【モンブラン】 雑談スレ79 【くりごはん】

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アルケー:根源、が何かという事をギリシアの哲学者は探っていた。
プラトンにとっては、最終的にそれは善のイデア、となる。
善とは何かを知りつたえる事ができれば、ポリスは理想的な秩序に治められるだろう。

ところで、まつるべきなのは、おそらくこの善のイデア、ということだろう。
複数のイデオロギーのうち、止揚最高段階のイデオロギーは善のイデアそのものといえる。

どうも、自分はもともと言葉ののぞましいはたらきは、
この善についての考えのやりとりでしかないと思う。
「他人になにかをつたえる」意味は、その集団の共同化をすすめる。

>>849デリダが西洋文化でおこなったのは、
日本バージョンでいうと、「神の子孫としての皇族のお話」である『古事記』を
その解釈は如何様にもできる(差延)、だから再解釈性にしか善意はないのだ(脱構築)、
いいかえれば、神の子孫とは何か、神とは何か、神という文字は、と
無限に文面を再解釈できる余地をのこしつづける事が、コミュニケーション上の善意である、と考えた。
このばあい、口語のやりとりで脱構築ができるとは、デリダは考えていなかったらしい(ローティとの対話)。
文面との間にそれを限定したのは、「よく考え直す」というコミュニケーションの時間差が決定的に重要だったから。
つまり、判断保留や勘代えの合間にのみ、善意が挿入されなおされる余地がのこる。これは法解釈にとっては猶予的な考え方。

で、文学上にデリダはこの方法論を必ずしも十分に考究しなかったみたいだが、文学的な善のイデアもやはり同じかもしれない。
言葉による修辞はコミュニケーション手段であって、カントのいう意味での目的ではないのではないか?
言語芸術は合目的性とすれば、善のイデア、つまり「まことさ」をあらわす能力しか求められない。これが求められている事なのだ。
作り事や作り話をする能力は重要ではなく、伝えられたまことさの中にどれほど善のイデアの高さ、つまりはまことのよさがみられるか。これしか目的の言葉はない。