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吾輩は名無しである:
そのアンテイゴネーの喩えでいえば、仮に死んだ兄を埋葬したとしても、それが情愛のせいなの
か、憎しみのせいなのか、夢現でやったのか、或いはその場での何らかの関係性から土を掛けたか
は決定できない。何故なら行為や発語には内的要因の無限や外的要因の無限、つまりは計り知れ
ない諸要因が合わさって為されるのであって、仮に死んだ兄に妹が土を掛けたからといって、動
機とか探しても無駄なことである。また、ある無意識とかを探すのは精神分析帝国主義である。
彼女は死んだ兄に土を掛けた。それだけのことである。従って、この先彼女が同じように家族の死
と立ち会ったとしても、同じように土をかけるなどと、絶対言えない。今回たまたま彼女は土を
掛けた。理由は決して分からない。兄を思ってのことだろう、とかいうのも解釈の一つだが。本当
のところは彼女自身にも分からないところにあるものだろう。それは行為者の自覚をも越えてい
る。人間とはこのように諸関係の総体なのだ。
のような感じでひたすらずらしていくのが現代思想的ずらしだったと思うんですが。