1 :
吾輩は名無しである:
2 :
吾輩は名無しである:2012/05/02(水) 21:48:30.33
おれは、ストラヴィンスキーは、
残ると、思うね^^
いい曲、だもんな^^
おれは、クラシックでは、やっぱ、バッハだね^^
マタイ・ヨハネ受難曲、
ミサ曲ロ短調(←特に、最後の、ラッパのとこ)、
なんか、何回聴いても、泣けるもん^^
冒頭 石原吉郎
すべての沈黙の冒頭へ
沈黙とかかわりなく
石塔が立つ
立つことにおいて それは
冒頭の面目である
石塔をして所在あらしめよ
それが沈黙の理由である
ちょっと最後の方で吉本の話が出てたので勝手に追悼やっちゃいますね。
いろいろ、吉本の追悼文が出てたけど、気に入ったの一つも無かったし、期待してた
全共闘世代も沈黙が多いのね。
吉本の幼年時代や青年時代って、すごく恵まれてたでしょう?
少なくとも、今の若者達のおおくよりずっと恵まれてと思うんだよね。吉本本人もそのことを自覚してたと
思うし、ことあるごとに、今の子供達に手を差し伸べようとしてたと思えるんだよね。
それが上手くいってたという形跡は無いけど、あの皺の多い瞼の億でずっと今の若者たちを見てたと思う。
6 :
吾輩は名無しである:2012/05/02(水) 22:04:56.53
「一つのメルヘン」中原中也
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
7 :
吾輩は名無しである:2012/05/02(水) 22:33:34.64
>>4 おっ^^
石原さんの、詩^^
>>5 初音ミクちゃん、とかが、ネットで、すごい、
若い人たちに、受け入れられてて、
そこから、少しずつ、芸術が、作られて、
いくと、いいなー、なんて、おれは、思ってます^^
やっぱ、紹介してくださった、ボカロの、落語、面白いもん^^
吉岡さんは、やっぱ、目が優しいよね^^
なるほどー^^
今の時点では、納得できる、吉岡さんの、追悼文は、ないかー。
今、吉岡さんの、世代、あまり、エネルギー、感じないもんな。
今の、若い人は、アイドル系とか、ファッション系、アニメ系に、
おれは、すごく、エネルギーを、感じます。
何かが、出てくる、予感が、します^^
たしかに、たしかに^^
吉岡さんの、時代は、芸術で、天才だらけだもんなー。
みんな、どこかで、接点が、ありましたよねー。
今より、みんな、もっと、のんびりしてた。
最期の、吉岡さんの、目、
おれには、とても、寂しく、見えました。
8 :
吾輩は名無しである:2012/05/02(水) 22:44:00.74
>>5 >>7 ごめんなさい^^
吉岡じゃなくて、
吉本^^
吉本隆明さん、でっす^^
ごめん^^
>>7 吉岡じゃないってば、吉本。吉本隆明。
吉岡だと吉岡実っていう別の詩人になっちゃうよ。
(吉岡実もテクニックのある大家だよ)
うん、それで、吉本の少年時代だけど、恵まれてると思えるのは「出会い」
ということ。自分が変わるという瞬間には、必ず他者との出会いがあるけど、
吉本は青年期に、とても良い他者と出会ってるんだよ。
そんなばなな
11 :
吾輩は名無しである:2012/05/02(水) 23:10:45.08
>>9 ごめんね^^(笑)
おれ、どうも、吉、と打つと、
次、岡と、打ってしまう(T0T)
たしか、中学かな?高校かな?
の時の、先生との、出会いが、
吉本さん、詩・文学に、目覚めさせられた、
って、言ってるね^^
先生が、吉本さんの、詩の、評価を、
してくださったらしい^^
その頃、ちょうど、同じ頃に、
吉本さんも、田村隆一さんも、
天童といわれてた、北村太郎さんに、
強く、衝撃を、受けられてるね。
北村さんが、16才で、煙草、吸われたり、
喫茶店に、入られたり、
詩誌ル・バルを、読まれてることに、
強く、影響を、受けたみたい^^
12 :
吾輩は名無しである:2012/05/02(水) 23:12:52.18
例えば、今氏乙治の私塾に通う。
と、吉本の少年期の年譜に書かれてるけど、この今氏という無名の教育者、
よく解ってないけど、多分「雰囲気作りの天才」なんだったと思うよ。
取り分け知識教育に習熟してた訳でもないのに、子供達同士の関係を調整しながら
興味対象を導いていく能力に天才的なものがあったとしか思えない。
さらに終戦後、東工大にいた遠山哲。
「固有時との対話」って、遠山の量子力学の講義が無ければ、あの最初の詩編は無かったと思う。
時代が右から左へ大きく揺れながら、翻弄されても飲み込まれずすんだのは、この二人の教育者と
その周りに参集してた友人達のおかげだった思えるんだよ。
そして、こうした優れた人間関係って、自分の努力ではどうにもならないんだよね。
例えば「運」というコトバがあるけど、これに偶然か必然かの色分けが不可能なように、吉本も
自分の成り立ちに決定的な判定をしなかった。出来なかったと思う。
それから、昭和元年生まれの文化人で吉本の他に同級生を捜すと
三島由紀夫、安部公房、梅原猛、手塚治虫と、錚々たる面々が並ぶけどさ。
彼らは三島以外、受験秀才じゃないんだよね。
無試験で配給で大学に入ってるんだよね。
だから、吉本の戦後の受験戦争に対する態度って歯切れが悪かったでしょ。
もちろん全く肯定はしなかったけど、「下らない」と強弁することもなかった。
明星学園がいいとか、日大芸術学部がいいとか、半身で意見するていど。
けれども戦後のエリート達、柄谷、浅田、宮台などが頭角を現してくると、その
実力は認めていた、反語的にね。
たしかに、後世に名を残すような人はみんな出会うべくして出会ってるんだよね
それとあの時代はまだ今のように価値観というか、一定の基準みたいのが確立されてなかったのも大きい気がする
今は多少の程度の差こそあれ、みんな同じようなコースを歩んでる
十代の若者にとって、受験による選別って苛烈で残酷でしょう?
とくにアジア的遺制の残る社会では、受験に失敗したというケガレは、生涯付きまとう印に
なってしまう。
こうした抑圧の凄まじさを吉本は敏感に察知してたと思うし配慮していた。けれども、どうすることも
出来なかったと思うのね。
尾崎豊やエンドウミチローとかを評価したところで、社会全体の仕組みには爪を立てることも出来なかった
と思う。
そうだからこそ吉本の人々に対する態度って全的なのね。自分の目の前に現れた人間には全力で対応しようと
する。目の前の人間は全て自分と同等以上の能力があり、例え意味不明なことを口走ったとしても、自分の理解力
が足りない所為だと考える。ハタから見てて滑稽だと思える、あの説明魔の仕草って、人間に対する理解力は限度
が無いし設けるべきじゃない、自分はそうはしないんだという決意のようなものを感じたよ。
>>16さんは、
吉本さんの、とても、いい読み方を、
されてるなー。
たしかに、吉本さんが、今氏先生の、
元で、勉強されてたのは、とても、人生で、
大切な、時期だもんなー。
出会いも、とても、大切な、運だけど、
吉本さん、自身も、そういう、出会いが、
できるような、資質のある、人、だったんだろうね。
そういう、人の、元に生まれた、
娘さん、吉本ばななさん、も素敵な人、
だもんなー^^
おれ、ミシェル・フーコーの、哲学・思想に、
とても、強く、影響を、受けたので、
今度、美容院で、頭、禿にしよ。
フーコーは禿を気にして自分で剃ってたんだってね
たまに血が滲んでいたとかw
>>18 というわけで、髪があるなら早まるな!
鳥の言葉 ペルシア神秘主義比[喩]物語詩
(東洋文庫 821)
アッタール=著
黒柳恒男=訳
定価:3150 円(本体:3000 円) 全書判 318頁 2012.05
ISBN978-4-582-80821-6 C0198 NDC分類番号 929.91
ペルシアの神秘主義詩人アッタールの代表作を本邦初訳。様々な比喩、物語、
逸話によって神秘主義思想を表現。神である霊鳥スィーモルグを探し求めて、
鳥(神秘主義者)たちがたどる苦難に満ちた旅。
ちょっと「涙」について語ってみないか?
最近巷で耳目を集めた鉄拳の「振り子」について語ってみないか?
ずいぶん前に「一杯のカケソバ」っていう小話が流行ったときや、「マディソン郡の橋」
が流行ったときみたいに、おいらは感傷は魂のポルノグラフィーだ、と切って捨てようと
したんだけど、「振り子」はちょっと違うな、という感覚が仄めいて出来なかったんだ。
「一杯の・・・」や「マディソン・・」と、「振り子」の涙の違いって何だろう?
あるいは、ボーカロイドの曲「ココロ」や「LAIKA」も「振り子」と同じように切り捨てることが
出来なかったのは何故なんだろう?
涙に「質」はあるんだろうか?
>>19 フーコーの、『私は花火師です』という、題名と、
表紙、見た時、笑った^^
フーコーの、パチンコ、チックな、頭は、
心に、訴えてくるものが、あるね^^
血が、滲んでいる、というとこ、フーコーらしいw
>>20 アッタールは、お医者さん、もしてたみたいだね。
イランかー^^
とても、神秘的な国。
おれは、キアロスタミの、映画、大好き^^
>>21 人間は、限られた命の中で、必死に、抵抗しようとする、
意志を、感じた時、感動する、と、おれは、思う。
ここで、問題は、10人の人が、「振り子」を見て、
その中で、9人が、感動し、1人だけが、感動しないとする。
感動した、9人と、感動しなかった、1人の、違いは、何か?
でも、おれは、そこに、希望を、感じる。
「振り子」を見た、人、すべてが、「振り子」に、感動したら、
それは、おれにとっては、すごく、怖ろしいこと。
http://www.youtube.com/watch?v=b8KKf6zwRKA
「この部屋を出てゆく」関根弘
この部屋を出てゆく
ぼくの時間の物指しのある部屋を
書物を運びだした
机を運びだした
衣物を運びだした
その他ガラクタもろもろを運びだした
ついでに恋も運びだした
時代おくれになった
炬燵や
瀬戸火鉢
を残してゆく
だがぼくがかなしいのはむろん
そのためじゃない
大型トラックを頼んでも
運べない思い出を
いっぱい残してゆくからだ
がらん洞になった部屋に
思い出をぜんぶ置いてゆく
けれどもぼくはそれをまた
かならず
とりにくるよ
大家さん!
「対称の領域」森博嗣
夢の中ではいつもロープウェイに乗る
途中で反対方向のゴンドラと擦れ違う
空っぽのはずのそのゴンドラに
擦れ違う一瞬、僕は僕を見つける
こちらを見て笑っているのだ
そうか……
僕は一人ではなかったのだ
少しだけ悲しくなった
空しくなった
向こうの僕は何を笑っていたのだろう?
小野小町
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
おれは、今日、ひとの、死について、考えてた。
笑う感覚、って、その時代、時代で、
笑いの文化、変化、って、あるじゃないですか?
でも、なぜ、死には、人間の、死生観の、
変化が、無いんだろう?
古代から、芸術、文学を、見ても、
死に対して、人は、脅え、苦しみ、悲しむ、
ということが、共通してるじゃないですか?
なぜ、いつの、時代にも、
死に、関してだけは、
人間の、価値観が、
変らないのだろうか?
>>28 価値観の変容はあるよ
具体的に死生観に焦点を合わせた研究もある
過去において実際に死がどれだけ身近であったかを考えて見るに
百年前と千年前を比べるよりも
ここ数十年とそれ以前を比べると明白だと思う
そもそも
>>28さんの問いが文明化や医療が高度に進展した後期資本主義より前には
意味をなさない問い、というか問うことができなかったであろうことからも推察できるんじゃないかな
でも問いそのものは今日的だからこそ、すごく意味があると思いますよ
気に障ったらごめんね
し
り
>>29 レス、どうも、ありがとう^^
この、スレでは、重すぎる、質問かなー、っと、思って、
ちょっと、心配してました。
西洋なんかの、神が、大きく、背後にある世界では、
死の、価値観は、一定なのかな、と、
勘違いしていた、おれに、
>>29さんの、ご指摘は、明解でした^^
なんか、おれ、
>>29さんの、おかげで、
文学に、希望を、持てるように、なった^^
赤木三郎
こわれた時計はなおしたが
歯車に みのこした夢が こびりついてた
動かなければ
永遠だった のに と
石川啄木
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
芸術に救いはあると思うけど、救おうとするのは駄目なんじゃないかな
むかしサルトルが「飢えた子供の前で文学は有効か」という問いかけをしたけど、
文学が飢えた子どもたちの血や肉となるはずもないから、命を救うと言う観点からは無力だろうね。
また文学や芸術が全ての人に対しての有効な救済装置になり得るというのも幻想に過ぎないように思う。
ただ俺が自分自身に向かって、文学や音楽などが俺を支えてくれたことがあるか、慰めてくれたことがあるか
鼓舞し、力を与えてくれたことがあるかと聞かれれば「ある」と答える。
信仰を持たない俺にとって暗闇の中のたいまつのようなものであるとさえ言える。
そういう人間が一人でも居るとしたら文学や音楽も無駄ではないと思う。
そしてそのような人間が世の中にはたくさん居ることに間違いはないと思う。
文学音楽は資本主義のただなかにおける「精神」の終の棲家、痕跡、
「私とは何か、人間とは何か」。それは小説には常に書かれ、いつの時代でも
今日でも、常に進行中の近代化過程の上部構造として、つまり常に失われてい
く自己の補償装置として、小説は存在について象徴的なものの閉域内部で考え、
あるいは考えるふりをする。それは私や人間の「意味」、つまり私や人間の性
行為、私や人間の生産活動、私や人間の病気や死の、意味を語る。夏目漱石の
時代でも今日でも、人間の意味はこうだと言い、意味はないと言い、こうすれ
ば意味を忘れるくらい気持ちいいと言い、やはり忘れられなかったと言い、何
とかしてくれと言い、そんなことは言うなと言い、何も言いたくないと言う。
それらは臨床社会学的、文芸評論的、歴史学的な価値をもつ。つまり知的、
芸術的観点からは、一行の例外もなくゴミ屑であり、既に哲学という「意識」
内部で分節されたことの、大衆版、発展途上国版だ。
「私は何か」「人間とは何か」。それらの問いは広すぎ、茫漠とし、馬鹿げて
いて、解答など存在しない。
もし誰かが「机とは何か。なぜそれはここにあるのか」「コップとは何か。
そもそもそれは何なのか」と問いかけるなら、それを聞く者は、彼に精神科を
受診するよう勧めるだろう。あるいは誰かが「神とは何か。それはなぜ存在す
るのか」と今日問うなら、やはりそれを聞く者は、彼の文化に同情と敬意を払
いつつ、彼がその問いを諦めるのを待つだろう。
そして「人間とは何なのか、私はどこからやって来たのか」という問いも、
それが昼の明るい陽射しの下で声高に問われるなら、やはり精神科の管轄に所
属する。しかしそれが昼の陽射しと生産と交換の最中(さなか)でなく、夕暮れ
から夜の時間に、声になるわずか手前の喉元で出されるなら、人がそれを発す
るのを誰も聞いたことがないのに、人がそれを発しているのを誰もが知ってい
る、ありふれた問いとして、今日でもなお存在する。
それは哲学の最後の避難所、あるいは哲学と神経症、「存在」と「人間」の
燃え滓のようなものだろうか?
一日の仕事の後、郊外電車が地下から地上に上がり、群青(ぐんじょう)色から
黒に変わりつつある空に高層住宅群の明かりが浮かぶのを目にしながら、曖昧
な意識と疲労の中で、人は「私は何なのか。私は何をしているのか」と問いか
ける。あるいは夜空に帯状に広がる無数の銀河系の星を前に、高揚と空虚が同
居する気分の中で、人は「人間とは何なのか」と問いかける。
「机は何か、コップは何か」という問いかけが馬鹿げていても、「私は何か」
「人間は何か」が可能なのは、それが「問いかけること」の祖型、いわば原‐問いかけ
であり、そこで問われているのは問いかけの行為そのものであり、そこには世
界の分節と言語の手前で、原初的他者に向かおうとする力動が刻印されている
からだ。「私は何か」は、発声が言葉と意識に変わる最初の場所の痕跡だが、
それは同時に声が向かい、探し求めた最初の他者の痕跡でもある。そして「私
は何か」が意識の中へと再び現れ、主体の「今」に回帰する時、その他者は墓
標となり、遺跡となり、絶対他者の彫像のように、その問いの受け手となる。
それゆえ「私は何か」は、象徴的・日常的世界での自我の自信喪失をきっかけ
に、原初的他者への依存を求めて、しばしば退行的に出現するが、しかしそれ
はまた、高揚する自我が日常の臨界まで漂流し、星雲の中で世界との最初の出
会いに回帰する一瞬にも、発現する。
今日これらのこと、「私は何か」のメカニズムを、人々は概略知っている。そ
れゆえ人は、この問いを問い詰めない。もし人が「私は何か」を自我の意味へ
と去勢せず、しかもそれをあくまで言語と意識の中に留めおくなら、神話が再
来し輪廻が始まることになるだろう。そこでは世界が到来し、目に入りこみ、
私となる瞬間が、多形倒錯的・退行的に保存されつつ、他方で全ての意味作用
はその瞬間に回付され、認識から解き放たれ、最終的に「私はどこにもいる」
が意識の中で造形される。原初的視覚と原
初的他者は、カメレオンを変態させる森の緑のように実体化され、意識と時間
の中に侵入し、「私は常に生成する」という感覚、「私はどこにでも生起する」
という声となり、それが自我を飛び越え、認識を眠らせ、世界の中の自我であ
る「この私」の、死の問題、あるいは世界の中の自我と自我との相克である、
善悪の問題を抹消する。
>>36 やっぱ、難しい問題だね^^
なるほどー、ドイツ文化が、アウシュヴィッツを、
生んだかー。
アドルノは、音楽についても、多くの、著作を、
残されてる、みたいだね。
ニーチェ→ワーグナー→ドイツ文化→アウシュヴィッツ
なんかの、流れでも、興味深い、問題。
>>37 たしかに、たしかに^^
芸術に、よって、一番救済されるのは、
自分自身かもしれないね^^
そこから、他人を、救済することへと、
繋がっていくと、いいね^^
>>38 38さんの、文学、音楽が、自分自身を、
救ってくれた、ことがある、という、言葉は、
力強いね。
おれも、他の人に、ひとりでも、いいから、
精神のリレー、として、芸術の、バトンを、
手渡したい^^
「ある代議士の葬儀」中桐雅夫
冬の冷たい風が、痩せた禿鷹のように
会葬者の口と、壁にピンでとめられた赤い弔旗の
間を吹きぬけた。「いくら寒くても
こういうところでは手をこすってはいけない……」
葬儀委員長は重々しい足どりで
祭壇の前に歩みよった。一層静かになった。
だが、この静けさには何か欠けたものがある、
悲しみもあり、人の死にふさわしい厳粛さもあるが、
吹きぬける風をとめる力を持つ何かが欠けている。
委員長は声を高めて言った、
「三十余年の同志の死にあい、許されるならば、
私が君にかわりたかった……」
(この誇張を、誰も不思議に思わないのは
それが葬儀というものだからだろうが)
大学教授は遺影を見あげて言った、
「いまは静かに眠ってください。そして
われわれの望んでいるような時が来たら
眼をさまして立ち上ってください……」
(そんなことができるとは誰も思ってはいないが、
葬儀は死者にとって大切というより、
生き残った者の慰めなんだ)
(続く)
(
>>45の続き)
黙祷。静かな一分間の長さ。人の死がこんなに悲しくないものとは
今が今まで気がつかなかった。
第二次大戦における日本兵士の
戦死、行方不明は二百五十六万五千八百九十八名、
1般市民は約六十万、そしてここに今、
行われているのは一人の代議士の葬儀。
委員長はまた祭壇に近づき、作法通り、
三度、香をつまんで、三度、頭をさげた。
(彼は無宗教のはずだった)
続いて顧問が立って、おなじ所作をくりかえした、
(彼はクリスチャンのはずだった)
「いくらのみたくても、
こういうところでは煙草をとり出すわけにもゆかぬ」
斎場を出てマッチをすると、
炎は大きく大きく、夕陽のように燃えて消えた。
タクシーに合図する僕の右手に穴をあけて、
死はまた風のように、どこかへ吹きぬけてしまった。
>>41 たしかに、たしかに、
あまりにも、抽象的で、漠然とした、問いかけ、
だもんなー。
でも、こういう、問いから、
芸術が、生まれるという、
手応えが、おれには、あるなー^^
>>40-43 これは樫村晴香さんの文章だと思うんですが、引用の場合には出典を書かないと問題があると思います。
もしご本人でしたら差し出がましい意見ご容赦願います。
>>48 なるほどー^^
>>40さん、もし、おいでであれば、
引用の、先を、教えてくださいませ^^
よろしく、お願いします^^
「階段」寺山修司
一段目に夏
二段目にぼく
三段目にみずえ
四段目に腰かけて
五段目で初恋だった
六段目で何をしたのか
七段目で神さまが見てた
八段目でみずえが立上ると
九段目でぼくは淋しくなった
十段目で哲学し自省し感傷して
十一段目で訪れる秋をむかえよう
十二段目で翼のように両手ひろげて
十三段目さま人生さまみんなさよなら
面白いね
AAなんかもよくああいうのが作れるなあっていつも感心させられてる
あれもひとつの詩だと思うんだよね
無名なのもいい
>>51 最近、また、寺山さんの、詩・短歌・俳句を、
読み直してます。
やっぱ、寺山修司さんは、世界観が、素晴らしい^^
>>52 AAさんは、おれは、初めて、お聞きする、お名前で、
今、ネットで、見てきたんですけど、
ユニークな、詩だね^^
詩の、スタイルも、面白い^^
「終電車の風景」鈴木志郎康
千葉行の終電車に乗った
踏み汚れた新聞紙が床一面に散っている
座席に坐ると
隣りの勤め帰りの婆さんが足元の汚れ新聞紙を私の足元に
けった
新聞紙の山が私の足元に来たので私もけった
前の座席の人も足を動かして新聞紙を押しやった
みんなで汚れ新聞紙の山をけったり押したり
きたないから誰も手で拾わない
それを立って見ている人もいる
車内の床一面汚れた新聞紙だ
こんな眺めはいいなァと思った
これは素直な光景だ
そんなことを思っているうちに
電車は動き出して私は眠ってしまった
亀戸駅に着いた
目を開けた私はあわてて汚れ新聞紙を踏んで降りた
引きこもり・・・蟄居、さく居。
若者達はネットの中に引きこもると言うけれど、本当に引きこもって
いるのだろうか?
アーレントの「精神生活」という本の中では、「引きこもり」が哲学用語
として登場する、「現象学的還元」とか「状況の括弧入れ」とかじゃなく
「引きこもり」というコトバが選ばれている。
多分、ネットの中で自分A'に成っているのだろうな。
本当に引きこもるのは、逆に難しい社会になったのではないだろうか?
>>55 おれは、友達が、一人も、いないんですけど、すごく、気楽^^
バイト中以外の時間、一人で、部屋で、本読んでるか、
ネットしてるか、どっちかです。
友達付き合い、とか、合コン、とか、飲み会、なんて、
おれには、つらい。
ひとりで、いるほうが、おれは、楽しいです。
今の時代の、引きこもり、っていうのは、
ひとつの、文化だと、思う。
対人関係が、すごく、ストレスになる、
今の、時代を、反映した、現象なんじゃ、ないかな?
「恐怖」石原吉郎
まぎれもなく健康であることは
たぶん巨きな恐怖だから
きみはなるべく
病気でいるがいい
ドアが正常に開き
通行を保障されるのは
たぶん巨きな恐怖だから
きみはすみやかに
拘禁さるべきだ
二人の男が向きあって
なにごともなく
対話がつづくのは
たぶん巨きな恐怖だから
一人は 即座に
射殺せねばならぬ
西行法師
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ
寂蓮法師
村雨の 露も未だ干ぬ 槇の葉に 霧立ち昇る 秋の夕暮れ
「春望」杜甫
国破山河在、城春草木深。
感時花濺涙、恨別鳥驚心。
烽火連三月、家書低萬金。
白頭掻更短、渾欲不勝簪。
「春望(しゅんぼう)」杜甫(とほ)
国(くに)破(やぶ)れて山河(さんが)在(あ)り
城(しろ)春(はる)にして草木(そうもく)深(ふか)し
時(とき)に感(かん)じては花(はな)にも涙(なみだ)を濺(そそ)ぎ
別(わかれ)を恨(うら)んでは鳥(とり)にも心(こころ)を驚(おどろ)
かす
烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連(つら)なり
家書(かしょ)萬金(ばんきん)に低(あ)たる
白頭(はくとう)掻(か)けば更(さら)に短(みじか)し
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲(ほっ)す。
(続く)
日本の名句・名詩・名歌を集めた本ってまずないんだよな
一冊でお得な詩集があれば入門にいいと思うんだがな…
(
>>59の意味)
国は滅亡してしまったけれど、山や川は元の姿のまま存在している。
(戦争で壊れてしまった)町には春が来て、草木が青々と茂っている。
戦争の絶えない時代を感じては、花にさえも涙を流し
(家族との)別れを悲しんでは、鳥にさえも心を乱される。
戦争は3ケ月の間絶え間なく続き、家族からの手紙は、お金に代えられない
大きな価値を持つ。
白髪だらけの頭を掻けば髪の毛はさらに短くなり、
もうかんざしを挿すのも無理になりそうだ。
>>60 そうかー、
そういうの、あまりないのか^^
詩集なんかでは、みんなで読もうぜ、っ的な、本を、
時たま、見かけるんですけど、
たしかに、
俳句・短歌は、あまりみないなー。
研究が、どうしても、偏るのかも、しれないね^^
「日本の現代詩101」 高橋 順子 あたりはどうなんだろう?
名句・名歌だったら大岡信の「折々のうた」シリーズを徐々に
/ --、 \
/ (⌒) ヾ i
/ ""(_ (ヽ)
>>1さん 元気だしなよ
/ `-ヽ__)゙/ 醤油温めたけど飲むかい?
/ /
/ /
/ /
/ `ー- く
/ 。 \
/ 。∫∫゚ ヽ
/ /^ー:r ̄ ̄ ̄i l
| i / ,ノ、__ノ |
>>64 ごめんね^^
本当に、心から、謝ります^^
ごめん^^
ヤフーで、「AA 詩」って、検索したんですけど、
正直、詩みたいなのは、あまり、出てこなくて(笑)、
励ましソング、みたいなのが、出てきて、
>>64さんが、言うの、これかな?
なんて感じで、レスしてしまいました^^
本当に、ごめんね。
おれを、見捨てないでくだせえよ^^
以前、パウル・ツェランの、ネット絵を、観たけど、
すごく、ツェランの、繊細な感じが、出てて、
上手く、描かれてた^^
>>65 これこそが、お噂に、お聞きする、
アスキーアートかー!!!
やっぱ、こういう、絵が、上手い人は、
なんらかの、形で、デザイン系の、ことを、
されてるんだろうな^^
ああ、まあ、元気出すよ。
醤油、100杯くらい、飲みたい、気分だぜ!!!
>>64 高橋順子さんの、本、今、アマゾンで、見てきた^^
評は、すごく、いいみたい。
詩の、読み、註なんかも、充実してるみたいだよ。
おれも、すごい、欲しいけど、
うーん、¥1500かー^^
今は、手が出ない(T0T)/
大岡信さんの、「折々のうた」は、新聞掲載の、短歌・俳句、評が、
載ってるみたいだね^^
大岡さんは、詩よりも、評論に、力を、入れられてるな^^
最近、おれ、村野四郎の、『現代詩読本』
っていうの、読んだよ^^
すごく、いい本です。
この一冊だけで、近代詩は、ほぼ、カヴァーされてると、
思う。
アマゾンでは、馬鹿高いので、買わないほうが、いいです。
おれは、図書館で、借りて、読みました^^
「申告」天野忠
死んでから
神様の前で
正直に申告する。
向うの台帳どおりかどうか
名前、年令、職業、死因、その他
例えば
──名前は
──ハイ 太宰治 三十九才
──職業は
──(小さい声で)小説家
──死因は
──心中でした。
空白欄に
神様はポンとはんこを押す。 可
それから
恥ずかしそうに
太宰治は極楽へ行く。
| |l ̄|
| |l民|
| |l主|
| |l党|
| |l_|
| .|_∧
| .|`∀´>
| .⊂ ノ
| .| ノ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
民主党とAKBの関係が遂に明かされようとしている
秋元康の後ろには蓮訪
蓮訪の後ろに前原、枝野 そして民主党全体
税金を使ってAKBを宣伝し、その税金が民主党に流れている
AKB自体が、税金目当ての捏造ブーム
詩関連の本は高いうえにすぐ絶版になっちゃいますね〜
村野四郎の『現代詩読本』も絶版のようですね
さいわい最寄りの図書館は他の図書館とと比べても詩のコーナーが充実してるのでラッキーっす
折々のうたはBookoffの100円コーナーで見つけるたびに買って徐々に増やしてます
>>69 おれは、SKE48の、矢神久美ちゃん、神押し!!!
久美ちゃんの、ユニークなとこ、と、
なんか、人間的に、ふんわり、してるとこが、大好き♪
折々のうたは名著だよね
図書館で夢中になって読んだなあ
他にも大岡氏の本では百人百句とかよかった
>>72 百人百句! 初めて俳句に対する興味を持たせてくれたありがたい本、俳人の書いた俳句の本より数段面白かったよ
が、いまやこの本も絶版なんだよな…
>>72 >>73 百人百句、とても、いい、題だ^^
この本も、絶版なのか(T0T)/
>>73 あれもう絶版なのか
この前近くの本屋でみたようなw
確かに専門の人間が書いたものが、必ずしも面白いとは限らないんだよね
>>70 やっぱ、詩、関係、高いですよね^^
出ても、おれには、買えない(T_T)
図書館で、詩関係が、充実してるのは、うらやましい^^
昔、高木護さんの、詩集、図書館で、全部、コピーしたもんなー(遠い目♪)
なんと!!!
折々、が、100均で、買えるとわー!!!
アマゾンで、中古で、出てる、『現代詩読本 村野四郎』高すぎ!!!
そこまでして、買うような、本じゃ、ないです^^
おれ、まだ、借りた本が、部屋に、あるので、
取り上げられてる、詩人さん、書き出しときますね^^
北原白秋・高村光太郎・萩原朔太郎・室生犀星・千家元麿・佐藤春夫
宮澤賢治・中原中也・金子光晴・草野心平・北川冬彦・西脇順三郎
さん、なんかを、村野の、おっさんが、論じて、おります♪
今、アマゾンで、見てきたんですけど、やっぱ、吉本隆明さん、関係の、
新刊、何冊か、出てるね^^
>>77 ここで初めて吉本さんを知るという若い人たちも出てくるのかもしれませんし
吉本さんの思想が新たに受け継がれていく契機になるのかもしれませんが
死者に群がる…という感も否めないよなぁ
>>78 そうですよねー^^
本当に、ある意味、
吉本隆明さんの、死によって、
何か、とても、重要な、ものが、
終わった感、おれも、あるもんなー^^
上杉謙信家訓 十六箇条
一 心に物なき時は心広く体秦なり
二 心に我儘なき時は愛嬌失はず
三 心に欲なき時は義理を行ふ
四 心に私なき時は疑ふことなし
五 心に驕りなき時は人を敬ふ
六 心に誤りなき時は人を畏れず
七 心に邪見なき時は人を育つる
八 心に貪りなき時は人に諂うことなし
九 心に怒りなき時は言葉和らかなり
十 心に堪忍ある時は事を調う
十一心に曇りなき時は心静かなり
十二心に勇みある時は悔やむことなし
十三心賤しからざる時は願い好まず
十四心に孝行ある時は忠節厚し
十五心に自慢なき時は人の善を知り
十六心に迷いなき時は人を咎めず
「暗視野」渡辺武信
眠れない夜々の中に
一心に数えられている
椅子 死体 羊たち
それら ぼくたちの都会の夜空に
暗い星座をつくって流れる
きみのくるしげな不眠は ただ
夜の堅固な表面に金色の羊たちを殖やす
その輝く毛の渦をかき分け
ぼくの眠りがうがった細い細い井戸の中に
ひとつの記憶だけが
撃たれたハトのように落ちていく
きみの傷口は地平線を覆って
まぶしく口をひらく
けれど おそらく 撃たれたのは
ぼくだ 落ちていくのは幼いぼくだ
どこまでいったいどこまで落ちるのアリス
あ あそこ 石炭袋 空の孔だよ
どこへ行ったのカムパネルラ
首をちょんぎっておしまい はたして
豚は飛べるか猫は笑うか
問いはいちどきにぼくのまぶたを侵す
落下しながら水中花のようにひらく記憶の垂鉛
夜は地の果てからきみの唇から時代から
あふれあふれだして
血まみれのアリス血まみれのジョバンニを洗う
光に群れる魚たちのように
ぼくの指が集っていく
巨大な闇の果実
その内部にすでにくりぬかれている
無数の そしてただひとつの顔
武将達の、名言集みたいな、本、あるのかね?
>>82 まだ読んでなかったら
「ガリア戦記」
日本のは良いの無いと思う、「記録」っていう概念が成立してない時代だから仕方ないけどね。
>>83 おお!!!
なるほっ!!!
「ガリア戦記」読んで、みまっす♪
「ノアの方舟」嵯峨信之
眠つているぼくを起こしにくるのは
どこかの水平線だ
そのやわらかな水平線が
縫目のないしかたで遠くからぼくの瞼を撫でる
それでもぼくが目ざめなかつたら
ノアの方舟の鐘を鳴らして起こされるだろう
ぼくのはるかな記憶を利用して
その背後(うしろ)にひろがる緑の反響(こだま)で
だがぼくはなお目ざめない
しずかなしずかな瞼の中をどこまでも漂流していく
ぼくには遠ざかるものしか
まだ来ていない
*
ぼくは眼を刳りとつた
心をぼくにしかと釘づけするために
ぼくは耳をおもいきり削いだ
たれからも全くぼくが自由であるように
ぼくは唇を縫い合わせた
他から何一つ求めないために
ぼくは両足を断ち切つた
たれも行きついたもののない遠くへ行きつくために
ぼくは両手を切り落とした
さいごに抱いたものを全身で記憶するために
(続く)
http://ishii.mai433.com/profile.html 石井さんとの出会い (島田誠「無愛想な蝙蝠』風来舎より抜粋)
受話器の向こうで、内気な声が必死に訴えるようにしゃべっている。
「突然、電話してすみません。」おたくのギャラリーは、時々拝見させていただい
いますけど、先日『ギャラリー・インフォメーション』を読ませていただいて、
信濃デッサン館への旅に感激しました。こんな文を書く方なら、私のことをわかってくれる
かとおもいまして.......」時々、胸の病気を想像させるような咳をまじえながら、
彼は延々としゃべり続けた。
「石井一男。49歳。年老いた母親しか身寄りがなくて、内気な性格で、友人もいない。
夕刊を駅へ届けるアルバイトをしながらひたすら絵を描いている。でも体調も悪い、
あまり先がない予感もする。絵をみていただくだけでよいから」
あまり暗い話ぶりに、途中で電話を切るわけにもゆかず途方に暮れてしまう。
すがりつく声に「ともかく、一度資料か絵を持ってきてください」と電話を切る。
やりとりに耳を傾けていたスタッフが「変な電話ですね」と肩をすくめてみせる。
二枚、三枚と繰ってゆくうちに、今度はこちらが息を飲む番だった。
これは素人の手遊びとはとても言えない。どれも三号くらいの婦人の顔を描いた小品
だけど、孤独な魂が白い紙を丹念に塗り込めていった息遣いまで聞こえてきそうだ。
(
>>85続き)
この世にはどこかに大凪の海があるだろう
少しずつ少しずつ流れている大凪の海があるだろう
もしぼくがその海を空樽のように漂流していたら
いつかはノアの方舟が拾いあげてくれるだろう
そしてぼくを新らしい世界へ送りとどけるために
方舟は鐘を鳴らしながらゆるやかに進路を変えるだろう
>>86 おれは、絵も、大好きで、ダリ、キリコ、マグリット、なんかの、
シュルレアリスム系、
ドイツの、ゲルハルト・リヒター、アンゼルム・キーファー、なんかが、
大好きです。
石井一男さんの、お名前は、初めて、お聞きします。
「石井さんとの出会い」ホームページへ、飛んで、読みました。
絵も、観せていただき、おれは、深い、祈り、を感じました。
ルオーの、絵に、似てる。
精神の、とても、深いところを、突いてくる、絵です。
お、久しぶりに(笑)ツボだぞ、嵯峨信之さんか。スレ立て主はいろんな詩を紹介してくれて楽しい。
穏やかな模糊とした一連から思わぬ激しさの2連へ。(たぶん(続き)の所で連が分かれるのだと思うけど)
ふたたび凪の3連へとこの詩自体が大きな波のような、ゆったりとした音楽のような詩ですね
>>89 久しぶりに、
>>89さんの、ツボったかー^^
おれも、がんばるべ^^
うん、(続き)の所で、一行、空き、があって、
>>87が、最終連^^
そうだね、音楽、嵯峨さんは、とても、詩のリズムに、
気を付ける、詩人さんです。
晩年まで、ジュール・シュペルヴィエル、ルネ・シャール、
ジュゼッぺ・ウンガレッティ、の詩を、
嵯峨さんは、熱心に、研究したらしいぜ^^
嵯峨さんの、詩は、全体に、すごく、死の匂いがする、
詩が、多くて、晩年に向けて、シンプルな、詩形に、
なっていかれる、感じ。
今、「現代詩フォーラム」で、箱舟さん、という詩人さんが、
詩を、投稿されてます。
ヤフー検索で、「現代詩フォーラム」と検索して、
「現代詩フォーラム」のサイトで、人名検索「箱舟」と、
入力されたら、箱舟さんの、詩が、読めます^^
たぶん、
>>89さん、が、好きな感じの、詩だと、思うので、
時間がある時に、読んであげてください^^
明日、バイトから、帰ったら、もう一篇、嵯峨信之さんの、詩を、
貼ってみるよ♪
嵯峨信之全詩集 [単行本]
嵯峨 信之 (著)
内容(「BOOK」データベースより)
雑誌「詩学」によって詩を支えるかたわら、生の根源的なテーマを限りなく追
いこんで自らの詩を彫琢した詩人の全貌。生前刊行された詩集全七冊をはじめ
、単行本未収録詩篇、未発表詩篇を完全収録。丹念な調査に基づく作品解題、
青土社版「自己“半年譜”」を増補した詳細な年譜を付す。
--------------------------------------------------------------------------------
登録情報
単行本: 653ページ
出版社: 思潮社 (2012/05)
ISBN-10: 4783723583
>>91 ご紹介ありがとうございます
4月に出たばかりの新刊ですね、完全収録とは豪勢です
丹念な調査に基づく作品解題というのも魅力ですし
しかし! 果てしなく高い壁が! 定価9,030円(税込)
まずは現代詩文庫の嵯峨信之詩集あたりからですね…
>>91 >>92 まだ、ネット書店には、出回ってない、みたい。
現代詩文庫の、嵯峨信之詩集、
嵯峨さんの、良い詩が、集成されてて、とても、いいよ^^
上で、鉄拳の「振り子」
について、語ろう、と、
言われてた人、
良かったら、
おれと、「振り子」について、
語り合わないか?
涙、人間の、悲しみ、について、
少し、語り合わないか?
良かったら、出てきてくれ^^
「春雨」嵯峨信之
ぼくが消えてしまうところが
この地上のどこかにある
死は時の小さな爆発にあつて
ふいに小鳥のようにそこに落ちてくるだろう
その場所はどんな地図にも書いてない
しかし誰かがすでにそこを通つたようにおもわれるのは
その上に灰いろの空が重く垂れさがつていて
ひとの顔のような大きな葉のある木が立つているからだ
あなたは歩みを早めて木の下を通りかかる
そしてなにかふしぎな恐れと温かな悲しみを感じる
ぼくの死があなたの過去をゆるやかに横切つているのだ
ろう
春雨がしめやかに降りだした
いますべての木の葉が泣きぬれた顔のように
いつまでもじつとあなたを見おろしている
「断章」嵯峨信之
死というのは
どんな階段をのぼらねばならぬのか
水晶の階段の上空で
雲雀が鳴いている
ひとりの男が森の中へ駈け込んでいつた
全ての時が着くのはどこの岸辺だろう
大きな終りが待つていたように梢にざわめいていた
風が急に止む
筏は遠くへながれていつた
ここまで書くとぼくはふいに眠くなる
ぼくの名がいつか消えてしまう
だれも行つたことのないところまでゆき着くと
そこでもかすかに雲雀が鳴いている
「永遠」嵯峨信之
永遠とは
多くの時間のなかを流れるひとすじの時間だ
そこだけに別離がある
そこだけに物憂さがある
そこに 失つたものから匂いが帰つてくる
そこに 手を触れた温かい記憶が止どまつている
とは云え
どこでぼくは迷路に踏みいつて日がたつたのか
その流れの外で自分を喰うことをいつ覚えたのか
歩みの王のぼくという下僕よ
*
昨日とはどういうことだろう
忘れるという領土はどこからつづいているのか
また遠ざかることで何が始まるのか
納屋いつぱい積みあげられた小麦の山
一匹の野鼠がその下に這い込んだとき
戸外では急にはげしく雨が降りだした
>>95-97 嵯峨さんの詩ありがとう。
>>91にも超弩級の本紹介してもらったし
この方の詩はゆったりしてるなかに緊張感もあり、
沈んだトーンにさえ澄み切った透明感があるように僕は思います。
現代詩フォーラムのほうも覗いてみますね。
しかしあなたは義理堅くまめな人ですねぇ、尊敬いたします。
僕は休み明けの仕事で疲れちゃったぞ
|∧∧
|・ω・`)
|o旦o
|―u'
>>98 おれも、休み明けの、仕事、やっぱ、
すごい、きつかったよ^^
ギヨーム・アポリネールに
ふたりで見送った死神の思い出に
ぼくらのあいだで跳ねて吼えて
そいつは倒れた
埋葬された花束の思い出に
「夜想曲」ジュゼッぺ・ウンガレッティ
きらめく光の道程を
さすらいゆく人
憂鬱な風の下で空は
消えてしまった
かぐろい枝先に春がいま点されてゆく
この一時に耳を澄ますのは詩人だけだ
そして詩人は立ちあがる
きらめく光と一体になった
あの力を振りしぼって
(続く)
(
>>102続き)
そして閉ざされた窓のアパートのあいだをひっそりと過ぎてゆく
彼の徹夜の刻限にあたりは静まりかえって
彼の立ち去った町に雪は振り積み
彼の見つめた無垢な野原に憂鬱は
消えてゆく
冷たく不思議な顔立ちをとった激しさ
これにまさる激しさはない
詩人に許されているのはただ
神の諧謔を見抜く殉教だけだ
茨木のり子「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)は
けっこう良い現代詩の入門書になってる。大抵古本で100円で買える
もちろん編者の評価に偏りがあるのだとは思うが
(これに取り上げられている詩はけっこう技巧的な場面転換を使っている詩が多いが、
日本だと珍しいタイプの詩だと思う)
>>21 俺は話としては「一杯のかけそば」より杜撰だと思うなあ。
感傷と言うよりは、自分のショボイ人生を肯定させるためのネタじゃん
一杯のかけそばは低俗とはいえ、物質主義が一貫しててそれはそれでメッセージではある
>>104 詩人さんが、書かれた、詩入門、ということで、
おれも、興味が、あります。
石垣りんさん、木島始さんが、取り上げられてる、ところ、
興味深い^^
>>105 たしか、浅田次郎さんが、『きんぴか』で、「一杯のかけそば」を、
パロってたなー。
実は、大金持ち、だったという、話。
2回、「振り子」見たけど、1回目は、正直、
ちょっと、ほろっと、きました。
バックで、かかってる、音楽の、せいもある。
「一杯のかけそば」は、あまり深く、考えずに、見たら、
まあ、一応、なんらかの、メッセージには、なってるかも^^
>>107 単純にいってバイクの運転してた高校生はまだ老人になってないと思っちゃうんだよね
「賭け」黒田三郎
五百万円の持参金付の女房を貰ったとて
貧乏人の僕がどうなるものか
ピアノを買ってお酒を飲んで
カーテンの陰で接吻して
それだけのことではないか
美しく聡明で貞淑な奥さんを貰ったとて
飲んだくれの僕がどうなるものか
新しいシルクハットのようにそいつを手に持って
持てあます
それだけのことではないか
ああ
そのとき
この世がしんとしずかになったのだった
その白いビルディングの二階で
僕は見たのである
馬鹿さ加減が
丁度僕と同じ位で
貧乏でお天気屋で
強情で
胸のボタンにはヤコブセンのバラ
ふたつの眼には不信心な悲しみ
ブドウの種を吐き出すように
毒舌を吐き散らす
唇の両側に深いえくぼ
僕は見たのである
ひとりの少女を
(続く)
(
>>109続き)
一世一代の勝負をするために
僕はそこで何を賭ければよかったのか
ポケットをひっくりかえし
持参金付の縁談や
詩人の月桂冠や未払の勘定書
ちぎれたボタン
ありとあらゆるものを
つまみ出して
さて
財布をさかさにふったって
賭けるものが何もないのである
僕は
僕の破滅を賭けた
僕の破滅を
この世がしんとしずまりかえっているなかで
僕は初心な賭博者のように
閉じていた眼をひらいたのである
>>108 高校生から、老人への、移行の、描写は、
おれ的には、なかなか、うまいなと、思いました。
「振り子」は、鉄拳さん、ご自身が、映像化して欲しいと、
願ったことから、見ても、たぶん、鉄拳さん、ご本人は、
かなり、手応えが、あったのだと、思う。
でも、鉄拳さんに、厳しいことを、言うけれど、
世の中には、おれの、ような、心が、貧しくて、汚れた、人間も、
いることを、もっと、勉強して、もらいたいと、思う。
おれの、汚れた心は、「振り子」ぐらいでは、感動しない。
現代詩手帖が吉本の特集やってるね
>>112 おれも、そのうち、ぜひ、
読みたいと、思っています。
やっぱ、すごく、難解そう^^
でも、そこに、魅力が、あるんだけど^^
哲学・思想関係の、人も、
追悼文を、寄せてる、みたいだね。
吉本さん、おもしろいね^^
みんなは、君が代、問題について、
どう、思う?
おれは、戦争とは、もう、切り離して、
考えても、いいんじゃないか?
と思うし、式などでは、
一応は、みんな、ちゃんと、起立して、
歌いたければ、歌うといいし、
歌いたくなければ、歌わなければ、いい
と思うんだが。
みんなは、どう思う?
「原点破壊」黒田喜夫
のけぞる婦を
しようことなく眺めてると
肢のあいだに袋のようなものが現れてきた
産声はなくぐしゃりと肉色の包みが落ちてきた
おれはすばやくよつん這いになり
べとつく胎皮をなめ取ると
破れた袋から蛍烏賊に似た軟体がうようよ這いだした
座敷いっぱいひろがる軟体群のうえに
みんなあなたの種よ
うっとりした声がひびく
おれはうろうろとこれじゃ乳が足らない
ドライミルクの鑵をさがしていると
台所まで這いだしたのが野菜屑にたかる
屈伸する肢でゴキブリを押えて食べる
吸盤があるらしい
婦は歓声をあげる
貪婪だわ
生命力だわ
夢中で胸もとに群がらせてるのをみて妬けてきた
おれも横になり乳房のあたりに這ってゆく
沢山のちいさく軟いものが
首や四肢に吸いつくのを覚え
ふかく血縁に憑かれてしまった
(続く)
(
>>115続き)
妊婦によりそって囁いていた
おれたちの多産系
飢餓と貪婪といううつくしい言葉
婦はやすらかに息づく下腹を幻の土地よといった
骨盤は無限に広いなんて撫でてると
土地の奥に踞んでる人の形をさぐりあてた
肉の奥に踞んでるいびつなマッスの
休みない胎動にふれてると
にがい近親憎悪がきた
おれに似た仔か
農奴誕生か
いまはこの肉の鎖の断種こそ希う
飢餓と貪婪といううつくしい言葉
うつくしい言葉におもねて
肯定の種を蒔きつづけるこの肉の鎖を断つときだ
立上ると
婦が肢にすがり
そのままひきずって窓ぎわに立ち
遠い土地よ幻よ
遠く広い土地をゆめみることが何故救いなのか
アクションすさまじく細民の街を指さすと
恨みがましい顔をあおむいた
ああ鬼っ児生むわよ
鬼っ児なら生め
恨みがましく婦はのけぞっていった
(続く)
(
>>116続き)
それから産褥に群がり
雌も雄もない吸盤をからみ合わせていた
こうして始源の土地を想い
こうしてコンミュンへの坩堝をもやす
血縁に憑かれからみ合ってると
雌雄未分化の夢のような回想が溢れてきた
巨大な烏賊に似たおれが座敷でのたうち
故のないオルガスムスとともに奇妙な
仔どもを生みつづける
生みつづけて自己陶酔のうちに溶けてゆく
否定もない
反抗もない
軟かい幻境に溶けてゆく
生んでいるのか生まれてるのか
溢れる回想のなかにわからなくなったが
しどけなくからみ合う肢にそのとき
激烈な痛みがきておれは目醒めた
(続く)
(
>>117続き)
気がつくと
飢餓と貪婪の座敷に寝ている
沢山の鋭いものが肢に噛みついている
野菜屑もゴキブリも食いつくした軟体群が
すでに共喰いをする修羅場がきていた
婦は乳房を噛み裂かれ
群がる仔どもに埋まっている
みんなあなたの種よ
本望よ
あくない適応性の群のうえに
かすかな声がひびいている
おれはすばやくよつん這いになり
口で捕えては噛みつぶしはじめた
噛みつぶしてると悲鳴があがる
血縁の血の味とともに覚える叫びはおれの
喉のなかからあがってきた
そのたびに悲鳴をあげるのはおれの喉なのだ
「一匹の虫」犬塚堯
いつも散歩する道の小さな穴に心ひかれていた
それは鼻孔のように息づいていたからだが
ある正午 汗のような雨が降ったとき
一匹の虫が穴から出てきた
何かなじめぬ様子で辺りをうかがい
やがて小さな一声をあげた
僕にはそれが「主(しゅ)」(SHU)と聞えた
虫が戴く主とはどの警句より鋭く 真面目で
無神論者をも驚かす響きがあった
握ると虫の体臭があふれ
ふくらんで産卵の気配をみせた
眼を近づけてよく見ると
芥子粒のようなそれが実は厳然として
傘をもった竜の形をしているのだった
若いが既に豊かな知識をもち
僕の掌を少しずつ食い破ろうとした
そのように行動するのはおそらく
主と呼んだ声につづく確かな説話をもつものとみて
僕は自宅に持ち帰ったのだ
(続く)
(
>>119続き)
籠に飼ってしばらく経った
虫はしばしば飢え渇き僕の妻を呼び寄せた
その白い髯をみた妻は虫のふるう鞭に恐れ
一つのエロスを彼に与えたのだった
虫は自信に満ち 時には傲岸に成長した
籠を檻に代えるころ それは
天を仰ぐ複眼と精緻な巨体を完成した
彼は腹匍いで家に沢山の道を作った
僕は毎朝その道を通る 太陽の並ぶ道を
彼はなぜ様々に変身するのか
どこに辿り着こうとしているのか
多分 自然はいまも創造の途中であり
神は製作の手を休ませてはいないのだ
その神に通ずる我々の言葉も出切ってはいない
この分別の鎧戸から空の高さまで言葉を送るには
特異な抑揚やはずみが要る
炎を捩る鞴のような舌で
虫はまことに放縦で彼の領土に海や砂や風を求めた
すると絨緞に島が出来て流人と島があがってきた
麻が伸び 妻と娘はそこで会話をしている
過去に苦しまず未来の想像を恐れずに
海のホリゾントに精霊を認め
身内に天上の種族の妊娠を望んでいる
(続く)
(
>>120続き)
どうやら虫の意図がわかってきた
ある日 檻のまわりを新大陸がリボンのように
回ったとき
客が来て部屋を席捲する感動に満足して茶を飲んだ
そのとき虫は無数の肢で静かに歩いていた
卓布が滝のように床に滑り落ちた
僕は終日檻の前に座り愛情の全てを示している
虫の声と仕草を使って同化につとめている
触角で秋をさぐり 季節最良の果物を皿に集めている
死がなければ人生は更に不可解なように
時代は終らなければ疑問は解けない
虫は終る時代の痛苦をなめていた
裂けるような顔と体形の変化
吐息と独白の激しさ
白熱し失神して立上るとき一つの神の姿勢を示した
妻と娘は愛の昂まりから涼しい涙を虫にそそいだ
かつて神への通路をもたなかった大地の
縄のようにも一人の神を手繰らなかった時代の
わが家に信仰を求める虫がいまも歩き回っている
>>114 多くの大人は、「近代国家」というゲームに付き合わされてシニカルな気持ちで歌ってるでしょ。
それをワザワザ小説にまでした丸谷才一」って作家もいたけど・・・
>>114 シニカルな気持ちさえないな。無関心。何故あんなに大騒ぎしてるのかさえわからない。
そもそも天皇との結びつきにいたるほどの力は既にこの歌にないだろ
俺にはもう死んで化石のように無味無臭となったもののようにしか思えない
それを無理矢理掲げてああだこうだ騒ぎ立てる連中の方がよほどきな臭く感じる
「そんなことだからあなた達は知らないうちに…」などと言われても困るけどさ
>>114 戦争云々じゃなくて
>>123のいうように天皇制との結びつきでしょう?
いくらか弱まってはいても、「君」を称える歌なのは確かだからな。
そういえば、友人はこの〈君〉をそれぞれの大事な人を思い浮かべることにすればいいって言ってたよ。
そうすれば国民主権の理念に悖らないし、共同体的な隣人愛をもって歌えるからって。
>>122 そうですよねー^^
おれも、なぜ、歌わされるのか?
何を、自分が、歌っているのか?
ぜんぜん、考えなかったもんな^^
>>123 たしかに^^
化石化した、歌を、大の、大人が、
大騒ぎしてるのは、ちょっと、
こっけいだよなー^^
今、徴兵制に、なっても、おれは、兵隊には、
いかないよ〜^^
>>124 やっぱ、歌の、使い方を、日本は、
間違えたよね^^
おれは、「君が代」の、歌詞は、
すごく、きれいだな、と思います^^
やっぱ、日本語って、すごくきれいで、
おれは、日本人に、生まれることができて、
すごく、嬉しいです。
そうかー^^
お友達の、アイデア、とても、いいね^^
<君>を、心から、愛して、歌うことが、
できるもんね^^
吉本隆明さんは、たしか、原発問題には、
言及されてる、みたいだけど、
君が代問題には、どうなんだろ?
>>124 > この〈君〉をそれぞれの大事な人を思い浮かべる
それ、円谷の凡作小説の結論とほぼ一緒。
「夢は台所の床に」中村光太郎
自分にもいっぱしの夢があると
川の流れのような人波に出ていって
あたりかまわず、河豚のように泳ぎまわった
だが、しょせん河豚は河豚にしかならなかった
だからサテンに入って、コーヒーを飲んだ
ウエイトレスが置いていった、三百五十円と書いてある伝票を見つめた
僕に残されたのは、そのまんまるい数字だけだった
何となくさみしかった
家路について、長い坂をのぼった
さみしい気持ちで坂をのぼった
玄関のドアを開け、何か食べようと台所にいった
すると、台所の床に転がっているものがあった
僕はひろって、手にとってみた
じっと見ているうちに
それが僕の夢だったような
僕の希望だったような気がした
(続く)
>>125 吉本は、直接言及はしてないと思う。
多分、その問題に言及するとしたら、この問題は共産党系のフレームワークだから、
そのフレームワークを仕込んだ旧左翼達の運動方針には最大級の疑義を挟んだと思うよ。
大塚英志みたいな全面支持とかは、ありえないだろうね。
吉本は、共産党系の左翼達には右派よりも遙かに辛辣だったから。
>>127 ささやかではあった
けれど、僕はそう多くのものを望んでいるわけではない
そう思ってみた
僕の夢は台所の床に転がっていた
そう思ってみた
>>114 あれは一応和歌なんだよな
それと詳しくは知らないけど、旋律も雅楽の影響を受けてると読んだことがある
だから良くも悪くも日本的であって、そこもまたどう判断するか
ただ、一斉拒否なんてのもどこか異常なものを感じざるを得ないかな
キリシタン弾圧の頃の、踏み絵にしたのは誰なんだろう?
>>126 おれは、<君>を、愛する人に、
置き換えて、歌う、というのは、
グッドアイデアだと、思うんだが^^
>>128 そうかー、
やっぱ、吉本さんは、国を、
眺める目が、冷静だよね^^
>>131 >>131さん、すごく、勉強してるなー^^
旋律が、雅楽という、ところが、すごいね^^
そうですよねー、
一斉拒否なんていう、運動も、
見方によれば、危険だもんなー。
>>132 調べてみたんですけど、
発案は、オランダ人説、沢野忠庵説が、あるらしいが、
不明らしいです^^
「踏絵」は、春の、季語らしくて、
「踏絵して生きのこりたる女かな」虚子
っていう、歌も、あるらしい。
ちょうど、おれ、今、河合隼雄さんの、『日本人とアイデンティティ』
っていう、本読んでて、その中で、河合さんが、遠藤周作さんの、
小説『沈黙』について、語られてる。
ちょっと、抜粋してみるね^^
以下、『日本人とアイデンティティ』河合隼雄、P、141より
司祭が本国にとどまるかぎり彼の信仰はそのままであったことだろう。
しかし、彼が日本のトモギ村の土を踏み、日本の塩魚を食べる過程で、
それらは抗しがたい力をロドリゴ司祭の心の奥にまで及ぼしていった
のである。日本の土はキリストまで変えてしまったのか、それは解らない。
しかし、少なくともロドリゴ司祭の耳に聞こえて来るキリストの声の
内容は変ったのである。この際、「踏むがいい」と言ったのは仏様であると
思う人はあるまいし、またサタンの声であるとも言い難い。
(続く)
あと少し話がずれるかもしれないけど、
音楽は人を癒したりする反面、使いようによっては人を上手く誘導したりもできるんだよな
極端な例では軍歌にしてもそうだし、アウシュビッツでも残酷なやり方で悪用されたらしい
最近はTVでもどこでも音楽が溢れ返っているけど、音楽についてはもっと深く考えられてもいいとは思う
(
>>134続き)
それはしかし、天上から彼に語りかけるキリストではなく、彼の足下から
語る、日本の土の中から掘り出された胴にきざみこまれたキリスト
なのである。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知って
いる。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、
お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と、銅版のあの人は
司祭にむかって言ったと作者は述べている。
河合さんは、西洋の、合理主義の、良さを、認めながらも、
それを、日本に、取り入れる上で、東洋思想、宗教の違いを、
よく、考察しなければ、ならないと、考えられています^^
>>135 そっかー、
なるほど。
ニーチェは、たしか、ワーグナーに、傾倒されたけど、
後に、ナチスの、問題なんかで、たしか、反発するんだよね^^
たしかに、聴覚に、訴えてくるものは、大きいですからね。
ナチスは、音楽、映画とかも、プロパガンダに、使ったみたいだね。
ヒトラーが、元芸術家の、人だから、その力、というものを、
よく、理解してたんだろうね。
まあ、考えようによっては、芸術というのは、怖ろしい、もんですわ^^
>>137 たしかに、たしかに^^
おれも、女の子が、おっしゃられるように、
きりんは、足、出来ると、思う(笑)。
田村隆一さんが、示唆されたように、
おれは、おれの言葉でできている、もんな^^
そして、おれは、言語芸術に、心を、支えられて、
生きてるもんなー^^
「烏龍茶」中村光太郎
二リットルの烏龍茶を
暑い午後にぐいぐい飲むと
腹の中には小さなみずたまりができる
チョコレートを飲み込むと
小さなみずたまりに波紋ができて
ゆっくりと沈んでゆく
逆立ちをすると
じゃぼじゃぼと音がして
腕立てふせをすると
ちゃぽんちゃぽんと音がする
その音を
どこかでもらった領収書の裏か何かに書いてゆくと
君が居なくなったときのように
少しかなしい
「第一に死が」矢沢宰
第一に、そこに死があり、死と戦わなければならなかっ
た。そこには死と自分だけしかなかった。そこから個人
的な真実、祈りが生まれ、それが詩となって表わされた。
だからそれはリアルな、最もリアルなものである。
自分の命のために、愛を求め、生の真実を探るためにも
がいていた。これは絶対に間違いではなかったし、今も
これが十分あてはまると確信している。
(一九六五年六月頃)
「小道がみえる……」矢沢宰
小道がみえる
白い橋もみえる
みんな
思い出の風景だ
然し私がいない
私は何処へ行ったのだ?
そして私の愛は
(絶筆)
敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花 本居宣長
Richard Wagner ”Die Meistersinger von Nürnberg”
本居宣長のこの歌にせよワーグナーの音楽にせよ(そもそもその胚芽は皆無とも言えないし)
グロテスクに拡張すれば特攻精神やナチス思想のプロパガンダに使えるというわけかね
左翼はもうカルトに見えてしかたがない。
以前は鵜飼哲とか大好きだったのに。自分でもおどろく。右翼も同断。
がんばってる左翼は別、とかいいたいが。
反原発でもいろいろあるように、いろいろ文脈の深浅があるんだろうな。
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
147 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 21:17:56.71
詩にかえて
深刻そうなこと、利口そうなことを、ナイーブらしいことを、ひとをたぶらかすそんなゼスチュアで自分もごまかされたさに、君、詩なんておかしくって書けるか(ね、心平ちゃん)。
だが、そんな僕だって、航海を考えるとき、いいな、航海は、実に。
……水は元来酔っぱらいで、水の底の小ぐらい宙ぶらりんを、木の葉をそめるま青さでとかすその色を、のびちぢむてすりからのぞいてた、ふみとどまれぬ一点を、流される思想を……。
そのからふみの波のうえに、婚礼のような御馳走をならべ立てる大食堂が走るのを思うとき、僕はこの文明の根底が秤〔かんかん〕にかかっているのをはっきりみた。
僕は、宙ぶらりんよりほかに、もう陸などへどこへも帰りたいと思わなかった。
あの頃の漂泊の僕の心には、多分、「詩」があったようだ。いや、僕が海といっしょに、酔っぱらっていたのかもしれない。
(金子光晴「歴程」昭和11年4月)
148 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 21:24:39.60
瞳
ぼくらの仕事は 視ている
ただ じっと 視ていることでしょう?
晩年の金子光晴がぽつりと言った
まだ若かったわたしの胸に それはしっくり落ちなかった
視ている ただ視ているだけ?
なにひとつ動かないで? ひそかに呟いた
今頃になって沁みてくる その深い意味が
視ている人は必要だ ただじっと視ている人
数はすくなくとも そんな瞳(め)が
あちらこちらでキラッと光っていなかったらこの世は漆黒の闇
でも なんて難しいのだろう 自分の眼で
ただじっと視ているということでさえ
茨木のり子『女がひとり頬杖をついて』
149 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 21:29:49.85
「木の実」 茨木のり子
高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転り落ちた
木の実と見えたのは
苔むした一個の髑髏である
ミンダナオ島
二十六年の歳月
ジャングルのちっぽけな木の枝は
戦死した日本兵のどくろを
はずみで ちょいと引掛けて
それが眼窩であったか 鼻孔であったかはしらず
若く逞しい一本の木に
ぐんぐん成長していったのだ
(続く)
生前
この頭を
かけがえなく いとおしいものとして
掻抱いた女が きっと居たに違いない
小さな顳顬のひよめきを
じっと視ていたのはどんな母
この髪に指からませて
やさしく引き寄せたのは どんな女
もし それが わたしだったら・・・・・・
絶句し そのまま一年の歳月は流れた
ふたたび草稿をとり出して
褒めるべき終行 見出せず
さらに幾年かが 逝く
もし それが わたしだったら
に続く一行を 遂に立たせられないまま
152 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 21:41:35.08
落下傘 金子光晴
一
落下傘がひらく。
じゆつなげに、
旋花〔ひるがほ〕のやうに、しをれもつれて。
青天にひとり泛〔うか〕びただよふ。
なんといふこの淋〔さび〕しさだ。
雹〔ひよう〕や
雷の
かたまる雲。
月や虹の映る天体を
ながれるパラソルの
なんといふたよりなさだ。
だが、どこへゆくのだ。
どこへゆきつくのだ。
おちこんでゆくこの速さは
なにごとだ。
なんのあやまちだ。
153 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 21:42:57.58
二
この足のしたにあるのはどこだ。
……わたしの祖国!
さいはひなるかな。わたしはあそこで生れた。
戦捷〔せんせふ〕の国。
父祖のむかしから
女たちの貞淑な国。
もみ殻や、魚〔うを〕の骨。
ひもじいときに微笑む
躾〔しつけ〕。
さむいなりふり
有情〔あはれ〕な風物。
あそこには、なによりわたしの言葉がすつかり通じ、かほいろの底の意味までわかりあふ、
額〔ひたひ〕の狭い、つきつめた眼光、肩骨のとがつた、なつかしい朋党達〔ほうたうたち〕がゐる。
154 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 23:08:41.45
「もののふの
たのみあるなかの
酒宴かな。」
洪水〔でみづ〕のなかの電柱。
草ぶきの廂〔ひさし〕にも
ゆれる日の丸。
さくらしぐれ。
石理〔きめ〕あたらしい
忠魂碑。
義理人情の並ぶ家庇〔やびさし〕。
盆栽。
おきものの冨士。
三
ゆらりゆらりとおちてゆきながら
目をつぶり、
双〔ふた〕つの足うらをすりあはせて、わたしは祈る。
「神さま、
どうぞ。まちがひなく、ふるさとの楽土につきますやうに。
風のまにまに、海上にふきながされてゆきませんやうに。
足のしたが、刹那〔せつな〕にかききえる夢であつたりしませんやうに。
万一、地球の引力にそつぽむかれて、落ちても、落ちても、着くところがないやうな、悲しいことになりませんやうに。」
155 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 23:11:28.80
母 吉田一穂
あゝ麗はしい距離〔デスタンス〕、
つねに遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音〔ピアニツシモ〕。
156 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 23:12:14.11
偶成 ポオル・ヴェルレエン(永井荷風訳)
空は屋根のかなたに
かくも静〔しづか〕にかくも青し。
樹は屋根のかなたに
青き葉をゆする。
打仰〔うちあふ〕ぐ空高く御寺〔みてら〕の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌ふ。
あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より来〔きた〕る。
君、過ぎし日に何をかなせし。
君今こゝに唯だ嘆く。
語れや、君、そもそもわかき折
なにをかなせし。
157 :
吾輩は名無しである:2012/05/11(金) 23:15:21.54
震災 永井荷風
今の世のわかい人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
團菊はしおれて櫻痴は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の聲も亦絶えたりき。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を焼きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残煙となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の芸術を。
くもりし眼鏡をふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の兒ならずや。
去りし明治の兒ならずや。
>>149 「位置」石原吉郎
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
>>142 本居宣長が、やまと心と、さくらを、かけて、書かれた、歌みたいだね^^
きれいな、歌だね^^
おれも、小林秀雄の、『本居宣長』は、読みたいと、思ってます^^
>>147 昭和11年の、「歴程」かー^^
すごいね^^
ユーモアの中に、金子さんの、力強さが、あるね^^
>>148 視る、ということは、簡単なようで、すごく、難しい^^
でも、それが、出来るのが、詩人♪
>>149 石原さんの、「位置」という、詩だね^^
>>150 とても、厳しい、内容の中に、茨木さんの、女性的な、視点が、
光ってるね^^
>>152 金子光晴さんは、戦時中も、一番、戦争から、離れた場所に、
心を、置いて、詩を、書かれていた、と聞いた事が、あります。
でも、深い部分では、戦争が、心の傷に、なってるんだろうな。
>>155 お母さんへの、深い、思いが、切ないね。
>>156 おれは、邦訳詩は、すごく、難しいと、思うんですけど、
荷風さんは、見事に、昇華されてるね^^
いい感じ、です^^
>>157 内容は、悲痛な、ことを、語られてると、思うんですけど、
おれは、この詩、大好きです^^
とても、かっこいい、と思う^^
田村隆一さんが、推理小説と、詩は、芸術として、
残るだろう、って、言われてます。
「涙」伊藤茂次
だれもみていない
くらやみの中で
俺のシヤツを
むしりたい
ズボンなんかも
ずたずたにちぎりたい
涙なんか
なぜこぼれる
くやしいからさ
くやしいからさ
俺はそんなに
へまな人生を送つて来たのか
やりなおし
やりなおしの
人生だけど
くだらぬことではないはずだ
(続く)
(
>>161続き)
旅先の舞台うらのさ
小さな部屋の
暗いはだか電気の下で
老人がさ
ジヤガイモの煮ころがしを
食べさしてくれたのさ
そんな情が
うれしかつた
俺にはこんな思い出があるからさ
それで涙がこぼれるのさ
やりなおし
やりなおしの
人生でさ
こんどは何かを探そう
キラリと光る
涙のようなもの
くらやみの悲しい中で
生のただよう苦しい中で
>>161 何かもう、なりもふり構わぬ直球勝負で切ないねぇ
目の前にこんな詩を突きつけられたら何も言えないねぇ
珍しく政治的な話があったかと思えば、怒濤の貼り付けラッシュ
一つ一つにレスする主、ご苦労さんっす
>>163 茂次さんは、すごく、酒飲みで、
孤独の中で、亡くなられた、みたいですよ^^
天野忠さんが、茂次さんのことを、
「酒にだらしがないそうやが、でも、たまに、ええ詩ィ書きよるがな」
って、言われてます。
亡くなる、直前の詩は、めちゃくちゃ、だったらしい。
でも、茂次さんは、詩に、すがりつくように、
詩を、書いたんだってさ。
まあ、寂しい、人生だけど、茂次さんの、素敵な詩は、
おれが、体で、受け止めてるからね^^
おれなんかで、良かったら、いろんな、お話、
みんなで、しようぜ^^
>>163さんも、お時間が、ある時に、
おれとか、住人さんに、鬼がらみ、してくだせえよ^^
賢治の方がいいな
「薔薇の内部」ライナー・マリア・リルケ
どこにこのような内部を包む
外部があるのだろう。どのような傷に
この柔かな亜麻布はのせるのだろう。
この憂い知らぬ
咲き切った薔薇の花の
内湖(うちうみ)にはどこの空が
映っているのだろう、ごらん、
薔薇はただそっと
花びらと花びらを触れ合わし
今にも誰かの慄える手に崩されることなど知らぬかのよう。
花はもうわれとわが身が
支え切れぬ。多くの花は
ゆたかさあまって
内から溢れ、
限りない夏の日々の中へと流れ入る、
次第次第にその日々が充ちた輪を閉じて、
ついに夏全体が一つの部屋、夢の中の
部屋となるまで。
>>168 >実は、「宮澤賢治の詩の世界」
を、運営されているのは、
おれの、親友なんです^^
賢治ファンにとっては本当にありがたい企画ですね
「春と修羅」の序、自分も大好きです。
子どもの頃からの愛読者なので、賢治の時間・空間の認識の仕方に
知らない間に結構、影響受けてしまっているかも
………
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
青らみわたるかう気をふかみ
楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ
蛇紋山地(じやもんさんち)に篝(かがり)をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
………
原体剣舞連もいいよなぁ
前スレで貼った「春の祭典」のBBCドラマはプルーストスレで知ったんだけど
今では惨状を呈していて残念だよ
>>170 この間、宮澤賢治さんに、関する本を、読んでました。
その中で、賢治さんの、想像力の、秘密は、
賢治さんが、日本の、作家には、珍しく、
理科的な思考、合理的思考を、持っておられて、
自分を対象から、引き離して、対象化されたものを、
合理的に、把握する、力が、あったから、
独特の、賢治ワールドを、作り出せた、と書いてありました^^
そういえば、なるほど^^
賢治文学には、いろんなものが、出てくるもんなー^^
Gさんは、お子さんの、頃に、賢治デビューか^^
すごいなー^^
いつも、Gさんの、「プルースト」スレ、とても、楽しく、
読ませて、いただいているのですが
Gさんは、プルースト文学の、どういう部分が、お好きですか?
Gさんは、プルースト文学の、どういう所に、惹かれますか?
おれも、プルースト、ぜひ、読んでみたいのです^^
174 :
吾輩は名無しである:2012/05/12(土) 14:14:25.74
朝の歌 中原中也
天井に 朱〔あか〕きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙〔ひな〕びたる 軍楽の憶〔おも〕ひ
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦〔う〕んじてし 人のこころを
諫〔いさ〕めする なにものもなし。
樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな
ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
175 :
吾輩は名無しである:2012/05/12(土) 14:15:58.58
皿 西脇順三郎
黄色い菫が咲く頃の昔、
海豚は天にも海にも頭をもたげ、
尖つた船に花が飾られ
ディオニソスは夢見つゝ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた。
麗〔ウララカ〕な忘却の朝。
西脇順三郎のAmbarvaliaだとこれも
天気
「覆(くつがえ)された宝石」のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
中也は、このスレの最初の方にあった「一つのメルヘン」
>>6 等好きな詩、沢山ありますが、これなんかも
北の海
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
曇つた北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
>>172 ありがとうございます。
プルーストの魅力、なかなかまとまらず、うまく言えないのですが。
プルーストは、当初は、恥ずかしながら、スワンの恋愛体験がひとごとでなく
感じられたのがきっかけでした(鹿島茂の『悪女入門』というフランス文学入門書
でオデットに1章を割いていたのを読んで)。
父が堀辰雄の大ファンで家に全集もあり、そこでプルーストという名前はリルケ
と並び、特別な響きを帯びた別格的な存在として語られていたので、子どもの頃
から漠然とした興味や憧れは持っていましたが。
ただ、それはきっかけに過ぎず、現在は、反知性的で直感的な真実把握と知的で
分析的な洞察が見事に混じり合っているところに魅かれているように思います。
詩人と評論家の両面をものすごく高いレベルで兼ね備えており、読んでいて知的欲求
と感覚的欲求の両方が満たされるというか。
西洋音楽や美術に対する深い造詣や審美眼が反映されており、それらを観賞する際に
プルーストの目が役立つという面もあります。芸術を通して西洋というものを実感すること
ができる。
あと、芸術作品の創造の秘密に迫っているところにも興味があります。
179 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2012/05/12(土) 14:51:38.59
春山行夫気になってるんだが、どこかの出版社が全集出してくれないものか。
180 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2012/05/12(土) 14:56:14.73
西脇順三郎全集と並ぶと壮観なことだろう。
父は西脇順三郎も好きで、自分の子どもの頃から家に全集があった。
ただし、詩人の生前に刊行されたもの。
死後に刊行された全集、入手しようと思いつつ、神保町で見かけても
なぜか手がでず、のびのびになっている。
慶應義塾大学出版会から何年か前にでた選集の詩・訳詩の巻を
買ってお茶を濁してしまっているなあ。
182 :
吾輩は名無しである:2012/05/12(土) 19:30:45.83
http://yokato41.exblog.jp/15284393/ もとより、詩は読者がいない、いないと詩人は嘆くが、むしろ読者がいたほうが困るのではないか。
自分の詩が、読者のきびしい視線にさらされ、正確に読みとられてしまうと(理想の実現)、それほどのものは書いていないことや、凡庸な人間であることがばれてしまうのだ。
だから奇妙な言い方になるが、読者がいないことで詩人の作品は救われているのである。また、彼らも救われてきたのである。
いずれにせよ現世では詩人の活きる道などない、と思ったほうがいいのであるが、「理想の世界」は、ある人々にはいまも光り輝くものであるらしい。
詩人としての余力を残しながら、中年になって、詩が書けなくなり小説に転じる人たちが多いのだ。
いったい彼らの詩は何だったのだろう。つまり彼らの小説とは何なのだろう、ということだ。
(荒川洋治「夢を叶えた詩人たち」)
>>173 たしかに^^
この詩を、子供時代に、見たら、びっくりするだろうなー^^
内容は、深刻だけど、ユーモアが、あるのが、すごい^^
>>174 中也さんの、詩は、やっぱり、いいね^^
やっぱ、読み手を、引きずり込む、力がある。
おれも、もう、一回、中也さん、読み直そうかな^^
>>175 >>176 順三郎さんの、すごい、とこは、
ギリシャ的叙情なんかを、自然に、詩に、
取り入れられる、とこが、すごいなーと、思いますね^^
モダニズム的、ある意味では、少し、シュルレアリスム的、
な部分なんかは、荒地派に、深く、影響してると、思う。
>>177 中也さんの、詩の中に、生の不安が、見える、
そんな、詩だね^^
中也さんは、自らの、死の後の世界を、まるで、
予期してるようだ。
>>178 なるほどー、
恋愛経験、っていうのは、自分を、見つめ直す、
きっかけに、なったり、しますからねー^^
そうかー、
やっぱ、プルースト、すごいなー^^
Gさんが、プルーストに、心を、奪われるのが、
よく、分かります。
芸術の、百科全書のような、プルーストを、
勉強するだけで、あらゆる、芸術を、学べるもんなー^^
おれも、少しずつ、プルースト、読みます^^
>>179 たしかに^^
春山行夫の、全集出てないね。
コクトーと、お友達かー^^
コクトーは、チャップリンと、友達であると。
おれは、春山さんの、随筆も、読みたいな^^
うーん、フォルマリスムかー。
ダダなんかだと、高橋新吉さんとか、トリスタン・ツァラなんかは、
まとまった、本があるけど、
ちょっと、今の時代で、全集が、出るのは、
難しいかもしれない。
>>180 >>181 『西脇順三郎全集』欲しいなー^^
すごい、巻数だね(笑)
おれ、一回、図書館で、順三郎さんの、詩論を、
借りようと、思ったんですけど、挫折して、
再挑戦しようと、思っております(^0^)b
>>182 ブログ、とても、興味深く、読ませていただきました^^
荒川さんは、やっぱ、とても、鋭いと、思う。
冷静に、芸術を、見られてるなー、って、感じます。
やっぱ、詩を、書くのは、体力、気力がいるし、
ある意味、散文よりも、しんどいかも、しれない。
詩→小説の、人は、多いけど、逆は、聞いたこと、
ないもんな。
小林秀雄さんとか、中也さん、賢治さん、なんかの、
戦前の、例外的な、天才も、いるけど、
敗戦直後に、天才が、多く、集まってる。
この現象に、おれは、注目したいところ。
ネットで、気軽に、詩を、投稿できるように、なって、
おれも、詩の、クオリティー、急に、落ちたなって、思う。
でもさ、ネット時代になり短歌や俳句は伝統的結社に所属せず、
自由に活動することもできる面白い状況になっているんだよなぁ。
制約の多い詩形というのもむしろパズル的、ゲーム的な要素と捉えることができ、
手軽に作れることも相まって興味を持つ若い人も増えているように思う。
>>182 だらだらと惰性的に詩を続けるよりは、
かつてのランボーのようにきっぱりとやめるのも一つの道だとは思うけど、
ただ詩をやめざるを得なかったランボーが小説を書いて何になるということなんだよね。
それに確かに詩人が多すぎるし、批評が機能していないのも問題だとは思うけど
でも、そういう荒川が書く詩ってどうなの?
俺は殆ど読んだことがないんだけど、そこもまた難しいところなのかな
>>186 そうかー、
そういう、見方も、たしかに、あるなー^^
おれは、ネットでは、短歌の、若者の、
成長が、目覚しいなー、なんて、
思ってます。
たしかに^^
パズル的、ゲーム的な要素は、
詩よりも、俳句・短歌が、持つ、強味だよね^^
>>187 ランボーは、やっぱ、若さが、味方した、
詩人だと、おれは、思います。
ランボーは、散文を、書いても、
詩ほどは、認められない、と、
おれは、思います。
荒川さんは、おれは、電話で、
一回、お話したことが、あります。
いい感じの、人でしたよ^^
うーん、荒川さんの、詩は、
おれは、良さが、わかりまへん(笑)^^
「見附のみどりに」荒川洋治
まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉さきのかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ
かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向う肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくついている
(続く)
(
>>189続き)
夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た
いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金(はつきん)のひかりをついて
あるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の
時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打
ちいでてみようか見附に。
>>188 みんな、ごめん^^
訂正します。
×>ランボーは、散文を、書いても、
↓
〇>ランボーは、小説を、書いても、
「イリュミナション」は、
散文詩だもんね^^
ランボーの、残した、書簡なんかは、
面白いんだろうか?
ご存知の方、いますか?
>>188 >荒川さんは、おれは、電話で、
一回、お話したことが、あります。
くわしく
>>193 いやいや^^
たぶん、
>>193さんの、ご期待を、残念がらすことに、
なると、思う。
昔、荒川さんは、個人で、紫陽社、という、詩集専門の、会社を、
持っておられて、三橋聡さんの、詩集の在庫があるか、お聞きするために、
たしか、土曜美術社だったと、思う、
荒川さんへの、ファンレターとして、荒川さんに、
手紙を、書いたんですよ。
そしたら、わざわざ、おれの、自宅に、荒川さん、ご本人が、
電話してきてくださって、渋い声で、紫陽社は、もう、ないこと(T0T)/
詩集の、在庫は、ないことを、伝えてくださりました。
そのあと、なんていう題名だったかな?
荒川さんの、新刊エッセイについて、20分ほど、お話させていただきま
した。
おれ「おれは、荒川さんの、エッセイは、楽しんで、全部読んでいます^^」
洋治「あっそうなの、どうも、ありがとう。」
っみたいな、フィーリングでね^^
ただ、そんな、感じの、荒川さんとの、電話での、会話でした^^
「陽氣な鬼」高見順
茶碗のふちを箸でたたくな
餓鬼(がき)がやってくる
大事なごはんを餓鬼に食われる
幼兒の私に祖母が言った
食後靜かに横たわった
今は年老いた私のところへ
奇妙な鬼どもがやってきた
なんの物音も立てはしなかったのに
外には雪が降っている
雪に足跡を殘さず
足も濡らさずに庭から
私の部屋にはいってきた
小肥りした鬼どもは
顔の色艶もよく飢えてなどいない
きっと私なんかよりずっといい暮らしをしているのだ
病み衰えた私のほうが餓鬼のようだ
何をしに來たのだろう
私を慰めに來たのか
こんな陽氣な鬼のほうが
骨と皮の餓鬼よりむしろ氣味が惡い
(続く)
(
>>195続き)
私のベッドのまわりでツイストをはじめた
箸で私の肋骨をシロホンがわりにたたいて
音が惡いと
食道のない私の胸に耳を當てたりした
するうちなににおびえたのか
鬼どもは一齊にキャーッと叫んで
部屋からあたふたと飛び出した
否 私から一目散に逃げ出した
ランボー創作時代の手紙はいくつか残っているが、有名なのは「見者の手紙」と言われる、
かつての教師と友人に宛てた2通の手紙。
これは自身の創作について詩と共に語っていて全集なんかでは必ず掲載されているはず。
また、アフリカからの手紙は多数(200痛以上とも)残っている。
しかしこれらの手紙は、小林秀雄曰く「彼が往来した沙漠の様に無味乾燥」なものらしい。
俺はほんの一部を抜粋で読んだだけだし詳しくは知らない。
198 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 13:57:50.21
>>197 どうも、ありがとう^^
そうかー、2通の手紙と、
アフリカ書簡200通以上も、あるのかー^^
でも、37年の、人生としては、寂しいな。
>>198 どうも、ありがとう^^
助かります^^
とても、興味深く、読ませていただきました。
鈴村さんの、訳、とても、いいね^^
やっぱ、ランボーは、「見者」ということに、こだわってるね。
それに、すごい、博学。
たしか、アフリカ時代にも、親族に、
60冊の、本を、送るようにとの、手紙を、書かれた、みたいなことを、
読んだ、記憶があります^^
>>199 そうだね^^
講演なんかに、行くと、お話しできる、ような、機会が、あるかもしれない。
荒川さんの、紫陽社は、新人の詩人さんを、中心に、詩集を出されてて、
現代詩の、発展で、荒川さんの、お仕事の、力は、大きいと思う。
でも、やっぱ、詩の会社を、続けるのは、大変みたいです。
>>199さんも、またいつか、好きな、詩人さんが、できたら、出版者宛に、
ファンレターを、書くと、いいよ^^
詩人さんと、コンタクトが、取れると、思います^^
201 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 19:01:31.62
死のむかふへ 吉本隆明
ここは三月の死んだくにから
わづかに皮膚をひとかはうちへはいつた意識のなかだ
意識のいりくんだ組織には死臭がにほひ
こはれかけた秩序をつぎあはせようとする風景と
そのなかにじぶんの生活をなげこまれながら
はるかに重たい抗命と屈辱とをかくまつた べつの
意識が映る
ぼくたちの意識を義とするものよ
それはどこからきてぼくたちと手をつなぐか
それは海峡のむかうの硝煙と砲火あるところからか
またそれはヨオロツパのおなじ死臭のなかからか
それはおなじ死臭の
べつな意味を
死んだ国のなかでつくり出さうとするものからか
死んだにつぽんよ
死んだにつぽん人よ
おまへの皮膚のうへを砲をつんだワゴンがねりあるく
おまへの皮膚は耻をしらない空洞におかされてゐる
おまへの皮膚から屈辱がしんとうしてゆく
やがておまへの意識はふしよくされた孔から
じつに暗い三月の空をのぞくだらう
202 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 19:01:55.36
はるはめぐつてきて
にんげんをさらつてゆくのであるから
ところどころ空はうたがひぶかく晴れて
おまへの屈辱をあきらかにしてゐる
<おまへの屈辱をゆくりなくめぐつてくるものと
とりかへるな
おまへの屈辱をかくじつにあるべき未来と
とりかへよ>
おまへはじつに暗いとおもふ三月の空から
はるかに底のほうにあるにつぽんといふ土地をかんがへよ
しゆうかいなビルデイングのなかでおこなはれる
ペテン師のたそがれた合唱をかんがへよ
板のうへでとられるみそづけの晩さんをかんがへよ
重役のやうな芸術家が
ルムペンのやうなげいじゆつ病青年をやとつてゐる
げいじゆつの市場をかんがへよ
おまへはおまへの意識をひとこまづらせば
そんな風景のなかでかんがへることになる
六十年前に書かれた詩だそうで
>>201 >>203 そうかー、
六十年前か^^
ってことはですよ、
吉本さんが、27才くらいの、時の詩ですかー^^
やっぱり、暗鬱とした中にも、ユーモアがあるし、
吉本さんの、思想的なものが、盛り込まれてるね^^
「石のばか」日原正彦
石のばか
何でそんなにかたいんだ
ぼんやりと息を吐いてたら 躓いて
朝っての方まで転んでしまったじゃないか
ぼくはやわらかいぞ
こねてまるめてひっちぎって もう
何にでもなってやるって決めたんだ
伸縮自在のぼくの一日だから
百万年にも 一秒にもなれるんだぞ
足の生えた魚にだって
羽の生えたバケツにだってなれるんだ
どうだ!
…でも
ふわふわとたんぽぽの綿毛が飛んでいる公園のかたすみの
たとえば 午後二時三十四分の
おまえが じいっと曳いている 影なぞは
ああ
泣きたいほどに うつくしいなあ
206 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 21:24:59.68
葬式列車 石原吉郎
なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけてる奴さえいる
207 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 21:25:18.56
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が機関車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発して来たのかを
――詩集『サンチョ・パンサの帰郷』・1963年・思潮社刊 より――
銀河鉄道
209 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 23:18:52.50
涙 石原吉郎
レストランの片隅で
ひっそりとひとりで
食事をしていると
ふいにわけもなく
涙があふれることがある
なぜあふれるのか
たぶん食べるそのことが
むなしいのだ
なぜ「私が」食べなければ
いけないのか
その理由が ふいに
私にはわからなくなるのだ
分らないという
ただそのことのために
涙がふいにあふれるのだ
210 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 23:21:31.04
花であること 石原吉郎『サンチョ・パンサの帰郷』
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
あり得ぬ日々をこえて
花でしかついにあり得ぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
>>210 涙流れた。この偶然に感謝します。言葉の重みと素晴らしさ。
>>169に貼られているリルケの「薔薇の内部」と並べてみるのも面白いよね
213 :
吾輩は名無しである:2012/05/13(日) 23:46:47.76
石原吉郎 「詩の定義」
詩を書きはじめてまもない人たちの集まりなどで、
いきなり「詩とは何か」といった質問を受けて、返答に窮することがある。
(中略)
ただ私には、私なりの答えがある。
詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。
だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。
詩に於ける言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。
もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。
いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。
>>208 の夜^^
>>212 たしかに、たしかに^^
リルケと、石原さんの、詩の比較^^
リルケの、詩は、かろうじて、外に向えてる。
まだ、なんとか、救いがある。
それに、対して、
石原さんは、もう、痛いほどに、
内面を閉じて、戦って、守ろうとしてる。
あと、一歩、石原さん、踏み込んでたら、
危なかっただろうね。
>>211さんが、泣かれるのが、よく、分かります。
>>213 石原さんは、よく、詩論でも、
どれだけ、詩で、言いたい事を、
言わずに、書くか、
ということを、繰り返してる。
おれは、やっぱ、石原さんの、
シベリア収容所体験は、大きかったと、思う。
田村隆一さんも、戦争体験に、関しては、
若者に対して、沈黙を守るような、所があった。
石原さんも、沈黙を持って、戦争を、語ろうとした、
と、おれは、思うね。
私が翻訳に取りかかった時、すでに『差異と反復』という日本語の表題
が定着していたように思う。しかし、「反復」という訳語は、今でも「
繰り返し」と訳せば良かったかなと思っている。「差異」も「違い」の
方が良かったのでは・・・。いわゆる「やまとことば」に基づいて『違
いと繰り返し』と訳した方が、私の感覚では読んでピンと来る。だが、
やまとことばを論理的な文章で多用すると、論理的厳密性が損なわれる
わけではないが、ベタついた訳文になりがちである。
>>215 >>216 財津理さん、ブログを、持っておられたのかー!!!
これから、ゆっくり、読もっと^^
『差異と反復』は、おれは、最初、文庫を、買って、
索引が、欲しかったので、ハードカヴァーも、買いました。
なんて、言ったって、ドゥルーズの、主著だもんね^^
『違いと繰り返し』という、訳は、良くないと、思います。
やっぱ、『差異と反復』という、訳こそ、神!!!
「詩がきみを 石原吉郎の霊に」鮎川信夫
あのとき
きみのいう断念の意味を
うかつにも
ぼくはとりちがえていた
生きるのを断念するのは
たやすいことだときみが言ったとき
ぼくはぼんやりしていた
断念とは
馬と蹄鉄の関係だ
と教えられても
レトリックがうまいなと思っただけで
蹄鉄が馬を終るとは
どういうことか
ついに深く考えずじまいであった
酒杯をかたむける
そのかたむけかたにも
罪びとのやさしさがあって
それがきみの作法だった
ぼくはうっとりと
自然にたいして有罪でない人間はいない
というきみの議論にききほれたものだ
きみにとって詩は
残された唯一の道だった
(続く)
(
>>218続き)
いつかみずからも
美しい風景になりたいという
ひたすらなねがいで
許されるかぎりどこまでも
追いもとめなければならない
断念の最後の対象だった
そしてきみが
詩を終ったと感じたのは
やわらかい手のひらで
光のつぶをひろうように
北條や足利の美しい光景をすくってみせたときだろう
ぞっとするような詩を書き終えることで
断念の意味は果されたのだ
苦しんでまで詩を書こうとは思わない
きみにとって
もはや暁紅をかいまみるまでもなかった
死はやすらかな眠りであったろう
ぼくはきみに倣って
「きみが死を」ではなく
詩がきみを
こんなにも早く終えたことを悲しむ
この詩もいいな
「棘」三好豊一郎
信濃町教会堂の空気はひんやりと
うすぐらい二階の木の長椅子は固く
汗ばむほどの小春日の道を急いだ私には
それがむしろ快かった
オルガンが鳴って
賛美歌がはじまった
正面の祭壇には石原吉郎が
花にうもれてわらっている
死者とはなんだろう
生者は死者に
負うものがあるのかもしれぬ
生きているかぎり支払い終えぬ負債として…
石原吉郎とはじめて会ったとき
彼はシベリアでの捕囚の
一人の友の死のことから話しはじめた
彼は語り難い何かを語ろうとしたのだが
私の関心は彼の心の襞にまではいり得なかった
交渉をもたぬものには失せ物ほどにも興味のない
ありふれた事実の一つにすぎなかった それが
彼の心には棘だった
痛い不動の死者として
生者の心に生きつづける
抜けなくなった棘だった
陽をあびた銀杏の葉が風に吹かれて
黄金色にきらめく窓の外を
うつつの世界の証しのように眺めながら
私はぼんやり考えていた
死者とはなんだろう──と
222 :
吾輩は名無しである:2012/05/14(月) 21:15:44.42
http://blog.goo.ne.jp/monakasm/e/ad9953d55c2eb57f14fb88047a594d94 第一行をどう書くか ユリイカ詩と批評
「私の部屋には机がない」 石原吉郎
私にとって〈第一行〉とは、つねに〈訪れるもの〉である。
訪れは、私の側の用意のあるなしにかかわらない。
それはしばしば、完結した断定としてやってくる。
「霊感(ひらめき)について」 三好豊一郎
霊感―大仰すぎるならヒラメキでいい―は無為にいて、ふらっと宿るものではない。
霊感は、霊感を強く求める意志によってのみとらえられる。
「冒頭の一行にもどる瞬間」 田村隆一
最初の一行は神が書き、二行目からは詩人が書く―
こういう意味のことを、フランスの詩人が云っていたのを、
僕は少年の時、どこかで読んだ記憶がある。
(中略) むしろ、ぼくの場合は、ひたすら、
最初の一行を発見するために、詩を書くと云っても、けっして過言ではない。
一遍の詩を読みおわって、冒頭の一行にもどる瞬間、
その詩行が屹立し、全体の意味が鮮烈に問いなおされるような場合、
ぼくはためらうことなく、それを「詩的経験」と呼ぶ。
223 :
吾輩は名無しである:2012/05/14(月) 21:36:11.57
石原吉郎
<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。
被害者のなかからは生まれない。
人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、
人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。
私は告発しない。ただ自分の<位置>に立つ。
日常のただなかでみずからの位置を確かめつづけることが、
いわば生きることへの証である……
いまにして思えば、戦争は私に、日常をのがれることの不可能を教えた唯一の場であった。
いかに遠くへへだたろうと、どのような極限へ追い込まれようと、
そこで待ちうけているものはかならず日常である。
なぜか。私たち自身が、すでに日常そのものだからである。
>>222 とても、ブログ、面白いです^^
ジャズが、お好きなのかー^^
おれは、ジャズでは、ピアノ系、ベース系が、好きです。
ピアニストでは、ブラッド・メルドー^^
ベーシストでは、バリー・ガイが、好きです。
ガイの、音楽は、好き嫌いが、分れると、思うんですけど、
おれは、ガイの、抽象感、溢れる、曲が、大好きです。
ガイは、音楽学校の、先生なんで、普通にベースを、弾いても、
抜群に、上手いんですけど、あえて、普通に、弾かない、
ガイの、変ってるとこが、好き^^
メルドーは、この間、来日してくれた時、二日連続で、
観に行きました。
初日の、ファーストステージは、最前列^^
メルドーが、パフォーマーとしても、とても、優れてるのが、
よく、分かりました。
一曲目は、ロックバンド、オアシスの、曲の、ジャズのアレンジしたもの。
すごい、かっこ良かった^^
詩の一行目は、神様が、書くと、言ったのは、
誰だっけ?
ヴァレリー、だったかなー^^
忘れた(T0T)/^^
>>223 石原さんは、クリスチャンだったけど、
そのことによって、救われたことは、ない、って、言ってた。
教会という場所は、自分の、生きているということの、
不安を、確かめ、確認する場所、だって、言ってた。
武田泰淳さんは、生きている限り、自分の中に、
殺人犯の、片割れが、いる、みたいなことを、
言ってた。
人間が、人間として、背負うもの、
そういうことを、石原さんは、冷静に、見てたと、
おれは、思います。
226 :
吾輩は名無しである:2012/05/14(月) 22:14:24.70
>>225 われわれは軽々に救済を呼ぶべきではない。
救済の以前に、すでに亡んだ者として、
滅亡の確たる承認こそが、逆説としての救済をもたらすという事実をこそ、
人は苦痛とともに思い起すべきではないのか。
人は亡んでおり、また亡びつつあるからである。
『私は信仰により*救われた*』ということばを、
仮にも人は、*公然*とロにすべきではない。
228 :
吾輩は名無しである:2012/05/14(月) 22:17:23.11
>>226 石原吉郎「絶望への自由とその断念── 『伝道の書』の詩的詠嘆」
>>226 >>228 おれも、石原さんの、言うとおりだと、思う。
石原さんの、お言葉は、本当の、絶望を、
知っている人の、言葉。
今の時代、救済を、求めさそうとする、宗教が、多すぎる。
まだ、東洋の、宗教の、方が、未来があるか。
でも、うかつに、救済を、言わない、
カール・バルト、パウル・ティリッヒの、神学は、
おれは、大好きです^^
「彼の眼」中桐雅夫
薄暗い墓穴(はかあな)の中に彼は仰向けに寝ていた
傷あとのある腹に冷い土がかかってきた
ぶるっと震えて夢から覚めた、その彼の
右手が両の眼を蔽っていた。
死人の手がなぜ死人の眼をかばったのだろう?
眼が覚めたのなら、もし生き返ったのなら
墓の中でも大声で叫べばよかったのに
立ち上がってみんなをあっと驚かせてもよかったのに。
だが、彼はこう思っていたのだ
おれのやっていることは緩慢な自殺だ、と
灯火(あかり)はつけたり消したりできるが
そうはいかないものもある、と。
お前たちの顔など、見たくない、と眼はいう
人間の優しさなどに騙されはしない、と彼の眼がいう。
宗教って、
いっぱいあるほうが、
いいんだろうか?
イスラム原理主義の、タリバンなんかは、
どうなんだろう?
本来の、イスラム教の、
教えを、正統には、継承していないんだろうか?
232 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 04:45:07.56
「流血」 秋谷豊
今日の太陽は 昼の中から
ぼくの傷口を照らす
午後の寝台に 汗は乾き
石を抱いてぼくは睡る
漆黒の日射に
腕を溶かしてしまつた
トルソのように睡る
今は昼 積乱雲は間近に燃え
ぼくは悪夢の記憶に
血を流させることもできるのだ
銃をかかえて黄いろい菜の花の中から
見もしらぬ兵士が
ゆつくりと歩いてくる
かれの眼の激烈な照準のなかに
はりつけられた一羽の鳥
白い空にはぢける思想の花火が
重たい金属の音を立てて
とつぜん ぼくの腕を払う
倒れている 頭の方
ふるえる憂愁の花片や
焦げる文明の化石を
むなしく破裂させながら
鳥は墜ちる!
(続く)
マンダレー西方 夏草のなかに落としてきた
無為よ いたましい血は
今日 腕の傷口から内部の原野を
流れる樹液のように上つてゆくが
ぼくの傷ついた姿は もはや
愛する人を抱くことはできない
ぼくの傷ついた指は もはや
孤独な楽器を鳴らすことはできない
今日の太陽は 昼の中から
去つてゆこうとしていた
閉ざされた部屋に 燈火を灯し
ふたたび 黄いろい菜の花の中へ
しずかにはいつてゆく
ぼくは眠れる一羽の鳥だ
前方で 遠い夜の樹の
枝々ばかりが輝いている
>>232 ごめんね^^
おれが、振ってしまった、ばかりに、
気を使って、調べさせてしまって^^
おれも、今、「一行目は神 ヴァレリー」
で、検索したんだけど、なかった。
日本では、田村隆一さん、嵯峨信之さん、あたりが、
この言葉を、言ってます。
田村さんは、ルネ・シャールからも、言葉を、引用されてるし、
嵯峨信之さんは、フランス現代詩の、研究をされてた。
ボードレール説が、高いみたいだね。
でも、おれは、ボードレールは、たぶん、聖書から、
影響を、受けて、この言葉を、言ったのではないか、
と、考えています^^
>>233 秋谷さんの、詩、とても、
かっこいいね^^
野山のことを、多く、書かれてる、詩人さん、みたいだね^^
山の詩人、田中清光さん、なんかの、詩と、共通する、ものが、
あるかもしれないね^^
「黒」田中清光
夜 戸口からしのびこみゼラニウムを暗殺
女の美しい咽喉をながれ 下腹にふきだまる
黒い風 晴れわたった草原でふいに
羊たちの群を脅えさせ ちりぢりにみだす
朝 ひとりの旋盤工の心をはげしくふきのぼり
街角で恋びとたちを狙っている
風 ビルのうえで太陽はいち日
くろずんで旋回する
しかし もっと黒いものがある
たとえば密殺された牛の口からたれている死の色
轢死した男の内腿にこびりついている死
真昼 まばゆい光の雨のふる街路にさんざめく
少女たちが妙に明るくみえるのも
ぼくを閉じこめているガラスが まっ黒いため?
語り合おうぜ・・・
>>238 おおともよ!!!
語り合おうぜ!!!!!
暇つぶしに、
みんなで、連詩でもして、遊ぶ?
形式は、単純な、手軽な、とこで、
ソネットなんか、どう?
4・4・3・3行ね♪
テーマは、恋なんて、どうでがすか?
詩の、題は、みんなで、最後に、付けようか?
ほんなら、第1連の、最初4行、
おれが、今、考えるよ♪
ほな、いくで!
ああ、愛しき人よ
あなたには、このぼくの魂が見えるか?
あの夜空の星よりも熱く燃え上がる、あなたへの想いを。
ぼくが王子となって、無口なあなたに、くちづけをしよう。
この続きの、次の第2連、4行、みんなだったら、
どう続ける?
240 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 20:32:07.31
>>235 謝られることはぜんぜんありません。
日本語でいろいろ探すだけでも楽しいですが、英語、フランス語になるとかなり厳しいです。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/720864.html にもあるけれど、ボードレールはありえない、とおもった。
カルテジアンなヴァレリーはこんなこと書くはずがない。
>>156荷風訳のオリジナル冒頭は、
Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là, Simple et tranquille.
でも、ヴェルレーヌでもないだろうな。
「イギリスのロマン派」はほとんど知らないけれど、
「神」なんてこんな使い方するのかな。
なんだかんだ書きながら、楽しんでいます。
241 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 21:20:04.91
>>240 冒頭ではなかった。
Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là, Simple et tranquille.
あゝ神よ。質朴なる人生は かしこなりけり。
242 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 21:35:01.12
ボードレールはまずないだろうな
でも近代という感じもしなくもない、なんとなくだけど
ほんとに?ほんとに?ホイットニー・ヒューストン
ああおかしき人よ あなたには見えないのか 聴こえないのか
ほないくで!が夜空にひゅ〜ストンっと消えたではないか
246 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 22:37:10.52
くらげの唄 金子光晴
ゆられ、ゆられ
もまれてもまれて
そのうちに、僕は
こんなに透きとほってきた
だが、ゆられるのは、らくなことではないよ。
外からも透いてみえるだろ。ほら。
僕の消化器のなかには
毛の禿びた歯刷子が一本、
それに、黄ろい水が少量。
心なんてきたならしいものは
あるもんかい。いまごろまで。
はらわたもろとも
波がさらっていった。
247 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 22:38:47.06
(続き)
僕?僕とはね、
からっぽのことなのさ。
からっぽが波にゆられ、
また、波にゆりかへされ。
しをれたかとおもふと、
ふぢむらさきにひらき、
夜は、夜で
ランプをともし
いや、ゆられてゐるのは、ほんたうは
からだを失くしたこころだけなんだ
こころをつつんでゐた
うすいオブラートなのだ。
いやいや、こんなにからっぽになるまで
ゆられ、ゆられ
もまれ、もまれた苦しさの
疲れの影にすぎないのだ!
>>240 >>241 >>242 なんとか、このスレ、楽しんで、いただけてるようで
良かったです^^
おれも、イギリスの、ロマン派で、こういう、
とがった、言葉を、言っておられるような、
詩人さんは、知らないですね^^
おれは、もしかして、って、思って、
今、「最初の一行は神 エリオット」って、
検索したんですけど、T・S・エリオットでは、
ないみたい。
おれは、どうも、旧約聖書あたりが、怪しいと、睨んでます^^
言った詩人さんも、間違いなく、聖書に、強い、影響を、
受けられてると、思う。
やっぱり、西洋圏の、詩人さんは、聖書からは、
逃走するのが、困難だと、思うから。
朗読、夢中で、聴きました^^
かっこいいね^^
詩自体は、おれは、日本の詩が、一番、大好きですけど、
朗読となると、一番、フランス語が、好き^^
なんていうのかなー^^
今まで、いい夢を、見られたんだから、もういいじゃんか、的な、
詩人さんの、悲痛さが、とても、いい感じで、聴こえてきます♪
>>243 おれも、近代では、ないと、思う。
「最初の一行は」とか、
聖書的な、匂いが、しながらも、
現代詩の、匂いを、醸し出してる、
言葉だね^^
>>244 >>245 第2連4行
ほんとに?ほんとに?ホイットニー・ヒューストン
ああおかしき人よ あなたには見えないのか 聴こえないのか
ほないくで!が夜空にひゅ〜ストンっと消えたではないか
いいね^^いいね^^
死者への、追悼。
ドストエフスキー的、詩句の、構築美。
ギャグが、読み手を、詩に、上手く誘導することに、
成功してる^^
4行だから、あと、一行、おれが、足すね^^
ああ、恋するあなたに、わてが、つっこみを入れよう。
ってします^^
次に、一回、第1連、第2連、まとめるね^^
250 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 22:58:10.64
なにが詩を語り合うだ。
お前らのやってることは著作権を無視して人様の詩をまるごとコピペしてるだけじゃないか
どれだけ書き手や出版社が迷惑被ってると思ってるの
「犯罪」を犯しているという自覚あるのか?
よっこいしょーいち
ちんちろりんの〜カックン
>>246 光晴さんの、詩の、上手さが、とても、よく、
光っているが、
とても、寂しい、詩だね。
光晴さん、御自身は、やっぱ、人生に、
疲れてたのかな?
考えさせられる、詩です。
>>250 ごめんね^^
このスレを、立てた、おれが、謝るよ。
おれは、このスレ、楽しいよ^^
おれが、知らない、詩人さん、詩と、
いっぱい、いっぱい、出会えるから。
著作権は、たしか、作家の死後、50年か?
そんな、待ってたら、芸術なんて、
発酵して、腐っちまわねえか?
おれは、芸術、詩、文学を、心から、愛するものとして、
今日も、詩を、貼ります。
255 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 23:15:55.98
>>254 今この瞬間、訴えられたときのお前の罪状は重くなった。
ありがっとさーん
アホの坂田でんがなー
あ、ここ掘れチンチン
(詩)
アホ! アホ! アホの坂田
アホ! アホ! アホの坂田
ア〜ホの坂田〜 ア〜ホの坂田〜
アホの坂田 アホの坂田
アホの坂田 アホの坂田
アホの坂田〜
のをあある
とんだ恥さらしもいたもんだ
人の芸術作品を、無断でネットにコピペして回ることが
芸術を腐らせないと思っているなんて
詩を心から愛するものなれば、詩人に利益を還流しにくくするネット無断コピペなどやるはずもない
こと詩は無断複製されやすく、消費されやすいこと小説などの比にならない
その人の人生と叡智の結晶を、たやすいコピペで軽んじる
これが芸術を愛する者の態度とは
うわひどいな
コピペするのを批判されたら、荒らし行為でスレを埋めて話を流そうとしてるだろ
260 :
吾輩は名無しである:2012/05/15(火) 23:38:39.23
>>251 >>252 よし!!!
第3連3行、あと、一行、おれが、足します。
ぼくは詩で、あなたの心の鍵を開けよう。
ってします。
ちょっと、まとめます^^
よっこいしょーいち
ちんちろりんの〜カックン
ぼくは詩で、あなたの心の鍵を開けよう。
って、できました^^
最終連3行、1行目、おれが、考えてみます^^
幼き頃から、あなたは、わたしの中で、死者だった。
ってします。
最後2行、みんなで、考えてくれ^^
>>258 おまい見どころある
三島スレに来て
コピペ魔チワワをやっつけてくれ
そうだね。
たしかに。
おれの、やってる、ことは、重い、犯罪だよね。
詩人さん、文学者さん、みなさん、
おれのことを、どう、思うだろう。
心配です。
「緑の導火線を通して花を駆りだす力」ディラン・トマス
緑の導火線を通して花を駆りだす力は
ぼくの緑の年齢(とし)を駆りだす。木の根を枯らす力は
ぼくの破壊者だ。
そしてぼくは唖で ねじけた薔薇に告げえないのだ、
ぼくの青春も同じ冬の熱病にねじまげられていると。
岩から水を噴きださせる力は
ぼくの赤い血潮を駆りたてる。しゃべる流れを涸らす力は
ぼくの流れを蝋に変える。
そしてぼくは唖で ぼくの血管にいえないのだ、
山の泉で同じ口がどのように水をすすっているかを。
淵の水に渦を巻きおこす手は
流砂を動かす。吹きくる風を縛りとめる手は
ぼくの死装束をたぐって 船出させる。
そしてぼくは唖で 絞首された男に告げえないのだ、
絞刑史の石炭はぼくの粘土でどのように造られているかを。
時の唇は泉の源に吸いついて 血をすする。
愛は滴り 留まる、だが落ちた血は
かならず彼女の傷の痛みをやわらげる。
そしてぼくは唖で 時候の風に告げえないのだ、
時が星々のまわりにどのように天空を刻んできたかを。
(続く)
(
>>264続き)
そしてぼくは唖で 恋人の墓に告げえないのだ、
ぼくの敷布を同じねじけた蛆がどのように這ってゆくかを。
気にすんなよ、主のGやアセッションへのレスが気に入らぬアンチのいやがらせだよ
とをあある
西武園所感 ある日ぼくは多摩湖の遊園地に行った 田村隆一
詩は十月の午後
詩は一本の草 一つの石
みみっちく淋しい日本の資本主義
ぼくらに倒すべきグラン・ブルジョアがないものか
そうだとも ぼくらが戦うべきものは 独占である
生産手段の独占 私有生産手段である
独占には大も小もない すでに
西武は独占されているのだ
君がもし
詩を書きたいなら ペンキ塗りの西武園をたたきつぶしてから書きたまえ
詩で 家を建てようと思うな 子供に玩具を買ってやろうと思うな
血統書づきのライカ犬を飼おうと思うな
諸国の人心にやすらぎをあたえようと思うな 詩で人間造りができると思うな
詩で 独占と戦おうと思うな
詩が防衛の手段であると思うな
詩が攻撃の武器であると思うな
なぜなら
詩は万人の私有
詩は万人の血と汗のもの 個人の血のリズム
万人が個人の労働で実現しようとしているもの
詩は十月の午後
詩は一本の草 一つの石
詩は家
詩は子供の玩具
詩は 表現を変えるなら 人間の魂 名づけがたい物質 必敗の歴史なのだ
いかなる条件
いかなる時と場合といえども
詩は手段とはならぬ
君 間違えるな
飢えてるん?
おわああ
271 :
吾輩は名無しである:2012/05/16(水) 02:17:03.91
↑ハナレメ笑
>>256 もっと、祈るように、詩を書くと、良くなります^^
>>260 おれは、芸術における、エロティシズムは、永遠の、課題だと、思う。
>>266 どうも、ありがとう^^
>>268 田村隆一さんは、おれの、偉大な、詩神です。
>>269 けっこう、寂しがり屋です^^
「詩を語り合おうぜ!!!!!2」の、おれの大切な、愛する、住人たちへ
さて、みんな、おれたちに、著作権の、問題が、出てきた。芸術家、他人の
為でなく、おれたち、ひとりひとりの、このスレの、住人の為に、著作権を
守ろう。おれは、2chを、去り、もう、二度と、2chは、見ません。
約束します。
ここで、最後に、みんなに、提案がある。
みんな、一行詩でいいから、詩を書いてみないか?
みんなは、もう、このスレで、詩を読むことは、十分しました。
これからは、あなた自身が、詩人に、なるべきです。
おれは、本名、森田拓也、という、名前で、「現代詩フォーラム」
「文学極道」で、詩を、書いて、投稿しています。
おれは、そこで、大切な、みんなのことを、ゆっくり、のんびり、いつまでも
待っています。
みんなも、詩を、書いて、投稿してください。
それでは、先に、行って、待ってるからね^^チュッ♪
絶句
森田拓也さんの詩を読んでみた。
すべての作品を丹念に読んだというわけじゃないが、
「戒律」という作品の
飛翔する思念は詩によって着地し
遠くから僕の内部を狙う
というフレーズは気に入った。
275 :
吾輩は名無しである:2012/05/16(水) 20:03:13.13
「ふさわしい死に場所」森田拓也
新たな死に場所を求めて
朱色の刑台に跳躍する。
勝手に死んでね。
なるほど
277 :
吾輩は名無しである:2012/05/16(水) 21:12:15.63
銀色なつおのほうがいいな
>>263 一行目だけは著作権が無い筈ですよね。神は全てに寛容。
2ch程度の場所でコピペしてるだけで顔真っ赤にしてる奴ってなんなの
折々のうたって、「新・折々のうた」と無印「折々のうた」が岩波新書から出てるけど
両シリーズとも収録されてるうたって違うものなの?
全く別物なら計二十数冊も集めいないといかんわけか
すっかりさびしくなってしまったな
同感
>>21 かけそばの方は全然。
振り子はなかなかグッと来る
286 :
吾輩は名無しである:2012/05/22(火) 00:44:32.51
アルチュール・ランボー
いつ読んでも病んだ精神の持ち主だ
怪談チックですよね。「谷間の睡眠者」はお岩さん戸板のシーンみたいだった。
カムバック原詩人
本日のまとめ
歌:SOPHIA 作詞:松岡充 作曲:豊田 和貴
真夜中 僕は何もかもから 解放される場所がありそうで
持ってる地図を広げてみたり 仔猫のアクビに聞いてみる
怒りと不安と失望 たまに快楽
TVショッピングで何でも売ってるけど
そして今宵も更けて行く…
幼い頃は憧れていた 世界を守るヒーロー達に
悪い奴等の世界を守る 悪い奴等もヒーローなのか
授業を受ける度 公式に数字はめこんで
どさくさにうまくすりかえられて行く
そして今宵も更けて行く…
そして僕らは老けて行く…
だけどこの体確かに鼓動を打って
明け行く空に響け
そしてまた今日が過ぎてくけど
そしてやっと一つ気付くけど
まして恋もする僕だから
こうして僕らは老けて行こう…
>>詩臭スノビズム >.>. 森田拓也
250 :吾輩は名無しである:2012/05/15(火) NY:AN:NY.AN
なにが詩を語り合うだ。
お前らのやってることは著作権を無視して人様の詩をまるごとコピペしてるだけじゃないか
どれだけ書き手や出版社が迷惑被ってると思ってるの
「犯罪」を犯しているという自覚あるのか?
292 :
吾輩は名無しである:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
病人ばっか
ばーか
小学校でネット教育する日も近いな。
こういうバカをやったらネット上に半永久的に記録されますよって。
道徳の時間にやるんだろうな。
294 :
吾輩は名無しである:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
ここを見てると、程度の差はあれ同じような悪ふざけをしてる奴も多いんだろうなと感じる。
>>263 おまわりさん こいつです
スレ主 = 森田拓也 = 著作権無法の愚者
近年、ツイッターで悪さ自慢して悪びれもしない
ゆとり並のメンタリティと、なんら変わりなし
296 :
吾輩は名無しである:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
たっくんツイッタやってんのか
297 :
吾輩は名無しである:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
>>森田拓也
こんなものが表現創作の自由だとでも思っているのなら
マスゴミが好き勝手にやる方便である報道の自由やらと変わりがない
なんというか犯罪者の理屈って明らかに破綻してるのに
まるでそれが主張になっていると本気で思っているのが救いがたい
まあ結局そういう連中ってのは実際に痛い目を見なきゃ分からないんだよ
知能や感覚が退化してるから
298 :
吾輩は名無しである:2013/09/22(日) 19:11:43.22
後退する。
センター・フライを追って
少年チャーリー・ブラウンが。
ステンゲル時代の選手と同じかたちで。
これは見なれた光景である。
後退する。
背広姿の僕をみとめて、
九十歳の老婆・羽月野かめが。
七十歳のときと同じかたちで。
これも見なれた光景である。
スヌーピーを従えて、
チャーリーに死はない、
羽抜鶏を従えて、
老婆に死はない。
あまりに巨大な日溜まりのなかで紙のように、
その影は、はじめから草の根に溶けているから。
そんな古里を訪ねて、
僕は、二十年ぶりに春の水に両手をついた。
水のなかの男よ。それも見なれぬ・・・・・・・
君だけはいったい、
どこでなにをしていたのか。
どんなに君がひざまずいても、
生きようとする影が、草の高さを超えた以上、
チャーリーは言うだろう。
羽月野かめは言うだろう。
ちょっと、そこをどいてくれないか。
われわれの後退に、
折れ曲がった栞を挟み込まれるのは、
迷惑だから、と。
「チャーリー・ブラウン」 清水 哲男 「スピーチ・バルーン」より
http://blogs.yahoo.co.jp/masayuki19612001/32172615.html
299 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/09/22(日) 22:47:18.22
夜中に、いこめられっこ詩人のプレゼンテーションやるな。アニメと詩の合作。
あたし中卒やからね 仕事もらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている
ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの瞳が年をとる
悔しさを握りしめた こぶしの中 爪が突き刺さる
私、本当は目撃したんです 昨日電車の駅、階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
私、驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です
薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき
暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく
光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく
勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめて あいつは海になりました
301 :
吾輩は名無しである:2013/09/25(水) 01:33:10.04
>>300まあしょせん歌詞ですよねえ。レトリックが弱いです。
302 :
吾輩は名無しである:2013/09/25(水) 04:06:43.95
守中高明 @ladissemination 8月13日
たとえ飯吉訳が(ドイツ語門外漢の私から見ても)時として明らかな文法的誤りを含んでいるとしても、
ツェランの詩の精神を、その〈魂〉を日本語として鳴り響かせ得ているのはただ飯吉訳のみである。やはり≪Lichtzwang≫は「光輝強迫」ではなく「迫る光」でなければならぬ。
開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他
守中高明 @ladissemination 8月13日
飯吉光夫『パウル・ツェラン――ことばの光跡』(白水社)読む。1966年から2011年そして書き下ろし
を含む折々に書かれたエッセーを纏めた一冊。決して高度な文学研究ではないが、しかしツェランの全
体像が確かに伝わってくる。ツェランの詩の日本語訳者に飯吉光夫を持ち得たことは幸運である→
随分と偉そうな褒め方だわな。その割には内容はしょぼい。
まったくだ
どれだけ上から目線なのかと
江口きち
http://homepage1.nifty.com/B-semi/library/koiku/38eguchi.htm わが投ぐる波紋の揺れの揺れ及びいたみあらすなその君の上に
この世にて生きがたかたかりし人は今日星夜をえらびて去り逝きにけり
火の如くわが瞳に燃ゆる憎しびはけはしかるらし父を刺しつつ
きき分けぬ兄を叱りてはかなしもその憤りのすべなかりけり
こまごまと心つかひて出しやりし妹の行きて気弱くなれる
亡き母が借りてありとふ金のこと霹靂の如く聞けど術なき
家財競売ののちいかにしてたつきせむ人のなさけすがりたき吾は
拾円の金を送るに身のまはり倹めけむ妹がこころかなしき
さりげなくいだきしものをちからこもるかひなの中に死なばやと思ふ
ただにただに君が苛らちの悲しきを小さき身もて護らむと思ふ
からうじて掟の下にわが保つちからし尽きば君も悔ゆべし
306 :
吾輩は名無しである:2013/09/27(金) 03:45:26.73
猫飛ニャン助 @suga94491396 3時間
沼野充義、向井豊昭の遺作評して「十分な声望得られないまま亡くなった」と
(東京新聞)。白々しい。向井が「声望」望んでいたか疑問だし、そもそも
沼野のごとき御用評論家や文壇編集者が、向井のヤバさを忌避していただけだ
ろう。最近若い書き手の向井論複数読む。沼野より遥にマシ。
>1-306
板違い 詩歌板がある-
自演日記は自分ののーとに書け
308 :
吾輩は名無しである:2013/10/05(土) 09:39:28.84
詩集『Lichtzwang』は飯吉光夫訳では『迫る光』、この中村朝子訳では『光輝強迫』と訳されている。フロイトの「反復強迫」(Wiederholungszwang)を踏まえた造語であることを考えると、やはり「強迫」を入れた方が原文の意味に近いか。
@チェスワフ・ミウォシュ(Czesław Miłosz, 1911年6月30日 - 2004年8月14日)
Aズビグニェフ・ヘルベルトZbigniew Herbert(29 October 1924 – 28 July 1998)
Bアダム・ザガエフスキAdam Zagajewski (born 21 June 1945 in Lwów)
Cタデウシュ・ルジェーヴィチTadeusz Różewicz (born 9 October 1921)
Dトーマス・スタンコ(Tomasz Stańko、1942年7月11日 - )
Eヘンリク・アダム・アレクサンデル・ピウス・シェンキェヴィチ(Henryk Adam Aleksander Pius Sienkiewicz, 1846年5月5日 - 1916年11月15日)
Fレフ・ヴァウェンサ(ポーランド語:Lech Wałęsa、1943年9月29日 - )
Gトーマス・トランストロンメル(トンマス・イェスタ・トラーンストレメル、Tomas Gösta Tranströmer, 1931年4月15日 - )
Hアダム・ベルナルト・ミツキェヴィチ(Adam Bernard Mickiewicz 1798年12月24日 - 1855年11月26日)
Iヤン・コハノフスキ(Jan kochanowski、1530年 シツィナ - 1584年8月22日 ルブリン)
Jヴワディスワフ・レイモント(Władysław Stanisław Reymont、1867年5月7日 - 1925年12月5日)
Kロバート・ハス(born March 1, 1941, San Francisco)
Lヴィトルド・ゴンブローヴィチ(Witold Gombrowicz, 1904年8月4日 - 1969年7月24日)
Mアンジェイ・ワイダ(ヴァイダ、波: Andrzej Wajda、1926年3月6日 - )
Nオクタビオ・パス(Octavio Paz、1914年3月31日 - 1998年4月19日)
Oジェーン・ハーシュフィールドJane Hirshfield (born 24 February 1953)
Pリシャルト・カプシチンスキ(Ryszard Kapuściński、1932年3月4日 - 2007年1月23日)
Qパブロ・ネルーダ(Pablo Neruda、1904年7月12日 - 1973年9月23日)
Rデレック・オールトン・ウォルコット(Derek Alton Walcott, 1930年1月23日 - )
320 :
吾輩は名無しである:2013/10/23(水) 19:14:12.97
以前、大岡昇平が「なかはらなかやはやめてほしい」と書いていた。
大岡としては「ちゅうや」であると読みを定着させたかったのだが
選択肢として「なかはらなかなり」は不可能だろうか?
父親の書いた文字には読み仮名がなかったわけだから可能な気がします。
322 :
吾輩は名無しである:2013/11/05(火) 08:10:52.99
【書評】パウル・ツェラン 飯吉 光夫 著2013年10月13日
◆ユダヤ詩人の魂読む
[評者]守中高明=詩人・早稲田大教授
戦後ドイツ語圏における至高の詩人パウル・ツェラン−その作品を半世紀にわたって傑出した翻訳を
通して紹介し続けてきた第一人者による全論考をまとめた一冊だ。没後四十年以上を経た今日、ツェラ
ンはその栄光を極めつつあるように見える。たとえば、ドイツのズールカンプ社から全十六巻の歴史校
訂版『ツェラン全集』が刊行されることによりその仕事の全貌が明らかになり、夥(おびただ)しい学
術論文が世界中で書かれることで、詩人の地位は不動のものとなったかのようだ。
だが、ツェランを読む営みは、文献学的環境が整えば進むわけではない。著者はここであえて「研究」
に背を向け、詩人の心に、「魂」に寄り添うことを選んでいる。それは決して素朴な態度ではない。ナ
チの強制収容所によって両親を虐殺され、みずからも強制労働を辛くも生き延び、ルーマニアの小都か
らパリへと亡命し、しかし、戦争のトラウマに起因する重度の精神障害の果てに自死するほかなかった
ユダヤ詩人の「魂」は、知的な理解以上の何かを強く要求するのだ。
それは「無の、誰でもないものの/薔薇(ばら)」なのだと詩人は言う。残虐な歴史の重荷を担い、
狂気と境を接して、だが「ぼくらは花咲くことをねがう/あなたに/むけて」と。
ここには、現代の究極の存在倫理が鮮やかに描き出されている。
(白水社・3360円)
323 :
吾輩は名無しである:2013/11/05(火) 11:36:38.31
吉増の全集刊行してくれる出版社ないだろうか
324 :
吾輩は名無しである:2013/11/11(月) 16:52:07.71
2014年1月22日発行予定
パウル・ツェランと石原吉郎
パウル・ツェランと石原吉郎
[著者] 冨岡悦子
四六判 タテ188mm×ヨコ128mm/264頁 定価 3,780円(本体3,600円) ISBN 978-4-622-07812-8 C
334 :
吾輩は名無しである:2014/03/20(木) 20:00:14.08
335 :
吾輩は名無しである:2014/03/30(日) 10:23:28.17
336 :
吾輩は名無しである:2014/04/02(水) 00:36:32.01
文学とは詩である
日本人の詩とは死である
みそひともじである
入り混じる卯月の夜に鳥たちて浦の苫やに萎れたる花
337 :
吾輩は名無しである:2014/04/02(水) 11:58:26.75
鉄道の賭博師、全国の貨物取扱い人。
がみがみ怒鳴る、ガラガラ声の、喧嘩早い
でっかい肩の都市。
サンドバーグの詩がお気に入りなのだ
自演が多いな。だれもしらない詩人のツイッターとかはるなよ、カス
339 :
吾輩は名無しである:2014/04/07(月) 20:47:28.70
木札に書く。自作自演の宣伝うざいと。書けば?
ここカスしかおらんね
341 :
吾輩は名無しである:2014/05/13(火) 21:22:59.42
342 :
吾輩は名無しである:2014/05/27(火) 12:50:27.44
343 :
吾輩は名無しである:2014/05/27(火) 16:33:56.93
西脇順三郎はよかったですよ
345 :
吾輩は名無しである:2014/06/02(月) 15:05:03.12
346 :
吾輩は名無しである:2014/06/05(木) 12:04:07.72
>>308 フロイトの用語からの造語なのか?
俺はもっと、神からの啓示的なものをイメージしたが。
フロイトに帰してしまえば、それは詩と離れるのではないか?
守中高明の詩「黙示、あるいは終わりなき終わりのために」を読んだが、
創世と亡びの絶えまない連鎖をイメージさせるぐらいのことしか
感じなかった。
中には多分、旧約関係の様々な知識がちりばめられてるんだろうが、
生憎おれには教養がないもんでw
守中が郷原佳以の座談会での発言が守中の発見を盗んだものだと、
主張した件はどうなった?
1年ぐらい経った?
347 :
吾輩は名無しである:2014/06/05(木) 12:29:18.66
守中もやることが中途半端で、外野として見てる側からすれば、
いらいらするわな。
349 :
吾輩は名無しである:2014/06/07(土) 14:02:01.94
守中が郷原に謝罪したらしいけど、謝罪の理由が全然、明解じゃないね。
具体性に欠けまくってる。
守中や、郷原が日本でブランショのデリダに対する、この件で
問題になってる影響を、最初に指摘したのは、そもそも日本人なのか?
外国人が外国で外国語で書いていたのを守中や郷原は盗んで
日本語に書き直しただけ、という可能性は問題にされてない訳だろ?
350 :
吾輩は名無しである:2014/06/07(土) 14:32:07.70
悲しみはあなたを失くしたことじゃなく
もう二度とだれも信じられなくなることよ
351 :
吾輩は名無しである:2014/06/08(日) 08:22:25.91
守中と郷原の発見したという、デリダへのブランショの影響とか、
こんな小さなことで争うのは、フランス文学・思想のマーケットが
縮小著しいことの現れだろうね。
俺も、暇があったら、事の真相を究明したいw
352 :
吾輩は名無しである:2014/06/23(月) 21:56:37.80
やっぱパウル・ツェランでしょう
全集がある
3冊にわかれている
海外の詩人はレベルが低い
詩が翻訳できるものとは考えていないよな?
原語で読まなきゃ読まない方がマシだぞ
355 :
吾輩は名無しである:2014/06/24(火) 21:36:09.58
ドイツ語の知識がない
だからツェランを日本語で読むしかない
356 :
吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 01:08:42.92
こまけーこたぁいいんだよ。
357 :
吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 11:35:57.76
詩が翻訳できるものとは考えていないよな?
原語で読まなきゃ読まない方がマシだぞ
358 :
吾輩は名無しである:2014/06/25(水) 12:56:28.83
守中の頭じゃ原語で読んでもしれてるw
ドイツ人が日本語の詩を日本語で読んでるのか?
パウル・ツェラン?
あんなもんは誰も読まなくなるよ、しょうもない。
The ancient pond A frog leaps in The sound of the water. みたいな英訳を見るけど
切れ字は? 季語は? 5・7・5は? これ俳句ですか? と言いたくなるよね
ソネットみたいな詩の日本語訳も同じようなまがい物、ただの内容の説明文
361 :
吾輩は名無しである:2014/09/16(火) 16:55:55.21
放哉もみつをも嫌われものだったんだね
いや、詩の翻訳は無意味ではない。
その芭蕉の英訳だって伝わるものは伝わる。
なぜなら詩や文学は言語で完結しているわけではなく、
言葉と言葉ならざる何かとのあわいに成立しているものだから。
この言語化されえぬ巨大な闇を介して言語の翻訳は可能となる。
逆に翻訳されると魅力を失ってしまうような詩にはたいした価値はないということになる。
363 :
吾輩は名無しである:2014/09/27(土) 14:20:42.32
詩は翻訳できないっていうのは、単なる原理主義でしょうもない考え方だと思う
364 :
吾輩は名無しである:2014/09/29(月) 19:48:29.75
翻訳可能な文とは、いわば対象指示的な文意である。
対象指示というのは、詩のごく一部の働きにすぎず、
多くの部分はだから翻訳できない。
それを言い出したら散文もそうだから詩のことでことさら強調する必要はない
>>363が言うように「俺はしょうもない奴」アピールにしかならないと思う
>>364 ちがうんじゃないかな。
例えば「犬」と"dog"という単語を考え、この二つの語の間でいかに翻訳が可能となるか考える。
まず、この二つの語について考える前に、単純に「犬」という言葉を考える。
この言葉は、抽象化された、最大公約数的な「概念としての犬」に結びつくのではない。
逆に「犬」という言葉には、過去現在未来のあらゆる犬、そして犬が持つあらゆるニュアンス、
匂い、肌触り、吠え声、そして文化的であったり私的であったりする犬が喚起するあらゆる
付随的な記憶が潜在的に含まれている、と考える。
真っ白な紙があり、そこに「犬」と書き付けたとしよう。
白紙は虚無ではなく、逆に「森羅万象全て」を潜在的に含むと考える。
そこに「犬」と書き付けた瞬間、全宇宙的な損失が起きる。
つまり、その瞬間に、全宇宙から、「犬ならざる全て」が差し引かれてしまったからだ。
さらに、「犬」の前に「白い」という形容詞を加えてみる。
すると、直前に起きた損失よりもはるかに小規模ではあるが、それでも尋常ならざる引き算が起きる。
つまり、「犬全て」から「白くない犬全て」が差し引かれてしまったのだ。
このように、「白い」という言葉と「犬」という言葉は、抽象的な観念連合を行うのではなく、
全宇宙から他の存在を「差し引く」のである。
それでも、「白い犬」という言葉は、あらゆる白い犬と、白い犬にまつわるあらゆるニュアンスを
潜在的に保持する。
さて、ここで「犬」と"dog"とを比べてみる。
両方同じ生物種を「指示」しているが、当然発音も言語体系も違うし文化的コノテーションも異なる。
しかし、両者は共に、全宇宙から「犬ならざる全て」または「dogならざる全て」を排除しつつ、
それら不可視の潜在的宇宙を、闇の後光のように背負っている。
この、「犬」によって表現されない、"dog"によって表現されない、闇に閉ざされた巨大な負の領域を
介して、この二つの語は相互の翻訳が可能となる。この広大な二つの領域は、「犬」と"dog"が共有する
可視の領域に比べ、遥かに多くの部分で重なり合うだろう。
そして、詩のふるさともまた、文法や音韻や規則にではなく、この語り得ぬ巨大な闇の領域にあるだろう。
どっちでもいいけど、
>>366のように、それは違うという言い方がまかり通るのなら、引かれてはいないだろう、と言ってみることもできる。
〇〇にまつわるあらゆるニュアンス、というものがあるとして、そこには{あくまでも認識可能であるところの}森羅万象がコノテーションとしてあらかじめ含まれている。
すなわち、或るシニフィアンの総体からの差異による突出としての語彙が、シニフィエを認識において際立たせようとするに過ぎない。
翻訳の問題はおよそ個々の言語において、この差異化の過程が異なるところにある。
一語ずつ置くように書かれる詩の場合、それがくっきりとあらわになる。
巨大な闇などと思わせぶりに言わずとも、
翻訳はあくまでも唯一言語の中の変奏と見ることもできる。
全てはあまねく光の下にさらされており、何も排除されるなものなどない。
緯度や経度の違いによって光の射し方が変わるだけのことだ。
おちんこやまんまんの話をするスレじゃないの?
下世話な話ばっかりでしらけるわ〜
詩を字面でしか見てない人多すぎ
詩は声に出して読まれるべきもの
当然その言語固有の音やリズムなどと不可分と考えるべき
372 :
吾輩は名無しである:2014/09/30(火) 14:24:06.46
散文と詩、という対比がそもそもおかしいので、
韻文、律文、散文、と言いかえるならば、
散文のうちの、単純に言えば、情報伝達的な機能のみが翻訳可能、
といえる。
そして、韻・律はもとより、散にしても、情報伝達のみが働きではなく、
とうぜん狭義の詩的要素を含むものだ。
373 :
吾輩は名無しである:2014/09/30(火) 14:29:03.39
371におおむね賛成なのだが、
字面というのも、一種の詩だ。
書(しょ)と一体になっている場合なんか完全にそうだな。
こういうのは、せめて写真でも、意を汲むとともに、
そのまま見るしかないわけで、
まったく翻訳は不可能だろう。
374 :
吾輩は名無しである:2014/09/30(火) 14:41:40.21
しかし「翻訳詩」は、一種の翻案文学だと思えばいいだけの話じゃないか。
翻訳した際に新たな外国語のリズムや響きが生まれるってことは考えない、けっこう傲慢な考え方だよね
377 :
吾輩は名無しである:2014/10/01(水) 15:07:05.08
書というと、いかにも古典芸術偏重のようなのだが、
あるしゅの精神病者の症状で、
言語新作とともに、文字新作というのがあるだろう。
有名なところでは、漱石などにも、そいういう症状がときどきでた、と読んだことがある。
こういうことは、美術的でもあるが、詩の「本質」とのかかわりも深いだろう。
こうしたものも、やはり「翻訳」不可能ではないか。
そういうのは翻訳と関係なく書体や組み方を変えるだけでも変わるんじゃないの
>>376 いっそ映画化したら新たな映像や音楽も付くよね
原型にこだわる人って、地方出身の詩人が自作を朗読するときに訛ってたら
自分も訛ったイントネーションでその詩を読むようにするんだろうか?
まあ思潮社から出てるマラルメの「骰子一擲」の翻訳なんて
どう考えてもムチャなんだけど感動するもんなー
漱石や太宰だって漫画で読破すりゃ原文なんか読む必要ないってご時世だぜ
詩の翻訳ごときでいちいち目くじら立てなさんな
それは全然違うだろ、頭悪いな
384 :
吾輩は名無しである:2014/10/22(水) 07:28:51.72
385 :
吾輩は名無しである:2014/11/23(日) 10:55:19.99
386 :
吾輩は名無しである:2014/12/13(土) 14:43:15.91
谷内修三(やち・しゅうそ)の略歴
1953年1月27日、富山県氷見市生まれ。
谷内って何者なんだろうな。
388 :
吾輩は名無しである: