「意識の流れ」って結局なんだったの?

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104G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/17(木) 05:07:32.12
エリクソンという作家、読んだことありませんが、彼の愛読書リストを見ると、
『『失われた時を求めて』、『響きと怒り』、『百年の孤独』等多彩で錚々たる
作品の中に『こころ』が入ってるのですね。
ジョイスは『ユリシーズ』でなく、『ダブリナーズ』が選ばれている。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/9986/culture.html
http://d.hatena.ne.jp/kiraoh/touch/20070613

漱石はおそらく英訳で読んでいるのでしょうけど、漱石の他の作品も読んでの
選択なのかなあ。
>漱石作品では『こころ』を第一等に掲げる
となると漱石の他の作品を比べて傑出しているということのようですね。
105G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/17(木) 08:15:46.41
最近、河出文庫から再刊された「ナボコフの文学講義」のジョイスの講。
『ユリシーズ』第三部第三章のモリーの意識の流れが引用される。
(訳は、ひらがなとカタカナのみで句読点がない)
これに対するナボコフの次のコメントはおそらくこのスレの今までの
流れからして、共感される方が多いのでは。
「意識の流れ」が本当に自然なのか、思考は言葉だけでなくイメージ
によってもなされるのではないか等。
http://moneyhelper.seesaa.net/article/1552771.html


>読者たちはこういう意識の流れの技法に不当にも感銘を受けている。
わたしは次のようなことをよく考えるよう提案したい。まず第一に、
この技法は他の技法にくらべてより「写実的」であるわけでも、より
「科学的」であるわけでもないのだ。現に、モリーの思考の全てを
記録するかわりに、そのうちのあるものだけ描写すれば、その表現は
いっそう「写実的」、いっそう自然なものとして、人の心を打つこと
だろう。問題は、意識の流れというのも文体上の約束事であるという
ことだ。なぜならわたしたちは不断に言葉で考えているわけではない
からであるーーわたしたちはイメージによっても考える。だがこの場
合のように、描写が排除されているときには、言葉からイメージへの
切り換えが記録されうるとしても、やはりそれは直接的な言葉による
しか術はない。もう一つーーわれわれの回想のあるものは来たっては
去ってゆき、あるものはとどまる。それはいわば無定形のナメクジのよ
うにじっととどまり、大小さまざまの思考の流れがこれら岩のように
凝然としている思考のまわりを廻って流れてゆくには、多少の時間が
かかる。思考をあるがままに記録する振りをする文体の欠点は、時間
の要素をぼかしてしまい、あまりにも印刷術に頼りすぎるということだ。
106G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/17(木) 08:18:36.55
承前

>ジョイスが実現したような意識の流れのなかに、自然な事件を見ては
ならない。それがひとつの現実であるとしても、それはジョイスの脳髄
作用、この小説の心を反映しているかぎりにおいてのみのことなので
ある。この小説はジョイスが発明した一つの新世界である。その世界で
は、ひとびとは言葉、文章によって考える。彼らの連想はもっぱらこの
小説の構造上の要請、作者の芸術的目的と意図によって左右される。
つけ加えておこう、もし編集者が本文(テクスト)に句読点を挿入した
としても、モリーの物思いはいささかもその楽しさ、音楽性を減じる
ことはないだろう。
(下p357−359)

つけ加えると、日本語訳で、適宜、漢字を用いても同じだと思う。
日本語にしちゃったら、ほとんど音楽性もへちまもないけど。
『ユリシーズ』やフォークナー『アブサロム、アブサロム』の訳で
ひらがなどころかカタカナにして原文の文体の変化を伝えようと
いった試みがなされているけど、やめてほしいなあと思う。
ある世代以降の人にとっては(現在生きている人の多分ほとんど)、
カタカナはほんとに読みづらいはず。
単に読みづらいだけでそれを上回るメリットがあるとは思えない。
(この講義の翻訳は、引用もふくめて、日本語として読みやすい)
107G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/17(木) 08:22:22.41
表音文字であるアルファベットの場合は、ピリオドやカンマを加える
だけでよいが、全部ひらがなにされてしまうと同音異字語の極端に
多い日本語では、いちいち漢字に変換して読まなきゃいけない。

『アルジャーノンに花束を』の翻訳ですら、それで挫折しちゃったw
108G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/17(木) 08:31:44.53
思いついたから連投してしまうけど
ナボコフが、フォークナーの文学を認めなかったの理由ってのも
気になる(あとトーマス・マン嫌いも有名)

河出文庫上の解説で、池澤夏樹は、ナボコフは都会人なので、
フォークナーの南部の田舎・辺境の文学へのとっかかりを見い
だせなかったのではと推察している。

池澤は彼が全作品を選ぶという企画の文学全集で、フォークナー
については「アブサロム、アブサロム」の篠田一士訳で1巻を編んで
いる。
ナボコフについては、英語でなくロシア語で書かれた「賜物」を選んで
いる。
訳者の沼野充義は、文庫版文学講義下巻の解説者。
109吾輩は名無しである:2013/01/17(木) 21:29:11.28
意識の流れ」と言っても、
流れのずるずる感から、滔々と、さらには奔騰など、流れの勢いには差が
あるけれども、いずれも途切れないことが重要ではあるが、日本人には
「奔騰」というのは違和感がアルと思う。
高低差の激しい地域に生まれたメソポタミア文明には地獄(無意識世界)の
思想は多く生じた。ギリシャ本土、クレタ、その他のギリシャの島々なども。日本の四国も日本では最も高低差の激しい地形だろうが、小説の『死国』という題名にもなっている。和歌山の熊野も同様の地形である。熊野は神話や説経節の現世と地獄の往還の地に相応しい。
だが、日本では神話創世の後、穢れの思想の発達により、現世と地獄との
往還には障害が伴うようになった。
日本、その他の東洋の地獄との往還には、「浦島物語」や「夢応の鯉魚」、
あるいはヒルトンの書いたチベットを舞台にした「失われた地平線」の
ごとく、時間のギャップを生じたり、入眠や目覚めがパンクチュエイティヴ
(断裂的)である。
110吾輩は名無しである:2013/01/17(木) 21:33:42.35
意識の流れ」というのは、下世話に「意識と無意識の切れ目ない
ずるずる引きずる感じ」ではないか?
津原泰水の「黄昏抜歯」も、そのようなずるずる感をモチーフにした
短編だろう。「黄昏」という風景自体が明と暗の中間的な相であり、
明暗、二極の相の融合状態を象徴している。明暗二極とは意識、
無意識に対応させて構わないだろう。つまり、ここでは「黄昏」とは
意識と無意識の切れ目なさを暗示している。歯医者の診察室において
流れる音楽と薬品の匂い、歯に対する主人公の思い込みが相まって
不条理な「意識の流れ」が展開する。薬をきっかけとしてか、主人公は
「半ば落ちて」ゆく。そして、帰路につく主人公は心の黄昏状態を
引きずったまま、タクシーを止めるに至るが、それへ乗り込む瞬間に
心の黄昏状態は消滅する。
津原自身が「黄昏」を「意識の流れ」のアナロジーと見なしていた
可能性も高い。  
意識・無意識の融合感で言えば、プルーストのスワンでの、紅茶と
マドレーヌの香のフレーバーの融合が記憶を呼び覚ます。
世阿弥の夢幻能で夢と現実が場面で分けられているのは無論だが、
日本では落語においても夢と現実はnarraitive(語り)のcontinuity
(連続性)を伴わず、多くは「落ち」に使われ、劇的である。落語の
「落」は下界(無意識)に落ちることからも来ている可能性が大きいと
思う。「らくだ」、「地獄八景」、「粗忽長屋」などは、意識と
無意識の不連続性を表現していると思う。また、「落ちる」には
意識を失うという意味もある。
つまり、日本の文化においては 、「意識の流れ」ではなく、意識の
断裂や覚醒が強調されている面が大きいのではないか?
このことが「意識の流れ」文学の日本における受容に影響している
ように思う。
111吾輩は名無しである:2013/01/17(木) 22:04:21.65
なるほど〜。落語はまさに落ちる話。
112G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/17(木) 22:25:36.70
津原泰水の、それも「黄昏抜歯」が例にあがるところが
2ちゃん的、あまりに2ちゃん文学板的だ。
http://dioptase7.exblog.jp/16105501/
113吾輩は名無しである:2013/01/17(木) 23:31:17.47
オルテガだったのかルカーチだったのかは判然としないのですが、
例えばドン・キホーテに代表される近代小説の特性は
理想と現実というギャップから生じる批判意識を駆動因として物語を牽引していくことなのだそうです。
このギャップは個人意識の段階においては時間となり、これが共同主観的に総合化されと歴史(物語)となる。

ただ、日本の場合はこのような遠心力が言語構造などの事情から機能しないので
“場”の求心力によって時間性が消滅してしまう。
日本のいわゆる物語とは欧米の小説とは違ったものである。
まあ、こんなことをボルヘスは指摘しています。
確かに漱石の夢十夜なんかだと回帰してしまうんですよね。

しかし、ジェイムズの強い影響下で書かれたとされる『坑夫』はどうなんだろうか?
それとジョイスは社会主義リアリズムの作家として出発しながらも
ヴィーコの循環史観(と詩学)を利用して『ユリシーズ』を発表した。
つまり転向文学者による回帰思想でもあるわけです。
では、この“回帰”とは日本的回帰(とボルヘスが想定する)とどう違うのか?
114マグナ ◆vI4NRkhGyA :2013/01/18(金) 00:11:01.94
Gもナボコフかったのか。買ったものの積んでる。
115G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/19(土) 05:32:00.26
>>114
阪急コミュニケーション版、プレミアついてたので、数年前、原書で
買ったが、序文で挫折。ナボコフって、すごいリア充だったんだな
という印象が残った。

文庫版は待望ってことで、刊行されるや取寄せて、すぐ読んだ。
といっても丁寧に読んだのは『失われた時を求めて』と『ユリシーズ』
の講義。この2つは、編者が引用を充実させたりして、かなり補われ
てるらしいけど、それが見事に嵌ってると思う。
『ユリシーズ』を読むとっかかりとして秀逸じゃないかなあ。どこを
どう楽しみながら読んだらよいかがイメージできた。
116G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/19(土) 05:35:28.47
川端康成の小説に「意識の流れ」手法を見出そうとする次の
論文を見ると、「意識の流れ」は「自由連想」とあまり違わ
ないような捉え方をされている。

>フロイトは人間の無意識を明確にするために、自由連想」という方法を発展
させた。フロイトは「自由連想」で患者に思い浮かぶことをそのまま直接に話
させる。そうすることで無意識の中にある患者の想念や悩みなどが湧き上がる
と考えていたようである。

この外人、ジョイスを知る前から川端が意識の流れ的小説を
書いていたと言っているが、自由連想≒意識の流れと考えると
連歌や連句がすでに自由連想に通じる面を持ってわけだから、
ジョイスを待つまでもない。フロイトすらも。
(つきすぎず離れすぎずの連想。月並でなくしかもずれていないことが
必要。メタファーともつながりそう)
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/4/4-01.pdf
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/3/3-17.pdf

ちなみに、ナボコフのジョイス講義でも、自由連想的なものを「意識
の流れ」と呼ぶ箇所が多いように感じた。
117G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/19(土) 05:35:47.77
文学研究における意識の流れ小説の古典的著書はこれのようだ。
Robert Humphrey;Stream of Consciousness in the Modern Novel(1954)
ロバート・ハンフリー『現代の小説と意識の流れ』(英宝社、1970)

手持ちの松柏社フォークナー事典の「意識の流れ」手法の項目をみると
ハンフリーは「主として作中人物たちの意識の姿を描き出すために、言語
表現以前の彼らの意識の究明に重点を置く方の小説」と定義づけ、この
型の小説の作者としては、ドロシー・M・リチャードソン、プルースト、ジョイス、
ヴァージニア・ウルフ、フォークナーの名を挙げているようだ。

言語表現以前の意識と無意識との関係いかん?
とりあえず、ハンフリーの邦訳注文してみた。

英文だけど、概説的な記事
http://engl352.pbworks.com/w/page/18970054/Stream%20of%20Consciousnes
118G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/19(土) 08:08:55.82
>>103>>104

リテレールの1992冬号入手しました。
スティーヴ・エリクソンの「こころ」評は以下のとおり(訳は柴田元幸)

>日本の古い小説『こゝろ』の感情の精密な描きぶりにも驚いた
(翻訳でもはっきり伝わってくる!)。三十年後のフランス小説の
実存的傾向を先取りしている点も凄い。『こゝろ』に較べると、
フランス小説など、ほとんど浅薄でもお目出たいといってもいい
くらいだ。
119吾輩は名無しである:2013/01/24(木) 19:43:29.28
結局、Gには何も分かりませんw
120G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/25(金) 03:56:30.74
もともと「意識の流れ」ってタームが曖昧なんだよね。

>>119
低級な煽り、さすがトンデモなピント外れの妄言しか
書けないやつだけあるw
121G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/25(金) 04:27:17.51
ようやく、kindleで『坑夫』落として読み始めた。
非常に実験小説的な作品。だから昔、最後まで読みとおせなかった
ようだ。実験小説は古びやすい。
現在の時点から、19歳の自分を顧みながら、19歳の自分のそのとき
の心理を分析的にときには混沌としたままに再現しようとしている。
「意識の流れ」だとか当時の心理学を意識したようなところがありそう。
122吾輩は名無しである:2013/01/25(金) 20:14:04.13
「意識の流れ」を理解する上でGのレスは何の役にも立たないだろうな。
123G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/25(金) 21:44:37.30
役に立つことなど期待してないしね
君は自分のトンデモ書き込みが有害無益だって
ことに気づいてないようだね
つくづくお目出度い人だw
124吾輩は名無しである:2013/01/26(土) 05:59:08.06
>>122

おい、本スレ主、お前が研究者になれなかったのはお前の根性が腐ってて、
しかも creativity が完全に欠落してるからであることは明らかであることを
いまだに自覚してないみたいだな。

「零細」出版社からさえリストラされ、さらには人生からリストラされたお前の、
Gさんに対するプルーストスレでの嫌がらせが失敗し続けているからといって、
この「意識の流れ」スレにまで遠征してくるのは、いい加減にやめろ。

見苦しくってたまらぬ。「人生リストラ」野郎。
125吾輩は名無しである:2013/01/26(土) 06:10:31.01
>>124

うっかりと、一行目に「本スレ主」と書いてしまったけど、これはこのスレ「意識の流れスレ」を
立てた人という意味ではありません。この「本スレ主」は、「マルセルプルースト本スレ」を
立てた人という意味です。このプルースト本スレの主(通称「本スレ主」)は、「マルセルプルーストのスレ」に
おいて、実に陰湿にGさんを数年にわたって執拗に攻撃し続けているのです。
126G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 06:58:17.23
>>124 d

ロバート・ハンフリー「現代小説と意識の流れ」一応読んだけど
作品読まないことにははじまらなさそうだ。
次の作品あたりは目を通しておきたいと読みつつあるところです。


ジョイス(「若き芸術家の肖像」)「ユリシーズ」
フォークナー「響きと怒り」「死の床に横たわりて」(「アブサロム、アブサロム!」)
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」「灯台へ」「波」

括弧はWilliam Faulkner Encyclopediaで言及のあった作品
その他はハンフリーの著書で引用が出て来る。

フォークナーは一応読んだことあり。
ウルフは「ダロウェイ夫人」は光文社文庫の訳で2回読んでみた。
「ユリシーズ」はまだ文庫の1巻目の途中。
127G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 06:59:29.29
ハンフリーの著書より。前意識と無意識との関係等

p6
意識とは、心意の動きの全領域を示す言葉で、そこには前意識から、心のさまざまな段階を経て、
合理的で伝達可能の知識という高次の段階までが含まれる。
Consciousuness indicates the entire area of mental attention, from preconsciousness on
through the levels of the mind up to and including the highest one of rational,
communicable awareness.

*前意識とは無意識的精神過程のうち、思いだそうと努力すれば、意識にのぼらせ得るものをいう(訳注)。

p7
意識には明瞭に区別されるふたつの段階がある。すなわち、〈言語表現の段階〉と〈言語表現以前の
段階〉と。
There are two levels of consciousness which can be rather simply distinguished: the“speech
level”and the“prespeech level.”

p7
約言すれば、言語表現以前の意識は抑制することもできねば、理性的な規制も受けつけず、論理的な
秩序も持たないのである。そこで今後は、〈意識〉は、特に言語表現以前の段階を含む、心的過程の
前領域をさすということにしよう。
In short, the prespeech levels of consciousness are not censored, rationally controlled,
or logically ordered. By“consciousness,”then, I shall mean the whole area of mental
process, including especially the prespeech levels.

p8
以上のように意識の概念をたどったところで、われわれは意識の流れの小説を次のように定義すること
ができよう。すなわち、主として作中人物たちの意識の姿を描き出すために、言語表現以前の彼らの
意識の究明に重点を置く型の小説であると。
With such a concept of consciousness, we may define stream-of-consciousness fiction as a type
of fiction in which the basic emphasis is placed on exploration of the prespeech levels of
consciousness for the purpose, primarily, of revealing the psychic being of the characters.
128G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 07:02:03.62
「流れ」にはあまり拘泥しない方がいい

p12
〈流れ〉という言葉は、さしあたり問題とすることはない、というのは意識が流れるものだとわかって
いたら、それをどう呼んでもいいわけで、たんに呼び方の問題にすぎないのだから。
The word“sream”need not concern us immediately, for representation of the flow of consciousness
is, provided one is convinced that consciousness flows, entirely a matter of technique.

p71
しかしこの〈流れ動く〉という言葉はかならずしも滑るような流れを意味しない。意識の流れは無意識
の状態に近い段階で見られるかもしれないが、表面に近い前言語段階がおよその意識の流れの小説の主題
なので、外界から流れにむかって投じられる制止や妨害が、われわれの重要な研究対象となる。つまり、
〈流れ〉なる言葉自体が正鵠を射ていないのである。持続する性質や妨害にたいして瞬時は乱れても
すぐにそれを呑み込んでしまう性質、ひとつの段階から別な段階に自在に移行できる性質を示すためには、
流動の観念に綜合の観念を加えねばならない。
“Fluid”does not mean a smooth flow necessarily. The flow of consciousness, it might be admitted,
is found on levels nearing the state of unconsciousness, but as the prespeech levels nearer the
surfice are the subject of most stream-of-consciousness fiction, the checks and interferences to
the flow from the outer world become an important consideration. In short, the term“stream”is
not fully descriptive. The notion of synthesis must be added to that of flux to indicate the
quality of being sustained, of being able to absorb interferences after the flow is momentarily
broken, and of being able to pass freely from one level of consciousness to another.
129G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 07:03:05.08
p72
意識の動きのもうひとつの重要な特徴は、時間のなかを自由に移動する能力――それ自身の感覚的時間を
見出そうとする傾向である。そこには、伝達を目的として心的経過が合理的に制御されるまでは、かなら
ずしも生活時間的な順序には従わないという前提がある。さらには、この〈時点〉にあっては、現実には
時計の上で、どれだけの時間を占める事件であろうと、意識の中では、細分化されることで際限なく拡大
もされるし、逆に、認知の一瞬に凝集することもある。
The other important characteristic of the movement of consciousness is its ability to move
freely in time――its tendency to find its own time sense, The premise it that the psychic
processes, before they are rationally controlled for communication pruposes, do not follow
a calendar continuity. Everthing that enters consciousness is there at the“present moment”;
furthermore, the event of this “moment,”no matter how much clock time it occupies, may be
infinitely extended by being broken up into its parts, or it may be highly compressed into
a flash of recognition.
130G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 07:04:08.20
自由連想の原理の応用という技法

p72
小説の中で、意識の流れの動きを制御するおもな技法は、心理学上の自由連想の原理を応用することであった。
The chief technique in controlling of stream of consciousness in fiction has been an application
of the principles of psychological free assosiation.

p73
自由連想の重要性や、それを巧妙に駆使することによって心的経過の中での動きの性質も描出できる経緯は、
ジョイスの作品中の内的独白の技法の中にあますところなく看取される。モリー・ブルームの意識の本質的
内容を分析してみると有益である。
The importance of free association and the skill with which it can be used to represent the
quality of movement in the psychic precesses is most clearly represented by the interior
monologue technique in Joyce's work.The elemental content of Molly Bloom's psyche lends itself
to informative analysis.

その他、映画のMontageの技法の適用、メタファーmetaphorやシンボルsymbolの趣向、さらには句読点の
約束the convention of punctuationの改変(p201)
131G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 07:07:03.97
リーダビリティのためのプロットに代わるパターンの必要性

p142
芸術、とりわけ小説という芸術は、パターンと拘束と、それに明確さとを要求する。小説の読者がそれを
要求するのだ、読者はそれらを手がかりに、自分たちの無拘束の意識を集中し、作品を理解し、解釈しよう
とするのである。したがって作家をその素材に何らかの形でパターンを、あるいは形式を課さねばならない。
Art, the art of fiction, demands pattern, discipline, and clarity. The reader of fiction demands
these things, and he must have them in order to have his own undisciplined consciousness focused
and in order to be able to understand and interpret. Consequently, the writer must somehow impose
pattern, or form, on his material.
132G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 07:08:27.18
承前(本書の最後の部分)

p202 
意識は前言語段階にあってはパターンをなしていない。意識はその本性から、行為とは離れて存在するので
ある。つまりこれではプロットは意識と平行線をたどって、まじわることがなかった。したがって意識という
混迷の素材には、或る種のパターンが重ねられなければならなかった。うまく仕組まれたプロットの代りに
作家たちは、あらゆる種類の統一の趣向を案出した。彼らは小説がこれまでに創始してきた古典的な統一
手段の数々に密着しようとした。彼らは文学上の雛型や、歴史の循環、音楽の構成などに倣って自己の作品
にパターンを与えた。彼らはまた、複雑な象徴的構成を使い、ついには外面的プロットを意識の流れと融合
させるところまで行きついたのだ!
Consciousness is in its prespeech levels umpatterned; a consciousness by its nature exists independent of action. In short, plot had to go by the wayside. Yet some kind of pattern had to
be superimposed on the chaotic materials of consciousness. In lieu of a well-made plot, the
writers devised all sorts of unities. They managed the closest adherence to the classical unities
that the novel had ever produced; they patterned thier work after literary models, historical
cycles, and musical structure; they even managed to fuse external plot with sream of consciousness!


歴史の循環は、>>113さんの触れているヴィーコ、音楽の構成は、ソナタ形式、ワーグナーの楽劇のライト
モチーフ等。
133catt ◆.catt24qAw :2013/01/27(日) 08:15:10.61
ちがうなあ
134吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 10:21:53.37
>>133
負け犬が、ほざいてるw
135吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 11:06:20.93
>>133
根性が腐ってて自分の意見も言えないくせにつまらない挑発はいい加減にやめろ。
136吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 11:33:31.49
>>133
マルセル・プルーストの本スレの主
137吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 12:32:38.40
確かポール・ド・マンあたりが述べていたことだと思いますが
ロマン派以前の作家にとって先行テキストを形式的に抽出して
再構成することに対して疚しさはなかったが
ロマン派以降はオリジナリティという点で疚しさが生じることになり
これが伝統(と作者には思われるもの)との断絶という自意識の発見と
その克服という傾向につながった、と。
あと、基本パターンの再構成による言語化(あるいは明瞭化)という点では
カッシーラーに似ていますね。

普通は意識の流れといえば英米系文心理主義の流れで考えられますが
ハンフリーの捉え方はドイツ思想やその傍流に似通ったところがありますね。
138G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 15:47:44.54
>>134->>136
d でも、本スレ主は、コテは名乗らないんじゃないかと。
>>133の人は必ずしも悪い意味で「ちがうなあ」と書いているのではないかも
しれませんね。
検索したら、2年以上前からこのコテ名とトリップでかなり書き込みをしている。
ちょっと見た限り、むしろ、粘着される側っぽい。
芸術デザイン板と哲学板への書き込みが中心でえびね(つくだに)さんとのやり
とりもありますね。
139catt ◆.catt24qAw :2013/01/27(日) 15:51:42.70
>>138
べつに悪いいみじゃないですよ。
「意識」が流れるというのは自己あるいは読者から見て「川のように」ではなくて
自己あるいは読者「から」、まはた「に向かって」流れるのだということです。
140G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 15:56:15.18
>>139
>べつに悪いいみじゃないですよ。

やはり、そうでしたか。
141catt ◆.catt24qAw :2013/01/27(日) 15:59:41.36
>>140
Gさんはプルーストよく読んでると思います。
プルーストは、モンテーニュやパスカル以降のフランス文学の身体的な「繊細」を持ってますよね。
ゾラやユゴーが省略してしまったそれが生き生きと楽しめるので私も一愛好者です。
142G ◆Y.6.rbvT92 :2013/01/27(日) 16:06:48.94
吉川一義先生が強調されているモラリスト的な面もおもしろい。
143吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 16:39:31.65
>>139

悪い意味ではなかったんですね。どうも、本当に失礼いたしました。
実は、プルーストスレを初めとして、それに似た短い書き込みで
嫌味を連投する人が多いもんですから、ついつい勘違いしてしまいました。
それから、コテハンを今度は名乗るふりをするという新しい手練手管を
例の粘着男が使い始めたのかもしれないと思ってしまったのです。
144吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 17:52:18.36
包茎チンカスボーイは見境なく噛み付く狂犬じゃねえか
飼い犬ねしつけぐらいしとけよ、G
145吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 18:19:38.63
>>144
大脳欠損症患者の本スレ主は、
相変わらず嫌味ばっかり言ってるじゃねえか。
幼稚園にもう一度通わせてやれよ、G
www
146吾輩は名無しである:2013/01/27(日) 18:21:03.33
それ、言葉に詰まった。
大脳が欠損してるから、すぐに
「は?」としか言えなくなる w
147G ◆Y.6.rbvT92 :2013/02/10(日) 10:29:38.46
「意識の流れ」は当初はモダニズムと相まって前衛的手法・実験的手法と
して現れたけど、現在では内的世界を描く一技法として定着し、陳腐化
している面がある。
1954年の時点で、ハンフリーはすでに次のように言っている。
「現代の小説と意識の流れ」p189−190

>意識の流れは今ではもはや陳腐な技法にすぎない。
>性格描写の方法としての意識の流れは、新しく公認された実在となった。
芸術は常に人間の〈内的生活〉を動態的に表現し、対象化しようと努めて
きた。意識の流れが摘出した〈内的生活〉がすでにしてひとつの実在であって、
いかなる意識にも通用することをわれわれは認めているのだし、この実在を
伝達するための技法、趣向、形式も確立されている以上、小説芸術は従来に
なくその目的達成に接近していることになろう。
 しかしながら人間の内的生活、つまり前言語段階の意識が小説の主題として
妥当であるということが受け入れられた事実は注目してみる必要がある。
148G ◆Y.6.rbvT92 :2013/02/10(日) 10:31:05.05
フォークナーと同時代人のハメットに始まるハードボイルドの手法は、あえて
三人称で、行動や表情の客観的描写により、直接描写されない登場人物の内的
生活・前言語段階の意識を読者に想像させる点でやはり、「意識の流れ」小説
出現後の手法なんだと思う。
この手法もその後、陳腐化していくわけだけど。
フォークナー研究者の諏訪部浩一は、「意識の流れ」を裏返したという言い方を
している。「『マルタの鷹』講義」(研究社、2012)p7より

>(ハメットは)『マルタの鷹』を書こうとしている時期(一九二八年三月)に編集者に
宛てた手紙では、探偵小説に「意識の流れ」の手法を応用したいと記し……

>いうまでもなく、『マルタの鷹』には「意識の流れ」というハイ・モダニスト的
な技法は用いられていない。だが、そういった方法論的な問題意識が深く内面化さ
れていたからこそ、「意識の流れ」をいわば裏返す形で、探偵の内面をいっさい
開示しない三人称をハメットが採用することになったと考えることは可能であろう。
149G ◆Y.6.rbvT92 :2013/02/10(日) 10:34:00.19
プルーストの『失われた時を求めて』も「意識の流れ」の小説と言われることが多いが、
ハンフリーはそれを否定する。前掲p8

>『失われた時を求めて』は、たんに意識の回想性しか扱っていないのである。プル
ーストは細心の注意をはらって過去を捉えて伝達しようとしたのである。したがって
彼は意識の流れの小説を書いたのではない。意識は氷山のような形をしたものと考えて
みよう――もちろん、水面上のわずかな部部ではなしに、氷山全体の形をである。この
比喩でいくと、意識の流れの小説は水面下にかくれている、より大きな部分の方に密接
に係わりあっている。

ただ、「スワンの恋」の終りの方にでてくるスワンの夢、また、「心情の間歇」にでて
くる語り手の夢は言語表現以前の意識から無意識世界を垣間見させるものがある。
ことに後者は、「意識の流れ」の一技法の内的独白に似ている。
中村真一郎が、1980年代に南米小説の特質として語った次の箇所
(「読書三昧」新潮社、1985)

>作品の地肌が夢に似ているという点である。大体が、現実が内面化されるということは、
作者の眼が無意識世界へ投射されるということで、「二十世紀小説」の特徴のひとつは、
無意識界の表現ということになっていた。このために小説のなかに夢の登場するのも稀
ではなくなる。
150G ◆Y.6.rbvT92 :2013/03/06(水) 08:43:22.50
集英社文庫の「ユリシーズ」Uに三浦雅士が寄せたエッセイ

「ユリシーズ」の最大の魅力は意識の流れの手法などにはない。
この手法がうまく活用されているのは、ヴァージニア・ウルフ
「灯台へ」のような小品であるとし、さらに

>いちばん成功しているのは、たとえば宮澤賢治が自分で「心象
スケッチ」と称して書いていた一連の詩じゃないかと思えるほどで、
あれこそ「意識の流れ」そのものです。この手法は、揺れ動く心象
世界を描くにはいいけど、物語をつたえるには必ずしも適切な手段
じゃない。

という。
確かに、賢治の「小岩井農場」や「真空溶媒」に自分も「意識の流れ」
っぽいと自分も感じる。妹としの死後の一連の挽歌もそうだな。
いずれも「春と修羅」第1集所収。
http://www.ihatov.cc/poems.htm
151吾輩は名無しである:2013/10/30(水) 15:12:49.61
>>147
可能です。
以上。
↓次の方どうぞ
152吾輩は名無しである:2014/02/02(日) 00:54:00.10
明治期の日本文学こそ意識の流れの奔流の宝庫、一例をあげれば、
森鴎外の『高瀬舟』。
153吾輩は名無しである
(筒井康隆)『家族八景』(72年)はモダニズムに学んだ「意識の流れ」を、
ヘミングウェイ流の乾いた文体で中間小説に取り入れた試みだった。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20140317-OYT8T00553.html?from=yartcl_popin