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レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :
@ @〈一つの意識(根源的統覚)における一切の(経験的)意識の客観的統一は、あらゆる可能的知覚の必然的条件である。〉(岩波文庫「純粋理性批判」下巻)
むろんこれを A〈一切の経験的意識の統一によって(総体として)一つの意識(根源的統覚)が成り立つ。〉と、「逆に読む」こともできるだろう。
そして、一即多、多即一、とあるがごとく、@、Aは、じつのところ表裏だと、ついでにいえるだろう(こういう話はミニハンさんが得意とするところではないか)。
さて、こういう事を書くと、たぶん、ドゥルーズ・ガタリは次のように書いているから違うんだぁー、みたいなお馴染みの型の反論?をしてくる方がいるかもしれない、
とこれまでの流れからいえる。
〈欲望する諸機械においては、一切が同時に作動するが、しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中絶や短絡、くいちがいや分断が併発する只中においてである。
つまり、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない寄せ集めの総和の中においてである。〉(河出書房新社「アンチ・オイディプス」第一章第六節)
しかし、そういう反論?をするとき、カント的な「時間」という形式を持ち出さず、または、存在の充足理由律 (この場合は、時空間に存在するとは、
位置や継起の関係において規定し合うということ)を持ち出さないで、あるいは、「全ての述語は主語に属する」もしくは「主語とは述語の総体である」、
みたいな、いわば「超時間的」な前提を抜きにして、そもそも「機械が作動する」ための「同時性」に類するものなどありうるのか? といった問いを自らに問うているか。
ライプニッツなら「できない」と云うところだろう。