デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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459レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc
ちなみに、カントは「全体」ということについて二つの種類、即ち、部分の集合から成り、
したがって部分によって初めて可能であるような全体(「総体」のほうが良い言い方かもしれない)と、
部分に先立ち、部分がそれによって初めて可能となるような全体とを、区別して考えている。
前者はその本質からして合成体(Kompositum) であり、部分の総合の完成によってのみ思惟せられる総体(Totalität) である、
としているようだ。後者は、合成や総合の結果としてではなく、まず直観的に与えられ、その如何なる部分もそれの制限としてのみ可能である、
というような全体(Totum) 、なんだそうである。例えば感性形式としての時間・空間は、このようなTotumであるとされる、
というのだ。
あるいはまた、相互作用がなさそうなところに同期性(上の「同時性」と同じ意味にとってよい)がみられる、
ということもあるようだが、それに関しては、ニュートン・カント的な時間形式上での「同期性」、とどこか違うのか、
とも問うておこう。