では、通常「中古」
として中世とは区別している)
http://sasaki01.blog38.fc2.com/blog-entry-47.html
235吾輩は名無しである:2014/01/23(木) 20:41:59.26
2010/01/23(土)

15年前にNHKで放映された埴谷雄高のインタビューのビデオを見ていたら、
プルーストを褒めている場面があった。散りゆく花弁の描写に日本文学にない
思索性が内包されているという指摘
236吾輩は名無しである:2014/01/24(金) 20:52:42.05
2013/01/24(木)

イーストプレスの「まんがで読破」シリーズの
『失われた時を求めて』

例えば、コンブレーで幼い語り手が、スワンのためにママの
おやすみのキッスがもらえなくなりそうなので術策を弄して、
ママを2階の自分の寝室に来させようとする。
ママはその術策を見破り怒ってしまうのだけど、父親がいとも
あっさりと「今夜だけはこの子といてやりなさい」と許すシーン。
まんがだと語り手の述懐はこうなる
>父には礼の言いようがなかった…
 私にとってこの夜は新たな時代のはじまりのように思えた

とえらく肯定的に見えてしまう。実はこの2文とも原作どおりであるにも
かかわらず。
原作だと、語り手の母親が祖母ともども語り手の意志の力の欠如を
なんとか治そうとがんばっていたのを諦めて放棄した、敗北感に彩られた
語り手にとってもそれは「悲しい」一夜だったとなる。

>ところが私は嬉しくなかった。母がはじめて私に譲歩したのだ。…
私のために心に抱いていた理想を、母ははじめて自分から放棄した…
母がはじめて敗北を認めたのだ……この夜は新たな時代の始まりで、
悲しい日付として残るだろう(鈴木訳)

ポプラ社の百年文庫「蕾」の「乙女の告白」

意志の欠如による計画(仕事)の実現の先延ばし癖、
習慣、社交界、音楽会、散歩。
コンブレーの前身ともいえる15歳まで毎年夏(4月終り
〜6月終り)を過ごしたレ・ズーブリ(忘却)の庭。
お母さんのおやすみの言葉、接吻。
237吾輩は名無しである:2014/01/25(土) 19:22:38.54
03/01/25

ペギー・グッゲンハイムの自伝に「タンギーはプルーストを読んでいたが、
どうもそれに退屈していたようだった」という一文があってワラタ。
タンギーがプルーストを読んでいた(少なくとも読もうとしていた)なんて
あの藝風もとへ画風からはまるで想像がつかん(w

2012/01/25(水)

「フロイトとプルースト」はことプルーストについては、リヴィエールがプルースト
の弟ロベールとともに「失われた時」の遺稿を整理し編纂していたというアドバン
テージを考慮しても驚くべき炯眼で、同時代評という歴史的価値を超えて読む
に価すると思います。
RTP全巻が出版される前の1925年に38歳で亡くなってしまっているんですね。

「ガリマールの家」。ネルヴァルへの言及が多い
238吾輩は名無しである:2014/01/26(日) 20:24:50.79
2007/01/26(金)

本当のアルベルチーヌは闇の中……。
いやそもそも「本当の」なんて本人でもわからないかもしれない。
なつかしい人々が予想外の形でひょっこり出てきたり、年を取ったりして、
小説の中のことなのに、自分の過去を思い返すように思い出してしまった。
239吾輩は名無しである:2014/01/27(月) 21:28:03.06
04/01/27
http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/cinema/03/c_tmrtrv.htm

2012/01/27(金)

吉田秀和「私の好きな曲」は、ベートーヴェンの作品131嬰ハ短調の
弦楽四重奏曲ではじまる。
プルーストがでてきたかしらと思って、見返してみたら、ペインターの
評伝より、ストラヴィンスキーと出会った際のエピソードがひかれていた。
カペー四重奏団やプーレ四重奏団を自宅に呼んで演奏させた話も。
240吾輩は名無しである:2014/01/28(火) 00:59:50.85
人類が滅んでしまったら、記憶も集合的無意識も意識の流れも
亡くなるんだけどな。。。。
その、恐ろしさに気付いている人間がこのスレに何人いるんだろう??
241吾輩は名無しである:2014/01/28(火) 21:32:11.18
02/01/28

全編卒読に挑戦。全9800枚分、一日、50乃至100枚で。
3ヶ月から半年かかるであろう。

読み終わってからもう一度最初から、あるいは無作為に途中から読むと新たな発見があるかも。
冒頭でさりげなく名前が挙がっているサン=ルー夫人、何千ページも前に伏線として置かれているジルベルトの筆跡、など。

2012/01/28(土)

「プルーストと身体」の論文、てっきりユリイカ2001・4の特集号
所収の「プルーストの草稿を読む―ニジンスキーの登場をめぐって」
と同じと思ったら、確かにそれが元になっているけど、結構書き足され
ていたりして、随分違ってました。

ニジンスキーがモデルと思しきダンサーに魅せられ、ラシェルがエロい
台詞を吐き、サン・ルーをやきもきさせる箇所の紹介、むすびの次の一節
など基本は同じですがが。

>プルーストのテクストは、しばしば隠蔽するために語り、示唆するために
沈黙する。その幾重にも層をなす意味の錯綜体を、さまざまな角度から解き
ほぐしていくことは、ある種の知的なゲームに似た興奮をもたらしてくれる。

さらに、ジュネットの名が出て、草稿は、アポクリフ(外典)、「裏」バージョンであり、
「表」バージョンたる正統なテクストに対して、謎の解明をもたらし、時には固有の
価値を主張し、本文の理解に厚みを与えると草稿の検討を中心に据える「生成研究」
のおもしろさが語られる。ユリイカバージョンはここで終わってます。
242吾輩は名無しである:2014/01/29(水) 21:21:45.70
2012/01/29(日)

山本夏彦の「私の岩波物語」(文春文庫)
--
ジェイムス・ジョイスの「若き日の芸術家の肖像」を訳したのは小野松二(雑誌「作品」の主宰者)である。
井上究一郎のマルセル・プルーストの失われし時を索めて」ははじめ淀野隆三が訳して「作品」に連載し、
都合で中絶したのを井上究一郎と久米文夫が続け、さらに井上ひとりが訳した。
ジョイスとプルースト二家なくしてを除いて近代文学は語れないというのに、作品社と小野松二について書いたものがない。
何か訳があるに違いない。
--
ちなみに「作品」の同人は堀辰雄、井伏鱒二、梶井基次郎、永井龍男、
小林秀雄、川上徹太郎、神西清、今日出海など、のちに坂口安吾、石川淳。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004613814
「プルーストの蔵書がどのようなものであったかもまったく知られていないと言ってよい。」
「彼は愛書家ではなかった。」
フランス綴じの「プルウスト研究」という雑誌。
復刻版なのですが、もとは作品社から昭和9年に発行されています。
確かに久米文夫と井上究一郎の共同訳で「花咲ける少女の陰に」が
連載されている。
T乃至Vのあとがき(編集後記)は久米文夫ですが、Wは久米が
「失ひし時」の翻訳に没頭するため京都に去ったため、小野松二が
書いてますね。
>なほ「プルウスト研究」は、久米君が居なくなつたのでは僕が少し
忙しくなりすぎるので誌代前納者の期待に反いて大へん申譯ない
次第であるが本輯をもつてひと先づ休刊することにした。

となっている。きちんと前納した購読料返しているのだろうか。
山本夏彦のオリジナルは
--
はじめ淀野隆三が訳して「作品」に連載し、
都合で中絶したのを井上究一郎と久米文夫が続け、さらに井上ひとりが訳したいきさつは淀野がこまごまかいているがくだくだしいから略す。
--
243吾輩は名無しである:2014/01/30(木) 20:28:38.02
2012/01/30(月)

プルーストは、当時のサロンに若い頃散々出入りし、すなわち、「宴」の中に身をおき、当時の風俗すなわち
「流行」を描いた。と当時に、コルク張りの部屋で「孤独」に執筆にうちこみ、その作品は、時代をこえて訴えか
ける「不易」なものを描くことにも成功している。それはキリスト教、ギリシャ・ローマ思想よりさらに遡り、昔パリ
のシテ島にも棲みついていたケルト人(フランスではブルターニュ半島あたりにしかその文化は残っていない)
にまで通底しているかもしれない。

プルーストより、ウィンダム・ルイスの方が興味ある

「晦渋性を排す」という評論より。
(ちくま文庫「プルースト評論選T」308頁)

>小説家が一篇の小説にやたらと哲学をつめこめば、その小説は哲学者にも文学者
にも価値のないものと映るであろう
>文学者や詩人がじっさい形而上学者と同じくらいに事物の現実の奥深くまで行きつ
けるとしても、それは別の道を通ってである
>理屈の助けをかりるのは、彼らを世界の核心につれていくことのできる唯一のもの
である感情のエラン(飛躍)を強化するどころか、逆に麻痺させるものである
>『マクベス』が独特な形の哲学となっているのは、哲学的方法によってではなく、一種
の本能的な力によってである。このような作品の基盤は、人生の基盤そのもののように
――作品はその人生のイマージュなのだ――、それをますます明らかにしていく精神
にとってもおそらく依然として曖昧(晦渋)なものにとどまっているだろう。
 だがそれは(排すべき晦渋性とは)まったく別の種類の晦渋性で、深めてゆけば豊かな
結果をもたらすものである

http://sumus.exblog.jp/i21

淀野隆三は日本浪漫派とも関係があったらしい。
244吾輩は名無しである:2014/01/31(金) 05:28:57.41
みなさん、博学ですね。論文にまとめたらいいのにと思いますよ
245吾輩は名無しである:2014/01/31(金) 23:12:53.91
2012/01/31(火)

新潮社の共同訳のあとがきをみると、新潮文庫版全13冊
(昭和33−34年)をハードカバー7冊の形で再刊したものらしい。
文庫版のあとがきもそのまま収録されている。
文庫版は、昭和28年3月から昭和30年10月にかけて刊行された
わが国初の全訳を淀野隆三が統一編集したもので、第1分冊と最終冊
のあとがきは淀野が書いている。

第1巻 『スワンの恋』 T U 淀野隆三・井上究一郎訳
第2巻 『花咲く乙女たち』 T U 井上訳
第3巻 『ゲルマント公爵夫人』 TU 伊吹武彦・生島遼一訳
第4巻 『ソドムとゴモラ』 T市原豊太・中村真一郎・井上訳 U 井上・中村訳
第5巻 『囚われの女』 T U 伊吹訳
第6巻 『消え去ったアルベルチーヌ』 生島訳
第7巻 『見出された時』 T 井上訳 U 淀野訳
246吾輩は名無しである:2014/02/01(土) 10:35:51.53
おお、貼り付けパラノイアは元気にしてるなぁw
247吾輩は名無しである:2014/02/01(土) 22:04:29.23
2012/02/01(水)

別巻のベンヤミンの論では
プルーストの長い文の構成を、言葉のナイル川とたとえてた
248吾輩は名無しである:2014/02/02(日) 22:37:18.86
05/02/02

 五年かかってついに読了しました。最初あまりにもだらだらしてて、
これはもうギブアップかも、と思いましたが、このスレの「ゲルマント
公爵夫人を越えれば後は楽」の言葉に励まされて読み終える事ができま
した。ありがとうございます。読了寸前の達成感がものすごく上質だと
感じました。最後まで読まないと味わえないものですね。
 この作品を読む事はは色使いの微妙な名画のジグソーパズルを原画の
見本なしでやるのに似た感じがあるように思いました。部分部分をわか
らないなりに少しずつつないでいって、「見出された時」で各部分がぴ
たぴたとつなぎ合わされて、「ここは全体の中のこういうとこだったん
だ〜」と改めてわかり、そして再び完成品に近付いてその部分をもう一
度よく見てみよう、といったような。
 読み終えた今、「コンブレ」と「スワンの恋」をもう一度読みたいと
思っています。なんかエンドレスで読んでしまいそうで恐い。

再度引用しておく。「スワン家」の末尾の部分。
−−−−−
私が以前に知っていた現実は、もはや存在していなかった。
スワン夫人が別の装いをし別の時間に来るだけで、
大通りはすっかり別のものになるのだった。
我々が知ったあれこれの場所は、単に空間の世界にのみ属するのではない。
我々は便宜上、それを空間の世界に配置してはいるけれども。
それらの場所は、当時の我々の生命を形作った一連の印象の中の、
ほんの薄い一切れに過ぎなかったのだ。
ある映像の記憶とは、ある瞬間の愛惜でしかない。
家々も、道も、大通りも、移ろいやすい、ああ、歳月のように。
249吾輩は名無しである:2014/02/03(月) 19:57:11.29
2008/02/03(日)

多種多様な情報で成り立っている記憶全体を再生する〈思い出す)
ために必要なのは、例えばプルーストは、プティトマドレーヌという非常に限られた情報で
あったことで書いている。この特徴は、連想記憶(associative memory)と
よばれ非常に一般的なタイプの記憶の想起にほとんどつねに伴う。
250吾輩は名無しである:2014/02/04(火) 21:23:03.04
2011/02/04(金)

アンドレは結婚してからの印象が悪い 
ジルベルトはむしろ熟女になってからがイイ

実はサンルーだけがいい人

シャルリュス男爵が唯一生彩ある人物。

最終巻の女たちの描かれ方はちょっと凄いと思うなぁ
オデットとかヴェルデュラン夫人とか化け物じみてるわ
251吾輩は名無しである:2014/02/05(水) 20:52:25.22
2008/02/05(火)

失われた時を求めて フランスコミック版 第2巻 花咲く乙女たちのかげに1 −−海辺への旅
[ステファヌ・ウエ著■ マルセル・プルースト著■ 中条 省平:翻訳]
252吾輩は名無しである:2014/02/06(木) 13:45:24.84
ルグラ粉末
成分
・ベラドンナの葉
・安息香
・硝酸カリウム
・チョウセンアサガオ

身体に悪い、これは死ぬ
253吾輩は名無しである:2014/02/06(木) 21:20:40.40
05/02/06

「名画のジグソーパズルを原画の見本なしにやるようなもの」
ジクソーパズルのように、断片に過ぎなかった部分部分が、
最後に統一ある全体を形成する。読者は語り手に身を任すしか
ないので、自分でパズルとして仕上げるわけではないが。
吉田健一のように第7巻を最初に読んでしまった人もいる。

2006/02/06(月)

鈴木訳文庫化キター!

2012/02/06(月)

今日(2012/2/6)はフランソワ・トリュフォー生誕80周年、というのをGoogleロゴで初めて知った。

トリュフォーは『緑色の部屋』のためにプルーストを引用していた。
「死んだアルベルチーヌ(逃げ去る女)」の文章の引用
「私たちの愛情が衰えるのは、相手が死んだためではない。私たち自身が死ぬからだ。」
254吾輩は名無しである:2014/02/07(金) 20:14:21.16
2012/02/07(火)

「失われた時を求めて」にエッフェル塔って出てきたっけと気になっていた。
調べたところ、「見出された時」の第一次大戦の時代(1916年頃)の描写に
1箇所出てくるだけだった。

1889年、パリで行われた第4回万国博覧会に合わせて建造された。
プルースト18歳の頃になる。
ジュネットの年立てによると、語り手は作家より7歳下の1878年生なので
語り手11歳のときに建造された計算。
ジルベルトとシャンゼリゼ公園で会っていた頃(1893−95春)にはすでにあったはず。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/book/1311425550/494-495

この沈黙をどうとるか気になっている。
モーパッサンなどはエッフェル塔嫌いで、エッフェル塔を見たくないがため、エッフェル塔
のレストランで食事をすることを好んだなんてエピソードもある。

このエピソード、確か松浦寿輝の「エッフェル塔試論」で最初に知った。
松浦のほかやはりプルースティアンのバルトにも「エッフェル塔」という著書がある。

エッフェル塔の建設当時の高さは312.3m(旗部を含む。現在324m)。
1930年にニューヨークでクライスラービル(着工1928年)が完成するまでは世界一
高い建造物だった。
プルースト生前には世界一の記録は破られる気配すらなかったということになる。
255吾輩は名無しである:2014/02/07(金) 20:16:57.77
2012/02/07(火)

エッフェル塔が「見出された時」での大戦中のシーンにちらっと出てくることは
日本ジュール・ベルヌ協会の公式ブログで知った。
http://julesverne.jpn.org/blog/index.cgi?mode=comment&no=32

>コンサートを電話で聞くサービスや、気送管郵便など最新技術にも目配りを利かせている
『失われた時を求めて』ですが、なぜか(そのために鈴木訳「見出された時」を読みふけるはめ
になったりもしたのですが)、エッフェル塔が出てこないような気がしますが。どこかに言及され
ているのでしょうか。

鈴木訳「見出された時T」文庫版229頁より当該シーン

>1914年にはほとんど無防備の美が、近づく敵の脅威を待っているのを
私は目にしたものだが、今やそのパリでは、なるほど当時と同様に古代から
少しも変わらない壮麗な月が冷酷かつ神秘的に澄みわたって、まだ無疵のまま
残されたモニュマン(建造物)にその光の無用な美を注ぎかけているとはいえ、
1914年と同様に、またそれ以上に、別なものも存在していた。すなわち
さまざまな光であり、断続的に点滅する灯火で、これらは聡明な意志と友好的
な警戒心に導かれて、飛行機なりエッフェル塔のサーチライトなりから発して
いることが分かっているので、見るものは感動を覚え、一種の感謝の気持ちと
落ちつきを与えられるが、それはかつてサン=ルーの部屋を訪れたとき、あの
修道院を思わせる軍の個室で感じたのと同じ種類のものだった。その個室のな
かでは、いつの日か青春のまっただなかでためらうことなくわが身を犠牲に
することになる多くの熱烈で規律正しい心が鍛えられていたのである。
256吾輩は名無しである:2014/02/07(金) 20:19:24.01
2012/02/07(火)

プルーストはベルエポック、自分にとっても黄金の
時代(母とともに生きていた時代)を一種おとぎ話のように書きたかった面もあった。
ONCE UPON A TIME、LONG LONG AGOといった調子で。
だから、エッフェル塔のように築造されたのがまだ記憶に新しい、エポックメイキングな
モニュマンを登場させることにより明確な年代特定がなされることを忌避したのではな
いかと。エッフェル塔自体が嫌いだから書かなかったのとは違うような。

だから、年代が特定されてかまわない第一次大戦のシーンでは言及もしている。

「失われた時」にエッフェル塔が出てきたか気になったのは、
プルーストと同時代の人の高さの感覚はどうだったのだろうと思ったからだ。

「スワンの恋」にヴァントイユのソナタのヴァイオリンのトレモロが2オクターヴ
も高く震え続けるのに護衛されて、オデットが2人の「愛の国家」と称している小
楽節があらわれるシーンがある(フォルシュヴィルがソナタ蛇の駄洒落を言う直後)。

吉川訳だと「あたかも山国で、見かけは微動だにしないが目もくらむ奈落に流れ落ちる滝の
背後に、ゆうに600メートルも下方を散策するひとりの豆粒ほどの女が見えるときのように」
あらわれる。185頁

この600メートルだが、高遠訳だと、本文は200ピエと原書のままの単位、注に1ピエ≒
32.48pで、200ピエ≒60数メートルと出ている(202−3頁)。

これは、20階程度のタワーマンションの高さだ。
http://www.blue-style.com/photo/all/photo-60-80.html

ちなみに、鈴木訳は、本文は200ピエのまま、注には1ピエが30数pであることが出ている
のみで、換算は読者に任せている。
257吾輩は名無しである:2014/02/08(土) 20:11:21.79
2012/02/08(水)

「物質と記憶」はまとめるのが難しく他にもいろいろなことが語られています。その一つが記憶(過去)
はどこに保存されるか、という問題です。(過去)は脳の記憶装置には保存されずいわばそのままあると
いうのがベルクソンの結論です。プルーストとの関連でいえば彼は「ル・タン」紙のインタヴューに答え
て「自分の作品は、無意志的記憶と意志的記憶の区別に貫かれていますが、この区別はべルクソン氏の哲
学に現われていないばかりでなく、それと矛盾するものでさえあるからです。」といっています。このこ
とは友人への書簡でも再三語られており作品を理解する上で重要なことですが、私は自分でも説明できま
せんし納得がいく説明を読んだことがありません。「マドレーヌのかけらを浸した紅茶をひと口味わった
ときに」ふたたび見出した記憶(過去)と「なるほど彼は以前もそれらを思い出していた」過去とは単な
る程度の差異にはおさまりきれない本質的な違いがあり、ベルクソンなら前者のことを記憶というより過
去そのものにふれたのだというかもしれません。では後者の過去とは一体どのようなものなのか?
258吾輩は名無しである:2014/02/09(日) 21:43:33.17
04/02/09

本日読了。結局一番印象に残ったのは、馬車から三本の木を見るところ、とリンゴの木に雨が降る情景描写。

05/02/09

実は私も、吉田さんと同じく、始めに第7巻を読みました。
三笠書房の文学全集がこの第7巻でしたから。五来達という人の訳ですが
優れた訳文だと思います。この巻の解説文が、1巻から6巻までの要約で、
すんなり入って行けました。井上訳で全部を読んだのは3年前くらいです。
五来さんは戦中に全訳を果たしていたのですが、戦災で原稿を失ったのですね。
それで、戦前に出ていた始めの部分と第7巻だけに訳者名が残っています。
源氏物語もそのようですが、全体像をおぼろげにでも知っていないと、
なかなか読みきれないという気がします。

急いで読んだせいか、超ながい寝言のようで。
延々とつらねた女の子に対する微妙な心理描写は、なかなか共感できて楽しい。
259吾輩は名無しである:2014/02/10(月) 08:39:08.22
えびねwww
260吾輩は名無しである:2014/02/10(月) 21:37:29.01
04/02/10

読んでるときはね、ドミノを丹念に積み上げているつもりだったんだ。
で、最後にこれが一斉に倒れていくんじゃないかって。
ところがうまく言えないけど逆でね、最後に倒してあったドミノが
パタンパタンと起き上がってそしてつながっていくんだ。
でもずいぶん前のことは忘れちゃってるもんだからさ、
結局、リンゴの木に雨が降るところと三本の木、あともうひとつ
死んだおばあさんを不意に思い出すところ、それが一番印象に残っている。
261吾輩は名無しである:2014/02/11(火) 19:42:15.59
2012/02/11(土)

かつて検索したのは、ベケットが、プルーストは
「人間というものを植物相(フローラ)として意識し、けっして動物相
(フォーナ)として意識しないのである。(プルーストには、黒猫だの、
忠犬などというものは出てこない。)」
と言っているのが本当かどうか検証するためでした。

ベンヤミン「パサージュ論」。300頁もあるJ「ボードレール」を越え、第3巻K「夢の街と
夢の家、未来の夢、人間学的ニヒリズム、ユング」まで来た。
プルーストの引用が多い。過去・記憶・反知性主義との関係では特に次の箇所。
「光り輝く多面体」、「何かの物体の内部に隠されている」「過去」。

>プルーストにおける非意志的記憶についての典型的な箇所――それは、今まさに、
マドレーヌ菓子が語り手に及ぼす影響が描かれようとする序曲をなすのでのある。「こ
うして、長い間、私が夜中に目を覚まして、コンブレーを追想していたときに、私はあの
光り輝く多面体の一面のようなものを再び見ただけであった。……ほんとうを言えば、
私に執拗に尋ねる人がいたなら、その人には、コンブレーはもっとほかのものを含んで
いた、と答えることもできたかもしれない。……しかし、そのようなものから私が思い出せ
ることがあったとしても、それはただ意志的な記憶、知性の記憶によってもたらされたもの
にすぎないだろうし、この種の記憶が過去について与える情報は、実は過去を何一つ保存
してはいないのだから、私はそんなコンブレーの残余を夢想してみる気には決してならなか
っただろう。……われわれの過去についても同じである。過去を喚起しようとするのはむなし
い努力であり、われわれの知性の一切の努力は役に立たない。過去は知性の領域と射程
圏の外部に、われわれが予想もしない……何かの物体の内部に、隠されている。そんな物体
に、われわれが死ぬ前に出会うか、それとも出会わないかは偶然でしかない。」マルセル・
プルースト『スワン家の方へ』T
262吾輩は名無しである:2014/02/12(水) 21:54:23.17
02/02/12

たけうま【竹馬】 一本歯の下駄と杖とを一体化させ、履き物としてではなく
乗り物として用いる、子供向けの遊び道具。共に竹馬に乗って遊んだ幼馴染み
のことを「竹馬の友」と称するが、これの訓みは「たけうまのとも」ではなく
「ちくばのとも」(「元の博打」の逆さ訓み)である。『失われた時を求めて』
の最終巻『見出された時』のまさに掉尾の段落で、数多の歳月を望み見て眩暈を
感じた語り手は、齢八十三歳のゲルマント公爵がよろめきながら歩こうとする
さまを、竹馬−−人が生きる限り足下で伸び続ける竹馬(vivantes echasses)−−
に乗った人間に喩えている。例:「まるで人は、絶えず伸び続ける生きた竹馬に
乗っているかのようである。時に竹馬の足は教会の鐘楼よりも高く聳え、結果的に
歩行を困難かつ危険にするだけで、突如、人はそこから転げ落ちるのだ。」 語り
手は、見えざる竹馬から転げ落ちるより前に、「時」を刻印した小説の創作に身を
捧げることを決意する−−天職発見とそれまでの叙述が一体化した所で、この大作
は幕を閉じる。

2012/02/12(日)

プルーストの「失われた時」も第1巻「スワン家のほうへ」は戦争前夜の不穏な空気はすでにあった
のかもしれませんがまだベルエポックであった1913年に刊行されている。
しかし、2巻以降は第1次大戦をはさんだ1919年以降。1巻に格別の幸福感(最後まで読んで戻る
とさらに)があるのはそのゆえかも。
263吾輩は名無しである:2014/02/13(木) 19:20:12.20
aaaaaaa---

マドレーヌが食べたい・・・・
264吾輩は名無しである:2014/02/13(木) 20:17:54.87
04/02/13

最後の、ゲルマント家のマチネーの章に圧倒されないなら、
この作品を全体として読んだことにはならない。
それに加えて、不滅の場面が散在する。

2012/02/13(月)

ベンヤミン「パサージュ論」。「N認識論に関して、進歩の理論」より。

>覚醒とは、夢の意識というテーゼと目覚めている意識というアンチテーゼの総合としての
ジンテーゼなのではなかろうか? もしそうであるならば、覚醒の瞬間とは「この今における
認識可能性」と同じなのではなかろうか。 この認識可能性に満ちた今において物事はその
真の――そのシュルレアリスティックな――相貌を被るのである。こうしてプルーストにあって
は、人生の中で最高に弁証法的な断絶点、つまり、覚醒の瞬間から生涯を書き起こすことが
重要なのである。プルーストは、覚醒する本人の空間の叙述から[『失われた時を求めて』]
を始めている。

>プルーストがその生涯の物語を目覚めのシーンから始めたのと同様に、あらゆる歴史記述
は目覚めによって始められねばならない。歴史記述は本来、この目覚め以外のものを扱って
はならないのだ。こうしてこのパサージュ論は19世紀からの目覚めを扱うのである。
265吾輩は名無しである:2014/02/14(金) 23:16:12.94
02/02/14

(...), comme si les hommes etaient juches sur de vivantes echasses,
grandissant sans cesse, parfois plus hautes que des clochers,
finissant par leur rendre la marche difficile et perilleuse,
et d'ou tout d'un coup ils tombaient.
(...)まるで人は、絶えず伸び続ける生きた竹馬に乗っているかのようである。
時に竹馬の足は教会の鐘楼よりも高く聳え、結果的に歩行を困難かつ危険にする
だけで、突如、人はそこから転げ落ちるのだ。
ここの clocher は当然「教会の鐘楼」なのだが、動詞 clocher には「びっこを
ひく」という意味がある。単に高いだけなら fleche(尖塔)の方がふさわしいと
思える。和歌でいうところの縁語の働きをしているのではなかろうか。

2013/02/14(木)

スワンの恋の最終場面。

>今再び眼前に浮かぶのを感じた(高遠)

>ごく身近に感じられて目に浮かんだのは(吉川)
266吾輩は名無しである:2014/02/15(土) 21:46:11.95
2007/02/15(木)

今読んでる、主人公の友人ブロックの挿話――

彼が最初にいらいらさせたのは父で、父は彼が濡れているのを見て、不思議に思ってたずねたのだった。
おや、ブロックさん、いったい外はどんな天気なんです? 雨でも降ったんですか?…』
ところが父の引き出したのはこういう答えだけだった。
「雨が降ったかどうかは、まったく申し上げられませんね。ぼくは断然、形而下的偶発事の枠外で
生きる覚悟を決めましたので、感覚もそんな偶発事をぼくに知らせる労をとろうとはしないのです」

この生意気で才気ある友人は、その後、もう忘れた頃に時々出てきて、最後には…

2011/02/15(火)
集英社鈴木訳に慣れた自分にとって、岩波吉川訳の「お母さん」には違和感を覚えた。

2013/02/15(金)
Mais tandis que, une heure apres son reveil, il donnait des indications
au coiffeur pour que sa brosse ne se derangeat pas en wagon, il repensa
a son reve; il revit, comme il les avait sentis tout pres de lui, le teint
pale d'Odette, les joues trop maigres, les traits tires, les yeux battus,
tout ce que ? au cours des tendresses successives qui avaient fait de son
durable amour pour Odette un long oubli de l'image premiere qu'il avait
recue d'elle ? il avait cesse de remarquer depuis les premiers temps de
leur liaison, dans lesquels sans doute, pendant qu'il dormait, sa memoire
en avait ete chercher la sensation exacte.

↑この部分のことだね。
il repensa a son reve;  彼は自分が見た夢のことをふたたび考えた、そして・・・
il revit, comme il les avait sentis tout pres de lui,
彼はもう一度見た、まるでそれらのものが自分の身近にあるかのように感じながら
le teint pale d'Odette, les joues trop maigres, les traits tires, les yeux battus,
オデットの青白い顔色、あまりに痩せた頬、ひきつった輪郭、疲れた目を、
267吾輩は名無しである:2014/02/16(日) 21:14:05.69
04/02/16

マドレーヌより敷石に足引っかけるところの方が印象に残ってるな。

2006/02/16(木)

原文は、こんな風です。最終巻「見出された時」から好きな
ところをひとつ…。(うねるような文章ではないですが、
多層的に語る特徴は出ていると思います。
Une heure n'est pas qu'une heure,c'est un vase rempli de parfume,
de sons, de projets et de climats.(A la recherche du temps perdu,
Le Temps retrouve.Bibliotheque de la Pleiade,
Gallimard 1989 4 pp467-468 )
「1時間はただの1時間ではない。それは、匂いと、音と、計画と、
気候がいっぱい詰った壷である。」
(井上訳、筑摩書房 プルースト全集第10巻293ページ)

2012/02/16(木)

「失われた時」でもバッハの名は9回出てくる

ドビュッシー、フランクとフランスの作曲家について書かれたものを読むと必ずと
言っていいほど、また「失われた時を求めて」でもワーグナー崇拝、ワグネリズム
に出くわすのだけど、当時フランスで、なぜ、どのようにワーグナーがもてはやされ
たか、なかなかイメージできない。
検索すると「失われた時」ではワーグナー(ワグネリアン、ワグネリエンヌ、ワグネリズ
ムも含め)は実に45回も登場。
バイロイトも8回。うち半分はオデットがスワンの金でスワンをパリに置き去りにして
ヴェルデュラン夫人一行とバイロイト詣に行くくだり。
268吾輩は名無しである:2014/02/16(日) 21:16:12.50
2012/02/16(木)

「失われた時」ではショパンの名も29回登場し、これは楽聖ベートーベン(22回)すら
上回っており、多分ワーグナーに次ぐ。
プルーストは、受け売りのワグネリエンヌであるカンブルメール若夫人を登場させ、彼女
にショパンは古い、時代遅れとディスらせるけど、プルースト自身はがショパンの偉大さ・
先駆性を理解していたのは「ソドムとゴモラ」の一節にもあるとお
りですね。

ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、
そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。
しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、
あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、
そのときまで識別できないようにしてわれわれの手をふれさせないでいたあの楽章なのである、
われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、
それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、
われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。
われわれはそれを他のものよりも長く愛しつづけるだろう、
なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。

プルーストの無意志的想起が、決して能動的なものじゃなく、
常に不意に襲われるような受動的なものだからというのもあるし、
能動的に(つまりロゴスに頼って)追求した場合の想起は失敗してしまう。

ヴァントゥイユ、エルスチール、ベルゴットの三銃士ももちろん
ディオニュソス側の人物だろうと
269吾輩は名無しである:2014/02/17(月) 21:18:25.56
2012/02/17(金)

家にとっての印象は、科学者にとっての実験のようなものだ、
ただし、つぎのような相違はある、
すなわち、科学者にあっては理知のはたらきが先立ち、
作家にあってはそれがあとにくる。
われわれが個人の努力で判読し、あきらかにする必要のなかったもの、われわれよりも以前にあきらかであったものは、
われわれのやるべきことではない。
われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、
われわれがひっぱりだすものしかないのだ。

2013/02/17(日)

>確かに、この人(プルースト)には、人並みはずれて豊かな或る内的な機能があって、決して外には
現れない喜びや悲しみを、 限りなく生産していたに違いない。そしてその事は、汲み尽くし得ない
意識を不断に汲む事を強制されている、という意識を伴っていたに相違ない。決して外に出たがらぬ
意識とは、覚めていて見る一種の夢であり、その限り、私の意思に無関係な外物の如く運動するからだ。
(小林秀雄「秋」)

>プルーストは「覚醒のなかにあって夢を発生させる状態に自分をおいて、その夢、あるいは夢に匹敵
する『ある現実』の『生命』を言葉で救済すること、つまり夢の真実を醒めている知性によって再創造
することに精神と肉体のいっさいの力を注いだ作家であった
(保苅瑞穂「プルースト・夢の方法」)

>分析的な小説であっても、それはけっして純粋な知性の小説であってはならない。大切なことは、
知性の光が当たるだけで破壊されてしまうようなある現実を知性の領域に引き入れるためにそれを
無意識のそとへ引き出すことだ。それを首尾よくやりとげるには精神・肉体双方のあらゆる力が
不可欠である。それは、まだ眠っていながら、自分の眠りを知性を持って観察し、しかも知性の介入が
目覚めを引き起こさないようにしたいと、そう思っている人に必要な、慎重で、従順で、大胆な努力と
どこか似たような類いのものである。
(さるアンケートに対する1922年プルースト最晩年の回答。保苅前掲書p114)
270吾輩は名無しである:2014/02/17(月) 21:20:03.05
2013/02/17(日)

こうして私はしばしば朝まで、コンブレーで過ごした時間や、眠れない悲しい夜や、
最近、一杯のお茶の味―コンブレーの人間ならお茶の「香り」というところだろうが
―によって立ち返ってきたあまたの日々に、そして、私が生まれる前に
スワンが経験した恋愛について、この小さな町を離れて何年も経ってから、
細部まで正確に―ときとして、親友たちの生活より、何世紀も前に死んだ人びとの
生活に関してのほうがずっと簡単に細部まで知りうるものだ(もっとも、不可能を可能にする
手段を知らないかぎり、離れた町にいる同士が話をすることなど考えられないのと同じで、
かような正確さはありえないものに思われるだろうが)―
私が知ったことに思いを馳せた。
(『スワン家のほうへT』高遠 pp.430-431)

そんなふうに私がしばしば想い浮かべたのは、コンブレー時代のこと、眠れなかった悲しい夜のこと、
最近になって一杯の紅茶の風味―コンブレーなら「香り」と呼んだにちがいないもの―からイメージが
よみがえった多くの日々のこと、さらに想い出の連鎖により私の生まれる前にスワンがした恋について、
この小さな町を離れて何年もたってから細部まで正確に聞かされたことである。これほどに正確な情報は、
我々の親友の生涯よりも、むしろ何世紀も前に死亡した人物の生涯に関してこそある町からべつの町へ
通話するのが昔なら不可能と思えたのと同じで、不可能を回避する妙手を知らないだけの話である。
(吉川 pp.394‐395)

※吉川訳では、最初の段階で「私がしばしば想い浮かべたのは」と結論を先取りしている。
なので、読者は「どういうことを想い浮かべたのだろう」と次に注意がいく。
あと、最後の文で吉川氏は「それが不可能に思えるのは」と、前文からスムーズに
繋がるような訳にしてあるが、高遠氏はかっこに入れて文のつながりが悪い。
271吾輩は名無しである:2014/02/18(火) 23:02:47.58
03/02/18

ゲルマント公爵夫人(オリヤーヌ)はゲルマント元帥の三女の娘。
ゲルマント大公夫人はゲルマント元帥の次女の息子(ゲルマント大公)の嫁。
(ただし最後の午後のパーティの時点では、ヴェルデュラン夫人=大公夫人)

ちなみにゲルマント公爵(オリヤーヌの旦那)はゲルマント元帥の長女の子。
つまりゲルマント大公、ゲルマント公爵、ゲルマント公爵夫人はいとこ同士。
で、この三人およびシャルリュス男爵、マルサント伯爵夫人(サン=ルーの母)
の叔母に当たるのがヴィルパリジ公爵夫人。

貴族っつーのは近親婚のうえに名前を継いだりするので、実にややこしいな。
ブラッサイの『プルースト/写真』って本(岩波書店)に系図が載ってるので
それを参照するのが吉(このブラッサイの本も面白い)。

死の床にあるプルーストの写真(byマン・レイ)
ttp://www.getty.edu/art/collections/objects/o53333.html

2006/02/18(土)

さて、プルーストを読む前提として、フランス語が全く読めなくては
原文にあたっても無理なので、例えばNHKの「フランス語」講座を
一年やってから、辞書と文法書を片手に、以下の本でプルースト本に
触れることをお勧めします。
「プルースト「スワンの恋」を読む」吉川一義編 白水社刊 2005
フランス人の朗読CDがついていて、プルーストの世界的研究者の
吉川教授の訳文(解説)が原文とともにあります。
大きな書店ならば、あると思うのでこの本から挑戦してみては
どうでしょうか。

鈴木訳で10巻まで読み進めてきたのだが、サロン描写がなくなったと思ったら、
えんえんと続く嫉妬に苦笑しつつ、寝ているアルベルチーヌを肴にしているのはよかった。
272吾輩は名無しである:2014/02/18(火) 23:05:33.04
2006/02/18(土)

ゴンドラを小広場の前で待たせた私たちは、聖ヨハネがキリストに洗礼をほどこしているヨルダン川の水を
眺めていたが、いまその洗礼堂とモザイクを思い浮かべると、ひんやりとした薄明かりに包まれて私の
かたわらにひとりの婦人がいたことを無視するわけにはいかない。それを大切に思う時がやって来たのだ。
ヴェネッィアにあるカルパッチョの描いた「聖ウルスラ物語」のなかの年とった婦人のように、うやうやしくも
熱狂的な心をこめて喪服に身をくるんだ彼女は、頬を赤くし、悲しげな目つで、黒いヴェールをたらしている。
何物も彼女をやわらかな光に照らされたサン=マルコ寺院から外へ連れ出すことはできそうにないし、
まるでモザイクと化したように、そこに彼女用の不動の席が確保されているのだから、
今でもサン=マルコ寺院に行きさえすればかならず彼女に再会できるだろう。この婦人こそ私の母である。
鈴木訳「逃げ去る女」PP377-378

私にはいまや1つの時が到来しているのだ。ーゴンドラが
ピアツェッタのまえで私たちを待っていたあいだ洗礼堂に
はいって聖ヨハネがキリストに洗礼をおこなっている
ヨルダン河の波のまえに自分が立っていたのを思いだすとき、
あのつめたい薄くらがりのなかで自分のそばに寄りそって
1人の女性がいたことに自分で無関心をきめこみえない
1つの時が到来しているのだ、ーその女性は、人が
ヴェネチアでカルパッチョの「聖ウルスラ」のなかに見る
年とった女のように、尊敬と感激とに燃えて喪服に身を
つつんでいた、そして赤い頬をもち、悲しい目をし、
黒いヴェールをおろした彼女は、サン・マルコ聖堂の、
あの静かなあかりに照らされた祭壇から、もうけっして
私が勝手にそとへ連れだすことはできないけれど、モザイク
画像のようにそこに不動の席をとってもらっているから
私はいつでもそこにきて会えることがたしかであった。
その女性こそ私の母なのだ。井上訳「逃げ去る女」p331

2012/02/18(土)
自分の作品にその独自の道をたどらせようと思えば(……)
その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。
273吾輩は名無しである:2014/02/19(水) 21:17:29.93
03/02/19

気ままに読みやすそうなところから、手をつけて、
抄訳版2巻→3巻と読み終わり、さかのぼって1巻の途中から
読んでまつ
冒頭は眠そうなので、やっぱ一番最後に

ちと失敗したのは主人公がバルベックでシャルリュス
男爵と出会うシーンは、「ソドムとゴモラ」より先に
読んでおくべきだった、と思いました

2006/02/19(日)

「フェードル」「アンドロマック」にミュッセあたりを読んでおかないと
わからない作品。日本では他にシャトーブリアンなんかがもっと書店に
おかれていないことが、この本を読むのに難解さを与えている。

A time has now come when, remembering the bapistery of St.Mark′s-contemplating
the waters of the Jordan in which St John immerses Christ, while the gondola awaited us at the landing
-stage of the Piazza-it is no longer a matter of inddiference to me that,
beside me in that cool penumbra, there should have been a womam draped
in her mourning with the respectful and enthuasistic fervour of the old
womam in Carpaccio′s St.Ursula in the Accademia, and that that woman
,with her red cheeks and sad eyes and in her black veils, whom nothing can
ever remove from that softly lit sanctuary of St. Mark′s where I am always
sure to find her because she has her place reserved there as immutably
as a mosaic , should be my mother.
(From゛The fugitive゛,translated by C.K.Scott Moncrieff)
総題が Remembrance of Things Past(?!) という古い訳です。
274吾輩は名無しである:2014/02/19(水) 21:20:34.72
2007/02/19(月)

再読していて気がついたのはプルーストは実は「面白い」ということ。
難解な小説の代名詞のように言われているが、単純にストーリーを
追っていくだけでも楽しめる。

2012/02/19(日)

プルーストがほとんど唯一の栄養補給源としていた、作品でも「朝のカフェ
・ オ・レの味は、われわれに晴天への漠とした希望をもたらす」とされている
カフェオレ

プルーストがコーヒーエキスは冷えて時間が経ったものでもよいが、ミルクについ
ては新鮮なものに拘り、しかも暖め直しを厳禁していたのはなぜなのか。

牛乳でもたんぱく質の凝固した薄皮ができる(ラムスデン現象)。プルーストは
あれが嫌いで、かといって、あれを取り除くことによって栄養の減ったミルク(
微妙に味も変わっているはず)を飲むこともまた嫌ったのではないかな。
275吾輩は名無しである:2014/02/19(水) 21:22:33.60
2012/02/19(日)

>これほど長いあいだ消滅していた当時の自我が、ふたたび私のすぐそばに来て
いたので、ちょうどまだ眠りからさめきれない人にとって、逃れゆく夢のなかの
物音が自分のそばに聞こえる気がするように、私にはその直前に発せられた祖母
の言葉がまだ耳に残っているように思われたが、しかしそれはもはや一つの夢に
すぎなかった。

>そして私はただ、次のような矛盾した苦しみを堪えることにつとめた。
一方にはかつて知っていた通りの形で、つまり私のために作られて、私のなか
に生き残っている一つの存在、一つの愛情があった。その愛にとっては、すべ
てが私によって成り立ち、私を目標とし、たえず私に向かっていたから、どんな
偉人たちの才能も、開闢このかた存在したありとあらゆる天才も、祖母にとって
は私の欠点の一つにも値しないと思われたことだろう。だがまた他方では、この
幸福感を現在のものとしてふたたび体験したそのとたんに、まるで肉体的苦痛
のぶりかえしのように、祖母はこの世にいないのだという虚しさの実感が湧きあ
がって、それが幸福感を貫くのが感じられた。

以上、鈴木集英社文庫より
http://www.campus.ouj.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/eBook/proust_09h.pdf

中井久夫の論考より
http://blogs.yahoo.co.jp/anamnesis1964/24304945.html

「心情の間歇」(Les intermittences du coeur)という表現が出てくる唯一の箇所
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32735/1/KyoyoShogakuKenkyu_116_Okita.pdf
276吾輩は名無しである:2014/02/19(水) 21:24:50.51
2012/02/19(日)

どんな時にそれを検討するにせよ、われわれの魂の総体というのは、ほと
んど虚構の資産でしかない。その富の目録が何度も報告されていてもそう
なのである。というのもある時はこの財産のある部分が、またある時はそ
の他の部分が自由に動かせないからであって、このことは実効性のある豊
かさであれ夢想の上の豊かさであれ同じことである。私の場合であれば、
ゲルマントという古い家名が喚起する夢想の豊穣さも、またそれよりはる
かに重大な、祖母に関する本当の思い出の豊富さもということになる。そ
れはなぜかといえば、記憶の混乱には心情の間歇が結びついているからで
ある。われわれの内的な財産のすべて、過ぎ去った喜びや悲しみのすべて
が永続的にわれわれの所有物であると思えるのは、恐らくわれわれに身体
があるからであり、こうした誤解においては身体はわれわれの精神性を収
めている容器に似たものになる。こうした喜びや悲しみが逃げて行ったり
戻って来たりすると考えるのも、多分同じくらいに不正確であろう。いず
れにせよそうした感情がわれわれの内に残っているとしても、それはほと
んどの場合見知らぬ領域にあって、そこではこうした過去の感情はわれわ
れの役に立たず、そのうちの最も日常用のものでさえ別の次元の記憶、意
識の中でこれらとの共存を一切排除する記憶の数々によって抑圧されてい
る。しかしこのような喜びや悲しみが保存されている感覚の枠組みが再び
拾い上げられれば、今度はこの感情のほうで自分とは相容れないものを同
じ権限ですべて追放し、そうした喜びや悲しみを経験した自我それだけを
われわれの内に落ち着かせるのである。(「ソドムとゴモラ」)

>そうしたすべてのものは、私にたいして、教会を町の残りの他の場所とは全然ちがった何物かに
していた、つまり教会を、いわば四次元の空間――その第四の次元は、時なのだが――を占める
ようなある建物にしていた 
(「スワン家のほうへ 第一部」井上訳の長い一文から切り取った)

私たちが見るのは、通常の観察者にとっては、とるに足らぬ無意味とも思われる細部なのですが、
実際にそれは遠く離れていて、大きな努力を払ってはじめて視野にとらえられるものなのです。
277吾輩は名無しである:2014/02/20(木) 22:59:59.69
2013/02/20(水)

朝日カルチャーセンター新宿教室

新訳で読む「失われた時を求めて」
− 「ゲルマントのほう」の導入部を読む
講師京都大学名誉教授 吉川 一義
日時 5/25, 6/22, 7/6各土曜  15:30-17:00

<テキスト> プルースト作/吉川一義訳『失われた時を求めて5』
(岩波文庫、2013年5月刊予定):各自でお求め下さい。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=195488&userflg=0
278吾輩は名無しである:2014/02/21(金) 01:31:28.92
個人差があると思うけど全巻読むのにどれくらいかかるの?
ニコニコ大百科では最低でも一年かかるって書いてるw
279吾輩は名無しである:2014/02/21(金) 01:41:30.10
>>64
同感
ボクシングの亀田スレにいる変な荒らしと似てる
280吾輩は名無しである:2014/02/21(金) 21:30:07.31
03/02/21

語り手の「私」が上流階級に潜入できた理由は大きく二つあると思う。

1. スワンと交流が(爺さんの代から)あったり、
   父親とノルポワ氏とのあいだに付き合いがあったり、
   祖母がヴィルパリジ公爵夫人と旧い知り合いだったりと、
   プチブルとはいえ上流社会にそれなりの伝手があった。
   またそうした状況が手伝ってサンルーと友だちになったのも、
   「私」がゲルマント公爵家に受け入れられた一要因だと思う。
   (ただ、何故にサンルーがああまでも「私」のことを好いたのか、
    俺はここんところがよくわからない。この点についてサンルーの
    心理描写ってありましたかねえ? 覚えてないんですが)
   それから、シャルリュス男爵が「私」を狙っていた(、というのも
   ゲルマント公爵家とのつながりってことでは無視できないかも。

2. 上流階級の人々および貴族に憧れるブルジョアたちは、芸術家
   乃至その卵の後援者となることで、自らの才覚をアピールする。
   それも、すでに評価の定まった芸術家の後援者となるよりは、
   むしろ新たな才能を発掘し、育て上げることのほうが重要である。
   なぜなら、それによって「私は芸術を愛し、理解している。新しい
   才能を見出す鑑識眼もある」ということを他者に示せるから。
   だから芸術家の卵である「私」は、一種パトロネージの対象として、
   ヴェルデュラン夫人の小さな党や、ゲルマント公爵家をはじめとする
   上流社会に潜入できたのだった。
   むろんその場合に、芸術家の側から庇護や交流を求めても、
   当の貴族やブルジョアたちからは相手にはされない。
   彼ら彼女らは自らが主導権(≒生殺与奪の権)を握っていないと、
   とにかく気に入らないからね。
281吾輩は名無しである:2014/02/21(金) 21:31:53.44
03/02/21

2に補足をしておくと、「私」が芸術家の卵として扱われる背景には、
ベルゴットやエルスチールが「私」の才能を買っていた(少なくとも
好意的に見ていた)ことがあると思う。
しかし、ベルゴットやエルスチールが、こと創作に関してほとんど実績の
ない「私」に好意的だったのはなぜなんだろう? 

それはさておき、
「芸術を理解しているつもり、でもホントは何もわかっちゃいない人々」
をプルーストが扱うやり方って、辛辣で面白い。

サロンの成り行きは、政治家の趨勢ぶりを当てはめればいいのだろうけども。
社交界の作者への態度は、「あなた、良い作品をかくためにも、よぉーく見ておくがいいことよ」的なカンジですね。
プルーストがサロンに出入りするのに、母親の持参金が大いに役立ったことなんかも、主人公の状況を把握する上で重要なのかもしれません。

2012/02/21(火)

吉田城「プルーストと身体」所収の「フィアスコ 性的失敗と小説」66頁以下で
16歳のプルーストがポケットに10フランをしのばせて、はじめて「女を買いに行く」
エピソードが描かれています。
親の目を盗んでではなく、医者であった父親が、息子のマスターベーションの悪癖をやめ
させようとして、10フランを渡し、売春宿に行くよう半ば強制されてのことだった。

>だからマルセルは、はじめての楽しみを味わいに行くというよりは、「治療を受けに行く」
あるいは「自分の身体に重要な転換を起こさせる」という悲痛な気持ちで娼婦のもとに赴いた
のである。なんと不幸な初体験であろうか。

(そういえば、初体験のことをコペ天という小説だかドラマだか映画があったな)
282吾輩は名無しである:2014/02/21(金) 21:33:30.46
2012/02/21(火)

そのあともこれでもかと想像を交えて、娼家でのマルセル君の「悲惨な体験」が描かれ、プルースト
の叔父への手紙が引用される。動転して娼家の備品である尿瓶を壊してしまい、またセックスも
できなかったと嘆き、、父親には恥ずかしくて頼めない尿瓶の弁償代の3フランを無心する内容。
吉田は「この不幸な体験が、一種のトラウマとしてプルーストの性的嗜好や性愛観に大きな影を
落としていることは否定できない」という。

おそらく、ほどなく無事に童貞喪失はしたと思われるが、前に紹介したタディエの淡々としてユーモア
を感じさせる記述と、同じことを書いているというのにその筆致の違いに驚かされる。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/book/1309272869/991(最後の引用からもわかるように
タディエの筆致自体がエスプリに富んでいる。)

「失われた時」の第1巻がグラッセ社からでた1913年は「春の祭典」のスキャンダラスな
初演騒ぎがあった年でもあるんですよね。
だから、ストラヴィンスキーを出すとしても「見出された時」以降でないと時代が合わない。

その他の作曲家についての登場回数
ドビュッシー 16回
フォーレ    4回
2回 ベルリオーズ、ダンディ、ラモー  
1回 フランク、ラヴェル、ボロディン   
0回 デュパルク、ショーソン、デュカ、サン・サーンス、
   サティ、ヴェルディ 

六人組やプッチーニ(ヴェルディですら0回)は時代からいって
出てこないはず。

ミシアはユルベルチェフ公女のモデルとされている。
283 ◆w/TS9OfrW. :2014/02/22(土) 13:08:15.78
>>278
集英社文庫で13冊あるから、最低でも1年はかかる。もっともある訳者によると
二日で一冊読めるらしい。

ところで、敷石につまずいて過去の記憶がよみがえって幸せな気分になるというが、
(過去と現在が融合する)不幸な記憶がよみがえった場合でも幸せな気分になるの?
284吾輩は名無しである:2014/02/22(土) 20:33:19.05
2013/02/22(金)

「おそらく、夜の空き時間にはプルーストでも読んでいるのだろう」
コンシェルジュ=マルセル、清掃婦=アルバレ
285吾輩は名無しである:2014/02/23(日) 03:41:29.72
>>283
訳文より原文の方がはるかに早く読めます。
プルースト節に慣れてしまうと。
286吾輩は名無しである:2014/02/23(日) 20:13:22.41
2012/02/23(木)

1888年5月17日に書かれたと思しき叔父宛の手紙が唯一で、その後、
プルーストは自身の性的体験に関してはまったく語らず、同性愛につい
ても強く否定し(時には冷やかしに激怒して、決闘さえ厭わなかった)隠
しとおしたと吉田論文には出ています。

真木悠介「時間の比較社会学」(岩波現代文庫、2003)
当初の単行本は1981年刊行。

第4章の一が「失われた時」、二が「見出された時」と名づけられている。
ジョルジュ・プーレの「人間的時間の研究」、さらに初期の「楽しみと日々」
も含め「近代的自我の文学の到達点」としてプルーストがさかんに引かれる。

http://d.hatena.ne.jp/mii0625/20040618

このたいした作家の場合、突然そこに閃きのように、あるいは稲妻のように、その深い直感が出てくるのです。
それが出てくると全体に生命が交って、それまで延々ときたものが、突如として立体的に結晶する。
ほかの作家には見られないすばらしいものです。
それは、突然一つの直感が意識のなかからわき出してくるのです。
そうすると全体が生き生きとしてきて、それからまたずっと普通に色あせて、その流れが何百ページと続いて、またそこに一つの稲妻が光る。
プルーストの、たとえば記憶の問題にしても、思想の問題にしても、あるいは死の問題にしても、そういう形で出てくる。
つまり単なる観念としてではなくて、プルーストの全存在を揺り動かす、じつに現実的なものとなって、彼に把握されて、それが文章にそのまま反映されてくるのです。
私はそこから、じつにたくさんのことを学びました。

2013/02/23(土)

ゲルマントの方に入ると、ラベルマやサンルーとラシェル、祖母など
いろいろなテーマが出てきておもしろくなる。

コンブレーが「全編の序曲であり、第一篇の序章でもある」と
井上究一郎が言ってたよ。
287吾輩は名無しである:2014/02/24(月) 04:38:38.96
>>240
気付いているけどね。
一番最初に気付いたのはバッハ教会カンタータを歌う合唱団に入ったとき。
人類が滅びれば、バッハやモーツァルトの音楽も消えてしまうんだ・・・と思った。
まことに惜しいことであるが、人類はいずれ滅亡する。
288吾輩は名無しである:2014/02/24(月) 20:35:26.71
2012/02/24(金)

>プルーストがシャーロック・ホームズを知ってて、ボードレール訳で読んだと思われる
ポーのデュパンものと比較してたのには驚いた(書簡集にて)
289吾輩は名無しである:2014/02/25(火) 20:54:04.68
2006/02/25(土)

プルーストは、この作品をこう書いている。
「複雑で、花咲き乱れる、魔法の本」<見出された時>

2012/02/25(土)

賢治童話では、抑圧された性的なものが実体化し、エロチックでグロテスクな姿を現わすことがある。
「若い木霊」の「桃色のペラペラの寒天」といった怪しげな描写をみると(なんか自慰具としての蒟蒻みたい)、
いつもコンブレーの巻で、レオニ叔母が亡くなり親たちが遺産分割等相続問題に忙しいさ中、性に目覚
めた語り手が一人、森を散歩し、裸身に葉っぱをまとわせた農家の娘が現れ自分を抱きしめてくれる性的夢
想に耽るシーン、そのあと、アイリスの香漂う個室でルーサンヴィルの尖塔に向かって、カタツムリの這ったよ
うな痕を黒すぐりの葉につけるシーンを思い出す。
290吾輩は名無しである:2014/02/25(火) 20:55:46.64
2012/02/25(土)

>そうしたすべてのもの、さらに、私にとってほとんど伝説の人物であった人たちから教会に移った
宝物(聖エロワによってきざまれたとつたえられる、ダゴベール王によって奉納された黄金の十字架、
また斑岩と、七宝をほどこした銅とでできた、ルイ・ル・ジェルマニックの息子たちの墓)、そうし
たものがあるために、私たちはまるで妖精たちが訪れる谷間にはいってゆくように、そして農夫がそ
こにはいって岩や木や沼のなかに妖精たちの超自然的な通過の跡がまざまざと残っているのを見てお
どろく、それとおなじ気持で、教会のなかを進んでいって、私たちのいつもの椅子にたどりつくので
あった、またそうしたすべてのものは、私にたいして、教会を町の残りの他の場所とは全然ちがった
何物かにしていた、つまり教会を、いわば四次元の空間――その第四の次元は、時なのだが――を占
めるようなある建物にしていたのであって、その建物は、何世紀にもわたって内陣をひろげ、その内
陣は、柱から柱へ、小祭壇から小祭壇へと、単に数メートルの距離にとどまらず、継起する数々の時
代を征服し、乗りこえて、そこから勝利にかがやきながら出てきたように思われた、しかもその建物
は、粗野で人なれの悪い11世紀を、その壁の厚みのなかに塗りこめ、その世紀が壁からあらわれて
いたのは、鐘塔の階段が玄関脇にうがっていた深い切れこみ口と、その上のごつごつした切石で目も
口もふさがれた鈍重なアーチだけでしかなく、またそんな部分とても、この玄関のまえにしなをつく
291吾輩は名無しである:2014/02/25(火) 20:57:32.64
2012/02/25(土)

っておしかけてきたゴチック様式の愛らしいアーケードの一かたまりによって人目につかなくされて
いて、あたかも田舎くさい、ふくれ面の、きたない服を着た弟が、ほほえみながら、そのまえに立ち
ふさがっている姉たちによって他人の目からかくされているようだった、なおまたその建物は、かつ
て聖王ルイをながめいまもまだ見おろしているように見えるその塔を、教会まえの広場の大空に向か
ってそびえさせながら、一方でその地下納骨所とともに、メロヴィンガ王朝の夜の奥底に沈んでいた
のであって、その夜のなかで、石の巨大なこうもりのつばさのように力強い格縁のついた暗い丸天井
の下を、手さぐりで私たちの案内をしてくれるテオドールとその妹とは、一本のろうそくを手にもっ
て、シジュペールの孫娘の墓を私たちに照らして見せるのだが、その墓石に、貝殻形のくぼみ――化
石の跡のような――をつくったのは、説明によれば、「水晶のランプであって、このフランク王国の
王女が殺害された夜、現在の後陣のところにかかっていたそのランプは、黄金の鎖からひとりでに離
れて、水晶もこわれず、火を消えずに、この石のなかに落ちこみ、その重みで石をやわらかくへこま
せた」のであった。
292吾輩は名無しである:2014/02/26(水) 21:13:45.38
2006/02/26(日)

「改行されて<Fin>の後にピリオドが清書ノート
に打たれている。これはどういうことを意味するのか…。 」

ノートのシミ以上の意味はありません。なぜなら、「失われし時」において、エンディング
は、作者の生命がある時点で暴力的に断たれたという、偶然の事故を表す以上の意味はないからです。
「失われし時」にはエンディングはありません。もし作者の生命が続いていたなら、またまだ改訂作業は続いていたからです。
「失われし時」は永遠の未定稿として残されたのです。

2011/02/26(土)

吉川一義にとってはもし完成すれば
確実に本人の代表的な訳業だし、半永久的に日本の出版史上にも残るだろう

2012/02/26(日)

塚本昌則「フランス文学講義――言葉とイメージをめぐる12章」(中公新書、2012・1・25)
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/01/102148.html

スタンダール、バルザック、ゾラ、それにプルーストの無意志的記憶の先駆者ネルヴァル、ボードレール
などが取り上げられ、ロラン・バルト「明るい部屋」、プルーストで締めくくられる。
引用と彼の注釈を読んでいると、作品を読みたくなる。
293吾輩は名無しである:2014/02/27(木) 01:45:21.70
無意識的記憶
294吾輩は名無しである:2014/02/27(木) 20:24:00.96
2012/02/27(月)

1、小説という形式の行きついた果て・集大成という特権的な文学史的地位
2、古典的近代小説の面と最先端の現代小説・思想の先駆・手本といった面を両方持っている。
(内外のプルーストチルドレンといった人たちを扱うことも可能になる)
3、時代を超えた普遍的側面、ある時代・場所を描いた風俗小説的側面・神話的側面(ギリシャ思想
・キリスト教のヨーロッパの二大源流、さらに遡ってケルト・ドルイドといった古層)の三層を兼ね備え
ている。
(「源氏物語」が古代伝説的な面、王朝物語的な面、近代小説的な面の三層を兼ね備えているように。
大野晋・丸山才一「光る源氏の物語」)
4、西洋音楽・西洋美術(建築・絵画等)への言及・造詣の深さ
5、哲学との関連性(プルーストは学生時代哲学を専攻していたことがあるし、ベルクソンと親戚関係)
6、ユダヤ、同性愛といったマイノリティを描いた側面

ドゥルーズ『狂人の二つの体制1975-1982』に「プルーストを語る」が収められていて、

これはおそらくプルーストをめぐるシンポジウムを抜粋したものだけど、
ドゥルーズのほかに発言しているのは、
バルト、ジュネット、リシャール、リカルドゥ。
ドゥルーズは主にRTPに現前する狂気、それからシーニュ(記号=徴)について語ってた。

>プルーストの特異性は、プルーストを書き直す以外になすべきことが一つも残されて
いない点にあります
295吾輩は名無しである:2014/02/28(金) 20:40:36.93
04/02/28

解説注釈込みで一番厚い8巻が784ページ、一番薄そうな6巻で472ページ。
296吾輩は名無しである:2014/03/01(土) 20:07:28.28
03/03/01

長いんはいいんですが難しいですかこの本?
297吾輩は名無しである:2014/03/02(日) 19:59:55.20
03/03/02

今、ちくまで9巻だがこれまでに出て来た登場人物全てをメモするという暇な事をしてしまった。
その人数は500人くらい。
それでも、〇〇公爵夫人、〇〇侯爵夫人、〇〇大公夫人等、「夫人」の旦那も出てくるので、メモした人数のプラス200人くらいは見た方がいい。
つまり、プルースト辞典というものが存在する理由と言うのも納得できる。

あくまで9巻26ページまでの話。
こんなことをした人、他にもいます?僕は始めなんとなく書き留めていたけど、だんだん本気になっていった。
5巻は強烈に人物が多かった。200人はいる。ここが一番書くのが辛かった。
最近思うことは、そんなことをしなければきっと今頃には読み終えていた。

2012/03/02(金)

RTPでは、アルベルチーヌ失踪(死?)後、さびしさを慰める
ため、語り手が、小さな女の子を家に連れ込んでしまい、ペドフィリアか誘拐犯と勘違
いされ、親に怒鳴りこまれ、警察沙汰になりかけるシーンが確かありました。
http://park8.wakwak.com/~w22/719.htm
 フォークナーの「響きと怒り」でも自殺直前のコンプソンがイタリア系移民の少女に
親切にしてやったら、その家族にやはりペドフィリアか誘拐犯と勘違いされ、警察に
逮捕されそうなになるエピソードがある。

アラン=フルニエ(1886-1914)の「グラン・モーヌ」という青春
小説を読んだ。岩波文庫の天沢退二郎の訳。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2006/01/post_5.html
1913年の作品だから、ちょうどプルーストが自費出版同然でグラッセ社からRTP
の第1巻を出したのと同じ年でベストセラーになったようだ。
翌年には第1次大戦に出征し、戦死してしまったから、この1作のみで名を残している。
プルーストの初期の理解者・擁護者で、その遺稿をロベール・プルーストとともに整理し
ているジャック・リヴィエールは、アラン=フルニエの大親友で、彼の妹と結婚している。
298吾輩は名無しである:2014/03/03(月) 01:03:35.23
しかし主人公はあらゆる事に対して幻滅しすぎだな
299吾輩は名無しである:2014/03/03(月) 21:52:27.60
03/03/03

当然ながら、ストーリーを追うために、その全員の素姓を把握する
必要はないわけで。

ただし、作中の主だった貴族について、
・地位の変遷(例:「スワンの恋」のレ・ローム大公 → のちゲルマント公爵)
・名前(例:ゲルマント公爵=バザン、シャルリュス男爵=パラメード)
をメモっておくのは、ゆっくり読み進めるうえで役に立つ。
縁戚関係はかなり込み入ってるんで、まあ、適当に覚えとけばいいか。

まさかとは思うが、その書き留めた人名の中に、
たとえばワグナーやフェルメール、ロシアバレエがらみの話題で名前の
挙がるディアギレフやレオン・バクスト、「私」とカンブルメールの若夫人
の会話で言及されるドガやプッサン、なんて人まで入っちゃいないよな?

中心人物(なんたら公爵夫人とか)のまわりでその他大勢が渦みたいにダンスでもしている感覚で読んだ。
300吾輩は名無しである:2014/03/04(火) 10:13:07.13
主人公は、その後本当に小説を書けたのか?
301吾輩は名無しである:2014/03/04(火) 20:43:31.33
03/03/04

ちくま全10巻は合計すると6000ページ(?)あるので、単純に計算して1日100ページで60日。
200ページだと1ヶ月で終わる。
で、自分は基本的には、1日100ページで読み進め、たまには1日に300ページ読んだり、または読まない日があったり。
でも平均のスピードを常に100ページにすることを目安にした。そうしないと精神的にちょっときついので。
今は9巻の180ページなので、計算上は後9日で読了。

04/03/04

プルーストの場合現実もすばらしかったのでは?
嫉妬もあざけりも焦燥も裏切りも上等な布の模様や名画のように美的な
生活だったのじゃないですかね。日本の俳句の芭蕉も、内面世界で
プルーストのような美的生活を送っていたと思う。ちょっと表現の
しかたが難しいのだけれど、道をきわめた人たちだと思いました。

過去でも現在でもなく、時間の外に出たときに
物の本質が享受できるのだという記述が
最終巻『見出された時』にあったはず。

2012/03/04(日)

RTPでもアルベルチーヌは、自由を求め、結局、馬から落下して、死ぬ。

アルベルチーヌのモデルとなったアゴスチネリはプルーストが同性愛者であることから男性だが、
彼も実際、飛行訓練中に事故死している。
302吾輩は名無しである:2014/03/04(火) 20:47:37.29
2012/03/04(日)

プルーストは母親がユダヤ人ながら語り手は、ユダヤ人でない設定にしたけど、スワン、ラシェル、
ブロックといったユダヤ人を登場させ、ドレフュス事件を取り上げた。
イスラムについては、プルーストの愛読したマルドリュス版千夜一夜物語やそのシーンを描いた食器などが登場。
やはり一種のオリエンタリズムか(ユダヤ人の故郷もオリエントの一部ですが)。
RTPの入れ子構造(「スワンの恋」が典型)等からこの作品を20世紀の千夜一夜物語と呼ぶ人もいる。
http://www.shirayuri.ac.jp/tagblocks/information/news/cfrench/0000000079.html

>プルーストは、反ユダヤなのではなく、脱ユダヤ化したユダヤ人であり、アイザック・ドイッチャーが、スピノザ
からハイネ、マルクス、ローザ・ルクセンブルク、トロツキー、フロイトと系譜づけた、「非ユダヤ的ユダヤ人」に連
なるひとりであると思われる。ドイッチャーによると、「非ユダヤ的ユダヤ人」とは次のような人々である。≪かれら
はすべてユダヤ人社会の限界をのり越えていった。かれらはすべてユダヤ人社会があまりにも狭量で、古くさく、圧
制的なものを宿していると感じた。(………)この人々はすべてユダヤ人でありながら、異なる文明、宗教、民族文化
等の境界線上に立っている(………)またかれらは各時代の転期の境界線上に生まれ育っている。かれらは(………)
みんな社会に属していながらその社会には受け入れられていない。かれらにその社会を越え、民族を越え、時代や世
代を超えた高い思想をもち、広い新しい地平にその精神を飛躍せしめ、またはるかの未来にまで考えをすすめること
を可能ならしめたのはまさにこの点であった。 ≫
http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/kiyou/tkh05/p55.pdf
303吾輩は名無しである:2014/03/04(火) 20:49:15.91
2012/03/04(日)

昨年出た小澤征爾(この人も庄司薫とほぼ同世代)との対談本の村上春樹発言
>あの時代に大きな役割を果たした創作者は、カフカにせよ、マーラーにせよ、プルーストにせよ、みんなユダヤ人で
す。彼らがやっているのは、既成の文化構造に周辺から揺さぶりをかけることですよね。219頁。

アドルノのマーラー論では、プルーストとマーラーの類似性が言われる。

長いというだけでなく、近代(音楽でいえば古典派・ロマン派の調性音楽)と現代の橋渡しというか。

ソナタ形式のような典型的な古典音楽の枠組み・構造も、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンばかり観賞する
より、マーラーを通じて、より理解することができる面がある。

>マーラーの理解と鑑賞は、…古典とは何か、何だったかを問う行為でもあり、音楽史を新たな視座から見直すことで
もある。マーラーの音楽は、それ自体まさにメタ・ミュージックである。
柴田南雄「グスタフ・マーラー―現代音楽への道」(岩波新書、1984)

RTPもメタ小説といえる。

村上春樹は、マーラーには、シリアスな音楽性、耽美的な旋律のなかに俗謡やユダヤ人の音楽が乱入者のように
混じり込んでいく雑多性の魅力があるという。小澤との対談219頁

プルーストは、語り手をして、作品を大聖堂ないし教会建築に譬えている(フランソワーズが作る牛肉のゼリー寄せ
のような料理、それに服飾といった日常的なものにも)。
教会や大聖堂は、全体としての統一・構造(設計)はしっかりあるのだけど、各部分をとると、雑多な時代の様式が
キメラないしモザイクのように混在しており、それが第四次元である「時」というテーマを浮かび上がらせ、作品の魅
力ともなっている。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15288/1/ronso1320300610.pdf
304吾輩は名無しである:2014/03/04(火) 20:51:09.95
2012/03/04(日)

前にネットでちょっと探して見当たらなかったCONTRE SAINTE-BEUVE全文、
偶然に見つけたけれど、プレイアッド版でもフォリオ版でもない様子。
目次は下記。

JOURNEES DE LECTURE .................. 4
CONTRE SAINTE-BEUVE .................. 58
PREFACE .............................. 59
SOMMEILS ............................. 69
JOURNEES.............................. 78
LA COMTESSE ........................... 94
L’ARTICLE DANS LE FIGARO ............. 105
LE RAYON DE SOLEIL SUR LE BALCON ...... 119
CONVERSATION AVEC MAMAN ............... 138
CHAMBRES .............................. 154
LA METHODE DE SAINTE-BEUVE ............ 161
GERARD DE NERVAL ...................... 194
SAINTE-BEUVE ET BAUDELAIRE ............ 211
SAINTE-BEUVE ET BALZAC............ 243
LA BALZAC DE MONSIEUR DE GUERMANTES ......... 285
LA RACE MAUDITE........................ 311
NOMS DE PERSONNE.................. 337
RETOUR A GUERMANTES................. 360
CONCLUSION...................... 382
A PROPOS DE BAUDELAIRE ........ 398

ガリマールのHPで確認したところ、現在3つの版が売られてたけれど、
PLEIADE版は1040 pages、FOLIO版は320ページ、BLANCHE版は448ページで、
ページ数からいうと最後のものに近いのかな。
305吾輩は名無しである:2014/03/05(水) 19:58:17.19
2006/03/05(日)

京大の吉田先生のプルースト研究

平凡社から出ている、十年以上前プルーストの生原稿の
生成研究を読んだ時、びっくりしたのを今でも覚えている。

2012/03/05(月)

高橋悠治が実作者としての立場から評論家をやっつけた小林秀雄「モオツァルト」読書ノート

「ある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の
中でなったのである」。この一行は、以後の日本の音楽批評のパラディグマになった。だれも音楽との「出
合い」を書くことで、音楽論に替えようとする。そのとき、自分をできるだけあわれっぽく売りこむこと
もわすれない。
 この種の出会いを書くことは、実際にはたいへんむずかしい。何気ないたったひとつの記憶を伝達する
ために、プルーストは「失われた時」の全体を必要とした。「ある時モオツァルトのメロディが頭の中で
鳴った」などというのは、読者には何のかかわりもない偶然にすぎない。そこに引用された楽譜は何でも
よかったのだ。「自分のこんな病的な感覚に意味があるなどというのではない」

A PROPOS DE BAUDELAIRE は、ジャック・リヴィエール宛の書簡みたい
306吾輩は名無しである:2014/03/06(木) 19:16:03.41
2007/03/06(火)

長すぎて挑戦する気しない。
けど何が書かれてるか関心大。
すごーくかいつまんで、どんなことが書いてあるの。
すごーく荒っぽい説明でいい。
でもセンスのある説明をヨロ。

貴族でも労働者でも、人もハチも植物でも、
要するに生殖行動では相似形、みたいな。マジです。
307吾輩は名無しである:2014/03/07(金) 19:55:08.84
03/03/07

『失われた時を求めて』は、長くてわかりにくくて、更に1ページにびっしりと字が入っている為、単純に6000ページと考えない方がいいと思う。
他の会話とかでちゃんと改行してる小説とかの8000ページ分くらいじゃない?

04/03/07

スワンは実在の人物で、プルーストはたぶん彼の息子くらい年が
離れていたと思います。スワン(実際の名前はスワンであったかどうかは忘れた)
はユダヤ人の証券仲買人で、裕福な伊達男、美学の知識もある社交界の有名人物
で、若いプルーストの師匠のような存在だったのではなかったかと思います。
だから「私」はスワンのことなら自分のように知っていたし、スワンの娘の
ことも、またその娘のこともよく知っていたのではないかと思います。

2007/03/07(水)

作品を書こうとあれこれ苦心する主人公が最後になって
ついに書き始めるのだがそれは今までに書かれたこの小説
(らしい)ということで振り出しに戻る

2008/03/07(金)

鈴木道彦は索引作ってる間にも自分の誤訳に気付いたって書いてたけどね。
308吾輩は名無しである:2014/03/07(金) 19:57:53.84
2012/03/07(水)

クロード・モーリヤックの「プルースト」(人文書院、1957)。

井上究一郎が訳している。
原書は1「永遠の作家」叢書シリーズの1冊として1953年に出版された。
プルーストの草稿「ジャン・サントイユ」がさかんに引用される。
少年時代のジャンは、母親から、先生(家庭教師9のレッスンを受けるため
シャンゼリゼ公園に行くことを禁止されると、その先生を殺してやると駄々を
こねて、喚き、自分の喚き声にますます興奮し、母親にも当たり散らし、水差し
を床に投げつけ叩き割ったりとRTPの語り手より露骨に凶暴だったりする。

河盛好蔵(1902−2000)「フランス文壇史」(文藝春秋新社、1961)

第三共和政期(1870−1940)を取り上げている(序説で16世紀末の文芸サ
ロンを経て、18世紀に文壇が形成されはじめるまでが略説されている)
プルーストについて2章、NRFについて1章を割いており、読み物として面白い。
ある時期・世代までフランス文学が日本でいかに崇拝されていたかが実感される。

この人、京都帝大仏文科で河野与一(1896−1984)に教わってたんだな。
309吾輩は名無しである:2014/03/08(土) 00:02:05.81
この世で一番好きな小説。
普通、小説は必ず終わりがある。
でもこの小説は違う。
13巻から1巻へ。
円環は完成し、ウロボロスの輪のように物語は循環する。
永遠に終わらない世界。永久機関のように。
レコードの針が動くようにプルーストの世界に入り込んだのを感じた。
310吾輩は名無しである:2014/03/08(土) 20:51:08.08
04/03/08

「私」はスワンより、20歳前後年下だったように記憶しています。スワンの
娘であるジルベルトとはだいたい同世代。だからジルベルトの娘の話も
自分の子ども世代の話なので(子どもは「私」にはいないが)よく知っていて
不思議はないと思います。
スワンは若い時のプルーストにとって自分のお手本になるような人物であった
ようですから、スワンのことはよく見聞きして知っているのだと思います。
同一視していたのかもしれないですね。

2012/03/08(木)

堀辰雄は、1928年から1934年、プルーストを読み込み、1933年には「美しき村」の連作を書いている。
堀は1923年の震災で母を喪っている。1934年2月に発表された「挿話」(のちに「幼年時代」収録)は
プルーストの「心の間歇」を思わせる内容。
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00000085/ELLF_24_428.pdf

「プルーストと堀辰雄」についてもうひとつ
http://www.lib.tezuka-gu.ac.jp/kiyo/rTEZUKAYAMAGAKUIN-UNI/r39PDF/r39Woo.pdf
311吾輩は名無しである:2014/03/09(日) 18:52:17.94
「おーぷん2ちゃんねる」にプルーストスレ立てたので、
まともな人は移動してください。(ID表示を選択しました。)
http://toro.open2ch.net/test/read.cgi/book/1394346924/
312吾輩は名無しである:2014/03/09(日) 21:16:37.98
05/03/09

なんか魅力的に描けてるの男ばっかり
スワン、シャルリュス、サン・ルーとか。
アルベルチーヌ、オデット、ゲルマント公爵夫人って、もひとつぴんと来ん。

2006/03/09(木)

吉田城の生成論(ジェネティーク)は、良くも悪くも‘フツウ’。
日本語で読めるテクスト生成研究の本がまだ少なかったからか、当時は衝撃あったみたい。
今となっては、松澤和宏の『生成論の探究』の方が数段おもしろい。

ちなみに、かつての名著 鈴木道彦『プルースト論考』(筑摩書房)のなかに、
『失われた〜』の語り手の名は「マルセル」ではない、という論文があるが、
それらなどもある種のテクスト生成研究と言える。

『事典プルースト博物館』(筑摩)という本のなかにも、草稿研究についての章があるので参照されたい。

また、記号論者クリステヴァは、『プルースト』(邦訳・筑摩書房)のなかで、草稿に注目した論稿を書いている。
313吾輩は名無しである:2014/03/10(月) 21:49:04.72
2012/03/10(土)

プルーストは、作曲家のレーナルド・アーン宛1914・1・15付書簡で、アーンの1913・
6・2付「デパ」紙での「春の祭典」初演評に触れているものの、自身は1913・5・29のシャ
ンゼリゼ劇場での初演には立ち会っていないみたい。

ブーレーズとプルーストに接点があるか検索したら、「プリ・スロン・プリ」
の作曲家だけあってドゥルーズに「計算せずに占有する――ブーレーズ、
プルーストと時間」という論考がありますね。

“ブーレーズがプルーストからつかみとった第一の事柄は、騒音や楽音が、最初それらが
結びつけられていた登場人物や場所や名前から離れ、縮小したり拡大したり、付加したり
削除したり、速さや遅さを変えながら、絶えず時間の中で変形する自律的な「モティーフ」を
形成するよう導くプルーストの手法である。当初、幾分標識のように、或る風景や或る人物
に結びつけられていたモティーフそれ自体が、今や、変化に富んだ唯一の風景、変わりゆく
唯一の人物となるのだ。”
http://www.asahi-net.or.jp/~nj8f-tkmt/bbs_past_17.htm
314吾輩は名無しである:2014/03/11(火) 21:29:57.24
03/03/11

そういえば、小林信彦氏が「飛ばし読み」を勧めていたなあ。
シャルリュスが登場するシーンだけ飛ばし読みしても面白い
と思ふ。
ただ、好きなところを読んで楽しむためには、全体の構造が
分かっていた方がよさそう・・・

2012/03/11(日)

ヴァレリー・アファナシエフ「音楽と文学の間――ドッペルゲンガーの鏡像」

>『失われた時を求めて』を例として引きたいのですが、ここではいろいろな文章が結びつき、次々に
発展していく。そうした結びつきが、音楽のなかにもあり、それがひとつの思想に発展していく。結びつ
きあってひとつの空間というものがつくりだされます。それは音楽作品でも文学作品でも、ひじょうに
重要です。音楽というのは、或る意味でメタ=ポエジー、思考や思想を導きだすものです。私にとって
上手なピアニストというのは、この「空間」をつくりだす、つくりだすことのできる演奏家のことです。もち
ろん誰だって空間をつくりだせます。でも、下手なピアニストは、その空間が狭いものでしかない。上手
いひとは広がりのある空間をつくりだせるし、いろいろな結びつきというのもそのなかで生まれてくる。
いろいろなひとびとの潜在的な記憶に眠っているもの、想い出を揺り動かし、豊かなものに結びつけて
ゆく――そういう内容をもった空間をつくりだせるのである。
315吾輩は名無しである:2014/03/12(水) 20:44:10.09
03/03/12

1月12日から読み始め、3月11日に読み終わりました。
当初の予定通りの2ヶ月コース。とは言っても、その2ヶ月の間に、300ページ読む日があったり、2日で50ページという日もあり、結構いい加減のペースだったんだけど、結果的に2ヶ月で読めました。
常に平均速度を100ページに調整したから、上手く行ったと思う。

感想は、読み終わったときは、満身創痍、飽和状態だったんですが、終わりが近づくにつれて終わって欲しくないという気持ちがありました。
プルーストは、静かな喫茶店でかかっているような気分のいいクラシックを聴いているような、そういう作家です。
特に内容も何も無いのだし。ただ最後の数十ページは大円団という印象でした。物語が大円団なのではなく、プルーストが人生をかけての、そういう言葉が『失われた時を求めて』内では珍しく力強く語られていました。
『失われた時を求めて』はブラックホールのようなものです。プルーストが生きている間は何回も膨大な加筆が施され、永久に膨れ上がっていました。だから恐らく、今以上になった可能性も充分にあります。
というか、プルーストはこの作品を終わらせる意図は無かったと思います。だって『時』を表現するのですから。

特にまだ読んでいない方に影響が無いように書きました。これから読もうと思っている方は是非読んでください。挫折は無いと思います。
私はちくまで読みました。
あと、この作品読む前の基本的な知識として、スタンダール、バルザック、ジョルジュ・サンド、ボードレール、マラルメ、モリエールなどは役に立つように思います。
読まなくても全く影響は無いと思いますが、知っていた方が面白いという感じです。
316吾輩は名無しである:2014/03/12(水) 20:47:06.78
04/03/12

印象に残った部分は、物語の後半の、バルベックやアルベルチーヌに対して
主人公が持っていた感情が陳腐化してくるところです。
かつてさまざまな思い出が作られたバルベックは、その魅力をすでに失い、
主人公を悩ませたアルベルチーヌは一人の平凡な女になってしまった。。。
このあたりの心理描写には、はっとさせられたと共に、
今の自分が持っている「気分」に非常に合ったものでした。

この長大な作品を、今自分が持つ「気分」に照らし合わせて読むことができたことで、
非常に充実した読書ができたと感じています。

05/03/12

性別問わず、
人間の俗っぽさの仕組みを興味観察対象として書いているわけで。

母や祖母あたりが「私」の善と美の基本形になってるので、
女について批判的になるのは仕方ない。
まさにこの辺が女に対する厳しさの理由かと
大いなるマザコン

祖母は本当に魅力的に書かれているね。死んじゃうところなんて
涙がうっすらにじんだ。
317吾輩は名無しである:2014/03/13(木) 19:17:43.46
05/03/13

プルーストの中の女性性と、実際の女は「同性」ということだろうか。
一口にホモ、バイといっても無数のバリエーションがあるらしい。

人間は自己の理想像を持っているのだけどその理想像へ近づく手法が人によって異なる、
とかいうのが精神分析の本にあったな。
単純に「イイ男=理想像」というものが客観的に定義可能だとしてしまえば、
1.俺が「イイ男」になりたい⇒異性愛者
2.他の「イイ男」に近づきたい⇒同性愛者
となるんだとか。

「同性愛」だけではなくて
生物的な性別が男/女
自己の理想像が男性/女性(これはジェンダーだから両性や無性も有り)
セックスの相性が良いのが男/女
などなど。
こういうのが複数重なっている人もいて大変らしい。

2012/03/13(火)

ドゥルーズのブーレーズ論で、失われた時を求めては、
ブーレーズ的な区別の、滑らかに、また筋目をつけて読み取られるべきだ、
と書いてあったけれど、クラーゲスのリズムの本質という本だったかに、
リズムの語源のリュトモスが途切れと流れの両方の意味を持っていた、
ということが書いてあったのをふと思い出したけど、記憶違いかも
318吾輩は名無しである:2014/03/14(金) 20:21:05.22
2012/03/14(水)

原宏之「〈新生〉の風景―ロラン・バルト、コレージュ・ド・フランス講義 (文学機械 (1))」(冬弓社、2002)

「失われた時を求めて」に対応するバルトの著作は強いていえば「明るい部屋」かなと思って
いたが、この本は最晩年のコレージュ・ド・フランスの講義自体が、バルトによる完璧な小説だ
という見地に立つ。
バルトの使う諸概念も、最晩年に到達した地点から照らされ、非常にわかりやすく感じられる。
「小説の準備」(新生講義)を読むとっかかりにもなりそう。
バルトはこの講義に続き、「プルーストと写真」のセミナーを準備していたが、自動車にはねられ、
入院、1か月後の1980年3月26日死亡する。

「シャトーブリアン――『ランセの生涯』」(1965)が、個人的な趣味も含めると、バルトのエクリ
チュールのなかでももっとも美しいもののひとつと言っている。
これの収録された(「プルーストと名前」とともに)「新=批評的エッセー」探さなきゃ
http://www.msz.co.jp/book/detail/04967.html

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば
子どものころ住んでた路地の奥さ
そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね
--

そこに立ってるのが「一行のボオドレエル」であれば妙に納得。
プルーストの何千頁とドストエフスキーの何千頁を否定するつもりもないけれど。
319吾輩は名無しである:2014/03/15(土) 22:34:06.07
05/03/15

同性愛板をのぞいてみたけど、皆さん、男女のカップル・夫婦のような
長続きはありえないという、致命的な不幸を背負っているらしい。

プルーストも、結ばれる幸福をあきらめていて
そこからあの観察・考察・記述への愛着?執着?が生まれたのではないか、
というのが僕の考え。

本当の愛は母と祖母で終わっているとか・・・

2008/03/15(土)
調べた結果今のところ鈴木氏が
近代訳的かつ脚注あって読みやすいとのことでした。
井上氏の訳に疑問があって鈴木氏が新たに新訳版を出したのですね。
指し示す人の間違いや古い表現、無駄に長い日本語が改正してあるとのこと。
さらには、同じ訳者でも新しい出版ものは表現も異なる部分もあるそうです。

どうやら死の直前に大幅改稿された第六篇だけを、
「消え去ったアルベルチーヌ」というタイトルで文庫化するようだ。
訳者は高遠弘美とか言う人。

現在鈴木訳では「消え去る女」として訳されている巻ですな。
古くは「消え去ったアルベルティーヌ」として知られた巻が
ナタリー・モーリヤックが発見したとされる「消え去ったアルベルティーヌ」の
大幅切り込み原稿(かなりの量がプルーストで抹消された)によって
訳されているのが鈴木訳。プレイヤッド新版などは「消え去る女」なので
いまだ現在はっきりとどちらが正しいか議論になっているはずですわん。

ただし、モーリヤック一族のナタリーなので表だっての批判が
フランスでは出来にくい雰囲気だと聞いた。
s/消え去る女/逃げ去る女/
320吾輩は名無しである:2014/03/16(日) 20:23:09.21
2008/03/16(日)

ようやく吉川一義の『プルーストと絵画』を読み終わった。

1.文章が平易で読みやすい。
2.各章がほどよい長さだったので一日一章読んだらまあ理解できた。
3.図版はすこしはカラーにして欲しかった。(こういった本の通例で
本に載っている図版だけでは足りないので手元に画集がないとちとつらい。)
4.やっぱりエルスチールに関連する第3部が一番面白かった。

2012/03/16(金)

(シューマンの狂気が気になり、やはりシューマン生誕100年に2010年に書下ろし刊行
された奥泉光のミステリー「シューマンの指」講談社を昨日買い、結局、一気に読みとおしてしまった。文体も
凝っていて、結構、おもしろかった。参考文献の筆頭がグールド、プルーストの本も書いているシュネデールだ
ったことにも吃驚。マリリン・モンローについても書いており、狂気・神経症的なものに魅かれるタイプなのか)。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。
自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、
もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、
こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 
感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。
情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、
分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト『囚われの女』)

……つまり、われわれとは正反対の人間よりも、むしろわれわれに似そこなっている人間がそそる反発がそれであって、
われわれはそうした人間のなかに自分がもっているよくない部分を見せつけられるのであり、自分がやっとそこから救われた欠点が、
いまの状態になるまでに自分が人からそう思われていたにちがいなかったものをいまいましく思いださせるのである。「ソドムとゴモラ」
321吾輩は名無しである:2014/03/17(月) 20:13:17.63
2007/03/17(土)

最後まで読むのに半年かかったが、これ読むのに半年かけるより
他の古典を百冊読んだほうが良かった。

第1篇スワン家の方へ:少年時代のさまざまな記憶
第2篇花咲く乙女たちのかげに:ジルベルトに対する初恋とアルベルチーヌとの出会い
第3篇ゲルマンとの方:あこがれの上流社交界へデビュー、でも幻滅
第4篇ソドムとゴモラ:周り中同性愛者だらけであることが判明
第5篇囚われの女:アルベルチーヌとの満たされない同棲生活と嫉妬
第6篇逃げ去る女:アルベルチーヌの死とその思い出の忘却
第7篇見出された時:子供の頃から志していた小説に関する啓示を得る

2012/03/17(土)

朝吹真理子って、朝吹亮二の娘だったんだ
娘は1984年生まれだから、「麒麟」の同人やっていた頃にパパになったと
いうことになる。
四代続けて慶応だし、亮二の叔母は朝吹登水子だし、その娘由紀子(亮二の姪)
も母を継いでサガンなどの翻訳家。
そして、その夫はプルースト研究者の牛場暁夫ではないか。

吉田健一の「東京の昔」でプルーストを研究している学生を、秘書という名目で留学させてやる
実業家が登場しますが、そういった大金持ちが身近に何人も当たり前にいたということか。
322吾輩は名無しである:2014/03/17(月) 20:15:38.08
2012/03/17(土)

タディエの評伝下221頁
>(1913年)5月29日には、『春の祭典』の初演に立ち会った。ニジンスキーのすばらしい
バレエで、カルサヴィナが一緒に踊り、ストラヴィンスキーの音楽は傑作として後世に残った。
舞台装飾を担当したのはバクストである。舞台がはねたあとプルーストは、作曲家をはじめ、
ディアギレフ、ニジンスキー、コクトーとラリュで夜食をとった。

注をみると、プルーストの書簡が唯一の証拠のよう(日本語版の全集には収録されていない
書簡と思われる)

2013/03/17(日)

Proust の RTP 「全訳」ではなく「部分訳」なら、何種類か出ているようです。それぞれについては、

http://en.wikipedia.org/wiki/In_Search_of_Lost_Time#Publication_in_English

ここの Wikipedia の記事の中の "Publication in English" という項目で10行くらいにわたって解説されて
います。ただし、「部分訳」ではなく「全訳」としては数が限られ、すべてがすでに完結している
ものは一種類しかないと書かれているようです。もともと modern library から出たようですが、
僕が持っているのは、これです。

http://www.amazon.co.jp/In-Search-Lost-Time-Everymans/dp/1841598976/ref=sr_1_4?s=english-books&ie=UTF8&qid=1363468595&sr=1-4

Volume 1 から 4 まで、4冊あります。ハードカバーなのに安いので、僕はこのヴァージョンが好きです。
323吾輩は名無しである:2014/03/18(火) 14:56:03.82
ume
324吾輩は名無しである:2014/03/18(火) 20:22:12.79
2006/03/18(土)

失われた時を求めて 1 第一篇
スワン家の方へ I
マルセル・プルースト
鈴木道彦・訳
定価:930円(税込) ISBN :4-08-761020-9 エッセイ:松浦寿輝

3月17日発売

2012/03/18(日)

プルーストのwikiが石木隆治先生の本を基調に
していることは喜ばしい。

プルーストの金銭の使い方もホテルでしばしばパーティを開いたり、やたらと
高価な贈り物をしたり、法外なチップをはずんだりとばら巻きといってよいが、
結果としては生涯をかけた作品をつくるためにすごく有効利用されている。
四重奏団を自室に呼んで演奏させたりもしているし。

ドストエフスキーは賭博に金をつぎ込み、ほんとうに素寒貧になるまで作品に
着手できなかった。妻もそれを知り、容認していた。
(今なら、ギャンブル依存症で治療の対象だし、自己破産する際にも、免責
不許可にならないよう、管財人がつき反省文を書かされるレベル)

プルーストだったら、原文読むために初級フランス語を勉強して読む価値は十分ある。
325吾輩は名無しである:2014/03/19(水) 12:49:30.07
ume2
326吾輩は名無しである:2014/03/19(水) 20:13:39.22
05/03/19

本当の愛、といっても、そこにもアンビバレントなものがあるよ。
普通に指摘されていることだけど。母への愛は殺意と表裏一体だし、
「私」は幼女誘拐もしている。かなりやばいボンボン。
アルベルチーヌへの金の使い方も、愛がどうのではなく、
単なる破滅指向の表れとしか思えない。彼の愛は、愛というより
心中願望に近い。

2006/03/19(日)

鈴木訳集英社文庫:単行本をさらに改訳した、
と前書きにある。
表紙の水彩画は、単行本に収録されていたものの1枚。

個人的には、単行本のエメラルドグリーンの本体と、5ー6枚入ってた挿絵が素敵だなと思ったわけだが、
やっぱり、ベッドで寝ころんで読むので、文庫本でOK。

井上訳ちくま文庫は90年代に読んだので、21世紀は鈴木訳で楽しむかな。
好きなシーンだけぱらぱら読んでみたが、かなりわかりやすいね(情景がはっきりイメージできる訳)

他の本を読まずに放っておいてでも、この作品は没入しがいがある。
入院しても投獄されても持って行きたい作品。

ところで、
いま好きなひとがオランダに行っているんです。デルフトがどんなか見て来るそうです。

作品を読むにあたっての参考になるか分りませんが、フェルメールのデルフト風景はカメラ・オブスクール
(一部屋に拡大されたバカでかいピンホールカメラのようなものです)を用いて制作された作品と聞きます。
じゃ、なんだ、「プルースト」の眼ってのはつまり節穴か? ってわけじゃないですけど、
美しく黄色に塗られた壁がひとりの芸術家の生命に匹敵したということは、何度でもまっさらなところから
考えるに価いすることだと思っています。
327吾輩は名無しである:2014/03/19(水) 20:15:27.33
2006/03/19(日)

ヴェーニ、ヴェーニ、時! お邪魔しました。それでは皆様、愉しい読書を心ゆくまでごゆるりと……

>井上訳ちくま文庫と今回の集英社文庫とはどう違うのですか?
内容は同じですか?
まず第一に、訳者が違う。第二に、井上訳と鈴木訳は
翻訳に使用している底本が違う。第三に、内容は第二の理由から
全く同じものからの翻訳ではないので、同じではないとも言えるかも
しれない。が、素人が判別できるレベルの違いではないと思うので
気にする必要はないと思われる。それがどうしても気になるなら、
とりあえずガリマールのプレイヤード版と首っ引きで原書と
翻訳をあたってみればいい。

2012/03/19(月)

吉川一義先生のカルチャーセンターでの講義を聴講したことがあるが、本当にすごい
人は、プルーストを読む至福を伝えてくれる。

ある文学作品を知ると知らないとでは人生が変わる。
子どもの頃は宮澤賢治、最近はプルースト

プルーストの作品の魅力には幾分、音楽的要素の割合が多いのかもしれないが、
それでも比喩やら視覚・嗅覚に訴えるイメージやらは翻訳可能であり、その魅力は
かなりのところまで伝わってくると踏んでいる。美学・思想的な部分やモラリスト
的な面は言うに及ばず。
音楽にしても作品中で語られるワーグナーやベートーヴェンの後期カルテットなら
ばフランス人同様に耳で聴いたうえで臨むことができる。ヴァントイユのソナタで
ヴァイオリンのトレモロがでてくると出ていれば、その音をイメージすることも可
能だし。
もちろん、できれば原文でもちっとは読みたいと思っている
328吾輩は名無しである:2014/03/20(木) 07:53:24.56
ume3
329吾輩は名無しである:2014/03/20(木) 10:47:30.38
文学板では下記のような書き込みは禁止です。
 ・スレッドの趣旨に沿わない書き込みやコピペ 
 ・議論の流れを無視した書き込み
 ・5日間にわたり、議論が成り立たない書き込み
330吾輩は名無しである:2014/03/20(木) 12:18:30.00
やっぱり子供の頃の記憶が一番いいな
その時何歳なのかわからないように書いてるけど
331吾輩は名無しである:2014/03/20(木) 19:54:17.27
02/03/20

井上訳は、誤訳意訳が多いというけど
あの連綿たるうねりが、たまらなくイイ。
ちなみに、1〜5巻は飛ばして、
「ソドムとゴモラ」から読み始めるのがオススメ。
アルベルチーヌとシャルリュスが、この作品の本当の主役だったんだ

カルクチュイの港

2006/03/20(月)

去年ちくま文庫(井上)で読了して、今まで読んだ小説でベスト1にしたいくらいなんだけど、
これから読みはじめる人には、「スワンの恋」は飛ばして先に進んだ方がいいよ! ってアドバイスしたい。
(面白いのは、ソドムとゴモラ以降。 官能・倒錯・嫉妬・妄想・発見・・・いろんな意味で過激になって来る)

最後まで読み通すことは目的じゃなく、
大好きなシーンにひたっていたい

「もう時がない。第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がするときには神がその僕、
預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」
時の終りのための四重奏曲 pour pf. vl. cl. et vc. を作曲した男がアポカリプスXの
この箇所を、楽譜出版にあたって書いたらしい序文に引用していたのですが、
後日、この引用は出発点にすぎなかったとも言ってまして、唖然としたことがあります。
似たような感じだったかもなぁとか思っています。

Inständigkeitとか言いたくなるような切迫感は訳書を読んでいても伝わってきますが、
おそらく生半可なものじゃなかったんでしょうね。>ソドムとゴモラ以降の執筆
332吾輩は名無しである:2014/03/20(木) 19:56:27.64
2006/03/20(月)

>こんなにのたくったのよく読めるよなぁ 研究者ってすげーや
いゃー、最初は途方にくれるようですよ。京大の吉田先生の本を読んだ時に
数ヶ月かけて慣れていったと書いてあったことを、記憶してます。
それから、首(都)大の吉川先生の本には、あちらの権威の読み方と
違う読みについて、その部分を本文から別に拡大して解説して
いるのも読んだことがあります。まぁ、読めたものではないわな。

2012/03/20(火)

プルーストは一生懸命外国語の本読んでるよね

ラスキンを訳す際、最初はお母さん、その後はマリー・ノードリンガーに
下訳してもらっていますね。

>マルセルの三年次の成績は、フランス語をはじめ、ラテン語や、ギリシャ語、
歴史ではまずますだったが、ドイツ語や(このあとも外国語はからきしダメであ
る)、地理や、数学などは、先生たちも甘くなく、「並以下」とか「可」とかの評点
しかついていない。タディエ上69頁
333吾輩は名無しである:2014/03/21(金) 13:29:53.16
2006/03/21(火)

「スワン」は主人公の恋について予言するヨハネ的な
先取り話だから、確かに独立性は高いよね。
だから単独で映画になったりもできる。
だから一番面白いともいえるし、取り外せるとも言える。

2012/03/21(水)

MARCEL PROUST - DU COTE DE CHEZ SWANN 01
http://www.youtube.com/watch?v=e_0GOrwXX7I

2013/03/21(木)

半年に1冊は結構なハイペースではないかと。
鈴木道彦氏は60代後半から個人全訳をはじめ
このペースでゴールイン。
吉川氏は60代前半から。「花咲く乙女」とゲルマント
の間が1年空くことになりましたがそれまでは年2冊
ペースを守っている。

高遠氏は吉川氏より4歳くらい若い。
334吾輩は名無しである:2014/03/22(土) 21:11:25.69
2012/03/22(木)

プルーストでサンザシ、スイレン、リラ、ゼラニウム等の植物が印象深く扱われるように
庄司薫「白鳥の歌なんか聞こえない」でも桜のほか、モクレンが冒頭で印象深く登場する

ある植物につきまとうイメージは日本とヨーロッパ、文化が違うと全然違う可能性もある。

中世の「薔薇物語」(ちくま文庫にある)などは出てくるものすべてがアレゴリー(寓意)として読まれるべく
意図されている。
絵画にしても、印象派以前の絵画は書かれているものをイコノロジー的に解釈するのが本来の見方だった。
ジョットーの慈悲、貪欲等寓意画は言うに及ばずシャルダンの赤エイにしてもおそらく描かれた題材が言語
に置き換えられる象徴的意味を有している(ということになるはず。木村泰司によれば。自分としては保留)。
といっても傑作といわれる作品にはそれを超える過剰な何かがあり、魅力となっているわけだが。
勅撰和歌集の時代でも、実際に見たこと嗅いだことのない花でも詠んだ。実際に行ったことのない土地
(典型的には、百人一首にもある「まだ踏み(文)もみず天の橋立て」)でも歌枕として過去テキストを継承
した(本歌取り)。
プルーストの長編も、印象派の絵画とパラレルで植物は、単なる寓意ではなく、モネのスイレンのよう
に、作家がとらえた真実の姿を表すといえようか。

ヴィボンヌ川に咲く「水」連、桜と同じ頃に庭に咲く「木」蓮
「白鳥の歌」に登場する教養の固まりのような老人を語り手の先駆者、それも失敗した先駆者、芸術創造に
辿りつけなかった先駆者としてのスワンに比することはできないか。思いつきの域をもちろん出ないが。
薫君は、抱いてと裸になって迫る由美ちゃんを、自分も抱きたくてたまらないのに、老人の死が彼女をそうさせ
ているがゆえに拒むが、思わず「快楽を漏らしてしまう」(ジルベルトと手紙を奪い合う取っ組み合いのシーンの
表現)。
335吾輩は名無しである:2014/03/23(日) 21:20:38.86
2007/03/23(金)

20年前に出たユリイカのプルースト特集に鈴木道彦の翻訳に臨む決意表明みたいな
文章が載っているのだけど、それによると
・プルーストの文章は一見冗長で難解に見えるが、実際は極めて明快な構造を
もっていて、日本語でもその構造が分かるようにしたい
・一部の批評家のための翻訳ではなく、一般の読者のための翻訳であるべき
という理由で平明な訳にこだわったらしい。
井上訳の解釈に納得できない点が多々あること、原文の長さを尊重するあまりに
日本語として意味が通らない箇所があることに対する不満もあったと述べてある。
336吾輩は名無しである:2014/03/24(月) 14:12:40.69
>>335
なんかあちこちで井上訳の悪口ばかり言ってた人らしいね
そのためこの人についてはいい印象ない
337吾輩は名無しである:2014/03/24(月) 22:01:29.26
2006/03/24(金)

サガンなんて「失われた〜」は挫折する人が多くて勿体ないから、と
「逃げさる女」から読み始めるのを勧めてたけど?

2012/03/24(土)

児玉誉士夫のWIKIをみると、「インドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領
の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで
荒稼ぎをしている。」と出ている。

このデヴィ夫人のWIKIによると、一時、パリに在住し、オデットみたいにドゥミモンドでクルチザンヌ
(ココット)をしていたとか
338吾輩は名無しである:2014/03/25(火) 22:28:31.10
2006/03/25(土)

失われた〜の語り手にとっては、
 ベルゴット(作家)
 エルスチール(画家)
 ヴァントゥイユ(音楽家)
の3者が大きな意味を持つ存在だったと思うのですが、
就中ヴァントゥイユが、 女性同性愛問題(娘およびアルベルチーヌ)とも男性同性愛問題(モレル)ともからむところが面白いと思いました。
プルーストの評論をざっと読みましたが、音楽は、絵画や文学より存在価値が低いように感じられただけに、小説での使い方は絶妙だと思いました。

2012/03/25(日)

名家の意味をめぐって、「名」が問題になったのをきっかけに、プルーストが
一時、巻名を「名の時代」「物の時代」としようとしたことがなかったっけと
2冊の評伝をめくってみた。
ペインター、タディエ。本国人、フランス人であるタディエの評伝が理詰めで
機智に富むのに対し、イギリス人のペインターのはどこか叙事詩的な赴き
がある。1章1章が読み物として完結した感じ。
タディエの訳者は吉川一義だが、ペインターの方は岩崎力。
ジャック・リヴィエールの「フロイトとプルースト」もこの人が訳している。

「スワン家」と「花咲く乙女たち」に跨って、「土地の名―名」、「土地の名―土地」
といった部名があることは言うまでもない。名と実の弁証法みたいな感を受ける。

>不在のものを対象とする想像と、現実に目の前にあるものをとらえる知覚とが、意識
の上でどう異なっているかということは、プルーストの大作を考える重要な理論的支柱
になっている(鈴木道彦「花咲く乙女たちT」はじめに)

日本(中国由来もある?)の「名」と違い、唯名論、実在論といった中世普遍論争に連なる
ものもおそらくあるのか。
339吾輩は名無しである:2014/03/25(火) 22:31:19.84
2012/03/25(日)

>日本の作家でプルーストの影響受けたのって誰?
堀とか中村真一郎とかは有名だけど、最近で誰かいるのかな

松浦寿輝、堀江敏幸といった仏文学者でもありプルーストに言及している作家は
なんらかの影響を受けているといっていいだろうけど。
フォークナーの影響だったら、自分の出身地等特定の地域を舞台にしたサーガを
書いているといった外面的なものでお茶を濁せるのだが。
(だからといって、イーハトーヴを舞台にした一連の童話を書いた宮澤賢治が
フォークナーの影響を受けたわけでないのはもちろん)

ペインターの評伝の訳者後記で岩崎力は、「現代のフランス作家は、そして
フランス以外の国々でも多くの作家は、プルーストと完全に無縁であることはできない」
「プルーストと自分との相関関係を一度は測定し確認する必要に迫られている」と言い、
ソレルスの発言「これからさきもプルーストのように書くなどというのは問題にならない」を
引用し、
 >そのまま模倣するわけにはいかない先達、それを踏台に、さらにその先まで自分が進まなければ
  ならないひとつの段階――ソレルスのこの短い断言から見てとれるのはそういう認識である。
と敷衍している。

影響を受けた作家はたくさんいても、書かれた作品から簡単い影響関係を云々しにくいところがある。

プルースト自身も作品中でアラビアンナイトやサン・シモンの「回想録」について似たようなことを書いている。

「文学全集を立ちあげる」丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士(文春文庫)を読んでいたら、鹿島の発言で、
--
中村さんの小説が何で面白くないのか考えたんだけれど、たぶんフランス文学の理解が通俗的なんだと思うんです。
たとえばプルーストも読んでいると思うんだけどどこか根本のところで外しているんじゃないかという気がする。

岩崎力は『プルースト評論選』で「ジョン・ラスキン」「アンケート」も訳してたっけ。
340吾輩は名無しである:2014/03/25(火) 22:56:33.12
キチガイ キチガイ キチガイ
341吾輩は名無しである:2014/03/26(水) 21:09:36.22
2006/03/26(日)

鈴木道彦訳の単行本では、モレルが前髪を垂らしてヴァイオリン(ヴァントゥイユの曲)を弾く場面の挿絵が入ってましたね。
シャルリュス男爵がモレルの容姿を絶賛するくだりです。

2012/03/26(月)

岩崎力、全集をみると「楽しみと日々」、それに書簡集の一部も訳していますね。
342吾輩は名無しである:2014/03/27(木) 19:59:40.98
2007/03/27(火)

鈴木訳の青本が出た後で
訳業をコンピュータ処理していて
今までの訳と文意の違いがわかり改訂したいと云う様なことを
何かで読んだ

しんどくても乗り越えろ。
藻前らのような読者に読まれることを信じて、プルーストは
苦しい息の下でも命削って書き続けた。

文学における魂の連繋は、時空を超える。
それこそがヒトであることの歓び、知の妙味である。

『失われた時を求めて』は単純にストーリーを追って読むだけでも面白い。
ただ、あまりに長いので大抵の人はストーリーが見えてくる前に挫折してしまい、
その結果、難解と言う評判だけが独り歩きすることになる。

2012/03/27(火)

tout simplement notre vie, la vraie vie, la vie enfin découverte et éclaircie, la seule vie
343吾輩は名無しである:2014/03/28(金) 23:36:39.60
2006/03/28(火)

4冊のプレイヤード版を読み始めたのが、ワールドカップフランス大会が
始まったとき。読み終わったのは、去年のドイツ大会の予選が終わった頃。
2冊目はいつ終わるのか…。
344吾輩は名無しである:2014/03/29(土) 20:12:06.21
03/03/29

アルベルチーヌが死ぬ前後が個人的にはよかったな。
死の直後の喪失感はそれなりに大きいが、
彼女自身についてそれほど細かくは描写しないことによって、
読者にとっても余韻があまり残らないため、むしろ
愛情の度合をうまく表現できていたと思う。

私は原典にも触れながらちくま10巻を読みました。
といっても、アルベルチーヌと追いつ追われつの部分はほとんど飛ばし読みましたが。
個人的には、前半の巻と、最終巻が好きです。ばらばらに伸びていた枝が結び
つけられて一つの円環になった様は、何ともいえぬ感動でした。
この作品は、終わらせる必要があ
ったのだと思います。でないと、最後にこの世界を俯瞰する話者は生まれなか
ったし、そうすると、この文体自体があやふやになるのではないでしょうか。
 それにしても、この作品の「長さ」。それと共に過ごしたたくさんの時間もまた
無上のものでした。
345吾輩は名無しである:2014/03/29(土) 20:14:02.82
04/03/29


いま第六篇「逃げさる女」(ちくま文庫9巻)中盤を読んでいるが。

アルベルチーヌ死後の顕微鏡的な心理解析は圧巻じゃないか?
アルベルチーヌはとっくに死んでしまったというのに、探偵させたり、
証言させたり、果ては「アルベルチーヌが愛しそうな」女を抱くことで
アルベルチーヌ(の思い出)と一体化する、といった倒錯ぶり・・

いや、まったく愛すべき人物だよ、彼は。
切なくて泣けてくる。
ストーカーっぷり極まり純愛に結晶化・・みたいな。

まったく関係なく、かつきわめて個人的だけど
ヒッチコックの純愛映画(あえてそう呼びたい)『めまい』の
あの"切なさ"に通じるものを感じた。
346吾輩は名無しである:2014/03/29(土) 20:18:03.20
2012/03/29(木)

芸術によってのみ他人の見る宇宙を知ることができる
le style, pour l’écrivain aussi bien que pour le peintre,
est une question non de technique, mais de vision.

l’art seulement, nous pouvons sortir de nous,
savoir ce que voit un autre de cet univers

Grâce à l’art, au lieu de voir un seul monde,
le nôtre, nous le voyons se multiplier

芸術作品こそ〈失われた時〉を見出す唯一の手段である
l’oeuvre d’art était le seul moyen de retrouver le Temps perdu

tous ces matériaux de l’oeuvre littéraire,c’était ma vie passée

私のこれまでの全生涯と「天職」
toute ma vie jusqu’à ce jour aurait pu et n’aurait pas
pu être résumée sous ce titre : Une vocation.
347吾輩は名無しである:2014/03/30(日) 19:55:46.64
03/03/30
ジルベルト、ゲルマント公爵婦人、アルベルチーヌで
ほぼ三等分されてるかんじかな。

この作品をプルースト自身の考えの反映と考えたとすれば、
あくまでも作品を終わらせることを前提に考えて、
死そのものではなく、作品を完成させる為の余生があるかに
不安を感じているという趣旨が本文中にあるから。
また、作品の長さは単純に個人的な性格によるものであると考えられる。
というのは、余談でではあるがプルーストはこの作品で行った推敲は
尋常ではなく、出版社泣かせであったようなので。

作品を終わらせる意図があったかどうかはさておくとして、この小説を
「ひとりの作家――彼はのちに『失われた時を求めて』という物語を
創り上げることになる――が誕生するまでの軌跡」を描いたものとして
読むならば、あのような終幕を迎えるのは当然だと思う。
「残された時間は少ない、いますぐにでも書き始めなければ」と思い至った
ときこそ、その作家が誕生した瞬間=物語のクライマックスなのだから。

こういう読み方をしたおれも、第七篇の「見出された時」が一番面白かった。
とくにスプーンの音の場面からの盛り上がりはすごい。

2012/03/30(金)
この3人の「千年紀のベスト100作品を選ぶ」もおもしろい(光文社知恵の森文庫)。
1位「源氏物語」2位「失われた時を求めて」3位「ユリシーズ」
http://homepage3.nifty.com/~hispider/bookdiary/best100.htm

ギリシャ(→ローマ、中世)思想、キリスト教というヨーロッパの二大源流に絞るともいえますね。
プルーストに作品にも当然流れ込んでいる。

http://www.youtube.com/user/kotensinyaku/videos
光文社の映像にプルーストの対談がうpされたぞ!
348吾輩は名無しである:2014/03/31(月) 20:50:00.27
04/03/31

私も死者となってしまった女の過去を探り、嫉妬する主人公を最初は異様に感じましたが、
よくよく考えてみると、死んでしまった者をいつまでも愛するというのと同じように
異様なことではないと思えるようになりました。そもそも嫉妬は過去の出来事でも常に現在へと
転化させてしまうような性質を持った感情ですし、対象が不在であるという事実は愛情であれ、
嫉妬であれ、当初は感情をより強化する方向に作用するでしょう。プルーストはそういう人間の
心理を見事に描いたと思います。

2011/03/31(木)

岩波文庫吉川氏の訳は、日本語でよむプルーストの小説で私には
とても読みやすいとお勧めする。高遠氏の訳も悪くない。
時代を経て、翻訳も進化するものなのかと思った。
349吾輩は名無しである:2014/03/31(月) 20:52:21.48
2012/03/31(土)

ダンディズムの系譜でいくと、シャルリュス男爵、それにユイスマンス「さかしま」の
デ・ゼッサントのモデルとなったロベール・ド・モンテスキューの名も浮かんでくる。

「白鳥の歌」で1回だけプルーストの名が出てくる。かなり冒頭の方

>つまり、おかしな言い方だけれどぼくは、たとえばベートーベンが穴のあいた靴をはい
て髪をふり乱して歩いていたり、晩年のプルーストが薄汚れたヨレヨレのカラーで晩餐に
出てきたり、マルクスがチョッキのボタンをいつもかけ忘れていたり、毛沢東がサエない
綿帽子をかぶっていたり、ゲバラがお風呂に入らず汗くさい野戦服でいたりするなんてい
うのを、猛烈カッコいいと思っちゃうようなところがある。

(RTP冒頭近くの大叔父に巻き毛をひっぱられる恐怖や
巻き毛を切り落とされるエピソード)

>第1巻『スワン家の方へ』が出版されようとしていた矢先の1913年7月に、
プルーストは友人ルイ・ド・ロベールに宛てた手紙でこう書いている…
  第1巻の題名として『一杯のお茶の中の庭』あるいは『名前の時代』というの
 はいかがですか? 2巻目は『言葉の時代』、3巻目は『物の時代』となります。
            (鈴木道彦「プルーストを読む」集英社新書、2002/12/22)
350吾輩は名無しである:2014/04/01(火) 20:19:10.75
2012/04/01(日)

「囚われの女」より。
Cette qualité inconnue d’un monde unique, et qu’aucun autre musicien
ne nous avait jamais fait voir, peut-être était-ce en cela, disais-je
à Albertine, qu’est la preuve la plus authentique du génie, bien plus
que dans le contenu de l’oeuvre elle-même. « Même en littérature ?
me demandait Albertine. – Même en littérature. » Et repensant à la
monotonie des oeuvres de Vinteuil, j’expliquais à Albertine que les
grands littérateurs n’ont jamais fait qu’une seule oeuvre, ou plutôt
n’ont jamais que réfracté à travers des milieux divers une même
beauté qu’ils apportent au monde.

原文と対比させる場合は、井上究一郎訳の方がわかりやすいみたい

>ユニークなある世界の未知の特質、ほかのどんな音楽家もいまだかつてわれわれに
見せてくれなかった世界のこのような未知の特質、そのなかにこそおそらくは、と私は
アルベルチーヌにいうのであった、作品そのものの内容以上に、天才を証明するもっとも
正しいあかしがあるだろう、と。「文学でも同じことでしょうか?」とアルベルチーヌはたずねる
のだった。――「文学でもおなじことですよ。」そういって、ヴァントイユの作品の同一の調子
(モノトニー)のことを思いかえしながら、私はアルベルチーヌに説明した、――偉大な文学者
たちは、ただ一つの作品しかつくらなかった、というよりむしろ、彼らがこの世界にもたらすおなじ
一つの美を、さまざまな環境を通して屈折することしかしなかった、と。
351吾輩は名無しである:2014/04/02(水) 23:23:39.86
02/04/02

Carnets 1,2,3,4 ってのが出版されてる。
帯には Proust au travail
作家の仕事場を覗いてみたい人はどうぞという感じ。

プルーストの花手帳っていうのもあったね。

2011/04/02(土)

faire cattleyaって、プルーストの時代にカトレヤという
単語が性的な意味を含む語で、それにfaireという動詞が
つき、いま風なことばでいうとカトレヤする?(sexする)という
こと。
352吾輩は名無しである:2014/04/02(水) 23:24:50.51
2012/04/02(月)

田中良「プルースト的気象学――『失われた時を求めて』を読む」(近代文芸社、2009・4・1)

「階段」「月」「斜め」といったテーマからの切り口で、自分が読んでいて今まで気づかなかった発見
が随所にあった。

現代の研究の潮流からすると次のような弁明をしなきゃいけないんだなあ
>私も自ずとテキスト中心の分析に傾いていき、その分草稿への目配りがおろそかになっている
ことは否めない。草稿研究なくしてプルースト研究はないといわれる現在、このような草稿研究に
十分裏打ちされていない論集がどれほどの意味をもつのか心もとないが、それでも多少はこれま
で指摘されてこなかった見方があるのではないかと率直に思っている。

島内景二の三島本で、三島の中村光夫との対談『人間と文学』の最後が引用される。

>…しかしぼくは、プルーストはあの小説を書くことによって現実を終わらせようとした
と解釈する。というのは、ことばというものは終わらせる機能しかない。はじめる機能など
ありはしない。…ことばは何もはじめやしないし、革新もしなければ、物事を生みもしなけ
れば、もちろん革命の役になど立つものですか。少なくとも芸術は革命の役には立たない。
社会もよくしないし人間もよくしない。ただ終わらせる。ことばというのは世界の安死術だと
思いますね。
353吾輩は名無しである:2014/04/03(木) 21:01:57.39
2011/04/03(日)

俺の場合、三島から入って、それから三島が絶賛する
スタンダール、フローベルを経てプルーストに至った感じ。
354吾輩は名無しである:2014/04/04(金) 19:31:39.15
2011/04/04(月)

一番古い個人全訳、井上さんの訳は読みにくい。
でも、原文を横に置き読むと忠実に日本語に苦労・工夫し
訳してるのがわかる。

鈴木さんの個人全訳は、鹿島さんが書評で書いている通り、
関係代名詞を井上訳のように、下から訳し上げをしないで、
文意を壊さないように、適時訳し上げで読みやすい翻訳に
なっている。とても、クリアーな訳。

井上さんの東大での弟子である、吉川訳は、まだ一巻しかでてないけど
原文の語順を出来る限り尊重し日本語に移す試みをしている。なのに
井上訳のような読みにくさはない。よくうねるようなと形容される
プルーストの原文を、日本語で再現しようとして読みにくい井上訳とは
違う。

プルーストの一番好きなのは、こっちが巻き込まれて取り込まれていくような
長い文章の快感だな。正直たまに何言っているのか分からないことあるんだけど
なんかあの言葉のつむぎかたに惹かれる。どっちかつうと人物部より風景描写が好きかなあ
なんか人物も風景のように書かれている気もするが。
355吾輩は名無しである:2014/04/05(土) 01:29:31.21
新潮社が3月28日に創刊した『新潮モダン・クラシックス』から
マルセル・プルースト新訳http://getnews.jp/archives/545921
356吾輩は名無しである:2014/04/05(土) 20:44:36.99
2011/04/05(火)

読んでたら頭がクラクラしてきて文体のせいかと思ったら家が揺れていて、ますます目が回ってきて、軽い吐き気がする。そんな感じ

そういえばよく揺れたのだが安鯖の上へ置いたチリ紙の箱が床へ落ちるのを安鯖の上へ置くのを「何かの馬鹿のように」繰り返していた

金具愛好家なので物をネジで固定したりが好きなのでまあそれだけだった

2012/04/05(木)

ジョナ・レーラー(鈴木晶訳)「プルーストの記憶、セザンヌの眼」(白揚社、2010)
 原田武「プルースト 感覚の織りなす世界」(青山社、2006)
 ミシェル・シュネデール(吉田城訳)「プルースト 母親殺し」(白水社、2001)
357吾輩は名無しである:2014/04/06(日) 13:45:11.93
03/04/06

あなたにとっての「マドレーヌの味」は何ですか。

2012/04/06(金)

プルースト自身が、「私の作品は、無意志的記憶と意志的記憶の区別に貫かれていますが、
この区別はベルクソン氏の哲学に現われていないばかりでなく、それと矛盾するものでさえ
ある」と言っている。

過去現在未来が等価になって、質的変化を遂げながら持続する時間がベルクソン的時間論、
全ての過去が今現在の幻惑の中に収斂し未来までもを巻き込んで行くのがプルースト的時間論

私見ではやはりプルーストにはベルクソンの影響があるだろう、
というのが率直な感想。影響の大小はわからないけれど。
特に『物質と記憶』における純粋持続としての時間の考え方は、
無意志的想起と無縁じゃないように思えるし、
それからベルクソンにおける「直観」というテーマは、
プルーストの反知性主義的な態度とも無縁じゃないような印象。
358吾輩は名無しである:2014/04/07(月) 07:49:48.98
新潮社で新訳ってまじ?
光文社が実質刊行中止状態だから嬉しいわ。
359吾輩は名無しである:2014/04/07(月) 21:41:25.87
03/04/07

干したばかりの布団のシーツにあった刺繍の
ざらざらとしたあまい肌ざわり、
そのころ、日曜の朝はかならず晴れていた。

2008/04/07(月)

○楽しみと日々(短編集)
ジャン・サントゥイユ(死後刊行)
○失われた時を求めて(一部死後刊行)
摸作と雑録(生前か死後か忘れた)
サント・ブーヴに逆らって(死後刊行)
○ラスキンの翻訳(生前)
360吾輩は名無しである:2014/04/07(月) 21:44:20.27
2012/04/07(土)

ショーペンハウエルの読書論に、読書は人の考えをトレースするだけだから、
知的には非常に怠惰な営みであると確かでていた。
同じ言葉が使われているからといって、別の書き手であれば、それは全然
違う意味で使われている場合もあるので(同じ意味かどうかなんて終局的に
わからない、全く同じということはありえない)、本来、継ぎ木なんかできない。
ベルクソンとプルーストだって、時間、空間、記憶といった言葉を共通にしている
からといって、それらを簡単に比較できやしないのは当然。

終局的には、それらを各人が自分なりに消化し(誤読は避けられない)、自分なり
の言葉を持つ(これも最後まで現在進行形の営み)しかない。

プーレの本を持ち出してみても、プーレだって、ベルクソンやプルーストをプーレ
なりに消化して(誤読は避けられない)、プーレの時間・空間・記憶をベルクソンや
プルーストの言説に託して語っているに過ぎないから、それはかえって混乱を
齎す面がある。
プルーストなり、ベルクソンなりをそれぞれトレースするのだって、繊細かつ精妙な
レコード針が必要なのだから。プーレまで持ち出したら、本当はプルーストだけ
をトレースしているよりもっとノイズは大きくなる。

でも、ずっとプルーストのみをトレースしていたら、かえって、プルーストもなにもかも
浅くしか読めない。赤ん坊にプルーストの残したものだけを与えても、決して、プルースト
のように思考・想像する人間は育たない。
少なくとも、プルーストがベルクソンを読んで、思考等を喚起され(もちろん、他にも無数の
喚起があり、そののひとつでしかありませんが)「失われた時」などが生まれたことは
間違いないところだと思います。
361吾輩は名無しである:2014/04/08(火) 01:26:52.86
362吾輩は名無しである:2014/04/08(火) 01:43:22.65
光文社、今のところ1年3カ月ごとで刻んでいるので、次は今年6月になるはず
先人のように長い周到な準備期間を置いてないわりにはいいペースなのでは

2010・9・9            
2011・12・8   
2013・3・2 
363吾輩は名無しである:2014/04/08(火) 19:02:42.22
井上訳:初の個人全訳として画期的。読みづらいとの批判もあるが、原文を生かした典雅な文体が魅力。

鈴木訳:読みやすい訳文で最新の全訳としてスタンダードな地位を獲得。索引も重宝。

吉川訳:長年の研究に基づく注や図版が豊富。訳文もこなれており、完結の後には新たなスタンダードとなることが予想される。


で、高遠訳は?
364吾輩は名無しである:2014/04/08(火) 20:18:30.12
03/04/08

昔やらかした失敗をふと思い出すと、その頃の記憶が
どどどーっつと押し寄せて来るんだが・・・
(甘美な記憶がほしいものよ・・・)

2006/04/08(土)

他のものの口直しに1週間で読む量を決めて
プルーストを読んでるよ。

2011/04/08(金)

吉川氏も言っているがこんな本、フリータイムオンリーでも
一ヶ月で読めるかよ
俺なんかすぐ想像力刺激されて、ああ、俺の場合はって夢想にふける時間が
長くてなかなか前に進まない
365吾輩は名無しである:2014/04/08(火) 20:20:49.97
2012/04/08(日)

ベケットのジョイス論/プルースト論

レーラーの「プルーストの記憶、セザンヌの眼」は「19世紀末から20世紀
初頭にかけて生きた芸術家たちは、現在の最先端に脳神経科学の知見を先取りしていた」
といった内容で2007年にアメリカでベストセラーになった本。

作家以外ではセザンヌのほか、ストラヴィンスキー、それにフランス料理の伝説的なシェフ
オーギュスト・エスコフィエ。
作家は、プルーストのほか、ホイットマン、ジョージ・エリオット、ガートルード・スタイン、
ヴァージニア・ウルフが取り上げられている。

プルースト、スタインが重なるエドマンド・ウィルソン「アクセルの城――1870年から1930年
にいたる文学の研究」(ちくま学芸文庫)をひっぱりだしてきて今読んでます。

レーラーの訳者の鈴木晶は、東京教育大付属駒場で四方田犬彦、金子勝らと同学年だった人。
フロイト関連の本や翻訳、バレエ・舞踏の研究者でもありプルースト関連でいえば、ニジンスキー
の本や手記の翻訳を出している。
366吾輩は名無しである:2014/04/09(水) 19:25:42.81
2006/04/09(日)

ちくまの5巻読んでます。
サロンのところまできて登場人物の多さにちょっとばててしまいました。
想像しながら読み進めるのは面白いけど頭を使うなあ……。

私は他の作家の短編集や随筆などを間に挟みつつ読んでいます。
しかしすぐに続きが読みたくなり、再び「失われた〜」を読み始めるというふうになってきています。

2012/04/09(月)

プルースト、スピノザで検索したら
「プルーストとライプニッツ」という論文ならでてきた
http://www.waseda.jp/bun-france/pdfs/vol27/nishiwaki037-050.pdf

「プルーストと哲学教育――師ダルリュの教育観(1881年)について――」
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7847/2/ff008005.pdf
367吾輩は名無しである:2014/04/10(木) 19:39:13.13
2012/04/10(火)

「失われた時を求めて」にもそこにプルーストという天才がとらえた世界全体
(プルーストの全生涯が背景にある)が封じ込められているといった魅力を感じる。
少年時代のロラン・バルトにとっても。

>プルーストの作品は、少なくとも私にとっては、参考書であり、全体の
マテジスであり、文学の宇宙開闢説の曼荼羅である(中略)プルーストは
私にやって来るのであって、私が呼び寄せるのではない。それは《権威》
ではない。単に、循環する記憶なのである。「テキストの快楽」68頁。

マテジスはフーコー「言葉と物」にでてくる用語。
精密科学の全領域における科学的認識の基礎。複雑な自然を秩序づける
「タクシノミア」に対し、単純な自然を秩序づける(その普遍的方法が
「数学」)。

ミシェル・シュネデール『プルースト 母親殺し』

プルーストの全テキスト(草稿、書簡も含めた)を読み込んで、
伝記的事実も渉猟したうえで書かれていると思われる。
250頁ちょっとなのに、非常に密度が濃く、1日、2日ではとても
読めない。アフォリズム、鋭い洞察が散りばめられている。
吉田城が訳してくれているのがうれしい。

E・ウィルソンによれば、プルーストは、
「象徴主義の原理を小説に適用することになった最初の重要な作家」
だそうで、その象徴主義という大きな流れの中において、
プルーストのほか、イェイツ、エリオット、ヴァレリー、ジョイスらも
見ようとしてるわけだけど、あまり形式的な叙述にならず、
プルーストについても伝記的なエピソードを時折交えながらの論述は、
なかなか読ませる力のある評論だった。
しかも31年刊行の同時代評と言っていいタイミング
368吾輩は名無しである:2014/04/11(金) 19:38:13.58
2005/04/11(月)

「たとえば、ゲルマント公爵夫人の頬は、昔のままに残っているといっても、いまは
ヌガーのように異質混合状を呈していて、そこに私が見わけたのは、緑青色の一つの
痕跡、突きくだいた貝殻のばら色の一小片、寄生木の実の粒より小さく、南京玉よりも
透明ではない、はっきりそれときめにくい一つの吹出物であった。」
(ちくま、巻10,438.12)

ここまで云うか

2011/04/11(月)

描写からすると話者は超裕福って感じでもないよな

2012/04/11(水)

シュネデールの「プルースト 母親殺し」なんとか読了。
原題はMamanなんですね。ちょっとした1行が含蓄深い。
著者はENAをでた高級官僚で作家でもある。精神分析も修めている。

>分離し、分離されること。それが言語活動(ランガージュ)の機能である。
言語活動はつねに父親、他者の側にある。これにたいし、話し言葉(パロール)
は母親の、そして自己の側にある。書くことで見ず知らずの人に読んでもらう
一種の外国語を作り出すためには、秘密の母語を捨て去らなければならない。
たしかに母親は子どもに話し方を教えるが、しばしばそれを秘密の、つねに親密
な、「プライベートな」言語でおこなうので、子どもを現実から保護することになる。
父親の言語のみが、世界へと通じ、世界を開くのだ。カフカの本当の手紙がけっして
発送されずに、彼の書いたほとんどあらゆるページに取り入れらたように、エクリチュール
はつねに「父への手紙」なのか。母の言語で書いた手紙なのか。むしろ逆に、父の言語で
書いた母への手紙ではないのか。言語は母のように結びつけるのではなく、父のように
遠ざける存在なので、人が書くのは、母の身体から離れ、身体についての母の知識から
離れるためにである。227頁。
369吾輩は名無しである:2014/04/12(土) 19:51:04.50
2008/04/12(土)

『消え去ったアルベルチーヌ』が新訳で出ます

今年はプルースト要約選手権ないのかしらん

2011/04/12(火)

主人公はニート、マザコン、ストーカー、ロリコン(幼女を部屋に連れ込み訴えられる)、パラサイト、DV(監禁)と最低。
親友はホモで戦争中にSMクラブに出入りする変態だし知り合いのおっさんもホモでマゾ。
おまけに彼女はレズでその友達もレズだ。

それでも立派な文学書けるんだい!
つうて書き出したんだよな。マジで。

2012/04/12(木)

プルーストって頭いいの?
英語できなかったらしいし、写真で見るとバカそうな面してるし、案外知能低いんじゃないの?

プルーストの魅力、というか読んでいて好きなところは、極端な言葉を使ってしまうが、ある意味「反知性」的なところ。
って、マジレスして、ただ誤解されるか、混乱を招くだけかも。
ドストエフスキーもとんでもない作家、とおもっているけれど、
すごいところは「知能」とかいうところで比較できる話ではない。
370吾輩は名無しである:2014/04/12(土) 19:53:21.58
2012/04/12(木)

作品や伝記的事実をみる限りプルーストは年下趣味で掘る側。
しかも実際には掘らないで相互オナニーが好きだったみたい。

>ふたりのあいだには、短期間とはいえ、支配者と被支配者を
結びつける肉欲の高まりが、倒錯者同士を近づける共感が認め
られたが、それは性愛には至らなかった。マルセルがほんとうに
好きなのは、自分より年下の若者だけだったからである。
(タディエ『評伝プルースト』上180頁)

>ジューアンドーは、人から聞いた話として、次のようなことを報告
している。プルーストは男娼の館で、自分の姿は見られずに、窓ガラス
越しにパートナーを選ぶ習慣があったというのだ。それからプルーストは
部屋に入り、先にベッドに横になり、顎までシーツを引き上げて、未知の男
を待った。男は命令どおり素っ裸になり、閉じたドアのそばで立ったまま、
オナニーをした、それを不安そうに見つめる客の方も、同じ行為をした。欲求
を満たすと、男は客に微笑んで部屋から出て行くのだが、ひと言も発しなけれ
ば聞きもせず、愛撫をしたりされたりもなく、見たものと言えば横になったままの
客の顔だけだったという。
(シュネデール『プルースト 母親殺し』259頁)

岩波の三巻読了
フランソワーズ相変わらず最高
しかしこの三巻で脱落者多くなると思うな

詩人ヴァレリーは「失われた」を読んで、プルーストという人はふつうの作家が分の単位で
書くところを秒で書いちゃったと言った。
そんな小説読みたくない
371吾輩は名無しである:2014/04/13(日) 13:52:00.14
02/04/13

みんな、そんなに大変なら読まなきゃいいのに、変態じゃないの?

へへ、わたしは一年くらいまえにフォリオ版買ってきて、
まだ、1ページも読んでないけど。

2006/04/13(木)

うんうん。音楽に関してのプルーストの考察は素晴らしいよね。何度読んでもため息が出る。
見出されし時の中での旋律に関する描写そのものも音楽的だし。
372吾輩は名無しである:2014/04/14(月) 19:36:51.22
2008/04/14(月)

全巻読みたければ、読め。読めないなら、部分巻を読め。
この作品は、一巻でも声を出して読み通せない。
つまり素人なら、黙ってただただ読め。これしかない。

2011/04/14(木)

ちくまのが一番リズムがあって読みやすい。

なんか吉川訳は文末の強弱の予想がはずれるときがあるなあ。
個人的感覚かもしれんけど。
これなら締めは長め、と思ったら急に「。」で結ばれてアリャリャみたいな。
373吾輩は名無しである:2014/04/14(月) 19:37:55.97
2012/04/14(土)

Une heure n’est pas qu’une heure, c’est un vase
rempli de parfums, de sons, de projets et de climats.
一時間は一時間でしかないのではない、それは匂と、
音と、計画と、気候とに満たされた瓶(かめ)である。
(井上究一郎訳)

Le goût du café au lait matinal nous apporte
cette vague espérance d’un beau temps
朝のカフェ・オ・レの味は、われわれに
晴天への漠とした希望をもたらす

しかしこれはやっぱり一般人はおろかちょっと読書好きも読まんわ
なんつうか量的にもそうなんだけど、些細なことへの深入り具合が
現代人のせっかちさと真反対な志向の感じ

形容・比喩は芸達者なんだけど言ってる事自体は別のフツー
だったり当たり前のことだったりすると、「何だよ」ってなる。
それで30行くらい書いてあったりするし。
同じこと、似たことを繰り返し繰り返し書いてるしな。

あといかにも作って書いてる場合、スベッてしまう。
374吾輩は名無しである:2014/04/15(火) 20:13:13.95
2008/04/15(火)

光文社の新訳は途中の巻だけど、
それだけで内容が理解できるの?
俺は哲学に長けてるから、プルーストが難しいなんて思うはずないんだけど、
それでも途中の巻だと話がわからなかったりしない?

2011/04/15(金)

解説には語り手の書こうとする作品と失時とは似て非なるものであろうと書いてあるけど
同一作と看做して円還構造と解釈しちゃった方がスッキリする
375吾輩は名無しである:2014/04/16(水) 19:27:03.21
2008/04/16(水)

この手の最高峰の文学にしては読みやすい普通の小説のように思えたが、
違うかな?

ガルシアマルケスとかも、割と普通だよね

2012/04/16(月)

井上訳の漢字とひらがなの使い分けがハイセンスかは
わからないざんす。
ただ、「好き」「すき」、「楽しい」「たのしい」の混用がないことがわかる
かと思ふ。センス以前の問題として。

>私は疲労と恐怖の感情をおぼえながら感じるのであった、――かくも長いすべての時は、
ただ単に、一つの中断もなしに、私によって生きられ、考えられ、分泌されたものであり、私
の生涯であり、私自身であっただけではないということを、――そのうえにまた、私はたえず
その時を自分にくっつけていなくてはならず、目もくらむ高いその時のいただきに、鳥がとま
るようにして、自分がその時にささえらえており、その時の位置を動かさなくては自分は動く
こともできない、ということを。
 コンブレーの裏庭の小鈴の音をきいた日付は、あのようにへだたりながら、しかも自分の
内部にあり、自分がもっているとは知らなかったあの巨大な次元の一つの指標となっていた
のだ。私は自分のはるか下に、あたかも千仭の谷を見おろすように、 多くの年月を望見して、
目まいがするのだった。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、
いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。
われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、
石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。
(プルースト 「逃げさる女」 井上訳)
376吾輩は名無しである:2014/04/17(木) 20:22:00.64
2012/04/17(火)

Q:スワンの社会的人格とは何か

リヴィエールは、「プルーストは、正常な生における人格の分化を導入した」という。
登場人物もわれわれも、皆、いわば多重人格者であり(リヴィエールはこの言葉
は使ってないけど)、人格の統一性など身体の単一性の齎す虚構・幻想に過ぎない
のだと(『フロイトとプルースト』彌生書房74頁、181頁)。

人格(personality)も社会(society social)もいずれも多義的概念だからなあ。
ただ、「人格」はそもそも社会的なものだとすると「社会的」と冠することにあまり
意味はないのかもしれない。
ただし、プルーストは冒頭近くで社会的人格という言葉を用いている。

スワンについて語っている箇所。 井上訳だと(全集1巻24頁)

>しかし、生活のいかにもとるに足らぬ事柄についての観点からしても、われわれは、
たとえば契約した物品の明細書とか遺言書とかのように、各人がそれを見るだけでよく
わかる、誰にとっても同一である、といったふうに物質的に構成された一個の全体では
ない、われわれの社会的人格は他人の思考によってつくられたものなのだ。

人格と類義語の、性格ないしキャラ(character)、気質(temperament)という語
も意識しておくことになるか。

人間には固定した性格がないという考え方、それからフロイトの考えたような、人間は理性によって考えるんじゃなくて、
無意識の衝動が人間をつき動かすんだと、そういう考え方もあって、人間の行動がひじょうに複雑になる。
行動が複雑になると、自分がその行動を判断する、自分の解釈の方もひじょうに複雑になる。
しかも作者の小説家の目からみれば、その人物の自分の行動にたいする解釈は一面的なんで、
本人も気がつかない無意識の動機というものがあるわけだから、それも書かなければ、人間を全面的に書いたことにはならない。
プルーストという小説家は、「失われた」で人間を全面的に書いた。
だから複雑で膨大な作品になったわけだ。
377吾輩は名無しである:2014/04/17(木) 20:26:22.29
2012/04/17(火)

Q:明日の晩は母親を自分の寝室に引き止めておくことはできないと考えるのは
合理的判断からか倫理的判断からか
あるいはその二つとも異なる判断からか

>良心の呵責は鎮まり、私は母がそばについていてくれるこの一夜の甘美さに
身をまかせるのであった。私は知っていた、こんな夜が新たにくりかえされる
はずはないであろうことを、また私は知っていた、この世で私がもつ最大の欲望、
夜のこんな悲しい時間にいつまでも母を部屋にひきとめておきたいというこの欲望
は、生活の必要時や万人の願望とはあまりに相容れないものであって、この夜のように
それがかなえられたのは、不自然で、例外的でしかありえないことを。あす、私の苦悩
はまたはじまり、ママはここに居残らないだろう。しかし、苦悩が鎮まると、私にはもう
その苦悩がよくつかめないのであった、それに、あすの晩はまだ先なのだ、私は自分にいう
のだった、まだ考える時間が残されている、と、しかしその時間もこれまでの時間にまさる
力は何一つ私にもたらしてはくれないだろう、なぜなら、私の苦悩は私の意志でどうにも
ならないものであり、その苦悩をもっと避けられるもののように私に思わせているのは、
今夜の私からあすの苦悩をひきはなしているその間隔にほかならなかったからである。
(井上訳。全集第1巻54−5頁)
378吾輩は名無しである:2014/04/17(木) 20:28:00.71
2012/04/17(火)

>性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、
べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体
についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり
精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって
異なることはほとんどないのである。(プルースト『見出された時』 井上訳)

les nécessités de la vie et le voeu de tousの訳
かなり訳者によって違う

井上         生活の必要事や万人の願望
鈴木ハード83頁   生活に必要なこまごまとしたことや、みなが心に抱いている願い
吉川108頁     生活の必要や家族全員の願い
モンクリフ等英訳   general requirements and to the wishes of others
379吾輩は名無しである:2014/04/18(金) 19:48:37.21
2012/04/18(水)

語り手とその母親のプライベートな事象に全世界が関心を持つのはおかしい、
大げさすぎると考え、toutの範囲を家族というプライベートな母集団に絞る
形に意訳したではないかという気がします。
逆に、井上訳は、語り手にとって母との関係が全世界と言ってよかったという
ことで、これを幼い語り手(語っているのはすでに大人の語り手ですが当時の
気持ちになって語った)の誇張表現ととり、「万人」とあえて大げさな訳にし
たのではないかと。
こういうのって、フランス語に多く接していないので理詰めでしか推測できない
ところがあり、もちろん自信などないのですが

生活(人生)にとって全く不要だし、(語り手以外の)誰も(なんぴとも)望まない
ということ?

語っている時点は、少なくとも父は死亡している時点。
母はまだ生きているかもしれないが少なくとも老化している
(母の老い、その後に来るであろう死に対する罪悪感、帰責の念。シュネデールなどは、
語り手が明らかに両親の死後の時点から語っている場面もあるのに、母の死を露骨に
描いていないのは、プルーストが母の死などという禍々しい対象喪失をたとえ小説中でも
書けなかったのだ、そこでそれを祖母の死に仮託したのだといった言い方をしている)

>父がママに、「坊やといっしょに行っておやり」などということをやめるようになって
からも、またずいぶん長くなる 井上47頁
>私は自分が、何か不孝な、目に見えない手で、いま彼女の魂のなかに、最初のしわをきざ
みつけ、最初のしらがを生えさせてしまった、という気がした。49頁
380吾輩は名無しである:2014/04/18(金) 19:49:37.56
2012/04/18(水)

井上訳だと父親が死んでいると言い切れなくなってしまうなあ。

鈴木訳はこう。74頁。
>父がママンに向って、「この子といっしょに行っておやり」などと言うことができなくなって
からも、やはりずいぶん長い時がたつ。

吉川訳も。91頁。
>父がお母さんに「この子といてやりなさい」などと言うことができなくなってからも、長い歳月
がたつ。

原文みるとpouvoirがあるな

Il y a bien longtemps aussi que mon père a cessé de
pouvoir dire à maman : « Va avec le petit. »

It is a long time, too, since my father has been able to say to
Mamma: "Go along with the child." Never again will such
moments be possible for me.

人格や性格の法則を研究する素材は、別にスワンやそのモデルとなったような高い知性
と芸術的素養の持主である必要はなく誰でもいいんだよね。
医者である父親との親近性
381吾輩は名無しである:2014/04/19(土) 20:58:17.69
02/04/19

サロンの場面なんかが長過ぎて退屈っていう奴いるよね。
382吾輩は名無しである:2014/04/20(日) 19:42:53.09
2005/04/20(水)

日常的にこれくらいは見るよ。好きな顔については。
老人斑が出てきたなとか、昨日より色が濃いとか。
書かないし、書いてもこんなにうまくないにしても、見てることは見てる
だからこそ多くの人がプルーストにリアリティを感じるんだろう。

2008/04/20(日)

『スワン家の〜』を買ったのが13年前、放置後コンブレを読み終えたのが7年前、
そのままスワンの恋に進むも中断、再びスワンの恋に挑戦中by井上訳。
コンブレの内容忘れてるし。文学の為でも哲学の為でも無く単純に小説として楽しみたい自分には脚注、
特にコタールのオヤジギャグに関する丁寧な解説が余計だ。むしろコタール自体居なくてもいいかも知れない。
何故か無駄に持ってるfolio版。13年前何考えてたんだorz
チャタレイ婦人は伊藤礼でサクサク読めた。
“恋”の時のスワンて何歳位なんだろうね?

オレは初めの方しか読んでないけど、こんなに読みにくい日本語は初めてだ。
頭が変になりそうだ。みんなよく読めるな。

2011/04/20(水)

プルーストの生涯と作品については、タディエの「評伝プルースト(上・下)筑摩書房」

「須磨源氏」に「ドグラ・マグラのチャカポコ」って知ってるか、おまいら?
皆、源氏は須磨と明石で、ドグラマグラは、スチャラカチャカポコのところで
読むのやめちまうって意味だ。
プルストの場合はたぶんコンブレの大聖堂の描写で皆読むのやめるんじゃないかな
383吾輩は名無しである:2014/04/20(日) 19:43:36.62
2012/04/20(金)

モンクリフの英訳、はじめの目覚めのシーン数頁があまりに難解に感じた。
ジルベルトと最初に出会うシーンなんかは英語でも伝わってくるんだけど。

井上究一郎訳で最初をみたら、やはり日本語でも同じくらい難解だったので、
ほっとした。それにしても密度が濃い。
「習慣」というキーワードが結構、何回もでてくることに改めて気づいた。

スワンの父親が妻を亡くした際のエピソード。作品全体を反映する
面がかなりあるんじゃないかと今回思った。

翻訳で読む際の欠点として、キーワードとなる言葉が時として
何種類かに訳し分けられてしまっているということがある。

フランス語そんなにできなくても、今なら、全文検索が容易なのは本当に
助かる。
384吾輩は名無しである:2014/04/21(月) 15:27:10.37
ひまじんはプルースト嫁
最高の暇つぶしだぜ
385吾輩は名無しである:2014/04/21(月) 16:47:21.35
暇があっても馬鹿には読めないのが失時
386吾輩は名無しである:2014/04/21(月) 20:00:06.70
2011/04/21(木)

ぼくのプルーストを誰にも取られたくないみたいな坊やばっかりだ
と言ってるのはある意味的を射ていて未読の人にネタばれしたくないから詳しい引用はしないが
プルースト自身が失われた〜の最後で語っていることでもある。
勿論読み手の数だけ「ぼくのプルースト」が存在するという意味で

2012/04/21(土)

プルーストの「失われた時を求めて」にも自分はすごい喚起力を感じた。

翻訳でもプルーストの文章の「物質的実感」は自分には伝わってきます。

スワンの新聞批判
吉川訳で

>私が新聞に批判的なのは、毎日、くだらないことにわれわれの注意を
向けるからで、それにひきかえ生涯にせいぜい三、四度しか読まない本
には、大事なことが詰まっています。われわれは毎朝、熱にうかされた
ように新聞の帯封を切っているのですから、それなら現状を変えるべき
で、むしろ新聞に載せるべきは、どれがいいかわかりませんが……パス
カルの『パンセ』はどうでしょう(スワンは衒学趣味だと思われないよ
う、ここだけ切り離し、皮肉を利かせた口調で言った)。69頁

Ce que je reproche aux journaux, c’est de nous faire faire attention tous
les jours &amp;#224; des choses insignifiantes tandis que nous lisons trois ou quatre
fois dans notre vie les livres o&amp;#249; il y a des choses essentielles. Du moment
que nous d&amp;#233;chirons fi&amp;#233;vreusement chaque matin la bande du journal, alors on
devrait changer les choses et mettre dans le journal, moi je ne sais pas,
les... Pens&amp;#233;es de Pascal ! (il d&amp;#233;tacha ce mot d’un ton d’emphase ironique
pour ne pas avoir l’air p&amp;#233;dant).
387吾輩は名無しである:2014/04/22(火) 20:14:00.59
2006/04/22(土)

最近、電車の中で鈴木道彦氏の『プルーストを読む』を読んでる。
プルーストの生涯や「失われた時を求めて」に関する鈴木氏の解説が読めてなかなかに面白い。

2012/04/22(日)

プルーストには事物の真実は知性のさかしらでは捉えられない、
偶然により開け披かれるという確信があった
ただ、極度に知性的だからこそ、反知性主義を標榜したのだし、
芸術作品としての彫琢には、当然、知性の働きがあずかることになる
「詩人も計算する」

プルースト自身には、文学は言葉を用いるゆえ、知性に汚染されやすい面が
あるため、音楽に特権的地位を与えているようにみえる
多分、ショーペンハウエルの影響がある。

ルースト、芸術には序列はない、で検索したら、ナティエ『音楽家プルースト』
を取り上げた最近(2011年)の論文がでてきた
丸山正義「プルーストの音楽――『音楽家プルースト再読』」

ベケットのいうプルーストの印象主義を思い出した。
>彼が現象を述べる際の非論理的なやりかた、一連の因果関係のなかに
強引に押しこめるために現象をゆがめて、 明瞭なものにするよりさきに、
まず現象を知覚した順序にしたがって、知覚したとおりに正確に述べる、
その非論理的なやりかたのことである。
388吾輩は名無しである:2014/04/22(火) 20:16:01.57
2012/04/22(日)

プルースト、印象主義で検索。
高橋梓(東北大の院生でプルースト研究者)が、
島貫葉子「サミュエル・ベケット『プルースト』試論」の学界発表を
紹介していた。

>サミュエル・ベケットの『プルースト』の中で、これまでの研究ではあまりふれられていなかった第七章
(プルーストのロマン主義、印象主義、遠近法主義、相対主義、隠喩的文体、植物的イメージ、音楽の
重要性ほか)を分析しています。第七章でのベケットによるプルーストの引用が、原文と異なっていること
に注目。ベケットはプルーストが作家論を展開する箇所に、あえて「職人」という言葉を補っています。
その「職人」という語をキーワードとし、ベケットがプルーストの文体をどのようにとらえていたのかという論
が展開されていきます。

「芸術家と職人―サミュエル・ベケット『プルースト』における引用の問題―」,
『フランス文学研究』(東北大学フランス語フランス文学会) 第25号, pp.15-22, 2005年2月
http://www.sal.tohoku.ac.jp/French/accueil/shimanuki.html

映画の先駆ともいえるマイブリッジの走る馬の連続写真のイメージ
ほとんどRTPの冒頭といってもいいところで出てくる。
キネトスコープとあるから、厳密には、その後1889年にエジソンが
発明した覗きからくりだけど。

>そうした旋回する漠とした喚起は、わずかに数秒しかつづかなかった、
自分がいる場所のつかのまの不確実さは、そこにさまざまの想定がはいり
こんで、しばしばそれらの見わけがつかなかったからで、馬が走るのを見
ていて、映写機に映るその馬のつぎつぎの位置をわれわれが切りはなしえ
ないのとおなじである。井上訳
389吾輩は名無しである:2014/04/22(火) 20:17:35.99
2012/04/22(日)

>新聞や本で見た、現実に会ったこともない人にはすぐ同情し、涙を流す。しかし、身内以外、ことに、
「主人(レオニ叔母→語り手の一家)の世話をし、その家の維持管理をする」という自分の立場を脅かす
存在には、恐ろしく冷たく当たる
台所番女中が自分の立場を脅かすと感じれば、アスパラガスアレルギーと知って、わざと毎日のように
アスパラガス料理を作り、ついに追い出してしまう。
コンブレーでのウーラリのように自分と同程度あるいは格下とみなした者が主人の財産(家産)をわずかでも
減らす存在とみると敵視する。
死んでしまい現実に会う可能性や、自分の地位や主人の財産を脅かす危険がなくなったあとでは、ほめられ
同情されることもある。

以上は、主人より身分的・経済的に下層の階級に属し、使われる側の庶民としてのしたたかな価値観と
いうことになるかな。

フランソワーズには使用人・家政婦として以外の側面もあるように思います。
思いつくままに列挙すると

料理人としてのフランソワーズ
 ベルゴット、ヴァントイユ、ユルスチールと等価の存在ともいえる。
 ブフモードを作る際、寄り抜きの肉を市場で選別する彼女は「花咲く乙女たち」で
 ミケランジェロに譬えられている。

サディストとしてのフランソワーズ
 *アスパラアレルギー(喘息を起こす)の台所番女中(スワンからジョットーの「慈悲」
 と名づけられた女中)に毎日アスパラの皮を剥かせ、アスパラ責めにして追い出す。 
 *鶏を絞め殺す場面(あとで引用)
390吾輩は名無しである:2014/04/22(火) 20:18:53.32
2012/04/22(日)

以上は特にコンブレーで生き生きと描写されている。
以下は「囚われの女」〜「見出された時」、祖母(本当は母に近い)の死後のフランソワーズ
に目立つ。

乳母(代理母)としてのフランソワーズ
 「坊っちゃん」の清みたいな存在。だから、彼女は語り手の秘書となる。

秘書としてのフランソワーズ
 「ムッシュー・プルースト」を書いたセレスト・アルバレの役割
 
ちょっと参考にした
目黒 純子『コンブレーの食堂とフランソワーズのビーフシチュー
      ──プルーストにおけるイメージとテクスト──  』
http://www.seijo.ac.jp/pdf/graduate/gslit/azur/12/1204.pdf

サディスト、フランソワーズ

Aidez-moi !ならぬSale bête !ですね(フランス語では!の前では一文字あけるらしい)

>私が下におりたとき、彼女は鶏舎に面した下台所で一羽の若鶏を締めているところ
であったが、耳の下から首を落とそうと彼女が懸命になっている一方、死物狂で、もち
ろん当然の抵抗をする若鶏が、かっとなったフランソワーズの「こん畜生! こん畜生
!」のさけびを浴びているさまは、翌日の夕食に、その肌を上祭服(カズラ)さながら
に金の刺繍でかざり、聖体器(チボリウム)からたらされたその貴重な肉汁とともに
あらわれる若鶏が、この私たちの老女中の聖なるやさしさと終油の秘蹟とをひきたたせ
るであろうとは対照的に、ここではいささかそれのマイナス面を露呈していた。若鶏が
死んだとき、フランソワーズは血をしぼったが、その血がうらみがましく流れるので、
彼女はまたしてもかっとのぼせあがり、敵の屍を見つめながら、もう一度最後に、「
こん畜生!」といった。  井上文庫第1巻204頁
391吾輩は名無しである:2014/04/22(火) 20:20:31.75
2012/04/22(日)

金持ちは、召使に殺生をやらせるわけですね。
プルーストは鼠が大嫌いなんだけど、ル・キュジアの経営する猟奇の館では、
鼠を帽子ピンで貫かせて、それを眺めて快楽に耽っていたりする。
サディスト、プルースト。

>プルーストは金で雇った男を見つめながら、その男に見つめられて、離れたところで
黙って自慰にふけり、終わりまで達しなったとき、男に下がるように合図したのである。
するとル・キュジアがじっと動かないでいたベッドの上に、あげ蓋を向い合わせにして
籠が置かれた、すると二匹のネズミは金切り声をあげながら取っ組み合い、歯と爪で互い
の体を引き裂くのだった。やっとこの時になって、マルセルは快楽の絶頂に達したという。
シュネデール「プルースト 母親殺し」65頁。
392吾輩は名無しである:2014/04/23(水) 19:59:27.97
2011/04/23(土)

イリエ・コンブレーのプルースト記念館行ったことある人いますか?

ttp://www005.upp.so-net.ne.jp/Kaede02/paris/paris4.html

ペーレ・ラシェーズ墓地の墓は行ったことあります。
他の有名人に比べて、驚くほど質素な墓なんですよね。

2012/04/23(月)

>プルーストは金で雇った男を見つめながら、その男に見つめられて、離れたところで
黙って自慰にふけり、終わりまで達しなかったとき、男に下がるように合図したのである。
するとル・キュジアが二つの籠を持ってきたらしい。籠のそれぞれには腹を空かせた
ネズミが入っていた。プルーストがじっと動かないでいたベッドの上に、あげ蓋を向い
合わせにして籠が置かれた。すると二匹のネズミは金切り声をあげながら取っ組み合い、
歯と爪で互いの体を引き裂くのだった。やっとこの時になって、マルセルは快楽の絶頂
に達したという。
393吾輩は名無しである:2014/04/24(木) 20:11:02.42
2012/04/24(火)

フランソワーズ規範、価値基準

フランソワーズの判断基準を法典にたとえている箇所がありますね
「彼女のなかには、非常に古い、高貴な、理解されることのすくない、そんな
フランスの一つの過去がある」というくだり

幼い語り手は、スワンの来訪により奪われそうになっているママからのお休み
のキスをなんとしても得たいと、ママ宛の嘘の手紙を書き、さらに嘘の理由を
つけて、フランソワーズにあずけ、それをママにわたしてくれるよう伝言する。
しかし、語り手には、フランソワーズが、語り手の嘘をたちどころに見破ってしまい、
それを断るように感じられる。

>この料理女は、やってもいいことととやってはいけないこととに関して、
不可解とも無用ともいえる区別を設けた、尊大で豊富な、精細で動かしがたい、
一つの法典をもっていた
>この法典は、私たちから言いつけられたある用事を、そのとたんにどうしても
やりませんと言いだすその強情さから判断すると、フランソワーズの周囲や、村
から出てきた女中としての彼女の日常生活の、どんなものからも暗示されなかった
諸項目、社会の複雑さや社交上の洗練にわたる諸項目を、ぬかりなく規定してあった
ように思われた。そして誰もが、彼女のなかには、非常に古い、高貴な、理解される
ことのすくない、そんなフランスの一つの過去があると思わないではいられなかった
井上文庫T49−50頁

医者のペルスピエによって示された
ゲルマント夫人の仮想姿の図像は何を意味しているのか
394吾輩は名無しである:2014/04/25(金) 19:39:50.50
2012/04/25(水)

衰弱した肉体にとっての疲労

レオニー叔母についての次の描写

>もとより、叔母の体力は、わずかな疲労にも涸れつきて、休息のさなかに
一滴ずつしかもどってこない始末なので、その体力の貯水槽がいっぱいに
なるには非常に長くかかる上に、何カ月もかかってやっと軽くあふれそうに
なる水さえ、他人ならばさっと活動に流しこんでしまうところを、叔母には
それをどう使ったものか見当も決心もつかないのであった。
井上文庫T194頁

Sans doute, comme les forces de ma tante, taries à la moindre
fatigue, ne lui revenaient que goutte à goutte au sein de son
repos, le réservoir était très long à remplir, et il se passait
des mois avant qu’elle eût ce léger trop-plein que d’autres
dérivent dans l’activité et dont elle était incapable de savoir
et de décider comment user.

フランソワーズのなかに存する非常に古い高貴なフランス

それはメゼグリーズの方の散歩に登場するサン=タンドレ=デ=シャンの教会
と重なる
395吾輩は名無しである:2014/04/25(金) 19:45:54.88
2012/04/25(水)

>この教会はなんとフランス的であったことか!入口の扉の上には、聖人たちや、
ゆりの花を一輪手にした騎士王たちや、婚礼と埋葬の場面などがあらわされていて、
フランソワーズの心のなかに描かれているものとそっくりであるように思われた。その
彫刻家はまたアリストテレスやウェルギリウスに関する逸話を物語っていたが、その
ようすはフランソワーズが台所で、まるで個人的に知っていた人のことをしゃべるよう
に、好んで聖王ルイの話をし、それも多くの場合、聖王ルイにくらべてはるかに「正しく」
ない私の祖父母たちは恥じいらせるための、そんな彼女の流儀に似ているのであった。
中世の芸術家や中世の農民の女(そうした女は十九世紀にも生きのこっている)が、
古代史やキリスト教史についてもっていた概念、純朴な点とおなじだけ不正確な点が
目立っていた概念は、書物からえられたのではなく、古くて同時に直接的な、とだえる
ことのない、口で語りつがれた、変形された、元が見わけられない、なお生きている
伝承からえられたものであることが感じられた。
井上文庫T252−3頁
396吾輩は名無しである:2014/04/25(金) 19:47:59.80
2012/04/25(水)

Que cette église était française ! Au-dessus de la porte, les saints, les rois-chevaliers une
fleur de lys à la main, des scènes de noces et de funérailles, étaient représentés comme ils
pouvaient l’être dans l’âme de Françoise. Le sculpteur avait aussi narré certaines anecdotes
relatives à Aristote et à Virgile de la même façon que Françoise à la cuisine parlait volontiers
de saint Louis comme si elle l’avait personnellement connu, et généralement pour faire honte par
la comparaison à mes grands-parents moins « justes ». On sentait que les notions que l’artiste
médiéval et la paysanne médiévale (survivant au XIXe siècle) avaient de l’histoire ancienne ou
chrétienne, et qui se distinguaient par autant d’inexactitude que de bonhomie, ils les tenaient
non des livres, mais d’une tradition à la fois antique et directe, ininterrompue, orale, déformée,
méconnaissable et vivante.

ペルスピエ医師、例のマルタンヴィルの鐘塔等結構重要な
シーンで登場するなあ
ヴァントイユの娘とその女友達の噂話もおもしろおかしく
語っているし
397吾輩は名無しである:2014/04/26(土) 19:36:52.59
2008/04/26(土)

ハードカバーのでかいの
銀色のカバー:井上訳
水色のかばー:鈴木訳
新潮の共同訳(何人かで訳している。淀野、井上、生島、中村、伊吹)は
最初、新潮の単行本、次いで文庫(全13冊)、1970年代に4・6版(通常の
単行本の大きさ)、全7冊、箱入りのセットで出た。

新潮版は、1950年台前半に、ソフトカバーの単行本、
1950年代後半に、文庫。全13冊。
1970年台に単行本セットで復刊、全7冊。

ワシの「失われし時」との出会いは、新潮文庫、「囚われの女」という題名を
見てエッチな空想をしたぞ、ハトロン紙つきの新潮文庫が懐かしい。

2011/04/26(火)

保苅瑞穂先生は駒場の
教養の先生だったよな。仏文の人じゃないよ。
それから俺は「保苅先生が編集したテキストを使った」と言ったのであって、
保苅先生から教わったとは言っていない。
当時は当然駒場で授業だったから、非常に近い距離にいたけどね。
けれどもその大2の語学の授業のお蔭で、失時の「コンブレー」冒頭の有名な一節(Longtemps,…)や
おやすみのキスのドラマ、マドレーヌによる記憶の想起など重要な箇所をすべて
フランス語原文で読むことができたのは、一生の良い経験だった。
それ以降、原文で失時をつまみ食いすることはあっても通読することはなかったし。
いわば俺にとってフランス文学の最初の洗礼だったのですよ。
398吾輩は名無しである:2014/04/26(土) 19:39:45.96
2012/04/26(木)

プルーストが、カントの定言命令や道徳律の考えの支持者とは考えにくい。

プルーストは、むしろ仮言命令(幸せになるため、お母さんに好かれるため等)で何がおかしい、
善行だって、突き詰めれば、各人のエゴイズムの賜物と考えてそうな気がする。

プルーストが人格・自我の統一性を否定しており、
一貫した普遍的な行為規範を措定するのはむずかしいということがあるかと。
フランソワーズは案外、一貫した行為規範を有しているようにみえる。
ただ、それは使用人としての仮言命題とあと、古きよきフランスの伝統から
なっていると言えようかと

プルーストの文章も長い、長いといわれるけれど、原文貼り付けと井上訳にあるように、読めるように書いてある。
プルーストの井上訳だけ見ると日本語としては不自然にみえて、吉田健一が訳していれば別の独自の文章になったかもしれないが、
イーヴリン・ウォーの「ブライヅヘッドふたたび」の翻訳みたいに吉田健一の世界になってしまうかも。
399吾輩は名無しである:2014/04/27(日) 19:20:42.60
2008/04/27(日)

新潮社版は読んでないけど、俺は井上(文庫)と鈴木(ハード)で2回読破した。
読み易さで言えば鈴木訳の方が断然。ただこの「読み易さ」は文章だけでなく
付属栞に各巻毎の主要登場人物の概略が書いてあったりして人物関係の整理が
すんなり出来るようになってる、という配慮が些細なようでスゲエ重要だった。
文庫にもこの栞がついてるなら値段的にも鈴木(文庫)をお勧めするな。
鈴木先生は「ユリイカ」の臨時増刊「プルースト」で翻訳の経緯を説明しているよ。

2012/04/27(金)

「考える人」のバックナンバーで「海外の長編小説ベスト100」という
特集号を取り寄せました。
作家、学者等へのアンケート結果を集計したもの
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/high/high95.html

イーヴリン・ウォーの「ブライヅヘッドふたたび」は70位でした。

1位  百年の孤独
2位  失われた時を求めて
3位  カラマーゾフの兄弟
4位  ドン・キホーテ
5位  城
6位  罪と罰
7位  白鯨
8位  アンナ・カレーニナ
9位  審判
10位 悪霊、11位 嵐が丘、12位 戦争と平和、13位 ロリータ、14位 ユリシーズ、
15位 赤と黒、16位 魔の山、17位 異邦人、18位 白痴、19位 レ・ミゼラブル、
20位 ハックルベリイ・フィンの冒険
400吾輩は名無しである:2014/04/27(日) 19:22:10.75
2012/04/27(金)

>『フェードル』や『ル・シッド』に出演するラ・ベルマは単なる女優でしかない、といわば
いえるでしょう、しかし、あれですよ、私は芸術のあの《階級制度!》というものを大して
信用しないのでね(これまでスワンと祖母の妹たちとの会話のなかでしばしば私の耳に
強くひびいたのだが、彼はまじめなことを話すとき、また重要な題目についての意見が
ふくまれているように思われるある表現をつかうとき、注意してその表現を、機械的な、
皮肉な、特別の抑揚のなかに孤立させ、責任は負いたくないといわんばかりに、その
表現を引用符号の鉤でくくってしまって、《あれですよ、こっけいな連中がよくいうあの
階級制度というものですよ》と彼がいったことに、このとき私は気がついた。しかし、それ
なら、こっけいだと思いながら、なぜ彼はその階級(イエラルシー)を口にしたのであろう?)
井上文庫T163−4頁

La Berma dans Phèdre, dans le Cid, ce n’est qu’une actrice si vous voulez,
mais vous savez je ne crois pas beaucoup à la « hiérarchie ! » des arts.
(Et je remarquai, comme cela m’avait souvent frappé dans ses conversations
avec les soeurs de ma grand’mère, que quand il parlait de choses sérieuses,
quand il employait une expression qui semblait impliquer une opinion sur un
sujet important, il avait soin de l’isoler dans une intonation spéciale,
machinale et ironique, comme s’il l’avait mise entre guillemets, semblant
ne pas vouloir la prendre à son compte, et dire : « la hiérarchie, vous savez,
comme disent les gens ridicules » ?
401吾輩は名無しである:2014/04/28(月) 20:10:29.89
2012/04/28(土)

>私にはいまや一つの時が到来しているのだ。ーーゴンドラがピアツェッタのまえで私たちを
待っていたあいだ洗礼堂にはいって聖ヨハネがキリストに洗礼をおこなっている
ヨルダン河の波のまえに自分が立っていたのを思いだすとき、あのつめたい薄くらがりの
なかで自分のそばに寄りそって一人の女性がいたことに自分で無関心をきめこみえない
一つの時が到来しているのだ、ーーその女性は、人がヴェネチアでカルパッチョの『聖ウルスラ』の
なかに見る年とった女のように、尊敬と感激とに燃えて喪服に身をつつんでいた、そして赤い頬をもち、
悲しい目をし、黒いヴェールをおろした彼女は、サン・マルコ聖堂の、あの静かなあかりに照らされた
祭壇から、もうけっして私が勝手にそとへ連れだすことはできないけれど、モザイク画像のように
そこに不動の席をとってもらっているから私はいつでもそこにきて会えることがたしかであった、
その女性こそ私の母なのだ。
(井上文庫9「逃げ去る女」p410-1)

ちなみに、吉田・草稿研究によると(276-277頁)
>中世以降現代にいたるまで、洗礼式では幼児の頭に水を注いだり、撒水したりするのが普通で
あるが、初代教会から12世紀頃までは、受洗者の全身を水に浸すいわゆる浸礼が一般的であった。
(中略)ラスキンは『サン・マルコ聖堂の休息』で洗礼者ヨハネのモザイクを次のように描写している。
   中央には聖ヨハネがいて、片手を河の真ん中にいるキリストの頭に置いている。
   右岸には3人の天使がいて、5匹の魚が泳いでいる  水の表面に身を傾げ、
   キリストは魚たちを祝福するようにその上に手を上げている。
 カイエ48の草稿でも最終稿でも、母親が主人公の肩にショールをかけてやる場面がある。
プルーストは明らかに、キリストの洗礼とのアナロジーを意識している。ヨルダン河の冷たい
水で冷えたキリストの体に天使たちが衣服を差し出すように、母親は息子を暖めようとするのだ。
402吾輩は名無しである:2014/04/28(月) 20:14:10.22
2012/04/28(土)

「失われた時を求めて」にでてくる絵画をカラー図版で
網羅した本があります。
Paintings in Proust: A Visual Companion to in Search of Lost Time :Eric Karpeles

スワンさんという人がアマゾンでレビューを書いてるので紹介しておきます。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0500238545/ref=oh_details_o03_s00_i00
>『失われた時を求めて』には二百点以上もの美術作品が取り上げられている。それだけの作品を目にする
ことは不可能だ。たとえ画集に頼るとしても、プルーストが言及している全作品に目を通すには何十冊もの
画集が必要だ。いや、それでもすべてを見ることはできないだろう(プルーストが重視するカルパッチョの画集
すら、日本にはほとんど無い状態である)。

本書はそうした絵画をこの一冊に網羅し、『失われた時』の読書に大いなる便宜を図ってくれる。絵画に対応
する本文(英訳)のみならず、巻末には適切なコメントが付され、まさに<プルースト読み必携の書>といって
も過言ではない。

『失われた時』で言及される絵画については、すぐれたプルースト学者・吉川一義氏の『プルースト美術館』
(筑摩書房)および『プルーストと絵画』(岩波書店)という労作があり、ぜひ本書との併読をお奨めしたい。
403吾輩は名無しである:2014/04/29(火) 17:43:23.42
2005/04/29(金)

…いつもは傲慢なその顔の、すっかりたるんでしまった
道具立は、だらしのない太平楽をきめこんで、薄笑いをやめないのであった。

…この上もなく誇り高かった顔、極端に反りかえった上半身、それがいまは、
あちこちぶよぶよゆれる溶液状のぼろにすぎなかった。

…こんな脳軟化症のおいぼれ古着屋の浮かべる微笑が、一分の隙もない昔の
ゼントルマンのなかに存在していたとは、とうてい理解できなかったろう。

…すっかりほかの人間になっていたので、なんともいえない恰好で神経的に
顔面を動かす、こっけいな、真白いこの人物、子供にかえったドゥーラキン将軍
をまねたこの雪だるまを見ていると、人間もある種の昆虫の変態とおなじほどに
完全な変態をおこなうことがあるように思われた。私は彼の顔面のどこが一番早く
一番確実に昆虫になりえたかを自然科学博物館の教育資料陳列棚のガラスの向こう
にながめているような印象をもった。そしてからだを動かすというよりは、むしろ
振動させているこのやわらかな蛹をまえにして…

…彼は、意識する魂をすっかりなくして、白い毛糸のつけひげをもった、
小きざみにふるえる人形になっていた…
(ちくま、巻10,411.11〜415.15)

「私の個人的な敵」であるアルジャンクール氏の老化の描写
404吾輩は名無しである:2014/04/29(火) 17:47:22.67
2011/04/29(金)

集英社版9巻218頁。

同じ巻の298頁にもあるよ。この箇所は、マルセルを主人公の名として認めたくない鈴木も
「語り手がなんの条件もつけずにマルセルと呼ばれている全篇で唯一の箇所」と
認めざるを得ないところ。
鈴木は「もしプルーストがもう少し生き長らえて、この部分に手を加えることが出来たなら
このマルセルという名前も抹消される運命にあったことは確実である。」(438頁)
などとしているが、これは解釈の問題でしかない。
幾つもの層からなるテクストを強引に捻じ曲げ、理想的なテクストを夢想するのは勝手だが
実際に残されたテクストに「マルセル」と明記されているという事実は動かない。

2012/04/29(日)

>実生活において、メロドラマの美学に基礎をあたえるものは、
ほとんどサディズムしかない。井上文庫1p274

時の破壊作用の次の描写

>女たちは、若さはともかくもすくなくとも美しさのきざまれていたその顔だちが
ついにくずれさると、残された顔形からもう一つの美しさをつくりだす方法はない
かとさがし求めていた。顔形の重心はともかくも、すくなくともその顔形のパー
スペクティヴの中心を移動させ、その中心のまわりに、べつの特徴を生かして顔形
を組みたてながら、彼女らは五十歳になって新しい種類の美しさを開拓するように
なった。いわば晩年になって新しい職業についたり、ぶどうにはもう価値のない土地
に甜菜(ビート)を栽培させるように。そうした新しい顔立のまわりに、彼女らは
それぞれ新しい若さを花咲かせていた。
405吾輩は名無しである:2014/04/29(火) 17:49:19.08
2012/04/29(日)

続く次のくだりははじめて読んだとき、強烈だった。独身者的辛辣さというか率直さというか

>ただ、そんな転換に順応できなかったのは、美しすぎる女か、みにくすぎる女かであった。
前者は、大理石のようにきざまれていて、その決定的な線には変化をさせる余地がなく、
そうした女たちは彫像のようにぼろぼろにくずれていた。後者は、顔になんらかのみにくさを
もっていた女たちで、それでも美女よりはある程度有利な点をもっていた。第一に、すぐ
見わけがついたのはこの種の女たちだけだった。パリにおなじ形の口が二つとないことは
みんなが知っていた。それで私には、彼女らの口を見れば、私がもう誰も見わけられない
この午後のパーティにおいても、それらが誰であるかを見わけることができたのである。
それに、この種のみにくい女たちは、一見年をとったようすさえもなかった。老齢は人間的な
何かなのに、彼女らはモンスターだったから、鯨とおなじように、一向に「変わった」とは
思われないのであった。 井上文庫10p451-2

新潮社版の井上究一郎・淀野隆三訳からはじめの2文(7巻 236−7頁)

>婦人たちは自分らの魅力のうちで最も個性的なものをつなぎとめようと
していたが、彼女たちの顔に新たに加わったものがもうそれには応じてくれ
なかった。若さとまではいかないが少なくとも美しさの刻みつけられた顔だち
が、たいていの女から消え失せてしまったので、彼女たちは残された顔を
元手に、別の美しさが作り出せないものかと、その方法を捜し求めていた。
406吾輩は名無しである:2014/04/30(水) 19:21:40.34
2009/04/30(木)

ゲルマント公爵夫人から物凄くバルザック的になってくるね、この小説。

2010/04/30(金)

長すぎて読む勇気でねーよ

2011/04/30(土)

その辺の巻に語り手がスワンについて書いた原稿を整理している・・・
みたいな下りがあったような気がするんだけど、
そういうの読んじゃうと結局語り手の書いてるのが失われた〜なんじゃないかと思っちゃうんだけど
あくまで「かなり近いもの」としてるのは気になりましたね。

井上訳は原文になるべく忠実であろうことを目指した訳で、それゆえに読みにくいところもあるって
岩波版解説に書いてる。

二宮正之氏がエッセイで書いているが、日本語で読む
プルーストと仏語で読むプルーストは、構文の違いからプルーストは
明快な文章を書いているとある。なぜなら、仏語では最初に結論は出しているので
その後の従属節(形容節・副詞節)が込み入っているんだとね。それと、形容詞が
後にくる仏語と日本語の違いを苦労して処理している井上訳を評価してる。

鈴木道彦って、鈴木信太郎の息子さんで、まさに「ザ・正統派」という感じ
407吾輩は名無しである:2014/04/30(水) 19:23:35.01
2012/04/30(月)

時の破壊作用は、すでにコンブレーの巻でも、容赦なく描写されている。
そして、それはプルースト自身の自画像(といってもこれを書いた時点の彼にとって
近未来の)ともいえる。

≪ Je ne peux pas dire comme je trouve que Swann change, dit ma grand’
tante, il est d’un vieux ! ≫ Ma grand’tante avait tellement l’habitude
de voir toujours en Swann un meme adolescent, qu’elle s’etonnait de le
trouver tout a coup moins jeune que l’age qu’elle continuait a lui donner. 
Et mes parents du reste commencaient a lui trouver cette vieillesse anormale,
excessive, honteuse et meritee des celibataires, de tous ceux pour qui il
semble que le grand jour qui n’a pas de lendemain soit plus long que pour
les autres, parce que pour eux il est vide, et que les moments s’y
additionnent depuis le matin sans se diviser ensuite entre des enfants.

>「スワンの変わりようといったら、私どういえばいいのかしら」と大叔母がいった、
「まるでおじいさんね!」大叔母にはいつもスワンのなかに昔とおなじような若々し
い男を見るくせがついていたので、つづけて考えていた年齢よりも若くない彼に突然
接してびっくりしたのであった。それに私の両親も、彼のそんな老け方に気づきはじ
めていて、それが正常ではなく、度を越し、人目にもはずかしいような、たとえば
独身を通した男たちの、あすというものがなくてあけた一日が、まるで空白で、いた
ずらに朝からかさなるその時間がやがて子供たちのためにあれこれと配分される予定
もなく、人よりはずっと長い一日であるように思われる、そんな人たちの誰にでもよ
くあるあの老け方だと思うのであった。井上文庫1p57

VNabokov_bウラジーミル・ナボコフ

…プルーストの難解な傑作は巨大で、奇怪なお伽噺であり、アスパラガスの夢であり、フランスの歴史上
のどんな特定の人間ともまったく無関係であり、性的な変装劇とかすばらしい笑劇であり、天才的な
語彙と天才的な詩を備えているが、途方もなく無礼なあの女主人たちはもう御免だ(…)。─『青白い炎』
408吾輩は名無しである:2014/05/01(木) 19:34:23.38
2008/05/01(木)

胡麻と百合って絶版なんだね・・

2011/05/01(日)

「幾夜寝覚」名著だね。
井上訳のプルーストを読了した直後に読み、感銘を受けた。
今も本棚に収まっている。

吉田城先生の授業は生前に聴講したことがあります。
プリントの字なんかもすごく細かくて印字みたいな字を書く人で、たぶんすごく神経質な人なんじゃないかな、と思ったのが第一印象。
そのあとで亡くなられたときはびっくりした。
“生成研究”、って言うんですか、吉田先生のやっていたことはもちろん最大級の評価に値すると思っています。
新プレイヤード版の表紙には燦然と“Jo Yoshida” の文字が刻まれていますよね。
ただまあ、わたしは研究者ではないです。だから吉田先生の打ちたてた esquisse に関心を持っても
こと細かな細部の分析にはあまり興味がないんですね。楽しめて読めれば。
最近の文学研究は、楽しんで読めるものが少ない。あまりにもテクニカルなものになりすぎている。
「文献学」の価値は認めますが、そのフィールドでの論争には興味が持てないですね。
409吾輩は名無しである:2014/05/01(木) 19:36:05.49
2012/05/01(火)

「スワンの恋」の最後の方を英訳で読んでいた。

娼家での取り持ち女や若い娼婦との会話
乗合馬車でのコタール夫人の長台詞。
ナポレオン三世や火事がでてきて、どうしたのと思ったら
夢だったんだ(SFや夢は注意して読まないと英語だとわからなく
なってしまう、もっとも日本語で通読したのにこの夢のシーンは
すっかり忘れていたのだから、むしろ慣れない言葉で読んだ方が
いい面もありそう)
すごくフロイト的な夢
自身が土耳古帽を被った青年とスワンに分裂し、一方が一方に
話しかけている

スワンが、カンブルメール若夫人(元のルグランタン嬢)を気にいってしまい、
朝早くに理髪師を呼んでお召かししてしまうシーンもまったく記憶から消えている。
一応、吉川訳が出た際、読み返しているはずなのに。

>われわれをある人々に出会わせる種々の偶然の出来事というものは、われわれが
その人を愛している期間とは一致しないで、その期間の前後にはみだしながら、愛が
はじまるまえに起こり、また愛がおわったあとにくりかえされるものであって、やがての
ちになってわれわれの気にいる運命をもっている人がわれわれの生活に最初に出現
する機会というものは、あとで考えてみると、われわれの目に一種の予告、一種の前兆
のような価値をもたらしているのである。そんなふうにして、スワンは、劇場で出会った
オデットの映像、いつかふたたび出会おうとは思いもしなかったあの最初の晩のオデット
の映像を、しばしば追想したのであったし、またそんなふうにして、いまは、彼がフロベル
ヴィル将軍をカンブルメール夫人に紹介したサン=トゥーベルト夫人の夜会を思いだす
のであった。
410吾輩は名無しである:2014/05/01(木) 19:38:31.80
2012/05/01(火)

出会うのはこの夜会でなくてもよかった。出会う人すらオデットでもカンブルメール夫人
でも誰でもほんとうはよかった
不可避な摂理、必然的な連鎖と感じるのはあとづけにすぎない、というプルースト流の
人生観があとに続き、最後に有名なスワンの慨嘆で結ばれる。

ルグランタン嬢はコンブレーでは妹という設定
だったはず。スワンの最後の慨嘆の前に、スワンは夢にあらわれた
オデットの顔をきわめて身近に感じたかのように再び見る。

Et avec cette muflerie intermittente qui reparaissait chez lui dès qu’il n’était
plus malheureux et qui baissait du même coup le niveau de sa moralité, il s’écria
en lui-même : « Dire que j’ai gâché des années de ma vie, que j’ai voulu mourir,
que j’ai eu mon plus grand amour, pour une femme qui ne me plaisait pas,
qui n’était pas mon genre ! »

>そして彼は、自分が不幸でなくなると同時に一方で自分の道徳性のレヴェルがさがるとき、
ただちに頭をもたげるあの間歇的な愚劣さをとりもどして、心のなかで言いはなつのであった、
「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋
をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のため
に!」
411吾輩は名無しである:2014/05/02(金) 20:24:56.59
2012/05/02(水)

自分の道徳性のレヴェルがさがるとき、って自分には結構わかりにくい。
最後の慨嘆は、恋愛の狂気が去り、我にかえったときのもののように
なんとなく感じてしまっていた。

間歇的な愚鈍さ、とあるから、こうじゃないときもあって、
そのときの方が愚鈍じゃないってことになる。

スワンが結局、オデットと結婚したこととの関連

高遠訳
不幸でなくなり、それとともに道徳的水準ががくんと下がるたびに
断続的に頭をもたげる卑しさが心を占めて、スワンはこう自分に言い
聞かせた。

鈴木訳
そしてスワンは、悲しみが消え、それと同時に自分の道徳水準が低下
するやいなや、たちまち間歇的にあらわれるいつもの下卑た口調でも
って内心にこう叫んだ。

英訳
And with the old,intermittent caddishness which reappeared in
him when he was no longer unhappy and his moral standards
dropped accordingly, he exclaimed to himself
412吾輩は名無しである:2014/05/02(金) 20:26:44.74
2012/05/02(水)

井上は愚鈍さと訳しているけど
muflerie 下品、粗野 
mufle (哺乳類の)鼻面、下品(粗野な)やつ、《話》(人間の)大きな
(醜い)顔、《古》間抜け、とんま

英訳のcaddishness
caddish 卑劣な、下品な。非紳士的な の名詞形 

オデットがヴェルデュラン夫人ほかの女たちとレスビアンの関係なのでは、
ゴモラの女なのではという疑惑に苛まれるスワン。
オデットを思わず問い詰めてしまうと、オデットはヒステリックに「もしか
すると、ずいぶんまえに、自分が何をやっているかも知らずに、二度か三度、
やったかもしれないけれど。」と言い放つ。結局、その告白はスワンをます
ます苦しめる。

>スワンにとって幸福なことには、彼の魂のなかに野蛮な侵入者のように
どっとはいってきたこの新しいさまざまな苦しみの底に、もっと古いもっと
平静な地盤をなす本性が存在していて、それがあたかも侵された組織の回復
にただちにとりかかろうとする傷ついた器官の細胞のように、また運動を
とりもどそうとする麻痺した手足の筋肉のように、黙々として活動していた。
彼の魂のなかに住むこのいっそう古い土着の民は、一瞬間、スワンのすべて
の力を集めて、快方に向かった病人や手術を受けた患者に安息の幻覚を起こ
させるあのひそやかな回復作用にあてた。その結果、精も根もつきはてたあの
弛緩に陥ったのは、いつものようにスワンの頭ではなくて、むしろ彼の心で
あった。井上文庫1p614
413吾輩は名無しである:2014/05/02(金) 20:30:20.09
2012/05/02(水)

Heureusement pour Swann, sous les souffrances nouvelles qui venaient d’entrer dans son âme
comme des hordes d’envahisseurs, il existait un fond de nature plus ancien, plus doux et
silencieusement laborieux, comme les cellules d’un organe blessé qui se mettent aussitôt en
mesure de refaire les tissus lésés, comme les muscles d’un membre paralysé qui tendent à
reprendre leurs mouvements. Ces plus anciens, plus autochtones habitants de son âme,
employèrent un instant toutes les forces de Swann à ce travail obscurément réparateur qui
donne l’illusion du repos à un convalescent, à un opéré. Cette fois-ci ce fut moins comme
d’habitude dans le cerveau de Swann que se produisit cette détente par épuisement, ce fut
plutôt dans son coeur.

>しかし、すべての人間の生活にあっては、一度存在したことはもう一度あら
われる傾向がある、そして瀕死の動物が、最後の痙攣をおわったと思われてから、
またぴくりと動くように、ひとときおさまっていたスワンの心臓にふたたびおなじ
苦しみが自動的にやってきて、またもやおなじ十字架の跡を残した。 


Mais toutes les choses de la vie qui ont existé une fois tendent à se récréer, et comme
un animal expirant qu’agite de nouveau le sursaut d’une convulsion qui semblait finie,
sur le coeur, un instant épargné, de Swann, d’elle-même la même souffrance vint retracer
la même croix.
414吾輩は名無しである:2014/05/03(土) 20:04:26.74
2011/05/03(火)

一巻に語り手が自慰してる場面が出てくるが、あそこは屋根裏部屋から窓の外の樹に対して精液を
飛ばすという解釈でいいんだろうか?
415吾輩は名無しである:2014/05/04(日) 18:21:38.15
2012/05/04(金)

「いまやバルザックがトルストイの上に持ち上げられている。沙汰の限りだ。バルザックの作品は、いけ
すかない、不愉快な、まったくの噴飯ものである、そこでは大作品をつくりたいと願う一文学者によって
人間が裁かれている、トルストイにあっては裁くのは静謐の神であるのに。バルザックはやっとのことで
大作家の印象を与えている、トルストイにあってはすべてがごく自然におおきい、」
(プルースト評論選「文学篇」ちくま文庫より引用)

吉田秀和「マーラーの流行をめぐって」の最後で引用されるプルースト
(該当箇所がみつからないが言っていることは確かにプルーストらしい)

「重要なのは対象の価値如何ではなくて、愛における心の状態(エタ・ダーム)の深さだ。
ごく普通の娘でも、すぐれた人物の対話や著作以上に、私たちの意識のより内密で、
個人的で、深くて、本質的な部分にまでさかのぼる能力をもった感動を与える機縁になる
のである」。

Le questionnaire de Proust(プルーストの質問)なるものを見つけた。
日本で何年か前にブログやSNSで流行ったバトンに似ている。自己紹介も兼ねている。

質問と1890年のプルースト自身の回答の原文と訳(プロフィールに回答例あり)
http://atchonbulike.jugem.jp/?eid=301
フランス版のwikiが元ネタ
http://fr.wikipedia.org/wiki/Questionnaire_de_Proust
416吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 20:02:42.18
2011/05/05(木)

昔の医療ってよくわかりませんけど、重い病にはかならずしゃ血したりするものなんですかね。
おばあちゃんの死の床で臨終間際に顔中に蛭を這わせてた話にはちょっとショックを受けました。

2012/05/05(土)

吉田秀和がわざわざカタカナで残したエタ・ダームという言葉、ラカンも用いている。

2回目が「ソドムとゴモラ」

Je la regardais, je regardais ce corps charmant, cette tête rose
d’Albertine, dressant en face de moi l’énigme de ses intentions,
la décision inconnue qui devait faire le bonheur ou le malheur de
mon après-midi.C’était tout un état d’âme, tout un avenir
d’existence qui avait pris devant moi la forme allégorique et fatale
d’une jeune fille. 

>私はアルベルチーヌをながめる、彼女のあの美しいからだ、あのばら色の顔を
ながめる、それは、彼女の意図の謎を、私の午後の幸福または不幸をつくりだす
未知の決意を、私の面前にかかげているのだ。それは、私のまえに、一人の若い
娘という、寓意的な、宿命的な形をとってあらわれた、ある精神の状態、ある未
来の生存にほかならなかった。井上7p304

>私は彼女を見つめるのだった、この美しい身体を、アルベルチーヌのこのバラ色
の顔を。その顔は私の目の前に、謎の意志や、未知の決意を立ちはだからせている。
このように私の前で若い娘という寓話的で宿命的な形をとっているのは、一つの精
神状態であり、ひとりの人間の存在の未来なのだった。鈴木8p309
417吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 20:04:32.82
2012/05/05(土)

最後の3回目。
ジルベルトがシャンゼリゼ大通りで寄りそって歩いていた若い男の正体(実は女)。
しかし、今の語り手にはもはやそんなことはどうでもよくなっていた。
原書、鈴木では、「逃げ去る女」(「消え去ったアルベルチーヌ」)の最後の方だが、
井上はこの部分を「見出された時」の冒頭に回している。このあたりのジルベルトの告白
は大どんでんがえしのネタばらしの連続なので、解決篇ともいえる「見出された時」に
ふさわしく、井上のやり方も首肯できる。どのみちタンソンヴィル滞在は巻を跨ぐのだし。

De l’état d’âme qui, cette lointaine année-là, n’avait été pour moi qu’une longue
torture rien ne subsistait. Car il y a dans ce monde où tout s’use, où tout périt,
une chose qui tombe en ruines, qui se détruit encore plus complètement, en laissant
encore moins de vestiges que la Beauté : c’est le Chagrin.

>自分が長い責苦に会っているとしか思えなかったあの遠い年の精神状態から、いまに
残っているものは何もなかった。すべてが古び、すべてが滅びるこの世界にあって、見
るかげもなくくずれさるもの、美よりも痕跡を残すことなく、もっと完全に崩壊するもの
がある、それは悲しみだ。井上10p14

>私にとってあの遠い年の精神状態は長い拷問にほかならなかったが、そんな状態は今で
は何ひとつ残っていなかった。というのも、すべてが衰え、すべてが滅びゆくこの世界の
なかで、粉々に崩壊するもの、〈美〉よりもさらに完全になんの痕跡も残さず破壊される
ものがあり、それは〈悲しみ)だからである。鈴木11p453
418吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 20:07:16.43
2012/05/05(土)

état d’âmeがでてくる最初は「花咲く乙女たち」の「土地の名・土地」。


Chaque jour depuis des années je calquais tant bien que mal mon état d’âme
sur celui de la veille.

>何年かまえから、毎日私は、よかれあしかれ、前日の精神状態を、そっくりつぎの
日の精神状態に敷きうつしにして生きてきた。井上2p363

>幾年も前から私は毎日自分の魂の状態を、どうにかこうにか前日の状態に重ね、
これをなぞってきた。鈴木3p386

以上、井上は文庫、鈴木は水色のハードカバー。
419吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 20:12:03.50
2012/05/05(土)

ジルベルトと別れることを決意し、会わなくなって2年。
語り手は祖母に連れられて、バルベックに滞在する。
パリでの生活の習慣が断ち切られ、ジルベルトへの無関心が完成する。
パリでの2年間の生活習慣について言っている。

>とはいえ、バルベックへのこの出発の当初や、そこでの滞在のはじめのころは、
ジルベルトへの無関心も、まだ間歇的なものにすぎなかった。p361
Pourtant au moment de ce départ pour Balbec, et pendant les premiers temps
de mon séjour, mon indifférence n’était encore qu’intermittente.

>しかし、ジルベルトにたいするこの苦しみと、この恋のぶりかえしとは、人が夢
のなかで抱くそれらの感情以上には長くつづかなかった、それにこんどは、いつもと
変わって、場所がバルベックなのだから、古い習慣のたすけでそうした感情を長つづき
させるわけにもいかなかった。p363
Mais cette souffrance et ce regain d’amour pour Gilberte ne furent pas plus
longs que ceux qu’on a en rêve, et cette fois, au contraire, parce qu’à Balbec
l’Habitude ancienne n’était plus là pour les faire durer.


>パリでは、習慣のおかげで、次第にジルベルトに無関心になってしまった。習慣
の変化、すなわちその一時的停止は、私がバルベックに出発したとき、習慣の仕事
を一応完了した。p363
À Paris j’étais devenu de plus en plus indifférent à Gilberte, grâce à l’Habitude.
Le changement d’habitude, c’est-à-dire la cessation momentanée de l’Habitude,
paracheva l’oeuvre de l’Habitude quand je partis pour Balbec.
420吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 20:48:09.09
2012/05/05(土)

「土地の名、――土地」のはじめの方は見事な考察が続く。モラリスト、プルースト。

Quand je subissais le charme d’un visage nouveau, quand c’était à l’aide d’une autre jeune fille
que j’espérais connaître les cathédrales gothiques, les palais et les jardins de l’Italie, je me
disais tristement que notre amour, en tant qu’il est l’amour d’une certaine créature, n’est
peut-être pas quelque chose de bien réel, puisque si des associations de rêveries agréables ou
douloureuses peuvent le lier pendant quelque temps à une femme jusqu’à nous faire penser qu’il a
été inspiré par elle d’une façon nécessaire, en revanche si nous nous dégageons volontairement ou
à notre insu de ces associations, cet amour, comme s’il était au contraire spontané et venait de
nous seuls, renaît pour se donner à une autre femme.

>私は、自分があらたな顔に魅力を感じるとき、またちがった若い娘の手びきで、
ゴチックの大聖堂、イタリアの宮殿や庭園を知りたいなどと望むとき、よくつぎ
のようにつぶやいて、ふさぎこむのであった、――われわれの恋も、われわれが
ある女を愛しているという状態にとどまるかぎり、そんなに確固たる現実ではな
いのかもしれない、その証拠に、快い夢想、または苦しい夢想の、さまざまな連
合が、自分はどうしようもなくこの女にほれこむようになったのだ、とわれわれ
に思いこませるにいたる当分のあいだは、われわれの恋をその女に結びつけてい
ても、他方、意識的に、または知らないあいだに、そうした夢想の連合からわれ
われが抜けだせば、こんどはその恋は、逆に、われわれの側から、一方的に、ひ
とりでに、発生したかのように、生まれかわって、またべつの女に向けられるの
ではないか、と。井上2p360
421吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 21:06:47.28
2012/05/05(土)

C’est pourquoi la meilleure part de notre mémoire est hors de nous, dans un souffle pluvieux,
dans l’odeur de renfermé d’une chambre ou dans l’odeur d’une première flambée, partout où
nous retrouvons de nous-même ce que notre intelligence, n’en ayant pas l’emploi, avait dédaigné,
la dernière réserve du passé, la meilleure, celle qui quand toutes nos larmes semblent taries,
sait nous faire pleurer encore. Hors de nous ? En nous pour mieux dire, mais dérobée à nos propres
regards, dans un oubli plus ou moins prolongé.

>そういうわけで、われわれの記憶の最良部分は、われわれのそと、すなわち、
雨もよいの風とか、部屋にこもった臭気とか、燃えだした薪の最初の炎の匂とか
のなかにある、つまり、われわれの理知がの使途を知らずに軽蔑してしまってい
たもの、過去が保っている最後の貯蔵物、最良のストック、われわれの涙が涸れ
つくしたと思われるときもなおわれわれを泣かせるに足るようなもの、そうした
ものをわれわれが自分自身で見出すそのいたるところに、それはあるのだ。われ
われのそとに? いや、われわれのなかに、といったほうがいい、しかし、われ
われの視線をのがれたところに、長いまたは短いへだたりをもった忘却のなかに
ある。p362
422吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 21:14:43.41
2012/05/05(土)

Mais enfin le plaisir spécifique du voyage n’est pas de pouvoir descendre en route et de s’arrêter
quand on est fatigué, c’est de rendre la différence entre le départ et l’arrivée non pas aussi
insensible, mais aussi profonde qu’on peut, de la ressentir dans sa totalité, intacte, telle quelle
était dans notre pensée quand notre imagination nous portait du lieu où nous vivions jusqu’au coeur
d’un lieu désiré, en un bond qui nous semblait moins miraculeux parce qu’il franchissait une distance
que parce qu’il unissait deux individualités distinctes de la terre, qu’il nous menait d’un nom à un
autre nom ; et que schématise (mieux qu’une promenade où, comme on débarque où l’on veut, il n’y a
guère plus d’arrivée) l’opération mystérieuse qui s’accomplissait dans ces lieux spéciaux, les gares,
lesquels ne font pas partie pour ainsi dire de la ville mais contiennent l’essence de sa personnalité
de même que sur un écriteau signalétique elles portent son nom.
423吾輩は名無しである:2014/05/05(月) 22:15:53.79
2012/05/05(土)

>しかし、結局旅行特有のたのしみは、途上で地面におりたり疲れたときにとまっ
たりできるということではなく、またそんなふうに出発と到着とのあいだの差異を
できるだけ感じられなくすることよりも、むしろその差異をできるだけ深く感じる
ようにすることにある、つまり、われわれが生活している場所から、希望の場所の
中心へ、想像力が飛躍でもってわれわれを連れていってくれたときのように、二つ
の場合の距離の差を、思考にあったときのままに、完全に、そっくりそのままで、
もう一度感じなおすことにある、その想像力の飛躍が、奇蹟的なものに見えたのは、
その飛躍でもって判然と異なる土地の二つの個性を一つにむすびつけていたからな
のだ、いわば、われわれを一つの名から他の名のところへ連れていってくれたから
なのだ、そして、停車場という特殊の場所で神秘的な操作がおこなわれたために(
勝手なところにとまれるからきまった着駅というものをもたない自動車旅行よりも
はるかによく)、距離が図式化されるからなのだ、停車場は、町の単なる一部分を
なすのではなくて、駅標識のおもとにその町の名をかかげているように、その町の
人格の本質をふくんでいるのだ。p364

「湖のように穏やかになったバルベック湾での、あの満月」のようなアルベルチーヌの眠り
424吾輩は名無しである:2014/05/06(火) 19:22:29.41
2008/05/06(火)

クラ好きかバレエ好きってのいるかな
「プルースト」ていうDVDが最近でたんだが。

(「失われた時を求めて」漫画版に関する綿矢りさの書評)

綿矢りさの書評がとにかくすごい件
425吾輩は名無しである:2014/05/07(水) 19:21:26.57
02/05/07

50Pほど読んだところで、電車に置き忘れる。
オイラの深層心理は読みたくないと言っていたのだろうか?

2006/05/07(日)

本好きの漏れは文庫本1冊くらい軽く読める
ちくま版全10巻読むのもそんな大したことじゃない

と思い上がってたのは漏れだけでしょうか
本ならいくらでも読めると思ってた自信が木っ端微塵に打ち砕かれるよこの本は

これ長いけど、一月ぐらいで読むとしたらどのくらいのペースがいるだろう。

10巻あるヤツの場合、三日で1冊よめばいける。1冊平均すると、900百ページぐらいかな?
だとしたら一日300ページぐらいでいけるか。

かなり曖昧な計算だけど、一ページ読むのに1分の場合300ページで300分、つまり六時間。
一日の六時間は、一日の四分の一である。つまり、一日の四分の1をマルセル・プルートにつぎ込めばいい。

総合の時間は、1冊、6×3=18時間。全部で、18×10=180時間。

一月は24×30=720時間
180/780は 3/13になるから一月の13分の1をマルセルプルートに当てれば
いいんじゃないだろうか。

ちくま版だったら、たぶん第3巻目くらいまで辿りつけば、
いやでも花咲く乙女たちがProustの世界に連れ去ってくれるんじゃないですか、きっと。
426吾輩は名無しである:2014/05/07(水) 19:24:22.51
2006/05/07(日)

 長い道のりも慣れないと辛いですが、ふと立ち止まった小径の景色のなかに
モーヴいろの勿忘草を見つけることがあるものです。
Proustからもらった花束は、素敵な記憶の押し花になるでしょう。

集英社文庫で鈴木訳が刊行され始めたのね。
今、朝刊見て初めて知った・・

鈴木訳全訳を途中で挫折して、抄訳版を買って毎日ぱらぱら拾い読みしていた。
そうしたらだんだん抄訳部分の間が読みたくなってきて、ついに鈴木訳文庫を買い始めた。
全訳でもやっぱり気に入ったところぱらぱらになるだろうが、それでも楽しければいいじゃないかと思っている。

2008/05/07(水)

今日まで休みだしマドレーヌと紅茶でも頂くか

四季の移り変わりにも似た、宮中生活の日常を淡々と描きながら、それを
積みかさねていって、こんな大長編をものした紫式部つて、大天才だと思う。

2009/05/07(木)

最後のほうになると1巻の内容なんか忘れてるね。
語り手と一緒に昔を思い出しながら読む感じ。

石につまづいたときに全巻の内容を思い出したりしてな。

2010/05/07(金)

描写が癖になるが、大筋を見失った
427吾輩は名無しである:2014/05/08(木) 19:20:56.88
02/05/08

一種の謎解き小説だと思って読んだ。

「見出された時」で一応謎は解かれる。

でもその謎解きに納得いかんかったなあ。

04/05/08

とりあえずちくま文庫で全巻購入してしまいました。
必ずCD流しながら読もうって決めたんですけど、
どんな曲が合うでしょうか。
小説の中で具体的な作曲家や曲の名前が出てきますか。
あるいはプルースト自身が執筆しながらイメージした曲はあるのでしょうか。
音楽に詳しい方、教えてください。

本は本で楽しむものではないかと。

イメージを補完したければ、
現地へ赴くか、作中の音楽をさがすか。

ママレードにお茶から始めてみてはいかがでしょうか?

お詫びして訂正します。
ママレード→マドレーヌ
428吾輩は名無しである:2014/05/08(木) 19:22:28.88
2009/05/08(金)

読みやすさを求めるなら、こんな小説読まない方がいいのでは?

2010/05/08(土)

敬遠してたこの本を今鈴木訳ので1巻の200ページまで読んでるけど
かなり面白いんだが。
429吾輩は名無しである:2014/05/09(金) 19:52:09.09
04/05/09

オーソドックスな選択だが、
ベートーヴェンの四重奏曲などはどうだろう。

ショパンの夜想曲全集なんかどうでしょう?

2009/05/09(土)

ゲルマント公爵夫人読むのに疲れたので、
気晴らしに数年前に読了した坂の上の雲を
読み返しているのだが、小説ってこんなに読みやすい
ものだったのかと驚きました

確かにこれ読んでつかれてくると、ドストエフスキーやトーマス・マンでさえ読みやすいと感じるもんなあ
430吾輩は名無しである:2014/05/09(金) 19:54:12.13
2012/05/09(水)

Qu’il suffise actuellement, à son égard, de faire observer ceci : pour Swann,
à la rigueur le changement peut surprendre puisqu’il était accompli et non
soupçonné de moi quand je voyais le père de Gilberte aux Champs-Élysées,où
d’ailleurs ne m’adressant pas la parole il ne pouvait faire étalage devant
moi de ses relations politiques (il est vrai que s’il l’eût fait, je ne me
fusse peut-être pas aperçu tout de suite de sa vanité car l’idée qu’on s’est
faite longtemps d’une personne bouche les yeux et les oreilles ; ma mère pendant
trois ans ne distingua pas plus le fard qu’une de ses nièces se mettait aux lèvres
que s’il eût été invisiblement dissous entièrement dans un liquide ; jusqu’au jour
où une parcelle supplémentaire, ou bien quelque autre cause amena le phénomène appelé
sursaturation ; tout le fard non aperçu cristallisa, et ma mère, devant cette débauche
soudaine de couleurs déclara, comme on eût fait à Combray, que c’était une honte, et
cessa presque toute relation avec sa nièce).
431吾輩は名無しである:2014/05/09(金) 19:55:50.08
2012/05/09(水)

>さしあたって、彼(*コタール)に関しては、つぎのような観察をするだけで
十分である、――そのまえにまずスワンの場合には、厳密にいって、その変化
があまりに不意のようでおどろかされるのもむりはなかったが、じつのところは、
私がシャン=ゼリゼでジルベルトのこの父に会ったときには、もう彼の変化は
完了してしまっていたので、ただ私がすこしも気づかなかったまでであった、
もっとも彼は私に言葉をかけなかったから、自分の政治的な交友関係を私のまえ
でならべたてるわけには行かなかったのだ(もちろん、彼がそれをやったとして
も、おそらく私には即座に彼の高慢は見やぶれなかったであろう、というのも、
ひさしいあいだある人にたいして抱いてきた観念は、われわれの耳目をふさぐもの
なので、私の母にしても、三年間というもの、彼の姪にあたるのがうまく唇に
塗っていた紅(べに)を、まるでそれが透明な液体のなかに見えずに溶けていた
かのように、さとらずにすませていたところ、とうとうある日すこしよけいに
利かしすぎたのか、それとも何かほかの原因だったかが、過飽和と呼ばれる現象
をひきおこして、それまで気づかれなかった顔料の元素が結晶したために、母は、
ぱっとさらけだされたこの色彩の過剰をまえにして、コンブレーのならわしを
まもる人がよくやるように、とんでもない恥さらしだと言いわたし、それっきり
ほとんど交際を断ってしまったことがあった)。
井上2p10−11

語り手の母親が姪のルージュに気付き この姪を非難するのはなぜか

やはり、カトリック的宗教道徳からでしょうか。
化粧は男の気をひくためのもの、男を誘惑するためのもので
そんなのは娼婦のすることだ、と。
432吾輩は名無しである:2014/05/09(金) 19:57:35.81
2012/05/09(水)

イギリスのビクトリア時代と同じで性的なものを抑圧すれば、
それは醜い形で陰に陽に噴出しがちである。
しかし、この小説の母親・祖母からはそういった醜い面はほぼ
拭い去られている。
「ジャン・サントゥイユ」では、母親に反抗して、ヴェネチアングラス
の水差しを叩きわるシーンなどが見られるが、母親への反抗といったものは、
フランソワーズに対するものに転嫁されていたりする。

関連して気になるのは、この姪というのは、語り手の初体験の相手である
従妹と同一人物の可能性はないか。
語り手がコンブレーのレオニ叔母の部屋の長椅子の上でで、その後、叔母
から形見として遺贈されるが出入りしていた娼家の女経営者・とりもち女
にやってしまうことになる長椅子の上で、はじめて愛の快楽を知ることに
なった相手。井上2p255

そうなると、3年間という期間は意味深である。
3年前、語り手と初体験した従妹は、語り手を男として意識するようになり、
語り手の一家に会う際に口紅をさり気なく塗るようになっていたのではないか。

語り手の母親は、語り手に「フランソワーズ・ル・シャンピ」を読んで聞かせる
とき、恋愛シーンを母子近親相姦を思わせると飛ばして読んでいた。
色気づいた姪が、息子を奪う女として映り、嫌悪感を抱き遠ざけたという側面も
あるのではないか。

× 「フランソワーズ・ル・シャンピ」
○ 「フランソワ・ル・シャンピ」

ちなみにRTPには語尾を変えるだけで男名になったり女名に
なったりする名前が多い。
433吾輩は名無しである:2014/05/09(金) 21:28:06.26
>>432
종주근은 몸의 길이 방향으로 늘어서 있으며, 몸의 길이를 줄이거나 늘인다.
또, 강모(센털)가 있어 미끄러지지 않도록 해준다. 폐나 아가미가 없으며,
흙 알갱이 사이에 있는 공기를 얇은 피부를 통하여 받아들여 호흡을 한다.
또 환대가 있는데 환대가 있는 쪽이 머리 쪽이다.
434吾輩は名無しである:2014/05/10(土) 19:30:17.41
2009/05/10(日)

ゲルマント公爵夫人後半のゲルマント公爵邸の夜会は、
読んでいて反吐が出そうだった。貴族たちの俗物ぶりに
あきれ果てたよ。それに貴族の家柄がどうたらこうたらという
話の長いこと!!

2011/05/10(火)

光文社版ではレオニの椎骨についてどんな訳し方なの?

岩波版今日から読み始めたんだがすげぇ親切な仕様だな

2012/05/10(木)

– Je dois ajouter, pour être tout à fait juste, qu’il y va cependant des femmes,
mais... appartenant plutôt..., comment dirais-je, au monde républicain qu’à la
société de Swann (il prononçait Svann).

>片手落ちではこまりますから申しあげなくてはなりませんが」と彼はつけくわえた、「あ
の家にはご婦人たちも見えることは見えるのです。しかしそれは… むしろ… なんと申し
あげたらいいか、共和党の仲間に属する女たちで、スワン(ノルポワ氏はスヴァンと発音し
た)の交際する社交界の人たちではないようです。井上2p64−65
435吾輩は名無しである:2014/05/10(土) 19:31:16.62
2012/05/10(木)

ノルポワがスワンをスヴァンとドイツ語式に発音する理由

なぜだろう。外交官としてプロシア(プロイセン)、ドイツ帝国(1871−1918)
との折衝が多かったからか。
スワンと同席した際もドイツ語圏の人が一緒のことが多かったからか。

>「ノルポワ侯からまた晩餐に招待されたよ、破天荒なことだ、委員会ではみんなあっけ
にとられていたよ、あのかたは委員会の連中とは誰とも個人的に親しくしていないのでね。
きっとまた70年の戦争のことで胸がおどるような話をきかそうというのだ。」私の父は
知っていた、おそらくノルポワ氏だたひとりが、早くから皇帝ナポレオン三世に、プロシア
の勢力が増大して戦争の気運に向かっている事実を警告していたことを、またビスマルクが
ノルポワ氏の知能を高く評価していたことを。井上2p16

70年の戦争とは、1870−1871年の普仏戦争を指す。

« De Norpois m’a invité de nouveau à dîner ; c’est extraordinaire ; tout le monde
en est stupéfait à la Commission où il n’a de relations privées avec personne. Je
suis sûr qu’il va encore me raconter des choses palpitantes sur la guerre de 70. »
Mon père savait que seul, peut-être, M. de Norpois avait averti l’Empereur de la
puissance grandissante et des intentions belliqueuses de la Prusse, et que Bismarck
avait pour son intelligence une estime particulière.
436吾輩は名無しである:2014/05/10(土) 20:11:06.38
In zifs gretik valik lotidöps süperik dabinons. Kösömo kanoy tuvön lotidi,
ab if viloyöv fümön dö atos, pato dü vakens, binos gudikum ad resärfön
büo cemis. Lotidöps e vemo magifiks e balugiks dabinons. Otuvoy in lotidöp
igo lindifik böti gudik. Nügolölo ini lotidöp, dugoloy vestibüli ad lükömön lä bür.
Us loatoy cemis. Päkemipolan oyufom oli pö blin päkema olik ed odugom oli
lü cem olik. Dünans lotidöpa oyufons oli, if no sevol zifi.
437吾輩は名無しである:2014/05/10(土) 23:58:18.98
>>435
どうしたキチガイ、次のヨダレクリはまだか?うすのろ奴!
438吾輩は名無しである:2014/05/11(日) 13:20:40.78
04/05/11

共同体の中で何も持ちえない人間という事実がひとつのメタファーになっている。村人たちの神話には求めるべきものはない。悪いが最期まで原理主義には従えない。あとは其々のオキノメスママに

2009/05/11(月)

日本の現存する作家で、「失われた時を求めて」を読破した人にはどんな人がいるんだろう?
小林信彦は読破、綿矢りさは挫折したらしいが。

現存作家だと加賀乙彦・池澤夏樹・堀江敏幸あたりじゃない?
仏文系の作家でも読破した人は限られてくるだろうなあ
あとタレントだと爆笑問題太田と杉田かおるが読破してる
あまり知られてないが杉田はプルーストやル・クレジオなどの大の文学好き
古今東西の名作から「別れ」に関する名文を集めたアンソロジーを出した時に、「プルーストは一番好きな作家」みたいな事言ってて、なんか印象変わって好きになったわ
439吾輩は名無しである:2014/05/11(日) 13:22:11.15
2012/05/11(金)

ドイツ兵への蔑称“Boche”という語を使った作者の意図はなにか

「見出された時」の第一次大戦中のシーン、ことに会話で主に使われる。
当初は熱狂的で硬直した愛国精神の発露としてドイツ人への蔑称として、無学な者たちや
俗情と結託した教養人が用いていたが(サン=ルーのような真の愛国精神の持主は使わないし、
またシャルリュスは俗情との結託を皮肉るような形でアイロニカルに用いる)。

やがてそのような熱狂は薄れ、ドイツ人シラーの優れた研究書なども新刊としてでるようになる。
ただ、マスコミは検閲を逃れる一種の免罪符として、ボッシュという言葉を相変わらず利用する。

さらにすすむと、ボッシュという語は蔑称から単にドイツ人を指す俗語にまで風化していく。

井上文庫10巻の頁で使用箇所を示す。
440吾輩は名無しである:2014/05/11(日) 13:23:28.48
2012/05/11(金)

2回 ブロック  p93、p94 うち1回の例とブロックの属性の記述

>とはいえ、そのようなエレガントな凡庸さも――とりわけかくされた寛容や口にだされぬ
ヒロイズムなどがそれにむすびつくときは――卑劣漢でありながらからいばり屋でもある
ブロックの下司っぽさにくらべて、まだしも気持がいいのであって、たとえばブロックは
サン=ルーに大声でこういうのだ、きみはウィルヘルムとだけ呼ぶことはできないんだろう?
そうさ、おっかないんだよ、いまからもう平伏してるんだ、あいつのまえに! ふん! これじゃ
戦地でりっぱな兵隊がつくれるはずだ、みんなボッシュの靴の先をなめるんだろう。きみたちは
やっぱり金モールをひけらかしてカルーゼル広場あたりでパレードすることしか知らないんだ。
それだけのことさ。」p94

Si Bloch nous avait fait des professions de foi méchamment antimilitaristes une
fois qu’il avait été reconnu « bon », il avait eu préalablement les déclarations
les plus chauvines quand il se croyait réformé pour myopie.

>ブロックはひとたび「合格」の認定を受けると、つむじまがりな非軍国主義の信念を私たちに
述べたてたけれども、その以前に、近眼で招集免除になると思っていたときには、もっとも排外
主義的な意見を公言したのであった。p95
441吾輩は名無しである:2014/05/11(日) 13:24:37.46
2012/05/11(金)

第一次大戦の情景は大体、時系列に沿っているので頁順にあげてきます。

1回 バルベック・グランド=ホテルの支配人  p104(実は彼自身がボッシュだった) 
5回 シャルリュス(ただし、彼自身はドイツびいきで俗情と結託したノルポワの論説を皮肉
って紹介する際にあえて用いていたりといった調子) p169 p173 p191に2回 p212

Par cette formule Norpois adresse simplement aux neutres l’injonction (à laquelle
j’ai le regret de constater qu’ils ne semblent pas obéir) de sortir de la
neutralité ou aux régions des lacs de ne plus appartenir aux « Boches » (M. de
Charlus mettait à prononcer le mot « boche » le même genre de hardiesse que jadis
dans le train de Balbec à parler des hommes dont le goût n’est pas pour les femmes).

>型にはまったこのような表現で、ノルポワは単に、中立諸国に向かって、中立から
脱せよという指令を発したり(それらの諸国が一向に彼の指令にしたがうように見え
ないのを残念ながら私は認めざるを得ないのですが)、湖沼地帯に向かって《ボッシュ》
に従属するのをやめよという指令を発したりしているにすぎないのです(シャルリュス氏
は、この《ボッシュ》という語を発音するのに、かつてのバルベックのトラムのなかで、
女たちへの好みをもたない男たちのことを話したときのあの大胆さとおなじものを示して
いた)。p169
442吾輩は名無しである:2014/05/11(日) 13:25:46.19
2012/05/11(金)

水兵と労働者との会話

5回(5人が各1回) ジャピュヤンの男娼宿の無学な下層階級の若者たち。
素朴な愛国心の発露としてボッシュという蔑称を用いる。

若い労働者   p219
若い兵士(15か月前線にいる)    p221
22歳の若い兵士(6か月、翌日危険な部署に出発することになっている) p235
外国人の自動車運転手  p237 
モーリス(シャルリュスを鞭打つ若者)  p245

彼らはノン気だけど、金のために男娼宿で働いている。普通にむんむんした若者のリビド

Je pus apercevoir sans être vu, grâce à l’obscurité, quelques militaires et
deux ouvriers qui causaient tranquillement dans une petite pièce étouffée,
prétentieusement ornée de portraits en couleurs de femmes découpés dans
des magazines et des revues illustrées.

>くらがりで姿を見られずにいた私は、数人の軍人と二人の労働者とがひっそりと
しゃべっているのを認めることができたが、それは息づまるような小部屋で、週刊
グラフ誌か、絵入り雑誌から切りぬかれた女たちのカラー・ピンナップで、けばけば
しくかざられているのであった。p218
443吾輩は名無しである:2014/05/11(日) 19:03:11.14
2012/05/11(金)

戦争の長期化ですすむ、ボッシュという蔑称の風化

新聞の新刊レビュー(「戦争の初期ほど反ドイツ的ではないいくつかの芸術理論がひろがり、窒息した精神に息
を吹きかえらせていたが、そうした理論を敢行するには、愛国心の証明書を表看板に出さなくてはならなかった。」
シラーに関する新刊のレビューは、シラーを「偉大なドイツ人」でなく「偉大なボッシュ」といえばいいだろうと
いう調子だった。「それが新聞論説にとってのスローガンで、そうすれば検閲をパスするのだった)p266

サン=ルーはボッシュなんて言葉は口にしない。p271
教養もあり、勇気もある(ブロック、モレルとの対比)、真の愛国精神の持主だから。
実はジャピュヤンの男娼宿に出入りしていたりするのだけど。

語り手の家の無学な使用人達
2回 語り手の家の給仕人頭(元庭師) p274 p276
1回 最後にフランソワーズ 言う際に、ボボボッシュとボをいくつもつけてしまう。p277 

フランソワーズの使用例を通して、狂的な愛国心からの蔑称だったボッシュという言葉が、単にドイツ人を指す
俗語に風化していくさまが描かれる。これを最後にボッシュという言葉は作品から姿を消す。
444吾輩は名無しである:2014/05/11(日) 19:05:25.17
2012/05/11(金)

フランソワーズがボボボッシュという箇所。長いけどプルーストらしい分析

> といってもフランソワーズは、ときどきその本来のコンブレーの平和主義に立ちもどるように
なりはじめていた。「ドイツ軍の残虐さ」に疑念をもちさえした。「戦争のはじめのころ、人は
私たちにこういったものですよ、あのドイツ軍は、ありゃみんな人殺し、強盗、本物の山賊、
ボボボッシュだって…」(彼女がそんなふうにボッシュにいくつものボをつけていうのは、ドイツ
軍が人殺しだったという非難はなんとかいまの彼女に承認できるけれど、彼がボッシュだったという
非難は、あまりに度が過ぎて彼女には何だか信じられないような気がするからだった。すくなくとも、
いまフランソワーズがもちだしているのは戦争のはじめのころの話であるし、また彼女自身がうたが
わしげな発音でそれを口にするところを見れば、「ボッシュ」という語にかつて彼女がどんなおそろ
しい意味をもたせていたかは、もう理解しにくいのである。なるほど、ドイツ軍を戦争犯罪者であった
と考えることは、事実に立脚しなくても、論理的に、それ自体に矛盾をふくんではいなかった。しかし、
このボッシュという語は、いまは俗語でただドイツ人ということしか意味しないのであってみれば、
彼らがあのおそろしいボッシュであったとは、どうして考えられよう? 戦争のはじめのこと、特別の
力をこめてボッシュという語が強調されていたのをきいた彼女は、そのはげしい言葉のやりとりを、
おそらくいまは間接話法でつたえているにすぎないのであろう)p277-8

全文検索でBocheが使われている箇所を全部抽出し(25箇所あった。「見出された時」の第一次大戦
中のシーンに集中していた)、その前後をざっとみて、井上訳の対応箇所をさがし、打ちこむ。
原文はキーワードの確認に有効。他の箇所でも同じ単語が使われていれば、そこからプルーストが
その単語に込めたコノテーションが見えてくる。
また、このくらいの量だと何回も眺めることによって、プルーストの文章のくせみたいなものにだんだん
慣れてくるという意味もある。
445吾輩は名無しである:2014/05/12(月) 19:23:18.35
2009/05/12(火)

当時はまさに機械文明勃興の時代で、どんどんプルーストにとっては奇怪なものが出てきて
プルーストはそれらを憎んでいたと。
どうでしょうか?

いや、それは違うね。プルーストは、自動車だとか自転車だとかカメラとか飛行機とか、そういう
機械文明の産物に対して、好意と好奇心を持っていたよ。

2012/05/12(土)

原田武「プルーストに愛された男」(青山社、1998)

タイトルは、アルベルチーヌの主なモデルとなったアゴスチネリのこと。
タクシードライバーから、のちにプルーストの秘書となり、同居するが、
出奔し、飛行士を目指し訓練中に海に落ち、機体もろとも海中に没する。
遺体発見の過程であるとかそうだったのかと思った。
アゴスチネリとの書簡はほとんど現存しておらず資料の少ない中、多面的
な考察がなされていておもしろい。
巻末の人名解説は、実在の人物と小説中の人物が50音順に紹介されているが
短いなか、無味感想な事典的解説を越えていて含蓄がある。
青山社はいい編集者がいるみたい。

同じ著者による「プルーストと同性愛の世界」(せりか書房、1996)という
本もある。
446吾輩は名無しである:2014/05/12(月) 19:26:15.91
2012/05/12(土)

>理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる
真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほど
その価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、
深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、
そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、
ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、
それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじような
ビロードの肌ざわりはない。(プルースト『見出された時』)

Quant aux vérités que l’intelligence – même des plus hauts esprits – cueille à claire-voie,
devant elle, en pleine lumière, leur valeur peut être très grande ; mais elles ont des
contours plus secs et sont planes, n’ont pas de profondeur parce qu’il n’y a pas eu de
profondeurs à franchir pour les atteindre, parce qu’elles n’ont pas été recréées.Souvent
des écrivains au fond de qui n’apparaissent plus ces vérités mystérieuses n’écrivent plus,
à partir d’un certain âge, qu’avec leur intelligence qui a pris de plus en plus de force ;
les livres de leur âge mûr ont, à cause de cela, plus de force que ceux de leur jeunesse,
mais ils n’ont plus le même velours.
447吾輩は名無しである:2014/05/13(火) 19:27:24.76
2006/05/13(土)

スノッブって何?

知ったかぶりするやつとか、有名人と知り合いなのを自慢したりするやつ。あと、子供を有名校に通わせてることを鼻にかけたりしてるやつなんかもそうだな。
もともとは、自分の入り得ない階層、自分がそこから閉め出されているグループや地位を羨望する人間のことを意味していた。

スノッブ=紳士気取りの似非紳士。偽者。
まさかプルーストをスノッブと言ってるわけじゃないだろうが…

裕福な商人階級の出であるプルーストが
貴族階級中心のサロンに出入りするにはそれなりのハードルがあった。
箴言で有名なロシュフーコー公爵などが、家柄を誇り従軍体験も持つ
生粋の貴族階級で、常にサロンの中心に居た。
白い鹿皮の手袋をはめた公爵の肖像など見ると、当時の貴族の贅と粋がわかる。

プルーストはその才によってサロンに受け入れられたわけだが、
仲間入りするのはそう簡単なことではなかった。

芸能人についてでいうと、ミーハーってのは、例えば憧れの〇〇という芸能人と知り合いになれたとして、
「キャー!〇〇と知り合いになれたわ、もう最高!」
で終われるけど、スノッブは、
「私は〇〇と知り合いなのよ。どう?羨ましいでしょ、フフン」
ってとこまで行かないと終われない。

つまりスノッブってのは、その芸能人と知り合うことで満足するんじゃなくて、その芸能人と知り合いであるってことを人に羨ましく思われてはじめて満足するっていうやつなのだ。

ちなみに、ここまでで一番面白かったのは、スワンの恋。
448吾輩は名無しである:2014/05/13(火) 19:29:04.25
2006/05/13(土)

「カトレアしませんか?」
っていうセリフに結構キた。なんか中学生日記みたい。
あーでもないこーでもないとオデットの一挙手一投足に
振り回されるところがなんとも言えずカワイイ。とても若禿げ
隠しのカツラをかぶってる歳とは思えない。素敵すぎる。

2008/05/13(火)

ラシーヌ、ミュッセ、シャトーブリアンについて言明しているので、
プルーストの全集を読む前に、これらを読むことにしている。

サン=シモンも読んどいた方がいい鴨

2009/05/13(水)

中村真一郎あたりは2、30回は読んでそうだが。

太平洋戦争中に原文で読んでた人だからね。

この前、久世光彦の『向田邦子との二十年』(ちくま文庫)をよんでたら、晩年の向田が学生時代に読んだもので機会あれば再読したいものは漱石・鴎外、外国文学ではヘミングウェイとプルーストと挙げていた
結果的にはあの様な最期を迎えてしまったらたぶん読み返してないだろうが…
向田邦子とプルーストという組み合わせはかなり意外だった
向田邦子の学生時代だとまだ井上究一郎全訳でもない、晦渋と名高い仏文学者達の共同訳のやつでしょ?
あれを読んだだけでも凄いと思うなあ

真空掃除機を買おうかどうか、友人に手紙で相談してたような。

機械文明への関心は両義的なものだっだろうね
技術革新に興味津々というのはいかにもなプルースト像だが
449吾輩は名無しである:2014/05/14(水) 19:39:06.05
2006/05/14(日)

プルーストの場合、そういう通常のスノッブ以外に
「お前は俺と知り合いになれてうれしいはず」と思う側の
スノッブを描いたことが偉いと思うんだけど。
どっちも同類というか。

貴族と知り合いで羨ましいだろう、ってのもなるほど。

で、ルグランダンが妹が貴族の夫人で、バルベック近郊にいることを隠そうとしている、
語り手家族に紹介したがらないってあるけど、
これもスノッブ、であるとされてるよね。
なんでだろう、難しいね。

それとも、
「俺の身内に貴族がいるけど、そう簡単にゃ紹介してやらんよ」
って感情が感じられたからスノッブ呼ばわりしたのかな。
上記感情を語り手一家が感じたとは、書いてはいないのだけど。

スワンの恋は単体でも面白い。俺も好き。
グイグイ読みたくなってくるのは、シャルリュスが大暴れし始める頃かなぁ。

しかし分からないのが時系列。
大叔父の家で、語り手はオデットに初めて会うんだよね?
で、若い女性と思うのだけど、その時にはもうジルベルトは生まれていたわけで。
スワンの恋当時ですら、オデットはココットとして随分長く生きてきたわけでしょう。
うーん、分からない。
450吾輩は名無しである:2014/05/14(水) 19:41:05.76
2006/05/14(日)

スノッブは、基本的に自分がスノッブであることを他人に知られたくないんだよ。見栄っぱり丸出しで恥ずかしいことだから。
だからもちろん、ルグランダンは自分がスノッブであることを認めてない。スノッブを罵倒してるところからもそれがわかる。
当然のこと、紹介なんてのもしたがらない。
自分の妹は侯爵の夫人です、なんて語り手家族に紹介したら、自慢してるみたいになってそれこそ紛れもなく自分はスノッブでーす、と認めることになるからね。

まあでも、そうやって必死に隠そうとしても語り手には簡単にスノッブだと見破られてたりする
そういうスノッブの滑稽さをプルーストはルグランダンに象徴して描いたのではないかと。

あれは、心根がスノッブなためにまわりの人もみな
スノッブだと思っている人、なんじゃないかな。
「妹のことがばれたら、紹介紹介いわれてうざいだろうから黙ってよう」と。
で主人公は「うちの家族はそんなスノッブじゃないのに失礼、
みんながお前のようだと思うなよ」と思っている。

「スノッブの滑稽さ」というけど、むしろ描かれているのは
人がスノッブから逃れるのはほぼ不可能、それができるのは人が
恋や芸術に生きる時だけ、しかしその時は破滅覚悟という、
スノッブ的心性の強力さへの恐れであって、
「俺は見破ってるぜ、けけ」って感じに侮っていい気になって
笑っているわけではないと思うが。

2008/05/14(水)

時間を超越して永遠の存在に同化した、
と思わせる人生の時(瞬間とはあえて言うまい)
が作者にはあった(し、すべての人にもあるだろう)、
自分はその間を、小説作品として表わそう、そのことが
作家としての誕生でもある、という話。
451吾輩は名無しである:2014/05/14(水) 19:42:29.83
2008/05/14(水)

全くの娯楽読み物と違って、純文学の読者には、自分も書き手になりたい、
という欲求が少しだけある。それで、主人公が物書きの卵で、まさにその
卵が孵化する・孵化した・ということが確実な文章が書けておれば、
それは大した作品であるかもしれない。プルースト以降、芸術家小説が
一つの見本になったように思われるが、これは思いすごしだろうか?
人は、原理的には、他人に読ませられるものとして、自伝だけは書ける
はずなんだよね。

2009/05/14(木)

この本が当時ベストセラーになったのかどうか知りません。
まあ、この本がフランスで共感を受けたとするなら、過ぎ去った時代への郷愁でしょう。
今の日本の昭和ブームみたいなものでは。
あとは恋愛の嫉妬ネタをうまく使ってますよね。
ただ、なぜ20世紀最大の作品なのかわかりません。長いからですかね。
当時の拡大するブルジョアの感性にはまったんですかね。

2011/05/14(土)

「失われた」読んでると人物名や血縁関係、時系列などに矛盾がある箇所が多々ある。
例えばソドムとゴモラUでは「私」がアルベルチーヌに、座ったじじいを飛び越えた少女としてジゼールの
名前を挙げている。訳注ではプルーストの書き間違い、記憶違いだろうと書いてあるが、
それにしては数が多過ぎる。

確かに、人物一覧と地名のメモは最低ないと読解ができない。
読者に対して読みやすく分かりやすい構成をベースにしてない。
それよりも、自分の世界の解釈を妥協なく書き続けるのは
なれると凄みと視野の斬新さに面白さが強烈に生まれる。
452吾輩は名無しである:2014/05/15(木) 19:32:07.03
2009/05/15(金)

カウンターパンチだけ浴びてもたいして効きへん
ジャブ、ボディ、ローキックを延々と浴びて、
あの最後のカウンターがいきてくるんや
ま、途中の寝技は省いてもさほど影響ないやろうけど

せやから、ほんまのこというたら、
ヴィスコンティは10時間ものの映画を
つくらんといかんかったんやな

最後まで読んだけど
ほとんど内容を理解できていなかった
ただ、読むことの快感をかなり感じてた、それだけ

おばあちゃんとの思い出が大好き

2011/05/15(日)

失時にドストエフスキーに言及した箇所ってあったっけ?

語り手がアルベルチーヌに話してる。ソドムのとこ
453吾輩は名無しである:2014/05/16(金) 20:30:24.92
04/05/16

ついにやったぞー!!
苦節8年、ようやく読み終わりました。
とりあえず自分をほめてあげたい。

思えば鈴木版刊行開始の広告を新聞でみて興味を持ち、間違えて井上版買ってきたのが全ての始まりでした。

2011/05/16(月)

ゲルマントの方の後半で、語り手がいつの間にか社交界でちやほやされてるけど
その理由がいまいち納得出来ない。

学があったからだろ 評論だかも書いてたはずだし

ゲルマント夫人への憧れをなくした途端、不自然な態度を取らないようになれて、
それで逆に夫人から興味を持たれた、という流れだったと思うのですがそれだけでは不自然に感じまして・・・。

2012/05/16(水)

6月15日刊
マルセル・プルースト 『失われた時を求めて4 花咲く乙女たちのかげにII』
(岩波文庫 1323円)
454吾輩は名無しである:2014/05/17(土) 19:50:37.47
2009/05/17(日)

ソドムとゴモラを今読んでいる。心の間歇に入ったところ。
この小説読むようになってから良く眠れるようになった。
睡眠薬代わりにこれほど向いてる小説って珍しいかも。

プルーストがたまにやったとかいう後ろから読んでいく読書法
やったことある人いますか

2012/05/17(木)

Patrick Alexander ; Marcel Proust's Search for Lost Time:
A Reader's Guide to The Remembrance of Things Past
http://www.amazon.co.jp/Marcel-Prousts-Search-Lost-Time/dp/0307472329/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1337252627&sr=8-3

ブロックって、オデットとやってるんだっけ

アマゾンのスワンさんのレビューがよくできている。

往年のモンティパイソン「全英プルースト要約選手権」の
映像のアドレス紹介されてた。字幕はないけど

http://www.youtube.com/watch?v=uwAOc4g3K-g

同じ本で紹介されていた英文のプルーストファンサイト
にあったプルースト要約集
http://www.tempsperdu.com./summ.html
455吾輩は名無しである:2014/05/18(日) 16:01:49.59
03/05/18

鈴木訳の方がスピーディー。
井上訳はうねうねうねうね。
性格の問題だと思う。私は筑摩で読んだ。

2005/05/18(水)

モンブランのプルーストを使っている香具師は居るかな?

2008/05/18(日)

最近よみだしたがやっぱいい
噂以上だといっていい
今6→7→1の途中

2009/05/18(月)

ゲーテやヘンリー・ジェームズに似ているけど、それより軽いですね。
フランス的諧謔味(=エスプリ)があります。
恋愛をからかいながら、その嫉妬でもっと相手を意味もなく好きになる。
サロンにあこがれているのにバカバカしいとからかう。
上流貴族にあこがれてるのにからかう。
階級間の移動についておかしがる。
サロン文化を詳述しているのかと思っているとオチでバカにする。
まじめなのかと思っているととんでもなく客観的になって笑いのネタにする。
筒井康隆のような諧謔味がある。
でも、長すぎるけどね。引っ掛かるところだけ読めばいいのか。
456吾輩は名無しである:2014/05/18(日) 16:05:21.28
2012/05/18(金)

プルーストのパスティーシュでも見習ったら
さしあたり、「見出された時」のはじめの方のゴンクールの日記でも。

井上10p50
>さて暗示に富んだ議論は、女主人のしとやかな合図によって、食堂から喫煙室に移る、このヴェネチア風の
喫煙室にはいると、コタールは、本物の二重人格に接したことを、彼の一患者の症例を挙げながら、われわれ
に語り、親切にも私に、なんならその患者をお宅にお連れしましょうかと申しでるが、その男は、コタールが
その男のこめかみにふれただけで、第二の生活にめざめるに十分なのであって、第二の生活のあいだが、第一
の生活を何一つ思いださず、そのようにして、一方の生活では至極まじめであるのに、他方の生活では、なん
のことはない、いまわしいならず者で、窃盗罪を犯しては何度も拘引されたことがあったという。それをきいて
ヴェルデュラン夫人が、いたずれにこんがらがった筋の奇矯のみをねらって、あやまった病理学に安んじている
芝居に、医学はますます真実の主題を提供するでしょう、とうまい指摘をすると、それが緒口で、するすると
コタール夫人の口車がすべりだし、まったくそれによく似た題材が、彼女の子供たちの宵のつどいの人気者で
ある物語作者、スコットランド人スティーブンソンによって作品化されている、と語れば、その名をきいた
スワンの口を突いて出るのは、つぎのような確乎たる断言である、《いやあ、それはまったくの大作家ですよ、
そうでしょう、ゴンクールさん、非常な大作家ですよ、最大級の作家たちに匹敵する人ですよ。》
457吾輩は名無しである:2014/05/18(日) 16:07:42.02
2012/05/18(金)

Et la suggestive dissertation passa, sur un signe gracieux de la maîtresse de maison, de la salle
à manger au fumoir vénitien dans lequel Cottard me dit avoir assisté à de véritables dédoublements
de la personnalité, nous citant le cas d’un de ses malades, qu’il s’offre aimablement à m’amener
chez moi et à qui il suffisait qu’il touchât les tempes pour l’éveiller à une seconde vie, vie
pendant laquelle il ne se rappelait rien de la première, si bien que, très honnête homme dans
celle-là, il y aurait été plusieurs fois arrêté pour des vols commis dans l’autre où il serait tout simplement un abominable gredin. Sur quoi Mme Verdurin remarque finement que la médecine pourrait
fournir des sujets plus vrais à un théâtre où la cocasserie de l’imbroglio reposerait sur des
méprises pathologiques, ce qui, de fil en aiguille, amène Mme Cottard à narrer qu’une donnée toute semblable a été mise en oeuvre par un amateur qui est le favori des soirées de ses enfants,
l’Écossais Stevenson, un nom qui met dans la bouche de Swann cette affirmation péremptoire :
« Mais c’est tout à fait un grand écrivain, Stevenson, je vous assure, M. de Goncourt, un très grand,
l’égal des plus grands. »
458吾輩は名無しである:2014/05/18(日) 16:09:39.49
2012/05/18(金)

ブランショの「踏み外し」に「プルースト的体験」という章があって読んだのです。
時間論について述べている箇所がありました。
いつかベルクゾン的時間とプルースト的時間の共通点の話なんかしたっけなあと思い、懐かしくなりました。
以下の抜粋には、ベルクゾン的要素が多分につまっていると思います。

「かれはつぎのような確信を得た。すなわち、持続する存在が各瞬間を与える見せかけの死を免れるのは、
現在と、それに類似した過去との偶然の出会いにより一つの絆が確立されるからだ(プルーストが「時間
の外に」、「時間の秩序から解放されて」つまり、時間による死から解放されている存在と語るとき、かれ
の了解しているのはこのことである)と。さらに、時間内での存在の持続は純粋で決定的な喪失ではなく、
実在であるからであり、だから、彼は特権をもつかけがえのない印象が想像させるがままにこの実在を
再発見させる計画をたてる(そのとき、かれは「存在が決して理解しないものを純粋状態で少しの間ーー
閃光の輝く間ーー隔離し、不動化する事」を語るのである。)。」

↑時間は減るごとに失われて行くのではなく、生の実存を見いだしてよりはつらつとするために発見されつづける
という部分がいかにも創造的で、ベルクゾンとプルーストの時間をうまく繋ぎあわせているなあと思いました。

×時間は減るごとに失われて行くのではなく、
○時間は経るごとに失われて行くのではなく、
459吾輩は名無しである:2014/05/19(月) 19:19:00.43
2009/05/19(火)

早くから寝床に入って、読んでいると、10分もしないうちに、眠気が
催してきて、眠るなと思うまもなく、寝入ってしまっているのだった、
そして、しばらくして、もう寝なければならないと思って、はっと目が覚めると、
読みかけの姿勢のまま眠っていたのだった。この続きは明晩読もうと今度は本当に
ねむるのだった。これの繰り返しがプルーストの読み方だ。

2010/05/19(水)

 大学生のとき、原作をわくわくしながら読み始めて、早々にあきらめた。難しかった……。それに長い。
著者プルーストの自伝的小説なのだが、彼の人生が全十三巻分(集英社文庫刊)のドラマみたいだったわけではなく、
彼が自分の内的世界のことを、綿密に綿密に書いた結果、長大な物語になった。
だから読んでいる方も感覚を研ぎ澄ませ集中して読まないと、作者の考えていることがすぐ分からなくなってしまう。

 結局、「マドレーヌ」の文字だけを探した。
あの有名な「マドレーヌを紅茶に浸したときに過去の記憶が膨大な量でよみがえってきた」の箇所(かしょ)だけを
読むためにだ。見つけてから、これは本当にすごい本なんだと確信した。だって有名なところだけ読んでも意味が分からない。

 “読みきれそうにない”と判断すると、有名なシーンやラストだけを読んでしまう悪癖が私にはある。
いままではそのシーンさえ読めば、物語のだいたいの流れだとか、明るい話か暗い話かは分かった。
でも本作は、「わかった!」という感覚が訪れない。紅茶にマドレーヌじゃないといけない? 
パンにバターを塗るのでは、だめ? 全部読まないとやっぱり掴(つか)めないのだろう。でも根気がない、謎は知りたい。

 コミック版は答えをくれた。原作のガイド的な役目を果たしてくれる。コミック独特の世界の雰囲気にも魅了された。
絵はシンプルで表情豊かなキャラクターたち、背景の描写の緻密(ちみつ)さは映画的で、
どことなく不安な雰囲気の漂う色使いもきれいだ。小説の文章も意訳でたくさん引用してあって、
本として読んでも読み応えはある。だからといって「大体分かったから小説を読む必要はない」と思わせるところはない。
原作の底知れない深さが、コミック版を通して伝わってくるからだ。
460吾輩は名無しである:2014/05/19(月) 19:30:17.14
2012/05/19(土)

>スワンに関してはといえば、私は彼のくせをまねようとして、食卓にいるあいだ、
指さきを小鼻に沿って目頭(めがしら)にすべらせては目をこするしぐさをしながら、
ひまつぶしをするのであった。父はいうのだ、「この子はばかだね、いまに手がつけ
られなくなるよ。」とりわけ私はスワンのようにはげ頭になりたかった。
井上1p698

Quant à Swann, pour tâcher de lui ressembler, je passais tout mon temps à table,
à me tirer sur le nez et à me frotter les yeux. Mon père disait : « cet enfant
est idiot, il deviendra affreux. » J’aurais surtout voulu être aussi chauve que
Swann.

ヴァントゥイユのソナタについてスワンが思い巡らすとことか好きだな。

主人公の私って、人の死に対してちょっと鈍感じゃないですか?
祖母が亡くなった時もアルベルチーヌが亡くなった時も。不思議な反応をしてました。
鈍いんだけど、割と感情があとを引いて。その鈍さと特異さが結構好きで読み返す時があります。

アルベルチーヌの訃報に接して、
母親が祖母の死に際して言ったこととか思い出したり。
キスへのこだわり方にちょと引く。
461吾輩は名無しである:2014/05/20(火) 19:42:39.70
04/05/20

全部読んでないので偉そうなことは言えませんが、「コンブレ」では以下の内容が印象的でした。
 
 高山植物は都内の植物園で見ても美しくなく、わざわざ登山して頂に咲いている
花を鑑賞してこそ価値がある。
 郷土料理は都内のレストランで食べるのではなく、その土地へ旅行して味わって
こそ美味である。その土地の風味が郷土料理に染み込んでいるからだ。
 同様の原理で、私(プルースト)は旅先でナンパしてその土地の女とよくHをするが
、これぞ通のHであり、風流の道である。フランスではフランスの女、ドイツではドイツの
女と交わるべし。

このような内容を典雅な一文で表現した「失われた時を求めて」は世界文学屈指の傑作です。

2009/05/20(水)

プルーストは三読しなければ味わえないのではないかと思う。
一度目は、何となく全体の様子が分かってくる。
二度読んで、細かな点が腑に落ちる。
三度目で、味読できるようになる。
三度読むのはともかくとして、少なくとも二度は読まなくては、読んだとはいえないだろう。
462吾輩は名無しである:2014/05/20(火) 19:45:59.44
2012/05/20(日)

ヴァントゥイユのソナタ、はじめにヴェルデュラン夫人のサロンでアンダンテをピアノ編曲で聴くシーンが出てくる。
前年にある夜会でヴァイオリンとピアノで全曲を聴いたときの回想が入り混じる。井上1p349

作曲家に興味を持つが、つきあいはじめたオデットに、私たちの「愛の国家」であるアンダンテ中の小楽節があれば
十分でしょ、と言われ、これ以上探求することもなく、全曲を聴くこともなく日々が過ぎる。

オデットとの恋が嫉妬にさいなまれる苦しいものとなり、サン・トゥーベルト夫人の夜会で偶々ヴァイオリンとピアノで
の全曲に再会する。ここはやはり「スワンの恋」の白眉だと思う。
身構えてでなく不意打ち的な再会というのがプルーストらしい。「顕現」。
「愛の国家」に貶められてしまった小楽節以外の箇所、あるいは同じ小楽節でも「愛の国家」として演奏されるときは
省略されてしまっていた全曲の構造の中に置かれた小楽節からそのときスワンが何を聴きとったか。体験したか。
と思いながら、このくだりを読むと、「スワンは……この楽節の成立過程に立ち会っていた」という一節に出くわす。
井上1p592 ここ以前のスワンの内的独白を通じての音楽描写もすごいが、ここから先はさらにすごいと思う。
架空の曲で読者は現実にそれを聴くことができないのがなんとも。各人の音楽体験がものを言いそう。
ずけずけと物を言うことで有名な夫人が「奇蹟」のようだと、ただし、狐狗狸(こっくり)さん以来という限定をつけて
賞賛して、このシーンは終わる。

「花咲く乙女たち」では、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲がひきあいに出される。
463吾輩は名無しである:2014/05/21(水) 20:09:35.84
2009/05/21(木)

井上訳でソドムとゴモラを読んでるけど挫折寸前です。
カンブルメール若夫人の音楽談義が難しすぎ。
ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」なんてDVD持ってるけど
もう何年も見てないから埃を被ってるよ。

印象派の絵画に会話と心理描写をつけた感じですかね。
マドレーヌを紅茶につけて記憶が蘇ったり、オレンジエードに肉感を覚えたり。
小細工を利かせすぎ。

浮気調査専門の探偵小説みたいな趣もある。

2011/05/21(土)

バルベック滞在時に、14人の少女と関係もつってそんなに、私 はイケメンか?
明らかにキャラ違うだろ
虚構にしてもウソくさい リアル臭がない
女性と恋愛してない作者らしい

金持ちでイケメンだから半ば売春婦の少女が寄ってくるんだよ。

今日「乙女の告白」読んだが途中まで語り手男かと思ってた
464吾輩は名無しである:2014/05/23(金) 19:21:35.07
2006/05/23(火)

古い三笠文庫(初めの巻のみ)、五来訳
古い新潮文庫、諸家訳
ちくま文庫、井上訳
集英社文庫(刊行中)、鈴木訳

2011/05/23(月)

失われた時を求めての中で、「オシァン」に対する強烈な批判があったと記憶するんだが
現代人の感覚で古代を掻いたインチキ偽作とか、なんとか
誰か知っている人いない?

偉大な作家とさえいわれる人たちが『オシアン詩篇』[3 ~ 5世紀アイルランドの叙事詩]のような凡庸で人を迷わせる作品に天才的な美を見出すにいたった、
という事実を理解させる理由の一つは、おそらく過去というもののあの想像上の遠さにあるだろう。
われわれは遠い昔のケルトの吟遊詩人たちも現代思想をもちうるということにおどろくのであって、
ゲール人の古い歌のつもりでいるもののなかで、現代人にしかたくみにうたえないと思っていた歌の一つに出会うと、すっかり感心してしまうのだ。

失われた時を求めて〈5 第3篇〉ゲルマントのほう 2 (ちくま文庫) , 190ページ より

オシァンの翻訳者と自称する人間が、地方の伝承を元に自分で作った作品というのは、もう定説らしいね
465吾輩は名無しである:2014/05/24(土) 18:57:13.27
2012/05/24(木)

プルーストみたいに読みにくい作家の作品の訳が
現在だけで二種類も刊行途上なんてやっぱり異常だわ。
やはり権威からかな。

出版社は売れなければ出しません。
新訳が出ると必ず買う人たちがある塊でいるのでしょう。
ただ、それだけのことです。
466吾輩は名無しである:2014/05/25(日) 19:11:24.48
2005/05/25(水)

本棚に飾るにはどの原書のシリーズがいいかな。
集英社の水色本の横に並べて置きたいんでよろしく。

おフランスっぽい
おされな装丁の全集が知りたいんよ。
そして横にモンブラン・プルーストの万年筆を
置いておくざます。

2009/05/25(月)

解説書何冊読むより、そのものを読むほうがダルい時もあるけどやっぱ楽しいなあ
467吾輩は名無しである:2014/05/26(月) 20:38:56.87
02/05/26

過程こそが愉楽だという、「人生」の機微をわかっていない。
『失われた〜』は最も「人生」に似ている書物だとおもう。
それを長いと思うか、短いと思うかはそれぞれでしょう。

2009/05/26(火)

プルーストの愛嬌のある毒舌は退屈しないよ。
468吾輩は名無しである:2014/05/27(火) 19:40:30.54
02/05/27

趣味は、動物の首を絞めること、ゴルフと、マスターベーションです。

2009/05/27(水)

ローラン・プティがバレエ化してるよね。つべでチラッと見たけど
ちょっと笑ってしまった。

第6編でアルベルチーヌの過去が明らかにされて物語そのものは終わってますね。
第7編はエピローグ(総括)みたいな内容とプルーストの独善的な小説作法(かなり抽象的)が書かれてる。
サン=ルーがワーグナーのワルキューレの乙女に喩えたドイツ軍の空爆の様子は美しいけどね。
そういや、コッポラが地獄の黙示録でワーグナーのワルキューレの騎行を空爆のときに使ってたね。
コッポラはプルーストに影響されたの?

ソドムとゴモラの長大な第2部第2章を読了。
シャルリュスのモレルへの恋を描いた第3章に入ります。

2010/05/27(木)

読んでます。面白い。なんかもっと哲学的な話なのかと思ってたら女の話が多いんですね。
全然俺の好みじゃない女となんであんな大恋愛をしちまったんだ畜生!みたいな呟きにワロタ。

2011/05/27(金)

プルーストって聴くと、いつもドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のイントロ部分を思い出す。
音の響きが「フルート」と似てるからかな
469吾輩は名無しである:2014/05/28(水) 19:30:32.14
2012/05/28(月)

スワンが社交界の重要人物だということを、主人公の家族が知らないのは
おかしくね?
470吾輩は名無しである:2014/05/29(木) 19:31:59.35
2005/05/29(日)

TinTinの全集はあるので
A la recherche du temps perdu を
傍に揃えたいのだが
原書で読破した香具師は居ないのか?

プレイヤード旧版あたりがあってもいいかも。
小さいからインパクト少ないが。

いちおう言っとく。鈴木道彦と上野千鶴子の対談があった。
(青春と読書5月号)

2008/05/29(木)

コミック版、色遣いがいいね。少年時代に読んだタンタンを思い出した。
ただ、やはり本文を読まないと意味不明な箇所が多すぎるんじゃないか?
あれは正直入門にはならないと思う。
どちらかと言えば、鈴木氏の新書の方が入門としては適当だろう。

ところで、全テクスト中に「マドレーヌ」は何回出てくるんだろうか?
471吾輩は名無しである:2014/05/29(木) 19:43:36.88
2011/05/29(日)

この季節は薔薇が一番きれいな季節なんだが、
早めの梅雨でやられてしまってる。
文学者の名前が付いた薔薇はいくつかあるが、
「スヴニール・デュ・マルセルプルースト」というのは
黄色い薔薇なんだな。

思い出のプルーストなんていう、花がホントにあるの?

そんな品種があるんですか。初耳です。
うちにも薔薇が三本植えてありますが、剪定が難しいんですよね。
花が沢山つく剪定の仕方がなかなか覚えられません。
だから一つの株に三つか四つぐらいしか咲きません。

正確には「スヴニール・ドゥ・マルセルプルースト」だった。
「シャルトルーズ・ドゥ・パルム」「マダム・ボヴァリー」もあるよ。

バラ素敵だわ
育ててみたい
お庭がないと難しいかな

ベランダとかでも育ててる人いるよ
472吾輩は名無しである:2014/05/29(木) 20:22:02.64
2012/05/29(火)

結構、この作品無理のある設定多いんですよね
ミステリーだったら、そりゃないだろと思うような

いくらなんでもジルベルトとアルベルチーヌの綴りを取り違えないだろうとか
(松浦寿輝もどこかで指摘していた)
語り手はいつの間にスワンから、「スワンの恋」に
詳細に描かれているような身の上話を聞かされたんだとか。

人間観察の宝庫が
ひらけている。(吉川氏の訳者あとがきから一部引用)

ジルベルトと記された宛名をアルベルチーヌと話者が読み間違えたのは、私見では十分あり得る事だと思う。
アルベルチーヌの死に話者が動転して、しかもその死に自分の責任を強く感じていたであろう、
そしてヴェネツィア旅行もしていて、アルベルチーヌが生きていて欲しいと強く思っていたとすれば。
換言すれば正常な認識を失った状態の人間にこれ位のことが生ずるのは、ややマヌケではあろうがあり得ることだと私は思う。

話者の家族は株式証券投資で利子食いしていた筈、別に社交界に出入りしていたわけではない。スワンは21世紀日本風にいえ
ば御宝鑑定士だろうが、本業は証券業務で偶々話者の家に出入りしていたに過ぎない。話者の家族もスワンもともにユダヤ人
であることにも注目。

岩波の訳者の解説は面白い。
訳の楽屋話は普通書かないけど、あんな風に書ける吉川氏は
内田氏が著書で書いているように紳士なのだろう。

カルチャーセンターで2巻の講義受けたけど、非常に紳士です。
受講生の質問にも、考えながら、非常に丁寧に答えてくれる。
登場人物の一人称を訳す際の工夫等楽屋話も聞けたし
473吾輩は名無しである:2014/05/29(木) 23:50:57.96
岩波文庫「ゲルマントのほうV」、6月17日に出るね。
474吾輩は名無しである:2014/05/30(金) 19:46:13.69
02/05/30

アルベルチーヌの「消え方」は納得できんよ。あれじゃーお話を放棄してる
ようなもん。まあこの小説にいわゆる大河ドラマみたいなものを期待して
読むのは馬鹿げてるけど、あれってあんまりじゃない?

2012/05/30(水)

実は語り手の家族にユダヤ人はいないという設定
プルースト自身の母親がユダヤなので紛らわしいけど

プルースト自身が同性愛者なのに語り手がヘテロという設定
と似ている

相続税は当然払ったとは思うけど、相続税が遺産の額を越えること
だけはないのでプルーストの金銭感覚からするとそれほど痛痒は
感じなかったのではないか
(預金や証券など換価容易な資産が乏しく、不動産ばかりだと延納
やら物納やら厄介だけど、プルーストの親はおそらく子供たちのため
その辺の対策はたてていたのではないかと。弟等との間で遺産分割で
争うといったことも想像しにくい。法律問題だとむしろ長年住み慣れた
住居の家賃滞納や立ち退きの件の話がちょっと興味深かった。うろ覚え
だが)

税制って、むずかしいからなあ。直接税、間接税の比率だの。
日本の現在の大系を知るだけでも結構大変
ましてや異国のそれも過去の税制となると
475吾輩は名無しである:2014/05/31(土) 16:04:35.68
02/05/31

アルベルチーヌはプルーストのホモの恋人アルベールがモデルだってのは
常識。

2005/05/31(火)

1.
Longtemps, je me suis couche de bonne heure. Parfois, a peine ma
bougie eteinte, mes yeux se fermaient si vite que je n'avais pas le
temps de me dire: "Je m'endors." Et, une demi-heure apres, la pensee
qu'il etait temps de chercher le sommeil m'eveillait; je voulais poser
le volume que je croyais avoir encore dans les mains et souffler ma
lumiere; je n'avais pas cesse en dormant de faire des reflexions sur
ce que je venais de lire, mais ces reflexions avaient pris un tour un
peu particulier; il me semblait que j'etais moi-meme ce dont parlait
l'ouvrage: une eglise, un quatuor, la rivalite de Francois Ier et de
Charles Quint. Cette croyance survivait pendant quelques secondes a
mon reveil; elle ne choquait pas ma raison mais pesait comme des
ecailles sur mes yeux et les empechait de se rendre compte que le
bougeoir n'etait plus allume. Puis elle commencait a me devenir
inintelligible, comme apres la metempsycose les pensees d'une
existence anterieure; le sujet du livre se detachait de moi, j'etais
libre de m'y appliquer ou non; aussitot je recouvrais la vue et
j'etais bien etonne de trouver autour de moi une obscurite, douce et
reposante pour mes yeux, mais peut-etre plus encore pour mon esprit, a
qui elle apparaissait comme une chose sans cause, incomprehensible,
comme une chose vraiment obscure. Je me demandais quelle heure il
pouvait etre; j'entendais le sifflement des trains qui, plus ou moins
eloigne, comme le chant d'un oiseau dans une foret, relevant les
distances,
476吾輩は名無しである:2014/05/31(土) 16:08:29.33
2009/05/31(日)

ブリショ教授の地名に関する講義は死ぬほど退屈やね。

2012/05/31(木)

実際、作品を読んでいる際は十分にあり得ることだと思わされてしまうんですよね。

頭文字からして違うし、ジルベルトよりアルベルチーヌの方が綴りが明らかに長い
ので普通は間違えなさそう。だから、上の行の文字が下の行のineのように見えて
しまった等、ジルベルトの筆跡の癖を、わざわざ伏線まで張って、詳細に描いている。

「花咲く乙女たち」での子供時代のジルベルトから最初に貰った手紙の署名。 
 井上2p125(p122ではtの書き癖に触れられる)
>この手紙についてはといえば、フランソワーズはその末尾にジルベルト
の名前を認めることを拒んだのだが、というのも、装飾風にしるされたG
が、頭のないiの上に寄りかかってAのように見え、しかも一方で、最後
の綴がまがりくねった余勢のために無限に延長されていたからだが……

「逃げ去る女」ではまずその伏線が詳細に箇条書き的に回収される。井上9p429

tの横棒が縦棒と交わらず、上の行のアンダーラインに見えてしまう
iの頭の点も上の行のコンマかピリオドに見えてしまう
「逆に、下の行の語の真上にかさなった語のはみだししっぽやアラベスク
を、下の行のなかに押し込んでいる」等
大文字のGがゴチック体のAのように見えるとも。

やはり苦しいかな、でも構成上どうしても取り違えは必要だったのだろう。
477吾輩は名無しである:2014/05/31(土) 16:11:22.82
2012/05/31(木)

そういった物理的要因を詳細に述べたうえで心理的要因に言及する。
心理観察家、モラリストとしてのプルーストの面目が躍如する。
>もらった手紙が、あの人からだという観念に先立たれた、早とちりの、
とりわけ予感のあった人間は、一語についても、どれほど多くの文字を読む
ことだろう? 一つのセンテンスについても、どれほど多くの語を読むこと
だろう? 人は読みながら勝手なことを推量し、勝手なことをつくりあげる、
すべてはしょっぱなの勘ちがいから出発する、あとにつづく勘ちがいは(
手紙や電報を読むことだけにかぎらない、読むことの全般だけにかぎるもの
でもない)、出発点をおなじくしなかった人にはいかにありえないことのよう
に見えようとも、至極当然だったのだ。われわれが頑として、しかもそれに
劣らず大まじめに、ほんとうだと信じこんで、ぎりぎりの結論においてさえも
478吾輩は名無しである:2014/05/31(土) 16:13:12.82
2012/05/31(木)

新興ブルジョワ階級である語り手の一家がスワンのかがやかしいパリでの社交
生活について知らなかった理由については、スワンの父親(語り手の祖父の親友)
の株式仲買人という身分・階級に基づく交際範囲にその息子であるスワンも閉じ込
められているという、インドのカースト制じみた思い込みに基づくといった説明が
なされている。井上1p27

>当時のブルジョワたち…の考えによれば、社会は閉鎖的ないくつかのカスト
から構成され、各人は生まれたときから両親が占めている身分に位置づけられ、
例外的な経歴または思いがけない結婚といった偶然によるのでないかぎり、その
カストから離れて絶対に上位にカストにはいることができないのであった。父親
のスワン氏は株式仲買人だった、だから「息子のスワン」は、納税者の一覧表で
見られるように、所得に応じて財産が変動するような一つのカストに生涯を通じて
属することになっていた。自分の父親の交際がどうであったかは人に知られていた、
したがって、息子としてのそれがどうであるべきか、自分がいまどんな人たちと
まじわる「立場」におかれているかも知られていた。

ここも、それなりに納得して読んでいた
スワンの邸宅が、語り手の「大叔母が住むのもけがらわしいと思っている区域」
である「オルレアン河岸」にあったことと合わせて。井上1p28
(結婚してからはシャンゼリゼ通り沿いの高級アパルトマンを何階分も借りて
 妻オデット、娘ジルベルトと住んでいたようだがオルレアン河岸の邸宅も依然と
 して所有しており、そこに 骨董や絵画のコレクションを置いていたのかな。
 井上2p130)
479吾輩は名無しである:2014/06/01(日) 19:12:50.47
2009/06/01(月)

失われた時を読んでいると、何故かフォークナーやバルザックが読みたくなる。

ダラダラクドクドと続くとりとめのない心理分析とエッセイもどきの価値観。心理分析ももっと的確にカッコ良く書けるやついるだろ、三島とか
とか思ってたが、あのグダグダ感がいいんだよね?意識の流れの克明な引き写しって感じで
なんか絵でいうとマチスぽいな〜と思いましたね。なるべく頑張って書いてないように見せたがってるところが。って解釈でいいかな

2011/06/01(水)

ウィキ見たんだが、
ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト
って名前ながすぎね?

2012/06/01(金)

意固地な者とは他人に受け入れられなかった弱者であり、また他人の評判などを気にしない強者のみが、
凡人には弱さと見られるようなあの優しさを持つことができる(第四篇 ソドムとゴモラ2)
@Proust_bot
480吾輩は名無しである:2014/06/02(月) 06:59:00.28
千葉県松戸市六高台2-78-3
481吾輩は名無しである:2014/06/02(月) 20:11:35.40
2009/06/02(火)

ノルポワの外交談義とかドレーフュス事件とか当時のフランスにいないと退屈だよね。
恋愛ネタは万国共通だからわかるんだろうけどね。
こういうネチネチした心理描写ってユダヤ的なものなのかな。
ソール・ベローなんかもこういうしつこい心理描写を長々とやるよね。
ユダヤ的放浪癖、この場合は内面の放浪癖になるんだけどさ、そういうもんかね。
プルーストにせよソール・ベローにせよユダヤ的なものに焦点を当てるという欧米出版業界の目論見があって
大作家扱いされるようになったんじゃないの?
それまでの欧米作家のように大きな構想とプロットのうまさで読ませる作家じゃないよね。

ブラッサイの本面白かった〜。
プルーストの描写が映画的じゃなくて、あくまで写真的っていうのはなるほどなーと。

ノルポワの話の内容に直接興味がなくとも
ノルポワみたいなおっさんはどこにでもいるから退屈ではない。

2012/06/02(土)

ところで今バタイユのプルースト論を読んでいます。

笠井潔「薔薇の女」届いていた。ジルベールとアルベールという双生児の
兄弟が出てくる。もちろんジルベルトとアルベルチーヌに由来する。
バタイユそっくりの老作家も登場。

この小説ははじめの数十ページが最大の関門かと(英訳では「序曲」と呼ばれて
います。プルーストが出版を打診した3件目の出版社は、「主人公が寝床で輾転
反側するのに何十ページも費やすのは理解できない」と出版を断っている)
全巻読み終わってからも、すでに何回も読み返しているけどやはりむずかしい
482吾輩は名無しである:2014/06/02(月) 20:13:16.31
2012/06/02(土)

「スワンの恋」はオーソドックスな心理小説の衣をかぶっているし、感情移入もしやすく、
そこからは比較的スムーズなのですが、「スワン家」の前半は序曲のほか幼少時代の
コンブレーも含めて、その素晴らしさがわかるのは全巻読み終わってから再読した際と
割り切って、でも丁寧に読み進めるのがコツかと

私も水色の本で読破しました。キース・ヴァン・ドンゲンの挿絵もいい。

ちょうど読み終わった頃に集英社の文庫が出始めたんですよね。
全巻読破後にコンブレーを読むと本当に素晴らしく、文庫の第1巻は付箋でふくれ
あがってしまった。
483吾輩は名無しである:2014/06/02(月) 20:15:13.39
2012/06/02(土)

プルーストの通読というと、1日全てを費やしても私の場合1ヶ月かかる。(ワイナイミールやジャンクリストフなら
10日見ておけば十分)。何度か通読していますが、私の場合最初の通読で「ゲルマント」が苦しかった記憶がある。
「ソドムゴモラ」が案外すんなり読めたので「アルベルチーヌの自宅監禁」の段階で最後まで行けると思った。
新潮の6人訳です。井上さん鈴木さんも通読しました。個人的には井上訳が好きですが、6人訳で凄い思い入れを感
じる場合があります。井上訳は原文の感じが一番うまく出ていると思います。鈴木さんは「プルーストを少しでも
判り易く」ということにエネルギーを費やし過ぎてる様な気がします。鈴木氏の気持ちはよく解りますが、結果と
してあまりそれには成功していないなと感じます。鈴木さんの文庫本の「虎の巻」は重宝で何時も利用しています。

「ゲルマント」「ソドムとゴモラ」は鈴木訳第1巻のまえがきに、冗長な部分も
あるだろうから多少飛ばし読みしても構わないと書かれていたので、よくわか
らなくても(特にサロンでのやりとり等)あまり拘らずに先へと読み進めました。
死後刊行の「囚われの女」に入ってからはだれるということは全くといってよい
ほどなくなりました。

鈴木訳は注も含め、とにかく完読させるための配慮がいきとどいている。
はじめ登場人物になじむため、第1巻の末尾の「主要登場人物100」を煩を厭わず
絶えず参照したことを思い出します。
最終巻についている「登場人物索引」「引用された文学・芸術主要作品索引」確かに
重宝しますね(原文の全文検索と合わせて )
484吾輩は名無しである:2014/06/03(火) 19:59:45.44
02/06/03

なんてだるい小説なんだ。

映画もだるかった。
ので、二日に分けて見た。

見終わったらその存在すら忘れ、
おかげで延滞払わされた。

2006/06/03(土)

刊行中の、集英社文庫鈴木訳は、
帯の文句がよい。
読んだことない人も、つい手に取るに違いない。
編集者うまいな。
485吾輩は名無しである:2014/06/03(火) 20:05:08.66
2009/06/03(水)

ドレフュス事件そのものはなくても
冤罪とかそれに似たことは世界中で沢山ある。

構想自体はかなり大きいものだと思うけど。
普通のプロットを拒否してる小説にそれを求めてもしょうがないんじゃないか。
未完の小説だから、完成度にばらつきがあって読みにくくなってるのは仕方ない。

ゾラファンなのでドレフュス事件に関する
記述は興味を持って読めた。

ゾラの小説技法に疑問を持つようになってそれで
プルーストを読むようになったもので。
小説技法に疑問を持つようになっても
アンチ・ゾラになったわけではないが。

2011/06/03(金)

「失時」が最初、小説と評論の二部構成で書くつもりだったらしいけど、
もしそうなってたら凡作になったろうね

2012/06/03(日)

この前図書館に行ったら、井上訳をもとにした「登場人物事典」がありました。
これは一般の有志の方々が編纂され、東京新聞出版局というところから出ていますが、
値段は付いていませんでしたので、市販はされていないかもしれません。
486吾輩は名無しである:2014/06/04(水) 19:28:09.37
2005/06/04(土)

Bibliotheque de la Pleiade無いザマす。
しかし邦訳本、置いている本屋も少ないざんす。
本屋は文化を捨ててエロに走っているザマスか?

仕方がないので水色本とモンブラン・プルーストを飾って置くザンス。

菩提樹のお茶にマドレーヌ浸して食べましたか?

2011/06/04(土)

プルーストが読みにくいのは、プルーストが見たもの感じたものを
忠実に表現しようとしたため、その論理を辿れないと長々と何を
言いたいんだろうとなってしまう。

とりあえずゆっくりと何度も行きつ戻りつしながら、読み進める
ことが、一番理解が早いように通は誰も言う。

プルーストは、スタンダールなどが外面から人間を克明に描写して写実に近づけたのに対し、
内面から夢見心地の意識や無意識を描き出す事でリアリズムを獲得した作家ですからね。
487吾輩は名無しである:2014/06/04(水) 19:31:27.22
2012/06/04(月)

はじめて通読に挑戦したのは1983年。井上さんが全訳をやっている最中でした。筑摩世界文学大系の方は既に在ったかもしれま
せんが、既に、スワンのオデットとの恋愛と、「アルベルチーヌ死後感傷旅行」は、読破していましたし、「花咲く乙女組」「ゲ
ルマント」「ソドムゴモラ」「解決編」あたりもかなり読んでいました。原書購読も大学の教養のゼミナールなどで部分部分読ん
でいたので筋も結構解っていました。その教養の先生が結構有名なプルースト研究家だったんです。下宿の近所の図書館で6人訳
が読めたので始めました。
 「スワン」と「花咲く乙女組」は難なく通過しましたが、「ゲルマント」は伊吹・生島訳なんですねえ。私自身が当時はサロン
のこと等全然解っていませんから、3時間くらいの晩餐会が何百ページも続くのは閉口した記憶があります。通読は12〜3日位かか
ったかな。
 「ソドムゴモラ」も覚悟していましたが、市原・中村・井上が三分割で訳していたようです。シャルリュス対ベルデュラン夫人
のところが中村真一郎さんだったんです。またサロンや晩餐会の事に慣れて来たのでしょうね。
 「自宅監禁」が伊吹さん、「ヴェネツィア感傷旅行」が生島さんで、最後が又井上さんそれから淀野大先生が大締めで再登板と
いったところで合計50日は行かなかったかな。
 井上さんのが文庫本になったのが1993年位だったと思います。この時はじめて座右に置こうと思いました。1993年に「ゲルマン
ト」の前半分まで買って、しかしつんどくでした。その後、「ゲルマント下」「解決編」「感傷旅行」「自宅監禁」の
順に2002年頃までに買い揃えました。その頃井上訳の通読を始めました。今度は「ゲルマント」を16日くらいで
通過できました。そこで「ソドムゴモラ」を買ってきて通読しました。電車の中でプルーストが読めるのに感激した記憶がありま
す。
488吾輩は名無しである:2014/06/04(水) 19:37:28.17
2012/06/04(月)

高遠弘美がこの事典を贈呈された話をしていますね
http://www.kotensinyaku.jp/blog/archives/2012/04/002551.html

入手困難本では、保苅瑞穂他の「マルセル・プルースト初級読本」(朝日出版社、
1992)というプルーストを題材にした語学テキストも気になっています。
http://text.asahipress.com/french/detail.php?id=641

プルーストではバラ色は朝焼けに染まった雲や空の色、カフェオレ売りの少女の
頬の色の形容に使われていますね。
http://www.waseda.jp/bun-france/pdfs/vol29/015-024Kunihusa.pdf

「花咲く乙女組」という言い方が、「花のあすか組!」というテレビドラマや
どおくまんの漫画「嗚呼!!花の応援団」を思い出させます。
489吾輩は名無しである:2014/06/05(木) 19:58:44.68
04/06/05

古橋健二の「失われし記憶を求めて」も読んだけど、何か

2005/06/05(日)

今原書で読んでます。二巻目を終わったところ。
かなり集中的に読んで、二冊で五日掛かりました。

Folio classique などの文庫じゃなくて
最初からプレイヤード版にしてもよかったかも...
と思い始めた。
490吾輩は名無しである:2014/06/05(木) 20:08:34.30
2011/06/05(日)

プルーストの、夢や無意識を長く書く手法が受け入れられず、ジッドに出版を断られたのは確か
プルーストがフロイトを読んでいて参考にしているというのも確かだ

ベルクソンとプルーストって関連しあうのかどうか俺は知らんが、
「物質と記憶」は読んだことがあるな。
人間は時間というものを空間的に考えてるという批判をした上で
純粋持続ということを言ったわけだ。
平たく言えば流れそのものとしての時間という捉え方で遠くないはずだ。

でだな、時間というものを考えたり表現したりする場合は、
その流れそのものがそこにうまく反映されない。
流れてる川の「流れそのもの」を絵に描くのが難しいのと同じようなもんかな。

で、ベルクソンとプルーストというラインで考えれば、
時間というより「記憶」が重要になってくる。
ふと無意識のうちに湧き上がってくる「想起」というやつだよ。

ベルクソンいわく、 我々は無意識の領域で絶えず想起してるそうだ。
いろんな記憶が意識のほうに「うわっー」と押し寄せようとしてる。
それがいっぺんに意識のほうにのぼると混乱するんで
日常生活では「おまえらあんま出しゃばんなよ〜」と抑えて、
その場で必要な記憶だけを引き出すようにしてるんだな。
それが非常事態=危機的状況に陥った時にはその抑えがきかず、
どどどっ!ぐわわっ!と記憶があふれ出すってわけ。

プルーストの場合の想起は、味覚(あるお菓子を食べたり)や
触覚(石畳でけつまずいたり)によって、
遠い昔に忘れかけていた記憶がふいに意識のほうにのぼってくる。
491吾輩は名無しである:2014/06/05(木) 20:14:01.74
2011/06/05(日)

クロード・シモンの「アカシア」を読んだ時、
これはプルーストの影響が大きすぎるんじゃないの、って思ったな

石畳のくだりの影響でいえば、
ロブ=グリエが「ジン」というのを書いてたっけ。

語り手はいつの間にかスワンの過去について熟知しているけど
誰々から聞いた。っていう描写が見当たらないんだよね。
意外とスワンと会ってない。

プルーストの長く込み入った文章に慣れてくると、切り分けるところが分かり、
生々しい文章に変わる。これはどの翻訳でも感じられる。ただ、当時の風俗や
パリの街の描写が、鹿島さんの本などを横に置かないと、よく分からないので読み
づづけるのが辛いことがある。

プルーストは田中康夫ばりの
底意地の悪さを軽く眺める程度のものと勝手に理解している

マルセルさんは狂人だってドゥルーズ先生が言ってましたよ。
492吾輩は名無しである:2014/06/05(木) 20:16:19.40
2012/06/05(火)

筑摩大系のプルースト全5巻は1988年4月に完結した。しかし、その時点で
すでに品切れになっていて、新本が手に入らない巻もあった。
私は「囚われの女・逃げさる女」の巻のみ新本を買い、他は古本屋で
購入した。そして、1989年夏に全巻を一気に完読した。
今も、書斎の本棚には綺麗な水色のカバーがかかった5冊が鎮座している。

薇、でここまでくるとはおもわなかった。
薔薇の歴史については、
http://www1.gifu-u.ac.jp/~fukui/04-12-1.html

ご存知とは思いますが、「返り咲き」とは、
「規則的な四季咲き性と異なり、一番花が咲いた後に不規則に再び咲くものをいいます。期間は定まっていません。」
http://ec.keiseirose.co.jp/guide/faq.html

アルベルティーヌという名のバラがあります。本でしか見たことがありません。
1921年 Barbier 作
http://shinomiya-rose.com/2009/albertine.html
http://barahana.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-d4f4.html

RTPでrosesで検索すると、117件ヒットしますが、
rosesを含む品種で見つけたのはroses mousseuses 2箇所のみ。
1箇所は「プルーストの花園」集英社の冒頭で「モスローズ」として引用されています。
モスローズが好きだったのかな。
493吾輩は名無しである:2014/06/06(金) 19:08:04.50
03/06/06

コンブレ

りんごの木

308,-3; 305,-8; 245,5
(308頁,後ろから3行目....245ページ,5行目)

2006/06/06(火)

恥ずかしい文体との出会いはまるで
向こうから歩いてきた見知らぬ男から突然手を振られ衆目を集め
しかもその男の服装が幅の広い二つ穴が開いたベルトと
ベルボトムの刺繍の入ったジーンズだったような
そんな気分でございますな…

2011/06/06(月)

13巻セットの方はちょっとメンドクサイので、集英社の上下巻セットを読んでいます。
カトレアってなんだっけと思っていたら、スワンとオデットを結んだ花なんですね。

2012/06/06(水)

Je la regardais, je regardais ce corps charmant, cette tete rose
d’Albertine
>私はアルベルチーヌをながめる、彼女のあの美しいからだ、あのばら色の顔を
ながめる、井上7p304 (「ソドムとゴモラ」)
494吾輩は名無しである:2014/06/07(土) 18:21:10.58
2005/06/07(火)

プレイヤードの革装本がいいな

2009/06/07(日)

読み始めて、、、1ページ目で、はやくもわからんとこが出てきてしまいました

「私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ1世とカール5世の抗争とかになってしまったようにように思われるのであった。」

これどういう意味でしょう?人間が教会とかになるって?

プルーストの執筆方針は自分自身の気づきに注目すること。
過去の出来事を体験というよりも甘美な味付けのあるイメージとして取り出して、味わう。
過去の経験を時をあけてイメージにしてしまうから、より真実に近いと思ってるらしい。
すべてを自分の内面のイメージとすることで楽しむのがプルースト流。

そういうことなんじゃないの?
教会になった、は『きかんしゃトーマス』とか、『ロード・オブ・ザ・リング』の木の化け物とかを連想した。

四重奏曲ってのはすごいね。抽象物だからね。
四重奏曲を演奏している演奏者とか、抗争の当事者になったように思った、なら解るけど、そこまでは限定していないし。

それらを内包するものになるってのはすごい想像力、ということで読み進めた。

あのアンドレ・ジードでさえ最初は失われた時の
凄さは理解できなくてクズ扱いしていたという・・・
後で真価を理解してプルーストに謝ったのはさすがだが。
495吾輩は名無しである:2014/06/07(土) 18:24:33.45
2009/06/07(日)

ようやく「囚われの女」を五分の一ほど読んだ。
あと1〜2ヶ月程度で全巻読了したいものだ。

「ソドムとゴモラ」を読了したときは「峠を越えたな」という
思いはあったな。

2011/06/07(火)

今ゲルマントの方の、フランソワーズをめぐる人々を読んでいます。
前の章の、エルスチールの絵画についての描写はなかなかよかったなあ。
あと、この上下巻では、スワンとオデットの恋愛が大幅にカットされていて、
あらすじだけになってしまっていました。それが残念です。

2012/06/07(木)

おれも井上氏の訳は目の前が真っ暗になった。挫折感というのであろうか。
たとえ読み通したとしても、なにが残るのだろうか?読む先から忘れていくよ。

高遠さん「消え去ったアルベルチーヌ」の光文社翻訳文庫での付録で、6人訳、井上訳、鈴木訳を肴にして
「私はこう訳す」とやっているの中々面白いですよ。
ただ光文社翻訳文庫の「消え去った」だと鈴木氏も指摘しているように、話が完結しなくなっちゃうね、明らかに。
496吾輩は名無しである:2014/06/08(日) 19:43:29.27
02/06/08

ちくま文庫だと10巻あるけど
今日本屋でハードカバー上下巻の二冊に収まってた
二段組でもない。

なーんだ結構短いじゃん
これで読んでみようかなー

それ、鈴木道彦の抄訳版じゃない?
集英社で鈴木氏の全訳刊行前に出したヤツだと思うよ。

2011/06/08(水)

上巻読み終わりました。しかし編訳ってあっというまに読めますよね。
最初にこれを読んで、あとで普通の翻訳物を読めば良かったかなあとも思っています。
色々省略されている箇所はありますが、
やっぱアルベルチーヌの甘い接吻の様なおしゃべりや、
病床についた祖母の顔中にうねうねとたかるヒルや、
スワンの病気の告白なんかははずせない箇所だったようで、
しっかり読む事が出来ました。
497吾輩は名無しである:2014/06/08(日) 19:46:54.18
2012/06/08(金)

私も、井上訳をちくま文庫で揃えたけど全く読めず、鈴木訳ではじめて完読できた口です。

ただ、最近、英訳と井上訳を併行して読んでいるのですが、やはり、井上訳は言葉の選び方
等すばらしいなと思います。英語で読んでからだとなぜか意味がとりにくいと感じない。
おそらく鹿島茂の言うように「アール・ヌーボー装飾のように錯綜したプルーストの文体」もうまく
移植されているのでしょう。自分はフランス語がそんなにできず、原文にそれほど接したわけで
ないのでなんとも言えませんが。

井上訳の支持者は、多少とでも原文(次善策として英訳)に接したことがある人か、鈴木訳出現
前に苦労して完読した人のいずれかという気がします。
あと、中村真一郎が指摘したように関西人の方が井上訳になじむといったことがひょっとしてしたら
あるのかもしれない。
498吾輩は名無しである:2014/06/09(月) 19:35:41.91
2005/06/09(木)

モンブラン・プルーストいいな
イメージによく合っているよ

2011/06/09(木)

スワンの告白に公爵が冷たいんだよね。
あそこはわかりやす過ぎるけど面白かった。

やっぱり高級娼婦との結婚がスワンの人生に負荷をかけたんでしょうね。
でも私は登場人物の中ではスワンがイチバン好きなんです。

下巻の1/3まで読むのがせいいっぱいでした。
ちょうどシャルリュスとモレルのところです。
語り手がアルベルチーヌに疑惑を抱いてしつこくする場面は面白かったです。
私は今まで恋愛で嫉妬するという場面に出くわした事がなかったので、
たいへん興味深く読みました。

サント=ブーヴについてのクリティックより面白いのは
「サント=ブーヴに反論する」序文草稿のところだね。
そこに例の味覚的想起に関する記述があって、
フレグランスと舌触りを含む味覚の体験談が書かれているんだね。

2002年に出たちくま文庫の評論選はもう絶版?
序文草稿のスタイルがなかなかいいんだよね。
「日ごと、私は、知性というものに大して価値を認めなくなりつつある」
という出だしもいいし、母との対話という形をとってるところも面白い。
作者は母に「サント=ブーヴについて書いてみたいと思っているのですよ」
なんてしらじらしく(?)語りかけたりして
499吾輩は名無しである:2014/06/09(月) 19:38:57.72
2012/06/09(土)

吉川一義氏も一般向けのセミナーをもとにした本で冒頭「不眠の夜」
について詳細に分析していますね(『プルーストの世界を読む』岩波
セミナーブックス)

吉田草稿研究(平凡社)、ちょっとだけ引いておきます。
文章も切れと味わいがあり、本当に惜しい人を亡くしたと思う。
是非、全訳に挑戦してほしかった。

>「長い間、私は早くから寝た」という文は、「吾輩は猫である」という文
と同じように、読者(聞き手)に向かって語り手が直接呼びかける「緊張
した発話」なのである。複合過去の使用は、そういう語り手の「声」として
理解される必要があるだろう。『失われた時を求めて』を最後まで読んだ
読者なら、この「声」がどんな高みから、どんな遠い地点から響いてくる
か、よく知っている。59頁

高遠氏が吉田秀和氏の文章を引用していたもので、印象的なのは

>私は、この小説を読んでいて、何かを知るというのではなくて、何かを思い出
し、何かに気がつくのだが、それはこの本を読まなければ気がつかず、思い出さ
ないことでもある。だが、それは、私がすでに生きたことのあるもの、たとえ実
際の生活の場ではないにしろ、心のどこかでいつか出会ったか、小波のようにか
すめていったかしたことがなかったら、気もつかず、思い出せるはずのないもの
でもあるのだ。

よいうように、小説を読むと個人的な体験がよみがえってくるということです。

俺は敷石につまづくと、この小説のベネツィアの場面を思い出す。
「逃げさる女」だったか?
500吾輩は名無しである:2014/06/09(月) 19:40:50.75
2012/06/09(土)

実際にこの小説を読むと個人的体験がよみがえってくるし。
プルースト自身の書いていることとも響き合う。

>実際には、本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それが
ほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家は
それを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身の中から見えてこな
かったであろうものを、読者にはっきりと見わけさせるのである。書物が述べてい
ることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠
であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりvice versaであって、著者の
テキストと読者のテキストとのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に
負わせることができる。井上10p393

En réalité, chaque lecteur est, quand il lit, le propre lecteur de soi-même.
L’ouvrage de l’écrivain n’est qu’une espèce d’instrument optique qu’il
offre au lecteur afin de lui permettre de discerner ce que, sans ce livre,
il n’eût peut-être pas vu en soi-même. La reconnaissance en soi-même, par le
lecteur, de ce que dit le livre est la preuve de la vérité de celui-ci, et
vice versa, au moins dans une certaine mesure, la différence entre les deux
textes pouvant être souvent imputée non à l’auteur mais au lecteur.
501吾輩は名無しである:2014/06/09(月) 19:42:37.71
2012/06/09(土)

>なぜなら、私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる
人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コン
ブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、
つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段
を提供する、そういうものでしかないだろうから。井上10p608

Car ils ne seraient pas, comme je l’ai déjà montré, mes lecteurs, mais
les propres lecteurs d’eux-mêmes, mon livre n’étant qu’une sorte de
ces verres grossissants comme ceux que tendait à un acheteur l’opticien
de Combray, mon livre, grâce auquel je leur fournirais le moyen de lire
en eux-mêmes.

吉田秀和は「失われし時をめぐって」で
  >プルーストは、私を私に還す。
とも書いてますね。

自分は「上手に思い出す」ための手段として、「失われた時」を読んでいるのかもしれない。
502吾輩は名無しである:2014/06/09(月) 19:44:58.75
2012/06/09(土)

吉田健一「東京の昔」も「上手に思い出す」お手本のような作品と思います。

奇しくもというか当然にというか、プルーストを研究している帝大生を登場させ、ベケットの
プルースト論の有名なフレーズProust had a bad memory.「プルーストは記憶が悪かった」
を引用させ、次のように言わせています。

>もし所謂、記憶がいい人間ならばあんなことは覚えていやしない。それにプルーストは
思い出しているんじゃなくて記憶の作用をしつこく分析しているんでしょう。あんなに意識的
じゃもの覚えがいいとは言えませんよ

プルーストはクリステヴァが論じてるからいつか読まないとは思ってるんだがなあ
同じカテゴリ的に語られてるデュラスの「太平洋の防波堤」とかはおもしろくて一気に読了したけど
503吾輩は名無しである:2014/06/10(火) 20:03:26.31
2005/06/10(金)

ちょっと前、「プルーストの食卓」というでかい料理本が出てた。
ただ、「塩もバターももう本物じゃない今、もうあの味は味わえない、
ってのは、「失われた〜」の中でさえ出てきているわけで、それで
彼が食べた味を再現できるわけでもない。
「あの味はもうない」って、「最近の若いもんは」と並ぶ、
人類の永遠のため息だね。
「失われた時を求めて」はほとんど「失われた味を求めて」であり、
失われた味は、文字を通してしか再現されないということだ。

日清のチキンラーメンが発売された昭和30年代、
こんなにおいしいものがあるなんて、と、
化学調味料の威力を知りました。爾来、
失われた味のかわりとして、見出された味もあります。
コーラなんかもうまいどす。

小さいときおばあちゃんが柿の種を茶筒に入れて押入れに入れていたのを
こっそりつまみ食いした、ちょっとしけったあられの味。
この間二日酔いで目覚めた朝、テーブルの上に残っていた前日のつまみの
柿の種を食べたとき、ほろりと涙がこぼれた。

2009/06/10(水)

「囚われの女」の語り手ってほとんどストーカーですね。
アルベルチーヌでなくてもこういう男からは逃げたくなるでしょう。
504吾輩は名無しである:2014/06/10(火) 20:05:13.17
2011/06/10(金)

サント=ブーヴの批評のやり方はいろんな人に影響をあたえましたよね。
小林秀雄なんかはモロにサントブーヴの影響をうけてるし。

「サントブーヴの方法」ではサントブーヴについて
プルーストはかなりイロニックにバッサリとやってるよ。
サントブーヴの詩句は非常に豊かだと持ち上げておいて
「月曜閑談」について「内実は、わずかばかりの詩句」

読書ペースが落ちてしまい、ベルゴットの死の所で止まっています。
この上下巻では、語り手がいかにベルゴットに心酔してきたかが省略されているので、
特に描写のなかったベルゴットの臨終だけがクローズアップされているのがちょっと不自然に感じます。

小林秀雄の「精読」の方法はサントブーヴの批評方法から来てる、と一人で勝手に納得してます。

作品をより深く正確に理解するために、
作者の書いたものは書簡だろうがメモだろうがなんでも読む。
「文は人なり」で、文から作家の人間性を引き出し、作家に近づこうとする。
そうやって作家の様々なる意匠を暴く。

究極まで突き詰めていくと、結局、
なんで作者がこう書いたのか、どうやっても分からない
という部分が出てきてしまい、壁にぶちあたる。
それが近代の知性の限界だったのかなとも思います。
小林秀雄はその究極の所の壁を、
「あらかじめ考え終わってから書くのではない、書きながら考えている」
ということで置いておく。
505吾輩は名無しである:2014/06/11(水) 19:45:24.33
2011/06/11(土)

で、「文は人なり」ってことは「作品→作家」なわけだね。
「作品と作家は引き離して評価しなくちゃ」の逆。
後者はプルーストのサント=ブーヴ批判にも通じる部分はあるけど、
もっと典型的なのはロラン・バルトだよね。
「作者の死」なんてことを言ってもっぱらテクストに向かう。
そのバルトは確かプルーストをかなり好んでいたんだね。

アルベルチーヌとの葛藤は良かったなあ。ぐんぐん読めました。
昨日読み進めていよいよ「見いだされた時」に入りました。
この章で劇的な展開を迎えるんですよね。 楽しみです。
今日明日中に読めるかな。
これを読み終わったらドゥルーズの「プルーストとシーニュ」でも読もうっと。
  
バルトとプルーストとのラインで考えてみると
写真論「明るい部屋」が面白いかもしれない。
若き日の母の写真から与えられる特権的体験と
プルーストの想起を関連付けて論じた人はいないだろうか。
506吾輩は名無しである:2014/06/11(水) 19:47:30.50
2011/06/11(土)

読了しました。

最終章になって、語り手であるプルースト自身が、懐古的になり、
そして語り手とプルースト自身の心情とが入り交じってくるあたりが面白かったです。

「私はもともと若いときから筆の立つ方で、ベルゴットは私が中学時代に書いたものを
『完璧』とみなしたくらいであった。けれども仕事をするかわりに、私は怠惰な生活をし、
遊興にふけり、病気と、他人への気配りと、偏執のなかで過ごした挙げ句に、死の前夜になって、
作家としての仕事も何一つ知らずに、自分の著作にとりかかろうとしているのであった。」

これはプルースト自身の本音という所でしょう。
老いて、絶えず死の観念につきまとわれ、元気だった昔の事が忍ばれてならない、
今書いている著作の途中で死ぬかもしれないといったやりきれなさが、文章にあらわれています。

それにしても美しいしめくくりでした。
全ての事象が、過ぎ去った記憶のうねりの中に収束していき、回想によって際限なく膨らんで行き、
縦横無尽に伸びて行って、永遠の「時」のたたずまいがぽんとそこに浮かび上がるという詩情。
スワンやゲルマント公爵を取り囲むサロンの喧噪が、既にそれは過去のものであるのに、
語り手を通してありありとよみがえってきそうです。

>>今書いている著作の途中で死ぬかもしれないといったやりきれなさが、文章にあらわれています。
ここ抄訳にあるかどうかわからないけどそのままの文章があって、
それがヘンリー・ダーガーの晩年の日記とそっくりだったんだよね。

ブルジョア、病弱、ゲイ
ある種の人々の萌えポイントを刺激してやまないプルースト
507吾輩は名無しである:2014/06/11(水) 19:49:45.51
2012/06/11(月)

ほんとは、プルーストは印象派の絵画でもワグナーの音楽でも
ドレフュス事件でもラスキンのことでも、パリの当時の社交界でも
煮詰めて持論までもってけば

変に衒学的な視座ではなく、プルーストは本国の人にも古典ー要するに
大昔の人が書いたものーなので当時の歴史を合わせて、いろいろ論を
書けばかなり面白い思うけどね。

歴史の視野がまるっきりないとこの作品は面白くないはずだよ
今の人にはさ…

増尾弘美「プルースト ――世紀末をこえて」
歴史的な視野についてかなり詳しく触れて
いる。

パースペクティブな視点とレトロスペクティブな視点は
混同すべきでない。

ある種の人の記憶の遡及効には随分
悩まされる。
記憶はもともとそういうもんだということになるのかも
しれないが。程度問題。

プルーストは記憶が悪かったというのもそんな観点から
考えてみたりしている。
紫式部日記も歴史的事実との齟齬が多いんだよなあ。
508吾輩は名無しである:2014/06/11(水) 19:54:31.72
2012/06/11(月)

技術には、あるところで頭打ちになってそれ以上進歩する余地がない技術
(一見、そう見えてもたいていの世界は奥が深いのだろうけど)と、一生
かかっても奥義に達しない、死ぬまで習得の過程にある技術の2種類があ
るような気がする。
ドゥルーズは、プルーストのこの作品を「習得」の物語とするわけだけど、
文学作品を書く技術などは、おそらく技術であっても後者なんだろうと。

単なる娼婦から高級娼婦に成りあがる道で、男性のパトロンから
だけでなく、レスビアン相手から教養とよき趣味を習得するという
コースもあったと鹿島茂は書いていた。

オデットもベルデュラン夫人とレスビアン関係にあった
ようだけど、師弟関係ともいってもよいのかな。

カラカラに乾燥した場所で、フランスの小説は
適さない。そして、ネトネト肌に纏わりつく暑さは、集中を妨げる。

でも、エアコンの効いた快適な部屋では、あの情念というか人間の業
そのものを語るバルザックは似合わない。
509吾輩は名無しである:2014/06/12(木) 19:07:01.57
2012/06/12(火)

>フロイトとユングの往復書簡でも、投影だ、逆転移だ、いやお前こそとやりあっている。

これ現代の分析家同士の論争でも同じです。
藤田博史と向井雅明の論争とかな
そんときお互いの派閥者がお互いの敵を「精神病」扱いしてたんだが(笑えるだろ、普通にどう見ても二人とも神経症ではありえようが精神病ではありえない)、
「会話相手の深層心理を探ろうとする」のは、フロイトが言ったように精神病者が常にやっていることで、分析家の仕事も同じなんだよね、ぶっちゃけ。

で逆に考えよう。
こういったフロイトとユングのような「意見が一致しない」「会話が噛みあわない」ことの方が現実ではないかと。

ここらへんから自閉症での「未知性としての他者」ってー話になるんだが自分でめんどくさいのでやめようごめん。
510吾輩は名無しである:2014/06/13(金) 19:03:53.32
2006/06/13(火)

堀辰雄がエッセーか何かで、プルウストは時折本棚から取り出して適当にページを
開いて、その部分を読むという読み方を書いていた。通読するのは辛い、と。
そして、ヴァレリー(違うかも)も同じような読み方をしてると知って、喜んだと。

もちろん堀さんが読んだのは原書だけど、こういう読み方もいいんじゃない?

2007/06/13(水)

霊感でプルーストetc.(北極につながる?)
511吾輩は名無しである:2014/06/13(金) 19:05:22.28
2012/06/13(水)

でもプルーストってフランス語の原文は難しいわ。原文購読の
授業ではスタンダールとかベルグソンとかサルトルとかゾラとか
ジイドとかは読んだんだけど、プルーストは取り上げられなかった。
フランス語の原文は実は結構分かりやすいんだけどね。プルーストは例外的に
難解。

http://jun-fr.blogspot.jp/2010/10/blog-post.html

Mais quel rapport a-t-elle avec le jardin d'Acclimatation ?
― Tous ! ― Quoi, vous croyez qu'elle a un derrière bleu ciel comme les singes ?
― Charles, vous êtes d'une inconvenance ! (I, 526)

「だがね、彼女と自然観察園とどんな関係があるのかね?」
「大ありですわよ。」「なんだって、あなたは彼女が自然観察園のサルみたいに、真っ青に澄んだお尻をしていると思ってるのかね?」
「まあ、シャルルったら!なんて無作法なことをおっしゃるの!〔…〕」(鈴木訳3、『花咲く乙女たちのかげに I』)

「へえ、あの女はあそこのお猿さんのようにどこやらが夕やけ小やけだとでもいうのかね?」
「シャルルったら、まあ無作法なかたねえ!」(井上訳2、『花咲く乙女たちのかげに I』)

内藤訳『星の王子さま』同様に、しばしば誤訳論議など超越した味のある文章になっているのが井上訳です。
512吾輩は名無しである:2014/06/14(土) 18:00:08.07
2006/06/14(水)

そうか、堀は国文の卒業か、それじゃフランス語に堪能、というわけにはいかなかったかも知れないな、
しかし、堀くらいの才能なら、フランス語で当然読んでいたと思うが。

もちろん、仏語で読んでるよ。
信州富士見のサナトリウムに入るとき、神西清から借りて持っていってる。

この小説独特だよね。入れ子のような構造で段落ごと
区切るような普通の書き方とは違う。

読んでいて快感でした。願わくばその快感が将来も味わえますように。

2009/06/14(日)

「囚われの女」は第1章がグズグズダラダラしていて
退屈だったが、ヴェルデュラン家が舞台になる
第2章は漫画みたいにすらすら読めた。
シャルリュスの道化ぶりが面白い。
ばらの騎士のオックス男爵を思い出してしまった。

2011/06/14(火)

社交に出るより思い出に浸ることを選ぶプルーストと(作品内の主張ね)自ら創造した非現実の世界に耽溺するダーガー、
コルク張りの部屋で執筆をしたプルーストと誰にも知られず部屋で黙々と絵を描き物語を綴ったダーガーとかそんな感じかな。
あとは前述の日記、長大な「非現実の王国」を残したこと、ある種のメタフィクション性、
性別の混同(プルーストの場合私生活と作品、ダーガーの場合チンコの生えた幼女)等です。
513吾輩は名無しである:2014/06/14(土) 18:02:18.28
2012/06/14(木)

ヘーゲルの「否定の否定」なんてのもそういった男性に特徴的な「父への欲望」の肯定でしかないんだよなあ

拒絶によって対象の存在感にとりこまれてしまうと言ったのはラカンです。
それを否定による肯定といいます。

二重否定はヘーゲルですね。

Quoiという鳥の声を思わせる鋭い響き。それがシャルリュスの
かんだかいコントラルトの金切り声で発声される。

青と赤では随分、雰囲気が変わってしまう。井上究一郎も
悩んだだろうなあ。直訳・訳注の方が楽だけど、迷った
末、また遊び心もあって、あえて日本猿のイメージを喚起するような
訳にしたのだろう。
「星の王子さま」の内藤濯訳についても、自分は「暇つぶし」という
訳を積極的に評価する、頭ごなしに論外の誤訳と否定するのはいかが
なものかと書いたけど。
514吾輩は名無しである:2014/06/14(土) 18:04:56.68
2012/06/14(木)

吉川氏の訳では、スカイブルーとなってましたが、もちろん井上氏の訳が誤訳というのは論外で、
日本人の色に対するイメージと外国人のそれには違いがあって、たとえば顔が赤くなるとか
蒼ざめるにしても外国では正反対の色のイメージになってしまいます。

ニホンザルとその動物園の猿のケツの色が赤いか青いかって話であって、
それが赤か青かってのは会話内容全体のイメージが変わるのもあるだろうが(俺はわからん)、
まあぶっちゃけこんな細かいところは便宜的でいいと考えれば井上訳でもいい気がするが
青いケツのサルとか結構いるよ、ベルベットモンキーだっけか

物書きなら、常識とは違ったことを書いて、「イメージの流れの引っかかり」をわざと作ったりする経験はあると思われる。
なんつーか「異化効果」的な?
もちろん逆もあり、常識的なイメージの流れを継続させたいシーンもあるだろう。
推理小説を例にすれば、前半とかはトリックに繋がる「引っかかり」を減らして、ミスディレクションとしてトリックとは違う
方向に注目させる「あれ?」的な「引っかかり」を作ったりしよう。
まあ井上はここで「日本人読者の常識的なイメージの流れの引っかかりを作りたくなかった」のだろうな。
515吾輩は名無しである:2014/06/15(日) 19:38:49.37
2009/06/15(月)

「ゲルマントのほう」や「ソドムとゴモラ」で挫折する人が多いから。
源氏も須磨・明石で挫折する人が多いがあれに似ている。

2012/06/15(金)

人間関係も殺伐とエロス的なものの混交であるのは当然(このような二項対立的な
言い方、対比もまた何かわかったような気にさせると同時に何か隠蔽されちゃった、
そこから漏れ出るものの存在を感じさせる、かえってわからなくなるといった両面を
もつ。らっきょうの皮剥きみたいなもの。それを一挙に解決してしまうのがイメージ、
例えば密教やユングだと曼荼羅だったりするわけだが、それも本当は誤魔化しかも
しれないわけ。プルーストの場合だと隠喩に次ぐ隠喩、あーかもしれない、こーかも
しれないが、突き詰めるとあーでもない、こーでもないといった言い方を連ねて行く。
そうして長大な小説全体で伝えたいことを伝える。もちろん一生かかっても何万語
連ねても伝え切れるものでもないのだけど、論理的に要約されてしまうと違うんだよなー
という何かを伝えるためにあの長大な文字の連なりは存在するし、それは他の誰にも
書けないものだとまさに感じさせる。
それはとても魅力的。まさに天才のわざ。

アルベルチーヌが「掘ってもらいたい」というスラングを使い、
語り手がどきっとするシーンがある。精神分析家でもあるシュネデールは、女であるアルベル
チーヌに「掘る」と言わせていることに同性愛者プルーストを見出す。

シュネデールのプルースト論のタイトルは「母親殺し」なんだよね。
といってもこれは吉田城によるもので原題はママン(カミュの「異邦人」(よそもの)の
「昨日、ママンが死んだ」という冒頭部分も多少は意識してるんではないかと)
516吾輩は名無しである:2014/06/15(日) 19:40:29.26
2012/06/15(金)

プルーストの作品はまさに「私を私に還す」ということ。
もし、フロイトが生まれていなかったら、人間の心理の学問はプルースト的な
ものになっただろうという人もいる。

不徹底であるとか中途半端といった言葉が批判になるような価値観に
どうもなじめない。ある種の人はマジックワードのように使うんだけど。

たまに極論を考えるのは(SFのように極端な前提条件を設定してみたりして
タイムパラドックスやロボット三原則みたいな)思考訓練にはいいけど。
それで通せるわけがない。
徹底しようとすればらっきょうの皮むきになってしまう。言葉ってのはそういう
ものだと思う。
 
いずれにしてもプルーストを読むのは知的にも審美的にも快感ということ。
知的、審美的、快感とも人によって含みがちがうだろうが、印象論でなにが悪いというのもある。
言葉ってのはもともとそういう使い方をするもんだろうし、それでダメというなら結局別の何かに
譬えるか、具体例をあげる以外にないわけだし。その果てしない繰り返しになる。
プルーストはその譬え方とか具体例のあげ方がすぐれている。
普遍性ってのは、あーあるある、それわかるわー、と思わせるってこと。
普遍性が高い場合、プルーストの生育環境と自分の生育環境がかなり違っても
作品は光学器械として作用する。

>人間心理や社会の実態を知ろうとする場合、心理学や社会学の専門書を手にとるのも
悪くないが、私からすると『失われた時を求めて』には、そのような学問ですら気づきえない
、深い真実が語られているのである。

と吉川氏が言っている
517吾輩は名無しである:2014/06/15(日) 19:43:07.46
2012/06/15(金)

プルーストの読了を一種の秘儀・イニシエーションのように神聖視することについては、
高遠弘美が訳の1巻のまえがきで随分批判はしていたが、実際、世界の見え方が変わるような
インパクトを読了した際に自分も感じた。

心理学や社会学といった学問では気がつかない「深い真実が語られている」と無防備に言って
しまうと、曖昧な印象論だ、深さってなんだよ(すべては表象だよとか気どって言ってみたりね)、
真実ってなんだよ(ニーチェの「真理は誤謬である」を持ち出したりしてね)と突っ込まれかねないが、
俺は吉川一義の言っていることに素直に共感できる。

心理学・社会学でも真実を探求しているうちにある学問に辿りついてしまった、場合によっては創設
してしまった天才たち(例えば、後者ならウェーバーやジンメルかな)はやはり別かなとも思う。
要は、人間の心や行動、人間同士の関係に関わることだから(経済学でも同じだが)、専門書を
マスターしたからといって人間や社会がわかるわけないだろうという当たり前の事実がある。
心理学者・社会学者でもすぐれた人はそんなことは承知で研究をしていると思うけど。
小説だって、怠惰な文学部生よりへたすると読んでいるし。文学的天才の洞察力・先見性にはたいてい
敬意を払っている。
その面では吉川さんの言い方はプルーストを持ちあげるあまり、他の学問に対しナイーブすぎるとは
思うかな。

L’École normale supérieure
http://www.ens.fr/?lang=fr
518吾輩は名無しである:2014/06/16(月) 20:25:58.05
02/06/16

集英社の鈴木訳は全部買うと7万近くかな

03/06/16

失われた・・の登場人物でアジサイが似合う人といったら
誰を挙げますか?

フランソワーズ

お祖母さんかな?

2007/06/16(土)

まあ、俺は、かりに恋愛に興味のない人がいたとしても
プルーストは楽しめると思うのだが・・・
俺にとっては、そのくらいのキャパを持った小説に見える。

「本気で恋愛」云々には同意できるかもしれない。
実際問題、すでに過去に属する所有できないものを、
もう一度所有したいという欲求を目覚めさせること。
これにおいて「本気の恋愛」に勝るものはないと思う。

2009/06/16(火)

アルベルチーヌとできてたのはアンドレだった。
ジルベルトはレズなのかな?
夫のサン・ルーはホモだけどね。
519吾輩は名無しである:2014/06/16(月) 20:27:55.88
2012/06/16(土)

「断片化された世界」についてうまく説明できた文章があったのでコピペっとくいらねーってすまんね

たとえば、実際に行われた実験だが、なんて説明しよっかな。
「犬の散歩をしている人」の輪郭線だけが書かれているとする。そこに規則性のないような、ぐちゃぐちゃな線を何本か書く。輪郭線にも重ねて。
それによって「犬の散歩をしている人」と外側の空白はそれらの線によっていくつもの区画があることになるだろ?
で、そのいくつもの区画を別々の色で塗り潰す。
そうしてから、輪郭線とぐちゃぐちゃな線を消す。
そういった絵があったとしよう。

大体の人はそんなぐちゃぐちゃなただの色の配列を見ても、ごちゃごちゃな線ではなく「犬の散歩をしている人」という「枠組み」を読み取ることができる。
自閉症はこのようなテストで大体普通の人より平均点がすごく低くなる。

>元来一人称というものは、主体の意志や判断を陳述するものであるから、そこには
すでに三人称的客観 に変換される契機が存している。
>三人称的陳述は一人称的意志、判断を前提とする、
>ところが日本語では、…主体の意志・判断が絶えず相手を意識したものとなっている
>つまり主体であるべき話者(一人称)は、みずからを相手(二人称)にとっての相手(二人称)
として示すのである。これが「二項関係」である。それがもたらす事態は、一人称―三人称
という関係において「三人称的、客観的なものは、それ自体、一人称的なもの、主観的な
ものを中核として、それによって成立している」あるいは「客観に徹すれば徹するほど
主観性が確実になって来る」といった主観と客観のダイナミズムが生ずるべきところで、
それが生ずることなく二人称―二人称の相互篏入が生じてしまうことである。

クリステヴァが相当プルーストファンなのがわかると思う。
でわたしはその中のデュラスとプルーストとネルヴァルとか読んでみたんだが、読了できたのはデュラスだけだったわー。
520吾輩は名無しである:2014/06/16(月) 20:29:46.71
2012/06/16(土)

プルーストも、父親と弟(2人兄弟)が医者で、他人を臨床素材のように見ていた面もある。観察
の対象は別にすぐれた人でなくてよく、その辺にいる凡庸な人でいいという言い方もしている。
真実に触れる契機としての恋愛対象についてもそういった見方がでてくる。
ただ、母親はやはり別格的存在として扱われている(母親が別格なのは人間一般にとって当然で
それはプルーストの普遍性の原因のひとつだと思う)。
作品中では母は、母と祖母に分裂している。本来、母はアンヴィバレンツな存在だろうけど、ネガティヴ
な面(例えば、反抗期の反抗の対象だったり)はほぼ拭い去られ、例えば、家政婦のフランソワーズに
転移されていたりする。

>草は生い茂り、子供らは死なねばならぬ。

私は言おう、芸術の持つ残酷な法則、それは草が生い茂るために人びとがしんでゆくことであり、
われわれ自身もありとあらゆる苦悩をなめつくして死んできた、ということである。
忘却の草ではなく、永遠の草が生い茂るためだ。豊饒な作品がうっそうと茂る草だ。
その草の上に後の世代の人びとがやって来て、地中に眠る人たちのことなど気にもかけず、
陽気に彼らの「草上の食事」を楽しむことだろう。(鈴木 見出された時)
521吾輩は名無しである:2014/06/16(月) 20:31:48.26
2012/06/16(土)

井上訳(文庫10p618)も。

>ヴィクトール・ユゴーはいう、

   草は生え、子供たちは死なねばならない。

 私はこういおう、――芸術の残酷な法則は、人間は死ぬということ、われわれ自身も
あらゆる苦しみをなめつくして死ぬであろうということである、そのために忘却の草で
なくて永遠の生命の草、みのりゆたかな作品のしげった草は生え、その草の上に幾世代
もの人たちがやってきて、その下に眠る人々のことなどを気にもかけずに、たのしく自
分たちの「草上の昼食」をするだろう、と。

Victor Hugo dit : « Il faut que l’herbe pousse et que les enfants meurent. »
Moi je dis que la loi cruelle de l’art est que les êtres meurent et que
nous-mêmes mourions en épuisant toutes les souffrances pour que pousse l’herbe
non de l’oubli mais de la vie éternelle, l’herbe drue des oeuvres fécondes, sur
laquelle les générations viendront faire gaiement, sans souci de ceux qui dorment
en dessous, leur « déjeuner sur l’herbe ».

本日発売の岩波文庫の「花咲く乙女たちのかげにU」買ってきた。
解説、バルベックのモデルとなったカブールの紹介に頁を割いていたりで30頁以上あり
読み応えがある。
522吾輩は名無しである:2014/06/16(月) 20:34:14.39
2012/06/16(土)

http://helenegrnac.blogspot.jp/2011/01/blog-post_14.html

ところで、プルーストはなぜ語らせようとしなかったのだろう、
オデット、アルベルチーヌあるいはまたオリアーヌに…?  
彼女たちがいくら謎めいているといっても、また信頼するに値しないとはいっても、
どうして彼女たちの心の奥底におりていかないのか? 
なぜマルセルは心を通わせるという恩恵を、同じ血筋の誕生以来ともに暮らしてきた女たちにしか与えないのだろう? 
すべては主観の問題であり、頭の中で起こっているだけだということを、彼は実にみごとに明らかにしたのだが、
その彼が、彼女たちのことを知っていると本当に思っているのだろうか? 

プルーストが、シャルリュス男爵あるいはロベール・ド・サン=ルーのソドムの愛について、
より自由な気持で語っているとすれば、その反対に、アルベルチーヌやその仲間、
つまりバルベックの堤防の道でマルセルがはじめて出会った娘たちのような、
レスビアンのヒロインたちの同性愛に言及するときの、作者の口のかたさにはがっかりさせられる。
なぜ彼女たちの同性愛についてもっとよく知らせようとしなかったのだろう。

結局、語り手や作者が我慢できる唯一の女性的存在は、母親しかいないということなのだろうか?

アルベルチーヌの同性愛とシャリュルス男爵の同性愛の描写の量と濃密さって、
結構差があった気もする。
523吾輩は名無しである:2014/06/17(火) 20:25:15.74
03/06/17

6月19日(木)*正確には20日(金) 午前0時35分〜1時5分
フジテレビ 「お厚いのがお好き?」 超大作!プルーストの「失われた時を求めて」

ちなみに、先週はドストエフスキー「罪と罰」、先々週はソシュール「一般言語学講義」
を取り上げて、好評だったようだ。

2006/06/17(土)

「ノスタルジー」って単語とプルーストは
全然あわないな。

2007/06/17(日)

プルーストは、小説の文体とはテクニックの問題にあらず、作家のヴィジョンの問題である、
ってなことを言っている。

つねに刷新されるものでなければ文体と呼べたものではない、
みたいなことも言っていなかったっけ? 評論集だったかもしれないけど。

ここで言うヴィジョンというのは極めてパーソナルなもの。
したがって作家が変われば必然的に文体も変わってしかるべし
あるいは同じ作家でもヴィジョンが変われば文体もまた変わってしかるべし。
いずれ、文体の模倣は無意味、みたいな意味をこめた「刷新」ではないかと。
524吾輩は名無しである:2014/06/17(火) 20:26:51.14
2007/06/17(日)

停滞を斥け、たえざる刷新を望むのであれば、つねに先取りせねばならず、
しかしたえざる先取りは、周りまわって築き固めた土台を突き崩すことにもつながりかねない。
個人的な作家のヴィジョンが、もしもその刷新のリスクへと誘い寄せる元凶ならば、
あたかも北極星のようなものではないかと。そして頼りとなるそれを指し示す磁針こそ文体。
その無窮の揺れ動きに対する感受性こそ繊細さ。そのように思うわけです。

・・・思うわけなんですが、出所を明確に示さぬまま当て推量でものを言えば、
刷新と書きつけたとき念頭にあったのは、一作品における個人的な(私的)側面と
一般的な(公的)側面を合せもつ「無限旋律」のようなものではなかったかと。
きわめて誤解の多いでっちあげ概念ですが、そのように推測しています。

鈴木道彦にはプルーストは明快で分かりやすい作家という認識がある。
井上究一郎にはプルーストは混沌としていて迷宮のような作家だという認識がある。
ふたりの訳の違いはまさに『失われた時を求めて』に対する訳者のヴィジョンの違いを
反映している

Une heure est venue pour moi ou quand je me rappelle le baptistere,
devant les flots du Jourdain ou saint Jean immerge le Christ tandis que
la gondole nous attendait devant la Piazzetta il ne m'est pas indifferent que
dans cette fraiche penombre,a cote de moi il y eut une femme drapee dans son deuil
avec la ferveur respectueuse et enthousiaste de la femme agee qu'on
voit a Venise dans la Sainte Ursulle de Carpaccio,et que cette femme aux joues rouges,
aux yeux tristes,dans ses voiles noirs,et que rien ne pourra plus jamais faire sortir
pour moi de ce sanctuaire doucement eclaire de Saint-Marc ou je suis sur de la retrouver
parce qu'elle y a sa place reservee et immuable comme une mosaique,
ce soit ma mere.(Albertine disparue,III p225)
525吾輩は名無しである:2014/06/17(火) 20:29:09.62
2007/06/17(日)

上記の日本語訳(鈴木訳)
ゴンドラを小広場の前で待たせた私たちは、聖ヨハネがキリストに洗礼をほどこしているヨルダン川の水を
眺めていたが、いまその洗礼堂とモザイクを思い浮かべると、ひんやりとした薄明かりに包まれて私の
かたわらにひとりの婦人がいたことを無視するわけにはいかない。それを大切に思う時がやって来たのだ。
ヴェネッィアにあるカルパッチョの描いた「聖ウルスラ物語」のなかの年とった婦人のように、うやうやしくも
熱狂的な心をこめて喪服に身をくるんだ彼女は、頬を赤くし、悲しげな目つで、黒いヴェールをたらしている。
何物も彼女をやわらかな光に照らされたサン=マルコ寺院から外へ連れ出すことはできそうにないし、
まるでモザイクと化したように、そこに彼女用の不動の席が確保されているのだから、
今でもサン=マルコ寺院に行きさえすればかならず彼女に再会できるだろう。この婦人こそ私の母である。
「逃げ去る女」PP377-378

井上訳は、
私にはいまや1つの時が到来しているのだ。ーゴンドラがピアツェッタのまえで私たちを
待っていたあいだ洗礼堂にはいって聖ヨハネがキリストに洗礼をおこなっている
ヨルダン河の波のまえに自分が立っていたのを思いだすとき、あのつめたい薄くらがりの
なかで自分のそばに寄りそって1人の女性がいたことに自分で無関心をきめこみえない
1つの時が到来しているのだ、ーその女性は、人がヴェネチアでカルパッチョの「聖ウルスラ」の
なかに見る年とった女のように、尊敬と感激とに燃えて喪服に身をつつんでいた、そして赤い頬をもち、
悲しい目をし、黒いヴェールをおろした彼女は、サン・マルコ聖堂の、あの静かなあかりに照らされた
祭壇から、もうけっして私が勝手にそとへ連れだすことはできないけれど、モザイク画像のように
そこに不動の席をとってもらっているから私はいつでもそこにきて会えることがたしかであった。
その女性こそ私の母なのだ。井上訳「逃げ去る女」p331
526吾輩は名無しである:2014/06/17(火) 20:31:11.15
2007/06/17(日)

フランス語を勉強したことがあれば、原文と翻訳は全く違う言語を移したものと
分かると思う。この文も、三行目の il ne m'est pas indifferent (主語)の
従属節が、前半は過去時制で後半は現在形。 前半が、生前の母親を語り
後半は現在の「私」の心の中にあるイメージとして生き続けていることを示している文だからね。
そういう心象を語れば複雑にならざるを得ない。

一般的に、ダッシュに挟むパートというのは説明的であったり、
副次的に独立したものとして別個の文脈を持つものですが、
一つながりの文脈に挿入されたそのエピソードが、以前の文脈を
文脈を途切れさせることなく、ダッシュ前とダッシュ後と双方に流れ込み、
しかも挿入エピソードによって微妙に変質させられているというような
文章表現を最初に提示した作家は、おそらくプルーストではなかったかと思います。
ささやかなようでいて、特質の一つを示していることでしょう。

マグマというのは示唆にみちていますね。

(うろおぼえ)
たしか、マラルメのエッセイだったかに、トンネルを模したダッシュがあるんです。
縦書きの日本語訳には全く視覚的効果の期待できない表現の仕方ですが、
それは「l'epoque 時代」という名のトンネルなのだそうです。都市の地下を這いまわり、
貫き徹したそこにあるのは発着所(駅)、純潔なる中央宮殿という戴冠せる全能の。
527吾輩は名無しである:2014/06/17(火) 20:33:01.10
2009/06/17(水)

高遠訳「消え去ったアルベルチーヌ」読了

2日しかかからなかった。通常のものよりずっと短いから。

ただ、あまりにもカットしすぎのような・・・
語り手がアルベルチーヌからの(実はジルベルトからの)
電報を貰うところも、ジルベルトがサン・ルーと結婚するところも
カットするというのは如何なものかと・・・

2012/06/17(日)

中井久夫「日時計の影」

>もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になって
 いたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)
 先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、
 あるいはウィリアム・ジェームスか」……
 (「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」(『日時計の影』所収)
528吾輩は名無しである:2014/06/18(水) 19:19:33.85
03/06/18

アジサイは年配の雰囲気があるのかな。
ボリュームがあるから。

湿っぽさ翳りのある装飾的なところはヴァントゥイユ嬢。
印象派の絵に出てくる日傘を持った女性とアジサイって
組み合わせなら、結婚前のスワン夫人(結婚後はライラック)。
と思っていました。

アルベルティーヌを花にたとえるなら、野イチゴ?たまねぎ??
ジルベルトすずらん?
ヴィルパリジ婦人チューリップ?

2011/06/18(土)

Une heure n'est pas qu'une heure,c'est un vase rempli de pafums,
de sons,de projets et de climats.(A la recherche du temps perudu
Le Temps retrouve pp467-468)

一時間はただの一時間ではない。それは、匂いと、音と、計画と、気候が
いっぱいに詰まった壺である。(失われた時を求めて 見出された時 筑摩全集版
第十巻293頁)
529吾輩は名無しである:2014/06/18(水) 19:21:43.67
2012/06/18(月)

「失われた時」を読むとどうしてこんなとてつもない作品が書かれ得たのか
という驚きにうたれる。

そうなるとどうしてもプルーストという作家自身にも興味が向かうし、そんな傑作
がどうして生まれたのかという作品の成立の秘密(完全に解き明かされることなど
あり得ないけど)にも興味が向かってくる。

プルーストは確かに母親の死後、「サント・ブーヴに反論する」を経て、「失われた時」
の大作家に飛躍した。しかし、それ以前の若いプルーストにもまた後年の大作家の天才の
萌芽は存在していたはず。
「失われた時」読了後であれば、20代半ばの処女出版の「楽しみと日々」にしても興味を
持って読めるのではないか。
途中で放棄された「ジャン・サントゥイユ」はもちろんのこと、たとえ出版されていても若い
頃の作品を習作と読んでもあながち間違いではないのかもしれないけど。

「失われた時」はあまりに長大で、それにつきあったあとはお腹いっぱいになってし
まう面が確かにある。全集で読む際も、いきなり「失われた時」からはいった方がいい
ような気がします(1巻から順に読めば自然にそうなるように配列されてますが)。

あと、できれば吉田城『「失われた時を求めて」草稿研究』も。作品全体の主だった
部分について草稿研究のすぐれた成果、おもしろさを垣間見ることができるので。
530吾輩は名無しである:2014/06/18(水) 19:24:14.69
2012/06/18(月)

優れた長編小説はフルコースのようなもので、
前菜→スープ→魚→肉→冷菓→メイン肉→野菜→デザート→・・・と、
味の濃さから素材のボリュームまで、サブ料理からメイン料理に行く過程があるでしょう?
ずっとメインばかりだと飽きてしまいますから、地味な素材、味、見た目で「もっと食べたい」と後を引く軽い料理が必要です。

同様に、物語の構成もコース料理の様に、地味な場面から徐々に盛り上げて刺激の強い派手な場面に移行する過程があり、
読者を飽きさせない様に、作者はこの両方の場面をとっかえひっかえして入れ替え、話を作っていると考えられます。
この、地味な場面では読者は軽いまどろみに誘われる様な心地よい退屈を感じ、先が気になりつつ読み進める事になります。

森有正
必ずしもぴんと来ないところもあるのだけど、この作品に一種のリズム、波がある
ことは間違いないように思う。そして、それは自分の場合、読むたびにどうも箇所が
違うこともあるようだ。

RTPは、冬なら炬燵に入り手の届くところに、飲み物や御菓子をおき
ーできれば辞書も!−読む。夏なら縁側で、やはり寝っころがり、
クラッシュアイスをいれたグラスに麦茶をいれ、グラスが汗をかく頃、
呆然と読みふけるイメージだな

たしかドゥルーズも、「読書には二通りあって、それは読んで電撃にうたれるようなものと、
分析的に一語一句研究するものとがあって、私は前者の読書を素晴らしいと思う」と言ってましたが、
研究者でありながら電撃的な読書をする人もいるようです。
531吾輩は名無しである:2014/06/19(木) 18:59:31.50
02/06/19

ボク一応読んだけど、人に勧めるときは
「囚われの女」だけにしてる。
あの小説、どこから読んでもいいんだもん。
みんなそれは感じてるよね?
あとあれは買っちゃいけない本かもしれない。
図書館に篭るなり、三島よろしく借りるなり。

ヴィスコンティのシナリオ読んだけど下馬評どおりなかなかオツなものなのね。

03/06/19

俺は足掛け四年かかった。
ラブロマンスでもあり、家族小説でもありだ。
ただ、時間による人格の変遷が本質だとおもうよ。
ゲルマント公爵婦人の凋落やスノッブだったブロックが
名声とともに人格まで磨かれるなど。

2006/06/19(月)

横光利一は、プルーストを読んで小説制作に生かしていたはず。
532吾輩は名無しである:2014/06/19(木) 19:01:28.47
2009/06/19(金)

井上訳で「見出された時」を読んでいるのだが読みやすいのに驚いている。

みなさんは登場人物で誰が好きですか?
私はサン=ルーが気に入っています。
おばあちゃん、アルベルチームが好きな人がいますね。
サン=ルーは身軽でひょうひょうとしたところが気に入っています。
彼の批判的な視点、でもエスプリが利いてて軽く、戦争もエスプリにしてしまうところがいいですね。
最初のほうで、お気に入りが見つかると、その後どうなったんだろうと興味を持って読めますよ。
シリーズものの強みですね。日本のマンガの長期連載物と同じですね

2011/06/19(日)

精神科医の岡田尊司は、プルーストがコルクを張らせた部屋に閉じこもって執筆していたエピソードをあげ、感覚が繊細で、音、味、匂い、光、触覚といった五感のすべてに過敏なタイプのアスペに分類している(「アスペルガー症候群」幻冬舎新書、2009)。

「スワンの恋」でのコタール医師のような、共感能力に乏しく、相手の言ったことの裏を読み取れず文字どおりに解してしまう極端なKYタイプもまたアスペの一典型にみえる。岡田によるとアスペには何種類もタイプがあるらしい。

音に関する文章がアスペルガー臭いと思った

2012/06/19(火)

フランスでフランス文学といえば、フランス語で書かれたものは
哲学でも小説でもそこに含まれるのが当然。
たとえば文学史の教科書をみれば17世紀はコルネイユ、ラシーヌと同じ比重でデカルト、パスカル
がとりあげられるし、現代なら外国人によるフランス語文学も重要な位置を占めている。
たとえば、ゴドのベケット、リノセロスのイヨネスコ。
533吾輩は名無しである:2014/06/20(金) 19:27:50.76
03/06/20

『おあついのがおすき』(フジ)

この番組、糞ですな。企画者、スタッフ、キャスト、だれもよく読んでいないと見ます。
主旨を間違えてはいないか?
日産の宣伝か?
マドレーヌを紅茶に浸すというのを何故言わない?知らないのか?マドレーヌと紅茶を並べているだけでは駄目だろう。
浸すんだよ。
無意識的記憶のとこは、母親がキスをしてくれなかったこともいって欲しかった。

とにかく凄い作品なんだぞ、みたいな調子がちょっと鼻についたかな。
斬新だったなんてコトバ、古典読みなら口が滑っても言わないはずなんだけど。

不況であればあるほど「失われた時を求めて」が売れるってのには苦笑しましたヨ。

2009/06/20(土)

シャルリュス結構好きかも。
オレ自身はホモじゃないし、彼とソドムの関係にはなりたくないが、
同性の友人としてなら面白い奴かもしれない。
話者との会話読んでるとそう思う。

「ピュトビュス夫人の小間使いと友達になりたい」。
534吾輩は名無しである:2014/06/20(金) 19:32:39.38
2011/06/20(月)

岡田の新書でプルーストのほかにアスペとされている顔ぶれ

ビル・ゲイツ スティーブ・ジョブズ フローベール アインシュタイン
ダーウィン キルケゴール レオナルド・ダ・ヴィンチ 
ジョージ・ルーカス 本居宣長 エジソン アンデルセン
ウィトゲンシュタイン ディズニー 西田幾太郎
ガウディ ヒッチコック ブラームス ルイス・キャロル etc

アスペで天才や社会的・経済的に成功した人はおそらく一握りだろうけど

ところで、村上春樹「1Q84」パート3で、青豆が読んでいる
プルーストの5巻本、いったい誰の訳なんだろう
調べた限りでは、筑摩文学大系の井上究一郎個人全訳が唯一の5巻本だが
「囚われの女」「逃げ去る女」の収録された59A巻は1988年刊行で
1984年時点では存在しないことになってしまう

2012/06/20(水)

プルーストの長編の素晴しさは、ある意味で言うと、第三共和政期に最高の名門貴族ゲルマント家の没落過程と、他方、逆
に成り上がりの産業資本家やユダヤ人などが興隆に向かい、第一次大戦期には両者がはっきりと交代する有様を、小出しに
しながらと描いたことだと思います。前者の代表者は言うまでもなくシャルリュス氏。第一次大戦期には例の仕立て屋ジュ
ピアンとホモホテル共同経営するまでに落ちぶれる。一方後者の代表はヴェルデュラン夫人及び、話者の幼友達のジルベル
ト。前者は貴族の頂点ゲルマント大公夫人、後者もゲルマント公爵夫人=オリヤーヌの後継者となる。
535吾輩は名無しである:2014/06/21(土) 17:27:29.54
2005/06/21(火)

Illiers-Combray
に明日行ってくる!!

2009/06/21(日)

「見出された時」を読んでいるのだが、第3部の芸術論が超ムズだね。
頭から煙が出てきそうだ。作者が言ってることの半分も理解できない。

2011/06/21(火)

さてベケットのプルースト論でも語ろうか

由良君美が根本的な影響を受けた三つの本のひとつに上げていたなそういえば。

ベケットは評論というものをわずかしか書いてないからね。
ジョイスについてのものとか、ヴァン・ヴェルデのものとか。

292ページに
詩が数篇、ジョイス論、プルースト論(約70頁)、絵画論、
対話、手紙、小品ひとつ(被昇天)
が収められてるから、内容は盛りだくさんだよ。
536吾輩は名無しである:2014/06/21(土) 17:30:30.39
2012/06/21(木)

吉川訳だと3巻133−137頁
牛肉のゼリー寄せは一度食べてみたい。牛肉がスポンジのようになって
奥まで万遍なく肉汁を吸うよう、ゆっくり煮なければならないというのが
フランソワーズの持論。それで一流レストランをこきおろし、カフェアングレ
を持ちあげる。もうひとつノルポアを喜ばせたスフレについてはもっと単純
でクリームたっぷりが肝要みたい。

でもそれは長嶋茂雄の有名な「打つべきときに、打つべき球を打つ」
「ビューと来て、バシンと打つ」といった打撃論と同じで要領を得ない、
http://blog.livedoor.jp/netamatome/archives/3500162.html
すぐれた人はそのすぐれた秘訣を言葉で明らかにできないものだ(というより
したくないのだろう)といった感想を語り手は述べる。

一流レストランの味が1回行っただけで味わいきれたり、ましてや盗めたりするはずも
なく、結局、フランソワーズの生育環境や伝統的に受け継いできた料理法や味に近いもの
を賞賛しただけというのが真相だとは思われる。「贅沢じゃなくても、まあまあおいしい料理」

ジャンポールが誰だか気になる
ベルモンド、はたまた、笠井潔の矢吹駆シリーズにでてくる大男ベルベス警部
537吾輩は名無しである:2014/06/21(土) 17:32:06.86
2012/06/21(木)

一流レストランと同じような素材で似たような料理法を習得している人(他の一流
レストランのシェフ、宮廷料理人等)であればもちろんこれらは可能なのですが

これは俺の持論なのだけど、料理の場合、味わう側に徹するだけではなかなか
味わい尽くせない面があるように思う。
実際に素材やら調味料やらを使って、それらを場合によっては単独でシンプルな
形で調理し味わってみて、また、典型的なコンビネーションを試してみたり、時には
わざとポイントを抜いてみたりして(餃子にゴマ油を使わないとか)、はじめて各素材
の特質とコンビネーションの妙味は見えてくるような気がする。
もしかして小説もそんなところがあるのかもしれない。プルーストは「失われた時」
の本格的な執筆にとりかかる前に、ルモワーヌ事件を素材にさまざまな作家の
パスティーシュ(摸作)を試みている。
バルザック、ゴンクール、ミシュレ、ファゲ、フローベール、サント=ブーヴ、ルナン
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/137815/1/fbk000_025_149.pdf
また、古井由吉を高く評価している人は自らも小説の実作者である人が多いように感じる。

Le passé n'est pour nous qu'un triste souvenir ;
Le présent est affreux, s'il n'est point d'avenir,
Si la nuit du tombeau détruit l'être qui pense.

わたしたちにとって、過去は悲しい記憶でしかない。
現在はひどいものだ、もしも未来がないとしたら、
生きてもの思う人の心を墓場の夜が打ち砕くとしたら

Un jour tout sera bien, voilà notre espérance ;
Tout est bien aujourd'hui, voilà l'illusion.
いつかすべてはうまくいくだろう、これこそわたしたちの希望だ。
だが、今日ただ今すべて最善の状態にある、というのは幻想だ。
538吾輩は名無しである:2014/06/21(土) 17:33:58.59
2012/06/21(木)

フランス語って語彙がそんなに多くないから易しいんだよね
とくに17、18世紀の文章とか
そのかわり言い回しが現代に比べて持って回ったようなのが多い

プルーストの小説って夏目漱石の『猫』に似ていません。
その理由としてざっと思いつくことは
@ともに「資本主義の発展」で貴族(『猫』の場合は士族)の没落と、新興ブルジョワの発展を描いている点。
Aそこで資本家の代表としてヴェルデュラン夫人のことを挙げましたが、最初、読んだときにヴェル
デュラン夫人から連想されたのが「鼻子」でした。両者は驚くほどよく似ている。
Bおさんどんの問題。『猫』で猫を嫌いぬくおさんどんが出てきます。火消壷の中に猫を閉じ込めたりする。
しかし「アルベルチーヌ自宅監禁」でアルベルチーヌを猫に例える場面があります、そしておさんどん「フ
ランソワーズ」はアルベルチーヌの話者とモレルとの関係で陰日なたでころころ変わるのを備に見ていて、
事情を良く知り抜いて、アルベルチーヌを嫌いぬき「大金持ちのお坊ちゃんをうまくたらしこめた女」と呼
んで、事あるごとに邪険にしますよね。ともに自分のただ働きの時間が無用に増えるのを嫌がっている。
C覗き・ストーカーの問題。プルーストで話者の覗きが相手にわからない筈がないような状況でうまく隠し
おおせるようになっていますね。ところで猫も資本家の家に忍び入ったり、風呂の男湯の覗きの場面もあり
ますよね。

http://blog.goo.ne.jp/dicek-74/e/35100f582aba1246785c35e33f9c4fb9

外国語の習得に必要とされるのは,自分では知らないはずのことがふとわかってしまうという特殊な能力である。
この能力は,自分では知っているはずのことがふとわからなくなってしまうといういま一つの能力とともに,もっとも重要なことがらである。
日本語を語り,聞き,書き,読む場合にも発揮さるべきこの二重の資質を欠落させた人間は,決して言葉を肉体化することはできない。

いずれにしても、断片的かつ局部的な読み方のほうが生産的なんです。
プルーストの『失われた時を求めて』にしたって、
あれを読了して感動したというやつはバカだと思う。
何回も読んだという人いますけれどね。あれは断片で充分なものであって……。
539吾輩は名無しである:2014/06/21(土) 17:44:01.25
2012/06/21(木)

ドゥルーズなんか持ち出てるけど、
プルーストは、失われた時を「大聖堂」
のような緻密な構成をもつ作品と言ってるわけでね。
蓮実などのいうような「読みとおす必要のない作品」
なんていってない。

こういうことは吉田健一なんかも言ってたようだけどやはり乱暴だし
負け惜しみの気味があるよね。断片がいいというなら、どんな作品にたいしてだって
そういうことは言えるんだし、結局正面からきちんと作品と取り組むことから
にげているだけだよね。逃げるのは悪い手じゃないし、うっちー風に言うと「あり」なのは
もちろん。しかし読了するのがバカだというのは下らない言い草だなあ。
540吾輩は名無しである:2014/06/22(日) 17:59:51.59
04/06/22

質問!
この作品の「主人公」は誰でしょうか?

…てのが、プルースト研究では、議論の的になってたらしい、です。

特に主人公はいないと思う。
便宜的に「私」を「主人公」と呼んでいる人はいるけど、
「私」=語り手(≠主人公)という図式の方が、少なくとも私には理解しやすい。
スワンや祖母を挿話ごとの主人公とみなすことも出来るかもしれない。

ところで、主人公はあらゆる小説に必要なものなの?

2009/06/22(月)

井上訳「見出された時」読了。
感無量。
これにて「失われた時」全巻読了。

ハニヤユタカが面白いこといってたな。
プルーストは、花弁が散るにしても
一つ一つが散るのを初めて描写したと。

花が散るにしても、一つ一つの花弁が散るのをね
541吾輩は名無しである:2014/06/22(日) 18:02:10.69
2011/06/22(水)

「失時」は開かれたままの作品なんだよ。
ムージル「特性のない男」と同じように。

ムジールは完結させられずに放置したんだっけ?サルトル状態。
プルーストも無意識的にか、わざと完成させなかった気もするけど。

ムージルのほうは未完のまま力尽きちゃった。
プルーストは一度完成といえる形に仕上げながらも
もう一度6章を彫刻しなおした。
その意図はよくわからないね。
542吾輩は名無しである:2014/06/22(日) 18:03:58.81
2012/06/22(金)

完読するかしないかは、とりあえず「見出された時」のそれも一番終りの方
を読むと、全部読もうかという気になると思う。最初から順を追ってだと
メンター的な人がいないと挫折すると思う。

>あたかも人間は生きた竹馬の上に乗っているようなもので、その竹馬は
たえず成長してときには教会の鐘塔よりも高くなり、ついには歩行を
ひどく困難できけんなものにしてしまう。そして、やがてそこから人間は
一気に落下するのである・・・ (鈴木 見出された時)

完読した方が全体のパースペクティヴを得られるし、なによりプルーストは
私の読者は自分のことを読む読者だと言っているので、ブログの引用に惑わされずに
自分の感覚を信じたほうがいいと思う。

「紅茶」か。
ヴァントィーユのヴァイオリンソナタとマルタンヴィルの鐘塔の眺めか。
話者の頭の中で何度も繰り返される例のヴァントィーユの特定のフレーズ。マルタンヴィルの鐘塔とともに、最早ゲルマン
ト大公夫人の座を射止めたヴェルデュラン夫人(『失われた時を求めて』の鼻子)の館の入口の吹石で足を浮かせたときに同
時に話者が思い出したんですね。
お母さんが息子(勿論話者)の病弱に非常に神経質で。
543吾輩は名無しである:2014/06/23(月) 19:30:06.75
02/06/23

今日読み始めました。
とりあえず紅茶まで行きました。

ボクは著作において書かれたことと書かれなかったことの本質的な撹乱に成功
していると思うの。人がよくも音楽のことを考えたこともないまま彼の著作は
音楽に等しいみたく言ってしまうのはそこにある気がする。

2009/06/23(火)

この作品の特徴を、戦後、第二芸術論の話題に沿って「二流の文学」として議論がなされたんだよね。

2011/06/23(木)

近代文学の大作って、未完あるいは決定稿のないもの多いよね。
プルーストはもちろん、ドストエフスキーもカラマゾフは前篇だけ、悪霊はある意味未完成
ムジルの特性、サルトルの自由への道も、カフカに至っては作品のほとんどが未完。
そういう意味ではジョイスとセリーヌは偉いよ。
544吾輩は名無しである:2014/06/23(月) 19:33:37.14
2011/06/23(木)

ロラン・バルトの本を読んでいたら例のコルク張りの部屋の事が出ていたので引用しますね。

そんな彼がモデルにしていたのは、コルク張りの部屋に閉じこもり、煩わしい騒音に満ちた世俗の時間から切り離されて、
生きる事と描く事を極限まで一致させたマルセル・プルーストであった。バルトはおそらく、プルーストのように
書きたかったのではないだろうか。「小説の準備」をそのまま小説として書き連ねることで快楽を持続させ、
気の遠くなる程の長い準備が終った段階で、同時に小説それ自体もすでに書き終えていたプルーストのように。
これから書くべき作品のはじまりが、既に書き終えた文章の終わりと同時に生起するという奇跡を実現した
プルーストのように。
けれどもバルトの残した「小説の準備」はあくまでも講義ノートであり、彼にとっての「失われた時を求めて」には
なりえなかった。また、彼は「新生」と題されるべき小説のメモらしきものを別に数枚残してはいたが、
実際に書き始めるにはいたらなkった。そして「自分にはなぜ小説がまだ書けないのか」ということをひたすらに
二年に渡って語り続け、ついに小説を書かぬままで世を去った。バルトはこうして、作品を完成させず、
ひたすら準備段階にとどまりながら、何も選択する事なしに、ただ書く事の快楽を味わい続けたのである。

石井洋二郎の「フランス的思考」です。

2012/06/23(土)

comme si les hommes étaient juchés sur de vivantes échasses grandissant sans cesse,
parfois plus hautes que des clochers, finissant par leur rendre la marche difficile
et périlleuse, et d’où tout d’un coup ils tombent.

échasseで検索すると

http://www.youtube.com/watch?v=ITabN_TEik0
545吾輩は名無しである:2014/06/23(月) 19:35:05.56
2012/06/23(土)

À partir d’un certain âge nos souvenirs sont tellement entre-croisés les uns avec les autres que la chose à laquelle on pense,
le livre qu’on lit n’a presque plus d’importance.
On a mis de soi-même partout, tout est fécond, tout est dangereux,
et on peut faire d’aussi précieuses découvertes que dans les Pensées de Pascal dans une réclame pour un savon.

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、
いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。
われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、
石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。
(プルースト 「逃げさる女」 井上訳)
546吾輩は名無しである:2014/06/23(月) 19:37:42.74
2012/06/23(土)

井上訳
>すでに私自身の竹馬も、足の下にひどく高くなっていることに、私はどきりとするのであった。
すでにはるか遠くの下におりているあの過去を、そう長いあいだ自分につなぎとめるだけの力が、
まだ先にあろうとも思われなかった。しかし、せめてその力が、作品を完成するにはいくらか長
いあいだ、私に残されていたとすれば、まず欠かしてはならないのは、人間たちを(たとえモン
スター(怪物)のような存在に似させることになろうとも)、空間のなかにあてがわれているあの
ようにせまい場所にくらべて、逆に厖大な一つの場所を時のなかに占めるものとして、私の作品
のなかに描きこむことであるだろう。そうした人間たちは、多くの年月のなかに投げこまれた
巨人たちとして、あのように多くの日々がそこにはいってきて位置を占めたあのようにへだたった
さまざまな時期に、同時にふれるのだから、際限もなくのびひろがった一つの場所を占めることに
なるのだ、――時のなかに。                                         完

鈴木訳
>私は自分の竹馬もすでに足の下で非常に高く成長していると考えて慄然とした。もうこんなに
遠くまで下りていっているこの過去を、そういつまでも自分につなぎとめておく力があろうとは、
思われなかった。だから、もし作品を充分に完成できるくらいのあいだ、その力が私に残されて
いたら、かならずや私はまずその作品に、それが人間を怪物のような存在にすることとなろうと
も、途方もない一つの場所を占めるものとして人間たちを描くことになるだろう。空間のなかで
人間にわりあてられた場所はごく狭いものだけれども、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ
巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの時期は
互いにかけ離れれていて、そのあいだに多くの日々が入りこんでいるのだから、人間の占める
場所は逆にどこまでも際限なく伸びているのだ――〈時〉のなかに。              (完)
547吾輩は名無しである:2014/06/23(月) 19:39:34.18
2012/06/23(土)

「黒い太陽」を読んだら、ことのほか面白かった。
(笙野頼子「母の発達」も丁寧に再読してみた)
プルーストは直接にはちょこっとしか出てこないけど、ネルヴァルの詩(黒い
太陽が登場)の詳細な解釈等でてくる。

これ読み終えたら「プルースト 感じられる時」再読してみるかな。
なぜか三井寺のHPにブックレビューがあった
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/books/119.htm

フランス語だがこんなサイト見つけた。リンク切れが多いみたいだけど。
http://flecampus.ning.com/profiles/blogs/m-proust-ecouter-et-lire-a-la

ラ・ベルマのブロマイドを買うシーンを探していたら次の箇所が見つかった。

ベルゴットの天才について触れているのだけど、吉田秀和、あるいはプルースト自身が
最終巻で言及している「プルーストは私を私に還す」自分の作品は拡大鏡であると
いった箇所に対応する(前スレ 432−3、651あたり)。
エネルギーの絶対量でなく、エネルギーをある目的のために質的に方向転換する能力。
飛行機が自動車の水平方向のスピードを垂直方向に切り替え変換することによって、
空を飛ぶように。
作家の場合は「自分の人格に鏡のような働きをさせる能力」。

>しかしながら天才とは、いや傑出した才能でさえ、ほかの人より優れた知的要素や社会的
洗練から出てくるというより、むしろそれらを変形して移し替える能力から生まれる。
吉川3p280

Mais le génie, même le grand talent, vient moins d’éléments intellectuels et
d’affinement spécial supérieurs à ceux d’autrui, que de la faculté de les
transformer, de les transposer.
548吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 19:19:19.77
02/06/24

そんなプルースト愛者に贈る珠玉の名文をここに!
処女作「楽しみと日々」の序文です。
今日借りてきてちょっとショックを受けています。
「失われたときを求めて」の読書に少なからずの益をもたらすでしょう。
ここに開陳された終生つらぬいたとも思われる姿勢はプルーストの
大伽欖を構築するにはいみじくも弱く、美しいものです。
お好きなように役立てちゃってください。

一八九三年十月三日、
パリで死せるわが友ウィリー・ヒースに。
「君が眠る神の胸のうちより・・・・・・僕に真理を、死を司り、死を怖れさせず、
 むしろ死への愛を抱かせるあの心理をもらしたまえ」

昔のギリシャ人たちは、死者たちにお菓子と乳と葡萄酒を供えた。
より以上に思慮あるものとはいえないにせよ、より垢抜けのした幻想に
魅せられたわれわれは、死者たちに花々と書物を贈る。私がこの書を
きみにささげるのは、まず第一にこれが絵の書物であるからだ。
この書には、「架空話」が語られて入るが、かりに読まれないとしても、
少なくとも私に対し、気軽な気持ちで見事な贈物をしてくれた偉大な
閨秀画家(マドレーヌ・ルメール)を賛美する人たちによって注目されるだろう。
この閨秀画家については、デュマの言葉をかりるなら、
「神についで最も数多く薔薇を創りだした人」ということができよう。
ロベール・ド・モンテスキュ氏(フランスの詩人。1885-1921)もまた、
時に十七世紀を思い出させる例の格言風の精緻な雄弁と厳密な秩序をもって、
その未発表詩句のなかで彼女を讃えている。花について語りつつ、
彼は彼女に次のような言葉をかけた。
549吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 19:21:37.01
02/06/24

きみが絵筆にポーズをとれば、花を盛りと開かせる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
きみは花の詩人、花の女神
他の者が枯れさせるときに、きみは花々を不滅にする!
(1924年の版では「他の者」は「夜明け」となっている)
550吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 19:23:14.87
02/06/24

彼女の讃美者たちとは選り抜きの人たちで、数も多い。
しかし、私はその人たちの眼にまた一人の人間の名前が、
この書の第一頁においてふれることを望んだ。
それはこの選り抜きの人たちが知る機会に恵まれなかったものだが、
知ればおそらく讃美したに違いない名前なのだ。親しい友よ、
私自身でさえ、ほんの僅かの期間しかきみを知らなかった。
朝、私は君をしばしばブウローニュの森に見かけた。
私の姿に気づいたきみは、立ったまま、憩うようにして木蔭で私を待っていてくれたが、
きみはまるでファン・ダイク(フランドルの画家。優雅な肖像画を数多く描いた。1599-1641)
が描いた貴族たちの一人のようで、あの物思わしげな優雅さを漂わせていた。
実際彼らの優雅さはきみのそれと同じく、その衣服よりは肉体のなかに多くあるが、
その肉体自体、かつて霊魂より優雅さをうけたようにみえ、今もなおうけつづけているようにみえる。
それは精神の優雅さなのだ。あまつさえその場の一切のものが、ファン・ダイクが王のような
政策の歩みをその葉蔭に止めた、群なす木の葉の背景までもが、この哀愁をおびた類似を
際立たせることに協力していた。彼の絵のモデルとなった多くの人たちと同じく、
きみもまたじきに死なねばならなかった。彼らの眼と同様にきみの眼にも、
予感の影が宿るかと思うと締めの柔らかい光が差し込まれるのが見受けられた。
しかし、きみの誇らかな典雅さはまさしくファン・ダイクの芸術の持前であるとしても、
君はむしろその精神生活の神秘的な強靭さにおいて、ダ・ヴィンチに属するものだった。
しばしば指をあげ、秘めて語らぬ謎を前にして、測り知れない眼に微笑を漂わせたきみの姿は、
私にはレオナルドが描いたバプテスマの聖ヨハネと思われた。
その頃私たちは、愚劣さと悪徳と悪意から遠くのがれ、高潔にして選ばれた男女の仲間に身をおき、
相ともに高まる生にいきようとする夢を、いや、ほとんどその実践計画に近いものを立てていたが、
それは俗世の毒矢を避けたわが身を自覚するためだった。
551吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 19:25:10.20
02/06/24

きみが希望していたような生活とは、高度なインスピレーションを必要とするあの諸作品のうちの一つであろうか。
信仰とか天才といったものからと同じく、私たちはそうした生活を愛からも手に入れることができる。
しかしきみにそれを与える運命をもっていたものは死だった。死のなかにも、また死の周辺においてさえ、隠れた力、
人目につかない援助、生のなかに存在しない一つの「恩寵」があるのだ。
なれそめの頃の恋人のように、歌っているおりの詩人のように、病人たちはより近く自分たちの魂のそばにいることを
自覚するのである。生とは厳しいもので、あまりに人を激しく追いつめ、永遠にわれわれの命を痛めつける。
だから、一瞬その絆がゆるんだと思うとき、人は一望千里と眼先の開くさわやかさを感じることができるのである。
私がまだごく幼かったころ、私には聖書に出てくるいかなる人物の運命も、ノアの運命ほどには悲惨に思えなかった。
洪水のために、彼は四十年も方舟のなかに閉じこめられていたからだ。そのあと、私はちょいちょい病気をし、
同じように「方舟」のなかに引きこもっていなければならなかった。そのときになって私は理解した、
方舟は閉ざされていて、地上は闇であったにしても、ノアは方舟からみるほどには、この世を充分にみることは
二度とできなかったのだと。病も癒え恢復期に入ると、それまで付きっきりで、夜もそばを離れなかった母は、
「方舟の窓をあけて」出て行った。だが鳩のように「夕方にはまた戻ってきた」。そして私の病がすっかり癒えると、
鳩のように「再び戻ってはこなかった」。私は再び生活を始め、自己をみつめることを抛ち、母のそれよりも厳しい
言葉を聞かなければならなかった。それどころか、それまではいつもあんなにも優しかった母の言葉までもが、
もはや今までとは同じではなく、そこには彼女が私に教えなければならなかった人生の義務の厳しさの極印が押されているのであった。
552吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 19:28:52.08
02/06/24

洪水の優しい鳩よ、飛び立つお前の姿をみつめる家長のノアが、甦る世界の喜びに幾ばくかの悲しみが入り混っているのを
感じなかったと、どうして考えられようか?生きることを停止する快さ、仕事や悪い欲望を遮断する真の「神の休戦」
(十一世紀に行われたローマ教会の掟。水曜の夕方から、月曜の朝まで職を禁じた)の快さ。死の向こうにある実在に
われわれを近づける病気の恩寵――そして「あの空しい飾り付けや重たいヴェール」の特徴、うるさく取り付く手が
「念入りにとき束ねた」髪に特赦に他ならぬ病気の恩寵。われわれには、非常にしばしばわれわれの悲しみの顔とさえ思われ、
また、われわれのひ弱さが哀願した庇護に対する意志表示とも思われる母や友の優しく変らぬ、しかし病が恢復に向かえば
停止してしまうあの心づかい。方舟の鳩の、流人しそんであるきみたちのすべてよ、私はしばしば、きみたちが私から
あまりに遠くにいるのを感じて悩んだ。そして親しいウィリーよ、何人といえども、きみが今いる場所に落ち着きたいと
願うあの瞬間を、身にしみて感じたに違いないのだ。人はあまりに多くの契約を人生と結んでしまう。そのために
その一切をどうしても果たすことができなくなり、失望のあまり、死を――「実現し難い運命に手助けする死」を
呼ぶときがあるのだ。しかし死は、人生となした契約からわれわれを解放してはくれても、われわれが自分自身となした契約、
とくに、価値と善行の生を送るべくとり交した第一の契約からわれわれを解放してはくれないのである。

われわれのなかの誰よりも生真面目だったきみは、また、心の清さのためばかりではなく、
無邪気で快いその陽気さのために、誰よりも子供子供していた。私の羨望の的でもあったが、
シャルル・ド・グランセーは特異な才能をもっていて、高校時代の昔話をしては、突如よび起こしてくれたものだ、
決して長い眠りにふけってはいない笑いを、しかし今ではもう二度と聞くこともないあの笑いを。
553吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 21:01:27.33
02/06/24

これらの諸ページのあるものは二十三歳の折にかかれたものだが、他の多く(「ヴィオラント」や「イタリア喜劇断章」の大部分)
は二十歳のときのものである。そしてそのすべては、今では静まっているが、かつて波立ち揺れた生活の、空しい水泡にすぎない。
どうかいつの日かその水泡が澄みに澄み、ミューズらが己が姿をそこに映され、影をなす彼女らの微笑と踊りが、
水面の上を走りすぎていくのがみられんことを。

私はこの書をきみにささげる。ああ! きみは批判を恐れる必要のない唯一の友なのだ。
私は少なくとも確信している、きみを不快にさせる語調の奔放さなどはどこにもあるまいと。
私は不滅の魂を、デリケートな良心ある人たちにおいてしか、決して描きはしなかった。
だから、善を希望するにはあまりに弱く、悪を充分楽しむには品がよすぎ、
知っていることは悩みだけといった私は、彼らについて、ただ語ったのだ。
この繊細な試作品を浄化せずにはおかないほどに真心あふれた憐れみの気持ちをもって。
そういうわけで、この試作品に音楽の詩を寄せてくれたわが心の友(初版本にピアノ曲をつけたレーナルド・アーン)も、
他に並びなき詩の音楽をたまわった、名声高く、敬愛する御師(序文を書いたアナトール・フランス)も、
さらにまた、偉大な哲学者であるダルリュ氏も――文字よりもたしかに永続するものと思われる氏の天来の言葉は、
他の多くの人々の場合と同じく、私の内部に思想を生み出してくださった――この世に生うける人は、
どんなに偉大な人、親しい人といえども、誉れうけるのは死者のあとにおいてのみ、ということを思い出されて、
私がこの愛情の最後の証をきみウィリーに送ったことをゆるしていただきたい。

一八九七年七月

昨日読んでてふと思ったことなのですが
楽しみと日々が最愛の友、ウィリーに寄せられた弔辞だとすると
失われたときを求めては、プルースト自身への惜別の句という性格を帯びたものではありませんか。
「大伽欖の建設」は並べてもならないプルースト自身になされたものであると。
以前失われた時を求めてを読んでいたときにしばしば駆られた悲痛さは
この惜別にあったのではないかと思われるほどです。
554吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 21:03:49.29
2011/06/24(金)

プルーストは精神疾患があったようだ。詳細は、吉田城・吉川一義他の
文献を参照のこと。

2012/06/24(日)

元旦に、話者がラ・ベルマの写真を買うくだり 吉川3p139−40
「他者の欲望を欲望する」の典型といってもよいかな。

そのときフランソワーズが自分のお年玉に買ったのがピウス九世とラスパイユの写真。
ローマ教皇と共和派の政治家(細胞学の先駆的な化学者でもある)。教皇や政治家の
ブロマイドも一緒に売られていたのか。吉川訳注には「フランソワーズにおけるカト
リックの信仰と共和主義の共存を示すためか。ただし続篇では「王党派」とされる」と
ある。

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/137913/1/fbk000_032_177.pdf

ママンは、書くことへの導き手でもなく、奨励者でもなかった。息子が女優ラ・ベルマの演
じる『フェードル』を観に行くことに対し、母親がどれほどはげしく反対したかを見れば十分で
あろう。彼女が恐れるのはライバルになりそうな女、あの「金色の声の輝き」ではない。母が許
せないのは、息子が「考えもおよばないようなイメージ」のように、何か自分とはちがうもの、
自分は知らないが息子が発見したいと望むもの……「目に見えないその形がそびえている、まさ
にその場で暴かれる女神の完壁な姿」……を「隠れて」よそに探しに行くことなのだ。母親のよ
うに「急にはるかへお発ちになるとやら……〔ラシーヌの『フェードル』からの引用〕」と朗々
と述べるラ・ベルマを超えて、マルセルが探しママンが推察するものは、別のオブジェ、別の無
限なのである。
555吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 21:08:51.77
2012/06/24(日)

>もっともこの顔自体は美しいとは思えなかった。それでも私がそれに接吻することを
考え、どうしても接吻したくなったのは、この顔が多くの接吻を受けてきたはずだから
であり、「名刺判ブロマイド」の奥からあだっぽく優しいまなざしと巧みに天真爛漫に
見せかけた微笑みとを投げかけ、今も口づけを迫っているように思えたからである。と
いうのもラ・ベルマは、フェードルという作中人物に託して告白するあの欲望を実際に
も多くの若い男に感じているはずで、美貌に名声という威信まで加わって若さが保たれ
ている以上、欲望を満たすのはごく簡単なことにちがいないと思えたからだ。

Ce visage, d’ailleurs, ne m’eût pas à lui seul semblé beau, mais il me donnait
l’idée et, par conséquent, l’envie de l’embrasser à cause de tous les baisers
qu’il avait dû supporter, et que, du fond de la « carte-album », il semblait
appeler encore par ce regard coquettement tendre et ce sourire artificieusement
ingénu. Car la Berma devait ressentir effectivement pour bien des jeunes hommes
ces désirs qu’elle avouait sous le couvert du personnage de Phèdre, et dont tout,
même le prestige de son nom qui ajoutait à sa beauté et prorogeait sa jeunesse,
devait lui rendre l’assouvissement si facile.

>「どんなに賢明な人でも」とエルスチールは私に言った。
「青春のある時期に、想い出しても不愉快で抹消したくなるような言葉を口にしたり、
そんな人生を送ったりしなかったものなど、ひとりもありません。しかしそれはひたすら
後悔すべきものでもないんです。まずはありとあらゆる滑稽な人、忌まわしい人になった
あとでなくては、なんとか曲がりなりにも最終的に賢人になどなれるわけがありません。・・・・

(吉川 花咲く乙女たちのかげにU p477)
556吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 19:28:52.73
03/06/25

大学の時、佐々木涼子というプルースト研究では有名な人の読書会に
入っていてこれがスッごく面白かった。(テキストは原文だったのだけど)
それでプルーストを読もうと思い、日本語訳(井上)を全巻読破。
ドストエフスキーは途中で挫折するのにプルーストは今でも何度も読み返す。
抜粋して読んでもイケる。

2011/06/25(土)

都市生活者としてのプルーストをみると、パリという都市は
今の日本のように、住む人にとって負荷がかかる街で、そこに
住む人たちが際立って特性が浮かび上がることから、
A la recherche du temps perduが生まれたのか?

思ったんですけどプルーストの話は思想的に凝り固まってないから読みやすいです。
同じ長編でもドストエフスキーの大審問官とか、ムージルの可能性感覚なんかは概念が難しくて、
何度も読み直したりして、解説書も読んでやっと理解しました。

「失時」の作品生成を考える上で最も重要なのは何だと思う?

その答えはttp://www.bnf.fr/fr/acc/x.accueil.html
に行ってきな。ただし、研究者として認知されてなければ
プルーストの生原稿、タイプ原稿他を見ることは出来ないけどな。
557吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 19:59:23.13
2012/06/25(月)

母親ってのは息子が自分にとって得体の知れない天才になることを決して欲しない。
文学者として世間的に尊敬される・安定した高収入の俗物になる(例えばノルポアのような)
ことを望むだけ
母親はそれで安心し満足する 息子がその天才を開花させる代わりに苦悩と冒険・賭けを
しなければならなくなるようなファム・ファタルに出会うことも欲しない。
本気で作家になろうとすれば、息子は母親を裏切り、象徴的に殺さねばならない。

ファム・ファタルと母の関係あまり意識してなかった。
ユングの元型と照応させるとファム・ファタル=アニマ、母=グレートマザー
とおそらく漠然と捉えていた。
で、アニマだって母とは全く違うものではない。
母はそこから自分が生まれてきた存在としてあまりに特別な存在。
たぶん、結論としては、ファム・ファタールは母と同じものだが別ものと
いったことになるだろう。

カミール・パーリア「性のペルソナ」で、「母親」と
「宿命の女(ファム・ファタール)」であると両者が対比されているみた
い。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100522/1274531264

母親の主人公への支配ってこんなに徹底してたっけ。忘れていました。
息子が出会う女性への嫌悪や嫉妬の感情っていうのは普遍的なものですね。
558吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 20:01:25.48
2012/06/25(月)

鹿島茂「悪女入門 ファム・ファタル恋愛論」(講談社現代新書)
フランス文学におけるファムファタルの例が取り上げられる。
RTPでのスワンにとってのオデットはじめナナ、マノン・レスコー、
ナジャ、マダム・エドワルダ等

リアルでのファムファタルの代表的存在としては、ルー・サロメ(ニーチェ、
リルケ)、アルマ(マーラー)なんかがすぐ思い浮かぶ。
ルー・サロメすごいや
http://www.geocities.jp/takahashi_mormann/doitsu/louandreassalome.html

プルーストとの関連では、プルーストが、マタ・ハリに言及したことが
なかったか気になっています。

クラインもクリステヴァもいいところまできて「母の愛」に逃げる。
まあ両者母だから仕方ないけど。
アナはレズだったんだな。

ノイマンのグレートマザーでは縦横に母度、アニマ度みたいな軸つけて説明してたな。
M軸A軸って。

フロイトは言った。
「性関係には四人いるとわれわれは考えなければならない」
これは「転移のある会話」すべてに適用されることだが(ラカンの四つのディスクールはその上で考えなければならない)、
AとBが「性関係」あるいは「転移のある会話」をしているならば、
AとAの脳内Bと、BとBの脳内Aと、そこには四人いることになる。

この四人がなぜ二人になるのかがわからん。
わたしが正常になれないところである気がする。
559吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 20:30:08.45
2012/06/25(月)

自己愛と自体愛の違いってのもあるんだよな
自己愛は欲望主義的だが、自体愛は欲動主義的

そして欲望ではない欲動に、科学的態度の原因があるように思える。
ジジェクなども科学のことを「欲動のディスクール」などと述べている。
欲動であれば他者がいればそれは欲望になるので、論理的にそれはディスクールとは言えないが。

母親がむきになってラ・ベルマから息子を引き離そうとすればする程息子は女優にのめり込むのは、
心理学ではブーメラン効果と呼ぶんじゃないですかね

http://health.goo.ne.jp/mental/yougo/032.html

そもそもプルースト自身が過ぎ去った自分はもはや自分でなく他者ないし死者であることを
強調する作家だし(自我の統一性・一貫性の否定)。

http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/231ca2e806856deace94c1fa6ac4f33f

Je l’aimais, je regrettais de ne pas avoir eu le temps et l’inspiration de l’offenser, de lui faire mal, et de la forcer à se souvenir de moi.
Je la trouvais si belle que j’aurais voulu pouvoir revenir sur mes pas, pour lui crier en haussant les épaules :
« Comme je vous trouve laide, grotesque, comme vous me répugnez ! »
Cependant je m’éloignais, emportant pour toujours,
comme premier type d’un bonheur inaccessible aux enfants de mon espèce de par des lois naturelles impossibles à transgresser,
l’image d’une petite fille rousse, à la peau semée de taches roses,
qui tenait une bêche et qui riait en laissant filer sur moi de longs regards sournois et inexpressifs.
560吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 20:36:25.33
2012/06/25(月)

A:井上究一郎訳

私は彼女を愛していた、あのとき彼女の感情を害するか、彼女を不快にして、むりにも私のことを彼女に思いださせようとするそんな余裕も妙案もなかったことが残念に思われた。
彼女はいかにも美しく見えたので、あともどりして、両肩をそびやかしながら、こういってやればよかったのだ、
「なんてきみはみにくくて、グロテスクなんだ、ぞっとするぜ!」
そう思いながらも私は遠ざかっていった、――シャベルを手に、ずるそうな、何をあらわそうとしているかわからない視線を、
長く私の上に走らせながら笑っていた、皮膚にそばかすがちらばっている、赤茶けた髪の少女の映像を、犯しがたい自然の法則によって、
私のような種類の子供には近づくことの不可能な一つの幸福の最初の典型として、永久にはこびさりながら。

B:鈴木道彦訳

私は彼女を愛していた。彼女を侮辱し、いためつけ、こうしてむりやり自分のことを記憶にとどめさせたかったが、それをする時間の余裕もなく、またうまい方法も浮かばないのが残念だった。
彼女はとても美しく見えたので、私は引き返して肩をそびやかしながらこう叫んでやりたかった、
「なんて醜い、グロテスクな女だろう。きみを見るとぞっとするよ!」
しかし私はその場から遠ざかった。赤褐色の髪の毛をしてバラ色のそばかすが皮膚に点々とついていた少女。
シャベルを手に持ち、陰険で無表情な視線をずっと私の上に走らせながら笑っていた少女の面影を、
背くことのできない自然の法則の名において、私のような子供には近づけない幸福の最初の典型として、永久に胸にたたんで持ち去りながら。
561吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 20:39:25.97
2012/06/25(月)

C:高遠弘美訳

私はジルベルトに恋していた。彼女を侮辱し、痛めつけ、むりやり私のことを記憶に刻みつけさせる余裕も、それにそもそもその発想もなかったことが残念でならなかった。
ジルベルトはなんてきれいなんだ。そう感じていただけに、すぐに取って返し、肩をすくめて大きな声で、どれだけ叫びたいと思ったことだろうか。
「なんてあなたは不細工なんでしょうね。笑ってしまいますよ。まったく厭になるほどです!」。
しかし、実際は私はその場所から離れて行った。
犯しがたい自然界の掟によって私ごとき子どもには近づくことが許されぬ幸福の最初の現れとして、
薔薇色の雀斑をあちこちにこしらえた赤みがかったブロンドの少女、スコップをもち、笑いながら、
陰険で何を訴えているかわからない眼差しを長い間私に注いでいた少女の面影を永遠に胸にしまいながら。

D:吉川一義訳

私はジルベルトを愛しており、相手を侮辱し、辛い想いをさせ、無理やり私のことを覚えているように仕向ける暇も発想もなかったことが悔やまれた。
なんてきれいな娘だと思ったからこそ、できることなら引き返して肩をそびやかし、
「なんて不細工で、滑稽な女だ。お前にはぞっとする」と叫んでやりたい気持ちだった。
こうして遠ざかりながら私が永遠に心に刻みつけたのは、
背けない自然の掟から私のような子供には近づけない幸福の原型として、赤毛で、バラ色のそばかすの肌をした少女が、
スコップを手に笑いながら、陰険な表情のないまなざしで私をじっと見つめているイメージである。
562吾輩は名無しである:2014/06/26(木) 00:59:21.27
「失われた時を求めて」未読ですが、
サルトルの「嘔吐」をなんとか楽しんで読めるぐらいの読解力があれば読めますか?
563吾輩は名無しである:2014/06/26(木) 19:18:36.40
03/06/26

気楽に再読するってわけに行かないのが難点だね。
ただ、ツマミ読みをするのも楽しい、
もちろん一回読んだ後の話だけど。

金持ち階級の人が主人公なんでしょ?
それがひっかかって読もうと思わないのですが、面白いもんなんですか?

舞台は社交界であるが、主人公自身はさほどの金持ちではない。
フランソワーズという召使をやとってはいるがな。

働かなくても暮らしていけるってのがすごい。

2005/06/26(日)

吉田城がお亡くなりになりました。

2011/06/26(日)

馬塞爾・普魯斯特『追尋逝去的時光』「去斯万家那辺」
「貢布雷」、「斯万的愛情」
ttp://www.kotensinyaku.jp/blog/2011/06/5-2.html

ttp://expositions.bnf.fr/proust/grand/298.htm
これがプルーストの校正原稿、このようなものをベースに
生成研究をやる
564吾輩は名無しである:2014/06/26(木) 19:21:57.88
2012/06/26(火)

grotesqueをそのままグロテスクとするか笑ってしまう、滑稽なと訳すかで随分印象が
変わる
laidを醜いと訳すか、不細工と訳すかによっても

グロテスクの方は日本での外来語のニュアンスに汚染されているのでかえって日本語
に変えた方がいいという考慮が新たらしい訳にはあるのかもしれない。
訳って、うっかりすると先人のと全く同じになってしまいかねない
先人の訳があまりぴったり来すぎていると、無理に別の日本語をあてて劣化させてしまう
ことも生じる。

それにしても、ここのくだりは最初読んだとき、語り手ってなんでこんなひねくれているんだろう
と思った
「ずるそうな、何をあらわそうとしているかわからない視線」(井上)「陰険で無表情な視線」(鈴木)
「陰険で何を訴えているかわからない眼差し」(高遠)「陰険な表情のないまなざし」(吉川)
がずっとあとになって、実はこの美少年とエロいことしたいわあ、という欲望の視線であったことが
中年になった彼女の口から明かされるのにはどぎもを抜かれた。
プルースト自身はこの伏線を回収はしていたものの出版前に死んでしまうわけだし。
565吾輩は名無しである:2014/06/26(木) 19:23:57.78
2012/06/26(火)

退屈といえば退屈かもしれない。
次から次へと、バルベックで出会った人々のプロフィールが描写されるけど、
それはあとの巻になって生きてくるものも多い。

ヴィルパリジ夫人が、やけに語り手の父親の旅行中の動向に詳しいのを
語り手が怪訝に思うシーンがある。
「官房長」である父親は、ノルポワを連れに旅行していた。
ずっとあとの巻で実はノルポワと夫人が愛人関係で頻繁に会い、連絡をとり
あっていたからであることがわかるのだけど、
そこを読んでからでないと、こんなシーン忘れてしまう。p144−145
この小説は再読すると何倍も楽しめる。

ひょっとしてゲルマントはもっと退屈に感じるかもしれんけど、是非、最後まで
辿り着いてほしいです。
566吾輩は名無しである:2014/06/26(木) 19:25:33.73
2012/06/26(火)

>ところが当時の私のばかげた年齢――思春期という、ちっとも不毛ではなく、じつは
豊饒な年齢――の特徴は、知性の言うことには耳を傾けず、人間のどんなに些細な属性
をもその人物の切り離しえない一部と考えてしまうところにある。さまざまな怪物や神々
にとり巻かれ、心の落ち着く間はほとんどないのだ。そのころにやった行為で、あとで
取り消したいと思わないものはほとんどない。ところが心残りに思うべきは、その反対
に現在のわれわれには、そのような行為に走ったときの自然な反応のもちあわせがもは
やないということである。人は年齢を重ねると、ものごとをいっそう実務家の目で、社
会のほかの人たちと完全に同調して眺める。しかし思春期こそ、人がなにかを学びとっ
たといえる唯一の時期なのだ。吉川4p204−205

Mais la caractéristique de l’âge ridicule que je traversais – âge nullement ingrat,
très fécond – est qu’on n’y consulte pas l’intelligence et que les moindres
attributs des êtres semblent faire partie indivisible de leur personnalité. Tout
entouré de monstres et de dieux, on ne connaît guère le calme. Il n’y a presque pas
un des gestes qu’on a faits alors qu’on ne voudrait plus tard pouvoir abolir. Mais
ce qu’on devrait regretter au contraire c’est de ne plus posséder la spontanéité
qui nous les faisait accomplir. Plus tard on voit les choses d’une façon plus
pratique, en pleine conformité avec le reste de la société, mais l’adolescence est
le seul temps où l’on ait appris quelque chose.
567吾輩は名無しである:2014/06/27(金) 19:48:12.56
02/06/27

「失われた時を求めて」はヴィスコンティにしか表現できない気がしてね。

2009/06/27(土)

「マッチを〜時計を〜」のくだりで鈴木訳を選んだが、やっぱり井上訳に買い直した。

2011/06/27(月)

軽井沢に避暑、プルーストが似合う。
上高地にはドイツ哲学。
湘南にはヴァレリーで決まり。
マール産シャンパーニュにハバナのダビドフを燻らせつつ、
妖精女王を読む。今年の夏はこの退官した老教授スタイルでいいね。

一回目が鈴木の水色の、挿絵が可愛いセット本。二回目が鈴木訳の上下巻です。
県立図書館で借りたらセット本がフランス文学の棚にあって、市立図書館で借りたら書庫から上下巻が出されました。
県立図書館のフランス文学コーナーでは他に「壊れ行く女」とか「謎の男トマ」とかがあって、色々借りました。
市立図書館は殆ど趣味の本と日本の現代小説ばかりです。あまり借りるものがありません。

時間と言えばハイデガーなんかも読みました。四冊ぐらい読んだなあ。本の名前は忘れたけど。
おぼろげに覚えている所では、
それまではニーチェとかニュートンとかが時間を空間化して表したのに対して、ハイデガーは、
それらの空間的な時間把握を否定して、「時は時熟する」と語ったんですよね。
その場に堆積しつつ積もって熟して行く時間です。
ハイデガー偉大な思想家ですが時代の影響で、うっかりナチスに加担してそれについて苦悩したり、
人間臭い一面もあります。
568吾輩は名無しである:2014/06/27(金) 19:53:56.12
2011/06/27(月)

私たちは大きな家に住むようになったが、家族はどんどん小さくなっている。

より多くの便利さを得るようになったが、ますます時間に余裕がない。

私たちは多くの学位を得るようになったが、感覚は衰えている。

より多くの薬を持っているが、健康な人は少ない。

私たちは月までも行けるようになったが、新しい隣人と出会うこともままならない。

より多くの情報を得るようになったが、心からの交流を持つ機会はますます減っている。

2012/06/27(水)

RTPでは、スワンがオデットにベルデュラン夫人とレスビアンの関係にあったのかを
執拗に問い詰めたり、語り手が、アルベルチーヌが死んでからまでも、エメ等に彼女
の生前の行動、ことにレスビアンの関係にある相手がいなかったかを大金を与えて
詮索させたりしている。
それは嫉妬心あるいは支配欲・所有欲の現われといってもいいんだろうけど、相手が
自分と違う物語を生きていること、ことに端役を演じさせられているにすぎないことが
耐えられないからと言い換えることもできる
プルーストでは、その耐えられないと感じている自分が死に絶え、別の自分になっていく
過程も繰り返し語られる。永遠の恋愛など決して存在しないという諦観と、でもそのことに
対する寂しさもまた。
569吾輩は名無しである:2014/06/27(金) 20:07:13.89
2012/06/27(水)

母と息子という物語では、息子は母の物語にとっても主役のはずという確信・信頼を持てる。
(プルーストの家庭は欠損家庭とは思えない。ただ、母は父よりかなり若かった)

父とか弟ってのが他の主役候補・ライバルとして存在しているが、RTPでは父の影は薄い
ところがある(母は父が、天気や地図が読める、方向感覚があることをひたすら賞賛しては
いるけど。コンブレーでの家族3人での月夜の散歩のシーン等)
また、リアルのマルセル君にはロベール君という弟がいたが、RTPでは、語り手は一人っ子
という設定に最終的に落ち着いている。

恋愛の場合は、相手にとっても自分が主役(互いにヒーロー・ヒロイン)という確信が原理的に
持てない。途中で降板、交代なんてのもあるし。

「プルースト的な心理学」なら、現代の支持療法的心理療法になるんじゃないか。
ラポール重視みたいな。患者のリビドー備給を最大限に支持する治療。
「それはあくまで物語だ」とするのはナラティブセラピーっぽいな。
むしろフロイトは転移などといった恋愛的心理も研究したわけで、それをしてこなかったのが哲学系の心の心理学だが
(恋愛的、感情的心理に対する考察はまったくないとは言えないが添え物程度。哲学に伝統的な理性主義というか)、
この対比で言えばプルーストはフロイトよりなんじゃねえの。
570吾輩は名無しである:2014/06/27(金) 20:18:33.71
2012/06/27(水)

転移ってのはそれこそ幻想だから、科学的に解明していくと解体されることでもある。

ある村に幽霊屋敷と言われる家があった。
そこに技師が移り住んできて、その話を聞きつけた。
科学的立場に立つ彼は幽霊屋敷を調査した。当然のことながらただの廃屋であることがわかった。
彼はそれを村人に伝えた。
彼は村八分された。

村人達側からすれば、ただの廃墟ではなく幽霊屋敷だとすることで、肝試ししたり、それで好きな子といい感じになったりと、
青春の一ページみたいなものだったりするだろう。
それを「ただの廃墟」とされるのは、自分が生きてきた物語を否定されることになる。

ナラティブセラピーは、まあラカン論みたいに論理的構築が非常に曖昧で、手法論でしか述べられてないけども、
目の付けどころというか、それが要点にしていることは実はかなーり「人間という病」の真理に近付いていると思う。
そういった意味で「青い鳥」みたいなものかなと。
普段はなんでもないようなことが、幸福の真理だった、みたいな。

支持療法的心理療法はすべて宗教・自己啓発セミナー的だと言えばそういうくくりも承認するが、
そういうくくりの中でもナラティブセラピーは、聖書などといった物語を信じている側がそれを押し付けるのではなく、
患者自身が最初から持っている物語を外部から支持するという点が、微妙に違うと思われる。

ジャック・リヴィエールをはじめ、フロイトとプルーストは早くから
対比されていた。ただし、プルーストはフロイトを読んでいなかった。
http://www.lib.tezuka-gu.ac.jp/kiyo/rTEZUKAYAMAGAKUIN-UNI/r40PDF/r40Woo.pdf
571吾輩は名無しである:2014/06/28(土) 18:44:07.66
2011/06/28(火)

名無しのいやがらせねえ。病人のやることと思うしかないよねえ。
小林秀雄も多くの病人、精神異常者とつきあう経験をもって、それを
人格的成長の糧にした、みたいなこと書いてたから、そういう嫌がらせ
だって、成長の糧にしようと思えばできないことはないのさ

「ゲシュタルト」という心理学的概念を応用した古典的SFといえば
スタージョンの「人間以上」を想起するなあ。 

日本にゲシュタルト心理学が紹介されたのは、ゲシュタルト心理学の創始者
のひとりであるヴォルフガング・ケーラーの弟子である佐久間鼎によるそうな。

小林秀雄が1931年に書かれた「心理小説」という時評のうちで、ゲシュタルト
概念に言及してるね。 ジョイス、プルーストについても言及されてるな。
ゲシュタルト概念は、まずは「意識の流れ」派の心理小説を解釈するための
武器として利用されたらしい。

「人間以上」が書かれたのは、1953年だそうで、それよりも20年くらい後の
話か。

日本に紹介されたゲシュタルト心理学についての本をいち早く読んで
それをジョイス、プルーストの純粋心理小説の批評に応用してみたわけ
ですな小林は。

私はどちらかというとプルーストの泡粒のようなたわいないおしゃべりよりも、
ドストエフスキーの描くような重厚で泥臭く悲惨な群衆劇に心を奪われる方なんです。
正直サロンでの噂話や甘美な恋愛などには興ざめしながら読み進め、
同性愛を植物の自家受粉に例えてさまざまな同性愛の逸話が語られる所とか、
血だら真っ赤になった瀕死の祖母の頭部にたかる何十匹のヒルの所とか、
戦争で野蛮な兵士たちに殴られて出血するシャルリュス氏を見て興奮していました。
572吾輩は名無しである:2014/06/28(土) 18:46:43.64
2011/06/28(火)

戦争中に男娼窟に通ってたってんだから大したもんだよ。
両親だか祖母だかの思い出の詰まった大切な箪笥をいかがわしいホテルにあげちゃったとか。

2012/06/28(木)

舞台に立つ者と観客との関係。
ラ・ベルマのような大女優も、なんちゃってアングラ前衛女優のラシェルも舞台には立つ。
人気というものが他者の欲望を欲望する連鎖反応によって引き起こされるのは真の天才女優も娼婦と
紙一重の自称女優も同じ。天才の天才たるゆえんを見抜いている者なんていつの時代にもそんなにいない。
だから、天才が不遇をかこち、はったりのニセモノの方が人気を博することもある。
大衆に他者の欲望を欲望する連鎖(臨界)反応を起こさせた者勝ち。

「見出された時」では、すでに死病に取り憑かれているラ・ベルマのお茶会に1人しか客が来ず、その1人も
ラシェルがゲルマント邸で朗読パフォーマンスを催すことをたまたま知らなかっただけで、それを知って
からはしまった、あっちへ行けばよかったとずっと気もそぞろで早々に帰ってしまう。ラ・ベルマの娘夫婦まで
本当はラシェルを見に行きたいのを我慢して母親に付き合っている。客が帰るや、母親を置いて、ラシェルに
会いにいそいそと出かけてしまい、しかもラシェルから屈辱的な扱いを受ける。
ラ・ベルマはそんな娘夫婦に贅沢をさせるために病をおして舞台に立ち続けているというのに。
あのシーンは切ない。

人気は「他者の欲望を欲望する」現象の連鎖(臨界)反応をうまく引き起こすことによって生じるわけだが
最初に欲望した始原の他者など誰だかわからず本当は存在しないかもしれないのは、貨幣への信頼・流通と同じ。
だから、人気が捏造されたものという電通陰謀説なんてのも出てくる。

まあ一応イベントとか番組とかの企画、建築で言う基本設計みたいな仕事はしてるから間違いではないと思うんだよな。
でもそういった噂は逆に電通の企画力がすごいって話になって、広告代理店として信頼できる、って話になると思うんだが、
こういう噂流してるの逆に電通社員じゃね、とか思ったり思わなかったり。

そもそも「他者の欲望である欲望」の集合体としての「人気」自体が物語で捏造だと言えると思うんだよなあ。
573吾輩は名無しである:2014/06/29(日) 17:54:28.08
2012/06/29(金)

≪ Les chiens aboient, la caravane passe. ≫
 犬は吠えるが、キャラバンは進む

今「囚われの女」の後半部分読んでるけど、ヴェルデュラン夫人とシャリュルスの
対決とかヴァントゥイユ嬢の女友達のこととか出てきて最高潮に達してきてます。
ここで最初のころ出てきた伏線が解決されたという印象ですね。いろいろな伏線が
あるので発見できると楽しいです。
574吾輩は名無しである:2014/06/30(月) 15:41:53.12
575吾輩は名無しである:2014/06/30(月) 18:06:47.73
そんなにおもしろいですかプルースト
576吾輩は名無しである:2014/06/30(月) 19:13:00.59
03/06/30

今日ついに買っちゃった。
もちろん筑摩のほうね。
全10巻かあ・・
トルストイの「戦争と平和」の2倍と少しぐらいの量だから
3ヶ月くらいで読み終わる予定。
577吾輩は名無しである:2014/07/01(火) 19:47:00.65
03/07/01

全10巻ってそんなに長いの??
ドスのカラマーゾフの2倍くらいじゃん。

2009/07/01(水)

出だしの2、3ページはぎこちなさを感じたけど、
ストーリーが始まったら普通の翻訳家の文みたいだ。
読みやすい。

2011/07/01(金)

語り手の年齢ってわかる人いる?
例えば最後のゲルマント亭のパーティでは何歳だったか、とか。
少なくとも50代にはなってると思うんだけど、そしたら存命してるフランソワーズなんていくつになるんだ?

2012/07/01(日)

新潮7月号の松浦寿輝の東大最終講義。退官記念講演と別物。
「Murdering the Time --時間と近代」という題

時間がテーマだが、残念ながら時間(!)の都合でプルーストは
吉田健一「時間」に触れた箇所でちらっと登場するだけ(鈴木訳
文庫版第1巻の解説でも両者が対比されていたが)

プルーストの作品って、キャラ立ちを排するところがあるからなあ。

ただ、京極夏彦の京極堂シリーズの探偵榎木津礼二郎とサン・ルーは
なんとなくかぶる。
578吾輩は名無しである:2014/07/02(水) 19:36:14.59
02/07/02

どうしてほんとに気狂いピエロな坊やは
よりにもよってプルーストが好きなんだろね?

2005/07/02(土)

しかし水色本、挿絵は好みじゃない

2011/07/02(土)

なんか残念なことに、大戦下のパリでのシャルリュス男爵の快楽は、
今借りてある上下巻では大幅に省略されてしまっているようです。
579吾輩は名無しである:2014/07/03(木) 10:59:54.58
俺が持っている『失われた時を求めて』は筑摩の大系なので、わずか全5巻だ。
580吾輩は名無しである:2014/07/03(木) 19:32:35.73
03/07/03

3日目にして挫折しました。

退屈+文章が読みずらいでもうダメ〜〜〜

10分で挫折しました。
3ページ。

もう少し我慢して読め。ジルベルトが出てくると面白くなるぞ。

だって話が一々脱線して面白いポイントが無いし、
叔母とか叔父とか祖母とか色々いすぎ・・

読み手に対して不親切だよね。

登場人物表が必要だな...

小林信彦氏は確かシャルリュスの出てくるところだけでも読め、
といっていたよ

2011/07/03(日)

鈴木さんが、全訳に入る前に、練りに練られたプルーストの
全体構成を、未読の読者へ2巻本で無理なく通読出来る編集を行ったいい本だよ。

私は最初に鈴木訳の13巻セットを読んで、内容をあらかた忘れたので再読しようと思い、
また13巻セットを読むのがめんどうなので鈴木訳の上下巻を読んだんですけど。
松岡正剛が最初上下巻を読んで次に全訳を読んだらしいけど、その逆ですね。

お菓子についてはサントブーヴ論に原型的記述が出てくるんだよなあ
581吾輩は名無しである:2014/07/03(木) 19:37:32.94
2012/07/03(火)

途中で放り出していた《花咲く乙女たちのかげに I》の岩波文庫版を読み直していたら、意外なことに初めて気づいた 。
ジルベルトは、スワンとオデットが結婚する前にすでに生まれていたのだ。

そんな諦観に至るまでのあいだオデットが気に病んでいたのは、自分とスワンより短い交際期間をへて男と結婚した女友だちのことで、
自分とは違って子供はなく今やそれなりに尊敬され大統領官邸(エリゼ)のダンスパーティーにも招待されているその友だちが、
スワンの振る舞いをどう思っているかということだった。(p.102)

En attendant, Odette souffrait de ce que telle de ses amies,
épousée par un homme qui était resté moins longtemps avec elle qu'elle-même avec Swann,
et n'avait pas, elle, d'enfant, relativement considérée maintenant,
invitée aux bals de l'Élysée, devait penser de la conduite de Swann. (Folio-1946 p.39)
582吾輩は名無しである:2014/07/04(金) 19:35:48.94
02/07/04

プルーストは可能なかぎり逸早く読まれたほうがよいかと思います。
これはボクがプルーストを好きだから、もしくはボクが『失われた
時を求めて』に囚われの身だから云うことなのではありませんで、
とどのつまり彼の作品が読者からの全き信頼に値いするものだから
なのです。あなたが作者と作品を見据える者であるならば、彼の
作品はけっして裏切らないでしょう。ぜひ一度でも彼の作品に
時間をさいてみてほしいものです。すくなからず気狂いピエロのように
嫌うのは、あなたがこの本に出会ったあとでも晩くありませんから。

楽しみと日々は昔仏文の教材で読んだなあ。ナツカシー
青いプルーストもまたよし、と思ったな当時。
失われた時より絵画的で、課題を訳してても楽しかった。

授業で失われた時のコピーを1ページ分渡されて「訳せ」と
言われたときは死ぬかと思った(ピリオド1個しかないでやんの)

ボクがプルーストを好きなのは、取りも直さずボクの問題だと思われ。
過感症だとか、エゴが強すぎたりだとか、人は煩雑にプルーストを言うけれど
ボクには彼の直面した危機にあっての安直な(?)解決方法そのものがまずショックだった。
というわけで、ボクの彼に向ける想いは愛憎こもごもになってるん。

ヴァレリーの頌を読むことができましたので約束どおりここに写しマス。
583吾輩は名無しである:2014/07/04(金) 19:37:33.47
02/07/04

頌(プルースト)

私はマルセル・プルーストの唯一巻をかろうじて知っている程度であり、
また小説家の芸術そのものが私にはほとんど想像もつかない芸術なのであるが、
折をえて読んだ、かの『失われた時を求めて』の小部分によって、
この度「文学」が如何に異常の損失をこうむったかということ、
そしてそれが「文学」のためのみならず、各時代において
その時代に真の価値をあたえている人々の構成する、
あの秘やかなる集団≪ソシエテ≫のためにも更に大なる損失であることは、私も承知している。

それにまた、かりに私がこの厖大な作品の一行をも読んでいなかったとしても、
ジッドとレオン・ドーデのような全く異なった精神がこの作品の重要さについて
一致した意見をもっているのを見るだけで、私にとってはもはや
何等疑いを挿しはさむ余地のない確証をえているようなものである。
これほど稀な一致は、確実に最も近い場合にしか起こりえない。
我々は安心しているべきだ。この二人が同時にそうだと声明する以上、晴天である。

あのように力強く且つ繊細な作品について正確に又深く語る人は他に多くあるであろう。
また、この作品を構想し、遂に名声にまで導いた人がどういう人物であったかをも
他の人々が述べられるであろう。私はもう幾年も前に瞥見したに過ぎない。
私はここでは甚だ力の弱いほとんど書くにも当らぬ一私見を提出しうるのみである。
いわば一つの頌辞、永くいつまでも残るべき墓石の上におかれた、
これは朽つべき一輪の花に過ぎぬ。
584吾輩は名無しである:2014/07/04(金) 19:38:45.12
02/07/04

すべての文学様式≪ジャンル≫は言葉の或る特殊な使用から生れるもので、
小説は一つ或は幾つかの想像的「生命」を我々に伝えるために、言葉の直接な、
そして意味を表わす力を極端に使用することを知っている。
そして、その生命の人物を設定し、時と場所を定め、出来事を述べ、
多少とも読者を納得させるに足る因果律の影でそれらを連結する。

詩は我々の機能を直接に活動させ、聴覚と音声の形と律動ある表現との間の
正確にして脈略ある連繋のはたらきたる即ち歌を極限としてもつに反して
――小説は我々の内に、現実の事件に対する我々の期待心そのものであるところの、
あの一般的な不規則な期待を刺激し、持続させようとする。
つまり、物語作家の技術は現実の出来事の奇妙な演繹
或いはごく普通の順序をそのまま模倣するものだ。
また、詩の世界が言葉の装飾と機会との純粋なシステムであるが故に、
本質的にそれ自体において充足し完全であるのに、小説の世界は、
その幻想的なものでさえ、あたかも実態画(trompe-l’œil)が
それを見る人の往来する附近にある、触知しうる物体に結びついているごとく、
現実世界に関連する。

小説家の計算と野心の対象である「生命」と「真実」の外観は、
観察の絶えざる導入――すなわち小説家が自分のプランにはめこんで行く
標識的要素の不断の導入にかかっている。
真実らしい然も任意的な細部でできた緯≪よこいと≫が読者の現実生活を
作中人物の佯り≪いつわり≫の生活に接続する。その結果、そういう偽物≪ぎぶつ≫が
我々の想念の中で正真の人物と比較されうるまでに、屡々不思議な生命力を帯びてくる。
我々は無意識に、我々の中に存するあらゆる人間の形をそういう偽物に貸しあたえる。
何となれば、我等の生きる能力には、生かせる能力もまたふくまれているからだ。
我々がそれを多く貸しあたえる程、それだけ、作品の価値は大きくなる。
585吾輩は名無しである:2014/07/04(金) 19:44:09.43
03/07/04

シャルリュス男爵とヴェルデュラン夫人の箇所を拾い読みする
というのは、小林信彦が己の意見として述べたのではなくて、
モームの意見を引用しただけ。

2009/07/04(土)

まだ60ページ代だけど大体わかった。
マザコンホモの自己紹介か。
さあ、挫折するべきか、読み通すべきか、時を失うか・・・

マドレーヌの形が重要だ、みたいなの読んだことあるなあ。
凹みの部分がエロチックだって。

最近入手した「文蔵」2008・7の鹿島茂の連載エッセイの受け売りです
元ネタは吉田城『失われた時を求めて」草稿研究』(平凡社)とのこと

『サント=ブーヴに反して』では
紅茶に浸されるのはパン・グリエ(トーストパン)
紅茶をすすめてパン・グリエを持ってくるのは年老いた女中

失時の最初の草稿(カイエ8)で
パングリエはビスコット(日本でいえばラスクのようなもの)に
年老いた女中はフランソワーズに代わり
その後の草稿(カイエ25)で フランソワーズが母に代わる
自筆清書原稿で ようやくマドレーヌが登場
586吾輩は名無しである:2014/07/04(金) 19:46:06.74
2011/07/04(月)

以下 マドレーヌは マグダラのマリアのことである等興味深い記述が続きます

鹿島のエッセイはマドレーヌが作品中で「むっちりと官能的な」と
形容されている理由について書こうとしたところで紙面が尽き 
次回に続くとなっている

サントブーヴ論では、パンもビスコットも両方出てきたよ
紅茶にひたす、ってのがミソだね

ちくま文庫の「プルースト評論選1」の出口裕弘・吉川一義訳をみると
最初 古くからの料理女が 紅茶を入れてくれ
>そのあとは、 二度焼きしたパンを何枚か、彼女が持ってくるという成り行きになった。
 私は紅茶にそのパンを浸した。そして口の中に入れ……

とありますが そのあとの記述では 

>だが、紅茶の滲みたビスコットを味わってみたとたん、……

とパンがビスコットにいつの間にか入れ替わっているように見えます

引用した2箇所に挟まれて 祖父が ビスコットを紅茶に浸して 差し出してくれた 
幼年時の思い出が語られています

訳注をみると 二度焼きしたパン(パン・グリエ)は
>日本でいうトーストのほかにビスコット(からからに乾いた甘みのないラスク)
 など堅焼きしたパンを指すことがある
とされており  パン・グリエ≧ビスコット という解決のようですね
587吾輩は名無しである:2014/07/04(金) 22:46:31.74
2011/07/04(月)

ちなみに 鹿島のエッセイで引用される吉田論文でも
かたや 「日常的」な食べ物であるトーストまたはビスコット
かたや 個性化・脱日常化した「菓子」(ガトー)であるマドレーヌ
という対比がなされており パン・グリエからビスコットへの変更は
重視されていません

作品では、パンとビスコットが入れ替ったというより、
まず原体験として、 紅茶にひたしたビスコット、があり、
それが紅茶にひたしたパン(パン・グリエ)によって
想起されたという関係の記述になっていると思うんだけど。

で、ビスコットのところでは食感(舌触り)が中心なのが、
なぜかパンのところでは香りも加えられているのが面白い。

サントブーヴ論の序文草案には
「失時」のいくつかのエッセンスが
原型的に詰め込まれているけれども
「失時」との関係は単にそれだけにとどまらない。
批評が「批評+小説」という構想になり、
最終的にかくも長い「長篇小説」となったのか、
それを考える上でサントブーヴ論は欠かせない。

そして原型的モチーフが小説化されるときに
果たしてプルーストは成功したのかどうか、
ここが興味深いポイントのひとつだね。

ぷ…Biscotteは朝食用のラスクです。で、フランス語ですが。
588吾輩は名無しである:2014/07/04(金) 22:48:12.98
2012/07/04(水)

ジルベルトがいつ生まれたかとか、あるいはスワンがいつ結婚していたんだよとか
全部読み終われば、「?」の個所が多数散見されるわけで、どうでもいいことだと思います。

以前高遠氏が井上氏の全集での誤訳の個所を指摘していましたが、世界文学大系の
「逃げ去る女」では

>実際に私の身が潔白であることは詮議するまでもなかった。

とあって、全集とは意味が違ってますが(全集の訳は手元にない)プルーストに
あらすじはいらない(高遠)と言われるように些末なことです。

>こんなふうに気晴らしを好む点でアルベルチーヌが最初のころのジルベルトに
似ていたのはわれわれがつぎつぎ愛する女性のあいだに、進展があるとはいえ一定
の類似が存在するからである。この類似は、われわれの気質が不変不動であるがゆえ
に生じる。というのもこの気質が愛する女性を選ぶにあたり、われわれを補完して
くれると同時に心を苦しませるような女性ばかりを選んで、そうでない女性をすべて
排除するからである。こうして選ばれた女性は、われわれの気質の産物であり、われ
われの感受性の投影された倒立像であり「ネガ」なのである。吉川4p537
Si, en ce goût du divertissement, Albertine avait quelque chose de la Gilberte
des premiers temps, c’est qu’une certaine ressemblance existe, tout en évoluant,
entre les femmes que nous aimons successivement, ressemblance qui tient à la fixité
de notre tempérament parce que c’est lui qui les choisit, éliminant toutes celles
qui ne nous seraient pas à la fois opposées et complémentaires, c’est-à-dire
propres à satisfaire nos sens et à faire souffrir notre coeur. Elles sont, ces femmes,
un produit de notre tempérament,une image, une projection renversée, un « négatif »
de notre sensibilité.
589吾輩は名無しである:2014/07/05(土) 19:28:23.74
02/07/05

先生はジョイスの英文と比較して、長い一文で意識の流れを
どーのこーのという話をしてたと思います。

文章の感じとしては、谷崎潤一郎っぽいなと思いました。(一文長いし)
でもああいう良くも悪くも湿度の高い感じじゃなくて、もっと
科学的なというか論理的な印象を受けました。

#その頃ハマっていたのはリラダンでした。若かった

やはりジョイスの名前が挙がるのですね。
ボクは勝手に20世紀文学を『フィネがンズウェイク』と
『失われた時を求めて』のものとしてしまっているようで、
そのことが公正な読書を妨げているようにも思います。
どこかでも書いた気がするのですが、この二作品は、
20世紀におけるもっとも偉大なる失敗作ということで
双璧をなしているのです。歴史は悲劇によってのみ発展する、
このことは一種の真実味をもって響くものです。
590吾輩は名無しである:2014/07/05(土) 19:31:39.57
02/07/05

小説と我々が見聞した事柄をそのまま語る物語との間に、本質的な差異はありえない。
小説というものには、韻律も釣合も修辞も形式も、一定の構成さえも、課せられてはいない。
唯一つの法則が死の罰則を掟≪おきて≫として立てられている。即ち連続の力が一つの
目的に向って我々を引張って行き我々を吸引さえしなければならないことだ。
――その目的はある出来事を強烈に又は深く体験したというイリュジョンでもよく
又は創作された人物を正確に識ったというイリュジョンでもよい。これだけが必要――
または、それだけで十分なのである。注目すべきことと思われるのは、
――それは通俗小説の例によってたやすく示しうることであろうが――
全く取るに足らぬような、そして一つ一つとしては無価値(それを一つ一つ他の同様に
無造作な記述と変更しうる故に)と思われる記述の集合が、情熱的な興味と人生的な
効果とを生ぜしめることである。――このことから小説の不利になるような事を何ら
結論してはならない。とがめ立てするならば、或いは空しく或いは想像的である事柄の
完全に現実的な総和といいうる人生そのものをば、若干非難するがいい。
591吾輩は名無しである:2014/07/05(土) 19:35:06.81
02/07/05

したがって、小説は我々の記憶が嘗て我々の生きたある時間を再びとり上げそれを
注解する場合に、記憶の秩序ある各発展が呼び起こし許容する一切のものを
許容しうるわけである。肖像とか風景とか、又はいわゆる「心理」なるものに
とどまらず、あらゆる種類の想念、あらゆる知識への暗示、そういうものをも許容する。
小説は全知性を活動させ、調査する。

この点において、小説は明かに夢に近似している。我々はこの両者を、次の好奇心に値いする
興味ある特性の考察によって同時に定義することができる。それがいくら脱線しても、それは
彼らの本性だということ。

然るに、世人は一般に詩と夢とを結びつけたがるものだ。これは私には浅い考えのように思われる。

小説は詩とは反対に要約することができる。即ちその物が語られることができる。小説は人がそこから
類似の形象を描き出すことに堪える。だから小説は作者の意志次第で語らずにふくめておきうる部分をも
ふくんでいる。それはまた主意を失わずに翻訳できる。幾回にも分けて読まれうると共に、内面的に
無限に発展され得、或は延長されうるものである……その持続と多様性とに制限となるものは、読者の暇と
体力の外に何もない。人が小説に課しうるすべての制限は、その本質より来るものではなくて、
単に作家の特殊なる意図と決定とにより来るものなのだ。

03/07/05

シャルリュス男爵いいよね。なんかベニスに死すを思い出す。
592吾輩は名無しである:2014/07/05(土) 19:39:40.14
2009/07/05(日)

一説によるとマドレーヌを紅茶に浸すところまで読めばそれでいいとか。
でも、読み進めれば普通は知りえないフランスのサロン文化の詳細がどんなものかわかって興味深いよ。

サン・ルーとか出てくるとさらに面白くなる。

2012/07/05(木)

結局、スワンは、ジルベルトをゲルマント家のサン・ルーに嫁がせることに成功する。
皮肉なことに、自分の死、恋敵フォルシュヴィルとのオデットの再婚とひきかえだけど。
サン・ルーの親は、フォルシュヴィルの財産目当てで息子をジルベルトと結婚させる。
そして、メゼグリーズの方とゲルマントの方の融合・止揚であるサン・ルー嬢が誕生する。

自分が何者かになり大成するのではなく、次代への橋渡し・DNAの乗り物となるというスワンの諦観?
語り手のいう「一種の死後の幸福」?

>スワンはそうしたことを彼自身の経験によって知ってはいなかったであろうか、そして、彼がかつて
はげしく愛したオデット――たとえ一目見たとき彼をよろこばせなかったにしても――そのオデットを
もう愛さなくなったときに、つまりスワンのなかに棲息してあんなにオデットとともに全生涯を生きる
ことを渇望したり絶望したりした人間が死んでしまったときに、彼がいっしょに住むことになったあの
オデットとの結婚、その結婚こそは、すでに彼の生前の生活にあって――いわば彼の死後に起こるべき
出来事の前兆として―― 一種の死後の幸福のようなものではなかったであろうか? 井上2p75

Swann ne le savait-il pas par sa propre expérience, et n’était-ce pas déjà, dans sa vie –
comme une préfiguration de ce qui devait arriver après sa mort – un bonheur après décès que
ce mariage avec cette Odette qu’il avait passionnément aimée – si elle ne lui avait pas plu
au premier abord – et qu’il avait épousée quand il ne l’aimait plus, quand l’être qui, en
Swann, avait tant souhaité et tant désespéré de vivre toute sa vie avec Odette, quand cet
être-là était mort ?
593吾輩は名無しである:2014/07/05(土) 19:45:01.52
2012/07/05(木)

つまり自らが芸術を生み出すことは諦め(芸術創造の面では石女となり)、人生そのものを芸術とし、
ユダヤ系ブルジョアである自分が高級娼婦と異種交配し、その遺伝子をさらに貴族と異種交配させる。

>おそらく、他方で、背徳者としてでなくても芸術家として、スワンは、メンデル学派がおこなうような、
または神話に語られているような、異種交配の例を自分にとって、まったく血統がちがうオーストラリア
大公女または高級娼婦と自分自身とをかけあわせること、つまり王家との縁組または身分をさげた結婚を
することに、ともかくもある種の官能のよろこびを感じたのであろう。井上2p72−73

Peut-être, d’autre part, en artiste, sinon en corrompu, Swann eût-il en tous cas éprouvé une
certaine volupté à accoupler à lui, dans un de ces croisements d’espèces comme en pratiquent
les mendelistes ou comme en raconte la mythologie, un être de race différente, archiduchesse
ou cocotte, à contracter une alliance royale ou à faire une mésalliance.

この直後に、まだ独身のスワンが、妻となったオデット及び娘を、ゲルマント公爵夫人(当時はまだレ・
ローム大公夫人)にひきあわせることを夢想し胸熱になるシーンが続く。

「囚われの女」に出てくるヴァントゥイユの七重奏曲だけど、この編成にハープ
が入っているのがわけわからん。そもそも実在の作曲家でいうと誰に近いのか?
ヴァントゥイユってフランス印象派の作曲家なのでは?だとしたら、フォーレや
フランク程度でしょう。

ワーグナーは大きいと思うな
「花咲く乙女たち」ではベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲も
ひきあいに出されているし

また自らフルートも吹いていた哲学者ショーペンハウエルの音楽論の
影響が強い
594吾輩は名無しである:2014/07/05(土) 20:59:30.33
2012/07/05(木)

メシアンだったら後の作曲家に影響をあたえたいうのもわかるけど、
フランス印象派で、七重奏曲でベートーヴェンを超えるような
書き方をするのはありえない。七重奏ってコントラバスとピアノと
ハープが弦楽四重奏に追加されると思うが、古今東西見てもそんな曲が
有名だというのは、プルーストは音楽を知らないのではないか。

七重奏が奏される箇所で登場する楽器を足すと七を越えてしまう
プルーストが七にこだわったのはこの数字が全体性を象徴しているからではないか
楽器編成も全体性を象徴するため、網羅的にしたくて、ハープを撥弦楽器の代表として加えた
というのがナティエの仮説ということになりそう

もちろん、単純にプルーストがハープの形態や音が気にいって加えたというだけかも
しれないけど
自分なんかは「白鳥の湖」のラストでオデットと王子の魂が来世で結ばれるシーンのハープの
音色を思い出す 天上的というか

七重奏曲はフォーレモデルなんじゃないの?室内楽得意じゃん
フォーレ自身権力持ってたし、プルーストも安心して聴いてたんじゃないの?
あと息が長いくねくねした旋律がプルーストの書く文章に似てる
595吾輩は名無しである
2009/07/06(月)

ジョットとか、ちょっと噛った程度の単語とか出て面白くなってきた。
あー知ってる、知ってる、みたいなミーハーな気持ち。
なんか嬉しい。
ちなみに200ページ来た。
読んでるのは井上訳、鈴木訳一巻をガイドにしてる。

2011/07/06(水)

鹿島茂が2008年1月から2011年3月までPHPの文庫版雑誌「文蔵」に連載していた
「『失われた時を求めて』を完読する」、近々単行本化の予定はあるのだろうか。
2009年9月にコンブレーの巻までの分が新書(仮題「プルースト百景」)になるはずだったが
結局出ていないようだし。
(PHPに問い合わせれば済む話だが)
http://homepage3.nifty.com/cassima/news.htm

プルーストは、膨大な草稿原稿を残した。esquisseは、新プレイヤード版に
研究者が草稿研究を経て検証された決定稿前の多様な原稿を残したものを
採録したものです。

一番いいのは、吉川先生の岩波からでている、翻訳を丁寧に読むことを
お勧めします。プルーストは、本国の人でも解説本なしでは、読めない
ものになっています。書かれた年代を考慮すれば、そんなにおかしな話では
ないです。
我々も、江戸の時代から明治になり、外国の言語を理解するために、
翻訳が発達し、作家が苦労を重ね現在の日本語をつくってきた歴史を
振り返れば、分かってもらえることと思います。(ちなみに、橋本治が
いってるように私も芥川が現代日本語の基礎をつくったと思います)