デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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785レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc
宇野邦一によるならば、ドゥルーズがいうところの「強度」とは、「距離」
と言い換えられるそうである(『ドゥルーズ・流動の哲学』講談社)。宇野に
限らず、誰でも素直に読めば、そういうと思われる。このメトリック(距離・
計量)とは、最善律(たとえば三角不等式によってあらわされる「最短距離」
のようなものが典型例だといえる)なしにありえないものだろう。なにしろ
差異=微分が成り立たねばならないのだ。

カントによれば、数学的認識は、アプリオリな綜合判断だということである。アプリ
オリであるものが、なぜ綜合判断か、といえば、経験によるものでなくとも、主語の
分析に基づくのではなく、純粋な感性的直観形式上、ことに時間形式上にあっては、
主語概念を超えるので綜合的なのだということなのだろう。
本題に入ると、上記の「カントの批判哲学」からの引用文で、ドゥルーズ
は「悟性が立法権を有するときに、想像力は図式機能化する」といったこ
とを述べているのだが、これは換言すれば、純粋悟性概念であるカテゴリ
ーが、直観の領分に導入されるとき、または、自ずから入り込むとき、す
なわち、時間形式に於いてあるとき(空間なし、の場合もあるとされている
ので、ここでは時間形式のみ)には、おおざっばにいって、アクティヴな「主
観」にあたるものが、あらかじめなければならない、ということになるだ
ろう。でなければ、想像力は、図式機能化しえない(上に引いたバシュラー
ルの「空と夢」でいうよりも、もっとはなはだしい散乱を為す)、つまりカ
テゴリーは「感性的なもの」へひき入れられない、ぎゃくに、感性的直観
にしても悟性概念へ嵌入しない、ということになるのではないか。
786レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 15:58:25.00
《ショーペンハウエルは、根拠律(充足理由律)が何か一つの形成のなかであ
る例外を示さざるをえない場合に、人間がとつじょとして現象の認識諸形
式を見失うにいたるとき人間を襲う途方もない怖れを我々に叙述してくれ
ている。もしも我々がこの怖れに加えて、個別化(個体化)の原理の崩壊の際
に人間のもっとも内奥の根底から、のみならず自然の根底から、湧きおこ
る歓喜に満ちた恍惚状態を受け取るならば、我々はディオニュソス的なる
ものの本質を一瞥することになる。》(ニーチェ「悲劇の誕生」)

ドゥルーズの云う「カタストロフ」とは、ほとんどショーペンハウエルが
上で述べたようなことだろう。
なお、ハイデガーは「形而上学入門」の冒頭で、上記のような「歓喜」の
只中にあるときのみならず、「絶望」や、極度の「退屈」のなかにも、こう
いった「ディオニュソス的なるもの」、いわば、根拠律の例外的状態、それ
が垣間見えることがあるかのごとく述べている。(このハイデガーの真骨頂
とも云うべき「くどくどしさ」を、名調子の訳を以て味わいたい人は、ウ
イキの「なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか」の項目をご参照。
「ライプニッツ、カント、ベルクソン、ハイデガー」、でググってもすぐ出
てくる)
ドゥルーズの「アンチ・オイディプス・資本主義と分裂病」では、いうな
れば、その「ディオニュソス的なるもの」の常態化を、脱コード化と呼ん
だといえるではないか。
787レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 15:59:23.63
《ギリシヤの世界には、その起源からいっても、目標からいっても造形家の芸術であるアポロ的芸術
と、音楽という非造形的芸術、すなわちディオニュソスの芸術との間に、一つの大きな対立があると
いうことだ。》(ニーチェ『悲劇の誕生』)

『悲劇の誕生』ではさらに、アポローン的な造形芸術は「夢的」で、ディオニュソス的芸術である音
楽は「陶酔的」だ、といったことを述べている。

ドゥルーズは基本的に上の初期ニーチェの区別を踏まえている、と考えてよいのだろう。俗にいうな
れば、「空間芸術」と「時間芸術」とに相違をみているというわけだ。このことは、純粋悟性概念とし
てのカテゴリーが感性的直観に引き入れられる、もしくは、おのずから入り込む、そのさいに、これ
が(むろん、時間上、のではある)空間形式上にあるか、(ある種の思考ではそれが「還元」されるべき)
時間のみの形式上にあるか、この相違に「切断」をみる立場だといえて、ごく当たり前に理解される
ところのカント『純粋理性批判』における区分の上にあるといえる。後期のハイデガーの方は時に違
って、上記の相違を(とりあえず)捨象することがあるよう見受けられる。おそらくこれはカントの「内
感重視」(とヘーゲル的「言表主義」)を引き継いでいるからなのだろうが、かえってハイデガーはそう
することで、「美」(あるいは「倫理」でもよい)に関し総じて、その「外」であるところの詩への考察、
換言すると、言表の差異、または、エクリチュール、あらかじめ統覚的に把握された記号的なものの(自
覚的および無自覚的な)操作性、これらに関しての考察へと集約させて捉え得ているだろう。デリダの
ほうはいうまでもなくハイデガーよりだといえるのではないか。
788レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 16:00:20.56

《モンタージュが根源的な役割を演じている全ての映画を、一つの疑わしいカテゴリーに押し込
めてしまうことによって、ひとは、 詩的なディスクールが、単に詩的な風味や効果といったおま
けのようなものをつけ加えただけの散文的なディスクールに過ぎないと いった、長く支持されて
きたものの見方に至る、同一の誤謬に陥る危険がある。》(シネマ読書会スレからの引用だが、ム
ー大陸氏が要約したものか、ドゥルーズの文章のままなのか、私には不明)

上のように、ドゥルーズにしても、「映像学」を語っているかのようでいて、意外?や「詩学」
を語っているといえそうである。

ちなみに、古くはアリストテレスにしても、レトリケーを(たとえ密接ではあっても)詩とは別
物だとしているのだった。さらに付言しておくと、プラトンによれば、非存在から存在へと移
行するときの、その移行の原因は、全てポイエーシス(ハイデガーによると元は詩作のこと)で
あって、質料的なものが確固として形相を得るのは、あるいは、可能態から現実態への移り行
きとは、これもすべてイデア的なものの似姿として作られることに依るとされる。これを上の
「美」に関わらせて、ありきたりにいうと、美しいものが美しいのは、普遍的な美の原基とも
いうべきものに与っているからだということで、これを一方向へと突き詰めれば、人工美と自
然美の形成過程の、すなわち、いわゆる制作と生成との、ふつう考えられるような(アリストテ
リアニズム的だともいわれる)違いは表面上のものにすぎないとなる。そして、三たびハイデガ
ーによれば、これは「生成」的な制作、または、「制作」的な生成であり、これをして、本来の
ポイエーシスであるとし、誘いだし出で来たらしめること、だと云いあらわしているのだった。
789レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 16:03:42.99
これまで何度も繰りかえしているように、カントによれば、想像力(構想力・Einbildungskraft)
に依る図式(Shema。スキームというほうが分かりよいかもしれない?)は、おおざっぱには、感
性と悟性とを結びつけるものだとされている。そのうえで、認識において図式が機能するよう、
アプリオリな悟性形式と時間規定は、あらかじめ「同質」だとしている。そして、量、質、関係、
様相といったカテゴリーには、時間の系列、内容、秩序、綜括、がそれぞれ対応するものだとさ
れる。しかし、そこへ、「同質性」にかわって「差異性」がおかれるとすれば、単純に考えてどう
なろう。

問う人 「こと」から生じてくる花びら(二つ折れ=襞の含意あり)。この語がその「言い」を始
めると、想像力はついさまざまの不案内な領域のなかへ気ままに彷徨いたくなります。