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猥褻性について。
猥褻というのは、倫理や法、哲学と大幅に矛盾した本能の暴露といえる。
これは蛮行や、人々に模倣の影響で退化的行動を引き起こし易いので悪となる。
例えば、婚前交渉、つまり結婚前に性的交渉をもつかどうかについて考える。
これは純潔を重視する宗教や信仰の持ち主から見ると、猥褻になる。
許しがたいばかりか、罰を与えるべき貞操への裏切りとなる。
しかし、そうでない人々にとって、その行動は自然の本能に過ぎない。彼らは自由恋愛という。
この2つの人間を見比べると、猥褻性はより複雑な倫理観を持つ者にとってのみ存在する。
つまり、猥褻刑への法の公的利益というのは、こういった複雑な倫理観のもちぬしを保護する事だ。
未開状態では、人間は全ての法・倫理・哲学からはなれている。彼らには不法性や猥褻性はない。
しかし、一定の信仰や正義の共感覚がある場で、彼らの規律に背いた行動をとると、それは不倫で違法となる。
具体的に綿矢りさや村上春樹、石原慎太郎の小説について考える。
彼らの小説にはあきらかに一般的性風紀に背く現実の模写が複数登場している。
しかし、かれらにとってこれらは不倫でもなければ不法とも認識されていない。
そのために、公益的な観点からそれを指摘する人間を阻害し、犯罪に類した蛮行に訴えてでも抑圧したがる。
ところで、上述の論旨がとれれば、この行為そのものが単純な倫理観の作家のみが行うものとわかる。
もともと、猥褻の定義はより複雑な倫理観のもたらす公的利益を守るためだから、
これらの猥褻と指摘される作家は、知らず知らずのうちに、そういった人間を傷つけ、裏切っているが、反省できない。