「私とは何か、人間とは何か」。それは小説には常に書かれ、いつの時代でも
今日でも、常に進行中の近代化過程の上部構造として、つまり常に失われてい
く自己の補償装置として、小説は存在について象徴的なものの閉域内部で考え、
あるいは考えるふりをする。それは私や人間の「意味」、つまり私や人間の性
行為、私や人間の生産活動、私や人間の病気や死の、意味を語る。夏目漱石の
時代でも今日でも、人間の意味はこうだと言い、意味はないと言い、こうすれ
ば意味を忘れるくらい気持ちいいと言い、やはり忘れられなかったと言い、何
とかしてくれと言い、そんなことは言うなと言い、何も言いたくないと言う。
それらは臨床社会学的、文芸評論的、歴史学的な価値をもつ。つまり知的、
芸術的観点からは、一行の例外もなくゴミ屑であり、既に哲学という「意識」
内部で分節されたことの、大衆版、発展途上国版だ。
「私は何か」「人間とは何か」。それらの問いは広すぎ、茫漠とし、馬鹿げて
いて、解答など存在しない。
もし誰かが「机とは何か。なぜそれはここにあるのか」「コップとは何か。
そもそもそれは何なのか」と問いかけるなら、それを聞く者は、彼に精神科を
受診するよう勧めるだろう。あるいは誰かが「神とは何か。それはなぜ存在す
るのか」と今日問うなら、やはりそれを聞く者は、彼の文化に同情と敬意を払
いつつ、彼がその問いを諦めるのを待つだろう。
そして「人間とは何なのか、私はどこからやって来たのか」という問いも、
それが昼の明るい陽射しの下で声高に問われるなら、やはり精神科の管轄に所
属する。しかしそれが昼の陽射しと生産と交換の最中(さなか)でなく、夕暮れ
から夜の時間に、声になるわずか手前の喉元で出されるなら、人がそれを発す
るのを誰も聞いたことがないのに、人がそれを発しているのを誰もが知ってい
る、ありふれた問いとして、今日でもなお存在する。
それは哲学の最後の避難所、あるいは哲学と神経症、「存在」と「人間」の
燃え滓のようなものだろうか?
一日の仕事の後、郊外電車が地下から地上に上がり、群青(ぐんじょう)色から
黒に変わりつつある空に高層住宅群の明かりが浮かぶのを目にしながら、曖昧
な意識と疲労の中で、人は「私は何なのか。私は何をしているのか」と問いか
ける。あるいは夜空に帯状に広がる無数の銀河系の星を前に、高揚と空虚が同
居する気分の中で、人は「人間とは何なのか」と問いかける。
「机は何か、コップは何か」という問いかけが馬鹿げていても、「私は何か」
「人間は何か」が可能なのは、それが「問いかけること」の祖型、いわば原‐問いかけ
であり、そこで問われているのは問いかけの行為そのものであり、そこには世
界の分節と言語の手前で、原初的他者に向かおうとする力動が刻印されている
からだ。「私は何か」は、発声が言葉と意識に変わる最初の場所の痕跡だが、
それは同時に声が向かい、探し求めた最初の他者の痕跡でもある。そして「私
は何か」が意識の中へと再び現れ、主体の「今」に回帰する時、その他者は墓
標となり、遺跡となり、絶対他者の彫像のように、その問いの受け手となる。
それゆえ「私は何か」は、象徴的・日常的世界での自我の自信喪失をきっかけ
に、原初的他者への依存を求めて、しばしば退行的に出現するが、しかしそれ
はまた、高揚する自我が日常の臨界まで漂流し、星雲の中で世界との最初の出
会いに回帰する一瞬にも、発現する。
今日これらのこと、「私は何か」のメカニズムを、人々は概略知っている。そ
れゆえ人は、この問いを問い詰めない。もし人が「私は何か」を自我の意味へ
と去勢せず、しかもそれをあくまで言語と意識の中に留めおくなら、神話が再
来し輪廻が始まることになるだろう。そこでは世界が到来し、目に入りこみ、
私となる瞬間が、多形倒錯的・退行的に保存されつつ、他方で全ての意味作用
はその瞬間に回付され、認識から解き放たれ、最終的に「私はどこにもいる」
が意識の中で造形される。原初的視覚と原
初的他者は、カメレオンを変態させる森の緑のように実体化され、意識と時間
の中に侵入し、「私は常に生成する」という感覚、「私はどこにでも生起する」
という声となり、それが自我を飛び越え、認識を眠らせ、世界の中の自我であ
る「この私」の、死の問題、あるいは世界の中の自我と自我との相克である、
善悪の問題を抹消する。