好きと嫌いとはつまりはこれは快感原則であり、
快と不快と言い換えることができるが、快と不快は相対的に決まるもので、
「快なるもの」「不快なるもの」という本質はない、となる、空観では
しかし本当にそうだろうか。
わからなくもない、例えば痛みなどは人間の痛点という圧力センサーで感知されるもので、
圧の度合いによって痛みになる
圧が痛みにまでない低圧力であれば、かゆみやくすぐったさなどと処理される。
痛点というセンサーが検知しているのはあくまで圧力であり、快でも不快でもありえる。
快なるもの、不快なるものという本質があるわけではない。
しかしだ、本当にそうだろうか、快や不快に本質はないのだろうか。
快とは欲望が満たされることでもあるゆえ、「本当の快」については多くの人間が目指し失敗してきた
わたしは「本当の不快」を目指すべきではないかと思う
それらの一例が、オカルトなどという「恐怖や不安」という精神医学的には不快とされる感情を
わざわざ惹起させようとすることに表れている。
わたしはオカルトはむしろ幻想から現実に向かうあがき(本当の現実は到達不可能なので)だと、
精神疾患者や倒錯者の享楽に近いものだろうと思っている。
つまり、「恐怖や不安なるものの本質を探ろうとする」オカルトは大体のところ「不快を目指すべき」とする
わたしの論旨に合致する部分があるので、わたしは常にオカルト擁護派の立場を取る。
>>700に「オカルトを幻想という全否定する場所」と書かれているが、どこの話だろう、ここのスレのことか?
とよくわからなかったのでスルーしていたが、少なくともわたしはオカルト文化については擁護派である。
しかしオカルト文化自体への批判は今まで見えなかったので擁護してないだけだ。
前世スレなどのオカルトはわたしの考える「恐怖や不安という不快に進む」オカルトとは少し異なろう。
彼らは幻想を共有することでお互いの承認欲求を慰めあっているわけで、それを揺るがすのがオカルトであるゆえ、
まぐなが行ったことがむしろわたしの言う意味ではオカルトとなるだろう。